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 北部九州の縄文 6  2020.11.12-1

  糸島市立新町遺跡展示館   福岡県糸島市志摩新町71-1
  電話番号はありません  月休・撮影可

交通 レンタカー
  特徴   支石墓群展示館
近隣の観光施設 観光マップ
 




00支石墓とは
01糸島市の文化財と観光

03新町遺跡展示館外観
05新町支石墓群説明板
11ごあいさつ
 新町遺跡とその周辺
 御床松原遺跡
 新町遺跡が語るもの

13館内全景
 大陸との交わり
  -貨泉・半両銭-
 人骨に隠された謎
 人類の財産
 古代の志摩

15展示
 24号墓の人骨
 支石墓とは
 発掘調査の風景
23 24号墓の人骨 木棺墓


25支石墓とは
27 20号墓 甕棺墓
29墓域復元図
33支石墓
 

 00支石墓とは
 古い墓型式にdolmen(ドルメン、支石墓)、menhil(メンヒル、立石、モノリス、メガリス)、stone circle(ストーンサークル、環状列石)があり、記念物である。
墓壙の上に支え石を置き、その上に巨石をテーブル状に置いて記念物とする墓型式です。
 新石器時代末から鉄器時代初期の巨石墳墓の一つ。 中国の東北地方東南部から朝鮮半島北部に分布し、日本では縄文時代後期から彌生時代前・中期に九州北部を中心にこの種の遺跡がみられる。コトバンク支石墓
 九州の支石墓の分布
 ただし、少なくとも、糸島市の新町遺跡における被葬者人骨は、縄文系の人々でした。
 
 

 01糸島市の文化財と観光
糸島市周辺の都市と湾 糸島市の
古代交易港と博物館
糸島市の観光
芥屋ビーチ
姫島
伊都国歴史博物館
姉子の浜 鳴き砂
加茂ゆらりんこ橋
観光つり橋
雷山千如大悲院
白糸の滝
 03新町遺跡展示館外観

周囲は田んぼだらけなので、発掘すれば

沢山の支石墓が出土するはず。ただし

上の蓋石は捨てられ
(礎石などに転用か)

支石と土坑が残存か

 05説明板
 国史跡 新町支石墓群
 新町支石墓群は、糸島半島の中央部にそびえる別名「糸島富士」で名高い可也山の西側、引津湾に面した海岸砂丘上に位置しています。
 昭和57年度の第1次調査以来、遺跡の範囲内容の確認のため、これまで数回にわたり発掘調査が行われています。
 このうち第1次調査では、57基以上の弥生時代早・前期(約2400年前)の支石墓を主体とする墓域が明らかになり、加えて全国でも例の少ない縄文〜弥生時代移行期の埋葬人骨が出土したことから、大きな注目を集めました。

 支石墓とは、通称「ドルメン」と呼ばれ、大きな上石を数個の支石でテーブル状に支える形態をなした墓のことです。
我が国の支石墓は、朝鮮半島南部に起源のある「基盤形」と呼ばれるタイプで、西北九州の稲作開始期の遺跡だけに分布が限られる希少なものです。
新町支石墓群からの出土人骨は、低顔・低身長風習的抜歯痕があり、諸特徴は縄文人に共通する要素を持っていることがわかりました。

このことから、それまで考えられていた「弥生文化=渡来人の文化」というイメージが覆され、弥生文化は、渡来系の先進文化と縄文時代以来の在地的要素の融合によって成立したという新たな見方がなされるようになったのです。

また、磨製石鏃が刺さった状態で埋葬された男性人骨が発見され、弥生時代初期から戦闘があったこともわかりました。
弥生文化の成立状況と、その時期の社会を知るうえで、極めて重要な遺跡であり、支石墓を含めた墳墓群は平成12年に国史跡に指定、
出土遺物は隣接する御床松原遺跡出土の古代中国銭「貨泉」や「半両銭」と共に平成15年に福岡県の有形文化財に指定されています。

大陸文化の需要地となった引津湾 支石墓 24号墓の人骨 国史跡
新町支石墓群
新町支石墓群
第1次調査地点全景
子供用甕棺墓 御床松原遺跡・新町支石墓群出土中国銭
 

 11ごあいさつ
 ここ新町遺跡は(中略)弥生早期・前期の支石墓を含む墳墓群が57基も発見されています。また、墳墓群はこの土地だけでなく、周囲に広がっていることも確認されました。その時代の遺構も豊富で、縄文時代の貝塚から古墳時代の箱式石棺墓群、中世の墳墓群島の資料がここ新町に今も眠っています。(後略)

ごあいさつ

 新町遺跡とその周辺
 新町遺跡は引津湾に面した砂丘上に位置しています。この遺跡の支石墓の源流は、遠く朝鮮半島や中国大陸に求めることができます。
また、南側には「貨泉」・「半両銭」の出土で著名な御床松原遺跡があり、この一帯が、古代の対外交渉の重要な場所であったことを示しています。
 唐津市の菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡を含め、玄界灘に面したこの周辺は、早くから稲作が始められていた場所で、この志摩もその例に漏れないことが考えられます。

 新町遺跡とその周辺  新町遺跡 周辺の遺跡  唐津市(菜畑遺跡)〜二丈(曲り田遺跡)〜前原(平原遺跡)〜
 〜福岡市(板付遺跡)〜志賀島(金印出土地)

上は、末盧国伊都国奴国 にあたる
水田遺構は古い順に、菜畑遺跡→曲り田遺跡→板付遺跡

 御床松原遺跡
 新町遺跡のすぐ南側に御床松原遺跡があります。この遺跡は弥生時代から古墳時代の集落遺跡で、100軒以上もの住居跡が発見されています。
この住居跡群からは多くの錘や釣針などの遺物が出土していて、この遺跡に住んでいた人々は、漁をして生活していたことがわかります。
 また、古代中国で使われていたお金である「貨泉」「半両銭」が出土していて、大陸との交流が盛んであったことを伺わせてくれます。

御床松原遺跡 住居址 調査風景 海辺の支石墓群 ※現在の新町遺跡は田んぼの中だが、元は海辺の砂丘上の漁村の集団墓地だから、
それを絵にするとこのような様子かもしれません。

 新町遺跡が語るもの
 新町遺跡は弥生時代の始まり(約2400年前)の頃の遺跡です。
この遺跡の特徴は、中国大陸や朝鮮半島から伝わって来た支石墓という形態をとるお墓が沢山見つかったことです。
 また、この支石墓の中から人骨が見つかっていますが、弥生時代早期の人骨の出土例は日本でもここだけです。
 そして、御床松原遺跡同様「貨泉」と「半両銭」も発見されており、この地の人達が大陸と交易をおこなっていたことがわかります。

新町遺跡が語るもの 新町遺跡全景 甕棺 支石墓
 

 13館内全景

館内全景

 大陸との交わり-貨泉・半両銭-
 ここ新町遺跡や御床松原遺跡で発見された「貨泉」と「半両銭」は実際に古代中国で使われていたお金です。
半両銭」は(紀元前221〜紀元前201年)と前漢(紀元前202〜紀元8年)という国で使われていました。
貨泉」は王莽(おうもう)という人が建国した(紀元8〜24年)という国で造られたお金です。
 これらのお金が実際にこの志摩町に入って来たのは、弥生時代の初め頃ではなく、弥生時代の中頃から終り頃と考えられますが、
外国との交易が盛んだった証明になります。

※南西諸島への半島人商人の貝輪を求める交易活動は、食料との交換で紀元前10世紀頃から始まった。貝輪の需要がなくなると、次に中国商人による螺鈿細工の原料を求める活動となったが、食料の代わりに中国銭を渡すこともありました。しかし、当時の南西諸島ではその価値はわからなかったはずで、旨くだまされたようだ。
新町遺跡で出土する中国銭も、何かの対価として支払われたもので、価格が設定されていない時代に渡された貨幣は、きっと約束手形のようなもので次回にこれと交換に対価としての何かを渡す約束をしたのでしょう。

 大陸との交わり
-貨泉・半両銭-
上段(御床松原遺跡)
下段(新町遺跡) 
大陸との交わり
-貨泉・半両銭- 
     


 人骨に隠された謎
発見された支石墓を発掘してみると、新町遺跡からは全部で14体の人骨が発見されました。これらの人骨は、朝鮮半島を通して伝わって来た支石墓に埋葬されているので、渡来人の特徴を持っているものとばかり思われました。しかし、詳しく調査してみると、渡来人ではなく、縄文人の特徴が強いことがわかりました。
このことは弥生文化の始まりの謎に大きな疑問を投げかけることになります。
弥生時代は大陸から稲作や青銅器の文化が入ってきたことから始まりますが、その文化をいったいどの様な人々が伝えたのかが問題です。
大陸の人が直接日本にやって来たのか、日本に住んでいた縄文人が朝鮮半島まで言って文化を吸収して来たのか、稲作開始時期の人々についての謎は付きません
※すると、半島留学中に半島西部の支石墓の葬送儀礼を学び、持ち帰って糸島で実施したのかもしれない。

人骨に隠された謎           

 人類の財産
新町遺跡からは支石墓群を始め、日本でも珍しい弥生時代早期の人骨や貨泉・半両銭、また様々な土器などが出土しています。
これらは志摩町の貴重な資料であるとともに、日本だけでなく、人類の財産というべきものです。

人類の財産 甕棺・副葬小壺×2 半両銭・貨泉 新町遺跡甕棺


 古代の志摩
古代の志摩 旧石器〜古墳時代
 
 15展示

 24号墓の人骨
ここ24号墓からは成人男子の骨が出土しています。この骨の左足の太ももには磨製石鏃が刺さったままになっていて、この男の人が戦闘で死んだことがわかります。
また、この骨の下には人頭大の孔があり、底から少年男子の歯だけが出土しています。このような異常な人骨の出土状況は何を物語っているのでしょうか。
おそらく、当時の部族間の戦争があって、この24号墓の主が戦死したことの報復に、相手部族のまだ幼い少年の首を切って、この墓に一緒に納めたのではないでしょうか。当時は首狩りの風習が日本にもあったのかもしれません。

 24号墓の人骨        20号墓(甕棺)  

 支石墓とは
 支石墓とは、死亡した人を木棺や甕棺などに納め、埋葬した上に小さい支えの石を置き、その上に大きな石を置くお墓のことを言います。
この上に置く大きな石は大きいものでは1トン以上にもなります。
 この埋葬方法はアジア全般に見られますが、ここ新町遺跡の支石墓は、朝鮮半島の「南方式」と同じ「碁盤型」です。
 新町遺跡の支石墓は縄文時代から弥生時代に移り変る頃のもので、稲作の伝来・開始の謎に深い関係があるため、注目されています。

支石墓とは
20号墓
甕棺墓

支石墓の横に甕棺墓

 発掘調査の風景
新町遺跡は砂地に造られています。普通の硬い地面と違って、遺構を掘ってもそばを歩いただけで崩れてしまいます。
そこで、板を四方に敷き、その上に板を渡して発掘調査を進めました。遺構の中を掘るときは、家に渡した板に乗って作業を進めます。
 
展示館入口 展示館の入口は←ここです。
私は間違えて↓の写真の出口から入ったため。撮った写真が全て逆順になってしまい、編集に大変苦労しました。

じつは、うまく編集できず、無意味に最初に撮った写真を下にあげることになりました。バカですネ〜。
 21
ここは出口です
 23  24号墓の人骨 木棺墓

記述済み
 25支石墓とは

記述済み
蓋石が再現されていますが、全てFRP樹脂で作った偽物です。

周囲は全て田んぼですから、本来の蓋石は、田んぼ開墾の際にどこかへ持って行って捨てたか、叩き割ったか、
それとも、寺院や駅(厩うまや)を作ったりした奈良時代に礎石にしたのかもしれません。
石材は全て花崗岩だったそうですから、硬くと重くて最適だったでしょう。
 27  20号墓 甕棺墓
 29墓域復元図
弥生早期と
弥生前期前半
向こうの奥が
 弥生早期
カメラ手前が
 弥生前期前半
 31発掘調査風景
発掘調査の風景
記述済み
 33支石墓