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 2022.06.07-1釧路市立博物館

 北海道の縄文 №15 2022.06.07-1

  釧路市立博物館 北海道釧路市春湖台1-7
   0154-41-5809 月休 撮影可

 館の特徴
・なぜか解説パネルは全て英語。
・巨大博物館である。1階は釧路の自然。2階は考古歴史資料。4階はアイヌ民俗資料。
・1階地史・自然史、4階アイヌ民俗の展示物は、展示方法が複雑でここに紹介できません。将来掲載できればと思います。

交通 ・釧路駅からくしろバス②⑫⑯⑰(55):系統で15分市立病院下車徒歩5分
近隣観光地 湿原観光を中心に、通年丹頂鶴が居る動物園など見どころ多数。
  近隣博物   多数。塘路湖畔には標茶町博物館もある。
塘路湖は湿原へのカヌーツアーの出発点です。
  宿泊情報   ホテル・旅館・民宿多数。数万円~4千円まで。より取り見取り。
   
 おわび
 この館の展示順序や展示法がわからず、展示コーナーを左から右へ(奥から入口へ)と撮影しました。また、二段に展示されているものは、手前の平場と奥の棚展示が一体のものと考えて、合わせて撮影しました。しかし、編集しながら詳細を見ると、展示順序は全く逆でした。つまり、
 右から左へ。入口から奥へ。左利きの人が好む展示順序でした。また、手前と奥に見える二段構えの立体展示は行なわれておらず、平場は平場。立体は立体だけで、別列で展示されていました。しかし、順路が明示されていなかったため、現在では撮影済みのものを並べ替えることが出来ず、そのまま、奥から手前に写真を掲示しています。
 


13博物館外観

2階 釧路の歴史・産業
50考古・歴史展示
100先土器時代
102最初の住人たち

110縄文時代
200縄文土器
  縄文石器
120早期石刃鏃文化


300東釧路貝塚
340晩期
※考察 靴形石匙
※考察 矢柄研磨器
350晩期 装身具
※考察猪牙製腕輪
400東釧路貝塚

00続縄文時代
511海岸沿いの集落
510巨大囲炉裏の跡
502続縄文・弥生文化圏
520海岸線の集落遺跡
560鉄製品の流入

600続縄文前半の土器
570続縄文後半期の土器
※考察 北大式土器と鉄器

700擦文時代
710擦文土器

760オホーツク文化

790トビニタイ土器

800近世の釧路
811アイヌ時代

950近代
953釧路での暮らし
955川崎船
 
 
 11博物館の位置
春採公園(丘陵上)
海潟湖岸の山の上
一帯を曰く春湖台 ・隣接の「市立総合病院」によりバスの便が多い
・博物館(埋蔵文化財センターを併設)
・博物館併設ロックガーデン(岩石見本展示)
 12外観
博物館 市立病院 旧科学館
ロックガーデン
巨大な石である
 
 13博物館外観
博物館外観 30年も前にこんなすごい、いかめしい博物館をよく建設できたものです。
 20入口展示 マンモスゾウ骨角標本
 
 1階 釧路の地史・自然史   4階 アイヌ民俗


 2階 釧路の歴史・産業
 (1Fの入口展示、マンモス像の骨格標本は、既に、1階の「釧路の自然」の展示となっており、単なる入口展示はありませんでした。)


先史時代の釧路
  先史時代の北海道の年表は、旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文時代、チャシ建立時代(アイヌ時代)で構成されています。 北海道の人々は、長い先史時代を通して、狩猟や漁労、植物採集などをして自然の恵みを受けて暮らしてきました。 これは、縄文の次に弥生が来て、その後に古代国家が来たという本州の歴史とは大きく異なっている。
  旧石器時代が終わり縄文時代になると、文化圏は石狩地方と苫小牧地方の境界によって大きく二つに分けられました
北海道南西部の渡島半島の文化圏は、本州北部の文化圏に含まれます。
一方、北海道東北部の文化圏は、本州だけでなく大陸の影響を受けて形成されました。 縄文時代早期に伝来した石刃鏃文化や、続縄文時代以降、オホーツク沿岸の広範囲に広がったオホーツク文化がその例です。

  釧路の地域は両方の文化の影響を受けました。 釧路湿原を囲む段丘には先史時代の多くの人々が暮らしていました。 約500点の歴史的遺物から人々の生活様式を推測することができます。
 古釧路湾が海水で覆われていた縄文早期(約8000~6000年前)や縄文前期(約6000~4000年前)には、この湾を囲む段丘上に多くの集落が組織されていました。 縄文中期(5,000~4,000年前)、海水が現在の海岸線に戻ると、人々は内陸の川沿いに生活圏を広げました。 そして、縄文後期(4,000~3,000年前)と縄文晩期(3,000~2,000年前)に釧路川が形成されると、河口付近の段丘に大規模な埋葬地が残されました。 続縄文時代(約 2,000 ~ 1,200 年前)に、彼らは海岸段丘に定住を移し、漁業が重要な生計手段となりました。 自然環境が現在とほぼ同じになった擦文時代になると、彼らは再び川沿いの集落に住むようになった。 先史時代の人々の生活は、古釧路湾周辺の自然環境の変遷(変化)とともに発展してきました。

Prehistoric Kushiro
The chronology of prehistoric Hokkaido consists of Palaeolithic, Jomon, Epi (post) Jomon, Satsumon, and the period when chashi was erected (Ainu period).
People in Hokkaido lived by hunting, fishing and gathering edible plants and received the grace of nature throughout the long prehistoric age. This is very different from the chronology of Honshu in which Yayoi came after Jomon followed by the ancient nation. When the Palaeolithic period ended and the Jomon period started, the cultural area was divided into mainly two by the boader of Ishikari and Tomakomai region. The cultural area of Oshima peninsula, southwestern Hokkaido, is included in that of northern Honshu. On the other hand, the cultural area of northeastern Hokkaido was formed under the influence of the continent as well as that of Honshu. Examples are, the stone arrowhead (sekijinzoku) culture, which was introduced in the early Jōmon period, and the Okhotsk culture which ranged in the wide area on the coast of Okhotsk after the Epi Jōmon period. The area of Kushiro was influenced by both of the cultures. Many prehistoric people lived on the terrace surrounding the Kushiro marsh. The life style of the people can be speculated from about 500 historic relics.
In the Initial Jōmon (about 8,000-6,000 years ago) and Early Jomon (about 6,000-4,000 years ago) when the Paleo Kushiro Bay was covered with seawater, many villages were organized on the terrace surrounding this bay. In the Middle Jomon (5, 000-4,000 years ago), when the seawater went back to the present coast line, people expanded their own life space along rivers inland. And then in the Late Jomon (4,000-3,000 years ago) and the Final Jomon (3,000- 2,000 years ago) when the Kushiro river was formed, they left a large burial ground on the terrace near the mouth of the river. In Epi (Post) Jōmon period (about 2,000-1,200 years ago) they moved their settlement to the coastal terrace and fishing became an important livelihood. In the Satsumon period when the natural environment became almost the same as the present one, they lived in villages along the river again. The life of prehistoric people developed with a transition (change) of the natural environment around the Paleo Kushiro Bay.

 50考古・歴史展示
2F考古・歴史展示 展示全景 貝塚剥ぎ取り標本 ↓考古展示の全て 長大な炉跡
釧路湿原 「縄文」中塚美恵子
作品説明 釧路市芸術祭最高賞
日本水彩画会支部奨励賞受賞
釧路市緑ヶ岡遺跡の壺
先史時代の釧路

 60釧路市の位置

釧路・根室・知床 根釧台地とその背後には火山列が続く。
釧路川は縄文後期の海退と東西圧力による西部浮揚・東部沈降で川筋が集まってできた大河である。
釧路市域と火山群
引用摩周湖河川地図
火山群
雌阿寒岳→摩周湖
釧路市立博物館火山
釧路川は阿寒湖・屈斜路湖を擁する火山群から流下する雨水と土砂を押し流し旧釧路湾を埋設し、泥炭の堆積による釧路湿原を形成した。吹き付ける風波は沿岸に砂丘を発達させ、やがて、河口に釧路市街地を形成した。
 61遺跡地図
先土器・縄文の遺跡地図

 63遺跡の重複性と集落の移動
  研究対象の地域は、釧路川河口域から、太平洋沿岸の海岸地域である。

 集落の移動図
・河口域から少し上流の地域には先土器時代から縄文晩期まで集落が続く。➀~④
・小寒冷期の縄文後晩期になると、集落は河口域内を南に拡大する。⑤~⑭
・続縄文期には集落が海岸線に進出し、⑮~㉖
・擦文時代には、再び海岸線の集落は希薄となる。➀~⑭

※地形図から見ると、海岸線地域には現在も集落が少ない。(実際に行ってみた)。この地地域は気候が厳しく、住みにくい場所なのでしょう。
 
遺跡の重複性と集落の移動
遺跡地図
遺跡の移動 衛星写真 地形図

 遺跡の移動 まとめ
遺跡の移動には海進・海退が起因しているようだ。
➀~④の遺跡は、わずかずつ移動しながら⑭の位置まで広がってきた。寒冷化が始まると海岸部への移動は加速する。新しい土地が生まれたこと。新しい食糧獲得場所が加わったことが原因であろう。


 64遺先土器・縄文時代の主要遺跡名
     こんなに数多くの遺跡があるというのは大変な驚きです。とても食糧豊富地域だったのでしょう。
先土器・縄文の主要遺跡名
膨大な遺跡数

 67遺跡写真
鶴居村キラコタン崎遺跡
細岡貝塚
テンネル遺跡 武佐竪穴群
縄文前期の住居址
東釧路遺跡第3地点
縄文中期の墓
貝塚町1丁目遺跡
(第5号墳)
縄文中期の墓
貝塚町1丁目遺跡
(第28号墳)
発掘後の遺稿の状態
貝塚町1丁目遺跡
発掘調査の状況
東釧路遺跡第3地点
 
 おわび
 この館の展示順序や展示法がわからず、展示コーナーを左から右へ(奥から入口へ)と撮影しました。また、二段に展示されているものは、手前の平場と奥の棚展示が一帯のものと考えて、合わせて撮影しました。しかし、編集しながら詳細を見ると、展示順序は全く逆でした。つまり、
 右から左へ。入口から奥へ。左利きの人が好む展示順序でした。また、手前と奥に見える二段構えの立体展示は行なわれておらず、平場は平場。立体は立体だけで、別列で展示されていました。しかし、順路が明示されていなかったため、現在では撮影済みのものを並べ替えることが出来ず、そのまま、奥から手前に写真を掲示しています。
 


 100先土器時代 旧石器時代

 101先土器時代 旧石器時代

 102最初の住人たち(先土器時代)
釧路地方に最初の住人たちがやってきたのは1万年程前である。その時、すでに縄文海進で海水が低地に向けて侵入を始めていた。
この時代の遺跡は、釧路湿原の周りの台地に6ヶ所が知られており、遺跡数は極めて少ない。

最初の住人達
先土器時代
石刃
釧路市東栄小学校校庭
千島ホロムシロ島
           
先土器時代の遺跡地
オショロッコ型細石刃核の作り方
細石刃
野付郡別海町
オショロッコ型細石刃核
釧路市北斗遺跡第8地点
有舌尖頭器
釧路市貝塚町1丁目遺跡
 103
黒曜石
常呂郡置戸町
石刃石核
常呂郡置戸町
石刃
常呂郡置戸町
 


 110縄文時代

縄文時代
北海道の縄文時代は8000年前に始まったといわれています。 気候が暖かくなり、自然環境も徐々に変化していき、狩猟や漁業、植物の採集が生活の糧として行われるようになりました。 煮物に陶器が使われるようになり、料理の材料も多様になってきました。 弓矢が登場し、狩猟の獲物が増えました。 彼らはカヌーを作るための道具としてグラウンドアックスを使い始めました。 カヌーは行動範囲を広げるのに役立ちました。 旧石器時代に比べて人口が増加し、生活も安定してきました。 テラスのいたるところに縄文人の痕跡が残っています。

Jomon period
It is said that the Jomon period in Hokkaido started 8,000 years ago. The climate became warmer, and the natural environment changed gradually, hence hunting, fishing and gathering plants were done for livelihood. They started to use pottery for boiling and materials for cooking became various. Bows and arrows appeared and the number of preys for hunting increased. They started to use a ground axe as a tool for making a canoe. The canoe was useful for enlarging a scope of activity. Populatin grew and livelihood became more stable comparing with the Palaeolithic period. Traces of Jomon people are found throughout the terrace.
 
 200縄文土器

 201早期
 203早期
深鉢
浦幌式
東釧路第3遺跡
深鉢
浦幌式
東釧路第2遺跡
 205早期
深鉢
東釧路Ⅱ式
8000年前早期後半

 210中期
北筒Ⅱ式
東釧路第3遺跡第3地点
4500~4000年前

 220後晩期
  釧路川の成立 後・晩期
釧路川の成立
深鉢・浅鉢
後期末・晩期初頭
釧路町岩保木遺跡
第11地点

200に記述

 230晩期
縄文後期になると、気候は更に寒くなり、縄文の海の時代は終わる。
晩期には、ほぼ現在の気候となって、釧路川の川筋も定まり、「古釧路湾」は湿原化が進行する。
遺跡は釧路川の河口地帯に多く、幣舞(ぬさまい)や緑ヶ岡に大規模な墳墓遺跡が遺される。

 feedback
 240早期
 250前期
 260中期
 270晩期
   
 


 縄文石器


 110早期

 海水の進入 縄文早期
縄文時代に入ると、遺跡数も急激に増え、湿原の周りの台地に100ヶ所を超す遺跡が残される。
この頃、釧路湿原の多くは海水で満たされる。標茶町二ツ山遺跡からは海産の貝類が出土しており、東釧路貝塚や釧路町テンネルにもこの時期の小規模な貝塚がある。

 漁撈の始まり
縄文早期の集落は海岸沿いの台地に多い。そのひとつ、沼尻遺跡からは、漁網用の石錘が148個出土している。この時期から漁労活動が盛んに行われたようである。

 釧路市沼尻遺跡の石器 釧路市春採一丁目
春採湖南岸に位置し、湖から太平洋に注ぐ春採川に西面する標高30m前後の海成段丘上に存在した。昭和36年(1961)に発見されたがすでに遺跡の大部分が消滅していた。確認された規模はおよそ210㎡である。発掘調査により縄文時代早期の貝殻文平底土器と石器群が検出され、北海道東部で最初に発見されたことから出土地名をとり沼尻式土器と呼称された。 引用コトバンク

釧路市沼尻遺跡の石器
海水の進入
縄文早期
漁撈の始まり

 釧路市大楽毛遺跡
大楽毛海岸砂丘上の遺跡。この砂丘は

 大型石錘
釧路市大楽毛遺跡
削器、磨製石斧  石鏃、彫器       
石錘

 120早期 石刃鏃文化
大陸に原郷土をもつ文化で、縄文早期に波及し、短期間で消滅した。
分布域はほぼ北海道北東部に限られる。
絡条体圧痕文や条痕文などの土器を伴う。(浦幌式土器)

 125石刃鏃文化の石器 釧路市東釧路遺跡第2地点
石刃鏃文化
石刃鏃文化の原郷土
石刃石核
石刃から作られた石器
石刃石器
 126
石刃鏃 石刃
石刃、彫器
彫器
 127石刃鏃文化に伴う石器
矢柄研磨器 環石
大型削器
石錘
擦切磨製石斧
石鋸
 

 130前期

 131古釧路湾の成立(縄文前期)
6000年ほど前になると、低地一帯に海水が拡がり「古釧路湾」が形成される。
東釧路貝塚や細岡貝塚がのこされた時期で振る。
海水面はイモより3~5m高く、海水温も3~4℃、冬の気温も5℃程高くなり、現在の三陸沿岸の気候が推定できる。

古釧路湾の成立
短剣形石器
釧路市東釧路遺跡
第2地点
削器
釧路市東釧路第3遺跡
第3地点
 133

貝塚はまだ見られない
磨製石斧
東釧路第3遺跡
第3地点
石錐
東釧路第3遺跡
第3地点
東釧路Ⅴ式土器
東釧路第3遺跡
第3地点
 140前期
 141
矢柄研磨器
釧路市東釧路遺跡第3地点

鋸歯状石斧
紋別郡生田原町
釧路市東釧路貝塚
釧路市武佐
厚岸郡浜中町散布
釧路市東釧路3遺跡第3地点

 鋸歯状石斧について
刃部が鋸歯状の石斧は初めて見ました。調べてみると、鹿児島から北海道までにあることがわかりました。
 ・鹿児島県立埋文の発掘調査報告書に「刃部に施された鋸歯状の加工」と記載されている。また、
 ・東京大学「鋸歯尖頭器・石鋸の系譜と展開」では、「縄文時代前・中期の東日本から北海道にかけての地域で」漁撈文化に伴うとされている。

縄文前期の海進に伴い、北方漁撈民が北海道から東日本にかけて、漁撈技術と特有の道具を持ち込んだのだろうか。

 143綱文土器と伴出石器 釧路市北斗遺跡第1地点
綱文土器と搬出石器 矢柄研磨器、削器 石鏃(大型)、石錐
石小刀 先端に刃部がついた石匙。初見です
とても大型です。
独特な道具。
ヘラのように使うのかな
 145
削器 装身具
磨製石斧 綱文土器
荒い紋様

 150中期

湿原化への道 (縄文中期)
縄文前期を過ぎると気候は寒くなり、海岸線は後退を始める。「古釧路湾」は汽水性の内湾となり潟湖へとかわる。
貝塚は小規模なものが数カ所あるだけで、生活の舞台は海から内陸へと移る
縄文時代の中では、最も多い数の遺跡が残された時期である。

エゾシカ猟
この時期になると、石器の中でも石槍や石鏃が量的にも多くなる。内陸へと生活圏が広まり、エゾシカなどを対象とした狩猟活動が盛んに行われたようである。

 151釧路市東釧路遺跡第2地点出土石器
東釧路遺跡第2地点 石槍
削器、石匙
石槍 石槍 石匙、削器
 153釧路市東釧路遺跡第3地点
東釧路遺跡第3地点 石鏃 石槍
石槍
 155白糠町奥高安遺跡出土石器
 白糠町奥高安遺跡 石鏃  石槍、削器       
異形石器
石核
 
 


 300東釧路貝塚 縄文前期

東釧路貝​​塚
 塚のある段丘は、縄文時代から現代に至るまで人々の生活の場でした。 縄文時代前期の貝塚は、120×90mの範囲に11区画に分かれて分布していました。 貝殻層からはイルカの頭蓋骨が放射状に並び、アシカや飼い犬の特別な埋葬物が見つかった。 これらは、貝塚がゴミ捨て場としてだけでなく、食糧を得る際の儀式の場としても利用されていたことを示しています。 貝塚が分布する段丘の南側には、縄文人の古い人骨やその埋葬方法を調査できる墓が多数あります。

Higashi Kushiro shell mound
The terrace where the shell mound situated has been the living site for the people since the prehistoric Jomon period throughout the modern age.
In the Early Jomon period, the shell mound distributed in 11 blocks in the area of 120 X90m. The skulls of dorphins arranged radially, and the special burials of the sea lions and domestic dogs were found in the shell layer. These indicate that the shell mound was used not only as a dump but also for the ceremonial place when they got the food. In the southern side of the terrace where the shell mounds distributed, there are a lot of graves where we can investigate old skeletons of the Jomon people and their burial method.

貝塚のプロフィール(貝塚の概要)
 殻層の厚さは約1mであり、さらに様々な層に分かれている。 この貝殻の70%はアサリです。 ホタテ、カキ、赤貝、ホッキ貝もここで採れます。 この塚は、多くのアシカやアザラシが発掘されているのが特徴です。

Profile of shell mound
The shell layer is about Im thick and further divides into various layers. 70% of these shells are short necked clams. Scallops, oysters, ark shells and surf clams are also found here. Excavation of many sea lions and seals characterizes this mound.

 301骨角器
海獣類や鳥類などの骨が利用され、使用目的によって材料が選ばれている。
海獣の肋骨で作られた銛頭には、独特の彫刻が施されており、この時期の道内では澗類例がない。

東釧路貝塚 貝塚のプロフィール
 302
銛頭
石鏃装着の銛頭
と石鏃装着用銛頭
二股に石鏃を挟む
銛頭 銛頭 釣針
オットセイの犬歯を加工
 303
骨針 ヘアピン 貝製垂飾
有孔骨製品
 304鳥骨
・縦に切り込みを入れた
・輪切りにした
・縦に割った
鳥骨製刺突具
 
 310前期
 食物残渣
魚類
魚類で最も多いのはニシンである。サケ・マス類や、やや大型のカジキ、サメ類は少ない。ブリ、スズキなどこの近海では見られない暖流系の魚も含まれている。

陸獣・海獣類、鳥類
貝塚から出土する骨の90%近くは海獣類で、鳥類や陸獣類とともに重要な食料源であった。
鳥類では海鳥が多く、陸獣類はエゾシカ、クマ、オオカミなどが少量あるだけで、極めて少ない。

魚類 魚類 鳥類 鳥類
海獣類
オットセイ・トド
海獣類
オットセイ・アシカ・イルカ
イヌ

 320前期
 東釧路貝塚 縄文前期

 貝塚の貝類
全体の70%がアサリで、そのほか、カキ、オオノガイなど十数種類の現生種で構成されている。
暖海性のアカガイ、シオフキ等もあり注目される。

貝類
 

 340晩期

 靴形石匙
カムチャツカ半島、千島列島、樺太島、北海道に広く分布し、サケ・マスなどの調理用ナイフともいわれる
釧路地方へは縄文晩期に波及し、続縄文時代に道内各地や東北地方にまでひろまった。
※カムチャツカ・千島・樺太方面から多くの人が南下し、北海道各地へ、少なくとも釧路川河口南岸に大挙居住したことになる。
※こんなでっかいナイフは海獣解体用でしょうが!

※考察 靴形石匙
※靴形石匙 引用「札幌中央図書館/デジタルアーカイブ 道東北部のヌサマイ式土器」
幣舞式土器に伴う石器には、石鏃、石槍、靴形石匙(ナイフ)、搔器、削器、磨製石斧、矢柄研磨器などがある。
特徴的な石器としては、黒曜石や玉隋などから作った靴形石匙がある。
 エスキモーが近年まで陸獣や海獣の解体処理に使用した石器に類似し、千島列島、アリューシャン、カムチャツカ方面の遺跡からも出土するところから、この方面から道東北部に伝播してきたものと考えられる。
 また、釧路市貝塚町一丁目の晩期の土壙墓から、被葬者の頭蓋骨下数センチメートルのベンガラ中よりソラ豆大の鉄片が出土している。
 このことから、道東部の縄文時代晩期には、すでに金属器の使用される時代に入っていたことを示している。

※靴形石匙から見たアリューシャン文化の拡大
 すると、幣舞式土器と靴形石匙は千島・アリューシャン・カムチャツカから南下してきた文化である。また、金属器も伝播した。
「北海道道南地域の恵山文化の靴形石匙」「青森県小牧野遺跡から靴形石匙」「福島県飯館村から靴形異形石器」とあるが同一のものかはわからない。しかし、
恵山文化と東北弥生文化 を見ると、恵山地域にまで靴形石匙(北方アリューシャン文化人)が拡大し弥生文化との交易を通じて小牧野遺跡までアリューシャン人や文化が進出していたと考えても不思議ではない。
 よく、伝播というが、これは、人が来てもたらしたものである。教科書の無い時代に情報だけが伝わることはない。小牧野人は彼らのつまみ付きナイフを使っており、わざわざアリューシャンのでっかい靴形ナイフを作って使ったりはしない。不要だ。これを持ち込んだのはアリューシャン人であろう。

 341
靴形石匙

 343靴形石匙
靴形石匙
 345
矢柄研磨器
ベンガラ付着の
軽石製品
磨製石斧
幣舞遺跡の墓域出土遺物
浅鉢
幣舞式

※考察 矢柄研磨器
本州では草創期で消滅した矢柄研磨器が、なぜ縄文晩期になっても北海道や北方民族遺跡から出土するのだろう。
 火であぶって矢柄の曲がりを修正するよりも、矢柄砥石に挟んで一気にザァーッと引き抜くと、真っ直ぐな矢柄ができるので便利だったのかな。


 350晩期 装身具
 縄文人のおしゃれ
装身具には、耳飾り、髪飾り、首飾り、腕輪などがある。後晩期に特に多く、呪術的な信仰の意味合いも強かった。
晩期には貝製玉などの大陸系装身具も見られる。

 351
ピンボケ
 353
イノシシ牙製腕輪
釧路市緑ヶ岡遺跡
琥珀玉
釧路市貝塚町1丁目遺跡
琥珀玉
釧路市緑ヶ岡遺跡
貝製玉
緑ヶ岡遺跡

※考察 イノシシ牙製腕輪の流通
 北海道にはイノシシはいない。しかも、巨大イノシシの牙を使った腕輪である。台湾先住民が民族衣装に着ける牙はそうとう大きなものだが、現在の日本はもとより、台湾でも手に入らないものだ。きっと先祖伝来のものだろう。100kgを超える大物イノシシでもその比ではない。このような牙製品を縄文晩期の北海道ではどこから入手したのだろう。
 本州東北地方との交易だろうか。しかし、前述の鉄片の出土から中国製品が北方から入荷したのかもしれない。
超大物イノシシの牙を入手できるところ。と、それを精緻な腕輪に加工する技術を持つ人々。本州の南島では貝殻をデリケートに加工する技術が得意である。しかし、北方民族は超硬質な牙を精緻に加工する技術を持っている。きっと北方で加工され持ち込まれた牙製品だろうと想像できます。

 355
青玉(緑ヶ岡)
勾玉未成品(緑ヶ岡)
勾玉(材木町)
土製勾玉(材木町)
垂玉(幣舞遺跡)
垂玉(材木町)
・石鏃(アスファルト付着)
(緑ヶ岡遺跡)
・異形石製品
(釧路町天寧)
石偶ではないか?
 358
青玉と琥珀玉
緑ヶ岡遺跡
勾玉、垂玉、骨製玉、
骨製勾玉
(緑ヶ岡遺跡)
漆塗り櫛
(緑ヶ岡)
中国との交易がもたらした赤漆塗りの櫛でしょうか。
 359
白樺樹皮
墓壙出土
緑ヶ岡遺跡
樹皮製容器?
白樺樹皮容器復元品
道立北方民族博物館
石剣
釧路市春採公園
独鈷石
釧路市幣舞遺跡
 
 360晩期
  器形の多様化
後期には、薄手の精巧な土器が作られ、器型も用途や機能により分化する。
晩期の釧路の土器には、深鉢・浅鉢・壺・舟形ビク形・注口土器など、変化にとんだ器形がみられる。

舟形深鉢
幣舞式
緑ヶ岡遺跡
舟形深鉢
幣舞式
緑ヶ岡遺跡
 
 400

 400東釧路人
 410遺跡
 411
東釧路貝塚
 412
東釧路貝塚の層位模式図

  東釧路貝塚の形成 7000~1000年前まで持続
縄文時代早期から近世にかけて14層以上をもつ複合遺跡で、特に道内にある縄文時代前期(6千~5千年前)の貝塚では最も規模が大きいものです。
この貝塚近くの高台では、縄文時代(紀元前13,000年~紀元前500年)から擦文時代(西暦600~1200年)までの様々な様式の土器片が発見されています。
コトバンク東釧路貝塚

東釧路貝塚の層位模式図
貝塚の層位 出土土器 時代区分 推定年代
表土 近世アイヌ
雌阿寒火山灰 BP500±90年
700年前
黒色土層 擦文土器 擦文時代
1200年前
続縄文
純貝層 2000年前
・続縄文後期以降は貝塚は形成されていない。

・続縄文前期まで貝塚の形成が行われた

続縄文
      2000年前
  緑ヶ丘式  縄文晩期  
3000年前
縄文後期
4000年前
北筒式 縄文中期
純貝層 5000年前
・何千年にもわたって貝塚が形成されている。
 貝の資源は枯渇しなかったのだろうか。

純貝層 北筒式 縄文中期   
純貝層    5000年前
混土貝層
東釧路Ⅴ式 縄文前期
混土貝層 6000年前
・前期終り頃から貝塚の形成が激しくなる。
 貝が増えたか、 貝のよさがわかったか、、
・混土貝層は貝採集が本格化していないか、気候が悪かったか?

6000年前
  東釧路Ⅳ式    
貝層開始➡ 東釧路Ⅲ式 ➡縄文早期  
東釧路Ⅱ式  
石刃鏃・彫器  
テンネル式  
東釧路Ⅰ式  
沼尻式 BP7130±120年,  
東釧路Ⅲ式土器は早期終わり頃に全道に普及した土器。
 ここから貝塚が始まるということは、貝塚文化人が来た?
 貝塚が形成できる気候・地形条件がそろった?

沼尻式土器(7000年前)から人跡始まる。が貝塚なし。
 414
銛頭に刻まれた文様 ※銛頭の文様は
➀銛の抵抗を少なくする縦線を刻んでいる。
②狩猟で大切な1番銛の射手を明確化したのではないかな 
銛頭の使い方
石鏃で刺さり、銛頭がそれを支え、中柄までが入ると、革紐がほどけてやがて弱った獲物を引くことができる

 416貝塚と儀式 前期の貝塚
イルカの頭骨を放射状に配列した遺構は、貝塚が単なるゴミ捨て場ではなく、食糧を得た時などに行う儀式の場としても利用されていた事を物語っている。
トドやカキ貝、家犬などを対象とした特異な遺構もある。

考古学者たちは、貝殻と土器の間に、放射状に並べられたイルカの頭蓋骨を発見しました。また、赤い酸化鉄を振りかけ
た飼い犬とトドの遺体も見つけました。これらの発見は、この場所で儀式が行われた可能性を示唆しています。

貝塚を築いた人々が使用した土器 イルカの放射状配列 貝層断面

 418
東釧路先住民の墓
縄文時代のお墓です。 これは成人男性で、手足を曲げて埋葬されています。 他にもいくつかの埋葬姿勢があります。 この頭は南を向いていますが、一般的には西を中心として南北の間を向いています。 彼らは死体にベンガラを振りかける習慣がありました。 骨格の特徴のほとんどは、近世の北海道東部のアイヌのものと一致します。

Grave of the Higashi Kushiroaboriginal people
This is the grave dating back to the Jomon period. This is an adult man and buried with his limbs bended. There are also some other burial postures. This head is pointed to the south, but generally heads pointed between north and south with the west as the center. They had a custom to sprinkled colcothar over corpses. Most of the characteristics of the skeleton correspond to that of Ainu in eastern Hokkaido in the modern age.

 東釧路人の墓 縄文早期から前期
貝塚が遺された当時の墓で、成人男性。
仰臥屈葬でベンガラを振りかける習慣が見られる。
人骨の持つ特徴がほとんど近世の道東アイヌのものと一致しているという。

 


 500続縄文時代 弥生・古墳時代

 511
海岸沿いの集落:続(後)縄文時代
 本州では縄文時代に続き、弥生土器が使われるようになった弥生時代。 大陸から稲作や鉄器、青銅器などが伝わり、本州の北端にまで伝わりました。 しかし、寒冷な気候と豊かな食料資源に恵まれた北海道では、栽培をする必要もなく、同じような生活を続けてきました。 この時代を続縄文時代と呼びます。
 釧路地域の文化は、漁業を主な生業とするサハリン、カムチャツカ半島、千島列島の文化の影響を受けています。 そのため、海岸段丘上に多くの村が組織されました。 その後、内陸の川沿いに定住するようになり、狩猟や植物採集、釣りなどをして暮らし続けました。 この時代の終わりには、旧石器時代から使われていた石器が徐々に鉄器に取って代わられていきます。

※「サハリン・カムチャツカ・千島の影響下で海岸段丘上に村が営まれた。」のは、サハリン・カムチャツカ・千島からの北方渡来民が、釧路市の海岸段丘上に居住し、その北方地域特有の石器を使いながら海洋を生活の糧とした暮らしを送っていたということのようだ。

Villages along the coastline :Epi(Post) Jōmon period
In Honshu, the Jomon period was followed by the Yayoi period when the Yayoi pottery were used. Rice cultivation, iron ware and bronze ware were introduced from the Asian continent and reached the northern tip of Honshu. But in Hokkaido with the cold climate and abundant food resources, they continued the same life style with no necessity for cultivation. We call this period the Epi (Post) Jomon period.
The culture of the Kushiro area was influenced by the culture of Sakhalin, the Kamchatska peninsula, and the Kurile islands whose main livelihood was fishing. Therefore many villages were organized on the costal terrace. Later they started to dwell inland along rivers and continued to live by hunting and gathering plants as well as fishing. At the end of this period, stone tools which had been used since the Palaeolithic period were replaced by iron ware gradually.

 
 510
囲炉裏の跡
 この囲炉裏は、長径16mを超える大きな楕円形の竪穴の中央に位置していた。 囲炉裏の長さは3.8mです。 このような細長く大きなものは、続縄文時代前半の海岸台地の遺跡に限られる。

Ruins of fireplace
This fireplace was located at a center of the large oval dugout whose major axis exceeded 16m. The length of the fireplace is 3.8m. Such a long and slender and large one is limited to ruins on the coast plateau in the first half of Epi (Post) Jomon period.

 511三津浦遺跡の炉跡(海岸線の集落) 釧路市三津浦13
    続縄文時代 約1500年前 釧路市三津浦遺跡
この炉は長径が16mを越える大きな楕円形の竪穴住居中央に位置していた。(大型住居内の炉)
炉の中さは3.8mで、このように細長く大きな炉は、続縄文時代前半の海岸台地の遺跡に限られている。
(※ということは、海岸台地の住居は、みな、大型で、巨大な炉をもっていたようです。)これは、503の図にもある
 しかし、こんなに長い炉は初めて見た。大家族が平等に温まれるように配慮されたのかな。

三津浦遺跡の炉跡 三津浦遺跡の長大炉
大分県国東半島安国寺集落遺跡で、建物に似つかわしくない巨大な炉を見たことがある。その時は、干物をつくるための炉かとも考えた。
囲炉裏の跡 海岸沿いの集落
続縄文時代
 
 
501続縄文時代の遺跡分布

現釧路市東方海岸
塘路湖付近に多い

火山地域
 

 502続縄文・弥生文化圏
続縄文と弥生の文化圏

・宮城県以北・新潟県中越以北が続縄文文化圏。
 寒冷化による北海道続縄文人の南下によって弥生+続縄文が混入。
・北海道続縄文文化に弥生文化が入りやすくなり、鉄器などが流通するようになった。

興津遺跡
 釧路市南東部の海岸台地、釧路段丘(海成段丘)上に位置する。釧路川河口から東へ直線にして3-4kmにある。
 急崖を呈する南東部の海岸台地は、いくつもの大小の沢が入り込んで台地を区切る地形が連続的に展開している。
 区切られた台地には続縄文時代の遺跡が多く存在し、遺跡立地からも当時の生業活動の一端をうかがい知ることができる。
 その一つである当遺跡は古くから続縄文初頭の興津式土器を出土する標式遺跡として知られてきた。

海岸台地の遺跡
釧路市古谷遺跡
台地の利用
釧路市興津遺跡
住居の構築順序
※住居が移動していく理由は、なんだろう。
住みよい環境。水源を求めて。食糧入手(生業)の利便性。
住み続けることによる周辺環境の悪化。

 503住居の形と炉 釧路市興津遺跡第10号住居址
※円形竪穴住居のようです。が、柱穴がちょっとへん。海砂を取ってきて住居中心に入れて、その中に炉を設けている。
 石囲い炉でもない、かなり変則的な住居のようです。
 非常に大きな炉で、海岸住居特有です。大きな楕円形住居に大きな長い炉。
 大人数が住んで共同で漁撈をしていたと考えられます。基本的に、この時代の漁撈は小人数では困難だった。

 504続縄文時代前半の墓
続縄文時代前半

 配石をもつ墓 興津遺跡第66号ピット

2体埋葬。酸化鉄散布
墓上に配石をする

配石は丸石でなく角石
 505
 砂利をもつ墓 興津遺跡第51号ピット
※人骨の上に黄色土+玉砂利、その上に黒色土、と、次々と様々な土を覆土している。
これは、埋葬直後から何度も儀式を行なうたびに覆土したと思われる。北方民族の埋葬と、その後の祭祀のたびに砂利を墓上に撒くというのがある。


 506続縄文 終末期の墓 貝塚町1丁目遺跡第32号墳 (古墳時代後期)

※一つの墓坑に墓穴2つ。炭化板が転んで、しばらく荒れていたのかもしれない。
ベンガラ散布以外はあっさりと何もない墓となった。繰り返しの墓前祭祀もやめたらしい。



 507海岸線の遺跡にみる続縄文人の食糧  釧路市三津浦遺跡
※一年を通じて海産物を豊富に入手できたようです。だから、縄文早期から、海進海退が進むにつれて、集落が海岸部へ移動し、
陸棲動物ではまかなえない部分を海産資源に求め、やがて、海産物を食糧とするようになったようだ。
   
 

 続縄文 前半期の遺物

 520海岸線の集落遺跡

 521海岸線の集落(続縄文時代)
 523
フシココタン下層式土器
釧路市桂恋フシココタンチャシ
 525

磨製石斧
(興津遺跡)
土製品
(三津浦遺跡)
磨製石斧
(興津遺跡)
砥石
三津浦遺跡
 

 530三津浦遺跡
引用釧路市三津浦遺跡発掘報告
 集落遺跡 · 縄文. 続縄文時代、
  竪穴住居跡. 土坑. 焼土. 炉跡、 配石・集石、
  北筒Ⅲ式土器. 興津式土器. 下田ノ沢Ⅰ式土器. 下田ノ沢Ⅱ式土器

 531続縄文時代の生産用具
続縄文時代の石器
前半には、石器の種類も多く、靴形石匙(ナイフ)など海獣類、魚類を対象とした生産用具がみられる。
後半には、鉄製品の移入とともに種類も限られ、量も減少する

続縄文時代の生産用具
 533続縄文時代の石器 釧路市三津浦遺跡
石鏃
※石鏃が2種類あり、
左の小さい方は矢に装着するものではないか。
右の大きい方は、骨製の銛の先端に取り付ける海獣狩猟用かも。
 535
靴形石匙(ナイフ) 円形削器
・靴形石匙は先出の海獣解体用具でした。
・円形削器は、「後北C2・D式期には、石器はほとんど見られなくなり円形削器と称される特有の石器のみとなる。」引用土壙墓
(円形削器の利用法・効果・目的は不明。鉄器に置き換えられな買った機能として残った石器)
 

 540食物残渣
 541釧路市三津浦遺跡出土の自然遺物
 続縄文時代の生業
前半は海岸線に住み、漁撈活動が盛んに行われたようである。
後半になると河川に沿って内陸へも生活の場がひろまり、漁撈とともに狩猟や採集の生産活動が続けられた。

続縄文時代の生業
 542食物残渣

カキ・サケマス・タラ・アイナメカサゴ
ニシン目(椎体)

アイナメ・カサゴ
カジキ類
鰭棘
カジキ骨
 545食物残渣
カジキ類

アホウドリ・イルカ類
オットセイ オットセイ
 

 550下田ノ沢遺跡 厚岸群厚岸町梅香2-26
 551
厚岸町下田ノ沢遺跡
出土の骨角器
 553
組み合わせ釣針(鈎先)
鈎先
銛頭
骨製鏃
銛頭
骨製鏃
骨針
カワウソ犬歯垂飾
 555
鳥骨製刺突具
 557
箆状骨製品
骨斧
 

 560鉄製品の流入
続縄文時代に入ると、鉄製品が移入されるが出土例は少ない。
厚岸町下田ノ沢遺跡では、鹿角未成品、鯨骨、木製品などに鋭い切断面をもつものがあり、鉄製品の痕跡が認められる。

鯨骨製まな板
木製杭
厚岸町下田ノ沢遺跡
木製杭
下田ノ沢遺跡
鉄製品の加工痕をもつ骨角器未成品
下田ノ沢遺跡

 泥炭層遺跡 下田ノ沢遺跡
厚岸町下田ノ沢遺跡は、弓、板材、棒杭などの木製遺物が出土する数少ない泥炭層遺跡である。
木製品の材質には、イチイ、ニレ、トドマツなどがあり、北海道に自生しないグイマツも含まれている。
  
  
 
 続縄文 前半期の土器

 580ピンボケ
 
 600続縄文前半期の土器
 620
深鉢
フシココタン下層式土器
釧路市桂恋フシココタンチャシ
 630
深鉢
興津式土器
釧路市三津浦遺跡
深鉢
下田ノ沢Ⅰ式土器
釧路市三津浦遺跡
深鉢
興津式
釧路市興津遺跡
 640
深鉢
下田ノ沢Ⅰ式土器
釧路市三津浦遺跡
深鉢
下田ノ沢Ⅰ式土器
釧路市三津浦遺跡
深鉢
下田ノ沢Ⅰ式土器
釧路市三津浦遺跡
 650
注口
後北c2式土器
釧路市緑ヶ岡遺跡
深鉢
下田ノ沢Ⅱ遺跡
三津浦遺跡
深鉢
下田ノ沢Ⅱ遺跡
三津浦遺跡
 
    


 570 続縄文 後半期

 石器使用の終末
続縄文時代の後半になると、石器は少しずつ減少し、終り頃には円形の削器を最後に姿を消す。
擦文時代に入っても僅かな出土例はあるが、次第に鉄製品へとかわる。

北大式土器
貝塚町1丁目遺跡
北大式土器
阿寒町シュンクシタカラ遺跡


 ※考察 北大式土器と鉄器
  520~570は続縄文前半の石器の展示ですが、続縄文後半の570では遺跡を象徴する石器が消滅し北大式土器の破片となっている。
続縄文前半期から、弥生文化圏との交流で、鉄器の使用があったのだが、道東釧路では大変少量でした。
しかし、後半期といわれる北大式土器期にはこれが大変革を起こした様です。
 全道に普及した北大式土器の登場は、鉄器の大量流通の始りを意味し、全道的な交易の活発化、新しい材料道具の流入による旧来の道具材料石器産業の衰退とともに、それを支えていた産業・流通の仕組みの大変革、つまりは社会構造の大変革が行なわれた時代を象徴するものではないだろうか。

 旧石器時代以来3万年に渡って使い続けられてきた石器。石器材料の生産・流通・石器道具の製造などの揺るがなかった大産業が崩壊し、本州・東北北部から持ち込まれた、何倍も硬く鋭く、黒曜石のように使用中に欠けて食物に混入し、口の中をケガすることもなく、新しく刃を付け直すと小さくなっていく石に比べ、野鍛冶によって再生産され、いろいろなものに変化する鉄。これは北海道先史社会の大変革であっただろうと思います。

 以下に北大式土器の登場経緯を述べた論文を引用します。

 引用函館市史 北海道大学の土器
 江別Ⅳ式に無文の土器があり、同類の土器群を河野広道は「後北式E型」として区別したが、
 北海道大学構内の農場から出土した土器があり、これを江別式と異なる形式として「北大式」と名付けた。
この土器は北大構内の竪穴から出土した深鉢形にその特徴が見られる。体部に縄文と沈線文があって口縁部に外側から内側に向けて刺突した点列文が並び、内側に突瘤(つきこぶ)文がある。体部から底部は無文で、底はやや小さいが安定している。内面に突瘤文のある帯状縄文の土器などには下半部に擦(さつ)文があったりするが、この土器群の小形のものは、無文が伴っている。
 小形土器には浅鉢、注口、把手付き湯呑み形などがあるが、底は平底である。大形土器は口縁部にわずかなくびれがあって、胴部が膨らむ深鉢形か甕形土器である。
 北大式の土器は、江別式土器の、帯状縄文が体部に施文されていたり、無文の小形土器で、江別式の注口土器に似たものが伴うが、江別式に見られなかった口縁部の刺突による内面の突瘤文が、前記のように大形土器に付けられている。阿寒のシュンクシタカラ遺跡余市フゴッペ洞窟の上層胆振のアヨロ遺跡積丹の発足(はつたり)遺跡函館の汐泊遺跡など、北大式の遺跡が発見され、更に本州の青森県や秋田、岩手各県からも出土例が報告されるようになった。

 これらの遺跡から出土した土器群はいずれも前記の内面の突瘤文があって、深鉢形か甕形の器形である。それらの文様は、微隆起線文や帯状縄文のあるもの、単節の斜行縄文と沈線文のもの、山形・格子状沈線のもの、無文のものに分けられ、遺跡によって特徴がある。
 この特徴ある土器形式が、全道的に出土するようになっただけでなく、本州の東北地方にまで分布することから、続縄文文化の終末の形式として研究されるようになった。
 この北大式土器と呼ばれている土器群を調ぺると、いくつかの形式に細分され、それが遺跡単位によって前述のように特徴がある。特色ある突瘤文は、すでに述ぺた江別式土器にみられないので、その源流をカムチャツカや北方ユーラシアに求める傾向もあるが、いまのところ江別文化の次に北大式の文化があったということ以外はわかっていない。函館では、汐泊川流域の汐泊遺跡で出土している。

これまで、東北・新潟の縄文を見てきましたが、北大式土器がこんなに広範囲に本州島北部を覆っているとは知りませんでした。
この時期の特異な土器としては天王山式土器の研究が主流でした。ところが北大式がこんなに本州に入り込んでいたことは、縄文末期の亀ヶ岡式土器の流通や津軽海峡を挟んだ大規模な人の移動。新潟・下北半島の鉄生産。津軽半島北部に発達した須恵器窯など、北海道・東北・本州を結ぶ交易ルートや全道を結ぶ陸海の交通網(縄文時代に十分発達していたようだ)、それにこの三地域の政治情勢・支配的勢力など、どの博物館でもまだ触れられていない研究対象が沢山あるように思いました。

 ※521~570は小物の遺物を上げています。
 ※600~650は続縄文前期の土器を上げています。
 
 
 続縄文 後半期の土器
  570の北大式土器の破片だけを撮影しています。 

 
※資料 北大式土器 北大式土器 続縄文時代晩期
引用「北大式」全国遺跡報告総覧 北海道大学
 北大式土器とは、AD5c~7cに、北海道から東北地方北部にかけて広がっていた土器型式です。最初に北大構内から発見されたものを示準資料として設定されました。
 北大式土器は、古墳時代中期から後期に併行します。この時期、東北地方の中部まで、「古墳文化の政治圏」が伸張してきていました。その中で、それらの地域の人々と活発な交易活動を展開し、接触を頻繁に繰り返しながらも、依然として異質な文化伝統を維持し続けようとした人々が主に残したのが北大式土器です。
 古代の文献史料などで「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々とも関連性があるのではないかと考えられています。東北日本の古代史を考えるうえで、北大式土器は非常に大きな意味を持っていることがわかるでしょう。

引用「北見市」続縄文時代後期の土器
北海道の各地域で地域色の強い土器が作られていた続縄文時代前半に対し、後半に入ると道央部の文化の影響が北海道全域に広まり、斉一的な文化圏が形成されます。
※後代に北海道全体が一つの文化圏となった。鉄製品の獲得を目的とする交易の活発化だろうか。人は、なんとなく交易をしていて、なんとなく鉄製品が交易されたとか、ボーッと生きてる人はおらず、食糧や鉄器が欲しいから交易をした。だから、人や物の行き来が激しくなり、全道に斉一的な文化が広まり、当時使いやすかった北大式が流行したのかもしれない。

引用札幌市中央図書館 北大式土器
北大式土器の古い段階は、深鉢、注口、片口などの器形で、深鉢の口縁には刺突文がつけられ、その下に鋸歯状の文様が区画されたなかを縄目の文様でうめる。
北大式土器の新しい段階では、縄目の文様はうしなわれ、沈線だけの文様となり、しばしば土師器の坏などを伴う。

 ※北大式土器期の石器は円形削器(スクレイパー)のみとなる。皮の鞣し、特に、肉や脂肪の掻き取りには、黒曜石石器が使用された。
 


 700擦文・オホーツク文化期

 

  擦文時代

 701遺跡分布
擦文時代の遺跡分布
 702北斗遺跡の集落
 703サケ漁
釧路市北斗遺跡の竪穴群
 704住居
 705住居構造と外形  釧路市緑ヶ岡STV遺跡
住居構造と外形 土置屋根 室内 収蔵庫・カマド・食器棚 囲炉裏と御座
 706住居の移動
住居の移動
右に移っていく
 707カマド付き住居から、カマドなしへ
カマドをもつ住居
釧路市緑ヶ岡STV遺跡第4号住居跡
から

この時代の後半になると柱穴が浅くなる
カマドをもたない住居
釧路市緑ヶ岡STV遺跡第6号住居跡


次の段階でカマドが無くなり4本柱の家の構造に変化が見られ、炉だけが残り、アイヌ時代の住居へとかわる
 

 710擦文土器

 720川筋の集落 釧路川・阿寒川
深鉢
擦文土器
釧路市富士見町
深鉢
擦文土器
釧路市富士見町
深鉢
擦文土器
釧路市内
深鉢
擦文土器
釧路市内
深鉢
擦文土器
釧路市貝塚町1丁目遺跡

 730東釧路遺跡
屋根材らしい 東釧路遺跡5号住居
の炭化物
※土屋根の土と
その下のヨシの枯れ茎

※ヨシと土
東釧路遺跡6号住居
炭化物

※焦げた柱材
住居跡出土の粘土塊
緑ヶ岡STV遺跡
緑ヶ岡STV遺跡
縄文晩期の墓地遺跡
釧路川河口上流3km左岸の海成段丘上に有
1号墓は直径2.25mの大きな墓で、壁近くにしゃがんだ姿勢で8人の遺体が合葬されていました。
須恵器
幣舞遺跡
幣舞遺跡は晩期遺跡
釧路川河口上流500m左岸の海成段丘上に有。建物4・墓坑103と多数の副葬品
 740貝塚町
 741

刀の責め金具
緑ヶ岡STV遺跡
刀子
緑ヶ岡STV遺跡
刀子
貝塚町1丁目遺跡
漆器
緑ヶ岡STV遺跡
 743

緑ヶ岡STV遺跡
針状鉄製品
緑ヶ岡STV遺跡
クルミ様炭化物
緑ヶ岡STV遺跡
 745
木製椀
木幣イナウ 東釧路遺跡2号住居址の炭化物
   
 

 760オホーツク文化 3世紀~13世紀


 761オホーツク文化
擦文時代に樺太から北海道の日本海側の一部、オホーツク海沿岸、千島まで拡がっていた文化。
漁撈活動を基盤として海岸台地に集落を営み、六角形の竪穴住居をもつ

 オホーツク式土器
サハリン島から北海道北部・オホーツク海沿岸・釧路付近以東の太平洋沿岸地方から千島にかけて分布するオホーツク文化に特徴的な土器。
日本の平安時代に出現したと思われるが,終末は鎌倉時代にも下ると考えられる。
器形は頸部がすぼまり,胴部が丸い甕形をしている。

深鉢
オホーツク式土器
千島ホロムシロ島 南千島択捉島 南千島択捉島
 
 763
釣針、銛頭
(千島ホロムシロ島)
骨製刺突具
千島ホロムシロ島
有肩石斧
南千島
石錘
択捉島
 
 770
 771骨角器
骨角器
エゾシカの線刻画
厚岸町床潭遺跡
骨製刺突具
厚岸町床潭遺跡
骨角器未成品
厚岸町床潭遺跡

 773湖州鏡
湖州鏡
 擦文文化時代(8世紀後半~13世紀)の竪穴住居床面から出土した中国宋時代の鏡です。 裏面には漢字が数文字あります。 北海道ではこの鏡以外は出土していません。 同様の鏡は東北地方から近畿日本海沿岸にかけて分布している。 この鏡は後期擦文のものである。

Koshu-mirror
This is the mirror of the Sung dynasty in China which was excavated from the floor of a dugout in the period of the Satsumon culture (late 8th- 13th century). There are several Chinese characters on the back. None except this mirror was excavated in Hokkaido. The similar mirrors are distributed from Tohoku area to the coast of the Japan Sea in Kinki area. This mirror belongs to the Late Satsumon.

  湖州鏡
北海道では初めての出土で、擦文期(12~13世紀)の竪穴住居跡床面から検出。
湖州鏡は、中国南宋(1127~1279年)の時代に浙江省湖州地方で作られた鏡で、日本でも平安時代から鎌倉時代前半の経塚や山岳信仰遺跡などで出土している。

 湖州鏡 引用都城市HP
湖州鏡は中国宋代につくられた鏡で、平安・鎌倉時代に日本にも多くもたらされています。 後ろの面には湖州でつくられた鏡であることが、鏡の面には「製作年」の年号が刻まれ、「幸せに長生きできるように鏡をおさめます」といった意味の文章が書かれています。

湖州鏡

 780紡錘車
糸を紡ぎ、撚りをかける時に使うおもりで、この時代に機織りの技術が伝わった。

紡錘車
緑ヶ岡遺跡
高坏
擦文土器
釧路市内

土師器
貝塚町1丁目遺跡
高坏
擦文土器
貝塚町1丁目遺跡
 

 790トビニタイ土器
擦文土器とオホーツク土器の両方の特徴を備え、トビニタイ土器と呼ばれる。
道東特有の土器で、川筋沿いに内陸奥地まで分布を広げて消滅する。

 トビニタイ文化
トビニタイ文化は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。
トビニタイ文化はオホーツク文化が擦文文化と接触・変容して成立した折衷的な内容の文化であり、これを特徴づけるのが「トビニタイ土器」である。

 トビニタイ土器
文様の貼付文に断面四角形の粘土紐が使われること、貼付文の構成が直線形のものと波形のものを組にし、密接して配置されることなどが特徴として挙げられる。 なお、この土器は底部が整った平面になっておらず、安定して置けない形になっている。

トビニタイ土器
幣舞遺跡
 
 


 800 近世の釧路17世紀~19世紀


 17世紀半ば、釧路川河口に松前藩の商館が開設され、松前藩とアイヌ民族との交易が始まりました。 18世紀後半からこの場所は「クスリ」と呼ばれ、ニシン、昆布、サケなどの漁場でした。 徳川幕府は北海道東部を直轄統治し、北方地域の警備に力を入れていました。 警備員のための新たな道が開かれ、クスリは「千島」と「網走」への交差点となった』 日米平和条約が締結され、白糠町石丹岬では函館に寄港する外国船の燃料となる石炭が採掘された。北海道初の炭鉱です。

Kushiro in Modern Times
In the mid-17th century, a trading post of the Matsumae clan was opened in the estuaries of the Kushiro river and the trade between the Matsumae clan and Ainu people started. From the late 18th century, this place was called "Kusuri" and was a fishing base for herrings, kelp and salmons. The Tokugawa shogunate governed eastern Hokkaido directly and paid a lot of attention to the guard of the northern area. They opened a new road for the guards and Kusuri became a crossroads to "Kuriles" and "Abashiri"" The U.S.-Japan Peace Treaty was concluded and coal for fuel for foreign ships which called at Hakodate was dug out in Sekitan Misaki, Shiranuka. This is the first coal mine in Hokkaido.

kushiro in Modern times

 801近世史年表
 810近世史年表


 811アイヌ時代 チャシが築かれたころ

アイヌ時代:チャシが建設された時代
 14世紀に入ると擦文土器は姿を消す。家のつくりもカマドは無くなり、竪穴住居から平地式住居へと変わっていきました。
この頃から 室内には当時本州から輸入された内耳鉄鍋や陶磁器などの品物がたくさん移入され始めました。

 チャシはこの時代を特徴づけるもので、16 ~18 世紀にかけて北海道の多くの場所に築かれました。 神話、記録、形状、場所によると、チャシは儀式の場、集会の場、戦闘の場、そしてサケなどの食料資源の見張り場として機能していました。 時代の経過とともに、新しい機能が追加されたり、使用目的も変化してきました。 北海道ではこれまでに約500ものチャシが発見されている。 釧路エリアには130以上のチャシがあります。

Ainu period: the period when Chashi was erected
In the 14th century the Satsumon pottery disappeared. The houses lost the built-in stoves and the dugouts were replaced by the flat houses. A lot of goods such as iron pots ringed inside and ceramics were imported from Honshu since those days. Chashi characterizes this period and was erected in many places in Hokkaido from the 16th to 18th century. According to myths, records, shapes and locations, Chashi functioned as a ceremonial place, a meeting place, a battle site, and a lookout for food resources such as salmons. As time went by, new functions have added and also objectives for use have been changed. About 500 Chashi have been found in Hokkaido so far. The Kushiro area has more than 130 Chashi.

チャシが築かれた頃 アイヌ時代 アイヌ時代:チャシが建設された時代

 813チャシの使用者

 チャシの機能
チャシには、電子用・記録や形態・立地条件などから祭祀場・談合の場・戦いの場・資源監視のための見張り台、住居など、いくつかの機能があったと考えられている。時間的な経過の中で、いろいろな機能が加わり使用目的が変わっていたとみられる

チャシの機能 安政年間描画のチャシ

 815チャシの分布
チャシの分布
釧路市
モシリヤチャシ
国指定史跡
釧路町
アッチョロベツチャシ
弟子屈町丸山チャシ
弟子屈町
プイラクニチャシ
釧路市
フシココタンチャシ

 817フシココタンチャシ
桂恋フシココタンチャシ跡 住所:釧路市桂恋
太平洋に面して急崖を呈する岩石海岸の標高20~22mの舌状台地先端部に位置する。チャシの規模は約700㎡。典型的な面崖式、臨海性のチャシで、舌状台地を切離すように幅6mを超える弧状の壕をもつ。昭和49年(1974)チャシの全面発掘が実施された。その結果、壕の内側で21個の柱穴からなる柵列が等間隔に検出され、柱穴内にミズナラ、ハルニレなどの柱材が残されていた。引用コトバンク

 850チャシ出土品

 チャシか゛築かれたころ アイヌ時代
本州文化の影響
チャシなどから出土する遺物を見ると、道東地方では17世紀に多くの本州製品が移入される。刀、刀子、釘、キセル、鏃、片口鉄鍋、吊耳鉄鍋、銅環、北宋銭、明銭、ガラス玉などがあり、本州文化や大陸文化の強い影響を受ける様子がうかがえる。

本州文化の影響 短刀
釧路市緑ヶ岡
キムウングルコタンチャシ
土瓶
フシココンタチャシ
内耳鉄鍋
釧路町遠矢

 860アカウミガメ フシココタンチャシ アイヌ時代 約250~300年前 釧路市桂恋 フシココタンチャシ
頭を海に向けて埋められていた。
カメは「海を所有する神」とも言われ、チャシで霊送りの儀式が行われたと見られる。

フシココタンチャシ出土のアカウミガメの骨格
フシココタンチャシは北海道で徹底的に研究された最初のチャシです。この遺跡からは陶器や鹿の骨が出土し、柵や土壙の内部が調査されました。このアカウミガメはチャシの中心部に頭を向けて埋葬されていました。亀は「海を司るカムイ(神)」と呼ばれ、その魂を天界に送るために、チャシで儀式を行っていたようです。
Loggerhead turtle's skeleton excavated
from Fushikokotan chashi
The Fushikokotan chashi was the very first Chashi which was investigated thoroughly in Hokkaido. Ceramics and bones of deer were excavated from this site and the fence and the trench were investigated. This Loggerhead turtle was buried in the center of Chashi with the head pointing to the ocean. Turtle was called "the Kamui(god) who possess the sea' and they seemed to have performed a ceremony in Chashi to send its spirit to the celestial world.

フシココタンチャシ出土のアカウミガメの骨格
アカウミガメ

 870星兜
平安末期の星兜で、現存するものでは、国内で十数例しかない。擦文時代以降、交易により釧路地へ持ち込まれたものとみられ、この時期の星兜としては、極めて貴重な資料である

Hoshi Kabuto
平安時代末期の兜です。このタイプは日本で十数台しか認められなかった。これらの部品はヘルメットの前面と側面です。このヘルメットは小さく、八つののボタンが並んだお腕型です。擦文時代以降に釧路地方に輸入されたようです。これらはこの時代の兜の貴重な標本です。

星兜 星兜
星兜 Hoshi Kabuto
 871フシココタンチャシの杭
柱穴断面図 奇妙な柱穴です。
こんな杭の打ち方はとてもむつかしいですね。
 

 880釧路場所
クスリ場所
17世紀半ば、「クスリ」には、松前藩の商館が開設され、アイヌ民族との交易が行われていました。
18世紀後半、「クスリ」は、ニシンやサケの魚場となりました。
18世紀末、幕府は、蝦夷島東部の親政を開始し、北方の防衛に力を注ぎました。そのため、各地に通じる道が整備され、「クスリ」は千島や網走へ向かう重要な場所となりました。
19世紀半ばの開国により、輸出用昆布の生産はさらに増加しました。「クスリ」は、交易、漁業、交通の中心地でした。
Kushuri-basho
In the middle of the 17th century, a trading post of the Matsumae clan was opened in "Kusuri", and the trade with Ainu people was done there. In the latter half of the 18th century, "Kusuri" became a fishing base for herrings and salmons. At the end of the 18th century, the shogunate began the direct rule of the eastern Ezo Island and devoted energies to the northern defense. Therefore, the roads which led to various places were well maintained and "Kusuri" became an important place for a way to the Kuriles and Abashiri. In the middle of the 19th century, the production of kelp for the export increased further when the country was opened to the world. "Kusuri" was the center of trade, fishery, and traffic.

釧路場所 釧路場所 幕末

 890イタオマチプ板綴舟
アイヌの船の一種で、河川や湖沼、海で使われます。
木をくりぬいた丸木舟を船の敷とし、船首・船尾・舷(側面)に板を縄で綴じ合わせてあります。
「蝦夷生計図説」に描かれているウイマチブ(お目見え舟)をモデルに、北海道ウタリ協会釧路支部が作成しました。

※写真の中のロープの縛り方をご覧頂きたい。釘を使わず、ロープだけでしばり、海水に濡れるといっそう強く締め付けられる構造を作っています。
復元に当たって昭和の綿ロープが使われていますが、当時は木皮繊維などが使われていたのかもしれません。


 950近代

 951近代史年表(産業)




 953
釧路での暮らし  
Life in Kushiro city  釧路は東北、北陸、中国、四国からの移住者が多い。
 本州とは全く異なる未発見の天然資源、未開の土地、寒冷な気候。
母国から引っ越してきた彼らは、釧路での生活に慣れるまで忍耐と努力が必要でした。
祖国で使われていた製品の多くは北の寒さでは使い物にならなかったので、北の自然に合わせて改良したのです。
最初は燃料として薪を使用し、その後石炭を使用しました。 熱効率を高めるために工夫を重ねた。
 苫小牧と並んで釧路はスケートが有名です。
Life in Kushiro city
In Kushiro, most of the immigrants are from Tohoku, Hokuriku, Chugoku, and Shikoku. Undiscovered natural resources, undeveloped land and cold climate are completely different from Honshu's. When they moved in from their mother land, they needed patience and endeavor until they got used to the life in Kushiro. Most of goods which were used in their mother land were useless in the coldness of the north, so they improved them to fit for the northern nature. They used firewood as fuel at the begining then coal. To increase heat efficiency, they kept devising. Kushiro as well as Tomakomai is famous for skating.




 霧笛のこだまする街
大正14年9月知人にある釧路埼灯台に霧笛が設置された。釧路港は、石炭、製紙、雑穀の輸出量が増え、魚船動力化の時代に入る。
霧笛が発する霧信号は、港の安全性を高め、街中に響くその音は、東北海道を代表する港町―釧路の象徴であった。

霧笛のこだまする街 釧路崎灯台
昭和11年
霧笛のこだまする街

 955川崎船
1897年頃、川崎船と呼ばれる帆船が新潟の漁民によって釧路に持ち込まれました。この船に乗って底引き網でタラやヒラメなどを捕獲し、釧路で沖合漁業が始まりました。この船は最後の非動力船であり、1952年頃まで活躍しました。
Kawasakisen
About 1897, the sailing ship which was called Kawasakisen, was brought into kushiro by the fishermen in Niigata. They took this ship and caught cods and flounders by using a trawlnet. Thus, an offshore fishery was started in Kushiro. This ship was the last no power ship, and was active until about 1952.

沖合漁業を開いた川崎船
 川崎船は明治30年頃、新潟の漁民により釧路へ持ち込まれ、この船により釧路の沖合漁業が始まった。7~8人が乗り込み、底引き網の先駆けとなる手繰網漁(てぐりあみりょう)をする船である。最後の無動力船だが、速度は9ノットにもなり、昭和27年頃まで活躍した。

川崎線●総トン―3トン ●長さ―9.1m ●幅―2.4m ●乗組員―4~5人
釧路の沖で魚が採れるようになったのは、明治40年頃からで釧路の海に合わせて改良が加えられ、〇岩一氏が建造したもので、船体は〇〇島産の杉を用いた。

Kawasakisen 沖合漁業を開いた
川崎船
 

 960くらしと道具