中部地方の縄文1 05 2017.05.18-1-27 喬木村歴史民俗資料館 長野県下伊那郡喬木村6698-2 0265-33-4508 火・木開館 撮影可 交通 レンタカー 見所 伊久間原遺跡の展示館である。 香炉形土器 (釣手土器・吊手土器) が雌雄一対、であったことが、おそらく全国で初めて展示されています。 阿島式土器 弥生時代の土器形式 、(喬木村阿島遺跡が標準遺跡) 注意 週二回の開館です。間違いのないように訪問しましょう。 |
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01外観 飯田線飯田駅付近 飯田市はかつて大火に見舞われ、復興にあたって中学生の発案により、リンゴをテーマにした街づくりを始めた。 街にリンゴ並木を植え、中学生が伝統的に管理する。従って誰も盗んだりしない。 駅舎もリンゴをイメージして造られました。 |
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資料 転載「飯山市戸狩の岡峰遺跡出土の皮袋形土器」
※日本各地にみられる皮袋型土器や角杯は、遊牧民族の分散渡来を意味するが、 そもそも、中央アジアの遊牧民匈奴などが寒冷化によって南下し、畑作民が周に度々侵入し、春秋戦国時代が始まり、 圧迫された半島人が列島に侵入して弥生時代が始まったのではなかったか。 サハリンから南下したか、他の民族と同じ様に半島を南下してやってきたか。 着の身着のままだったのか、馬を連れてやってきたのか。 もっと遺跡の詳細がわからないと何とも言えない。 飯山市に行ってみないといけませんね。 |
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10地学 |
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12地学的特徴
※伊久間原遺跡の地図は、展示室入り口外にあったので、地学と一緒になってしまいました。以後気を付けます。 |
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16伊那谷の形成 (※ここの年代はあくまで当時の見解で、現在とは異なっています。 新しい資料をご覧ください)
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17伊那谷の岩石
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20考古 伊久間原遺跡の考古資料が多くあります 伊久間原遺跡 縄文前期 縄文前期の竪穴住居址17軒、 縄文中期の竪穴住居址65軒、 弥生後期の竪穴住居址・周溝墓、 古墳前期~後期の竪穴住居址、 平安時代の竪穴住居址 等が検出されている。 また、畑灌水の工事に伴う立合調査が遺跡全面で行われており、縄文時代から平安時代までの各時代にわたる遺構・遺物がある。 |
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32伊那谷の歴史 |
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33旧石器時代 最近では、飯田市山元の竹佐中原遺跡での発見により、3万2千~3万5千年前の石器類が発見され注目されている。 近くに昭和47年発掘の石子原遺跡もある。 当村には昭和45年に伊久間原遺跡で表面採取された石器がある。 |
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40縄文時代 |
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41伊久間原遺跡 |
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42縄文土器 |
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43埋甕 住居入口に埋められた、死産の嬰児や、後産(胎盤)などを入れた甕。出入りの度に踏んだりまたいだりして、再生や丈夫に育つよう願った。 |
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44土器 中期後半 |
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45縄文時代の時代区分 |
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46土器 |
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47
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48石棒 土偶などと同様に、集落の共同祭祀などに使われ、子孫繁栄、豊穣祈願などを行ったのではないか。 |
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49 |
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60弥生時代 |
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61panel |
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63土器 |
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※北原遺跡 下伊那郡高森町下市田北原にある弥生時代中期の遺跡。7棟の長方形竪穴住居跡 (磨製石鏃生産工房跡) を検出。 同時に各棟とも多数の短冊形・鉞(まさかり)形打製石斧・打製石庖丁が検出され、天竜川沖積地の水稲耕作・に扇状地での陸耕が盛んであった。 北原式土器 北原遺跡の人々が用いた土器は櫛描文が主体で,中期前半の磨消(すりけし)縄文の盛行した時期に続く時期で,北原式土器とよばれている。 菊川式土器 弥生時代後期(2世紀後半) この土器には静岡県の天竜川東岸から大井川西岸地域に展開する「菊川式土器」に見られる、櫛状工具による「櫛描文」の手法が施されている。 付近にも同様の土器を出土する遺構が検出されており、隣接した谷には、東遠江や西遠江など東海地方西部の土器が大量に埋没していました。 |
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80古墳時代 |
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81古墳時代の土器 |
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82 |
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83甑 三つ重ねの甑 かまどの上に甕を置いて湯を沸かし、その上に甑を置いて穀物を蒸す。その甑の上に更に甑を置いてあがった蒸気を利用し、さらに上に甑を重ねる。 セイロ (蒸篭) は、赤飯や餅つきには何段も積み重ねて、下から順に蒸しあがったものを使い、蒸気を有効利用する。 これまでの甑の説明では、一段だけ置いて説明していたが、実際には何段にも重ねて使っていたのに違いない。 考古学者が、一般的な知識として、本当に蒸し器の使い方を知っていたのかということになると思います。 もしかして、この甑に穀物を満杯に詰め込んで蒸したと考えたのだろうか。そんなことをしたら蒸せません。蒸気の通り道を作って薄く入れます。 従って、蒸す時は、何段も重ねて、最上段には穴の開いた蓋を被せます。 きっと、甑も、セイロと同じ使い方をしたのでしよう。 それにしても、あれだけ木工の達人が多い弥生時代に、曲げ物や、木製のセイロを考え、発展させなかったのでしようか。 やはり、カメで煮るという延長線上の土製蒸し器だったのでしょうか。
※古墳時代の人々の集落 (文章の始まりが少しおかしい。) 古墳時代の人々も生活しました。伝統技術で造られた土器の食器や、新技術の窯で焼いた須恵器も使われるようになりました。 近くに有力者のお墓である前方後円墳の郭第一号墳、鏡が副葬された里原第1号古墳があります。 |
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84馬具 |
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85古墳時代の土器 |
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※実際の展示では、ところどころに、時代の違うものが混じっています。あまり気にしないでご覧ください。展示の順序に並べています。 企画展や説明などで持ち出して、正しく元の位置に戻らないものが次々と増えていったのでしょう。 100古代 |
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101平安時代
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102古代 |
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103木製品
杭 長野市立博物館が善光寺の付近にあった頃、訪れたことがあり、その時、館内に、このような杭が山積みになっていました。 館の方から、これは何でしょうね。水田跡からいっぱい出てくるんですよ。何かわからないんです。と言われ、 「弥生時代の灌漑や畔に使った杭じゃないですか。」 と答えたのですが、若かった私の言葉はお耳には届かなかったようでした。 今、やはりと、確信しています。もう何十年も前の紅顔の美少年だった頃の話。笑 |
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※ちなみに、長野市立博物館で、善光寺近くにあったというとそんなものはありませんと言われました。(笑い) |
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105平場展示 |
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110深鉢 縄文中期、加曽利E式※ (約4500年前)、喬木中学校校舎の深さ1m~1.5m、他に小さな土器片が出土。食料の貯蔵用ではないか。 |
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資料 ※加曾利E式土器 関東地方の縄文時代中期後半の土器型式(様式)名である 転載wikipedia加曾利E式 加曾利EⅠ式 東北地方の大木8a式の影響を色濃く受けている。口縁部文様帯に横S字状や渦巻き状、逆J字の隆帯を張り付けて、隆帯に囲まれた部分に縄文を 施し、口縁部文様帯と胴部の文様帯の間に無文帯が設ける例が多くみられる。胴部の文様帯は隆帯で区分され、縄文がぎっしり充填される。 加曾利EⅡ式 口縁部文様帯は、渦巻き状の隆帯と楕円形ないし横倒しの涙粒子状の図形に縄文を充填するようになり、口縁部文様帯の下、胴部の上半部に みられた無文帯はなくなり、口縁部文様帯の直下に胴部文様帯がつながる形となる。胴部文様帯は、縦に、磨り消しないし無文の部分と縄文が 施された部分とが交互になり、縦に波線状の隆帯もしくは区分する沈線がみられる。また器面に連弧文を施す土器が出現するのもこの時期である。 加曾利EⅢ式 口縁部文様帯が楕円形のなかに縄文を充填するタイプのみに簡略化され、胴部文様帯に吸収されていたかのように口縁部文様帯が存在しない もののほうが量的に多くなる。 またこの時期には文様を区分する隆帯がなくなり、沈線が多用されるようになる。大木8b式や大木9式の影響を受けて、底部付近を除き 渦巻き状の隆帯を器面全体に施し、隆帯で区分された部分に縄文を充填するタイプが出現する。 加曾利EⅣ式 器面全体にM字・U字・V字の無文帯の間に縄文が充填される型式である。 縄文の施文された区画は、口縁部から胴部中央のくびれ部分、 底部付近から胴部中央くびれ部分で終わる形をとり、古段階のものは、縄文が充填されたU字ないし逆U字状ともいうべき丸みを帯びた区画が 繰り返される。 新段階のものは、V字状ないしΛ字状の鋭角的な区画になるか、無文帯が増える形をとる。大木9式にみられる口縁部の下肩部両脇に把手の ついた浅鉢が出現する。 無文帯と縄文を施す文様帯や器形、そしてこの時期に出現する柄鏡形住居は後続する称名寺式期の特徴となる。 |
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おことわり、 平場展示では、なぜか、赤い蛍光灯がついていて、編集でなるべく軽減しましたが、多くはそのままです。見にくいことをお詫びします。 120縄文土器
※諸磯式土器 神奈川県三浦市三崎町諸磯字新堀にある縄文時代前期の土器型式諸磯a, b, c式の標式遺跡である。 参考赤城山南麓の縄文 考古学資料 みたか遺跡展示室 ※北白川式土器・北白川遺跡群 京都市左京区北白川・吉田にある縄文時代~弥生時代の遺跡群。 京都盆地の北東部,比叡山南西麓に形成された複合扇状地のひとつ,北白川扇状地上に位置する。 北東から北白川上終(かみはて)町遺跡,同別当町・小倉町遺跡,同追分町遺跡,吉田山西麓遺跡に分かれる。 北方約1.5kmにある一乗寺,修学院の扇状地上にも縄文早期~晩期の遺跡群があり,南方1.5kmにも縄文時代~古墳時代の岡崎遺跡がある。 上終町遺跡は1934年に小林行雄らが発掘し,縄文時代中期末の住居址1棟のほか,早期押型文土器,後期北白川上層式土器が発見された。 ※北白川式土器はなかなかお目にかかれない土器です。大抵が撮影禁止。こんなにくっきりした文様は、私は初めてです。 |
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130石器 弥生からの石器なのだろうか詳細不明 キャプションがほぼないので |
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140縄文土器 |
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150弥生石器 石器と種実圧痕 生産道具に伝統の打製石斧や横刃形石器に加えて、新たに有肩扇状形石器や打製石包丁が出現します。 また、レプリカ法でイネ6点、アワ4点、キビ1点の種実圧痕が確認され、イネの比率が高くなっています。 遺跡の立地が水辺指向であることから、水田に主体を置くようになったと考えられます。 阿島式土器―弥生時代中期中葉 阿島式土器と一緒に掘り出された石器 大きな打製石斧は鍬。 打製石包丁は穂刈り具。 横刃形石器・有肩扇状形石器は鎌のように使われた。 阿島式土器を使っていた人々のくらし 土器の表面を観察する小さな凹みがあります。拡大して見ると、籾殻の付いたお米であったりします。 人々は、段丘下の水を得やすい場所で水田稲作を本格的に始めた人たちだったのです。 阿島五反田遺跡の今とこれから 中部高地で本格的な水田稲作が行われるようになった頃を伝える遺跡です。 また、竜東※唯一の前方後円墳の直下にあることから、 古墳時代の東竜の中心地と考えられ、更に伊那郡衙の対岸に位置していて、奈良・平安時代の伴野郷の中心地とも考えられる遺跡です。 宅地開発でも遺跡は2m前後下に保存されています。 ※竜東 天竜川東岸を指す。阿島五反田遺跡 飯田市立竜東中学校 阿島式土器の人々の道具 |
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160阿島五反田遺跡 縄文石器 |
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170土偶 縄文人の女性(母性)をイメージした祭の対象物 (女神) と考えられる。 バラバラに壊れて発見されることから、土偶を壊す祭が行われたと 考えられます。安産や子孫繁栄、自然の恵みへの祈りとして使われたといわれます。 |
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180弥生遺物
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190阿島五反田遺跡について 弥生中期 約2500年前 遺跡は、阿島北にあり、畑などから土器や石器が拾えることから遺跡と分かります。 加々須川と土井場沢川に挟まれ、県道から西側一帯が遺跡の中心です。 遺跡から掘り出された土器に「阿島式」と名付けられていて、全国的に有名です。 「阿島式土器」の壺とよく似た土器が、東京・神奈川・静岡・愛知で出土していることから、注目されています。 |
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210全国的に知られている土器 貯蔵用の赤く塗られた壺や東海地方から運ばれてきた壺、煮炊き用の甕があります。弥生時代中期中頃 (約2000年前) の土器で、 「阿島式土器」 と呼ばれ全国的に知られています。 各地の土器 阿島式土器と同じ頃の各地の土器です。各地の壺も頸が長いという共通性があります。しかし、天竜川の右岸の浜松市梶子遺跡と 左岸の磐田市馬坂遺跡出土の壺では文様などに違いが見られます。更に、関東地方の壺は文様が違っています。 阿島五反田遺跡出土の壺は天竜川左岸のものと類似していて、天竜川右岸の壺も出土しています。 阿島式土器の特徴 大形壺と特殊な器形の小型壺が多く、浅い条痕文が施文される甕が認められる。 210阿島式土器 くっきりとした彫刻のような文様が特長です。 |
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220阿島式土器 阿島式土器の文様 大型の壺には太い線で文様が描かれていて、赤く塗られた壺とそうでないものがあります。 また、櫛のような道具で文様を描いた壺は、愛知県で作られた壺です。 阿島式土器の甕の文様 櫛のような道具で引っ掻いたような文様が描かれています。表面をよく見ると煮炊きの時に火を受けた痕跡や煮こぼれた食べ物が 炭になってくっついている土器もあります。 |
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230縄文~古墳 香炉形土器(釣手土器・吊手土器)、雌雄一対 香炉形土器・釣手土器が、一対のデザインで構成されています。 確かに、上が開いたものと、吊手のように閉じたものがありました。しかし、それが二つで一対になっていたのは、この資料館が初めてです。 これはすごい発見だと思いました。 四神四獣鏡 (里原1号墳) 古墳時代 鏡は首長の地位と権威を示すと共に、神 (かみ) となった首長の霊を祭るため、大切な玉や剣などと一緒に葬られた。 朝顔形円筒埴輪、円筒埴輪 古墳時代 首長の埋葬の際に儀式として墳丘上に立て並べられたもの。この他に、人物・動物・家形・器財埴輪などがある。(郭5号墳・・6世紀) 銅鏃 帰牛原 十万山9号住居址 弥生時代、後期住居址から出土した貴重なものである。 長野県の出土例としては、極稀なものであり、昭和56年国立奈良文化財研究所において 保存処理が行われた。用途は、祭祀用と思われる。 十能 (じゅうのう) 土製と思われる。博物館で十能を見たのは初めてである。いつ頃のものでしょうか。とても珍しく貴重なものです。 燃え火や、炭を扱うときには必ず必要なものです。今まで発見されなかったことのほうが不思議です。 |
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231古墳時代 |
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300収蔵庫 |