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000外観・入口展示
入口展示 菖蒲池古墳墳丘断面 土層は現在に至るまでの長い年月をかけて土が積み重なったものです。土層を観察すると、その土地での人々の営みを知ることができます。 まさに土層は、その土地の歴史が積み重なったものともいえるでしょう。
土層を読み解く 菖蒲池古墳の墳丘 (東辺下段) の土層を見てみましょう。土の違いや、土を積んだ順序から、古墳の造り方や現在に至るまでの古墳の姿がわかります。 土層を残す 土層は発掘調査中しか見ることができません。しかし、土層転写法を使えば、土層を展示することができます。 合成樹脂を用いてガーゼに写し取られた土層は、発掘調査で見る土層から見たものとなります。
版築とは 版築とは、質の異なる土を突き固めながら積み上げていく土木工法で、飛鳥時代には寺院や一部の古墳でしか使われていませんでした。 菖蒲池古墳では、墳丘 (東辺下段) を造る際に使われました。菖蒲池古墳で版築を確認したことは、作り方を知る上でも、被葬者を考える上でも、 とても重要です。 |
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1-13常設展示室 |
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00縄文時代 旧石器時代 紀元前14,000年頃~紀元前300年頃 おおよそ3万年前、氷河期が終わり、温暖な気候になると氷河が溶け、海面が上昇しました。 (表現不足ですが気にしないことにしましょう) その結果、大陸と分断された日本列島が誕生し、多くの動植物が育つ森林が広がりました。 人々は、豊かな森林や海や川から、様々な食料を得て暮らしていました。 |
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1-13a縄文時代のムラの様子
縄文時代のムラの様子 観音寺本馬遺跡 縄文時代後期後半~中世 橿原市観音寺~御所市本馬 リンク01 02 03 04 05 06 07 橿原市南西部に位置する遺跡です。縄文晩期、約2800年前のムラの中心の住居跡や土壙墓、石組炉が見つかりました。 集落周辺部の流路から環状杭列や木組遺構などの、川で魚を捕る施設や木の実のアク抜き場などの生産活動の遺構が、 また、流路周辺から出土した埋没林の中には、人工的に栽培されたクリ林も発見され、当時の食生活の一端が明らかとなりました。 ※遺跡は、土偶と石棒が出土したことで有名である。
縄文時代の石斧 石斧には、きれいに磨いた磨製石斧と、打ち欠いて形を整えた打製石斧があります。磨製石斧は、木を伐採しその材を割るための縦斧と、 木を加工するための横斧とがあります。 縄文時代の食料 縄文時代の人々は、森でシカやイノシシ、木の実や果実、海や川で魚を捕るなど、自然の恵みに頼る暮らしをしていました。 発掘調査で出土するクルミやドングリなどの木の実、動物の骨や貝から縄文人の食生活を知ることができます。 弓 弓は狩りを行うための代表用的な道具です。その起源は不明ですが、日本では縄文時代に使用され始めました。 弓矢の出現によって、狩猟技術は格段に向上したと考えられています。 新堂遺跡では、イヌガヤという木で作られ、ヤマザクラあるいはカバの樹皮を巻き付けた黒漆の弓が出土しています。
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1-13e 縄文時代の墓 縄文時代には、土壙墓や土器棺墓と呼ばれる墓があります。主に土坑墓は成人、土器棺墓は子供の墓と考えられています。 観音寺本馬遺跡の土壙墓からは、身に付けていたアクセサリーなどが出土しています。 ※土器棺墓に葬るのは離乳期前の子供。土壙墓には、離乳した子供以上を葬る。 墓は、副葬品や埋葬された人の骨や歯から性別、年齢などがわかることから、縄文時代の社会を知る上で役に立つ色々な情報がつまった タイムカプセルのような存在だといえます。 土偶 縄文時代に作られた、人の形をした土製品です。土偶には体に乳房など女性を表現したものが多いため、女性や母性の象徴とする説や、 儀式などに使用されたと考えられています。 橿原市は、橿原遺跡をはじめとし、曲川遺跡、観音寺本馬遺跡など、西日本で最も多く土偶が出土している地域の一つです。 曲川遺跡 橿原市曲川町 縄文晩期 橿原市西部(畝傍山の北西約3km、曽我川と葛城川に挟まれた低湿地)に位置する、200~300年間もの長期に渡って営まれた、 縄文時代晩期中葉から末葉 (約2800~2500年前) の集落遺跡です。 これまでの発掘調査で、竪穴住居跡、炉、貯蔵穴、土偶、土器棺墓、土壙墓、河川などが出土しています。 出土物には、土器、石器、土製品(土偶・土製腕輪(半輪状土製品))、木製品(漆塗り腕輪)などがあり、 土器には、東北・北陸地方のものもある。(交流か移住、ただし、移住者は出身地を往復したりするので、それは交流かな。) ※この時代は、寒冷化で東北北陸から西日本や九州への移住が多くあり、彼らは、移住地と本拠地を移動していた。 地図もない時代にどうやってたどり着いたのか、不思議でならない。 |
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1-13b土器棺 曲川遺跡 縄文時代晩期中葉~末頃(今から2,800~2,500年前) |
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1-13c石器
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1-13f
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13狩猟の模式化 坪井・大福遺跡 縄文晩期~古墳前期の遺構を中心とした遺跡 桜井市大福 リンク01 02 03 04 05 06 07 |
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考察 橿原市付近の縄文遺跡 橿考研の展示には、旧石器から縄文の遺物が展示されている。古い縄文遺物のほとんどが奈良県東部の山添村出土である。しかし、 縄文晩期に入ると、突然低湿地遺跡の出土物に変わる。(たまたま橿考研が他地域の遺物を入手できなかっただけかもしれないが。) 北陸で見た縄文遺跡も後晩期には低地におりてくる。同じである。 これは、寒冷化による食料獲得手段の変化が原因なのだろうか。つまり、山岳地帯の食料が減少したため、低地に進出した。 それとも、東北北陸からの気候難民が、本来の居住環境の山岳地帯には入れないため、やむなく低湿地に棲んだものなのか。 奈良県東部大和丘陵の山添村には考古博物館はないので、南部山岳地帯の五條市博物館の展示を見に行くしかないのだが。(交通不便) 何れにしても縄文晩期には低湿地に縄文人が進出しており、そこに、プレ弥生人が突帯文土器文化や、その後、遠賀川式土器と共に 弥生人が稲作をもたらしたとき、 これまでは、縄文人が未使用だった低湿地を弥生人が開墾したと思っていたが、そこは、すでに低地縄文人の生活の場となっていた。 では、弥生人はどのようにこの土地を獲得して開墾を始めたのだろうか。青谷上寺地のようにしたのだろうか。 米や雑穀を与えて懐柔し、共に開墾したのだろうか。それとも、纏向遺跡を作った時の様に、大量の軍隊を率いて占領し、縄文人を奴隷にしたのか。 橿考研1の弥生時代のパネルで、弥生時代の奈良盆地の各所に大きな弥生集落が点在していた。弥生人の入植と開墾は分散して行ったが、 縄文人がどうなったかは分からない。同化して混血化した人骨もなければ、虐殺の跡も未発見。追い払われたのだろうか。 だとしたら、縄文人の方が勝ったであろう。戦乱の跡は見つからない。 |
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18弥生時代 縄文時代 紀元前300年頃~紀元250年頃 古墳時代 縄文時代の終わり頃、中国大陸より九州地方に伝わった稲作 (米作り) は、弥生時代の始めには東北地方にまで広まりました。 人々は、水田を造り、田植えを行い※、石包丁を使って米を収穫し、高床倉庫に保管していました。 また、お米は今と同じように炊いて食べていました。 考察 田植え※ 弥生時代には、直播(じかまき)と共に、育苗した稲の苗を田植えする方法も行われていたそうです。 考えてみれば、この頃の稲は品種改良・選別が不十分で、収穫時期がバラバラでした。全てが完熟するまで待つと先に実ったものは落ちてしまうので 実ったものから穂刈します。この時、直播だと、稲が成長し分けつ分けつ後には中に入ることが困難で、穂刈が大変です。 雑草除去や穂刈をするためには田植えが必要だったんですかね。 しかし、そう考えてみると、フィリピンやインドシナなどでは、日本の農業指導で田植えをするようになりました。(この地域では最近まで穂刈 をしていた) 田植えという栽培法は、朝鮮半島で考案された農業技術だったのでしょうか。 |
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19-30弥生時代のムラ 橿原市の弥生時代遺跡 当時のムラは、住居や倉庫を濠 (環濠) が囲み、その外側に水田や墓地 (方形周溝墓、土壙墓など) が作られているのが一般的な姿です。 市内では、環濠が坪井・大福遺跡、川西根成柿遺跡、水田跡が萩之本遺跡や四分遺跡などで見つかっています。 また、土橋遺跡や観音寺本馬遺跡では数十基の方形周溝墓が発見されています。 |
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19-30a 萩之本遺跡は、
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弥生土器 米作りが始まった弥生時代には、使う目的に合う様々な形をした土器が作られるようになりました。 壺、甕、高坏などの他、水差形や手焙形のような特殊な形をしたものもあります。 中曽司遺跡は、弥生時代前・中・後期をはじめ古墳時代前期までの遺構と土器、石器、木製品の鍬・杵などの遺物が多量に出土しています。 1987(昭和62)年度の調査では、家屋や竜が描かれた弥生中期後半の広口壺の絵画土器が出土しました。 絵画土器 建物絵画は広口壷の肩部から胴部にかけて平屋式、入母屋式、竪穴住居が描かれています。残存する部分片だけでも6棟が描かれていました。 家屋全体の線は先の鋭利な工具によって描き、屋根は格子状に表現されています。おそらく当時の”ムラ”の様子が土器全体に描かれていたのでしょう。 竜は、別の土器の口縁部の内側に描かれていました。この土器は水に関わる祭祀に使用されたと思われます。
19-30b弥生土器 |
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31-45生活道具 | ||||||||||||||||||||
31-45a人物線刻画土器 弥生時代中期の壺に細い線で、頭部に眉毛・目・鼻・口、胴部に服、腰部に腰ひもが描かれています。 また、左肩から頭上にかけて、鳥の羽根が表現されています。祭りなどの儀式を行う人物ではないかと考えられています。 坪井・大福遺跡 橿原市の北東部から桜井市にかけて広がる、弥生時代から古墳時代の集落跡です。これまでの発掘調査で、集落を取り囲む環濠と呼ばれる溝の他、 土坑や井戸、墓などが確認されています。 環濠は東西600m南北800mの範囲で巡らされており、集落の大きさは県内有数の規模を持ちます。 |
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31-45b弥生土器
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31-45c石器 |
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44古墳時代 弥生時代250年頃~400~倭の五王~538仏教伝来~600年頃 飛鳥時代 古墳時代には、日本列島の各地で多数の古墳が造られました。その数は全国で16万基以上にのぼります。古墳とは、土を盛り上げて造った 大きなお墓のことです。古墳には埴輪が立て並べられることもあります。前方後円墳は古墳時代の代表的な形です。 橿原市のある奈良盆地は最も古くから、また、盛んに古墳が作られた地域のひとつとして知られています。 古墳時代 3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの700年間 引用Wiki 出現期 3世紀半ば過ぎ~ 前期 3世紀後半~ 中期 5世紀初頭~ 後期 6世紀前半~ 終末期 6世紀末 |
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46-60土器・勾玉
古墳時代の祈り -玉作工房の 曽我遺跡- 集落や古墳からは、祭祀に使われたと考えられる玉類やミニチュア土製品・石製品が見つかることがあります。 橿原市曽我町にある曽我遺跡は、5世紀後半から6世紀前半にかけての大規模な玉作り集団としてよく知られています。 日本各地から滑石・碧玉・琥珀・水晶などの素材が持ち込まれ、勾玉・管玉・丸玉・小玉・切子玉などの多種多様な玉が生産されていました。 橿原市/曽我遺跡 曽我遺跡とは-コトバンク 南曽我遺跡-全国遺跡報告総覧 奈良県の主な玉出土遺跡-古代歴史文化協議会 曽我遺跡の勾玉
考察 蘇我氏の権力の源 曽我遺跡は蘇我氏の玉作遺跡です。蘇我氏の強大な権力を支える財政の一部だったのか、再生基盤の本体だったのかは知りません。 玉作りの材料を産出する各地の原産地を侵略して支配する武力と、そこから生まれる経済力と権力が、蘇我氏が飛鳥時代を築いた原資 だったのかもしれません。 |
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61-70 | ||||||||||||||||||||
61-70a四条遺跡・四条古墳群 (古墳群の年代:古墳時代中期前半~後期前半(5世紀前半から6世紀中頃)) 四条遺跡(大田中地区)では、集落の縁辺部に位置すると考えられる幅5~7mの大溝が見つかりました。大溝からは人々の暮らしぶりを伺わせる 多量の木製品や土器が出土しました。 現在の四条町交差点の周辺には、大田中地区の集落と同時に形成された四条古墳群が存在しています。 これらの古墳は四条遺跡の集落に暮らした人々によって築かれたと考えられます。 ※四条遺跡は、四条古墳群をつくる職人集団の集落遺跡だった。その後も集落は存続し、7世紀末の藤原京造営に伴い、古墳群は削平され 周溝も埋め立てられ、藤原京(694~710)の一部となり、漆工房の関連施設とみられる建物がたてられた。 住んでいた古墳造営技術者集団は、どこか別の場所で、新しい有力者を得て、古墳造営に励んだことでしょう。 墳丘造営の技術者集団のムラが建設される前にも、人の活動痕跡が発掘されています。 古墳前期(3~4世紀)の筌(うけ=魚をとるための仕掛け)が流路から発見された。(すると流路は人工の溝でなく小川だったのでしょう。) また、古墳造営前夜の5世紀前半頃に作られた溝跡も発見された。 造り出しを持つ方墳 四条1号墳 造り出しをもつ一辺約29mの方墳。築造時期は古墳時代中期末。多量の埴輪と木製品が出土しました。 ※造り出し部分には、祭祀施設のようなものが建っていたのでしょうか。古墳から木製品の出土、大溝からの木製品の出土から類推して。
渡来人がもたらしたもの 四条遺跡(大田中地区) 古墳時代には多くの人々が朝鮮半島から日本列島にやってきました。渡来人と呼ばれる人々です。 製鉄金属器加工、土木工事など様々な分野で新たな技術が渡来人によって伝えられました。 陶質土器・韓式系土器は渡来人がもたらした、あるいはその技術で作られた土器です。 また、須恵器は、陶質土器の影響を受けて日本列島で作られるようになった硬質の土器です。
金属加工
陶質土器 これらの韓式陶質土器は、当時国内生産が始まったばかりのものであり、古墳に副葬するほど貴重なものでした。
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61-70b |
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61-70cかしはらの古墳 橿原市には南部を中心に、多くの古墳が存在しています。 ・当館の隣にある新沢千塚古墳群。(01 02 03 04 05 06) 古墳時代前期から後期にかけて、古墳時代全期間を通じて造り続けられた古墳群。総数600基余り。 ・墳丘の長さ約310m、奈良県最大の前方後円墳である丸山古墳。(01 02 03 04 05 ) 6世紀後半、前方後円墳、全長312m ・2基の横穴石室を持つ双室墳の植山古墳。(01 02) 6世紀末葉と7世紀前半、長方形墳 ・石室に2基の優美な家形石棺が収められている菖蒲池古墳などがその代表例です。(01 02 03) 7世紀中期の方墳、一辺30m
新堂遺跡 -日本最古の箒(ほうき)- 新堂遺跡では京奈和自動車道建設に伴って実施した発掘調査によって、古墳時代前期及び中期の集落跡が発見されました。 集落の近くを流れる川からは、渡来系土器を含む多量の土器をはじめ、木製品、石製品、土製品、鉄滓などの多彩な遺物が出土しました。 中でも5世紀の箒は、現存する日本最古の資料として注目を浴びています。箒は広葉樹の小枝を樹皮で束ねて作られています。 新沢千塚古墳群 当館の周辺を真上から見た航空写真です。新沢千塚古墳群の北西部の様子がよくわかります。 この一帯は、新沢千塚で最も古墳が密集している地域で、国史跡に指定されています。どれが古墳なのかわかりますか。
曲川古墳群 曲川古墳群は現在のイオンモール橿原の建設時に発見されました。 古墳時代前期後半から中期後半にかけての時期に築かれた古墳が18基集まっています。いずれも一辺約10~18mの方墳です。 これらの古墳はのちの時代に墳丘が削られ、周溝のみが残された状態でした。そのため、地上では古墳の姿を見ることができません。 このような古墳を埋没古墳と呼びます。市内には他にも四条古墳群、内膳古墳群、下明寺古墳群など、多くの埋没古墳が存在しています。
南山古墳群 南山古墳群は橿原市の南東部、香具山の南に広がる小丘陵上に存在していた古墳群です。現在の香久山体育館・橿原昆虫館の付近にあたります。 南山古墳群を有名にしたのは、4号墳の存在です。南山4号墳は直径約18mと小規模な円墳であるにも関わらず、 墳頂部からは陶質土器の動物台角杯・四口連関壺・小型器台、墳丘斜面上の副室からは鉄鋌・轡などの豊富な副葬品が出土しました。 いずれも朝鮮半島との深い繋がりが想定される遺物です。 南山4号墳 動物台角杯 角杯とは、牛やヤギなどの角をもとに作られたコップ状の器です。5000年以上の歴史を持ち西アジアや地中海周辺で多く発見されています。 当初は動物の角を素材としていましたが、次第に土器や金属器に取り入れられ、動物形などの様々な装飾が施されるようになりました。 角杯はシルクロードを通じて中国・朝鮮半島にも伝わりました。 南山4号墳の動物台角杯は、日本にまで渡ってきた貴重な品で、背中に角杯を乗せた動物が表現されています。
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89-103かしはらの古墳
国史跡 丸山古墳 ※石舞台古墳をうわまわる巨大古墳。五条野丸山古墳 巨大古墳消滅の謎 墳丘からの眺め 丸山古墳 丸山古墳(畝傍陵墓参考地) 丸山古墳(橿原市) 墳丘長320mは全国第6位、奈良県最大の規模。陵墓参考地に指定されている口縁部には、南西方向に開口する巨大な横穴式石室が築かれています。 石室の規模は全長28.4m玄室長8.3m羨道長20.1m、全国第1位の長さを誇ります。玄室内には2基の家形石棺が安置されています。 陶質土器
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104-112植山古墳 | ||||||||||||||||||||
104-112a植山古墳 7世紀前半頃 長方形墳 植山古墳 植山古墳 国史跡植山古墳 長方形墳 東西約40m南北30m 築造:東石室 6世紀後半、西石室 7世紀前半 入口を南に向けた2基の横穴石室が、東・西に並んで設けられています。 東石室は6世紀後半の古墳の築造と同時に築かれています。西石室はやや時を経た7世紀前半に造り足されています。 築造当初から墳丘には西石室を造る空間が確保されており、2基の石室を並べることが初めから計画されていたことが伺えます。 墳丘の西・北・東には底面に石敷きを施した濠が巡ります。 植山古墳の東石室 石室全長 約13.7m 玄室長約6.5m 羨道長 約7.2m 6世紀後半 東石室の玄室には、刳り抜き式の家形石棺が安置されています。石棺の蓋は身から外され、割れた状態で発見されました。 石室の床面には石組の排水溝が築かれています。石室奥の排水溝の中からは、三輪玉や歩揺付飾り金具が出土しています。 植山古墳西石室 石室全長 約13.0m 残存高 約5.2m 7世紀前半 西石室の玄門部には竜山石製の閾石 (しきみいし)が置かれいます。この閾石は石製扉の底板であると考えられ、 扉の軸受け穴と方立(ほうたて)を はめ込む溝が上面に彫られています。このような扉構造を持つ古墳は他に例がありません。 扉の一部と想定される石材が、植山古墳周辺に所在する春日神社・素戔盞嗚命神社(すさのおのみこと)・八咫烏神社(やたがらす)の境内の一部に 利用されています。 ※閾石 (しきみいし) 皇族用石材である竜山石で作られた石室の扉石部品ですが、「デジタル邪馬台国 天の岩戸」に詳しく書かれていますのでご覧ください。
新沢千塚古墳510号墳 円墳(半径13m) 5世紀後半 新沢千塚510号墳は古墳群の南西部、橿原市立新沢小学校から南南西に約350mの地点に位置します。埋葬施設は木棺で、その周りは部分的に 粘土で覆われていました。 鉄刀、鉄剣、鉄鏃、短甲、馬具が副葬品として出土しました。 副葬品が武器・武具で占められていることから、被葬者は武人的な人物だったのではないかとと推測できます。 新沢千塚古墳272号墳 前方後円墳 全長約35m 6世紀 新沢千塚272号墳は県道戸毛久米線の南側、丘陵の頂上部に位置します。埋葬施設は4か所存在しそのうち後円部にある組合式木棺の被葬者が 古墳の主であると考えられます。 棺の内外や墓壙の上からは装身具や土器、工具が出土しました。出土した玉類の組み合わせ方は、この時期としては珍しい物であり、被葬者の 自慢の品だったのではないかと推測できます。 国史跡 菖蒲池古墳 方墳:一辺約30m(二段築成) 7世紀中頃 横穴式石室を埋葬施設とする終末期古墳です。石室の玄室には2基の家形石棺が縦一列に並んで安置されています。 石棺は展示用部分を棟飾り風に仕上げた優美な造りをしています。 墳丘のすそには来て遺跡が据えられ、墳丘の全面やテラスなどの平坦部には、場所に応じて大小の石が敷かれています。
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104-112b |
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113新沢千塚126号墳出土物展示 古墳時代中期 5世紀
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113a新沢千塚126号墳の埋葬施設と副葬品 新沢千塚126号墳は、繰り抜き式木棺を埋葬施設としています。 棺の中と周辺からはガラス碗・皿や金・銀製の装身具、青銅製熨斗(のし)など、豊富な副葬品が出土し、国の重要文化財に指定されています。 これらの中にはペルシャ地方や中国東北部、朝鮮半島といった海外からもたらされた品物も多く含まれています。 ここでは、出土遺物と発掘調査時の記録を基にして、126号墳埋葬施設の様子をほぼ原寸大で復元しています。
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113-115金銀製品 新沢千塚126号墳 5世紀
胸飾り、髪飾り、耳飾り(国宝、実物) |
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116-119指輪(復元模造品)
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120金製歩揺 新沢千塚126号墳(復元模造品) |
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121b鉄刀 新沢千塚126号墳 AD5c(復元模造品) |
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121cガラス製品等 新沢千塚126号墳 5c半頃築造
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121dc腕輪等 新沢千塚126号墳 |
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121e帯金具 新沢千塚126号墳 |
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132-139飛鳥時代 (118年間) 古墳時代592年~645大化の改新~694藤原京遷都~710年奈良時代 飛鳥時代には、現代に通じる政治の仕組みが整えられました。法律の整備が進み、文書による行政が始まりました。その中で時間の管理や、 壁位の発行、「日本」という国号の対外的な使用が行われました。 そして、日本最初の都市である藤原京では、大宝律令の制定や和同開珎の発行が行われ、法治国家としての日本の原型ができていました。 |
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132-139a京でのくらし 藤原京には、全国から様々なものが税として集められました。 人々はこれらを給料として受け取った他、市場で買い物をして必要なものを手に入れました。また、遊びとしては、独楽や碁などがありました。 ※この時代の買い物は、物々交換で、交換レートは、互いの品物を見て話し合って決めていました。 まだ、貨幣経済は行き届いていなかった。 日本では、米・絹・布が貨幣として用いられた。(交換経済は、鎌倉・室町と続く。交換経済の発達によって貨幣経済が起こってきた。) |
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132-139藤原京跡出土物 7~8世紀
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140-149 須恵器 飛鳥時代 藤原京 7-8c |
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150-159 日本最初の都市藤原京 (694持統8~710和銅3年) 飛鳥時代 藤原京は東西5.3km南北4.8~5.3kmの大きさで、京内を東西・南北に通る碁盤の目状に区画し、京の中心に藤原宮をおきました。 藤原京は中国の書物「周礼しゅうらい」に記された理想的な京を造ったものと考えられ、このような形は中国や朝鮮半島も含め、他にありません。 藤原京の造営 藤原京は676(天武5)年に天武天皇が造り始め、妻の持統天皇に引き継がれました。そして、持統天皇694(持統8)年に藤原京に遷都しました。 しかし、この時には京は未完成だったため、遷都後も京の建設は続けられました。 日本各地から集められた人々は、丘や古墳を削り、道路や運河を造るなど、多くの土木工事を行いました。 藤原宮の姿
飛鳥時代の瓦
藤原宮の瓦作り
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160-168藤原京での暮らし
食事あれこれ
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170-181 | ||||||||||||||||||||
170-181a 国家の祈り 飛鳥時代になると、国による寺院や神社の整備が進み、神衹官という国の祭祀を管理する最高機関が設置されました。 占いや祓い、祈りといった祭祀は、国の繁栄を願い、感染症や日照り、地震などの社会不安を取り除くための国の主な政策でした。
都市問題の発生 藤原京では、3~5万人もの人が、私たちと同じように物を買い、消費する生活を送りました。その結果、多くのごみが出ました。 生活排水は道路側溝を通して川に流し、計画的に京外へ排出していました。それでも衛生状態ははよくなかったようで、 感染症や悪臭に悩まされていたことが「続日本紀」に書かれています。 平城京遷都 持統天皇は694(持統8)年に藤原京に遷都したのちも京の整備を続け、704(慶雲元)年に文武天皇の手によって藤原京は完成しました。 しかし、3年後の707(慶雲4)年、元明天皇は新たな場所に京を遷すかどうかを議論しました。そして、708(和銅元)年に遷都が決定、 710(和銅3)年に平城京へ遷都しました。万葉集には、遷都からわずか16年でその役割を終えた藤原京との別れを惜しむ歌が残されています。
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170-181b南から藤原京を望む 藤原京の造営には高度な測量技術と、大規模な土木工事が必要でした。道路の両側の溝だけでも約600km掘らなければなりませんでした。 この距離はおおよそ藤原宮大極殿から山形県山形市あるいは鹿児島県鹿児島市までの直線距離にあたります。
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300全展示物のデータ |
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400新沢千塚古墳群 古墳前期から終末期までの、約600基の古墳が築造されていた。 |