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縄文を旅する3 北の縄文 北東北〜南北海道旅 03  2013.10.03(木)


  岩手県立博物館岩手山を望める丘のミュージアム  岩手県盛岡市上田松屋敷34

交通  盛岡駅から 「松園ターミナル行き」終点下車(10分間隔で運行)。
 同じ場所から「松園循環」バスで博物館前下車(10分間隔で運行)
 
見所  大型土偶頭部 遮光器土偶 大木式土器 縄文時代の紡錘車 蕨手刀とエミシなど
 




01自然史・地学 ー県土の誕生ー

04考古展示 ー岩手の夜明けー
 氷河期の人々
 後期旧石器時代
06縄文土器
10釣り具と貝塚
11埋葬と装飾品と住居
13大洞文化(大洞貝塚)
14萪内遺跡
 大型土偶頭部
15縄文人の足跡
16漆塗り製品と土器
17土器
18祭祀具と大形土偶の手足


20岩手文化史展示室
「豊岡遺跡」
「北上山地の洞窟遺跡」
「岩手の縄文土器の変遷

25縄文縄文草創期
 縄文早期
 縄文前期
26縄文中期
27縄文後期
28縄文晩期

29弥生時代

30古墳時代とそれ以降
30北上山系の洞穴遺跡
35蕨手刀
36貝塚
37三陸の貝塚
38岩手の石器
40弥生時代以降

 

 00岩手県立博物館と岩手山
     学生時代に2週間かけて東北旅行をしました。広い東北では駆け足の点と線での周遊でした。
     盛岡では五百羅漢の寺を見て、盛岡城跡で、眼前にそびえる山の名を、散策の人に訪ねたところ

     「あれは!  岩手山!」 と誇らしげに教えてもらいました。
     きっと岩手県人の誇りなのだと思い、四十数年経った今までずっと耳から離れませんでした。

秋田新幹線から在来線を走る時はただの特急列車です。 岩手博物館の大階段赤レンガの格調高い造形美です 岩手山を望む  
  見事な借景地域の誇りですね
市内のどこからでも望めます 入口展示装飾模様は当地独特
何の意味でしょうか
館内案内

 館内案内
   地学系展示は階段踊り場の巨大なデスモスチルスの化石に始まり、二階総合展示室一階いわて自然史展示室の二か所です。
   考古系展示は、二階総合展示室と二階岩手文化史展示室にあります。


 01自然史・地学 ー県土の誕生ー

    岩手県立博物館の特徴・得意分野は自然史・地学・古生物学の分野です。
    大変先進的な展示が2〜30年も前からおこなわれていることに驚きました。
    展示室も大変広く、二階から始まって、一階の展示室は全てが割り当てられています。

    とても珍しい種類の恐竜の化石標本の展示は圧巻です。
    ただ、今回は縄文展示を拝見しましたので、ごめんなさい。ご紹介出来ません。


 二階総合展示室
東北地方の地殻断面この図を我々はあの日以来度々見かけます 地質図と岩石標本理学部地学科の丹念な仕事ですね 恐竜の化石が多数子供たちも大人のファンも喜ぶ展示ですね 古生物の進化と系統30年前からこの展示
先進的な方法です
生物の進化と発展がよくわかるように色分けで展示されています 写真が下手ですみません。年々下手になります。
人類誕生以降の
東アジアの地図500万年前と2万年前
北上地域の足跡化石宮沢賢治も知っていた動物足跡イギリス海岸 象などの足跡化石
岩手県では数多く見つかっている
ハナイズミモリウシ3.5〜2万年前に寒冷化で北方から南下して、最も寒冷な時期に絶滅。
追って来た旧石器人が食べ尽くしたのでしょう
飼い牛は見るが、野生の牛は見たことがない。世界にはもういないかも ナウマンゾウ
オオツノシカの骨


 04考古展示 ー岩手の夜明け
    氷河期の人々
    3万年前以降の新人の旧石器遺跡が紹介されている。
    岩手県にはもっと古い旧石器遺跡もあるが、紹介されていない。
       金取遺跡遠野市) 中期旧石器時代(8-9万年前) 
       早坂平遺跡(久慈市)後期旧石器時代(2.2-2.3万年前の石器製作工房跡だそうです。リンク1  リンク2
       花泉遺跡一関市) 後期旧石器時代(3.5〜2万年前)上述のハナイズミモリウシを獲って暮らしていた人々

       寒冷化で地峡となったカムチャッカからアムール文化の人々がいろいろな文化を携えてやって来た。
       その一部は沖縄本島の万座毛にまで達した。多様な文化と数多くの民族がやって来た。






  後期旧石器時代





大渡U遺跡
ナイフ形石器
ナイフ形石器文化
氷河期の人々 ナイフ形石器とは
ナイフ形石器文化の出現
新人旧石器文化を代表するナイフ形石器を使う集団が
北海道と朝鮮半島
の二方向から、最寒冷期にやって来た。 写真は見事な大形の石刃です。大型動物用ですね 東北地方の石器は
珪質頁岩が多く
北海道産黒曜石は少ないようです。海峡がネックだったかも




  06縄文土器




 縄文時代 大木式土器


岩手の縄文土器展示の土器が少量 岩手の縄文土器 縄文土器製作過程 縄文土器見事な土器(重文)が展示されています 上段は中期と後期、下段は晩期。中部地方の土器と似ている 狩猟文土器
縄文後期何と無骨な土器でしょう
縄文中期 縄文中期 重文 盛岡市繋遺跡出土深鉢埋甕 吊り手土器
縄文後期
デリケートな吊り手に見えますが十分実用に耐えたのでしょうね 縄文晩期土器何れも見事な造形です
台付鉢 縄文晩期 香炉形土器 縄文晩期     縄文後期  左:切断蓋付土器
  右:単孔土器   
    注口土器   左: 縄文後期
   右 :縄文晩期
中期土器の壺は、指で縄文を消して区画する。何を表しているのだろう。

また、中期埋甕の貼り付け文や口縁の模様は、太陽か魂かを表現?
なんとなく北方的な感じがする。
亀ヶ岡式土器は晩期の東日本一帯に流行した。東北から中部。更に北海道南部から北陸東海近畿の一部まで影響。

 注口土器が抜歯儀礼の道具ならば、抜歯は亀ヶ岡から遮光器土偶・香炉形土器などと共に広がったのではないか。それほど影響力が強かったようです。 

 
  10釣り具と貝塚  骨角器は比較的加工がしやすく、過度な使用にも耐えるので、現在の金属やプラスチックのように使われたようだ。

ピンボケですみません縄文後期晩期の貝塚出土の骨角器です 骨器の生活用品離頭銛や鮭用挟み込み式ヤスなど北方系漁具が多い。 骨鏃、固定銛、刺突具、骨針、骨箆(ヘラ)
エスキモーが現在も使っている道具が多く含まれている。
回転式離頭銛、銛用ソケット
土錘、挟み込み式ヤス、釣針
岩手では内陸の奥深くまで貝塚が形成された。

 11埋葬と装飾品と住居
埋葬と装飾品 埋葬遺構大付遺跡 この人骨の抜歯の痕跡に気付かず 屈葬人骨宮古市大付遺跡
縄文晩期
配石遺構 縄文人の装飾 鳥骨製ネックレス「の」字状石製品(ヒスイ)など
左上は不明
貝輪の生産地は青森県津軽半島の田小屋野遺跡か。 狭小住居は展示の都合かと思います。 矢羽は一枚でもOK?
実に強い弓で射手は剛腕の持ち主
写真下手すみません
男は石器つくり。女は調理と思います
生活の一部を再現
当時の本当の生活は大変だったでしょうね。
 
 13大洞文化(大洞貝塚) 縄文晩期の 国指定史跡 岩手県大船渡市の貝塚遺跡 地図 埋立地を除けば現在と同じで海岸線にあったムラですね。
   おおほらかいづか           亀ヶ岡式文化の遮光器土偶やすわる土偶など様々な土偶が興味深い。
大洞文化 大船渡湾内で漁労し通年豊かな幸を得られた。遠隔地との交易も発達 重文などが展示
晩期土器もあまり変化なしか
薄くてよく焼きしまった感じの土器です。技術は全国的一律に向上か この時期特有の土器は広範囲に一様です。なぜでしょう。
遮光器土偶亀ヶ岡文化の強い影響がここまで達していた。 遮光器土偶について 小さいものですが遠く運ばれてきたのでしょう この土偶はまた違った系統の土偶。山形の東北ビーナスの系統のような 小さな土面は何に使ったのか。コノハズク形土製品はやはり神の化身なのか 地面付岩板や亀型土製品の模様は独特で美しい。ここでも、「の」の字形石製品。全国的な交流の証し


 14萪内遺跡(しだないいせき) 縄文後期〜晩期 地図

   大型土偶頭部
     河岸段丘上に発達した3万uもの広大な遺跡。ダム開発によって消滅。リンク先にあるように重要な遺構が沢山ありました。
     えり漁遺構は現在のエスキモーと同じ漁法同じ道具であることを証明した。
     木造り遺構は写真もなく実態がわからないが出土石器から木組みなどの高度な建築技法があったのかもしれない。

萪内遺跡 大型土偶頭部シャマンを模したもので顎や頭部の穴は髭や髪の飾りを差し込んだもの しだ内遺跡
顔には仮面と入れ墨の装飾大きな鼻に突き出た眉毛
大型土偶頭部北方系前期モンゴロイドの顔をよく映しているのでは 大型土偶に見る縄文人歴博などでは顔面だけの仮面状のレプリカが展示
大変高度な技術を持った職人の作品です。 頭骨の形は後期モンゴロイドに比べ実に綺麗です。 頭蓋骨そのものを見て作ったように感じます。 土偶は高さ約1m余りだったと推定されており、右の写真の手前の円柱状のものが 手足の一部と考えられている。
その隣の土偶に比べてあまりにも違う技術力に驚嘆

 15縄文人の足跡
   トーテムポール形木製品
   石器と木皿
縄文人の足跡98個発見された内の一つ 実に丁寧な発掘を行ったことに驚きです 綺麗な足型です。普段は靴を着用していたのでしょうか トーテムポール状木製品 玉製小形石斧と木皿彫刻刀と完成品です。高度な加工技術を持っていた


 16漆塗り製品と土器
丸木弓・漆芸品・道具櫛は北海道から東北・中部・朝鮮半島にまで、広く見られる形です。
彼らは木工工芸をし、漆の採取・塗装までした
木製漆芸品製作集団なのか、誰でもこの技術を知っていたのか。


 17土器

縄文時代後期の土器大量の土器が出土したが展示はこれ 用途に応じた形状で特に珍しくはない。完成度は高い 貼り付けではなく、余った口縁部をねじって吊り手にするアイデア



  18祭祀具と大形土偶の手足
男根型石棒は台湾にもあります 鳥形注口土器新潟県の奥三面縄文遺跡群からも似た物出土 顔面付き岩板や小形土偶も酷似。スタンプは土器の表面に使用する 火焔土器には東北地方の影響があり以前から関係があったかも どちらも大変な山中ですね。繋がりはあったのかなかったのか。 ないよね


 20岩手文化史展示室 「豊岡遺跡」、「北上山地の洞窟遺跡」、「岩手の縄文土器の変遷」の三部門を展示


      豊岡遺跡  亀ヶ岡文化の豊岡遺跡 縄文時代晩期前半 地図(岩手県岩手郡岩手町一方井久保) 
豊岡遺跡資料の特徴 亀ヶ岡式土器豊岡遺跡は地図でわかるとおり凄い山の中。 全人口25万人の列島でなぜ東北地方の片隅の文化が全東北の 辺境の地にまで影響を及ぼすことができたのか。 東北の片隅の亀ヶ岡文化はなぜ東北一帯に、いや中部地方にまで影響力を持ち得たのか。 見事な亀ヶ岡式土器
弥生土器伝播の道を見るとその理由がわかる。 日本海側を北上してきた文化は津軽半島に上陸し、そこから陸路に。 当時十三湖は拡大し、半島の半分は遠浅の湾で、危険な旅の舟が停泊 このため文化の十字路となり交通も文化も盛んだったと考えられる。 亀ヶ岡の発信する文化は確かに見事なものであり、東北中に広がり、 また、日本海の道や内陸の道を逆にたどって拡散しました。

  亀ヶ岡から江戸時代に千数百体もの遮光器土偶が発掘され全国に売られたが、なぜ、そんなに沢山の土偶があったのか。
  そりゃあ、交易品。もしかしたらお土産だったかもしれない。(笑) 丁度今のこけしとか、みたいな、、、

  って、これは私の勝手な想像。(笑)



  
  岩手の縄文土器の変遷  写真が随分粗雑です。ガイド嬢と話しながらうわの空だったようです。すみません。
                      


 25 縄文草創期 1.2万年〜  
早期 8千年〜  
前期 6千年〜 5千年の間

尖底土器は底or口縁どちらか作り始めるのか。それとも最後に尖底に? 岩手の縄文土器 炉の火は絶やさなかったから、灰の中に埋けこんで使い続けたのか 生活の状態が変わり、土器の方も変わり、炉も広くなった。 室内が変化し食器を置く平らな場所ができた。

 26縄文中期  5千年〜4千年前
円筒土器大木土器はどちらも生活環境にあった形をしていた 大木式土器文化と
円筒土器文化
(前期末)
生活土器とはかくもシンプルなものか この独特な文様は何を表しているのか 口縁部の見事な貼り付け文

 27縄文後期  4千年〜3.2千年前

文化が盛んになった頃は形状文様とも勢いがあって美しい この倒してある土器の装飾は実に上品です。注口土器もよいデザイン

  28縄文晩期  3.2千年〜2.1千年前   東北岩手の弥生時代は2.1千年前から始まったようです。

様々な地域の影響を受けたのか 形状や装飾デザインも、粘土の厚みや硬さなど、技術もかなり高度になった




  29弥生時代 (中期 2.1〜1.9千年前 後期 1.9千年〜1.7千年前)



岩手の弥生土器 弥生時代とはいうものの ほぼ縄文土器でしょう まだまだ、日本海を旅して更に太平洋側まで、または、中部地方から列島の真ん中を突っ切て、
岩手までくるルートは、まだ、未開拓だったようで、弥生人が少なかったようだ。
 それに何より、昭和に入っても冷害が頻発していた地域で、古代米の生産は困難だったはず。
 弥生人の到達にはまだ時間が掛る




  30古墳時代とそれ以降  土師器・須恵器 (1.6〜1.4千年前)




岩手の土師器・須恵器 人口は500万人に増え、農業生産も高まり、文化も発展し、国力も高まった。 高度な技術に支えられ、社会情勢もかわった。 私を案内して戴いたガイド嬢です。大変聡明な方でした。深く感謝しています。

 
  30北上山系の洞穴遺跡(北上山地の洞窟遺跡)
北上山系の洞穴遺跡 洞窟遺跡は保存状況がよく、細かいものが残存 山中でカツオやブリが一本手に入るのは交易か漁なのか。 貝殻片象嵌土製品の装飾品は初耳。珍しい 平安時代と縄文晩期の遺物が同時に出土。落盤が少なかったようだ。
丸ノミ石斧で殴打、頭蓋骨陥没後治癒の痕跡
喧嘩、決闘、白兵戦
骨製ナイフ  平安時代時代は違うが伊達紋別市北黄金遺跡からもクジラの骨製が出土。鉄器はまだ一般的でなかったか 土製紡錘車

 縄文の紡錘車は初耳
原始機(げんしばた)もなかったのに珍しい

 本当に紡錘車なのか紡錘車形土製品なのか
りんく1 02 03(9頁に記事)
縄文の墓、埋甕から土器片を丸く加工し中心に穿孔が出土するが紡錘車との解釈はなし。粘土で作る方が効率的だ。

 が、この地域独自発達か、大陸渡来人があったのかも知れない

 ベンケイガイの貝輪 生息地  貝輪製作地 縄文時代後期晩期に東海地方より東で大流行した装飾品。
                 東北地方ではつがる市田小屋野遺跡が生産地で、亀ヶ岡文化の影響下の出土品である。

  31道具の進化系統樹
刀子青竜刀形石器蕨手刀など、大陸から持ち込まれたとしか考えられない道具 推定される頻繁な人々の流入があった傍証ではないか。 石器の原料 機能ごとに分類した石器。 多様で器用に何でも作り出す人々 人は定住してはじめて文化を生み出し張ってさせることができたんだ


 35蕨手刀は、
   古墳時代終末期の6世紀(奈良時代)から8世紀頃(平安時代初期)に、岩手県で作られた刀剣です。どんな刀か 作った人々と背景
   この刀剣を追うことで蝦夷(エミシ)の正体や縄文人との関係が解明されると考えます。

   東北地方で生活用具の山刀などが、大和朝廷の東北戦争に伴い武器として発達進化した。後に日本刀に進化したといわれる。
   朝鮮の直刀は突くだが、蕨手刀は切る払う突くができる機能の高い武器。だが、砂鉄還元鉄は柔らかく不純物が多く品質は粗悪だった。

   エミシ(蝦夷)とは中華思想の東夷 西戎 南蛮 北狄で、単に蛮族を意味し特定の部族民族の事ではなく、大和支配地域外の人々の総称だった。
   当時東北地方には、縄文人に、弥生文化、続縄文文化、古墳文化などが順次広がり、朝鮮系渡来人も入り込んで文化を築いていた。
   また、三足烏旗頭にした神武東征殺され追われた第一次大和政権の支配者達(阿部氏)も逃げてきている。

   かくて奥州文化が花盛りだったころ、その富の奪取をもくろんだ朝廷が支配のために軍勢を送り、長い長い戦になった。
   各地から招集された兵は食料自前で参加ですから、それも大変だったでしょう。戦どころではなかったはず。

   「七〇〇年には東北での鍛冶を禁じ七〇一年に大宝律令発布で東北進出始めた」とあり、全国各地の古墳から大量の蕨手刀が出土することから
   随分以前から製造された有名な刀だった。
   そのルーツアキナケス剣で、カムチャツカ経由でやって来た鍛冶によって伝えられ、製造されたという。

   岩手県は高級鋳物、南部鉄器の製造が盛んだが、古墳時代からの砂鉄による蕨手刀など鉄製品製造の歴史が源のようです。


蕨手刀コーナー 古代の鉄器(文書化)鉄器使用の歴史
世界・日本・岩手
蕨手刀(文書化) 蕨手刀の分布(文書化) 蕨手刀の分布図 岩手の蕨手刀の分布
蕨手糖の形態的特徴
(文書化)
蕨手刀の分類

 
  36貝塚
北上川下流域の貝塚群当時内陸まで海が浸入 萪内遺跡のえり漁痕跡何度も言いますが、現在のエスキモーも全く同じ方法と道具で鮭漁をしています。
北上川水系は海進によって奥深くまで海水が浸入した
貝鳥貝塚 リンク2
根井貝塚 根井貝塚実におしゃれな小物土器が並んでいます 蛇の骨入りの壺壺一つに頭を取りぶつ切りにした蛇一匹分が入っていた
なーぜー?
蛇の生肉。臭くて食えない
壺入り蛇骨。その理由を考えているHPがありました。

 とても大切なことかと。

蛇を食べたり敬ったりするところがあれば、三内丸山のように、一切蛇の骨も、蛇に関した何物も出てこないところもあるようです。
【根井貝塚】岩手県:九戸郡野田村玉川村 日本歴史地名大系
[現]野田村玉川 海岸から直線距離約二・五キロの海岸段丘上に立地する。標高約二二六メートル。大正時代末と昭和初期の調査で得られた資料の再確認のため、昭和五八年(一九八三)から同六〇年まで調査が行われた


 37三陸の貝塚
陸前高田市付近の地図 宮城県中沢目貝塚では石鏃を固定したままの根挟みが発見されている。 東北地方太平洋側は太古から巨大地震を伴いながら、沈降し続ける海岸線で、三陸リアス式海岸と言われている。

 多島海で変化に富んだ海岸線は豊かな海産資源をもたらし、また、海まで迫った山々もまた、内陸の資源をもたらし、この上ない生活の場であったようだ。

 38岩手の石器
岩手の石器 早期の石器早期だが完成形の石器。円盤形石器の用途は?刀子形石器は掻器か? 中期の石器 晩期の石器晩期には全国で石器が大型化する傾向がある 東北地方には、

 後期晩期には気候不安定と寒冷化で、南から、北から沢山の人々がやって来た。

 それを養えるだけの食糧資源の余力があったのだろうか。


 
  40弥生時代以降  大陸・半島人は日本海を北上して、津軽から内陸部に、もう一つは中部地方内陸を通りながら広がっていった。という。




秦の始皇帝をだまして逃亡した徐福は2300年前その一部が秋田に漂着したそうだ 以前から大陸や半島では海の向こうの楽園がわかっていたようだ。 最初は大陸から、続いて半島から、大挙してやってきた。気候変動⇒食糧確保⇒戦乱⇒逃亡 慢性的な飢餓に苦しんでいた縄文人にとって、どうだったか。助けられたのか、殺されたのか。 古墳時代の竪穴式石室長野県でも見た小石を使った石室。棺を置く枕石も見える
竪穴式は東日本で一般的。横穴石室は説明しても理解されなかった 蕨手刀代表的な三種類が展示されている。 轡(くつわ馬具)
朝鮮式ベルト
など
和同開珎 切子ガラス 勾玉など ガラス製装身具  稲作文化の到達以降
次々と異なった文化が流入する。
 新天地を求めてありとあらゆる勢力が、食糧確保や、領土的野心やその領土をさらに奪うために。

 次第に大きく、強く、進化した武力集団が次々と流入した。