西日本の縄文 北陸の辺縁は何処 01 2015.9.21
京都市考古資料館 京都市上京区今出川通大宮東入元伊佐町265-1 075-432-3245 月曜休館
交通 京都駅前バスターミナルB2乗り場から101系統 (急行) に乗り「今出川大宮下車」 バス停前。
【毎正時00 15 30 45 に発車】
見所 京都で唯一撮影可能の資料館 古代以降の文物が豊富。 京都市考古研究所は古くからある定評のある専門機関です。
注意 文書資料が豊富で、コピー機があり、コピーできます。有料だと思いますよ当然。
京大博物館に行くと沢山の資料が見られますが、当然撮影禁止です。京都の考古資料はほとんど京大が独占的に占有しています。
|
目次 |
01外観
10旧石器時代
20縄文時代
30弥生時代
40古墳時代 |
50古代
51飛鳥・奈良時代
52平安の新京
53平安京の造営
60中世の京都 |
90二条城観光 |
|
01外観
旧西陣織物会館です |
玄関ホールに大きな鴟尾(しび)があった。右側の
撮影忘れです |
この奥に特別展展示室があり、
二階が常設展示室です |
|
10旧石器時代
原始時代の京都 (―AD250頃)
|
数万年前の後期旧石器時代から、京都盆地にも石の道具を使った人々がいた。
市内各所からナイフ形石器や石器を作るときに出来た破片や石屑が見つかっている。
縄文時代には食べ物の煮炊きや貯蔵に土器が使用されるようになり、生活が向上するとともに定住が進んだ。
北白川遺跡群は代表的な遺跡である。北白川上終町遺跡の縄文時代早期の竪穴住居はその端緒である。
また、縄文時代晩期には土器を棺にした墓も作られた。土偶などの出土品からも精神世界を伺うことができる。
近年までは西山のふもとで上里遺跡などの縄文時代の遺跡が次々と見つかっている。縄文人の痕跡は意外なほど濃密である。
弥生時代には、農耕が生業の中心を占めるようになる。京都で一番古い弥生土器が見つかった下鳥羽遺跡をはじめとして、京都盆地中央部に数々の集落が形成された。また、新しく伝わった鉄製の道具が使用されるようになり、石製品・木製品も大きく変化した。
やがて社会の変化が進み、支配するものと支配されるものとの格差が生まれてくるのもこの時代である。 |
先土器時代(獲物を追う人々)
|
岡崎の京都市動物園内から今から2万数千年前の動物の足跡が発見された。
この足跡はヤベオオツノシカやヘラシカなどの大形動物の足跡である。時代が分かったの、姶良火山灰の科学的分析による。
出土した植物からすると、白樺が自生するようなかなり寒い気候だったようだ。
まだ、土器が作られていないこの時代、石器を使い山野に獲物を追う人々がいた。中臣遺跡のナイフ形石器は、石器と火を道具にして暮らすこのような人々がいたことを示している。 |
原始の京都-AD250頃
後期旧石器時代のナイフ形石器やその破片が出土 |
原始時代の京都縄文早期の北白川遺跡群
晩期の土器棺・土偶
西山の麓 上里遺跡 |
先土器時代の遺跡分布 |
先土器時代(旧石器)中臣遺跡のナイフ形石器
2万年前 山科区 |
二万数千年前の大型動物の足跡岡崎動物園オオツノシカ・ヘラジカなど |
尖頭器 ・ナイフ形石器 |
|
20縄文時代
土器の使用
|
今から約8500~8000年前の縄文早期の竪穴住居が見つかった。北白川の地で土器を作り、住居を造って生活を始めた人々がいた。
先土器時代と違い、土器を煮炊きや貯蔵に使うことによって、生活は大きく向上した。
北白川一帯には、縄文時代の遺跡が広がっている。盛んに山野に食べ物を求め、縄文人が活躍していた。
縄文時代晩期の土器を使った墓も見つかっている。人を埋葬することも、人々の重要な生活の一部だった。 |
縄文時代の遺跡
京大付近に集中している |
石鏃・石剣・凹石・石錘 |
土器の使用京都では8千~8.5千年前に北白川式土器登場
煮炊き・貯蔵用
縄文晩期に土器を使用した墓も見つかっている |
押型文土器は、大陸沿海州付近に出自を持つ人々が持ち込んだ土器 |
京都最古の竪穴住居
縄文早期 北白川上終町 |
甕に人骨が納められた
縄文晩期 |
分銅形土偶(分銅形土製品と同じ)※1 |
|
縄文土器深鉢 磨消縄文に刺突文の土器 |
木の葉 中久世遺跡 |
すり石・石皿 |
深鉢 |
縄文時代竪穴住居
|
北白川上終町遺跡で発見した縄文早期(8500~8000年前頃)の竪穴住居跡を型取りした実物大レプリカ。
長径2.8m短径2.4mのほぼ円形に地面を掘り窪める。淵沿いには11基の柱穴があり、南側の間隔が広い部分は出入り口と考えられる。 |
|
30弥生時代
弥生時代(農耕の展開)
|
稲作が始まると、稲を管理し、育てるために一定の場所に定住するようになり、人々の生活は大きく変化した。
川の中から見つかった烏丸綾小路遺跡の多量の土器は、そうした生活ぶりを反映している。
弥生時代になると貧富の差が生まれ、戦争も行われるようになる。岡崎遺跡の方形に溝を巡らす墓は、すでに人々を支配する権力が生まれていたことを示している。中臣遺跡の焼けた住居跡は戦争の跡かもしれない。 |
農耕の展開稲作の開始で人々は定住した。半島の身分制度や権力財力の差は最初からあった。 |
下に同一反復しています |
弥生時代の遺跡 |
弥生土器 蓋・壺 |
弥生土器 蓋 |
線画土器 |
壺 |
甕 |
石槍・石鏃・磨製石剣
蛤刃石斧 |
蛤刃石斧・柱状片刃石斧
鑿(のみ)状石斧 |
木製曲柄・石包丁
砥石 |
木製鋤(すき)木製鍬(くわ) |
弥生土器
甕・壺 |
壺 |
甕・壺・壺・器台 |
弥生コーナー全景 |
|
|
|
40古墳時代 -山背の豪族たち- AD250頃~784年
|
ヤマト政権の成長に伴い、京都盆地でも首長たちの古墳が次々と築かれるようになる。
天皇の杜古墳は整った形をとどめている古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘は葺石や埴輪で飾られていた。
この頃の副葬品は銅鏡や玉、鉄製の武器が中心である。
古墳時代後期は大きな石材を用いる横穴式石室が特徴で、封土を失い石室が露出した蛇塚古墳は、代表的な首長墓である。
一方山間部には大枝山古墳群や醍醐古墳群などの規模の小さな石室を備える群集墳が営まれた。
石室からは遺体が身に付けていた金環などの装身具や多量の須恵器が出土する。
また、この時期には朝鮮半島からの渡来人により、治水工事や大規模な造成工事に不可欠な土木技術や養蚕・須恵器生産など、進んだ文化や技術がもたらされた。中でも秦氏は大きな役割を果たした。
飛鳥・奈良時代になると、京都盆地も律令制の仕組みに組み込まれ、山背国となる。古墳の造営は終焉を迎え、仏教の興隆に合わせて盆地の各所には次々と寺院が建立された。寺院の屋根には意匠豊かな瓦が葺かれていた。 |
|
50古代
51飛鳥・奈良時代 -寺院の建立-
|
律令制度が整備され、国家規模による開発も行われるようになる。大藪遺跡のように堰をこしらえ、川を管理、利用する大規模な開発がこの頃行われている。
また、仏教が伝わると次第に古墳は作られなくなり、各地の豪族は競って寺院を建立する。
京都盆地の周辺にも北野廃寺や橿原廃寺など、次々と寺院が建てられた。北白川廃寺もその一つである。
寺院には朝鮮半島から伝わった新来の技術で作られた瓦が葺かれていた。 |
寺院の建立
(飛鳥・奈良)律令制下の大規模開発
薄葬礼による寺院の建立 |
|
軒丸・軒平瓦 |
瓦・三彩皿 |
水量調節の堰/大藪遺跡 |
山麓に聳え立つ塔/北白川廃寺 |
長岡京の造営(AD784-794) 向日丘陵~桂川付近に造営。 桓武天皇が仏教勢力や、貴族勢力の力をそぎ、政治刷新を目的にしたが10年で終わった。
長岡京南東隅では大量の人面墨書土器や人形などを用い、災いを祓う祭祀が行われた。
洪水など天変地異など災いが多く、世情は不安定だった。
|
長岡京は向日町丘陵から桂川に向けて広がる緩やかな傾斜地に造営された。
新しい都では、桓武天皇の指導の下、政治の刷新が目指されたが、僅か10年間の短命に終わる。
発掘調査では、長岡宮はもとより居住に適した場所を選んで、京域の広い範囲に道路や住宅が整備され、精力的な都づくりがすすめられていた様子があきらかになってきている。 |
短命の都(長岡京)
|
都づくりのために長岡京に木材が運ばれてきた。このことを示す木簡が長岡京左京三条一坊の川跡から多数見つかっている。
10年の短命の都であったが、木材を運び、盛んに都づくりが行われた。
一方で、都の南東隅では、大量の人面墨書土器や人形などを用い、災いを祓う祭祀が行われている。洪水で浸食された東二条大路は大きな災害を予測させる。長岡京は災いが多く、施錠は不安定であった。 |
飛鳥・奈良コーナー |
短命の長岡京造営 |
|
人面墨書土器を祭祀に用いる |
都造営木材の陸揚げ場 |
洪水で浸食された東二坊大堤 |
|
52平安の新京(AD794-1185)
|
平安京は律令国家が建設した最後の都城である。
北辺中央には平安宮が位置し、儀礼や政務の場としての大極殿・朝堂院、饗宴の場としての豊楽院、天皇の住まいである内裏を中心に、政務を支える役所が集約された。
平安京域には、朱雀大路を中心街として、東西・南北の大路・小路により碁盤目状の街区画が整備された。現在の区役所にあたる京職、外国からの使節を迎える鴻臚館、官営の市、東寺・西寺などが造られた。また、貴族には広大な敷地が与えられ、雅やかな苑池を備える邸宅もあった。
その一方で、庶民は狭い宅地でささやかながらも、力強く生活を繰り広げていた。
遺跡から多種多様な遺物が出土しており、平安京に暮らしたさまざまな階層の人々の生活をうかがい知ることができる。
平安時代後期になると、右京域は徐々に衰退、市街地は左京域が中核となり、小規模な町屋も見られるようになった。
また、鴨東の白川殿・法住寺殿や、洛南の鳥羽殿には、上皇の権勢のもと、大規模な寺院や殿舎と共に広大な苑池が造営された。 |
律令国家最後の都城。平安宮・大極殿・朝堂院・豊楽院・内裏。の中枢機関
朱雀大路中心の条里制
鴻臚館・東西に市・寺。 |
平安の新京貴族の豪邸やさまざまな階層の生活痕があった |
宮都の移り変わり
|
|
平安京の遺構 |
|
|
金銅製飾り金具 |
白色土器 |
鬼瓦 |
土師器 杯・高坏・皿・壺 |
須恵器 椀・杯・皿・壺・
杯と蓋 |
「南曹」銘の灰釉陶器 |
輪宝 橛けつ・くい |
白色土器 椀・三足盤 |
主馬・酒・土師器
監・須恵器 |
|
|
|
53平安京の造営(平安時代) 延暦13年桓武天皇平安遷都(794)
|
延暦13年(794)、桓武天皇は葛野の地に都を遷す。平安京である。国を挙げて都づくりが進められ、朝堂院や豊楽院、内裏など、平安宮(大内裏)は優先され、急ピッチで進む。
大極殿や豊楽殿の屋根には緑色の瓦が葺かれ、軒先には鍍金された飾り金具が輝き、大棟には鴟尾が威容を誇った。天皇の住まいである内裏には、整備された檜皮葺の建物が立ち並んだ。次第に京全体の整備も進み、平安京は都として景観を整えて行った。 |
都人の生活(平安時代)
|
藤原氏をはじめとする高級貴族には、広大な敷地が与えられ、優雅な寝殿造りの住居に住まいしていた。
堀川院や高陽院の園地跡は、その優雅生活ぶりの一端である。
一方、靱負小路に面する西市外町の右京七条三坊の宅地は狭く、貴族の宅地と比べると、粗末な小屋が建つ程度である。
平安京に暮らす人々の生活ぶりは、石帯や高級食器、役所名や和歌を示す墨書、銭や布、下駄やまな板などによく表れている。 |
都が移ってきた。
京都の始まりです。 |
平安京の造営大極殿・豊楽殿には緑色瓦・軒瓦は渡金された金具が輝き、内裏は檜皮葺 |
|
木簡 皇朝十二銭 銭貨
木製 盤 削りくず
木製升 |
鬼瓦 |
木製桧扇 木製櫛 |
腰帯(石帯)のバックル |
漆器 椀 皿 壺 |
都人の生活豪勢な権力者・貴族・豪族と、
庶民の貧しい暮らしと |
人形代 ひとかたしろ |
墨書人面土器、ミニ鍋・かまど、灰釉陶器蓋・壺 |
灰釉陶器 浄瓶・段皿・皿
平瓶・壺・椀 |
灰釉陶器 皿・椀・角皿・椀・耳皿 |
木製 曲物・木沓 |
墨 須恵器 壺
銅製毛抜き 鏡 |
まな板・箸・椀・盤 |
蟠龍文鏡 |
|
同一反復です
すみません |
院生の舞台 鳥羽と白河
白河の地に立派な寺院
平安後期
広大な庭園が往時を
土と粘土を交互に積む
仏の救済を求める |
金銅製の装飾など |
木簡・仏具など |
|
平安宮の瓦を焼いた窯 |
軒平瓦 |
鬼瓦 |
|
|
|
|
|
60中世の京都(AD1185-1568)
|
鎌倉に幕府が開かれても、京都の貴族に大きな変化は見受けられない。天皇・上皇をはじめ、有力な公家や寺社が引き続き所在していたことが要因である。
室町時代をむかえて幕府が京都へ移ったことから、政治・経済・文化の中心地として、なお一層、繁栄することとなった。この頃の市街地は、平安京の左京域やその北辺が中心となり、内裏は現在の場所(京都御所)に移動した。
応仁の乱に始まる戦国時代には、上京と下京の大きなまとまりが形成され、邸宅や寺院、郊外の村、更に上京・下京の市街地全体を濠や土塁で囲んで自衛するようになる。そこでは権力者のみならず、町衆と呼ばれる人々が商工業を支え、度重なる戦乱の中でも、逞しく生活を営み発展させていった。 |
鎌倉幕府の開闢は影響がなく、室町幕府で都が戻り、ますます繁栄した |
応仁の乱に始まる戦国時代には上京・下京は土塁で囲んで防衛した |
街並みの移り変わり平安時代に右京が廃れ左京に中心が移った |
鉄鏃と包丁 |
陶器と仏具 |
右上に密教法具/三鈷(さんこ)があります |
経筒やら、骨壺やらですね |
桃山文化の開花
1568-1615信長入京以来絢爛豪壮な文化が隆盛。産業発達 |
金巻きの軒瓦もありました |
町人文化華やかな陶器 |
日明貿易 |
|
桃山文化の開花(AD1568-1615)
|
永禄11年(1568)の織田信長の入京により、京都は新しい時代を迎えることとなる。しかし、武家御城(旧二条城)・本能寺などを除いて信長が京都に残した足跡は必ずしも多くはない。
これに対して、後継者となった豊臣秀吉は京都を政治の拠点として整備した。居城としての聚楽第の造営、京都を囲む総延長22.5kmの御土居の構築、公家町・寺町の形成、南北に細長い町割りの再構成など、平安京以来、少しずつ形を変えてきた京都の街並みが大きく変貌し、市街地が拡大した。
また、洛外には方広寺や伏見城が建造された。
街並みの変貌と伴に、金箔を貼り付けたきらびやかな瓦、茶の湯の隆盛を示す志野・織部・唐津などの茶陶に見られる、絢爛豪壮な文化が花開き、山儀容が発達し、近世社会への道が開かれた。 |
桃山文化の開花
1568-1615信長入京以来絢爛豪壮な文化が隆盛。産業発達 |
金巻きの軒瓦もありました |
町人文化華やかな陶器 |
日明貿易 |
|
近世以降は省略しています。
|
90二条城観光
堀川通り
堀川今出川交差点付近 |
晴明神社
陰陽師阿倍野晴明を祀る
堀川一条上ル |
二条城 東大手門 写真
門は解体修理中でした |
二条城て意外と広い。堀まであるとは思わなかった |
|
今は京都市所有やけど
元は徳川家のもんやね |
|
唐門 |
二の丸御殿
実は、この中に入ってバシバシと写真を撮りました |
警備員さんがが飛んできて禁止やゆわはるんどす |
びっくりしましたェ。 |
でも、その写真載せられしまへんやろ。堪忍しておくれやすや。 |
|
天守台 |
天守台からの眺めは素晴らしかった。価値あり。 |
16枚菊の釘かくし
本物の天皇家の紋の意味 |
大学一年の時、御所は行ったことあるけど、 |
ここは来たことなかったんです。 |
|