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 西日本の縄文46   2019.8.2-3

  八雲立つ風土記の丘資料館  島根県松江市大庭町456 0852-23-2485火曜休館・撮影可


交通 レンタカー
JR松江駅より一畑バス八雲行き 約18分、風土記の丘入口下車 徒歩2分
JR松江駅より市営バスかんべの里行き 約18分、風土記の丘下車 すぐ
王陵の丘 古曽志さこだ公園

古墳の丘古曽志公園

 
 目次

01外観

02入口展示
 国引き神話と「意宇」
03出雲の国風土記  
04旧石器人の石器
05巨大ジオラマ
10岩屋後古墳
 地元工人による素朴な埴輪
 常楽寺古墳埴輪
10a人物埴輪
11人物埴輪
20石屋古墳
 蓋埴輪とは
22人物埴輪群は語る
23形象埴輪
 椅子埴輪 
24馬埴輪
26家形埴輪
27力士像
28見返りの鹿埴輪
31猪埴輪
32人物埴輪

60古墳が語ること
61意宇の古墳が語る地域の歩み
71古墳が語る出雲の盟主への足取り
72大型前方後円墳の出現
73廻田1号墳の埴輪
74寺床1号墳
 社日1号墳
75古代出雲の盟主へ
 有力豪族との強い関係
 内部支配の強化
 四足獣の足
76山代二子塚古墳

考察 子持ち壺

77岡田山1号墳の銀象嵌
78銀象嵌柄頭の文様の変化
79銀象嵌の作り方

101「額田部臣」銘文入り大刀

研究 「額田部」とは

102岡田山1号墳見学のご案内
103山代・大庭古墳群写真
104山代・大庭古墳群giorama
112岡田山1号墳からの出土品
120御崎山古墳
 出雲と九州の後期古墳文化

考察 山陰・四国の横穴式石室

122獅嚙環頭大刀
123御崎山古墳出土物
124島田池遺跡
125地域交流と技術
126大陸系土器群
127夫敷遺跡出土遺物
130渋山池古墳群と横穴墓
1311号横穴墓
132須恵器工人と横穴墓
 須恵器窯と意宇
140古墳祭祀
141石棺式石室と子持壺
142石棺式石室
143向山1号墳
151団原古墳
152山陰型子持壺
153子持壺祭祀

研究 子持壺
155横穴墓で使われた大甕
考察 横穴墓の墓道

  古代
160地方行政の拠点
161出雲の国風土記
162地方行政の拠点
 儀式・行政の場
 国府政庁
163国府跡出土遺物
 国司館の文具
165饗宴で使われた土器群
166生産・流通と生活
 国府産業技術センター
 工房で作られたもの
 漆について
167出雲国府跡工房出土遺物
168山代郷正倉跡
200国府に花咲いた文化
201都からの文化の窓口
202奈良時代の国司の姿
203出雲国分寺跡
204国司館の建物
 峠のまつり「才ノ峠遺跡」
205山代郷北新造院塔相輪
206山代郷北新造院跡

考察 僧のいない寺と
 多数の廃寺跡遺跡の出現

207山代郷北新造院瓦積み基壇

考察 石垣

210奈良時代の
 八雲立つ風土記の丘
  復元模型

220ミニ企画展
   「ドキドキ考古学」
221考古学って何
222遺物に触ってみよう
223東百塚古墳群模型
224遺跡って何
225同じ形の瓦って?
226土器を見て時代を知る
251絵画土器・模様
252鏡に写してみよう

255旧石器時代~縄文時代
256弥生時代
 タテチョウ遺跡
257的場土壙墓出土遺物
258古墳時代
270飛鳥・奈良・平安時代
271奈良時代のお寺で
    使われた土器
272「風土記」と考古学
 
 
 
 01外観
広い駐車場には無関係な車が沢山止まっており
かなり戸惑いますが、
山裾を回って坂道を上がると
遠くに本館が見えてくる。広大な敷地にある。 資料館入口 八雲立つ風土記の丘
展示学習館

 02入口展示

 古代出雲の中心地 意宇(おう)
八雲立つ風土記の丘周辺は、古代には「意宇郡(おう)」と呼ばれ、奈良時代には出雲国府や国分寺が置かれるなど、出雲の中心地でした。
ここでは、この地が有力な地域として、成長する古墳時代と、名実ともに中心地となった奈良時代を中心に、八雲立つ風土記の丘の歴史と文化について展示をしています。


 国引き神話と「意宇」
展示室入口 古代出雲の中心地
上に記述
国引き神話と「意宇」
八雲立つ風土記の丘と「意宇」
この八雲立つ風土記の丘一帯は、古代出雲の国のほぼ中央、中海と宍道湖をつなぐ大橋川の南岸にあたります。
この一帯は、古代において「意宇郡」と呼ばれていました。

「出雲国風土記」出は、巻頭で意宇の地名起源伝承として、「国引き神話」が記されています。
八束水臣津野命が、小さな出雲の国の姿を見て、海の向こうから土地を引いてくる壮大なこの神話は、古代出雲の国造りを物語化したものという考えがあります。

「国引き神話」から、この八雲立つ風土記の丘(意宇)の位置づけについて考えてみたいと思います。
国見をする
むかし、ヤツカミヅオミヅヌノミコトが、出雲の国を見て
「八雲立つ出雲の国は、細長い布切れのように小さく、まだ、これからの国だ。
 どこからか国を引いてきて縫い付けなくては」と思い立ちました。

海の向こうを見渡して、新羅という国を見てみると、国の余りがあります。
新羅から国を引き寄せ杵築の岬を作る
そこで、大きな鋤を手に取って、大きな魚の身を割くように新羅の土地をぐさりと切り離しました。

そこに三つ撚りになった強い綱をかけ、霜枯れたかづらを「くるや、くるや」とたぐり寄せるように、
また、河船を「もそろ、もそろ」と引くように、「国来、国来」と、言いながら、引き寄せました。
そうして縫い付けた国が、杵築のみさき(日御碕から出雲市小津付近)です。

この時引き寄せた国を固めるために立てた杭が佐比売山(三瓶山)になり、
引いた綱は、園の長浜(稲佐浜)となりました。
北方の国や古志から国を引き、島根半島の大部分を造る
その後も、北方の国から狭田の国(松江市北西部の地域、島根半島北西部)や
闇見の国(くらみのくに、松江市北部の地域、島根半島)を引き寄せて、

最後に古志(越、北陸)の都都(つつ)のみさきから、美保のみさきの国を引き寄せました、
この時、国を固めるために立てた杭が火神岳(大山)になり、
引いた綱は、夜見島(よみのしま、弓ヶ浜)となりました。
国引きを終え、杖を立てて「おう」という
こうして国引きを終えたヤツカミズオミヅヌノミコトは、

「今、国引きを終えたぞ!」

と、意宇の杜(おうのもり)に杖を突き立て「おう(おえ)」と言いました。
客の森
意宇の森推定地
国造りをやり終えたヤツカミズオミヅヌノミコトが、その記念として杖を突き立てた地がこの意宇の地であったことは、
国造りの中心がこの風土記の丘周辺であったことを物語っているのではないでしょうか。

事実この地には巨大な古墳群と、古代の役所跡や寺院などが数多く残されているのです。
「意宇の杜」の推定地も水田の中に残されています。

※高校生の時に聞いたはなし。戦前の研究者の話。
国引き神話を、半島や国内各地から人々が集団でやって来たことの神話化だろうとして、ある学者が、日本や半島各地の人々の顔の縦と横の
長さを測って統計し、それとこの地域の人々のデータとを比較したが全く仮説とは異なり、各地からの移民仮説は裏付けられなかったという。

大山など、高い山の上から眺めたときの地形的景観は、島根半島だけが、奇妙な地形として目に写り、まるで引き寄せられ、あとからくっ付いたように
見えるところから考えられたおとぎ話だと想像します。

当時の地理的知識、日本海航路を日常とする人々の往来や、自らの出自である半島の国々や、通ってきた島々を思って、このような話ができた
のかもしれません。

 
 03出雲の国風土記 

 意宇郡条 現代語訳をご参照ください



 04意宇の大地を駆け巡った旧石器人の石器
   下の写真は、上の➀の写真の左側に並べられた展示物で、大変撮影に不向きで、きっと、眺めるだけでよかったんだと思います。
   ちなみに、右側には、上記②以降の出雲の国風土記が貼り付けてありました。
意宇郡の台地を駆け巡った旧石器人の石器
約2万年前
掻器 上立遺跡
ナイフ形石器 田和山遺跡松江市
豊かな自然に支えられた縄文時代の土器
約7,000年前
縄文土器
竹ノ花遺跡
意宇の平野に水田が広がり始める
約2,500年前
甕・壺 布田遺跡
弥生前期
ムラを束ねるマツリの道具青銅器
約2,00年前
銅鐸 松江市熊野大社
銅剣 伝国分寺付近
弥生時代
弥生のムラを統率する権力者の墓に供えられた土器
約1,800年前
鼓型器台・低脚杯
的場墳丘墓
弥生時代後期
新たな権力と象徴古墳と鏡
約1,700年前
斜縁神獣鏡 寺床1号墳
四虵鏡 小屋谷3号墳
古墳時代前期
意宇に国府が置かれ
約1,300年前
墨書土器 出雲国府跡
奈良時代


 05巨大ジオラマ

  奈良時代の意宇平野
奈良時代の意宇平野通路の先の展示室には、中心にこの巨大なジオラマがあります。
展示館周辺「意宇」の地の現在を、精巧なジオラマで表しています
ジオラマ右手には、この展示館の目玉です。また、
沢山の人物埴輪や動物埴輪が展示されています。
 


 10岩屋後古墳  6世紀後期 方墳? 古墳全長? 石棺式石室 埴輪有り 島根県松江市大草町882
  -地元工人による素朴な埴輪-
水田の中に石棺式石室が露出している古墳が岩屋後古墳(いわやあとこふん)である。
ここからは襷をした人物埴輪が2体、鍔が付いた帽子をかぶった男性埴輪が1体、首飾りをした女性埴輪が見つかっている。

狩鋤の人物像の1体はバンザイの様に両手を挙げており、もう1体は両手で何かを捧げているようなポーズをとっている。
帽子の男性像は頭部のみだが鼻筋が太く通り、力強さを感じさせる。

首飾りの女性像は竹管文によって首飾りが表現され、耳飾りをつけ、乳房が表現されている。
奥出雲町浄楽寺古墳の人物像と共に、出雲で作られた素朴な表情を持つ埴輪である。

 

岩屋後古墳 - 島根県:歴史・観光・見所

 

【山陰遺跡探訪】 岩屋後古墳..

 

岩屋後古墳 - 古墳マップ

 

岩屋後古墳発掘調査概報

 

岩屋後古墳 - 古墳訪問記



岩屋後古墳-地元工人による素朴な埴輪-
6世紀
遺跡地図
博物館より徒歩6分
400m
人物埴輪
奥出雲町常楽寺古墳

常楽寺古墳発掘調査報告 ( 13.8 MB )

 
島根県仁多郡奥出雲町高田35

 常楽寺古墳埴輪 6世紀中期 引用常楽寺古墳発掘調査報告
この古墳は古くから"塚"さんとして知られていたが、圃場整備に伴い墳丘部の発掘調査が行われ、多くの埴輪が出土して一躍注目を集めた。
墳丘の盛土は失われ、主体の横穴式石室は露呈している。

直径約16mの円墳で、石室は入口に柱石の上にまぐさ石をかけた玄門のある小形ながら整った石室である。石室内は未調査。
男3、女2の人物、馬形1の形象埴輪や、円筒埴輪14以上は墳丘前方の区画にまとめて置かれていた。

山陰では、人物埴輪は松江・岩屋後古墳と並び、また、馬形も稀な例である。円筒埴輪も雲南地方では例がなく、よほどの実力者の墳墓で、
山陽地方との交流も想われる。そして、やがて奈良時代に、ここに郡家を置くことになる素因でもあろう。 引用常楽寺古墳

円筒埴輪
馬形埴輪
男子像
女子像


 10a人物埴輪 岩屋後古墳 6世紀後半 松江市

襷掛けの人物
襷掛けの人物
岩屋後古墳
首飾り・耳飾りの女性
首飾り・耳飾りの女性
岩屋後古墳
襷掛けの人物
襷掛けの人物
岩屋後古墳
帽子を被る人物埴輪
帽子をかぶる男性
岩屋後古墳

帽子をかぶる人物埴輪
東谷古墳(安来市)


 11人物埴輪 島田1号墳松江市東出雲町揖屋58番地) 5世紀末


人物埴輪
島田1号墳
 14人物埴輪 平所遺跡松江市矢田町平所) 5世紀末

人物埴輪
平所遺跡

入れ墨のある人物埴輪
平所遺跡

人物埴輪
平所遺跡
 
 


 20石屋古墳 5世紀中期 島根県松江市東津田町 矢田町

 

山陰中央新報社|悠久のくに(5) 石屋古墳出土の人物埴輪群

  

史跡石屋古墳 - 全国遺跡報告総覧

  

松江市・石屋古墳 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と ...


 

松江市石屋古墳から出土した形象埴輪の塗彩緑色顔料

  

石屋古墳 松江市東津田町 - 詳細情報 -

  

第19 回 国内最古の人物埴輪セット−石屋古墳− 奇しくも『松江市史 ...


 

石屋古墳(いしやこふん)とは - コトバンク

  

復元したら最古の力士埴輪だった 島根の石屋古墳: 日本経済新聞



 21石屋古墳 古墳時代中期 古墳全長40m 方墳
松江市矢田町、大橋川を眼下に見下ろす、高さ30mの丘陵突端部に位置する。一辺約40mの二段築成の方墳で、祭祀場と推定される造り出しを持つ。
斜面には石が葺かれ、墳丘裾には円筒埴輪が廻る。造り出しからは、円筒埴輪のほか、多数の形象埴輪が出土した。
その中には力士埴輪椅子の埴輪など、出雲では珍しい埴輪が出土している。

交通の要所である大橋川の交通権を掌握した豪族が葬られているのであろう。現地に保存され、見学することができる。

石屋古墳 石屋古墳墳丘測量図

 蓋埴輪とは(キヌガサ埴輪) 石屋古墳
蓋(きぬがさ)とは貴人の上にさしかけられる傘を指します。雨や日差しをよける他に、威儀財としての役割もあります。
中国では漢代の鏡や壁画に描かれています。日本でも古墳時代の鏡に描かれていたり、笠状木製品などが出土しています。

蓋形埴輪はこの蓋を模した埴輪です。蓋とそれを支えるための台が付いています。大きいものは幅約2mにもなり、古墳を飾る威儀財として広く造られました。

円筒埴輪
石屋古墳 5世紀中頃
蓋埴輪とは
蓋埴輪

石屋古墳 5世紀中頃
蓋埴輪

 22人物埴輪群は語る 石屋古墳の形象埴輪

 石屋古墳 松江市東津田町矢田町 5世紀中頃 方墳

石屋古墳(松江市矢田町・国指定史跡)は、5世紀中頃に造られた大型方墳で、大橋川を見下ろす高台にあります。
形象埴輪は写実性に富み優れた技術で製作されています。人物埴輪は、力士2体・武人2体・貴人(?)1体と、貴人が座った椅子1個で、
古墳に据え置かれた位置が判明しました。これらは人物埴輪成立期(5世紀中頃)の様相を知ることができる全国初の例で、
いまだ解明の進まぬ近畿の大王墓の人物埴輪成立期の様相や、この時期の近畿の大王と出雲の豪族との関係を考える上で
示唆に富む貴重な発見です。




人物埴輪群は語る 石屋古墳の形象埴輪 人物埴輪は語る
上に記述
石屋古墳の位置
埴輪出土状況
形象埴輪群の出土状況 石屋古墳の復元イラスト
形象埴輪群の出土状況 形象埴輪の出土状況
人物を含む形象埴輪群は、墳丘端部の造り出しの上に、円筒埴輪で区画を設け、整然と配置されている。
今回の整理で個々の人物埴輪の形(=人物の性格・役割が明らかになり、埴輪群全体の意味を考える手掛かりができた。)


造り出し部分 は、右の赤い部分である。

 23形象埴輪

 石屋古墳出土の椅子埴輪
脚板を中心に直弧文で飾られ、座の周囲には高欄状の飾り板が付く優品である。座面中央にある半円形の変色部分は、人物埴輪が座っていた痕跡であるが、残念ながら復元できない。

同様の埴輪は奈良県石見遺跡から出土している。こちらは人物埴輪も共に出土しており、「椅子に座る人物」として有名である。

椅子は脚部の形状こそ異なるが、文様構成は近似しており、当時の豪族居館で使用されていた調度品を彷彿とさせる。
国内最古の椅子に座る人物埴輪とみられ、その性格は「王」とも考えられる。


 石屋古墳出土の力士埴輪
筋肉質な足腰と大きな腹部は力士の証で、国内で最も写実的な力士埴輪でもある。

台の上に2本足で立ち、腹部から下が復元されている。右の腰には「まわし」の一部が残っており、足首には棘状の武器が付いている。
上半身も腕や胸の破片が確認されているが、全体を復元するには至っていない。

日本書紀には、野見宿祢が当麻蹴速と相撲をとり、互いに蹴り合い、蹴速の腰を踏み折って勝ったとの説話がある。
当時の相撲は蹴り技があったことがわかる(蹴り技は奈良時代以降禁じ手となる)。

また、野見宿祢は日本書紀では埴輪の創始者としても登場している。

石屋古墳出土の
椅子埴輪
椅子埴輪 石屋古墳出土の
力士埴輪
力士埴輪

 24馬埴輪
2頭の存在が確認されており、大きさは出土した当時の状況から全長が約100cmに、鞍の大きさから胴体幅が約32cmに推定復元でき、全体としてずんぐりとした体形となっている。

馬具の表現も極めて写実的で、馬の顔にかかる革帯には縫い目表現があり、手綱が宙に浮いた状態で表現されるなども高い技術が伺える。
頭部には赤色顔料が一部残っており、製作当時は赤く塗られていたようである。

畿内の埴輪と比較すると口部分が丸く円球状に作られていることから、畿内北部の古墳や窯跡出土品との関連が指摘されている。

一方で、出雲内部との関連でいうと、近接する平所遺跡出土埴輪との関連性が高い。口の丸みや馬具の表現など全体的によく似ている。
しかし、横幅は平所遺跡の方が細く、全体的に馬具表現が簡略化され、重さも平所遺跡の方が軽量化されている等の変化が伺える。


 高度な技術を持つ埴輪工人
平所遺跡埴輪窯跡は、松江市矢田町で見つかり、1975(昭和50)に発掘調査された。
全長5.8m幅1.5mの緩斜面の窯跡から、埴輪の破片が沢山見つかっている。復元されているのは馬、鹿、家、人物頭部、円筒で、種類が豊富である。
馬の装飾から6世紀前半のものと考えられている。

平所遺跡で埴輪を焼いた工人たちについては不明な点が多いが、高度で写実的な表現や、類似した埴輪が近畿地方から見つかっている点などから、
ヤマトの工人との技術交流があったと考えられている。

これらは間違いなくこの地で生産されたものだが、ヤマトの工人がどのような経緯で関わりを持ったかが注目される。


 奈良県石見遺跡出土の埴輪
人物埴輪の頭部に溝が刻まれる点、目や鼻筋の表現の特徴などが平所遺跡のものとよく似ている。馬も目の表現を細長くする点、たてがみや尾の表現など、よく似た点がある。

奈良県見遺跡奈良県磯城郡三宅町石見 は、鳥取県石見地方(米子市の南方)の名を冠した地域であることから、
  鳥取県からその文化が持ち込まれたものと考えられ、奈良県石見は意宇の豪族が政権に出仕するために住んでいた地域と思います。

 

 平所遺跡出土 馬埴輪
平所遺跡で見つかった馬埴輪は、馬具で飾られた見事な姿をしている。乗馬のための鞍や泥除けの障泥(あおり)に、足をかけるための環鐙、
手綱などが表現されている。
その他、馬の腰には、雲珠(うず)という十字のベルトを留める金具があらわされ、その左右に杏葉という飾りが取り付けられている。

鞍には刺突文を施した鞍褥(あんじょく)という布団が掛けられ、障泥にはヘラによって斜格子、綾杉文が線刻されている。

たて髪は半円形に曲げられ、先端を粘土紐でよって、あげ飾りとしてある。馬の尻尾はらせん状に太く短く巻き上げられている。
細部にわたって写実的で丁寧なつくりであると同時に、全体的に力強さを感じる造形である。

 

平所遺跡・春日遺跡 - 全国遺跡報告総覧

 

矢田平所遺跡発掘調査報告書 - 全国遺跡報告総覧

 

平所遺跡埴輪窯跡出土品 文化遺産オンライン


 特集展「平所遺跡と石屋古墳出土埴輪のすべて」(2月9日 ... 企画展「古代人の姿」 | 八雲立つ風土記の丘 新春ミニ企画「干支 亥~平所遺跡・猪埴輪~」 | 八雲立つ風土記の丘
 国指定文化財等データベース 平所遺跡埴輪窯跡出土品 - 文化遺産データベース


 馬埴輪 平所遺跡
石屋古墳出土の馬埴輪
上に記述

馬の体形は全てポニーで、現代風のマスコット化した意匠ではなく

写実的な造形です。
形状を保つために足は太くなっています。

有力者が見せびらかすために装飾を取り付けた状態を表現している
高度な技術を持つ
埴輪工人
上に記述
奈良県石見遺跡の埴輪
上に記述
平所遺跡埴輪窯跡
発掘調査風景
馬埴輪 古墳時代 平所遺跡出土馬埴輪
上に記述



 26家形埴輪 平所遺跡
家形埴輪は2点が復元されており、一つは大型で装飾性が強いもの、もう一つは小型で簡素なものである。

大型のものは大きな破風を持つ切妻部を重ねた立派な造りとなっている。棟には魚を捕る仕掛けである網代を表す幾何学文様が施してある。
頂部にはうろこ状のヘラ描き文様をあしらった火焔型の棟飾りがついている。
妻側には半円形の窓が開いている。壁には丁寧な線刻の模様があしらってあり、当時の豪族の住まいを彷彿とさせる。

小型のものは、傾斜の急な寄棟屋根で、頂部には堅魚木が4本乗っている。縦長に開けられた入口の左手に窓があり、妻側にも窓が開いている。
このような家形埴輪は、当時の人々がどのような家に住んでいたのかを知る貴重な情報を提供している。

家形埴輪
平所遺跡

平所遺跡

平所遺跡
平所遺跡出土埴輪(家)
上に記述



 27力士像 塚山古墳 5世紀後半 島根県出雲市今市町塚根
小型の人物埴輪は、通常は下半身が円筒の半身像であるが、この埴輪は2本足で立ち、衣服表現がないことから力士と考えられている。
腕や足甲、まわしは推定復元。

力士埴輪
塚山古墳 5世紀後半


 28見返りの鹿埴輪 6世紀前半頃 平所遺跡
この鹿埴輪は後ろを振り返るその姿から、「見返りの鹿埴輪」と呼ばれる。
耳を立て振り向くその姿は、狩りをする人の気配を感じ取って、振り返った瞬間をとらえたものなのか、今にも動き出しそうな躍動感にあふれている。
この鹿の角は取り外しができるようになっており、後方部に開いている穴にも尻尾が付く可能性がある。

目の縁には朱が塗られ、見る向きによって微妙に表情が違い、時に凛々しく、時に愛らしくも見える。動物の埴輪には、馬や猪、鳥などがあるが、
見返りの鹿埴輪奈良県四条古墳と 静岡県辺田平1号墳を含めた3例しか見つかっていない。

 出雲の見返りの鹿
見返りの鹿 見返りの鹿埴輪
 
 30

 31猪埴輪 平所遺跡
背中とお尻の部分が残ったこの埴輪。実は猪型埴輪なんです。
顔がなくてどこが猪なのかと思われますが、よくよく見てみるとイノシシ型埴輪の根拠があります。
 ・他の遺跡出土の猪顔形埴輪と特徴が似ている。
 ・背中にたてがみの表現がある。
 ・平所遺跡出土の他の動物埴輪と背中の表現が違う。
じっくり見比べれば他にも違いがみつけられるかも。

猪埴輪 平所遺跡 猪型埴輪 猪型埴輪

 32人物埴輪 塚山古墳 5世紀後半
頭部が繊細な薄手の造りで、蕃所山古墳大阪府藤井寺市藤が丘2丁目3−16)の人物埴輪と帽子の形状などで共通する部分がある。
人物埴輪
塚山古墳
鳥形埴輪の頭部
井の奥4号墳(松江市)

松江市竹矢町井ノ奥の丘陵上

 馬埴輪(鞍部分) 石屋古墳 5世紀中期 松江市
馬形埴輪の胴体中央部分を復元したものです。 平所埴輪窯跡の馬形埴輪に比べて胴体は太く、鞍(くら)や鐙(あぶみ)などがより写実的に表現されています。
石屋古墳からはこの他に人物・椅子・家・盾などが出土しており、現在整理中です。

 

石屋古墳 文化遺産オンライン

 

松江市・石屋古墳 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃

 
 山陰中央新報社|悠久のくに(5) 石屋古墳出土の人物埴輪群 ... 史跡石屋古墳 - 全国遺跡報告総覧 石屋古墳 松江市東津田町 - 詳細情報 - しまね観光ナビ
 第19 回 国内最古の人物埴輪セット−石屋古墳− 復元したら最古の力士埴輪だった 島根の石屋古墳: 日本経済新聞 石屋古墳(いしやこふん)とは - コトバンク

馬埴輪(鞍部分)
石屋古墳
馬形埴輪(鞍部分)
 





 60古墳が語ること Ⅰ-5




古墳の形や大きさは、中央政権(ヤマト)における被葬者の政治的・社会的なランクを表しており、埋葬施設や棺は、彼らの血縁関係などの同族的関係を繁栄していると考えられています。
また、古墳に納められた副葬品は、被葬者の性別や生業など、生前の活躍を知る重要な手掛かりとなります。
まさに古墳は当時の社会や文化が詰まった大きなタイムカプセルであり、また被葬者の履歴書ともいえるのです。

古墳が語ること Ⅰ-5 古墳が語ること 古墳の形
 造出付円墳
 円墳
 前方後円墳
 前方後方墳
 方墳
 造出付方墳
  埋葬施設の種類
 竪穴式石槨
 横穴式石室
 木棺直葬

 舟形石棺
 畿内系譜の
   長持形石棺
 九州系譜の家形石棺 
埴輪
 
円筒埴輪
鰭付埴輪
朝顔形埴輪
人物埴輪
動物埴輪
家形埴輪 
武器武具  武器武具
 大刀・甲冑・鏃
権力の象徴
 銅鏡・腕輪型石製品
 飾り大刀
装飾品
 耳環・玉類
供え物
 須恵器 

 61宇の古墳が語る地域の歩み
意宇の古墳が語る地域の歩み
2枚あるパネルのもう一方を
撮り忘れています。
左側の解説文章が見えないので、ほぼ何が述べたいのかがわかりません。 出雲の古墳編年表 引用

【出雲古代史探訪】6世紀の意宇地方の首長墓・山代二子塚古墳は ...

 
記述内容もご覧ください。
 

 71古墳が語る 出雲の盟主への足取り
八雲立つ風土記の丘地内には、数多くの古墳が残されています。3世紀後半から7世紀前半まで造られたこれらの古墳は、地域の豪族たちの墓です。
この地の豪族たちが、どのような経緯をたどって出雲の盟主に成長していったのか、古墳の在り方を分析することで見えてきます。

この地に出雲国府が設置される前の時代の様相を、古墳を通じて考えてみたいと思います。

古墳が語る 出雲の盟主への足取り
風土記の丘周辺の主な出来事 旧石器~古墳 古墳~平安
奈良~現代

 72大型前方後円墳の出現

 前期~中期の古墳
古墳時代の前半は、出雲の中でも特に傑出した地ではなかった意宇が、次第に大きな力を持っていく過程を古墳の在り方から見ることができます。

古墳時代初め
3世紀後半~4世紀前半
古墳時代始め(3c後半~4c前半)は
東部の安来市荒島大きな古墳が集中して作られます。

風土記の丘周辺には、大型古墳は見られないものの、優秀な副葬品を収めた社日1号墳が造られます。

※しゃにちこふん 島根県松江市竹矢町1538-1  周辺の古墳
大型前方後円墳の出現
前期~中期の古墳
 
古墳時代前期後半
4c後期
古墳時代前期後半(4c後期半)、
この風土記の丘地域に全長52mの前方後円墳、廻田古墳が造られます。

出雲最古の前方後で、かつ同時期最大級の古墳の一つです。
この頃、この意宇の地が出雲の有力な地域の  一つに躍り出たようです。
  古墳時代中期
5世紀頃 
 古墳時代中期(5世紀頃)にも、
大橋川沿岸を中心に大きな古墳が造られ続けました
同じ時期、宍道湖・中海沿岸の各地で大きな古墳が競い合うように造られていました。

 73廻田1号墳さこだ) 4世紀前葉 古墳時代前期末(4世紀末~5世紀初頭) 前方後円墳 全長58m

出雲国府の北方にそびえる茶臼山(神名樋野かんなびぬ)の北東山塊に広がる廻田古墳群中にある。
古墳群中では、最高所の標高約87mに位置する。墳長58m、方形の透かしを持つ円筒埴輪や朝顔形埴輪が出土している。

廻田古墳群は小規模な円墳や方墳が20基以上築造されているが、廻田1号墳はこの古墳群の盟主的存在といえる。
古墳時代前期末(4世紀末~5世紀初頭)の築造である。

出雲地方最古級の前方後円墳であり、同じ時期では、出雲東部最大級の古墳(前方後墳)である。
この古墳の出現は、意宇の地が、出雲で指折りの有力地として名乗りをあげる契機となったといえよう。

廻田古墳群 廻田古墳群復元模型 廻田1号墳 地図 古墳測量図

  73a廻田1号墳の埴輪
埴輪は古墳の周囲を装飾する土製品である。
古いタイプの埴輪は、古墳の主人公に供えた容器や器台をモデルにして作られたものと考えられている。

およそ300年間続いた古墳時代の中で、埴輪ほど変化に富んだものはない。
円筒埴輪や朝顔形埴輪のほか、甲(よろい)・冑(かぶと)・盾(たて)・蓋(きぬがさ)等の器財形埴輪、豪族の館をモデルにした家形埴輪、
さらには様々な人物や動物の形をした埴輪もつくられている。

廻田古墳の埴輪は、小さな破片しか出土していないが、本来は図のように円筒の横に鰭(ひれ)と呼ばれる板状の張り出しを付けたものであった。
この埴輪は、宍道町の上野1号墳出土の埴輪などと共に、大和北部型と呼ばれる奈良県北部の大型古墳出土埴輪と類似している。
中央と地方の豪族の関係を知る資料だ。

廻田1号墳の埴輪 各部名称 鰭付円筒埴輪
上野1号墳

 74寺床1号墳 島根県八束郡東出雲町揖屋寺床

寺床1号墳は、松江市東出雲長西揖屋地区、現在の三菱農機講習所の後方の丘陵上にありました。
1辺33mの方墳で、中からは鏡や鉄剣など様々な副葬品が納められていました。お棺の中には朱が塗られていたようで、葬られた人の身分の高さを伺わせます。

寺床1号墳 寺床1号墳出土遺物
鉄剣・ヤス状鉄器

勾玉

 社日1号墳(しゃにち) 前方後墳 3世紀後半 古墳時代前期初頭

松江市竹矢町の平野を見下ろす丘の上に築かれた社日1号墳は、全国各地で前方後円墳が造られ始める古墳時代前期初頭(3世紀後半)の古墳である。
風土記の丘近辺で最初に造られたと考えられ、出雲地方でも最古級の古墳だ。道路建設に伴い発掘調査が行われた。

古墳は1辺19m×15mの小型の方墳であるが、底がU字形をした刳り抜き式木棺や、鉄製農工具の多数副葬など、在地の弥生墳丘墓の伝統とは異なる
新たな要素が見られる。(※在地の豪族ではなく畿内から来た可能性が高い。だから前方後墳が造れたのだと思うが↓)

弥生時代に次第に力を付けてきたこの地の有力者が、早い段階からヤマトとの関係を築いていた証拠と考えられる。
(※って言ってるよ。地元を裏切ってヤマト側に寝返った奴だったのかな。たぶん、都からやって来た者たちだよ。)

社日1号墳 地図 第1主体部 副葬品
鉄剣・ヤリガンナ

短冊形鉄斧
袋状鉄斧・鋤先
 





 75古代出雲の盟主へ


   ※山代二子塚古墳は、下の文書では6世紀後半と言い、もっと下の文書出は6世紀中期と言っている。
    インターネット上では6世紀中期となっている。が、一応、文書通りにしておきます。


 山代二子塚古墳の出現 古墳時代後期(6世紀後半) 前方後墳 松江市山代町二子  ガイダンス施設(ガイダンス山代の郷

古墳時代後期(6世紀後半)、出雲最大の前方後墳山代二子塚古墳築造を契機に、出雲東部の他の地域には巨大古墳は造られなくなります。
この時期以降、この意宇の地が出雲東部の盟主の地位を確立すると同時に、出雲西部にも影響力を強めていきます。

 

山代二子塚 - Wikipedia

 

山代二子塚古墳と周囲を訪ねる地図 八雲立つ風土記の丘

 

山代二子塚古墳 全国遺跡報告総覧

 

山代二子塚古墳整備事業報告書 全国遺跡報告総覧


 

山代二子塚古墳・ガイダンス山代の郷 松江市山代町470-1

 

山代二子塚 - 古墳マップ






 有力豪族との強い関係
意宇(おう)が出雲の盟主の地位を確立していく背景には、中央の有力な豪族と密接な関係を築いたことが想定されます。
岡田山1号墳(古墳時代後期6世紀後半頃 前方後墳)の主は、出土した大刀の銘文から、中央の額田部氏と深い関係を持っていたことが伺えます。
また、飾り大刀の研究から、大陸風の大刀を多く持つ意宇の豪族蘇我氏との関わりが深かったことが想定されています。

その一方で石室の特徴は(額田部派、蘇我派共に)九州との類似性が強く(九州式横穴式石室)、意宇の豪族の幅広い交流が伺えます。

 ※これは出雲の在地豪族は元々九州との密接な関係あり、前方後墳の山代二子塚古墳の主を頂点、その配下の前方後墳の岡田山1号墳
 の主たちはヤマトの額田部とも内通していたようです。

 内部支配の強化
この地域の古墳をみると、山代二子塚古墳を頂点に、古墳がランク付けされているのがわかります。
意宇の大豪族は、配下の中小豪族を従えて、地域を治める形を整えて行ったものと考えられます。

 ※ヤマトとの関りを背景に権力を持った山代双子塚主やその下の岡田山1号墳の主が、地元の他の豪族を配下にするのだが、
  ヤマトからは蛮族として、低い身分とされ、いくら精勤しても前方後方墳しか作らせてもらえなかった。愚かな話である。

古代出雲の盟主へ 山代二子塚古墳の出現
上に記述
有力豪族との強い関係
上に記述


 四足獣の足 松江市山代二子塚古墳 約1300年前 6世紀後半 前方後方墳

これは何の動物の足でしょう。上の部分が見つかっていないため、実はよくわかりません。
古墳の墳丘から発見されているので、死者を葬るときのお供えとして、墳丘上に置かれていたものと思われます。

四足獣の足 獣足出土位置上から転げ落ちたのでなく、古墳裾に四足が埋まっていたようだ 獣足


 76山代二子塚古墳
6世紀中頃に造られた出雲地方最大の古墳で、「前方後墳」の名称が初めて用いられた。
墳丘は二段築成で、全長94m周溝外堤も含めると総長は150mにもなる。まさに出雲東部の盟主に相応しい規模だ。

発掘調査の結果、墳丘二段目の斜面には石が葺かれ、段平坦面には円筒埴輪や子持壺も樹立していたことが明らかとなった。
築造当時は威容を誇っていたことであろう。

詳細は不明だが、地中探査レーダーによって長大な埋葬施設の存在が明らかとなった。
後方部の1/3は後世に削られ、その断面からは盛り土をした様子が分かる。埋葬施設上部は特に丁寧で、高度な土木技術が現在も観察できる。
山代二子塚古墳 古墳全景 円筒埴輪

 山代二子塚古墳を飾る土器類
5回の発掘調査によって、周溝や墳丘から多数の埴輪、須恵器子持壺が発見された。

いずれも古墳の全周域から見つかっていることから、段平坦面に廻るようにして樹立していたと考えられる。
埴輪のほとんどは6世紀中頃から後半の円筒埴輪だが、墳丘の一部から馬・人物・家をかたどった形象埴輪も見つかっている。

子持壺は、親壺の底がない「出雲型子持壺」のほか、底のある脚付子持壺が混在して見つかっている。展示しているものは底がまだある個体だ。

出土した「出雲型子持壺」は後に爆発的に作られるものの起源となる古い形式のものだ。
その系譜と、墳丘祭祀に用いるという独特の使用法の起源を探る上で重要な発見となった。

山城二子塚古墳を飾る土器類 埴輪の樹立状態 出雲型子持壺


考察 子持ち壺

 子持壺
主体となる壺形土器(親壺)に、小壺などを取り付けた土器を子持壺という。器種は硬質に還元焼成された須恵器で、装飾須恵器という。
装飾須恵器の分布範囲は東海以西の愛知県から九州までで、古墳での墓前祭祀に用いたもので、死者への共献土器である。
朝鮮半島をその起源とするが国内各地で独自に発達し、多様な形式となった。

 出雲型子持ち壺
出雲を中心とする地域では、他地域とは異なる形状の子持ち壺が発達した。外に置くために➀親壺の底がなく(特殊壺と同じ構造)、②壺と脚部の接合が不明瞭である。
おそらく、「脚付壺に小さな壺を沢山つけた壺」などという、実物を見たことのない伝聞だけで作ったために、このような造形となったと思われる。

 脚付子持ち壺
共献土器として、壺の肩に小壺を複数取り付けた土器を、装飾器台の上に載せた様子を一体化したものである。
墓前祭祀の合理化と思われる、発展した荘厳であるとともに、須恵器作成技術の高度化が可能にした造形である。
 




 77岡田山1号墳 6世紀後葉 前方後方墳 全長22m 葺石 横穴式石室


 

岡田山古墳 - Wikipedia

 

出雲岡田山古墳 - 全国遺跡報告総覧

 

岡田山1号墳 - 古墳マップ

 

岡田山1号墳 - コトバンク

 

岡田山1号墳 - 古墳マップ

 

岡田山1号墳


 

岡田山1号墳

 

岡田山一号墳出土大刀とは-Weblio辞書

 

岡田山古墳 - 詳細情報-しまね観光ナビ

 

出雲岡田山古墳出土品-文化遺産データベース

 

岡田山1号墳:遺跡ウォーカー


 

岡田山1号墳 - YouTube

 

資料詳細-額田部臣の銘文が明らかにする…

 


風土記の丘センター地内にある、6世紀後半に造られた二段築成の前方後方墳。墳丘全長は22mで、墳丘には葺石が施されている。

後方部の中央には横穴式石室があり、玄室には小型の組合式家形石棺と仕切石で囲まれた副葬施設が備えられている。
4本の大刀はいずれもこの施設にならべられた状態で 見つかったという。
 ※4振の大刀とされるが、3振しか確認できない。「環頭大刀」・「円頭大刀」・「圭頭大刀」であり、円頭大刀からは銀象嵌の銘文が発見され、
 額田部臣と読む「各田卩臣」の文字が確認された。また、内行花文鏡には「長宜子孫」の銘が刻まれていた。

石室は、玄室の四壁に持ち送り技法が採用されている点、柱石を持つ両袖式である点から、御崎山古墳と同じく九州地域の石室との関わりが指摘されている。

遺跡・史跡 | 八雲立つ風土記の丘 - 島根県立八雲立つ風土記の丘

 

御崎山古墳 - 古墳マップ



一方「額田部臣」銘文からは、ヤマトとの関わりも伺われ、被葬者が広範な交流を行っていた様子を物語っている。

岡田山1号墳 岡田山1号墳の位置 岡田山1号墳石室 須恵器
須恵器短頸壷
ハソウ

子持ち壺(破片)
子持壺
円筒埴輪
 



 銀象嵌柄頭の
 78文様の変化(鳳凰の例)

亀甲文円頭柄頭
奈良県 星塚古墳
亀甲文内に鳳凰が向かい合う意匠である
亀甲文円筒柄頭
群馬県本郷

鳳凰の頭部は形が残るが、翼は簡略化された
亀甲文円筒柄頭
愛知県権現山
鳳凰のデザインは崩れ、完全に退化している
           
           

 79銀象嵌の作り方
岡田山1号墳の大刀の柄には、銀を埋め込んで描いた模様があります。この金や銀を埋め込んで模様を描く加工を「象嵌」と呼びます。

鉄の板

銀線を埋める溝を彫る

銀線を埋め込む

埋め込んだが、銀線部分は盛り上がっている

全体を磨いて銀象嵌のできあがり


銀象嵌装 大刀  鍔
古天神古墳 6世紀後半
松江市大草町
 銀象嵌 鍔つば 古天神古墳出土大刀は破片ですが、鍔が伴う形式です。

近年の調査により、岡田山古墳鉄刀と同様、 鉄に彫り込んだ溝に異なる材質の金属を埋め込む象嵌によって文様が施されていることがわかりました。

蛍光X線分析の結果、象嵌に用いられた金属は、銀であることが確認されています。

古天神古墳 6世紀後半 ふるてんじんこふん
 
 100

 101「額田部臣」銘文入り大刀

 「額田部」の銘文  
6世紀後半に造られた岡田山1号墳出土の大刀には、刀身に溝を彫り込んでそこに銀を埋め込むことによって「各田卩臣」の文字が表現されていた。

偏や旁が(へんやつくり)が省略されているが、額田部臣と読むことができる。額田部臣とは、額田部と呼ばれた人々(部民)の集団を取りまとめ、
臣という称号が与えられた額田部のリーダーを意味する。

古墳の主はヤマトの大王に奉仕する代わりにリーダーの地位を認められ、大刀に銘文を刻んだのだろう。部民とそのリーダーの実在を示す最古の資料である。

※ 卩:セチ、セツ 、わりふ と読む セツ  人がひざまずいているところの象形。

「額田部臣」銘文入大刀 「額田部臣」銘文 額田部臣

研究 「額田部」とは
額田部(ぬかたべ)古代日本の部(名代)の一つ。 引用webilio
 名代(なしろ):大化前代、大和朝廷に服属した地方首長の領有民の一部を割いて、朝廷の経済的基盤として設定した部(べ)。
   天皇・后妃・皇子などの王名や宮号をにない、その生活の資養にあてられた。
   子代(こしろ)との区別は明らかではないが、子代は后妃の皇子・王子の資養にあてられた部民と考えられている。御名代。


 田部(たなべ):大化前代、天皇領の屯倉(みやけ)で耕作に従事した部民
 部民制:大和政権による民衆統治制度。朝廷や皇室、豪族に隷属して奉仕・貢納する人々を部(べ)として編成したもの。  引用コトバンク
  特定の職能をもって朝廷に仕えた品部(しなべ)、皇室や皇族の私有民だった名代(なしろ)・子代(こしろ)、
  豪族の私有民だった部曲(かきべ)に大別される。律令制の導入に伴い廃止された。

額田部のルーツ:

額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたと言われており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力な説である。

日本書紀』巻第十一には、 額田大中彦皇子が大和の屯田(みた)と屯倉を管掌しようとして、屯田司である出雲臣の祖先である淤宇宿禰(おうのすくね)に、「この屯田はもとから山守の地であって、今から自分が治めるから、お前は治めてはならない」と言ってきて、淤宇宿禰がそのことを応神天皇の皇太子である菟道稚郎子に奏上した、という事件が描かれている。その後、天皇のものである、ということで決着し、大中彦皇子は二の句が継げなかった、という[1]。以上の記述からも、大和政権と出雲勢力との勢力の緊張状態を伺うことができる。

額田部はほぼ全国に分布しており、中央の氏族は連姓、地方では、君・臣・直・首姓のものが統轄していたという。島根県岡田山古墳の1号墳からは「各田了臣」と銘文が記された円頭大刀が出土されている。古墳のある松江市大草町はかつての出雲国意宇郡大草郷にあたり、国衙の遺跡は、古墳の東約1キロメートルの地点から発掘されている。『出雲国風土記』によると、意宇郡に隣接する大原郡の郡司少領に「額田部臣」の名が見え[2]、大原郡の中心である屋裏(やうら)の郷(現在の雲南市)には、前少領である額田部臣押嶋(ぬかたべ の おみ おししま)が建立したと伝えられる寺院も存在していたという[3]

奈良時代の橘奈良麻呂の乱の際の佐伯古比奈への尋問によると、一味の賀茂角足は、高麗福信、奈貴王、坂上苅田麻呂、巨勢苗麿、牡鹿嶋足を招いて、(現在の大和郡山市と比定される)「額田部」の屋敷で酒宴をしたという[4]。この額田部は額田部宿禰一族の本拠地でもある。

 引用webilio額田部
  長々と引用したが、額田部は推古天皇(額田部皇女)の領地を管理した地方豪族が「額田の部」額田のしもべと呼ばれたことに始まるようだ。

 
 102岡田山1号墳見学のご案内
    岡田山1号墳は「風土記の丘」の敷地内にあり、資料館入口にパンフレットがあり、自由に内部見学ができる。写真は取りにくい。
岡田山1号墳
当館敷地内にあり、
いつでも見学可


 103山代・大庭古墳群 松江市山代町
6世紀中頃から7世紀にかけて、茶臼山の西側台地に相次いで大型の古墳が築かれる。
山代・大庭古墳群と呼ばれるこの古墳群には、出雲で最も大型の古墳が密集する。
しかも山代二子塚古墳と山代方墳は、同時期の古墳の中で出雲最大のものである。意宇の代々の大首長が葬られた、出雲版「王家の谷」といえよう。

 山代原古墳の概要
山代原古墳は、古墳時代後期(6世紀~7世紀前半)に出雲東部の最高首長の墓域であった大庭・山代古墳群に所在し、当古墳群の中では最後に築造された最高首長墓と考えられます。
墳丘は後世に削られたため、形や規模は不明ですが、内部の横穴式石室が開口しており、研究者には古くから知られていました。
石室は「石棺式石室」と呼ばれる出雲東部独特の型式で、県内最大のものです。 引用山代原古墳現地説明会資料



山代・大庭古墳群 山代・大庭古墳群

上に記述
歴代王墓の変遷

大庭鶏塚古墳(おおばにわとりづか)

6世紀中頃に造られた方墳で、この古墳群で最初に造られた首長の墓と考えられている。
墳丘規模は44m×42m。2段に造られ、斜面には石垣状の葺石が施されている。

また、南側と西側に造り出しと呼ばれる突出部分があり、周溝からは円筒埴輪が見つかっている。
  山代二子塚古墳(やましろふたごづか)

大庭鶏塚古墳に次いで造られた墳丘全長94mの出雲最大の前方後方墳である。

被葬者は、意宇を拠点に出雲東部域を納めた大首長と考えられ、
同時期に出雲西部に出現する前方後円墳―大念寺古墳―と対比される。
山代方墳(やましろ)

6世紀末~7世紀初めに造られた、一辺45mの方墳。
墳丘の周囲には山代二子塚古墳と同様に周溝、外堤を供えている。埋葬施設は石棺式石室である。

発掘調査で葺石や埴輪・須恵器子持壺が確認されている。
墳丘規模や築造時期から、山城二子塚古墳の被葬者から首長権力を引き継いだ人物の墓と考えられる。
永久宅後古墳(えいきゅうたくうしろ)

現在は石棺式石室が露出している。
出土品や墳丘規模は不明だが、測量の結果から墳形は方墳だった可能性が高い。

石室の形態から7世紀前半に造られたと考えられ、山代方墳に後続する最後の大首長墓であろう。


 104山代・大庭古墳群giorama


 112岡田山1号墳からの出土品
大正時代と1970年の発掘で、多くの副葬品が出土している。
石室からは中国製の鏡、装飾付大刀(三葉環頭大刀・円頭大刀・圭頭大刀)・鉄鏃などの武器や刀子のほか、
金銅空玉・耳環といった装身具、
馬具(鏡板・鞍金具・雲珠・辻金具・鉄環・銅鈴)が出土した。

墳丘からは須恵器子持壺、円筒埴輪などが発見されている。
1983年、金属製品保存修理の際に、円頭大刀から「額田部臣」の銘文が発見され、そのニュースは全国にもたらされた。
優品がそろう副葬品、馬上の首長はどんな人物だったのであろう。

大正時代の出土品は、出雲岡田山古墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。

引用古代出雲紀行(7)八雲立つ風土記の丘その1(岡田山古墳)

岡田山1号墳からの出土品
上に記述

馬鈴・辻金具・雲珠

鞍金具

刀子・環状金具
内行花文鏡・銀環
金堂製丸玉

銀金銅装円頭大刀
三葉環頭大刀

岡田山1号墳
古墳時代

銀金銅装円頭大刀
三葉環頭大刀
 


 120御崎山古墳 前方後方墳 全長40m 6世紀後葉 埴輪・葺石・横穴式石室 松江市末次町86

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御崎山古墳

 

御崎山古墳:遺跡ウォーカー

 
 御崎山古墳 後方部から前方部を見る - 島根県遺跡データベース 古墳時代の金銀装飾大刀、一堂に 松江・風土記の丘で権威の ...


6世紀後半に築造された全長40mの前方後円墳で、後方部には九州系の横穴式石室がある
横穴式石室は、割石・自然石で作られたもので、全長約9.2mと出雲東部では、最大の規模を持つ。

玄室には大小2つの横口式家形石棺が置かれており、大石棺の前面には九州との関わりが強い灯明石と呼ばれる立石があるのが特徴である。
副葬品には獅噛環頭大刀(しがみ)・鉄鏃などの武器・馬具・金銅製の耳環、珠文鏡の他、須恵器多数がある。

この古墳は、規模や優れた副葬品の内容から、山代・大庭古墳群の首長を支えた豪族が葬られたと考えられる。

 121御崎山古墳
須恵器 御崎山古墳

 出雲と九州の後期古墳文化
出雲の後期古墳文化を特徴付ける石棺式石室・横口式家形石棺・横穴墓は九州から伝わり、定着したものである。
石棺式石室は九州の横口式家形石棺に、石棺の大型化・石室化・複数埋葬という考えを取り入れ東部出雲独自の石室として整えられたものである。

横口式家形石棺は、棺身長辺(棺の蓋でなく身の長辺=側面)に閉じられることのない横口部を持つことが特色で(棺容器の側面は開けっ放し)、
中部九州の横口式家形石棺・石屋形を彷彿とさせる構造を持つ。

横穴墓は初期のものは北部九州から伝わり、石棺式石室や中部九州の横穴墓の要素を取り入れて整えられている。
出雲の後期古墳は、九州の横口式家形石棺・横穴墓などの諸要素を受容しながらも、独自の発展を遂げたところに最大の特徴があるといえよう。

御崎山古墳
上に記述
遺跡地図  御崎山古墳大石棺 出雲と九州の後期古墳文化
上に記述

島田池遺跡
燈明石付家形石棺
横口式=横が開いている。王塚古墳そっくり

福岡県王塚古墳
石屋形

考察 山陰・四国の横穴式石室
山陰・四国の横穴式石室には九州型と言われる北部九州の石室型式が殆どである。これは、半島から伝わった型式の九州型が先に広まり、
その後、6世紀後半に畿内型と言われる形式が始まったからである。

九州型は入口の閉鎖石、玄室の閉鎖石など、細かく閉鎖され、玄室内にも障壁があるなど精緻な作りである。
畿内型は入口の閉鎖石のみで、そのまま玄室まで障壁は何もない簡略な作りである。
 

 122獅嚙環頭大刀 御崎山古墳 松江市大草町
  (しがみかんとうたち)
全長88cmで、柄頭には、舌出し獣面が鋳造してあり、柄は銀の薄板で覆い表面に龍文が浮き彫り表現されている。

この大刀の柄頭は横6.9cm縦4.7cmの大きさで、環頭の部分は「獅子が環を噛む」ところから、獅噛環頭大刀と呼ばれる。
他の出土品と異なり国内でただ一つ、獅子が舌を出しているところに大きな特徴がある。

獅子が舌を出している例は、奈良の藤ノ木古墳出土馬具の文様の中にもあり、魔除けの意味を持つと考えられている。
朝鮮半島からもたらされたものか、その模倣品との説もあるが、獅嚙を刀の柄頭とする例は日本以外には今のところない。

獅噛環頭大刀
御崎山古墳
古墳時代
獅嚙環頭大刀 獅嚙環頭大刀 獅嚙環頭大刀 鉄鏃

 122a獅嚙
  獅嚙は大刀だけでなく、兜や瓦、祭り屋台の装飾など様々なものに使われている。何れも獅子が噛む意匠で、舌を出すものはない。

  下の画像は以下からお借りしています。
舌を出した獅嚙 普通の獅嚙 普通の獅嚙 普通の獅嚙 普通の獅嚙
半島の獅噛
普通の獅嚙

 123御崎山古墳出土物
  (ゆき)とは矢を入れるための、細長い箱型の道具で、背に背負って使った。
  この(展示の)金具は底板部分に使われていたもの。
銀環・金環 靫金具 靫(ゆき)とは 馬鈴
雲珠 珠文鏡ピンボケ 馬鈴が近年まで使われていたことは、すっかり忘れていました。馬齢の音で客を集める行商を聞いていました。

馬鈴薯・ジャガイモ(ジャガタライモ=ジャワ島のイモ、オランダイモ)も明治以降のネーミングです。


 124島田池遺跡 古墳時代後期   島田池遺跡・鷭貫遺跡 - 全国遺跡報告総覧 島田池遺跡・鷭貫遺跡 松江市東出雲町揖屋

島田池遺跡は松江市東出雲町に存在した古墳時代後期の遺跡です。多数の横穴墓古墳が見つかりました。
特に横穴墓は県内でも最大規模の横穴墓群に入り、そのうち1基には宮内遺跡で見られたものと同じ燈明石付の石棺が納められていました。

島田池遺跡

燈明石坏の石棺

島田池遺跡
島田池横穴群出土遺物
耳環・玉類
玉類


 125地域交流と技術
出雲の中心地となりつつあったこの風土記の丘周辺では、活発な地域間交流が行われるとともに、中央や大陸の先進的な技術も導入されたことが、遺跡や出土品から伺うことができます。

 大陸伝来の新たな土器と埴輪
5世紀(古墳時代中期)は、国際化の時代ともいわれ、大陸の技術や品物が日本にもたらされました、
この意宇の地には、大陸系の土器群が他地域に先駆けて数多く使用され始めます。

同時に新たな土器を焼く技術や高度な埴輪製作技術も、この近辺にもたらされました。


地域交流と技術 大陸伝来の新たな土器と埴輪
 126
 大陸系土器群
意宇平野の低地部に立地する夫敷遺跡(ふしき、東出雲町)や布田遺跡(ぬのでん)、出雲国府跡(松江市)では5世紀中頃から後半にかけて、
朝鮮半島に起源をもつ炊飯具のセットが使われた。
 ※煮炊き用土器のカマド、カマ、コシキ、ナベの4点セット。カマドに釜と甑を載せ(蒸し器)、カマドの前にナベ(煮炊き)を添えて古墳に副葬した。

中でも「甑」は米などの穀物を蒸す調理具であり、従来の穀物を煮て食べていた島根の人々には画期的な調理方法だったことだろう。

また、朝鮮半島系の土器の中でも特殊なものとして、「円筒形土器」がある。
同じような土器は、大阪府の楠遺跡陶邑伏尾遺跡など朝鮮半島から渡来した工人たちが居住した集落から出土しており、意宇平野にも朝鮮半島から技術者たちがやって来て居住した可能性がある。

島根県内で5世紀の朝鮮半島系土器が集中的に出土するのは意宇平野だけであり、この地域の先進性を伺える。


出雲国府下層遺構
大陸系土器群 出雲国府下層遺構
出土遺物

陶質土器蓋
器台

高坏

甑、二重はそう

円筒形土製品
須恵器筒形器台

須恵器 鉢
出雲国府下層遺構
 127夫敷遺跡出土遺物

夫敷遺跡出土遺物


甕・甕

甑・甕
 


 130渋山池古墳群と横穴墓 島根県八束郡東出雲町字渋山池


 131渋山池古墳群 1号横穴墓  引用渋山池古墳群 発掘調査報告書  横穴墓15

  1号横穴墓からは4体は検出。内、男女164.9cmと159.3cmは確認。あとは小児など。追葬用横穴墓であるため追葬されたようだ。
  陶棺が最初ではなく、玄室は築造後に拡張されており、ために室内に人骨が散乱している。

  築造年代であるが、出雲4期~5期に運用されたというが、出雲4期がわからない。
  須恵器の編年と関係しているようで、論文「古代出雲の須恵器生産と・・・」にヒントがあるようだ。

  1号横穴墓近くの土坑から7世紀中葉~末の須恵器が出土している。
  8世紀後半~10世紀のものに比定される高坏が出土。など、運用期間は長いようだ。

渋山池古墳群測量図
多数の円墳と横穴墓
古墳時代終末期
Ⅳ区第1号横穴墓玄室 クローズアップ 須恵質陶棺 陶棺計測図
奇妙な刺突文の意匠
を持つ陶棺
横穴墓計測図
 

 132須恵器工人と横穴墓

 渋山池古墳群1号横穴墓出土 須恵質陶棺
須恵質陶棺


 須恵器工人と横穴墓
東出雲町揖屋の渋山池古墳群1号横穴墓からは、奇妙な文様を持つ須恵質陶棺を支える不思議な須恵器が出土した。
棺の蓋・身に突帯を格子状に貼り付け、竹管文を施す特徴的な意匠は、古墳時代後期に須恵器工場地帯となる松江市大井町の、須恵器窯跡や古墳から出土する須恵器と共通する。

また、棺台として使用された須恵器も、特注品あるいは窯道具を転用した可能性が考えられ、被葬者が須恵器工人集団と密接な関係を持つ人物であったことが伺われる。

 ※この須恵質陶棺は須恵器工人の長の棺ではないかと言っている。

須恵器工人と横穴墓 渋山池古墳群
陶棺出土状況
大井町池ノ奥2号墳
特殊円筒棺


 須恵器の窯と意宇
灰色で硬く焼きしまった須恵器は、4世紀の終り頃に大陸から伝わった新しい焼き物だ。
須恵器を焼く技術は、やがて近畿地方に根付き、5世紀の終り頃に全国に波及していく。

風土記の丘周辺では、中心部からやや離れた場所に、古段階の窯が2箇所で開かれたことがわかっている。こうした新しい技術の導入にも、意宇の大豪族が密接にかかわっているものと推定される。

その後、その内の一つ、大井窯跡群は、奈良時代に至るまで出雲の須恵器生産をほぼ独占する。

大井窯跡群の操業には、その後も意宇の首長(後の出雲国造家)が密接に関わっていたとの考え方が有力だ。
出雲国の手工業生産とその流通を一手に握ることで、国内の影響力を強めていったのだろう。

須恵器の窯と意宇
渋ヶ谷1号窯跡
 


 140古墳祭祀


 141石棺式石室と子持壺
意宇では6世紀終わり以降も大型古墳を作り続けると同時に、他地域にない特徴的な石室を造り、特殊な須恵器を古墳に立て並べました。
石棺式石室子持壺です。

石棺式石室は九州地方の石室の影響を受けてこの意宇の地で成立した。やがて首長墓の埋葬施設として確立し、意宇の豪族をつなぐシンボルとなります。
子持ち壺は墳丘に立て並べたり、石室の周りでお祭りの道具として意宇で発達しました。石棺式石室とセットとなり、独特の祭祀を形作っていきます。

独自の古墳祭祀 石棺式石室と子持壺 古段階石棺式石室
新段階石棺式石室
新旧の違いは不明です。
子持ち壺 出雲東部では、石棺式石室を埋葬施設として土を被せ、墳丘の上に子持壺を大量に立て並べたようです。6世紀末

よく似たキトラ・高松塚は7世紀末~8世紀初頭

 142石棺式石室
石棺式石室とは、巨大な家形の石棺を石室として土中に置き、その一か所に刳り抜きの入口を設けて、トンネル状の道(羨道)を取り付けた
横穴式石室の一種だ
6世紀の終り頃から風土記の丘周辺を中心に作られ始め、7世紀前半にかけて出雲地方の東部に造られた。
意宇の権力を象徴する特別な石室と考えられ、次第に出雲地方西部の古墳にも影響を与えた。墳丘を持たない横穴墓も同じ形をしたものが多い。

 ※ほぼ何んのことかわからないので、以下にwebから引用拝借します。これで少し、分かった気になりました。

  引用石棺式石室
家形石棺の一つの側壁に孔を開け、そこに羨道を取り付けた特殊な構造の施設です。石室と石棺のあいのこの様なもので、山陰地方・主に島根県、鳥取県に集中しています。

典型的な石棺式石室の整ったものは、蓋石の外面もきちんと家形に加工され、石室というよりは石棺といった方が良いものもあります。
普通の横穴式石室と同様、石室の内部に石棺や特殊な石床、石障などの遺骸を納める構造を備えたものがありますので、やはり横穴式石室の一種としてみなされています。

山陰地方における石棺式石室の分布は、出雲西部・東部、伯耆西部・中部・東部、因幡西部などですが、同じ石棺式石室といっても相当の地域差が認められます。

その分布中心である出雲地方東部地域では、典型的な石棺式石室が集中しています。
典型的な石棺式石室とは、大型の家形石棺の一側壁に、戸口を刳り抜き羨道を付加したものです。これは同地方に多く見られる横口付家形石棺に起源をもつものと考えられています。

横口付家形石棺の古いものは、筑後・肥後方面にありますが、出雲地方に分布する横口付家形石棺の起源の有力な候補として考えられています。
但し九州の横口付家形石棺は戸口が妻入り側に付くのに対して、出雲では平入りに付くという違いが見られます。

同様に石棺式石室においても、妻入り型と平入り型が存在しますが、出雲地方の石棺式石室は横口付家形石棺と同様に妻入り型が多いようです。

石棺式石室 石棺式石室模式図
飯梨岩舟古墳

山代方墳

雨乞山古墳
向山1号墳出土遺物
馬具(鉸具)・弓飾り金具
弓の弭金具
吊金具・刀子の責金具

鞖(しおで馬具)

土師器坏

弓の飾り金具

碧玉 玉未成品

 143向山1号墳 方墳 全長32m 6世紀後葉 石棺式石室 島根県松江市大庭町1786-2番地

山代・大庭古墳群の西側丘陵に造られた7世紀初め頃の古墳。発調査の結果、未盗掘の石棺式石室が検出された。
墳丘は32mの方墳で、石室は南向きに造られていた。

石室の入口は人の頭程度の石を積んで閉じられると同時に、玄室(奥の部屋)の入口も長方形に加工した板石(閉塞石)で閉じられていたようだ。
閉塞石の外側には、かんぬきを図案化した文様が刻まれていた。

向山1号墳
向山1号墳石室入口
須恵器
石棺の一つの壁を切り取って出入り口にした様子がよくわかる。
石棺式石室
 
150 

 151団原古墳 6世紀後半以降 松江市山代町団原

 

団原古墳 - Wikipedia

 

松江市山代町団原古墳の石室 - 古墳マップ

 
 背筋を伸ばして! 名古屋城の謎 | 新・みないで (東海妄言) 石棺式石室(伝 団原古墳出土石室) - 丸の内区 団原古墳 - Weblio辞書 団原古墳(移築) : 古跡探訪録 - livedoor Blog

風土記の丘センターの北側丘陵にあった、石棺式石室を持つ古墳。石室の奥の部屋(玄室)部分は、現在、名古屋城内に置かれている。
石室は比較的古い段階のもので、石棺式石室の中でも大型の部類だ。

1988年に発掘調査が行われ、墳丘の周りに掘られた溝の底から須恵器の大甕などと一緒に、子持壺が出土した。
その状況から、墳丘の平坦面の端に立て並べられていたものと考えられる。

墳丘はそのほとんどが削られていて規模は不明だが、発掘の結果から方墳と考えられる。

団原古墳
上に記述
名古屋城に移築された
団原古墳の石室
 152団原古墳の子持壺

須恵器 出雲型子持壺
松江市団原古墳 6c後

須恵器 出雲型子持壺
松江市団原古墳 6世紀

子持壺 向山1号墳

向山1号墳

向山1号墳
島田池横穴墓

島田池横穴墓


 153子持壺祭祀
石棺式石室と並んで、古墳時代後期の意宇を特徴付けるものに、子持壺がある。大部分は壺の底が抜けており、他地域にみられないその特徴から
「出雲型子持壺」と呼ばれる。

山代二子塚古墳で使われ始めるようになった子持壺は、6世紀後半から7世紀にかけて、出雲東部の主要古墳で用いられ、やがて出雲西部にも広がりを見せる。

子持ち壺は埴輪の様に墳丘墓上に立て並べられていたようだ。向山1号墳では石室の天井の横に置かれているのが明らかになった。
石室全体が盛り土に覆われる前に、子持ち壺を並べて祭りを行ったらしい。

 ※子持壺の本来の使い方は石室を作って土砂で覆う前の祭祀に使うものであり、上の使用法は畿内的であるといえる。

子持壺祭祀 向山1号墳石室での子持ち壺を用いた祭祀状況 出雲地方の子持ち壺
出土分布図
 
研究 子持壺

 子持壺の創始
(風土記の丘資料館の資料によると)子持壺は装飾付須恵器とされ、5世紀に出現し、6世紀から7世紀にかけピークをむかえ、8世紀に古墳の終焉とともに姿を消す。全国各地の古墳とりわけ西日本において出土する。出雲型、畿内型があり、吉備地方のものは人物像なども乗っかっている。

出雲型の特徴は親壺・子壺の底がないこととされる。地域的な特色で島根郷型、意宇型(今の松江市周辺)、能義型にわけられ、次第に意宇型に統一され、また意宇型は出雲西部(いまの出雲市周辺)にも広がっていくという。

杭州と上海の両博物館にそれぞれこの子持壺そっくりさんが展示されていた。大きな壺の上に子壺がいくつも乗っかっているではないか。いずれも後漢(AD25~220)の中期の出土品とされていた。中国の呉越と日本の民族的文化的つながりは想像以上に深そうだ。引用「随風 子持壺」

 子持壺の列島の始まり
愛媛県北条市6世紀中頃。 中国地方6世紀後半  長野・兵庫・岐阜・福井・福岡・島根・大阪・愛知・三重・奈良・岡山6世紀  広島6~7世紀
出雲6世紀後半

 子持壺
上記の資料から、子持壺が列島にもたらされたのは、概ね古墳時代も後期にあたる6世紀のようです。最初に入って来たものは、「随風 子持壺」にあるように、大方の地域で作られた、壺の周りに真直ぐに壺が立っているものです。その後各地で作られるようになって、作り手や発注者の好みが繁栄されるようになり、幾多のバリエーションが発生したようです。

しかし、出雲型だけは少し様子が違っています。もしオリジナルや、その模倣品を見て作ったならば、決してあのような意匠にはならないでしょう。
数ある地方色の中でも、群を抜いておかしい。子持ち壺の意味は沢山の共献物を用意したという意味で、多くの土器を並べる代わりに、小数の子持ち壺で代用した。所が、山陰のものは貼り付け壺が四方八方を向いていて、共献土器を並べたことにならないでしょう。

機能と用途を知らず、使用祭祀の意味も解さない作り手が、ただの伝聞だけで作ったものが、権威ある作り手であったため、出雲から山陰にかけて流布・一般化したものとしか思えません。それとも、反骨の職人がヤマト政権への怒りを込めて、または、お笑いの素養のある職人が高度な技術を見せびらかすために作った・・・・とか。


 155横穴墓で使われた大甕 八束郡東出雲町出雲郷(あだかえ) 古墳後期(6世紀後半~7世紀前半) 横穴墓

これらの須恵器は、島田池遺跡の横穴墓群から出土した大甕の一部です。
甕はすべて破片となったものが出土しており、完全な形で出土したものは一つもありませんでした。このことから、横穴墓での甕は、最終的に割られてしまう性格を持ったものと考えられます。

玄室の中から出てくる甕は、破片を床に敷き、その上に遺体を置くためのものでした。(屍床)
一方、前庭部(墓道)から出てくる甕は、基本的に最後の埋葬が終了し、前庭部が埋め戻された後の儀式で使用されたものと考えられます。そして使用後には、甕は割られ、ばらまかれたものと考えられます。また、甕の破片は、異なる別の横穴墓の前庭部にもばらまかれていたことが接合作業によってわかりました。

考察 横穴墓の墓道(墓の中)にばらまかれた大甕とは何だろう。
横穴墓とは薄葬令によって大きな墳墓築造を禁じられた人々が、繰り返し追葬ができるようにした墳墓形式。
すると横穴墓を開けると既に埋葬骨があり、それを片付けて新たに死体を入れるとしたら、この大甕は何のために持ってきたのだろう。
九州では横穴墓に何体かの人骨が整然と並んでいるのを見た。これは一度に大量死して埋葬したのか、順番に端から遺体を置いていったか不明。

山陰では大甕に何かを入れて横穴墓に運び、内容物を墓に入れ、その大甕はもう使えないので打ち壊してばらまくしかなかった。ということになる。
すると大甕は、一次葬の甕棺かな。何年か横穴墓の前に置いて骨になるのを待って中に埋納し、臭いし水甕にも使えない大甕は、壊したのか。
それとも、横穴墓と大甕は一体のもので、死体はまず甕に入れて一次処理して墓内に骨だけを埋納する。甕はずっとおきっばで、何十年かして壊れたら細かく砕いてばら撒くしかなかったのだろう。だって気持ち悪くて汚いから。

九州から伝播したと思われる横穴墓ですが、遺体をそのまま中に安置するとすぐに満杯になります。二次葬にすれば、長く使えます。
現代でも、一人一墓でなく代々墓が殆どになっています。(庶民は)。あっ!最近は墓すら作らないですね。

結論、一次葬用の腐敗専用甕ではなかったか。弥生時代には風葬をしていたので、ここでは甕の中で風葬。大雨・長雨が降ると水が溜まって半腐れの死体が蓋を押し上げて浮き上がったりして、、ぎゃ~、、すんごい、、肝試しができたでしょう。 それ以外に大甕を持ち込む理由が見当たらない。

大甕
横穴墓で使われた大甕 横穴墓前庭部での大甕の出土状況 横穴墓で使われた大甕
上に記述
 
 



   古代
 



 160地方行政の拠点


 161出雲の国風土記
風土記は奈良時代に、政府の命令によって全国の60余国から提出された地誌である。

しかし、現在ではほとんどが失われ、僅かに5国のものが 比較的まとまって伝えられているに過ぎない。5国は日立、出雲、播磨、豊後、肥前である。そのうちほぼ完全なものは「出雲国風土記」のみで、「播磨国風土記」は前後に脱落があり、他の3つは省略本である。
その他の風土記の大半は鎌倉時代以前の書籍に引用された「逸文」として残っている。

「出雲国風土記」の写本は全国に100点あまりある。そのうち、奥書に最も古い年紀が記されたものは、慶長2年(1592)の細川本(永青文庫蔵)で、他に寛永11(1634)尾張藩主徳川義直が日御碕神社に寄進したものがある。

「出雲の国風土記」の巻末には、天正5年2月30日 云々 とあり、その製作時期(733年)と編纂者が明らかとなっている。

「出雲国風土記」の主な記事には、神社数や郡家から各郷などまでの距離、郷里数などの統計的・計数的な記述が特徴的である。
また、意宇郡の冒頭の、八束水臣津野命の「国引き神話」は、「古事記」「日本書紀」には見えないものである。

※出雲国風土記は20年以上もその編纂にかかったといいます。

出雲国風土記
江戸時代
文政7年(1824)
江戸時代写本の原本
国引き神話 出雲の国風土記
上に記述


 162地方行政の拠点 -儀式・行政の場- 奈良時代
国府の最も重要な役割は、出雲国の行政を執り行うことであった。
律令国家は天皇を中心とする中央集権国家であったので、地方行政の様子は毎年大量の文書によって細かく中央政府に報告されていた。
この文書行政を支えるために、国府には文字を書くことのできる人々が多く勤務し、数多くの文書が作られた。

一方で、国内にはその土地の豪族であった郡司をはじめとして、いろいろな職業や階層の人々が居住していた。
中央から派遣されていた国司は、地域の一体感を創出し、彼らを円滑に支配するために盛んに儀式や饗宴を行った。
儀式や饗宴もまた、古代の地方行政を支える重要な行事であった。(まつりごと、祭り事、政)

地方行政の拠点
上に記述
出雲国府跡 柱根
奈良時代

柱根 出雲国府跡
奈良時代
石帯(役人の正装)
 出雲国府跡
8世紀後半


 国府政庁 島根県松江市大草町・山城町・竹矢町
国府の中で、政務や儀式を行う中枢部を政庁と呼ぶ。昭和43~45年の出雲国府跡の発掘調査では大型建物を発見した。

大草町六所神社脇で発見された建物跡は、東西5間、南北4間の庇付き建物である。
昭和40年代には まだ政庁後殿と推定されていたが、周辺の地形や西日本地域の類例から、中心建物の正殿である可能性もある。

調査では確認できていないが、この南側には前殿が、東西には役人が政務を執る細長い建物(脇殿)があったと推測される。
政庁の北側には、後方官衙群と呼ばれる建物群が見つかっている。政庁に付属して重要な事務を司る庁舎であったと考えられる。

国府政庁 国府政庁跡図 発掘された政庁の建物


 163国府跡出土遺物 奈良時代

 国府の文書行政
文字の書かれた資料が出土するだけでなく、文書を作る道具=文房具類が多く出土するのも国府の特徴である。
国司館からは各種の形をした数多くの硯類や、筆立て・水滴・小刀などの他、文字の手習いをした板、地方では類例の少ない文書を納めた木箱も出土している。
なお、小刀は紙を切るだけでなく、木簡を削って書き直したり、紙の表面を削って訂正するための必需品であった。
このことから官人は『刀筆の吏』と呼ばれていた。


 木簡 ―文字の書かれた木札―
律令国家では政府へ正式な報告は紙の文書によって行われたが、実際に業務を行う人々に対する命令や、物品に括り付ける付札など耐久性が求められるものや、書き写しが必要なもの、内容の簡単なメモなどは木札に書かれ、紙の文書と組み合わせて文書行政の中でいろいろな用途に使用された。
これらを木簡と呼ぶ。

1300年の時を経て、国府で作られた文書はほとんど残ってはいないが、木簡は今も数多く国府跡の土中に眠っており、国府業務の実態を伝える貴重な資料となっている。

国府の文書行政 木簡 記録木棺:命令の伝達ではなく、事柄の記録・メモである。穴を開けて
   束ねられたものもある。

文書木棺:命令の伝達や報告のための木簡で、長い短冊形をしている。

 国司館の文具
文書箱(復元品) 木簡 刻書土器 円面硯・須恵器硯
筆立て・水滴
風字硯
刻書土器 刻書土器 銅印 「春」「常」 分銅

 165饗宴で使われた土器群 出雲国府跡 奈良時代
国司館で行われる儀式の中で重要なものとして、郡司や役人を集めての饗宴があったと考えられている。今も昔も、宴会は仕事を進めていくうえで重要だったと思われるが、今と比べて、より儀式的な色彩が濃かったものと推測される。

国司館跡と考えられる大舎原地区からは数多くの須恵器や土師器などの食器が見つかっている。庭や景色を愛でながらの宴会に使われたものもあったことだろう。

饗宴に使われた土器群
上に記述
畿内産赤色土器 饗宴に使われた食器 食器類

 166生産・流通と生活
国府は都に送る税の集まる物流拠点でもある。税はお金ではなく、布を中心として都で必要とされている現物そのものであり、各郡から運び込まれた物のほか、近くの市で交易によって調達したり、工房を設けて加工・生産しなければならないものもあった。

この他、紙や役人の装身具、兵士の装備など、高い技術の必要な手工業製品も、国府に工房を設けて生産するしかなかった。
国府には国司以下の官人のほかに、このような工房や市で働く人々も起居していたはずで、他地域に比べてはるかに人口密度が高かった。
また、彼らの生活を支えるために多くの日常物資も生産され流通していたと考えられる。

 産業技術センター
「国司館」の東(日岸田地区)には、高い技術が必要な品や贅沢品、国府の中で使用する様々な製品を生産するための工房群が存在したと考えられる。今で言えば産業技術センターだ。

金属製品の加工や玉作に関わる遺物は他の地区でも出土している。しかし、この地区の機能を特徴づけるのが、漆の大集積である。
漆は漆工や金工の塗料・接着剤に使われ、税の一種として都にも献納されていた。漆を集積できるのは官営工房などの限られた場所であった。

見つかった建物跡は小型の倉庫などで、文字資料もほとんど出土していない。小型倉庫は、製品や原料などを保管するための施設かも知れない。
工房本体は、未調査区に存在している可能性が考えられる。


 ※明日香村に明日香池工房が造られたように、出雲国府でも制作工房が置かれ、当時の先端技術で、様々なものが造られていたようです。
  すると、全国の国府でも、同じように先端技術の制作工房が置かれていたということになります。

生産・流通と生活
産業技術センター 官営工房跡 日岸田地区全景


 工房で作られたもの
工房には、鋳造・鍛冶工房、銅工房、漆工房、玉工房があったようだ。工房では多種多様な製品が作られたものと考えられる。

漆工房ではパレットとして用いた土器が見られる。玉は水晶、碧玉、瑪瑙を主な素材とし、平玉・丸玉の生産が行われた。
多量の未完成品や屑のほか、玉を磨くための大型砥石が出土している。

鋳造・鍛冶にかかるものとして、鍛冶滓やふいごの羽口が出土している。精錬・鍛錬鍛冶(たんれんかじ)が行われたようだ。
るつぼや銅滓、るつぼからこぼれ落ちた銅滴が見つかっている。
銅鋺の破片とみられるものがあることから、仏具などの鋳造が行われた可能性がある。

 ※鍛錬鍛冶とは、たたらで生産された粗鉄を持ち込んで、純度を上げ、鉄製品とする工程。
 ※終末期古墳に副葬されることの多い仏具の銅碗は、このような官営工房で豪族向けに造られたのだろうか。まさか舶載品でもなかろう。



 漆について
漆は漆工芸はもちろん、器物の修理や金属製品の表面処理など様々な目的で使用される。

日岸田地区(ひがんでちく)では、漆の原液を採集地から運搬した壺が30個以上まとまって出土した。ほとんどの壺は故意に割られている。
漆液は乾燥すると固まってしまうため、口の細い容器に入れ、栓をして運ぶ。それでも空気に触れやすい首の内側が固化するため、首から先を打ち割り、中の漆液を取り出すことになる。

日岸田地区から出土した壺には、漆が厚く付着したものがなく、壊されていないものもある。近隣から短時間で運ばれ、ただちに取り出されたことにより、固化する部分が少なかった可能性が考えられる。


工房で作られたもの 玉工房の様子 鋳造工房の様子 漆について 漆の使用方法 漆容器とは長頸壷。

酒を入れる瓶ならつかみ易く便利と思っていたが、
なぜ長頸なのかと思っていた。

 167出雲国府跡工房出土遺物

フイゴ羽口・石製紡錘車
碗形鍛冶滓・銅塊

銅るつぼ・漆運搬用須恵器・
内部に漆が付着した須恵器

漆用パレットの須恵器


玉原石
水晶・丸玉・

筋砥石

丸玉・平玉

碧玉

玉原石


 168山代郷正倉跡 島根県松江市大庭町・山代町・矢田町一帯

 史跡出雲国山代郷正倉跡 - 全国遺跡報告総覧 島根県:山代郷正倉跡 出雲国山代郷遺跡群 正倉跡 北新造院跡 文化遺産オンライン 出雲国山代郷正倉跡」
 

出雲国山城郷正倉跡 松江市大庭 しまね観光ナビ

 出雲国山代郷正倉跡とは - Weblio辞書

出雲国山代郷正倉跡は、茶臼山の南西部、標高約20mの台地上に位置する。「出雲国風土記」の山代郷条に記載された正倉と推定され、
1980年に国指定史跡となった。
正倉とは、古代の税である米を納める倉庫で、通常は郡単位で設置されるが、「風土記」によれば、出雲国では郷にも設置されていた例がある。

1978から3年間の発掘調査で確認された奈良時代の遺構には、掘立柱建物跡2棟と東西3間・南北4間の総柱建物跡3棟がある。
前者は管理棟、後者は炭化した米が出土したことなどから、米を収めた倉と考えられる。

隣接する黒田館跡や下黒田遺跡の掘立柱建物跡・総柱建物・溝跡は、山代郷正倉跡と一連のものである可能性が高い。

山代郷正倉跡
山代郷正倉跡の総柱建物跡
炭化米
炭化米
 
 


 200国府に花咲いた文化 出雲国分寺・国分尼寺跡 


 201都からの文化の窓口
都から貴族である国司の派遣を受け、都城に似た建物が造られ、道路によって中央と直結して物や人か盛んに交流した国府とその周辺には、それまでになかった中央の文化が急速に導入されました。

周辺には古墳に代わって仏教寺院が営まれ、国司の館では和歌が詠まれ盛んに饗宴が催されたほか、火葬が営まれるなど祭祀や信仰についても大きな変革が起きました。
都からの文化の窓口
墨書土器と文字瓦
出雲国分寺・国分尼寺
硯 墨書「子刀自 墨書
勝 神衛 牛
東室  方上
墨書
牛 牛 牛
堂東
□寺 泰屋形

 202奈良時代の国司の姿
この衣装は、奈良時代の国司の装束を再現したものです。モデルは史料上では最初に名前が確認できる出雲国司 忌部の子首(こびと)従四位上に進んだ段階をモデルとしています。

頭には幞頭(ぼくとう)を被り、手には笏を持っています。服の色は四位の深緋に近い色を選びました。
大宝律令では細かい規定がなされましたが実際には十分に守られず、身分とは異なる服装の者も多かったことは、規制の命令(詔)が度々出されたことから窺えます。

奈良時代の国司の姿

 203出雲国分寺跡
天平13(741)、聖武天皇は全国の国ごとに国分寺(鎮護国家の寺)を建設するよう詔を出した。この詔勅によって建てられた出雲国の国分寺は茶臼山東麓の松江市竹矢町49に位置する。
昭和30~46年に発掘調査が行われ、金堂などの主要建物が明らかになった。寺域は南北182.69m、中軸線から東限が111~112.6mで、西限は不明である。
金堂は東西108尺、南北66尺で南門・中門・金銅・講堂・僧房が一直線に並び、中門から延びる回廊が金堂を囲んでいる。塔は回廊外の南東側に位置する。
出雲国分寺に使用された瓦の文様は、蓮華文に唐草文を組み合わせた、非常に細かい文様で、新羅系と言われている。
また「西寺」の墨書土器が知られ、位置関係から国分尼寺を東寺、国分寺を西寺と呼んでいた可能性がある。

出雲国分寺跡
上に記述

出雲国分寺跡の中心伽藍

鬼瓦

軒平・軒丸瓦

国分寺の瓦葺
出雲国分寺復元図

 204国司館の建物 出雲国府跡 奈良時代
大舎原地区(おおじゃら)の発掘調査で発見された4号建物は、当初は掘立柱建物跡であったが、8世紀末頃に礎石建物に作り替えられたと考えられる。
掘立柱建物の時期には、檜皮葺など植物質の屋根材であったと考えられるが、発掘調査では瓦が出土しており、礎石建物となった時期に、屋根の一部に瓦が葺かれていた可能性がある。
想像図では屋根を板葺きとし、軒の部分に瓦を載せた甍棟(いらかむね)の屋根を想定した。

また、礎石建物の時期の遺構には、建物周囲に小さに柱穴が見られる。建物本体から庇屋根を架設し、建物を広げたようだ。郡司を始め多くの人々が国司館に参集した様子が想像される。

国司館の建物
軒丸瓦・丸瓦・平瓦
 頭椎大刀 把

前田遺跡 6世紀末
松江市
 頭椎大刀 把




 峠のまつり 才ノ峠遺跡 松江市
才ノ峠遺跡は松江市竹矢町才ノ峠にあります。遺跡の名の通り、峠には「才ノ神」といわれる境の神が祀られていました。

建物やその周辺からは、奈良時代のミニチュア土器、土製の玉や鈴、土馬、鏡形、石製紡錘車や鈴、水晶製の丸玉、木製の舟形琴柱、火鑚臼(ひきりうす)など、沢山の遺物か 見つかりました。また、悪霊を退散させると信じられていた桃の種も300個ほど見つかりました。

峠の祭り
才ノ峠遺跡 松江市

水晶玉未成品・石製分銅
土馬・石製紡錘車 

鏡模造土製品

鏡模造土製品

火錐臼、土玉・土錘
手捏土器
 

 205山代郷北新造院塔相輪 奈良時代
山代郷北新造院塔の東塔跡からは、石製の相輪片が出土した。相輪は、多層塔(三重塔・五重塔など)の最上部に載せられる飾りのことで、
通常は銅製である。

相輪は、木製の心柱(擦)を雨水から保護する擦管と、その周囲を飾る九輪、九輪の下の請花(うけばな)と伏鉢(ふくばち)、九輪の上の水煙、
龍車(りゅうしゃ)、宝珠(ほうじゅ)からなる。

山代郷北新造院跡からは、石製の擦管・九輪・伏鉢、銅製の請花片、九倫に下げられた銅製風鐸が出土した。また、八角形を呈した傘状の
石製品が見られ、天蓋と考えられる。天蓋は大切な容器(宝瓶=ほうへい)の蓋と思われることから、山代郷北新造院東塔の相輪には、水煙がなく、
宝瓶と天蓋が載っていたと考えられる。
水煙を欠き、天蓋を戴く(いただく)相輪は、現存塔では室尾寺五重塔(奈良県、平安時代)しかない。

石製相輪の復元想像図 風鐸

山代郷北新造院跡
奈良時代
山代郷北新造院の
塔相輪

上に記述
請花(うけばな)
風鐸
 

 206山代郷北新造院跡
山代郷北新造院跡(来美廃寺)は、「出雲国風土記」記載の「新造院」の一つと考えられ、茶臼山を見上げる標高約30mの斜面に位置している。
金堂の東西に三重塔が建ち、南北には講堂が立てられ、その後東塔、講堂の順に建立されたと考えられる。西塔が立てられたのは9世紀初頭頃で、全ての完成までに100年もの歳月を要している。

金堂跡の調査では須弥壇(仏像を安置する壇)が発見され、本尊の設置痕跡や脇侍の台座が出土した。
「出雲国風土記」には「建立厳堂(金堂?)也」とされており、733年時点では金堂しか建っていなかった可能性が高い。また、「日置君目烈ひきのきみめづら」が建立し、「僧なし」などの記載が見られ、古代の地方寺院の様子を、文献と実際の遺跡から照合できる貴重な遺跡である。


鬼瓦

山代郷北新造院
(来美廃寺)推定復元
山代郷北新造院
上に記述

金堂跡


 考察 僧のいない寺と、多数の廃寺跡遺跡の出現

2塔2講堂1金堂という、巨大な寺院を、100年もかけて建立していながら、僧がいなかった。という。
日本の各地で猛烈な勢いで、何千か、何万か、何十万かという程の寺院が建立され続け、中央・地方の豪族が、持てる財力を注ぎ込んで、
半島からやって来た宮大工を召し抱え、遠方の瓦工房の職人に発注し、100年もかけて寺院を建立する。

自己の財力や権勢を見せつけるための道具建てとして。

しかし、そこに信仰の中心という概念がなく、宗教に対する知識もなく、なにぶんにも当時の仏教は学問としての仏教であり、実際、例えば、
現在の東大寺がどのような仏教で、庶民に対してどのように働きかけているのかさえ、私たちは知らない。経営状態も知らない。

きっと、当時の仏寺建築ラッシュは、単なる寺院建築ブームで、信仰などは何もわからなかったのではないだろうか。
だから、無住(住職や僧侶のいない)寺院も平気で建てたのだろう。何処かの文献で、僧の姿を見ず。というのがあった。

そして、このようにして建てた寺院は、その後、都から地方まで、次々と廃寺となり、「そこに信仰はあるんか」。なかった証拠であると思われる。


 207山代郷北新造院瓦積み基壇
山代郷北新造院の金堂跡からは、瓦積み基壇が発掘された。古代の格式の高い建物は、基礎部分を土で盛り上げ、高い基壇を造成する。
土でできた基壇は、そのままでは雨によって流出するので、基壇の周囲を保護する必要があり、これを基壇外装と呼ぶ。

基壇外装には切り石や自然石を積み上げる場合が多いが、北新造院跡では、屋根に使用するものと同じ平瓦を重ねて積むことによって、
瓦積み基壇を形成している。

瓦積み基壇は石積み基壇よりも材料の規格性や重量の点で容易な工法ではあるが、崩れやすい欠点があり、定期的なメンテナンスを必要とする。
山代郷北新造院跡でも奈良時代後半に補修が行われた形跡がある。

山代郷北新造院
瓦積み基壇

上に記述


 塔の石製相輪 山代郷北新造院跡
石製相輪 石製相輪
「瓦積み基壇」panelは左に
「山代郷北新造院」panelは上に
それぞれ掲示しています

あの高い塔の上に、石で作ったものが上がっていたとは驚きです。

そういえば、今昔物語か何かで、塔に落雷し

何かが落ちてきたと読んだ記憶がある。
石は塑性物で壊れやすいと思う。
それでも上にあげたのか。

 208基壇・石段の石材・瓦材 山代郷北新造院跡
基壇・石段の石材
基壇・石段の石材
基壇・石段の石材
瓦積み基壇


 考察 石垣
建築物は地表より一段高く盛り上げた上に立てるのが常識だ。これは、水害による浸水や湿気から守るためだが、これには一般に石垣を使う。
しかし、この石垣の巡らされた古い建物というのはあまり見ない。せいぜい、切り石を重ね並べたものと記憶している。それを石垣と誤認しているかも。

例えば、信州の小諸城は石垣ではなく、土盛の上に立っている。この頃までは石垣で基礎を固めることは一般的ではなく、それ以降の築城ラッシュによって急速に石垣が発達する。巨石を扱って巨大な石室を作って古墳時代を作ってきた、滋賀県の穴太衆の野面積みが大ブームとなる。

すると、戦国時代以前は石垣というものは、あまり用いられなかったのかもしれない。
深く基礎を掘って大石を入れ、その上に切り石を並べて、、というより、簡単な瓦積みの方が手っ取り早かったのかもしれない。



 209鴟尾 山代郷北新造院跡
鴟尾都は屋根の大棟の両端に置かれる飾りで、大棟を反り上がらせて見せ、視覚的に建物を立派に見せる瓦の一種である。
通常の鴟尾は鰭(ひれ)文を階段状になった段型で表現するが、山代郷北新造院の鴟尾は突帯で表現し、胴部にはうろこのような文様を配している。

同様の特徴を持つ鴟尾は、日本国内では兵庫県北部から島根県東部の間でしか見られず、山陰系(型)鴟尾と呼ばれている。
山陰系(型)鴟尾の完全な形状が判明する例はないが、山代郷北新造院出土品の他、上淀廃寺(米子市)、玉鉾等ヶ坪廃寺(鳥取市)出土品などを参考に復元を試みた。基底部幅約50cm総高約120cmと考えている。

この鴟尾の内面には土器製作に使用する同心円文の工具痕が見られ、瓦工人ではなく土器工人が製作に関与していることがわかる。

鴟尾
山代郷北新造院の鴟尾
 

 210奈良時代の八雲立つ風土記の丘 復元模型
  当時の歴史的・文化的・政治的な中心地であり、200年前の京都のような都市だったように思える。
  これほど詳細に奈良時代の都市遺構が明らかになっているのは初めて出会いました。


南の丘陵地を始め周囲は古墳群が取り巻き、西側には豪族居館や正倉などの公的施設も見られる。
奈良時代の八雲立つ風土記の丘
平野には、多数の施設が集まっている。
奈良市時代の
施設、建物
古代の風土記の丘
 
 








220ミニ企画展 風ちゃんちドッキー博士の ドキドキ考古学  (許可を得て撮影し、許可を得て掲載しています。)







考古学って何
 221考古学って何
鹿形埴輪の角
平所遺跡 古墳時代
鹿角は秋に自然に落ちる。左の鹿角は屠殺によって得られたもので、自然落下鹿角は根元が深くついてない。

えぐったものです。
和同開珎(銀銭)
奈良時代 出雲国府跡忌部子首の出雲着任の年に発行された
円筒埴輪
岡田山1号墳
6世紀後半
 222遺物に触ってみよう
遺物に触ってみよう 磨製石斧・打製石斧 勾玉・丸玉・黒曜石 黒曜石製鏃 須恵器壺・長頸壷 竹ノ花上遺跡の
縄文土器

 223東百塚古墳群模型 松江市大草町-八雲町  東百塚山古墳群資料 東百塚山古墳の調査
一帯は大草古墳群。その中でも古墳が集中する場所東側には安部谷古墳。 西百塚山古墳群は谷を挟んだ西側。意宇を取り巻く墳墓群

東百塚古墳模型 東百塚古墳模型 礎石
出雲国府跡 古代


 224遺跡って何
遺跡って何 遺構って何 出雲国府跡の遺構と遺物


 祭祀遺構から出土した遺物  出雲国府跡5号図土坑底面 奈良時代


皿・蓋 

高坏・坏・甕

刀形木製品
斎串・曲物

鹿の骨
 


 225同じ形の瓦って?

同じ形の瓦って 瓦の名称
違うところから同笵瓦
軒丸瓦
山代郷南新造院跡
大寺谷遺跡
奈良時代
 226
土器を見て時代を知る 土器を見て時代を知る
堤瓶の変化 蓋付坏の変化 ハソウの変化
 
 250
 251
絵画陶板 絵画陶板 鴟尾破片
獅噛
叩き板の内側模様 刻書・墨書土器
籾痕跡
 252鏡に写してみよう
鏡に写してみよう
 



 255旧石器時代~縄文時代


 旧石器時代 人類誕生~1万6500年前
私たち人間は学名をホモ・サピエンス(新人)といい、直接の祖先は凡そ250万年前にアフリカで生まれました。
そこから1万6500年前頃までを旧石器時代と呼び、採集や狩りによって生活をしていました。

この時代の気候は寒く、ナウマンゾウ・マンモス・オオツノジカなどの大型動物が多く生息していました。
人類は石で作った石器や動物の骨やツノで作った骨角器を使っていました。

 縄文時代 1万6500年前~2500年前頃
同じところに長く住むようになり、集落ができ始める時代。旧石器時代に比べて気候が暖かくなり、動物や植物の様子が変化しました。
イノシシやシカ・ウサギなどの中・小型の動物が多くなって、すばしっこい動物が増えたことから、弓矢などの狩りの道具が発達しました。

また、土器を使うようになって煮ることが出来るようになったことで、今まで食べられなかったものも食べられるようになりました。



 256弥生時代 紀元前5世紀~3世紀中頃 (2500年前~1750年前)
稲作が始まり、農耕が中心となる時代。
中国大陸や朝鮮半島から稲作が伝わったと考えられます。

水田を管理するためには沢山の人手が必要なため、まとまって住むようになりました。水田や水の確保を巡って争いも起きるようになったため、
溝で囲われた集落をつくるようになりました。金属製品も使うようになり、武器が作られ、銅鐸を使った祭りが行われるようになります。

集落をまとめていくリーダーが現れ、階級社会ができ始めました。



 タテチョウ遺跡出土土器 島根県松江市西川津町4243
 

タテチョウ遺跡発掘調査報告書 - 全国遺跡報告総覧

 タテチョウ遺跡発掘調査報告書III  タテチョウ遺跡:遺跡ウォーカー 遺跡詳細表示-島県遺跡データベース 島根大学
 土笛なども出土している。 タテチョウ遺跡土笛

弥生時代 タテチョウ遺跡出土
弥生土器
弥生前~中期
タテチョウ遺跡
原の前遺跡
西川津遺跡


 257的場土壙墓出土遺物 弥生後期 松江市竹矢町
   

島 根 の 古 墳 が 、 日 本 の 古 代 史 を 解 明 し つ つ あ る

 

的場土壙墓

坏・標石

高坏・注口土器・甕
・山陰型器台

標石


 258古墳時代3世紀中頃~7世紀頃
全国各地(北海道、沖縄以外)で豪族が大きなお墓(古墳)を造っていた時代。

前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳など定まった設計の古墳が日本列島の広い地域で造られることから政治的な大連合が成立した時代と考えられています。代表的な古墳が、このほど世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群(大阪府)です。

国内最大の前方後円墳の「大山古墳(墳長486m)」をはじめとする大型古墳が沢山あることから、近畿地方を中心とした古代国家のまとまりができつつある時代ということがわかります。

古墳時代
上に記述

金環
島田池横穴墓
6世紀後半

高坏・坏
狐谷5号横穴墓
6世紀後半~7世紀初頭

馬具
中竹矢横穴墓出土
6世紀後半

鉄鏃・刀子・鹿角装刀子・鉄斧

腰帯
ガラス小玉玉

円筒埴輪
岡田山1号墳
6世紀後半

筒形器台
島田池横穴墓
6世紀後半
 

 270飛鳥・奈良・平安時代 (7世紀-710) (710-794) (794-1185)
天皇家を中心とした律令国家の時代。
7世紀の半ばから、中国の隋・唐にならって「律令」が定められ、それによって国が支配されていました。
出雲国・石見国・隠岐国など各国に国司が派遣され、中央が国の管理をしていました。

古墳時代から続く地元の有力者は郡司(国司の下にあって郡を治めた地方行政官)に任命された者もいました。

国府・国分寺・国分尼寺・正倉などは国の命令によって造られた施設です。国府は各地域(国)を治める地方行政機関が置かれたところで、
正倉は税である米を納めた倉のことです。


 271奈良時代のお寺で使われた土器 山代郷南新造院 奈良時
飛鳥・奈良・平安時代
上に記述
奈良時代のお寺で
使われた土器
軒丸瓦・軒平瓦
山代郷南新造院
奈良時代

螺髪
螺髪
山代郷南新造院
奈良時代

奈良時代の寺で使われた須恵器
山代郷北新造院
奈良時代

富田川河床遺跡出土
磁器 17世紀
 歴史年表 ピンボケ          

 272「風土記」と考古学
風土記と考古学 風土記
考古学と歴史学の違い 出雲国風土記
江戸時代写本
炭化米
山代郷正倉跡
奈良時代
 








 






 300野外古墳




 301
 古墳時代の住まい
この家屋は古墳時代(約1500年前)の建物を推定復元したものです。
このような形の建物は竪穴住居と呼ばれ、縄文時代から奈良時代頃まで、庶民の住居として用いられていました。

復元のもとになった風土記の丘地内・大草町宮ノ後の住居跡は地面を50~60cm掘り込んで、四本の柱で屋根を支えるもので、北側の壁近くに炉が作ってありました。
屋根の構造は家形埴輪などを参考にして復元し、棟の押さえは神社建築や兵庫県・山口県の古い民家の棟飾りをもとに整えています。

 岡田山2号墳
直径44m高さ5.4mの大型円墳である。墳丘は二段築成されており、斜面には葺石が施されている。
古い文献には埴輪の存在が記載されているが詳細は不明である。
出雲地域では、40m以上の円墳は7基しか確認されておらず、意宇平野を一望できる立地からも、極めて重要な古墳と言える。

未発掘であるため、詳細不明であるが、出雲地域の大型円墳の様相から推測すると、古墳時代前期末から中期頃(4世紀末~5世紀初め)に築造された古墳とみられる。

古墳時代の住まい 古墳時代の住まい 岡田山2号墳 岡田山2号墳

 302岡田山1号墳
岡田山1号墳は6世紀後半に造られた前方後方墳で、昭和40年に国史跡に指定されています。
墳丘は全長24mの2段築成で墳丘斜面には葺石を貼り、後方部に円筒埴輪と子持ち壺が並べられていました。

後方部の中央に全長5.6mの横穴式石室があり、玄室の四壁に持ち送り式技法が採用されていることと、柱石を持つ両袖式であることから、
九州地方の石室との関りが指摘されている。

※葺石:古墳の墳丘斜面などの河原石や礫石を積んだり貼り付けたものです。
※持ち送り:石室も側壁が斜めに立ち上がるもの。
※両袖式:石室の入口から見て、奥にある玄室の袖部が左右に広がっているもの

 貴重な副葬品
岡田山1号墳では多くの副葬品が発見されています。石室からは中国製の内行花文鏡、装飾付大刀4本、鉄鏃などの武器や刀子の他、金銅製馬具が出土しました。
墳丘からは須恵器の子持ち壺、円筒埴輪などが発見されている。昭和59年には大刀の1本から「額田部臣」の銘文が発見され、有名にになりました。
大正時代に発見された出土品は昭和60年に国の重文に指定されました。

 304岡田山1号墳外観

 306埋葬状況について

 埋葬状況について
後方部の中央に全長5.6mの横穴式石室があり、内部に小型の組合式家形石棺と仕切り石で囲まれた副葬施設が供えられています。
副葬された4本の大刀は、この施設に並べられた状態で見つかりました。その他の副葬品は石室内や石棺の横に置かれていました。

 銘文について
大刀は刀身の約半分を失っていますが、残存部の長さは52cmです。刀身は銀象嵌で「各田卩臣□□□素□大利」□」の文字が刻まれていました。
頭の四文字は「額田部臣」と読むことができ、額田部臣は額田部(部民)と呼ばれた人々の集団を取りまとめ、臣という称号を与えられた額田部のリーダーを意味しています。

この大刀の発見は部民とそのリーダーの実在を示す最古の尻用となり、我が国古代社会制度の人蔦である「部民制」「氏姓制」の成立時期を考えるうえで貴重な発見となりました。

埋葬状況について
銘文について
上に記述
埋葬の様子 石棺の短辺は閉塞されていない。
玄室閉塞石の向こうに
➀銘文入り大刀等複数と鏡
②頭脇に鉄鏃・刀子
③棺脇に須恵器④馬具一式

銘文について
上に記述
銀象嵌の大刀 額田部臣と部民制 古代史がわからないが、意味を考えると、

良民は国造制による出雲臣(出雲国造)の支配を受け、また、他方で、
部民制による、額田部連(大和在住)の二重支配を受けており、

二重支配を請け負っていたのが、額田部臣であり、 
二重被支配されたのは出雲地域の額田部の人々だった。という意味か。

 307岡田山古墳石室内部 (ほぼ真っ暗な中で、自然露光で撮影しています。)
入口から玄室を見る 閉塞石が崩れている
石棺とその中が見える 石棺蓋石の綱掛が装飾化している。
 

 308奈良時代の住まい 掘立柱建物

この家屋は渋山池遺跡(東出雲町)で発見された建物跡をモデルに、奈良時代(約1300年前)の一般的な住居を推定復元したものです。
発掘調査では地面に残された痕跡しか判りませんが、その上屋を、推理を交えて復元してみました。

掘立柱建物とは、穴を掘り、柱を埋め立てて屋根を載せる構造で、竪穴住居と異なり、高い壁が建ち、切妻屋根が載っています。
県内の遺跡で発見された柱の多くは栗材でしたが、ヒノキで代用しています。ならじだい の建物は倉庫などを除き、床を貼らないのが一般的で、この復元建物でも内部は土間としました。
発掘調査で屋根や壁材が発見される例はほとんどありませんが、窓については三田谷1遺跡(出雲市)出土の木製品を参考に制作しました。
掘立柱建物は弥生時代頃から増加を始め、奈良時代には一般的な構造になります。県内の平野部では、こふんじだい を最後に竪穴住居は見られなくなり、多くの住居は掘立柱建物になります。


 箱式石棺 松江市東津田町 東光台古墳
箱式石棺は板状の石材を箱型に組んだ棺で、古墳時代(約1600年前)の一般的なお墓です。
この箱式石棺は大橋川に面した東津田町石屋の丘陵尾根上で発見され、発見時には人骨の一部が残っていました。

出土した人骨には朱(水銀朱を原料とした赤色顔料)が残っていました。朱は長い年月が経っても色あせないことから永遠の魂を祈って遺体に塗られたと考えられます。この箱式石棺では、頭にあたる部分にV字形に石を汲んで石枕を作っている点が特徴的です。

奈良時代の住まい
掘立柱建物
 奈良時代の住まい
掘立柱建物

上に記述
箱式石棺
上に記述
箱式石棺