東北の縄文1 01 2016.10.13-1 長井市 古代の丘 資料館 山形県長井市草岡2768-1 0238-88-9978 月曜休館 12/16~4/15まで冬季休館 撮影可 時代 縄文時代 旧石器~戦国時代 見所 長井市 長者屋敷遺跡の展示館です。 遺跡は、縄文時代中期の 集落跡遺跡の展示館です。 山形県南西部の先史遺跡。 県南部の高畠町と同じ文化ではなく、土地に適合した道具を工夫して、暮らしていたことがわかります。 交通 車 |
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01外観 「古代の丘」とは先史時代という意味で、古墳時代以後の飛鳥・奈良時代のことではありません。 戦後に開拓地として入植した人々が暮らした地域にあり、歴史的に未開墾地であったため、多くの遺物が見つかったようです。
押出ポイント (押出型ポイント おんだし) 縄文時代の集落跡。押出遺跡 |
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長者屋敷遺跡の出土物 長者屋敷遺跡発掘調査報告書 - 全国遺跡報告総覧 第2次調査概報 遺跡所在地, 山形県長井市草岡字長者屋敷 (古代の丘資料館の所在地付近です) |
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02タイムトンネル 入口展示
資料 長者屋敷遺跡 遺跡は朝日山地の山麓で、西山と呼ばれる山並の、狩猟に有利な、東に突き出た300×100mの舌状の土地に立地しています。 周辺には45か所もの遺跡が密集する地帯です。旧石器時代~縄文 前期・中期・晩期~弥生時代 の遺跡ですが、 中心は縄文中期(約4000年前)です。 発掘成果 第1次調査 1~5号住居跡、焼成遺構(焼け跡)1棟、貯蔵穴1、ピット群(落とし穴)、土坑、集石遺構、中期と晩期 第2次調査 前期住居1棟、土坑墓1、土坑3、弥生中期墳墓跡2、集石、石器 中期と晩期主体。 土坑墓より、縄文前期の玦状耳飾2、ナイフ形石器2、弥生中期の土器片、アメリカ式石鏃※等が出土している。 第3次調査 2号住居、7、9~13号住居(以上縄文中期)、8・14・15号住居(以上晩期)、集石、土坑、 竪穴住居 17号住居 晩期粗製土器 大木10式 18号住居 複式炉埋設土器 大木10式期 半截木柱遺構 (はんせつもくちゅういこう) 4 =大形縦割り木柱 同時に出土した土器より、大木10式期 (中期後葉) と確定 などが出土した。 祭壇跡も出土しているという話だが、ちょっと見落としました。 結び 周辺に密集する土の遺跡よりも特徴的な柱穴が出土した、大きな遺跡だったのでしょう。 アメリカ式石鏃※ 北米からの漂着民が残した文化かと思っていました。そんな考えはアホでした。 弥生時代後期、越後から東北にかけて分布する特殊な体人用石鏃で、抜くときに折れて体内に鏃が残るように設計された、殺傷力の強い ものです。 関連ブログをお読みください。アメリカ式石鏃 |
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05旧石器時代のくらし 旧石器時代は、氷河期の中でも一番寒い時期にあたるため、気候や風土が現在とは違っていた。 草原の周囲にはトウヒ・モミ・ツガなど寒い地方に見られる木が茂り、森に棲む動物は今では絶滅したナウマンゾウ・オオツノシカ・野牛などの 大型獣がいた。 旧石器人はこれらの動物を追い求め、狩りの生活を送っていたので、決まった場所に長い間定住することはなかった。 長者屋敷遺跡・河井山遺跡には旧石器時代の生活跡が見つかり、狩猟につかった石器が出土している。 |
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06旧石器の移り変わり 長井市には5箇所の旧石器時代遺跡があり、蔵京遺跡から石核が採取され、長者屋敷遺跡からは柳葉形の「杉久保型」ナイフ形石器が、 また、河井山遺跡からは小高い山の山頂からナイフ形石器が出土した。 3つの遺跡の石器を旧石器時代の移り変わりの中で捉えると、Ⅱ期(3万~1.3万年前)の石器の仲間に入る。
関東と東北の石器※2(下の図表から) 東北ではⅠ期の礫石器の時代が長く、1.4万年前頃まで続く。すると、ナイフ形石器文化は西から早く入り、北からはずいぶん遅かったことが わかります。※ 西から入った石器文化の後に、北海道から東山型ナイフ形石器文化が入ってきたようです。 参照宮崎県埋蔵文化財センター ※下に1.7万年前のナイフ形石器があるので、1.7万年前とも言えるようです。 下の図表が最も重要で価値のあるものだと思います。 資料 ※1石器の変化 転載石器の発達から見る、人類の観念進化 ■250万年前(300万年前)~12万年前(前期旧石器時代)・・・前半猿人・後半原人 石を打ち砕いた石器がつくられるようになる。オルドヴァイ文化と呼ばれる。手頃な石材(コア)の周囲を、複数回ハンマーとなる石で打ち 割った石器。 剥片は鋭利な刃物にもなり、実際に使用された形跡もある。残ったコアは石核石器(チョッパー)と呼ばれる。 石器文化一覧表 ■40万年前ごろには石核調整法と言われる技法が生み出される。 この時代の石器はハンドアックスで、両面に細かく打撃を与え成形されていることから両面調整石器とも、握って使う斧のようにも見えることか ら握斧(あくふ)とも呼ばれる。このハンドアックスの精製の技法がそのまま石核調整法として後のルヴァロア技法・石刃技法の精製工程に 導入される。 ■12万年前~3万5000年前(中期旧石器時代)・・・旧人 ネアンデルタール人のつかった石器をムスティエ型と呼び、亀甲状の石核に打撃を与えて剥離片をつくるルヴァロア技法を取り入れている。 この技法はハンドアックスをつくるように石核をつくり、さらに二次加工して剥離片をつくっていく。この剥離片に調整を施して道具にする。 つまり石核石器やハンドアックスでは一個の石材から一つの道具をつくっていたが、ルヴァロア技法によって剥片石器の大量生産が可能に なった。 この時より人類の道具史は拡散期を迎える。 ■3万5000年前~1万年前・・・新人 この時代初期に出るのが石刃(せきじん)技法で、石核に打撃を加えて剥離片を作り出し、更に剥離片を加工して道具をつくる。(ルヴァロア 技法) ルヴァロア技法に比べて、石刃(ブレード)技法は大量に道具がつくれるようになった。 それと共に完成した石器が小型化する傾向(細石器)にあり、ワシ手につかむような大きさから、掌(てのひら)に握られる程度に変化して いく。 石刃技法は、ユーラシア大陸西部からアルタイ、シベリア経由で東方アジアに広がった革新的技術の一つとみられている。 具体的にはこの技法によって細石器を大量に作ることが可能になり、木の棒にこの小さな石器を埋め込み使用する植刃という技術も発明された。 また、この他にも押圧剥離法等の技術もあり、これらの精製技術の課程で道具として鹿の毛皮や角を使い、より精度の高い剥片を作りだす為に、 道具を作り出す道具も進化・塗り重ねが行われてきた。 これらの技術は獲得した技法・技術によって進化した道具によって新たな道具の資材となる獲物を獲得でき、 多様な精製方法や用途をもった道具を生み出すことにもなった。(中断) |
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資料 07東北地方の土器編年
※東北地方の縄文早期には、北部も南部も尖底土器 が使用されていました。しかし、 約7600年前以降の十和田火山の噴火により、円筒土器と大木式土器にわかれてしまいました。※6200年前とも言われています |
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資料
○円筒土器 (6000-4000年前) 東北北部から北海道地方南西部に分布する土器で、縄文時代前期後半の円筒下層式土器と中期前半の円筒上層式土器と区分する。 平底深鉢形で、口縁が少し広めの円筒形(バケツ形)をしている。円筒形の土器全般の呼称ではない。 青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡、秋田県能代市の杉沢台遺跡など巨大集落をともなう時期の土器であり、 口縁部に文様帯を区画して設け、さまざまな押圧縄文によって装飾をほどこす点に、前期・中期を通じた特色がある。 円筒土器文化人とは誰か 類似する平底円筒型土器が遼河地域、朝鮮半島北部からアムール川流域、ロシア沿海地方の広範囲で、8千年~4千年前頃の間に発見されており 遼河文明との関連が指摘される。 ハプログループN 遼河文明人はハプログループNが60%であるが、日本では、現在、青森県だけにN遺伝子を持つ人が7.7%(26人中2人)と高い出現頻度である。 Nは遼河文明人だけが持つ遺伝子で、三内丸山遺跡など、青森県の遺跡は、北部朝鮮のこの民族がやってきて作ったことがわかった。 円筒土器文化圏の拡大 円筒土器は青森県で始まり、→北海道道南→道央→道東へと、また、青森→秋田・岩手 へと広がった。 N遺伝子の遼河文明人は、中国遼東半島から、どんな経路でいきなり青森へ到着したのだろうか。 後年、渤海人は、船でサハリンまで行き、そこから南下して日本海伝いに来た。 引用 円筒土器文化圏 - Wikipedia 転載wikipedia円筒土器 ハプログループN 円筒土器 三内丸山遺跡 沖縄写真通信 ○十和田火山噴火 十和田火山は6200年前に噴火し、東北北部と北海道南西部に厚く降灰し、環境を大きく変えました。 (縄文早期は1万年~6千年前) 原生林に覆われていた森林は焼き払われ、一挙に堅果類の茂る森に変わり、有角動物が繁殖し、豊かな森になりました。 三内丸山遺跡は、今から5500年前~4000年前、縄文前期中葉~中期末葉の遺跡です。十和田火山の影響が消滅し新しい豊かな環境が 整ったときに、遺跡が始まり、1500年後、火山灰の影響がなくなると円筒土器も消えて行きました。実は既に寒冷化が始まり、植物相も変化し、 クリ類など栽培できなくなっていたのです。 円筒土器は堅果類のあく抜きに最適な道具で、遼河人の文化と、青森の環境がうまく適合したのでした。それにしてもどうやってここにたどり 着いたのでしょう。 火山噴火の歴史を調べる 気象庁|十和田 十和田湖 - Wikipedia
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展示 10縄文時代 |
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11縄文文化の誕生 -土器・弓矢・イヌそれに海- 今から1万年前、氷河時代も終わりに近づき、気候の温暖化が進むと、海水面が上昇し、大陸から切り離され、日本列島が出来上がった。 気候の変化は山や森の姿を次第に変え、そこに棲む動物たちの種類をも変えてしまった。 人々はこれまでの石器を中心にした生活に加え、土器を用い、石槍に代わり弓矢が出現し、犬を助手に使った狩猟を行い始めた。 縄文時代の幕開けである。さらに海辺の近くでは貝塚を残しており、縄文人の生活の舞台は海にも進出していった。 |
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12縄文土器 |
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長者屋敷遺跡 発掘調査報告書 第2次調査概報 20長者屋敷遺跡 西山山麓から東に張り出した台地上にあり、東西300m南北100mの範囲に及ぶ遺跡である。旧石器・縄文・弥生の生活跡が見つかった。 特に縄文時代中期 (約4000年前) に大規模なムラが営まれ、住居跡が12棟や、お墓跡・祭壇跡をはじめ、多量の土器石器が出土した。 他にも旧石器時代 (17000年前) の杉久保型ナイフ、縄文前期 (6000年前) の玦状耳飾り、弥生時代 (2000年前) の土器や石鏃が出土 した。 広大な西山山麓を背景に繰り広げられた縄文人の世界が「古代の丘」史跡公園の中に息づいている。 |
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21Panel |
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22土器 縄文中期/長者屋敷遺跡 長者屋敷遺跡の土器はほぼ、大木10式期です。
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23土器 |
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30注口土器 31 |
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40縄文人の道具箱 先史時代の石器は現代の道具と形が似ているものがある。よく見ると打ち欠いたり磨いたりと、実に要領よく作ってあり、中には使用痕が残るもの もある。 これらの道具は石鏃・釣針・土堀具等の食料獲得に使うもの、土器・石皿・磨石等の調理用具、石斧・石錐等の工具等に分けられる。 石器に柄や紐を巻き付けてみると、身の回りにある道具に似ていることに気づくでしょう。 道具の歴史は、石器と金属の違いこそあれ、縄文時代に確立していたのです。 41 |
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50縄文人の体格
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60縄文の森 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
62縄文の森 桜の花が咲き始める頃、西山山麓は人里から峰に向かってゆっくりと萌黄色に染まっていく。 厳しい厳しい冬を越えた動物や虫たちも一斉に動き始め、森は活気づいてくる。 夏の太陽をいっぱいに浴びた森は深い緑色となり、木の実を付け始め、風が肌寒くなる頃には枝いっぱいに実る。 トチ・ドングリ・クリ・クルミ・ブナ等の生い茂る森はナラ林帯とよばれ、動物はもちろんのこと縄文人にとっても貴重な食料を提供してくれた。 このナラ林帯は縄文前期頃 (約6000年前) に形作られ、今日まで続いている。 |
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63海の幸・山の幸 縄文クッキーの材料が示すように、食生活の材料は山の幸に求めることが多かった。 土器による煮炊きとアク抜き技術の発達で食料の種類も増え、保存できるようになり、秋になればサケ、マスが毎年川を遡ってくる。 また、海辺の貝塚遺跡からはハマグリ・アサリ・カキ貝殻をはじめ魚骨や獣骨が多く出土し、海からも沢山の食料を獲得していた。 それに縄文人は、意外と虫歯が多いことでも知られており、豊かな食生活を営んだあかしでもある。 ※でんぷん質の食事をすると虫歯になることがわかっており、食料の中心は堅果類だったようです。 |
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64住まい 縄文人の住まいは地面を掘り窪めた「竪穴式住居」が一般的であるが、平地式住居や 高床式住居それに 土壁を持つ住居、 中には長径30mを越える大型住居も各地で見つかっている。そして、ムラの構成を見ると長者屋敷遺跡に見られるように、 中央の広場を半円形に囲むように、数軒の住居跡が並ぶことから、目的に応じた家づくりを行い、一か所に長期間住んでいたことが窺える。 長井市で最初に見つかった竪穴式住居は、現在も覆い屋の中に保存され炉跡や柱穴などを見ることができる。 |
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65物の行き来 遺跡から出土したものの中には、その地域からは産出しないものがある。長者屋敷遺跡からは石鏃と矢柄を取り付ける「接着剤」に使った、 天然アスファルトが石鏃に付着して見つかった。また、鋭い石器を作るために、黒曜石と呼ばれる天然ガラスを石器の材料として入手している。 更に唐梅遺跡からは北陸地方に特有の文様を持つ土器が出土した。 天然アスファルトは日本海側の油田地帯が、黒曜石は北海道・長野県・神奈川県が産地として知られている。 直接入手したか、ひとづてに持ち込まれたかは定かではないが、縄文人は必要な材料は遠く離れた地域からわざわざ取り寄せていた。 彼らの情報の豊かさ、交易の広さにはおどろくばかりである。 |
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67漆 漆は【ウルシ科ウルシ属】の落葉樹で、中国・ベトナム・タイ・カンボジアビルマなど東南アジア地域に分布する。 幹の樹皮に傷を付けしみ出した樹液を集めて、塗料や接着剤として用いられる。 ハゼ・ヤマウルシ・ツタウルシ・ヌルデからも樹液が出るが、、質・量共に経済的に見合うのはウルシノキだけである。 幹には掻かれた痕が等間隔に黒く残っている。漆は6月頃に小花を密生させ晩秋には小豆大の実を房状に付ける。 |
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68漆の花 |
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69漆容器 |
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80祈りの世界 縄文人の道具の中には、姿かたちからでは何に使ったかはっきりしないものがある。 手・足・首までも壊れる目的で完全な形に作られた土偶、 見た目にはお守り札のような土版や岩版、 石を打ち欠きさらに磨いて作った石剣・石棒・石冠。 不可解と思えるこれらの道具は、彼らが祈りや祭事を行う時こそ、いかんなく効力を発揮したことでしょう。 海や山から自然の恵みを受けた縄文人は、自然界に生きる動物たち、草木にも精霊が宿ることを感じ取っていたに違いない。 「人間は自然の中の一員である」ことを私たちに語りかけている。 |
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90長者屋敷遺跡出土物 |
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91石器
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