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 北海道の観光 2 2022.06.01(水)〜6/02(木)

 日高地方・十勝地方

交通 レンタカー
近隣の観光地
  
目次
10日高牧場
11牧場と柵
12牧場の朝
13街道沿いの風景

20襟裳岬
21緑化事業の歩み
22霧の襟裳岬
23百人浜

30幸福駅・愛国駅
31十勝平野
33幸福駅
34十勝平野
35幸福駅
37硬券のみやげ
40愛国駅
 
 
 

 10日高牧場
映画「優俊 ORACION」で知られる日高地方は競走馬生産地帯です。
6月1日のこの日、雨天ではありましたがとても寒く、元ユースホステル夢民村では、暖房は起動されず、湯たんぽを借りたが、それでも無理で、
他のベッドから分厚い毛布や敷布団掛け布団を何枚も持ってきて、暖かくして寝ました。しかし、生まれてこの方最も寝心地がよかったです。
 ただ、翌朝は快晴で、東向きの窓辺だったため、3〜4時頃には日の出で、早朝から目が覚めました。夏の北海道は一日が極端に長い。

夢民村は元競走馬の生産牧場で、建物は知内町(しりうちちょう)の山林に植樹された間伐材を自ら伐りに行って作ったログハウスです。
北海道にはこういうフロンティアスピリッツの人々が多く見かけました。
現在の牧場跡地は、関東地方からやって来た農業青年が借りて、枝豆の生産をしているそうです。とても儲かっているそうです。本州では考えられない…

 11牧場と柵 (北海道沙流郡日高町旭町
日高地方に入った途端、ほぼ同じ規格の木製の柵が延々と続いています。飼育馬の安全を考えた木製、板張りの柵のようですが、
どこに行っても同じ規格で立てられるのは、この規格の材料が用意されている。この規格が最も効率的である。この柵の建設業者がいる。
さて、どれだろう。

 競走馬牧場
 この辺りには幹線道路沿いにも、わき道を入った中にも、普通の畜産農家ではない、企業レベルの競走馬生産牧場が多く、巨大で立派な厩舎ばかりです。よくTVで見ていた競走馬生産農家というのはごく少数で、ほとんどは専門企業が競走馬を生産しているようです。従って、個人の農家は、資金的にも設備的にも市場への参入にもジリビンとなり、やめていったようです。だから馬の厩舎はお城のような大きさと外観の美しさで、大金持ちの馬主にふさわしいつくりとなっています。びっくりですね。競馬ギャンブルも会社組織なんですね。だからこの辺りには高級ホテルがあり、馬主専用となっています。こんな観光地もないところに高額ホテルは馬を貝に来た金持ち用ですね。

 学生時代にアルバイトで京都競馬場や、滋賀県栗東町の馬のトレーニングセンター(競走馬の飼育と訓練をする施設)のガードマンをしていました。
そこの施設のレベルを1とするとこちらの施設は20倍の豪華さです。

 トレーニングセンターでは運ばれてきた2歳馬を、毎朝トラックで走らせるのですが、最初はとても嫌がって、立ち往生する駿馬をよく見かけました。
ところが、ここでは、競走馬として売却の前にトラックで走らせる訓練施設もあり、馬主も走っている姿を見て購入する事もでき、また、トレーニングセンターでも走ることによく慣れた馬を調教することができ、随分と楽になったようです。

 霧の牧場
 昨日が雨だったため、日の出は太陽が見えていたのに、気温があがって一面霧に覆われてしまいました。北海道の太平洋岸は、霧の多い地域。道路を走っていても、海から霧がどんどんと流れ込んできます。特に海に迫った日高では霧が多いようです。しかし、
  霧の牧場ってとても美しい。なぜか懐かしい感じがすると思ったら、滋賀県のトレーニングセンターで朝もやの中〜走り出てくる競走馬をの、調教中の馬と騎手の姿を思い出すからからでした。ここは日高大洋牧場の周辺です。

発馬機
馬をスタートさせる機械これは競走馬を完璧に近く育成する施設でした
 12牧場の朝
北海道の太平洋沿岸は濃霧がしばしば発生します。日高地方では津軽海峡から北上してきた暖流の沿岸流が太平洋から吹いてきた冷風に吹かれて発生します。この地域、日高地方の牧場は海高い岸段丘上にあり、細長い丘陵地帯で、気候的にも農業には不向きだったようです。

 牧場の朝は早い
しょぼ降る小雨の中、あちこちで馬が放牧されていました。朝から牧場に出して、草を食べさせ、その間に、馬房の掃除をするのです。
柵に近付くと、仔馬が寄ってきました。生後1年程です。母馬のそばを離れてやってきました。
とても高額な商品なので、うかつに触ることはためらわれ、柵から顔を出して「なでてくれっい!」と言ってるのですが、できませんでした。


私を見かけると仔馬が駆け寄ってきました
とてもか愛らしいです

こちらでは、母馬と仔馬が寄ってきました

草を食べるふりをしたり首を振ったり

しっかりわたしを 観察しに来ました

どこかで、牧場の厩務員が私の様子を見張っていることでしょう
 13街道沿いの風景
 日高地方の主街道国道235号線の沿線には、とても立派で巨大な牧場施設が並んでいます。


凄い設備投資です。装飾的な厩舎の建設は、大金持ちの馬主のプライドを満足させるため。付近には高級ホテルが馬主を迎えます。
道路海側はこんな断崖絶壁 「競馬」が巨大産業であることが、いやというほどよくわかりました。
広大な牧草地と放牧地が拡がる日高地方→ どんな牧場でも、
牛でも馬でも、豚でも、
餌の配合は秘密です。
運動のさせ方と飼料が肉質の決め手。
それでも干し草が必要なんですね。
50年前の青森県三本木では数頭の駿馬が戯れながら駆け回っていました。しかし、ここでは、外に出ているのは僅か。

素質の無い馬は九州に送られて馬肉や馬油になります。
 


 20襟裳岬

襟裳岬は風の岬。地域振興策で作られたのが「風の館」。強風を体験する施設です。地元の人々の期待を完璧に裏切った残念な政策の施設です。

NHKや民放で放送されて有名になったドキュメントですが、開拓期に燃料として岬の木々を伐り払ってしまったため、岬の海は貧栄養の海となり、
入植民は赤貧に苦しんでいた。そこで長い年月をかけて岬に木を植え戻し、漁業収益を回復させてきた。
強風の襟裳岬は、伐採で表土が流れてしまったため、植林は並大抵のものではなく、必死の苦労があったということでした。

 襟裳岬とは
北海道の東西圧縮で盛り上がった大地のしわ・日高山脈の南の延長線上にあり、山脈が海から盛り上がった事を示す地形です。
従って、岬の東西側には岩礁が多く、霧が発生し、太平洋から吹き付ける南風もあり、先史時代から海の難所でした。
実際、襟裳岬まわりの文化の伝播の形跡は薄く、難破、遭難死の危険地帯として知られていたのでしょう。


 21案内板
 緑化事業の歩み

緑化事業開始前
襟裳岬はかつて、カシワやミズナラ、ハンノキなどを主体とする広葉樹の原生林で覆われていました。しかし、明治以降、燃料としての木々の伐採や、
牛馬、綿羊の放牧などによって、原生林は切り開かれ、襟裳岬特有の強風にさらされ大地は砂漠化してしまいました。
砂漠化した大地は強風により赤土が舞い上がり、舞い上がった赤土は沖合10kmにも達し、岬沿岸の海は黄色く濁りました。海藻類は根腐れを起こして採れなくなり、回遊魚や沿岸の魚も減少しました。家は戸や窓を締め切ってもどこからか、砂が入り込み衛生状態も悪く、集団移転さえ考えられたほどです。

そんな状況を脱するため、昭和28(1953)年、浦川営林署「襟裳治山事業所」が開設され、本格的な襟裳岬の緑化事業がスタートしました。

草本緑化当時
 試行錯誤の結果、種子や肥料を雑海藻で覆い飛散するのを防ぐ「襟裳式緑化工法」を開発し、禿山のほとんどを草本緑化しました。草本緑化のほぼ80%を終えた、昭和40年頃から飛砂と土砂の流出が減少し、魚介類の水揚げ高も伸び集落の生活環境も改善されてきました。

昭和28 (1953)年の段階では、わずか年間72トンに過ぎなかった襟裳の魚介類の水揚げは、岬の緑化が進むにつれて格段に大きくなっています。

木本緑化当時
草本によって表土を安定させたあと、樹木による木本緑化(主にクロマツ植栽)に取り組みました。強風のため植栽は困難を極めましたが、きめ細かな防風垣の設置等により風を克服し、平成29(2017)年度末までに192haを木本緑化しました。

緑化事業の歩み
えりもに入植させられた人々の苦難の歴史
緑化事業の歩み

 襟裳岬国有林緑化事業
  緑が続く大地と青い嫁が蘇った半世紀を超えるあゆみ
襟裳岬国有林緑化事業
 22霧の襟裳岬
岬の風景に期待しましたが、駐車場に着いた時、戻って来た夫婦に聞くと、真っ白で何も見えなかった。それでよかったら、どうぞ行ってみてください。
心を打ち砕く優しい言葉でした。

襟裳岬展望台→280m

 23百人浜
襟裳岬を北東へ少し進むと天候はウソのように快晴となり、美しい風景が流れます。
えりも岬までは暖流が北上し、太平洋からの風で霧が発生するが、岬の東側では寒流が南下し、霧は発生せず、こんなにイイ天候なのです。
上の襟裳岬の写真と同じ日の30分もしない時刻です。

 海の難所襟裳岬
襟裳岬は強風の吹きすさぶ岬である。

陸伝い航法であった近世までの船や、現代の小型船舶は、地形図、に見るように、襟裳岬周辺は東側に10km続く百人浜方向も、西側手助浜前後も、
岩礁だらけで、沖に行っても岩礁が沈んでおり(日高山脈の山頂が沈んでいく)
よほどこの海に熟達した水先案内人がいても、吹き付ける強風で、船がさらわれ、衝突転覆する危険性の高い船の墓場、人の墓場であったでしょう。
 実際、西側では英国の船が難破し、東側では百人浜の名の由来となった海難事故が起きている。

襟裳岬東側の晴天
 

 30幸福駅・愛国駅

襟裳岬から帯広に向かう道中で旅の疲れが出て、運転ができなくなり、ガソリンスタンド近くの旅館で泊まりました
外観はよかったのですが、寝具は最悪で、汚れた臭い布団と毛布。特にひどかったのは、枕で、シミだらけで、元は白かったものが、履き古したズック靴のような色をしており、カバーもなく、百歩譲っても使えませんでした。
もう少しガマンして帯広まで行けてれば、同じ低料金で清潔なビジネスホテルにたどり着けたのに。翌日からはそこ帯広に泊まりました。

 31十勝平野
十勝平野は巨大な農業生産地。行ってみたい・見てみたい所でした。これまでの道南・日高地方と違って、広大な平野が見はるかす続いていました。
日本で地平線の見られる場所だと、、聞いています。



十勝の名前の由来:アイヌ語のトプカチ
帯広の名前の由来:アイヌ語のオペレケレペプ

 

 33幸福駅
1970年代に「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズでブームとなり、日本中の老若男女あこがれの地でありました。
当時は、多くの国民が遠隔地まで旅行する習慣がなく、カニ族と呼ばれるキスリング(登山用横長リュック・後に縦長リュック)を背負った青年が旅していました。
discoverJapanの北海道周遊券は買えても、民宿等が未整備だった頃、高額の旅行費用はなかなか調達できませんでした。
考えれば、あの頃の北海道が一番良かったのだろうと思います。

 34帯広市
十勝平野
 北海道東西圧縮によって隆起する中、逆に沈降する地域にあり、周囲を山地・山脈・丘陵に囲まれ、南側は寒流の流れる太平洋に面している。
石狩平野に次ぐ巨大平野であり、畑作農業と酪農が盛んである。

幸福駅跡
帯広市
帯広市の位置 帯広市 幸福駅の位置 帯広市街
 35幸福駅
 広大な一面の畑の中に残された幸福駅は、かつての観光ブームのモニュメントのように残されており、今をなお訪れる観光客によって愛されている。

駅舎の中はメッセージを書いた紙が全面に張ってあります。
私は見苦しく感じましたが、
それが名物なのかもしれませんが。
 36公園内展示
 交通公園となった駅にはかつての列車が展示され、憩いの場所となっている。
モニュメント
幸福駅の中からこのモニュメントが美しく見える
キハ22
当時広尾線を走行

 幸福駅
 この地域は、もともと「幸震」と呼ばれていましたが、福井県からの移住者が多かったので、上の字を一字ずつとって「幸福」と言われるようになり、縁起の良さもあって、その呼び名がそのまま駅名となりました。
1973年(昭和48年) 3月にこの駅がテレビで全国に紹介され、愛国駅から幸福駅行きの切符が「愛の国から幸福へ」のフレーズとともに人気となり、駅をテーマにした曲がヒットするなど大流行となりました。
1987年(昭和62年)に広尾線は廃止となりましたが、駅舎周辺をふれあい広場として整備したほか、2008年(平成20年)には、「恋人の聖地」に選定されるなど、市民や観光客に愛される帯広市を代表する観光スポットになりました。

幸福駅 広尾線の歴史
1929年(昭和4)開通
1987(昭和62)廃線
1973年の「愛国-幸福」ブームから十数年、元々赤字路線であった広尾線は1千万枚以上の乗車券の売り上げにもかかわらず、ブーム来訪者があったにもかかわらず、すでに廃線が始まっていた。

 37お土産
 駅舎の隣の土産物店では、愛国から幸福への乗車券を売っています。懐かしい硬券で、好みの日付を印刷してもらえます。
土産物店の夫婦は、私たちと同年代で、きっと、あのブームの時代から続けている土産物店のようです。
今後とも受け継がれて、長く続いていくことを願っています。

幸福駅は恋人の聖地 愛の国から幸福へ 乗車券販売処
 

 40愛国駅
 愛国駅と国鉄広尾線の歩み

愛国町は明治29年の入植が始まりです。
この地名は、ここに愛国青年団と言う団体があったことに由来しています。
愛国駅は広尾線の開通と同時に、昭和4年に設置されました。広尾線の開通は、南十勝発展の原動力となり、多大な功績を残すとともに「愛国・幸福ブーム」など数々の思い出を残してきました。
しかし昭和62年鉄道事業の落ち込み等から58年間の歴史に幕が降ろされ、旧愛国駅はロマン溢れる広尾線を人々の心から消さないために、交通記念館として整備されました。