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北海道の縄文 №8 2022.06.03
帯広百年記念館 北海道帯広市緑ケ丘2
0155-24-5352 月・祝日の翌日休館 撮影可
館の特徴
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この館には北海道の縄文草創期を立証した土器が展示されています。 |
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記念館の展示は41年前
帯広百年記念館は1982年10月24日に開館した博物館で、その後更新されたものもありますが、
展示物の多くはその当時のままなので、色あせているものもあります。 |
帯広百年記念館 常設展示展示項目と内容
帯広百年記念館の常設展示室を専門分野ごとに紹介します。
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➀イントロダクション「マンモスがいたころ」
十勝平野に最初にすんだ人類が、マンモスを追うように北方から来たころを表現しました。マンモスの複製は日本で数少ない貴重なものです。
2万年前の石器の実物標本のほか、その人たちの火起こしも描かれています。
②「開拓の夜明けと発展」
開拓の頃の暮らしや道具、十勝で最初の開拓団体「晩成社」の資料やその時の殖民地・十勝の様子を紹介します。
昭和三十年頃まで使われていた道具、開拓当時の写真を展示しています。帯広の街の形成に大きな役割を果たした「十勝監獄」のコーナーもある。
③「十勝の自然」
ヒグマやシマフクロウなどの野生生物を、開拓期以前の自然を模したジオラマで展示し、高山から海岸の湿原へと変化する代表的な生物を紹介
します。オジロワシとカルガモの剥製が加わりました。オジロワシは翼を開くと幅2mあります。
④「十勝平野の生いたち」
海の底だった十勝が陸地になり、最初の人類が来る直前の姿までを、化石や岩石などの資料を示しながら順を追って展示しました。
十勝で見られる代表的な岩石の標本です。かんらん岩は「マントル」が冷えて固まり地上に露出したものです。
⑤「先住の人びと」〜「十勝のアイヌ文化」
旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の順に発掘資料や分析データを紹介しています。北海道最古の土器の実物資料や国の重要文化財である
「八千代A遺跡」のコーナーもあります。
十勝のアイヌ文化のコーナーでは、伝統的な民具などの資料を展示しています。狩猟採取、加工、交易、宗教観などを紹介します。
カムイへの祈りを伝えるための祭壇「ヌサ」。この「イナウ」の並べ方は十勝地方のアイヌの方から伝えられたものです。
⑥「十勝のくらし」
ワラ製品やストーブ、蓄音器など、生活用具やその時の街並みを、時代の流れに沿って紹介します。
⑦「十勝・農業王国の確立」
畜力からエンジンを使った大規模機械化農業への変遷と、現代農業における主要な農畜産物について紹介します。 |
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十勝地方の年表 引用国土交通省 北海道開発局 帯広開発建設部
時を越えて十勝の川を旅しよう
第1章地質時代
第2章先史時代
第3章アイヌ文化期
第4章開拓期
第5章発展・今・未来
第2章先史時代
3100×2100size1.12MB |
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このHPは多くの文章部分が文字化けしています。しかし、本来は、十勝地方の歴史について、総合的に研究し、まとめた貴重な書物でした。書籍としてはまだ、どこかに存在するのでしょう。しかし、ネット上では、意図してか偶然かその多くを見ることが出来なくなっています。
この貴重な研究の一部でも皆様にご覧いただければ、その価値が評価していただけるものと思っております。 |
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目次
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00周辺環境
01外観
02introduction「マンモスがいた頃」
04マンモスのいた風景
06 2万年前の石器
※考察 出土した旧石器
07私たちの住む十勝
10十勝の夜明けと発展
20開拓の夜明けと発展
30十勝の開拓と晩成社
45大農場の出現
50十勝監獄の開庁
60十勝の自然
63平野から湿原へ
70十勝の生い立ちと先住の人々
100十勝平野の生い立ち
120日高山脈の誕生
150クジラの海
160ミツガシワの湿原
170氷河期の動物と植物
173ナウマンゾウ動物群
183北海道の火山灰分布
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200十勝の先史時代
210旧石器時代
213氷河期地形とマンモス動物群
215十勝の旧石器遺跡
※陸別町斗満の巨大尖頭器
221最古の石器群
230先土器時代後期の石器群
240先土器時代の道具
245細石刃
250黒曜石と石器
260東アジアの細石刃文化
265東と西の文化
267スポット12の石器群
270作られた石器
300縄文時代
301最古の土器
307世界最古の煮炊き
310草創期~晩期土器
340縄文時代の石器
350縄文人の食糧
※考察 狩猟漁撈の道具
353住居
357墓地
360道具 |
400続縄文~擦文時代
412続縄文の住居・墓・道具
413擦文の住居・墓・道具
415擦文の時代
421続縄文・擦文土器
431八千代A遺跡
450出土品
500アイヌ時代
501十勝のアイヌ文化
511狩と漁
515植物採集
530食器・食料・日常道具
550住居
560カムイ
570船
600近代
601松浦武四郎
603近代の十勝アイヌ
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00周辺環境 by Google map
博物館は密集した市街地にあり |
冬季水を撒きスケート場
野球場・十勝監獄油庫
帯広百年記念館 |
駐車場・百年記念館
緑が丘公園・芝生広場
児童会館・美術館 |
美術館・野草園・少年院
植村直己記念館・動物園 |
百年記念館周辺
元帯広監獄跡 |
監獄的建築の記念館 |
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01外観
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旧石器時代
※北海道にマンモス象が棲息したのは、4万5000年前から万年前頃とされている。 北海道のナウマン象は12万年前です。 |
02イントロダクション「マンモスがいた頃」
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04マンモスのいた風景
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このジオラマは、氷河期の初夏の十勝平野の景観を復元したものです。
氷が溶け、草木がやっと顔を出した頃、マンモスが湿地に落ちた様子を再現しました。
初めて十勝平野に移り住んだ人々は、厳しい自然とどのように関わっていたのでしょうか。
およそ8万年前に始まった最後の氷河期(最終氷期)は、世界的な気温の低下を招き、約2万5千年前にピークを迎えました。
この時期は、氷河の発達により海水面が今よりも低くなっていたため、北海道はサハリン、シベリアと陸続きになっていました。
このため、当時シベリア方面で暮らしていたヒトや、動物たちが、陸伝いに北海道に移住してきたこともあったと推測されています。
当時の十勝平野は、今よりも平均気温が8℃前後低く、現在のサハリン北部やアムール川周辺の気候・景観に近かったと考えられています。
The Ice age in Tokach (25,000years ago) |
マンモスのいた風景
The Ice age in Tokach (25,000years ago) |
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動物群の移動
北海道に来たマンモス動物群は、沿海州より |
マンモス動物群
ケサイ・マンモスゾウ・ヤギュウ
ウマ・ヘラジカ・トナカイ
北海道へ
マンモス動物群は絵の位置から来たのでなくもっと北にいた。絵の位置は中国大陸に南下したマンモス動物群の化石出土場所 |
本州在来動物
ハナイズミモリウシ・リウサギ
ニホンムカシジカ・イノシシ |
中国北部動物群
シカ・ヤギュウ・ナウマンゾウ・トラ
オオツノジカ・ウマ・オオヤマネコ
西日本へ
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・北海道は氷河・ハイマツの疎林
・東北地方は針葉樹林帯
・関東はブナ林と亜寒帯帯落葉広葉樹林
・瀬戸内低地に落葉広葉樹林帯が広がる
・温暖帯常緑広葉樹林はほんの一部
・西日本はブナ林か草原 |
※考察 氷河期と生物の移動
地球は8万年前から氷河期に入り、次第に棲息環境が厳しくなると極寒を避けて生物は適応環境を求めて南下した。たまたま、樺太・北海道がシベリアと陸続きの陸橋となり、その半島に迷い込んでしまった動物が北海道にやって来た。
この地峡にハマらなかった多くの生物は、沿海州を南下し、中国大陸東北部に生存環境を求めた。 |
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06 2万年前の石器
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恵庭岳が約1万8千年前に噴火したときに飛んできた火山灰の下に堆積する暗褐色の粘土層から、炉跡とともに発見されました。
見つかった石器は、おもに皮なめしに使われた道具(掻器)です。
炉跡から見つかった炭化木片は、ハイマツ類。エゾマツ類、グイマツ類と同定されました。 |
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※考察 出土した旧石器
皮なめしの道具だけが集中して出土している。動物の皮革は寒冷地には命を守る必需品。鞣しに有効な植物タンニンに漬け込むバケツも桶もなかった時代ですから、脳しょうなど身近にある物を使えず、皮から脂肪や肉を掻き取るために道具が発達したのかもしれません。 |
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07私たちの住む十勝
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私たちの住む十勝は、北海道の東部に位置し、東西110.4km南北163.3km、面積1万831㎢で、全道面積(北方四島を含む)の約14%をしめます。
この面積は岐阜県の面積に相当します。 |
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十勝平野の開拓期
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10十勝の夜明けと発展
開拓の夜明けと発展
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十勝の開拓は、明治10年代中ごろから始まり、20年代後半から本格化しました。府県から続々と流入した開拓移民はかつて経験したことのない厳しい自然に立ち向かい、その不断の努力で少しずつ生活領域を広げ、やがて、北辺の地にそれまでの日本にはない農業を生み出し、開拓地における新たな地域社会を形成していったのです。
それは、それぞれの出身地とは異なる、もう一つの文化の創造でした。
しかしこのことは同時に、先住のアイヌの人々にとって、その固有の文化を失い、急速に和人社会に組み込まれていく過程でもありました。 |
蝦夷地
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蝦夷地と呼ばれていた頃の北海道は、松前藩や江戸幕府の奉行所が置かれていた箱館など南西部と海岸線に点在する産物の交易場所意外の内陸部はほとんど未知の地でした。
幕末期になってロシア船が北海道周辺にしばしば姿を見せ始めたことから、海岸線から内陸部へと探検調査が進められ、十勝も次第にその様子が明らかになりました。 |
東西蝦夷山川地理i取調図
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江戸時代末期の探検家、松浦武四郎が1859 (安政6)年に著した28枚からなる図の十勝部分です。
数度にわたる北海道や南千島内陸部の調査をもとに、それまでの地図に比べ内陸部の、湖沼、山などのほか、特に地名が詳細に記録されています。 |
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十勝の夜明けと発展
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蝦夷地
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東西蝦夷山川地理i取調図
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千島列島 サハリン |
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11十勝の移り変わり
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明治2~明治29年
7郡51村の設定
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明治30~明治38年
帯広町の誕生 |
明治39~大正3年
8つの二級村が誕生 |
大正4~大正9年
一級町村の誕生 |
大正10~大正15年
母村からの独立 |
昭和2~使用和20年
帯広市の誕生
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昭和21~昭和27年
陸別・足寄の十勝編入
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昭和28~平成17年
町村合併で20市町村に
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20開拓の夜明けと発展
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昭和三十年頃まで使われていた道具、開拓当時の写真を展示しています。帯広の街の形成に大きな役割を果たした「十勝監獄」のコーナーもあります。
引用帯広百年記念館 常設展示 |
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21入植と開墾
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入植地に到着した移住者は、まず開墾小屋作りに取り掛かります。普通は一間の掘立小屋で、ササ、カヤ、樹皮なので屋根や壁を拭き入口にむしろを下げました。内部は、土間に続いて炉の周りに小枝、ササ、枯れ草などを重ねて居間としました。
開墾は、木を切り倒し、下草を刈り、それらを集めて焼き払い、それから開墾用のくわで手起こしました。こうした開梱作業は危険の多い重労働でした。
新開地にはまず食料を確保するために、大豆、小豆(アズキ)、キビ、アワ、トウモロコシ、ソバ、カボチャ、ジャガイモなどを蒔き付けました。 |
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23原野の開墾
開拓小屋 |
森林の伐採
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開拓小屋を建てる |
伐採と開墾 |
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24開拓移住者の暮らし
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各府県からから未開の十勝原野へ移住した人は、それまで耕す畑も狭く、日々食べ直食べつなぐのがやっとの生活をしていた人が多かったようです。
各府県では当時の北海道を未開の土地だと風評していたようです。ですから北海道への移住には強い決意が必要だったでしょう。
そして、北海道へ移り住んだ人たちにとっても、長い旅を終えて開拓小屋を作り木を切り開拓を始めるのは並大抵のことではありませんでした特に水害や冷害は移住者の生活を根本から脅かし、その上、粉雪が舞い込む開拓小屋での冬の生活は耐え難く辛いものであったといいます。 |
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25開拓民家 生活道具が揃ってきた
生活道具が揃ってきた |
伐採具・燭台・ランプ… |
炬燵・火鉢・ポンプ・洗濯桶・甕・擂鉢・石臼 |
石臼・臼・杵・御膳・羽釜・御櫃・藁いずみ |
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30十勝の開拓と晩成社
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明治になると、十勝地方は交通の要所で漁業が盛んだった海岸地域から発展し、やがて鹿を狙う漁師や商人が増えて、
中には無願開墾者(正規に土地貸し下げを出願せずに未開地を開墾すること)と呼ばれる人たちも現れました。
さらに1880年(明治13)年にはトノサマバッタが大発生し、その調査が行われる中で、十勝の内陸部が農耕、牧畜に有益なことがわかってきました。
こうした状況を背景に1883年(明治16年)年、民間開拓団体「晩成社」が十勝内陸部に初めて集団入植しました。
当時内陸には道路もなく生産物の流通どころか自給自足さえも困難な状況で日々の生活は苦難の連続でした。
しかし、必死の努力を続けて十勝開拓の先駆的な役割を果たしました。 |
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40植民地区画の変遷
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北海道庁は、十勝の開拓を本格化するため十勝川やその他の川筋を始めとする43原野、297,000haの殖民適地を選定し
一戸分を5haとして6戸分を1区画とする区画割を行い、いよいよ1896年明治29年から土地の貸付を開始しました。
この植民地解放で十勝への移民が急増しました。
移住者向けに各種の移住手引書が発行され簡易な折りたたみ式の「北海道移住手引草」もその一種でした。
広げた片面には北海道全図、渡航案内図を載せ、裏面には北海道の概況、各〇民〇、移住心得、開墾の仕方などが記されています。 |
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41
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42十勝の植民地解放と移民の流入
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45大農場の出現
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1896 (明治29)年の植民地開放で十勝への開拓民は急増しましたが、翌年には、北海道の開拓を促進させる上で民間資本の導入が必要との
考え方から個人資本家、会社などに大面積の土地を払い下げることができる北海道国有未開地処分法が成立しました。
これにより十勝も多くの大面積農場が生まれ、府県から小作人を募集したり、移民のうち自己資金のない者などを受け入れました。
これらの大農場は、地域の開拓を促進する上で大きな力となりましたが、一方では、小作料や待遇をめぐって地主と小作人の間で対立があったりしました。 |
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46二宮尊親と牛首別興復社農場
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二宮尊親は、自作農の創設を目的に1897 (明治30)年、豊頃の牛首別に興復社農場を開設し、福島県から入植者を率いて移住しました。
1902 (明治35)年には230戸を数える農場となり、これらの入植者には、営利を目的として小作人を使用した他の大農場にはみられない保護や二宮尊徳(尊親の祖父)の功徳の思想に基づく独特の農民教育を行いました。
尊親は1907 (明治40)年、事業成功の見通しをつけて福島に戻りますが、その後、大正の初期になって予定通りに入植者が自作農として独立し、豊頃町開拓の大きな礎となりました。 |
二宮尊親と関寛
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関寛は、わが国の西洋医学の先駆者の1人として活躍しましたが、晩年に至って北海道の開拓を志し、1902 (明治35)年、
72歳の高齢で徳島から陸別の斗満原野に入植しました。
彼の北海道開拓は、人々や社会、国に尽くすと言うそれまでの行き方の延長線上にあるものでした。
実際面では、同時期に豊頃で自作農の育成を目的に開拓に取り組んでいた二宮尊親と彼の興復社農場を訪ね影響を受けました。
そして、彼が82歳でこの地で亡くなった後、広大な農場の土地をその後の入植者に開放し、陸別町の開拓の礎となりました。 |
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50十勝監獄の開庁
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1895 (明治28)年の北海道集治監十勝分監(後年、十勝監獄と改称)の開庁は、市街地付近の開拓地の発展を促進する上で画期的な出来事でした。
人口はわずか300人たらずの下帯広村に、職員、囚人あわせて1500人余りの監獄ができたのです。監獄は初年度72ha、明治末年には、450haの未開地を開墾氏し大農場を築きました。
(一行判読不能)
十勝の開発発展に大きな役割を果たしました。後年、市街地拡張計画に伴い、その用地の大部分を次々に町と民間に払い下げました。 |
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53
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60十勝の自然
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ヒグマやシマフクロウなどの野生生物を、開拓期以前の自然を模したジオラマで展示し、高山から海岸の湿原へと変化する代表的な生物を紹介します。
オジロワシとカルガモの剥製が加わりました。オジロワシは翼を開くと幅2mあります。
引用帯広百年記念館 常設展示 |
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61十勝の自然
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十勝の気候は亜寒帯に属し、西を日高山脈、北を大雪山と阿寒の山々に囲まれ、そのふもとの森林地帯、開拓された平野部、海岸の湿地帯に大まかに分かれ、そこを大小の河川が流れています。
山地から山麓にかけては原生的な生物相をある程度残し、それが平野部の生物相の豊かさを支えています。
平野部では僅かに残された湿地や林に、多くの動植物が生息しています。河川や海岸の湿地は、渡り鳥の繁殖地や中継地になっており、
国際的にも重要な環境と言えるでしょう。 |
開拓前の十勝の自然
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十勝は、原生的な日高山脈、大雪山、阿寒などの山々に取り囲まれ、その雄大な自然は、精妙な生態系を作っています。
山々の豊かな森林資源は、文化、産業の発展に大きく貢献し、平野部の森林は広大な農地となり、十勝の農業を支えています。
また、山々や原野には、獣や渡り鳥のほか、いろいろな動物が生息していましたが、エゾオオカミは明治29年頃滅しました。 |
高山帯から森林帯へ
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高山帯は低木やハイマツ帯、高山植物群落、ガレ場などになっています。
ここには高山性・草原性の鳥類が分布し、代表的な哺乳類としては氷河期の生き残りと言われるナキウサギが生息しています。
トドマツ、エゾマツや広葉樹が発達した森林帯では、ヒグマを始め、哺乳類が数多く生息しています。
鳥類もクマゲラやフクロウなどの分布が豊かな自然を物語っています。
現在これらの環境は部分的には保護されています。 |
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十勝の自然 |
開拓前の十勝の自然
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高山帯から森林帯へ
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エゾナキウサギ
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エゾシマリス |
エゾヒグマ
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エゾクロテン
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エゾシカ |
シマフクロウ |
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エゾオオカミ |
エゾユキウサギ
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エゾタヌキ
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キタキツネ |
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63平野から湿原へ
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乾燥した場所ではシワ、湿った場所ではヤチダモやハルニレなどの林が発達しています。山麓の森林の動物も餌を求めてやってきます。
冬の一見荒涼とした林でも、キタキツネやエゾユキウサギなど、冬眠をしない生き物たちが活発に動きまわっています。
このような平野の森林は現在ではほとんど消滅してしまいました。
海岸地帯では現在でも湖沼や湿原が残っていて、植物群落もあり、タンチョウやガン・カモ類や草原性の鳥類の国際的に重要な生息地となっています。 |
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65十勝の野鳥
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67十勝の植物
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69十勝の蝶類
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地学
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70十勝の生い立ちと先住の人々
「先住の人々」~「十勝のアイヌ文化」
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旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の順に発掘資料や分析データを紹介しています。北海道最古の土器の実物資料や国の重要文化財である「八千代A遺跡」のコーナーもあります。引用帯広百年記念館 常設展示 |
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71 十勝の生い立ちと先住の人々
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地球の誕生は約46億年前、日高山脈が誕生したのは約1千万年前のことです。
その後、数百万年の海の時代を経て、約50万年前に十勝平野の規模や形が出来上がりました。
私たちの住む地球も十勝も想像もつかないほど長い年月をかけて今日の姿になりました。
十勝平野に人が住み始めたのはわずか3万年前のことですそれ以来、十勝の厳しくそして恵まれた自然の中で人々が生活し、今日に至っています。
この展示室は、人間が住み始める前の十勝からほんの百数十年前に、和人がこの地へ入ってくる前から生活してるアイヌの人々の時代でまでを紹介しています。 |
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73
縄文の竪穴住居
うらほろ森林公園
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発掘調査
帯広市泉町A遺跡 |
先土器時代の石器
陸別町出土
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8千年前の土器
帯広市谷地よA遺跡
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宮本遺跡全景
平成5年10月
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落とし穴の調査
帯広市宮本遺跡
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マレク(突き鈎)漁
十勝川堰堤 |
イオマンテ
(クマの霊送り)
伊藤五良治 筆 |
カムイノミ(神への祈り) |
カムイノミ(神への祈り)
伊藤五良治 筆
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チョマトー祭(帯広市西15条北2丁目)
チョマトーにて |
リムセ(舞踏) 伊藤五良治 筆
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アイヌ民俗文化祭
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80地球の歴史カレンダー |
81先カンブリア期
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83
5.0億前 古生代
三葉虫大繁殖
脊椎動物の誕生
4.0億年前 植物の上陸
3.5億年前 動物の上陸
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2.0億前 中生代
アンモナイトと
大型爬虫類の時代
6000万年前 新生代
哺乳類の時代 |
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85十勝の自然
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ベヘモトプスが生息足寄町
原始的なクジラ生息足寄
アロデスムス生息 浦幌
デスモスチルス生息 浦幌・本別 |
1,000万年前日高山脈が姿を現す
500万年前海には帆立の仲間が大繁殖
200万年前帯広・幕別・池田刃クジラが泳ぐ太平洋の内湾
100万年前十勝は広い湿原
ナウマンゾウ(忠類) |
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87十勝の先史時代
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2万年前 マンモスを追って人来る
シベリアと北海道は陸続き
1.5万年前恵庭岳噴火大量の
火山灰降灰
細石刃文化
1万年前有茎尖頭器出現 |
1万年前土器と弓矢を使用
最古のムラ
大陸から石刃鏃が広まる
縄文海進
0.5万年 落し穴猟
漆製品
色々な形の土器
続縄文 沢山の墓・農耕開始
アイヌ文化期
0.1万年 アイヌ文化栄える
現代
晩成社一行帯広へ来る |
地球の歴史を1年に例えると
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100十勝平野の生い立ち
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海の底だった十勝が陸地になり、最初の人類が来る直前の姿までを、化石や岩石などの資料を示しながら順を追って展示しました。
十勝で見られる代表的な岩石の標本です。かんらん岩は「マントル」が冷えて固まり地上に露出したものです。引用帯広百年記念館 常設展示 |
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十勝平野の生い立ちは、約1千万年前の日高山脈の誕生から始まります。
日高山脈が誕生する頃の海岸にはデスモスチルスが栄え、その後も海の時代が続いてホタテやクジラが繁栄しました。
約100万年前には十勝に厚く火砕流が堆積し、
約80万年前からは平野中央部が湿原の時代を迎えます。その後
約50万年前になると、日高山脈や石狩山地が上昇して平野には広い扇状地ができ、その扇状地を河川が浸食して多くの段丘地形が作られて来ました。
約7万年前からは氷河期を迎えることになるのです。
パネルと展示は十勝平野のたどった生い立ちの順に並んでいます。 |
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110中生代の北海道
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今から2億4千万年前から6,500万年前の地質時代を中生代と呼んでいます。
この時代の北海道には広く海が分布し、大型爬虫類が繁栄し、海にはアンモナイトが泳いでいました。
道内からは恐竜のカモノハシリュウ、海生のモササウルス、クビナガリュウ、ア○○○○○○か、○○○○プテラノドンの化石が出土しています。
その他にモノチス、トリゴニア、イノセラムスといった二枚貝も生息していました。 |
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111
十勝平野の生い立ち |
中生代の北海道
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昔小学校の恐竜図鑑で見た絵だ |
最後のアンモナイト?
大量絶滅直前の地層
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中生代の北海道 |
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113海の底だった十勝
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イノセラムス |
アンモナイト |
アンモナイト類 |
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アンモナイト類 |
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アンモナイト類 |
アンモナイト類 |
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115
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アンモナイト中川町佐久平たい殻を持ち中央部分はからの内部に隠れている。表面装飾は細かい条線が多い |
アンモナイト
幅の広い殻を持つ大型の種類 |
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イノセラムス |
アンモナイト三笠市幾春別桂沢
小型が多い。中心部は巻いているが外側の巻きがほどけている。
羽幌町
クリップのような巻き方をしている。殻と殻の間に隙間がある |
アンモナイト
三笠幾春別桂沢
中くらいの厚みがあり、巻き方が密で中心部の渦巻が隠れている |
アンモナイト |
アンモナイト |
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120日高山脈の誕生
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121
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日高山脈の誕生 |
日高山脈の東西断面 |
日高山脈の誕生 |
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123日高山脈の石
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125
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130デスモスチルスとホタテの海
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日高山脈が誕生したころの十勝は、まだ、ほとんどが海でした。当時の海岸であった本別や浦幌には、デスモスチルス(哺乳生物)が生息していましたが、
この名前は、臼歯が、束ねた(デスモス)柱(スチルス)のように見えることから名付けられました。デスモスチルスの祖先にあたる、ヘベモトプスの化石も発見されています。・・・後タカハシホタテをはじめとする・・・そくのホタテ貝が繁栄しました。 |
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131
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デスモスチルスとホタテの海 |
ヘベモトプス頭骨
足寄町 |
ヘベモトプス臼歯
足寄町 |
ヘベモトプスは
草食性・海洋哺乳類
束柱目デスモスチルス類
デスモスチルスの祖先 |
デスモスチルス臼歯
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デスモスチルスの骨格復元図 |
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132デスモスチルス頭骨 樺太敷香町気屯
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尻尾を切り落としたワニに似た哺乳動物。海岸付近に住んでいた。 |
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デスモスチルス頭骨 |
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デスモスチルス臼歯
本別町本別沢 |
sta |
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133十勝各地の石
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135木の葉化石
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140デスモスチルス 2800万~1300万年前
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150クジラの海 約150万年前(更新世前期)
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約150万年前(更新世前期)になると、海は全体として狭まり、大樹(町)付近を入口にして内部で広がる湾(古十勝湾)になりました。
この海にはザトウクジラにイワシクジラ、サメ、イルカ、セイウチ、アシカなどの動物が生息していました。
また、二枚貝や巻貝、アメーバの仲間である有孔虫の化石も多数産出しています。
これらの化石を含んだ海の地層を長流枝内層(おさるしないそう)とよんでいます。 |
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151
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153貝化石
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155
クジラ椎骨 |
ホタテガイ |
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160ミツガシワの湿原 約100万年前
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約100万年前には、大火砕流が発生して平野北部に厚い堆積物を残しています。
そして、約80万年前になると、平野中央部には釧路湿原の6倍にも匹敵する大きな湿原が広がりました。
渋山層と呼ばれる当時の地層には、冷帯地域に分布するミツガシワという水草の種子化石が多数含まれています。また、
カキやイガイの貝化石を含む地層が部分的に含まれ、湿原に一時期、海水が進入したことを示しています。 |
ミツガシワの湿原 |
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大雪山沼ノ原 |
釧路湿原 |
昆虫化石 |
ミツガシワ |
ミツガシワの湿原 |
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170氷河期の動物と植物
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ナウマンゾウが去った後の約7万年前になると、十勝にも寒い氷河期が訪れました。
当時の十勝には、マンモスやナキウサギが生息し、ヤチカンバやケショウヤナギが広く自生していたと思われます。
えりもで発見されたマンモスの臼歯2個の年代は、約2万2千年前のものでした。この年代は十勝における最古の遺跡年代とほぼ一致しており、
当時のヒトがマンモスハンターであった可能性をうかがわせています。 |
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171
氷河期の動物と植物 |
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氷河期の動物と植物 |
ナウマンゾウとオオツノジカ |
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ナキウサギ |
ヤチカンバ |
ケショウヤナギ |
ウスバキチヨウ |
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173ナウマンゾウ動物群
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174ナウマン象の臼歯
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175
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176ナウマンゾウの牙
牙
忠類村 |
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177ヘラジカの角
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マンモス動物群の一種。北方系動物で現在はシカ類の中で最大。試料は1984年に中国黒龍江省伊春市で捕獲されたヘラジカの角。 |
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180氷河周辺の出来事
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日高山脈の山頂付近に発達した氷河は、岩盤を削り取ってカールというくぼんだ地形をつくりました。このカールは、今でも中札内や芽室※から眺望することができます。また、この時期に降った支笏火山灰や恵庭火山灰は、当時の寒冷乾燥気味のもとで、一時期、平野を砂漠の状態に変えてしまいました。
十勝坊主に永久凍土
1万年前以降の完新世になってからも、寒さが原因で十勝坊主や永久凍土がつくられました。
※北海道の聞き間違えやすい地名。根室と芽室、標津と士別、江差と枝幸など、、、 |
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181
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氷河周辺の出来事 |
日高山脈のカール
(氷河地形)
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砂丘(複合砂丘※) |
十勝坊主 |
永久凍土 |
氷河周辺の出来事
上に記述 |
十勝坊主に永久凍土
上に記述 |
砂丘の種類
日本の海岸砂丘を見ると、古砂丘の上を新砂丘が直接おおっているものがある。
津軽砂丘が典型的なので津軽型と呼ばれた。鳥取砂丘はこの例である。
完新世になってからの砂丘は、
上下に重なってできたもの(累積型)
横並びにできたもの(並列型)
これらの二つが複合したもの(複合型)がある。
引用「砂丘のひみつ」(砂丘の内部構造) |
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183北海道の火山灰分布
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北海道の火山灰分布
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十勝平野は
礫層の上に、支笏火山灰が不整合面で堆積し、
その上に恵庭火山灰が砂丘砂となって堆積している。
最上部は砂丘となった。 |
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184北海道の火山灰分布
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185十勝平野を砂漠にした火山灰
十勝平野を砂漠にした火山灰 |
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支笏第1火山灰
Spfa-1
带広市上似平
現在の支笏湖が噴出源で、約3万8~9千年前、南部十勝に厚く堆積した。
当時は寒冷乾燥気候の氷河期だったこともあって、
植物の生育が回復せず、この火山灰によって数千年間、 砂漠の状態がつづいた。
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恵庭a火山灰(白砂)
En-a
帯広市下川西
現在の恵庭岳が噴出源で、約1万8千年前に堆積し、その後しばらくの間、帯広付近を砂漠にした火山灰。 野外では軽石の白い色がよく目立つので、”白砂”と呼 ばれる。
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恵庭a火山灰(砂丘砂)
En-a
帯広市下川西
この火山灰は下位の“白砂”が風化したもの。 約1万8千年前以降しばらくの間、 帯広付近が砂漠であった 頃の砂丘砂である。 |
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186十勝平野の火山灰層
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200十勝の先史時代
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十勝平野で人が生活し始めるのは、今から約3万年前のことのようです。
この頃は氷河期の最寒冷期で、北海道は大陸と陸続きになっていました。
十勝の最初の住人は、マンモスなどの動物を追って、ここへ渡ってきた人たちだと考えられてきました。
こののち、十勝平野の厳しく、そして恵まれた自然環境の中で人々は生活を続けていました。
そのような人たちの暮らしぶりを、各地で発見されている遺跡と、そこから発掘された出土品を通して考え、今後の私たちの進む道を見直してみましょう。 |
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201剥ぎ取り土層(若葉の森遺跡)
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202剥ぎ取り土層 (若葉の森遺跡)
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樽前b火山灰
樽前山1667年噴火火山灰
アイヌ文化-縄文晩期の遺物が見つかる土層
樽前c火山灰
樽前山約3千年前噴火の火山灰 |
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樽前c火山灰
樽前山約3千年前噴火の火山灰
縄文時代の遺物が見つかる土層 |
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樽前d火山灰
樽前山約8千年前噴火火山灰
土器作りが始まった頃の遺物が見つかる土層 |
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後期旧石器時代後半期の遺物が見つかる土層
恵庭a火山灰
恵庭岳約1.8万年前噴火火山灰 |
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後期旧石器時代前半期の遺物が見つかる土層
粘土層
この土から遺物は見つからない |
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203帯広市若葉の森遺跡の地層
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この展示は、 若葉の森遺跡(帯広市西17条南6丁目)の平成14年度発掘調査区 から剥ぎ取った地層の断 面です。 |
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210旧石器時代
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日本の旧石器時代は、一般には土器の出現以前の時代とされます。現在のところ、日本列島で確実な人類活動の痕跡(遺跡)が見つかるのは、およそ4万年前以降(後期旧石器時代)のことです。この時代は、最終氷期(約8万~1万年前)と呼ばれる寒冷な時期に相当し、とくに2万5000年前頃からは、もっとも寒冷な時期(最寒冷期)に入りました。
北海道(十勝)での人類の足跡は、約3万年前からみられるようになり、2万年前以後には多くの遺跡が残されるようになります。 最寒冷期の十勝は、年平均気温が現在よりも7~9℃低かったとされています。日高山脈には氷河が発達、平野部はハイマツやグイマツ、エゾマツなどのまばらな林と草原が広がっており、マンモスやステップバイソン、トナカイなど草原性の大・中型動物群の生息に適した環境だったと考えられます。
この時期に北海道で生活していた人びとは、海水面の低下で陸続きになっていたシベリア方面から渡って来たと推測されます。当時の人びとは定住せず、群れで移動する大・中型動物の狩りをしながら生活していたものと考えられます。
1万5000年前以降は急激な温暖化が地球規模ですすみ、地形や植生・動物相に大きな変化をもたらせました。この温暖化を背景に、十勝に土器文化をもった集団が進出し、旧石器時代の終わりを迎えたようです。 引用発掘された十勝の遺跡 |
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※十勝の旧石器時代遺跡
若葉の森遺跡
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最古の石器群 ~帯広市若葉の森遺跡
帯広市若葉の森遺跡から出土した石器群は、今のところ、北海道で最も古いグループのもので、放射性炭素年代測定では約3万年前とされています。 この石器群は、形の整っていない小型の剥片に簡単な加工が施された石器を特徴としています。
同じタイプの石器群は、遠軽町白滝、石狩低地帯、渡島半島など道内各地に広がりを見せます。この特徴は、ほぼ同じ年代の本州東北~北陸地方に類例があることから、本州島からの集団によってもたらされた可能性があります。
若葉の森遺跡の発掘調査では、恵庭a火山灰(約2万年前降下)の下層から9,700点ほどの黒曜石製の石器やこれを作ったときの剥片(カケラ)などが出土しました。石器と同じ地層から見つかった焼土の放射性炭素年代が2万8000~3万2000年前と測定されました。 出土した石器の特徴は、音更川の下流で採集したと思われる握りこぶし大の黒曜石の円礫を打ち割って小型の石器を作っていることです。剥片が接合して元の礫の状態まで復元できたものもあり、当時の石器作りの方法が明らかとなりました。 この遺跡を残した人たちは、採集した黒曜石の原石をそのまま遺跡に持ち込んで、石器作りをしていたのです。 引用発掘された十勝の遺跡 |
川西C遺跡
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マンモスがいたころ ◆石刃・礫器・顔料~帯広市川西C遺跡
帯広市川西C遺跡からは、およそ2万5000年前の石器群が出土しました。当時は最終氷期のなかでも、とくに寒さの厳しい時期に相当します。調査では12ヵ所の石器が集中した地点(スポット)が確認され、この中央に火を焚いたあとが残されたスポットもありました。
出土した石器は、石刃(せきじん)と呼ばれる形の整った縦長の剥片を指標とする石器群です。この遺跡では1本の石刃を折って削器や彫器など複数の石器を製作する特徴がみられます。遺跡内では石刃を製作した痕跡が見られないことから、他の場所から石刃を持ち込み、ここで分割して石器を作っていたものと思われます。 礫器(れっき)と呼ばれる礫の一端を打ち欠いて刃部とした石器がまとまって出土したのも特徴です。これは砂岩やアプライトなどの河原石を持ち込んで作られており、重さ600gの小型品から2㎏を超す大型品まであります。この石器は動物の骨など固いものを叩き割るために使われたのではないかと推測しています。
このほかに、肉眼で赤色や黒色と認識できる顔料の素が多量に出土しました。赤色顔料が付着した礫もあります。原料は鉄やマンガンを含む鉱物で、平らな石の上ですりつぶして顔料にしたものと考えられます。 この遺跡を残した人たちは、出土した遺物の特徴から北方地域に系譜が求められるようです。 引用発掘された十勝の遺跡 |
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211旧石器の時代(~1.1万年前)
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土器が使われる以前の時代を旧石器時代と呼んでいます。
十勝で発見されている最も古い遺跡は、今から3万数千年前のものです。
当時は氷河期のうちでも最も寒かったころで、海面は今よりも100m以上も低下し、北海道はシベリアと陸続きになっていました。
その頃大陸からマンモスなどの動物を追って来た人たちが、十勝に最初に住み着いた人だったのかも知れません。
彼らは、狩とわずかな植物の採集で生活し、獲物を求めて移動しながら暮らしていたと考えられ、この頃の遺跡が各地から見つかっています。 |
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旧石器の時代
(~1.1万年前) |
マンモスハンターの生活
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213氷河期の地形とマンモス動物群の移動
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215十勝の旧石器遺跡
陸別町斗満出土
大型石器 |
こんなでかくて重い尖頭器でマンモスやシカに挑んだのだろうか。それとも上から急所めがけて落としたのだろうか。
いえいえ、これは、原石から余分なものを削り落とし、そのうえ、尖頭器型に加工した、石器製造原石です。
このようなかたちで原石として流通したようです。白滝の博物館で同様のものが登場します。 |
※陸別町斗満遺跡
斗満遺跡からは、 神子柴系石器群らしき石器が出土しているようです。
北海道における神子柴系石器群の存在性 (PDF文書)
陸別町・斗満台地遺跡(明石1973)出土の石器群に、. 神子柴系石器群との共通性があると思われることから、. 俎上にのせる。 これらの神子柴系と関連付けられる ...
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220旧石器 |
221最古の石器群 (約22,000~18,00年前) 更別村勢雄遺跡
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最古の石器群
約2.2~1.8万年前
更別村勢雄遺跡
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これは、台形石器に礫石器なのかな? |
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清水町共栄3遺跡 上川郡清水町字羽帯
帯広市空港南A遺跡 帯広市泉町
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この遺跡は、帯広空港整備事業中の昭和56年に、地元の考古学愛好家によって発見されました。昭和57年には遺跡の範囲を明らかにするための試掘調査と、農道整備のための発掘調査が行われ、旧石器時代の大規模な遺跡であることがわかりました。
調査では、石刃石器群(2万年以上前)、細石刃石器群(2万〜1万5千年前)、有茎尖頭器石器群(1万5千〜1万2千年前)が層位的に見つかり、複数の文化層が良好な状態で残っている貴重な遺跡であることが明らかになりました。
遺跡は、「周知の埋蔵文化財包蔵地」として保存・保護の対象となっています。出土した遺物は帯広百年記念館に収蔵・展示されています。引用案内板 |
帯広市神以平遺跡(下層)
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230先土器時代後期の石器群 (約18,000~9,000年前) |
231帯広市神以平遺跡(上層)
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232帯広市暁遺跡 第4地点
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◆細石刃石器群~帯広市暁遺跡
帯広市暁遺跡は、多量の細石刃(さいせきじん)やこれの製作に関連する石器が多く出土することで、全国的にも著名な遺跡です。 細石刃は、幅数㎜~1㎝前後の細長いカミソリの刃のような石器で、これを複数、骨などで作った軸の側縁に埋め込んで槍などに使われました。この石器は刃こぼれが生じても、その部分だけを新しい細石刃に取り替えて使うことができるという、たいへん効率的な道具でした。起源はシベリア方面に求められるようで、およそ2万4000年前に北海道に出現し、2万年前以降には道内各地で細石刃を出土する遺跡が急増します。さらに、この数千年後には本州へ波及したようです。 なお、細石刃を出土する遺跡・地点は道内で約300、十勝では46ヵ所が確認されています。 暁遺跡の細石刃は、幅が8㎜~12㎜前後の幅広タイプと5㎜前後の細身のタイプがあり、前者のほとんどは帯広から直線距離で100㎞以上も離れた、遠軽町白滝から産出する黒曜石を素材としています。 なお、次の時期に現れる大型の両面調整石器も多くは白滝産の黒曜石が用いられています。白滝産地の黒曜石は良質で量も豊富です。このため、旧石器時代には道内はもとよりサハリンの遺跡まで運ばれていました。このことは、製作する石器に合わせて石材の産地が選定されていることや、石材の広域流通ネットワークの確立がうかがわれます。引用発掘された十勝の遺跡 |
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233帯広市暁遺跡 第1地点
帯広市暁遺跡 第1地点 |
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234帯広市大空遺跡
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235帯広市落合遺跡
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236清水町羽帯(はおび)
清水町羽帯
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240先土器時代の道具 |
241
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石槍・石刃・掻器 |
石槍
槍先に装着 |
石刃
これだけでも刃物になるしこれを素材にいろいろな石器を作れる |
掻器
皮なめし、脂を削ぎ落す |
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243
削器、彫器 |
削器
切ったり削ったり |
彫器
彫刻刀のような刃を持つ |
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245細石刃
細石刃と細石刃核 |
細石刃
木や骨の軸にハメ込んでナイフや槍とする |
細石刃の使い方
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246細石刃核
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細石刃核
札滑型(ブランク※) 細石刃を剥がす母材。技法によって幾つかのタイプに分かれる。 |
忍路子型 |
幌加型 |
峠下型 |
札骨型 |
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※ブランクとは両面加工石器のこと。両面加工石器とは両面調整石器のこと。用途は未分化であり,おそらく万能な道具として,切る,削る,掘るなどに用いられたものとみられるが,限定できないことから,両面調整石器…という。引用コトバンク |
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250黒曜石と石器 |
251
道内産黒曜石出土遺跡
黒曜石の流通経路 |
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黒曜石出土の主な遺跡 |
道内産黒曜石出土遺跡
1:サハリン州 ソコル
2:名寄市 日進2
3:旭川市 嵐山2
4:北見市 広郷8
5:北見市 北上台地
6:上士幌町 居辺16 |
7:清水町 共栄3
8:帯広市 暁
9:帯広市 落合
10:帯広市 上似平
11:帯広市 空港南A
12:富良野市 東麓郷2 |
13:富良野市 東麓郷1
14:千歳市 祝梅三角山
15:今金町 美利河1
16:知内町 湯の里4
17:木古内町 新道4
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日本列島の黒曜石原産地
日本列島の
黒曜石原産地 |
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北海道
1:白滝、 幌加沢
2:十勝三股
3:置戶
4:赤井川
49:名寄
50:近文台
51:滝川
55:美蔓
56:豊泉 |
青森県
5:出来島
6:深浦
52:折腰内
57:戶門
58:鶴ケ坂
岩手県
8:雫石
9:折居
10:花泉
宮城県
11:湯倉
12:塩釜
山形県
13:月山 |
栃木県
16:高原山
東京都
22:神津島
神奈川県
17:箱根·笛塚
18:箱根·畑宿
19:鍛治屋
静岡県
20:上多賀
21:柏峠西 |
秋田県
7:男鹿
新潟県
54:佐渡
14:板山
15:大白川
富山県
59:魚津
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長野県
23霧ケ峰
男女倉
和田峠
24:麦草峠
石川県
53:比那
福井県
47:安島
48:三里山 |
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隠岐地域
25:加茂
26:津井
27:久見
28:福浦
姫島地域
29:観音崎
30:両瀬
31:稲積
32:オイ崎
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壱岐地域
34:久喜ノ辻
35:君ケ浦
36:角川
37:貝畑
長崎県
38:松浦
40淀姬
41:中町、古里
42:大崎 |
佐賀県
39:腰岳
大分県
33:塚潮
熊本県
43:冠ケ岳
鹿児島県
44:出水
45:竜ケ水
46:長谷 |
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253ストーンロード
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黒曜石(十勝石)は火山活動でできる天然ガラスで、割っただけで鋭い刃ができ、加工もしやすいことから、旧石器時代から石器の材料として大切にされてきました。
黒曜石は道内では遠軽町、置戸町、赤井川村、上士幌町(十勝三股)が4大産地として知られています。
近年の分析で、
道南の遺跡から十勝三股産の黒曜石で作られた石器が見つかったり、
サハリンやシベリア極東地域から道内産の黒曜石製の石器が出土していることが明らかとなり、
旧石器時代の広範囲な人と物の移動経路(ストーン・ロード)が明らかになりつつあります。 |
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ストーン・ロード |
石器を作る
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1. 原石を割る
ナイフや槍などの石器は、 母岩 (原石)を割って作った石のカケラ (剝片) を加工して作られます。
2.剥片をつくる
剝片は石やシカのつのなどで原石を直接たたく方法や、 たがねをハンマーでたたく方法などで作られます。
石はななめに割れる性質があるので、たたく面 (打面) に対してななめにたたきます。
3.剝片から石器をつくる
剥片から石器をつくることを二次加工といいます。
剥片のへりをたたくと、 たたいたところの裏側が薄くはがれるように割れます。 この作業を繰り返して色々な形の石器を作ります。
二次加工には、つのや石のハンマーで直接剥片のへりをたたく方法、石に押しつける方法、先 のとがったつのや木で押しつけるようにする方法などがあります。 |
1原石を割る |
1. 原石を割る
ナイフや槍などの石器は、 母岩 (原石)を割って作った石のカケラ (剝片) を加工して作られます。 |
2剥片を作る
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2.剥片をつくる
剝片は石やシカのつのなどで原石を直接たたく方法や、 たがねをハンマーでたたく方法などで作られます。
石はななめに割れる性質があるので、たたく面 (打面) に対してななめにたたきます。 |
3剥片から石器を作る |
3.剝片から石器をつくる
剥片から石器をつくることを二次加工といいます。
剥片のへりをたたくと、 たたいたところの裏側が薄くはがれるように割れます。 この作業を繰り返して色々な形の石器を作ります。
二次加工には、➀つのや石のハンマーで直接剥片のへりをたたく方法、②石に押しつける方法、③先 のとがったつのや木で押しつけるようにする方法などがあります。 |
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255黒曜石と剥片
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257北海道産黒曜石
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260東アジアの細石刃文化
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261石器作り工場(暁遺跡)
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暁遺跡で石器を作る |
暁遺跡スポット12の
石器分布 |
石器ブロックの分布 |
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263暁遺跡群 帯広市西8条南12丁目1 1万6000年前 後期旧石器時代終末期
暁遺跡は細石刃製作工房
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帯広市西8条南12丁目付近にある暁遺跡は、昭和34年に地元の中学生によって発見され、昭和36年から6回の発掘調査が行われています。
暁遺跡の初期の調査では、縄文時代早期の古い土器が出土する遺跡として注目されましたが、
その後の調査で、さらに下の層から、たくさんの石器や、これを作ったときのかけら(剥片)、石器の材料となった石核が発掘され、
旧石器時代の大きな遺跡(石器製作遺跡)として注目されるようになりました。
発掘調査で出土した石器の広がりをを見ると、特に密集する範囲が22カ所ありました。これはスポットと呼ばれ、
ここを中心に石器作りが行われていたことを物語っています。
今からおよそ16,000年前、この辺りは、旧石器時代の人々が、各地から石を持ち込んで細石刃を始めとするいろいろな石器を作った作業場だったようです。 |
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265東と西の文化
サハリン経由の石器群
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サハリン経由の石器群
ハバロフスク
ソコル
白滝
暁
荒屋 |
後の黒曜石細石刃の製作では、
宗谷岬西回りと東廻りでは、基本的に全く別系統の制作技術だと言われています。
この時代にも少し系統が分かれていますね。 |
朝鮮半島経由の石器群
黄河文化センター経由の石器群。全く別物になった。
下川
馬陵山
晩達里
石壮里 |
関東の石器は最も古い原始的な石器です
泉福寺
法恩寺 |
関東は北からも西からも遠く離れた文化の僻地。
むしろ南からの海洋漂流民の文化が最も近いのかもしれない。 |
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267スポット12の石器群(※スポットとは石器ブロックのことらしい。石器ブロック毎に別のものを作っていたらしく、spot12は細石刃工房らしい。)
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暁遺跡ではスポットと呼ばれる石器などが集中した範囲が22カ所あります。このうち、スポット12 は南北15×東西17mの広さで、大きさや出土した遺物の量などはこの遺跡では最大規模のものです。
見つかった遺物は、ステージに展示した細石刃、削器、彫器など6種類の石器、細石刃を剥がした母材(石核)、剥片など5700点に登ります。
このうち細石刃が約1900点もあり、ここのスポットでは、細石刃を大量に作っていたようです。
石器の材料は黒曜石がほとんどで、白滝産や置戸産のものが多く用いられています。また、彫器や掻器には頁岩製のものが多く見られるのも特徴的です。
※スポット=石器ブロック=石器集中区:石器製作場所跡 |
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スポット12の石器群 |
第1地点全景 |
土が堆積した様子 |
調査風景 |
石器の出土 |
石器の出土 |
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270作られた石器 |
271細石刃
spot12の細石刃 |
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1900点も出土した細石刃。これはほんの一部。
黒曜石節約のための細石刃をこんなにたくさん作ってどうする。 |
しかも、いろいろなサイズが出来ている。
細石刃ソケットの刃の交換にはいろんなサイズの替刃が必要だった。 |
って、ことは、替刃屋さんだったのか。
だから多種多様な替刃があるんだな。 |
細石刃ソケットには色々なサイズがあり、使い分けがされていたのかも知れない。 |
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273剥片石器
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300縄文時代
縄文の時代(約1万4千年前~約2千5百年前)
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十勝で土器が使われるようになったのは、今からおよそ14,000年前のことです。
氷河期も終わり、気候や植生が現在とほぼ同じになった、
9000年ほど前には、狩りや猟、植物性食料の採集や加工が盛んに行われ、数軒の竪穴住居で構成される集落も作られるようになりました。
約7000年前にはさらに温暖な気候となり、これによって、食料資源も豊富になり、生活も安定したようです。
約4000年前には寒冷な時期を迎えますが、豊かな自然を背景にした豊富な食料と、技術の進歩により、およそ1万年に及ぶ縄文文化が栄えました。 |
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縄文の時代 |
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縄文草創期の発見
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301最古の土器 大正3遺跡 1万4000年前 北海道帯広市大正町東3線
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大正3遺跡は帯広市街地の南約15km、十勝川の一支流である途別川左岸の低位段丘上に立地する遺跡です。
平成15年(2003)に発掘調査が行われ、本州の縄文時代草創期に相当する時期の土器や石器などが9000点以上出土しました。
土器文化が始まった頃の資料がこれだけまとまって発見されたのは、北海道では初めてのことです。
土器や石器は、主に段丘の辺縁に沿った南北50m×東西5mほどの帯状の範囲に分布していました。
発見した状況から、当時は河原に近い状態だったと考えられます。
年代については、土器の内面に付着した炭化物を測定したところ、12,000~12,500年前(較正値14000年前)と言う結果が示されました。
草創期に相当する遺跡が北海道東部の内陸部で確認された事は、同様な文化が北海道の広い範囲に及んでいたことを期待させますが、そ
れだけではなく、日本列島の土器文化の始まりや広がりを考える上でも極めて重要な資料として注目されます。
※測定年代を暦年較正すると約1万4千年前になります。 |
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302大正3遺跡
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303土器の分布
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土器の分布 |
丸底先尖り、
爪形文土器 |
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※全ての土器が乳房状。先端が壊れずに乳房状であるのは、どんな使い方をしていたのでしょう。
ディンプルの爪形刺突文の理由は何だろう。
熱効率が向上したのかなぁ。 |
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304石器の分布
石器の分布 |
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※石器集中区ごとに製作石器が異なる。
神子柴型石器、尖頭器もあるようだ。
大平山元遺跡出土の尖頭器も似てるようだ。 |
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307土器で煮炊き世界最古 (2013年(平成25)4月11日付北海道新聞の記事)
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帯広市大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4千年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、日欧研究チームが10日付の英科学雑誌ネイチャー電子版に発表した。
土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川を遡ったサケ・マス類の可能性があるという。
この研究はオランダ・フローニンゲン大のピーター・ジョーダン博士らが、土器は狩猟採集時代にアジアから欧州に伝わったとみて行っている調査の一環。
中国江西省の洞窟遺跡では、世界最古の2万~1万9千年前の土器片が見つかっている。
チームのメンバーで新潟県立歴史博物館の西田泰民専門研究員は「縄文土器はドングリの煮炊きに使われたイメージが強いが、海産物も多く料理されていたらしいことは意外だった」と話している。研究成果は土器の普及過程や当時の食生活を探る手がかりになると期待されいる。
チームは大正3遺跡のほか、久保寺南(新潟県十日町市、草創期遺跡)や星光山荘B(長野県信濃町)、鳥浜貝塚(福井県若狭町)、三角山1遺跡(鹿児島県中種子町)など13遺跡の縄文土器片約100個について、煮炊きで焦げたとみられるかすを分析した。
炭素や窒素の同位体を調べた結果、大正3のカスからは、海産物の脂肪酸が見つかった。
また、メンバーで若狭民俗資料館の鯵本真友美主任によると
、鳥浜の1万2500~1万1500年前のかすからは川や湖、海の生物のほか、シカのような草食動物の脂肪酸が見つかった。
大正3遺跡は高規格幹線道路「帯広広尾自動車道」建設の事前調査として、帯広市教委が2002~04年に発掘調査した帯広市大正地地区の大正遺跡群の一つ。03年7~11月に発掘を行い、土器片444点、石器約9千点が出土した。
土器片は爪跡が着いた爪形文が特徴で、その後の放射性炭素年代測定により、道内最古の1万4千年前のものと確認された。復元土器は帯広百年記念館で展示されている。
食生活を知る重要発見
大正遺跡群の発掘調査に関わった北沢実・帯広百年記念館館長の話
遺跡が十勝川の支流、途別川沿いにあるため、当時の人々が川を遡ったサケ・マス類を食べたかもしれないと漠然と考えていたが、
その可能性が実際に示されたのは大きな成果だ。
約1万4千年前は温暖化した時代で、人々が本州から渡ってきたのではないか。当時の暮らしぶりはよくわかっておらず、食生活を知る重要な知見が得られた。 |
土器で煮炊き
世界最古 |
土器で煮炊き世界最古
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縄文期の1万4千年前
日欧チーム発表サケマスか |
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30英国電子版に発表された記事
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翻訳は、翻訳ソフト (笑) |
翻訳ソフトで意味が通じるか(大笑)
でも、高度に進化した自動翻訳です |
310以降に日本語解説があり、対比するとおもしろい |
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Japanese archaeology now
2-2. Taisho No. 3 Site
Obihiro Centennial City Museum
The first incipient Jömon site discovered in Hokkaido
Taisho No. 3 is located in the southern portion of the Tokachi plain, atop a terrace overlooking the Tobetsu river in the eastern part of Hokkaido. Excavation was conducted in 2003, and artifacts and features of the Jomon period were found, starting with artifacts from the Incipient Jömon the first discovery of a site dating from the Incipient Jomon in Hokkaido.
The more than 9,000 artifacts of the Incipient Jómon were recovered from
a stratum of loam deposited directly on top of a gravel layer in the terrace.
Approximately 400 potsherds were recovered, an amount thought to represent
more than ten individual vessels. Of these, it is possible to reconstruct
the vessel shape for about five items. It appears that all had nipple-like
projections at the bottom. The designs include cord impressions and puncture
marks of various types including tsumegatamon, and some also have raised
belts applied to thesurface.
Reconstructed tsumegatamon pottery
A vessel approximately 6 mm in thickness, with a nipple-like protrusion on its bottom. The design of puncture marks, made by the potter's fingernail (c), is continuously applied horizontally across the entire surface, except for the bottom. |
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日本の考古学の現在
2-2. 大正3号遺跡
帯広百年記念館
北海道初の縄文遺跡発見
大正 遺跡は十勝平野の南部、北海道東部の当別川を望む段丘上に位置します。
2003年に発掘調査が行われ、北海道で初めて縄文初期の遺物や遺跡が発見されました。
縄文初期の 9,000 点を超える遺物は、段丘の砂利層の上に直接堆積したローム層から発見されました。
約 400 個の陶器の破片が回収され、その量は 10 個以上の容器に相当すると考えられます。
このうち5点程度については復元が可能です。 どうやらどれも底に乳首のような突起があったようだ。 爪形文をはじめとする各種の紐痕や刺突痕がデザインされ、表面に帯状のベルトが施されたものもあります。
復元爪形文土器
厚さ約6mmの容器で、底部に乳首のような突起がある。 陶芸の爪による刺し跡の模様(c)が、底面を除く全面に水平に連続して施されています。 |
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Recovered sherds of tsumegatamon pottery
Visible among the fingernail impressions comprising the tsumegatamon design
are items shaped like grains of rice, triangular and lunar crescent shapes,
and items consisting of two oblique short lines in the shape of the Chinese
character for "eight(八 ). More frequent than the reconstructed example
in the photograph above, which has tsumegatamon executed over its entire
surface, are examples shown at right in which the upper and lower portions
of the vessel bear different designs. While elements in common may be discerned
for individual examples with styles known from Honshu, taken as a whole
the Hokkaido pottery can be said to have a strongly independent flavor. |
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回収された爪形文土器の破片
爪形文を構成する爪痕の中には、米粒のような形をしたもの、三角形や月の三日月形のもの、「八」の字をかたどった二本の斜めの短い線からなるものが見られます。
上写真の全面に爪型文を施した復元例よりも、右のような器の上下で異なる意匠を施した例が多く見られます。 本州で知られる作風と個々の作風には共通点も見られますが、全体として見ると北海道焼は独立した味わいが強いと言えます。 |
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Large numbers of Incipient Jōmon stone tools recovered
Stone tools number about 8,600 items, including flakes, with obsidian being the main material, and small amounts of andesite also used. The composition of stone tools includes points and spatulate tools, bifacially retouched tools, burins, end scrapers and side scrapers, awls, grooved flakes, and so forth, with small points and spatulate tools being characteristic.
縄文初期の石器が多数発掘される
石器は薄片を含めて約8,600点あり、主な材質は黒曜石で、少量の安山岩も使われています。 石器の構成としては、尖頭・ヘラ状石器、両面修正石器、彫刻器、エンドスクレーパー・サイドスクレーパー、石錐、溝付薄片等があり、小さなポイントとヘラ状のツールが特徴的である。
Stone arrowpoints recovered with thepottery
Obsidian is the main material, but small amounts of andesite were also used. Items clearly made from stone blades, such as tanged points and microliths, were not found. Item at far left is 5.5 cm in length.
土器と共に回収された石の矢尻
主な材料は黒曜石ですが、少量の安山岩も使用されています。 尖った先端や小石など、明らかに石の刃で作られたものは発見されなかった。 一番左の石鏃は長さ5.5cmです。
Excavation in progress
Pottery and stone tools were recovered in large numbers at about 40 cm below the modern surface.
発掘中
現在の地表から約40センチメートルの地下からは土器や石器が大量に発見された。
14C dating to ca 12,000 BP
AMS radiocarbon dating of carbonized matter adhering to the inner surfaces of the
pots indicates an age of 12,500-12,000 BP. The current investigation proves the
existence of Incipient Jōmon sites in the interior of eastern Hokkaido, providing data noteworthy for rethinking the beginning of the Jomon period. (Kitazawa Minoru, Yamahara Toshiro)
炭素14年代測定 紀元前約 12,000 年頃
内面に付着した炭化物のAMS放射性炭素年代測定
土器は 12,500 ~ 12,000 BP の年齢を示します。 現在の調査がこれを証明しています
北海道東部内陸部における縄文初期遺跡の存在は、縄文時代の始まりを再考する上で注目すべきデータを提供しています。(北沢実、山原敏郎)
Adapted from Hakkutsu sareta Nihon retto 2006 [Excavations in the Japanese Archipelago, 2006]
(Bunkacho (Agency for Cultural Affairs), ed, Asahi Shimbunsha, 2006).
『発掘された日本列島2006』より翻案 [日本列島発掘調査, 2006]
(文化庁編、朝日新聞社、2006)
WAC-8 KYOTO 2016
Translated by the Japanese Archaeological Association
WAC-8京都2016 日本考古学協会訳 |
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310大正3遺跡の道具 |
311土器
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土器の破片は約400点出土しており、12~15個体分と考えられます。
大きさは高さ10cm程度の湯のみ茶碗大の物から、高さ20cm程度のものまであります。
いずれの土器も底は丸く、中央には乳房状の小さな突起が1つ付けられているようです。
文様は爪形を含む多種の刺突文や押圧文があり、上端近くに粘土の帯を貼り付けたものもあります。
爪形文には米粒形、三角形、三日月形、「八」の字形が見られます。
ほかに、櫛目文や三角形の押圧文様が縦に2個もしくは3個並ぶものも見られます。
個別には本州の草創期に見られる隆起線文土器や爪形文土器と共通する要素も伺えますが、全体的には独自色の濃い土器といえます。 |
世界最古の煮炊きの土器
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313石器
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剥片類を含めると8600点以上出土しています。石器の失敗品や石屑などが多量にあることから、石器作りがここで集中的に行われていたことが伺えます。
石器石材
石器や剥片は黒曜石(十勝石)製のものがほとんどですが、安山岩製のものも少量あります。
黒曜石は原産地分析の結果から、十勝のほかに置戸や赤井川産地のものが含まれているようです。
石器種類
石器は大小の尖頭器、へら形石器、両面調整石器、彫器、掻器、削器、錐、抉り入り剥片などで構成されますが、小型の尖頭器やヘラ形石器に特徴があります。
このうち、小型の尖頭器は大きさや形が石鏃(矢尻)によく似ていますので、この頃には、弓矢を使った狩が始まっていたのかもしれません。 |
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掻器
剥片の縁に刃が作られた石器。主に皮なめしと推測される。 |
錐
剥片の一部に尖った先端が作られた石器。 |
抉り入り剥片
棒状道具の加工に使用されたと推測される
※矢柄削りか? |
両面調整石器
特定の名称が付けられていない、両面に加工された石器の総称。 |
彫器
剥片の縁辺に細長い面が作られた石器。主に骨や角の加工に使用されたと推測される。 |
尖頭器
先端が尖るように加工された石器。矢や槍の先としての使用が推測される。 |
へら形石器
皮なめし等の用途が推測される。 |
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縄文早期以降の土器
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330土器
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縄文土器の時代
土器とは、粘土を焼いて作った器のことで、土器を作ることで、食べ物を煮炊きしたり、貯蔵することが容易になりました。
土器は、時期や地域によって形や文様が変化し、時代を決める大きな手がかりとなります。
十勝で最も古い約14,000年前の土器は、表面に爪でつけたような文様があり、底はおっぱいのような形をしています。
9000年前には、底が平らな土器が作られるようになり、後半になると、形が浅い鉢や、注ぎ口のついたものなどが現れ、文様も多様になります。 |
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331 8000年前
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約8千年前の土器
「暁式」と呼ばれる道東地域を中心に分布武する平底土器。底面にホタテ貝の痕がついている。帯広市八千代C遺跡 |
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332 7000年前
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約7千年前の土器
平底で、表面に文様はない。2つの穴は補修孔。大樹町大樹遺跡 |
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約7千年前の土器
薄手の平底で、表面に植物質の工具でこすった跡があるのが特徴。帯広市八千代A遺跡 |
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333 6500-6000年前
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約6500年前の土器
細い粘土紐の貼り付けと、細かな縄文が特徴。清水町共栄3遺跡 |
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約6000年前の土器
厚手で植物繊維や小さな石を含む。底が丸く、表面に太い縄文が突くのが特徴。帯広市八千代A遺跡
※胎土に植物繊維(スサ)を混ぜるのは、東北地方の土器の特徴だが、北部東北人がやって来たのだろうか。 |
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335 5000年前
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約5000年前の土器
平底で、表面には縄文が付けらる。口の下には「つば」状の貼付がある。帯広市若葉の森遺跡 |
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約5000年前の土器
口の下にヘラ状工具で横線が引かれている。帯広市宮本遺跡 |
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336 4000年前
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約4000年前の土器
表面全体に縄文が付けられ、口の下には押し引きの文様がある。 帯広市宮本遺跡 |
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約4000年前の土器
表面全体に縄文施文し、口の上には縄を押し付けた文様がある。帯広若葉の森遺跡 |
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約4000年前の土器
表面全体に縄文の施文。口の下には押し引きの文様がある。帯広市川西C遺跡 |
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337 3500年前
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約3500年前の土器
口の部分が厚く作られ、2段の刺突文様がある。大樹町生花苗 |
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338 2500年前
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約2500年前の土器
薄手で、駒かな縄文が付けられている。この土器は墓から副葬品として出土した。幕別町札内K遺跡 |
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339 2300年前
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約2300年前の土器
大型の「甕形土器」。この土器はすっぽりと土中に埋められた状態で出土した。音更町相生1遺跡 |
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340縄文時代の石器
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縄文時代は石器の最も発達した時代で、用途に応じた多くの種類の石器が作られるようになりました。
特に、この時代になると弓矢が発明され、矢の先端につける石鏃(矢尻)がたくさん作られます。
また、石斧など石を磨いて石器を作る技術が発達したり、擦石や石皿などなど植物食の食料を加工するための道具が増加するのも特徴です。
縄文時代には石器のほかに、動物の骨や角を加工した骨角器や木を加工した木器などの道具や、ペンダントなどの装身具も作られていました。 |
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341狩りと漁の道具
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343石器
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砥石
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石錐
掻器
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345切る・削る道具
切る・削る道具 |
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石斧 |
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削器 |
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つまみ付きナイフ
または石匙 |
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つまみ付きナイフは
削器にツマミが
付いたものです |
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347植物質食料を加工する道具
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350縄文人の生活
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351十勝で出土した縄文人の食料
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十勝で出土した縄文人の食料
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オジロワシ
モズ
アカハラ |
ヒグマ
エゾシカ
ウサギ |
サケ
チョウザメ
イトウ
サクラマス
ウグイ |
ミズナラ
オニグルミ
キハダ |
※考察 狩猟漁撈の道具
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鳥類の捕獲には、大形鳥類は一羽ずつ仕留めるとしても、多くの場合、鳥用の矢が使用された。
先端には石鏃、矢柄の中央部にかえし(後ろ向きの鉤)が付いた矢を群れに打ち上げ、はずれても落ちてくる矢柄がかえしに接触した鳥を捉えるように工夫した。
ヒグマ猟は主に春山で、熊穴に入口に棒を何本も立てて、出られなくしておいて、弓矢や槍で仕留めた。
ウサギは、後にワラダと呼ばれる、ウサギの周囲に投げて猛禽類の羽音に偽せ、動きを止めたところを弓で狙った。雪山での、大変な早業が勝負だった。
回遊魚は川を遡上したところに魚道を設けて引き込み、マレクで捕獲した。
小魚は仕掛け網漁や、追い込み漁で、張っておいた網を利用して捕獲する。
植物の採集や、果実の拾い集めには、人海戦術と、襲撃してくるクマとの攻防だったでしょう。女の仕事植物採集は、同様にそれを食べ物とする熊と競合し、きっと危険な目に遭うことが多かったのではないでしょうか。
はっきり言って、狩猟は時の運。男が山に行けば、大形動物がわんさか獲れるわけではなく、食糧獲得のカギは植物採集にかかっていたのではないでしょうか。 |
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食べる
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縄文時代の人々の食生活は、獣の狩り、植物質のものや貝類の採取川や海の漁などに頼ったものでした。
十勝の縄文時代の遺跡からはエゾシカ、ヒグマ、ウサギ、タヌキなどの獣やワシ類、アカハラなどの鳥、サケ、マス、イトウ、チョウザメなどの魚、
クルミやドングリなどの木の実が見つかっています。
彼らはこれ以外にも身近な動物や魚、木の実や野草などを食料とし、どちらかと言うと植物質のものにウェイトが置かれていたようです。 |
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353住む
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縄文人の住まいは「竪穴式住居」と呼ばれる、地面に穴を掘って床を作り、柱を立て、カヤやヨシ、、木の皮やササなどで屋根を拭いた住居でした。
住居の大きさは直径4~5m位のものが普通サイズで、中央に煮炊きや明かり、暖房用の炉が作られているものが多く見られます。
このような家が数件集まって一つつの村を作っていたと考えられています。 |
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355使う
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縄文時代の道具は土器、石器や骨角器、様々な用途に使われた木製品などがあります。
これらの道具は長い年月のうちに、工夫や改良が重ねられ、用途に応じて使いやすく、効率の良いものが作れるようになりました。
彼らの道具と現在私たちが使っている道具を比べてみると図のようになります。 |
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土器、石鏃・石槍
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ナイフ・削器、石斧
石錐、石のみ、擦石・石皿
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使う |
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357葬る
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縄文人のお墓は地面に穴を掘って遺体を安置し、穴の中や周囲に副葬品を置いて、土をかけて埋めたものが(土壙墓)一般的でした。
お墓は直径1mほどの円形や長円形で、遺体は膝を抱えるような形(屈葬)で埋葬されています。
特殊な例としてお墓の上に石がたくさん置かれたもの(集石墓)、土器が埋められたもの(埋設土器)が十勝で見つかっています。 |
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359
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360道具 使う と 葬る |
361物を加工する道具
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物を加工する道具
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ナイフ 石錘 |
石斧
縦斧と横斧
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擦石 |
擦石と石皿 |
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363墓の副葬品(約2500年前) 帯広市八千代A遺跡 (出土状況の写真パネルは見当たらなかった。)
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365 6000年前のお墓
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芽室町の小林遺跡で見つかった縄文時代前期のお墓の模型です。
床面にはベンガラ(赤色顔料)が敷かれ、頭の横に玦状耳飾りが2点重なって出土しました。 ※当時の貴人の墓か、シャマンの墓でしょうか。 |
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400続縄文時代 (約2500~約1200年前)
擦文時代 (約1200~約800年前)
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410続縄文の時代 約2500~約1200年前(縄文晩期~鎌倉時代)
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約2500年前、九州北部に大陸から稲作とともに鉄器や青銅器などが伝わり、急速に日本中に広がり、弥生時代が始まります。
しかし北海道では、わずかな金属器は使われましたが、縄文時代と同様に、狩りや漁、採集を基盤とした生活が続き、土器にも縄目の文様(縄紋)が残ることから、この時代を続縄文時代と呼びます。
この時代、北海道では稲作は行われませんでしたが、西南部の地方では蕎麦などの栽培が行われたようです。 |
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411
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412続縄文の住居・墓・道具
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413擦文の住居・墓・道具
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415擦文の時代
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8~12世紀、北海道は擦文時代になります。擦文と言う呼び名は土器の表面にあるハケで擦ったような文様からつけられました。
この時代は土器の形や、竪穴住居の構造が本州のものと類似し、石器はほとんど姿を消し、鉄器が使われました。
生活は狩や漁、採集が中心でしたが、農耕も行われ、十勝でもキビやオオムギ、鉄製の農耕具が発見されています。
この擦文文化を母体として、次のアイヌ文化が成立したと考えられています。 |
擦文文化 |
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北海道の遺跡から出土した栽培植物
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ソハ
゙キビ
オオムギ
アワ
ヒエ
ウリ
リョクトウ
ホオズキ |
モロコシ
コメ
コムギ
アサゴオヒ
アズキ
ベニバナ
シソ |
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縄文・続縄文時代の
農耕
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擦文・オホーツク文化の
農耕
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420土器 |
421続縄文・擦文土器
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続縄文土器
約2000~1600年前
浦幌町十勝太若月遺跡 |
続縄文土器
約2200~1800年前
足寄町上利別遺跡 |
続縄文土器
約2000~1800年前
浦幌町十勝太若月遺跡 |
擦文土器
約1200~900年前
帯広市南6線遺跡 |
擦文土器
約1200~900年前
帯広市南6線遺跡 |
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425
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紡錘車
浦幌町十勝太古川遺跡 |
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フイゴの羽口
浦幌町十勝太古川遺跡
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擦文土器
約900~700年前 浦幌町十勝太古川遺跡
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西暦1100~1300年頃
鎌倉初期~末期 |
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430 |
431八千代A遺跡 巨大集落
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433八千代A遺跡ノ竪穴住居群
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450重要文化財
北海道八千代A遺跡出土品(帯広市) |
451
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八千代A遺跡は、帯広市街地の南西約30km、日高山脈の麓にある遺跡です。
昭和60 (1985)年から発掘調査が4ヵ年行われ、縄文時代早期の竪穴住居址が105棟見つかりました。
このうちの103棟は 暁式土器が作られた9000年前頃の住居跡であり、北海道東部で最初期の大規模な集落遺跡であることが明らかになりました。
土器や石器、装身具などの出土品は、この地域で定住的な暮らしを始めた頃の様子を解明する上で、極めて重要な試料です。
そのことが費用化され、平成30(2018)年、住居跡の出土品のうち580点が国の重要文化財に指定されました。 |
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452
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動物型土製品
クマだ。9千年前に |
熊信仰があったのか!? |
石製装身具
縄文文化最古級
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453
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454
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455
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磨製刃器
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初めて見た刃器
脂掻き取り器か
皮なめしかな |
磨製石斧
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磨製石斧 |
磨製石斧未成品 |
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←石鋸で切断中 |
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456
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すり石・たたき石 |
台石
すり石・たたき石
石器作りの道具かな |
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460八千代A遺跡の土器 9000年前 脚注なし
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※暁式土器。
特徴は底部が平底でホタテガイの圧痕文もしくは、ホタテの貝殻上で土器製作した。
胴部は、無文、条痕文、絡条体圧痕文、刺突文などが見られる。
土器は住居跡から出土した。 |
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461
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463
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465
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500アイヌ時代
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十勝のアイヌ文化のコーナーでは、伝統的な民具などの資料を展示しています。狩猟採取、加工、交易、宗教観などを紹介します。引用帯広百年記念館 常設展示 |
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501十勝のアイヌ文化
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アイヌ民族はかつて北海道を始めサハリン、千島、本州東北地方の大自然の中で狩りや漁、植物採集を中心とした生活を営んでいました。
十勝でも十勝川を始めとする河川に沿って多くのコタン(集落)が形成され、先住民として独自の文化を築き上げてきました。
このように自然と共に生きていたアイヌ民族も..和人による開拓が進み、時代が移り変わっていく中で日本の社会に組み込まれていき、
今では伝統的な生活を続ける人はいなくなりました。
しかし、現在、民族としての伝統と誇りを受け継ぎ、文化を後世に伝承していく様々な活動が、多くの人たちの手によって各で盛んに行われています。 |
アイヌのチャシ
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チャシは一般に「砦」と呼ばれていますが、アイヌ語では「柵」を意味します。
その起源や由来は明らかにされていませんが、16~18世紀に作られたと考えられています。
十勝にも陸別のユクエピラチャシ、芽室の国見山チャシなど多くのチャシが発見されていますが、いずれも詳しい事は不明です。
なお、その役割については、戦闘的な砦としてよりも祭礼の場、チャランケ(談判)の場などであったとも考えられています。 |
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アイヌのチャシ |
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帯広近郊のチャシ
鳥瞰図 |
十勝に分布する
チャシコツ(砦跡) |
チャシでの集会 |
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510 |
511狩と漁
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山猟は主に秋から春にかけて行われ、エゾシカ・ヒグマ・キタキツネ・エゾユキウサギなどの獣類やエゾライチヨウ、マガモなどの鳥類が捕獲されました。
猟では主にトリカブトの毒を用いた弓矢が使われましたが、このほか仕掛け弓などの様々な罠も用いられました。
十勝川や歴舟川などの河川とその支流に沿って多くのコタンがあった十勝地方では、川漁が盛んに行われ、サケ・マス・イトウ・ウグイなど多くの魚をとっていました。また、海岸近くのコタンではタラやカレイなどの海漁が行われていました。 |
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狩と漁
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マレク
突き鈎 |
マレク漁 |
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弓
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矢
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川漁の様子 |
山猟の様子 |
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マレク(先端部)
突き鉤
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ペラアイ
漁撈用矢
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512アマッポ(仕掛け弓)
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シカやクマ、キツネなどを捕るために用いられる罠の一種。本体から伸びた糸を獲物引っ掛けると矢が飛び出すような仕掛けになっています。
動物の通り道に仕掛けますが人間が掛かる恐れもあったので近くには仕掛けてあることを示す目印がつけられていました。
かつては十勝でも多く使用され、幕末から明治にかけて北海道を探検した松浦武四郎家や松本十郎もその様子を記録に残しています。 |
仕掛け弓 |
仕掛け弓 |
仕掛け弓 |
仕掛け弓 |
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熊皮製小物入れ
狩猟に使う |
鹿笛
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鹿笛による鹿猟 |
ほぐち入れ・火打石・火打ち金 |
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マレクによるサケ漁 |
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キテ回転離頭銛
大型魚・海獣猟 |
キテ漁
実写 |
オットセイ猟
描画 |
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515植物採集
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アイヌの人々は食用や薬用になる植物を数百種類も知っていたと言われ、春から秋にかけて、様々な植物を採集していました。
十勝では春から夏にかけて、ニリンソウ・ギョウジャニンニク・フキ・ヒメザゼンソウなどの葉茎、カタクリ・エゾエンゴサク・ウバユリなどの根茎が採集されました。
夏から秋にかけてはヤマブドウ・クルミ・キハダ・ヒシ・ヤブマメなどの果実やコウライナンテンショウの根茎、キノコなどを採集していました。 |
植物採集
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貝包丁(ピパ)
穂摘み具
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編み袋
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編み袋 |
編み袋
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まな板
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箕みぃ |
樹皮製容器
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まな板 |
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山刀タシロ |
ガマ製カバン |
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520食用植物
コタン (集落) |
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ギョウジャニンニク
ウバユリ
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ニリンソウ
ヨモギ
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ヒメザゼンソウ
コウライテンナンショウ |
フキ ヤブマメ |
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530食器・食料 |
531料理のメニュー
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日常の食事の中で最も基本的な料理だったのがオハウとサヨです。
オハは魚や鳥獣肉、骨などを季節の山菜とともに鍋に入れ、塩で薄く味付けし、獣魚油を入れた鍋ものです。
サヨはヒエ・アワ・イナキビなどの穀物にウバユリの繊維やギョウジャニンニクなどを入れたお粥です。
このほか、サケの頭刻んで山菜や白子と混ぜたチタタプ、冬期間、外に出しておいたイモをつぶして団子にし、焼いて油や筋子をつけて食べるムニニモなど季節の素材を生かした料理もたくさん作られました。 |
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料理のメニュー
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魚の鍋もの
イクラ入りおかゆ
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しゃくし
樺皮製水汲みひしゃく
だんごべら
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草製かご 草製皿
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筋子つぶし皿 |
食事用木製器 |
マキリ(小刀) |
乾燥保存食
ギョウジャニンニク
ヨモギ
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コウライテンナンショウ
キハダの実
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クルミ ヒシの実 |
エゾエンゴサク
ヤブマメ
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ウバユリ澱粉
食用、薬用
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タバコ入れ
木製キセル
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脂入れ クヨイ
膀胱製
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椀・箸・匙 |
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533ウバユリ澱粉
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鱗茎を剥がして洗浄 |
突き潰して1週間発酵させる
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ザルで濾して繊維質と澱粉を分離する
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繊維質はドーナッツ状にして乾燥する
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澱粉を木綿袋で濾して
1番粉・2番粉に分離 |
袋から1番粉が出て
袋内に2番粉が残る |
ウバユリ繊維の保存食 |
ウバユリの採集
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535衣服
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かつてアイヌの人々は、獣や魚のなめし皮、木や草の繊維で織った布、あるいは交易で入手した木綿などで着物を作っていました。
十勝ではこうした素材で獣皮衣、樹皮衣、木綿衣が作られていました。
獣皮衣は主に冬期間の防寒用で、シカやイヌなどの毛皮が利用されていました。
樹皮以はアットウシといい、、オヒョウやシナノキの繊維で作られました。
木綿衣には刺繍だけを施した着物と、黒や紺の細い布を切り伏せし、その上に刺繍を施した着物がありました。 |
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衣服
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靭皮衣アットゥシ |
前掛け |
アットゥシ |
刀帯
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537アットゥシ(靭皮衣)
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アットゥシはアイヌの人々の伝統的な衣服で、おもにオヒョウニレという木の内皮繊維を織って反物を作り、それを仕立てたものです。
春先にオヒョウニレの内皮を剥いで沼や川、温泉などに浸けます。すると皮が薄く剥がれてくるので、それを分けて干し、、その後、細く割いて糸をつくります。これをはた織機にかけて反物を作り、さらに着物に仕立て上げ、それに切り伏せや刺繍をしてようやくアットゥシと言う衣服が出来上がります。
こうした衣服作りは女性の仕事で、完成したアットゥシは、まさに女性の手工芸技術の粋を集めたものでした。 |
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アットゥシ(靭皮衣) |
アットゥシ製作 |
アットゥシ布
オヒョウダモ製布 |
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製作工程 |
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540履物
チェプケリ(サケ皮製靴)
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アイヌの人たちはサケの皮を使って冬用の靴をつくりました。
鮭の皮をはいで干し、それを縫い合わせで作りますが、丈の短い靴だと4から6枚ぐらいで一足作ることができます。
作るときには靴底に背びれが来るようにします。これは滑り止めになります。
はくときには、シナノキやイラクサの繊維で編んだ靴下を履き、さらに保温材として靴の中に干した特別な草を入れていました。
このサケ皮製の靴は、丈夫で、軽くて、しかも暖かく、多くの地方で作られていました。 |
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鹿の腱
糸巻、糸玉 |
葡萄蔓製わらじ |
チェプケリ(サケ皮製靴) |
鮭皮製靴 |
堅雪用かんじき |
軟雪用かんじき
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靴下、夏用脚絆 |
手甲
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550住居 |
551住居
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アイヌの人々の住居は「チセ」と呼ばれ、骨組みの木や屋根・壁など家を構成するすべての素材は自然の中から得ていました。
十勝では、骨組みの木はハシドイやヤチダモ、壁や屋根の材料には主にヨシが用いられていました。
チセの内部は四角形の一間で中央に炉が切られ、窓は入り口から入って正面に1カ所と右側(または左側) に1~2ヵ所開いていました。
この中でも特に正面の窓は神様が出入りする窓と言われ、とても大切にされました。
こうしたチセの大きさは、十勝では大きものでも幅6m、奥行き9m程度だったと言われています。 |
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住居
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御座ゴザ(チタルペ) |
帯広伏古コタン住居 |
住居内部 |
帯広伏古コタン付属施設 |
たいまつ
先端にタイマツを挟む |
儀式用矢筒
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火ばさみ・灰ならし |
木製箱
※食品保存用 |
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552漆器
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漆器
漆器類はアイヌの人たちが作ったものではなく、おもに交易や漁場での労働などによって和人からもたらされたものです。
アイヌの人たちはこのような漆器類を宝物として扱い、おもに儀式のときに使っていました。たとえば、行器は作ったお酒を入れる容器、片口や湯桶はお酒を
そそぐ容器、それに天目台と椀は神にお酒を捧げる道具として儀式のときに使われました。 |
パスイとイナウ
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パスイは人間の祈りの言葉を神のもとに伝える信仰用具の一種です。
ノリウツギやイチイなどの木で作られ、表面には様々な彫刻が施されています。
祈りを捧げる際に、先端に酒をつけて祈り言葉を唱えると神の元へ行き、言葉を伝えてくれると考えられていました。
イナウはヤナギやミズキで作られ、いくつかの形態があります。これも信仰用具の一種で、人間の祈りの言葉を神のもとへ伝えててくれる役割をします。 |
漆器
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パスイとイナウ |
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漆器 |
坏・棒酒箸 ガマ製小敷物
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イタ(膳) |
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行器 |
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560カムイ
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561カムイ(神)
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アイヌの人々は動植物を始め、火や雷などの自然現象、それに災害や病気などの自然界の様々な事柄にカムイ(神)の存在を認めていました。
人々の生活は常にこのカムイと共にあり、安定した生活を営めるのも、また災害に会うのも全てはカムイとの関係によるものと考えていました。
そして、生活の糧となる自然の恵みもまた、カムイからもたらされるものであり、その恵に対する感謝として人々は神に祈りを捧げました。 |
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カムイノミ
神々への祈り
大正10年 |
イナウ
削りかけ |
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562イオマンテ(クマの霊送り)
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クマは毛皮と肉をお土産に神の国から人間の世界に遊びに下りてきたクマの神の化身した姿でした。人々は遊びに来たクマの神をもてなし、その後肉体と魂を分けて神の本体である魂を再び神の国へ送り帰す儀式をおこないました。こうした儀式のうち、山で捕ったクマを送る場合はオプニカといい、仔熊を飼育してから送る場合をイオマンテと言います。どちらも神の再来を願う儀式で、クマのほかにもキツネやシマフクロウなどさまざまの動物が送りの対象となりました。 |
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563イオマンテ
チロスアイ(花矢)
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イオマンテ(熊の霊を送り)の時に儀式の中でクマの神に射る矢。この矢は熊の神のお土産になると考えられていて、50本から60本作られます。
先端には彫刻が施された木がついていて、矢が当たっても刺さる事はありません。この文様は、村や個人によって異なっていたようで、様々な種類があります。 |
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564生から死まで
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子供が生まれるとすぐには名前を付けず、ある程度成長して性格がはっきりしてきたら、その子供に適した名前を付けました。
13歳前後になると、男子は儀式への参加、狩や漁の手伝いなどが認められ、
女子は女性用の守り紐を付け、刺青を施すなど、大人になる準備が始まりました。
こうして17歳前後になると一人前の大人として認められ、結婚が許されるようになりました。
人がその一使用を終えると、魂はあの世へ行き、この世と同じような生活をすると考えられていました。
このため、葬儀ではあの世へ行っても困らないように、様々な生活用具とともに葬りました。 |
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串刺し遊び
子供用弓矢
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貝製下駄(遊具) |
ゆりかご
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おんぶ紐
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おんぶ紐
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男性用墓標
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死者用脚絆
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ムックル(口琴)
マウスハープに属するアイヌ民族の伝統的な楽器。
ネマガリダケやノリウツギで作られていたといわれ、地方によってはムックリと呼ばれています。
十勝地方では「クマとイヌの戦い」、「ウマのひずめ音」「川の流れ」など曲に名が付けられて伝承されていることもあります。 |
口琴
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口琴と額にかけるおんぶ紐は、人類がAfricaから持ち出した道具です。
世界中に分布します。 |
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トンコリ(五弦琴)
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主にサハリンアイヌが使用した楽器の一種。胴体はエゾマツやイチイ、ホオノキなどで作られ、弦はイラクサや鹿の腱が利用されています。
トンコリには魂が宿っていると考えられていて、部分の名称も人間の体に置き換えられた名前が付けられています。
演奏曲には自然界の音をまねたものや、動物の鳴き声を曲にしたもの、子守歌の伴奏曲など様々な曲があります。 |
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570船 |
571イタオマチプ(板綴り舟)
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イタオマチプ(板綴り舟)は名前の通り、丸木舟の側面に板を綴って貼り付けた舟で、主に外洋船として用いられ、メカジキ、海獣などの海漁や
交易品の運搬などに使用されました。
この絵は村上貞助がまとめた『蝦夷嶋図説(蝦夷生計図説)』にみられるイタオマチプです。
この絵の説明には、広尾あたりを境に東と西で舟の形態に変化がみられることが記述されています。
このことから、広尾を中心とする十勝の海岸線でもイタオマチプが様々に利用されていたことが推測されます。 |
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ウイマムチプ |
こぎ舟 |
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ナムシャムイタの図
舟の飾り |
トムシの図(舟の飾り) |
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573板綴舟の各部名称は「綴る」をご覧ください。
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575
帆
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飾り木鈴 |
おもて板(ナムシャムイタ)
飾り木鈴(トムシ) |
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飾り木鈴 |
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600近代 |
601松浦武四郎
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「松浦武四郎北海道国郡検討図」
写真の地図は松浦武四郎が明治政府に対して国郡名やその領域を提案するために作ったものです。
1859(安政6)年に刊行した「東西蝦夷山 川地理取調図」を一枚に張り合わせ、これに境界線を引き、注釈を付けています。
明治政府は武四郎のこの提案をもとに、1869(明治2)年、北海道に11国86郡を置きました。
所蔵先 北海道ホテル (帯広市) 地図寸法 縦2.4m×横3.6m |
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松浦武四郎
松浦武四郎は幕末に北海道を探検し、多くの記録を残しました。
十勝には1845(弘化2)年から1858(安政5)年にかけて4回訪れていますが、特に1858年の2回の探検では、十勝川や歴舟川筋を中心に十勝の内陸を回り、 自然のようすやアイヌの人びとの生活のようすを見聞して「十勝日誌」や「東蝦夷日誌」 などにまとめました。
また、アイヌの人たちと親交を深め、場所請負制のもとで和人にしいたげられていたアイヌの人たちのようすを記録に残しています。
明治になると開拓判官に任命され、明治政府に「北海道」の名称や国郡名とその領域を提案するなど、北海道の基礎作りに活躍しました。 |
松浦武四郎 |
十勝日誌
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603
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近代の十勝アイヌ
明治にはいり十勝の開拓が進んでいく半面、アイヌの人びとの生活は困難を極めていきました。言葉や風俗習慣は和人化され、自然の恵みであったサケやシカは自由な捕獲が禁止されました。
明治政府は強制的にアイヌの人びとを十勝川や利別川近くの開墾地に集めて農業をおこなわせようとしましたが、 成果は上がらずアイヌ民族に対する差別と偏見が助長されてきました。
こうしたなかで、しだいに民族の自立活動が盛んになり、伏根弘三や吉田菊太郎といった人びとが活躍し、アイヌ民族の自立や文化の伝承活動が進められていきました。 |
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十勝のアイヌ文化伝承活動
明治以降、同化政策が進められながらもアイヌ民族の文化は決して消え去ることなく、人びとの間に伝えられてきました。
帯広では1957(昭和32)年に古式舞踊の伝承活動をおこなう帯広カムイトーウポポ保存会が設立されました。
現在ではその活動が認められ、 帯広市指定文化財や国の重要無形民俗文化財に指定されています。
その後、上士幌町や幕別町などにもアイヌ文化の伝承活動をおこなう団体が設立されていきました。
さらに、1993(平成5)年には帯広でアイヌ語教室が開講し、アイヌ語やアイヌ文化の伝承活動が活発におこなわれています。 |
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近代の十勝アイヌ
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池田町で行われているカムイエロキ祭 |
アイヌ民族文化祭 |
十勝アイヌの文化伝承活動
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605十勝アイヌ分布と人口動態
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十勝アイヌ関係年表 |
コタンの分布と人口の推移
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安政2年トカチ場所
アイヌ聚落見取図
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明治4年十勝国十勝河東中川上川四郡
静岡藩支配管内
アイヌ聚落見取図
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610軟弱地盤
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帯広百年記念館は都市のど真ん中にある。周囲には住宅やビルが並んでいる。この駐車場のひび割れは手抜き工事の結果ではない。
北海道の平野部ができたのは随分新しく、つい最近まで海水に浸かっていたのだ。しかし、私の住んでいる地域も1万年前は縄文海進の海面下だった。
日高の旧ユースホステルで聞いた話だが、海岸段丘の日高は競走馬の生産が主産業で、調教のために毎朝牧場に作った馬場(トラック)を走らせるのだが、
何頭もの馬が走るとそばに建っている住居が揺れるという。「軟弱地盤ですね」というと、泥炭層だという。北海道の多くの地盤が泥炭層でできており、
建物が傾いたり、沈んだりするという。
十勝平野のような、東西圧力(本州の東西圧力とは違うメカニズム)によって隆起した日高山脈の形成に伴って、河川が侵食し運び続けた土砂の堆積によって形成された地域の平地でも、かつての泥炭層が下にあり、本州では 考えられないような地盤の沈み込みが起こるという。
まるで永久凍土の上に建てられた家屋のように、地盤の流失や建物荷重による建物の沈下が起こる。これはとても顕著な例だ。
つまり、周囲のビルや住宅もこのような被害を受けているものと思われます。
通常、大きな建物を建てるときには固い地盤まで杭を打ち込んで、地盤の安定を確保してから工事をしますが、この辺りでは、打ち込んでも固い地盤に到達しないそうです。私の近所でも、小学校の建設にアンカーを打っても固い地盤に到達せず、大地震が起こった時には建物が沈み込んで倒れる恐れがある校舎を建てたと聞いています。そして実際に窓が開かなくなったり、ひび割れが走ったりメンテナンスが大変だそうです。
ここでは、帯広じゅう、北海道じゅうの建物が大なり小なりこんな感じらしい。 |
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