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目
次 |
01外観
02入口展示
船を刻んだ謎の石
03線刻石
※線刻石について
10常設展示
11朝鮮半島北部の弥生石器
※考察 3穴石包丁
※考察 咸鏡北道の磨製石器
20豊前市の遺跡
50旧石器時代
51豊前市域の旧石器時代
53石器
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100縄文時代
101豊前市域の縄文時代
110石器
113玉類
120土製品
121土器
125土偶
131異形高坏
150弥生時代
151豊前市域の弥生時代
153石器
158玉類
160弥生土器
163鉄製品
166武器形祭器 |
200古墳時代
201豊前市域の古墳時代
203小石原泉遺跡
231子持ち勾玉と玉類
235土笛
250豊前市域の古墳
251黒部6号墳
300古代
300国家の成立から貴族文化
301豊前市域の奈良・平安時代
303火葬墓出土品
320中世・戦国時代
323平安時代遺物
330山城
333 大村天神林遺跡
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340近世
340江戸時代の交通
341豊前市域の江戸時代
343埋葬墓出土品
350甕棺
352蛸壺
400中津から小倉へ |
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00 |
01外観
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2020.11.25時点での外観はかなりの老朽ビルでした。
展示物も少ないのですが、
驚くべきものが展示されていました。 |
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02入口展示
船を刻んだ謎の石 中村西峰尾遺跡
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この線刻石は、求菩提山から周防灘へ延びる丘陵の先端頂部に位置する中村西峰尾遺跡より発見されました。
線刻石のほかには、約8000年前の縄文時代早期の遺構も見つかっています。
また、この場所には明治から昭和期にかけて競馬場があったと言われ、楕円形の馬場の一部が残っています。
線刻石は長さ1.56m幅1.20m厚さ0.84mの安山岩自然石で、大小2艘の船が描かれており、大型船は帆装で、小型船は引き船の様に見えます。
これらは使用状況や目的、描かれた時期など不明な点が多く、今後様々な事例との比較検討が必要です。 |
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船を刻んだ謎の石
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紙で隠れています |
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縄文時代にこんな構造船があったら凄い。
しかし、スンダランドから南西諸島、列島太平洋岸を漕いで、文化を伝播した人々の船が、ただの丸木舟ではないだろう。戦前には沖縄からインドネシアまで潜水夫のため沖縄の丸木舟、サバニで行き来していたのだから、唯の貸しボート屋のボートそのままではなく、帆も張り、オールも食料も水も日除けもそれなりに装備されていただろう。神津島の往復だってそれなりの装備が必要。この船は縄文船だったら面白い(^^♪ |
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03線刻石 中村西峰尾遺跡
※線刻石について
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引用「東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告15」(P53 Ⅴ中村西峰尾遺跡の調査報告 P90線刻石)) 中村西峰尾遺跡地図
結論から言いますと、遺跡は縄文から近世までの複合遺跡で、線刻石は多面に彫刻されていることから、古墳内の線刻画ではなく、線刻は細い鉄器、鉄鑿で彫られています。
付近に落ちていた古銭から、おそらく近世のものと思われるが、未だ結論は出ていない。 ましてや縄文時代などではないことは明らかである。
ただ、山の上から船を眺め、付近の岩に線刻したのは、ただのいたずらや落書きにしては執念深すぎる。あまりにも丹念だ。
タガネと金槌を持ってきて、親しい人の乗る船を刻みつけて、航海の無事安全を祈ったのかもしれないし、難破すれば二度と見ることができない船をいとおしく刻んだのかもしれない。付近に落ちていた古銭は賽銭かもしれないし、線刻画とは無関係かも知れない。
彫刻家の腕は確かなもので、線彫りの技術も、岩の各面を巧みに利用した構成も卓越している。ただし、同一人が全て描いたかどうかはわからない。 |
線刻石1
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長さ1.56m、幅1.20m、厚さ0.84mの黄灰色~灰色地肌をした安山岩自然石である。角の取れた 6 面体の扁平な直方体をなし、人工的な加工はない。
A 面の線刻画は側面にあったためか、明瞭な図柄である。線刻画は、80×50㎝の菱形状平滑面に、小船と張った帆をもつ大船が上手く収まるよう構図されている。線刻の太さは
1 ~ 2㎜、深さは 1㎜前後の浅いU字状で、風化度も古い。線刻は鋭利な金属によるものであろう。これは他の 4 石についても同様である。
線刻画は大小 2 艘の船が描かれ、正面左手の小船は全長 17.2㎝、胴部幅 2.6㎝を測る。小船の右先端は尖り、こちらが船首であろうか。左の船尾は角状に収まる。小船の右には大船が描かれ、その間を
10㎝長の綱で繋いでいる。曳航しているのだろうか。
大船は全長 39.4㎝(舵を含むと 42.5㎝)、総高 28.5㎝、胴部最大幅 10㎝を測る。右端部に舵が取り付くので左向きの船首であろうか。船首はゴンドラ風に反り上り、ずんぐりとして端部は水平幅広となる。右向きの船尾は次第に細くなり、船尻には一辺を斜とした長方形の舵が付く。胴部上縁には6本の水平線と20本弱の斜線が引かれ「垣立」状の斜格子が作られる。胴部甲板には帆柱が立ち、複線で描く帆は右に膨らむ。また、帆柱頂部からは船首船尾に向かって伸びる操帆用の綱が複線で表現されている。線刻石
1 A面線刻画は極めて写実的な図柄である。
B 面線刻画 一方、上面下半の B 面にも 100×45㎝平滑面に船の線刻画が描かれている。線刻面が天を向くため風雨に晒され、全体的に朦朧としている。船は全長
86㎝、総高 40㎝と A 面船の 2倍近い大きさであるが、多くの線が入り乱れ部位が分かりづらい。 |
線刻石2
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発見時の線刻石は横位に座った状況で、平面は長さ 1.2 m、幅 1.1 mの方円形であった。当初、西向き上面の船画(A 面)のみと思っていたが、地中に埋もれた底面付近にも線刻があることが分かり、実測終了後観察のため東へ引き起こした。その際の計測では、長さ
1.2 m、幅 0.9 m、厚さ 0.7 m、胴周り 2.7 mであった。重さは約 1t という。底面は表土中に 10㎝ほど埋没していた。安山岩の自然石。
A 面線刻画 A 面は 82 × 77㎝の平滑面に帆を張った船が 1 艘描かれるが、上面であったため他の2 面に比し線刻は風化し、見づらい。線刻は
2 ~ 3㎜幅と広いが彫りは浅い。船の全長は 68.5㎝、総高 55㎝で、胴部は上下二本線のみで表現され幅は 10㎝である。左端は細く尖り船首であろう。
右端の船尾はゴンドラ風に立ちあがり幅広で、屋方風になる。船尾には台形状の舵が付く。胴部上縁右半に長さ 47㎝、幅 3㎝の太い帆柱が立ち、左に膨らんだ上端幅
41㎝の帆が描かれる。帆下半は消えかかるが、中央には外径 16㎝の二重円の帆印があり、恐らく「木」と読める文字が円内に書かれている。文字長は
6.5㎝を測る。
B 面線刻画 B 面は地中に埋没していたためか風化が著しい。95 × 60㎝の平滑凸面に描かれ、この位置での船は全長 50㎝、胴高 15㎝で、左向きに船首があり、船尾には三角形の大きな舵が付く。
胴部には 60㎝超の帆柱らしき複線が 2 本 15㎝間隔で立つが、下端は船体を貫いている。帆柱周囲には左に膨らむ帆や操帆用の綱を表現する線もある。写実的な
A 面図と抽象的な C 面図の中間的な表現の線刻画である。線刻の太さなどは A 面と同じである。
C 面線刻画 C 面は 90 × 63㎝の平滑凸面に線刻画が描かれ、他の 2 面に比し抽象的な表現である。
この位置での構図は、右向きの船首が大きく反り返ったゴンドラ形の船に見える。とすれば左の船尾にあるのは舵であろうか。舵を除く船全長は 72㎝、総高
70㎝、胴高 10㎝となる。胴部には帆や帆柱を表現するような軟弱な垂直線が 10 本近く立つ。線刻の太さは A 面とほぼ同じである。また、B
面と C 面の境にも全長 18㎝、総高 15㎝の帆柱を立てたような小型ゴンドラ船が描かれている。 |
線刻石3
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線刻石 3 は標高 67.8 m付近の里道に転がっていた。底辺 0.42 m、高さ 0.32 m、厚さ 0.19 mの三角形板石で、断面は台形に尖り不安定である。
灰白色の多孔質安山岩で、重さは 30㎏前後であろう。
側面には新しい剥落面がある。石上面の平滑自然面に、25 × 21㎝の外枠を描き、その中を縦横 6~ 7 本の線で区切って不整方形の格子目を作る。升目は
6 × 6 であろうか。ただ、図示した上・右辺は不鮮明である。線刻は幅1~2㎜で彫りは浅く、線も歪んでいる |
線刻石4
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5 個の線刻石中最も低い標高 60 mの斜面中腹道路用地境にて発見した。側面には苔が生え半分埋没した状態であった。長さ 0.42 m、幅 0.34
mの方形板石で、厚さは 0.29 mを測り重さは 30㎏前後であろう。
黄灰白色安山岩の自然面に線刻しているが、側面の一部にはノミで割ったような黒灰色剥落面が 4 ヶ所ある。線刻は幅 1㎜前後で、1 本だけ 4㎜幅の線が全体とは逆方向に引かれるが、風化度は変わらない。図柄は抽象的で、逆三角形の帆を張った船の印象だが、胴部は不鮮明である。船とすれば、全長約
25㎝、胴部高 4㎝で、逆三角形の帆は上端幅 27㎝、上下 17㎝を測る |
線刻石5
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長さ 0.18 m、幅 0.16 m、厚さ 0.07m の安山岩で、重量 3.4㎏を測る。
台形をした板石の表裏二面に線刻がある、表 A 面とした平滑面には、一辺 9.5㎝四方の正方形を縦横3本の直線で分割して 4 × 4 の升目とし、その升目に対角線を入れて各升を三角に区画した線刻石で、対角線格子文ともいうべき線刻石である。
裏面とした B 面の線刻は、底辺 16㎝、高さ 13㎝の自然な三角面に描かれるが、凝視しないと気付かない。実測図は強調したものである。
ただ、意識して見ると A 面同様の構図に見える。外枠は 9 × 9㎝で、方眼を切る線や対角線は途切れている。
また、見方によっては全長 13㎝、総高 12㎝の三角胴体の船にも見える。線刻は A 面より太いが浅い。
板石の表裏面は黄灰白色を呈する自然面で、図示した左辺と下辺は割れ口が灰色で新しいが風化は古い。
自然石の二辺を割って方形に仕上げたものか。線刻は 1㎜強で、彫りは深く明瞭である。
同じ格子文でも、線刻石 3 がフリーハンド状であるのに対し、この線刻石 5 表A面の格子文は定規で引いたような端正な線で、規格正しい構図の格子文線刻石である |
線刻石5 |
引用ページ105-106に掛けて解説されているが、
以前、南太平洋のミクロネシアか、ハワイで、かつての島嶼間航海時代を再現する実験があり、当時の舟が再現され、ヤシの実などを積んで航海した。その際に用いられた海図が、この格子状線刻と全く同じで、細く裂いた竹で編んだ、竹製で、方形の枠に細かい方形をつくり、その中に斜線に他家を組み合わせ、海図とした。それは、夜空の天文図で、向かう方角の夜の星の位置をこの格子の上に印をしてその方角に向かうようにしたという。
海図でありましょう。その意味で天文図ともいえる。 |
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10常設展示
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11朝鮮半島北部、咸鏡北道の 寒冷地の弥生石器 これは大発見です
朝鮮半島の磨製石器 辛島昌夫氏寄贈
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日本の縄文~弥生時代と同じ時期に朝鮮半島北部の寒冷地で使用されていた磨製石器です。
同じ器種の石器が日本でも発見され、稲作と共に製法が伝わったものと見られます。
この資料は辛島並樹氏の採集資料で、「昭和参年朝鮮半島咸鏡北道採出」との注記が残り、朝鮮半島北部の遺物と判明しています。 |
資料寄贈者 辛島昌夫氏 の父 辛島並明氏が収集したもの
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辛島氏と言えば、飛鳥時代に宇佐神宮を創設した氏族である。鍛冶の神とされ、後に宇佐神宮の大宮司となった宇佐氏と共に磐座信仰を三女神信仰にして祀る。
宇佐氏は戦国時代に途絶えたが、辛島氏はその後も繁栄した。そういえば私の大学時代の同窓生にいたし、テレビでよく見かけた名前です。
現在も華々しい人々です。 |
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硅化木
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刺突具
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石包丁 |
3穴の石包丁 |
環状石斧
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朝鮮半島の磨製石器
辛島昌夫氏寄贈 |
咸鏡北道
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磨製石斧
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石のみ
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※考察 3穴石包丁を推論する
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咸鏡北道の石包丁には、3つの穴が開いている。2穴の石包丁が一般的である。インターネット上で類例や論文を求めたが、見当たらなかった。
2穴では両穴に紐を通し、包丁の下で、4指を通して安定させ、親指で穂を押さえて切れ刃を当てて切り取る。
3穴目は、どのように使ったのだろうか。
もし1穴だと、紐を通して4指で下に引いて保持した時に、包丁の切れ刃部分が人差し指の上で起き上がって安定しない。ただし、長い紐をつけて印籠のように腰帯に巻きつけてぶら下げておくことはできる。つまり、2穴に通す紐は穂摘み時に包丁を安定させるため。中央の1穴は、石包丁を常時携帯しておくための紐通し穴ではなかったのだろうか。
つまり、咸鏡北道の石包丁は熟成時期の違う稲のため、田圃の中を歩いて熟成した穂を見つけては腰の包丁を引き寄せて摘み取っていたのではないだろうか。
ただ、この推論は間違っているかもしれない。もし長い紐をつけてホールドするためには、中央の穴は外側・縁側にあると便利。しかし、現物は2穴より内側にあり、ここに長い紐があるといかにも邪魔です。本当の使い方はどうだったんでしょう。推論してみてください。 |
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12咸鏡北道とは
咸鏡北道の位置 |
咸鏡北道と日本列島 |
咸鏡北道(ハムギョン-プクド かんきょうほくどう)
鉄などの地下資源に富み、スケトウ漁が盛ん。wikipedia。
朝鮮半島は大変寒冷で、冬の韓国でも北海道並だと聞いている。北朝鮮では-20℃は当たり前のようですから、ましてや、最北のこの地は、夏でも大変寒冷な地域です。
緯度的には北海道道南・秋田・青森付近ですが、日本海を流れる暖流と、シベリア気団の影響で、冬の気温も降雪量も全く異なります。
夏の気温が低く、稲作不可の稚内市と同じ。降水量は夏に多く冬に少ないモンスーン地域。
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気候の比較 ( ※気候グラフや表の引用元を失念)
咸鏡北道(稲作不可地域)
稚内市(稲作不可地域)北海道最北
羽幌町(うるち米北限)ただし、北限を名乗る北海道の町はほかにもある。
気温の比較
咸鏡北道-稚内市-羽幌町
(稲作不適)(稲作不可)(稲作北限)
7-8月の最高気温が25℃以上が必須 |
気温・日照降水量
咸鏡北道-稚内市-羽幌町
気候パターンは酷似
夏の気温不足 |
うるち米北限地士別市の気候
7-8月は25℃以上でうるち米栽培可
士別市では耐寒令品種としてもち米の栽培を奨励している
もち米北限は名寄市 気候 |
8月の平均気温
咸鏡北道 最高気温22℃ 最低気温15℃
最北稚内 最高気温22℃ 最低気温17℃
羽幌町内 最高気温25℃ 最低気温17℃
北海道内陸の最低気温の陸別町
1月の平均気温
陸別町内 最高気温-11.1℃ 最低気温-19.6℃
咸鏡北道 最高気温-5℃ 最低気温-14℃
最北稚内 最高気温-3℃ 最低気温-8℃
羽幌町内 最高気温-2℃ 最低気温-10℃ |
気温・日照とも同じ傾向である。
同等の降水量グラフがなかったため表を添付
咸鏡北道は7-8月に降水量が多く冬は少ない
北海道は1-8月少なく、9-12月に多い |
気候グラフから
現在の咸鏡北道はうるち米栽培不適地域です。
稲作用石器が使われた頃は気温が高かったようです。しかし、おそらくその期間は短く、やがて稲作適地を求めて船出したのでしょう。そして、
津軽半島に漂着し、稲作未開発地で人口が少なく、縄文人ともうまくやっていけたのでしょう。 |
※考察 朝鮮半島咸鏡北道採出の磨製石器
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稲作の歴史 朝鮮半島に稲作農耕が伝わったのはBC1500年頃(3500年前)とされる。
これは、紀元前1900~紀元前1500年前に山東省で栄えていた岳石文化(稲・雑穀栽培)が、紀元前1500年頃に侵攻してきた殷によって滅ぼされ、東に移動して遼東半島・朝鮮半島に逃亡することによって稲作が朝鮮半島に伝播しました。
遼東半島は北の寒冷地と言われるが、南方の米が実ることができた。やがて朝鮮半島北部に伝わった稲作は、半島内で栽培技術や灌漑技術、が普及し、環濠集落までできた。
抜粋・引用「最近の考古学のちょっと危ない傾向 遼東半島の稲作を巡る問題」
朝鮮半島と同器種の磨製農工具が列島から出土しているということは、山東文化と同じセットの稲作農耕具が少なくとも朝鮮半島に拡がり、東進・南下し・海を渡って列島に伝わったことになる。
咸鏡北道は北朝鮮北部の寒冷地で、その緯度は青森県津軽半島や北海道と同じである。
この時代に遼東半島よりもさらに北の、ウラジオストックに近い地域である咸鏡北道にまで水田稲作が広がっており、寒冷地順化したイネが栽培されていたことになる。資料からこの地域にも稲作の技術と共に同じ農耕具が伝播していた。
すると、咸鏡北道で選別された、寒冷地順化した種もみが列島に持ち込まれたということであり、青森県垂柳遺跡の水田稲作は、この地域から持ち込まれた品種と考えることができます。
これまで、どこから種籾が持ち込まれたのか、大問題で、サハリン経由などの意見もあったが、この問題はあっさり解決したように思えます。列島に大量の難民が次々と押し寄せた中に、半島北部からの渡来者もいたのです。彼らは郷土で作っていた稲籾をもってやってきて、その稲籾が津軽半島の垂柳遺跡にまでたどり着いたのでしょう。
垂柳遺跡は弥生時代中期末(約2100年前)の遺跡である。この時期大陸は戦乱の時代であり、難民も多かったでしょう。
この、とても小さな、豊前市埋蔵文化財センターで、こんな大きな発見があったとは、本当に偶然であるし大変な驚きです。しかし、まだ一般的にはこの事実は世間では評価されていないようです。
石包丁がない
ここで私がはしゃいていたのは石包丁を見つけたことです。石包丁は稲作農耕の代表的石器であり、欠かせないものだと考えていました。
そこで、この写真を青森県六ケ所村立郷土館に送り、出土状況を尋ねると、青森県の水田遺構からは石包丁は出土していないと回答されました。
アイヌはカワシンジュ貝の貝殻を包丁にしていました(貝包丁)。
では、青森稲作農耕民は、どのように穂摘みをしたのかと尋ねると、縄文時代以来、腰に下げていた石匙がこれに代わったのだそうです。
従って、咸鏡北道と同じ石包丁が出れば、そこから垂柳に移住したことになるのですが、全くダメでした。新発見ならず~
ただ、この形の3穴石包丁はとてもデザイン性がよく、どこかで同じものが展示されているかもしれません。多くの日本の博物館を巡ってきましたが、私はまだ発見していません。皆さんご存じでしたら教えてください。
岩木川と稲作 以前、申しあげたとおり、青森県に持ち込まれた稲は、早生品種。北部九州のは晩生種で、別の品種です。晩生種から早生種は生まれません。
きっと北朝鮮北部やウラジオストク辺りから舟で漕ぎだし、天然良港の津軽半島十三湊に辿り着き、おそらくその辺りの広大な湿地で稲作を始めたのでしょう。
しかし、ここに流れる岩木川は超一級の暴れ川。近年まで大変な水害をもたらし続けました。
ここで水田を開いたならば、非常に短い期間で大水害に遭ったことでしょう。
農耕民が水田を流されると丸一年以上飢餓に苦しみます。そればかりか、住居や村人も流されて、人的被害も大損害をこうむります。
寒冷地・豪雪地の津軽半島では、その年の冬は越せないかもしれません。このとき、生き残った人々は、全滅の危機からどう脱したのでしょう。
ところがこの難局に対して、彼らは水害の少ない上流を目指して移動し、垂柳で一から生活を建て直したのです。
いったいどのようにして、迫り来る豪雪と寒冷と飢餓を乗り越え、翌年の春までに小さな田圃を開墾して稲を植え、そして、田植え後は、翌年の作付けのための水田を開墾し、収穫の秋まで、持ちこたえたのでしょうか。
石匙の機能
さて、垂柳農耕民が腰に下げていた石匙について考えます。(何度も同じ内容を書いています。)
石匙は、エスキモーが使うナイフのウル と同じ機能を持っています。おそらく狩猟採集民にとって必須の道具だったでのしょう。
動物の皮を剥ぐときも、肉を切るときも、野山で植物を採取する時も、常に使い、腰に下げておくことで両手が使え、いつでも手に取ることができる。
石包丁よりは遥かに便利で切れ味の良い、道具でした。
つまり、垂柳稲作民は、縄文化した弥生人か、弥生化した縄文人だったともいえます。(縄文生活化した弥生人)
高度な土木や灌漑技術を持ち、稲作農耕を行う一方で、縄文人と同じく、狩猟採集民でもあったのでしょう。
石包丁がなくなった日
では、いったい青森稲作民はいつから石包丁をなくしたのでしょうか。
縄文化の始まり では、その始まりはいつからなのか。
①大陸にいた時からなのか。
寒冷地から来た稲作農耕民は、しかし、完成した技術と道具を持っていたので、石包丁は携えていたはずです。
まさか移住先では石包丁が不要などとは思っていなかったでしょう。
②肥沃な十三湊周辺の低湿地で大水害に遭った時。
この地域の水害はすさまじく、おそらく人も村も水田も一晩で跡形もなく押し流されてしまっただろう。すると残された人々はどうしたのか。
・狩猟採集民に変化した。しかし、水害で全てをなくした農耕民が、今日食べるものがないからと、いきなり山にでかけて狩猟採集を本格的に行うことができただろうか。それは無理な話である。
・十三湊に漂着した時から水田開発を行う一方、漁撈を行った半農半漁民だったが、「きのみきののまま」の彼らが、いきなり、縄文人のテリトリーに入って狩猟を行うことは不可能だろう。農耕民は、縄文人と交わり、縄文人の中に入って共同生活したのではないだろうか。
そして、いったいいつから腰に石匙をぶら下げるようになったのでしょう。
縄文人との出会い
十三湊(十三湖)周辺の砂州の上には車力村などの遺跡があり、縄文人・弥生人が住んでいた。
大水害の後、縄文人が彼らを助けたか、縄文人に頼ったのではないだろうか。
十三湖で水田稲作を始めたときに、彼らは敵対せずに良好な関係をつくってから農耕を始めていたのだろう。
そうしなければ、安心して農作業も居住もできない。いつ襲撃されるかわからないからだ。
縄文人との良好な関係のために、飢餓に直面した渡来人に、縄文人が手を差し伸べて面倒を見、村に招き入れて住処や食べ物を与えたのではないだろうか。縄文的生活習慣が身についたのはこの時ではないか。
そして、縄文人と共に狩猟採集の生活をし、腰に石匙をぶら下げて暮らすようになったのでしょう。
3穴石包丁を使っていた人々だとしたら、石包丁が石匙に替わったとしても特に違和感はなかったに違いない。
最大の危機を乗り越えた農耕民は、やがて、岩木川を遡り、垂柳の地で、大きな水田を開いて生活することができた。
ただし、その後、更に気候寒冷化のため、またこの地を離れ、八戸に移住するのです。
縄文化した生活
海洋漂流民であり、海人族であり、半農半漁民であった稲作農耕民は、海辺を離れ、津軽半島の奥地へと分け入っていく。
そこには白神山地に住む偉大な縄文人集落もあり、多くの縄文人が住んでいた。その中で彼らは低湿地を開発して農耕を始める。
つまり、海洋民の生活を捨て、山の人、狩猟採集の縄文生活を送りながら、稲作農耕を始めたようだ。
そして、ここに、
生活様式は縄文的だが、水田稲作技術は堅持することができた。
水害で生き残った弥生人の中には稲作や灌漑技術の知識を持った人々が残っていた。そして、種籾は残っていたかも知れないし、
それとも、流された田圃の苗が、岩木川河口で僅かに実っていたかもしれない。それを採取してきて、種籾としたのかもしれない。
垂柳の稲にはヒエなどの雑穀が沢山混じっていたのはこれが原因もしれない。
垂柳遺跡は縄文人と共に開発された水田遺跡だったと、私は考えたい。
そして、3穴石包丁は縄文石匙に変化したと思っています。
(-_-;)知らんけど
しかし、
以前、どこかで垂柳遺跡の稲作民は、当時の港だった、鯵ヶ沢や深浦に到着し、そこから垂柳に向かったという記事を読んだ気がする。
深浦は港だけれど、河口の低湿地帯がない。鯵ヶ沢は、強風、塩水の不毛の地であり、ここでは稲作はできない。そんなところで下船しない。
しかし、なぜ、最初から垂柳を目指すのか。あり得ない話です。誰か、最初から垂柳が稲作適地だと知っていたのなら別だが、そんなことはあり得ない。
また、垂柳から、南海産貝輪の石製模造品が出ていることから、南海産貝輪はこの地を経由して北海道に運ばれたという記述も見たが、沖縄から船で着て陸路で垂柳まで来て、またどこかで舟に乗って、、て意味わからんわ。そんな不合理な事しないでしょ。
また、十三湖周辺からは弥生時代の水田跡が見つかっていないという報告も聞いている。
ただ、岩木川の大水害は、我々の想像を超えるもので、昭和の大水害を見ても、古代以降の水田跡など消し飛んでしまうほどの災害で、それが現代治水工事のおかげで現在の豊かな農地に変わったのである。
有史以前から大水害が何度も何度も繰り返された岩木川水系では、弥生の水田など跡形もなく消えてしまったことでしょう。
子供の頃からちょくちょく水害で田圃が流されたのを見たことがある。普段は小さな谷川なのに、一旦水害が起こると全ての後背湿地を削り取り、田圃はたちまち河原になって跡形も残さない。ましてや超一級河川の岩木川なら、周辺一帯を全て押し流す水の勢いである。その理由は、青森県南部の火山地帯に降った雨水を全て集めて流れるからなのだ。以前、南アルプスに降った水を集めて流れる大河天竜川水系を書いたことがあるが、それ以上に凄いものです。
と、おもっている。 |
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20豊前市の遺跡
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30年表
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50旧石器時代
ヒトがいた!旧石器人の足跡を求めて
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約400万年前、サルはヒトへの進化を始めます。
人類の誕生です。
ヒトは十数万年前に日本列島に渡り、
北海道から九州まで石器文化が広がりました。
狩りと採集の時代がここに始まります。
マンモス・オオツノジカ・ナウマンゾウなどの大型獣を捕食するために、
ヒトは石や木や骨を使って道具を作りました。
最初は石を割っただけの道具でしたが、
やがて、彼らの道具作りの技術が高くなり、
素材選びや形にもこだわり、工夫を重ねるようになります。
石で作った狩猟道具を携え、人々は狩猟場へと移動します。
岩陰や簡単なテントで寝泊まりしながらの移動生活は、生きるための手段でした。
そんな人々の残した足跡を私たちは今、遺跡と読んでいます。
遺跡は古の暮らしを確かな証として私たちに伝えてくれます。
自然環境に影響を受けた時代。
自然と格闘し、自然にあるものを利用し、自然に合わせ、、
向き合いながら生活しました。
やがて、15,000年前に地球の温暖化が始まると、
それまでの厳しい自然環境が大きく変化していきます。
海水面が上昇し、内湾の砂浜や河口の三角州が形成されます。
このような自然環境に対応しながら、
人々は次の新しい文化へと歩んでいきます。 |
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51豊前市域の旧石器時代
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豊前市では荒堀大保遺跡で出土したナイフ形石器が約24,000年前のものと考えられ、豊前市で最古の旧石器資料です。
これに次ぐのが、青畑向原遺跡群の石器で、特徴から見て約20,000年前のものと考えられます。
ここでは何種類かの石器がまとまって出土していて、剥片尖頭器・角錐状石器・ナイフ形石器・スクレイパー・剥片などが確認できます。
これらは動物を捕獲するための槍であったり、料理をするための包丁のような石器だったりします。
また、石器を作った痕跡もあり、一定期間ここに住んだのかもしれません。
このほか、小石原泉遺跡・薬師寺塚原遺跡・吉木芦町遺跡・下河内大水口遺跡などが知られますが、
そのほとんどは単発的に石器だけが出土したものです。
つまり、そこに人々が住んだのではなく、狩猟をするための狩猟場だったと考えられています。
青畑向原遺跡では、約13,000年前に位置づけられるマイクロブレイド(細石器)という、組み合わせて使う石器も出土します。
この頃、長崎の洞穴では土器を使い始めた人たちが現れ、その文化は次第に九州各地に広がっていきます。
時代は土器を使い、弓矢を携え、ムラに定住する縄文文化を萌芽させていきます。 |
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人がいた!旧石器時代の足跡を求めて
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豊前市の旧石器時代
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53ナイフ形石器 旧石器時代
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55尖頭器
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57スクレイパー
角錐状石器
角錐状石器
青畑向原遺跡 |
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角錐状石器とは、サヌカイトやチャート・黒曜石・凝灰岩・頁岩といった硬質の石材を素材として、一端もしくは両端を尖らせ、断面が台形または三角形を呈する石器です。
... 石材はサヌカイトで、長さ7.04㎝・幅1.46㎝・厚さ0.75㎝・重さ8.4g、細身で鋭い先端をもち、丁寧に仕上げられています。
引用wikipedia |
細石刃
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100縄文時代
10000年に渡り続いた。日本文化の原点
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氷河期が終わり、森や海などの豊かな自然が支えた縄文時代。
人々は、移動生活から自然と共生した定住生活を始めます。
土器の発明は「煮る」という料理法を可能にし、
様々な種類の食材を食べることができるようになりました。
また、弓の発明は動物を獲ることを容易にしました。
シカ、イノシシ、クリ、クルミなどの山の幸、
マグロ、タイ、アワビ、サザエといった海の幸に恵まれながら
やがてソバ、ウリなどの栽培も始まります。
縄文人は動植物の特性や季節的な変化を理解し、効率よく利用していました。
このように安定した定住生活は、文化を想像するゆとりを生み、
自然と共生しながら独自の世界観を築き上げます。
土偶や火炎土器、ストーンサークルなどといった祈りの文化が培われていきます。
縄文時代の社会は基本的には平等社会で、
自然との共生を願い、豊饒への感謝を忘れず、安定した生活の維持を求めました。
そこには、万物の霊魂を信じ、物を大切にし、カミに送るなど、
今日まで日本人が伝えてきた、祈りの原型がありました。
ここに自然を崇拝するという、日本の原始信仰の出発点を見ることができます。
やがて、自然環境の変化と朝鮮半島から人々の渡来を契機として、
水田稲作を受け入れ、農耕社会への第一歩を踏み出します。 |
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101豊前市域の縄文時代
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豊前市では、当時の様子がわかるものとして、吉木・赤熊の遺跡から出土した約8,000年前の押型文土器と呼ばれる土器があります。
また、久路土樋掛(くろつちひかけ)遺跡では「落穴群」が発見されました。
これは獣道を通るイノシシなどを狙って丘陵尾根に掘られたもので、動物の生態を利用した縄文人の知恵を知ることができます。
京築(けいちく)地方では、約3,500年前から集落遺跡があちこちで見られるようになります。
これらの集落の特徴は、河川近くのやや高い場所に立地し、同時に存在する住居は多くて10軒程度と考えられています。
1軒に5人くらいが住んでいたとすれば、50人くらいの人がムラで生活していたことになります。
市内では、中村石丸遺跡と狭間宮ノ下遺跡がこの頃の集落遺跡として知られています。
また、河原田塔田いせきなどでは、約2,600年前の竪穴住居跡も見つかっています。
さて、小石川原泉遺跡ではドングリなどをアク抜きするための穴であるドングリピットが多数発見され、ドングリを磨り潰す石皿や磨石なども出土しています。
そして、この時期には、「注口土器」などの以前は見られなかった器型の土器や、
農業に使う土掘具と考えられている扁平打製石斧という石器、
さらに、祭祀のための土偶・石棒などの道具も出現します。
狭間宮ノ下遺跡では、多量の扁平打製石斧や注口土器、さらに石棒、球状石製品、陽石、勾玉といった装飾品も出土していて、豊かな暮らしぶりの一端を知ることができます。 |
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10000年にわたり続いた、日本文化の原点
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豊前市域の縄文時代
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103
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105縄文カレンダー
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村(ムラ)の生活(領域)
狩猟・採集 |
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家造り・土器作り |
貝料理(貝塚) |
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塩づくり |
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冬
冬は食料が不足する時期と思われがちですが、山から餌を探して人里近くに降りてくる動物を狩猟するだけでなく、渡り鳥も捕獲していたようで、貝塚から発見されています。 |
春
春は木の芽・根菜類など遺跡から発見されない食物も採集されていたことでしょう。しかし、これらの食物は保存が利かず、シーズン中に消費されたと推測されます。 |
夏
夏は、冬に次いで食料の確保が困難な時期です。このため、前年の秋に収穫していた木の実類を計画的に使用し、秋の収穫まで消費していたと考えられます。 |
秋
秋は縄文人にとって非常に重要な季節です。木の実等の堅果類を総出で収穫し、年間を通して食せるように地中深く埋めて保存する工夫がされていました。また、この他にもこの時期の幸が多く得られたことでしょう。 |
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10,000年以上続いた縄文時代には、人々は長い年月を掛けてこのような生活パターンを築き上げましたが、
弥生時代に入り、米作りを中心とした生活変化により、
人々の生活リズムは20世紀の戦後まで米作りを中心にした生活リズムへと変化し、現在はさらに生活リズムに変化が発生しているのでしょう。 |
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106短弓
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矢尻 |
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110石器 |
111
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黒曜石(姫島産)
小石原泉遺跡
縄文後期 |
打製石鏃 小石原泉遺跡
縄文後期
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扁平打製石斧 小石原泉遺跡
縄文後期
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土製紡錘車 小石原泉遺跡
縄文後期
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113管玉
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117石錘・石匙
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石錘
狭間宮ノ下遺跡
縄文後期 |
石錘 狭間宮ノ下遺跡
縄文後期
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石匙
永久笠田遺跡
縄文晩期 |
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石ノミ
狭間宮ノ下遺跡
縄文時代 |
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120土製品 |
121
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123
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125
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127
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129注口土器 狭間宮ノ下遺跡 縄文時代
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131異形高坏
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異形高坏
狭間宮ノ下遺跡
縄文時代 |
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深鉢
狭間宮ノ下遺跡
縄文後期
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深鉢
狭間宮ノ下遺跡
縄文後期
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深鉢
狭間宮ノ下遺跡
縄文後期
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150弥生時代
コメ作り、そして戦いの始まり
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インドのアッサム地方や中国の雲南省で始まった稲作文化が
沿岸沿いに朝鮮半島に広がり、あるいは東シナ海を渡って、
縄文時代の終わり頃、北部九州の沿岸地方に伝えられます。
コメ作りが本格化したことで、生活・文化のあらゆる部分が革命的に変化し、
稲作を中心とした農耕社会が作られました。
貯蔵用の壺形土器や煮炊き用の甕、食器用の鉢など
いろいろな器種の土器が作られました。
また、金属器の登場は、農作業の能率をアップさせる一方で、
高い殺傷力を持つ武器としての機能を際立たせました。
そして、コメという富の蓄積は、争いを生むこととなり、戦いが始まります。
中国の歴史書に「倭国大乱」と表現された時代、
人々は戦いによるムラの統合を繰り返し、やがてクニが誕生します。
その一つが女王卑弥呼の治める邪馬台国です。
縄文時代が約1万年かけて独自の文化を熟成させたのに対し、
弥生時代はわずか600年程度で急成長を成し遂げます。
時の流れは一気に加速し、やがて畿内で強大な力を持つ王権が誕生します。 |
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151 豊前市域の弥生時代
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豊前市の弥生時代資料が増えてくるのは、前期末(約2,200年前)の頃からです。
犬ヶ岳を水源とし、周防灘へ注ぐ河川の中流域の丘陵上に、集落が営まれます。特に鬼木四反田遺跡では、佐井川、岩岳川の両河川が集落を
囲む大きな堀の役割を果たし、戦いの中での緊張感のある時代背景を知ることができます。また、集落間で墓地を共有していたようです。
後期(約1,900~1,700年前)には小石原泉遺跡に見られる大規模な集落跡や、久路土日中遺跡の大型竪穴住居など、地域の中心となる集落の存在が確認できます。
また、稲作の本格的な導入と相まって、金属器が出現します。
鬼木四反田遺跡では、銅鉇(どうやりがんな)、銅鏡、銅鏃、中広型銅戈などの青銅器が出土しています。
さらに、河原田塔田遺跡でも墓から銅戈が出土しています。この銅戈は、細形銅戈と呼ばれる実用の武器で、折れた先端のみが埋葬された人の胸付近から発見されました。
また、喉元付近で、石鏃が出土した墓もあり、戦闘による戦死者の可能性が指摘されます。
銅鉇(どうやりかんな)と細形銅戈、銅鏡は朝鮮半島から輸入された約2,200年前のもので、日本で最も古い段階のものと言えます。さらに、鬼木鉾立遺跡では、「銅矛の耳」が出土しています。
また、小石原泉遺跡では中国から輸入された後漢鏡と呼ばれる銅鏡の破片が出土し、刀、鏃、(鉄)斧、鉇(やりがんな)、刀子、鎌、鋤、鍬などの豊富な種類の鉄器が出土しています。 |
青銅器をもつ意味
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稲作が本格的に行われるようになると、それと相まって金属器が出現します。
弥生時代の最初の頃の道具と武器は石や木を加工した石器・木器で、しばらくすると、それらを鉄や青銅が補うようになります。
青銅器は中期初めに剣、戈、矛の武器が移入され、まもなく生産も始まります。そして、鐸とともに武器型の祭器として大型化していきます。
現在までのところ、青銅器の原料の銅・スズ・鉛を日本で製錬していた証拠はなく、朝鮮半島や中国から素材を運んできて製品化したと考えられています。
また、実用の利器としては鉇(やりがんな・鍬先、武器しては初期の剣・戈・矛と鏃、装身具としては腕輪などが見られますが、それらは決して多く流通したわけではありません。つまり、祭器としては発達していますが、利器と武器の主体は石器と鉄器であったことがわかります。
青銅器を所有できた人は、地域の権力をもつ限られた人だったと言えます。
コメの生産が始まり、富の蓄積が可能となり、政治的な権力が発生する。青銅器はそうした社会の変化を象徴する物なのです。 |
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コメ作り、そして戦いの始まり
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豊前市域の弥生時代
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弥生時代集落
鬼木四反田遺跡
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青銅器をもつ意味
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153石器
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155
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石戈
鬼木四反田遺跡
弥生中期
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石戈完形
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磨製石鏃 鬼木四反田遺跡
弥生中期~後期 |
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柱状片刃石斧
鬼木四反田遺跡
弥生時代
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157弥生の遺物
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炭化米
河原田四ノ坪遺跡
弥生時代
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籾痕が残る土器
小石原泉遺跡
弥生時代
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投弾
小石原泉遺跡
弥生時代
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砥石
弥生時代 |
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158玉類 弥生時代
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160 |
161弥生土器
壺棺 伝 昭和町遺跡 弥生前期
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豊前市内で見つかった最古の弥生土器です。
底部のすぐそばに長径4.8cmの長円形の孔が焼成後に開けられています。
縄文時代より埋葬する際に用いられる棺等の土器や副葬品の土偶などは一部を故意に破壊して、埋葬されてきました。
そのことから、この壺棺の底部近くにある孔も焼成後埋葬されるときに故意に開けられたものであり、この壺が棺として用いられたことを示しています。 |
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壺棺
伝 昭和町遺跡
弥生前期
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穿孔されている
棺には水が溜まるので穴が必要 |
壺棺 |
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弥生土器
弥生土器 |
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この土器はあまり見たことがない |
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この土器に注ぎ口がついたものを吉備地方でよく見た |
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163鉄製品 小石原泉遺跡 弥生後期
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鉄製品
小石原泉遺跡
弥生後期
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摘鎌
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素環頭刀子
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鍛造鉄斧
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鉄鏃
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165
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166武器型祭器
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200古墳時代
権力者の登場 -古墳が築かれた時代-
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最高権力者が出現すると、国家が誕生します。
古墳時代は、首長たちが権力争いを繰り返しながら権力を集中させていった時代で、
まさに国家が生まれる直前の時期です。
そして、大和王権による強大な権力が、日本の広い範囲に及ぶようになります。
その象徴が、前方後円墳という巨大な古墳です。 (3世紀)
古墳とは権力者を葬るための墓で、いろいろな形のものがあります。
前方後円墳は大和王権と有効な関係を保つ首長にだけ許された墓の形です。
北部九州にその力が及ぶのは3世紀末のことです。
また、中国や朝鮮半島から移住した渡来人によって (5世紀)
最新の文化や技術が伝えられました。
土木技術や鍛冶、織物、紙を作る技術、文字、
須恵器という登り窯で焼かれた焼き物、金工技術などです。
そして、仏教という新たな宗教も伝えられます。 (6世紀)
仏教の伝来は寺院という建築様式をもたらしました。
屋根を飾る瓦、天高くそびえる塔、朱に彩られた金堂など、
始めて見る異国の文化に、人々は目を見張ったことでしょう。
しかし、九州の筑紫国造磐井の乱に見られるように、 (6世紀)
南九州の隼人、東北の蝦夷、の存在など、大和王権の力は万全ではなく、7世紀、(8世紀)
国家成立前夜、日本の国土はまだ統一されていませんでした。 |
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201 豊前市域の古墳時代
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豊前市の古墳時代に特徴的なのは、竪穴住居跡にオンドル状遺構と呼ばれる暖房施設を持つものが見られることです。
これは朝鮮半島由来の暖房施設と言われ、カマドの煙をそのまま外に出さず、長い煙道を壁などに沿って室内を巡らせる床下暖房のような構造です。
約2000軒の竪穴住居跡が検出された小石原泉遺跡では、弥生時代からの連続した集落が古墳時代全般にわたって営まれ続けます。
その中で、カマドを持つ竪穴住居跡が95軒検出され、その30%にあたる28軒がオンドル状遺構を供えていました。(半島人の巨大集落)
この割合からみると、非常に渡来人の影響が強かったといえるでしょう。
また、出土遺物で目を引くのが50点を超える鉄器類で、刀・鏃・鑿・刀子、鎌・手鎌・鋤・鍬など、様々な種類があります。(鍛冶工人)
6世紀以降、急速にに鉄製品が普及した様子がわかります。
一方豊前市の西側にある大村石畑遺跡と荒堀中ノ原遺跡は、同じ丘陵上に位置する遺跡です。(海人族の集落)
この丘陵したには、かつての入り江が深く入り込んでいたとされ、それを証明するかのように両遺跡からは、蛸壺・土錘(漁網錘)などの漁労具が出土しています。
この他にも、大村石畑遺跡では、カマド封じの祭祀に伴うと考えられるミニチュアの土器や土製の模造鏡なども発見され、当時の信仰を知ることもできます。
荒堀中ノ原遺跡では、滑石製の玉類が出土し、中に「子持ち勾玉」と呼ばれるものがあります。
ふつうは大きめの勾玉にさらに小さな勾玉が付けられた形のものを指しますが、これは略半円形の石板に3ヶ所の切り込みを入れて子持ちを表現した、非常にシンプルなものです。素朴でユーモラスな雰囲気さえ感じる秀品と言えるでしょう。 |
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203 小石原泉遺跡 古墳時代
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205小石原泉遺跡 古墳時代
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鉄ヤリガンナ
古墳後期
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U字形鋤先
古墳後期
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鎌
古墳時代
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鉄製鋤先
古墳時代
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摘鎌
古墳後期
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刀子
古墳後期
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207土器
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209土器 no caption
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211土師器
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230 |
231子持勾玉と玉類
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233玉類
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235土笛 小石原泉遺跡 古墳前期
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最古の楽器として世界の各地で出土しています。日本では縄文時代から見られ、豊前市では古墳時代の遺跡から土笛が出土しています。
音楽を奏でて楽しむ楽器というより、祭具として使用されたのではないかと考えられています。
縄文時代の土笛には息を吹き込むための「吹き口」が一つだけであり、表面に模様があるのが特徴です。
弥生時代の土笛は「吹き口」の他に指で押さえる孔が数個開いています。表面に模様はありません。
笛の他にも石や木を叩いたり、擦ったりしていろいろな音を奏でていたのかもしれません。 |
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土笛
小石原泉遺跡
古墳前期
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※この土笛は、鋭い一音しか出ず、音楽に使えただろうか。
音階の出る土笛とは明らかに異なる。
警笛のようなものや、合図や、脅しに使ったのかもしれない。
木や石を叩いて音階やリズムをつくったかもしれないですね。 |
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237
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250豊前市域の古墳
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市内の古墳は幕末から昭和にかけて、港の建設や鉄道の敷設のためにほとんど破壊されました。
しかし、わずかに残された古墳の中に輝きを放つ宝がありました。黒部古墳群です。(6世紀後半~7世紀中頃)
発掘した6基の古墳の中でも、6号墳は、横穴式石室の側壁などに線刻画が描かれている「装飾古墳」です。
そこには5艘の船・靭(ゆき)円文などが描かれています。
興味深いのは船の描写です。船首と船尾は描きわけがなされ、複数のマストや多数の櫂、そして船室が存在し、さらに風を受けた帆が表現されているものもあります。
当時の交通手段として海上交通はとても重要なものでした。付近は「舟入(せんにゅう)」という地名も残され、周防灘を一望できる古墳の上に立つと、
ここに葬られた人物の役割がわかるような気がします。
また、古墳の種類の一つに横穴墓と呼ばれるものがあります。丘陵の崖や斜面に横穴を掘り、お墓とした埋葬施設です。
市内には「平原横穴墓群」が知られ、凝灰岩の崖面に、3段の列で並ぶ19基を確認できます。(6世紀後半~7世紀中頃)
豊前地方は横穴墓発祥の地と言われ、最古の横穴墓とされる。行橋市の「竹並横穴墓群」や中津市の「上ノ原横穴墓群」が有名です。
豊前市はこの両者に挟まれた場所に位置していますが、竹並、上ノ原とは基本的な構造が異なり、同一エリア内での文化の違いとして興味深いものです。 |
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251黒部6号墳石室 黒部古墳群 古墳時代後期(6世紀後半~7世紀中頃)
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調査時点で墳丘の上部と石室の天井石はすでに失われていました。石室は複室構造と呼ばれる玄室と羨道の間に前室を持つ横穴式石室です。
石室の全長は8.2m玄室の床は玉砂利を厚く敷き、前室は床に30cm大の平石を敷き、その上に玉砂利を撒いています。
羨道は入口に向かってやや広がっており、床には30~40cm大の石を据えています。
図は6号墳の玄室左側壁に描かれているもので、密集して5艘の船が表現されています。 |
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豊前市域の古墳 |
横穴式石室
黒部古墳群6号墳 |
黒部6号墳 線刻図
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こんな絵が描かれています。 |
左上の図(青線)
ゴンドラ風の船。船首と船尾を描き分けています。帆柱と多数の櫂もあり、船室の様な部分も見えます。 |
右上の図(紫線)
帆を張っており、帆柱が弓なりになっているわ臼から、帆走中の印象を受けます。 |
左下の図(赤線)
ゴンドラ風の船首がT字形になっています。高い帆柱の中ほどからは横広の帆が張られており、甲板上には櫓と船室が表現されています。 |
※横斜めに帆を張るのは、インド洋のダウ船ですね。 |
埋葬施設
平原横穴墓群 |
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253黒部6号墳副葬品
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255黒部3号墳副葬品
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鉄鏃 |
馬具
黒部3号墳 後期 |
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雲珠
黒部3号 後期 |
杏葉
黒部3号 後期 |
馬具名称 |
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257黒部古墳群
玉類
水晶・瑠璃・ガラス制
黒部2号・7号
古墳後期 |
堤瓶
黒部2号 後期 |
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259黒部古墳群 須恵器 古墳後期
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古代
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300国家の成立から貴族文化
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710年に平城京に遷都して始まる奈良時代。(8世紀)
天皇を頂点とした政治機構を整え、国家を成立させた時代です。
日本初の憲法と行政法である大宝律令の制定や、租税制度が確立され、(701年)
国ごとに国衙や郡が置かれるなど、律令国家としての体制が整えられます。
九州には大陸との窓口として大宰府がおかれ、
西海道を通じて九州の地を統括しました。
地方でも条里制による土地の区画整理事業が行われ、官道の整備も進められました。
平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には
郡を構成する単位として郷(里)名を列記していますが、
その郷名の大半は、現在なお町村名や字名に残っています。
794年に都が平安京へ遷都し、平安時代が始まると、(8世紀末)
中央政界では貴族が政治の表舞台に登場します。
国を治める方法は、律令制の基本であった人別支配体制から、
土地を対象に課税する体制へと大きく方針転換します。
このため、土地経営や人民支配の権限を委ねられた有力農民層が台頭し、
彼らを統制するため、軍事貴族層や下級官人層が武士として成長していきます。
一方、唐の衰退と政情の混乱から、遣唐使が中止されます。
その結果、文化の主流は“唐風”から“国風”へと移行していきます。
また、平安時代中期には
日本古来の山岳信仰と外来の仏教、道教、陰陽道などが結びついて
修験道という神仏習合の宗教が成立し、全国各地に広がりました。
この神仏習合という多神教の考え方は、
日本独自の宗教観として今も受け継がれています。 |
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301豊前市域の奈良・平安時代
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現在の豊前市は、旧豊前国上毛郡の西部と築上郡の東部に当たります。
官道(今の国道にあたる)は、市域を東西に横切る形で通っていました。小石原泉遺跡と皆毛高屋代遺跡で、官道から北に延びる道路状遺構が見つかっていて、南北の平野部では、今も条里制の地割を見ることができます。
そして神毛郡の郡衙跡である大ノ瀬官衙遺跡(上毛町)や官人の居館跡と見られる遺跡などから、豊前国の律令体制の様子を知ることができます。
また大村石畑遺跡、久路土鐘撞田遺跡、久路土幢遺跡、荒堀大保遺跡からは、官人が正装するとき帯(革帯)に取り付ける青銅製の金具(銙帯)や石製の帯飾り(石帯)、円面硯など、役所などで使われる遺物が出土しました。こうした資料の発見は、付近に公的な施設や官人の住居があったことをうかがわせます。
平安時代後期、豊前には宇佐八幡宮の荘園として、山田荘も角田荘、黒土荘の名があったことが記録に残っています。
また、霊峰として古くから信仰の対象であった求菩提山が宇佐郡(大分県宇佐市)出身の天台僧・頼厳によって再興され、「一山五百坊」と称される一大勢力となったのも平安時代末期(12世紀半ば)です。末法思想が流布する世の中で、仏法を後世に伝えるために求菩提山でも多くの経塚(経典を地中に埋納した塚)が造られました。
また、小石原泉遺跡や赤熊三反田遺跡、赤熊花ノ木遺跡などから、在地領主の「居館」と見られる館跡や土壙墓が見つかっています。土壙墓の中には青磁・白磁などの中国から輸入した陶磁器や、鉄製武具・鏡などが副葬されたものも見られ、地域の有力者の墓であると考えられます。 |
荒堀火葬墓
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荒堀火葬墓は、豊前市大字荒堀~青畑にかけての丘陵上にあった奈良~平安時代の墓地遺跡です。
仏教の影響で遺体を火葬にして骨を納めた容器(蔵骨器)が発見されました。
ただし、遺跡自体は後世の開発によって破壊され残っていません。市内で発見された唯一の古代火葬墓ですが、蔵骨器の出土状態や発見時の状況は不明です。
荒堀火葬墓出土と伝えられる蔵骨器と上毛町の東下出土と伝えられる蔵骨器を市内の方から寄贈されています。
いずれも須恵器で、古いもので8世紀初め、あとは9世紀代と見られます。
平安時代の史書『続日本紀』によると、日本で最初の火葬は文武天皇4年(西暦700年)(8世紀初頭)とされ、豊前が全国的に見ても早い時期に仏教文化を受け入れていたことを示す資料と言えます。
さらに、市街の方から新たに荒堀火葬墓の出土と伝えられる蔵骨器1点が市に寄贈されました。 これも須恵器で、伝・東下出土蔵骨器に似た頸の短い壺型で、8世紀代のものと見られます。 |
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国家の成立から貴族文化 |
豊前市域の奈良・平安時代 |
荒堀火葬墓
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303火葬墓出土品
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革帯の官人と服装
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石帯、銙帯
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石帯
久路土鐘ツキ田遺跡
奈良末~平安前半
銙帯 奈良時代
1大村石畑遺跡
2久路土幢遺跡 |
左:緑釉陶器
左:灰釉陶器
奈良時代
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円面硯
荒堀大保遺跡
奈良時代 |
瓦
小石原泉遺跡
奈良~平安時代 |
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305
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蓋坏埋納ピット |
埋納ピット出土
蓋坏
小石原泉遺跡
平安時代 |
坏(土師器)
久路土幢遺跡
奈良時代
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307火葬蔵骨器
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荒堀火葬墓出土とされる9c代と見られる須恵器蔵骨器。この他に8c初頭頃と考えられる須恵器蔵骨器(高台付口長頸壺)が発見されている。
(新たな寄贈品とは別個体です)
※墓場をあばいて、気色悪い骨壺を盗むなんてどえらい人もいたもんだ。 |
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火葬蔵骨器
伝 荒堀火葬墓出土
奈良時代 |
火葬蔵骨器
伝 上毛東下出土
奈良時代
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火葬蔵骨器
伝 荒堀火葬墓出土
平安時代 9世紀
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320中世・戦国時代
戦国の世に生きる武士の時代
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日本の中世は、一般に鎌倉時代、(12世紀)
南北朝時代、室町時代、安土桃山時代のことをさします。
(14世紀) (14-15世紀) (16世紀)
鎌倉時代の日本は、京都の朝廷と鎌倉幕府によって2重に支配されていました。(1185-1333)
南北朝時代、室町時代は、半世紀にわたり朝廷が北朝と南朝に分裂する中、(1337-1392)
室町幕府が朝廷に代わり、その権力を強めた時代でした。(1336-1573)
安土桃山時代には内戦の中から戦国大名が登場し、(1568-1600)
地域での支配力を強めていきます。
このような「戦」の時代を代表する遺跡に、館と城があります。
これらは山の尾根筋や丘陵上など防御に適した場所に築かれ、
非常時の詰城つめじろであり、防御の役割を担うものでした。
後の大阪城のように雄大な天守閣を持ち、
殿様の権力を示すような「城」とは異なる、戦うための施設でした。
このように中世は武士が歴史の主人公として活躍した時代です。
一方で、東アジア各国と活発に交易した時代でもありました。
そして、日本人がヨーロッパの人々と出会い、
キリスト教などの新しい文化を知ったのも中世でした。
暗い戦乱の世というばかりではなく、
人や文化が活発に交流するにぎやかな一面もありました。
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321
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戦国の世に生きる武士の時代
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323平安時代遺物 小石原泉遺跡
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瓦器埦
青磁・白磁
小石原泉遺跡 |
穴の開いた土師皿
小石原泉遺跡
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青白磁合子
小石原泉遺跡
六道銭
小石原泉遺跡 |
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鏡
平安時代
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和鏡と木製容器残欠
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刀子
小石原泉遺跡 |
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330山城 |
331
山城
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山城は古代から築かれ、築城された時代によって古代山城、中世山城、近世城郭などと呼ばれます。
山城は攻めてくる敵から陣地を守るための防御施設で、石を積み上げた石塁、土を盛り上げて作る土塁、
斜面を横方向に削り、掘りのようにした堀切、堀切よりも傾斜を急にして深く掘られた竪堀などの遺構が見られます。
また、北部九州では畝状の土塁と堀がセットになって連続する畝状竪堀が特徴的に見られます。
山の尾根筋に築かれ山城が立て籠るための詰城であるのに対し、日常生活の場として低丘陵や微高地などに築かれた平城があります。
平城は館の周囲を堀や土塁で囲んだもので、約60m四方を基本として築かれたようです。
豊前は大内氏と豊後の大友氏の2大勢力に挟まれていることもあり、この地でも多くの争いがおこりました。
そのような非常時に備え、市域には多くの山城・平城が築かれました。
豊前市の山城は、南北朝時代から戦国時代に築かれたものが多く、そのほとんどが宇都宮一族によって築城されたものです。
その特徴は、宇都宮氏の本城大平城(築上町)を中心に扇状に延びた山脈の先端や尾根の中間に城砦じょうさいを構え、
戦の際には各城砦を尾根道で繋ぎ、情報の伝達がスムーズに郁容工夫されていました。地形を利用した合理的な配置と言えるでしょう。
市内の代表的な山城としては櫛狩屋城、郷城(畑城)、馬場城、雁股城などがあり、平城では市丸城、大村城、高田城などがあります。 |
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333 大村天神林遺跡 中世
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耳皿
中世
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耳皿の使用例 |
硯
中世
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燭台と燈明皿
中世後期 |
坩堝
中世後期
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瓦質鍋
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瓦質脚付鉢
中世後期
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笄
中世後期 |
刀装具(足金物)
中世後期 |
石臼
中世後期 |
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近世
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340江戸時代の交通
人の行き交う 海の道・陸の道
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江戸時代は、1600年の関ケ原の戦いから明治維新に入るまでの約300年間をさします。(17世紀)
徳川家康が江戸の地に幕府を開き、政局の不安と混乱が収まると、それまで戦いに明け暮れていた多くの武士は、
政治や商業などの仕事に就くようになります。
また、戦乱によって荒れた国土の整備も進められました。
土木技術の発展による大河川の治水、新田開発による生産力の向上。
武士の城下町集住や、参勤交代制度により生まれた巨大都市の膨大な需要。
幕府による度量衡と貨幣制度の統一、海運・河川舟運と街道の整備。
幕藩体制の下、経済は爆発的に発展し、高度成長が始まります。
こうして全国的に商品の生産と流通が活発になると、町人文化が栄え、
経済の発展と共に庶民の生活も向上し、多様な文化や学問が生まれました。
一方でキリシタン弾圧を契機として鎖国政策をとり、
独自の国づくりが進められました。
その結果、限られた国との交流の中で、
人々は海外の進んだ学問や文化を学んでいきました。
しかし、財政状況は慢性的に困窮していて、
飢饉なども重なり庶民の暮らしは決して楽ではありませんでした。 |
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341豊前市域の江戸時代
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豊前には、地域の歴史を記録した古文書が多数残されており、それらの多くは江戸時代の資料です。
その内容からは各村の戸口、村高、貢祖などの経済の様子、さらに地域の様々な日常の様子などを知ることができます。
このような古文書で確認される人々の日常の生活・歴史を裏付けるような資料が、考古学的な発見の中からも見えてきます。
中村ヒバル遺跡では経石状円礫や五輪塔などが出土していて、当時の信仰の様子を知ることができます。
さらに三毛門地区の市丸城居屋敷遺跡からは、水琴窟と呼ばれる庭園施設の一つが見つかりました。
これは、手水鉢の水落の場所を掘り下げて甕を埋め込み、水の落ちる音を楽しむもので、富裕層の邸宅跡があったのではないかと考えられます。
このように豊前の近世遺跡からは、当時の人々の精神世界や美意識などを知ることができ、とても興味深いものがあります。 |
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人の行き交う
海の道・陸の道 |
祭祀ピット
中村ヒバル遺跡 |
豊前市域の江戸時代
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343埋葬墓出土品
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350甕棺
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352蛸壺
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蛸壺は弥生時代に登場し、口縁部付近に紐通しの孔が開けられた形の壺は古墳時代に九州へ伝わりました。
豊前市で見つかった蛸壺も口縁部近くに孔が開いたものがほとんどです。
赤熊花ノ木遺跡では古墳時代の住居跡から発見されました。
その数はなんと約600個!写真にもありますが、まとまって出土しています。漁師さんのお宅か、道具をしまっておく建物だったのでしょうか。
展示している蛸壺はその時出土したものです。ちょうど手のひらサイズのイイダコ壺です。素焼きですが、厚手で上部です。
現在でもイイダコ漁では同じような形の壺を使って漁をするようです。 |
赤熊花ノ木遺跡
蛸壺出土状況 |
赤熊花ノ木遺跡
蛸壺出土状況
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400帰路中津から小倉へ
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