北海道の縄文 №54-1 2022.06.25-2
余市水産博物館1(リーフレット編)
余市町歴史民俗資料館 北海道余市郡余市町入舟町21
0135-22-6187 月・祝日の翌日 撮影可
館の特徴 |
一階は船、とニッカウイスキー。
二階が先史時代。
中三階がアイヌ文化の展示。 |
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はじめに
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余市水産博物館は水産物の博物館ではなく、1階には北前船とニッカウヰスキーの展示。2階以上に考古資料が展示されています。
この館でも、全国の博物館・資料館と同じで、館独自のよく工夫された展示がされています。
さて、展示の各所に置かれていて、集めてきたリーフレット(欠番あり、全てでないことが残念)には、館の展示以上の内容がありました。
しかもその量は大量で、博物館によくある、展示コーナーの一部を説明したものではないのです。
書かれている内容は、展示とは無関係に、余市町の重要な遺跡や遺物に関する深い考察や、展示されていない遺物の写真など重要資料です。
例えば、人骨、コハク玉ななどの装飾品、その他、重要な解説付きで展示にない資料が沢山あります。
そこで、今回、このリーフレットだけを1ページにしてみました。是非ご覧いただけますようご案内申し上げます。 |
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目次
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10入館案内
20旧下ヨイチ運上家
30旧ヨイチ福原漁場
40余市町の文化財
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100余市町の埋蔵文化財
101余市町の埋蔵文化財
110大川遺跡「貝塚」
120大川遺跡「お墓」
130大川遺跡「発掘調査経過報告」
140大川遺跡「琥珀」
150大川遺跡「恵山文化」
160大川遺跡「鉄器」
170大川遺跡「4年間の発掘調査の成果」
180大川遺跡「ニシンの歴史と石組炉」
190大川遺跡「ガラス玉」
200大川遺跡・入舟遺跡の近世遺構
210大川遺跡「土鈴」
220大川・入舟発掘成果
230入舟遺跡足形付土版 |
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10余市水産博物館 入館案内
入館時にチケットと一緒にいただくリーフレット
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よいち水産博物館
よいち水産博物館は北海道百年地域記念事業の一環として建 設されて昭和44年6月にオープンしました。 地域の基礎をつく ったニシン漁などの漁労具や、 生活用品など、 郷土資料を中心 に展示しています。 |
江戸時代のヨイチ
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江戸時代のヨイチ
アイヌ民族の樹皮衣、林家文書
■アイヌ民族の住む蝦夷地 “ヨイチ” には、江戸 時代の早い時期から、松前藩の家臣がアイヌ民族との交易のためにやって きていたようです。
この交易や漁業は後に、年限を決めた上でお金を納めた商人が請負って行なうようになりました。 場所を請負った商人は、アイヌ民族との交易や自らの漁業を行なうと同時に、蝦夷地へ出漁した漁民の監視もしました。
■林家文書はヨイチ場所を明治時代まで請け負った商人の竹屋林家が残した文書で、町の指定文化財です。 |
海の道 |
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北前船(弁財船)の模型
海の道
■江戸時代から明治時代まで、 人や物資を運んだ主役は海上輸 送でした。船絵馬は航海の安全 を祈願して神社に奉納されたも ので、余市町に残るのは多くが 北陸地方を母港とする船です。 |
陸の道 |
わにぐち
陸の道
■幕末には幕府の命を受けた商人ら により、 海岸線や山越えの道路が開 削されます。
左の 「わにぐち」は工事の安全や 亡くなった家族の冥福を祈るために、 ヨイチ場所に足軽としてつとめてい た桐ヶ谷太兵衛により奉納されたも のです(町指定文化財)。 |
ニシンの豊漁 |
ニシンの豊漁 「湯内漁場盛業鳥瞰図」の額
■ニシン漁の活況は江戸時代から昭和30年頃まで続きました。
この 「湯内漁場盛業鳥瞰図」 をはじめ、 明治時代のにぎやかな漁の様子が描かれた絵図が残されています。 |
モッコ |
モッコ
■館内には当時のニシン漁で使われた さまざまな道具を展示しています。
左の運搬具 「モッコ」は船につまれた ニシンを陸まで背負って運ぶ道具で、正面にはそれぞれのニシンの親方の印 (しるし)が墨書きされています。
このしるしはマルマタキと読みます。 |
丸胴と角胴 |
丸胴 (手前)と角胴 (奥)
■ニシンは主に肥料 として利用されました。 陸揚げされたニシンは ニシンガマという大き ななべで煮て、 左のよ うな丸胴、角胴とよば れた道具で絞ってから 乾燥して肥料になりま した。
余市町でニシン漁が もっとも盛んだったの は大正時代のことでし た。 |
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ヨイチリンゴ 御受書
■余市はまた、旧会津藩士団体の移住により開拓された一面ももっています。 朝敵の汚名をそそぐため、北の地に移住して開 墾にあたった会津団体は、
後にリンゴを実らせることに成功し、北海道の果樹栽培の草分けとなりました。
御受書(町指定文化財) には開拓への固い決意が こめられています。 |
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◆町内には60以上の遺跡が確認されています。
なかでも余市川河口周辺にある大川遺跡、 入舟遺跡、 天内山 遺跡や、 町東部の大谷地貝塚 (国指定史跡)、 町西部の沢町遺 跡からたくさんの土器や石器などがみつかりました。
ここではおもにそれらの考古資料を紹介しています。
注口土器(縄文時代)
余市式土器(縄文時代)
ウニ形土器(続縄文時代) |
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コハクの平玉(縄文時代)
手形付土版 (縄文時代)
二足土器 (縄文時代) |
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館内に置かれた近隣施設の紹介のための他館のリーフレット。しかし、重要な案内でした。 |
20旧下ヨイチ運上家
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運上家とは
蝦夷地における場所請負人の交易場の経営拠点。
松前藩はアイヌとの交易独占権を家臣へ知行として与えた(商場知行制)。この交易場を商場(あきないば)、商場所(あきないばしょ)、場所などと称したが、享保(きょうほう)~元文期に商人が商場所経営を請け負うようになり、場所請負制が成立した。この商場所に設置された出張所を運上屋という。場所請負人は運上屋に支配人、通詞(つうじ)、帖役(書記)、番人、稼方などを置き、商場所の経営を行って運上金を家臣に上納した。1799年(寛政11)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、運上屋を会所と改称して民政も行わせた。このため西蝦夷地の運上屋でも商場所経営のみでなく、民政にも意を用いるようになった。以後、運上屋と会所は経営施設兼行政機関の性格をもつようになった。
引用「コトバンク」 |
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場所と運上家 (ばしょとうんじょうや)
●運上家がおかれた主な地点
松前藩(図中の和人地)は渡島半島の南端に位置 し、農業に経済的基盤をおくことができない藩でした。 そのため、蝦夷地の砂金や木材などの特産物や、 松前へやってくる交易船から得る税金などをおもな収入 としていました。
上級藩士への禄 (給料) も蝦夷地の一定の土地を給 地(商場)としてあてがい、対アイヌ交易で得たものを収 入とさせていました。
交易は運上金を払った商人が請負うようになり、商人 は藩士が持っていた蝦夷地における漁業の権利を得ま す。 交易の場であった商場はそこに住むアイヌ民族や出 稼ぎしてくる和人が漁業を行う場所(ばしょ)に拡大し、 ア イヌ民族の大地であった蝦夷地は幕末にかけてだんだ んと和人地化してゆきました。 |
旧ヨイチ運上家 |
場所と運上家 |
場所と運上家 |
運上家がおかれた主な地点の地図
和人の居住域
江差、箱館、松前 |
竹屋林長左衛門
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竹屋林長左衛門
初代 竹屋長左衛門の肖像画
文政8(1825) 年藤野喜兵衛に代 わり、竹屋長七(初代林長左衛門) が上下ヨイチ場所を請け負います。
竹屋長七は羽後国由利郡塩越 村(秋田県象潟町) の出身、19世 紀のはじめに松前に来住、 枝ヶ崎町 で商業を営みました。
やがてアブタ場所の経営に参画 し、その後、アッケシ場所を請け負いました。
ヨイチ場所の請負は明治まで林家4代にわたりました。
幕末の下ヨイチ運上家 「西蝦夷地ヨイチ生ノ風景(部分)」 拠山寿信筆 |
建物の特色
遠山の金さん
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建物の特色
旧下ヨイチ運上家は、場所請負人竹屋林長左衛門が嘉永6(1853)年に改築した当時の図面をもとに復元されました。
間口40m、奥行16m、 建築面積 540m2(約164坪) 、 使用木材 213mに及びます。
上図の中央やや左にある一番大きな建物が下ヨイチ運上家です。まわりには住宅や蔵が並び、 稲荷社も安置されていました。 この運上家を拠点に商人は場所内に番人のいる番屋をおき、出稼漁者らの監視をし、自らの場所経営を行ないました。
遠山の金さんの父も滞在 (右の人物)
「遠山の金さん」の父も滞在
幕府は、2度にわたって蝦夷地を直轄し、場所の直営や航路 開発、蝦夷地の道路開削を行いました。文化3 (1806)年に松前と西蝦夷地の視察が目付遠山景晋(金四郎)・勘定吟味役村
垣定行(左太夫) 両名によって行われ、蝦夷地内 7 箇所の道路が開かれました。
余市・岩内間の山道は文化6 (1809)年、 余市・岩内、古宇の 各場所請負人によって開かれ、海の難所、 神威岬を航海せずに 通行することが可能となりました。 |
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他館のリーフレット2 |
30旧ヨイチ福原漁場
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旧ヨイチ福原漁場とは
旧余市福原漁場は、ニシン漁の歴史を知ることができる施設で、口コミでは高い評価を得ています。展示内容や建物の雰囲気から、当時の漁業の様子をリアルに想像できると好評です。 |
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ニシン大漁
北海道の日本海沿岸は古くからニシンの漁場として知られ、余市をはじめとする積丹半島各地は江戸時代からニシン漁でにぎわっていました。
明治以降も余市はニシンの豊漁がつづき、海岸線には番屋とよ ばれる漁家の住居を中心に蔵や加工施設を配した漁場の建物が 立ち並びました。
漁場経営者は「おおやけ(大宅)」とよばれ、 漁期には出稼ぎの漁 夫など多くの人を雇いました。
この史跡は、明治時代に福原家が経営していた漁場建築群(明 治36年まで同家所有、その後所有者は小黒家、 川内家と推移)を 資料により復元した加工施設ほかとあわせて整備したものです。 |
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福原漁場の配置図
➀主屋
親方家族と漁夫が寝起きをし ていました。
②文書庫
重要な書類・衣服・調度品な どが保管されていました。
③石蔵
ニシン粕・ミガキニシンなどの 製品を保管していました。
④ナヤ場
内臓を取り除いたあとのニシン をここに架けミガキニシンを作り ました。
⑤米味噌倉
漁場の食事に使われる米・味 噌・しょうゆ等を保管していまし た。
⑥網倉
ニシン漁に使われる網や浮きを 保管していました。
⑦雑倉(平面復元)
雑多な用具類をここに収めまし た。 基礎部分のみを復元してい ます。
⑧干場・白子干場
ニシンから取ったカズノコ・白子 等をここで干して製品にしまし た。 |
 沖揚げ |
漁場のしごと
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漁場のしごと
漁場では漁から加工、製品化までの一連の作業が行なわれました。
3月下旬から2ヶ月ほどの間が漁期で、 東北や道南か ら多くの漁夫がやってきました。ひとつの定置網(建網)には 25~30名ほどの漁夫が操業し、 福原漁場は4つの建網の 権利を持っていました。
漁獲されたニシンは食用では生食用のほか、ミガキニシン として加工されましたが、漁獲全体の6~7割は肥料として 加工、出荷されました。 |
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魚粕づくり
カクドウ
カマで焚かれたニシンは、カクドウ(または丸型のマルドウ) という圧搾器にうつされ、しぼられて油と身に分けられます。
カクドウから出された身 (カスタマ)はムシロの上に広げて乾燥、 発酵されシメ粕となります。
出荷
シメ粕のほか、エラや白子なども肥料として俵詰めにされ
ます。 漁期の終わる 4月末~5月になると、 海上に待つ運 搬船や貨車輸送などで道内外に運ばれてゆきました。 |
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40余市町の文化財
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余市福原漁場
旧下余市運上家
余市水産博物館
ニッカウヰスキー北海道工場 |
余市町の歴史を肌で感じてみませんか
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余市水産博物館 |
余市水産博物館
縄文土器からアイヌ、ニシンまで余市水産博物館は、モイレ山の頂上にある余市の歴史を学ぶことができる博物館です。
館内には弁財船の三分の一模型、かつてのニシン漁具などのほか、アイヌ資料や余市町と会津藩の歴史に関わる資料や、町内の遺跡から出土された考古資料を見ることができます。 |
西崎山環状列石 |
北海道指定史跡
西崎山環状列石
語りかける石、石、石・・・
西崎山環状列石は、丘陵上の広い範囲にわたって配石が見られる遺跡です。丸い河原石や角のある柱状の石を日時計型に配置していることが特徴的で、その周囲にも不規則に石が散在しています。
遺跡からは縄文時代後期の土器片が出土しており、配石により周囲と墓域を区画した約3500年前のお墓であるという説が一般的です。
また、天気の良い日は日本海を一眺に見渡す景観もあわせて楽しむことがで きます。
縄文時代 |
フゴッペ洞窟 |
国指定史跡
フゴッペ洞窟
壁面に残された刻画
フゴッペ洞窟は、今から2000~1500年前の続縄文時代の遺跡で、壁面に人物・動物・魚など約800点を数える刻画が描かれています。洞窟の利用方法にはいくつかの説が考えられていますが、仮装した人物像を何らかの願いや祈りをこめて岩に描き、儀式などを行ったのではないかという説が有力です。 国内でも小樽市の手宮洞窟のほかに無く、数少ない洞窟遺跡です。
統縄文時代 |
旧下ヨイチ運上家 |
国指定史跡・道重要文化財
旧下ヨイチ運上家
現存する唯一の運上家建築
旧下ヨイチ運上家は、嘉永6 (1853)年に改築した当時の図面をもとに復元されました。 間口40m、奥行16mあり、内部の空間は広く、板の間から見上げた柱や梁は太く見応えが あります。
運上家とは江戸時代、松前藩からアイヌの人々との交易を請け負った商人が拠点とした建物で、蝦夷地(北海道)の各地に建てられました。現在では旧下ヨイチ運上家が唯一現存する運上家建築として、国指定重要文化財となっています。
江戸時代 |
旧余市福原漁場 |
国指定史跡
旧余市福原漁場
これが明治のニシン漁場
北海道の日本海沿岸は昭和30年代前半までニシン漁に沸きました。余市も海岸線に番屋や蔵などの漁場の建物が立ち並び、大変なにぎわいでした。
旧余市福原漁場は、ニシン定置網漁を経営していた福原家が明治十年代以降、明治35(1902)年まで所有した、当時の漁場経営の様子を伝える建物群です。親方家族と漁夫が一緒に住んだ
主屋をはじめ、文書庫、石蔵網倉、米味噌倉などを見ることができ ます。
明治時代 |
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国指定重要文化財
ニッカウヰスキー(株)北海道工場
たちこめる夢のかおり
竹鶴政孝がウイスキーづくりの地を求め、昭和9(1934年に 「大日本果汁株式会社」を余市に設立。当初はリンゴジュースを販売していました。その後、昭和15年 にニッカウヰスキー・ニッカブランデー 第一号が発売され、昭和27年に「ニ ッカウヰスキー株式会社」へと名称 が変更されます。
工場内の建物ではウイスキーの製造工程や歴史を学ぶことができます。蒸溜棟・乾燥塔・事務所棟などの十棟はウイスキーづくりの歴史 を刻んだ建造物として重要文化財 になっています。
昭和時代 |
リンゴと余市 |
リンゴと会津と余市の結びつき
明治4(1871) 年、開拓の決意を込めた御受書を開拓使へ提出し、会津藩士団は余市に入 植しました。
明治12年、開拓使が道内各地に配った苗木のうち会津藩士が余市でリンゴの結実に成功し、リンゴは名産となっていきます。 |
アイヌ語地名 |
アイヌ語由来の土地名
モイレ…静かである
シリ・パ…山の頭
ヨイチ…蛇多く居る ・温泉のある
レタルピラ… 白い壁
フゴッペ…波声高き処 |
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100余市町の埋蔵文化財
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101余市町の埋蔵文化財
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余市町の埋蔵文化財
第二六号
大川遺跡
管玉
入舟遺跡
北海道余市町教育委員会
一九九六年七月 |
写真1
大川遺跡出土管玉 |
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大川遺跡、入舟遺跡出土の管玉
管玉は,大川遺跡から24点 (図2), 入舟遺跡から1点 (写真5右),合計25点出土し ていますが、 全点碧玉 (Jasper) 製です。
表紙(写真1)の上段4点 (西暦7世紀頃の墓出土) が花仙山産の原石を, 中段と下段 (西暦1世紀前後の墓出土) 大半と入舟遺跡出土の1点が,
佐渡島猿八産の原石を利用して製作した可能性が高いという分析結果 が藁科哲男博士 (京都大学原子 炉実験所)によって公表(図1)されています。
1,900年位前には佐渡島(猿八)から, 1,300年位前には出雲国(花仙山)から貴重な碧玉の管玉が日本海を北上して余市(北海道)へ齎され たことになり、 当時,すでにダ イナミックに物が運ばれ,人が 動いていたことが,これらのことからわかります。
弥生時代(1,700~2,200年位前)には猿八産の原石で作られ た碧玉製の管玉が東日本を中心に,
古墳時代~奈良時代(1,200~1,700)及び平 安時代の前半頃 (1,000~1,700 年位前)までは,花仙山産の原石で作られた碧玉製の管玉が西日本を中心に広く流通していた
ことがわかって来ました。 |
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写真2 大川遺跡GP-48 (第48号墓壙) 管玉出土状況
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写真3 大川遺跡 GP-123 (第123号墓壙) 遺構検出状況
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写真4 大川遺跡 GP-123管玉及び石器出土状況
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写真5 大川遺跡 (左4点) 入舟遺跡 (右1点)出土管玉
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碧玉の原産地と碧玉様の緑石の産地(藁科哲男 1994に加筆)
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図1
碧玉の原産地と
碧玉様の緑石の産地
花仙山と猿八から
大川遺跡へ |
■露頭(原石が生成した場所で採集可能な地点)
1 新潟県畑野町 猿八原産地
2 兵庫県豊岡市 玉谷原産地
3 兵庫県山南町 石戸原産地
4 島根県玉湯町 花仙山原産地
●露頭不明で2次的な産地
5 北海道西興部村 興部産地
6 北海道富良野市 空知川流域
7 富山県細入村 細入産地(碧玉様)
8 石川県金沢市 二俣産地(碧玉様)
9 岐阜県土岐市 土岐産地 |
勾玉の製作工程
管玉の製作工程
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上:勾玉はメノウ
下:管玉は碧玉? |
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碧玉 Jasperジャスパー
管玉アラカルト
管玉は管状になっている玉のことで、玉の直径よりも長さが長いものを管玉 (図2) 短いものを平玉と呼んでいます。 大川遺跡 (写真1)と入舟遺跡
(写 真5)から出土したものは,いずれもジャスパー (Jasper)製で,和名では碧 玉と呼ばれています。 碧とは青や緑色のことですので,青や緑の宝石というこ
とになりますが, 赤・黄・ 褐色等もあり、 特に赤いものは鉄石英 (通称赤玉, 写真1中段右4点・下段右3点)とも呼ばれています。
これらは,酸化鉄からなる不純物を多く含む不透明な石英の一種で、硬度が 6.5~7.0, 稀に縞や斑のものもありますが、 緑色不透明のものが多いようで す。北アフリカ・ウラル・ヨーロッパ 北米等世界各地で産しますが,固くて 美しい石なので,古来より装飾品として利用されました。 日本では,島根県 (花仙山 通称出雲石) や新潟県佐渡島 (猿八) 等が有名 (図 1) です。
尚,碧玉は稀に旧石器時代に石器素材として利用され,北海道でも道東の遺跡から出土しています。 縄文時代においても,石器として利用していますが、
剥離が不規則なため、あまり一般的とはいえませんが,硬いので,ドリルやナイフとして利用されている例があります。 |
管玉アラカルト
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図2
大川遺跡・入舟遺跡出土の管玉
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110大川遺跡「貝塚」
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貝塚とは?
人間によって捨てられた貝がらなどが堆積し、残っている場所のことです. この中から、いろんな食物の残りかすや土器・石器・骨角器などがみつかります. また, 人間や動物の埋葬の場でもありました。 さらに、儀式の場とも 考えられ,単なるゴミ捨て場とは言えません.
※汚ったない・臭っさい・蝿やゴキブリやetcがワンサカのゴミ捨て場で儀式って、冬場にでもしたのかな
大川遺跡の貝塚
これまでに9ヵ所の貝塚がみつかり, 貝塚は大川砂丘の先端部にあります. これらの貝塚は,アイヌ文化期のものとみられ, 主に200~300年前に形成され たと考えられます.
貝塚からは、 イヌをはじめとして獣の骨や魚骨, 土器, 陶磁器 古銭・キセル鉄鍋などの金属製品ほかがみつかっています. 貝は,ほとんどが海水産のもので,
貝塚の近くでとられたものと考えられます。
貝塚のほとんどは,コタマガイ(この辺ではハマグリとよばれる) 中心で, イガイ(この辺ではヒルガイ)・ホッキガイ・カキなどの貝に魚骨の混じる場合が多い.ところが,ほとんどがイガイであったり,魚骨であったりする 例もみられます。
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貝塚から出た犬と鉄鍋
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アイヌ文化期 (中世・近世) と考えられる遺構の分布
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300年前の貝塚
貝塚の断面
貝塚から出た骨角器
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貝塚からの情報
貝がらのカルシウム分のために 貝はもちろんのこと,一般の遺 跡ではみつかりにくい骨や骨角器などが多くみつかっています。 こ のことから貝塚は当時の自然環境や生活環境を知るのに役立ちます.
大川遺跡では, 貝塚の部分を砂ごと取り上げ, 水洗いして砂をお としています。 その後、3種類のふるいにかけて 大きさをよりわ け, 土器・陶磁器・骨角器などの人工遺物を抜き出します.さらに,
貝獣骨・魚骨・木の実などの自然遺物を種類ごとに分ける選別作 業を行っています.
貝塚では,貝類は主に6種類 魚類はサケ・タラ・カレイなど, 鳥獣類ではアホウドリ・ウ・イヌ・シカクマなどが出ています。 これらの情報から, 狩りや漁のようすや,どの季節にとられてい たのかがわかります.さらには当時の人々の食生活を知る手がかり にもなるのです. |
貝塚からの情報

貝や魚骨の選別作業 |
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120大川遺跡「お墓」
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◆枕もとには土器が置かれています。向かって左側の 人の胸元には石でつくられた玉があります. ネックレスをしていたのでしょうか.この玉の下から乳歯と永久歯が混ざってみつかりました.
子供が母親の胸に抱かれて、一緒に葬られたようです。
※インフルエンザでも罹患して親子とも死亡したのでしょうか。 |
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お墓とベンガラ
世界各地のさまざまなお墓から見つかる 赤い粉末で,インドのベンガル地方の大地の色にちなんでこの名でよばれます. 成分は酸化第二鉄で,自然には赤鉄鉱として存在します.これを焼き,
粉末で用いたり「鉄を多く含んだ土」のかたちで用います.
どうして遺体を葬るときにベンガラがふりまかれるのかはよく分かっていませんが, 赤い色が活力や生命と関わりがあると考えられていたようです. 死者のよみがえりを
恐れて 「あなたの血 (活力・生命)がこんなに流れてしまいました。 だから、 もうよみがえることはできませんよ.」という意味でしょうか. それとも,
活力や生命のしるしである赤い粉を死者にふりかけることにより,よみがえりを願ったのでしょうか.
大川遺跡のお墓
縄文時代が終わると, 本州では稲作と金属器を取り入れた弥生時代になりました. 北海道では寒冷な気候の時期だったため稲作は広まらず,狩猟・漁撈・採集を生活の基盤にする縄文文化の伝統を残しながらも金属器を取り入れた続縄文文化が広まります. 石器も引き続き使われていました.
本州の奈良時代にあたるころまでこの独自の金石併用文化が続きます. このころのお墓は,ふつうは一つのお墓に一人が 葬られる単葬でした. こうしたお墓がいくつも集まった集団墓もみられます.
また, 縄文時代からあった複数の死者を一つのお墓に葬る合葬も, しばしばみられるようになります。 手足を折り曲げた屈葬が一般的でした. 基本的には縄文時代とおなじような葬りかたでした.
続縄文文化の時代の終わりころ, 本州の古墳時代以降に作られるようになった土師器をもつ文化が北海道にも広まってきました. この影響もあって全面に木のへらで擦った跡のある擦文土器が作られるようになってきます。
このころの北海道は温暖な気候になり簡単な農耕もできるようになってきました.もう石器はほとんど使われなくなり, 鉄器文化を迎えます. この文化を擦文文化といいます.
このころになると身体を伸ばした伸展葬が一般的になってきます。屈葬からの解放は生活の安定の表われなのかもしれません. 人々はやっとのびのびと永遠の眠りに就くことができるようになりました。 |
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お墓と弁柄
大川遺跡のお墓
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手足をきつく折り曲げた姿勢で葬られています. このような葬りかたを屈葬といいます.今から1500年くらい前の続縄文文化期 (本州の弥生時代から古墳時代のころ)のお墓です.
このように何人か一緒に葬ることもありました. このような葬りかたを 葬といいます. 冬のあいだは地面が凍りついて穴を掘ることができなく 春にまとめて葬ったのでしょうか.
やはり病かなにかで死に絶えた家 なのかもしれません. 今から1500年くらい前の続縄文文化期のお墓です |
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今から1000年ほど前の擦文文化期 (本州の奈良時代か ら鎌倉時代のころ)のお墓です. このころの家のあとは たくさんみつかっていますが、 お墓は私たちがくらしているところに作られていたらしく、あまりみつかっていません.それまできゅうくつな姿勢で葬ることが多かっ
たのですが、このころになると体を伸ばした状態で葬られるようになってくるようです. このような葬りかたを 伸展葬といいます。 |
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今から300年ほど前(本州の江戸時代のなかごろ)のお墓です. 漆塗りのお椀やキセル, 刀などが一緒に埋められていました. 漆が乾燥するとめくれて風で飛ばされてしまうので,
アルコールで湿らせながら掘っていきます。 |
副葬品から推測すると
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副葬品から推定すると・・
お墓のなかには、死者が身につけている ものや日頃使っていたもの, わざと壊して 使えなくしたもの, お墓に入れるために特別に作ったものや弔いのときに使われたと
思われるもの, などさまざまな「もの」が 入れられています. これを副葬品といいま す. このような「もの」は,かたちとして 残らない当時の人々のこころの問題や社会
を考えるための貴重な手がかりになります. しかし、死者を葬ることにはこうした 「もの」からは知ることのできない 「こころの ありかた」が関わっているので、副葬品のちがいがそのまま社会とかくらしぶりのち
がいを表しているとは限りません。 |
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漆器膳
刀子
漆器椀
蝦夷錦
矢筒の飾り金具
太刀煙管
墓標穴 |
上の写真のお墓をわかりやすく図にしたもので す.
今から200年くらい前 (本州の江戸時代の後 半)のお墓です |
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130大川遺跡「発掘調査経過報告」
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このように3000年位前から近年まで、人々の暮らしが途切れずにこの地で営まれていたことがわかりました。
また、貴重な遺物が多数出土しています。
これらの資料の一部は、余市町中央公民館1階ロビーに展示しています。 |
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1990年度発掘風景 |
1989-91粘土検出遺構と出土遺物
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調査概要 |
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調査面積とその年代
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1989-91発掘調査区域
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左上に石組カマドと煙道のある住居跡 |
火事に遭った住居跡
黒こげ柱など発見 |
色々な副葬品の入ったお墓
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土器出土状況
まとまって出土 |
壕状遺構
中世の空堀 |
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140大川遺跡「琥珀」
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コハク (琥珀)の話あれ
琥珀(こはく)は,「虎死して則ち精魂地に入れて石となる」という古代中国の書物の文言より 「琥珀」と呼ばれるようになったようです.
古代中国の人は, コハクが黄色っぽいので虎が死んだ後, 石になったと考えたのでしょう.
日本では平安時代のはじめ頃の『令義解』(りょうのぎげ)という古い書物に「異宝とは虎魄やメノウの類」と書かれているのが初出例のようです.
コハク (amber) は, 松柏類 (しょうはくるい, 松・杉・桧のなかま)のエゾ マツ・メタセコイヤ・ヒノキ・ナンヨウスギ他の樹脂が化石化したものです。
したがって,コハクは鉱物の宝石ではなく,植物起源の有機物ですから, 脆く、非常に軽いので、濃い塩水であれば浮きます。 英語のアンバー (amber)
は, 古代アラビヤ語のアンバール (海に漂うもの)に由来すると言われています。 ギリシャ人は,コハクをエレクトロンと呼びました. 擦すると静電気が起こる
(帯電性の原理) ため, 後に電気のことをエレクトと呼ぶようになったよう です。
コハクの用途は広く、装飾品 (ペンダント・ブローチ・イヤリング・指輪・調度品・パイプ・煙草入れ・数珠等) 薬 (水あたりぜんそく・リューマチ・神経痛・利尿剤等),
塗料 (コハクペイント 高級家具・上等なバイオリンの上塗り 船体の錆止め塗料 海軍兵のボタンの錆止め等),他に香料・線香•蚊いぶし、虫除け等があげられます。 |
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大川遺跡と道内出土のコハク玉
大川遺跡 (1989-1991年度) からは,これまで 2,100点弱のコハク玉が出土しています.このうち, 約2,000点は右の写真(下写真)のお墓から一括して出土しました。
表紙写真は,大川遺跡から出土した主要なコハク玉です.
遺跡から出土したコハクのほとんどは, 風化している場合が多く、非常に脆いため、特殊な薬品を浸み込ませ、強化しなければ砕けてしまう場合が多いのです。 最悪の場合、粉になってしまいます。 保存処理した後も、乾燥しないように気をつけて保管しなければなりません。
北海道で多数 (1,000点以上)のコハク玉が出土しているお墓がみつかった遺跡としては,大川遺跡以外に美幌町元町3遺跡・白老町アヨロ遺跡・門別町富仁家(トニカ) 遺跡・江別市元江別1遺跡等が知られています. これほど 沢山出土している遺跡の事例は,他の都府県にはありません. |
大川遺跡と道内出土のコハク玉
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左:約2000年前のコハク玉が出土(2000年位前のお墓)
右:住居跡の埋土出土の大型琥珀玉(1500年位前のものと見られます。) |
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世界のコハクと日本のコハク
世界の主要なコハク産地は,上図のとおりですが,バルト海沿岸地域のものは良質で,かつ世界最大の埋蔵量(全体の約1/3)を有しているといわれています. コハクで作られた製品は1万年以上も前からありました. また, 古代 のフェニキアやギリシャ・ローマ等の商人達は, バルト海沿岸地域の良質なコハクを金の重さと同じ価格で買い入れ, シルクロード (絹の道) ならぬ、 アンバー・ロード(amber road, コハクの交易路) を通じて地中海諸国にもたらしました.特に, 黄金のような黄色いコハクは非常に高く評価され, 物によっては最も高値の奴隷と交換することができたそうです.
日本のコハク産地は,岩手・千葉・石川・長野・岐阜・福島・茨城・兵庫県 等にありますが,特に岩手県久慈市や千葉県銚子市のものが有名です.近年,
北海道でも特に産炭地流域の河川より発見されてきています. |
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150大川遺跡「恵山文化」
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恵山文化
本州で縄文時代が終り弥生時代に入る頃,北海道では,それまでと基本的にはあまり変わることがないつまり 縄文文化の伝統を 継承する狩猟・採集・漁撈経済を生活の基盤とした時代が続いたようです.その時代を続縄文時代と呼んでいます.
恵山文化は,その前半(2,200年~1,800年位前) に位置づけられる文化で, 道南の恵山町恵山貝塚にちなんでそう呼ばれています.
恵山式土器(表紙写真) とは恵山貝塚から出土した土器を基準として,それに似ているもの, その系統をひくと考えられるもの全体をさして呼んでいます. つま り,恵山式土器を特徴とする文化なのです.
弥生文化は,青森県まで確実に達していましたが, 青森での稲作 は短期間しか続かなかったようです. そもそも熱帯性植物である稲 を長期間作り続けることは,やはり気候の面から無理があったよう
です。ましてや、更に北にあり, 気候も涼しかった北海道のこと, 現在でこそ稲作は北海道の大半の地域まで広がっていますが,当時 はなかなかむずかしかったようです.
それに, 海の幸や山の幸に恵
まれ,豊かな生活を維持でき たので、無理に稲作を受け入れる必要はなかったようでもあります。
左の図は恵山文化の主な遺跡です。 道央部~道南部一帯に広がる文化であったことがわかります.大川遺跡は,日本海側における恵山文化の代表的な遺跡であると言えます。 |
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大川遺跡から見つかった恵山文化期のお墓 (2,000年位前のものとみられます) |
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左のお墓出土の土器 (ミニチュア土器の壺には, びっちりとベンガラ(赤色顔料)
がつまっていました) |
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大川遺跡からみつかった恵山文化期のお墓 ( 1,800年位前のものとみられます) |
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バラエティーに富む恵山文化の遺物
恵山文化のお墓から出土する遺物は,上の写真にもあるように,
他のどの時代・どの時期のお墓と比較しても内容が豊かです. ヤ
ジリヤリ・ナイフ・掻器 (毛皮の裏の脂などをかきとる道具)・ (オノ等の石器はいうに及ばず、魚形石器・各種骨角器・カラフルな 各種の玉等の他に, もちろん、りっぱな土器が伴ないます. 腐って しまって、みつかりませんが,それらの土器には,ごちそうをふん だんに納めて, 故人に供えたことでしょう. 恵山文化期の人々のゆ とりを感じさせるに充分です。 |
バラエティーに富む恵山文化の遺物 |
バラエティーに富む
恵山文化の遺物
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魚形石器 |
大川遺跡出土の
魚形(ぎょけい)石器 (2,000年-1,800年前のもの とみられます) |
滑石製有孔石製品
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大川遺跡出土の 滑石製有孔石製品 (1,800年位前のも のとみられます) |
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160大川遺跡「鉄器」
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鉄器を出土した余市町内の主な遺跡
余市町内には多くの遺跡があり、その中には大川遺跡と 同じように鉄器を出土している遺跡もあります。
ヌッチ川遺跡からは150~300年位前の船釘・かすがい・釘・銛・鎌 ・鉤針・マキリ・サバサキ・鍋などが,
天内山遺跡からは1300年位前の刀子・鎌・鉄輪・鉄斧・大刀,150~300 年位前の鉄鍋・マキリ・船釘などが出土しています。 |
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擦文期の直刀と
アイヌ期の太刀 |
上写真:擦文期のお墓から出土したものです。上の直刀は約80cmです。
下写真:これらはアイヌ期のもので,上の太刀は約56cmです。 |
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上:刀(打刀ともいう。刃を上にして腰にさす)
柄,鍔,切羽,笄,鞘
下:太刀(刃を下にして腰に下げる)
兜金,柄,櫓金,鞘,責金,石突 |
刀について
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刀について 刀について
刀とは身の片側に刃を付けた武器の一種です。大きさにより大刀・小刀の区別 があり,最も小型のものは刀子と呼ばれています。
弥生時代~古墳時代前半には内反の刀 (刃の部分が内側に反っている刀),
古墳時代には日本独特の平造りの直刀が流行し,
平安時代初期には強い反 りをもった日本刀が現われるようです。
今のところ大川遺跡では,擦文時代早 期(1300年位前) のお墓に副葬された直 刀と,アイヌ期(200~300年位前)のお墓に副葬されていた強い反りをもつ刀が
出土しています。 |
鉄製耳輪
(擦文文化期の装飾品)
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マレク
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マレク (アイヌ語で突鉤のこと。引っかけて魚をとる道具)
マレクによるマス漁
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その他の鉄器
刀の他に鉄が使用されていたものは,
農具 (鎌鋤先),漁具 (鉤 ヤス 釣針モリ先) 調理用具 (鉄鍋 包丁)
装飾品(鉄輪),武具 (鎧の小札)や 船・釘・かすがいなどがあります。 |
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鉄鍋 (吊り耳の鉄鍋で、 口径 51cm,高さ23cmです。 この他に内耳の鉄鍋もあります)
鎌 (これらは近世 ・近代に使われて いたものです)
鋤先 (木にはめこんで畑を耕すのに 使います) |
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170大川遺跡「4年間の発掘調査の成果」
大川遺跡調査の成果 |
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1989-1992
検出遺構と遺物 |
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180大川遺跡「ニシンの歴史と石組炉」
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大川遺跡でみつかった近代の石組炉
大川遺跡では,表紙や下の写真にみられるような石組炉が, 6ヶ年間 の発掘調査によって, 50ヶ所みつかりました。 これら石組炉の年代は, 明治~昭和までのものとみられます。
写真や上の分布図を見てわかるように, 2ないし3ヶ所の石組炉が1 セットとして使用されていたようです。 効率良く作業を進めるに都合が 良かったからではないでしょうか。
四角い石組炉の方が丸い石組炉より も,若干新しいものが多いようです。
これらの石組炉は、見開きのページ右下「ニシン釜による滓炊き風景」 の写真のように使用されたものとみられます。
石組炉構築の順序は,1穴を掘る。 2 炊き口を除く壁に石を積み上げる。 3石の隙間に粘土を充填し, 敲きしめる。 という、いたって簡単な作り方であったようです。 |
鰊と石組遺構 |
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大川遺跡 (1989-1993年度), 近代の石組炉の分布
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ニシンの歴史と余市の繁栄
ニシン(鰊)の歴史 縄文時代以来ニシンを食べていました。 ニシンの骨が遺跡の貝塚等から出土しますので,食べていたことがわかるわけです。 当時は,ニシンに限らず,他の海の幸も非常に豊富でした。
ヨーロッパでも,新石器時代以来ニシンを食べていたようです。特に中世ヨーロッパでは,ニシンの利権をめぐって, ドイツのハンザ同盟とデ ンマークとが戦争まで起こしました。
一方、日本では,中世において数の子が足利将軍の接待の膳に添えられるなど, 珍味とされていました。 北海道でも、室町時代の終わり頃には 和人による鰊漁が行われていました。
江戸時代のはじめまでは,和人による鰊漁が道南に限られていたのですが,後に,積丹方面などにも漁に来 るようになりました。
江戸時代の後期には数の子が一般家庭の祝膳にものぼるようになり, 身欠き鰊も出回りました。 それに加え, 釜で煮た鰊を 締めて油を絞り, 残った締め粕が,肥料として本州方面に移出されるようになりました。 そして, 東北地方や北陸地方などで米の増産に大きく寄 与するようになったのです。
明治に入ると, 豊漁が続いたこともあって, 速く大量に締め粕をつくる技術が工夫されました。 この頃が無漁の全盛 期でした。しかし,乱獲がたたり,昭和に入ると徐々に鰊の漁獲は減少傾向を示し,昭和29(1954)年を最後に,鰊はとれなくなりました。
余市繁栄の礎 余市において鰊漁が盛んになるのは,江戸時代の終わり頃です。急激な鰊漁獲量の増加に, 長い間続いた神威岬以北への婦女子 通行禁止の解除や,岩内~余市間の道路の開鑿などもあいまって, 余市における和人定住者が増大しました。 その後, 鰊の豊漁が続いたことで, 資本力のある漁業家が育ち,明治の終わり頃には,余市の産業生産高の64%が漁業によって占められました。
この頃,猪股安之丞という網元が宮大工に造らせた「鰊御殿」は,定紋入りの瓦を本州に注文したり, 庭園には大判の花崗岩を敷き詰める など,贅を尽くした,
敷地で一町四方を越える大邸宅だったということです。当時の余市鰊漁の隆盛を物語る建築物といえるでしょう。
漁業資本に基づく金融機関も設立され,漁獲物の加工・販売等に関わって経済活動も隆盛をきわめ,町の発展に大きく寄与しました。 このように,今日の余市繁栄の基礎を築いたのが,鰊漁でした。 |
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190大川遺跡「ガラス玉」
大川遺跡「ガラス玉」 |
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大川遺跡 GP-608出土のトンボ玉等
大川遺跡 GP-600出土の青玉
大川遺跡 GP-608出土のトンボ玉等 |
 大川遺跡 GP-608出土のトンボ玉等
大川遺跡 GP-600出土の青玉
大川遺跡 GP-608出土のトンボ玉等 |
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ガラスの歴史とトンボ玉
ガラスの起源 ガラスがいつ、どこで人工的に作り出されるようになったか,明らかではありませんが、考古学的調査によって発見された資料で,最古のものが,エジプトやメソポタミアでみつかった4,000年位前の人工 のガラスです。その後,各地でガラスが作られたようです。
ヴェネチアングラス 1291年には,ガラス産業の保護育成をはかるために, 総てのガラス職人をヴェネチア沖の小さなムラノ島に強制移住させました。 そし て,島外不出の掟を守らせて, ガラス技術が国外に流出することを防いだのです。 ヴェネチアには,ガラスを作るための硅石も燃料もなく,総ての材料を国外より輸入していたわけで,もし, ガラス製造の秘密が国外に漏 れたならば,原料や燃料をもっている国は,その独占的な供給をできなくしてしまうに違いありません。 ヴェネチア当局は,そのことを十分考慮し,総ての職人を沖合いの孤島に幽閉し,その秘法を守ったわけです。 そし て、島内の職人たちには,ガラス工芸の発展に寄与したものは、貴族の位にまでも身分を引きあげるという恩典を与えて将励したのです。そのかいもあって、ヨーロッパにおける独占的な立場を維持することができたわけ です。 したがって,当時,ムラノ島のガラス職人達の引き抜きも苛烈をきわめたようです。 島外に出れば死刑に 処せられるけれども、秘かに提示される身分保障に惹かれて島から逃亡を企てたものも少なくなかったというこ とです。これが, 有名なヴェネチアングラスです。
透明なガラス水晶のような無色透明なガラスを作るこ とは,現在ではなんでもないことですが,ローマ時代以来,ガラス職人達が抱きつづけてきた夢でした。その夢 が叶えられたのは,化学的調合法が確立した17世紀に入ってからのことです。
トンボ玉 トンボ (蜻蛉) の眼玉 に似たところから付された名称ですが,複数の色ガラスを使用した玉を,特に,そう呼んでいます。 トンボ玉は, 中世~近世に北海道に入って来たようですが,本州からのものと,大陸からのものがあったようで,
本州からの ものは,近世にならないと入って来なかったようです。 トンボ玉の技術は、16世紀頃に長崎に伝来し, 大坂・堺 をへて,近世においては、江戸にも伝わったようです。特に,江戸時代,
堺で作られたトンボ玉 (サカトンボ) は, 日本海航路によって蝦夷地にも持ち込まれていたようです。 |
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 中国のトンボ玉 (2,500年位前),
『世界ガラス美術全集』より転載 |

シェブロン玉 (300年位前), 『トンボ玉』より転載 |

江戸トンボ玉各種
アイヌ玉各種
(200年位前)
『トンボ玉』より転載 |
 イランのトンボ玉 (2,300年位前)
ヴェネチア玉とオランダ玉 (300年位前)
エジプトのトンボ玉 (2,500年位前)
『トンボ玉』より転載 |
 シェブロン玉 (300年位前)
モザイク玉 (300年位前)
『トンボ玉』より転載 |

シェブロン玉 (300年位前)
トンボ玉』より転載
吉野ヶ里遺跡出土のガラス玉
(2000年位前)『世界ガラス美術全集』より転載 |
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大川遺跡 お墓から出たガラス玉
大川遺跡では,これまでに(1989~1993年度)ガラス玉が約1,000個出土しました。このうち, 約700個が, お墓から出土したものです。
その出土状況の主な写真を掲載しました。
時代的にも, 続縄文期・擦文期・中世・近世と各 時代に及んでいます。
GP-600(第600号墓)からは 252個, GP-608からは421個のガ ラス玉が伴出しました。特に, GP-608では非常に珍しいトンボ玉71個が含まれています。
遺跡出 土のものとしては最も多い点数で あり国内でも非常に珍し い調査例となりました。 |
大川遺跡 お墓から出たガラス王
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お墓出土のガラス玉と渡来銭
GP-600出土の耳飾り (左)・刀子 (右)
GP-608出土の人骨 |
 GP-600出土の漆器(左)と青玉
GP-608出土の漆器・渡来銭等
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 GP-600出土の漆器と耳飾り
GP-608出土の渡来銭とトンボ玉
GP-46出土の人骨と太刀 |
 GP-600出土の頭蓋骨とガラス玉
中世墓出土のトンボ玉と渡来銭等
GP-46出土の漆器とガラス玉 |
大川遺跡GP-4出土
中世のガラス玉 |
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200大川遺跡・入舟遺跡の近世遺構
表紙絵 |
入舟遺跡
大川遺跡 下ヨイチ運上家 |

大川遺跡 入舟遺跡 |
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表紙の写真は上下とも「北海道歴検図」(北海道大学中央図書館北方資料室蔵)所収の余市の当該絵画の写真です。
原名は 「延叙歴検真図」, 目賀田帯刀の筆によるもので, 安政6 (1859) 年頃の自筆本 (彩色) で, 折本28冊からなる美麗な風景 画です。
幕命により安政3~5(1856~1858)年の間、北海道・樺太の 地理調査を実施し, 682景からなる絵図を作製しました。 「北海道歴検図」は、明治4年(1871) 年, 開拓使の要請により目賀 田が再写したものです。
幕末の余市川周辺の様子が詳しく描かれているだけに大変貴重で,大川遺跡や入舟遺跡の近世遺構を理解するのに, 恰好のものです。 入舟遺跡 (余市川の左岸)側には家の近くに倉庫様の建物が建っています。発掘調査の結果が興味あるところです。
目賀田帯刀, 号は文信, 通称は帯次郎, のち帯刀といい,維新後は守蔭と改名。 文化4 (1807)年江戸に生まれ,幕府旗本目賀田弥左衛門の長子で、後に清水家の用人となり詩歌を好んだ。弟介庵と共に谷文晁の門に入って画をよくし,文晃の娘と結婚しました。
幕命により安政3~5(1856~1858)年の間、市川十郎・脇屋省輔・榊原銈蔵と共に東西蝦夷地(北海道)と北蝦夷地 (樺太) を調査し,絵図を作製しました。
明治元(1868) 年,大学南校の前身である開成所の頭取に推挙され,明治2年、開拓使御用掛となり,明治3年5月外務 史生に任ぜられ樺太取調掛となり、同年10月外務文書大令史に転じ、明治5年正院御用掛,ついで内務省,後に外務省に勤務し,明治15
(1882)年7月27日 76歳で没しました。
北海道歴検図(ほっかいどうれきけんず)
延叙歴検真図(えんじょれきけんしんず)
目賀田帯刀(めがたたてわき)
目賀田守陰(めがたもりかげ)
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大川遺跡・入舟遺跡の近世遺構
大川遺跡 6年間 (1989~1994年度) の発掘調査によって, 近世後半~明治頃まで使用されたとみられる建物の柱跡を示す礎石が290個程みつかりました。
実際には,この2倍位の数の礎石があったと類推されますが,後世に動かされたり,再利用されたり,といったことで,最初おかれた位置から動いているものがあるようです。このような礎石については,実測や撮影・集計等を実施していません。このうち,
1989・1990年の両年度に亘って出土した右上の図のような礎石列の位置に,運上家とその関連する建物が建っていたと断定するにいたりました。 表紙の絵図もその有力な根拠のひとつですが、いくつかの物的証拠としての伴出遺物も断定するに充分な根拠を与えてくれました。
文化3 (1806)年~文政3 (1820) 年にかけて場所請負人であった○(マタジュウ) 柏屋藤野喜兵衛の屋印が朱書きされた染付皿, 文政3
(1820) 年~明治2(1869)年にかけて場所請負人であった全 (ヤマジョウ) 竹屋林長左衛門の屋印が打ち出された小判型の絵銭(上棟銭むねあげせん)や底面に「全」が墨書された染付の銚子等が決定的な根拠となりました。
入舟遺跡については,大川遺跡よりも礎石が小さい事, 礎石列が長くない事等からも、小さな建物しか建っていなかったようです。 |
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大川遺跡・入舟遺跡の近世遺構
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大川遺跡出土の礎石列
(右と左の写真は1990年度出土の
最大の建物があったとみられる場所)
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 ←入舟遺跡出土の礎石列
→入舟遺跡出土の礎石列
(ほぼ1間間隔で礎石を確認) |
大川遺跡の近世・近代と考えられる遺構の分布 (1989年度 1990年度の発掘調査による)
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大川遺跡出土の礎石列
(右上の溝は明治以降の建物によるもの)
大川遺跡出土の礎石列 (ほぼ1間間隔) |

大川遺跡 出土の礎石
(礎石の上に柱がのったまま検出) |
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210大川遺跡「土鈴」
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お墓から出た土鈴
右の写真は,土鈴出土のお墓の様子を示す写真です。このお墓は 3,000年位前(縄文晚期前葉)のもので,径が1.5m×1.3mで,確認面か ら約60cmの深さでした。土鈴は、このお墓を埋葬する際に使われ,埋 め戻された土の上に置かれたか、あるいは何かに吊したものなのかも しれません。
遺体は腐って骨すらも残存して いませんが、真っ赤なベンガラ (赤色顔料)が厚く撒かれているの が印象的です。
この土鈴は穴がなく、封じ込め るタイプのもので,中には小さな 物質(種子か小礫か?)が入ってお り,振ると「カラカラ」という乾い た音色を発します。
どのように使われ、 なぜお墓の 上に置かれた状態で出土するに至 ったのか、何としても知りたいと ころです。 |
お墓から出た土鈴
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 第914号墓壙の遺体検出状況 |
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第914号墓墳の地層断面図
お墓の底から出土したヒスイの玉 |
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建物跡から出た土鈴
左の写真は1,700年位前(続縄文期中葉)の竪穴状の建物跡の様子です。 直径は約3.6m, ほぼ円形, 小型の建物跡で住居跡ではないようです。 これには炉もなく生活臭が全く感じられません。したがって作業を行っ た工房跡(アトリエ)ではないかと考えています。というのは、石器製作 の際に出る黒曜石の屑 (チップ)が多量に床面から出土したからです。
土鈴は,これらと同様、床面から出土しました。 表紙のX線写真のよ うに、中には6個の土の玉が封じ込められており、 振ると 「コロコロ」と いう音色を発します。 石器製作と何らかの形で関連するものなのか、あ るいは偶然に床面に残されたものなのか不明です。
はるか1,700年前の音色をあなたも聞いてみませんか。 |
建物から出た土鈴
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第16号建物跡 (ほぼ円形)
第16号建物跡床面出土の遺物 |
第16号建物跡床面出土の土鈴
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土鈴 一知半解
左の図1~12が縄文時代の主要土鈴, 右の図 13~20が古墳時代~平安時代の土鈴です。 弥生時代の土鈴の出土例はありませんが,大川遺跡出土の図12の土鈴は続縄文期の中葉のものですので、しいていえば概当します。しかし,
続縄文期は北海道の縄文時代における最後の時期と考えています。
縄文時代の土鈴は,これまでに東日本の約30の遺跡から, 50点以上出土しています。最古の土鈴は縄文中期のもので左図のとおりです。図1は、いわゆる鳴る土偶で,全国で3例しか出土していないもののうちの1点です。道南の上磯町添山遺跡から鳴る土偶が1点 出土していることが最近確認されました。 縄文晩期の中空土偶で, 足の部分に土の玉が入っていて,「コロコロ」という音を発します。非常に貴重な資料ですが残念ながら胴部を欠いていて,頭部と下半身しか存在しません。
土鈴最多出土の県は山梨, 次いで長野で,どちらも、縄文中期の遺跡が多い地域です。 図2〜7のように山梨県の釈迦堂遺跡で, 18 点程出土しています。
これらは現在, 釈迦堂遺跡博物館に展示され ています。 縄文時代の土鈴の多くは密閉型のもので,檜原遺跡出土 の鳴る土偶のような資料は、非常に稀な例です。
一方,古墳時代から古代・中世・近世・近代・現代までの土鈴には密閉型のものがほとんどありません。広網遺跡(14~19)は,15点の土鈴が出土しており、
遺跡の性格が問題となっています。 図20 の高砂遺跡の土鈴は擦文期のもので2点出土しているうちの1点です。 あとの1点は旭川市錦町5遺跡のものですが,
残念ながら欠損品です。
古墳時代~平安時代の土鈴の50%程度は住居跡からの出土です。それもカマド周辺から出土する傾向がみられます。 また, 玉や各種 土製品や刀など、祭祀遺物との関連が強いといわれています。
特に, 窯業関係遺跡からの出土例が比較的多いため, 窯業に関連する祭祀に使用されたと考えている研究者もいます。 縄文時代のものを除く 土鈴の出土遺跡は、
約100 遺跡, 合計170個を超えるようです。
縄文時代のものは音楽史上での楽器分類上はラトル属 (ガラガラ) に位置づけられると考えられています。一方後出のものは,特に奈良や京都などの都あるいは,
寺院・神社・経塚・墳墓等からの出土 がほとんどみられないため,より地方的・庶民的遺物で,鈴の代用 品と考えることも可能ですが,独自の存在理由があったと主張している研究者もいます。
現在でも,観光地のお土産屋さんに並んでいるのをよくみかけますね。 |
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1 鳴る土偶,縄文中期
2~7山梨県釈迦堂遺跡,縄文中期
8 無文,縄文中期
9 無文,縄文中期
10 裏表紙参照,縄文晚期
11 無文,縄文晚期
12 裏表紙参照,縄文期
東京都楢原遺跡
大川遺跡
埼玉県台遺跡
青森県是川中居遺跡
長野県井戸尻遺跡
大川遺跡斷 |
土鈴一知半解
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13 東京都中田遺跡, 古墳時代
14-19 福島県広網遺跡,平安時代
20 北海道小平町高砂遺跡,擦文期 |
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220大川・入舟発掘成果
大川入舟発掘成果 |
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各時期とおおよその年代
縄文後期(3,800~3,000年前)
縄文晚期(3,000~2,200年位前)
続縄文期(2,200~1,300年 前) -弥生·古墳時代-
擦文期(1,300~800年位前) -飛鳥・奈良・平安時代-
中世(800~400年前) -鎌倉·室町時代等-
近世(400~130年前) -江戸時代-
近代(130年前~) -明治時代以降- |
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230入舟遺跡足形付土版
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写真2 北海道苫小牧市美沢3遺跡
足形付土版出土状況
(縄文時代早期
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写真3
青森県六ヶ所村
大石平遺跡出土の足形付土版
(縄文時代後期, 右足 1995年に重要文化財指定 |

写真4
岩手県滝沢村湯舟沢遺跡出土の足形付土版 |
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5a足形付土版(左足,裏)
5b手形付土版(左手,表)
図1中平遺跡
(遠藤正夫氏原図)
写真5・図1 青森県三戸町中平遺跡
出土の手形・足形付土版
縄文時代後期 (?) 表裏に左手と左足、斜めに貫通する2孔あり |
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写真6
新潟県山北町上山遺跡出土の足形付土版 |
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入舟遺跡出土の足形
付土版2点は,縄文時代後期前葉(3,800年位前)に作られ,
足形の大きさ(長さ10.5cm,幅5.4cm,厚さ1.5cm)や特徴から、1歳前後の男の子のものとみられます。
確たる足形付土版の出土例は,入舟遺跡例を含めて,これまでに北海道(図2~8, 写真1・2)で9点,本 8.5 州 (図9~14, 写真3~6)で6点あります。 その他に、手形と足形が表と裏に残された非常に珍しい土版 (写 真5・図1)が青森県三戸町中平遺跡(三戸町立溫故館蔵)から1点、更に指の痕がハッキリとは確認できませんが,足形付土版の可能性のある資料が岡山県倉敷市中津貝塚(水原岩太郎 1935, 倉敷考古館蔵)から1点 (図15) 出土しています。
足形付土版は、縄文時代早期後葉(7,000年位前)~縄文時代晩期前葉 (2,800年位前) まで,各時期に作られたようですが、大半は縄文時代後期前葉 (3,800年位前) 頃のもののようです。いずれにしても、ほとんどの足形が,幼児ないし子供の大きさであり、ほとんどの足形付土版に孔があることから, 健やかな成長を祈願して残された、いわば縄文時代における絵馬とでもいうべきもの
かもしれません。 |
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