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目
次 |
10入口展示
11縄文土器・弥生土器のヒミツ
12女子群像板絵
13下坂本清合遺跡埋蔵銭
15史跡「青谷上寺地遺跡」ジオラマ
16弥生時代の生活道具
魚の絵が線刻された石器
20高住銅鐸復元プロジェクト
100展示室
101入口展示
103焼失住居跡
110旧石器時代
111大山周辺の旧石器遺跡
隠岐島黒曜石産地と大山周辺の旧石器遺跡
112下甲退休原第1遺跡
114豊成叶林遺跡
石器ブロック
115旧石器時代遺物一括
116殿河内ウルミ遺跡
116殿河内ウルミ遺跡
119尖頭器 縄文時代草創期 |
120縄文時代
121竪穴住居
122縄文後晩期の土器
124縄文の生活道具
127丸木舟
130弥生時代
132農工具
鉄の道具
133a弥生土器
134梅田萱峯遺跡
150古墳時代
151前期の前方後円墳
152本高12号墳
153石井垣上河原遺跡
154 長瀬高浜遺跡
155弥生と古墳時代の土器の違い
考察 弥生時代の甑調理 |
160埋蔵文化財を科学する
161金属製品
170木製品
172縄文時代のカゴの素材ヒゴ
奈良時代の木簡
173赤外線写真
175レーザー測量
立体写真
176X線CT
180青谷上寺地遺跡
182井戸枠・土器棺・貝塚
200祭祀
210マツリ
220技(わざ)
222加工のための道具
223骨角器の加工方法
230交流のための道具
233各地の交流
240土層剥ぎ取り標本 |
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鳥取県埋蔵文化財センター |
10入口展示 |
11
縄文土器・弥生土器のヒミツ
縄文土器(浅鉢)
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波状口縁
口の部分が4つの波のようにデコボコしています。
ミガキ
内側は丁寧に磨かれています。
磨消縄文
縄文を付けた後、2本の線で区画し、はみ出た部分を
なでて消しています。 |
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縄文土器(浅鉢)
遺跡名:殿河内上ノ段大ブケ遺跡
(西伯郡大山町殿河内、旧名和町)
年代:縄文時代後期(約3500年前)
器高:12.3cm
口径:22.6cm |
弥生土器(甕)
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ハケ目
縦方向にハケ状の工具で表面を滑らかにしています。
凹線文
布・革などを折り曲げて、回転する土器に押し当てて
できる文様です。
刺突文
板状の工具の先を列状に押し付けています。
ミガキ
工具で表面を丁寧に磨いています。 |
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弥生土器(甕)
遺跡名:押平弘法堂遺跡
(西伯郡大山町安原字溝尻)
年代:弥生時代中期(約2000年前)
器高:36cm
口径:16.2cm |
縄文土器(深鉢)
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殿河内上ノ段大ブケ遺跡
縄文後期(約3500年前) |
縄文土器(浅鉢)
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殿河内上ノ段大ブケ遺跡
縄文後期(約3500年前) |
弥生土器(甕)
押平弘法堂遺跡(大山町)
弥生中期(約2000年前)
鳥取県西伯郡名和町 |
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押平弘法堂遺跡(大山町)
弥生中期(約2000年前) |
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12青谷横木遺跡出土「女子群像」板絵 飛鳥時代7世紀末~8世紀初頭 鳥取県鳥取市青谷町養郷
出土した板絵 15.5cm×70cm
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国宝高松塚古墳壁画に続いて、全国2例目の発見となる「女子群像」板絵で、6名の女性が列をなして歩いている姿が墨書されています。
行列図には、板絵より古い5世紀後半の高句麗の水山里古墳壁画があります。この壁画には板絵人物6のような侍女と考えられる人が描かれ、行列の様子が板絵によく似ています。
また、板絵人物5に見える髷状の髪型や筒袖風で丈が短い上衣は、当時の中国(唐)や飛鳥の都で流行した最新スタイルの衣装で、板絵人物4の縦じまの切り替え模様の裳は、国宝高松塚古墳壁画のものとよく似ています。このように板絵には古い要素と新しい要素が混在しています。 |
ミニ企画展
西いなばの遺跡展 |
青谷横木遺跡出土
「女子群像」板絵 |
出土した板絵
上に記述 |
高松塚古墳壁画の
女子群像 |
赤外線写真 |
トレース図 |
可視光写真 |
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引用 鳥取県埋蔵文化財センター
青谷横木遺跡から国宝「高松塚古墳壁画」に次ぐ女子群像絵画
絵は髪を結い裳(も)という縞模様のスカートをはいた女性が6人、右から左に向かって歩を進めている様子を墨で描いています。一番右に描かれた払子(ほっす=獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもの)を捧げる侍女は他より小さく描かれています。板材は板目で樹種はまだ同定していません。
高松塚古墳壁画の女子群像が衣装等の表現と女性が集まって描かれているというモチーフで、当時の中国(唐)の影響を強く受けているのに対して、この絵は衣装等の表現は高松塚古墳壁画と同様、中国(唐)の影響が見られるものの、複数の人物が行列するというモチーフは、当時はすでに滅亡していた高句麗(朝鮮半島北部)の壁画表現と類似性があるという特徴があります。 |
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描かれた時期は高松塚古墳壁画とほぼ同じ飛鳥時代(7世紀末から8世紀初頭)と考えられますが、朝鮮半島からの影響も受けた絵画表現であるという点で高松塚古墳壁画とは異なっています。板絵は、国内外の類例から葬送に関わるものと考えられます。板絵上部に直径5mm程の穴が開けられていますが、具体的な用途はよく分かりません。古墳の石室に架けられていたとか、実際に壁画を描く際に参考にする構図のデザイン画であるなど色々な可能性が考えられます。
いずれにせよ、この地が朝鮮半島と伝統的な関係があった可能性を裏付ける絵画資料としても価値が高い発見です。
引用青谷横木遺跡から国宝「高松塚古墳壁画」に次ぐ女子群像絵画 鳥取県埋蔵文化財センター |
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13下坂本清合遺跡埋蔵銭 鳥取市気高町下坂本 16世紀前半頃、戦国時代に埋められた
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壺に入った銭貨の保存・活用方法を考えた結果、壺の中から銭貨を取り出すことにしました。
観察しながら銭貨を取り出していくと新しい発見が4つありました。
①壺の中には、1万5523枚入っていました。
②銭貨は中国銭だけではなく、日本製の銭貨「天元通寶」が1枚入っていました。
・中国銭54種類15.522枚 ・日本銭1種1枚
③銭貨はバラバラの状態で入っていたところと、40枚近くが連なり錆付いた状態で入っていたところとがありました。
④錆付いた銭貨をはがしていくと、小さなワラが見つかれました。このワラは銭貨をつづっていた紐の一部と考えられます。 |
※貨幣の流通は、室町時代に中国銭が輸入されるようになって一般に流通を始めました。輸入された銭には中国の当時の古銭が混じって
いたようです。古銭ブームは現代に起こったことで、昔には、古い銭には価値がなかったようです。
下坂本清合遺跡埋蔵銭
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下坂本清合遺跡埋蔵銭
上に記述 |
埋蔵銭が入っていた備前焼 |
埋蔵銭
621年製~1408年製
800年間の銭貨 |
621年製~1408年製
800年間も貯め続けたのでなく、古銭が流通していたのでしょう。 |
埋蔵銭が入った備前焼壺
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埋蔵銭が入った備前焼壺
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埋蔵銭が入った備前焼壺
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埋蔵銭が入っていた備前焼壺 室町時代
埋壺の内面に点在する白く丸い部分は、中に入っていた埋蔵銭の痕跡です。 |
戦国時代前半と言ったり室町時代と言ったりだが、
室町時代後半は戦国時代前半でもあるのか。 |
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15史跡「青谷上寺地遺跡」ジオラマ
くらし |
青谷上寺地遺跡
手前が海。遺跡は河の三角州上に成立した |
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16弥生時代の生活道具
魚の絵が線刻された石器
弥生時代の数々の生活の道具
青谷上寺地遺跡では、土器や木製品、鉄製品、骨角器など弥生時代のいろいろな道具が見つかっています。
甕
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木製匙 |
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17
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18
銛
銛だが、紐が付いているので、離頭銛かな。 |
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骨角器
釣針、ヤス、銛 |
木製把手付桶
一木造である |
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・編みカゴの底板
・木製縦櫛 |
銛頭(鹿角製) |
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20高住銅鐸復元プロジェクト
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〇高住銅鐸は扁平鈕式新段階の流水文銅鐸に分類されるが、袈裟襷文銅鐸の特徴も併せ持つ珍しい銅鐸で、このタイプの銅鐸は全国で
2例しか発見されていない(もう1基は京都国立博物館蔵)。
文様も非常に美しく精巧に作られているが、片面の大部分が欠損している。大正11(1922)年に発見され、鳥取市歴史博物館に常設展示中。
〇本物は片面が大きく欠損しているが、もう一面はほぼ完全に残っているため、2,000年前の弥生時代にどのような姿であったかを推定して
復元することが可能である。
〇木型製作から砂型製作までは順調に進行したが、最終の鋳造段階で、青銅溶湯が廻りきらず5回目の鋳造でやっとて成功した。 |
※青銅鋳型は数回使用しないと溶融した青銅(湯)が全体に回りきらないことが知られている。 |
【推定復元】高住銅鐸 作成:兵庫県立相生産業高等学校 機械科 平成30年1月
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大正11年(1922)鳥取市高住の住民によって発見された弥生時代の銅鐸を推定復元したもの。
銅鐸は扁平紐式新段階の流水文銅鐸に分類されるが、袈裟襷文銅鐸の特徴も併せ持つ珍しい銅鐸。このタイプの銅鐸は全国で2例しか発見されていない(1基は京都国立博物館臓)。
平成30年(2018)、鳥取県立公文書館 県史編纂質より高住銅鐸の成分分析結果の提供を受け、兵庫県立相生産業高等学校機械科の生徒らの手により推定復元。 |
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高住銅鐸復元プロジェクト
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高住銅鐸復元プロジェクト
上に記述 |
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高住銅鐸復元
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推定復元高住銅鐸
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100展示室
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101入口展示
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102焼失住居の剥ぎ取り保存 下坂本清合遺跡 鳥取市気高町下坂本 弥生後期
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この焼失住居は残りがとてもよく、弥生時代終わり頃(約1800年前)の竪穴住居の構造を解明するために重要な建物跡です。
特殊な薬品を使って地面を固め、遺跡から剥ぎ取り展示しています。 |
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103焼失住居跡を観察
焼失住居跡を観察 |
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復元した竪穴住居 |
屋根葺き材
垂木の間に萱を水平方向にかけ、その上に樹皮のようなものを縦方向に葺いています。 |
萱かや
垂木の間隔が広く、その上の茅は水平方向や斜め方向のものが見られます。 |
出土した土器
竪穴住居が埋まる過程で出来た窪みから、弥生時代終わり頃(約1700年前)の土器が出土した。 |
扇形の垂木
竪穴住居跡4隅の内、3か所で垂木が扇状に配されています。
建物の角に丸みを持たせるためと推定される。 |
火事の焼土
竪穴住居跡の中央部を中心に、赤い色の土があります。これは、火事の時に火の回りが強かった部分と考えられます。 |
壁材と杭
竪穴住居の壁には全周にわたり茅が貼られていたようです。住居の四隅を中心に、壁材を支えるための杭が打たれていることが わかります。 |
垂木
炭になった屋根は、黒い粘質土の下で見つかりました。この土は屋根の上に葺かれていた土の可能性があります。 |
土屋根の堆積
炭になった屋根は、黒い粘質土の下で見つかりました。
同一反復 |
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104火事で焼け落ちた竪穴住居 下坂本清合遺跡 鳥取市 弥生後期
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110旧石器時代 260万年前~1万6,500年前
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人類が誕生してから約1万2000年前までが旧石器時代です。 (※間違。最古の石器の年代が旧石器時代の始まりです。人類誕生以後は人類学)
人類史のほとんどが旧石器時代です。この時代の終わり頃には氷河期が訪れ、年間を通して気候は冬でした。
旧石器人は、ナイフ形石器を付けた槍でナウマン象などの大型獣を追って狩る遊動生活をしていました。
県内では大山山麓で約3万年前の豊成叶林遺跡、(や、下甲退休原第1遺跡では)3万5000年前の台形石器が見つかっています。(括弧内は補足)
※下甲退休原第1遺跡 (鳥取県西伯郡大山町下甲 退休原)で、台形石器が出土しています。原文は主語が削除された文章でした。
きっとこの文書作成時には、まだ、確定していなかったのでしょうか。その他のほとんどの報告書から内容が削除されています。
(非公開)
(内容削除) |
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111大山周辺の旧石器遺跡
大山周辺の旧石器遺跡 |
旧石器時代
上に記述 |
大山周辺の旧石器遺跡(層順)
大山周辺の旧石器遺跡(層順)
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大山周辺の旧石器遺跡(層順)
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最下層
Ⅰ層 退休原(下層)
4.白色ローム層(上)
3.白色ローム層(下)
2.ハードローム層
1.三瓶池田層 |
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Ⅰ・Ⅱ層は白色ローム層(上)
の上端付近から始まる
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Ⅲ層は無遺物(三瓶火山灰中)
Ⅵ層は漸移層※その上からは
縄文時代が始まる |
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※漸移層 引用Essay 01 地質学的関係
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物質的連続と時間的連続な場合のうち、物質的には連続的に変化していく場合を「漸移(ぜんい)」といいます。このような場合、境界をどこにするかが問題で、自然は連続しているのに、人為的に境界を設けて区分すると問題が生じます。 |
隠岐島黒曜石産地と大山周辺の旧石器遺跡
隠岐島黒曜石産地と
大山周辺の旧石器遺跡
隠岐の島との地峡 |
※
①豊成叶林遺跡、②殿河内ウルミ遺跡、③下甲原休原第1遺跡は、共に、かろうじて陸上に残った旧石器時代史跡です。
この付近の海中には、もっとたくさんの旧石器遺跡が沈んでいるのに違いありません。
この3か所の遺跡が集中している付近には、旧石器時代の交通路があったのかもしれません。
隠岐の島から延々100kmを、重い原石を皮袋に包んで運んできて、ここで石器に仕上げたんでしょう。 |
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112下甲退休原第1遺跡(しもぎ たいきゅうばら) 大山町下甲 退休原
県内最古の遺跡 石器ブロック
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3万5千年以上前に、3人の割り手が少しずつ石を割って、台形石器を作った作業場跡です。(石器ブロック)
とても簡素な内容の遺跡ですが、黒曜石は90km離れた隠岐から運び込まれています。 (下甲退休原 第1遺跡 下層:大山町) |
下甲退休原第1遺跡下層
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隠岐島産黒曜石の
石器ブロック |
石器ブロック
(石器製作の工房跡) 下甲退休原第1遺跡下層 |
県内最古の遺跡
上に記述 |
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113下甲退休原第1遺跡(下層) 3万5000年以上前
しもぎたい きゅうばら
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114豊成叶林遺跡(とよしげかのうばやし) 鳥取県西伯郡大山町豊成
3万年前のムラ
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見つかった2つの石器ブロックの内容や製作技術の差を分析すると、一組の親子が日常の狩と旅の準備とで役割分担をした様子が浮かび上がります。
豊成叶林遺跡:大山町 |
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115旧石器時代遺物一括 豊成叶林遺跡 3万年前 西伯郡大山町豊成 叶林
豊成叶林遺跡
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ナイフ形石器の使い方 |
豊成叶林遺跡
旧石器時代遺物一括 |
石器ブロック1 |
石器ブロック1 接合資料
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石器ブロック1では2つの石を用いた初期段階の作業だけが行われ、完成した石器が1点もありません。
1つの石を割り切って多くの石器を製作するブロック2とは明らかに性格が 異なります。 |
石器ブロック1 |
石器ブロック1の接合資料 |
石器ブロック1の接合できなかった剥片 |
石器ブロック2
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8点のナイフ形石器が出土し、そのうちの6点は、石を割った場所から離れたところにまとめられていました。
ナイフ形石器の内6点は刃が鈍いなどの欠点があることから、選別に漏れて残されたものと考えられます。 |
石器ブロック2 |
石器ブロック2のナイフ形石器
上に記述 |
石器ブロック以外から出土した石器 (完成品・持ち出された |
石器ブロック2の母岩
(接合資料)
右に記述 |
石核に、1点のナイフ形石器と28点の剥片やチップが接合しました。
剥ぎ取られて石器に使用された部分が、母岩の隙間になっています。 |
他遺跡出土の旧石器
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116殿河内ウルミ遺跡 鳥取県西伯郡大山町殿河内字ウルミ谷849-2ほか
2万年前のテントの復元 (石器ブロック)
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旧石器はCの字を描いて分布し、石器・石核・石器製作の廃物はそれぞれまとまっています。直径5.4m又は3.2mのテントを復元できる可能性があります。
※石器ブロックの中は、普通は円形のテントの形に石屑が散乱しています。しかし、ここではテント内を掃除して、石屑が集められています。
きっと、テント内は石器作りだけでなく、生活などにも利用したため、裸足の旧石器人がけがをしないように掃除したのでしょう。初めて見ました。
この時期は、最終氷期の最寒冷期で、素足では生きていけませんが、履物を履いていても石器の破片は鋭利ですからね。 |
石器ブロック想像図
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服装など、よくできた絵です。
ただ、丸いテントの中で、中央で火を焚いて作業したので、
テントが描けなかったのは仕方ないですね。 |
殿河内ウルミ遺跡
テント内の様子
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石器と石核
殿河内ウルミ遺跡 |
テント内の配置
石器・石核・廃物が仕分けられている(掃除した) |
2万年前のテントの復元
殿河内ウルミ遺跡 |
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117殿河内ウルミ谷遺跡 2万年前頃
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接合資料 |
周辺加工尖頭器と、2点の石刃が接合したもの。
尖頭器の素材になる幅広の石刃4を取るために、
縁付きの特殊な石刃石核を使っていることがわかります。 |
石核母型 |
小石刃を取るために小型の礫を整形したもの。
石刃を量産するためには理想的とされる舳先型ですが、
なぜか1枚も小石刃がとられていません。 |
接合資料 |
小型の礫から小石刃石核を造り出したもの。
技術が 劣るため少量の小石刃しか取れていません。
11点が接合しています。 |
掻器
生皮から脂肪を取り除いて革製品を作るのに使う石器です。 |
二次加工のある剥片
玉髄 |
小石刃・小石刃石核 |
周辺加工尖頭器 |
石刃の周囲を緩やかに整形して槍先としたもの。
ナイフ形石器に似ていますが、背や刃がありません。
ナイフ形石器消滅直後の石器と考えられます。 |
厚形削器
(角錐状石器)
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彫器 |
骨角器などに溝を刻む石器といわれます。
西日本ではあまり出土しない石器です。 |
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118下甲退休原第1遺跡(上層) 1万8000年前頃
下甲退休原第1遺跡(上層)
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小石刃 |
小石刃の使用方法 |
微細剥離のある小石刃 |
使用による刃こぼれのある小石刃です。
折り取った小さなかけらにも微細剥離があるので、組み合わせて使われたと考えられます。
※細石刃のこと、細石刃の、実際に刃を取り換えた使用済みのマイクロリスのようです。
大変珍しいし、実際に取り換えていたなんて、驚きです。 |
接合資料 |
折り取った小石刃の破片同士が接合したものです。
末端の曲がった部分は最初に折って捨てられています。
※旧石器時代末期の人々が行った作業の実際が
目前にあるというのは、実に生々しいですね。 |
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119尖頭器 縄文時代草創期 1万2000年前頃 坂長村上遺跡
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120縄文時代 1万2000年前~2300年前
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縄文時代には気候が温暖化し、海面上昇が起こり、現在よりも海岸線が内陸に入り込んでいました。(縄文海進)
また、土器が発明されたことで旧石器時代よりいろいろな植物や海産物を食べることができるようになり、食のバリエーションが増えました。
県内では大山周辺や湖山池周辺を中心に早期から晩期までの遺跡が確認されています。 |
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121竪穴住居
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縄文時代後期の竪穴住居跡で、写真の中央に見える石を組み合わせたものが石囲炉です。
このようなしっかりした炉があることで、ある程度の期間この住居で生活していたことがわかります。 (殿河内上ノ段大ブケ遺跡:大山町) |
石柱
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重さ約100kgもある巨大な石柱です。このような石柱は豊穣や繁殖を祈り使われていたという説があります。 (殿河内上ノ段大ブケ遺跡:大山町) |
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縄文時代
上に記述 |
竪穴住居 |
竪穴住居 |
石柱 |
石柱 |
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122縄文後晩期の土器
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縄文土器の文様 |
縄文土器に見られる様々な文様
縄を転がして付けた文様 = 縄文
楕円やジグザクに刻んだ
棒を転がして付けた文様 = 押型文
貝殻の縁のギザギザを
利用してつけた紋様 = 貝殻条痕文 |
縄文後期土器
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縄文後期土器 |
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加曽利B式に似てる |
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深鉢形土器使用例
加曽利貝塚博物館 |
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縄文晩期土器
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124縄文の生活道具
すだれ状編み物出土
桂見遺跡:鳥取市
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落とし穴
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落とし穴
西坪中中畝遺跡:大山町 |
丸木舟
桂見遺跡:鳥取市
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縄文時代の丸木舟
青谷横木遺跡:鳥取市青谷町
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縄文後期の簾状の編み物です。材はイヌガヤ。
隙間なく並べた縦材1本ごとに、横材2本を挟んで交差させるもじり編です。
桂見遺跡:鳥取市桂見 |
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獲物を捕るための罠です。
写真は落とし穴の断面です。
穴の底には逆茂木を立てた跡があります。
西坪中中畝遺跡:
鳥取県西伯郡大山町西坪字中中畝 |
縄文後期の丸木舟です。 杉の丸太を火で焦がし、石器でえぐって加工しています。全長7.24m幅.74m深0.35m。舟の首尾とも削って尖らせた「鰹節形」と呼ばれる形です。
桂見遺跡:鳥取市 |
縄文後期~晩期(約4500-3000年前)の堆積地層から出土。包含地層は巻貝などの貝殻を含む粘土層で、当時は海もしくは海に近い場所であったようです。
杉材で全長6.26m最大幅68cmです。
ボーリング調査で青谷平野は縄文後期頃は内湾でありました。
青谷横木遺跡:鳥取市青谷町養郷 |
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125
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石鏃・剥片・石核 西坪上高尾原遺跡
縄文早期~前期
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石鏃
装着復元 |
石鏃 |
剥片・石核 |
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弓・弭
桂見遺跡:縄文後期
イヌガヤの枝の先端を焦がし、擦り削って弭を作り出している。 |
弓弭
イヌガヤ
弓の弦を掛ける所 |
杓子 桂見遺跡:後期
ケヤキ
おもしろいデザインです。 |
杓子未成品 |
櫂 桂見遺跡:後期
ヤマグワ |
人面土製品
殿河内上ノ段大ブケ遺跡縄文晩期~弥生前期
鳥取県西伯郡大山町殿河内字上ノ段大ブケ898/912-1
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127丸木舟 青谷横木遺跡 縄文時代 後~晩期
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この丸木舟は、縄文後期から晩期(約4500~3000年前)に堆積した地層から出土しました。杉の木で作られており、船の全長6.26m最大幅68cmです。 |
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舳先(へさき) |
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補修痕跡 船底のひび割れの両側に穴を開け、紐や木の皮などを通して縛り補修したと考えられる。 |
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石が乗っていた場所 |
艫(とも=後部) |
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舟の底(艫側)に、2つの石が乗っていた。航行する際に、船を安定させるために乗せたと考えられます。
※乾くと割れるので、水に沈めていたのではないか。と、私は思います。
実際、現代でも丸木舟を水に沈めておくのを見たことがあります。 |
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130弥生時代約2300~約1700年前
弥生時代
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弥生時代には気候が少し寒冷化したため海岸線が遠退き、ところどころに湿地、潟湖(せきこ=ラグーン)が出来ました。
米作りは(この湿地を利用して)この時代にはじまりましたが、それ以外に弥生人は潟湖を港に利用して他の地域との交流も行っていました。
史跡青谷上寺地遺跡の弥生人たちも潟湖を利用して北陸地方や北部九州地方の人々と交流していたことがわかっています。
また、史跡妻木晩田遺跡のような大きなムラもでき、地方特有の墳丘墓(弥生の墓)もつくられました。 |
火事で焼けた竪穴住居跡
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弥生時代終わりころの焼失した竪穴住居跡です。屋根材と焼土から土屋根と考えられ、壁にはカヤを貼り付けていた状態が良好に残っていました。
住居内に土器が残っていないことから、意図的に焼かれたと考えられます。(下坂本清合遺跡:鳥取市) |
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131
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弥生時代
上に記述 |
焼失住居跡 |
火事で焼けた竪穴住居跡
上に記述 |
又鍬 青谷上寺地遺跡 |
田舟
田舟
青谷上寺地遺跡
弥生後期 スギ |
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弥生コーナー |
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132弥生の農具(復元)
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組合せ式平鋤(手前)
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直枝平鍬(泥除付) |
直枝平鍬 前板が鍬、後ろ板が泥除け
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直枝平鍬(復元品) 青谷上寺地遺跡
アカガシ製(鍬・泥除け)
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鍬に二枚の板を取り付けると大変重いので、
東北地方では泥除けの方を竹で編んでいます。軽くて便利な進歩です。 |
直柄横鍬)
朳(えぶり/柄振 |
直柄横鍬 |
八戸市では早春2月に
「えんぶり祭」があり、春を呼ぶ農業行事となっている。
「木」偏に「八」と書く。
「朳」(読み:えぶり)
長者山新羅神社の祭。 |
江戸時代までは、かなりいかがわしい祭りであったそうだ。
明治時代に禁止されたが神事の豊年祭として復活した。
元来民間の伝統行事であった。 |
明治期の民俗学者等による、安曇野市の道祖神がいかがわしいとか、村境に立っていた石棒が不適切とかいった
排除命令が国から頻繁に発令された。 |
京都には、縣神社の
あがたまつりって、
凄い祭りがあったよ~
(^^♪
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133弥生の農耕具
弥生の農耕具
青谷上寺地遺跡
弥生後期 |
横槌
組合せ平鋤・横鍬
(アカガシ)
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又鍬
青谷上寺地遺跡
弥生後期
アカガシ |
木包丁 |
弥生時代の鉄の道具
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133a弥生土器
弥生前期・中期・後期の土器
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134梅田萱峯遺跡 弥生時代中期後葉 約2000年前 鳥取県東伯郡琴浦町大字梅田字萱峯395-6
埋文の展示の前に「梅田萱峯遺跡Ⅴ 発掘調査報告書」とブログ「房総→山陰→広島」から写真をお借りして理解したいと思います。
参考文献
梅田萱峯(うめだかやうね)墳丘墓説明会/鳥取県琴浦町 - 房総 ...
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梅田萱峯(かやうね)遺跡で弥生時代中期後半(約2000年前)の墓上祭祀(さいし)施設が発見された。
11×8mの方形の墳丘墓を4本の柱で囲ったもので、同様のものとしては日本最古のものだという。
[日本海新聞・山陰中央新報]
梅田萱峯遺跡では、2007年10月に埋葬部(主体部)を四本柱で囲んだ墓上祭祀施設のある国内最古の弥生墳丘墓が確認された。
(柱穴の位置は東西2.8m、南北2.1m)
さらに、今年の6月に5つ目の柱穴が見つかり、併せて埋蔵されたのは木棺だった可能性が高いことが分かった。
今回、新たに柱穴が4つ見つかり、以前のものと合わせて9本の柱穴が出土した。(柱穴の位置は東西2.8m、南北6.6)) 新たな柱穴は、墳丘の周囲の張り石の下から2つと、墳丘の外側から2つで、祭祀施設が墳丘の南側へ張り出す形で確認された。
[参考:山陰中央新報、前出、鳥取県教育委員会埋蔵文化財センター] |
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以上の情報から、弥生時代中期後葉の弥生墳丘墓が発掘された。普通、弥生後期が多いが、中期後葉である。
単独ではなく、何度か追葬の跡があり、その都度行われた葬送祭祀によって柱穴が5と4見つかった。
出雲市の西谷墳墓群では、弥生後期から古墳前期の、4本柱の祭祀跡が見つかっており、それに先立つ儀礼があったことがわかる。
発掘調査報告書の写真 梅田萱峯遺跡Ⅴ 発掘調査報告書
山陰自動車道の工事
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これは住居跡かな |
梅田萱峯墳丘墓全景
方形の墳丘墓 |
梅田萱峯墳丘墓全景
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ブログ「房総→山陰→広島」の写真
墳丘墓の大きさがわかる |
墳丘の高さがわかる
後期の四隅突出のようには高くない。 |
封土がある状態
墳丘の形状保存のため石が貼り付けられる |
四隅の原型にも見える四隅の原型を鳥取県というのは真実かもしれない |
木棺の痕跡。最初から追葬を目的とした墳丘墓のようだ。 |
弥生後期に既に追葬がおこなわれていたとは、大変な驚きである。首長は一人一墓で細君や家族を追走したのかもしれない。
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写真とそれが表したい内容としては、ブログ写真が大変優れています。遺構の規模や大きさ、説明会の雰囲気が手に取るようにわかります。
怒られたらすぐに削除します。すみません。 |
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135弥生中期後葉の梅田萱峯遺跡の様子
この時代を1期と2~3期に分けることができます。
1期
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丘陵の北側に竪穴住居と貯蔵穴で構成される集落が営まれました。
集落の成立にやや遅れて、集落内やその南側には、木棺墓や土器棺墓などからなる集団墓が築かれました。
集団の中には大きな差が見られず、この時期には、大きな力の差があったとは考えられません。 |
2~3期
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丘陵の南側に竪穴住居と掘立柱建物で構成される集落が営まれました。
集落の南はずれには、墳丘墓が築かれました。墳丘墓は、盛り土を行った後に、盛り土の端に石を並べ置く、特別な墓でした。
集団の中で特別な人が葬られた墓と考えられます。 |
墳丘墓(下の写真) 梅田萱峯墳丘墓
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長方形(11.3m×8.6m高さ0.63m)の墳丘の端に石を並べ置いた県内最古(弥生時代中期後葉)の墳丘墓です。この墳丘墓は、墳丘を築く過程で、
墳丘内外に9本の柱を埋め立てて、埋葬に関係する祭祀を行っていたことがわかっています。 |
木棺墓(下の写真) 梅田萱峯墳丘墓
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木棺を収めた墓穴の輪郭を確認した状況です。墳丘墓が築かれる以前の墓です。 |
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弥生時代中期後葉の
梅田萱峯遺跡の様子
上に記述 |
墳丘墓
11.3m×8.6m高0.63m |
墳丘墓
梅田萱峯墳丘墓
琴浦町 |
木棺墓
古い墓の上に墳丘墓を造った。一帯は集団墓地だったのか。 |
木棺墓
梅田萱峯墳丘墓
琴浦町 |
梅田萱峯遺跡出土遺物 弥生時代中期
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遺跡の南端で、土器や土玉が大量に廃棄された土坑が見つかりました。その中から、赤色に塗られた器台が見つかりました。 |
器台
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梅田萱峯遺跡出土遺物
弥生時代中期 |
器台
弥生中期 |
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150古墳時代 約1700~1400年前
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畿内地方で始められた前方後円墳が各地に広がっていったのが古墳時代です。
県南部にも山陰地方最古級の➀本高14号墳、②古郡家1号墳、中部では③馬山4号墳など古墳時代前期の60mを超える大型前方後円墳があります。
古墳の形だけではなく、県中部の④長瀬高浜遺跡のように畿内地方の土器が大量に出土するムラもあり、畿内地方の影響を各地が受けていたことがわかります。 |
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151古墳時代前期の前方後円墳
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本高14号墳は、全長約63mの前方後円墳です。古墳時代前期中葉に造られたもので、山陰地方で最古級の前方後円墳です。
霞17号墳は、葺石がある全長約20mの古墳です。古墳時代前期末から中期前半の古墳で、日野郡では最古の前方後円墳です。 |
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152本高12号墳 古墳時代中期 鳥取市本高 ➀
本高14号墳が前方後円墳導入期(古墳時代前期・4世紀-鳥取県 本高 14号墳 - 鳥取県
本高12号墳 第1主体部
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本高12号墳の棺は長さ180cm、幅50cmの木棺… 棺の中からは高坏を死者の枕に転用した「土器枕」、… 頭元に鉄剣1点、腰の辺りに刀子1点、足元から…
出土しました。この古墳は、棺の中から見つかった… 古墳時代中期に造られた古墳であることが わかりました。 |
本高12号墳 出土遺物
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棺内からは、枕として使われた高坏の受部、鉄鏃、刀子、棺外からは鉄剣が見つかりました。 |
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本高2号墳出土遺物 |
本高12号墳 第1主体部
上に記述 |
本高2号墳出土遺物
鉄剣・刀子・鉄鏃 |
高坏受部 土器枕 |
鉄剣・刀子 |
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153石井垣上河原遺跡 古墳時代前期初頭~ ⑥ 鳥取県西伯郡大山町岩井垣313-4
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石井垣上河原4号墓出土 |
石井垣上河原4号墓出土 |
石井垣上河原4号墓出土
高坏・器台 |
古墳前・中期の土器 |
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154 長瀬高浜遺跡 鳥取県東伯郡羽合町長瀬大字高浜 ④
長瀬高浜遺跡
【長瀬高浜遺跡】アクセス 伯耆長瀬高浜遺跡出土埴輪 /とっとり文化財ナビ
長瀬高浜遺跡玉作関係資料一括 /とっとり文化財ナビ
土師器
長瀬高浜遺跡 |
土師器
長瀬高浜遺跡 |
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・土師器
・山陰地方の土器
・布留式土器(畿内系) |
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・前・中期の土器
・土師器 長瀬高浜遺跡
・山陰地方の土器 |
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山陰地方の土器 |
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布留式の甕
(近畿地方の形の土器)
須恵器(陶邑産須恵器)
長瀬高浜遺跡
古墳時代中期 |
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155弥生と古墳時代の土器の違い
弥生と古墳時代の
土器の違い |
古墳時代になるとカマドが登場し、煮炊きに使用する甕は平底から丸底に変化し、短時間で効率よく調理できるようになりました。 |
山陰型甑形土器 |
山陰型甑形土器
用途不明の土器 |
竪穴住居跡出土の多量の土器
長瀬高浜遺跡:湯梨浜町
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竪穴住居跡出土の多量の土器
廃屋がゴミ捨て場になっていた様ですね。
長瀬高浜遺跡:湯梨浜町 |
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左:布留式の甕
近畿地方の形の土器
右:須恵器
陶邑産の須恵器の壺
陶邑:現大阪府南部地域
(「長瀬高浜遺跡」
古墳時代中期) |
布留式土器 編年
初期大和王権を支えた物部氏の本拠地
布留遺跡
弥生時代から古墳時代への移行期計測の基準土 器 |
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古墳時代前・中期の
大集落 |
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考察 弥生時代の甑調理
私は、一般的な知識に従って、甑の登場以前は、穀物は、水と共に甕に入れて煮ていた。そのため、低温焼成の土師器からは泥が溶け出し、
泥混ぜご飯になっていた。だから、甑が登場し、初めて蒸し調理ができるようになった。と考えていた。ところが、
先日(現在2019.8.24)、カンボジアの田舎では、カマドで湯を煮立たてておき、洗い上げたもち米をザルに入れ、湯の沸いた鍋の上に置き、
適当に木製の蓋を載せるだけで、湯気でコメが調理されるのを見た。(イッテQ)当地では、現在でもこれが普通の調理法なのである。
すると、泥ご飯を食べたいものはおらず、甑以前は、カンボジア方式の蒸し調理の方法をとっていたものと思われる。
しかし、甑が登場したとしても、大きな穴が開いているので、やはり、竹のかごやざる、又は布を利用して蒸し調理したものと思われる。
甑のほうが熱効率がよく、調理時間が短縮できたのは当然である。
しかし、集落当たりの甑の出土数は大変少なく、祭祀などの多人数での饗宴などにのみ用いられたと推測されている。
すると、個人住居での調理はカンボジア式で、甑なしで行われたものと考えられます。
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157体験用の土器
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160埋蔵文化財を科学する
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161金属製品
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埋もれた金属製品 |
出土した金属製品
本当の形はどれ |
古墳から出土した鉄製品
鉄斧・鉄鉾
約1500年前:越敷山古墳群
鉄刀・鉄鏃:約1400年前
松原古墳 |
保管されている鉄鏃
金属製品の保管では、、錆の元になる酸素を取り除く必要があります。
このため、保存袋の中には酸素除去剤を入れています。
酸素との化学反応がなれば水に触れても錆びません。 |
中世の馬鍬 門前第2遺跡 |
馬鍬X線写真 |
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170木製品 |
171
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古代に使われた木製品
土中密閉された木製品 |
出土した木製品
変形を防止する保存法 |
木製品の保存処理
各種の保存法 |
見えないものが見える
赤外線撮影 |
不思議な光線・赤外線
赤外線の特性 |
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172縄文時代のカゴの素材ヒゴ 縄文晩期 約3000年前 高住井手添遺跡 鳥取市高住
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縄文時代は、カゴの素材には、裂いたヒノキのヒゴを使っていました。 |
縄文のカゴ
高住井手添遺跡 |
水漬の木製品 縄文のカゴの部品 |
保存処理された木製品 PEG処理
PEG粉、
PEG処理された
下駄、木槌 |
トレハロース処理
トレハロースの粉
トレハロース処理された防磁用木製品と田下駄 |
高住井手添遺跡 鳥取県鳥取市高住
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奈良時代の木簡 約1300年前:良田平田遺跡 鳥取市良田字稲場/字口宮ノ谷/字平田
量を表す内容の木簡などが出土しました。普通では見えにくいものも赤外線撮影をすることで、くっきりと見えるようになります。
※木簡は、木の板に文字を書いたもので、巻物の様に使うものや荷札の様に使うものなどがあります。
奈良時代の木簡 |
奈良時代の木簡
約1300年前:良田平田遺跡 |
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173赤外線写真
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175レーザー測量
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障害物を透過する不思議 |
レーザー測量で古墳を発見 |
可視光 |
レーザー |
レーザー測量で古墳を発見
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上の写真は、布勢陸上公園の東側の変電所付近の山林を写したものです。多くの人達がこの山林の横の道を通っていると思いますが、この山林に古墳があることをご存知でしょうか?
レーザー測量で造られた図を見ると一目瞭然。前方後円墳(赤丸部分)がこのように身近な場所にあることに驚きです。
これもレーザー測量をすると前方コア円墳や山城の堀が確認できます。どこにあるか、図の中から探して見て下さい。 |
立体写真
写真から立体写真になった土馬
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左側の土馬が立体図(3D)になっている土馬です。実際に触ることが出来なくても、立体をいろいろな方向から見ることが出来ます。
土馬の上下にある複数の円は、複数写真を撮るときの位置決めに使うためのものです。 |
平面から立体になった不思議
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写真から立体になった土馬 |
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176X線CT
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180青谷上寺地遺跡
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182井戸枠・土器棺・貝塚
井戸枠に転用された桶 |
井戸枠に転用された桶 |
甕
石室内にまき散らした
大甕 |
二重口縁壺
土器棺 |
青谷上寺地遺跡の貝塚 弥生時代前期~古墳時代前期 (約2200年前~約1700年前) 500年間
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この土層標本は、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡に人が活動を始めた弥生時代前期から古墳時代前期 (約2200年前から約1700年前) までの
約500年間の土の堆積を観察することができます。よく観察すると、沢山の貝殻、魚の骨、ウニの棘、土器のかけらも見つかります。
沢山の貝殻がつまっているところが貝塚で、約2200年から2000年前に堆積したものです。
貝塚とは、貝をはじめ、魚や動物、植物、食べ物の残りかすなどを人が捨てた場所のことです。 |
青谷上寺地遺跡の貝塚
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青谷上寺地遺跡の貝塚 |
弥生時代の井戸枠 秋里遺跡 弥生後期 約1800年前
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秋里遺跡(松下地区)から見つかった弥生時代後期(約1800年前)の井戸に使われていた井戸枠です。
この井戸枠は、タブノキ(柔らかく粘り強い木質)を刳り抜いたもので、高さが1.15m以上、直径がいちばん太い部分で0.6m、厚さは5~8cmあります。
枠の底には、取水口が2か所刳り込まれています。 (秋里遺跡(松下地区):鳥取市秋里) |
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200祭祀 |
210マツリ
祭祀具
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祭りに使われた
分銅型土製品
青谷上寺地遺跡 |
盾
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盾
青谷上寺地遺跡
弥生時代 |
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大型の高坏
殿河内定家ノ前遺跡
弥生時代 |
管玉
長瀬高浜 弥生時代 |
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脚注なし |
脚付壺
笠見第3遺跡 弥生時代 |
祭祀具 |
刻骨
棒で擦って音を出す
青谷上寺地遺跡
ギロ |
卜骨
青谷上寺地遺跡 |
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220技(わざ) 青谷上寺地遺跡
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221
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222加工のための道具 青谷上寺地遺跡
加工のための道具 |
加工のための道具
袋状鉄斧、鑿、ヤリガンナ |
板状鉄斧 |
桶形容器
桶型容器の蓋 |
ヤリガンナなどで木製品を加工 |
楔(くさび)の使用方法 |
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223骨角器の加工方法
骨角器の加工方法 |
貝輪 貝製腕輪 |
鹿角の加工 |
筋を入れ、切断 |
ヤスに加工する |
管玉の作り方四角柱素材
穴あけ、磨く、完成
笠見第3遺跡 |
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230交流 |
231交流のための道具
青谷上寺地遺跡 |
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この頃の舟 |
櫂
青谷上寺地遺跡 |
花弁高坏は
貸し出し中 |
朝鮮半島系土器 甕
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日本の土で作られた |
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233出土品から見える青谷上寺地遺跡と各地の交流
貨泉
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青谷上寺地遺跡からは5点出土しています。中国の新時代(8~23年)の貨幣です。鋳造は43年頃まで続いたようです。
主に交易の拠点となる遺跡から出土しています。 |
各地との交流
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出土品
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貨泉
上に記述 |
渡来系鋳造鉄斧 |
星雲文鏡
青谷上寺地遺跡 |
出土品から見える
各地との交流 |
中国との交流
青銅鏡・貨泉
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韓との交流
無文土器・有肩鉄斧
日本海沿岸地域との交流
台付装飾壺・花弁高坏
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北部九州との交流
北部九州系の袋状鉄斧
結合式釣針
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中国地方での交流
備後系の脚付鉢
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240土層剥ぎ取り標本 米子市 目久美遺跡 縄文時代~現代まで
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241
土層
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黒灰色粘質土層 (弥生前期~中期)
(かつての湿地(水田で利用))
マコモ層 (縄文晩期)
(水生植物繁茂の時期)
灰色粘質土層 (縄文後期以前) |
鹿角出土 |
弥生土器出土 |
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第1茶褐色砂層 (弥生)
(洪水の跡)
褐色粘土層
第2茶褐色砂層 (弥生)
(洪水の跡)
灰色粘質土層 (弥生中期)
(かつての湿地を水田として利用) |
水田と畔の様子 |
目久美遺跡空撮 |
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灰白色土層 ( ~現代)
(現代の耕作土、水田として利用)
黄褐色土層 (鎌倉~ )
(酸化鉄分の沈殿層) |
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