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  新潟の縄文 №7 2020.09.27-1

  南魚沼市 市民会館 展示室 新潟県南魚沼市六日町865
   025-773-5500月休撮影可


交通 六日町駅から徒歩12分
特徴 南魚沼地域の山間僻地の縄文文化
 石刃面に細かく刃を付けた
凝った作りで、殺傷能力を
高めた尖頭器。
survivalナイフ型。

至近距離から強い力で投てきすることで威力が何倍にも増す。

装飾刃部刃数が少ない。
エイの棘などを模倣したのでしょうか。
 



01十日町駅の観光案内パネル
02十日町駅~六日町駅
05南魚沼市民会館外観
06新潟県内の博物館開催の展覧会

20発掘された南魚沼

30旧石器時代
31石器作りと石材選び
33石器
35石器原材料
37石器カタログ
 
50縄文時代
51縄文文化の隆盛
54縄文・弥生の時代
57火焔型土器と王冠型土器

60縄文土器
62早期~中期
65上ノ台Ⅱ遺跡
67原遺跡出土土器

70縄文中期~後期土器
71宮下遺跡
73縄文時代後期土器
75原遺跡出土土器

80石器カタログ
85磨製石器類

100精神文化
101縄文時代の精神文化
103上ノ台Ⅱ遺跡土製品
104吉峰遺跡出土資料
105三角型土製品
106土偶
107岩板・垂飾
108石棒・石冠

120弥生時代
121panel
 弥生文化の受容
 弥生時代のうつわ
 弥生時代の道具
122長表遺跡
123大型石器
124石鏃
125土製品

140古墳時代
141古墳造営の時代
 古墳時代のうつわ
142金谷遺跡 古墳時代前期
143来清東遺跡 古墳中期
145来清西遺跡 古墳後期
146坂之上遺跡 古墳時代後期
149展示遺跡の位置

160古代
161古代の六日町
 飯綱山古墳群
 蟻子山古墳群
162南魚沼市の古墳
 古墳時代の祈り
165副葬品
170飯縄山古墳群
 竪穴式石室と横穴式石室
180糠塚1号墳
185万貝古墳
187南山2号墳


200古代
201古代の律令体制
202墨書土器
210人々の生活
212南魚沼市内の土器生産
213金屋遺跡出土資料
214長表遺跡出土資料

230中世
231中世の社会体制
 中世のうつわ
233三日月経塚
234水上遺跡

300中近世
301国指定史跡坂戸城
303坂戸城の今
315浦佐毘沙門堂の裸押合

500六日町
地下駅 美佐島駅
 
 ※はじめに
 この館は東西圧力によって生じた褶曲山脈とその間の地溝帯のうち
大きなものは飯山線が通る飯山-津南町-十日町-小千谷市と、上越線が通る六日町-魚沼市がある。
新潟新幹線はトンネルを通るたびにこの褶曲山地をくぐり、その間に小さな帯状低地があり、集落が発達しているのがわかる。

 魚沼市から小千谷市に抜ける魚野川はこの褶曲山脈を貫いて流れており、これは、褶曲山脈形成以前から流れていたため、
隆起する山地を削って流れ続けたことが判る。
このような河川には、福島県から山形県を流れる最上川や、島根県の江の川などがある。

 前出の津南町秋山郷が明らかに陸封され、アンギン編が近代まで使われていたように、 魚沼地方のこの地域にも
陸封された独特な文化があったのではないかと考え訪れました。そして、その最も特徴的な、陸封されたものは、最初に見つかりました。

 
 
01観光 十日町市 (十日町駅跨線橋内の観光案内パネル)

 02旅程 十日町駅~六日町駅 (北越急行ほくほく線)
跨線橋から十日町駅
左:JR十日町駅
右:北越急行ほくほく線
ほくほく線十日町駅 信濃川の流れる褶曲低地十日町市 ほくほく線地下駅
美佐島駅
連続する褶曲山脈の間の陥没低地、
六日町、魚沼盆地
豪雪地のため、建物に下駄を履かせて防雪構造

 
 05南魚沼市民会館外観
 訪問当日はダンスの発表会のため、地元の若い女性が沢山集まっていました。(写真はあるのですが、個人情報のため掲載自粛します。)
女性はみんな、170cm以上の高身長、足長で日本人離れした体格でした。関西の胴長短足を見慣れた私には大変な驚きでした。
 これは、もしかすると、日本海航路でやって来た大陸半島系の形質が、長く山間地域に陸封され、残ったのかもしれない、などと想像します。
 新潟駅前でも関西では考えられないほど足の長い老人から若者をたくさん見ました。
 青森では山東半島付近からの移住者の形質であろうか、平均的に非常に大きな男女が歩いていました。

 青森地方の縄文人は山東半島付近からの移住と言われています。その地域には筒型土器、青森では円筒土器と言われる、ほぼ同型の土器などが共通します。魚沼地域のスマートな人々が縄文・弥生・古墳期のいずれの頃からの移住かわかりませんが、モデルなみの体格でした。


南魚沼市民会館
スーパーモデル級の
女性写真

掲載自粛します
玄関ホールの借景 館内

 06新潟県内の博物館開催の展覧会
発掘された日本列島
2020
新潟県立歴史博物館
縄文の遺産
十日町市博物館
千曲川-信濃川流域の縄文文化
なじょもん
越後争乱ノコト
新潟県埋蔵文化財センター
大武遺跡と縄文前期の土器文化
馬高縄文館
 
 


 常設展

 
 20発掘された南魚沼
南北に長い六日町盆地に位置する南魚沼市内の遺跡からは、様々な資料が数多く出土しています。
本展示は『発掘された南魚沼―ここまでわかった!郷土の歴史―』と題して、
人類史の中で最も古い旧石器時代から、坂戸城跡に代表される中世までの資料を、時代ごとに展示しています。
本展示で、南魚沼の先人の知恵と技術に触れて頂ければ幸いです。

発掘された南魚沼
上に記述
 



 30旧石器時代 ~16000年前


 日本最古の文化 -旧石器時代-
日本では縄文時代以前を、旧石器時代と呼びます。
旧石器時代の生活は現代のような定住生活ではなく、狩猟対象動物を追いながら移動生活を営んでいました。道具は主に石器で、骨や木などと組み合わせて使用していました。
市内では、まとまって出土した例はなく、十二木遺跡上ノ台Ⅰ・Ⅱ遺跡から散発的に見つかっています。

※今日知ったのですが 2021.09.14記述
 地球環境の、10万年間の氷期9万年と間氷期1万年の気候変動サイクルで、最も安定していたのは間氷期でした。
氷期には激しい気候の温暖化と寒冷化が繰り返されたそうです。その差は10℃。
 その変動は、人の一生の間に札幌が鹿児島の気候になってしまう。又はその逆で、鹿児島がどんどん寒冷化して寒帯気候になってしまう。
という変動ぶりだったそうです。

これまで何回も気候変動のグラフは見ましたが、その実際を読み解いて知ったのは初めてでした。

 旧石器人が定住せず、移動生活、実際には回遊生活を送っていた理由が少しわかりました。
激しい気候変動のもとでは植物は安定的な繁殖が困難で、動物は食料となる食草を求めて移動回遊しなければならず、
寒冷化すれば南へ、温暖化すれば北へと移動したでしょう。

 なにぶんにも、40~50年で地球の平均気温が10℃も上下するなんて、現代の地球文明なら、完全に滅んでしまうでしょう。
農業・漁業は破綻し、社会環境どころか、食料確保が破綻するからです。
 僅かに生き残った人類が、わずかな動物を求めて移動生活を送るだろうことは、映画「マッドマックス」やアニメ「北斗の拳」の世界のようだ。
と思いました。 放送大学「ダイナミックな地球」第6回


 31石器作りと石材選び
石器を作るための石材は、ただ、硬いだけでなく、加工しやすい石が選ばれます。
中でも黒曜石はガラス質で薄く鋭く割れるため、矢じりやナイフなどの石器の原材料として多用されます。
また、良質な黒曜石の産地は北海道や長野県などに限られており、遺跡から出土する石器の石材産地を調べることで当時の物流ネットワークを窺い知ることができます。

日本最古の文化
-旧石器時代-
上に記述
石器作りと石材選び
上に記述
 33石器
石刃 市内採集
旧石器時代か
尖頭器
上ノ台Ⅰ遺跡
旧石器時代
剥片
上ノ台Ⅰ遺跡
旧石器時代
削器
上ノ台Ⅰ遺跡
旧石器時代
 35石器原材料
頁岩 黒曜石 チャート
 37石器カタログ
尖頭器
梨ノ木平遺跡
縄文時代草創期
柳葉形尖頭器
有舌尖頭器
ピンボケ拡大不可
これくらいで我慢願う
装着例
 
:
原石 細石刃核  細石刃 (狩りの道具)
原石 石刃石核→石刃剥片 ナイフ形石器
尖頭器
(狩りの道具)
掻器・削器・彫器  (モノを加工する道具)
   

尖頭器
梨ノ木平遺跡
縄文時代草創期
柳葉形尖頭器
有舌尖頭器
ピンボケ拡大不可
これくらいで我慢願う
装着例




 



 50縄文時代 16000~2500年前
  縄文時代の区分
   草創期 BC14500~約5000年間
   早期   BC9500~約4000年間
   前期   BC5470~約2000年間
   中期   BC3470~約1050年間
   後期   BC2420~約1200年間
   晩期   BC1220~約1000年間 (中津川市中山道資料館)


 縄文時代への胎動 -縄文時代草創期-
縄文時代の始まりについては諸説ありますが、ここでは土器の出現を持って縄文時代とします。
土器の出現により煮炊きが可能になり、食料を安定的に確保できるようになりました。
この結果、旧石器時代の移動生活から、定住生活へと進んだと考えられます。
市内の発見例は梨ノ木平遺跡金屋遺跡のみで、南魚沼市における人類活動は希薄です。


 51縄文文化の隆盛
縄文時代は古い方から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されます。
狩猟採集を中心とした定住生活で、近年では、食用植物を栽培していた痕跡も見つかっています。
中期では、装飾性豊かな土器のほか、土偶や石棒などの精神文化を示す資料を出土しています。
市内では約120遺跡が確認されており、その中で前期後半から後期の遺跡が多い傾向があります。

 52
縄文時代への胎動
-縄文時代草創期-
上に記述
縄文文化の隆盛
上に記述

 54縄文・弥生の時代

縄文時代は狩猟、漁撈をして生活し、弥生時代に入ると水田で米を作り、決まったところで生活するようになりました。
この時代の遺跡は魚野川(うおのがわ)や三国川(さぐりがわ)流域の丘陵地や扇状地に多く分布しています。

上ノ台Ⅱ遺跡宮下原遺跡では縄文時代中期から後期の住居跡や磨製石器・土器等が、
飯綱山・蟻子山遺跡(ありごやまいせき)からは縄文時代中期から弥生時代の土器等が発見されています。
長表遺跡などからは弥生時代の土器が出土しています。

縄文・弥生の時代 縄文・弥生の時代
宮下原遺跡 宮下原遺跡想像図 遺構住居跡 出土土器 住居跡囲炉裏

 57火焔型土器と王冠型土器
新潟県の縄文時代を代表する土器として、火焔型土器と王冠型土器が挙げられます。
両者は胴部の文様で区別はできず、、口縁部に付く突起に差があります。
火焔型土器は鶏頭冠突起と鋸歯状突起、王冠型土器には短冊形突起が付けられます。
市内では、原遺跡や上ノ台Ⅱ遺跡など、多くの遺跡から見つかっています。

 火焔型・王冠型土器の部位と名称
火焔型土器と王冠型土器は、突起の形状が異なります。火焔型土器には鶏頭冠突起と鋸歯状突起、王冠型土器には短冊形突起が付けられます。

 縄文時代のうつわ
南魚沼市で出土した最古の土器は縄文時代早期(約9000年前)の土器です。刻みを入れた丸い棒を土器の表面に転がして文様を付けています。
中期(約5500年前)になると、立体的な装飾が増えます。その代表が火焔型土器と王冠型土器です。
後期(約4500年前)になると、装飾は再びシンプルなものとなります。爪で突いたような刺突文と呼ばれる文様が特徴的です。

火焔型土器と
王冠型土器
火焔型・王冠型土器の
部位と名称
縄文時代のうつわ
 

 60縄文土器
 61

 62早期~中期

 縄文早期の土器 約10000~6000年前
縄文早期は今から約10000年前から6000年前の時代で、南魚沼市ではこの頃から土器が見つかり始めます。
長表遺跡出土土器は、楕円形の刻みを付けた棒を押し付けて文様を付けています。このような土器は押形文土器と呼ばれています。
縄文早期の土器 押形文土器
長表遺跡 縄文早期

 前期の土器 約6000~5000年前
縄文時代前期は今から約6000年から5000年前の時代で、この頃から南魚沼市内でも竪穴住居が見つかっています。
吉峰遺跡からは関東地方で見られる諸磯式土器が見つかっています。
また、長表遺跡から出土した土器には結束羽状縄文が横位に施されています。
 縄文前期の土器
長表遺跡 縄文前期
縄文前期の土器
結束羽状縄文 
縄文前期の土器 

 中期の土器 約5000~4000年前
縄文時代中期は今から約5000から4000年前で、南魚沼市内の縄文時代では、遺跡の規模や数が最も多くなります。
中期の土器で最も有名なのが火焔型土器で、市内からも多く見つかっています。
また、火焔型土器が生まれる前段階の遺跡である五丁歩遺跡出土土器群は新潟県指定文化財となっています。

縄文中期の土器 上ノ台Ⅱ遺跡
縄文中期
上ノ台Ⅱ遺跡
縄文中期
 
 
 65上ノ台Ⅱ遺跡 縄文時代中期
短冊形突起
(王冠型用)
王冠型土器
上ノ台Ⅱ遺跡
 67原遺跡出土土器 縄文時代中期
原遺跡出土土器
縄文時代中期
 
 70中期~後期土器
 71宮下遺跡 縄文中期
宮下遺跡 縄文中期

 73後期土器 水上遺跡 約4000~3000年前
縄文時代は今から約4000から3000年前です。出土土器は中期のものと比べると、シンプルになっていきます。
また、後続する縄文時代晩期の遺跡は市内で気確認できていません。

水上遺跡出土資料
縄文後期
縄文後期の土器

 75原遺跡出土土器 縄文後期 約3000~2500年前
 原遺跡の後期土器には、明らかに系統の異なる土器が出土しています。
原遺跡出土土器
後期
 
 80石器カタログ
 81
 83
縄文時代の石器 石鏃
撮影禁止
石錐
宮下原遺跡
石匙
上ノ台Ⅱ遺跡
石匙
蟻子山B遺跡
石匙
蟻子山B遺跡
板状石器
原遺跡
三脚石器
上ノ台Ⅱ遺跡
三脚石器 板状石器 石錘
宮下原遺跡

 85磨製石器類 宮下原遺跡
凹石・敲石・磨石
 87
敲石に転用した磨製石斧
宮下原遺跡
擦切痕が残る磨製石斧
野世ヶ原遺跡
打製石斧
宮下原遺跡
磨製石斧
宮下原遺跡
 89石皿と磨石
石皿と磨石 石皿
塩沢地域出土
凹石と石皿
宮下原遺跡
 


 100精神文化

 101縄文時代の精神文化
土偶石棒石冠など、使用方法が想定できない資料も遺跡から出土します。
これらは直接的な生活道具とは考えられず、当時の精神世界を表していると考えられています。
土偶は割れて出土する例がほとんどで、当時の人がわざと壊していたと想定されています。
また、遺跡によって出土量に差があり、市内では1遺跡から数点程度しか出土していません。

縄文時代の精神文化
 103上ノ台Ⅱ遺跡土製品
土製耳飾り
上ノ台Ⅱ遺跡
三角土版
上ノ台Ⅱ遺跡

 104吉峰遺跡出土資料
 吉峰遺跡の土坑
B3区5号土坑は長径約166cm短径106cmの楕円形で、底部南東隅には完形の土器が正位の状態で埋設されていました。
土坑は人為的に埋め戻されたようです。
B3区10号土坑は長径120cm、短径84cmの楕円形で、底部より蛇紋岩製玦状耳飾りが一対出土しています。
遺構の立地や形、大きさ、遺物の出土状況から、これらの土坑は縄文時代のお墓であったと考えられます。

玦状耳飾り(抉=誤字)
B3区 10号土坑
B3区 10号土坑
出土品and土器文様
吉峰遺跡の土坑 B3区 5号土坑 浅鉢(埋設土器)
B3区 5号土坑
 105三角形土製品
三角擣形土製品
さんかくとうがた
三角擣形土製品
舞台遺跡
三角擣形土製品
宮下原遺跡
 106土偶
土偶
土偶
原遺跡
人面突起
原遺跡
土偶
原遺跡
 107岩板・垂飾
岩板
上出遺跡
石製品
上ノ台Ⅱ遺跡
垂飾
原遺跡
 108石棒・石冠
石棒×2
大杉新田採集
石棒
原遺跡
石冠
柳古新田下原A遺跡
 



 120弥生時代 約2500~1800年前

   (早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。
   (早期は紀元前5世紀中頃から)
    前期は紀元前3世紀頃から、
    中期は紀元前1世紀頃から、
    後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている。

 121panel
 弥生文化の受容
1万年以上続いた縄文時代が終わりを告げ、約2500年前に弥生時代が始まります。
弥生時代は、早期・前期・中期・後期の4期に区分されています。
弥生時代には水稲農耕が始まり、金属器も普及します。また、集団間の争いから、防御的施設を備えた環濠集落も形成されます。
市内からは早期から中期前半の遺跡は確認されず、中期後半から後期の遺跡のみ残されています。

 弥生時代のうつわ
市内では今のところ縄文晩期から弥生時代前期の土器は見つかっていません。
中期後半(約2000年前)になると、櫛状工具で文様を付けた甕とイチジク形の壺を特徴とする、長野県北部を中心に分布する栗林式土器が出現します。
後期(約1900年前)になると、縄文や交互刺突文が特徴的な、東北地方南部で見られる天王山式土器が主体となって出土します。

 弥生時代の道具
縄文時代と同様に弥生時代でも石器や木製品が生活道具として使用され、青銅器や鉄器といった金属器も大陸から伝わりました。
青銅器は祭器、鉄製品は農耕具として使用されていました。
石器はアメリカ式石鏃、太型蛤刃石斧、石包丁など、弥生時代特有の石器も出現します。
アメリカ式石鏃は、後期の東北地方南部を主体に出土する天王山式土器に伴う石器です。

弥生文化の受容
上に記述
弥生時代のうつわ
上に記述
弥生時代の道具
上に記述

 122長表遺跡 新潟県南魚沼郡六日町小栗山
弥生時代の土製品・石器 長表遺跡出土資料
弥生時代中期
中部高地系土器
栗林式土器
栗林式土器
口縁部欠損
 123大型石器
打製石包丁様石器
来清西遺跡
打製石斧
大江作遺跡
太型蛤刃石斧
来清西遺跡
太型蛤刃石斧
水上遺跡
 124石鏃
アメリカ式石鏃
飯綱山遺跡
石鏃
来清東・西遺跡
 125土製品
土製紡錘車
来清東・西遺跡
赤彩された小鉢
来清東遺跡
弥生時代
 



 140古墳時代 約1800~1400年前
    出現期 3世紀半ば~
    前期  3世紀後半~
    中期  5世紀初頭~
    後期  6世紀前半~
    終末期 6世紀末~


 141古墳造営の時代
弥生時代の地域的多様性が認められる墓制とは異なり、構造や副葬品など多くの共通性を持った墓が作られるようになります。
これを古墳と呼び、古墳の造られた時代を古墳時代として扱います。
古墳時代は前期・中期・後期の3期に区分され、市内では前期後半期から遺跡が確認できます。
中期になると規模の大きな遺跡が遺され、後期に入ると遺跡の規模は縮小していきます。

 古墳時代のうつわ
古墳時代から古代の素焼きの土器は土師器と呼ばれ、弥生土器と比べると、よりシンプルで地域性が薄れたものとなります。
古墳時代中期(約1600年前)になると、朝鮮半島から様々な文化がもたらされます。土器では登窯で焼かれ硬くしまった灰色の須恵器が新たに出現します。
古墳時代後期(約1500年舞う)になると内面を黒色にした土器が多く使われるようになります。

古墳造営の時代

上に記述
古墳時代のうつわ
上に記述

 142金谷遺跡 古墳時代前期
関越自動車道建設に伴い、県教委によって調査された縄文~古墳・平安時代に渡る遺跡出す。
蟻子山直下の湧水地点に集落が形成されました。平安時代の竪穴住居や掘立柱建物跡など多くの遺構・遺物が見つかっています。

金屋遺跡出土資料 金屋遺跡 土師器 小型壺
古墳時代前期
土師器 坏 土師器 小型丸底壺 土師器 鉢
土師器 高坏 土師器 甕 土師器 壺

 143来清東遺跡 古墳中期
 らいせいひがし
須恵器大甕 土師器 坏 土師器 高坏 須恵器 大甕

 145来清西遺跡 古墳後期
土師器 坏 土師器高坏
土師器 小型壺
土師器 甕
 146坂之上遺跡 古墳時代後期
須恵器 坏身 土師器坏
内黒土器
土師器高坏
土師器小型壺
土師器小型壺
土師器甕
土師器高坏
 149展示遺跡の位置
 
 



 160古代
   大和時代 神武天皇即位~平城京遷都まで
   飛鳥時代  593~710年
   奈良時代  710~784年
   平安時代  794~鎌倉幕府成立


 161古代の六日町
新潟県における古墳密集地は、佐渡の真野湾沿岸、西蒲原郡の角田山周辺高田平野の矢代川関川流域、それに魚野川流域の4ヶ所があります。
飯綱山古墳群蟻子山古墳群は魚野川流域の古墳の一つで古墳時代後期(約1400年前)と推定されています。明治時代中頃から昭和初期にかけて発掘調査され、数多くの副葬品が発見されています。両古墳群は、昭和47年に県の文化財に指定されました。
古代の六日町 飯綱山・蟻子山周辺 飯綱山古墳群分布図


 飯綱山古墳群  古墳時代後半(五世紀後半~六世紀)
六日町の西山丘陵、飯綱山の東斜面に2基の大型古墳を中心に65基の中小古墳が確認されています。
最大の大塚(女塚)は直径約40m、高さ6m、周濠の幅3mで、県内でも大規模な円墳の一つです。死体を納める部屋は自然石を組んだ長方形で2室並び、蓋石(天井石)は大きな石を使っていたといわれています。
中からは鉄の鎧・やじり・刀・銅製の鏡・鈴・勾玉・管玉・小玉等の首飾りが出土し、当時の有力者の力を示しています。

 蟻子山古墳群 古墳時代後期(六世紀中頃~七世紀中頃)
飯綱山古墳群の北側、関越自動車道六日町インターチェンジ西側のブナ林に囲まれた標高260mの丘陵に91基の古墳が確認されています。
本古墳群最大のものは大塚で、直径29m、高さ4.5m、周濠の幅5mの円墳です。
この古墳からは1m以上の直刀・やじり・小刀・鏡・須恵器の𤭯(ハソウ)などが出土しています。

飯綱山・蟻子山古墳群出土品 飯綱山古墳群
蟻子山古墳群
大塚(女塚)
飯綱山古墳群
石室
蟻子山古墳群

 162南魚沼市の古墳
古墳時代とは有力者のお墓である『古墳』が築かれた時代です。
前期(3世紀後半~)、中期(4世紀末~)、後期(6世紀~)と、時期区分されています。市内にはいまのところ前期の古墳は見つかっていません。
中期には飯綱山古墳群を代表として、魚野川左岸を中心に数多くの古墳が築かれます。
後期になると古墳の数は減少し、吉里周辺に見られるのみとなります。

 古墳時代の祈り
有力者の墓である古墳を発掘すると、お供えなどに使われた土器や死者のゆかりの品と考えられる副葬品が出土しています。
これらを分析することで、葬送儀礼やお墓に眠る人物像を窺い知ることができます。
また、古墳以外にも、木の根元や水辺などからお供え用の土器や石で作ったミニチュアの道具がまとまって出土することがあります。
何らかの祭祀が行われたことが推測されます。

古墳時代の祈り 南魚沼市の古墳
 165副葬品
土製品
手づくね土器
土玉・棒状土製品
来清西遺跡
古墳後期
管玉
来清東遺跡
古墳中期
管玉 土玉・棒状土製品
手づくね土器
石製模造品
来清東遺跡
古墳中期
土製模造品
坂之上遺跡
古墳後期
土製鏡 土製高坏

 蟻子山古墳群
独立丘陵上に立地する古墳群で、現在確認できる数は91基ほどで、ほとんどが円墳です。古墳群中の最大の84号墳は径24mで飯綱山のものより小型です。
埋葬施設の形態は竪穴系で、石を組んで部屋を作ったものや直に棺を埋めたものなど様々です。
その多くの古墳は明治時代に発掘され、大型の須恵器ハソウや直刀などの武器、玉類などの装飾品、小型の鏡などが地元に伝わっています。
これらの出土品の年代から古墳が作られたのは五世紀後半を中心にしたものと考えられます、
蟻子山古墳群

 170飯縄山古墳群

 竪穴式石室と横穴式石室
昔の人のお墓である古墳には、遺体を埋葬する施設が作られます。
墳丘上に竪穴を掘り、粘土や石で遺体を納める場所を作って棺を入れる竪穴系の埋葬施設と、
石を組んで遺体を治める部屋を作り、横に出入り口を作って追葬を可能とした横穴系の埋葬施設があります。
前者は飯綱山や蟻子山古墳群、後者は南山や糠塚古墳群で見られるものです。
基本的には竪穴形の方が古く、横穴式石室が作られるのは6世紀以降です。

角野川流域は新潟県の中でも古墳が集中する地域であると共に、、古墳の形態の移り変わりが窺えることからも、学術的にも貴重な地域であると言えます。

飯綱山10号墳模型 飯綱山10号墳模型 石室模型(二室分) 飯綱山古墳群出土資料
古墳中期
飯綱山10号墳 葺石
墳丘上段の盛り土部分にのみ川原石を葺いた
撮影禁止
直刀
勾玉・玉類・三環鈴
竪穴式石室と
横穴式石室
撮禁
蟻子山古墳群出土資料
撮禁 撮禁 撮禁
撮禁 撮禁 撮禁
 
 180糠塚1号墳
糠塚・万貝・南山古墳 糠塚1号墳出土資 金環 勾玉
ガラス小玉 土師器高坏 勾玉
糠塚2号墳
古墳後期
糠塚2号墳横穴式石室
 185万貝古墳
万貝古墳出土資料
古墳後期
勾玉 銀環 須恵器 平瓶 須恵器 平瓶 須恵器 坩
 187南山2号墳
南山2号墳出土資料
古墳後期
南山2号墳 横穴式石室 管玉 勾玉
切子玉 須恵器 坏蓋 須恵器 坏 須恵器 長頸壷 この須恵器には自然釉が掛かっている。

この頃の須恵器に掛かる自然釉は、意図したものか、偶然か。
時々見かける現象である。
 



 200古代 律令時代 7世紀後期~10世紀頃



 201古代の律令体制
古墳が作られなくなり、古墳時代が終わりを迎えます。その後、当時の法である律令が制定され、国家としての体制が整備されます。
また、行政区域の整備も行われ、全国が五畿七道に分けられました。五畿は古墳時代の中心地である畿内です。
その他の地方は七道に区分され、その中に国・郡・里(後に郷)を置きました。当時の南魚沼市域は「越後国魚沼郡賀祢郷」に属していたと考えられます。

 古代のうつわ
古墳時代と同様に、土師器と須恵器を用いるのに加え、灰釉陶器と呼ばれる、意図的に釉薬をかけた土器が生産されます。これらはまだ貴重品で、
当時の役所や寺院などで用いられました。
また、特徴的な土器としては、
羽窯(ハガマ)と呼ばれる甕の体部に鍔(ツバ)が付いた物が見られます。カマドに据えて使用したと考えられます。新潟県ではあまり見られず、近隣では群馬県北部で多く出土しています。


古代の律令体制 古代のうつわ
 202墨書土器
古代の土器の中には墨で文字が書かれたものがあり、これを墨書土器と呼びます。人名、施設名や目的、用途などが、坏の底部や側面に書かれています。
長表遺跡坂之上遺跡からは、多くの墨書土器が見つかりました。「弓公」「弓」と書かれたものが多く、人名とも地名とも言われています。
また、「厨」の文字も注目されます。厨は官衙を構成する施設の一つで、遺跡周辺には官衙関連施設があった可能性が考えられます。

墨書土器 長表遺跡出土資料
平安時代
坂之上遺跡出土資料
平安時代
 
 210人々の生活
『むら』を中心に水田耕作を行い、木工具や鉄製農具のしようにより、技術も一段と進み、生産力は飛躍的に高まりました。
『むら』の統合が進むにつれて豪族が出現し、死亡すると多くの労働力を使って古墳をつくりました。当時の人々の一般的住居は地面に直接穴を掘って屋根を付けたもので金屋遺跡などから発見されています。
 211
古代の人々の生活 発掘風景 人々の生活 出土土器 出土状況
長表遺跡
 212南魚沼市内の土器生産
市内には寺尾窯跡群と呼ばれる須恵器を焼いた窯跡が、魚沼丘陵裾部から中腹にかけて残されています。
この窯跡は、朴ノ木遺跡、天池遺跡、七ツ塚遺跡、天神南遺跡で構成されます。
当時の須恵器生産は、「一郡一窯体制」で、それぞれの郡が一つの窯跡群を持っていました。
魚沼地域の須恵器窯は南魚沼市内でのみ見つかっており、寺尾窯跡群が古代魚沼郡の窯跡と考えられます。

南魚沼市内の土器生産 南魚沼市内の土器生産
寺尾窯跡群採集資料
 
 213金屋遺跡出土資料 平安時代
金屋遺跡出土資料
平安時代
灰釉陶器 須恵器 坏 須恵器 甕 土師器 有台坏 土師器 羽釜
土師器 壺 土師器 甑 土師器 小型甕
 214長表遺跡出土資料 平安時代
長表遺跡出土資料
平安時代
紡錘車 砥石 鋤柄 杓子 鋤先
木槌 漆器 曲物
 



 230中世 約900~400年前
   平安時代後期(院政の開始1086年)~安土桃山期まで いろいろな説がある


 231中世の社会体制
平安時代後期の院政の開始から、江戸幕府開府までの約500年間を中世として取り扱います。
古代に「賀祢郷」と呼ばれた当地は、平安時代後期には、上皇の所領である「上田荘」や「浦佐保」になります。
また、平安時代の貴族社会から鎌倉時代以降の武士の台頭の時代へとかわり、坂戸城樺沢城などの城や居館が築かれます。

 中世のうつわ
中国などから輸入される青磁や白磁、青花などを貿易陶磁器といい、碗や皿を中心に広く流通します。
また、国内でも瀬戸焼や越前焼のような窯が営まれ、陶磁器の産地となります。
碗のほか甕や擂鉢などの大型品も多く流通しました。その他、土師器の流れを汲む素焼きの坏・皿を「かわらけ」といい、儀式や宴会などに使用されました。
坂戸城からも、数は少ないですが、これらの器が出ています。


中世の社会体制
上に記述
中世のうつわ
上に記述
 232かわらけ
御館遺跡出土資料
中世
かわらけ

すりばち
 233三日月経塚
坂戸山の山腹、薬師尾根登山路改修の際に発見された塚で、三日月を刻した石塔が建っています。その下からは和鏡と壺が見つかりました。
これらの年代は室町時代後期のものと考えられます。

四耳壷撮禁 三日月経塚 坂戸城 薬師尾根
三日月経塚
四耳壷撮影禁止 草花双孔雀鏡
 234水上遺跡
 懸仏
名木沢の二所神社の近くから出土した和鏡を転用して作った懸仏です。懸仏とは円板の板に仏像を取り付け、吊るして信仰の対象としたものです。
鎌倉時代のものと考えられる直径11cmの「洲浜梅樹双雀鏡」の鏡面に大勢至菩薩が取り付けられています。
神社に祀られる鏡と、寺院に安置される仏像とが一つになったもので、当時の神仏習合の思想を読み取ることができます。

懸仏 懸仏
 



 300 中近世坂戸城


 301国指定史跡坂戸城
国指定史跡
坂戸城の整備
坂戸城の遺構と歴史➀ 坂戸城の遺構と歴史②
 303坂戸城の今
史跡坂戸城跡
~再び200年後~
坂戸城跡 内堀跡 坂戸城内堀の調査 坂戸城出土石臼
中世
陶磁器 坂戸城内堀の調査 下駄・石鉢・元符通宝
 310
坂戸城跡の発掘調査 坂戸城居館跡確認調査位置図 発掘調査出土品
 311
坂戸城居館跡の確認調査➀
越前焼、染付片
 313
坂戸城居館跡の確認調査②
陶片
 315浦佐毘沙門堂の裸押合
浦佐毘沙門堂の裸押合
 
 
 500六日町
六日町駅 駅ビルから六日町


 地下駅 美佐島駅
  先を急ぐ旅なので、途中下車で1時間潰すことはできませんでしたが、本当は降りて見たかった地下駅なのです。残念。