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目
次 |
01外観
100縄文時代
110早期
113前期
115中期
117後期
119晩期
130弥生時代
132弥生のくらし
133峰畑遺跡
134立明寺遺跡
139平塚川添遺跡 |
140原始
141弥生時代
142甕棺
151縄文人と弥生人
152半島系人骨
153半島系無文土器
154金属製品
155農耕具
156鋳造
157貝輪
158半島系人骨(男性)
159半島系人骨(女性)
貝輪・青銅器・鏡
161貝輪(左腕) |
170埋葬祭祀
171甕棺墓
173墓前共献土器
175銅矛
180東アジアの勢力図
185銅戈・銅鏡
200弥生土器から土師器へ
204須恵器 |
210古墳時代
21三角縁神獣鏡
215前方後円墳の分布
217古墳前期の土器
220筑紫野市周辺の首長墓
224副葬品
230前方後円墳の終焉
240古墳時代の武人
250古代
252大宰府の守り
255都を思う万葉歌
260大宰府の条坊制
270各地の文物の通過点
273大陸系陶器
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280古代から中世の文化
281中世文化
285渡来銭
300中世
301瓦質祠
305待島の合戦
320近世
326参勤交代図
330長崎街道 |
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01外観
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100縄文時代 約1万年前~約2500年前
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それまでになかった土器や弓矢を使い、食料となる植物の管理や後には農耕を行った時代です。 |
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110早期
縄文展示室 |
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縄文早期土器 |
縄文早期土器(複製)
早水台式土器 原遺跡
そうずだいしき
九州歴史資料館 |
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縄文時代の石器 |
石鏃 |
石槍 |
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113前期
縄文前期土器
曽畑式土器(複製) |
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縄文前期土器 |
縄文前期
轟B式土器 |
轟B式土器 |
轟式・曽畑式土器は半島からの移住民の土器である。
彼らはやがて南島にまで拡散し、沖縄島で縄文人と混血しました。 |
芦屋町の
前期土器・石器 |
芦屋町歴史民俗資料館 |
縄文前期石器 |
石鏃 |
石匙(縦形と横型)
横型は西日本型
縦型は東日本型 |
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115中期
縄文中期土器
阿高式土器 |
阿高式土器 |
縄文中期石器 |
石鏃
縄文中期の石鏃 |
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117後期
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119晩期
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130弥生時代 約2500年から約1700年前
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水田による稲作や、鉄や青銅器の道具を使う時代です。 |
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131
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132弥生のくらし
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133峰畑遺跡 約2100年前 弥生中期 (キャプションなし)
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134立明寺遺跡出土土器 約1900年前 弥生後期 (キャプションなし)
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135
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土製円盤
弥生中期/大島遺跡土器片を利用した円盤状の土製品 |
紡錘車
弥生中期
隅・西小田遺跡
糸を紡ぐ道具、弾み車 |
投弾
弥生中期 隅・西小田遺跡
狩猟や戦闘に使う投げ玉 |
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砥石 弥生中期
隅・西小田遺跡 |
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136石斧
太型蛤刃石斧
弥生中期
隅・西小田遺跡
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伐採に用いる大型石斧 |
石斧
弥生中期 隅・西小田遺跡
伐採や木工に用いる石斧 |
石斧 |
玦入柱状片刃石斧 |
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137石器
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小型方柱状片刃石斧 弥生中期 隅・西小田遺跡
木材加工などノミのように用いた石斧 |
扁平片刃石斧 弥生中期 隅・西小田遺跡
木材加工用の石斧 |
錐器(すいき) 弥生中期 隅・西小田遺跡
穴あけ道具 |
削器(さっき) 弥生中期 隅・西小田遺跡
削り具やナイフとして使用 |
石包丁 弥生中期
隅・西小田遺跡
稲の穂摘み具 |
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138炭化物
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炭化米 弥生中期 隅・西小田遺跡
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炭化種実 |
炭化したドングリ
弥生中期
剣塚遺跡 |
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炭化したアオキ
弥生中期
峰畑遺跡
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139平塚川添遺跡 写真提供 朝倉市教委
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140原始
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141弥生時代
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142甕棺 ※下にこの甕棺の被葬者の人骨あり
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隅・西小田地区遺跡
109号甕棺出土状況
弥生時代中期
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甕棺第109号
弥生時代の首長墓
被葬者は40歳代の男性 |
甕棺(第109号)
国指定重要文化財
弥生の首長墓40代男
西尾田遺跡群第3
弥生中期
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150 |
151縄文人と弥生人
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日本人の体型のルーツは縄文人と言われていますが、弥生時代に大きな変化を遂げ、その後に形づくられたと考えられています。 |
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152半島系人骨
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私たちが生きていた頃、現在の中国大陸や朝鮮半島と呼ばれている地域から戦を逃れ、また新天地を求めて、
多くの仲間が海を渡ってこの地にやってきました。 |
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半島系人骨 |
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隅・西小田地区遺跡群
第10地点180号甕棺
性別:男 |
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153半島系無文土器
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154金属製品
銅鏃 ヤリガンナ |
鉇(ヤリガンナ)
弥生中期峰畑遺跡 |
木材の表面を平坦に仕上げる
青銅製の道具 |
銅鏃
弥生時代
隅・西小田遺跡
青銅製やじり |
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155農耕具
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弥生農耕 |
農耕具 |
石包丁
弥生中期
隈・西小田遺跡
稲の穂摘み具 |
石鎌
弥生後期
隈・西小田遺跡 |
鉄鎌 弥生後期
隈・西小田遺跡
一方の端を折り曲げ、柄に挟んで使用する |
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鉄斧
弥生中期/大島遺跡 |
鋤先 弥生中期/大島遺跡
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木製鋤の先端につけた鉄製刃先 |
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156鋳造
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鋳造図
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青銅製品鋳造関連 |
銅戈鋳型
弥生中期
伝・永岡出土
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銅鉾の鋳型
弥生中期
隈・西小田遺跡
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鉇(やりがんな)
弥生後期/矢倉遺跡
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木材の表面を平坦に仕上げる道具
ただし、青銅製品
鉄製に比べて柔らかい
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銅剣
弥生中期前半
隈・西小田遺跡
第109号甕棺副葬品
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銅剣
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157貝輪
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ゴホウラ貝製貝輪
隈・西小田遺跡
第109号甕棺副葬
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副葬品とされているが、被葬者の腕に通してあったのではないだろうか。
上の甕棺の男性が身に着けていた。 |
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158半島系人骨 (男性)
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人も多くなり、新しい村も、あちらこちらにできました。 農業も進み、連携する村々も現れました。
一方では争いも起こり、戦も激しさを増して行きました。
そんな中、新しい指導者のもとでいくつかのクニグニにまとまって行きました。 |
石製品
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磨製石剣
弥生時代
隈・西小田遺跡
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打製石鏃
弥生時代
隈・西小田遺跡
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磨製石鏃 弥生時代
隈・西小田遺跡
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石戈
石で銅戈を模したもの |
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159貝輪 (女性)
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くらしの重要なことは、占いで決められ、いろいろな儀式が 行われていました。
特にクニの首長は、司祭者の剣や矛、戈を使った儀式を受けて、村々を治めていました。(※司祭者が支配者に統治権を与えたか、司祭者に命じたか。) |
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隈・西小田地区遺跡
第10地点310号甕棺
性別女 |
ゴホウラ貝製の腕輪で
「立岩型」です。 |
貝輪(右腕) 隈・西小田地区遺跡
第13地点23号甕棺
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鉄剣
隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺
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鉄戈 隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺
戈は、長い柄を直角方向に装着して用いる武器です。 |
重圏「昭明」銘鏡
弥生中期後半 隈・西小田地区遺跡
第13地点23号甕棺
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前漢時代の
前帝(BC74~49)、
元帝(BC49~33)時代の鏡と考えられ、
甕棺の埋葬年代の上限を知るうえで重要です。 |
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161貝輪(左腕)
隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺 |
出土状況 |
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ゴホウラ貝製「立岩型」 |
貝輪(左腕)
隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺
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ゴホウラ貝 |
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沖縄以南の海に生息する貝 |
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170埋葬祭祀
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171甕棺墓
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甕棺墓は弥生時代の北部九州を代表する墓制です。遺体の手足を折り曲げて下甕に納め、さらにもう一つの甕で蓋をした合口甕棺が多く見られます。
中期も終り頃になると一つの甕に石や板で蓋をした単式甕棺がふえ、新たに笠形の蓋専用土器も考案されました。 |
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甕棺墓 |
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甕棺(第23号) 隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺
被葬者:30代男性
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甕棺(第23号) 隈・西小田遺跡群
弥生中期後半
第13地点23号甕棺
被葬者:30代男性
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173墓前共献土器
祭祀土器
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弥生時代の井戸や溝、墓地など、いろいろな場所から祭に使った土器が発見されます。
その多くは、土器の表面に丹と呼ばれる赤色の顔料が塗られています。 |
※筒形器台
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筒形器台は墓地の入口付近に建てられているものである。何らかの役割を果たしていたと考えられる。 |
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祭祀土器 隈・西小田遺跡群
弥生中期末-後期初頭
第7地点出土
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祭祀土器23本の一括埋納銅戈と共に発見された。 |
祭祀土器 |
筒形器台※
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蓋付き土器は乳幼児用甕棺のような気がするが、
土器内部の検査でタンパク質やカルシウムが残存していなかったのだろうか |
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175銅矛 隈・西小田遺跡群第7地点出土 弥生中期末~後期初頭
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一括埋納された23ほんの中細形銅戈。戈は、本来は武器ですが、この銅戈は祭祀を目的に作られたと思われます。 |
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180東アジアの勢力図 |
181東アジアの勢力図
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弥生時代から古墳時代にかけて、東アジアは動乱の時期にありました。日本もその中で外交を繰り広げ、また戦争にも加わって行きました。 |
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東アジアの勢力図 |
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中国戦国時代小国の勃興 |
前漢・衛氏朝鮮・匈奴
巨大帝国の出現 |
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中国三国時代、三韓時代 |
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北魏・宋・柔然
高句麗・百済・新羅・任那(加羅) |
唐・新羅・渤海
大帝国唐による
東アジア支配 |
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185銅製品
銅戈 隈・西小田遺跡群第7地点出土 弥生時代中期末~後期初頭
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一括埋納された23本の中細形銅戈。
茎に鹿の絵が陽刻されているものがあり、最初から祭器とすることを目的として製作されたことを示しています。 |
道鏡
「長宜子孫」銘鏡
弥生後期
御笠地区遺跡 |
倣製鏡
弥生後期
御笠地区遺跡G地区 |
倣製鏡
弥生後期
隅・西小田遺跡第10地点5号墳
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倣製鏡
弥生後期 日焼遺跡 |
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200弥生土器から土師器へ
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弥生式土器は5~10mmの厚みを持っていましたが、古墳時代には近畿からの影響を受けた薄い土器が急速に普及してきました。 |
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201弥生式土器
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202土師器
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弥生式土器を受け継ぐ素焼きの土器で、器や煮炊きなどの日常生活に欠くことのできない土器でしたが、須恵器が登場すると祭以外は使われなくなりました。 |
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204須恵器 特徴:ロクロ成形、あな窯焼成
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今から1600年程前に朝鮮半島から伝わりました。形を作るためにロクロを用い、登り窯で焼く技術によって、均整が取れた堅い土器になりました。 |
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206
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壺
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壺
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台付壺
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はそう(脚付・有蓋) |
高坏(把手付) |
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207
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210古墳時代
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211鏡
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三角縁神獣鏡はヤマトから各地の有力首長に配られ、さらに有力首長から地域の首長へ配られたと考えられます。
九州では、瀬戸内海の西端にあたる大分県宇佐市の赤塚古墳から5面、関門の出入口にあたる福岡県苅田町の石塚山古墳から7面以上、
福岡平野と九州内陸部への交通の要衝にあたる筑紫野市の原口古墳から3面が出土しています。
筑紫野市一帯(旧筑前国)では、14の古墳から三角縁神獣鏡が出土していますが、原口古墳のほかは、いずれも1面または破片の出土です。 |
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三角縁神獣鏡の分布 |
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三角縁神獣鏡の分布
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九州地方
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博多湾周辺 |
中四国・近畿 |
畿内地域 |
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東海地方 |
北陸地方 |
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213三角縁神獣鏡 同笵鏡 原口古墳 (筑紫野市武蔵)
原口古墳出土の三角縁神獣鏡
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215前方後円墳の分布
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前方後円墳は、墓という役割のほかに儀式を行う場所として形作られたものです。
前方後円墳が造られた広がりを見ると、全国の有力な首長のまつりが一定のルールのもとに広い範囲で行われていたことが判ります。
前方後円墳が築かれた範囲の有力首長は、共通の墓の形や墓前で権力を継承する儀式を持つことになりました。
こうした有力首長をはじめとする諸集団の広い範囲での結合は、かつてない出来事でした。 |
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前方後円墳の分布 |
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前方後円墳の分布 |
北部九州と周辺地域 |
北部九州 |
原口古墳 |
中四国・難波 |
瀬戸内沿岸 |
畿内
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箸墓古墳墳丘模型
5段築成
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5段築盛なんて
普通じゃ考えられない。 |
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217古墳前期の土器 筑紫野市御笠地区
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小型丸底壺
古墳前期
御笠地区遺跡 |
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鉢
古墳前期
御笠地区遺跡
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218
器台
古墳前期
御笠地区遺跡
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器台 古墳前期
御笠地区遺跡
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二重口縁壺
古墳前期
御笠地区遺跡 |
長頸壺
古墳前期
御笠地区遺跡 |
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220筑紫野市周辺の首長墓
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有力首長が前方後円墳を築き始めた頃に造られた中小の首長の墓が、筑紫野市周辺でも発見されています。
前方後円(方)墳や円墳もありますが、方墳と呼ばれる台状の形をしたものが大半を占めます。
古墳の形や古墳群の形成、また、埋葬施設、副葬品などから、見渡せる程度の平野を統治範囲とした首長、
複数の小集団を統治した首長、さらに上位の有力首長に準ずる地位を持った首長がいたことが想定されます。
これらによって当時の階層社会の一端を垣間見ることができます。 |
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221
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筑紫平野の古墳群 |
首長墓 |
妙法寺古墳出土
三角縁神獣鏡 |
御陵古墳群全景 |
御陵古墳群 |
妙法寺古墳出土木棺
割竹形木棺 |
生掛古墳出土埴輪 |
鳥(鶏)形埴輪 |
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224副葬品
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225銅鏃・鉄鏃 阿志岐古墳群B群26号古墳出土
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226鉄斧・鉄鋸
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鉄斧
阿志岐古墳群B群26号 |
鉄鋸
阿志岐古墳群B群26号 |
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227大刀
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砥石
阿志岐古墳群B群26号
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鉄剣
阿志岐古墳群B群26号 |
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230前方後円墳の終焉
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231
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5世紀に入ると、特定の人を埋葬する竪穴式石室に変わって、複数の人を順番に埋葬できる横穴式石室をもつ古墳が九州北部に現れます。
これは朝鮮半島から伝わったものと考えられています。
6世紀までにはヤマト政権の仕組みも整い、古墳の形や祭祀を共有する意義が薄れてきました。
こうした理由から。筑紫野市の首長墓は、6世紀初めのものと言われる剣塚古墳を最後に前方後円墳が造られなくなり、
巡り尾Ⅰ遺跡23号墳や五郎山古墳のような大型の円墳に変わっていきます。 |
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232副葬品
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勾玉・管玉
古墳時代後期
原田地区遺跡9地点6号墳出土 |
勾玉は水晶製、
管玉は碧玉製の
首飾り |
金環
古墳時代 八隈遺跡 |
銅環を金で包んだ耳飾り |
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小玉
古墳時代中期
阿志岐古墳群A群3号
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ガラス製首飾り |
銀環
古墳時代 八隈遺跡
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銅環を銀で包んだ耳飾り |
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240古墳時代の武人 |
241
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古墳時代、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の間で武力衝突が繰り返されていました。
最新の技術と物資を求める日本は、特に百済と親しい関係にあり、5世紀以降663年に百済が滅亡するまで朝鮮半島の動乱に介入していました。
戦いは、当初弓矢によって遠距離から攻撃し、刀剣で白兵戦を展開したと考えられます。
5世紀以降になると、騎馬による戦闘の比重が大きくなったようです。 |
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242武器
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鉄鉾
古墳時代後期
原田地区遺跡23号墳 |
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鉄鏃 古墳時代後期 原田地区遺跡
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243圭頭大刀 古墳時代後期 原田地区遺跡3号墳
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250古代
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251
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252大宰府の守り
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663年、百済復興の最後の戦いである白村江の海戦で、百済と日本軍は新羅と唐(中国)の連合軍に大敗し、百済は滅亡してしまいます。
そのため日本は直接、軍事的脅威にさらされることになりました。
日本ではこの敗戦から僅か4年の間に、北部九州の防人の派遣と烽(のろし)の設置、水城や大野城、基肄城(きいじょう)をはじめ6ヶ所の山城が作られ、百済からの亡命者の指揮によって防衛体制が強化されました。 |
大宰府の守り |
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水城と大宰府全図 |
大野城と大宰府政庁 |
大野城と大宰府政庁 |
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253
大宰府政庁 |
大野城 |
水城 |
大宰府全図 |
大宰府政庁 |
大宰府政庁 |
基肄城(きいじょう) |
基肄城周辺 |
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255大宰府で「都」を思う万葉歌(巻の3)
太宰少弐斧老朝臣の歌一首
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あおによし 寧楽の京師は咲く花の 薫ふがことく今盛りなり(328)
奈良の都は咲く花の美しく薫るように、今が真っ盛りです。 |
防人司佑大洋大伴四綱り歌に種
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やすみしし わご大君の敷きませる 国の中には京師し思ほゆ(329)
我が大君がお治めになる国々の内では、都こそ一番懐かしく思われます。
藤波の 花は盛りになりにけり 平城の京を思ほすや君(330)
藤なみのはなは盛りになりました。奈良の都のことをお思いなされますか。あなたは。 |
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260条坊制
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261大宰府の条坊制
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条坊制の大宰府 |
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262大宰府瓦
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軒丸瓦
古墳時代(白鳳期)
大宰府条坊後第136次 |
軒丸瓦
奈良時代(天平期)
杉塚廃寺 |
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石帯
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石帯 奈良時代 |
・丸鞆(まるとも)
杉原廃寺
・巡方(じゅんぽう)
岡田地区遺跡 |
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皇朝十二銭 |
奈良時代
大宰府条坊第86次
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263生活陶器
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石鍋 (滑石製)
鎌倉時代 岡田遺跡
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白磁 (中国陶磁器)
鎌倉時代 西小田遺跡 |
青磁 小皿
鎌倉時代 西小田遺跡 |
見込みに鯉の絵が入る龍泉窯系 |
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270各地の文物の通過点
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271
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筑紫野市の北にある博多は、古代は、筑紫館、のちの鴻臚館を中心に大宰府の外港として貿易や外港を一手に担っていました。
中世には貿易港としてさらに発展し隆盛を極めます。
この博多と九州内陸部を最も平坦なルートの拠点となる筑紫野市では、国内外から各地の文物が行き交いました。 |
各地の文物の通過点 |
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国産陶磁器
灰釉・緑釉 |
(東海産) |
緑釉 |
(近江産) |
緑釉 |
(京都産) |
緑釉 |
(防長産) |
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中国産陶磁器
白磁(河北省産) |
越州窯系青磁 |
龍泉窯系青磁 |
長沙窯系青磁 |
白磁(江南産) |
同安窯系青磁 |
白磁(広東省産) |
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272
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中国南部陶芸地帯 |
貿易船(ジャンク船) |
国産陶磁器産地 |
国産灰釉・緑釉産地 |
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273大陸系陶器
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長沙窯 陶器 |
江南産 白磁 |
越州窯系 青磁 |
龍泉窯径 青磁 |
同安窯 青磁 |
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275大伴旅人「酒」を讃める歌(巻3)
(大宰府長官 727~728年頃60差異を過ぎてから大宰府に派遣される)
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大伴旅人「酒」を讃める歌(巻3) |
山上憶良「書殿餞酒」の日に歌を作る(巻5)
(天平2年12月6日 筑前国司 山上憶良 慎みてたてまつる) 歌
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280古代から中世の文化
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古代から中世にかけての遺跡から、墨で文字などが書かれた土器が発見されています。これを墨書土器と言います。
こうした土器によって、その遺跡のことや当時の社会、生活について詳しく知ることができます。
また、土器以外にも、刀剣や仏像、仏具などの金属製品や、石塔、石碑など石製品、木簡(文字書き木札)などの木製品、そして紙類なども残されています。 |
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281中世文化
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283墨書土器
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285渡来銭
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室町時代を中心に、日本は中国から多くの銭を輸入しています。
当時、貨幣による流通条件は成熟していましたが、政府に独自の貨幣を流通させるだけの信用が無かったためだと考えられています。
1975年に韓国の新安沖海底で、中国浙江省寧波(上海市付近)から博多へ向かう途中の沈没船が発見されました。
その積荷に高麗製の青磁や紫檀木などと共に約800万枚の中国銭が見つかっています。
このことからも当時輸入された中国銭がいかに多かったかがわかります。 |
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286
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287
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皇宋通宝(1038)
嘉祐通宝(1056)
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元豊通宝(1078)
永楽通宝(1408) |
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300中世
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301瓦質祠
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瓦質祠
柚須原観音堂
寛文9年(1669) |
寛文九年十二月
平石坊権大僧正□和尚銘
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305待島の合戦 ジオラマ
(大友が筑紫を攻め、大敗した)
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永禄2年(1559)4月2日、筑前国御笠郡侍島(筑紫大野市字下見)における毛利元就方の筑紫惟門と大友義鎮(宗麟)方との合戦。
この戦いで、大友方は総大将の佐藤刑部丞を初めと横岳、犬塚、星野、問注所、草野、田尻の諸将を失い、大敗しました。(『九州治乱記』)。
これをきっかけに、毛利氏は北九州に進出し、豊前・筑前両国を巡って大友氏と10年以上にわたる攻防戦を展開することになりました。
下見には問注所鑑豊の墓や大友方の戦死者を葬ったとされる十三塚、さらに築後塚の地名が 残っています。 |
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306
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320近世
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321原田宿関番所
江戸時代長崎街道 |
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原田宿関番所の
役人が着ていた羽織と袴
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原田宿関番所
ピンボケ
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323山家宿の御茶屋
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御茶屋は、福岡藩内の宿場に置かれた藩主の別邸です。参勤交代の諸大名や長崎奉行、オランダ施設などの宿泊所としても使われました。
建物は明治維新の直後に解体されましたが、文久2(1862)年5月に造られた「御出会達御間取絵図」によって190坪約624㎡ほどの平屋であることが わかります。
文政9(1826)年1月13日、ここに泊まったシーボルトは、「江戸参府紀行」のなかで、天井には上等な杉材、壁には貝殻石灰、襖には金紙が用いられた奇麗な部屋であったと記しています。 |
参勤交代図
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この図は、鹿島藩主の鍋島直琳(16歳)が、江戸から郷里へ下るときの様子を描いたものです。安政6年(1859)4月2 日江戸を発ち、5月12日に鹿島へ着きました。石高9万石以下の藩は全体の8割以上を占めており、、この図から標準的な参勤交代の姿をうかがうことができます。 |
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326参勤交代
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諸通執行定め
宿帳か
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山家宿御茶屋敷地図 |
出立の日の朝食 |
出立の日の朝食 |
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番所役人の手紙 |
長崎街道の新設
山家番所の設置 |
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330長崎街道
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江戸時代、江戸と長崎を結んだ主要な道路のうち、小倉~長崎間を言います。
鎖国体制のもとで、長崎には幕府が直接管理する貿易港がおかれていました。
そのため長崎奉行、オランダ使節、学者、芸術家、商人、および参勤交代の大名など、
様々な人々が往来する九州第一の街道でした。
長さ五十七里一町二十間半(約228km)の街道沿いに25の宿場が置かれ、
なかでも福岡藩内の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田は、
「筑前六宿」と呼ばれ栄えました。 |
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長崎街道 |
長崎街道
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曲里の松並木(黒崎宿)
常盤橋(小倉宿) |
小倉~轟木 |
山家~矢上 |
冷水峠石畳 |
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境原~長崎 |
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333『大宰府・博多図屏風』より 斎藤秋圃
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335
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337
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340旅の道具
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350年表
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