|
北海道の縄文 №35 2022.06.15-3
名寄市北国博物館 北海道名寄市緑丘222
01654-3-2575 月休 撮影可
館の特徴 |
石刃剥離技法の重要な展示があります。
樺太産オホーツク系土器「南貝塚式土器」がなぜか天塩川を延々朔上し山の中で出土している。
除雪車編成の展示。
考古展示は僅かです。 |
|
|
|
|
|
目次
|
00はじめに
01外観
03入口展示
101⃣北国名寄
20朔北の大河「天塩川」
34海流と気候
35立体地図
36地形ジオラマ
37北緯44度の名寄
50展示資料解説書
51先史時代
60近世ナヨロ
100旧石器時代
1002⃣北の先史
102最終の氷期
110気候と先史人
111石刃石器の使用
120石刃剥離 押圧剥離技術
130考察 石刃
131石器の地域差
133石器の種類
135剥片石器の種類
137石刃技法とは
139石刃石器
140ナイフ形石器と北海道石刃
141ナイフ形石器 |
200縄文時代
210縄文早期前半
縄文前期
縄文晩期
230土器
231前期 日進遺跡群
233中期 智東遺跡群
235後期~オホーツク期
236サハリン島渡来
南貝塚式土器
※資料 南貝塚式土器
※考察 南貝塚式土器
250石器
252さす・あける
253石刃鏃
254きる・けずる
255つく
256一括出土石器群
257はがす
258きる・けずる
259たたく・わる
※キヌタ状石器 |
300アイヌ文化期
3003⃣カムイの森
310アイヌ祭事用具
320風俗画とくらし
330交易
340漆器
350アイヌ装束
360風俗画
くらしの中の民具
370民具
|
390冬の森林
393雪の下の動物たち
395冬ごもりのヒグマ
400松浦武四郎
5004⃣寒さ・人・くらし
1⃣住まいの遷り変わり
『竪穴の住居』
60開拓団体北国に向かう
601開拓母村の気候風土
602『土間床の住居』
※資料 チセの建て方
6032⃣暖をとる
604『塚石の家』
6053⃣寒さを防ぐ
1000除雪車編成の展示 |
|
|
はじめに
|
名寄市の特徴
|
名寄市北国博物館の特徴
|
名寄市北国博物館は、北海道名寄市緑丘にある博物館で、次のような特徴があります。
・「冬・雪・寒さ」をテーマにした常設展で、北国の冬の生活文化や自然現象などが展示されている。
・市民から提供された生活資料や文献、考古・地学資料などが約10万点収蔵されている。
・名寄公園の南側、ミズナラの原生林に囲まれている。
・名寄駅から徒歩圏内にあり、駐車場も完備されている。
・室内には手作りのおもちゃがある。 |
|
「ナヨロ」の意味
|
・アイヌ語の「ナイ・オロ・プト」が語源です。意味は「川の合流するところ」で、天塩川と名寄川が合流する地点があります。
この「ナイ・オロ・プト」が「ナヨロフト」と簡略され、「ナヨロ」となりました。
「川の出会い」といった意味でしょうか。川船での交通が盛んだった時代には、分岐点を意味したのかもしれません。
・ナヨロとは、サハリンのアイヌ集落の名前です。 Ильинское (Il'inskoe)=イリンスコエとなっている。
イリンスコエはモスクワ近郊の小村でその名を付けた移住者がいたのでしょう。
サハリン ナヨロは、サハリンアイヌの二大中心地の一つでした。 |
|
|
|
01外観 街の中にある小高い丘の上に建っています。「北国」をテーマとした博物館です。
|
03入口展示
名寄の冬を楽しく暮らす条例
|
(前文)
氷点下30度のしばれ、青空に映えてきらきら輝く樹氷、厳寒の朝夕に姿を現すサンピラー、このような自然環境の中で、私たち名寄市民は真っ白い雪像がならぶ街並みをつくるなど、北国特有の生活と文化を創りだしてきました。
しかし、雪や寒さとの付き合いは、いまだ必ずしも十分とはいえません。私たちは「名寄の冬をもっと楽しく、より快適に暮らすこと」を願っています。
私たちは、一人ひとりの創意と工夫、責任と役割により、雪が多く寒い気候・風土に適した、名寄らしい魅力のある生活環境と文化の創造に努め、より快適で楽しく暮らせるまちづくりをすすめるために、この条例を制定します。
(本文)リンク |
|
|
101⃣北国名寄 A Northern City-Nayoro
|
大陸の東にある島国・日本は、海流や季節風の影響を受けやすく、四季の変化が比較的明瞭です。冬季に雪が降るのは本州の日本海側と北海道で、中でも北陸・東北は湿った雪の豪雪地帯で「雪国」と呼ばれています。北海道も日本海側に多く雪が降りますが、特に北海道北部の内陸は、多雪の上にマイナス30度を超える寒冷が加わります。この多雪・寒冷な冬を待つのが「北国」です。
名寄はその北国あっても、1年の気温差が78度を超える寒暖差日本一の地です。これは道北地方が東西を性質の違う海に挟まれ、さらに両側を山地で仕切られた中に盆地があると言う気候と地形によるものです。
また、世界的に見ると、同じ緯度のところで、名寄は寒い方ですが、冬の多雪と夏の高温のおかげで、亜熱帯原産の米がとれます。
冬は山地をひとつ超えただけで流氷が見られる珍しい立地条件のところです。これらの四季の変化と寒暖差が北国・名寄の風土を作り出しています。 |
|
KEY WORD
Island country and ocean currents
Seasonal winds and changes of the four seasons
Temperature difference between the warmest and coldest days, 78℃
Much snow and cold weather
Mountains and basins
Rice cultivation and ice floes |
キーワード
島国と海流
季節風と四季の変化
寒暖差78度
多雪と寒冷
山地と盆地
米作と流氷 |
|
|
12
|
|
20朔北の大河「天塩川」 流域面積5590㎢、流路延長256km
|
天塩川は、信濃川、利根川、石狩川に次ぐ日本有数の大河です。
豊かな流れは、流域のおよそ8.6万人の人々の暮らしや、農林水産加工業、酪農などの産業を支えています。
※天塩川は最上川同様に北流する大河です。氷点下30℃にもなるこの地では、最上川に張る河川氷を流れに沿って切り出し、大河の両岸に渡して氷の橋にしたりします。本州の人間には想像もつかない極低温の世界の暮らしが行なわれています。「NHK特集 天塩川」
黄河がそうであるように、250kmも北流する河川は、冬には河口付近で氷結し、春には河川氷が流路を塞いで洪水が起きるのではないかと思いますが、そのような懸念は必要ないようです。 |
天塩川は、美しい自然に抱かれた、日本最北の大河です
|
天塩川は、北海道北部に位置し、その源を北見山地の天塩岳(1558m)に発しています。
深い山間を西北に流れ、剣淵川、名寄川など大小さまざまな支流を合わせ、日本海へと注ぎます。
その大いなる流れは「朔北の大河」と呼ばれ、北の大地に豊かな恵みをもたらし、
北海道北部における社会、経済、文化の基盤形成、農林水産業を始めとした産業の発展、
都市の成長を支えています。流域は3都市8町1村からなり、およそ8.6万人が大河と共に暮らしています。 |
|
北海道命名の地
|
松浦武四郎はこの地でアイヌの長老の話を聞き「蝦夷」を「北加伊道」と命名を考えました。 |
|
風連20線堰堤 写真地図
|
風連20線堰堤
ここより下流には堰堤がなく、
河口までノンストップで
川下りができます。 |
|
風連20線堰堤は、北海道名寄市にある天塩川に設置されている堰堤です。
天塩川河口から157.70kmの地点にあり、増水時には移動可能な施設です。
風連20線堰堤周辺の特徴は次のとおりです。
・河口から157kmの距離を自由に行き来できるため、海と川を行き来する回遊魚が豊富です。
・魚道を設置することで、魚類の移動がより容易になります。
・河口から160kmまで堰もダムもなく、ノンストップで最も長く下れる川として知られています。引用 |
天塩川
|
|
34海流と気候
|
35立体地図
|
名寄盆地は東西圧力によって、西に天塩山地、東に北見山地、南に幌内山地、に囲まれた低地であり、
内陸性、盆地気候特有の冬の寒冷と、夏の高温が特徴です。ただしここでは夏の気温はそれほど上がりません。 |
|
36地形ジオラマ
流氷の南下により大陸サハリンと繋がった北海道
|
寒流と冬に流氷の海
|
名寄から北方向のジオラマ
|
名寄付近 |
サロベツ原野
天塩平野 |
北西風吹き付ける
日本海側(砂丘地帯) |
|
37北緯44度の名寄
|
名寄から緯度に沿って地球を巡ってみれば同緯度でも標高や地形により気候に違いがあります。
名寄と似たような気候では、カナダのハリファクス・リンゼイ、中国のハルビンなどの大陸の東にあるところです。
標高の関係でやや寒く乾燥しているのは、アメリカのイエローストーンと中国のウルムチ、
逆に暖かいのがルーマニアのブカレスト、イタリアのジェノバ、フランスのボルドーなど、ヨーロッパ大陸の都市です。
半球儀の中にある赤丸を覗いてみよう。(※覗いてません。すみません)
名寄に近い緯度(北緯44度)にある世界の都市が見えます。 |
|
|
|
50展示資料解説書
館内に置かれた、無料のパンフレットです。考古資料は少ないのですが、しっかりした解説書が配布されています。 |
50名寄地方の先史時代 |
51天塩川と先史・先住の人々
|
52
|
周囲の山々と天塩川がおりなす道北内陸部のナヨロ地方。 農業を基本とした和人(本州からの移住者)が入植するはるか前に先史 (大昔の人びと)、 先住 (アイヌの人びと)の時代とつづく人間の生活 が営まれていました。 これらの人びとが居住した時代の自然とくらしはどのようだったでしょうか。
(1) 無土器時代 ―最初に住んだ人々―
(12,000年前)
北海道に最初に住んだ人間は今から30,000年ほど前、氷期で海水面が低下し 大陸と陸続きとなった海底を、マンモスなどを追いかけて北から南下した人々と考えられています。
それは大昔の人々が使った道具や生活の跡が長い年月の 間に土中に埋もれている所 (遺跡) から掘り出される道具類 (遺物)や生活の 跡(遺構)により明らかにされています。 道北地方は今日まで火山灰があまり降っていないために、大昔の遺物や遺構は地下1m以内に埋まっています。
ナヨロにもこうした人々が足を踏み入れたのは今のところ12,000年前と推定 されます。この頃、谷底を流れる川の水量は少なく、周囲の山々の荒けずりな山肌には寒い気候を反映して寒帯の樹木が生育していたことでしょう。
盆地の平地もわずかで、人々は川の近くの比較的標高の高い台地や丘陵の上 の平地をその生活の場としており、 日進・旭東・朝日などにこの時代の遺跡が 見られます。 日々の生活は、大形、 小形の野生動物を追う狩猟を中心に、小集 団が移動生活をしていました。 まだ粘土をこねて作る器(土器)は知りません でしたが、硬く割れやすい石をたくみに割り取り、石の道具 (石器)を作る石 器製作技術は特別に発達しました。 切る、 削る、 刺すなどの機能をもった石器 は単独でも使われましたが、 特にこの時代に特色的なのは、数センチの細長い 細石刃と言われる石器を木や骨に溝を掘って埋め込んで使う組合せ道具です。
木や骨は柄の役割で、 細石刃が切る役割をするものです。 これらの石器の材料になる黒曜石 (十勝石)は、主に山を越えた湧別川の方から運んできており、また、ナヨロ一帯にも小さいながら原石が産出します。 近くでは名寄川上流から産出する硅岩という岩石も活用されました。
(2) 縄文時代 ―土器を使う人々―
(10,000年~2,000年前)
縄文時代は読んで字のごとく縄目の文様をつけた土器に代表される時代で、 その文様の種類から早期、 前期、中期、後期、晩期の5期にわけられます。
時 期的な差はありますが、 日本全国にわたり約 8,000 年間も続いた文化です。土器の使用の他に鳥や小動物をとる弓矢、 魚をとる網、 打ちかいただけでなく磨いて作る磨製石器などの生活用具の発達も見られます。 |
|
(1)無土器時代 |
(2)滋養もン時代 |
無土器時代の石器
縄文早期の集石墓
縄文前期の土器片
(押型文様)
|
|
|
53
|
早期・前期 ―古名寄湖畔での生活―
(10,000年~6,000年前)
氷期の終りとともに寒さがゆるみはじめたのが早期の時期です。 道東北部には平底土器が、 道南西部には尖底土器の形が流行し、ナヨロでは平底の土器片 智東 日進、旭東の川近くの台地で出土しています。 昭和54年の発掘調査で は、ナヨロで最も古いと思われる貝殻の文様を施した早期の土器を供えた集石 墓が見つかり、この頃の埋葬法を知る貴重な発見となっています。
前期はひき続きより温かくなり、とけた極地や山の氷は海水面の上昇を引き おこし、海岸の低地帯や川筋にそって海水が増える縄文海進がおこります。
名 寄盆地もこれに伴い現在の市街地のある平地の部分には水がたたえられていた と推定されます。 これが 「古名寄湖」 とでも呼ばれるもので、 そのため人々は
河岸段丘や丘陵上の小高い場所に居住しました。 この時期の遺跡としては昭和 35年に発掘調査された日進の丘陵一帯の遺跡があります。 日進遺跡の土器は厚
底の尖った形で、 荒い縄目の文様が特色で、 木の実などをすりつぶす石杵と 呼ばれる石器も大量に出土しています。 またこの時期に、数は多くありません
が、綱をまきつけたような綱文や丸棒に文様を彫り込み回転させた押型文など の土器も昭和62年の調査で出土しています。
中 期 ―原始河川と湿原の中で―
(5,000年前)
前期末から中期はじめにかけてピークだった縄文海進は気候の安定化ととも に水がひきはじめ、 平地には谷から土砂が押し出され堆積しはじめます。
この 頃には現在の天塩川や名寄川の原型ともいえるおおまかな川筋ができ、 縄文人 は川やまだ水が残る低地の湿原などに獲物を追い求めていたことでしょう。
特 に、川の両側に谷が迫った智東では早くから川の流路が固定されていたため、 川岸を中心に中期の人々の遺跡が多く残されています。 この時期の土器は筒形
を基本としたたて長の土器で、縄目の他にヘラや半円形の管での文様もつけら れています。 川岸に遺跡が多く立地することから漁撈がさかんだったとみえ、
網につける石のおもりも見つかっています。 また昭和54年の発掘調査では住ん だ家の跡も残っていました。 この住居跡は地面をまるい形に1mほど掘りくぼめ、それを床と壁にしてその上に屋根をかけた竪穴住居です。鮭、鱒を中心とした漁撈、野山の野生動物の狩猟、そして植物採集と比較的安定した生活が営まれていた事が想像されます。 |
|
早期・前期 |
中期 |
縄文前期の石器
縄文中期の土器
縄文後期の土器
|
|
|
54
|
後期・晚期 ―天塩川の出現―
(4,000年~2,000年前)
温暖だった中期に比べると現在に近い気候に近づいてきたのが後期以後で す。現在の地形のほぼ原形が出来上り、 天塩川は自由曲流をくり返しながらと うとうと流下していました。 後晩期はやや安定した中期の生活がくずれ、 小 集団に分散しはじめた時代と言われており、ナヨロでもこの時期の遺跡は数ヶ 所のみでその文化内容はあまりよくわかっていません。 しかし、 昭和41年から 同44年に発掘調査された智東4遺跡では墓状の穴と供えられた後期の土器が見 つかりました。 土器には赤色の色がつけられており、 死者に対する何かの儀式 が行われたと考えられています。 晩期は土器片が少々見つかっている程度です が、平地の川近くの小高い所にも遺跡が見つかっており、居住圏の広がりが見 られますがいずれも小規模のものだったようです。 土器の形も多様になり、目 的に応じた器形のものが作られ、日常生活用と儀式用の区別も生まれ、装飾品 や土偶などが作り出されます。 このように生活の中で宗教的な儀式による規制 も強まります。
(3)続縄文時代 ―鉄器の流入―
(1,500年前)
紀元前3世紀ころ、北九州に大陸から鉄器と水稲耕作技術をもった文化が伝 えられ、紀元3世紀までに気候の温暖な本州以南に広がります。これが弥生時 代と言われ縄文時代にとってかわりますが、北海道の寒冷な気候は稲作の北進 を許さず、わずかに鉄器のみが流入し石器との併用がなされます。 よって生活 様式もほぼ変わらず狩猟採集生活が続くため北海道ではこの時代を続縄文時代 と呼んでいます。 この時代の土器の文様は道南部を中心とした恵山文化と道東 北部に広がる江別文化の二つの文化圏に分かれます。 人々は海岸沿いや湖沼岸 に好んで住んだらしく、 また気候が少し寒冷だった事もあって、 江別文化圏に 入るナヨロにはあまり遺跡が見つかっておりません。 わずかに天塩川と名寄川 の合流点近くの平地で、 お椀形をした小形の土器がほぼ完全な形で見つかって います。 |
|
後期・晩期
|
続縄文 |
石器の使用例
続縄文時代の土器
擦文時代の竪穴住居跡 (平面図)
|
|
|
55
|
(4)擦文時代 ―川筋のムラの生活―
(1,000年前)
稲作により余裕のできた本州の社会では、死後に大きな墓に葬られるような 首長があらわれはじめました。 この紀元4世紀から7世紀の時代を本州以南では古墳時代と呼びます。 同時に北海道への文化の影響も増大します。鉄器は道 具のほぼ大部分を占め、 家の形も四角形の竪穴に4本の柱をたて、壁の一辺に 煮たき用のカマドを作りつけたものになります。 また土器も縄目の文様が姿を けし、 本州の土器に影響され、薄く、 全体を擦って整形し、 刻線の文様をつけ た土器になります。 このように古墳文化の余波を受けながら北海道特有の経済 基盤の上に成り立っていたのが擦文時代の生活です。
この時代の遺跡は海岸沿いと大河川の川筋に沿ってみられ、ナヨロでも昭和 53年に発掘された智東8 遺跡では12軒の家の跡が見つかっています。
気候も地 形も現在とほぼ変わらなかった約1,000年前の天塩川筋のムラでの擦文人のくら しぶりはどうだったのでしょうか。 同時期に居住したのは2、3軒の家で、狩猟採集の他にソバの原始的栽培をしていた証拠が、
花粉分析からわかっていま す。 また糸をつむいで織物を作ったり、 鉄器で木を加工して多彩な生活用具を 作り上げていたようです。
また、この同時期に北海道北東海岸の流氷が接岸する範囲一帯に漁撈を主と する北方系の民族が南下し特異な遺跡を残しています。 この人々と文化をオホ ーツク文化と呼び、 擦文文化を併存しますが12世紀頃急に消滅します。 謎の多 い文化ですがその活動の場所が海岸沿いに限られており、 天塩川内陸部にまで 達していたかどうかは今のところ不明です。
(5) アイヌ時代 ―土器から鉄器へ―
(600年前)
本州では武家社会が出現する鎌倉時代の頃、 カマドで土器を使っていた擦文 人に大きな変化がおきます。 それは炉に鍋などを上から吊り下げて煮たきする
方法で、それには取手のついた形の土器が必要です。 そのために鍋の内側に鍋
つるの取手のついた内耳土鍋が出現し、やがて鉄鍋に変わっていきます。 ここ にきて約10,000年続いた土器の使用は終りをつげますが、この事は同時に鉄の 移入により本州との経済的な結びつきがより強まったと言えるでしょう。 この 過程でアイヌ文化が生まれたと考えられています。 アイヌ文化は前半の中世と |
|
擦文時代 |
アイヌ時代 |
擦文時代の土器の色々
擦文土器の文様(高坏)
アイヌの小刀
|
|
|
56
|
(5) アイヌ時代 ―土器から鉄器へ―
(600年前)
本州では武家社会が出現する鎌倉時代の頃、 カマドで土器を使っていた擦文 人に大きな変化がおきます。 それは炉に鍋などを上から吊り下げて煮たきする
方法で、それには取手のついた形の土器が必要です。 そのために鍋の内側に鍋
つるの取手のついた内耳土鍋が出現し、やがて鉄鍋に変わっていきます。 ここ にきて約10,000年続いた土器の使用は終りをつげますが、この事は同時に鉄の
移入により本州との経済的な結びつきがより強まったと言えるでしょう。 この 過程でアイヌ文化が生まれたと考えられています。 アイヌ文化は前半の中世と後半の近世に大別され、和人の書いた文献に現われるのは近世アイヌで古い時
期の中世アイヌの方は不明な事も多くあります。 アイヌ文化のにない手はアイ ヌ人ですが、その直接の祖先は擦文人につながります。
中世のアイヌ文化は鉄器類などは本州からの移入品の上に成り立っています が、ユーカラに代表されるような豊富な口承伝承や熊送りを中心とした高度な 精神文化、芸術性と機能性をそなえた生活用具などは生態系に根ざした狩猟採 集経済を中心に展開されていました。 四季を通じての生活は自然と一体となっ ており、主要な食料であった鮭鱒の捕獲地などを中心に集落 (コタン)が営ま れ、村長を中心として川筋や地域毎にまとまっておりました。 また集落の近く の小高い場所にはチャシと呼ばれる共同の聖域があることがあり、 砦、 祭場、見 張り台などに使われておりました。
天塩川筋のアイヌは天塩アイヌと呼ばれて一つのまとまりをつくっていたと 思われますが、 くわしい事は記録もなくよくわかっていません。 ナヨロでは智 恵文の天塩川筋と名寄川筋にかけて集落が多くあったようです。 またチャシも 智北と朝日に発見されており、さかんな生活ぶりが想像されます。 江戸時代に 入ると道南の渡島地方に拠点をもった和人が奥地の天塩川内陸部にも入り込み、 鮭や獣皮の買い付け、 交易がさらに進むなかでアイヌの元々の経済、社会体制 は崩れていきます。
北海道の先住の人々としてのアイヌと創造されたアイヌ文化は民族文化財と して有形、無形に存在しますし、アイヌ語地名などは今日の生活と深くかかわ って残されています。
現在、名寄市内ではこうした先史、先住の人々が残した遺跡が約120ヶ所見 つかっており、 出土品は当時のくらしぶりを知る貴重な郷土資料となっています。
■お願い■
ここで述べた遺跡や遺物は「文化財保護法」という法律によって国民共有の財産として 保護されていますので、 許可なく掘ったりすることはできません。
■もし、畑などで土器や石器を拾ったり、個人でお持ちの方は、いずれも先人の生活を知る 貴重な資料となりますので下記に連絡いただければ幸いです。
■遺跡は、ひとたび壊されると二度ともとにはもどりません。 歴史を正しく後世に伝え、 これからの未来を考えるためにも文化財保護に市民の方々のご協力をお願いします。
展示解説書
ナヨロ地方 の先史時代
編集・発行
名寄市郷土資料室 〒096 名寄市大通北1丁目 (016543-2111(内) 463 発行日
1990年3月31日
印 刷
吉川印刷(株) |
|
|
60近世名寄国とナヨロ
■開拓前夜のアイヌと和人 |
61
|
開拓前夜の天塩川 (今から400~100年前)
北海道における近世(江戸時代)は渡島半島に拠点を築いた松前藩と海岸沿いに勢 力をのばした和人商人達による、アイヌの人たちの生活・文化の崩壊の過程です。そ の以前より生活必需品の大部分を和人との交易に依存していたとはいえ、対等な条件 のもとでのアイヌと和人の交易地であった蝦夷地が幕藩体制の中に組み入れられ、和 人開拓者を受け入れるようになるまでの天塩川筋とナヨロはどのような様相だったの でしょうか。
[1] 近世の天塩国支配 -和人経済の進出
中世より東北地方との交易地であった蝦夷地ですが、 その東北の一豪族であった蠣 崎氏が松前に拠点を築き、時の統一国家の徳川家康に認められて松前藩となります。 土地と農民及びそこから産する米がない松前藩は、道内の大河川の水系を主な単位と してその水系内のアイヌの人たちと交易する権利を家臣に与えるという蝦夷地独特の 方法を生み出しました。 アイヌの人たちの独自の狩猟採集生活の一部をつき崩す原因 となったこの制度を「商場知行制」と言います。 この交易方法は、知行主となった松 前藩の武士が定期的に交易地を訪れ交易をするいわば武士の直接商法です。天塩川水 系の交易権のある「天塩場所」は河口の天塩に慶長年間(1596~1614年)に設けられ ました。この頃の天塩アイヌは、余市、 宗谷、 利尻など日本海岸のアイヌをまとめた 山丹交易の交通路の勢力圏にあり、大陸交易品と天塩川筋でとれる魚、獣皮等が交易 品となっていたと思われます。
こうした中で、アイヌと和人との利害の対立などが原因で起ったシャクシャイン の蜂起なども、最後は和人との交易にたよらざるを得ないアイヌの人たち自らの矛盾
のためその敗北後、松前藩が新しい蝦夷地支配として定めたのが「場所請負制度」です。
これは商場知行主による直接商法をやめ、交易を商人 に委託して実施する方法です。 委託された商人を場所請負 人といいますが、 一見合理的に見える制度ですが、交易地 である何口の運上屋を中心に利潤のみを追求する商人の独 占となり、アイヌの人たちの生活を根底から崩壊させる元 凶となりました。この制度になってからの天塩場所の知行 主の初まりは松前貢で、その場所請負人は紀州出身の栖原 角兵衛でした。栖原屋は、天明6年(1786)にその場所を 開設して以来、明治に入り場所請負制度が一応廃止になっ た以後も漁場持として100年近くにわたり天塩場所を経営 しています。 |
近世・名寄国とナヨロ
|
開拓前夜の天塩川
(1)近世の天塩国支配
|
近世ナヨロ付近の地図 |
|
|
|
62
|
〔2〕 天塩川流域の探険 ―内陸開拓をめざして―
近世の松前藩と幕府の相互支配も、実質的に目のとどく 範囲は道南と海岸沿いの一部でした。 まして道東北内陸部 のアイヌの人たちの様子などはいずれもかいもくわからな
いのが実状で、かえって和人商人達の方がその実状に通じ ていたのかもしれません。 しかも、17世紀終りの幕藩体制 がやや行き詰っていた中、当時のロシアの南下政策が明る
みに出るや幕府はその対応に迫られる事になります。手は じめに、その実状調査のため 1,800年前後から松前藩や幕 府の命による探検、調査がはじまり、寛政9年(1797)に松
前藩士の高橋壮四郎以下3名が天塩川流域に足を踏み入れ た最初の探険と言えそうですが、 それらの記録類はいずれ も簡略なものです。
ロシアの南下政策が転換された後、 幕府は本格的な蝦夷地内陸開拓にのり出し、この時期に随一の「蝦夷通」であ った松浦武四郎を起用してその調査にあたらせます。すで に個人で数回渡道していた武四郎でしたが、 安政4年(1857)の天塩川流域の調査は幕府の依頼によるものです。 近 世における蝦夷地調査において松浦武四郎の記録、地図類 にその正確さ、豊富さにおいてまさるものはなく貴重な流 域史の資料です。 天塩川のそれは『天塩日誌』や『丁巳 天之穂日誌』として残されており、アイヌの人たちを道案 内として、当時の自然や地名、交通路の詳細な記述とアイ ヌの人たちの風俗とその貧しさについて詳細に記録してい ます。開拓使が設置されてすぐには、その役人、佐藤正克 が若さと使命感に燃え、 明治5年(1872)10月から翌年1 月にかけ名寄川沿いの越冬小屋(名寄市朝日拓進川河口付 近)で越年し川筋のアイヌの人たちに助けられながら調査をしており、その記録 『闢幽日記』 も重要な記録です。 明治10年代以後の調査は、開 拓使による開拓入植直前の目的をもった個別調査が多くなります。 その内容はアイヌ 戸籍調査、地質鉱物調査、 殖民地選定調査、 屯田兵用地調査などで、わずかに明治27 年(1894) の約1ヶ月にわたる興津寅亮らの調査が、これらの個別調査の成果を引用し た総合的な調査と言えそうです。
これらの記録類には名寄盆地の広さや交通路の要衝である事から、重要な地域として ナヨロが紹介されています。 また自然界の恵みが豊かだったとみえ、
鮭鱒が遡上する 名寄川筋を中心にアイヌの人たちが多く居住していた事がその記述からわかります。 |
|
63天塩川内陸部踏査の足跡
天塩川内陸部踏査 |
〔天塩川内陸部踏査の足跡]
<凡例>
(1857年)松浦武四郎の踏査
(1872年)佐藤正克の踏査
(1894年)興津寅亮5の踏查
三者共通の経路 |
|
64
|
〔3〕 開拓前夜の天塩川アイヌ ―搾取と同化―
場所請負制度も、はじめの頃は地場生産物とアイヌの人たちの必需品の交換交易の 形態で行われたと思われます。 しかし、 知行主に納める場所の受託料である一定の運
上金と実際の商売の利益を大きくするために「アイヌ勘定」などと呼ばれた不正な交 易が日常化してきます。 また場所の生産を上げるため、 みずから大型の網と新しい漁
法を導入し、場所請負人直轄の漁場の経営がはじめられます。川筋の内陸の集落(コ タン)よりつれてこられた働き盛りのアイヌの人たちは、 河口の漁場の労働力として
組み入れられ、 詐欺的な借金の肩代りとして不当な賃金で働かされるようになります。 こうしたやり方により、鮭鱒漁、ニシン漁に半奴隷的に働かされ、冬になっても浜の
仕事にしばりつけられ、川筋の母村に帰るのもままならない状況が作られていきまし た。
これらの状況は、 アイヌの人達の人口の減少として数字にも表われており、天塩川 筋では 1,600年頃に約1,000人以上も数えたアイヌ人口が、
1,800年代前半には500 人以下に半減し、1,800年代後半には、わずか 150人程度になっています。この激減 の原因は、青壮年男女の出稼ぎや死亡による出産率の低下以外の何ものでもありません。天塩川筋のアイヌの人たちのコタンの営みやそこに住む家族の営みは、19世紀中頃をもって消滅させられたと言ってよいでしょう。
道北地方の内陸部であるという地理的 条件から、比較的遅くまでアイヌの人た ちの独自な営みがあったと言われる天塩 川流域も、近世の和人の政治的、経済的 支配の展開は全道的に見れば少しずつ遅 れてやってきましたが、 明治の声を聞く に至って、 和人開拓入殖の鍬音は確実に 近づいていたようです。 |
開拓前夜の天塩川アイヌ
|
|
|
|
<展示解説書 >
近世 天塩国とナヨロ
明治期のアイヌと和人(名寄?)
■編集・発行 ■
名寄市郷土資料室
096 名寄市大通北1丁目 (01654)3-2111(内)2563
■発行日 1993年3月31日 印刷■ 吉川印刷(株) |
|
|
|
|
旧石器時代
北海道の旧石器時代は約2万2000年前から始まったといわれる。平均気温は現在よりも約7~8℃低かったと考えられる。
旧石器人の住居跡として、
千歳市祝梅三角山遺跡(消滅・砂丘上遺跡)、からは約2万年前の石器が発見されている。
上士幌町嶋木遺跡からは約2万年前のシベリア系の石器が発見されている。(十勝平野の真ん中からシベリア系石器)2.6万年前
シベリアから南下してきた旧石器人の痕跡。 |
1002⃣北の先史 Northern Prehistory
|
地球上の自然の恵みで生活する人類の活動は、気候の変化に大きく影響されてきました。特に寒冷化は、海水の凍結による陸地の拡大とともに、食料を求めた人と動物の移動をもたらします。北海道では約4万年前の最終氷期の始まる頃にシベリアから陸化した海峡と樺太経由でマンモスなどの大陸の動物群が南下します。
人類もそれに前後し、北海道にはシベリア的な石器製作技術を持つ人々が北回りで入りました。最も寒かった2万年前以降、徐々に温暖化し
島国となった日本列島の先土器時代には、南北から入った文化により東西の2文化圏に分かれます。その後8千年続いた縄文文化は地域的な特色を持ちつつも全国的な広がりが見られます。
米作の文化が本州以南へ入った2千年前より、北海道は狩猟採集文化のままですが、本州の文化圏と小さな気候変動の影響を受けながら、続縄文、擦文、オホーツク文化の特異な展開を遂げ、アイヌ文化のもとを築き上げます。 |
|
KEY WORD
Gracial period
Expansion of land
Mammoths moving south
Production technique of stone implements from the North
Warming and cooling
Hunting and gathering life |
キーワード
氷河期
陸地の拡大
マンモスの南下
北からの石器製作技術
温暖化と寒冷化
狩猟採集の生活 |
|
|
北の先史 (館内配布資料による)
|
=北の先史=
みなさんはマンモスという動物を知っていますか。 この大きな動物
はむかし、 北海道と大陸が陸つづきの時にやってきたものの一つな
のです。大きな絵は約4万年前の名寄の夏の終わりごろを想像して
表したものです。また、 ヒグマ、 シマリス、 ナキウサギなどもこのこ
ろ北海道にきた動物なのです。
北海道に人がやってきたのもこのころです。 当時の人びとは石器や
土器を作り、狩りをしながら生活していました。
気温が暖かくなり、 植物や木も増えました。 人びとは村をつくり
集まってくらしはじめました。 名寄市内にはそのころの人びとのくら
しのあとがあります。 石器や土器もそこから発見されたものです。
形にどんな特色があるかよく見てください。 |
|
101
|
102最終の氷期 The Last Glacial Period
|
約10万年前以降「氷河時代」の3番目の氷期の後の間氷期を経て、気候は徐々に寒くなり、約6万年前より最終の氷期であるウルム氷期に入ります。
この頃より山地にある氷河が拡大し、アジア大陸の北東部・シベリア方面からは、ヒグマ、シマリス、クロテンそしてナキウサギなどの動物が餌を求めて南下します。氷河の拡大は海面を低下させ、現在でも水深10mに満たない間宮海峡や45mの宗谷海峡は海水がなく海底が陸地となっていました。北海道とアジア大陸を結ぶ「北の陸橋」とでも呼べます。
約4万年前頃までは先の動物のほかに野牛(バイソン)や、マンモスなどの大型の動物、マンモス動物群も南下してこの大地を踏みしめていたと言われています。 |
最終の氷期
|
最終の氷期
|
10万年以後の海面変化
↓ 地図の時期
↓壁画の時期 |
・9万年前に前兆的小氷期
・8万~1万年前まで氷河期。
・1.8~1.7万年前海水準最低期
・4万年前壁画の時代(=マンモスの時代)
・2万年前地図の時代(=最寒冷期) |
|
103 4万年前の夏の終わり
|
左側の壁画(下図マンモス)は名寄の平地部分が現在より約500m程高い標高の気候にあったと推定される、4万年前の夏の終わり頃の想像図です。
その後気候はどんどん寒くなり、約2万年前頃にはこの10万年の間で最も寒く、陸地が最も拡大した時を迎えました。
それが左上の地図(上図倒立日本地図)ですが、その頃の名寄は、緯度で約10度高く、年平均気温で約6度低い現在のサハリン北端部の気候と同じであったと考えられています。 |
|
104最終氷期の最寒冷期(2万年前頃)の日本列島の植生図
Vegetation Map of the Japanese Archipelago in the Coldest Era of the
End Glacial Period
|
それが左上の地図(下図倒立日本地図)ですが、その頃の名寄は、緯度で約10度高く、年平均気温で約6度低い現在のサハリン北端部の気候と同じであったと考えられています。 |
|
|
110気候と先史人 Climate and Prehistoric People
|
3万年以降の氷河期の寒冷気候の中で、 石器のみで生活した人々の石器作りは「石刃技法」と呼ばれます。
石の原材 (石核) から連続して剥ぎ取り、 同形の縦長剥片(石刃)を効率よく製作するもので 「北からの技法」 です。
約1.4万年前頃まで 北海道は石刃が主体で、本州では石刃の片方をナイフの刃にする「ナイフ形石器」が分布します。
1.4万年から1万年前の間は石器が小形になり、組み合わせて使う「細石刃」が現れます。
この技法は東北アジアが起源で樺太経由の北回りと朝鮮半島経由の南回りで日本に移入されました。
亜寒帯の針葉樹林の北日本は 「北からの狩人」による「クサビ形」の石核が、
寒冷帯の広葉樹林の南西日本には 「半円錐形」の石核が別れて分布します。 |
気候と先史人
|
まとめ
3~1.4万年前…北海道=石刃技法。本州=ナイフ形石器
1.4~1万年前…細石刃 北日本=クサビ形石核、 南西日本=半円錐形石核
ぎもん
3~1.4万年前の北海道の石刃とはどんな石器だったのか。
※旧石器時代の 石刃技法はバイカル湖からシベリア経由。 ナイフ形石器は黄河(華北)で誕生した。 |
|
111石刃石器の使用
石刃技法の地域差
細石刃文化の流れ
細石刃文化の流れ |
|
半円錐形・柱状型…九州島
半円錐形・柱状形…静岡県
楔型・舟底形…朝鮮半島対馬海峡~沿海州・シベリア~北海道・東北・北陸 |
晩氷期の日本列島の植生
|
|
120石刃剥離 押圧剥離
|
※石刃は黒曜石などを鹿角で叩いたり、押し付けたりして剥離するという説明を聞いていました。
しかし、中には20cm以上もある石刃は、一瞬の打撃で分子結合がはずれるはずはないと確信していました。
ここに来て、初めて押圧剥離の実態を知ることができました。
手で、じんわりと、ゆっくりと、石核に力を加えていき、岩石の中の分子結合に加圧して結合をはずし、すべり面をつくっていくには、
手の力だけでは困難です。
鹿角を先端に取り付けた、大型の剥離器を使って、丁寧に加圧し、分子結合面を滑らせることによって長~い 石刃を取ることができる。
このような技法を展示しているのは、この北国博物館だけです。そして、そのような剥離法の主張もこの館だけです。素晴らしい展示です。 |
|
130※考察 石刃 (一般的な意味ではなく、北海道特有の刃器) |
131石器の地域差
|
ナイフ形石器は、本州では、台形石器のあとに出現する、肉切りナイフに、槍先にと万能に近い働きをする石器でした。
一年あまり北海道のページを編集しながら気が付きませんでしたが、北海道ではナイフ形石器という言葉がついぞ出て来ず、それが本州のものであることを110「気候と先史人」で始めて気付きました。北海道の刃器は石刃というのだそうです。
で、石刃て何?
旧石器時代の細石刃(2万年前)。縄文早期の石刃鏃(8千年前)。これらの石器製作では石刃剥離技術によって石器が作られており、奇妙な認定基準(長さは幅の2倍以上。両側縁が平行)までがある、薄片剥離技術でした。
しかし、3万年前には、これらとは異なる石刃技法があり、剥片ではなく、かなり部厚めの大きな破片が剥離されていました。
石刃剥離技術は北海道から九州島まで、多少の地域差(瀬戸内)はあっても、伝わっていて、石器は石刃から作られていました。
にもかかわらず、北海道は石刃石器。本州はナイフ形石器というのだそうです。もちろんナイフ形石器も石刃から作られています。
石刃から作られている石器を本州ではナイフ形石器と呼び、北海道では石刃と呼ぶ。石刃を石刃と呼ぶって、なに(・・? |
|
133石器の種類
|
いきなりネットで石器の種類と入れると、打製石器と磨製石器などと出てくるこれは縄文時代だ。旧石器時代を付け加える。
旧石器時代の石器には、礫石器と剥片石器があげられる。
礫石器は用途に応じた石をそのまま利用するものだ。握りこぶし大の敲き石から動物の骨を打ち割る重量石器まである。
石核石器は礫の一部を打ち欠いて、打撃の威力をあげたもので、剥片を剥がしたために石核という。石の芯という意味が核。
剥片石器は打ち欠いた礫の破片を利用したものだ。剥片は偶然の産物でそれで作った石器には同じ形のものがなく、再現性に乏しい。
同形の便利な形の道具を入手しようとすることは困難だ。※1(不定形剥片石器) |
不定形剥片石器
北海道最古 3万年前
帯広市若葉の森遺跡
引用「帯広の遺跡」 |
幕別町札内N遺跡
2万年前
幕別町ふるさと館 |
小型剥片石器群
遠軽町奥白滝1・上白滝8遺跡
北海道最古級
引用遠軽町埋文展示ガイド「くろぐろ」 |
これらはいずれも、石刃技法獲得以前の石器である。
3~2万年前と幅があることから、
道内での伝播に時間が掛かったか、それとも、
既に獲得した集団が後続して、先住者との間の格差が埋まらなかった。対立したか。
北海道後期旧石器時代の初頭には、物凄く人が少なくて1万年たっても出会えなかったか…(笑) |
|
135剥片石器の種類
|
剥片石器には、
自然剥片を加工したものと、意図的に作りだした
作出剥片を加工したものとがある。
この作出剥片が石刃となり、これを生み出す方法が石刃技法である。 |
137石刃技法とは
|
石材には規則的に割れる方向、石目があり、これを利用すると原石から同じような形の剥片を剥がすことができる。
自然剥片石器は、破片がまちまちの形をしているので不定形剥片石器しかできないが、石目割り技術を使えば定型剥片石器ができる。
この石目で石材を剥がす技術(剥片剥離技術)を石刃技法 という。
石刃を利用した石器が石刃石器である。 |
|
139石刃石器 ※2(石刃石器)
石刃核と石刃
常呂遺跡の館
2~1.7万年前 |
遠軽町埋文展示ガイド |
石刃技法の始まり
広郷尖頭状石器群
上白滝7・8遺跡
|
規格外の巨大石刃
幌加型彫器石器群
上白滝15遺跡 |
台形様石器
広郷8遺跡
約3.1万年前
|
コムケ湖岸遺跡の旧石器 最上段は細石刃。それ以下は石刃石器。
コムケ湖岸遺跡の
旧石器
紋別市立博物館
|
削器(ナイフ)
黒曜石
手が大きかったのか特大のナイフ |
石刃(刃器)
頁岩・黒曜石
槍先に付けていたか |
掻器
頁岩・黒曜石
皮なめし用に加工 |
彫器
頁岩・黒曜石
|
剥片(剥片石器)
黒曜石
摩耗している。石器として使った痕跡とみる |
長大な石刃
釧路東栄小学校庭
千島ホロムシロ島
釧路博物館 |
左半:石刃石器
右半:細石刃
暁遺跡
2~1.6万年前
帯広市埋文
|
左:置戸町出土
右:元町2遺跡
美幌町博物館
|
※右:元町2遺跡の石器にナイフ形石器様のものが見られる。
黄色い頁岩の大きな剥片と、黒曜石の小形刃器である。 |
|
|
140本州ナイフ形石器と北海道石刃石器
|
ナイフ形石器は、剥片や石刃の片側に刃部を残し、反対側は刃潰しした道具。この道具は華北の黄河文化センターから来たものらしい。
※最近は北海道の道南から網走まででナイフ形石器が出土しているとも書かれています。
※なぜ石刃石器をナイフ形石器と、ことさら強調するのかについては、北海道石刃に比べ特徴的な形をしているからでしょう。
確かにナイフのような形をしている。それに比べて
北海道石刃石器は、石核から剥ぎ取った石刃をそのまま、or折り取ったり、加工して利用したものである。※説明がなく実態不明。
見た目では、ナイフのような積極的なカタチは作られていない。だから、ただ単に「石刃」と言われるのかもしれない。
例えば、石刃ナイフと言えば、黄色色・mount fuji-yamaみたいなお馬鹿な二重言い回しになるから単に石刃なのかもしれない。
帯広百年記念館の解説 以下引用
帯広市川西C遺跡
マンモスがいたころ
◆石刃・礫器・顔料~帯広市川西C遺跡
帯広市川西C遺跡からは、およそ2万5000年前の石器群が出土しました。当時は最終氷期のなかでも、とくに寒さの厳しい時期に相当します。調査では12ヵ所の石器が集中した地点(スポット)が確認され、この中央に火を焚いたあとが残されたスポットもありました。
出土した石器は、石刃(せきじん)と呼ばれる形の整った縦長の剥片を指標とする石器群です。
この遺跡では1本の石刃を折って削器や彫器など複数の石器を製作する特徴がみられます。
遺跡内では石刃を製作した痕跡が見られないことから、他の場所から石刃を持ち込み、ここで分割して石器を作っていたものと思われます。
礫器(れっき)と呼ばれる礫の一端を打ち欠いて刃部とした石器がまとまって出土したのも特徴です。これは砂岩やアプライトなどの河原石を持ち込んで作られており、重さ600gの小型品から2㎏を超す大型品まであります。この石器は動物の骨など固いものを叩き割るために使われたのではないかと推測しています。
このほかに、肉眼で赤色や黒色と認識できる顔料の素が多量に出土しました。赤色顔料が付着した礫もあります。原料は鉄やマンガンを含む鉱物で、平らな石の上ですりつぶして顔料にしたものと考えられます。
この遺跡を残した人たちは、出土した遺物の特徴から北方地域に系譜が求められるようです。引用「発掘された十勝の遺跡」 |
石刃の利用
石刃は、そのまま、または、折り取って、目的に応じた形の部分を利用して、石器製作の材料にしていました。
特に、削器(orつまみ付きナイフ)は、本州ナイフ形石器のナイフ機能を担っていました。
そして、石刃石器が礫石器と同時に出土したことは、後期旧石器時代の中の古い時代であることを象徴しているのでしょう。
|
|
141ナイフ形石器※3
|
北海道にはないといわれたナイフ形石器ですが、上記石刃石器でなぜか、本州で「石刃」とされた博物館があったように、
ナイフ形石器の分類でも不思議なことが起こっていました。 |
列島各地のナイフ形石器 |
九州地方
鹿児島県桐木耳取遺跡
鹿児島県立埋文
|
近畿地方
大阪府翠鳥園遺跡
羽曳野市 |
関東地方
埼玉県砂川遺跡
明大博物館
|
東北地方
新潟県上ノ平遺跡
新潟県埋文事業団
|
|
142九州地方
鹿児島市ふるさと歴史館 |
鹿児島市ふるさと歴史館
|
鹿児島市ふるさと歴史館
|
指宿市COCCOはしむれ
|
指宿市COCCOはしむれ
|
指宿市COCCOはしむれ
|
宮崎県埋文 |
宮崎県埋文
|
西都原考古博物館
ナイフ形石器というより有舌尖頭器に近い |
西都原考古博物
|
西都原考古博物
|
|
高千穂町歴史民俗資料館
|
熊本市塚原歴史民俗資料館
|
|
|
|
|
|
143中四国
朝来市埋文
|
豊岡市歴史博物館
同一反復らしい |
|
144近畿地方
京都市考古資料館
|
新潟県長者ヶ原考古館
|
倉敷考古館 |
倉敷考古館 |
倉敷考古館 |
倉敷考古館 |
魚津歴史民俗博物館
|
富山県弓の里歴史文化館
|
富山県弓の里歴史文化館
|
富山県弓の里歴史文化館
|
富山県弓の里歴史文化館
|
|
富山市民俗民芸村
考古資料館
|
富山市民俗民芸村
考古資料館
|
富山市民俗民芸村
考古資料館
|
|
|
|
|
145関東地方
千葉県成田市
十余三稲荷峰遺跡
国立歴史民俗博物館
|
山梨県立考古博物館 |
山梨県立考古博物館
|
|
146東北越州 |
147東北
岩手県立博物館 |
岩手県立博物館 |
|
148北海道地方
函館博物館 |
北海道開拓記念館
現:北海道博物館 |
|
ナイフ形石器 |
ナイフ |
|
|
|
|
|
|
|
|
149結論
|
北海道石刃石器ってなんだ? 石刃から作りだされた道具のこと?
万能のナイフ形石器に対峙するものはなく、ナイフは削器として。槍先は尖頭状石器?なのか。しかし、尖頭状石器って出て来たかな?
結局、その定義がわからない。わかりませんでした!
材料としての石刃と、製品としての石刃の違いは全くわからない。なんでおんなじ言葉を使うのだろうと思う。
いや、製品としての石刃てあったのか?それすら怪しい。
そして、北海道にも ナイフ形石器がありました。曰く不可解。 |
|
200縄文時代
|
210パネル
縄文時代早期前半(9000年前頃)の日本列島の植生図と古地図
年平均気温が現在より2~3℃低い。温帯落葉樹林が拡大。
早期前半の列島
|
寒冷な氷期が終わり、暖かくなると広葉樹が広がり、その木の実の利用のために、本州では世界的にも早く土器が作られました。
北日本の土器の形は、尖り底と平底があり、名寄では貝殻で模様をつけた平底土器が
今のところ最古の土器です。暖かくなったとは言え、まだ針葉樹が多い
北海道のこの時期に、古い時期の石刃技法の流れをくむ「石刃鏃」と呼ばれる
特色ある石器が北海道の北東部に見られます。その作り方は、北アジアが
起源で北からの文化流入があった証拠です。針葉樹林で活躍した「大陸起源の矢尻」を使ったのはどんな人だったのでしょうか。 |
縄文時代早期前半(9000年前頃)の日本列島の植生図と古地図
|
縄文早期前半の植生
|
縄文早期前半の列島 |
|
縄文時代前期(6000年前)の日本列島の植生図と古地図
年平均気温が現在より2~3℃高い。照葉樹林が拡大し、温帯落葉樹林は後退
縄文前期の北海道
|
気温の上昇は6千年前頃に最高となり、氷期とは逆に海水面が上がる「縄文海進」が起き、北海道の山も広葉樹林に覆われます。
名寄にも
緩やかな丘陵上に厚手の尖り底土器の人々が、
押型模様に平底の人々が平地へと、前後して住み始めます。
全国的には、ジメジメとした西日本の照葉樹林より、明るい落葉の雑木林の東日本の遺跡を中心とした筒型の縄文土器が栄えます。
この筒型土器の流れをくむ「北筒式土器」を使った人々が天塩川沿いに住んだ5千年前頃が最も安定した時代で、森の恵の硬い木の実を割るための石器が増えるのもこの頃です。 |
縄文時代前期(6000年前)の日本列島の植生図と古地図
|
縄文前期の植生 |
黒潮の一部が対馬暖流として日本海に入り、
暖流が津軽海峡・宗谷海峡を流れ始め、
日本海湖の塩水化、北方系海洋生物・カニなどが南下して豊かな海となりつつある。
モンスーンが始り、冬の豪雪が始まった。 |
縄文前期の北海道
|
縄文時代晩期(3000年前)の日本列島の植生図と古地図
年平均気温が現在より1℃低い
|
約4千年前に口が広い形の土器が、日本全体を覆う縄文時代も後半になると、気候は冷涼となり、オホーツク海に流氷が来たのもこの頃と推定されています。※4,000年前に流氷が始まった!
針葉樹と広葉樹広葉樹が入り込むこの時期はその後の続縄文時代も含め、名寄地方の人々の足跡はまばらです。
現在とほぼ同じ気候の千年前には、川沿いに間隔をおいて数件のムラがあったようです。擦って土器面を整えた後にヘラで模様をつける擦文時代の土器にはいろいろな形があります。※名寄盆地には1,000年前に集落が始まった!
また、この頃流氷とともに、北海道の東海岸に住み着いた、オホーツク文化(3-13c)の人々を含めて、寒暖に影響されながらも、培ってきた先史時代の「森林の恵みの文化」は、その後のアイヌ文化に引き継がれます。 |
|
|
230土器 |
231縄文前期
|
日進遺跡群 引用「名寄市の史跡と碑・巨樹巨木を巡る!!」
住所:名寄市日進541
時代:縄文時代(早期・前期・中期・後期)
遺構:土坑群1、土坑30、焼土8
遺物:縄文土器、石器
日進遺跡群(抜粋)
ここ日進遺地区には今から約1万年前から3千年前にかけて住んでいた先史時代の遺跡が33ヶ所見つかっております。
遺跡は名寄川沿いの小高い丘陵や台地の上にかけて点々と広がっております。
先史時代の人々にとってここは、日当たりも良く、
天塩川と名寄川の合流点やピヤシリ川等の小河で魚を捕ったり、
九度山やピヤシリ山の山麓で狩りをして生活をしておりました。
昭和35年に発掘調査が行われ、今からおよそ6000年前の遺跡が発掘され、
その後も日進2・8・31・33の各遺跡が発掘され、数々のデータが得られています。
名寄市教育委員会
日進遺跡. 天塩川と名寄川の合流点、名寄川沿いの東側の丘陵や台地に33カ所の遺跡が点在しているので日進遺跡群と呼ばれている。
川岸近くの台地には1万年前、低いところでは1~2千年前、畑のある丘陵は8千年前と時代によって住んでいた場所が違っていました。
どちらにしても天塩川での漁労やピヤシリ、久度山での狩猟には都合の良い位置になっている。
その中で遺跡の説明板がある所付近が松浦武四郎が実際に宿営したと推定されている所です。 |
|
233中期
|
智東遺跡群 引用Amebaブログ「北海道応援のブログ『スーポロ・智東遺跡群・金毘羅大権現の碑』」
住所:名寄市智恵文 智東
「智東遺跡群」の看板は風雪により倒れている。
先史時代、天塩川の川筋を中心に多数の遺跡が発見されており、無土器時代の石器は九十九山遺跡・日進篠原遺跡・モサンル遺跡などで発見されている。
縄文時代のものは、名寄の智東C遺跡で大型の土器を備えた集石墓が見つかり、当時の埋葬法を知る貴重な発見がされ、智東B遺跡では住居跡が残っており、天塩川両岸の高台には、チャシも点在している。
「智東遺跡群」解説看板 名寄市教育委員会
名寄に人類が住みついたのは、今から約一万年程前のようです。ここ智東にも、そういう先史時代の遺跡がたくさん残されております
例えば、智東駅前付近の天塩川河岸や、吉野川下流の両岸一帯には、縄文時代(今から約9千年~2千年程前)や、擦文時代(今から約1千年前)の大規模な遺跡があることが、色々な調査でわかってきております。
古代の人達は、地面を50cm~1m程掘りくぼめて、そこに柱を立て屋根をかけた竪穴住居に住んで、天塩川や、その支流で漁をしたり
弓、矢などで獣などを獲って生活していたようです。
また擦文時代になると、わずかですが、原始的な農耕をしていたことが発掘調査でわかりました。彼らは日当りが良く、水辺に近く、しかも食料が豊富な土地を巧みに、選んで住んでいたようです。
私達人類の歴史を知る貴重な遺跡を、皆の手で大切にしたいものです。
名寄市教育委員会 |
|
筒形土器
(北筒式)
縄文中期
智東2遺跡 |
筒形土器
(北筒式)
縄文中期
智東2遺跡 |
筒形土器
(北筒式)
縄文中期
智東2遺跡 |
筒形土器
(北筒式)
縄文中期
智東2遺跡 |
筒形土器
(北筒式)
縄文中期
日進33遺跡 |
|
235後期~オホーツク期
|
236サハリン島より渡来した「南貝塚式土器」オホーツク文化期
|
この土器は、昭和53年(1978)に市内智恵文智東の天塩川右岸の「智東8遺跡」の発掘調査で出土した土器です。
当地で出土する土器に見られない器形や文様から平成6年(1994)にサハリン島に由来を持つ10世紀頃のオホーツク文化の土器とわかりました。
令和元年(2019)には、土器片の砂粒の科学分析が行われ、他のサハリン島出土の土器の砂粒との分析比較から、
同島の南部アニワ湾周辺で製作されたことが判明しました。
北海道のオホーツク海沿岸を中心に分布するオホーツク文化圏の土器が内陸の名寄で発見され、しかもサハリン島から渡来した例が明らかになったのは、初めてで、当時の文化交流を実証した貴重な時です。 |
※資料 南貝塚式土器 サハリン南部のオホーツク文化期(終末期)
|
※考察 南貝塚式土器
オホーツク式土器は、最初期の鈴谷式→十和田式→江の浦式→南貝塚式・東多来加式とされ、オホーツク文化終末期は(11~13c)とされるが、その最終末13cである。
オホーツク文化終末期には、擦文人の力が強くなり、オホーツク人の最重要拠点である、稚内を擦文人に占拠され、オホーツク海から千島列島とサハリンとの交通が遮断された、とても危険な時代であった。
その時代に、サハリン南部の海岸地帯でつくられた土器に何かを入れて、稚内に渡り、西に回って天塩川を、舟を引いて遡上して上流域名寄の岸辺にキャンプして、何かを交易して、また帰って行ったのだろうか。名寄にオホーツク人の集落があれば、沢山のオホーツク式土器が出土するがその様子はない。寒冷地名寄では農産物は入手しづらく、動物性のものだっただろう。
また、同じ南貝塚式土器は、オホーツク沿岸を南に少し下った枝幸川尻チャシや、もっと南に下って常呂川を遡った端野広瀬遺跡などで出土しています。枝幸町川尻チャシや周辺からは大量のオホーツク文化の交易品が出土していますから、南貝塚式土器が出ても不思議ではない。が、名寄智東8遺跡と端野広瀬遺跡からは、オホーツク文化の遺物は少なく、どのような目的でこの地に終末期オホーツク人が立ち寄ったのかは謎です。
|
|
|
250石器
※脚注がほとんどないので、適当に石器名を入れています。 |
251
|
今、気が付きました。展示ケース側面に引き出しがあり、遺跡名や、時代が書いてありました。
これを開けると、沢山の資料を見ることができたのでしょうか。
それとも、鍵穴が写っているので、展示替えのための保存用引き出しで、一般には公開していなかったのでしょうか。
学芸員と長い間話したのに、この引き出しの利用について、教えてくれても良かったのにと思います。 |
|
252さす・あける(尖頭器と錐)
|
尖頭器 |
尖頭器 |
尖頭器 |
|
|
|
|
尖頭器 |
石鏃 |
|
|
|
石刃鏃 |
|
石鏃
|
石錐
|
|
|
253石刃鏃
|
254きる・けずる (ナイフと彫器)
|
255つく(石槍・尖頭器)
|
256一括出土石器
日進33遺跡 北海道名寄市日進541/542/543
|
種別:散布地、遺物包含地
時代:縄文(早期 前期 中期 後期)
遺構:土坑30、土坑群1、焼土8
遺物:縄文土器、石器 |
|
石器の用法
切る…ナイフ(肉や皮などを)
削る…彫器 (木や骨を)
剥がす…掻器 (肉と皮を?、皮にこびりついた脂を) |
|
石器の用法 |
なんのことだか
わからない |
掻器・彫器・ナイフ |
|
257はがす つまみ付きナイフ
|
258きる・けずる 石斧
石斧・彫器 |
|
|
259たたく・わる キヌタ状石器
現在、キヌタ状石製品はこれ以外にネット上にありません。私も初めて見ました。
|
|
アイヌ文化期
|
3003⃣カムイの森 The Forest of Kamui
|
3千年ほど前からの先史文化をもとに、14世紀頃(室町時代)にアイヌ文化が成立したと言われています。
この頃、日本列島の気候はやや涼しい方で、アイヌの生活も、半年は雪や寒さと向き合う生活でした。
アイヌ文化の最初の頃より、金属製品など主な生活用具は交易による移入品で、天塩川の流域の中でまとまっていた「天テシオアイヌ」は、日本海で山丹交易と言う大陸との南北交易に深く関わっていました。
江戸時代の前半までは、川筋を季節的に移動し、内陸での狩猟採集と河口の交易が生活の基本でした。
そして、北方民族共通の自然物全てに神(カムイ)が存在すると言う自然観と共に生活する日々でした。
江戸時代後半になると、本州の政治と経済に組み込まれ、また明治以降の開拓政策の中で、その独自の生活は奪われます。しかし、伝承で残された自然と共生する精神文化には、教えられ、学ぶべきものがあります。 |
|
KEY WORD
■Trade with northern peoples
■Marine and mountain life
■Life in harmony with nature
■Collapse of traditional way of life
■Forests inhabited by gods |
キーワード
・北方民族との交易
・海の生活と山の生活
・自然と共に生きる生活
・伝統的生活の崩壊
・神様が住む森 |
|
301
|
310アイヌ祭事用具 小沢カンシャクト氏製作
アイヌ祭事用具 |
アイヌ祭事用具 小沢カンシャクト氏製作 |
|
|
|
|
マラットイナウ
熊の頭飾りに捧げる神 |
マラット
頭飾りしたクマ頭骨
|
マラットイナウ
熊の頭飾りに捧げる神 |
|
|
|
|
カムイノミパスイ
削りかけ付捧酒箸
イナウキケ
神棚の飾り幣
|
|
|
|
|
カムイノミパスイ
削りかけ付捧酒箸
イナウキケ
神棚の飾り幣
|
アベサムシペ
火の神
アベフチイナウ
炉縁の神
|
アベサライナウ
炉縁の下の幣
ノボリコロイナウ
安全を守る神 コタンコロカムイイナウ
村の守り神 |
|
|
|
|
320風俗画とくらし |
330北と南からの交易品 Trade Goods from North and South
|
江戸時代以前より日本海の東側は、船による南北交易の道筋でした。大陸からはアムール川(黒竜江)下流域の北方民族が元朝や清朝の昔の中国政府との交易で入手した織物や青玉がサハリンにもたらされました。この北方交易は、そこに住む北方民族の名をとり、「山丹交易」と呼ばれ、その交易路は「北のシルクロード」とも言われています。
本州からは、当時の蝦夷地の政治経済の中心地・松前にアイヌにとっては必需品の金属製品や漆器の容器類が和人商人によりもたらされました。
テシオアイヌの交易地であった天塩川の河口も含め、道北部の西海岸は北と南へ行き交う交易地の中継地に当たります。テシオアイヌがこうした交易に深く関わっていた事は古い文献にも見られます。こうしたことから内陸の名寄の集落(コタン)にも、北と南双方からの交易による移入品がありました。 |
※極東アムール川流域やサハリンに居住する民族の居住地が地図化されたのはこの館が初めてです。貴重な資料です。
|
340漆器 |
341
|
345
|
捧酒箸 |
天目台付杯 |
盆
湯注ぎ・膳 |
捧酒箸 |
氷下釣竿
|
|
350アイヌ装束
|
360風俗画
春熊狩りのアイヌ
|
壁面の中央の絵にあるように、春先の代表的な狩猟に熊猟があります。冬眠から覚めた頃の
クマはまだ冬毛で冬眠した穴に潜んでいます。堅雪の上は狩人の移動がしやすく、穴から出た熊の追跡も容易です。まだ穴にいる熊は体力が十分でなく、穴の入り口を塞げば近くから毒矢を得ることが可能で、効果的な狩りができます。
熊狩りのいでたちは、狩猟用具のほかに、
春とは言え防寒対策を十分にします。頭部には頭巾、手には手甲、葦には脚絆と鹿革の靴を履きます。更に背中の部分を覆うように鹿皮をまといます。これらの服装は、防寒と同時に、
山を歩く動きやすさを考えた衣類の組み合わせとなっています。 |
|
|
オヒョウの木皮を剥ぐ |
薪木運搬
|
少女がイタヤの水を採る
メープルシロップ |
|
春熊狩り |
|
鹿捕り
|
鷲捕り |
雪中テシマ履き旅行 |
|
くらしの中の民具
|
テシオアイヌの四季の生活は、江戸時代前半までは海と山の生活からなっていました。
夏はテシオ河口や日本海岸にて沿岸漁撈をして、秋になると、天塩川筋に遡る鮭を主な越冬、食料とするため、内陸の集落に戻ります。秋口や春先には鹿などの大型動物の狩猟もしました。雪の多い内陸は、冬眠明けの熊や山を越えて戻ってきた鹿を捕る春猟の時には、
堅雪や残雪が山間部に遅くまで残り、行動範囲が広がり好都合でした。名寄地方は資源が豊富で、生産性の高いピヤシリ山(岩の群在する山)、久度山(岩崖のある山)に向かい、天塩川の
支流と鮭が遡上する名寄川の支流が入り込んでいます。山裾の針広混交林は、生活や狩猟に必要な道具の材料を四季を通じて提供します。素材の特性を生かして、生活に必要な目的で、その分だけ作られ、使われたアイヌの独自の民具は機能性と芸術性を備えています。 |
|
370民具
|
仕留め矢
自在モリ
魚叩き棒
|
宝刀と刀帯 |
小刀
山刀
花矢 |
火打石入れ |
小動物用ワナ |
|
380
|
樹皮の手桶
小物入れ
箸
樹皮の椀
杖
|
|
針刺し
女性用小刀 |
鮭皮靴
靴下 |
|
|
樹皮の椀
杖
箸
|
箸
樹皮柄杓
木の柄杓
|
|
|
|
|
|
|
390冬の森林
|
北海道の北東部の森林は、温帯から北上してきた広葉樹と亜寒帯の主役である針葉樹が、混ざり合った針広混交林を作っています。
アイヌは多くの動物が入り混じって住む森林と山を、獣に姿を変えた神々の国と信じていました。
展示の冬の森林は、この地方の標高約400mの3月頃の天然林を想定しています。 |
|
|
=カムイの森= (館内配布資料による)
カムイとはアイヌの人びとのことばで「神」のことをいいます。
北海道では約3千年前から、アイヌの人びとのくらしがみられ、自然
の中で狩りをしながら生活していました。 アイヌの人びとは自然のも
のには神(カムイ) があることを信じ、 自然をうやまい、 自然といっ
しょに生きることを考えていました。
冬の森の中には、 多くの動物がいます。 みなさんも見たことがある
ものもいるでしょう。 雪が積もり、長くきびしい冬にも森の中ではさ
まざまな動物が生きているのがわかります。 アイヌの人びとは、森を
カムイが動物にすがたを変えた神々の国と信じていました。
冬の間 土の中で冬ごもりを
どうぶつ
する動物たちもいます。 ヒグマ
は木の根の下にあなをほって、
5月ごろまで冬眠します。 |
|
391
|
※まず、3月の雪山を表現したこの展示の美しさ。新雪でなく、エゾ松の枝に溜っていた雪が落ちたデコボコの雪。冬の垂れ下がった針葉樹の枝までじつに本物そっくりに造られています。何よりも春先の雪の質感が最高です。見学者に驚いて膝を縮めて警戒するキタキツネ。エゾシカは相変わらずヴィーと鳴いているようです。
設計施工したディスプレイ業者さんの再現力に大拍手です。そして、見事な剥製を製作された業者さんも、まるで本物のような樹木を再現されいてる造形作家さんにも感謝です。 |
|
エゾユキウサギ
|
エゾリス
|
エゾユキウサギ
雪解け水が流れ始めた谷川 |
クマゲラ
エゾタヌキ
エゾライチョウ
キタキツネ
|
|
エゾタヌキ
エゾライチョウ
キタキツネ |
|
冬の森林
上に記述 |
ちなみに樹間には、
クマゲラ、エゾリス
猛禽類(名前不詳)
オコジョ、ムササビ
などなど、沢山の動物が隠れています。 |
写真の撮り方が悪かったです。 |
|
|
393雪の下の動物たち
|
雪の下の動物たち
冬の森でも、雪をかぶった笹などの下草と地面とのわずかな隙間には、
ネズミたちの活動の場があります。アカネズミの仲間は、地面と巣穴にドングリを
貯食し冬の食料とします。トガリネズミは、モグラの仲間で地中に細長いトンネルを掘りミミズなどを食べて、冬を越ます。一方、シマリスは10月下旬に地下の巣に入ります。
巣の下には、皮をむいたドングリを詰め込み、枯葉の中に体を丸めて休眠します。時々どんぐりを食べたり、トイレに起きますが、地上に姿を見せるのは4月です。 |
|
シマリスの冬眠 |
大量の貯食 |
アカネズミの冬眠
|
雪の下の動物たち
|
|
395冬ごもりのヒグマ
|
秋に十分に餌を取り、皮下脂肪を蓄えたヒグマは
11月から12月にかけて冬ごもりに入ります。穴は自ら掘った土穴や
自然の岩の隙間利用の岩穴がありますが、多くは樹木の根の下を利用した穴です。
寝床には笹が敷かれ、メスは1月下旬に子を産み。3月には子熊の毛も生え揃い、大きくなっています。5月までには穴から出て親子の新しい生活が始まります。
アイヌはヒグマを単にカムイ(神)とか、キンカムイ(山にいる神)と呼び、動物の神の中でも重要な神としていました。また、冬ごもりの穴をカムイチセ(神の家)とも言いました。
展示のヒグマの親子は、ミズナラの古木の根元に穴を掘った、メスのヒグマの3月頃の冬ごもりを想定しています。
※写真をわかりやすくしようと、何度修正を繰り返してもよくわからなかったのですが、お腹の付近に二頭の仔熊がいるようです。 |
|
|
400松浦武四郎
北の大河に分け入る
平成30年は、武四郎がアイヌを道案内に天塩川に分け入って161年、川筋の古老の話から「北加伊道」の着想を得て北海道を命名して
150年、生誕200年の年です。
|
松浦武四郎の足跡 |
北海道命名の地
武四郎が辿った
24日間の足跡
天塩川立体地図 |
丸木舟でゆく
武四郎一行
(想像図)
|
地図手控え
(天塩川本流) |
|
天塩川流域の松浦武四郎記念碑
凄い数の記念碑
とても尊敬されている |
北海道命名の地。武四郎が辿った24日間の足跡
|
|
|
|
|
|
5004⃣寒さ・人・くらし
4―1
北国の克雪 Overcoming Snow in the North
1⃣住まいの遷り変わり
『竪穴の住居』
|
(縄文時代、中期約5000年前)
乾燥した地面を30~50cmほど掘り下げ、その上に三角形の屋根をかけた1室構造の家です。
穴の形は円形、楕円形、多角形、四角形などがあります。
床となる中央の地面に石などでたき火のできる所を設け、これが暖房のほか炊事、照明の役割も果たしました。
窓がなく、室内の容積が小さい ためたき火による輻射熱で室内がすぐに暖まります。
しかし熱は屋根から 逃げたり、床となっている地面にも吸収され、除湿の効果を果たすと同時に土に蓄積されます。
常に火をたいていることにより、熱の供給と消費が保たれ寒くはない家になっていました。
冬は屋根のすそに土を盛るなど熱を逃さない工夫をしたことでしょう。 |
さむさ・ひと・くらし |
竪穴の住居 |
|
黒曜石原石
板石
|
|
|
竪穴の住居 |
|
|
窪んだ所で堅果類などを割る磨り潰す
|
狩猟・伐採道具 |
クマザサ葺き外壁 |
|
雪が断熱材となる |
|
|
|
|
|
600寒さ・人・くらし
開拓団体北国に向かう
|
明治30年代、内陸部への開拓が進み、名寄地方では、山形、新潟、富山、石川、福島、宮城、岐阜などから団体による入植がなされました。 |
|
601
開拓母村の気候風土 (母村とは、開拓者の出身地のことである。)
|
名寄市への移住団体の母村は、北陸、中部、東北地方にある。これらは、南北に連なる奥羽山脈を境に、日本海側、太平洋側で大きく異なる気候特性を持ち、それぞれ日本海側気候と太平洋側気候と呼ぶ。
冬にはその違いが顕著で、ユーラシア大陸に高気圧、日本の東海上発達した低気圧がある。西高東低の冬型の気圧配置となり、北西の季節風が発生する。
ユーラシア大陸からの冷たく乾燥した季節風が暖流である対馬海流の流れる日本海上を横切る際、海面から水蒸気の補給を受けて雪雲(積乱雲)が発生・発達する。
この雪雲は奥羽山脈を越えられず、山地にぶつかると雪を降らせるため、北陸、東北地方の日本海側は、世界有数の豪雪地帯である。山脈を越えた季節風は
乾燥しているので、東北地方太平洋側では沿岸部や平野部を中心に乾いた晴天となる。
夏は、太平洋からの暖かく、湿った季節風の影響で、本州太平洋側では、高温多湿になるが、日本海側の秋田・山形・新潟などの県では奥羽本線を越えてきた季節風が、日本海側に吹きおろす気流によってフェーン現象が発生し、しばしば猛暑日となり、極端なときには、40度を起こす高温に見舞われる。 |
|
開拓団北国に向かう
|
開拓母村の気候風土
|
|
|
|
開拓母村の気候
(開拓者の出身地)
|
視聴不能な図表のため
佐賀市鍋島中学校HP
国交省東北の現状HP
気象庁東北冬の天候
を引用しました。 |
海流と気候
東北太平洋岸は寒冷 |
名寄の開拓には
東北・北陸・中部
近畿・中国・四国
九州などから入植したそうです。
関東を除くほぼ全国からです。 |
冬の東北季節風気候 |
特に移住者が多かった東北地方の気候。
奥羽山脈西は豪雪寒冷。東は乾燥寒冷。
名寄は寒冷豪雪地帯 |
|
6021⃣住まいの移り変わり
4-1
『土間床の住居』
(中世・近世・約500年前 アイヌの住居)
|
チセと呼ばれ母屋と入口を兼ねた納戸の2室構造です。
柱を直接地面に立てる掘立柱構造で、古くは床を設けず、地面に乾草と敷物をしきます。
壁や屋根の材料は、土地により茅、樹皮などで道北地方ではクマイササ(クマザサ)を使いました。
母屋の中央に長方形の囲炉裏を設け、暖房と炊事をします。
暖房は焚き火による直接の腹斜熱と壁の内側に沿って、巻き付けた、敷物からの間接的な輻射熱が主です。
また囲炉裏に連なる土間への営〇もあります。
冬は外壁に1m近くの厚さに雪を擦り付け、入り口や窓などの開口部に何枚かの敷物を吊り下げます。
納屋の部分は冷たい外気が入り込まないように入り込まない炭火窯の役目をします。
チセは一定の熱を逃がさない工夫を行なったうえで少しずつ火を焚くことにより輻射熱を有効に使った住居といえます。
※資料 チセの建て方
一般的に建物は下から作るものだと思っていましたが、チセは上からつくるんですね。つまり、
最初に屋根を作って、笹で屋根葺きもして完成させる。次に屋根に合わせて柱を地面に直接立てる。
最後に屋根を先に又のついた棒で差上げて柱の上にのせる。その後、壁や内装を施すのだそうです。
確かにこのようにすれば、屋根葺きも安全に簡単にすますことができます。 |
|
|
|
土間床の住居 |
ヒグマの干し肉 |
アペパスイ(木製火箸)
|
アペフチカムイ
囲炉裏の神
アペキライ(火櫛)
ヒグマの干し肉
アペパスイ(木製火箸)
|
イナウ 木幣
アペフチカムイ
囲炉裏の神
アペキライ(火櫛)
|
イテセニ
ゴザ編み機 |
キナ
ガマ素材の敷物 |
シントコ(行器)
イテセニ(編み機)
|
シントコ(行器) |
|
6032⃣暖をとる 暖房器具
|
604
4-1住まいの遷り変わり
『塚石の家』
|
6053⃣寒さを防ぐ
|
寒さを防ぐ |
雪を除く |
雪を除く
除雪車 |
雪上を歩く |
|
606
|
|
700郷土コーナー
|
|
1000除雪車野外展示
はじめに
|
内地に住む私達にはラッセル車と言う名で聞きなれており、豪雪地帯の除雪列車がどのようなものか知りません。そこでWikipedia。
線路の除雪作業を行う鉄道車両。
・車体の前端部にくさび形をした除雪板(スノープラウ)を装備し,これで雪を線路の左右にはね飛ばすラッセル車Russel snow‐plow(Russelは発明者の名),
・回転羽根(ローター)で雪を遠方に投げ飛ばすロータリー車(回転雪搔車)rotary snow‐plow,
・線路際の雪の壁を切り崩してロータリー車に雪を供給するマックレー車Mackley’s snow‐plow(Mackleyは考案者の名)などがある。
日本の国鉄(現JR)では,1911年にアメリカから輸入したラッセル車を北海道で使用したのが最初で,23年にはロータリー車が同じくアメリカから導入された 引用kotobankマックレー車 |
ラッセルというのは人の名前だったんですね。雪山登山の時にラッセルというのは、人名ではなく雪を掻きわける意味ですね。
北国博物館
|
|
|
|
|
全国で名寄だけにしかないSL排雪列車
キマロキ編成
|
全国で名寄だけにしかないSL排雪列車
キマロキ編成
|
|
全国で名寄だけにしかない SL排雪列車「キマロキ編成」
北海道の開拓は鉄道の設置とともに進展しました。名寄にも、開拓の鍬がおろされた明治33年(1900年)の3年後、明治36年に現在の宗谷本線が名寄まで開通しました。昭和16年には名寄本線、深名線の分岐点として交通の要地となり、以来、名寄は鉄道とともに歩んだ街でもあります。
その時代の流れとともに、昭和50年12月で全国から国有鉄道のSLが姿を消しました。ここに展示してあるSL排雪列車編成は、名寄市が北国の鉄路を守つた雄姿を残すため、当時の国有鉄道より貸与されたものです。「キマロキ」と愛称されたこの編成の列車は、全国でただ一編成のみ、かつて活躍した、旧名寄本線のレールの上で展示保存されています。
キマロキは「SLキマロキ編成排雪列車」といい、機関車・マックレー車・ロータリー車・機関車の順に連結された排雪列車の頭文字をとって名づけられ ました。雪の多い北海道内陸部、東北、北陸地方では線路両側に高い雪の壁ができ、普通のラッセル式では除雪が困難なためにこの編成の出動となりました この列車には、機関区員や保線区員などが十数名分乗し、先頭の機関車が両側の雪をかき集めるマックレー車をけん引し、その雪をロータリー車が回転する羽根で遠くへ飛ばし、それを後ろの機関車が後押しするという一連の作業で除雪に威力を発揮しました。
名寄市・名寄市北国博物館 名寄SL 排雪列車 (キマロキ) 保存会 |
車両編成詳細 |
車両編成
|
|
SL 59601号機 (蒸気機関車) 製造 大正10年11月3日 川崎造船所 退任 昭和47年10月26日 約51年間運転 全長 16.751m 最大牽引力 800t (1,000馬力)
最高速度 65km
マックレー車 キ911号機 (かき寄せ式雪かき車) 製造 昭和13年10月20日 国鉄苗穂工場 退任 昭和50年10月18日 約35年間運行 全長 8.470m 雪の最大かき寄せ巾 7.750m
ロータリー車 キ604号機 (回転式雪かき車) 製造 昭和14年11月20日 国鉄苗穂工場 退任 昭和50年10月18日 約35年間運行 全長 19.025m 雪を飛ばす距離 横に30m位
上に20m位
SL D51398号機 (蒸気機関車) 製造 昭和15年1月24日 日本車輌製作所 退任 昭和48年9月10日 約33年間運転 全長 19.730m 最大牽引力 1.200t (1.500馬力) 最高速度 85km
車掌車 ヨ4456号車 (緩急車) 形式 ヨ 3500型 製造 昭和29年 川崎車輌 展示 昭和63年6月16日 (寄贈者・中田一良氏) |
キマロキの移設展示保存
|
|
「キマロキ」の移設展示保存
全国では名寄市にしかない「キマロキ」編成のSL排雪列車は、昭和51年(1970年)に旧国鉄(現JR北海道)から名寄市が無償貸与をうけたが、最初は名寄公園北側の入り口付近に、新たにレールを敷設して展示保存を始めたものである。
その後、平成元年(1989年)に名寄本線が廃止となり、名寄公園拡張・改修計画と市立博物館建設計画に合わせて、名寄公園に隣接する区域の用地を市が取得した。
平成5年(1993年)に名寄本線のレールの一部 を残し、その線路上に「キマロキ」編成車輌を移設して展示保存を始め、平成8年(1996年)に市立北国博物館が開館し現在に至っている。
旧名寄本線は、名寄を起点として興部、紋別を経由して終点の遠軽までの138.1kmであった。なお、名寄本線のレールは、当初30kgレール(レール1mの重さが30kg)であったが、現在は40kgレールである。これは東海道新幹線が、最初に使っていたレールを50kgレール以上に敷設替えをしたので、
そのレールを利用して交換敷設したものである。
準鉄道記念物に指定
平成22年(2010年)に「キマロキ」SL 排雪列車を、JR北海道旅客鉄道株式会社が準鉄道記念物に指定した。
名寄市文化奨励賞を受賞
長年の「キマロキ」展示保存管理活動に対し、名寄SL排雪列車(キマロキ)保存会が、平成21年度(2009年) 名寄市文化奨励賞を受賞した。
北海道文化財保護功労賞を受賞
長年の「キマロキ」展示保存管理活動に対し、名寄SL排雪列車(キマロキ)保存会が、平成25年度(2013年) 北海道文化財保護労賞を受賞した。 |
|
|
北海道豪雪地帯の除雪
|
機関車の先頭に鋤型の除雪板を取り付けた列車を想像していましたが、
先頭のラッセル車+雪を集めるマックレー車+ロータリー車で雪を遠くへ吹き飛ばすという、想像もしていなかった、車両編成です。
ラッセル車で歯が立たないところは、先頭にロータリー車を持ってきて、雪を吹き飛ばしながら走ると、そんな映像を見た記憶がありますが、
それだけでもすごいのに、
ここではそんな生易しいものではなく、この重厚長大な車両編成は、どれほど北海道の豪雪地帯が大変な、困難な路線であったかをわからせてくれます。
しかし、それでもダメな時には、保線区の応援を得て大量の人々がスコップで除雪を行う映像もあり、雪で倒れた木を伐採する映像もあり、本当に豪雪地帯の車両運行は大変だったんですね。いや、今もですけど。 |
|
|
|