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  縄文を旅する1  中部地方4 火焔街道を行く3  2013.05.22(水)

   十日町市博物館  新潟県十日町市西本町1丁目382-1 月曜・休日の翌日休館、撮影可


  交通 北越鉄道十日町駅下車徒歩10分

  遺跡  信濃川火焔街道の中間点、妻有地区(つまりちく)の遺跡群があります。隣接の小千谷市と共に豪雪地の織物の町です。
  見所  ①豪雪 ②織物 ③火焔土器 ④川魚漁 が特徴的な展示です。また、重要なパネルもありました。
 




01信濃川の育む自然と博物館
02織物と冬のくらし
03旧石器時代
 二万年前の日本列島
04縄文時代
 ①豪雪地帯への道のり
 ②土器の発生
 ③狩猟具の発達(挿絵)
 ④弓の発明

05火焔土器
06配石遺構
 葬送儀礼
07祈りと祭り
08装飾と服飾
09豪雪地の縄文のくらし
10縄文の狩猟道具 
11弥生時代の機織りと暮らし
12復元された遺構

 
 01信濃川の育む自然と博物館
信濃川縄文の人と文化を育んだ大河です 十日町市博物館雪と織物と信濃川がテーマの展示館です 博物館エンタランス縄文土器の特別展がありました 縄文前期 赤羽根遺跡隆起線文土器と・・
条痕文土
縄文中期縄文時代で最も暖かく安定した時期が長く続き、文化が爛熟した
中期巨大王冠型土器火焔土器の高い技術と芸術性と、 中期 王冠型と火焔型
複雑な文様を作りつける能力は、縄文人の知性の高さを示している
十三稲場型土器 縄文後期気候変動期。食糧確保が困難。人口25万が5,6万まで減少。関東ではほぼ絶滅と言われる 十日町市の自然縄文人の冬の食糧となっていたでしょう 鹿や猪の姿もあったでしょう
カワセミ光源が悪くて色が出ていない ムササビ本当にいるんですねェ
空飛ぶリス
川魚漁最も安定した食糧源
夏はあゆ
秋は鮭など
豊富な魚資源 多様な魚種 近年までの漁法四手網漁 カキアミ漁 投網漁 突き漁 ヤナ漁 筒モジリ漁 引っかけ漁
ピンボケ御免 モジリ魚を集める漏斗。絞った先にかごを付ける※ ツヅ入口に返しを付けて、出られなくする仕掛け※ 漁具(信濃川では絶滅)日本の各地でもっと多様な漁法が残っている ※モジリ・ツヅ(新潟方言)は、どちらも筌(うけ)と表現されます。
全国に地方名があります。 01 02 

※モジリとツツは似ているが使い方が逆です。
超古代からあるものは沢山の地方名がある。
次のカラムシも同じです

        信濃川について  河川事務所のHP  縄文楽検定テキスト  信濃川火焔街道HP 信濃川阿賀野川流域の先史文化  小林達雄氏講演
 
 02織物と冬のくらし 越後ちぢみ(小千谷ちぢみ) と 越後上布は国の重要無形文化財 ユネスコの世界無形文化遺産に登録

               アンギン編み縄文時代の機織り技術が現代まで伝承されている、稀有な編み物です。
縄文から続く織物
カラムシという植物
苧麻やヒウジとも云う
青苧(あおそ)
カラムシの栽培 刈取り・皮引き・青そ引き・陰干し あおそ引きの道具
涼しそうな織物です。今では高級反物でしょう。
普段使いにはちょっと
貫頭衣ここでは背中だけ縫い合わせている。ポンチョとはイメージが違います アンギン(はた)単純な道具ですが、多様な織り方を工夫しています あおそを一本ずつ手でつないで長くする。何本か合わせて、手でよりをかける。縄文には紡錘車がなかった。 弥生以降の機織り
狩猟や伐採は冬仕事
縄文人も当然そうしたでしょう。生活の知恵
豪雪対策用品
冬のくらしは今と同じ稲わらでなく萱(かや)で作ったでしょう
←縄文から続く必需品
蓆機(むしろ編み機) 履物濡れたり破れたりで、沢山ストックが必要だった 菰(こも)編み機
草履作り近代も縄文も同じ生活 雪靴萱のどこを使って作ったかは知らない  卑弥呼で習った貫頭衣は「布の真ん中に穴を開けて被る」だったが、
 それは違う。

 二枚の布の背中だけを縫い合わせ帯で閉じたものでした。
 ①弥生時代まで原始機もなく、蓆機(むしろ編み機)で布を織っていた。

 ②これは、旧石器後期の列島の大陸からの分離後、弥生時代、まで大々的な移住がなかったことを示す。 
越後ちぢみカラムシ作られていたこと。

カラムシ亜麻は6千年前の外来植物。は自生していた。綿は799年に漂着インド人によって持ち込まれた。
⑤麻と苧麻のどちらが縄文人に受けたのか
 
 狩猟や伐採は冬仕事
      現在の山岳はDDTやBHCなど過去の毒物で寄生虫がほぼ絶滅しているが(近年一部で復活も)、
      しばらく前までは、ダニや吸血蛭、毒蛇、毒虫が多く、大変危険でした。

      冬場はそれらが隠れ、落葉と降雪で歩きやすく見通しもよく、狩猟や伐採に運搬もしやすく、
      獣は脂がのって一年で一番おいしい。
      木や竹は冬に切るとよくしまった丈夫な良い材料が得られる。

       かつて森林に入ると急に豪雨の音がする。降ってきたものはなんと丸々と肥えた山蛭(ヤマビル)
       体温や二酸化炭素を感じて跳びついてきます。こんな事は当たり前の事でした。(高知県の山中での実話)
       アニメ「もののけ姫」でも体中に蛭の吸い付いたイノシシが村に飛び込んでくるのがあった。たたり神とかいってたなぁ。
 
 03旧石器時代(先土器時代・無土器時代) 
           古くは旧人(ネアンデルタール人)で、その後、新人(ホモサピエンス)の初期段階の人々を指す。さかいめは3.3万年前かなぁ。
           旧石器時代の大型獣狩猟の生活では東日本だけで1500人が生存限界だそうです。
身長 寿命 総人口DL縄文中期25万人が晩期に5万人まで減少し、そこに弥生人がなだれ込んできた。  人類はここ4万年ほど脳の大きさは変わっていないという。基本的な思考や知能は現代人と同じだったということです。 旧石器人のキャンプ旧石器人は、季節に合わせた生活をしていた。 旧石器人は熟練猟師急所を外した狩りは危険。ナウマンハンターはネアンデルタール人。時代が違うかも 黒曜石(天然ガラス)
掴むところは刃を潰す
二万年前の日本列島
DLして使用
この地図からわかること
下に書きます



   二万年前の日本列島

 ①列島には樺太から北方ユーラシア系の、琉球列島からオーストロネシア語族が、半島から北方系モンゴロイドと南方系モンゴロイドが
  それぞれやってきたといっている。文化を追及していくうえで大切な前提です。


 ②伊豆諸島は繋がって大きな島になっている。 旧石器人はここに黒曜石を採りに行きました。 彼らは当然、外洋航海の舟を持っていたことになる。
   記①でみたように南方から海洋民族オーストロネシア語族が流入している。当然船をあやつって外洋航海をしたのです。大丈夫です。

  新石器人は、島が沈んでも、同様に、黒曜石を採りに行った。旧石器人と新石器人の間に交流があったことになる。

    この場合、旧石器人はネアンデルタール人ではなく旧型ホモサピエンス。 新石器人は新型ホモサピエンス。
    台湾旧石器人長濱文化人と新石器人は2000年もの間同居した。ですから交流があっても当然。


 ③二万年前中国大陸のどこかで発明された土器。 その知識を持った旧石器人がすぐさま各地に散らばったことを意味し、
  日本が大陸から分離する前に半島を伝って歩いてやってきたことになる。
  これがなかったら、列島は2300年前まで旧石器時代が続くことになる。((笑))      日本最古の土器は1万6500年前です

  ただし、土器づくり技法を手に入れたときから、彼らは新石器人と呼ばれるようになりました。
 
 04縄文時代(新石器時代) (約1万5千年前~2千3百年前)
縄文のくらし茅葺(かやぶき)住居
(家屋は縄文中期かな)
高度な縄文文化縄文文化は高度に発達して自然環境と調和した生活の仕組みを完成させた。この文化は近年まで日本の各地で続いた。 豪雪地帯への道のりこの項目の考察は下へ記述 日本列島の形成と
植生の変化
この考察はまだ
土器の発生(下に) 土器で食物が拡大
狩猟具の発達かな(下) 弓の発明(下に)
縄文草創期
大型獣向きの道具が並びます
石斧は土を掘るときにも使いました
押引文土器
押圧縄文土器
爪形文土器
絡条体圧痕文土器
無文土器
隆起線文土器
隆起線文土器 ここまで、
 縄文草創期の情報
 並んでいます

 ①豪雪地帯への道のり 
  縄文早期中葉に対馬暖流が日本海に流入し、十日町周辺に豪雪をもたらすようになった(9300年前に流入開始。7300年前から強くなった。)
     中期は温暖な豪雪地帯。食糧の確保も容易で、人口はどんどん増えたでしょう。全国推定25万人

     後期は気温が不安定で、食糧の確保が安定しなかった。
     晩期から寒冷化が始まり、人口が1/5になったという。全国推定5万人。
          この時期関東地方ではほぼ無人なったそうだ。巨大津波でも起こったのだろうか。起こってない。


 ②土器の発生
   籠や皮袋からヒントを得て土器が発生。
   やがて豆粒文土器や隆起線文土器がデザインされ、発展して爪形文・円孔文・多縄文土器になったといっている。

    木の実をおいしく焼くには籠の周りに土を塗って焚火に入れると上手に仕上がる。中華にもこんな料理あるよな。(笑)
    肉や魚を蓮の葉に包み、周りに粘土を塗って火に入れると美味しく蒸し焼きになる。
    最後にカチカチになった粘土を叩き割って取り出す。古代からの調理法。この延長線上にあるのは(笑)

   豆粒文隆起線文爪形多縄文土器は日中両国から見つかるので、人々がたいへんな移動速度で列島まで来たことがわかる。


 ③狩猟具の発達(挿絵)
   槍が発明され、やがて投てき具(アトラトル)が発明され、弓に進化したという考えです
 

 ④弓の発明
   弓は動きの速い小動物向きの狩猟具。一瞬で急所を貫かなければ逃げられる。
   もし、逃げられたら、後を追い続けなければならないからたいへん。
   銃猟のマタギでも狩猟は難しい。弓矢は到達距離も短く、破壊力も小さいので高度な技術が必要でした。
   中型獣は追い込んで槍・弓で仕留めるか、落とし穴やワナで捕獲するのでしょうね。

   弓ってどうやって発明されたのかなぁ。やっぱ出る器としてつくられてから、応用・発達したのかなあ。(笑)
   宮廷楽器に弓がある。弓はキリの回転道具としても用いられ、火おこし道具など、多用途な道具です。

 ⑤台湾では旧石器時代は3万年前~7千年前まで。新石器時代は7千年前~2千5百年前までです。
  理由は土器土器製作開始が分かれ目です。
  
 
   十日町市 笹山遺跡出土約4500年前
箱に入れて展示
この地域では沢山の火焔土器が発掘されています。
この展示方法にびっくり。

  展示物は十日町市 笹山遺跡出土約4500年前のものです。 
  火焔土器の中心地、新潟県長岡市の馬高遺跡では5千年前が火焔土器製作のピークで、
  4500年前には十三稲場式土器という刺突文土器になっています。
  きっと、十日町市周辺ではまだ、環境の変化が少なかったのでしょうね。
 
  06配石遺構
配石墓立石遺構
顔に甕をかぶせ(伏甕)、足は膝立てして埋葬
栗ノ木野田遺跡
西日本は穴に埋葬(土壙墓)が多く、配石墓は東日本や東北に多い
配石遺構ストーンサークルに興味があって、特に目指して見学に行きました。 見た感想は・・・
大湯環状列石も同じかなぁ
葬送風景大変参考になる想像図です。(下に)

 葬送儀礼
   とむらう という気持ちをそのまま表現した絵ですが。イスラエルのスフール洞窟前から発掘された埋葬遺跡にも共通する、
  ついこの間まであった野辺の送り、と基本的に同じですね。儀礼を貫く精神は変わっていないようです。
  
 07祈りと祭り
絵の中の縄文ストリッパーの乱舞は、仮面の出土と共に この時代の性風俗を彷彿とさせるものがある。 いい時代だったようですねェ(笑)      伏甕埋甕
伏甕 死者に被せる
埋甕 小児の遺体に底抜けの甕を被せる
三角とう形土製品
 
 08装飾と服飾
朱・松煙・漆・弁柄 玉製品は縄文でも 富と権力の象徴です
つまり、
貧富と階級の存在です
服飾と織物
縄文の衣服多様な織りを工夫して用途を広げたのですね アンギン編み
縄文の織物ですマギン・アンギン・マンギは同義語です
編み物のあとがついた土器 古代繊維と織物道具 アンギン機
 
 09豪雪地の縄文のくらし 笹山遺跡 雪に埋もれないよう、煙出しがふさがれて窒息しないよう、住居の外観は高く工夫されている。
                         
 
 10縄文の狩猟道具 
縄文人も現代人も知的には同じです。
五千年前のエジプトでは高度な数学の問題が出されたり、現代に匹敵する文明を築きました。
ヤリ猟・矢猟 絵は想像図ですね。
ワラダ猟 音を利用する
ワナ猟 一般的な猟。絵のような罠では捕まらないが
ワラダウサギに向かって投げる この弓の長さと弱さでは飛距離と破壊力は得られない。弓2mで矢0.8mぐらがいい
弓猟の困難さは想像を絶するものがります 川魚漁オサンリ形釣り針はないか
モリヤスの違い
網漁ヤナ漁エリ漁ウケ漁

(もり)は刺具が一本
やす(簎・矠). は刺具が数本
やす(新潟県立歴史博物館)エスキモーも使っています
鮭捕り用
 
 11弥生時代の機織りと暮らし
原始機(げんしばた)弥生時代までなかった 地機(じばた)麻織物(カラムシなど)は地機で織られ 高機(たかはた)絹織物は高機や力織機で織られた→ 糸巻きなど
→それは糸の強さや細さなどが適していたから
弥生の稲作
栽培穀物五穀五穀という考え方は殷の前、夏でできた考え。 古墳時代の十日町 朝鮮式土器 農具の用途と変遷 古墳時代のくらし 雪に埋もれたムラ
 
 12復元された遺構
奈良時代の竪穴住居 配石墓・立石遺構
縄文時代の竪穴住居
   私のホームページはいつも独断と偏見と、誤解と誤謬に満ちている。素人だからでたらめだ。
  博物館も古くなると、昔の常識は間違いが見つかって変更しなければ、突っ込まれる。
  産業が極端に衰退して税収の減った十日町市の博物館にそれを求めるのは随分酷な話だと思います。

  冬の除雪費など何十億ものお金を無駄に捨てなければならないのだから。ま、しょうがないよね。