縄文を旅する4 南の縄文 沖縄~九州08 2014.02.08(土)
指宿市考古博物館時遊館ここ(COCCO)はしむれ 鹿児島県指宿市十二町2290 0993-23-5000 休館日は月曜日と毎月第4水曜日
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交通 |
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指宿駅から南へ徒歩10分 |
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特徴 |
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日本の考古学黎明期に縄文と弥生の時代区分がなく、それぞれ別の民族の遺跡だと考えられていたが |
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橋牟礼川遺跡の発掘によって二つの文化が民族の違いではなく、時代のあとさきであることが証明された。
日本考古学にとって記念碑的存在である。 |
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見所 |
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・多数の出土品は持ち去られ、展示物は少ないが、縄文と弥生の境目に火山灰層のある展示が重要なものです。 |
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・古代ドーム(シアターホール)の真ん中にある大型ジオラマは、各時代ごとに下からせり出してくる展示で、
日本でただ一つの移動式展示だと思います。ぜひ見ていただきたい。 |
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・水迫遺跡1万5000年前の旧石器時代の定住住居跡の展示。
・小さくて展示物が少なく見えたが、実に盛り沢山な博物館でした。
・縄文時代の建物を描いた土器文様
・獣形勾玉は後に他地域で異形石器とよばれた |
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反省 |
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その、展示の目玉であるジオラマが十分に取材できていない。撮ったつもりで撮れてない。写真下手。 |
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ネット情報で、旧石器時代の展示があるとのことで行ったのですが、めだっていませんでした。が、最重要でした。 |
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感想 |
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小さな博物館で、ここは展示物は少ないです。縄文弥生の区別の記念碑的な館です。と自虐的に言ったが、 |
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編集してみて、この館には学ぶことが沢山あり、見るものもた多い。そして、設備もなかなか新しい。素晴らしい館だ。
ただ、復元住居は老朽化している。 |
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編集後記 小さな博物館でしたが、大量のデータができてしまいました。 考えることもたくさんあった。この博物館は驚きの連続だ。 |
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屋外展示
01隼人の住居復元 先住民が「隼人」とよばれた古墳時代以降のものです。人々は全国的に弥生以降も長い間、竪穴住居に住んでいました。
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建物外観
02時遊館Coccoはしむれ
公園から見える博物館 |
この時期南鹿児島沿線は菜の花でいっぱい |
案内板は車の通らない道路を向いている。 |
初期投資の意気込みがわかる。立派な建物。 |
エントランスで祖父の遺品と同じ絵葉書展開催 |
懐かしかったですね。 |
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常設展
03火山 -開聞岳- この地域の先史時代から古代に、南九州の人跡・植生に大きな影響を与えた火山です。
常設展示スペース膨大な発掘品は持ち去られ、かき集められたのはこれだけでした。
それでも、頑張って館を維持していただきたい。 |
4000年前から噴火を始めた阿多カルデラ外輪山 |
短期間にこんなに成長したのは激烈な噴火を繰り返したからでしょう |
火山噴火と森林7300年前の鬼界カルデラの火災流で南九州の森林は焼き払われた |
鬼界カルデラ噴火前の小牧台地(指宿市)照葉樹の森はドングリや狩猟動物の宝庫で縄文時代の人々の暮らしを支えていました。 |
鬼界カルデラ噴火後の小牧台地(指宿市)荒れ果てた台地にはススキやクロマツなどの植物が生え、再び照葉樹林の森へと再生が始まりました。 |
火山噴火と植物ススキは噴火降灰後の荒れ地に最初に根を下ろし、土壌を作って、やがて森林が形成されます。 |
プラントオパールを
調べる植物細胞の中に形成されるガラス質のことです。 |
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プラントオパールは
土中の珪酸塩が植物体の中で非結晶化したものでガラスと同じ組成を持っています。
植物種毎に固有の形を作り、分解しにくい。 |
子供の頃、ススキや笹の葉で手足を切ったり、
名前を忘れたが、木の葉で、裏に透明なヒゲ状の繊維があり、こすれるとそのガラス質がいつまでもチクチクと痛かったものだ。サンシュウだったか |
ガラスは高温で溶かさなくても
植物体の中で自在な形に作られるものでした。
プラントオパールは
それほど身近に存在するものでした。 |
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04地震と遺跡
古代の人々が表現した動物動物は食料であり、神であり、魔物であり、精霊であったかもしれない |
動物は嘗て不思議な力を持つ存在だと考えられていた |
土器に描かれたシカ
弥生時代 |
サルの埴輪 古墳時代 |
鹿角製のカエル
縄文時代 |
貝塚でわかる
南部九州の絶滅動物ツキノワグマ、ニホンオオカミ、カワウソ、オオヤマネコなど |
オオカミ、カワウソ、ツキノワグマ、オオヤマネコ |
橋牟礼川遺跡の動物骨
猪、鹿、タヌキ、野兎 |
遺跡でわかる地震と遺跡
液状化・地滑り・建物の倒壊。他に断層など
琵琶湖から四国への花折断層系列が目立ちます |
貝塚でわかる古代の人々の暮らし 橋牟礼川遺跡 |
貝塚でわかる古代の海岸線 関東地方 |
市来貝塚剥ぎ取り標本
市来式土器は3500年前 |
市来貝塚剥ぎ取り標本 |
開聞岳火山灰層標本 |
開聞岳剥ぎ取り標本 |
市来貝塚では(古墳時代まで)100種類以上もの貝が食べられていた。
橋牟礼川貝塚の(奈良平安)では96種類。
現代では10種類程度かなぁ |
開聞岳の噴火
4400年前活動開始
2500年前現在同様の 山体を形成
2000年前と1500年前に 大噴火、大量噴出。
成層火山を形成
874年、885年に噴火 |
開聞岳の火山灰が鍵層となって、縄文と弥生の区別が確定した? |
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05作物のルーツ
4つの品種だけを取り上げている。弥生以降の伝播でしょうか。 |
代表的な作物のルーツ小麦・米・蕎麦・大豆
小麦とともに大根などアブラナ科の地中海原産品も持ち込まれたか。 |
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種を携えた半島人が大挙して列島にやって来た。 |
縄文時代晩期の列島には6~7万人の人々が慢性的な飢餓の中ようやっと生き延びていた。
そこに船に乗った武力集団が大挙して押し寄せ、
縄文人は切り殺され、射殺されるか、奴隷として額に焼き印を押されて酷使されたのだろう。
弥生時代には70万人もの半島人が押し寄せ、農耕を始めた。捕まった縄文人は農奴となった。 |
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10旧石器時代
12道具と暮らし
旧石器時代の道
具と暮らし |
南九州の
後期旧石器時代年表 |
左図は、南九州の後期旧石器時代の年表です。
このように整理した年表は初めて見ました。たいへんわかりやすいですね。。
ナイフ形石器文化期と 細石刃文化期 (3万年~1万2000年)は
新人(ホモ・サピエンス)の旧石器時代
考古は別にして、南九州には今に続く恐ろしく危険な、いつ噴火するかしれない火山が
複数生き残って今も活動していることに驚く。東日本大震災の前に千年周期地震を
不確定要素として排除して起こった原発事故に心及ぶ。 |
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14ナイフ形石器文化期 3万年前頃~1.4万年前頃まで は二つの文化期に分けられます
ナイフ形石器文化には |
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西日本を中心の |
茂呂・国府型ナイフ形石器文化圏と |
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東北北海道を中心の |
杉久保・東山型ナイフ形石器文化圏 の二つの文化圏に分けられます。 |
第1文化期3.2万-2万年
姶良丹沢火山灰層は、当初、丹沢火山灰と考えられたが、その後、姶良火山灰と判明し、にもかかわらず、姶良丹沢AT層といわれているが、
正しくは姶良火山灰Tn層である。
噴火年代も、約2万000年前~2万5000年前だったが、約2万6000年前~2万9000年前であると推定されている
第1文化期3.2万-2万年
ナイフ形石器文化期は全国的に姶良丹沢AT層の前と後で技術水準が高度に進化する。
別の民族が来た証拠。 |
ブラックバンド層とは
硬い暗褐色粘質火山灰土
または腐食植物層 |
AT層前のナイフ形石器
粗雑な石刃石器群。斧形石器群。礫。台形石器 |
彼らの狩猟対象はツキノワグマ、
ナウマンゾウ、ニッポンサイ・・
大型動物の骨や痕跡しか残らなかっただけかな |
第2文化期2万-1.4万年
2万4000年前、姶良カルデラの巨大噴火により、南九州から広範な地域が無人となった。
噴火後まもなく、半島よりモンゴロイドが流入して、日本中に拡散していった。
彼らはより進んだ石刃技法を持っており、ナイフ形石器全盛の時代となる。
第2文化期2万-1.4万年
列島には恒常的コンスタントに渡来人がくるようだ
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剥片尖頭器、三稜尖頭器、両面加工尖頭器、ナイフ形石器、台形石器、スクレイパー、彫器、剥片 |
大型動物は絶滅して、中小型動物が狩猟対象 |
ニホンムカシジカ、ウマって、馬なんかいなかっただろう。
古墳時代の騎馬民族征服説まで待たねば(笑)
いたのか!? |
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15細石刃文化期 14,300~12,000年前
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16,000年前に最寒冷期が終わり、その後2,000年間に人類の第2段階の拡散が始まった。
14,700年前には現在と同じ気候。急速な温暖化がおこった。
この時期に北と西から細石刃文化人が列島に舟でやって来た。 文書引用
(彼らの持つ細石刃石器は、大型動物狩猟用で、北方大型獣の絶滅に伴い南下拡散した民だった。)
氷河期の終了と言う気候大変動は動物と人類の生態系に重大な変化をもたらした。生物が住めなくなったのだ。
動物は環境に適合できず絶滅し、人々は食料を求めて南へ移動した。 |
人類の拡散移動により細石刃文化始まる
この文化は大型動物狩猟用で、列島の動物資源の枯渇を招いた |
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南九州では、
①半島経由細石刃文化
②南方系丸ノミ文化
③弓矢に土器の縄文文化 |
がサツマ層以前にあった。 |
最下層に彫器を伴う細石刃
次層に磨製石斧と縦長剥片細石刃
上層に石鏃を伴う新石器文化 |
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桜島火山の噴火
11,000年前、姶良カルデラの外輪山の桜島が噴火し南九州一帯は最大2mの火山灰に覆われ、細石刃文化は壊滅した。(サツマ層)
しかし、時代圧力はもう次の時代文化が迫っていた。
弓矢と土器の文化を持つ次世代人。つまり、新石器人=縄文人がやってきた
桜島火山灰の降灰量
サツマ層 11,000年前の桜島火山の降灰層 |
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16旧石器時代の暮らし
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・アフリカで現在も新石器時代の生活をしている部族は、移動には毛皮の敷物だけ持って移動するそうだ。
・テント材の大量の皮革は使役動物がないと運搬不可。現在、シベリアの少数民族は馬で運んでいる。
・石器や骨器は重要な生活必需品。捨てるはずはなく、遺跡から出土するのは、その住居の人々は絶滅したか大あわてで逃げたのかもしれない。
・いったんなくしたらコンビニでは買えない。入手困難 |
水迫遺跡の旧石器時代の住居跡1万5000年前の遺跡 |
住居
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石器
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調理
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17旧石器時代の道具と遺跡
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20縄文と弥生
21土器と石器
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考古学黎明期、中央では、縄文土器をアイヌ式土器と呼んだ。弥生人とは、同時代で別民族の土器だと考えられていた。
橋牟礼川遺跡の発掘によって、開聞岳の火山灰の下から縄文土器が、上から弥生土器が発掘され、時代のあとさきだと証明された。
しかし、初期モンゴロイドと、後期モンゴロイドという、民族の違いも事実である。
弥生町の土器は弥生式土器→弥生土器だが、縄文土器は、索文土器→アイヌ式土器→縄紋式土器→縄文式土器→縄文土器
なぜ土器に「式」をつけたのか。式=定まった・決まったの意 |
縄文と弥生 |
縄文土器と弥生土器 |
上段 弥生土器
下段 縄文土器 |
縄文土器市来式土器
大森式土器 |
縄文土器
称名寺式土器縄文
山ノ口式Ⅰ土器弥生 |
弥生土器
中津野式土器
山ノ口式土器 |
弥生 甕棺
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22水迫遺跡
水迫遺跡の悲劇
この遺跡が盛り上がらないのは、発掘調査に参加した学者の一人があとになって住居跡ではないと言い出したからだ。
で、にもかかわらず、遺跡の価値は変わらない。と言っている。意味の分からんことを言い出したので、こうなっちまった。
遺跡はある。ねつ造ではない。事実誤認をしている。でも、遺跡の価値は変わらない。意味わからん。???
関連リンク 01 02 03 04 05 ←住居跡を確認する調査報告書
旧石器学会は何を言いたいのだろう。住居跡でないならその場で言い、結論が出ないならあとでというべきだ。
かつて権威を楯にねつ造して回った経緯があり、このままだとその裏返しだと思われても仕方がない。
気弱でその場で否定できないのかな。かわいいおじいさんたちなのかな?そんな馬鹿なことはない。ゴリゴリの権威主義者たちだ。
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23縄文と弥生の食生活
縄文時代の食生活
縄文人は狩猟民。エスキモーと同じ。栽培に適した作物が列島に少なかったことが運命だった。
縄文後期からの気候変動期に、人口は最盛期25万人が晩期には7万人にまで減少。
豊猟を願う儀式や、人は強い子に育つよう、奇妙な儀式・祭祀や通過儀礼・抜歯などがおこなわれた。
気象現象で減る動物と植物食料。不安定な気候。地球の乾燥化。縄文中期以外は食べるのが大変な時代だった。
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24弥生時代の食生活
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弥生時代は気候変動の激しさによる政情不安定で戦乱の時代。
大陸や半島から逃げ出した、権力・経済力・武力をもった者が、
列島にやってきて自分たちの新天地=国・領土を作ろうとした時代。
縄文人は殺されるか、奴隷にされるかで、6~7万人しかいなかったところへ
10倍の70万人も押し寄せて、半島人の支配する世界になってしまった。
縄文人の生活に稲作りが加わっただけ、ではなく、社会構造そのものが封建的身分社会となり、
生き残った縄文人は、征服者に勝手に朝鮮半島の身分制度を押し付けられ、
奴隷として米は作らされるが、食生活で米を食べたりはできない。ヒエやアワや雑草の実の雑穀。
江戸時代までと一緒。支配者がコメを食い、農奴は草の実を食う。弥生から続く支配構造だ。
奴隷に武器は持てないから、狩猟などできるはずもない。カエル・ヘビ・昆虫を捕まえて食うしかない。
賤民としてある程度自由を得た者は、生きるために狩猟もできたかもしれないが。 |
弥生時代の食生活 |
石包丁石包丁。こんなもので1時間も作業してみ、指の皮がむけてしまうで |
磨製石鏃・石包丁薩摩石鏃は壊れやすい材料で作っている。奴隷が反乱用に作ったものかも。
大型は対人用。相手は青銅の鏃だが。勝ち目なし |
黒橋貝塚 |
貝塚剥ぎ取り |
黒橋貝塚剥ぎ取り
なぜかここに縄文中期の貝塚が混じっていました。
こんな展示の順序になっていたのか、
私が間違ったのか。
すみません |
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25縄文時代の建物を描いた土器 大園原遺跡
高床式建物 大園原遺跡出土土器の絵を具体化 |
縄文土器の建物図は珍しい |
写真はうまく撮れてねー |
建物を描いた土器写真お借りしています |
博物館の皆様の汗と忍耐の成果ですね |
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26縄文と弥生の装飾と装束 縄文時代の獣型勾玉は各地で異形石器として、用途不明に分類されていることが多い
縄文後期 市来貝塚ウミギク貝・タマキ貝・マルサルボウ貝製腕輪
骨製髪飾り、鹿角製腰飾り、玦状耳飾り、大珠 |
装飾 縄文時代権力や魔除け、呪術、装飾の目的
獣形勾玉は、他の地域では異形石器として正体不明のものとされている
弥生時代になって子持ち勾玉ともいわれる |
同一反復すみません |
装飾 弥生時代朝鮮半島の身分社会が根付き、身分階級によって装飾品も異なる。
髪飾り、管玉、勾玉、小玉 |
織物 縄文幅の狭いアンギン編みだけが縄文の織物だった |
たて糸の数が決まっているから、目の詰まった織物にはならない。
太い糸を使えばいいが |
織物 弥生原始機が登場
げんしばた
繊維植物の栽培や糸紡ぎ、紡錘車など付随技術も持ち込まれた |
縄文人の装い弥生の養蚕と絹織物技術の導入はかなり遅く、また、地方によっても異なる。
縄文の衣類は手拭いを繋ぎ合せたようなもの。ポンチョではなかった。 |
服や敷物を編んだ
縄文人
アンギン編みは、むしろやござを編む技術。壁にかけるのは当然か |
縄文時代に、
半島と列島にはコンスタントに一定数の渡来者があったにも関わらす、
なぜ、原始機が伝わらなかったのか。
刀子や三足土器など儀式具は伝わっている。
織物など女性の仕事は伝わらなかった。
渡来者は、男性ばかりだったのか。 |
大珠
きれいな石の真ん中に大きな穴が開いている。
楕円形の中央に大きすぎる穴が開いていると、これは王笏の握り手、宝珠です。
これは、実用品ではなく権威の象徴です |
弥生人が本国の半島と交易するために用いた交易品とは何だったのでしょう。
貝や玉製品だったのかそれとも、米だったのか。
高価値で運びやすいものはやはり宝飾品ではなかったのか。 |
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29弥生時代の復元住居
時代設定を調べてません。農具が見えることから弥生以降のようです。
朝から夕方まで、の一日をプロジェクターで光や色をコントロールして、演出しています。
見捨てられたような博物館だけど、なかなかすごい設備が整っています。
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漁網 |
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鉄鍛冶の作業場 |
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住居 |
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漁網 |
石錘 |
皮なめし |
夕方の漁網 |
日没 |
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30古墳時代 3世紀中葉~7世紀末 リンク
31心の世界
朝鮮半島から、銅剣、銅矛,銅戈、銅鐸、銅鏡などを祭神にする別々の集団が列島に渡ってきていたが、
戦いによって次第に淘汰され、最後に銅鏡崇拝の部族が支配者となった。
したがって、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸は破壊されたり、隠されたりして、銅鏡崇拝部族の支配を受け入れた。
いろいろなものが宗教的世界観を形作っていたのですね。
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三角縁神獣鏡何が受けたのかねぇ |
鏡の魔力 |
軽石製製品副葬品でしょうか |
軽石製陽石薩摩隼人のはでかいのに随分小型(笑) |
青銅製鈴馬具と関係あるかな |
蛇紋岩製丸玉・勾玉 |
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32古墳時代の道具 牛馬の導入 弥生時代末期。4世紀末から5世紀の初頭に騎馬も搬入された。
馬鍬跡(うまぐわあと)農耕の省力化が進み、開墾の効率アップのため |
耕す爪が複数をクワ。
一本をスキというが?
ウマグワ、ウシグワ。
ウマスキ、ウシスキ。 |
鋤先(木器の先につける)石包丁(こんな使い方? |
磨石、凹み石、叩き石半島文化の石臼とともに使用された調理道具。
インドなどで現在も使用 |
紡錘車(土・石・鉄製) 原始機が持ち込まれたことが理解される。 |
鉄製釣針、石錘、筒状土錘、双孔状土錘、たこつぼ |
磨製石鏃、鉄鏃 |
やりがんな、鉄斧、刀子 |
鉄さい、ふいごの羽口 |
古墳時代の「埴輪」が展示されていないが、
中央政府から、古墳や埴輪の作り方の指導に技術者を派遣し、文化統一が行われた。 |
ために、
日本中でよく似た埴輪が出土し、同じ形の古墳や縮尺の同じ古墳が見つかる。
また、言語の統一も行われたという。 |
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34古墳時代の土器
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土師器は弥生土器の製法を使った低温焼成の素焼きの土器。 庶民が一般的に使った土器。 土師器と須恵器 |
古墳時代人とはどんな人たちだったのでしょう
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縄文人がいるところに弥生人が来て、600年間の弥生時代。
弥生人がいるところに別の支配者が来て古墳文化を築き、450年。
弥生式土師器があるということは、弥生人はそままいた。 |
縄文人はもう消えてしまったのか?
縄文人は人種のるつぼに溶け込んだのか? |
では、奈良時代になって中央政権に反乱したのは、弥生人?
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隼人は弥生人だったのか?
それとも、弥生~古墳の1000年間も縄文人と弥生人は別々に暮らしていたのか? つまり、縄文人は温存されのか?
引用文献(人骨から見た違い)
引用文献によると、隼人には弥生人型と縄文人型が別々の集団で、居住地も別でいたという。
つまり、反中央、または、非中央の南九州人を、南の人という意味で隼人というが、
弥生人の中の、つまり、半島人の中の、中央とは違う別勢力の、縄文人と全く結託することもない非中央の人々も、
十派ひとからげに隼人といったのだ。
隼人とは中央の人間にはよくわからないので、南の人、敵対者、蛮族、てな意味でみーんなをそう呼んだようですね。 |
つまり、
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これらの弥生人と縄文人は1000年たっても融合することなく古墳時代に入り、
古墳文化人という、半島人武力集団に再支配されたということですね。
最下層に縄文人。その上に弥生人。その上に古墳文化人。古墳文化人の下に半島人の傭兵がいたという。
軍事力で制圧した者が地域豪族となり、これが後に大和政権に組したり、反抗したりする。
それは、出身が半島のどの地域かによるようだ。
すると、のちに、中央に反抗し、やがて奴隷として畿内へ送られた隼人と、地方豪族として朝貢を認められた隼人とは、別の民族だったのだ。
了解。私なりに了解。 |
薩摩の古墳時代のくらし |
古墳時代の土器 |
成川式土器成川遺跡は共同墓地。葬送儀礼の土器が中心 |
土師器≒弥生土器
土師器は奈良時代に、弥生土器は明治に付けられた名前。
ほぼ同じもの。 |
つまり、古墳時代とは
石室型葬送儀礼を持つ支配者の時代のこと。
庶民は同じ弥生人と縄文人。使う土器も弥生土器 |
古墳文化人、石室葬送儀礼と騎馬と鉄の文化人はどこから来たのか。
中国江南とも、新羅とも。
とにかく、文化人だった。伽耶で鉄を買い付けた |
同じ写真の反復
すみません |
古墳時代には鉄器や、馬など家畜の骨も多くなる。一方、弥生時代的な土器も出土する。 |
弥生当初は、縄文人を農奴とし、開墾させ、農地と領地を確保する。次に、戦乱と凶作の半島から70万もの難民が押し寄せ、被支配民となった。 |
この時点で土地や作物の争奪が起き、また、交通便利な地域では常に新たな移住目的の武力集団との戦いにさらされ、撃退や奪取の戦乱状態だった |
支配の順に身分が作られ、最下層に、言葉の違う縄文人。半島移民。武力集団。巫女。の半島式身分制度で安定した。
更にそこを支配しようと半島から大軍団が来た。 |
私は桜島で温泉に入った。老人ばかりだったが、身長は私より大きく、××もデカかった。
大変驚いた。みんなそうだった。
明らかに関西人とは違っていた。(凄っ!) |
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35古墳時代の交易
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43古墳時代の須恵器
五世紀の古墳時代中期に、
南部朝鮮半島(伽耶)から高度な磁器系の陶芸集団が渡来し、大阪のすえむらで生産を始めた。
この時期は全地球的な寒冷化によって凶作、戦乱、大量の餓死者、難民が発生した。
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44隼人
南九州の先住民のことである。 ここにある文献を眺めると、日本の他の地域の縄文人たちがどのような運命をたどったのかがわかってくる。
隼人に関しては鹿児島の人が良く研究していると思います。私は全く知らない。
朝鮮半島では、敗戦国民も、非戦屈服民も、支配されたものは、全て奴隷でだった。
何度か半島人と戦争を繰り返し、賤民の地位に。一方で南九州を属国扱いにし、支配国への朝貢をする身分の者もいた。 |
養老律令
隼人司という役所・官位隼人を管理する役所 |
隼人の分散先力を弱めるため、奴隷として畿内各地に分散させ、職業も限定した。
竹林の管理と竹製品の生産 |
木簡唐との戦争に敗れた倭国は朝鮮式呪術的政治体制ではなく、
唐の政治体制や文化を導入することにした。 |
律令制度への道
国家体制を整えることを急務とし律令政治の支配基盤を作り上げた |
隼人の長(おさ)を都に呼んで朝貢させ、被支配関係を強固にする。
やがて、律令体制の確立とともに不要となり、ただの被支配民とされた。 |
大宰府出土の木簡 |
朝貢の熊や鹿の毛皮 |
8世紀の隼人の抵抗律令制の導入に伴う騒乱 |
顛末 |
隼人の楯と剣 |
隼人関連年表 |
古文書 複製 |
朝貢の様子 |
薩摩国正税帳 |
中華思想の半島では、自分たち以外はすべて蛮族と考えていた。
①だから、今でも韓ドラの歴史物を見ると、半島の三国以外は、毛皮をまとい、毛むくじゃらで、乱暴でと描かれている。 |
②蛮族であるから攻撃して支配し、富を奪い、奴隷にし、殺しつくすという野望が、
正当化されていた。
××征伐とか、××統一など、単なる好戦的で領土拡張を狙う侵略者 |
朝鮮半島から列島にやってきた弥生以降の人間は、
飢餓と戦乱を避けてくる武装略奪集団。
次に、支配者・国家建設願望の殺戮集団。
更に、国家乗っ取り願望の大軍団だった。 |
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51律令制度の確立 9世紀
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52橋牟礼川遺跡
53ムラの様子
発掘された遺跡 |
埋もれた畑機械耕作のような大畝の畑の様子
こんな大うねは見たことない |
遺跡のジオラマ |
橋牟礼川遺跡の農業牛馬を使用した農業が行われた。 |
器の変化中央政権は古墳時代から地方を統制し、
ことば、はにわ、埋葬儀礼、食事、食器など |
甕形土器中央と同一のものを強制した。
職人を派遣して同じものを作るよう指導した。 |
文化の重層性
特大写真 |
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54貞観16年の火山災害 開聞岳の大噴火
平安時代貞観16年874年貞観6年8年の富士山の大噴火や、地球規模の大噴火など不安定な状況 |
三代実録に記録された噴火 |
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火山灰に埋もれた植物 |
立ち枯れた巨木の根 |
降砂の様子 |
倒壊した建物 |
朝廷に報告された様子 |
報告の道筋 |
加持祈祷で噴火対策 |
災害対策は神仏に頼るしかなかったんですね。 |
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橋牟礼川遺跡 縄文と弥生の区分を明確にした遺跡
55災害と遺跡 約2000年前の噴火によって縄文遺跡・橋牟礼川遺跡が埋没し、その後その上に弥生遺跡が形成された。
縄文の装身具と祭祀 「子持ち勾玉」と「はそう」は山口県下関市長府の忌宮神社と関係がありそうです。
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山ノ口式土器弥生時代中期
橋牟礼遺跡 |
指宿式土器縄文時代後期
大渡遺跡 |
弥生時代の装身具 |
子持ち勾玉 |
子持ち勾玉の分布半島南部の民族が持ち込んだ文化。日本中に散在。 |
はそう と 高坏
須恵器はそうの漢字 |
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63ジオラマ
橋牟礼川遺跡(縄文~平安までの重層遺跡) の各時代のジオラマが次々と出てくる。
日本のポンペイと言われ、開聞岳の火山灰の下から各時代の様子が克明に発掘されるからです。 素晴らしいジオラマです。
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