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 北部九州の縄文 №32~33   2020.11.19-3

  「肥後民家村」内   熊本県玉名郡和水町江田302「肥後民家村」内

   ①和水町歴史民俗資料館32 0968-86-4564 月休、撮影可
   ②江田船山古墳33
   ③トンカラリン  熊本県玉名郡和水町瀬川3481

交通 レンタカー
  備考  江田船山古墳と和水町歴史資料館は肥後民家村内にあります。
そして、施設全体を総称する民家村の道路を挟んだ向いには
「トンカラリン」という謎の古代の地下施設があります。

 和水町は菊水町と三加和町が合併して、「和水町なごみまち」となりました。
 歴史資料館は菊水町のもので、三加和町のものは何一つなく、現在は管理者も置かれていません。
 しかし、大変貴重な資料が提供されています。
 
 



➀和水町歴史民俗資料館

01外観
02年表
03菊水町遺跡分布図
10江田船山古墳の発見
13国宝鏡
14副葬品

20古墳
21江田船山古墳
江田船山古墳の鉄剣銘文
22銀象嵌大刀
23鉄製短甲
24衝角付冑
25三環鈴・鐙
26金銅製龍文透彫冠帽

30装身具と武器
34冠金具
35耳飾り
37金銅製沓
考察
 江田船山古墳の被葬者

50弥生・古墳時代
51甕棺墓
52石人
55俎(まないた)
56家形石棺
57朝顔形円筒埴輪
61埴輪
63石室備品
65土製品
70年表


100縄文時代
101縄文土器
103文様型式
105若園貝塚

120弥生時代
121諏訪原遺跡出土品

130古墳時代
140石棺

200肥後民家村
202石人の丘

210②江田船山古墳

250③トンカラリン
 


 ➀和水町歴史民俗資料館

資料館は無人ですが、遠隔監視されています。

 01外観
資料館外観民家園入口から奥まったところにあります・ 江田船山古墳の家形石棺は横口式石棺です 江田船山古墳家形石棺
 02年表
旧石器~縄文 弥生~古墳 古墳~平安
古墳~鎌倉
 03菊水町遺跡分布図
 

 10江田船山古墳の発見
 ※菊池川中流域の砂岩台地上に展開する清原古墳群の中心的な前方後円墳である。
  墳長62m 5世紀後半~6世紀初頭の築造。

  国宝 江田船山古墳副葬品
 江田船山古墳から出土した数多くの副葬品は、日本国内で作られたもののほかに、韓国や中国で作られてものも沢山あり、当時の国際交流を窺がうことが出来ます。
 国内で作られたもので特に注目されているものは、75文字と菊花紋それにペガサスが銀象嵌されている大刀です。
 この大刀に銀象嵌されている文字は、日本最古の文字として、稲荷山古墳の鉄剣、隅田八幡神社鏡と並び高く評価されています。

また、冠帽耳飾りなどの優れた工芸品は韓国からの輸入品と考えられ、6面の銅鏡のうち5面が中国製です。
このほかにも、くつわ、あぶみ、かぶと、よろい、刀、剣、矢じり、まが玉、管玉、ガラス小玉など、実に様々な副葬品が出土し、全て国宝に指定されています。
ここに展示中うの国宝レプリカは、菊水町民を始め、各方面の方々の募金を中心に製作されたものです。

江田船山古墳の発見 国宝
江田船山古墳副葬品

 江田船山古墳の石棺

阿蘇凝灰岩の家形石棺です。切石を磨いて造った組み合わせ式の石棺に家形の蓋 (屋根)で覆っています。屋根には前後に丸い作り出しがあり、石棺部の一方には入口があり、板石で塞ぐような構造になっています。また、入口の前には0.6mの切石を並べています。石棺の長さ2.2m、幅1.1m、天井までの高さは1.45mです。
石棺の内部はベンガラで赤く塗られています。
阿蘇凝灰岩を使った石棺は、熊本から全国各地に波及しています。

江田船山古墳の石棺 江田船山古墳
横口式石棺

 13国宝鏡レプリカ 江田船山古墳出土
四獣鏡 四獣鏡 画文帯環状乳神 画文帯環状乳神獣鏡
画文帯対置式神獣鏡 画文帯対置式神獣鏡
画文帯同向式神獣鏡 画文帯同向式神獣鏡

裏面
半肉彫獣帯鏡 半肉彫獣帯鏡
神人車馬画像鏡 神人車馬画像鏡
 14副葬品 レプリカ 江田船山出土
金環 国宝
金銅製帯金具
鉄鉾、玉製品 鉄鉾
 

 20古墳

 21古墳解説

 江田船山古墳
 全長61m、後円部径40m、前方部幅40mの前方後円墳で、周濠を巡らし後円部に横口式家形石棺が納められている。現在はかなり削平を受けており、本来の姿を留めていない。
 明治6年(1873)に発掘され、銅鏡・冠帽・沓・耳飾・玉類・馬具・武器類・甲冑・須恵器などが出土している。
龍文を透彫にした冠帽・金製耳飾・金銅製沓などは朝鮮半島製と考えられる優秀な工芸品である。
環頭大刀には銀象嵌により、

という銘文が見られる。出土品は一括して国宝に指定されている。

  参考
銘文解釈の現況  引用 「古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集) ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平」

江田船山古墳出土の大刀の銀象嵌銘(e国宝「江田船山古墳出土品」参照)に、次のようにある。

 台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖
 八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀
 服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

 上の文字の判読は、東野1993.による(注1)。東野2004.は、
「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鐵釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振(う)つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。」
(102頁)と読み下している。

 (中略)

 文字史の最初期の遺品である。1世紀のものかとされる「漢委奴国王」金印は中国製と考えられている。3~4世紀のものかとされる石上神宮七支刀は中国ないし朝鮮半島製と考えられている。
 本邦で作られたものとしては、5~6世紀のものとされる隅田八幡神社人物画像鏡稲荷山古墳出土鉄剣、そしてこの江田船山古墳出土鉄剣がある。数が限られている中にあって、江田船山古墳出土鉄剣銘の不思議さは、よりによって刀の棟(峰)部分の狭いところに一条に刻まれている点である。相当に凝った考えをする人がいてできあがっていることが予見される。以下、銘文を丹念に観察しながら検めていく。


 江田船山古墳に葬られた人
 江田船山古墳には、出土品、副葬品の分析から、5世紀後半から6世紀前半にかけて3人の人物が順に葬られたと考えられています。
葬られた人の一人は、「銀象嵌銘大刀」の銘文の主人公「无利弖むりて」ではないかとの見方もあります。
 いずれにしても、軍事力にたけ、かつ海外との交流を盛んになしえた豪族であることを物語っています。
朝鮮半島の三国時代に関連の深い多くの遺物が出土していたことは、菊池川、有明海、東シナ海の水運・海運の実権を握った人物であることを示しています。


 江田船山古墳の刀剣類
 江田船山古墳の出土品のうち、刀剣類は大刀身が11口、剣6口、鉾身3口、銀刀装具等が出土しました。 (口は単位名称 くち です)
九州一の砂鉄の産地であると言われた熊本、菊池川流域らしく、沢山の鉄製品が出土しています。

 この中でも最も有名なのは銀象嵌銘大刀です。
茎(なかご=柄の部分)が失われていますが、全長90cm巾4cmで、棟(背)の部分に75文字の銀象嵌を施した文字があります。
この75文字には、日本の言葉の始まりである「ヤマト言葉」が含まれています。
大刀の根元に馬と12弁の花形の紋様があります。馬は羽の生えた天馬(ペガサス)で、躍動する姿が的確に象嵌されています。
1991年(平成3年度)に行われた大刀の修理で、反対側に魚と鳥が発見されました。これらの紋様がどの様な意味を持つか、あるいは、今日でも困難とされる象嵌の技など、今後の研究により明らかにしていかなければなりません。

江田船山古墳 江田船山古墳に葬られた人
江田船山古墳の刀剣類

 22銀象嵌大刀銘文
銀象嵌大刀

 23鉄製短甲 よこはぎいた かわとじ短甲
 24衝角付冑
 25三環鈴・鐙
銅環鈴 鉄輪鐙
 
 26金銅製龍文透彫冠帽
金銅製龍文透彫冠帽
 



 30装身具と武器

 31江田船山古墳の装身具
 江田船山古墳の装身具には、玉類、耳飾り、冠帽、沓、帯金具等があります。
玉類には勾玉・管玉・丸玉があり、材料も硬玉・水晶・ガラスと多様です。耳飾りを装飾を付けない純金のもの1対と、垂飾のある2対があります。
垂飾のあるものは短いものと、金・銀の鎖3本からなる豪華なものがあります。
金銅製の冠帽は3個、金銅製の帯金具は3個、沓は実用品ではなく底にスパイクの付いた儀式用のものです。
 これらの装身具は、既に交流が行われていた朝鮮半島から入手したものが多いと言われています。

江田船山古墳の装身具

 32古墳時代のいろいろな武器

古墳時代の色々な武器
尖根鏃・平根鏃・置楯
1.木装大刀
2.素環頭大刀
3.単龍環大刀
4.圭頭大刀
5.頭椎大刀


眉庇付冑 衝角付冑 短甲
 33装身具
貸し出し中
 34冠金具
国宝
金銅製亀甲文冠金具
金銅製亀甲文冠金具 金銅製亀甲文冠金具
 35耳飾り
 36耳飾り
   心葉は、丸葉の山芋の葉。(とろろ芋の葉、つくね芋の葉、、山芋の葉に似ていることからこの命名だと思います。)
金製心葉形耳飾

裏面
金製心葉形垂飾付耳飾り
 37金銅製沓
   半島製のこの沓は、死出の旅路の沓であり、死に装束の一部である。
国宝金銅製沓

 ※考察 江田船山古墳の被葬者 
江田船山古墳の副葬品から、被葬者の地位はかなり高く上級クラスだったが、しかし、その中ではそれほど高い地位とは言えないようだ。
被葬者の中には高価値の副葬品が金銅製耳飾りだけという地位の人もおれば、冠、沓、などの金製品の地位人もいる。
ここでは、金銅製沓にも冠金具にもゆらゆら揺れる小さな飾りもなく、上の中級の豪族と考えてよいようだ。
しかし、大和政権から、大刀の峰に銘文を施すような、凝った作りの剣を賜るほど、中央政権とは強く結びつき、また、重要視されていたのでしょう。
 
 40縄文想像図
 


 50弥生・古墳時代


 51甕棺墓
 弥生時代の墓制
 弥生時代の墓としては、木棺墓・土壙墓カメ棺墓・石棺墓・方形周溝墓などがある。
 九州の墓制を特徴付ける野は、甕棺墓と 支石墓である。
甕棺墓は数基~数十基が群集して発見され、中には豊富な副葬品を持つものもある。

弥生時代の墓制 色々な墓制
木棺墓、土壙墓、カメ棺墓

石棺墓、方形周溝墓、支石墓

 成人用甕棺
成人用甕棺
弥生中期 約2千年前
諏訪原遺跡近辺
成人用甕棺

 小児用甕棺
弥生時代中期(約2000年前)の物で、小形であるため小児用の甕棺と考えられる。
出土地は、菊水中学校より南方200mの台地である。

小児用甕棺
弥生中期 約2千年前
菊水中学南方200mの台地から
甕棺 小児用甕棺
 
 52石人 菊水町清原台地出土
 この石人は、その外形より武装石人と言われている。被葬者を守護するためのものだろうか?
それとも当時の葬列を威重づけるためのものだろうか?

石人
石人出土
石人


 石人石馬発見古墳分布図
石人石馬発見古墳分布図


1石人山古墳 :八女郡広川町一條
2岩戸山古墳 :八女市長峰
3豊福古墳 :八女市豊福
4石神山古墳 :三池郡田片町上楠田
5稲荷山古墳 :大牟田市稲荷山


6三の宮神社 :荒尾市平井区下井手
7清原古墳 :玉名郡菊水町江田
8チブサン古墳 :山鹿市城
9臼塚古墳 :山鹿市石


10フタツカサン古墳 :菊池市木柑子
11富ノ尾古墳群 :熊本市池田町富ノ尾
12イシノムロ古墳 :下益城群南町塚原 
13姫ノ城古墳 :八代郡竜北町大野
14天提古墳 :八代郡竜北町野津


15臼塚古墳
16下山古墳
:臼杵市熊崎
:臼杵市下山
  その他:石馬ヶ谷古墳;鳥取県

 55俎(まないた) 菊水町清原台地出土
 祭祀用の俎(まないた)・案(テーブル)・腰掛などと呼ばれているが、正体不明の石製品である。


※隣に石棺蓋もあるし、幼児を葬った死床に見える。
石枕もあり、水抜き穴もある。

 56家形石棺 菊水町清原台地出土
 形は家形石棺の一部に似ているが、実用的な石棺としては小さすぎるため、古墳の表飾用と考えられる。

家形石製品 ※小さな石棺蓋。小さな死床。???
 57朝顔形円筒埴輪 菊水町江田船山古墳
 昭和50年に実施された清原遺跡確認調査の際に、船山古墳の周(しゅうこう=からぼり)内、現地表から2.8m下部から出土したもので、
上部が朝顔のように開いていることからこう呼ばれる。

 ※男性用小便器をあさがおと言う。朝顔の花ではなく、この小便器になぞらえたもののようです。

円筒埴輪
 
 60
 
 61埴輪
人物埴輪 円筒埴輪
 63石室備品
 65土製品 no caption
 
 70年表
鎌倉~室町 室町~江戸
 


 100縄文時代

 101縄文土器
 日本の石器時代の土器で、縄目の文様を特徴とする素焼きの土器をいう。
しかし、縄文式土器の中には縄文がない土器も多く、特に九州ではこの種の土器が多い。
 縄文式土器の大部分は、年度の紐を積み上げて行く方法(輪積み法)で成形され、比較的低い温度で焼成されている。
器形では、鉢・甕・壺・注口土器・高坏などがある。
 縄文土器には時代による変化があり、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に細分されている。

縄文土器 縄文年表と土器文様
貝殻文
棒書き沈線文
押形文
磨消縄文
阿高式 深鉢
若園貝塚
阿高式土器
縄文時代中期後葉の九州地方を中心に分布する土器型式です。
熊本県阿高貝塚を標式とします。

厚手で赤褐色の砲弾形深鉢を主体とする。
引用山口博物館
 103文様型式
押形文
刻みの入った棒を土器面(粘土面)に押さえ気味に転がして文様をつける
貝殻文

貝殻の腹縁部を土器面(粘土面)に突き刺して文様をつける
爪形文

ヘラ先土器面(粘土面)に突き刺して、爪の形をした文様をつける
隆線文

粘土をひも状に伸ばしたものを土器面(粘土面)に貼り付ける
縄文
細縄を土器面(粘土面)に押さえ気味に転がして文様をつける
貝殻条痕文
貝殻の復縁部で土器面(粘土面)を掻き取るようにして条痕をつける
押引き文
棒や竹などを小刻みに移動させながら文様をつける
凹線文
指頭で土器面(粘土面)に直接、線を描く
沈線文
棒の先端などで土器面(粘土面)に線を描く

 105若園貝塚
縄文時代の貝塚分布
 106若園貝塚出土品 縄文中~後期
若園貝塚
縄文中~後期
石錘
磨石
 110晩期土器
晩期土器


 120弥生時代


 弥生時代の村 諏訪原遺跡 弥生後期~古墳時代初頭
 生活の基盤が採集経済から農耕に移るため、集落(住居)の立地も低湿地の近くや台地に多く見られる。
住居形式は竪穴式住居で、一部には高床式倉庫も見られる。

 菊水町江田の諏訪原遺跡は昭和45年に発掘調査が実施され、弥生時代後期~古墳時代初頭の住居跡が70余戸発見された。
これらの住居跡には重複が見られ、一時期の戸数は15~20戸前後と考えられる。

 121諏訪原遺跡出土品 弥生後期~古墳初頭
弥生時代の村
諏訪原遺跡
諏訪原遺跡出土品
弥生後期~古墳初頭
玉名郡
 菊水町原口
諏訪原遺跡
 


 130古墳時代


古墳築造想像図

 140石棺
  石棺があると思うんだけど、草が立派でチョット見えづらい。みえますか。
石棺が横に二列
奥にもう1基あるかな?
斑入り植物の陰に1基
最奥の1基が見える
石棺の平石を飛び石風に並べたもの その奥にもう1基石棺だろう
 


 200肥後民家村

  肥後の文化財しての古民家 豪邸です。

肥後民家村には、私が見たもののほかに、いろいろな施設が移築されていたようです。
展示内容 写真 写真 写真

 201民家園


 202石人・石製品 石人の丘  地図


 203京塚古墳
昭和59年に古墳跡と伝えられる現在地から発見された古墳である。
5世紀後半の円墳で、直径22m周囲に幅約2.5mの溝が巡り、外径は約27~28mである。
内部主体は舟形石棺と推定される。
墳丘には円筒埴輪が建てられたものと思われ、周溝内から多数の円筒埴輪が出土した。

京塚古墳


 清原石人付石製品一括
この周辺から、これらの石製品が発見されたので、この一帯を「石人の丘」として、県内の主要石製品を含めて(集めての意味)整備したものである。
この地から出土した石製品は、石殿(家形)・石人・腰掛(または俎板(まな板))の3点である。

清原石人付石製品一括
名 称 県重要文化財
清原石人付き石製品一括
(石殿・石人・腰掛)
古墳名 清原古墳
出土地 菊水町
木柑子石人(きこうじ)
フタツカサン古墳

袈裟尾高塚古墳
武装石人
三の宮神社古墳
石人
チブサン古墳
石人
宮ノ尾古墳
臼塚石人
臼塚古墳
翳4点(さしば)
姫ノ城古墳
翳(さしば)

絹や鳥毛でうちわ形を作り長柄をつけて左右から貴人の前方にさしかける儀式用具
蓋3点(きぬがさ)
姫ノ城古墳
蓋(きぬがさ)

翳が貴人の前方に差し掛けるのに対し、蓋は貴人の上を覆う傘形で儀式用具
靫(ゆぎ)
姫ノ城古墳
靫(ゆぎ)矢を入れて背に背負う武具の一つである。
ゆぎは矢笥やけから転じたものといわれる

※矢筒でなく矢笥
なのか



 210②江田船山古墳

 表示は「船山古墳」なので、この時は、まだ「江田船山古墳」とは別だと思っていました。ここから見ると円墳だし、、、。
 江田船山古墳は前方後円墳です。


ここから見るとくびれが見えています。
撮影失敗ですね。

 212江田船山古墳
史跡江田船山古墳
造出部

江田船山古墳の歴史 今までの発掘の歴史
江田船山古墳が最初に発掘されたのは、明治6年(1873)です。家形石棺から貴重な多数の副葬品が出土しました。
大正6年(1917)に、浜田耕作・梅原末治両氏による調査が行われ、その後研究が発展していきました。
前方後円墳の形の変化 前方後円墳の形の変化

4世紀頃
 前方部が低く平らで、後円部が高い。

5世紀頃
 前方部が高くなり、正面が開く形となる。

6世紀頃
 前方部がさらに大きくなり、後円部が小さくなる。
江田船山古墳の形 造出部は、くびれ部の左右に付け加えられた墳丘のことをいいます。方形をしたこの造出部から多くの遺物が出土しました。儀式の場として使用されていたと思われます。
造出部の発掘調査 造出部の発掘調査。
昭和64年に周溝調査が行われ、位置と深さが分かりました。そして墳丘に造り出しがあることがわかりました。
この造り出しのそばから遺物がまとまって出土しました。造出が儀式の場として使われたと考えられます。
家形石棺の入り口はこの造り出しに向かい(あって)ています。ここから石棺へ行く墓道があったと考えられます。
墓前祭祀 この造り出しで墓前祭などが行われたと考えられます。この場から墓道を通って石棺へ向かいました。

古墳入口 側面視
 
 


 250③トンカラリン

 和水町郷土資料館・肥後民家村・石人の丘の、道路を挟んだ反対側にあります。とても有名な不思議ワールドです。
 昔から、日本の謎、として、私の子供の頃から50年たった10年前にも、テレビで特集されていました。

 これは謎の地下施設です。十数年前までは中に入ることが出来ましたが、現在では崩落が激しく、潜入は無理かと思います。
磐井が造った地下要塞だとか、導水施設だとか、地下迷宮、黄泉の国への入口、などと様々に騒がれましたが、
いずれも的外れで、深層をいいあてたものはありません。

 地下水路説が最も考えられるのですが、頂上からの流水を流す施設としては大きすぎ、古代の下水にしては立派過ぎ、で、
深層はいまだ謎です。
 現在崩落が激しく、もう少しすると、潰れて消え去り、新しい側溝などに代えられて、人々の記憶からも消えていくことでしょう。

 ※トンカラリンの駐車場(無料)への道は途中で二股に分かれており、そのまま進むと行き着きません。
   途中から左へ曲がります。

トンカラリンの頂上には
菅原神社がありました。