|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
このページは、Internet Explorer か、Google Chrome での閲覧で正しく表示されます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
10外観 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
20地形・地質 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
21小海町の七不思議 vol1 最近日本列島では地震や火山活動が多くなっていますが、小海町の大地を造ったのも昔の火山(マグマ)活動の大地震、地殻変動などでした。 そこには深い海の底でできた岩もあります。小海町はこうした地球活動の遺産の宝庫、不思議がいっぱいです。 その中の精選「七不思議」から小海の大地の成り立ちを解き明かしていきましよう。 A.平安時代以降、小海の大地は激しく変わった 1北八ヶ岳は大きく崩れ、巨大な山津波がやってきた。 岩山や土砂は谷を埋め、堰き止めて、山の中に「海」を造った。 平安時代の前期 (887) 、北八ヶ岳で突然起こった大地変(1) が小海の中心部の大地の姿を一変させました。 山から押し出された膨大な土砂が大月川の谷間を埋めて、大小の丘「流れ山」群が出現し、丘と丘の間には松原湖などの湖沼群が誕生。 更に千曲川、相木川の谷が堰き止められて、天然のダム湖 (南牧湖、小海湖(小海))が誕生しました。一体何が起こり、地形がどう変わったのか。 2暴れ大月川…その後度々洪水が襲ってきた!何が松原湖を守った? 大地変(1)で松原湖周辺にできた沢山の窪地(湖)は、その後の洪水、土石流で姿を変え、新開周辺では扇状地、ワミノヤチでは湿原、 稲子集落周辺では平坦地になりました。これらはどのようにできたのだろう?松原湖はなぜ無事だったのだろう?ワミノヤチが歴史を語る! 3激しい浸食! 芦平、海尻の峡谷はどうしてできた? 千曲川沿いの段丘群揉む不思議だ! 大地変(1)でできた岩なだれ堆積地は、その後、芦平の大月川、海尻~八那池の千曲川では深く掘り込まれた峡谷となり、八那池~小海駅周辺 では、段丘群になりました。これらはどうしてできたのだろう?土村・馬流周辺の地形はどうなっているだろう? 千曲川の上流から下流へ、谷の様子、河原の石を観察してみよう。 小海町の七不思議 vol2 B.八ヶ岳が川西の大地を造った! やや古い時代 (1万年~130万年前) に、八ヶ岳では様々な地変が起こって、小海 (主に千曲川の西側=川西地区) の大地を造ってきました。 その中の代表が「4、5」です。(地表部分は川東地区も広く八ヶ岳の影響を受けています。) 4八岳の滝、「小海原台地」はどうしてできた? 稲子岳直下、八岳の滝が流れ落ちる崖は不思議だ。 上下二層に分かれて、上の層には盾の割れ目が一杯ある。天狗岳、ニュウ、高見石にも似た岩が… 八岳の滝の岩と小海原の台地に何の関係がある? そこには小海の大地を造った八ヶ岳の長い火山活動のドラマがありました。 時には激しい火砕流(大地変(2))が川東地区まで襲い、火山灰も降り積もった… 5小海小学校裏と鎰掛の高い崖、その地層はどこが違う? 小海小学校周辺から続く相木川沿いの高い崖と国道141号線沿いに続く(鎰掛)の高い崖、よく似ているけれどもなにか違うようだ。 どこが違う? いつ頃どうしてできたのだろう? 遠い昔、小海を襲った八ヶ岳からの大地変(3)や大洪水がこれらの地層や高い崖を造りました。そこにはどんな大地のドラマがあったのだろう? 6須ばりの谷はなぜ狭い? 無数の割れ目が斜めに走る須ばりの峡谷(市の沢川(東馬流~宿渡間))。同種の岩が塩ノ平では「千ヶ滝」「俵岩」を造り、 近縁の(化学成分の似た)岩が茂来山周辺の地価では鉱床を作りました。 見た目は違うが、これらの岩の源(元のマグマ)は共通。そこからどうしてこんな違いが出てきたのだろう。 C.川東の大地を造った大変動 八ヶ岳ができるよりずっと大昔、、日本列島がまだ、今の形になっていない頃 (1000万年前後⑥と2億年前後前⑦) に起こった大変動が 小海の大地の土台をつくりました。それらは主に川東地区の山地に姿を現しています。 7茂来山頂はなぜ高い 茂来山頂の岩は「チャート」、大昔の海底に何かが積もってできた岩です。一体いつ頃、何がどう積もって、なぜこんな高い所にあるのだろう。 チャートの他にも前後して同じ海底にできた岩がありましす。そこには日本列島の土台が造られた壮大なドラマがありました。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
22小海町の地形地質の特徴
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
23小海町の大地 自然史年表 (形成と崩壊の歴史) 1地質時代の自然史 2完新世の自然史
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
30考古 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
31小海町の原始・古代 小海町にはおよそ70箇所の遺跡が確認されており、このうち60箇所近くで縄文時代の遺物が見つかっています。 縄文時代早期以降 前期、中期の発見が多く、縄文人が小海町域を活発に利用していたことがわかります。 八ヶ岳東麓の本間川地区「中原遺跡」では、縄文前期後半 諸磯b式期の集落が発見されました。 参照諸磯b式土器 他にも豊里地区「小原遺跡」では前期初頭と中期初め、「穴沢遺跡」では中期初頭の住居跡や、この時期には珍しい石棒などが出土しました。 弥生時代、古墳時代、奈良時代にかけては、遺跡はわずかです。 小海町は標高が高く寒冷な気候で、当時の技術では稲作に不向きな土地柄であったためか、人口も少なかった時期だと思われます。 ただし、塩の平 の「天狗岩岩陰遺跡」では、弥生時代の土器や骨角器なども見つかっており、交通や狩猟の場として利用されたようです。 奈良・平安時代 小海町は信濃国佐久郡余戸郷に組み入れられ、10世紀頃からは、近隣町村でもムラの跡が見つかっています。 小海町内でもおよそ40箇所で土器などが見つかっています。松原の諏方神社や宮上の諏訪神社もこの頃建てられたとされています。 実際に発掘調査された親沢地区「弥左衛門屋敷遺跡」や小海原の「雨堤遺跡」、塩ノ平の「馬場平遺跡」では、 竪穴住居から日常使う土器や、墨書土器や鉄器なども見つかっており、甲州からの交通路にあったと考えられています。 31小海町の原始・古代
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
32縄文早期 約10,000~7,000年前 小海町の各所では、少数ではあるが縄文時代早期の遺物も見つかっている。 早期前半の押型文系土器や、早期後半の条痕文系土器の破片の他、 御射山遺跡では、食糧をすり潰した道具とも皮なめしに使われたとも言われる、 穀摺石(にくずりいし)という縄文早期特有の石器も見つかっている。
特殊磨石 (穀摺石) まとめ ①普通の磨石は丸く平たいが、これは、断面が三角錐で、錐の側面をつまんで使用した。 ②縄文早期の中部高地を中心とする押し型文土器文化期と、関東を中心とする撚糸文土器文化期に見られる特殊な磨石です。 ③中部高地では「特殊磨石」、関東では「スタンプ形石器」と呼ぶが、二つの土器形式の交流と、石器の共通性が興味深い。 熊谷市江南文化財センターについて 埋蔵文化財センターです。そして、展示もあるようで、また、資料の貸し出しも行っているようです。 しかし、一方で、Web上にデジタルミュージアムを開設し、活動の紹介と、出土資料の解説をされています。 今回の解説がなければ、穀摺石がどのようなものか永遠にわかりませんでした。ありがとうございます。感謝申し上げます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
縄文前期 約6,500年前 平成3年の発掘調査では、縄文時代前期の竪穴住居跡が3棟発見され、羽状縄文系土器と呼ばれる前期前半の土器が出土している。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
33中期石棒 最古級の石棒 縄文中期石棒 穴沢遺跡 約5,500年前 穴沢遺跡で検出された多数の土壙のうち、D1号土坑からは、縄文中期初頭の土器と共に石棒が出土した。これは全国的にも古い例となる。 縄文中期土器 小原遺跡 約5,400年前 平成3年の発掘では、縄文中期前半の3棟の竪穴住居址や多数の土坑が確認され、多くの土器が出土している。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
35前期 縄文前期のムラ 中原遺跡 約5,800~5,700年前 八ヶ岳の東麓に位置する本間川地区の「中原遺跡」は、前期後半の諸磯b式土器 の時期を中心とした15軒の竪穴住居址や、 200基を超える土坑(墓穴など)を検出。約5,800~5,700年前のムラ跡と判明した。 土器・石器など豊富な遺物が出土。イノシシの顔と言われる多数の獣面突起付土器や豊富な黒耀石やチャートの石器、 近畿地方の土器なども見られ、この遺跡の重要性が伺われます。 この頃、長野県産黒耀石が各地に運ばれ石器の材料とされており、諸磯b式の時期は、まさにそれが活発化する頃でもあります。 ※黒曜石を求める人々の交通路として、隣の川上村など、交通路に当たったようです。 更には、八ヶ岳西麓に豊かな縄文文化が花開く直前であり、小海町のみならず、縄文時代の動向を考える上で、極めて重要な遺跡です。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
36前期石器・土器
石鏃・石匙・原石 約5,800~5,700年前 狩猟具である石鏃や、携帯用の万能ナイフとも考えられている石匙などは、黒曜石やチャートで作られ、どちらも多量に出土している。 また、それらの材料となった原石も見られる 植物加工具・磨製石斧 約5,800-5,700年前 狩猟具である石鏃や、携帯用万能ナイフの石匙等は黒耀石やチャートで作られ、どちらも多量に出土している。 また、それらの材料の原石も見られる。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
40土器 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
41前期土器 中原遺跡
諸磯b式浅鉢形土器 約5,800~5,700年前 土器の中にはお皿状のものもある。中には円盤を重ねたような器形で、口縁部に小さな穴が並んであけられている有孔土器も含まれる。 死者を弔う副葬品と言われている。 D69土坑では、大皿のような土器が中央に伏せて埋められていた。 諸磯b式獣面突起 約5,700年前 諸磯b式土器の中には、土器の口縁部に不思議な生き物の顔が付けられている。 獣面突起と呼ばれ、イノシシをモデルにしたと考えられている。ここではこのような突起が150個近く出土している。 北白川下層系土器 約5,700年前 中原遺跡では、諸磯b式土器に混じって、近畿地方の北白川下層式の土器も発見された。 これらから西日本との結びつきも伺える。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
42前期 中原遺跡 諸磯a・b式深鉢形土器 約5,800~5,700年前 中原遺跡では復元できた土器も多い。 木葉のような模様の付く諸磯a式土器や、 細い粘土紐を貼り付けた諸磯b式の浮線文土器が多い。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
44中期 穴沢遺跡 約5500年前 中期初頭 穴沢遺跡では中期初頭頃の住居址・土坑が検出されました。復元可能な土器も複数出土している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||
45奈良時代 まぼろしの三寅剣 (さんいんけん) (7~8世紀) 元、松原諏方神社神官の畠山家に伝わる、金銀での象嵌剣。刃渡り25.4cm重さ151.72g 象嵌模様は、仏界の四天王(多聞天、持国天、他に広目天と増長天)、北斗七星などの星座、9文字の梵字真言。剣の名は棟に銀象嵌されている。 象嵌文字は、7~8世紀の飛鳥・奈良時代の特徴を表し、内容は、仏教や道教の力で邪気を払う護身の剣とされています。 この剣の伝承の由来は不明。源頼朝の重臣畠山重忠、又は、古代から中世の権力者伴野氏、更には、甲斐武田氏との関係に探る考えもある。 諏方は諏方郡のことであり、律令制初期の諏訪地方の呼び名であり、それを起源の神社であれば、そうとうに古いものが奉納されたようだ。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
46中世・平安時代 雨堤遺跡 (あめつつみ) 9~10世紀 小海町の中世 小海町が歴史書に初めて登場するのは、「前九年の役」に関連する「前太平記」です。 ※平安時代後期に陸奥国 (東北地方) で起こった、安倍一族が滅亡する1015年~1062年の戦役を、前九年、後三年の役という。 10世紀半ばには人が住み始めていたと思われます。 15世紀半ばから小海町の各集落の開発が始まったと考えられます。 信濃依田氏と甲斐武田氏(山梨県)の争いが始まり、延徳元年(1489)に武田軍が信濃に攻め入り釣鐘を奪って持ち帰り野ざらしの鐘となました。 天正19(1591)頃から、仙石氏の所領となり、悪政で小海全域の百姓が逃げ出したと記録されています。
雨堤遺跡出土 雨堤遺跡 : 平安時代高地農耕集落に於ける住居址の一例 (小海町教育
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
k x 50北沢大石棒 長野県南佐久郡佐久穂町高野町1421 いつでも撮影可、車でしか行けない。 北沢大石棒に行くために以下のナビゲーションを行いました。 私はナビに、小海町図書館からは油屋製菓店0267-86-2172 そこからは富士オートボディーサービス0267-86-2273を入れて行きました。 油屋製菓店を過ぎると案内看板がいくつか立っていますから、それを目印にするといいです。 駐車場はなく、農道の端に寄せて止めるので、田んぼの中に車を落とさないようご注意願います。 立札には、 北沢川の大石棒 今から四千数百年前、(縄文中期) 眼前に広がる南台地に生活していた人々が、 動植物の豊穣と、人間の黄泉がえりを願っての信仰のシンボルとして、 豊かに湧き上がる泉のほとりに建立したものと思われる。 なおこの石棒は、日本最大のものとして知られている。 石棒 2.2m溶結凝灰岩(佐久石) 石柱 柱状節理流紋岩 昭和62年8月 ※石材の山地はわからないが、これだけの細工ができて風化しない石材は、柱状節理遺骸にはありません。
石棒についてはいろいろな話がある。 縄文時代の石棒は、時代が変わると、倒されたり、自然に倒れたりしていた。 ①それを、掘り出した人々が、村境に建てたという話しがある。 信州の各地ではそのようなものが沢山立っていた。ところが、民俗学者の柳田等が折りからの明治の性風俗の粛清の中でそれを批判し、 ②あるいは打ち倒されたり、破壊されたり、土中に埋められたりした。 ③そしてその代わりに、安曇野などにみられる、男女の姿を描いた道祖神に置き換えられた。実はこれも遠回しの性交の表現であった。 やがて人々がそれらの由来や経緯、ワケを忘れた頃、また、土中から石棒が掘り出され、これをもう一度建てたという、、、こんな話である。 これともう一つあったんだけど、ハハハ忘れた。 |