北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて06 2014.05.22(木)
小矢部ふるさと歴史館 富山県小矢部市埴生274 0766-67-8122 休館月曜・休日の翌日9:00~16:30 撮影可
遺跡名 |
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桜町遺跡 縄文中期末4000年前の高床建物の部材が出土 縄文晩期末2800年前の環状木柱列が出土 |
特徴 |
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谷川跡から全国初の加工材や道具。動植物の遺体が発見された。特に、建築部材とみられる加工材出土は全国初。 |
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時代 |
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縄文早期~江戸 特に縄文中期末~後期初頭(4000年前) と 後期末~晩期中葉(2800年前) |
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交通 |
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あいの風とやま鉄道線石動駅(いするぎえき)下車 駅の観光案内所でレンタサイクルを借りて、ついでに地図や観光案内もしてもらう。 |
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桜町縄文パークは北に1.5㎞ 駅南に小矢部ふるさと歴史館1㎞くらいだったと思う |
見所 |
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水場遺構から出土の木製品や木柱根 桜町遺跡の縄文時代の解説書 |
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感謝 |
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富山県少なくとも小矢部市は遺跡の発掘がよく進んでいる。そして、出土物を一般公開し、撮影可能にしていることは、 |
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考古学的興味を喚起し、一般市民の教養の高まりを促すものである。
これは、現在当然かもしれないが、福井石川愛知など、権威主義的で、大衆蔑視な、撮影禁止。見るだけ。中にはメモや模写も禁止。
「何人も県教育長の許可なくしてメモ・模写・写真撮影をすることを禁ず。」
などという、「おまえらなにさまやねん。」と、口汚くつぶやきたくなる自治体もある。富山県・小矢部市の取り組みは素晴らしいと思います。
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06富山の遺跡
小矢部ふるさと歴史館 |
自転車は無料レンタルの電動自転車。大変助かりました。深く感謝。 |
富山の縄文遺跡重要遺跡が多数ある |
小矢部の縄文遺跡 |
小矢部の縄文遺跡 北 |
小矢部の縄文遺跡 南 |
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09遺跡のできごと 引用桜町遺跡発掘調査報告書61.pdf縄文時代総括編(78.0MB)
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桜町遺跡の時系列変化と土器形式
・1万年以上前、谷口には湖沼が発達していた
・早期後半、押型文・貝殻文土器9180年前
・中期前葉に豪雨で黒土が流失し貧栄養度土に変化
・中期後葉に谷に木組みプール設置。木材加工開始
・後期前葉後半に水量増加で作業域を上流に移動する
・晩期中葉に、谷中に環状木柱列が作られる。 |
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出土した 土器形式の変化 と 出土区画
・早期後半 桜峠式(魚津市) 桜峠遺跡には高い文化があった
・前期前葉 佐波式(能登島)・極楽寺式(上市町)
北陸地域の土器形式が全て順に出土している。
大変広範囲の交流があったことを示している |
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07桜町遺跡の出土物 縄文時代中期末~後期初頭 約4000年前
Y字材
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ごあいさつ4千年前の木製品 |
桜町遺跡の出土品4000BP中期末~後期初頭と2500BP後期末~晩期 |
巨大木柱根4000BP5本の独立柱。
祭祀跡あり |
石斧の切削痕が |
石斧の切削痕 |
巨大木柱根 |
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08水場遺構 縄文時代後期末葉~晩期前葉 約3000年前
巨大木柱根これは、ただの立柱です。村の場所を知らせたり、アニミズムの標柱です。
4000年前 |
水場遺構
3000年前 |
水場の木組み堅果類の水さらし中に豪雨や土砂崩れで埋まったということか |
堅果類を水さらしした季節はずれの遅い台風が原因か、当時の不安定な気候は偏西風の蛇行が影響か |
現在の桜町遺跡 |
桜町遺跡の全貌中期末~後期初頭と後期末~晩期前半は千年も間があり、別部族と思われるが、暮らし方は似ている |
小矢部市の縄文遺跡狭い山間だが、以前は背後の森が豊かで、動植物・木材に水。交通の要所にあたったのでしょうか。
長い間村が非連続に営まれています。 |
現在も交通の要所 |
中期末4000年前谷口に遺跡。周囲に生活・祭祀の痕跡多数 |
遺跡見取り図寒冷化の気候変動期寒暖乾湿の中。
ここは一時的に食料確保にも便利だったのかもしれない |
後期末~晩期
3000~2300年前
遺跡は谷中に移動。環状木柱列を建設
土偶等祭祀具増加 |
水場遺構のそばに環状木柱列を建設
祭祀場と考えられた |
細長い遺跡
道路建設に伴う発掘による |
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10縄文土器
11初期 縄文時代中期末~後期前葉 約4000年前
縄文土器縄文早期~晩期末
8000~2300年前までの土器が出土
長く人の痕跡があった |
縄文前期、中期前葉、中期中葉の土器
左:極楽寺式6千年前中:古府式4400年前
右:中津式4000年前 |
縄文早期8000年前
回転押型文土器初耳の技法 |
縄文時代中期末~後期前葉の土器串田新式土器
4000年前 |
吊手土器orランプ型土器 |
注口土器、
有孔鍔付土器(中央高地で前期末~中期終末に盛行) |
紐掛け穴のある土器
火をともしても吊り紐が燃えない構造 |
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09桜町遺跡の縄文中期後葉の土器形式 引用 桜町遺跡発掘調査報告書61
中期後葉の土器編年 |
串田新Ⅰ式土器 |
串田新Ⅱ式土器 |
串田新Ⅱ式土器 |
串田新Ⅲ式土器 |
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14後期 縄文時代後期後葉~晩期初頭 3000~2300年前
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31木製品 縄文中期末~後期初頭4000年前
磨製石斧・斧柄・留め具
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楔くさび |
磨製石斧(蛇紋岩製=
堆積岩の変成岩)
堅くて粘りがある
斧柄(ヤブツバキ材)
数点の部品で取り替え、石斧保護。機能的構造 |
磨製石斧・斧柄・斧柄部品・留め具 |
磨製石斧・斧柄・楔
くさびが見付かるのは珍しいとある |
貯木場水付けされた材木の写真 |
水場④貯木場水付けで保管し加工しやすくして転用した |
作業用足場材の揚げ降ろしに使ったのかな |
水場②作業用の足場長さ10mにもなる水平の足場。 |
水さらし場堅果類の保存・飽く抜きに篭に入れたまま漬けた |
中期末~後期初頭の
水さらし場 |
土壙に埋納された
朱漆塗り土器桜峠遺跡から同様・同型のえな壷が出土している |
Y字材
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Y字材縄文中期末~後期初頭4000年前 片面だけ加工痕跡のある用途不明材 |
修羅に似ているがそのような痕跡はない。写真磨り減ってないでしょ |
出産用ベッドに使ったでもないし。 |
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胞衣壺(えなつぼ)
胎盤を入れた壷 |
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35高床建物 縄文中期末~後期初頭4000年前
高床建物の柱材 |
三つの貫穴のある材 |
三つの貫穴のある材
石製の彫器を使ってこれほど見事な穴をあけられるものなのかと思う |
貫穴
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貫穴
乾燥した木は硬くて穴などあけることもできない。
生木状態にしておく、とはいい考えです。 |
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この材を基にして全国の遺跡で高床建物が復元されているのに |
ここの高床建物は単に用途不明材とされた。 |
すると、全国の高床建物の根拠はなくなるのではないか? |
穴開き材が発見され、某教授が高床建物の部材と言い切り
、日本初の縄文建築の部材として脚光を浴び、
クロスランド小矢部に復元された。 |
しかし、現在では、単に穴開き部材として、それ以上には評価されない。
これは文科省からの指導で、高床建物とする根拠がないからだ。
高床建物は桜町縄文パークに戻された。 |
それにしても立派な木組み穴です。
そうとうな大きさの建物でしょう。 |
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39木製品2 縄文時代晩期中頃 約2700年前
環状木柱列の柱根
約2700年前 |
樹脂含浸の終了した柱根硬くて太いクリ材を木の楔で割るなんて凄い。
祭祀痕はなく、単に円形建物とされている |
柱根 約4000年前
木柱根。縄文人は住んでいる場所に柱や鏡石で目印にしたようです。 |
貫通した穴と欠込み部材
約4000年前
木組みをした痕跡という |
建築部材
縄文の木組み建築は画期的な発見でした |
木鉢・漆塗鉢 4000年前
木製片口鉢が模様付きで出土 |
堀り棒 約4000年前
木の皮をはぐ道具 |
柱根と貫通した穴と欠込み部材 約4000年前丸太の頭がほぞ穴に
はまる構造です |
貫通した穴と欠込み部材用途は不明 |
把手付赤色漆塗鉢と
堀り棒 堀棒は取り上げ時に折れた |
把手付赤色漆塗り鉢4千年前ケヤキ製 |
片口付赤色漆塗鉢
4千年前イヌガヤ
弾力性を求める器に使用 |
中央は木鉢の未成品 |
石斧柄の頭部
縄文後期初頭 |
堀棒全体像 |
堀棒 ムラサキシキブ |
ムラサキシキブは生花である。
こんなものが何メートルもに成長するなど、現代では考えられない。
自然あふれる縄文ならばこそである。 |
木材は適材適所に、
材の特長を生かして
使用された。 |
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41装身具
装身具
石や土製の耳飾や玉
漆塗り竪櫛(たてぐし)※ |
漆塗り櫛レントゲン
櫛の歯が差し込み式 |
漆塗り櫛
晩期3000~2300年前
結歯式竪櫛 北海道石狩低地産似の意匠 |
指輪状石製品 4000年前
縄文時代北陸特産
金属製の摸倣?
夏・商の時代中国から? |
桜町出土の装身具
耳飾・石製玉類・玦状耳飾・土製玉類 |
土製耳飾り 4000年前 |
石製玉類3000~2300前 |
土製玉類 4000年前
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玦状耳飾り6000年前 |
玦状耳飾り |
※櫛について
竪櫛は縦長の櫛
日本髪用・現在は横櫛
結歯式竪櫛
歯を別に作り、束ねて 結わえて漆で接着する
刻歯式竪櫛
材から歯を切り出した |
指輪状石製品
中国大陸とよく似た
玦状耳飾・三足土器・
刀子など権威の象徴品が摸倣されている。
権威を表す指輪型印章もまた、殷・商の人が渡来したのでないか。 |
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48暮らしの道具
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49奇跡のコゴミ
コゴミ |
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山菜のコゴミである
これが出土した時に、泥の中、無酸素状態で、緑の色を保っていた。
静かに水をかけ、泥を流すとみるみる緑間色は失われ黒くなったという。
ローマの、地下に密閉された遺跡を発掘すると、内部に塗ってあった赤色顔料が
開封とともにみるみる色が失われていくのを映画で見たことがある。それに匹敵する奇跡 |
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51祭祀
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55交流 北陸で西日本の中津式土器が発見される理由を述べています。
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中津式土器は
縄文後期初頭。瀬戸内の東寄りや近畿さらに 中部西域に認められる。
頸部がややくびれる深鉢形・鉢形土器や、口縁が直立もしくは内湾また波状を成す深鉢形土器に、文様集約部にむかう横位ぎみに奔放に走る区画沈線文に、磨消縄文・貝殼疑似縄文・刺突文を付すものを基調とし、条痕やへらみがきの器面をもつ無文土器、それに口縁端刻目を加味する土器などで総括されるものであり、明らかに東からの波及が観取できる。 |
桜町遺跡の縄文人の交流
縄文後期初頭の土器
縄文中期末にはすでに天候不順で沢山の北陸人が西日本に移住した。 |
交易の中津式土器
中津貝塚は岡山・倉敷市
北陸から温暖な穀倉地帯までやってきた。逞しく優秀な若者が移住し、里帰りに土産を入れた土器 |
中津式土器の分布
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サザエさん家
男2、女4、子供2
どんな家族構成か
←中部・北陸地方から九州まで食料難民が流浪したということです
実際には口減らしの棄民
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高床建物
発掘部材からは高床建物が連想される |
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71古墳時代 1700~1300年前
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砺波平野は日本の穀倉地帯。当時から高い収益性があり、支配者は大変な富を得、同時に大きな権力をも持ったでしょう。
埴生地区は石動駅 (いするぎえき) のすぐ南から西にかけて、桜町から1.5~3㎞ほど離れています。
縄文人は副葬品を壊してあの世に送った。死=壊れる・壊す。と考え、弥生・古墳期には壊さず、死者の持ち物としてそのまま送った。
これは、死生観が異なるからである。弥生・古墳人には死はもっと身近であった。
どちらも、死の世界は地下の世界。死からは再生すると考えた。記紀では生界死界を行き来するが、縄文人は再生は母体からの出産と考えた。 |
古墳の説明と 副葬品・供え物
若宮、谷内、関野古墳群
谷内(やち)はアイヌ語
縄文人の地名が残っている |
埴生地区の古墳群 |
小矢部の首長墓 |
若宮古墳全長約50m
竪穴式石室の前方後円墳 |
谷内16号墳 |
同一反復 |
槍がんな、鉄鍬先、鉄剣 |
石室ではなく、木棺をそのまま埋葬したようだ |
墓地祭祀の捧げ物用土器 土師器 |
竹倉島遺跡 畿内と密接 |
谷内21号墳72mの墳丘 |
これも割竹型木棺 |
三角板革綴短甲
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谷内21出土
頚甲と肩甲 |
矢柄と鉄鏃 |
短甲の前胴 |
後胴 |
短甲の出土状況 |
三角板革綴短甲復元 |
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革草摺鎧の裾 |
関野2号墳鉄刀 鉄剣 鉄短剣 鉄鏃
滑石製小玉 |
支配者は古墳時代に渡来した騎馬のない武人が弥生時代の支配者を屈服させたことになる。
高句麗系の横穴墓と違って直接墳丘に埋める |
石室のない墳墓で、
長野や関東、東北の竪穴石室とも違う。別民族。 |
若宮古墳5代目の王埴輪を伴う前方後円墳
6世紀初め頃築造 |
鉄刀半島南部の鉄刀 |
銅製三輪玉6,7世紀の太刀の柄の頭と根本を弧形に繋ぐ勾金ないし勾革に糸止めした装身具。後に鈴に変化 |
若宮古墳全景 |
埴生地区の首長墓
砺波臣⇒利波臣⇒黒石氏となって現代へ続く |
薄葬令皇族以外の一般・地方豪族の陵墓増築を禁じ、仏教振興に振り替えさせた |
桜町横穴墓出土太刀 金環 刀装具
薄葬令後の横穴墓 |
どういつはんぷくっす
すみません |
長頚壺 |
護国八幡宮周辺の古墳群 |
桜町横穴墓群は
南九州にみられる、高句麗系傭兵の横穴石室墓ではなく、
薄葬令によって墓制を変更させられたため作られた墓地のようだ。 |
富山最大の横穴墓群は
加納横穴墓群です |
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