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 北部九州の縄文 №39  2020.11.23(月曜日)

  六郷満山
  青の洞門 ・羅漢寺 ・耶馬渓 ・中津城

交通 六郷満山ツアーバスは別府駅前発など
      青の洞門 ・羅漢寺 ・耶馬渓 ・中津城へは大分交通の定期観光バスもある。解説が聞けて便利。
レンタカーで気ままに廻るのも良い。ただ、十分な下調べか、ガイドブックがあれば便利。
  備考  私は耶馬渓では何が観光対象なのか一ヶ所しかわかりませんでした。ご注意ください。下調べ不足。
 



01国東半島とは
10別府市
12六郷満山ツアーバス

20宇佐神宮
※考察 宇佐神宮
21種田山頭火碑

25六郷満山 国東半島
27富貴寺
※考察 国東半島の仏教文化
28富貴寺の紅葉

32豊後高田市観光案内
36富貴寺参道

※研究 平安時代の浄土信仰
※研究 鎌倉時代の浄土教

40真木大堂
41元宮摩崖仏

50熊野摩崖仏

55国東半島ロングトレイル
57豊後高田市観光案内

70総寺院両子寺
73秋の国東半島

80別府から中津へ

110青の洞門
※資料 青の洞門の悲劇

130羅漢寺
131a古羅漢
135a禅海堂

150耶馬渓
※耶馬渓とは

200中津城公園
 

01国東半島とは 火山島、絶景の島、仏教文化の地、世界農業遺産の地、豊かな観光資源の島である。いや、半島だった。(笑)

 大分県北東部に位置する 国東半島は 両子火山群の190万年~110万年前の活動によって形成された、ほぼ円形の火山である。
 半島中央には最高峰両子山720mを中心に両子山群の峰々がそびえ、火山噴出物はその後の浸食で幾筋もの深い谷(28谷)と、凝灰岩の風化浸食による奇岩怪石の風光明媚な地域である。
 この地下にはフィリピン海プレートの急激な落ち込みによって九州島が北九州島と南九州島に引き裂かれている真上に当たり、引き裂き面に沿って火山フロントが走っており、火山活動が活発であった。半島北部の小さな島、姫島には、7つもの火山が密集している

 この半島には律令制によって六つの郷が置かれ、六郷と呼ばれるようになった。その後、宇佐神宮の荘園となり、神領地となる。
やがて神仏習合が進むと、宇佐神宮を退官した神職が仏道修行の地と定め、行場となり、寺院を建立して氏寺とした。
このようにして、仏教文化が高まり、寺院が次々と建立され、やがて六郷満山と呼ばれるようになった。(六つの郷は山=寺院で満ち満ちている。)
 その後、荘園制度が崩壊し、近隣の豪族による荘園の乗っ取りが進み、六郷満山の寺院は一括して当時政治力のあった天台宗総本山に所領を寄進して、その末寺となり、領地の確保を図った。

 半島南西部の田染荘(たしぶのしょう)世界農業遺産に登録され、古代からの農村風景や、伝統農業の維持について称賛されている。
また、半島全体が自然景観景と古代寺院、石仏などの仏教文化によって観光地として四季を通じて名高い観光地となっている。。
 

 10別府市
  別府氏は名高い温泉街であり、お金さえあれば楽しい時が過ごせる。私は、温泉利用の窯で卵やトウモロコシをゆでてみたかった。
  私は駅前のホテルに安く泊まれたので助かりました。
 11
別府駅
前夜別府泊。今日は不思議の六郷満山旅
烏帽子のような
高崎山
別府駅前の海岸
温泉街・ホテル街別府は歴史のある多様な宿や・温泉施設があり
他県の温泉地とは異なる複合的温泉利用が行われている。

←沖の船は↑
瀬戸内航路のフェリー
別府⇔八幡浜(愛媛県)

この同型船ですね。
何隻も走っているんだ

 12六郷満山ツアーバスの中で 国東半島史跡巡り
  私の乗車コース:別府駅前→宇佐神宮→国東半島→別府駅前
 なぜ、このツアーが重要なのかというと、最近ではやっと語られ始めたが、以前は知られていなかった、
宇佐神宮の生い立ち(縄文信仰)や歴史・廃仏毀釈。国東半島が仏教文化の聖地となった理由、などの基本的な史実や、
その他、地域や寺院についての知識・疑問がバスガイドによって明らかにされます。
 一般乗客にとってはただの聞き流しなのだが、興味のある者にとっては驚きに値する内容です。
ネットのどこを探してもない情報がよくまあ、バス会社で調べられたものだと思いました。
ガイド自身は御存じないかもしれない。けれども、その内容は大変貴重な知識でした。私はもう一度行って、全て録音して帰りたいと思うほどです。


バス外観を撮る余裕なく慌てて乗車。駅前かなり混乱。始発からの乗車がベター。 要予約
予約なしの人もいて、窓際席が埋まってしまう
スマホ音声ガイド

沢山の場所に設置
今日の訪問寺社は
ここだけ
音声ガイド登録法(笑)
スマホ初心者の私は

どうしたらいいのか
わからない(大笑)
 
 

 20宇佐神宮 大分県宇佐市南宇佐2859

※考察 宇佐神宮とは
 宇佐神宮は全国4万600社の八幡社の総本宮である。
八幡神とは、神のしるしである多くの旗を8本の旗(幡)に象徴して奉り、「八幡」と名付けたことに始まる鎮守神信仰です。(幡=旗)
鎮守神とは、国・村・城・寺院・一定の地域・造営物などを守護する神のことである。例:鎮守の森

 この祈願は神功皇后が朝鮮出兵の際に対馬で八本の旗に戦勝祈願したことから始まるとされています。(神功皇后は架空の人物)
ここに、鎮守の願掛けのカミが戦勝祈願のイクサの神の性格をあわせもつ八幡神の成立となり、戦乱の時代に豪族に信奉されることとなった。
  (※地域を守る「鎮守の神」がなぜか、人殺しの「戦争の神」となった。)
さらに後、中世に源頼朝に「戦の神」として厚く信奉され、全国に広まる契機(源氏の神)となる。
  (※八幡神を祀る総本山が宇佐神社。その末社は○○八幡神社という。)

宇佐神宮の成立
 宇佐神宮は、現社殿の南の御許山(おもとさん)山頂に元宮として3つの巨石を祀る大元神社(上宮)があり、この磐座信仰が元祖である。
それは、
和歌山県新宮市のゴトビキ岩などに代表される、縄文時代以来大木など、自然の中に周囲を圧倒する偉大なものを目の当たりにしたときに人間が思わずひれ伏してしまうような存在を神とあがめる、原始信仰、自然崇拝である。

6世紀頃、この磐座を信仰する豪族の宇佐氏辛島氏(スサノオを奉じる渡来人)が比売大神(ひめのおおかみ)信仰を持ち込み(巨石信仰に三女神信仰で味付けして)、麓に降ろしたことが始まりである。(これを下宮という)(三女神信仰は本来、海人族の神である。安曇氏も宗像氏も自前の三女神をもつ)

 次に、磐座信仰という地域神であった鎮守の神が全国に広がり、当時絶大な宗教権力を持つに至った過程を明らかにする。
8世紀、東大寺大仏の建立に際し、宇佐神宮のみが唯一これを守護すると神託し、皇室の崇敬を集め、中央権力と深くと結びつくことになった。
また、東大寺大仏殿建立後は、宇佐から奈良まで神輿を担いで行幸して奈良の都に分祀し、東大寺に合わせ祀られた。その後神輿は宇佐へ帰還した。

 このような神輿の行幸はそれまであっただろうか。初めてのことである。これが神輿練りの最初であっただろう。
またこれは、まるで、ユダヤのアーク(中には三種の神器入り)を運ぶのに似ている。この時、神輿の中には何が入っていたのだろう三種の神器かな。

※2023.09.03追記
秦氏と八幡神と稲荷神
 宇佐神宮のヤワタ信仰はヤーベ信仰であり5世紀に渡来した秦氏の信仰であるとされる。キリスト教・ユダヤ教にかかわる信仰である。
 「八=8」という数字は八本の旗(幡)ではなくキリスト教に置いての神聖なる数字なのである。(モーゼ)

宇佐神宮の初源が、『571年に宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち』とされるのは、製鉄技術を持った人々をあらわし、朝鮮半島南部からの渡来人のことである。製鉄技術を持つ人々が始めた信仰をあらわしている。辛島氏=韓嶋氏

 また、磐座(いわくら)信仰の地には徐福伝説(秦国人)があり、ゴトビキ岩に隣接して徐福神社があり、ゴトビキ神倉神社信仰は徐福と関わると聞いた。
このことから巨石信仰とユダヤ神やキリスト信仰には関係があるのかもしれない。 諏訪モリヤ山大阪磐船神社 ユダヤ教と巨石
ユダヤ教に岩のドームとされる巨石信仰があることがわかった。

 更にまた、秦氏は稲荷信仰も始めたといい、鳥居(神社の入り口)を赤く塗ったのも稲荷神社からであるとされる。他の神社は赤く塗らない。
いなりとはINRI(ユダヤの王)であり、キリストを意味する言葉である。
ユダヤ教は戸口に子羊の血を塗って災いを避ける「過ぎ越しの祭」の儀礼である「赤(朱)」が、稲荷神社の鳥居には塗られている。赤くない鳥居。

秦氏はユダヤ人とされるキリスト教徒
 イスラエルの失われた十支族が東進してシルクロードの各地に定着して弓月国を建国したり、中国では秦国に仕えたり、秦国滅亡後は半島に逃げ込んで秦韓国(辰韓)を建国(BC2c~4c(356))。その後5世紀に列島に半島系渡来人としてやって来た。渡来は数千人とも数万人とも十数万人とも言われ、列島各地に分散して居住した。その本拠地は京都太秦(うずまさ=当て字、本来の意味)である。京都や各地に出没した天狗の本来の姿はユダヤ教の司祭の姿であるとされる。コーカソイドは日焼けするとピンク色になるので、話を聞いた人があか色としたのでしょう。(あかを赤としたのは現代人。あかは本来、朱色のこと)
 古代にはピンク色なんて色彩の区別はなかった。

 この秦氏の渡来により、それまでの渡来人とは比較にならない高い技術や薬学、高度な文化をもたらし、宮中で演奏される雅楽も秦氏が始祖である。
また、長野県の諏訪神社は、モリヤ山信仰に始まり、神殿の建築様式は、ギリシャ神殿風の古代西洋神殿の雰囲気を持つ。(∴柱の配置)

コーカソイドの渡来
 さらに、と言っても、すでにネット上から全てのデータが消去されてしまったのですが、ユダヤ人の東進と渡来はこの時が最初ではなく、もっと古い時代から渡来していて、北方ルートで東北地方に到達したグループもいて、アキナケス剣を元にした、単なる山刀を蕨手刀にまで高めたり、青森県にはキリストの墓(キリスト教の礼拝施設跡)などが今も残っていたりする。(蕨手刀は5世紀に関東地方で始まった山刀に由来する。馬上戦闘用の刀ともいわれる。

渡来ルート
 また、この話は、私の中学の頃、一時期話題になり、すでに消されてしまったが、追分節がモンゴルの民謡とそっくりである事実と繋がっていて、北方ルートでモンゴル人が馬と一緒に渡って来た航路で来たのではないかと考えられている。つまり、全てがシベリア→樺太→北海道→東北ではなく、渤海・沿海州から直接の渡来ではないかと考えられる。

秋田美人
 私の子供の頃に「日本の謎」という番組があり、岡山県の鬼ノ城などが記憶にあるが、
秋田美人を取り上げた番組では、その肌の白さや顔立ち(女性)はコーカソイドの末裔ではないかとし、また、男性にも、とても西洋的な顔立ちの人々が多いことを実写映像を流していた。

私の妄想
 私の経験でも、確かに新潟県や青森県では、とても関西人とは比較にならない長足長身体形の人々に出会い、渡来系の形質を強く残していることを知った。
それは、八頭身の山東人の形質かもしれないし、西欧コーカソイド、ユダヤ人の形質かもしれない。
 これは以前言及したことのある、フン族の西進・民族の大移動の時に、逆に東に進んだ民族がいたという記事を読んだ記憶に始まる。ことから。

などといったことも想像される。こう考えることはとても楽しい。関西人なら「…知らんけど。」 テレビ人なら「信じるか信じないかはあなた次第。」


 21種田山頭火 宇佐神宮駐車場

山頭火の書簡より(昭和四年)
  十一月佐二十四日 大分県宇佐市にて 松垣昧々へ

急にお寒くなりました。昨日は、四日市から当地まで来ました。神宮参拝、おのづから頭のさがるを覚えました。つゞいて大楽寺拝登。銀杏が美しく立つてゐたのが眼に残つてゐます。今日は高田へ出ます。第五番、第六番をうたなければなりませんから。・・・(後略)

  十一月二十六日 豊後赤根にて 荻原井泉水

宇佐神宮は尊いところでありました、おのづから頭が下がりました、昨夜は山家に泊りまして、ひとりでしんみりしました。今日はしぐれる岩山を四つ越えました。両子寺、天念寺、椿堂、どれも岩山の景勝を占めてをります、このあたりは小耶馬渓とでもいひたい山間であります。・・・(後略)

JR宇佐駅
伏見稲荷駅も同じ
種田山頭火碑宇佐神宮駐車場にあり 山頭火 山頭火の書簡より
無所属の僧 山頭火 山頭火の紹介文
不鮮明
山頭火の日記より
不鮮明


 22宇佐神宮参道

背広着て旅行する人がいるのね

本殿まではかなり遠く、

石段が続く。そこで、

本殿行きモノレールがあります。
 23社殿

いい雰囲気です
神さびた…

これ本殿でなかった
神仏習合をテーマのポスター

宇佐弥勒寺は明治に破壊された
 24大尾神社
天平勝宝元年(749年)、八幡大神は奈良の都、東大寺へ行幸し、宇佐へ帰還の後、天平神護元年(765年)に、この大尾山に鎮座したという
※神輿行幸し、また、帰って来たのだ。すると、別の神として、いや、留守を預かっていた神に遠慮して別の社殿におさまったのだ。格が上がったから。
人間がいろいろ考えたんだなぁ。
大尾神社
この先山の上…

 宇佐神宮境内図
宇佐神宮境内図 宇佐神宮球場
昔はこんな小さな球場が各地にあったな。
神楽殿
美観のために寝殿造りで池を配置
本殿
方角は無関係で、南北軸に対して傾いている
大尾神社
山腹にあるが磐座ではない。奈良から帰還した神輿の神社。格が高い
※伊勢神宮でも同じだが、沢山の社殿があるのは、神官一族にそれぞれ神社を持たせて収入を得させるためだと聞いている。野球場まで。

 25宇佐神宮周辺マップ
※宇佐神宮宗教センターの周囲には、多くの信仰施設が併せて並び立つようになる。
神仏習合の里
百体社(虐殺被害者)
勅使街道(皇室と密接)
大善寺(弥勒寺の仏像)

大楽寺(大宮司の氏寺)
宇佐神宮

※大善寺:明治の廃仏毀釈で、神仏習合の宇佐神宮にあった 宇佐宮弥勒寺が破壊され、祀られていた仏像の一部が収蔵された寺。
      弥勒寺であるから、浄土信仰の寺であった。
 26無人販売
近隣参拝者向けの販売所。私はこの付近に棲みたいと思うほど優しい値段でした。うらやましい。
 
 宇佐神宮の次はいよいよ国東半島へ、まず、富貴寺。

 六郷満山 国東半島


 27富貴寺 大分県豊後高田市田染蕗2395 ※田染:たしぶ、奈良時代の郷の一つ。田染荘(たしぶのしょう)は荘園の名前。
天台宗 蓮華山 富貴寺 宇佐六郷満山霊場四番札所
養老二年(718)仁聞菩薩開基
 平安時代、宇佐神宮宮司家の祈願所であった。
蕗浦(ふきうら)阿弥陀如来寺(現富貴寺大堂)の別当として、宇佐宮司家の保護のもと九つの坊を持ち、平安末~鎌倉初期までは権勢を誇っていたが、武士の台頭や、戦国時代の混乱などで衰退した。(寺を維持管理するための荘園を奪われ、乱世で権威を失墜した。)

 江戸に入ってから徐々に復興し、除災招福、五穀豊穣を祈願する祈願所として本日まで法灯を護持している。
富貴寺本堂 本尊:阿弥陀如来、不動明王
富貴寺大堂 (国宝 阿弥陀堂)  本尊:阿弥陀如来(有形文化財)
 以下略

※考察 国東半島の仏教文化
 かつての京都・奈良といった官営や勅願の巨大寺院が立ち並ぶ都ではなく、列島の西端、九州東端の山岳地帯に、
なぜこのような独特の仏教文化が興隆したのかが、私には以前から大変不思議でした。今回の訪問で、その謎がやっと解けました。

 聖武天皇以来、中央政界と深く結びついた宇佐神宮は、広大な寺社領を寄進され、国東半島全体やその周辺地域も宇佐神宮の所領でした。
神社には沢山の神官がいて、神事を執り行う毎日だが、やがて、退官すると、宇佐弥勒寺の僧侶となり、様々な修行をするようになる。
その修行の場として、奇岩怪石の火山地形が発達した国東半島が選ばれた。六郷とは律令制によって置かれた六つの郷の総称です。

 確かに考えてみると、自然崇拝の神社神道では同じことの繰り返し、深みのない形式だけの世界。
しかし、仏教には経典があり、学ぶことができ、議論することができ、修行することができ、体感することができる。無限とは言わないまでも大変な広がりを持っており、宗教者としての宗教的精神に強く響くものがあったのでしょう。
 さらに、都から伝わる修験道なども加わり、平安時代の浄土信仰が深く広がりました。

 やがて律令制が崩壊し、武士が台頭すると、領地の横取りが始まり、国東半島一帯の寺院は、荘園の権利を守るために有力寺院に一括で寄進し、
全ての寺院が天台宗の末寺となりました。
 六郷の仏教活動は残ったが、寺院を維持するためにやがて世俗化し、今日に伝わる様々な民間信仰が見られるようになった。


 28富貴寺の紅葉
富貴寺大堂
平安時代後期建立
12世紀頃

九州最古の木造建築
六郷の各寺院は上記のような事情で天台末寺となり、荘園保全のために作成した
寺院の開山を
実際よりも古く、
開基を任聞菩薩(架空人物)という高僧にしている。
一時は2万町歩もあった荘園を地元振興武士に横領され、やがて僧侶の中からも武士化する者も出て、事態はいっそう深刻となったようだ。
 29
富貴寺大堂
内部撮影禁止
復元内陣が大分県立歴史博物館にあり撮禁
 
 30富貴寺大堂ライトアップ
富貴寺Light up Poster 富貴寺の大榧の木 大木を切り倒した話
現代的でない御伽噺
記述に値しない
富貴寺は蕗寺?
田染蕗(たしぶの荘フキ地区)にあるから
蕗の寺と呼ばれ、、
それを、
とうとくとむ
と改めた。 

大榧の木の話から
 私の知っている寺院に通称、一本堂というのがある。巨大なケヤキの木を使ったもので、一本でまかなえたという大寺(おおてら)だ。
 おそらく主要柱や梁、濡れ縁などがそれであろう。

 32豊後高田市観光案内
昭和レトロな街で、映画・ドラマのロケ地としても有名です。

 国東半島の形成
半島は両子火山群の噴出物で出来ており、火砕流を浸食した深い谷と、火山堆積物の緑色凝灰岩の浸食された奇岩怪石、断崖などが連なる
美しい景観の絶景ポイントが多くあります。

豊後高田市観光案内
位置
観光地図
徳山ゆきフェリー
行者洞穴
真玉海岸の夕日
猪群山ストーンサークル
中山仙人境
霊仙寺
豊後高田 昭和の町
鬼会の里 歴史資料館
天念寺川中不動尊
国宝富貴寺大堂
元宮摩崖仏
世界農業遺産田染荘
鍋山摩崖仏
真木大堂
熊野摩崖仏
 33
富貴寺大堂
真木大堂
熊野摩崖仏
世界農業遺産の郷
田染荘
天念寺・川中不動三尊
鬼会の里歴史資料館 長安寺 豊後高田 昭和の町 日本の夕陽百選
真玉海岸
花の岬 長崎鼻

 国東半島は、私のような、古臭いもの好きには、たまらない観光地ですね。
 35国東半島観光マップ
姫島村 国東市

 36富貴寺参道
 蓮華山富貴寺
 富貴寺は、平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。
中でも富貴寺大堂(阿弥陀堂)は、宇治平等院鳳凰堂平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂の一つに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝に指定されています。

 富貴寺大堂には、仁聞菩薩の作とされる本尊阿弥陀如来坐像のほか、極楽浄土の世界を描いた壁画が施されています。
現在は風化が進んでいますが、建築当時は極彩色で描かれていたという調査結果から大分県立歴史博物館に忠実に再現されています。
 他にも境内には、平安、室町時代の石造仏が数多く残されており、かつての富貴寺の繁栄ぶりを偲ぶことができます。

 37富貴寺大堂
 富貴寺は平安後期(794年~1185年)、仏教徒を極楽浄土へと導く仏である阿弥陀如来像を祀るために建立されました。
大堂は国宝に指定されており、九州で現存する最古の木造建築物です。
 富貴寺は、恐ろしい形相で門に建つ2体の仁王像と2本の大きな木―左が榧(かや)、右が銀杏―に守られています。
内部の仏像と同様に大堂自体が榧の木で造られており、弧を描く屋根のデザインは、仏教における神聖な生き物である鳳凰を象徴しています。
元々内装は鮮やかな色で塗られており、細部まで描かれた絵が壁や柱の大部分を覆い、阿弥陀如来像は輝く金箔に包まれていました。
礼拝者達は壁高くに描かれた極楽浄土の仏に見守られながら、時計回りの方向に仏像の周りを回りました。(多くはまだかすかに目に見えます。)
 後年、禅や茶道の影響から、より控えめで洗練された美学が日本の美術や建築に取り入れられました。
富貴寺の様に豪華に装飾された寺は、古くなり、色褪せて、永遠性の風格を帯びていったのです。

富貴寺大堂 富貴寺大堂

※研究 平安時代の浄土信仰 引用コトバンク
 仏・菩薩の支配する浄土世界にあこがれる信仰
浄土には ➀阿弥陀仏極楽浄土, ②弥勒仏の兜率天(とそつてん), ③観音菩薩普陀落(ふだらく)山などがある。

 すでに飛鳥時代に建立された中宮寺天寿国繍帳天寿国への再生を願う浄土思想がうかがえ,
 奈良時代には弥勒信仰阿弥陀信仰が主流であった。
 平安時代,天台宗下で阿弥陀浄土思想がはぐくまれ,貴族社会で極楽浄土への往生を願う浄土教を信ずる者が多くなり,
 平安後期から末法思想の影響で急激に広まって一般化した。

※研究  鎌倉時代の浄土教 
 奈良・平安仏教は貴族・皇族の仏教であり、浄土信仰というも、寺院を建立したり、寄進(京都府宇治市の平等院など寝殿造り建物をそのまま寺院に)したりすることのできる者や、仏教に携わる者が浄土往生するのであった。
 平安末期の政情不安と戦乱、貴族社会・律令社会の崩壊が末法思想を生み、社会不安が庶民にまで仏教の信仰を広げたが、密教仏教での庶民の極楽往生は説かれていなかった。
 鎌倉仏教では、生きとし生けるもの誰でもが極楽往生できると説く仏道信仰が広められ、南都仏教(密教)から激しい反発と権力の弾圧が行われた。

 引用 鎌倉仏教-世界史の窓
 平安末期から鎌倉時代にかけて興ってきた新しい仏教には、
 念仏を第一とする浄土教系の浄土宗(法然が開祖)、浄土真宗(開祖は親鸞)、時宗(一遍が開祖)
 法華経を根本に掲げる日蓮宗
 当時の宋から伝えられた禅宗系の臨済宗と曹洞宗がある。

 40真木大堂 大分県豊後高田市田染真木1796

 41元宮摩崖仏
室町時代の作とされる。もとは唯の摩崖仏であったものを、外側におかしなものを作ったために、何も見えなくなりました。(大笑)
 43真木大堂
 バスガイドに堂内左は撮禁と聞いたのですが、全面的に撮影可だったようです。
 養老2年(718)に仁聞菩薩によって開基とされるが江戸時代に再建されたもよう。
 

 50熊野摩崖仏 豊後高田市田染平野2546-3 平安時代後期
 当然ながら、大変な石段を上って行きます。登山口に杖が用意されています。私は両手に杖をついて上がりました。(これは楽でした。)
 向かって左に不動明王、右に大日如来があります。
 ※テレビやネットの熊野摩崖仏の写真は、早朝か曇天の日に撮影しています。日中の太陽光では樹木や山の影でダメです。

 51参道


 54熊野摩崖仏 豊後高田市大字平野字上尺
 大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野摩崖仏と呼ばれている。
 大日如来は6.8m如来にふさわしい端正な顔形で頭部上方には三面の種子曼荼羅が刻まれている。
 不動明王は8m、憤怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏に見られない珍しい例である。

 六郷満山諸勤行注目録華頂要略などにより、摩崖仏は藤原時代末期(約900年前)の作と推定されている。
 厚肉彫りの雄大、荘厳な摩崖仏であるため、国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せて受けたものである。
 伝説では、摩崖仏は養老2年(718)に仁聞菩薩が設立したものと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」と呼ばれる作業時の宿泊跡がある。
また、参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられている。(これは何を表現した話でしょう。ただの嘘話ならこんな設定は不要なはず)

※御所帯場とは、所帯=生活であり、生活の場に、接頭語「御」をつけた言葉

火砕流堆積物の浸食の跡

この下に奇岩怪石がある

 
 52不動明王
 鎌倉初期に修行僧が彫った石仏。憤怒、怒髪の不動さまではなく、柔和な表情になっている。(長年の風化のせいかもしれない。)
 不動明王像は素人の行者が彫ったそうです。 いっぽう、、、

頭上の火砕岩が危険。
よく彫れたものだ
仏像は前のめりに彫られたようです。 凝灰岩なのでかなり柔らかかったと思います。

 53大日如来
 平安時代後期に都から来た仏師が彫った石仏。丁寧な作りで螺髪まで彫られている。
石像の麓に積み上げられた川原石は一字一石経だろうか。


 55国東半島ロングトレイル
国東半島を歩く旅の始まり。
田染荘に代表される日本の原風景の中を歩く11.5km。

国東半島峯道、ロングトレイル、日本人の魂に触れる「歩く旅」の始まり。起点である。熊野磨崖仏に旅の安全と成就を祈った後、まずは県道655号線をひたすら北上して、真木大堂を目指す。真木大堂からは、古代公園を抜けて、田染荘(たしぶのしょう)へ。途中、朝日・夕陽観音のある岩山からは美しい田染荘の全景を見ることができる。懐かしい田園風景を楽しんだ後は空木地区を経由して西叡山へ。コースの終点はかつて京より西を統括していたと言われる高山寺となる。

熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)
 平安時代中期~鎌倉時代前期の作と言われ、国指定重要文化財と国指定史跡に指定された大分を代表する磨崖仏。
 日本最大級の大きさを誇る。岩肌に刻まれた不動明王像と大日如来像。その柔らかな表情からは、慈悲の心を感じられ、訪れた人々を優しく癒す。向かって左手に鎮座する。不動明王は、約8m、その隣の大日如来像は 約6.8mと、とても大きく、当時の信仰の強さを物語っている。

真木大堂(まきおおどう)
 真木大堂の名で知られる馬城山伝乗寺跡は、収蔵庫内に阿弥陀如来坐像を始め、日本一の大きさを誇る、大威徳明王像、不動明王像、二童子立像、四天王立像の計9体の平安物が保存・公開されている。真木大堂自体は、約700年前に火災のため消失してしまい、残っている仏像は、当時の人々の厚い信仰のおかげで、難を免れ今日に至っている。

トレイルコース
熊野摩崖仏
真木大堂
 57豊後高田市観光案内
千年ロマン
豊後高田市
観光案内
国宝・富貴寺大堂 ②真木大堂 熊野摩崖仏 世界農業遺産の郷
田染荘
⑤天念寺
川中不動三尊像
鬼会の里
歴史資料館
⑦長安寺 豊後高田昭和の町 日本の夕日百選
真玉海岸
花の岬 長崎鼻
 

 70両子寺(ふたごじ) 大分県国東市安岐町両子1548
六郷満山が天台宗の末寺となった時、この地域での統括寺院として両子寺を頂点とする3つのグループ寺院編成が行われた。
 71両子寺
 天台宗別格本山 六郷満山総持院 足曳山両子寺
 当山は養老2年(AD718年)仁菩薩開基。神仏習合の稀有なる天台宗寺院で、約1300年の歴史を持つ。
六郷満山の中では中山本寺、山岳修行の根本道場(六郷満山峰入りの結願の地)に当たり、とくに江戸時代より総持院として全山を統括してきた。
  国東霊場第十三番札所

※両子寺は、天台宗の(別格)本山。その名を六郷満山(地域)の総寺院(他の寺院を統括する寺)。寺の名を足曳山(山号=接頭語)両子寺。という。

両子寺参道
凝灰岩(火山灰)の
分厚い堆積層
両子寺
秋の紅葉
積雪の奥の院本殿 春の走水観音堂
 72総持院両子寺
両子火山山頂に近いこの寺院は、総持院別格本山として、広い寺域と立派な施設が建設されています。主に江戸時代以降、幕府の力添えによるもののようです。

明治以降の建築。

廃仏毀釈への反動で

全国で寺院興隆運動が起こった。

この地域も明治に仏教ブームが起きたらしい
 73秋の国東半島
 この年は紅葉の前になぜか、葉が枯れたようになり、美しい景色が少なかったのですが、ここだけ、少し、紅葉。
 古刹と紅葉は本当に美しい。
 74

苔むした一枚石の
石橋
本来枯山水で見るものだ
 75

 ※「六郷満山巡り」バスは、帰路下車JR駅が別府か大分しかなく、随分北のほうに行ったのに、もう一度南に下がって、また電車で北上します。

 

 80別府から中津へ
子供の頃60年前にNHKドラマで見た「青の洞門(番組名「恩讐の彼方に」)」と、景勝地として名高い「耶馬渓」がどんな“渓谷”なのかを見るために行きました。
下車駅「中津」は、関西では「なかつ」ですが、ご当地では「ぶかつ」みたいに「なかつ」と発音します。私の「なかつ」は通じませんでした。(笑)
これは、関東人の発音の癖で「ひめじ」に対し、関西では「ひめじ」という。ただし、大阪の中津は「なかつ」と発音する。

特急「ソニック」 中津駅 特急ソニック は、博多駅 - 中津駅・大分駅・佐伯駅間を、鹿児島本線・日豊本線経由で運行

特急にちりんは、小倉駅・中津・大分駅 - 佐伯駅・宮崎駅・南宮崎駅・宮崎空港駅間を、日豊本線・日南線・宮崎空港線経由で運行する
 

 100青の洞門-耶馬渓 202010.24
 110青の洞門
 禅海和尚頌徳碑(しゅうとくひ)
江戸時代後期の享保20(1735)年、越後の旅僧禅海が、この地に来たり、人馬交通の難渋を救うためにこの洞門開削の大悲願を起こし、独力でこれに着手し、不撓不屈の努力により、営々30年を費やしこの鎖戸の岩山を刳り抜いたものです。
洞門は其の後2回の改修によって当初の姿は変わったが、、この入口に向かって右側川沿いの旧洞門の灯り取りの窓、掘り違いの地点にもノミの跡が見られ、当時の感激を物語っております。

※資料 青の洞門の悲劇
1632年中津藩の領主細川氏に代わって小笠原氏が入府した。初代は細川氏の政策を引継ぎ善政を敷いたが、2代目以降失政が続き
3代目長胤は荒瀬井路を整備したが、取水堰の設置により川べりの道が水没し、通行不能となった。これが後の青の洞門の掘削へと繋がった。
とはいっても江戸時代前期に生じた道路の流失を江戸時代後期までほったらかしておいた奥平氏は、なんぼのもんじゃ!と言える。

 ちなみに、失政・不良行為の3代目は本家小倉藩にお預け、弟が半減の4万石で跡を継いだが5代藩主は夭折のため、廃藩領地没収で、その弟が播磨安志藩(1万石)に移封となった。どうやらおバカの上にツキにも見放された一族だったらしい。

 その安志(あんじ)に行ってきましたが、山の中のとても小さな村で、1万石を徴税するとなると相当農民に負担をかけたと思われます。城はなく陣屋、現在寺院の小さな屋敷だけ。ここに、大分での家来を養うこともできず、多くの浪人を生んだことでしょう。 8万石→4万石→1万石

 さらに、公称1万石とされると、参勤交代が課せられるため、きっと極貧の大名に成り下がったのでしよう。入府された百姓はほんとに迷惑したでしょう。

 現在の青の洞門

トンネルは3連で、青の洞門は手前です。

この窓が創建当時らしい

上に記述

Wikiより拝借
 

 130羅漢寺
 青の洞門近くに羅漢寺という石仏が沢山ある趣のある寺院が見つかったので行こうと思いました。
 その途中で何やらわからないが、紅葉のきれいな場所があり、駐車場もあったので少し写真を撮りました。

 古羅漢(ふるらかん)
ところが、後から調べると、そこは古羅漢という名所・古刹であることがわかりました。
ネット写真を見てこの上に登らなかったことをとても残念に思いました。

 131a3古羅漢 中津市本耶馬渓町跡田
名勝耶馬渓のうち古羅漢の景
 参詣道を上れば眺望の良い天然の空洞に菩薩など数体の石仏と像高220cmの毘沙門天摩崖仏を祀る。
 昔、空也上人が錫杖を止めたところと伝えられ、古来より羅漢寺と共に修禅の道場でありました。
空洞の上部を天人橋と呼び、最高所を飛来峰という。岩上にある室町時代の造立と推定される県指定の国東塔がある。
総高226cm、塔身に木造の毘沙門天像かあった。経路の途中に雲僊窟、地蔵窟が散在、天正の頃、大友軍との戦いがあったと伝えられ、多数の宝塔、五輪塔群が埋もれています。

※詳細不明ですが、周辺はかつての宗教センターだったようです。大分県には国東半島だけでなく各地に仏教文化が繁栄したようです。
 沢山の仏塔が埋もれているとは、戦乱で倒され、破壊され、そのまま建て直しもされずにほっとかれて埋もれたということでしょう。死体累々の場所は誰も近寄らないのそうなりますね。人骨も出るんじゃないかな、、

古羅漢はトンネル手前を左に徒歩で登る 古羅漢を裏から見た
 133aトンネルを抜けると
トンネルを抜けると羅漢寺の山が見える 振り返ると茅葺の高級和風建築の民家
お金持ちの家ですね
って、住宅ですかね?

 羅漢寺イラスト地図
古羅漢
古い凝灰岩の浸食残丘
羅漢寺参道脇の施設
禅海堂・リフト
仁王門からの塔頭 頂上まで 羅漢寺本堂

 羅漢寺石仏
 羅漢寺は大化元年(645)、天竺より渡来した法道仙人によって開かれたという霊窟です。暦応元年(1338)には円龕昭覚禅師が庵を建立し、延文4(1359)年に来訪した逆流建順禅師とともに、約1年かけて五百羅漢像を初めとした石仏を刻んで窟に安置しました。

 羅漢寺石仏の特徴は、その図像と配置にあります。無漏窟中尊の釈迦如来は右手で蓮華をとる図像で、十大弟子の老貌で微笑みを浮かべる迦葉と
合わせて拈華微笑(ねんげ)微笑の場面を現わしています。また、五百羅漢は中国宋元時代の仏画の図像を取り入れたもので、中国文化の影響が見られます。

山内に配置された羅漢からは、羅漢の聖地である中国天台山の情景が浮かび、円龕・逆流両僧の聖地天台山への思いが感じられます。

※法道仙人については別の話が一般的です。 法道仙人
仙人は、鉄の鉢を飛ばして托鉢する。あるとき、長者が鉄鉢を米蔵に閉じ込めると、米蔵ごと持ち去られたという話です。子供の頃聞いたおはなし。

※羅漢寺縁起では645年(7世紀)となっているが、兵庫県加西市では6世紀半ばとなっている。
渡来時にすでに仙人と呼ばれるほどの高僧であるなら高齢のはず。以後百年も生き続けることは不可能でしょう。多分羅漢寺が偽装しているのでしょう。
645年は日本仏教の黎明期にもなっておらず、縁起を古く書くのはこの時代の当然の行為だったようです。
羅漢寺石仏

 135a禅海堂
参詣道を行く前に人に出会ったので挨拶をした。すると、ここは禅海和尚(青の洞門)の威徳を偲ぶための禅海堂、つまり墓所だそうです。

禅海堂 羅漢寺駐車場の上に
禅海堂
羅漢寺
写真
羅漢寺
青の洞門 青の洞門

 136羅漢寺イラストマップ


耆闍崛山 羅漢寺(きしゃくっせん らかんじ)

 大化元年(645)印度より渡来した法道仙人は、当山の霊峰に感動し、この地に静座して修禅して羅漢寺を開いたと言われています。
仙人がこの地を去る際に残した観世音像(エンブダゴン)は、この寺の霊宝として大切に保存されています。

 暦応の頃(1338)栄西禅師の法孫、円龕昭覚禅師(えんがんしょうかく)がこの地を訪れ、耆闍崛山 羅漢精舎と号しました。これが当山の山号の由来です。
その後、円龕昭覚は訪ね来た逆流建順とともに十六羅漢、五百羅漢など三千七百余体の石像を建造し、延文5年(1360)に完成。
一千人余りの僧侶が集まり開眼供養が行われたと言われています。

 以来、臨済宗26代を経て、慶長5年(1600)長州深川大寧寺より鉄村玄鷟(てっそんげんぞく)禅師が入山してから曹洞宗に改まり、現住職まで27代となっています。
     平成15年10月現在

  羅漢寺近年の歴史
    以後略

※たった二人で3700体もの石造は造れない。きっと沢山の修行僧がやってきて彫ったのでしょう。その時には、羅漢寺は辺り一帯の宗教センターのような繁盛ぶりだったのでしょう。それを支えたのは、地元や周辺の豪族や農民だったのでしょう。


 137羅漢寺参道
禅海堂からリフト乗り場があり、羅漢寺まで行けますが、この時はまだ運転時間前で歩いて登りました。
ところがこの山門までくると、以降撮影禁止の札があり、下山しました。
きっと、古羅漢の方でも撮禁になっていたと思います。
 愛想がないのでそのまま次の訪問場所へ。

 
 

 150耶馬渓
北部九州には、青の洞門、「耶馬渓と」いう景勝地があると子供の頃から聞いており、一度行ってみたいと思っていました。
六郷満山バスツアー同様、耶馬渓バスツアーもあり、しかし、今回、都合でレンタカーで行くことにしました。
しかし、いくらネットで調べても、カーナビに打ち込んでも、そのような景勝地は出てきません。ついには、道端の商店で聞きました。
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※耶馬渓とは
 教えてもらった場所に着きました。着いた場所は「一目八景」という所の無料駐車場でした。ここには市営の観光案内所があり、景勝地耶馬渓の場所を知るために、並んでいるパンフレットを片っ端から見ていきました。すると、なんと
耶馬渓という観光地はないのです。耶馬渓というのは渓谷の名前ではなく
耶馬渓町、本耶馬渓町、裏耶馬渓温泉などといった、地名だったのです。つまり、「ヤバ谷」地域という場所でした。

 そのうち、中年男性が案内所に入ってきて、20代の2人の女性係員に私が聞かなかったのと同じ質問をしていました。「ヤバケイってどこ?・・云々」
すると、案内所の女性が物凄くぞんざいな態度と言葉遣いでぶっきらぼうに答えていました。聞き取れませんでしたが、何やら怒鳴り声でした。
きっと答えにはなっていなかったと思います。唖然としました。おそらく同様の質問を何千、何万回と聞いているのでしょう。私も聞かなくてよかった。と思いました。DQNでした。

 耶馬渓とは町の名前です。1925年までは、城井村・津民村・山移村・柿山村・下郷村だったのが、突然、耶馬渓村、深耶馬渓村、などと改称を始め
「山国川が溶岩台地を浸食して刻んだ奇岩怪石秀峰の地」という意味で、当時の地名「山国谷」に「耶馬(山国)渓(谷)」と頼山陽が当て字してこの景勝地をめでたのが呼称の始まりです。
 従って、一目八景だけが「耶馬渓」ではなく、先の「青の洞門」も耶馬渓なのです。 こうなると、なにがなんやらわからんやろ(^^♪

つまり、耶馬渓の美しい景観は、あちこちにあり、それを観光客や来訪者に上手く説明できていないから、観光案内所のうら若い女性が「キレ」る原因なのです。
もし、溶岩台地を浸食してできた美しい景観のある場所や、そこの写真が一枚のリーフレットになっていたら、それらをネット情報で流していたら、こんな行き違いや思い込みはなかったはずです。
第一、景勝地耶馬渓と宣伝しておいて、景勝地も耶馬渓。付近の広大な地域名も耶馬渓。ために景勝地の名前や場所がわからなくなってしまった。
 
 「耶馬渓」きれいなところらしい。行ってみよう。耶馬渓ってどこですか?この辺一帯が耶馬渓じゃ!馬鹿タレ!
といっても広い地名と、景勝地名が一緒で、見たい景勝地には名前がついておらず、唯一名前があるのが一目八景だけ。着いてみるとつまらないところ。
 中津市がこれらの地域を吸収合併したのなら、全国的に有名な観光地をもっとわかりやすくアピールするべきである。
本当のことを知っていて、それでもウケているのは、観光バス会社だけのようです。(バスツアーで〇儲け)

 耶馬渓=中津市南部の広大な地域に広がる溶岩台地の浸食地形。景勝地は多地域に及び、名前もついていない。
 耶馬渓の本当の景勝地をみたかったら、ツアーバスに乗るしかなさそうです。

 一目八景
 切り立った凝灰岩の岩肌と、樹木の緑と、紅葉が映えて美しい。
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鳶の巣山
仔鳥が求餌で嘴を突き出した
 155 駐車場の紅葉が最もよかった
 158中津市観光マップ
 東九州自動車道から南の地域は旧村で、中津市の発展に伴って
吸収合併したもののようです。

 旧中津藩の領域は大変小さなものでした。
 159中津市観光マップ
福沢諭吉旧居
下士階級の出自
八面山 羅漢寺 五百羅漢 一目八景 猿飛千壺峡
 

 200中津城公園 大分県中津市二ノ丁1278-1
  海岸の市街地に帰ってきました。ここに来たのは、知り合いの「奥平」が奥平氏の末裔かを確かめるためでした。
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中津城公園 黒田・細川の石垣
中津城地域
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中津城
奥平歴史資料館
黒田官兵衛資料館 独立自尊碑 城井神社 扇城神社 黒田時代の典型的な穴太積み石垣が見れます
 
 210中津城
医学に力を入れていた奥平氏は、幕府瓦解後、医者となって全国で現在も医院を営んでいます。
頭脳明晰の家系です。医師やアナウンサーなど華やかな職業についています。
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右:黒田官兵衛資料館
奥平神社
奥平神社由来 中津藩主奥平氏
 213天守からのながめ
天守からの眺望
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いまいましいことに、奥平氏の末裔でした。列島の各地に分散しているようでした。
二度と顔もみたくない性悪なひとでした。

 大分の観光は不発でした。((笑))