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00Poster |
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10秋田にきたモノとヒト 四方を自然の障壁に囲まれた秋田県。しかし、本展でみるように、旧器時代から外とのつながりは絶えなかったことが分かります。 それは、生活に必要なものを得るためでもあり、より豊かな生活を送るためでもありました。単に物質的な豊かさだけを求めたものだったので しょうか。 土器やそのデザイン(情報)の流通は、ヒトの動きもまた、頻繁だったことを物語ります。それは婚姻に伴うものだったかもしれませんし、 集団移住や旅人の存在を示すものかも知れません。 また、平安時代以降は国家戦略の中に秋田が飲みこまれて行き、当時の先端の文化や技術が次々に流入して来ました。 本展を通じて外から入ってきた要素から秋田をもう一度とらえ、その歴史や文化を見つめ直すきっかけになれば幸いです。 |
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11旧石器時代 グレートジャーニーの果てに 私たち新人(ホモ・サピエンス)は、今から約20万年前のアフリカで誕生しました。その後、約5万年前にアフリカを旅立ち、世界中に広がりました。 この出来事をグレートジャーニーと呼ぶ人類学者もいます。 秋田では、今から約3万5000年前の旧石器時代の遺跡が見つかっています。大陸から北回り、もしくは南回りで入ってきた最初の秋田人の遺跡は、 県内で10か所ほど確認されています。 彼らは、秋田で入手できる珪質頁岩で石器を作っています。しかし、彼らの持ち物の中には、他地域で産出する石器も入っていました。 ここでは、広域に移動する狩猟民である最初の秋田人がどのような地域と関係があったのかを見ていきます。 |
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(下に挙げる5番目・6番目の写真の説明) 磨製石斧 後期旧石器時代前半 秋田市地蔵田遺跡 上列3点は凝灰岩など地元産の石材です。一方、下段の石斧は北陸地方青海-蓮華山地帯で産出する「透閃石岩」という固くて重い石材で 作られています。 見た目の美しさに惹かれます。近年大陸側を含んだ環日本海地域における旧石器時代人の交流が、石材の広がりから見えつつあります。 台形石器 後期旧石器時代前半 秋田市風無台Ⅱ遺跡 風無台I 風無台III 後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究 (風無台Ⅱ遺跡は米ヶ森型石器の分布地域である) 槍の穂先につけた狩猟具と考えられます。一般的に秋田の石器は地元産珪質頁岩でつくられますが、これは火山のマグマが急冷して 出来上がった黒曜石で作られています。 黒曜石は産地推定分析が可能で、当時の人々の地域間交流や移動範囲を知る上で重要です。この石器は青森県深浦産という 分析結果が出されています。 とても脆いのですが、薄い刃先がほとんど欠けていません。大切に扱われたのでしようか。 旧石器時代
(上に挙げる写真の説明) ※1掻器 後期旧石器時代後半期 男鹿市大畑台遺跡 皮なめしの道具です。後期旧石器時代は氷期でしたが、とくにこの掻器がつくられた時期は最終氷期最寒冷期Last Glacial Maximumにあたります。 寒い時期や地域では、こうした石器が数多く見つかります。 美しい黒曜石で作られていますが、産地推定分析をした結果、青森県出来島産の黒曜石であることが分かりました。 眺めていると道具というのは、ただ使えればよいというわけではなく、そこに美も求められていたように思えてきます。 ※2彫器と破片 後期旧石器時代後半 大仙市小出Ⅰ遺跡 東北横断自動車道秋田線発掘調査報告書8 彫器とは彫刻刀のような刃をもつ石器です。しかし、本当に彫刻刀のように使われたかは分かりません。上には黒曜石の破片を展示しています。 これらの黒曜石は火熱を受けて白く変色しています。焚火のそばで石器作りをしていたようです。 産地は不明ですが、貴重な黒曜石だからでしようか、細かな破片からは黒曜石を無駄にしないような丁寧な石器作りの様子が見えます。 |
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13秋田から運ばれたモノたち 秋田は原始時代から資源の宝庫でした。それ故に様々なものが他地域へと運ばれました。例えば、 三種町など県内の河川で広く採取できる珪質頁岩、男鹿半島と田沢湖で産出する黒曜石、能代市二ツ井や潟上市豊川で湧出する アスファルトなどです。 珪質頁岩や黒曜石は石器の原料として、アスファルトは接着剤や顔料として、利用価値がとても高いものです。 利用価値が高く産地が限定されているものは、重要な地域資源として扱われていました。黒曜石やアスファルトの他にも、 後世まで遺存しにくい動物や植物などの様々な有機質の資源があったことでしょう。 |
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20縄文時代 |
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21広域化する流通ネットワーク 今から1万5000年前には、世界に先駆けて日本で土器が発明され、その5000年後までには気候が安定化して定住生活が始まります。 縄文時代の始まりです。 (※土器は、約2万年前に中国大陸で発明され、沿海州を経て、1.65万年前頃列島に伝わったと考えられています。) 一つの地域に定住することにより、地域文化が生まれるとともに、多様な資源を利用するためのネットワークの広域化と、それに応えるための 地域資源の開発が促進されます。いわゆる物々交換等による資源の利用です。 考古学的に把握できる秋田の特産には、珪質頁岩・黒曜石(石器材料)、アスファルト(接着剤)があり、東日本一帯に流通していたものと推定 されます。 我々の想像以上に、活発なモノとヒトの往来があったようです。そこからは、流通ネットワークによって、より豊かに暮らした縄文人の姿が見えて きます。 磨製石斧 縄文時代晩期 能代市麻生遺跡 磨製石斧は木を切る道具です。森を切り開き、竪穴住居を建て、木製品を作り出した縄文人にとって欠かせないものです。 近年その石の多くは産地が限定されていることが分かり始めてきました。 ①写真の上3点はアオトラ石(緑色岩)といい北海道日高山脈に産地があります。下の2点は旧石器時代の展示にあった北陸産の透閃石岩です。 遠隔地石材の石斧は、完成製品として秋田に持ち込まれたものでしょう。 生活必需品を遠く離れた他地域から入手することは、私たちの想像以上に容易だったのでしょうか。自分たちの力だけでなく、他地域との繋がりの 中で生活が成り立っていた姿が浮かびあがります。 (しかし、次に入手できるかさえ分からない状態でもよかったのでしょうか。) 縄文時代
※1大珠 縄文時代中期 八郎潟町沢田遺跡 翡翠というとても硬い石で作られています。翡翠は新潟県糸魚川市姫川産のものです。縄文中期以降、物に孔をあける穿孔技術が発達します。 金剛砂をまぶしながら細い竹などを使って開けました。当時の人にとって翡翠製品は、その美しさや希少性のみならず、製作に費やした労力も 含めて価値が高かったのでしょう。 ※2深鉢形土器 縄文時代中期 八郎潟町沢田遺跡 男鹿市大畑台遺跡 能代市上ノ山Ⅱ遺跡 これらは新潟県特有な形式の土器です。右の土器は火焔土器の一種王冠型土器です。その作りから、秋田で作られたものでしょう。 土器のデザインも情報として入ってきたのでしょうか。これらと似たような土器は、新潟県六反田南遺跡にもあります。 ※3十腰内Ⅰ式土器 縄文時代後期 北秋田市伊勢堂岱遺跡 縄文後期 (4000年前) には北海道・北東北を中心にストーンサークルという共同祭祀施設が築かれました。津軽海峡を挟んだ両地域に共通した 文化・習俗が広まったようです。この土器は青森県を中心に作られた土器形式で、文化の共通性を最も端的に示すものです。 この時期は世界的に気候が寒冷化した時期でもあります。そうした状況にあって、類似した環境下にある地域間交流がかえって活発になった のでしょう。 考察 (環状列石文化を持った、海獣狩猟民が津軽海峡を越えて活動し、異文化の交流や移住等が行われたと考えられます。) |
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40弥生時代 |
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41異文化との融合 今から約3000年前、大陸から入ってきた稲作文化を北部九州で受け入れることによって弥生時代が始まります。 秋田には2300年前に弥生文化が伝わってきました。旧石器時代以来続く、日本海沿いのルートを辿ってきたようです。 弥生文化の到来は、コメ作りだけが伝わったということだけではなく、稲作にかかわる習俗、土地利用、季節感、戦争など文化・社会の在り方が セットとして入ってきたことを意味します。 ※つまり、半島人が半島文化・社会構造そのままを持ち込んできたのです。列島は半島文化となりました。 しかし、秋田では、縄文の暮らしが完全に入れ替わったのではなく、縄文的なものと弥生的なものとが融合している姿が、考古資料から読み取れ ます。 弥生文化という、これまでとは全く異質な文化と出会った秋田の人は、なぜ融合する道を選んだのか、その理由は分かっていません。 弥生土器 弥生時代前期 秋田市地蔵田遺跡 (じぞうでん:御所野という場所ですが、岩手県御所野遺跡とは違います。) 稲作が全国に普及し始める弥生時代の前期には、九州で遠賀川式という土器がつくられました。秋田でもその系統の土器が出土していますが、 秋田の弥生土器は、本場の人がつくった本物ではなく、地元の人が真似たものです。稲作文化の到来と共に様々な文化要素が入ってきました。 土器形式という情報もその一つです。ただ、完全なコピーではなく、表面に縄文を転がすなど地域の独自性も表していたようです。 進む寒冷化と北からの移住 弥生時代の終わりから古墳時代にかけて気候が寒冷化します。その頃の秋田の遺跡や出土品を見ると、例えば、県北部の能代市寒川Ⅱ遺跡という 墓地遺跡では、北海道で流行した後北式土器が副葬されています。これは寒冷化のため北海道から移住した人々のお墓と考えられます。 一方、県南部の横手市田久保下遺跡 (墓地遺跡) では、古墳時代中期、大和政権との接触を示す遺物が副葬して数多く出土しています。 例えば土師器、須恵器、鉄製品などです。これらの墓の中には黒曜石などの破片が沢山入っていました。これは北海道の続縄文文化です。 田久保下遺跡では、そうした南北両方の要素が見られる遺跡として重要です。果たしてどのような人々の墓地だったのでしょうか。 日本海沿岸部南部地域の由利本荘市井岡遺跡では同様に中央との関わりを示す子持勾玉が発見されています。 一方、同市宮崎遺跡では中央との関わりを示す土師器と共に、北海道に多く分布する北大式土器の破片が出土しています。田久保下遺跡同様、 南北の文化が生み出した産物が見つかった遺跡です。 寒冷化によって秋田県内の遺跡は激減するようです。そうした状況の下、単に北からヒトが移住してきただけではなく、南からも文化要素が 入り込んでいることが、出土品から理解できます。 寒くなることで、ヒトやモノの動きや流れがより一層、広域かつ複雑な様相を呈するようになりました。 弥生時代 |
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42 ※1後北式土器と斧状鉄製品 弥生時代末~古墳時代 能代市寒川遺跡 秋田の縄文・弥生の土器とは少し違ったこのデザインは、北海道の続縄文土器です。右の突起は、本来注ぎ口だったものが形骸化したものです。 土器の手前の展示品は鉄斧と考えられる資料です。当時の秋田はもとより、日本では製鉄技術はありません。この鉄斧は北方世界から入手された ものです。東北地方でも最古級の鉄製品の一つです。 ※2須恵器と鉄製品 古墳時代中期 横手市田久保下遺跡 日本の土器作りは縄文時代以来、野焼きでしたが、古墳時代に窯による高温の焼成技術が朝鮮半島から伝わります。須恵器です。 大阪府陶邑窯跡群が一大生産地の遺跡として有名ですが、この須恵器も、数々の鉄製品と共に畿内から持ち込まれたものと考えられます。 県北では北との繋がりが、県南部では西日本との繋がりが強固になっていたようです。 ※3北大式土器と土師器 古墳時代 由利本荘市宮崎遺跡 寒川Ⅱ遺跡でみられた後北式土器は、4世紀後半~5世紀にかけて北大式に変わります。 由利本庄市宮崎遺跡では、竪穴住居から北大式土器の破片(上の6点)が出土し、北との繋がりが沿岸部地域まで及んでいたことが分かります。 しかし、一方で南の古墳文化との強い関係を示す土師器の壺と坏(右の2点)も出土しています。 この地に住んでいた人々も、田久保下遺跡同様に、北と南、双方の文化を取り入れていたようです。 ※4子持勾玉 古墳時代中期 由利本荘市井岡遺跡 古墳時代の呪術的な道具で、背や腹に子供のような勾玉が付いていることが名前の由来です。日本海沿岸部では最北の出土例です。 |
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50古代 |
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52払田の柵 (ほったのさく) 9世紀初頭から10世紀後半まで存続した、東北経営のための軍事・政治の拠点・役所施設です。 勾玉 奈良時代 鹿角市枯草坂古墳群 米代川上流域の角館市では、奈良時代の古墳が数多く発見されています。枯草坂古墳からは、土器のほか瑪瑙や碧玉で作られた勾玉、 ガラス玉などの装飾品や刀装具、鉄族などが出土しています。 米代川中・下流域ではこうした古墳がないことから、岩手県側の影響を受けたものと考えられています。 「日本」のなかへ 畿内を中心とした律令国家「日本」が誕生し、都が平城京に置かれると、東北地方にまで日本の版図が次第に広まっていきます。 秋田には秋田城が設置され、律令体制が浸透していきます。この頃の漆紙文書や土器その他の出土品を見ると、多くの移民が他地域から流入し、 製鉄や土器生産に関する最先端技術が移転されつつあったことが分かります。 ※移民は、土着の縄文人を日本の各地に奴隷として移住させ、勢力をそいだ後に大量の弥生人を投入したのです。 これは、城柵を中心とした「日本」が地域に浸透しつつあったことを示します。 さらに大陸側との交流を示す遺構や遺物も発見されています。 東山道や北陸道のような陸路と、日本海の海運を利用し、馬や船などの強力な輸送力を背景として、外からモノとヒトが一挙に入り込んできた ようです。 白磁・灰釉陶器三足盤 平安時代 秋田市秋田城 左は白磁、右は県内唯一の出土例である灰釉陶器三足盤です。白磁は中国産、灰釉陶器は東海地方産と考えられます。こうした陶磁器類は、 国衙や官衙など限られた遺跡で出土しており、当時にあって貴重な製品であったことが分かります。秋田城は律令国家最北端の拠点として、 そうした品々が集まったのでしょう。 古代 |
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53 ※1秋田発注の須恵器 平安時代 秋田市手形山窯跡 秋田城跡の東側丘陵には秋田市北部から南部にかけて須恵器の窯跡が多く発見されています。これは律令国家の浸透を示すもので、 当時、秋田城から発注された品々が焼かれていました。 律令体制が整えられつつある最初の頃の須恵器(左の2点)は、整形後に底面がヘラで起こされ、きれいに調整されています。 律令制の安定期に入ると須恵器は量産されるようになり、より効率のよい回転糸切りが採用され(右の2点)、底面も丁寧に調整することは なくなりました。 上野国進上木簡 平安時代 秋田市秋田城 上野国(群馬県)から秋田城へ物資や人員を送ったことを示す木簡です。関東地方との密接な関係があったことが分かります。 ヒグマの毛皮 北方交易では、渡嶋(北海道)の特産品であるヒグマの毛皮も京へ運ばれたようです。毛皮は秋田城で城司が服属儀礼を介して収取し、 交易雑物として中央に納められました。
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54秋田城遺跡出土 古代の死亡帳 平安時代 秋田市秋田城 一年間の死亡者の氏名・年齢・年齢区分・死亡年月日を戸籍単位で列記した文書です。死亡者の氏名のうち、「高志公」は越後国、「江沼臣」は 加賀国を本拠とする集団の氏姓です。このことは、律令体制下で、北陸地方から人々の移住があったことを示しています。 朝鮮半島の遊戯盤 平安時代 秋田市秋田城 これは塼(せん)という道路などに敷くための煉瓦です。小さな穴が円状・列状にあけられています。これは朝鮮半島の双六である「ユンノリ」の 原型であることが、近年分かりました。遊びの文化も外から入ってきたようです。 線刻土器片 平安時代 大仙市美郷町払田柵 渤海系の可能性がある土器片です。渤海国は靺鞨人と高句麗の遺民が建てた国です。神亀4年(727年)から延喜19年(919)にかけて計34回の 使節を日本に派遣しています。8世紀には出羽国への来航が最も集中しており、秋田城では、渤海などの外国との繋がりを示す資料や遺構が 発見されている。 渤海の使節団は沿海州・サハリン・北海道を経由する「北の海みち」の航路を使っていたと考えられています。 秋田城遺跡
※1「狄藻」木簡と絵馬(てきそう) 平安時代 大仙市美郷町払田柵 続日本紀や日本三代実録等によると、平安時代以降、律令国家による北海道地域との 交易が活発化するようです。 その特産品としてヒグマの毛皮や昆布などが挙げられます。払田柵跡からは「狄藻」木簡が出土しました。これは、「えびすめ」ともよび、 北海道~三陸北部に産出する昆布のことで、木簡はその荷札でした。これらを京に運ぶために活躍したのが「馬」でした。 ※2馬の鞍の部品 平安時代 三郷町厨川谷地 これは馬に取り付ける鞍の部品で「居木」と呼ばれる座面にあたる部分です。これが出土した厨川谷地遺跡は払田柵跡に隣接する同時代の 祭祀場です。形状から、この居木の破片は後輪側と考えられます。突出部には黒漆が残存しています。 平安時代の居木の出土例は全国的にも非常に少なく貴重な発見です。 |
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56にかほ市清水尻Ⅱ遺跡 出土品 平安時代 平安時代の官道と推定される道路跡が見つかった遺跡です。注目すべきは、展示してある筒状の青銅製品です。これは古代の馬具である 鞖(しおで)金具と推定されています。鞖とは、鞍と胸懸・尻懸をとめる紐につけられた管状の装飾品で、官人が駅家で馬を乗り換えるときに使用する 移鞍につけられたものです。出土例が少なく、非常に珍しいものです。 また、道路跡近くからは馬が埋められた穴が見つかりました。平城京や古代官衙にある道路からは祭祀的目的で馬が埋納されていることが 知られている。
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58三種町小林遺跡 出土品 平安時代 秋田城より北へ60㎞の台地に築かれた古代の集落跡から出土しました。 出土品からは、地域住民によって鉄作りが行われていたことが分かる。 製鉄炉や竪穴住居の中の鍛冶炉、炭焼き窯などが集落の中に場所を違えて配置されていた様子が明らかになりました。 また、この集落跡の南西隅に大型の掘立柱建物跡が発見され、そこから緑釉陶器や灰釉陶器の破片が出土しました。 もしかすると、製鉄指導を行っていた秋田城から派遣されてた官人の建物と持ち物だったのかもしれません。
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