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 北海道の縄文 №26  2022.06.11-3

  東京大学常呂陳列館 北海道北見市常呂町384
   0152-54-2387   月・祝日の翌日休館 撮影可

交通 レンタカー
近隣観光地 網走湖能取湖サロマ湖
・知床観光、網走周辺、阿寒・屈斜路・摩周湖周辺
・知床や三湖(阿寒~摩周)、網走・サロマ湖などは隣接の絶景Point。
拠点を決めて、車で巡ります。特に、早朝の摩周湖は絶景で、
摩周湖YHはとても便利な宿でした。
近隣博物館 知床周辺・網走周辺・白滝周辺
宿泊情報 知床・サロマ湖・三湖周辺は高額(3万)、網走には手頃もあり(5千)。
私の場合摩周湖ユースホステルが最高でした。安くて清潔親切。便利。
 
 
 
 目次


01外観・入口展示
03常呂町行政要覧
05森と海
06文化の出会うまち
10常呂の遺跡と発掘
20東京大学文学部と常呂町

30二階展示室
31トコロ遺跡全図
50極東圏広域年表
71もう一つの日本列島史

73旧石器時代
75縄文時代
79トコロ貝塚

100旧石器時代
110後期旧石器群


200縄文時代
201早期
210石刃鏃石器群と土器

300縄文前期
310平底押型文土器
330繊維尖底土器
350シュブノツナイ式土器

400縄文中期
410北筒式土器
440北筒式の変遷
460前・中期の
 石器・骨角器
471トコロ貝塚の貝
473骨角器


500続縄文時代
501後半期の土器分布
521続縄文前半期
523土器の変遷
527前半期の土器
551後半期の土器
561宇津内Ⅱb式
563後北式土器
571後北C2・D式
573続縄文の土壙墓

600オホーツク文化期
613オホーツク住居
※考察オホーツク人の住居
615オホーツク人のゆくえ
617オホーツク土器
621海獣狩猟
623海獣造形
627祈り
633交流交易
650オホーツク土器
 藤本編年
670オホーツク石器
680骨角器・造形物
683動物意匠遺物
695木製品

700擦文時代
720擦文土器
740擦文遺跡

800トビニタイ文化
810トビニタイ土器

900アイヌ文化期
910アイヌ文化とは
 
 
 01外観・入口展示
 02外観・内観
概観 受付 無人
私が来るので引き上げてしまいました。
ポスター

 03常呂町行政要覧 Outline of Tokoro
遺跡とホタテとカーリングのまち 常呂町
北海道オホーツク

地勢
常呂町は北緯44度7分、東経144度4分と北海道オホーツク圏の東部に位置し、東は網走市、西は佐呂間町、南は北見市と端野町(たんのちょう)と隣接しています。町の北側にはオホーツク海が面し、南東には丘陵性の山岳が連なり、北西部には平野が拓け、肥沃な農地として利用されています。
また、全国第3位の湖水であるサロマ湖の大半が町域となっています。

気象
夏は平均気温16.5℃(6~8月)と冷涼でありますが、冬は平均気温-5.0℃(12~2月)と、道内でも比較的温暖な気候です。
年平均降水量は約800mmと少なく、また全国でも屈指の日照時間に恵まれるため、夏季のスポーツ合宿やイベントが盛んな地域です。沿岸部では、1月下旬から3月にかけて流氷の接岸により海が閉ざされます。

人口
常呂町 世帯数 1,820戸 人口5,052年
※オホーツク圏(26市町村) 139,048戸 332,652人
(平成14年3月末現在住民基本台帳)

面積
常呂町 278.29㎢
※オホーツク圏 10,689㎢(新潟県より小さく、岐阜県より大きい)
※北海道の小さな町だけど、北見市の中の一つの町が岐阜県より大きいってどうゆうことだ。さすがでっかいどー!ほっかい…

オホーツク常呂町
位置
概要

 オホーツク圏市町村紹介
北海道オホーツク圏域は、恵まれた、自然環境の下、農林水産業を基幹産業としていますが、近年、スポーツ合宿や新規就農、山村留学など「ウエルカム・オホーツク」を合言葉に、圏外からのビジターを受け入れる取り組みが活発化しています。

オホーツク圏市町村 常呂町東藻琴村
女満別町美幌町
津別町斜里町
清里町小清水町
端野町訓子府町
置戸町留辺蕊町
佐呂間町生田原町
遠軽町丸瀬布町
白滝村上湧別町
湧別町滝上町
興部町西興部村
雄武町(おうむちょう)、
北見市網走市
紋別市
  ※各市町のHPをご覧ください。とても素晴らしい景観が拡がっています。一度は行ってみたいですよね。

 05森と海
 森は海の恋人、川は仲人
 漁師、山に木を植える
 
昭和30年代、常呂川上流に作られたパルプ工場の排水で、川は赤く濁り、サケが遡上する「命の川」は、無数の死骸が浮かぶ「死の川」となりました。常呂の漁民たちは、上流の街へ押し掛け、水質汚染に抗議するデモ行進を行うなど、当時としては全国的にも珍しい抗議行動を起こしました。その結果、昭和39年、全国で2番目の速さで、法律に基づく水質基準が常呂川に適用され、パルプ工場は移転を余儀なくされました。この体験を通して、常呂の漁民は、環境を守ることの大切さを肌で学び、その目線はやがて川の上流部へと向けられていきました。

「よい森なくして、きれいな水なし」「良い水をなくして豊かな漁場はない」と浜に伝えられていた古くからの言葉に基づき、「漁業を守る事は川を守ること。川を守る事は、森を育むこと。」と自らの行動により環境を回復させるため、常呂の漁民たちは、昭和50年代から植林事業を積極的に始めました。上流にあるサケマス孵化場の周囲の山林を購入し、低下していた山の保水力を回復させるため、多い年は2万本近くの植林を行ったほか、サロマ湖半に「魚付き林」11ha、常呂川沿岸に90haの土地を取得、積極的な植樹活動を展開しました。

こうした常呂漁協の取り組みは、全国的にも大きく評価され、平成4年に漁業団体として初めて第10回「朝日新聞文化賞」を受賞。また、植林活動の中心となっていた漁協婦人部は、平成8年に水産庁々長官賞を受賞しました。
常呂町では、漁民のこうした行動をきっかけに、毎年「町民植樹」を行い、環境意識の向上に向けた前全町的な取り組みを継続して進めています。

森は海の恋人
漁民の抗議デモ
常呂川に注ぐ青龍
町民植樹

06文化の出会うまち
 太古の遺跡を多数包蔵する、
 常呂町における現代の地域文化を紹介します


オホーツク流氷焼
オホーツク流氷焼は、常呂の土とホタテ、カキ、海藻などを釉薬にして焼き上げた、常呂町独自の焼き物で、最近は各種陶芸展に入賞するなど、新しい地域文化として定着してきています。
流氷焼きの拠点施設「常呂手工芸の館」では、作陶体験できる設備が整っています。

ところ文庫
町の歴史、自然、風土をテーマに、常呂町郷土研究同好会が編纂し、約20冊刊行した「とこ文庫」は、地域固有のユニークなテーマで注目を集めています。
小規模な自治体でのこのような継続した活動は珍しく、貴重な文化活動として、内外から高く評価されています。


東京大学公開講座
平成12年度から始まったこの公開講座は、東京大学文学部の全面的な協力のもと、大学と地域の連携事業として取り組まれており、今日の生涯学習活動の高まりの中、常呂町民の知的学習活動の一翼を支えています。
現在までに延べ4回(8講演)開催され、歴史、美術、宗教、環境分野など、第一線で活躍されている先生方にご講演をいただいています。

常呂町を訪れる文化人たち
●常呂町出身のサックス奏者「高橋知己」氏が取り持つ縁で、世界的ドラマ「エルヴィン・ジョーンズ」氏は、
「至上の愛コンサート常呂講演」など延べ5回のコンサート行っています。
●フォークシンガー「大塚まさじ」氏は、常呂町福山地区との関わりから「風のがっこう」という曲を作られたほどの常呂町ファンです。
●その他、ジャズピアニスト「福居良」氏、イラストレーター「沢田としき」氏など、著名な文化人が繰り返し常呂町を訪れ、町民の文化生活へ豊かな広がりを与えています。

文化の出会うまち オホーツク流氷焼 ところ文庫 東京大学公開講座
 

 10常呂の遺跡と発掘
サロマ湖の東岸から常呂に至る砂丘上には、2500軒を超える数の竪穴住居跡が現在でも埋まり切らずに残されている。
東京大学文学部では、オホーツク海沿岸地域の調査を1957年以来毎年行ってきた。特に文学部附属北海文化研究常呂実習施設が設立されてからは、調査環境に恵まれた常呂町を拠点とし、地域と一体となって研究・教育・普及活動を推進している。
主な研究テーマは、オホーツク海をめぐる地域の先住民文化の解明であり、日本列島と大陸をつなぐ「北回りの道」に注目している。

常呂の遺跡と発掘
残雪の史跡
「常呂遺跡」
竪穴部分にのみ雪が残る
史跡「常呂遺跡」

 20東京大学文学部と常呂町
 東京大学大学院人文社会系研究科長 同附属北海文化研究常呂実習施設長 東京大学文学部長 佐藤慎一

 昭和30年(1955) 夏、 常呂町でアイヌ語の現地調査を行なっていた東京 大学文学部の服部四郎教授(言語学)のもとに、常呂町住民の大西信武さんが駆け込んだところから、半世紀にわたる東京大学文学部と常呂町のお 付き合いが始まりました。映画館を経営する大西さんは、常呂町に眠る膨 大な遺跡群の調査と保存を専門家に訴えたものの芳しい反応が得られず、 窮余の一策で、たまたま常呂町を訪ねた言語学者の服部教授に直訴したわけです。服部教授は帰京後、同僚の駒井和愛教授(考古学)にこの貴重な 情報を伝えました。戦前に中国大陸や朝鮮半島に持っていた調査のフィー ルドを終戦とともに失った考古学研究室にとって、常呂遺跡の情報はおそ らく飛び付きたくなるほどの魅力ある情報だったことでしょう。さっそく昭和32年(1957) から本格的な調査が始まり、昭和48年(1973)には文学部附属北海文化研究常呂実習施設がサロマ湖畔に建設されて、研究者が常駐して常呂遺跡の調査研究に従事するようになりました。

 半世紀にわたるお付き合いは、 東京大学文学部と常呂町を太い絆で結ぶようになりました。常呂実習施設の運営は、多くの面で常呂町の皆様の支援によって支えられています。東京大学文学部は、多少なりともその恩返 しをしようと、平成12年(2000)夏から「東京大学文学部ところ公開講座」を開始しました。夏と冬の年2回のペースで開講され、それぞれ文学部教官二 名が常呂町に赴いて講義を行い、受講生には学部長名の修了証も発行し ています。 さしずめ東京大学公開講座のミニ版と言えるでしょうか。 最近の 公開講座は平成14年(2002)2月23日に行われましたが、 日本美術史と仏 教哲学をテーマとする講義が行われ、 補助椅子が出るほどの盛況でした。 常呂町が「東京大学文学部の公開講座のある町」としても著名となるよう、 及ばずながら微力を尽くしたいと思っています。
  2002年5月18日

東京大学文学部と常呂町


「スグ ユク アトフミ」
 東京大学が北海道常呂町で考古学調査を開始したのは1957年のことである。きっかけはアイヌ調査にあった。といっても、北海道アイヌではなく、樺太アイヌである。 しかも、その言語学的調査であった。 常呂は第二次大戦後の樺太アイヌの引き上げ地の一つであり、失われつつある樺太アイヌ語の話し手がいることを聞きつけた言語学の服部四郎教授 (1908-1995) がそこに足を運んだことに始まる。 藤山ハルさん (1900-1974) というその話し手を得て調査を進めるうちに服部教授が出会ったのが、 自分のみつけた遺跡を専門家に調査してもらいたいと念じていた地元の考古愛好家、大西信武氏(1899-1980)である。

 大西氏がいう遺跡は、後に世界最大規模の竪穴住居群と判明する国指定史跡「常呂遺跡」であった。氏の熱意にうたれた服部は東京にもどった後、 考古学の駒井和愛教授(1905-1971)にこのことを伝える。 駒井は遺跡の重要性をすぐ認識し、大西氏に電報を打った。「ハットリシヨリトコロイセキニツキキイタ スグ ユク アトフミ」。これ以後、常呂町と東京大学の考古学専攻との長い交遊が始まった。


常呂実習施設の設立に尽力した人々

駒井和愛博士
1906年明治8~1971(昭和46)
 博士は東洋考古学の権威で、戦前は中国で調査を行っていたが、戦後は大陸と関係する北海道をフィールドとした。
そのような折に、大西信武氏・常呂町との出会いがあり、1957年から東京大学による常呂での調査が始まった。
 1968年に東京大学常呂実習施設が設置される基礎を固められたのが駒井博士である。

大西信武氏
1899(明32)~1924年(昭和56)
 氏は1924年(大13)に常呂に移住して常呂遺跡を発見し、その保護に努めた。そして、樺太から引き揚げていた樺太アイヌの藤山ハル嫗のところに言語調査に来ていた、元東京大学の服部四郎博士と出会う。そこで遺跡のすばらしさを説き、駒井和愛博士を所に招聘した。
後にはトコロ実施雄施設の建築にも尽力されている

服部四郎博士
1909(明42)~1995(平7)
 博士は、東京大学文学部言語学研究室に在職中(1955)(昭31)から樺太アイヌの言語調査で常呂町を訪れた。
大西信武氏、藤山ハル嫗と出会い考古学の駒井和愛博士を常呂に呼び寄せた。
東京大学と常呂町の関りの上で大きな 役割を果たしたのが服部博士である。

スグ ユク アトフミ 常呂実習施設の設立に尽力した人々
 
 

 30二階展示室


 31トコロ遺跡全図

 栄浦第一(STO1)、第二(TK29)、常呂竪穴群(TK28) 地形図
         

 常呂町広域遺跡地図 
遺跡地図 西から、砂州上のワッカ遺跡ライトコロ川口遺跡常呂遺跡群

東端の、常呂川河口遺跡トコロチャシ南尾根遺跡トコロ貝塚トコロチャシ

河川は西から、佐呂間別川ライトコロ川常呂川

 50極東圏広域年表
    めったにお目にかかれない貴重な比較年表です 
旧石器~弥生時代

縄文早期~奈良時代

古墳時代~江戸時代


旧石器~弥生時代

中国  ロシア(アムール流域) 沿海地方 北海道(常呂) 本州 
旧石器時代 
(マリタ)

オシポフカ文化
(ガーシャ
(オシノフカ)

(ウスチノフカⅠ)
旧石器時代

(岐阜第二)

細石刃文化
 旧石器時代
新石器時代  
ノヴォペトロフカ文化 



ヴォズネセノフカ文化
(ウスチノフカⅢ

ルドナヤ文化

ボイスマン文化
ザイサノフカ文化
細石刃文化 

(トコロ貝塚下層)
(トコロチャシ南尾根)
(岐阜第二)
(トコロ貝塚)
 縄文草創期

早期

前期
中期
青銅器時代   殷   (トコロチャシ南尾根) 後期
 初期鉄器時代  秦
前漢
ウリル文化   ヤンコフスキー文化
クロウノフカ文化 
(常呂川河口 晩期
   新
後漢

ポリツェ文化
(栄浦第一)
(常呂川河口)
 弥生前期

縄文早期~奈良時代
古墳時代~江戸時代

中国  ロシア(アムール流域)・沿海地方 北海道(常呂) 本州 
100
200
300
後漢
三国
ポリツェ文化 続縄文時代 弥生後期
古墳時代
400
500
600
南北朝 同仁文化

唐     渤海
靺鞨文化 オホーツク文化
擦文時代・トビニタイ文化
古墳時代
飛鳥時代
       奈良時代
900
1000
1100
五代
北宋    契丹
南宋    金
バクロフカ文化 女真文化 (トコロチャシО地点)
(常呂川河口遺跡)

栄浦第二
(ライトコロ右岸)
平安時代



鎌倉時代
1200
1300

アイヌ時代
(ライトコロ川口)
コシャマインの戦い1457
南北朝
室町時代
        安土桃山時代 
 1600 清    シャクシャインの戦い1669
(トコロチャシ)
国後目梨の戦い1789
江戸時代 

 70

 71もう一つの日本列島史
 日本列島には、本州・九州・四国に広がる「中の文化」、沖縄など南島の「南の文化」、そして、北海道を中心とした「北の文化」と言う三つの文化が考古学的に捉えられている。
 北海道の場合、その独自の歩みは、縄文文化が終わった段階の約2400年前に始まり、その後、続縄文文化、擦文・オホーツク文化、アイヌ文化と言う歴史の流れがある。

 中の文化地帯が弥生文化に変わる頃、北の文化地帯では、縄文縄文伝統を引き継いだ鉄石併用文化である、続縄文文化に変わる。
そして、アイヌ直接の祖先となる擦文人による擦文文化、北方系のオホーツク文化の渡来がある。

このように、北海道地域は、独自の歴史を歩み、アイヌ文化の成立・確立へ進んできたのである。特にアイヌ文化の成立に向けて重要な影響与えたのが、本展示のテーマの一つのオホーツク文化であると言えよう。

もう一つの日本列島史
古代日本の
三大文化圏
・「北の文化」
  「ボカシ」の文化
・「中の文化」
  「ボカシ」の文化
・「南の文化」
 
 


 73旧石器時代

 旧石器時代は、最古の道具の出現から農耕・土器が出現する以前までの人類最古の時代である。
第四紀更新世(約250万年前~約1万年前)にほぼ対応し、前期(250万~30万)・中期(30万~3万)・後期(5~1万)の3期に区分される。

 北海道では、中期旧石器時代に遡る可能性のある石器群について指摘されてはいるものの、明確なものとしては、後期旧石器時代(約4万年前~約1万年前)の到来を待たねばならない。
 北海道には良質の石器素材である、黒曜石が豊富に産出し、細石刃石器群の遺跡を始めとする、後期旧石器時代の重要な遺跡が多く分布している。

 この時期の北海道は、氷河期に相当しており、大陸・サハリンと陸橋でつながり、各種の動物群とそれを追う人類の集団が北海道に入ってきたと考えられている。
 細石刃が東北アジアに広く分布する楔形石核荒谷型彫器などを技術的な基盤とする一方で、
本州方面からナイフ形石器や、台形石器の要素が入り込むなど、石器にも南北の要素を見つけることができる。

旧石器時代 岐阜第二遺跡出土
石器群
岐阜第二遺跡
約2.5~2.4万年前。
黒曜石が主体であるが頁岩も使われている。
彫器・ベック状先頭石器や、石刃・剥片・石核が出土する。
 


 75縄文時代

 後氷河期の温暖化に伴って、世界的に気候は現代により近くなっている。その頃から、北海道を含めた日本列島では、自然の生み出した資源の多彩な獲得により成立した縄文文化が展開する。
縄文時代と言う呼称は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期を通じて縄目の文様を特徴とした土器が使われたことに由来し、約1万年の長きにわたって今日ま
での日本列島史の基盤がつくられた。

 縄文時代の開始は土器出現とするのが一般的である。
草創期の土器が日本列島内の発明か否かは明らかではないが、アムール川下流域のオシポフカ文化など大陸側からの影響も考えられている。その後、
早期になると、北海道でも土器や竪穴住居が多く見られるようになり、縄文海進以降、
中期の東北日本全域における遺跡・以降数の増大に表される、縄文文化の繁栄につながった。

後期気候寒冷化に伴いに遺跡数は減少するが、汎列島的な文化接触は、より高度なかたちで持続し、多くの遺構や遺物に変化を与えた。
この流れは、
晩期にも続くが、晩期後葉において、朝鮮半島から九州北部への体系的な稲作文化の到来に代表される、一つの画期が訪れたことで、縄文文化の社会構造は少なからず変化することとなった。

縄文時代


 磨消縄文系土器の分布
北海道:1船泊 2トコロチャシ南尾根 3エリモ 4美々4  5 手稲 6 日吉
東 北:7十腰内 8片符沢 9神矢田
北 陸:10三仏生 11本江
近 畿:12桑飼下
東 北:13立石 14貝鳥 15西の浜 16川原
関 東:17小山台 18高井東 19大森 20小仙塚
中 部:21大花
東 海:22八王子貝塚
四 国:23波方港海底遺跡

※北海道にも多く分布する磨消縄文系土器だが、その発祥は東北地方である。
縄文時代中期後半の大木89式土器から、磨消縄文を取り入れデザインが多用され、やがて亀ヶ岡式土器となって全国に流布します。

磨消縄文系土器の分布

1船泊 2トコロチャシ南尾根 3エリモ 4美々4  5 手稲 6 日吉
8片符沢
13立石 14貝鳥

7十腰内 8片符沢 9神矢田
10三仏生 11本江
13立石 14貝鳥 15西の浜 16川原

11本江、12桑飼下
16川原、17小山台 18高井東 19大森 20小仙塚
21大花、22八王子貝塚
23波方港海底遺跡
 77遺跡写真
石刃鏃石器群
トコロチャシ跡遺跡群
縄文早期 約8~7千年前

石刃鏃・石鏃・尖頭器・掻器・彫器・磨製石斧・石刃・剥片など、121点からなる石器群である。土器片も伴っている。
縄文前期 竪穴住居址
岐阜第二遺跡17B竪穴
長軸約10mと大型。角の丸い、胴張りの五角形を呈する。住居中央より矢や左側に炉がある。
無文土器(網走式)
トコロ貝塚
縄文中期 約4500年前

耕作等により、地中の貝層が一部掘り起こされている。
地表面の貝の分布範囲から、貝層の広がりがある程度予測できる。
縄文後期 𩸽潤式土器
トコロチャシ南尾根遺跡4号竪穴壁上
縄文後期 約3900~3400年前

竪穴の壁上から出土した。床面からはウー射ており、竪穴には伴っていない

 79トコロ貝塚 縄文中期 約4500年前
 トコロ貝塚は北海道東部を代表する貝塚である。カキを主体とした厚さ0.2~1.0mの貝層が、南北200mにわたり拡がっている。貝層からは、
縄文中期後半北筒式トコロ6類土器のほか、多数の石器、骨角器が出土している。
 また、ハマグリなどの暖かい地域にいる種類を含む、貝類・魚骨・海獣骨も出土した。
ハマグリは、現在、宮城県の松島湾が北限であるので、当時の気候の暖かさを知ることができる。

 トコロ貝塚の貝層の下からは、縄文早期・前期の様々な遺物・遺構が検出されている。特に貝層下の生活面で、石刃石器群とトコロ14類土器の共伴が確かめられた事は、学史上、極めて重要な発見となった。
 また、貝層の上層からは、続縄文時代の遺物擦文時代の竪穴住居と遺物も検出されている。

 このようにトコロ貝塚からは、縄文中期以外にも数々の成果が得られており、そのことがところ貝塚の重要性をより高めている。

トコロ貝塚
トコロ貝塚Eトレンチ貝層
土器出土状況
※トコロ貝塚(縄文中期後半 約4500年前)
 土器型式 トコロ5類、トコロ6類 =北筒式土器
 
 


 100旧石器時代


 110後期旧石器群

後期旧石器時代の石器群
岐阜第二遺跡
後期旧石器時代(約2万年前)

まとまって出土した、一つのユニットと考えられる石器群である。
素材は、白色の珪質頁岩で、細石刃石核、彫器、石刃、剥片などが認められる。
従来の石器群とは、組成が異なっていたことから、「千歳市祝梅下層遺跡三角山地資料」などとともに注目を集めた。

後期旧石器時代石器群
旧石器 白色珪質頁岩とは:稚内層珪藻頁岩である

稚内珪藻頁岩とは:
 北海道の稚内地方の宗谷天北地域で産出し、海洋性単細胞の珪藻プランクトンの死骸が推積して、2500万年前に出来た珪藻土が地上に隆起する時に、地圧と地熱による地質的変性を受けて岩石化したページ(頁)状岩石です。

頁岩とは:粘土が固まってできた水成岩。板状でやわらかく、薄くてはがれやすい。泥板岩。
 


200 縄文時代


 201縄文時代早期

 210石刃鏃石器群と土器 
石刃鏃石器群と土器
トコロ貝塚 Fトレンチ
縄文時代早期(約8000年前)

トコロ貝塚で貝層下の生活面より出土した一括資料。
各種石器群(石刃鏃、石刃、尖頭器、削器、石核、石斧、石錘、砥石、石皿、凹石、敲石)と土器(トコロ14類)が共伴して出土した。
石刃鏃を伴う石器群が土器と共伴することを決定づけた、学史的に重要な一括資料である。

 石刃鏃石器群
石皿 原産地の黒曜石
白滝村赤石山
石斧
石錘
掻器・常呂型ナイフ
石刃鏃石器群と土器
石刃鏃石器群と土器 凹石 石刃鏃 削器
石刃核 石刃

 230石刃鏃に伴う土器
トコロ14類土器
トコロ貝塚 Fトレンチ
縄文時代 早期(約8000年前)

石刃鏃石器群に伴う土器として注目された土器である。
平底で、口縁部には、3段の浅い類竹菅文、もしくは絡条体圧痕文が施され、胴部には昨今ないし、条痕が確認できる。裏面にも条痕がある。
石刃鏃石器群に伴う土器には、このほかに浦幌式土器や、女満別式土器などがあるが、各々文様が異なっており、大陸を含めて系統関係が議論されている。
浦幌式(平底、絡条体圧痕文) 女満別式(押型文)

石刃鏃石器群の土器 トコロ14類土器
石刃鏃に伴う土器
 

 300縄文前期

 310平底押型文土器

平底押型文土器
岐阜第二遺跡17号竪穴西外(右)
トコロ貝塚(左)
縄文時代前期 (約6000年前)

平底押型文土器」は、縄文前期後半から中期前半の道東北部に分布する、回転施文の押型文を持つ平底土器を一括した呼称である。

常呂川河口遺跡で大量に出土し、新旧2つの群に細分されている。
トコロ貝塚で貝層下より出土したことから、トコロ6類土器より古いと考えられていたが、常呂川河口遺跡からはそれを一部覆す層位データが得られている。

岐阜第二遺跡17号竪穴西外 トコロ貝塚

 330上
 繊維尖底土器
岐阜第二遺跡 17B号竪穴(右)・竪穴西外(左)
縄文時代前期 (約6000年前)

繊維尖底土器は、胎土に多量の繊維を含む尖底の土器群で、縄文前期前半に広く北海道全域に分布する。

文様上、
縄文系のタイプ(縄を転がした文様)と、
押型文系のタイプがあるが、両者はほぼ併行しており、後者の分布がやや東側に偏る。
展示の土器は、縄文系のタイプで、右の土器には撚糸文、左の土器には斜行縄文が施されている。

※胎土に繊維を多く含む土器  引用「前期の土器」
 早期後半から全道に広がった絡条体圧痕文・組紐圧痕文に続いて、縄文前期は、東北地方北部から広がった胎土に繊維を多く含む、縄文尖底土器文化圏となる。
 縄文尖底土器は、土器の全面を縄文や撚糸文、ときには竹管文で飾った縄文土器の名にふさわしい土器で、
函館市春日町遺跡で出土した春日町式土器や、椴法華村で出土したトドホッケ式土器などがある。
噴火湾沿岸から道央部、道東部にかけては、道南西部の縄文尖底土器のバリエーションである静内町中野遺跡を標式とする中野式土器
栗沢町加茂川遺跡を標式とする加茂川式土器、名寄市日進遺跡を標式とする日進式土器
網走市大曲洞窟遺跡から出土した土器を標式とする綱文式土器などである。

繊維尖底土器 繊維尖底土器

 平底無文土器
岐阜第二遺跡 17B号竪穴埋土
縄文時代前期 (約6000年前)

縄文前期後半になると、道東部では様々なタイプの平底土器が認められるようになる。
この土器は無文タイプの土器である。
この土器が出土した岐阜第二遺跡からは
 網走式土器
 撚糸文土器
 シュブノツナイ式
 平底押型文土器
なども出土している。藤本強氏は、これら各タイプからある特徴を共有する。一群を抽出し、「岐阜ⅡA群土器」として一括した。

平底無文土器

 網走式土器
岐阜第二遺跡17B号竪穴
縄文時代前期 (6000年前)

網走式土器は、厚く太い帯状の帯状の隆起帯を持つ無文平底土器で、縄文前期後半の網走・上川地方に分布する。
網走市向陽ヶ丘で最初に発見されたのでこの名が与えられた。
常呂川河口遺跡から大量に出土した平底押型文土器に網走式が共伴しなかった点からすると、網走式は平底押型文土器よりやや古いと考えられる。

網走式土器

 350シュブノツナイ式土器
岐阜第二遺跡(右)、トコロチャシ跡遺跡(左)
縄文時代 前期 (6000年前)

シュブノツナイ式土器は、櫛目文、刺突文を特徴とする平底土器で、縄文前期後半~中期前半の道東北部に分布する。
標式遺跡は湧別町 信部内 長野遺跡である。
常呂川河口遺跡では、平底押型文土器の古手の群に伴って出土しており、編年上の位置づけが確立しつつある。なお、この土器の櫛目文については、大陸との関連を指摘する説もある。

シュブノツナイ式土器 平底押型文土器 シュブノツナイ式 シュブノツナイ式 シュブノツナイ式土器 シュブノツナイ式
 

 400縄文中期
 410上
北筒式土器(トコロ6類)
トコロ貝塚
縄文時代、中期 (約4500年前)

縄文中期になると厚手筒型の土器が道内全域で認められるようになる。北筒式土器は、縄文中期後半に道東部を中心として分布する型式群で、「北海道式円筒土器」の略称とされている。
トコロ6類は、最も古手の北筒式土器で、トコロ貝塚の貝層から出土した土器を標式として設定された。胎土に繊維を含み、口縁部に断面三角形の肥厚帯を持つ例が多い。

北筒式土器(トコロ6類)
中期4500年前
トコロ貝塚
 420下
 北筒式土器(トコロ6類)
北筒式土器(トコロ6類)
中期4500年前
トコロ貝塚
 430
  ※この棚は逆光によって撮影不能と判断し未撮影です。  

 440北筒式の変遷

北筒式土器(トコロ5類?)
 岐阜第二遺跡
 縄文時代中期 (約4500年前)

北筒式トコロ5類に近いが、文様はかなり特殊な土器である。4個の山形突起があり、突起から垂れ下がる隆起帯が口縁部を巡っている。おそらく、北海道中央部の土器の影響を受けたものであろう。


北筒式土器(北筒ⅢA式)
 トコロチャシ南尾根遺跡
 縄文時代、中期 (4500年前)

北筒式土器の編年は、トコロ6類→トコロ5類→北筒ⅢA式→羅臼式とされている。
この土器は北筒ⅢA式と羅臼式の中間的な要素を呈している。
なお近年ではトコロ5類以降は縄文後期とする見解が主流であるが、

トコロ6類からから羅臼式までの型式変遷自体には切れ目がなく、筒型土器の伝統が継承されている。

北筒式土器(トコロ5類?)
北筒式土器(北筒ⅢA式)
 450

 460縄文前期・中期の石器・骨角器

 北筒式土器に伴う石器
  トコロ貝塚 縄文中期 約4500年前
常呂貝塚A~Eトレンチの貝層中から、縄文中期の北筒式土器(トコロ6類)に伴って出土した石器類は幾つかあるが、各種尖頭器が半数以上を占める
当時の狩猟体系の特色を浮き彫りにする資料である。

※石器の大半が尖頭器だった。
 縄文中期の常呂には、大型陸獣が多く残っていて、狩猟対象になっていたのでしょうか。
 それとも、トド・アザラシなどが陸上に上がって来たものを狩猟していたのでしょうか。
 しかし、尖頭器生産工房ではなかったようです。

北筒式に伴う石器群
掻器・石斧・石鏃・尖頭器
掻器・石斧・ナイフ
?・石斧・掻器
     ・石斧
北筒式土器に伴う石器群 北筒式に伴う石器群

尖頭器・石斧・石鏃
・ナイフ・? ・尖頭器
・石斧・掻器・尖頭器
北筒式に伴う石器群

尖頭器・石斧・矢柄研磨器
穴のある石は火切り石?

 縄文前期の石器・骨角器

  トコロ貝塚下層の骨角器
   トコロ貝塚 縄文時代 前期~中期(約6000~4500年前)

   トコロ貝塚Eトレンチの貝層下土層から出土したものだが、○○との○○中詳しい狩猟時期は不明である。
   左はへら状製品、右は大型の掘り具。
  
コロ貝塚貝層下の骨角器
前~中期
トコロ貝塚貝層下の骨角器
前期~中期
(約6000~4500年前)

大型堀具
(骨角器)
・石鏃
・掻器・ナイフ
・砥石
・骨鏃
縄文前期の石器・骨角器
縄文前期
 470

 471トコロ貝塚出土の貝類
   トコロ貝塚
   縄文中期 約4500年前
トコロ貝塚を形成する貝は、マガキ、エゾイガイウバガイホタテガイタマキビ類などである。
砂泥性の貝類に加え、岩礁性のものも出土している。


 473北筒式土器に伴う骨格器群
 トコロ貝塚
 縄文時代、中期(約4500年前
トコロ貝塚A・D・Eトレンチ貝層から北筒式土器(トコロ6類)に伴って出土した骨角器群である。
銛頭、釣針、骨鏃、骨針、刺突具、ヘラ等で構成されている。縄文中期オホーツク海沿岸の骨格器の実態を示す資料である。

北筒式土器に伴う骨角器群
骨鏃
用途不明

上段左は六角形の〇状の加工品。
舟のミニチュアに見える。
上段右も加工品であるが用途はわからない。垂飾の類であろうか。
刺突具

ヤス状刺突具。柄につけて使用。
基部のキザミやエグリなどは固定用の加工と考えられる。
銛頭
銛頭
北海道に特徴的な○○式・○○式の回
転式銛頭。この時期のものは明確な索
溝を持たない。○○の○○は縄文時代
の銛頭によく見られる。
へら

いずれも○○を○○している。
釣針

単式釣針の軸部破片
骨針

縫い針の破片。
左は頂部に糸通しの孔がある
 


 500続縄文時代

水田稲作が導入され、九州・四国・本州が生産経済を基盤とする弥生時代へと移行した頃、北海道では水田稲作は導入されず、縄文時代以来の狩猟採集経済を基盤とする文化が続いていた。「続縄文」とは、北海道のこの時代・文化を指す用語である。

この時代の
前半期は各地域毎に異なる文化が展開するが、
後半期には、文化内容が斉一化し、東北地方への進出も認められるようになる。

文化内容は、地域・時期毎にやや異なるが、縄文の多用された土器と、石器と金属器の併用は、この時代を特徴づける要素といえよう。

 「続縄文」と言う言葉には停滞的なイメージがあるが、新たな発見があることも見逃せない。
特に、漁労や海獣狩猟技術の発達、本州方面やサハリン・千島方面への交流の拡大、鉄器の導入などは、環境や周辺諸文化への新たな対応として注目されよう。
 続縄文時代を転換点として、北海道は本州・四国・九州とは異なる歴史を刻み始める。後の擦文時代からアイヌ文化へつながる流れのはじまりとして、続縄文時代は時代区分上重要な意義を持つ。

続縄文時代
上に記述

 501続縄文後半期の土器分布 
続縄文時代後半期(3~5世紀)における土器型式の分布。
サハリン・北海道・東北各々の地域の土器が広域に分布を拡大し、北海道で交錯する。

続縄文後半期(3-4c)の土器型式分布圏

後北C1C2・D式(北海道発祥)
鈴谷式(サハリン発祥)
天王山式(東北地方発祥)
続縄文後半期の土器分布
後北C1式・後北C2・D式土器
 サハリン南部・北海道全土・東北地方全域・越後平野
鈴谷式土器
 サハリン全土・北海道オホーツク海岸・サロベツ-石狩低地
天王山式系土器
 石狩低地・道南・東北・越・関東・中央高地
・非在地系土器が出土した主な遺跡
 鈴谷常呂川河口ピラガ丘坊主山K135フゴッペ
 幕川・山王内越天王山

赤:後北式文化圏 青:鈴谷式文化圏 緑:天王山式文化圏
続縄文後半の土器分布

赤:後北式文化圏 サハリン南部、択捉島以南、東北地方と新潟県以北
青:鈴谷式文化圏 サハリンからオホーツク海沿岸、石狩低地以北の日本海沿岸
緑:天王山式文化圏 東北北陸地方、石狩低地以南の道南地方 引用


 521続縄文時代 前半期(紀元前4~紀元後1世紀頃≒弥生時代) 後半期(紀元後2~6世紀頃≒古墳時代)

「埋甕」と死産児埋葬
 岐阜第二遺跡

墓に伴う副葬品
 岐阜第一遺跡 続縄文前半 前3世紀~後1世紀

「埋甕」と死産児埋葬

墓に伴う副葬品 墓に伴う副葬品 墓に伴う副葬品

 523 続縄文土器の変遷

 525

続縄文時代 初頭の土器  緑ヶ岡式➡宇津内式へ移行期
 岐阜第三遺跡
 続縄文時代 初頭(前3世紀)

続縄文時代初頭に相当する土器である。編年上は 緑ヶ岡式 と宇津内式 の間に位置する。
型式学的にも両者の中間的様相を呈しており、宇津内式に近い底部形態と、緑ヶ岡式の口縁部が併存する。
続縄文時代初頭では、全道で土器形式の地域圏が大きく変動し、型式圏の再編が進行する。その過程を知る上で、この時期の資料は注目を集めている
続縄文初頭の土器

恵山式の要素を持つ土器 恵山式宇津内式へ移行期
 栄浦第一遺跡
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

恵山式土器は、続縄文時代前半期の北海道南西部に分布する土器である。
この土器は、栄浦第一遺跡から出土したものだが、器形・文様帯区画方法の面において、恵山式土器の要素が極めて強く認められる。
道東部とそれ以西の地域間交流を示す資料である。
恵山式の要素をもつ土器

宇津内Ⅱa式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

続縄文時代前半期の北海道では、各地方ごとに特色を持った土器文化が展開する。
宇津内Ⅱa式土器は、網走・斜里・北見地域を中心に分布する土器型式であり、常呂町宇津内遺跡を標式とする。

宇津内Ⅱa式土器
 常呂町各遺跡出土
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

宇津内Ⅱa式土器の時間的変化は、二つの点によくあらわれている。
一つは文様の総合飾りつけの発達で、平縁(0単位)から均等な4分割(4単位)へ。
さらに正面と側面の文様が異なるデザイン(2×2単位)へと変化する。
もう一つは貼付文の変化で、古い土器には貼付文がなく、新しくなるに従い、貼付文が発達していく。


宇津内Ⅱa式土器
 常呂町各遺跡出土
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

宇津内Ⅱa式土器を特徴づける文様は、口縁部にある。器面内側から施文された「突瘤文」である。ほかに、縄文晩期以来の伝統である口縁部の縄線文、粘土瘤や粘土紐を器面に貼り付ける貼瘤文・貼付文なども特徴的な文様と言える。


宇津内Ⅱa式土器
 栄浦第一遺跡
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

大型の土器である。右は竪穴住居跡から出土した。左は分布調査で出土した物だが、「埋甕」の可能性もある。


 527 前半期宇津内Ⅱb式 下田ノ沢式Ⅱ
宇津内Ⅱb式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

宇津内Ⅱb式土器は、Ⅱa式に後続する土器形式で、やはり網走・斜里・北見地域を中心に分布する。型式学的にもⅡa式の伝統を継承し、スムーズにⅡb式へ移行する。

Ⅱa式との違いは、
口縁部に突瘤文に替わって貼付文が巡る点
貼付文がより一層発達する点
器形や地文のバリエーションが減り、単一化する点
口唇部断面形が尖る点などである。
    宇津内Ⅱb式土器
 トコロチャシ跡遺跡(左)・栄浦第一遺跡(右)
 続縄文前半期 (前3世紀~前1世紀) 

宇津内式の一部は、かつて「後北式北見型」と呼称されていた。
この旧名の示す通り、宇津内式と道央部の後北A式~C1式には共通する要素もある。
最も目立つのは、貼付文の発達が連動する点であろう。
両型式とも新しくなるに従い、貼付文が発達し、さらに貼付文上の刻みが消え、微隆起線化する、と言う変化を辿る。

宇津内Ⅱb式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 前半期 (前3世紀~前1世紀)

宇津内式と道央部の後北式は、文様変化に共通する部分もあるが、文様デザインの原則は異なっている。
後北式は縦4単位の文様割りつけを基本とし、縦横の「線対称」が〇〇されるのに対し、
宇津内式では正面と側面を区別した文様割りつけが発達する。
ちなみに宇津内式の側面に付けられる吊耳状上の突起は、純粋な装飾で、紐で吊るした痕跡は認められない。


下田ノ沢Ⅱ式土器
 トコロチャシ跡遺跡出土
 続縄文時代、前半期 (前3世紀~前1世紀)

下田ノ沢式土器は、宇津内式と併行する型式で、釧路地域を中心に分布する。
Ⅰ式とⅡ式に細別されており、前者が古い。

この土器は器形、地文、貼付文の意匠など、基本的な特徴は下田ノ沢Ⅱ式と同じだが、
口縁部の縄線文などに宇津内式の要素が認められる。
常呂と釧路方面との交流を示す土器といえよう。

 


 551 続縄文後半期(紀元後2~6世紀頃≒古墳時代)

 553
     宇津内式➡後北式(後期北海道薄手縄文土器)
 561
宇津内Ⅱb式最終末の土器
 岐阜第二遺跡 墓坑28
 続縄文時代 後半期 (1~2世紀)

続縄文時代後半期になると北海道中央部で成立した 後北C1式が全道に分布を拡大する。

この土器は宇津内Ⅱb式が、後北C1式の影響を受けて変容したもので、
地文の帯縄文、貼付文の意匠などに後北C1式の要素が認められる。
この土器は、右の後北C1式と入れ子になって墓坑に埋納されていた。

宇津内Ⅱb式
最週末の土器


熊の意匠の突起を持つ土器 (宇津内Ⅱb式)
 岐阜第二遺跡、墓坑28
 続縄文時代、後半期 (1~2世紀)

口縁部に熊の頭部をかたどった突起が4ヶ所付けられた、後北C1式土器である。
続縄文文化の熊意匠は、前半期の道西南部に拡がる恵山文化で多く認められるが、後半期のものは珍しい。

この土器は、器形・文様とも後北C1式そのものであるが、○○文の代わりに○○状の沈線文が施されるなど、、道東部的な要素も若干認められる。

熊の意匠の突起をもつ土器
クマの突起に・・・

   宇津内式➡後北式


 563後北式土器
後北C1式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 後半期 (1~2世紀)

後北式とは「後期北海道式薄手縄文土器」の略称で、現在はA,B,C1,C2,D式に区別されている。
北海道中央部で、A式が成立した後、C1式の段階で全道に分布を拡大する。
後北C1式の文様は、同心円とそれを連結するモチーフを線対象に配置して構成されている。
このデザインがアイヌ文様の起源となったと言う学説もある。
後北C2・D式 注口
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 後半期 (1~2世紀)

後円部近くに注ぎ口をつけた土器である。実際に液体を注ぐこともできるが、中には注ぎ口が高すぎて実用に適さないものもある。注口の機能は、実用と装飾の両面から考える必要があろう。

後北C2・D式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 後半期 (3~4世紀)

後北C2・D式の時期になると、この形式が全道を覆うようになる。

分布の中心は北海道であるが、北は南地島やさはりん、南は東北から新潟県までの広い範囲で出土が確認されている。
後北C2・D式土器
 常呂町内各遺跡出土
 続縄文時代 後半期 (3~4世紀)

後北C2・D式土器の機種には、大型の深鉢、中型の深鉢、小形の鉢、中型・小型の浅鉢、皿などがあり、
大型の深鉢以外には各々注口付きの土器がある。

以上の豊富な器種構成はそれ以前の後北式にはなく、この型式を特徴づけるものと言える。手前左は深鉢に吊耳のついた珍しい例である。
 571
後北C2・D式
 トコロチャシ跡遺跡。
 続縄文時代 後半期 (3~4世紀)

後北C2・D式土器は、分布は広範囲に及ぶが地域差は少ない土器である。
しかし、細かく見ると、やはり地域差がある。

道央部と道東部間の地域差で最も注目されるのは、文様割付原理の差である。「本場」の道央部では、4単位の文様割付規則が長期間維持されるのに対し、
「影響先」の道東では、その規則がすぐに破られ、いい加減な割付となる。

後北C2・D式 地域差

後北C2・D式
トコロチャシ跡遺跡
続縄文 後半期
後北C2・D式
トコロチャシ跡遺跡
続縄文 後半期

 572
後北C2・D式最終末の土器
 栄浦第一遺跡
 続縄文 後半期 (3~4世紀)

この土器は、器形・文様は後北C1・D式の特徴を有するが、後円部には円形刺突文が施されている。
円形刺突は後続する北大式に特有の文様であるので、この土器は後北C2・D式の最終末に位置付けられている。

後北C1・D式最終末の土器

 続縄文終末→擦文初頭
  後北式北大式

北大Ⅰ式 注口土器
 トコロチャシ跡遺跡
 続縄文 後半期 (4~5世紀)

北大式土器は、続縄文時代最終末~察文時代初頭に位置づけられている土器形式で、北海道大学構内出土土器にちなんで命名された。
古い順にⅠ・Ⅱ・Ⅲ式に区分され、北大三式以後を擦文時代とする見解が主流であったが、近年では再検討が試みられている。
この土器は機種・器型に後北C2・D式の影響があるが文様には北大Ⅰ式特有の沈線文が施され。

北大Ⅰ式 注口土器

参考資料
青森県出土の北大Ⅰ式土器
 青森県八戸市白銀町出土
 続縄文時代 後半期 (4~5世紀)

北大Ⅰ式土器は、北海道を中心に分布するが、東北北部でも出土が認められる。
この注口土器は後北C2・D式に近い特徴を持つ北大Ⅰ式土器である。
昭和30年に八戸市で発見され、平成11年に当館に寄贈された。

東北の北大式



参考資料
サハリン出土の鈴谷式土器

 サハリン(旧樺太)多聞泊出土(1924年)
 続縄文時代 後半期? (3~4世紀?)

鈴谷式土器はサハリン中部から南部と、北海道北東部を中心に分布する土器である。
オホーツク文化前期の十和田式土器よりも古く位置付けられており、オホーツク文化の成立にも関係する資料とされる。

この土器は、サハリン南部に多く見られる櫛目の文様が施された土器で、旧樺太南部西海岸の多聞泊(現・フラウグ村カリーニナ)で対象11年に採集された。

サハリンの鈴谷式土器

 573続縄文の土壙墓
続縄文後半期 土壙墓
岐阜第二遺跡 墓坑28

長径137cmの土壙墓。宇津内Ⅱb式最終末の土器と、後北C1式土器が、入れ子になって発掘された。
  続縄文後半期 土壙墓
トコロチャシ跡遺跡 ⅩⅢ-21墓坑  長径195cmの大型の土壙墓。
9個体分の後北C2・D式土器が副葬されていた。合葬墓の可能性もある。
※異例に大きな墓なので9体を屈葬にしてまとめて埋葬したかもしれない。

※考察 寒冷地での埋葬 昭和30年代の紀行番組で東北地方の冬季に死亡した人を埋葬(土葬)することができないといい、墓地域に仮に置いていた記憶がある。
(現在では火葬であるが、当時はまだ土葬が残っていたようだ。)
 北の北海道では地下1m付近まで凍結しもちろん、墓坑は掘れない。
あらかじめ穴を掘っておくか(冬季中は土壌凍結と降雪で使用は不可だろう)、凍結が緩んでから共同墓坑(合葬墓)に埋めたのではないかと想像する。
 


 600オホーツク文化期

 610オホーツク文化

 611オホーツク文化とは
 北の文化地帯で、最も特異な文化がオホーツク文化である。
紀元後5~6世紀頃に樺太から流入し、北海道でさらに開花し、10世紀頃に消えてしまった海獣狩猟民による謎の文化とされている。

 時代により分布域は異なるが、北海道・千島・樺太・そしてアムール川下流域に広がり、
さらにオホーツク海北岸の地域にも類似の文化が見られる、まさに「環オホーツク海古代文化」の一環にある。

 従来の北の文化地帯にはない特異な土器を持ち、石器の他に大陸製品の金属器も多く使用している。
靺鞨文化(7~8世紀頃)や、女真文化(10~13世紀頃)などの帯金具・曲手刀子・鈴・鐸ほかを交易品として入手している。
出土木製品も北方諸族のものに類似し、やはり大陸との関係を物語っている。

 動物信仰にも厚く、家の中にクマなどの骨塚を形成しているが、アイヌ文化のクマを送り儀礼につながる精神構造を色濃く持っており、アイヌ文化成立の鍵を握っていると言える。

オホーツク文化とは

 オホーツク文化遺跡分布図
オホーツク文化の遺跡は、オホーツク海沿岸に密に分布し、日本海岸、太平洋岸には少ない。
流氷漂着域とよく一致することがわかる。オホーツク文化前期の遺跡は道北に集中しており、常呂町など道東の遺跡群は多くが後期のものである。オホーツク文化が北方から広がってきたことを示している。

遺跡分布図 アムール川河口~
サハリン全島~
利尻礼文島~
稚内~根室・釧路~
千島列島全域~カムチャッカ以南

※更に、オホーツク海北岸にも同系列の文化遺跡が展開していた。
環オホーツク文化であった。

 613オホーツク人の住居
  オホーツク人は地面を深く掘った竪穴住居を住まいとしていた。 最大の特徴は平面形が大形の五角形もしくは六角形を呈することである。屋根を支える主柱は長軸面に数本あり、棟木から地面に垂 木が配置されていたと考えられる。板壁、屋根には白樺木皮が多 に使用されていたことがこれまでの発掘調査で明らかになっている。

 住居内部は作業場として土間に粘土を「コ」状に貼りつけ、祭祀 の場である奥部にはクマ、シカなどの動物を安置した骨塚をもつ。土間と壁の間の間は起居の場であり、板敷きもしくはベッド構造となっていた。
 この大形住居には現在の核家族とは異なり、複数の家族が同居していたと考えられる。

オホーツク人の住居
常呂川河口遺跡15号竪穴。長軸14m
カムチャダールの竪穴内部
クラシェニンニコフ1955

 ※考察 オホーツク人の住居
➀アイヌ文化以前、旧石器~擦文時代までの北海道では竪穴住居でした。冬は外気温が極端に下がり、地下凍結線が北上と共に下がっていく。
つまり、冬の竪穴住居内は冷凍庫になります。そんな中でどうやって就寝したのだろう。敷き藁(茅)を敷いたくらいでは、床や側壁から伝わる寒気は防ぎようもなく、動物の毛皮と言っても、巨大なオットセイやアザラシ、ヒグマやオオツノジカの毛皮を誰しも潤沢に所有して防げたのか、はなはだ疑問である。

 エスキモー住居のように、土屋根にして、冷熱の伝導を防ぎ、室内にベッドを設けて冷たい床の上に寝ることを避ける方法が一番だろう。
更に、室内では、動物の脂身をちょろちょろと燃やし続ける暖房(と言えるほどではないが)もあった。
オホーツク人住居にはこの工夫があるようで、以後、住居内周囲にベッドを設けた痕跡が知られている。
 では、それ以前はいったいどうやって凍えずに眠れたのだろうか。

②オホーツク住居では、室内中央の炉の周囲に粘土が貼られている。これについては、ここは作業場だ。という類推以外の説明は聞かない。
赤土ではなく粘土を貼る効果を考えてみる。竪穴を掘った土(or砂丘)の上に粘土を貼るのは、和住宅のたたきに相当する。
 たたきは、粘土と石灰とにがりを混ぜて、たたき締めた土の表面に塗り、板や棒でたたいて固めたものである。この材料を三和土という。
三和土の効果は、湿度を調整し、断熱性があり、冬暖かく、夏涼しいという。

 オホーツク人は粘土に草木灰を混ぜたか、塩は混ぜなかっただろう(湿気が上がると塩の結晶が吹き出すから)、、わからないが、それなりの効果があったものと考えられる。(暖かさを保つための保温床と想像している。)

 和住宅のたたきは出入口を固めたものであり、商家ではフロアーであり、農家では作業場である。だから、粘土敷きの炉の周囲は作業場とのみ規定するのはいかがなものか。日本では、江戸時代までたたきの上でむしろや藁を広げて就寝していたのです。きっとオホーツク文化の人々も、くつろぎや就寝。食事や作業など多目的に使った居間だったと思います。

オホーツク文化期 竪穴住居址
 トコロチャシ跡遺跡 オホーツク地点 7号竪穴

六角形を呈し、大小二軒の竪穴が入れ子状に重複する。
外側住居は長軸13.5mと大型で、外側が古く、内側が新しい。
※古い大型住居を、小型化して新しく建て直したようだ。
オホーツク文化 住居内骨塚
 トコロチャシ跡遺跡 オホーツク地点 7号外側竪穴

骨塚側面から撮影。床面から壁に向かって祭壇上にせりあがっている。
クマ橈骨が壁側から内部へ配列されている様子がわかる。
 

 615オホーツク人のゆくえ
 オホーツク文化という環オホーツク海古代文化の一つは、西暦10世紀頃の最盛期を過ぎると何故かその姿をかの地から消す。同 時代を一部共有していた擦文文化を担った擦文人(アイヌの直接の祖先)との関係はどうなっていたのであろうか。

 言葉も顔かたちも 異なっていたに違いない両者だが、少なくともオホーツク文化期後半には融合を開始したらしい。その融合ぶりは、竪穴住居や土器様式に顕著にみられる。道東部でうまれたこの新しい文化はトビニタイ文化とよばれている。そして、今度はトビニタイ文化を残した人たちが擦文文化の人たちと接触を続け、ついには言葉の壁を乗り越えて“同化”の道を辿ったようである。

 しかし、純粋なオホーツク人の生業はあくまで海を舞台とする海獣狩猟であり、擦文人はサケ・マスをメインとする漁労に主体をおいていたことを考えると、すべてのオホーツク人がトビニタイ文化を残した人となって擦文人の中に吸収されていったとは思えない。オホーツク人が謎の海洋民族と呼ばれる所以の一つでもある。

オホーツク人のゆくえ トビニタイ文化の土器と竪穴住居の成立

 617オホーツク人の土器
 オホーツク人の土器は、おおまかに円形刺突文刻文沈線文とソーメン状貼付文の三期にわたって変遷する。その中で最も特徴的なのが、北海道東部から南千島に分布するソーメン状貼付文土器である。

この土器は、ソーメン状の細い粘土紐を直線、波状に施したものである。中には、海獣、水鳥など動物を表現した貼付文もあるが数は多くはない。

ソーメン状の粘土紐は一定の幅を持っているので、動物・海獣の腸を乾燥させチューブとして粘土をひねり出した「チューブデフレーション」技法によるものと考えられている。

 高坏、皿、異形土器などの土器はなく、あるのは底部が小さい割に胴は丸みを持った広口壺である。
土器の大きさは小型・中型・大型・特大型に分けられる。用途に応じて使い分けしていたのであろう。焼成はあまり良くなく、器面の色調は灰黒褐色である。

オホーツク人の土器

 621海に生きたオホーツク人
    海獣狩猟
 北方民族にとって、海獣は食料としてだけではなく、様々な道具や衣服の材料に使われる骨や皮、燃料に使われる皮下脂肪などの面でも重要な資源であった。
オホーツク人はトド、アシカ、オットセイ、アザラシ、ラッコなどのほかにクジラ類も利用していたが、積極的にクジラ漁を行っていたのか、寄り鯨の利用にとどまっていたのかが問題となる。
鳥管骨製針入れに捕鯨の場面が描かれていることから、船からの銛猟によって積極的な捕鯨を行っていた可能性が高い。

 オホーツク文化の遺跡からは、多くの銛頭が出土する。銛は獲物を倒すだけではなく、倒した獲物を回収するための機能を備えた刺突具である。
海岸や海上で大型の獲物を捕らえるのに特に有効であることから、海獣狩猟用の道具とみなされることが多い。もちろん、浜に上がっている獲物の場合は、棍棒などによる狩猟で十分なこともあっただろうし、銛猟を行う場合も、とどめを刺すための槍などと ともに使われたと考えられる。

海に生きたオホーツク人
海獣狩猟
鳥管骨に描かれたクジラ猟
サハリン鈴谷遺跡
参照
オホーツク文化銛の種類
銛の種類と掛かり方 雄形・雌型、
開窩式、閉窩式
鉤引式、回転式 兼用式、独立式
 
623海獣類の造形
 オホーツク文化の造形物として海獣が多く見られる事は有名である。
海獣は多く流氷とともにやってくるが、流氷の源は、アムール川の淡水にあり、なぜか、オホーツク文化原郷土とも合致するのは不思議である。

 中でもクジラはかなり表現されている。大型の舟を繰り出して銛によるクジラ捕りの姿は、彼らのダイナミックな生活を彷彿とさせる。
利尻島亦稚貝塚(またわっか)のクジラを25頭レリーフした資料は、頭と尾を交互に配し見事なリアリティーがある。
それらの動物といかに常に接していたかがよく理解できる。それには熊の頭部を先端に配し、不思議な側面を残している。

 見事なラッコの全身像もあるが、ラッコやカワウソなどの毛皮が彼らの交易品として重要であったことを物語っている。素材としてセイウチの牙やトナカイの角も利用されており、これも北方交易を示唆するものである。

海獣類の造形 熊の頭部と鯨を表現した角器
利尻島亦稚貝塚
イルカ・オットセイを表した骨器

 625クマの造形
 北海道では、熊の意匠遺物は、縄文時代早期から発見されている。道南の続縄文時代初期の恵山文化も熊の造形を多く残している。

動物意匠遺物の割合から言うと、縄文時代はクマは半数、続縄文時代は60%、オホーツク文化では40%ほどであるが、量的にはオホーツク文化の物が圧倒的に多い。
 多くは骨製で、角、牙、土、木製もある。全身像の他に頭部だけのものや頭部から胸部にかけてのものの他に座像もある
角偶の例は頭から胸までを先端に表現し、リーダーの指揮棒のような役割を持っていたことが考えられる。
座像の多くはモウカザメの吻骨を利用している。
 (モウカザメ=ネズミザメ吻骨=鼻先の骨)

 中には背中に烈点や線刻を加えたものがあるが、それはアイヌのクマを送りの時の熊の晴れ着(花矢)を表現していると見ることができ、そのルーツがオホーツク文化にあったことが理解できる。

クマの造形
クマの頭部を表現した木製注口容器
羅臼町松法川北岸遺跡
全長31cm

上面視・正面視・側面視

クマの頭部を表現した木製注口容器

(羅臼町松法川北岸遺跡出土、全長31cm『羅臼町文化財報告』8、1984より)


 627オホーツク人の祈り
オホーツク人は海獣狩猟を主生業にして生活していた海洋適応
民族とも言われる。しかし、貝塚あるいは家の中の骨塚から出土す る動物遺存体を見ると、陸獣骨も多く含まれている。中でも、特異な
陸獣はクマである。例えば、常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地
点7号竪穴の骨塚の場合は何と102頭のクマ頭骨が発見されている。

 このような姿は従来の文化にはないものである。それは陸獣として最も恐ろしい存在であるクマを山の神様として崇めたてまつっ
結果なのであろう。すなわち山の神 (kimun-kamui) =クマ、海の神 (repun-kamui)=シャチというアイヌの動物信仰に通じるものと言えよう。

 クマの捕獲量が多いことは、 毛皮や胆が彼らの重要な交易品であ ったことを思わせるが、犠牲も多く伴ったに違いない。ここにもクマ を神様扱いした祈りが感じとれるのである。

オホーツク人の祈り ギリヤーク人のクマ祭り 半地下式の住居の中にクマの頭部と毛皮を吊るし、人々はクマの肉を食べている。クマの口元には好物の魚が置いてある。

ギリヤークの復元室内構造がよくわかる。
室内端の床部は高く広く、炉部とそれを取り囲むたたき部は
明確に作業場・通路となっている。
オホーツク住居もこれと同じであれば、これまでの私の記述は全て間違い打あると訂正します。

 631オホーツク人の家財道具
 オホーツク人の家からは、狩猟具・漁撈具・加工具、各種容器から装身具まで多種多様の家財道具が見つかっている。
道具の素材にも様々なものが用いられている。骨角器で多く使われたのは、クジラ類や海獣類の骨角器である。
海獣狩猟を得意とするオホーツク人にとっては手に入れやすい素材であったのだろう。 骨・角・牙からは、狩猟具や漁撈具、装身具や動物の造形などが作られた。
 木製品では、木材のほかに樹皮も多く用いられた。盆や椀などの各種容器、匙などの食用具・調理具、精巧な装身具などが作られている。
通常木製品は腐ってなくなってしまうが、これらは住居が火を受けていたために炭化して残ったのである。
土器や石器だけではわからない。家財道具の様子がありありと伝わってくる。

 他に、各種の石器がある一方で、金属器も多く使用されている。
石器には矢尻や錘、斧などの狩猟・漁労・加工具が多い。
日用品の金属器には刀子(ナイフ)などがある。

オホーツク人の家財道具
トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点
木製品出土状況

 633オホーツク人の交流・交易
 北海道に暮らしたオホーツク人は、北・南の双方から伝来の品々を入手していた。
 北からの移入品では、青銅製の装飾具や鉾などの鉄製武具が代表的である。
これらは、大陸のアムール川流域に存在した靺鞨文化女真文化の製品と見られる。

ほかに曲手刀子などの生活用具や、家畜としてのカラフトブタトナカイの角など、多種多様な移入品が大陸からサハリンに至るルートを通じてもたらされていた。

一方、南からの移入品は、蕨手刀直刀といった刀剣類が代表的である。
律令国家とも関連するこれらの品々を、オホーツク人は、本州から、北海道中央部にあった擦文文化を経由して入手されたと思われる。

 南北から希少な品々を入手していたオホーツク人であるが、南北間でそれらを仲介する事は少なかったようである。(?矛盾する表現)
儀礼的で華美な伝来品は個人の墓から見つかる場合が多い。これらは、おそらく非日常的な希少品として、各個人が大切に保有していたとみられる。

オホーツク人の交流
青銅製帯金具の分布
青銅製帯金具 青銅製帯金具
吉林省
楊屯大海猛遺跡
枝幸町目梨泊遺跡
常呂町栄浦第二遺跡
青銅製帯金具
シャインギノ城跡
コルサコヴォエ遺跡
網走市モヨロ貝塚
発掘地点

アムール川流域から渡来
  ※青銅製帯金具については、もっと先の博物館で明確な資料が出ますので、今はこのくらいでご勘弁ください。


 650オホーツク土器

 651

オホーツク土器 (藤本c群
 斜里町ウトロ海岸砂丘遺跡 1号竪穴
 オホーツク文化期 中期 (7~8世紀)

藤本強氏は、北海道のオホーツク文化後半期の土器
について、c群→d群→e群という編年を提唱した。
この上部は、c群の型式資料の一部である。刻文と刻
みの付いた貼付文とを併せ持つ点が、c群の特徴である。
オホーツク土器
藤本C群

オホーツク土器(藤本d群)
 トコロチャシ跡遺跡 1号外側竪穴(左1点)
 羅臼町トビニタイ遺跡 1号竪穴(右3点)
 オホーツク文化期(8~9世紀)

藤本編年d群の標式資料である。
貼付文の意匠が1本単位で構成されるものが多く、貼付文に刻みや刺突文を施す例が目立つのがd群の特徴である。

オホーツク土器藤本d群
トコロチャシ跡遺跡
1号外側竪穴
羅臼町トビニタイ遺跡
1号竪穴
 653
オホーツク土器 藤本d群
 トコロチャシ跡遺跡 O地点 7号外竪穴骨塚
 オホーツク文化期 後期 8~9世紀
竪穴住居の骨塚から出土しました。一括資料である。藤本編年d群のまとまり・内容を翌示している。一級資料と言える。


オホーツク土器 藤本e群
 トコロチャシ跡遺跡 O地点 9C号竪穴
 オホーツク文化期 後期 8~9世紀

藤本編年e群土器 9c号竪穴から出土した。 

オホーツク土器藤本e群

骨塚出土の続縄文土器
 トコロチャシ跡遺跡 O地点 7号外竪穴骨塚
 オホーツク文化期 後期 8~9世紀

オホーツク文化期の竪穴住居内骨塚から出土した続縄文土器である。
3~4世紀頃の後北式C2・D式注口土器であるから、オホーツク人にとっては500年ほど前の遺物となる。
昔の土器に偶然遭遇したオホーツク人が、それを自分たちの家に持ち帰り骨塚に祀ったのであろう。
同様の例は栄浦第二遺跡23号竪穴でも確認されている。

骨塚出土続縄文土器


骨塚出土の縄文土器
 トコロチャシ跡遺跡 O地点 10c号竪穴骨塚
 オホーツク文化期 後期 8~9世紀

オホーツク文化竪穴住居の骨塚から出土した縄文土器である。
縄文時代後期初頭(約4400年前)の北筒式土器トコロ5類である。オホーツク文化より3000年以上前の遺物となる。これも左の続縄文時と同様に、オホーツク人が偶然手に入れた土器を骨塚に祀ったものであろう。

骨塚出土縄文土器


オホーツク土器 (藤本e群)
 トコロチャシ跡遺跡 1号内側竪穴
 オホーツク文化期 後期 8~9世紀

竪穴床面出土の一括資料で、藤本編年e群の標式資料である。藤本d群の標式資料である、同遺跡1号外側竪穴出土土器撚り層位的に新しい。藤本編年の根拠となる重要な資料である。

オホーツク土器e群


ロクロ成形の土師器
 トコロチャシ跡遺跡。1号内側竪穴
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

ロクロを使った回転力により成形された坏である。
ロクロが回転した状態で、糸で台から切り話した際につく年輪状の痕跡が裏に残っている。

北海道ではロクロを使用した土器製作が確認されていないことから、東北地方で作られたと考えられている。本州方面との交流を示すとともに、年代をある程度推測できるという意味でも、極めて重要な資料である。

ロクロ成形土師器
 660オホーツク土器
オホーツク土器 (藤本e群)
 トコロチャシ跡遺跡  O地点9号竪穴
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)
藤本編年e群土器である。

オホーツク土器 (藤本d群)
 トコロチャシ跡遺跡群 オホーツク1号墓
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

墓の副葬土器で、遺体頭部直上に相当する一に逆さまに被せられていた(被甕土器)。被甕土器を伴う葬法は、中期以後の道東部オホーツク文化で普遍的に認められる。
なお、この墓には鉄製の直刀も副葬をされていた。
オホーツク土器 (沈線文期)
 栄浦第二遺跡 9号竪穴オホーツク下層遺構
 オホーツク文化期 後期 (7~8世紀)

藤本d群よりも古い時期の土器で、同じ遺構から4点がまとまって出土した。
左の2点に付された沈線文は道北部の影響を示す。
しかし、頸部の短い甕形の器形は道東部の伝統であり、
前列左の土器には道東部に特有の貼付文も見られる。
これらの土器はオホーツク文化後期前半の道東部と道北部の関係を読み解く上で示唆に富む。

水鳥の意匠を付けた土器
 トコロチャシ跡遺跡  O地点7号竪穴
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

水鳥の意匠を貼り付けたオホーツク土器は多数あるが、この時は、細部がデフォルメされた珍しい例である。太いくちばしと水かきの表現は「エトピリカ」を連想させる。

鼻の土器 鼻の意匠を付けた土器
 トコロチャシ跡遺跡  O地点 7号竪穴
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

オホーツク文化の遺物には、種々の動物を模した意匠が多数認められるが、人間を模した例は極めて珍しい。ユーモラスな遊び心が感じられる土器である。

オホーツク土器
 トコロチャシ跡遺跡付近 (採集品)
 オホーツク文化期、中期・後期 (7~9世紀)
  畠山三太郎氏・常呂中学校郷土研究部 寄贈

常呂町のオホーツク文化遺跡は、後期を中心として形成されている。
この基礎資料は、1点(後列左)を除き、中期に属する数少ない資料である。
これら古手の土器は、型押文(後列→)、沈線文(前列)などの文様要素を特徴とする。
なお、後列左のソーメン文土器の近くからは鉄鉾が採集されている。


 670石器
 671
オホーツク文化の石器
 トコロチャシ跡遺跡 2号竪穴床面
 オホーツク文化期 後期 (8か~9世紀)

オホーツク文化の石器としては石鏃・石銛・石槍・
削器・石錘・石斧・石錘・石弾・砥石・凹石などがある。

展示例は、トコロチャシ跡遺跡 2号竪穴床面から出土した石器群であり、藤本e群土器に伴うものとみられる。(砥石のみ出土位置不明)

オホーツク文化の石器 凹石 石錘
石斧
砥石
 672投石帯
投石帯(模型)
この模型は、チュクチ、コリャークの民俗資料を参考に製作した。

石弾
 砂岩製で球形に加工されている。民○○からの○○により、鳥を捉えるための投げ弾と考えられている。

投石帯 投石帯と石弾 各種石器と剥片

 680骨角器・造形物
 681
オホーツク文化の骨角器
 トコロチャシ跡遺跡群
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

オホーツク文化の骨角器としては、銛頭・釣針・骨鏃・掘り具・骨ベラ・骨錐などの狩猟漁撈具・日常作業具に加え、各種の装飾品がある。
クジラ骨・海獣骨・鹿角などを素材として、金属気温用いて制作されており、大きさや形などバラエティーに富んでいる。
トコロチャシ跡遺跡群からは、オホーツク文化後期の骨角器が多数出土している。

オホーツク文化の骨角器
掘り具 柄を付けて土掘りに使用した 骨鏃
鳥管骨製。幾つかのタイプがある

銛頭
オホーツク文化の骨角器
銛頭
トコロチャシ跡遺跡の銛頭は北海道の伝統的な形態である開窩式が主体である。素材は海獣の肋骨や四肢骨を利用した例が多い。

開窩式:縄文早期に出現した北方系の銛頭(開窩式)は、北海道と青森県に分布しています。 平成12年度の発掘調査により、この銛頭が縄文前期には宮古市崎山貝塚まで南下していた…

参考資料「北日本における縄文時代の骨角製銛頭の研究

釣針 たも網と結合式釣り針 釣針
オホーツク文化の釣針は、複数の部品からなる大型の組合式釣り針であり、主に海獣や鹿の骨を素材とする。軸の結合法には交差させる方法と面を合わせる方法とが見られる。右上は、主軸と副軸が組み合った状態で出土した。
 682
弦楽器の頂部
 トコロチャシ跡遺跡 2号竪穴(左)
 栄浦第二遺跡(右2点)
 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

弭(ゆはず)形角製品と呼ばれている遺物である。元々は弓の弦をかける部分に装着する角製品を指す用語であるが、本例には形態上の発達と入念な加工が認められる。
この形態はサハリンアイヌの弦楽器トンコリに類似しており、本例が弦楽器のミニチュアの一部であったことを類推させる。

弦楽器の頂部

 銛頭
銛頭  トコロチャシ跡遺跡の銛頭は北海道の伝統的な形態である開窩式が主体である。
 素材は、海獣の肋骨や四肢骨を利用した例が多い。

 683
動物意匠遺物
 トコロチャシ跡遺跡群・栄浦第二遺跡
 オホーツク文化 後期 (8~9世紀)

オホーツク文化の遺跡からは、骨・角・牙・土・木・石などで作られた動物意匠遺物が数多く出土する。
モチーフは陸獣・海獣・鳥・魚など幅広いが熊は約40%を占めている。これらの遺物はオホーツク人の動物に対する信仰を反映していると考えられる。

動物意匠遺物
 685
クマ骨偶
トコロチャシ跡遺跡
 1号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)

クマの全身が細部まで極めてリアルに表現されている。
クマ頭部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
  クマ 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点8号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀) 
縄を首に巻かれ、繋がれている様子が表現されており、仔熊飼育型のクマ送りの儀礼の存在を質している。     クマ 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点8号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀) 


舟?浮彫 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点8号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀) 

反対側には鰭状の浮彫がある。

エイ浮彫 角器
栄浦第二遺跡
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀) 
エイの浮彫と並んで、組み合わせ式釣針を表現したと見られる線刻がある。
釣猟の様子を描いたものだろうか。

※ネズミザメ・オヒョウ・エイなどを釣った。


海獣頭部 牙偶
トコロチャシ跡遺跡
 1号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)

首の腹側に首輪上の装飾がある。
海獣頭部 牙製品
栄浦第二遺跡 4号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)

海獣の頭部を模した栓状の牙製品
魚?浮彫 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
海獣鰭部浮彫 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
水鳥 土器文様
トコロチャシ跡遺跡
 2号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
海獣? 土器把手部
トコロチャシ跡遺跡
 1号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
クジラ頭部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
クジラ胴-尾部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
ラッコ頭部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
海獣胴部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
海獣像 角製品
栄浦第二遺跡
 7号竪穴埋土
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)

鰭脚類の下半身が確認できる
アザラシ頭部 角器
トコロチャシ跡遺跡
 O地点7号竪穴
オホーツク文化 後期
 (8~9世紀)
 

 690金属製品
青銅製垂飾
 トコロチャシ跡遺跡 O地点7号竪穴
 オホーツク文化 後期 (8~9世紀)

十字形で、裏面に紐掛けのある青銅製の垂飾である。
類例ははアムール川下流域の靺鞨文化やアムール女真文化に求められており、
帯金具と同様に大陸からサハリン経由で北海道にもたらされたと考えられる。
北海道では初の出土例である。
青銅製ボタン
 栄浦第二遺跡 1号竪穴
 時期不明

径35cmの笠状をなし、裏面中央に鈕(ちゅう)がついている。
古くはスキタイ銅器との関連が知友目された資料である。
北海道では極めて珍しく、大陸ないしはサハリンとの交易によりもたらされたものと考えられる。

ピンボケ 青銅製帯金具
栄浦第二遺跡
オホーツク文化後期
8~9世紀
青銅製帯金具
 栄浦第二遺跡
 オホーツク文化後期 8~9世紀

墓に埋納された副葬品である。北海道ではオホーツク文化に特有のもので、枝幸町目梨泊遺跡や網走市モヨロ貝塚でも出土している。
このような帯金具は、ロシア極東、中国東北部の靺鞨―女真系文化に多く見られるものであり、外〇との交易によりもたらされたと考えられている。
青銅製曲手刀子
トコロチャシ跡遺跡
オホーツク文化期
6~9世紀
鉄刀のようです
青銅製曲手刀子
トコロチャシ跡遺跡
オホーツク文化期 6~9世紀

曲手刀子とは、刀剣資料である。茎の先端が下方に曲がっている特徴的な刀子である。北海道道東オホーツク文化にのみ散見され、靺鞨系サハリン文化にのみ見られる。
曲手刀子の大多数は鉄製であり、青銅製のものは大変珍しい。

  695木製品
トコロチャシ跡遺跡 О地点 7号竪穴
オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

通常、古い時代の木製品は腐ってしまい残らないが、これらの遺物は火を受けた竪穴住居の中で蒸し焼き状態となったため、炭化して残ったものである。

盆などの各種容器や匙などの食用具、刀子の柄などの加工具、精巧な彫刻品などがある。土器や石器からだけではわからなかった、当時の生活の様子を伝えをリアルに伝える遺物言える。

木製品
刀子の柄、角盆
 角盆
7号たてあなからは、櫓や盆など
、大小さまざまな大きさの木製容器が発見されている。
これは比較的小型の盆で、角形を呈する。
左:杓子 右:匙×2

右は中型の匙。極めて薄く精巧につくられた。
左は小形匙と思われる。つまみの側に小さな膨らみが付けられている。

杓子 大型の杓子。大型(長さ1m以上)の舟形木槽の上に乗って出土した。
このセット関係と民俗例から、熊の資料をこねる道具の可能性がある。 


 700擦文時代

 7世紀から12世紀にかけて、北海道では擦文文化が展開する。
擦文文化は、北海道独自の文化であるが、東北からの大きな文化的影響を受けて成立する。
特に住居や土器には東北からの要素が強く認められる。
住居は一辺約5~6mの正方形で、かまどを持つ竪穴住居に変化する。
土器は胴の長い甕や、坏を中心とする点は東北と同じであるが、沈線による直線的な文様で語られる点が大きく異なっている。

「擦文」の名称は、土器に残る擦痕(板で土器の表面を整形したときについた跡)に由来している。

 この時代の生業は、サケ・マスの漁撈、鹿などの狩猟を中心として、雑穀栽培も一部では行われていた。
鉄器もこの時代には普及し、本州と活発な交易をしていたことが明らかになっている。

 道東では、古い時期の遺跡は少なく、後半になると増大する。
常呂町の栄浦第二遺跡はオホーツク海沿岸の一大拠点集落であり、
現在でも確認できる2000余りの竪穴住居跡のくぼみの半数以上は、擦文時代のものである。

擦文時代 擦文時代の住居
 710
史跡常呂遺跡1号竪穴 擦文時代の竪穴住居
 史跡常呂遺跡 1号竪穴

1辺12mの大型住居である。屋根はアイヌ文化住居の屋根構造(ケツンニ)を参考に復元した。


紡錘車の使用法
擦文時代
紡錘車を回転させて繊維に撚りをかける
樺太アイヌの鍛冶 〔参考資料〕樺太アイヌの鍛冶
  間宮林蔵(北蝦夷図説)

 ふいご2本を地上に置き、ふいごの羽口の先の火床には覆いをかける。
  「蝦夷風俗図説」晶文社刊 1979より
フイゴの羽口 〔参考資料〕樺太アイヌのふいご
  間宮林蔵(北蝦夷図説)

 擦文時代のふいご羽口は土製だが、これは木製である。
 風管は魚皮あるいは水〇製。
  蝦夷風俗図説」晶文社刊 1979より




 720擦文土器
擦文土器の変遷
 常呂町内各遺跡出土
 擦文時代(8~13世紀)

擦文土器の変遷は北海道全域でほぼ共通しているが、若干の地域差も認められる。
東京大学による徹底的な発掘調査で出土した多量の土器は、常呂川下流域という一地域のまとまった資料として重要な意義を持つ。
展示の編年は藤本強氏によるもので、これにより道東部の編年が確立された。常呂町ではaからdまでの遺跡は少なく、・・・・


藤本編年a,b

藤本編年a

藤本編年b

藤本編年b

藤本編年b

藤本編年c

藤本編年d,e

藤本編年d

藤本編年e

藤本編年e

藤本編年f



藤本編年
a,b
擦文土器の変遷
藤本編年c

藤本編年d e

藤本編年d

藤本編年e

藤本編年e
 730
上段
藤本編年h

藤本編年g

藤本編年h

 下段
藤本編年i
 
藤本編年k、 i
 
藤本編年j
 
藤本編年k
 
藤本編年i
 

 740
 栄浦第二遺跡、栄浦第一遺跡
常呂遺跡のなかでも、縄文~オホーツク文化まで最も多くの竪穴住居が密集しているのが海岸砂丘上に広がる栄浦第二遺跡です。
常呂竪穴群では500軒、栄浦第二遺跡では約2000軒の竪穴が密集しています。
栄浦第二遺跡・栄浦第一遺跡は、史跡常呂遺跡を構成する遺跡の中でも竪穴住居跡が最も多く高い密度で見つかっている地区です。遺跡は発見当時に近い状態で保護されており、現在でも森林の中に竪穴住居を建てた跡である大きな窪みが、森の中に一面に広がっています。

 トコロチャシ南尾根遺跡
トコロチャシ南尾根遺跡は史跡常呂遺跡を構成するトコロチャシ跡遺跡群のうち、南側の地区に相当します。
 遺跡は常呂川に面する標高15~25mの段丘のうち、南側に伸びる尾根上を中心に広がっています。
地表面の測量調査と発掘調査により現在まで50基の竪穴住居跡の存在が確認されており、未発見のものも含めると60基程度の竪穴住居跡がこの地区にあったものと推測されます。
 これらの竪穴住居には縄文時代中期・後期、続縄文時代、擦文時代のものが含まれ、またトビニタイ式土器の時期に属する可能性のある竪穴住居もあります。縄文時代後期は遺跡が少ない時期であり、この時期の竪穴住居は道内でも珍しい事例となります。

 トコロ貝塚
常呂川をやや遡った右岸台地に立地する○○遺跡である。終末期の竪穴住居が一軒確認され、擦文時代では珍しく、住居に伴って骨角器が出土している。

 トコロチャシ跡遺跡 オホーツク地点

 岐阜第一遺跡:ライトコロ川を見下ろす、岐阜台地の中部に位置する集落遺跡である。


栄浦第二遺跡

トコロチャシ南尾根遺跡
紡錘車
紡錘車、骨角器、
トコロ貝塚

トコロチャシ跡遺跡
オホーツク地点

栄浦第二遺跡
擦文土器
岐阜第一遺跡
擦文土器

常呂町内各遺跡出土の紡錘車、片口土器
常呂遺跡巡りマップ 
 741参考
上を含め、これまでの写真の多くは明るくてはっきりした写真です。でも実際は下の写真が本当です。全てこれを修正したのです。
常呂埋蔵文化財センターと陳列館2館の、ほとんどの写真がこの状態です。
東大の職員は灯りもつけてくれず、本当に性悪な連中でした。さすが東大です。
 

 750擦文土器
紡錘車、フイゴ羽口
擦文土器
栄浦第二遺跡 
栄浦第二遺跡         
巨大な紡錘車です。
とても強く糸を締める必要があったのか、
硬い繊維に撚りをかける必要があったのかでしょうね。

 760
 ライトコロ川口遺跡
ライトコロ川河口の標高2mの氾濫原上に立地する。この土地は、川の増水期には水に浸かる可能性がある。
擦文期を中心とする集落遺跡である。

 擦文土器 8~13世紀 常呂町内各遺跡
擦文土器8~9世紀 ライトコロ川口遺跡
ライトコロ右岸遺跡
           
 


 800トビニタイ文化 10~12世紀

 810
トビニタイ土器
 羅臼町トビニタイ遺跡 2号竪穴床面一括➀
 トビニタイ文化期 (10~12世紀)

トビニタイ土器は、オホーツク土器と擦文土器の両方の要素を併せ持つ土器である。
道東部と南鳥島に分布し、羅臼町トビニタイ遺跡を標式とする。

菊池徹夫氏によってトビニタイ土器群Ⅰ、同Ⅱ、中間的な土器群、の3つに大別された。
現在では藤本e群土器に後続させ、Ⅱ→中間的な土器群→Ⅰと編年する意見が主流となっている。

トビニタイ土器 トビニタイ土器 トビニタイ土器 トビニタイ土器 羅臼町トビニタイ遺跡
トビニタイ文化期
トビニタイ土器

トビニタイ土器
 斜里町ウトロ滝ノ上遺跡
 トビニタイ文化期 (10~12世紀)
胴部文様がやや特殊であるが、トビニタイ土器群Ⅱとしてよい土器である。

※トビニタイ土器群Ⅱは
 最新編年ではトビニタイ期では初期 の土器である。
 中期 は中間的土器後期はトビニタイ土器群Ⅰとなる。

 


 900アイヌ文化期 13世紀以降

 910アイヌ文化とは
擦文文化に続く「アイヌ文化」は、考古学的には、擦文文化の終焉(およそ13世紀)以降に相当し、本州の「中世・近世」に対比される。

「アイヌ文化」に入ると、土器の代わりに本州産の鉄鍋・漆器を使用し始め、住居も竪穴住居から平地住居へと変化する。

アイヌは、自ら製作した回転式銛頭(キテ)・捧酒箸(イクパスイ)・小刀(マキリ)、木器などの他に、大陸との山丹交易より入所した玉飾り(タマサイ)や本州との交易により入手した鉄鍋・刀・漆器などを使用していた。

イオマンテ」に代表される「送り儀礼」ならびに「送り場遺跡」、一種の聖域と考えられる「チャシ」、生活が営まれていた「コタン」、そしてアイヌ墓などの考古学的な調査により、文献や伝承だけではわからないアイヌ文化の実態が判明しつつある。
そして、「イオマンテ」などのアイヌの動物信仰には、オホーツク文化の影響が見られる。

アイヌ文化 トコロチャシ跡遺跡 トコロチャシ跡遺跡
常呂川に銘下崖の上に立地し、L字形の壕が掘られている。

 920アイヌ文化の遺物





 921木製品
杓子
大型の杓子。 大型 (長さ1m以上)の 舟形木槽の上にのって出土した。 この セット関係と民族例から類推すると、クマの飼料をこねるための道具であっ た可能性も考えられる。


右は中型の靴で、きわめて薄く精巧に 作られている。
左は小型の匙と思われる。 つまみの側に小さな膨らみがつけられている。

杓子と匙 杓子


木製品
トコロチャン跡遺跡 О地点7号整穴 オホーツク文化期 後期 (8~9世紀)

通常、古い時代の木製品は腐ってしまい残らないが、これらの遺物は火を受けた竪穴住居の中で蒸し焼き状態となったため、炭化して残ったものである。
盆などの各種容器や匙などの食用具、刀子の柄などの加工具、精巧な彫刻品などがある。土器や石器からだけではわからなかった。当時の生活の様子をリアルに伝える遺物といえる。

Wooden artifacts
Tokoro Chashi, Okhotsk Locality Pit-house 7
Late Okhotsk culture (AD8~9C)


刀子の柄と考えられる。

角盆
7号竪穴からは、櫓や盆など、大小様々 な大きさの木製容器が発見されている。これは比較的小型の盆で、角形を呈する。



刀子の柄と考えられる
角盆


 922
永楽通宝
トコロチャシ跡遺跡 2号竪穴住居跡
アイヌ文化期
初鋳年 1408年の明銭である。日本では16世紀に最も流通した貨幣である。
アイヌ文化では、商業は受容されておらず、、装飾品として用いられたと考えられる。
本州ないしは大陸との交渉を物語る資料である。

永楽通宝
 923骨角器
 トコロチャシ跡遺跡 とても重要な情報ですが、判読不能です。
アイヌ文化の骨角器