新潟の縄文 №1 2020.09.24-1
「発掘された日本列島2020」展 新潟会場
新潟県立歴史博物館 新潟県長岡市関原町1丁目 字権現堂2247-1
0258-47-6130月休撮影可
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交通 |
バス:長岡駅前⑦10:05,11:35,13:05,14:35発 |
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レンタカー:駅and周辺に多数あり |
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周辺施設 |
馬高縄文館、市立科学館、藤橋遺跡 |
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新潟県立歴史博物館は、過去に2回取材して、掲載しています。
今回の訪問に際して、再度常設展の撮影をしましたが、展示に変更はなく、以前の撮影・編集の方がよいので、
再掲載をしないことにしました。 |
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目次
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00長岡駅
01外観
発掘された日本列島2020
ごあいさつ
03新発見考古速報
05特集1日本の自然が育んだ
多様な地域文化
10旧石器時代
11白滝遺跡
15細石刃
20男女倉遺跡群
30翠鳥園遺跡
36鞍曲遺跡
40縄文時代
42史跡北黄金貝塚
※考察 平底型円筒土器の分布
50史跡御所野遺跡
53円筒上層式土器
60有吉北貝塚
63加曽利E式土器
70養安寺遺跡
80西広貝塚
90粟津湖底遺跡
90粟津湖底遺跡
110阿高・黒橋貝塚
120棚畑遺跡
126中部地方の遺跡
比丘尼原遺跡
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130続縄文時代
130滝里安井遺跡
134骨角器 恵山貝塚
140続縄文土器
150弥生時代
150雑餉隈遺跡
155宇木汲田遺跡
160中山遺跡
170池上曽根遺跡
180山中遺跡
182西上免遺跡
パレススタイル土器
190古墳時代
190峯ケ塚遺跡
200南九州の地下式横穴墓
210埴輪
220五松山洞窟遺跡
230月廻4号墳
240土下211号墳
250百足塚古墳
252長原高廻り古墳群
260縄文時代
260吉野屋遺跡
270是川石器時代遺跡 |
280新発見考古速報展
縄文時代
280石船戸遺跡
290弥生時代
291八日市地方遺跡
310古墳時代
310ニサンザイ古墳
320伝法古墳群
330古代
330史跡 上野国多胡郡正倉跡
340中世
340史跡聖寿寺館跡
350愛宕山遺跡
360特集C2
360特別史跡 埼玉古墳群
362a稲荷山古墳 |
363特集2我が町が誇る
史跡・名勝・天然記念物
363b稲荷山鉄剣
363c 日光杉並木街道
363d 基肄(椽)城跡
363e 佐渡金銀山遺跡
363f 久留倍官衙遺跡
363g 岩橋千塚古墳群
370特別史跡岩橋千塚古墳
380史跡梅之木遺跡
大中遺跡
鷹島神崎遺跡
500地域展
火焔型土器のデザインと機能
510初期火焔土器
520第1章 火焔型土器の誕生
530第2章 火焔型土器と王冠型土器
540中期の火焔土器
550第3章 火焔型土器のココロ |
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00長岡駅
長岡駅前バスターミナル |
駅前に緑が!付近は商業ビルが林立 |
信濃川
信濃の国から流れて
信濃では千曲川 |
源流は甲武信ヶ岳
山梨・埼玉・長野の境 |
広大な流域面積で
広い川幅となる |
かつては大量の鮭が遡り、多くの縄文ムラを養い、高い文化を育んだ。 |
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01新潟県立歴史博物館外観
外観
発掘された日本列島2020
入口展示
ごあいさつ
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我が国には四十六万ヶ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫と言えます。これは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して地域独自の生活を営み、時代を繋いできた私たちの祖先のDNAというべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎と言えるでしょう。
こうした遺跡を守るため、毎年およそ9千件の発掘調査が行われ、数多くの成果が日々蓄積されています。
文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年から「発掘された日本列島」展を開催しております。
今年度は「新発見考古速報」として、縄文時代から近世まで、広く注目を集めた七遺跡の速報展示を行います。
また、特集展示として「日本の自然が育んだ多様な地域文化」の展示を行います。南北に細長い日本列島では山脈と平野からなる起伏に富んだ地形とその周囲を流れる海流によって多様な気候と自然環境が生み出され、人々はそうした自然と共生する中で多様な地域文化を育んできました。本特集では、旧石器時代から古墳時代にかけての各地域の遺跡の発掘調査成果を通じて、日本列島各地で育まれてきた多様な歴史文化の姿とその美しさを解説します。
さらに、特集展示2として「記念物一00年-我がまちが誇る史跡・名勝・天然記念物」の展示を行います。
我が国にとって歴史上、学術上価値の高い遺跡、芸術上鑑賞価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物
・植物・地質鉱物は「記念物」と総称され、その中でも重要なものは「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定されています。昨年、史跡名勝天然記念物を保護するための制度である「史跡名勝天然記念物保存法」が施行されて一00年の節目の年を越え、文化庁ではこれを記念して、「記念物一00年」事業を令和元年度から三ヵ年にわたり実施することにいたしました。今年度は全国各地に所在する史跡・名勝・天然記念物をテーマにパネルと関連資料(レプリカ、出土資料等)を通じて全国各地で実施されている様々な魅力的な事業を発信します。
本展覧会では51遺跡、約670点の出土品等を展示します。六月に開会する東京都江戸東京博物館での展示を皮切りに、新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、中津市歴史博物館をほぼ一年かけて巡回します。
多くの方々が本展覧会をご覧いただき、様々な発掘調査の成果を間近にすることで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化財の保護へのご理解を一層深めていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、御協力を賜りました関係各位に深く御礼を申し上げます。 |
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03新発見考古速報
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日本列島では毎年9,000件近い発掘調査が行われています。このうち、近年発掘された遺跡や、成果がまとまった注目の7遺跡約200点を速報展示します。 |
特集1「日本の自然が育んだ多様な地域文化」
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南北に細長い日本列島では、山脈と平野からなる起伏に富んだ地形とその周囲を流れる海流により多様な気候と自然環境が生み出され、人々はそうした自然と共生する中で多様な地域文化を育んで来ました。本特集では、旧石器時代から古墳時代にかけての各地域の発掘調査結果を通じて、列島を織りなす多様な歴史文化の姿を紹介します。 |
A新発見考古速報展
出品遺跡一覧 |
新発見考古速報展
出品遺跡
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年表
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新発見考古速報展 7館
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縄文時代
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➀石船戸遺跡 新潟県阿賀野市 |
縄文時代晩期初頭~前葉 |
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ぴったんこ 土偶を直す アスファルト |
約3,100~3,000年前 |
弥生時代
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②八日市字゛方遺跡 石川県小松市 |
弥生時代中期 |
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そのまんま 初めて出てきた ヤリガンナ |
約2,300年前 |
古墳時代
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③ニサンザイ古墳 大阪府堺市 |
古墳時代中期 |
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大王を送るマツリの 大木橋 |
5世紀中葉 |
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④伝法古墳群 静岡県富士市 |
古墳時代後期~飛鳥時代 |
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大刀抱き 富士のふもとに 眠る長 |
6世紀後半~7世紀後半 |
古 代
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⑤史跡 上野国多胡郡正倉跡 群馬県高崎市 |
奈良時代~平安時代 |
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法倉の 屋根を彩る 蓮の花 |
8世紀~10世紀 |
中 世
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⑥史跡 聖寿寺館跡 青森県南部町 |
室町時代前半~戦国時代後半 |
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向鶴 アイヌと和人を つなぎとめ |
15世紀~16世紀 |
近 世
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⑦愛宕山遺跡 京都府京都市 |
安土桃山時代~江戸時代 |
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戦国の 名だたる武将を おもてなし |
16世紀末~17世紀初頭 |
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特集1
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旧石器時代
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⑧白滝遺跡 |
(北海道 遠軽町) |
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⑨男女倉遺跡 |
(長野県 長和町) |
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⑩翠鳥園遺跡 |
(大阪府 羽曳野市) |
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⑪鞍曲遺跡 |
(鹿児島県南九州市) |
縄文時代
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⑫史跡 北黄金貝塚 |
(北海道 伊達市) |
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⑬史跡 御所野遺跡 |
(岩手県 一戸町) |
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⑭史跡 亀ヶ岡石器時代遺跡 |
(青森県 つがる市) |
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⑮史跡 是川石器時代遺跡 |
(青森県 つがる市) |
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⑯吉野家遺跡 |
(新潟県 三条市) |
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⑰有吉北貝塚 |
(千葉県 千葉市) |
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⑱養安寺遺跡 |
(千葉県東 金市・大網白里市 ) |
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⑲西広貝塚 |
(千葉県 市原市) |
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⑳棚畑遺跡 |
(長野県 茅野市) |
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㉑比丘尼原遺跡 |
(長野県 原村) |
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㉒曽利遺跡 |
(長野県 富士見町) |
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㉓粟津湖底遺跡 |
(滋賀県大津市) |
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㉔史跡阿高・黒橋貝塚 |
(熊本県 熊本市) |
続縄文・弥生時代
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㉕滝里安井遺跡 |
(北海道 芦別市) |
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㉖恵山貝塚 |
(北海道 函館市) |
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㉗雑餉隈遺跡 |
(福岡県 福岡市) |
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㉘宇木汲田遺跡 |
(佐賀県 唐津市) |
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㉙史跡 池上曽根遺跡 |
(大阪府和泉市・泉大津市) |
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㉚山中遺跡 |
(愛知県 一宮市) |
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㉛西上免遺跡 |
(愛知県 一宮市) |
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㉜中山遺跡 |
(岡山県 真庭市) |
古墳時代
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㉝峯ヶ塚古墳 |
(大阪府 羽曳野市) |
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㉞五松山洞窟遺跡 |
(宮城県 石巻市) |
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㉟月廻古墳群 |
(島根県松江市) |
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㊱旭台9号地下式横穴墓 |
(宮崎県 えびの市) |
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㊲灰塚12号地下式横穴墓 |
(宮崎県 えびの市) |
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㊳小木原7号地下式横穴墓 |
(宮崎県 西都市) |
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㊴西都原4号地下式横穴墓 |
(宮崎県 西都市) |
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㊵大坪1号地下式横穴墓 |
(宮崎県 国富市) |
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㊶大萩3郷地下式横穴墓 |
(宮崎県 小林市) |
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㊷保渡田八幡塚古墳 |
(群馬県 高崎市) |
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㊸高塚古墳 |
(群馬県 榛東村) |
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㊹オクマン山古墳 |
(群馬県 太田市) |
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㊺小泉大塚越7郷古墳 |
(群馬県 玉村町) |
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㊻城山1号墳 |
(千葉県 香取市) |
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㊼東深井7号墳 |
(千葉県 流山市) |
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㊽龍角寺101号墳 |
(千葉県 栄町) |
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㊾長原古墳群 |
(大阪府 大阪市) |
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㊿土下古墳群 |
(鳥取県 北栄町) |
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51百足塚古墳 |
(宮崎県 新富町) |
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特集2 記念物100年 ―我が町が誇る史跡・名勝・天然記念物―
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記念物は我が国にとって歴史上・学術上価値の高い遺跡、鑑賞上価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物・植物・地質鉱物の総称で、
その中でも重要なものは「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定されています。
全国各地に所在するこれら記念物をテーマに地方公共団体が実施している様々な取組を展示し、記念物の多様な魅力を発信します。 |
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05特集1「日本の自然が育んだ多様な地域文化」
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南北に細長い国土。国土の約8割が山地によって占められるという起伏に富んだ地形。そして周囲を流れる暖流と寒流。日本は国土面積こそ世界第62位にすぎませんが、これらの影響により、その自然環境は実に多様です。四季折々の顔を見せる美しい自然は、人々の心を捉え、今では海外からも多くの方々がこの国を訪れます。
そして、多様な気候風土は古くから列島各地に個性豊かな地域文化を生み出し、それは現代にも継承されています。
発掘調査で見つかる遺構や遺物にも、地域による違いが顕著に認められます。例えば縄文時代の土器は、ほぼ同じ時期に作られたものであっても、地域によってその形や文様の付け方などが全く違います。
こうした違いは、それぞれの土器を作り出した人々の衣食住や生業、宗教などの違いを示しているとも考えられ、そうした多様性を生み出した要因の多くは自然環境の違いにあったと考えられます。
本展示では旧石器時代から古墳時代を対象に、日本の豊かな自然環境が生み出した多様な地域文化の一端を発掘調査の成果から見ていきます。 |
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特集1
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10旧石器時代 BC32,000~BC13,000
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日本列島における現生人類(ホモサピエンス)の文化は約4万年前(野尻湖)に始まります。彼らは移動生活を送りながら動物の狩猟や植物質食料の採集など、自然の恵みに依存しながら生きた狩猟採集民でした。ここで紹介する遺跡はおよそ3~2万年前の今よりも寒い最終氷期の最寒冷期に残されました。地域によって異なる環境のもと、動植物や石材を巧みに利用しながら生活文化を育んだ人々の姿を、代表的な遺跡・遺物で見てみましょう。 |
旧石器時代の
主な出来事 |
後期旧石器時代
BC3200
※BC3600 |
大陸から現生人類が日本列島に渡り、居住を始める。 |
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ナイフ形石器や槍先が尖頭器が使われる |
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BC2300
※BC2800 |
姶良カルデラで巨大噴火が発生する |
鞍曲遺跡
男女倉遺跡群
翠鳥園遺跡 |
BC1300
※BC1600 |
細石器が使われる |
白滝遺跡 |
※は炭素14年代測定法による較正年代 |
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11白滝遺跡 北海道遠軽町 旧石器時代後半 2.5~1.5万年前
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北海道中央部、日本最大の黒曜石原産地にある、後期旧石器時代後半の遺跡が白滝遺跡です。
出土した石器は、組み合わせて槍先などを作る部品である細石刃や、その製作時に生じる石核などで、その量や大きさはまさに破格と言えます。
※この頃の北海道を想像してみると、北海道はシベリアから延びる半島で (北海島千島半島) で、北からやって来たマンモスゾウ動物群と言われる
ゾウとシカだけではない、多様な動物群が繁栄しており、津軽半島と渡島半島の間にできた2本の細い地峡を通ってナウマンゾウもやって来た。
北海道北部サハリンから東部オホーツクにかけては広い低地が広がり、人類の痕跡は、今は海底に消えたこのオホーツク・宗谷低地に広がっていたと思われる。
この半島を通って、白滝の黒曜石はシベリアへ運ばれ、白滝では多くの黒曜石を求める民族で活況を呈していたのだろう。
海では、鋭利な銛を使って海獣狩猟が行われ、今は海底だが、シベリアで出土したような、旧石器時代の住居もあったに違いない。
こんな極寒の地では、住居がなければ、人類は生存不可能である。 |
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11
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最終氷期頃の日本列島の地形図約2万年前 |
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細石刃核
ブランク(素材) |
両面加工石器
※両面調整石器 |
細石刃の作り方 湧別技法
細石刃の作り方
湧別技法 |
細石刃核 |
細石刃核 |
細石刃核 |
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細石刃核
ブランク(素材) |
接合資料 |
細石刃を剥ぎ取った面 |
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15細石刃 (有別技法の細石刃)
ここに注目
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黒曜石をはめ込んだ植刃器は長い柄を付けて槍にしたんだよ。マンモスも狩ったんだよ。 |
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植刃器(復元品) |
細石刃 |
ここに注目
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白滝遺跡出土石器の
接合資料 |
接合資料
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接合資料
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20男女倉遺跡群 長野県長和町 旧石器時代後半 2.5~2.3万年前
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本州最大の黒曜石原産地にある後期旧石器時代の遺跡群が、男女倉遺跡群です。この遺跡群では、狩猟具などの石器やその素材が集中的に作られました。「男女倉型」と呼ばれるその石器は、遺跡群周辺だけでなく関東でも発見されています。 |
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21
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23男女倉型石器の作り方 (男女倉型石器とはナイフ形石器・尖頭器である)
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素材の両面を打ち欠いてヤリ状に加工したのち、先端から樋状剥離(ファシット)を入れて刃部を作り出す。※(最後にファシットを入れたら完成)
使用する中で欠損した場合は、この工程を繰り返して再利用する。(最初は大きく、補修を繰り返して、次第に小さくなっていく)
※このファシットのあるなしで、尖頭器の刺さり具合が随分向上するのでしょう。 |
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25
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30翠鳥園遺跡 大阪府羽曳野市 後期旧石器時代 2.5~2万年前
すいちょうえん
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近畿では、石器石材としてサヌカイトが利用された旧石器遺跡が分布します。翠鳥園遺跡では、30ヶ所以上の石器作りの跡がみつかり、石が飛び散った様子から、作り手の座った場所が推定できます。槍先などが「瀬戸内技法」という特有の技術で多量に作られました。 |
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31近畿 瀬戸内技法 |
32
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ナイフ形石器出土状況 翠鳥園遺跡
国府型ナイフ形石器 |
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接合資料 |
接合資料 |
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石器の作り方
瀬戸内技法 |
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32a瀬戸内技法
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瀬戸内技法
図表引用「藤井寺市 WEB風土記ふじいでら 国府遺跡」
解説文引用「同支社大学歴史資料館」 |
第1工程
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第1工程 盤状剥片を作る
➀二上山麓の転石の一端を、石目に沿って割り落とし、加工用の小口を作ります。
②小口の端にくさびを当てて平たい剥片を剥がし取ります。
これを盤状剥片と言います。盤状剥片は第2工程に進みます。(翼状剥片ともいう)
③残った礫片は初期の第1撃と同じ石目方向に打撃し、連続的に翼状剥片を作る。 |
第2工程
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第2工程 刃部を作って剥がし取る
➀翼状剥片の短片の片方を鹿角で打って、刃部用の山形にするため、細かく剥片を打ち取る。
②剥がした部分が刃部となるように翼状剥片にたがねを当てて打撃し、スライスして剥片を作る。
③これを繰り返して連続的に製造することが可能となる。
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第3工程
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第3工程 刃部と持ち手面を調整する
➀第2工程で荒く作った刃部を更に細かく剥がして刃部を整形する。
②持ち手側を滑らかに調整する。
※同志社大の写真を見ると、刃部作成のための打撃は、当然だが刃部側から行われたことが剥離痕跡から明瞭である。
※この製作では、石目を見分けられる経験と、打撃にようする ちから加減など、経験や熟練が必要であり、
現代の我々が簡単に作ることは難しいようである。 |
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33
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ナイフ形石器
瀬戸内技法の
国府型ナイフ形石器
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スクレイパー |
翼状剥片 |
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34 |
35九州 |
36鞍曲遺跡 旧石器時代後期 2.6万年前 南九州市知覧町厚地
くらまがり
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約3万年前、現在の鹿児島湾付近で巨大噴火が起こりました (旧石器人の絶滅)。噴火(4000年)後の遺跡である鞍曲遺跡では、調理施設と考えられる礫群が52基見つかったほか、槍先などの石器が出土し、多量の接合資料も得られました。活発な石器製作場であるとともに居住拠点でもあったのです。
※3万年前の巨大噴火は、鹿児島湾最奥部の姶良カルデラで、南九州に分厚く堆積するシラス台地はこの時に堆積した。数十から200mにも及ぶ地層はこの時のカルデラ噴火が半日ほどで噴出したものである。引用「南九州の巨大噴火と環境変化 - J-Stage」この堆積物の下は厚すぎて発掘不可。
この時の噴火では、九州から西日本一帯の旧石器人は絶滅したであろう。ところが4000年後には自然が回復し、新たな旧石器文化が始まっていた。
52基の石蒸し料理跡は、明らかに南方系民族であり、新たな人類の痕跡がやはり南方からもたらされたことは意味深い。
南九州はその後も何度も巨大噴火と絶滅を繰り返し、
7,300年前の鬼界カルデラの大噴火による最後の大絶滅以後は、朝鮮半島から南下した民族によって縄文文化が築かれました。 |
九州
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礫群出土状況
鞍曲遺跡 |
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接合資料 |
接合資料 |
接合資料 |
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37石器
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40縄文時代 BC11,000~BC300
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今から約1万5000年前、寒冷から温暖へと徐々に日本列島の気候が変り、人々は木の実などの採集と漁撈や狩猟を行いながら、竪穴建物に暮す定住を開始しました。新たな植生環境の下で一つの土地に継続して長く暮らすようになり、人々は集落の周りにある資源について理解を深めました。
ものづくりや生業に地域ごとの特色が現れ、中期(約5000年前)以降になると交流・交易を通じた広域的な資源利用も活発に行われるようになります。 |
41
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縄文時代 |
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縄文中期の
土器文化圏 |
北海道押型文
円筒式
大木式
馬高式
曽利式
加曽利式
船元式
阿高式
貝塚文化地域 |
縄文年表
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縄文中期の土器文化圏
縄文中期の
土器文化圏 |
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縄文年表
縄文年表
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42史跡北黄金貝塚 北海道伊達市 約6000~5000年前
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北海道の縄文人は本州の縄文人より虫歯が少なく、デンプン質に富む木の実よりも海産物を多く食べていたことが指摘されています。
内浦湾の沿岸に位置する史跡北黄金貝塚では、湾内を回遊するオットセイの骨と海獣狩猟の銛が沢山出土しています。 |
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42
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43骨角器
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スプーン状鹿角製品
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鯨骨製骨刀
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スプーン状鯨骨製品 |
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スプーン状鯨骨製品
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箆状製品 |
銛頭 |
銛頭 |
同位体分析から見た北海道縄文人の食生態北黄金では
海産物の摂取が多い |
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ヤス
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オットセイ上腕骨
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43a同位体分析から見た北海道縄文人の食生態
堅果類←澱粉質→穀物
蛋白質:
上捕食動物
下草食動物 |
縄文時代に穀物栽培はなかったとの証明 |
北海道は海獣・魚類を豊富に摂取している。 |
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貝塚遺跡(轟・津雲)では海産貝類が多い。
関東・東北では魚介類、鹿・猪肉、堅果類など
多様な食性を示す。
長野山中の北村遺跡は、ほぼ堅果類に頼る
貧栄養状態である。なぜ山中にありながら動物を捉えなかったのかが不思議である。 |
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44石器
磨石と石皿 |
磨石(北海道式石冠) |
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45土器
※平底型円筒土器(円筒下層式土器)
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平底型円筒土器は北東北・北海道・礼文島、サハリン(ユジノサハリンスク)、沿海州(ハバロフスク)、内モンゴルを含む中国東北部(赤嶺・瀋陽)にかけて同質の文化の存在が確認されている。 引用NHK「街道を行く」第3集「北のまほろば」 |
※考察 平底型円筒土器の分布
平底型円筒土器の分布 |
十和田カルデラの噴火による植生の変化により、食料を長時間煮込む必要に迫られて発達した土器と考えていた円筒下層土器だが、実は遼東半島から東シベリア、北海道、東北までを含む広い地域に分布している。
中国の遺跡と三内丸山遺跡の土器はほぼ同じ文様で、長い世代を経ずに伝播したものである。(※中国のははっきりくっきりで中国原産地は間違いない。)
このことから、三内丸山の人々は、つまり、青森に多い大柄で足の長い人は遼東半島付近からやってきたと言われるのはこのゆえんである。
円筒下層式土器は縄文前期中葉約6000年前頃に出現し、約5000年前に円筒上層式となり、やがて大木式に吸収される。
6千年前の火山活動が夏の季節風に乗って東アジアに大きな影響をもたらし、ために遼東から人がやってきたのか、
遼東で発生した円筒土器文化人が何らかの原因で大急ぎで東アジア・沿海州・サハリンを渡って北海道、青森まで南下してきたのか、誰にもわからないことである。(海路もあるが大集団である) |
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50史跡御所野遺跡 岩手県一戸町 縄文時代中期 約4500~4000年前
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東北では前期以降、長期間継続的に人々が暮した大規模な集落が多く見られます。
中期になるとアスファルトや黒曜石など、遠く離れた土地で産出する希少な物資が運び込まれ、
史跡御所野遺跡のように交流・交易拠点の役割をになう集落も現れました。 |
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51
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52石器
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珪化木 |
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珪化木製
石鏃(完)・石鏃(未完)
珪化木製石核
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黒曜石製 鏃 |
炭化種実 トチの実 |
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53円筒上層式土器
縄文時代前期は円筒下層式が盛行し、
縄文時代中期前半は円筒上層式が盛行し、
縄文時代中期後半は東北地方南部から北上してきた大儀式土器が盛行する
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55編み物圧痕土器
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56
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60有吉北貝塚 千葉県千葉市千葉市緑区おゆみ野5丁目 縄文時代中期 約4500年前
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縄文時代の貝塚は全国で約2500ヶ所知られており、このうち約4割が東京湾東岸に集中しています。有吉北貝塚に暮した縄文人は、干潟を中心とした貝の採集や小魚の漁撈、鹿や猪の狩猟を季節ごとにおこなっていました。 |
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61
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62骨角製装身具 有吉北遺跡
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貝製装身具 |
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鹿角製 |
イノシシ下顎犬歯製 |
イノシシ上顎犬歯製
腕輪?
超巨大猪の牙一対
もののけ姫に出てくる猪の王のような |
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サメ歯製
ペンダント |
イタボガキ製
腕輪? |
鹿角製腰飾り? |
貝刃
ハマグリ製
カガミガイ製
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63加曽利E式土器
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70養安寺遺跡 千葉県東金市小野字鉢ヶ谷1113 千葉県山武郡大網白里町養安寺台936 縄文時代中期 約4500年前
※海から離れた遺跡で、漁撈集落や貝塚ではなく、狩猟を中心とする集落だった。 |
71
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イノシシ下顎犬歯製
鹿角製 |
鹿角製・鳥骨製 |
陸獣骨製
イノシシ骨製 |
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72
加工痕のある鹿角 |
骨角牙製品
シカ下顎骨製 |
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73加曽利E式土器 約5000年前
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80西広貝塚 千葉県市原市西広1-21 縄文時代後期~晩期 約4000~2500年前
縄文人のアクセサリー
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千葉県市原市の西広貝塚では、オオカミやクマ、イルカやアシカ、ウミガメなど、身近に生息していた多種多様な動物の骨を素材にした装身具が作られました。また、タカラガイやイモガイ類など、南房総を生息の北限とする希少な貝製の装身具も多く作られ、交易を通じて各地に送られていました。 |
※陸獣・海獣・貝産物などを利用してアクセサリーを製造し交易する集落遺跡だった。
今日でもアクセ作りの上手な女性が多いのですが、この時代にも、お得意な方がおられたんですねェ~。
※貝塚って貝殻が大量に堆積している。干し貝にしたと言われるが、私ならそんな手間な交易品は作らない。
縄文の製塩土器はないが山間地では塩が必要。私なら土器に入れた貝をそのまま塩水で煮つめて殻だけを取り出し、塩粒だらけの煮貝を作る。
それを土器ごと交易する。貝と塩は出し汁を含んで現代のインスタント調味料代わりとなるし、甕は大量の塩分を含んで割って、調理鍋に入れると
塩分が摂れる。巨大な貝なら干し貝にするが、小さなヤマトシジミは干すのが大変。動物に食われっちまうよ。(笑) |
81
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82骨角牙製装身具
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83骨角牙製装身具
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84貝製装身具
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オオツタノハ |
ホシキヌタ |
イモガイ |
ツノガイ、タマキガイ |
不明二枚貝
アマオブネガイ |
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85骨角牙製装身具 小型陸獣骨・鳥骨製
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ヒシクイ・ウ |
タヌキ・ムササビ |
キツネ・クマ |
イヌ・オオカミ |
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90粟津湖底遺跡 滋賀県大津市晴嵐地先 縄文時代早期初頭~中期前葉 約9000~4500年前
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西日本は、東日本と比べて縄文遺跡が少なく、集落の規模も小型で立地も異なります。粟津湖底遺跡では、ヒシの実や貝の採集、淡水魚の漁撈、鹿や猪などの狩猟が行われ、旬に合わせた生業の様子が明らかにされています。 |
※粟津湖底遺跡は、水没した琵琶湖湖底の遺跡を、矢板で囲って排水して発掘しています。琵琶湖には100以上ともいわれる湖底遺跡があり、
葛籠尾崎湖底遺跡(長浜市)では、縄文人が琵琶湖に投げ込んだ(湖にささげた祭祀の跡と言うべきか)土器が出土します。 |
91
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92
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ヘラ状骨器、針 |
ヘラ状骨器は北黄金遺跡出土のものと大変よく似ています。 |
赤漆塗耳栓
赤漆塗竪櫛
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貝輪、琥珀製玉・
ヒメグルミ製垂飾 |
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93
粟津縄文人の
生業カレンダー
超シンプルカレンダー |
土偶
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鹿角斧
土堀具だったと |
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94動物遺存体
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95
シジミ・イシガイ |
カワニナ・タニシ |
植物依存体
トチノキ・ヒシ・ドングリ |
ヒシ・ドングリ・クルミ |
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100粟津湖底遺跡 |
101船元式土器 関西から中・四国に広がる土器文化圏
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110阿高・黒橋貝塚 熊本市南区城南町阿高字東原 縄文中期~後期 約5000~4000年前
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有明海沿岸には貝塚が多数分布しており、史跡阿高・黒橋貝塚では、イルカやサメを捉えるための骨格製のヤスが多く出土しています。
また、人骨と共にサメの歯や猪の牙を加工した装身具も多く出土しており、貝塚は埋葬の場でもありました。 |
※阿高遺跡は佐賀県佐賀市北川副町大字光法字阿高にある遺跡。
※阿高式土器は熊本県の阿高・黒塚貝塚を標識遺跡とした土器。
阿高・黒橋貝塚からは朝鮮半島系のイタボガキ製の仮面が出土しています。当時も半島からの漂着・渡来民が多くあったようです。
従って、阿高式土器も半島系の土器で、その後、阿高式土器文化圏の住民が南島に移住したため、広く拡大した。
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111
九州
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クジラの骨格図と椎骨 |
クジラの骨格図と椎骨 |
椎骨 |
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102装身具
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112
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鹿角製簪かんざし
(指輪様の)不明装飾品 |
猪牙製垂飾 |
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刺突具、ヘラ状製品 |
貝輪 |
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髪を飾る簪にこれほど丁寧な彫刻を施す熱意とは何でしょう。
恋人や妻や娘に贈呈したのか、
高い付加価値を付けた交易品だったのか。 |
アイヌでは結婚の申し込みに男性が製作して贈ったと聞いている。 |
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113阿高式土器
縄文時代中期後葉の九州地方を中心に分布する土器型式です。熊本県阿高貝塚を標式とします。厚手で赤褐色の砲弾形深鉢を主体とし、
太凹線によって幾何学的な文様を描きます。縄文は伴いません。引用山口県立山口博物館
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120棚畑遺跡 長野県茅野市米沢埴原田 縄文中期~後期前半 約5000~4000年前
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中部高地の縄文人は、山々に囲まれた環境の中で木の実の採集と狩猟を主な生業としながら、霧ヶ峰産の黒曜石を流通させ、ヒスイなどをもつ他地域との交流も行いました。中期以降は、棚畑遺跡などの非常に規模の大きな集落が現れます。 |
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121
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122石製品 棚畑遺跡
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石棒 |
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黒曜石製品 |
スクレイパー |
石鏃 |
剥片 |
黒曜石原石
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123土偶 (棚畑遺跡の土偶といえば、縄文のビーナス)
垂飾
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124
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有孔鍔付土器 |
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皮を張って太鼓にできる強度もなく、
単に貯蔵・発酵容器なら口に布か皮を当てて縛れば済む。
発酵のガス抜き穴?
理にかなっているか? |
そういえば昔のTV番組で未開民族が発酵させた酒を振る舞われたが、ショウジョウバエのウジ虫だらけだったと言っていた。
何に使ったんだろう
有孔鍔付土器
似て非なる孔列文土器 |
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毒蛇の攻撃態勢。
飛び掛る寸前の姿。
胴部の気味の悪い、蛇の抜け殻のような文様。 |
台湾でも猛毒の百歩蛇をシンメトリーにアレンジした土器が多かった。
危険な・強者を崇め、その力にあやかる心理がこれらを描かせるのだろうか。 |
山深い地域には毒蛇装飾が多い。 |
パネル文土器
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126中部地方の遺跡
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中部では、蛇や蛙、妊婦や出産場面を表現した人面把手などの立体的で華やかな造形を持つ物語性のある文様が施された土器が数多く作られました。また、土偶や石棒などの祭祀具も豊富で、独特の精神文化が発達した様子が伺えます。 |
比丘尼原遺跡 長野県原村柏木 縄文時代前期・中期初頭~中頃 約5000~4500年前
※原村には縄文前期のストーンサークルがあり(破壊済)山間地だが高い文化の遺跡がある。
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線刻石皿
※側面に彫刻がある→ |
のだが、この展示では見えなくしてある。 |
文化財を展示しても、見せないことで文化財保護をしている |
のだろう。 |
か?(大笑) |
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みずち文土器 |
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人面把手付土器 |
人面なのか、蛇なのか |
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具象物が次第に抽象化していった意匠。
土器文様の発達は、ここから始まり、最後に火焔土器のような高度にに発達した。
時代が安定していたからか。 |
縄文中期後葉の寒冷化によって、ストレス発散のような突き刺し文様の土器が出現し、華やかな時代は一旦終わる。
刺突文土器と言わないのがひねくれている |
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蛇ばかり現れる土器。湿地に現れるクサリヘビが、本当に恐ろしかったのでしょう。
今でも噛まれたら死ぬからね。 |
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127土製品 比丘尼原遺跡
土偶
※正中線が途切れてお腹が破れたような表現があるのは、始めてみました。何を表現したのでしょう。
比丘尼原遺跡 |
琥珀製飾り玉
南平遺跡 |
三陸or千葉産琥珀か |
台付有孔鍔付土器
これは太鼓ではない |
有孔鍔付土器というが鍔(つば)はない。 |
機能的に鍔が必要ない用途に使われた?
基本的にこんなデザインの土器は珍しい。
高松市歴史資料館で方形の縄文土器(撮禁)を見て以来だ。昔こんな小物入れを作った。縦長が必要な入れ物?
雑誌入れだ。 |
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128石器
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石鏃 |
打製石斧・磨製石斧 |
横刃型石器(何?)
粗製大型石匙(何?)
よくわからない石器の名称 |
パン状炭化食品 |
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129曽利遺跡 長野県富士見町 縄文中期 約5000~4000年前
曽利式土器
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130続縄文時代 BC1000年~AD200年
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日本列島で水田稲作が始まり、新たな生活スタイルが作り上げられていったのちも、北海道・東北北部や南西諸島では縄文時代と同じく狩猟・漁撈・採集によって日々の糧を得る生活が続いていました。北海道・東北北部のこうした時代を続縄文時代と言います。
続縄文時代の人々は、豊かな自然の恵みを取り入れつつ、弥生社会やサハリン等の北方とも交流し、やがて縄文時代や貝塚時代とも異なる独自の文化を作り上げて行きました。 |
続縄文年表
続縄文年表
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130滝里安井遺跡 続縄文時代初頭 紀元前3世紀頃 約2300年前 北海道芦別市滝里町277-8
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北海道の北東部では琥珀玉が大量に見つかっており、人々の装いも大きく変わったとみられます。中にはサハリンとの交流によって手に入れたものもありました。一方の南西部では漁撈を中心とした生活が営まれ、美麗で緻密な骨角器が沢山出土しています。
※コハク産地と滝里安井遺跡は近接 |
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131北海道北東部を代表する遺跡
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132滝里安井遺跡 芦別市
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133クマ形石製品 滝里安井遺跡
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134骨角器 恵山貝塚 函館市柏野町(旧恵山町) 北海道南西部を代表する遺跡 続縄文時代初頭~前半 約2200~1700年前
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134a前面視
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134b匙・カンザシ
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簪かんざし |
クマを表現 |
匙 鹿角製
右:シャチ
左:クマ
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※こんなに緻密な装飾を施した骨製品ですが、匙は掬い取る側が壊れています。最も壊れにくい方です。
これは、故人の愛用品を副葬する際に、芸術的でない部分を壊して、つまり、匙も一緒に死んで冥界に送ったのではないでしょうか。
北海道では女性の死者に石皿が副葬されますが、内地の遺跡で、壊れそうにもない石皿を割って副葬していたことがあります。 |
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134c指揮棒頭部
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※指揮棒というのか式杖というべきか。
察するところ、この一連の出土物は権力者の副葬品だったのでしょう。
普通の庶民は指揮杖で指図はしないから。 |
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134d後面視
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134e銛
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134装身具
※この巨大な牙は猪のものですか。北海道にはイノシシがいないはず。これだけ大きいものは、、何の牙でしょう。
海獣の牙だとしたら、 セイウチや オットセイの牙はこんなに曲がっていない。巨大イノシシの牙を何かと交換して入手したのでしょうか。
台湾山岳民族も巨大なイノシシの牙を帽子(鉢巻と言うべきか)に付けていますが、これ程のものは見たことがない。
きっと超長生きのイノシシだったのでしょう。
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140続縄文土器 滝里安井・恵山遺跡 北海道芦別市 北海島函館市
滝里安井遺跡の土器 北海道北東部の土器
恵山式土器 北海道南西部の土器
恵山式土器
南西部の土器
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赤彩土器
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クマの頭部が付いた土器
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←ピンボケなので拡大できない |
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150弥生時代 BC1000~AD200
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弥生時代は日本列島に水田稲作を基盤とする生活が導入され、それらを維持する社会が確立した時代です。その始まりは紀元前1000年より前とする説から紀元300年頃とする説までいくつかあり、議論が続いています。
中国や朝鮮半島由来の新たな文化に直接接する九州北部を発信源として東へ東へと様々な情報が伝わる中で、各地では風土に根差した伝統を下地に新たに文化を取捨選択し変容させ、特色ある生活や社会を生み出していきました。 |
弥生時代 |
弥生-続縄文文化圏 |
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続縄文文化圏
滝里安井遺跡(芦別市)、恵山貝塚(函館市)
弥生文化圏
パレススタイル土器文化
山中遺跡(愛知一宮市)、西上免遺跡(一宮市)
特殊器台文化
中山遺跡(岡山真庭市)、
池上曽根(大阪和泉市・泉大津市)
北部九州文化
宇木汲田遺跡(唐津市)、雑餉隅遺跡(福岡市)
貝塚文化圏 |
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150雑餉隈遺跡ざっしょのくま 博多区新和町二丁目10-2 弥生早期 紀元前10~5世紀 宇木汲田遺跡 佐賀県唐津市 |
152
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九州北部は様々な技術や情報を直接受け入れる窓口でした。そのため、朝鮮半島でも出土するものが そのままの形、使い方で見つかることがあります。また、他の地域に比べて早くから多くの鉄器や青銅器といった金属器が使用され、新たな社会が作られていきました。 |
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153磨製石剣 雑餉隈遺跡 福岡市
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154磨製石鏃 雑餉隈遺跡
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155 宇木汲田遺跡 佐賀県唐津市宇木 弥生時代前期後半~後期の甕棺墓を中心とする遺跡
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※唐津湾は多くの半島人がやって来た港である。弥生前期~後期という長期にわたって辺り一帯を支配したのなら、入港税や上陸税やと、、いくらでも理由を付けて、半島人が後から来た半島人を脅していくらでも搾り取れたのだろう。随分リッチな墓地遺跡である。
糸魚川の見事なヒスイ製品が出土するということは、新潟から半島へヒスイを送っていたようだ。
そういえば、奈良時代に、半島から国産ヒスイが逆輸入されて、仏像装飾に使われていました。 |
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160中山遺跡 岡山県真庭市西河内中山 弥生後期後半~後期末 約1800年前
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吉備(岡山と広島県東部)では、特殊器台と特殊壺という土器を用いる、お墓での祭祀を独自に発達させていきました。
この地域が産み・育んだ祭祀の形は、やがて古墳時代に入ると古墳に立て並べられる埴輪へと姿を変え、
新たな形で全国へ広がっていくことになります。
※前方後円墳は、吉備の特種器台・特種壺、讃岐の円形周溝墓、島根の四隅突出型墳丘墓の葺石、などを統合してつくられました。 |
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161
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中国地方
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木棺墓検出状況
中山遺跡 |
特殊器台の分布 |
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162特殊器台・特殊壺 中山遺跡
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図表引用「岡山県埋蔵文化財センター 講座第2回
」
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170池上曽根遺跡 大阪府和泉市、泉大津市 弥生前期後半~中期 約2300~2000年前
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新たな技術や情報はリレー式に東へ東へと伝えられ、各地の人々は各地の環境に応じてそれらを作り上げました。
関西を中心に多く見られる集落を大きな溝で囲う環濠集落や、かつて神殿との説も提唱された大型建物などはその一つです。 |
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171
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172竜絵画土器 池上曽根遺跡
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173
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イイダコ壺 |
池上曽根遺跡の位置
かつてはずっと大阪湾に近接していたのです。
現在は海退で内陸になっています。
瀬戸内海一帯の海浜遺跡からは、イイダコ壺が大量に出土しています。
簡単手軽な仕掛けで重宝したのでしょうか。 |
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174
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175石斧
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柱状片刃石斧
左:元の大きさ。
右:使用後。折れ・補修・研磨により摩耗。 |
太型蛤刃石斧
これはまさに重量石器ですね |
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両刃でない片刃は枝を払ったり削ったりしたのかな |
扁平片刃石斧
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石鏃
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178
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179
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180山中遺跡 愛知県一宮市萩原町富田方字山中 弥生後期 約2000年前
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各地で独自色を見せる弥生文化の中でも、東海に広がるパレススタイル土器は最も華やかなものの一つです。
ギリシャのクノッソス宮殿出土の「宮廷(パレス)」式のものに比肩するとして名付けられたこの土器は、まさに地域が生み出す独自の文化が花開いたものと言えます。 |
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181
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中部
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土器出土状況
山中遺跡 |
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山中遺跡 |
高坏 |
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高坏
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器台
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182パレススタイル土器 西上免遺跡 愛知県一宮市開明西上免 弥生時代終末期~古墳時代初頭 約1800~1700年前
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バレススタイル土器の分布
東海で生産消費され、交易は主に関東へ |
壺
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壺
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広口壺
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186台付甕
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190古墳時代 紀元300~600年
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日本列島の広い範囲で墳丘を持った墓である「古墳」が築かれた時代です。
大規模な古墳が多い近畿を中心に各地の古墳も一定のルールに基づいて築かれ、葬られた首長の階層的な位置づけを示しました。
ただし、北海道・東北北部や南西諸島には古墳文化が及ばず、、続縄文時代・貝塚時代が続いていました。
また、古墳もその立地や首長が支配した範囲の環境に応じ、形、埋葬施設、副葬品、埴輪などに独自性を持っており、地域性に富んでいました。 |
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191
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古墳時代
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前方後円墳の
分布範囲 |
古墳時代年表
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この特集では、
➀中期は南九州の
地下式横穴墓
②後期は全国の
人物埴輪など
埴輪祭祀を取り
上げているようだ |
古墳時代年表
古墳時代
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190峯ケ塚遺跡 大阪府羽曳野市軽里2丁目 古墳時代中期後葉 5世紀末 前方後円墳
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192墓制と副葬品
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当時の政権中枢の墓域の一つであった古市古墳群に属する峯ヶ塚古墳は墳長92mの大規模前方後円墳で、政権の一翼をになった首長の墓と考えられます。その副葬品には、朝鮮半島との関りが推測される武器・武具や精巧な装飾品などが多く認められます。 |
墓制と副葬品
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遺跡全景
峯ヶ塚古墳 |
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遺物保存の科学
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金属は放置すると安定しようとしてサビが進みます。しかし、文化財においてサビが進行するということは劣化しているという事なので、サビの進行を食い止めることが求められます。
峯ヶ塚古墳の魚佩は、銅との化学反応によってサビの進行を抑える薬剤に浸したうえで、表面をコーティングし、保護する方法を取りました。 |
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魚佩は、出土時に接着剤を用いて応急処置的に補強されていました。資料の形を保つためには必要なことですが、本格的な保存処理をする祭にはその接着剤は取り除かれなければなりません。
また、保存処理に使う薬剤も、将来のことを考えて除去できる物である必要があります。これらを「可逆性を持つ」と言い、文化財保存の分野での約束事の1つとされています。 |
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魚佩は4その薄さのため資料だけで扱うのは難しい状態でした。そこで展示支持台を合わせて作ることで資料を守りながら見せることができる状態を作り出しました。2019年に改正された文化財保護法では文化財「活用」が前面に打ち出されていますが、そのためにはこのような陰ながらの努力が欠かせないのです。 |
古きを守る新しき技
峯ヶ塚古墳
サビとの戦い |
魚佩出土状況
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魚佩
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魚佩
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守りながら見せる |
展示支持台 |
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193玉製品 右から
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195魚佩ぎょはい 腰飾り
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200南九州の地下式横穴墓
西都原・大萩・灰塚・小木原・旭台・大坪遺跡 (宮崎県 西都原市・ 小林市・えびの市・高原町・国富町)
墓制と副葬品 南九州
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古墳文化の南限にあたる南九州では、墳丘を持たず地下に埋葬の場を掘り込む地下式横穴墓が展開します。
盗掘されずに発見されることも多く、副葬品には、鉄製の武器・武具や南西諸島の貝を素材とする腕飾類が多いという特徴があります。 |
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201
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南九州
墓制と副葬品 |
副葬品発見
西都原4号地下式
横穴墓 |
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202鋲留短甲 西都原4号地下式横穴墓 5世紀後半
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203
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210埴輪
保渡田八幡塚・高塚・オクマン山・小泉大塚越古墳 (群馬県 高崎市・榛東村・太田市・玉村町)
※全て群馬県内の遺跡
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211埴輪
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近畿では古墳の築造や埴輪の樹立が衰退しつつあった6世紀中頃遺構の東日本では、それ以前にもまして前方後円墳や埴輪を作り続けます。
動物の種類や姿、様々な装いの人物、珍しい器物など、多くの埴輪で地域の独自性が発揮されています。 |
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213
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両腕は小さく、両足が省略されるのがこの地域の人物埴輪の特徴だよ。他の地域の埴輪との違いにも注目して見てね。 |
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215
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216龍角寺101号墳
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217鹿形埴輪 龍角寺101号墳
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220五松山洞窟遺跡ごしょうざん 宮城県石巻市湊町裏山 古墳時代後期 6世紀後半~7世紀初頭
東北 墓制と副葬品
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古墳文化が展開する地域の沿岸部では、海蝕洞窟を墓葬の場とすることがあります。五松山洞窟遺跡もその一つで、19体の人骨と共に古墳にも副葬される金銅装のものを含む武器・武具やこの墓制に特徴的な副葬品の一種である骨角製品などが出土しました。 |
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221
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東北 墓制と副葬品
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遺跡遠景
五松山洞窟遺跡 |
※海蝕洞と言っても陸化した自然洞窟を利用する。
古くから、よくあることでした。
東北地方では洞窟を古墳として利用することも多々あることです。
簡単な横穴式石室となります。 |
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222関東の海蝕洞窟墓
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※房総半島・三浦半島の海岸地域にみられる洞窟墓。このような文化・風習を持った集団が海岸沿いに北上し、上記の五松山洞窟遺跡に達したのではなく、当時の人々は死体の埋葬に洞窟をもちいる風習があったのでしょう。黄泉の国信仰のようなものが広く流布していたのかもしれません。
この地域に集中しているのは適当な洞窟があったからに ほかなりません。
沖縄でも近代まで、海蝕崖に洞窟を穿ち、洗骨した骨をまとめて埋納し、定期的に取り出したりしていました。
関東地方ではこのような洞窟が信仰の場になっている者があります。
※それにしても、アワとかヘグリとか、関西で見かけた地名が多いですね。やはり、四国から入植した地域なのでしょうね。 |
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古墳時代の墓葬が認められる洞窟遺跡 |
館山市立博物館 |
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把頭と鍔 刀身は腐食して取り上げられなかったようです。
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223骨格製武器 五松山洞窟遺跡
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224
貝輪、貝製品
右:貝製品戸は何でしょう。貝刃ならそう表記されるはずだが? |
貝輪・貝製品 |
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鹿角製弭(ゆはず)
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環状製品 |
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230月廻4号墳つきさこ 古墳時代中期 5世紀 松江市比津町
丘の上にある20基以上の古墳群。箱形の石棺や底に小石を敷いた木簡の跡などが見つかり、鏡、玉、鉄器などが出てきた。消滅。引用
山陰 墓制と副葬品
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出雲東部の花仙山はメノウや碧玉などの玉類の石材産地出地です。そのため、弥生時代以降、古墳時代を通じて、出雲は玉作の中心地でした。
出雲の古墳にはいろいろな石材で、いくつかの形に製作された玉類が副葬されているという特徴があります。 |
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山陰 墓制と副葬品
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副葬品 管玉と銅鏡
月廻古墳群 |
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管玉と勾玉
月廻4号墳 |
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240土下211号墳 はした 鳥取県東伯郡北栄町 古墳時代中期 5世紀末
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古墳文化の中心である近畿は、各地で古墳を築く際に則るルールを生み出す地でもありました。
政権中枢の墓域の近くに築かれた長原古墳群は中小規模の古墳が大半であるにもかかわらず、多くの古墳で精巧な埴輪が立て並べられています。 |
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241
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242鵜形埴輪 保渡田八幡塚古墳 5世紀末~6世紀初頭 上毛野埴輪の里公園 高崎市保渡田町
※この地域では既に中国で盛んだった鵜飼漁が行われていたようです。
鈴を付け魚をくわえた埴輪
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これ中国式の鵜飼い。日本では紐で繋ぎますが、中国ではそんなことしません。鈴と首輪付 |
日本の鵜飼史の貴重な証拠となりました。
本当は半島人がやって来た弥生時代からあったと思います。 |
鵜飼埴輪 |
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243鷹匠埴輪 オクマン山古墳 群馬県太田市城西町 6世紀後半
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左腕に鷹を乗せた正装の鷹匠だよ。鳥の尾羽には、狩りに使う鷹の特徴である鈴が付いている。鷹匠の越には餌袋もある。小鳥と間違えないでね。
※鷹狩はモンゴル高原で発達した狩猟法です。半島人の鷹匠が首長の従者として娯楽を担当していたようです。首長は大金持ちだっ。 |
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244弓形埴輪 高塚古墳 群馬県 群馬県北群馬郡榛東村新井 6世紀
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245人面付円筒埴輪 小泉大塚越7号墳 玉村町 古墳後期 6世紀中頃
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250百足塚古墳 宮崎県児湯郡新富町新田14711 6世紀中頃
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後期の西日本は東日本ほど埴輪の樹立は盛んではありませんが、石人・石馬や地域独自の土器を用いるなど独自の古墳の飾り方を生み出した地域もありました。また、近畿と 同様の埴輪を立て並べた地域でも、埴輪の種類、形や姿などに地域の独自性を表すことがあります。 |
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251
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西日本 埴輪 |
周溝内に転落した
形象埴輪片
百足塚古墳
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252長原高廻り古墳群
円筒埴輪 長原61号墳 大阪市平野区永吉長原西 古墳中後期 4世紀後半~6世紀中頃 高廻古墳群
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254人物埴輪 長原87号墳
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巫女の姿をしたこの子の髪型はまげを結っている。襷掛けをしたような袈裟のような服を着ていたり、当時のファッションが想像できる。 |
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255鶏形埴輪 長原87号墳
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256百足塚古墳 宮崎県新富町新田14711 古墳後期 6世紀半ば
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257人物埴輪 性器を露出する女性 って、当時は下着もないし、貧者は衣服も短いし、こんなもんだ。
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258家形埴輪
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259円筒埴輪裏面
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259a鹿形埴輪 土下211号墳 はした 鳥取県東伯郡北栄町 古墳後期 6世紀
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小鹿のまだら模様は、赤いテラコッタの上に白土でスタンプ |
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260縄文時代
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260吉野屋遺跡 三条市吉野屋 縄文中期 5000年前
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261芸術家・哲学者の「縄文土器」観
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岡本太郎1952「四次元との対話 縄文土器論」「みづゑ」558美術出版社刊
「縄文土器の荒々しい、不協和な形態。紋様に心構えなしにふれると、誰でもドギッとする。
なかんずく爛熟した中期の土器のすさまじさは言語を絶するものである。激しく追いかぶさり
重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。
しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、
思わず叫びたくなる凄みである。」 |
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岡本太郎1952『日本の伝統』光文社刊
「現代人の神経にとっては、全く奇怪だが、
この圧倒的な凄みは、日本人の祖先の誇った美意識だ。
それは今日なお、われわれの血のふかい底流にひそんでいる。」 |
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谷川徹三1971『縄文的原型と弥生朱鷺原型』岩波書店刊
「縄文土器はその多様な形と自由な装飾性と共にどこかに暗い不安を秘
めた奇怪な力強さを特色としています。そこには火焔土器と呼ばれて
いる一類のように、渦巻いている幻想や情念が焔をあげているのが見
られるようなものもあり、その性質は同時代の土偶において一層際立
っています。」 |
ここにも注目
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文様が剥がれ落ち裏側にも注目!!
粘土ひもなどを貼り付けながら
土器が作られたことがよくわかるよ。 |
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262火焔型土器 岡本太郎著
縄文土器論
岡本太郎著 |
縄文的原型と弥生的原型 |
火焔型土器 |
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270是川石器時代遺跡 縄文中期(前期~晩期の遺跡を含む)遺跡群です。 |
271縄文土器の造形美
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縄文土器には人々を魅了してやまない美しさがあります。芸術家の岡本太郎は北陸の火焔型土器に見られる燃え上がる炎のような造形を絶賛しました。また、東北の亀ヶ岡式土器は、器の表面を磨くことで生じる光沢と複雑な文様、漆塗りの鮮やかさから「縄文美の極致」と評価されています。 |
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272亀ヶ岡式土器 是川石器時代遺跡
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273亀ヶ岡石器時代遺跡
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280新発見考古速報展
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縄文時代
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280石船戸遺跡 縄文時代晩期初頭~前葉 約3100~3000年前 新潟県阿賀野市百津/上中野目/福田. アスファルト
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阿賀野川の自然堤防上に立地する縄文時代晩期初頭~前葉の集落です。
阿賀野川右岸の南東から北西に伸びる幅約80mほどの微高地上に広がり、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・埋設土器などが見つかりました。 |
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281詳しく見てみよう
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遺物には東北の影響を受けた土器や、遮光器土偶、動物形土製品などが多く見られます。また、土器の補修や鏃の着柄に使われたアスファルトが固化した塊の状態で出土しました。アスファルトは新潟県周辺の日本海側で産出したものです。 |
詳しく見てみよう
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こうした出土遺物は、この地の人々が東北や関東の人々と強い結びつきをもち交流を行っていたことを示しています。阿賀野川を介した交流・交易の実像を示すとともに、低地に暮らす縄文人の生活や精神文化を考えるうえで重要です。 |
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282アスファルトの付いた遺物
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注口部の修復
折損した茎の修復
石鏃の固定 |
石鏃の固定 |
折損した茎の修復 |
中古部の修復 |
アスファルトの付着した土器片 |
アスファルト塊 |
塗布に使用した
土器片・石器
パレットにした土器 |
加熱溶解に使用した土器 |
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283呪術具
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284祭祀具 石船戸遺跡 |
284a石棒 縄文時代晩期初頭~前葉 約3100~3000年前 新潟県阿賀野市百津/上中野目/福田.
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石棒
北関東の石材を使用※
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石棒
被熱し端部が欠損 |
※北関東の石材を使用した石棒は、当然北関東で製作配布されたと思いますが、、北関東と遺跡との間は大変離れていて、この緑色凝灰岩の石棒が魅力的だったのか、、重いものを延々運んでいます。
交換材は何だったのでしょう。アスファルトを多用する遺跡ですが、アスファルトの産出地ではないようです。 |
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284b土製品
動物形土製品 |
動物形土製品 |
動物形土製品
左:中に小石が入っている |
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284cアスファルト付着土器
※実に不思議です
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土偶は身代わり。人がケガをしたら土偶のその部分を折り取って身代わりにするものだと聞いています。つまり、「壊されてなんぼ」のもんです。
壊されるための道具なのに、それをあとからアスファルトで接着するとはどういうことなのでしょうか。
治ったから元に戻す。 ならば、接着剤のない大半の遺跡ではどうでしょう。壊すところがなくなったら、そのまま捨てています。
漆やアスファルトで修復するのは、その地域だけの行為でしょうか。 |
※近年の土偶観
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土偶とは女性を現わしたものではなく、食物(木の実など)の精霊を多産を意味する女性としてその豊饒を願う象徴であるという考え方が出ています。 |
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284d動物形土製品
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284e漆赤彩土器 晩期前葉
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285晩期前葉の土器
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286晩期初頭の土器
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290弥生時代
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291八日市地方遺跡ようかいちじかたいせき 弥生中期 約2300年前 石川県小松市小馬出町91番地
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日本海側屈指の弥生時代中期の大規模拠点集落です。周辺の河川や潟湖を通じ、海へと繋がる水上交通の要衝に位置します。平成25~27年度の
発掘調査では、3重の環濠に囲まれた住居域とその外側に広がる墓域を確認しました。 |
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292木製祭祀具 八日市地方遺跡
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縦斧:太形蛤刃などを取り付けて、野球のバットのように横からスイングして気を伐採する。
横斧:刃部は斧柄に対して交差する(農具の鍬の)様に取り付けられ。欠き取る様に使用する。 |
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縦斧と横斧 |
斧柄(縦斧用)
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木製祭祀具 |
木製匙 |
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戈形、戈形柄 |
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木製祭祀具
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剣形
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鳥形
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293
横斧、縦斧 |
舟形
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300八日市地方遺跡
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301八日市地方遺跡 石川県小松市日の出町 弥生時代中期
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居住域や河川からは、多量の土器のほか、集落内で生産された碧玉製の管玉やヒスイ製の勾玉、それらの原石、未成品、製作道具などが多数出土しています。中にはスイ製の垂飾と碧玉製の管玉が一連になった美しい装身具もあります。 |
柄付き鉄製鉇(やりがんな)
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柄が完全な形で残っている鉇(やりがんな)は初めての発見で、柄の装着方法や使用方法が明らかになりました。鉇や鉄斧の出土は、日本列島の広い範囲に鉄器が普及し始める前の弥生時代中期に北陸にも鉄器が普及していたことを示す貴重な成果です。 |
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くわしくみてみよう |
装身具出土状況 |
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柄付きヤリガンナ |
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302柄付き鉄製ヤリガンナ
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303玉類製作工程 八日市地方遺跡
ヒスイ玉類製作工程
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304
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305
管玉
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装身具 |
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装身具一連
碧玉製管玉
ヒスイ製勾玉×2
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石針
左:瑪瑙製
右:安山岩製 |
玉作の工程 |
管玉製作の工程
荒割り→形割り
荒 |
割 →→ 形
石鋸分割 |
割→→整
石鋸分割 |
形 |
→ |
研磨
(砥石) |
→ |
穿孔
(石針) |
→ |
研磨
(玉砥石) |
→ |
完成 |
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306土製品 八日市地方遺跡の石川県小松市出土の分銅形土製品
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310古墳時代
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310ニサンザイ古墳 古墳時代中期 5世紀中葉 大玉を送る祭りの大木橋 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
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史跡百舌鳥古墳群は、仁徳天皇陵古墳を初めとする大小の古墳が、4世紀後半~6世紀前半にかけて築かれた古墳群です。
ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群最後の大王墓と考えられており、墳長約300m。全国で7番目の規模を誇る巨大前方後円墳です。 |
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内濠の発掘調査により、墳裾や葺石が見つかりました。築造時期は出土遺物から5世紀中葉であることが明らかになりました。また、蓋きぬがさ立ち飾りなど多くの木製品が見つかり、墳丘には木製立物(様々なものを模した木製の飾り)が立て並べられていたことがわかりました。 |
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後円部の中軸線上で、内濠にかけられた幅12m、長さ約55mに及ぶ木橋の痕跡が見つかりました。
この木橋はかけられた後、短期間で撤去されていたようです。こうして古墳にかけられた木橋は初めての発見で、巨大古墳で執り行われた葬送儀礼の一端を垣間見る貴重な成果です。 |
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311
古墳時代 |
ニサンザイ古墳 |
ニサンザイ古墳 |
百舌鳥古墳群全景 |
墳丘の立て飾り |
木製品出土状況 |
木橋
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木橋の柱材 |
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313
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槽
食材を入れる食器 |
蓋(きぬがさ)立ち飾り
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一木鋤
翳(さしば)形木製品
蓋(きぬがさ)立飾り |
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翳(さしば)形木製品 |
一木鋤 |
笠形木製品
笠形木製品 |
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蓋復元図 |
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320伝法古墳群古墳時代後期~飛鳥時代 6世紀後半~7世紀後半 大刀抱き 富士の麓に 眠る長 静岡県富士市
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旧富士川氾濫原東岸の富士山麓の緩やかな斜面に6~7性器にかけて築かれた古墳の総称です。東西約2km、南北約3.5kmの範囲に80基以上の古墳があり、発掘調査によりこの地の開発を指揮した個性豊かな首長達の姿が浮かび上がってきました。 |
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321
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327中原4号墳
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副葬品の内容から、6世紀後半~7世紀前半にかけて葉渡来人との深い関わりが認められます。一方で、7世紀中頃以降は
、東日本各地の軍事的指導者達と共通する豪華な馬具などが増えることから、ヤマト政権~一層重視されるようになったとみられます。 |
東平1号墳
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付近には、駿河国富士郡衙の可能性のある東平遺跡があります。こうした立地とこの古墳から出土した豪華な副葬品からは、古墳時代後期から飛鳥時代にかけて地域開発をになった首長たちが奈良時代に郡領氏族へと成長する過程を読み取ることができます。 |
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中原4号墳 |
中原4号墳
開口部側遺物出土
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東平1号墳 |
石室、大刀出土 |
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322 |
322a 中原4号墳
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銀象嵌装大刀
銀象嵌装剣 |
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鉄鏃 |
鐙吊金具
あぶみつりかなぐ |
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鍬鋤先・鉄斧・鉄鎌 |
鉄斧・鉄鎌
ヤリガンナ・毛抜き
ノミ |
毛抜き・鑿・金橋・
刀子・円頭大刀 |
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322b東平1号墳
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324国久保古墳
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鉄鐸・玉類
国久保古墳 |
刀剣類
円頭大刀
銀象嵌八窓鍔付大刀
銀象嵌八窓鍔付大刀
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銀象嵌八窓鍔付大刀
銀象嵌八窓鍔付大刀 |
東平1号墳
銀象嵌八窓鍔付大刀 |
東平1号墳
丁字形利器 |
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325東平1号墳
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東平1号墳
杏葉・辻金具
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壺鐙 |
西平1号墳 |
方頭大刀
蕨手刀 |
銅製腰帯具 |
東平1号墳
金銅製環状鏡板付轡
心葉形鏡板轡
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馬具名称 |
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330古代
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330史跡 上野国多胡郡正倉跡 奈良時代~平安時代 8世紀~10世紀 法倉の 屋根を彩る 蓮の花 群馬県高崎市吉井長池
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利根川の支流である鏑川が切り開いた広大な谷の中に位置します。
近くには和銅4(711)年に古代多胡郡の設置を記念して他立てられた特別史跡多胡碑があります。平成23年からの発掘調査で、多胡郡衙の正倉跡を発見しました。 |
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正倉とは、税として集めた米などの穀物を保管した倉庫のことです。見つかった遺構で注目されるのは、東西16.8m×南北7.2mの大きな礎石建物です。周辺から多量の瓦が出土したことから、屋根は当時としては希少な瓦葺きの倉庫だったことがわかりました。 |
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この瓦葺倉庫は、正倉の中でも格式の高い「法倉」であったと考えられます。この頃、蝦夷との戦いのために、関東から多数の兵や物資が動員されていました。この立派な倉は、戦時下において国家の権威を高めるために建てられたと考えられます。 |
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331
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332瓦
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333
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336
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340中世
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340史跡聖寿寺館跡 室町前半~戦国時代前半 15世紀前半~16世紀前半 向鶴 アイヌと和人を つなぎとめ 青森県南部町小向村中39
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奥州街道と鹿角街道の結節点に築かれた三戸南部氏の居館跡です。近年の発掘調査により、南北18間(36m)×東西21間(42m)に及ぶ掘立柱建物や二階建てと考えられる礎板石建物などを確認しました。 |
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館内からは、4000点以上の陶磁器が出土しています。このうち7割は中国産で、高級陶磁器が多いのが特徴です。さらに、本州アイヌ文化に関する骨角製品や、有孔銭貨、シロシ(印)付染付皿、ガラス玉が出土しました。 |
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中世の本州北端部では、この遺跡だけではなく史跡十三湊遺跡(青森県五所川原市)などでも、和人による室町・戦国文化とアイヌ文化が入り混じる状況が確認できます。これらの遺跡は、戦国社会の多様性を知る上でも重要です。 |
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341
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聖寿寺館跡 |
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遺跡遠景 |
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発掘調査区全景 |
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聖寿寺館の縄張り |
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342出土物
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銅製目抜き金具 |
調度品銅製金具 |
ウサギ形 |
向鶴銅製目抜金具 |
本州アイヌ文化の骨角製品 |
イクパスイに似ている |
笄こうがい
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344
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櫛払
櫛の相似道具 |
ガラス玉 |
有孔銭貨 |
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中国陶磁器 |
シロシ付染付皿 |
元青花蓮池魚藻文盤 |
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346
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金箔土器 |
犬形土製品 |
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カルカロドン・メガロドンの化石(巨大ザメ) |
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中国陶磁器 |
青磁酒会壺 |
青磁鉄斑紋柑口瓶 |
瑠璃釉水注 |
瑠璃釉梅瓶 |
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350中世 |
350愛宕山遺跡 安土桃山時代~江戸時代初期 16世紀末~17世紀初頭 戦国の 名だたる武将を おもてなし 京都市右京区嵯峨愛宕町
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京都盆地地北西にそびえる標高924mの愛宕山の山頂付近にある山林寺院です。平安時代から江戸時代にかけて築かれたとみられる人工的な平坦面を9ヶ所確認しました。また、参道沿いには石築地や土塁、池の窪みも見つかりました。 |
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山頂直下の急斜面では、安土桃山時代から江戸時代初頭の陶磁器が多数採集されました。
その斜面の上部には平坦面が広がっており、正保4(1647)年以前に所在した愛宕五坊と称される宿坊などが平坦面に存在したと考えられます。 |
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陶磁器には、当時大流行していた茶の湯の席で用いられた高級品が数多く見られます。
当時愛宕山には武運長久を願い、名だたる大名が参詣していました。これらの器は、身分の高い人々をもてなす際に使用されたものと考えられます。 |
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351
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愛宕山遺跡
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愛宕山遠景
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平坦面の分布 |
遺物散布状況 |
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石築地 |
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353
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唐津焼
絵唐津鉢 |
織部焼
志野織部平向付
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志野織部平向付 |
青織部平向付
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総織部鉢
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355
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360 |
360特集C2
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360特別史跡 埼玉古墳群
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361埼玉古墳群 埼玉県行田市 5世紀後半から7世紀前半
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特別史跡埼玉古墳群は、埼玉県名発祥の地、行田市にあり、およそ南北800m東西500mの範囲を墓地としています。古墳群は5世紀後半から7世紀前半の約150年間に作られ、現在は11基の大型古墳のうち9基の大型古墳とそれに伴う小円墳が特別史跡に指定されています。 |
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稲荷山古墳は埼玉古墳群の中で最初に作られた古墳で、5世紀後半の築造とされています。
昭和43年に後円部の発掘調査を行い、礫槨と粘土槨の二つの埋葬施設が見つかりました。
礫槨からは金錯銘鉄剣を始めとした多くの副葬品が発見され、昭和58年に国宝に指定されています。 |
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362銘文 |
362a稲荷山古墳 金錯銘鉄剣 銘文 意味 さきたま古墳群
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稲荷山古墳出土
金錯銘鉄剣
レプリカ
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研ぎ出し前 |
研ぎ出し前
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研ぎ出し後 |
研ぎ出し後
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362b表面
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362c裏面
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362d 金錯銘文の発見
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昭和53年、鉄剣の保存処理の過程で「世紀の大発見」と言われた銘文が見つかりました。
「辛亥年」「獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみ」「杖刀人首じょうとうじんのおびと」など115文字が過金象嵌で刻まれていることがわかったのです。
平成19年には金錯銘鉄剣の復元プロジェクトが始まり、現代の名工たちの叡智と技術を駆使し、7年の歳月を経て鉄剣の復元が行われました。 |
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崎玉古墳群では、現在も計画的な発掘調査と整備事業を進めています。古墳それぞれの特徴を生かした整備を進めており、古墳公園として人々の憩いの場ともなっています。新たな取り組みとして、期間限定で古墳群を舞台にした謎解きゲームなども実施しました。崎玉古墳群ではこれからも調査と整備のあり方を追求し続けていきます。 |
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363 |
363a特集2 我が町が誇る史跡・名勝・天然記念物~
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「文化財保護法」によると「記念物」とは、我が国にとって歴史上・学術上価値の高い遺跡、芸術上・鑑賞上価値の高い名勝地、学術上価値の高い動物・植物・地質鉱物の総称で、その中でも重要な物は文部科学大臣が「史跡」「名勝」「天然記念物」に指定することができるとされています。
「記念」という言葉には「あとの思い出として残しておくこと」(大辞林)という意味があります。つまり「記念物」とは、残したい大事な物なのです。
こうした「記念物」を保護する制度である「史跡名勝天然記念物保存法」が、大正8年(1919)に施行されてから、昨年で100年の節目を迎えました。
文化庁では、「記念物」を「国民の宝」「地域の宝」として未来に受け継ぐ意思を共有したいとの想いから、2019年から2021年に「記念物100年」事業を行うこととし、「発掘された日本列島」展でも、3年間にわたって特集展示を行っています。
今年は「我が町が誇る史跡・名勝・天然記念物」と題して、記念物の魅力を広く国民の皆さんと共有するために行われている全国各地の取り組みを紹介します。 |
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我が町が誇る史跡・名称・天然記念物 |
記念物とは
未記述 |
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363b古きを守る新しきわざ 稲荷山鉄剣 ~X線の力~
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稲荷山鉄剣の金錯銘は、保存処理に伴うX線写真撮影によって発見されたものでした。この世紀の大発見の陰には当時の最新技術の利用があり、これを契機として金属製品の細全処理前にX線写真を撮影することが定着していくことになりました。 |
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X線によって発見された象嵌は、表面を覆うサビを取り除くことによって直接観察できるようになります。
そのためのサビ取り・クリーニングは、X線写真を確認しながら、そして顕微鏡を除きながら行う緻密な作業の繰り返しによって成し遂げられました。 |
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363c 日光杉並木街道 栃木県日光市
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特別史跡・特別天然記念物日光杉並木街道は、日光街道、例幣使街道、会津西街道の三街道にわたる並木道で、日本で唯一、国の特別史跡と特別天然記念物の両方に指定されています。高さ30mを超える巨木が連なる姿は荘厳で見るものを大いに魅了します。 |
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杉並木は徳川家の家臣であった松平正綱、正信親子2代により寛永2年(1625)から二十数年の歳月をかけて植えられたものであるため、現在まで390年あまりの長い歴史が刻まれています。総延長は30kmを超え、世界一長い並木道としてギネスブックにも 掲載されています。 |
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杉並木の中には、生育環境の悪化や老齢化等の理由により、樹勢が弱ってしまった杉が数多くあります。そうした杉の保護のために行っている事業の一つが木柵工です。土壌流出を防止し、根を保護するために平成8年度より設置を開始しました。現在は既に設置した木柵の改修を実施しています。 |
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日光杉並木街道附
並木寄進碑
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特別史跡・特別天然記念物日光杉並木街道
杉並木 |
全景 |
木柵 |
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363d 基肄(椽)きい城跡 佐賀県基山町
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大宰府の南の守りとして築かれたとされる古代山城。山頂からは、博多湾、筑後平野などを望むことができ、立地の良さを体感することができます。
城内には、土塁や礎石建物、門、中世の遺構などが残っており、なかでも水門の石垣の技術の高さは圧巻です。 |
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363e 佐渡金銀山遺跡 佐渡市下相川
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佐渡島に所在する史跡佐渡金銀山遺跡は、日本を代表する鉱山の一つです。16世紀半ばから本格化した鉱山開発により、金銀産出量が飛躍的に増加しました。三つの鉱山遺跡のほか、鉱山の経営拠点や使節、集落、鉱山臼を供給した石切り場などが残っています。 |
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相川金銀山は慶長元(1596)年に発見された佐渡島最大の金銀山です。金銀鉱脈を掘り取った巨大な露頭掘り跡である道遊の割戸などの採掘遺構のほか、佐渡奉行所跡や上相川地区の鉱山集落など鉱山に関係する遺跡が残っています。 |
ガイダンス施設
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史跡の価値と魅力を発信し、現地を見学するための拠点となる佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」が平成31年4月に開館しました。
当施設では観光情報の提供やガイドツアーの申し込み茂行っています。 |
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佐渡金銀山 |
北沢浮遊選鉱場 |
相川金銀山跡
道遊の割戸 |
きらりうむ佐渡外観 |
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363f 久留倍官衙遺跡 三重県四日市市
くるべかんがいせき
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久留倍官衙遺跡は、古代伊勢国朝明郡(あさけぐん)の郡衙と考えられる遺跡です。
特徴は、➀政庁・正倉院などの施設全体像や3時期の変遷がわかる、②主要施設が東を向いている、
③672年「壬申の乱」、740年「聖武天皇東国行幸」の舞台となった可能性があるなど、古代史を知るうえで大切な遺跡です。 |
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検出された遺構により、遺跡の性格が3時期で異なることがわかりました。
Ⅰ期には東を正面にしたコ字形の政庁が形作られます。7世紀~8世紀前半です。
Ⅱ期には長大な東西棟側柱建物を中心とした建物群が造られます。聖武天皇の東国行幸(740年)との関わりが指摘されています。
Ⅲ期には正倉院が造られました。8世紀後半~9世紀末です。 |
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これまで政庁八脚門の復元、正殿の立体表示、正倉院の平面表示などを行い、令和2年11月には歴史公園としてオープンします。
また、平成30年3月からガイダンス施設「くるべ古代歴史館」を開館し、市民ボランティアによる解説や古代の体験に力を入れています。
古代史の大きな出来事の舞台となったこの遺跡に、ぜひお越しください。 |
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久留倍官衙遺跡
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遺跡全景 |
建物配置図 |
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整備された公園 |
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363g 岩橋千塚古墳群 和歌山県立風土記の丘
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特別史跡岩橋千塚古墳群は、紀ノ川下流域の岩橋丘陵上に4世紀末から7世紀にかけて築造された、約900基の古墳を有する国内最大級の古墳群です。特別史跡の保存と活用を行う和歌山県立紀伊風土記の丘では、古墳の発掘調査や整備に取り組んでいます。 |
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370特別史跡岩橋千塚古墳 和歌山県立紀伊風土記の丘
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この円筒埴輪には、3条の突起が貼り付けられています。
最下段の突帯は、他の突帯と異なる最下段突帯に特有の「断続ナデ技法」と呼ばれる技法が使われているとされていました。
しかし現在では、この「断続ナデ技法」は、埴輪の表面に突帯となる粘土紐をナデ付け、他の突帯には行われる丁寧な横ナデが省略された結果とされています。
また、粘土紐をナデ付ける技法は、5世紀後半以降に、近畿を中心に一定の範囲で広がる、円筒埴輪の製作者達の関係性を示す目安の一つと考えられています。 |
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岩橋千塚古墳
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円筒埴輪
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レプリカ
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特別史跡
岩橋千塚古墳群
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380史跡梅之木遺跡 北杜市埋蔵文化財センター
竪穴建物復元のために製作された道具 |
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土掘具(鹿角) |
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石斧
打製石斧(土堀具) |
樹皮製箕(み) |
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390史跡梅之木遺跡 長野県北杜市
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史跡梅之木遺跡は山梨県北斗市明野町に所在します。甲府盆地北西の丘陵地、標高800mにある縄文時代中期後半(約5000年前~4500年前)の集落遺跡です。多数の竪穴建物がある住居域、隣接する川沿いの生活痕跡、川へ通じる縄文時代の「道」がセットで発見されました。 |
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梅の木遺跡の住居域では、150軒程の竪穴建物がドーナツの様に環状に並んでいました。住居域の中心に「広場」が設けられ、500年の間に広場を囲んで住居が立てられた結果、環状集落が形成されました。写真の白丸が直径5m前後の竪穴建物です。 |
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住居域の北側に「湯沢川」という小さな川が流れています。梅之木遺跡の集落での生活を支えた大切な川です。湯沢川のほとりには平たい石を敷いた「敷石建物」、石蒸調理施設である「集積土坑」などが発見されました。日当たりの悪い低地に敷石建物が設けられた理由は謎です。 |
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住居域から湯沢川へ下るには急な北斜面を降りなければなりません。梅之木遺跡の人々はこの斜面を横切るように緩やかな「踏み分け道」を造りました。斜面を削って幅1m程の平らな道を造成したようです。道沿いで縄文土器のかけらが出土しています。 |
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史跡公園を活用して、市民が竪穴建物を復元建築するプロジェクトを行っています。建材を伐採するための石斧作りから初めて1年がかりで住居1件を復元します。竪穴建物づくりの体験を通じて縄文時代をより「深く」学ぶことができます。ぜひご参加ください。 |
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地域展 新潟県立歴史博物館 長岡市
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500地域展
特別展 「火焔型土器のデザインと機能」
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501入口展示
特別展 「火焔型土器のデザインと機能」 |
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火炎型土器出土遺跡 |
火焔型土器 |
火焔型・王冠型土器
文様構造と各部名称 |
王冠型土器 |
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510初期火焔土器
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511
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火焔型土器
1鉢型土器 火焔型土器
2鉢型土器 火焔型土器
3深鉢型土器 王冠型土器
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1鉢形土器 火焔型土器 長岡市山下遺跡 縄文中期 約5000年前
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512
2鉢形土器 火焔型土器 長岡市山下遺跡 縄文中期 約5000年前
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513
3深鉢型土器 王冠型土器 長岡市山下遺跡 縄文中期 約5000年前
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520第1章 火焔型土器の誕生
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縄文時代は約1万5000年前から始まる草創期、早期から前期を経て中期、そして後期から晩期に至る六期に区分される。
火焔型土器は、約5000年前、縄文時代中期中葉、中部地方の日本海側に発達した縄文土器様式である。
存続した時期は実年代で300年程と思われる。1世代を30年程度と見積もると、十世代に相当する。
火焔型土器は新潟県を貫流する信濃川流域を中心に、北は山形県境、西は富山県境、そして東から南方面は山並みに妨げられながら、
群馬県、福島県、長野県に囲まれている範囲に及ぶ。
火焔型土器は、少なくとも新旧三段階の変遷を辿る。火焔型土器は、周辺の縄文土器の影響を受けて誕生した。火焔土器の誕生期にあたる第一段階では、器体や口縁部の突起が小さいことが特徴である。 |
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火焔土器(展示№7)は、近藤篤三郎によって、昭和11年(1936)年の大晦日に、新潟県長岡市関ケ原町馬高遺跡で掘り出されたものと伝えられる。
それまでは破片の一部しか見ることのなかった独特な縄文土器の一つが、ほぼ全体の形態がわかるように姿を表したのだ。
縄文土器を特色づける突起に特徴があり、とりわけ、四つの大仰な突起は燃え盛る炎を連想させ、いつしか「火焔土器」と呼ばれるようになった。ニックネームを持つ最初の縄文土器の誕生である。
その後、同類が次々発見されることになった。それらが「火焔型土器」と分類された。更に研究が進むと、火焔型土器のほかに「王冠型土器」などがあることがわかり、それらを総合して、「火焔土器様式」とよぶようになった。 |
第1章
火焔型土器の誕生 |
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530第2章 火焔型土器と王冠型土器
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火焔型土器と王冠型土器はよく似ている。破片だけでは、それらを区別する根拠を見出せない。しかし、両者には明らかに違いがあり、全体が復元されたものを見ると、それぞれを分類できる。火焔型土器と王冠型土器各々に厳然とした企画性があり、独自の個性をも発揮している。
典型的な火焔型土器や王冠型土器は、縄文土器の名の由来である。縄目の模様「縄文」がない。容器を整形したうえで、その器面に粘土紐を貼り付けて、竹管を半截した調整具で凸凹を作り、渦巻文やS字文様を生み出していく。
火焔型土器と王冠型土器それぞれの明確な違いは口縁部にある。火焔型土器は水平の口縁に大きな四つの鶏頭冠突起と鋸歯状のフリルがある。一方、王冠型土器は四つの突起と一体となった波状口縁となる。 |
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火焔型土器や王冠型土器は、観賞用作品ではない。火焔型土器や王冠型土器の多くには内面にオコゲが残り、ほかの大多数の縄文土器と同様に、食品の煮炊きに使ったものと考えられる。日本列島の古い土器では魚類を煮ていた可能性が推定されている。科学の進歩によって、火焔型土器や王冠型土器に残されたオコゲや土器に染み込んだ脂質を分析できるようになった。
火焔型土器や王冠型土器の化学分析の結果、土器に付着したオコゲの炭素窒素同位体比は、土器は遺跡ごとに違う種類の食品の煮炊きに使われたことを示している。また、脂質の分野では、信濃川上流の遺跡出土の土器は、サケのように海洋で大半を過ごした海産資源を煮炊きしていたことを示している。 |
第2章 火焔型土器と
王冠型土器 |
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土岐付着のオコゲと
染み込んだ脂質の化学分析 |
オコゲの炭素窒素同位体比分析 |
オコゲ及び脂質成分の安定同位体比分析 |
火焔型土器と王冠型土器の大きさの多様性 |
火焔型土器 |
王冠型土器 |
火焔型土器の作り方 |
X線CTによる火焔型土器製作技術観察 |
X線CTによる火焔型土器製作技術の観察 |
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540中期の火焔土器
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550第3章 火焔型土器のココロ
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火焔型土器は食品を煮炊きした。火焔型土器に求められる機能として、必要な容量が確保されれば十分に事足りる。
それゆえに口縁の突起は土器の使い勝手に直接関わらない。
人目を引く大きな突起は無用の長物であり、むしろ食品の出し入れの障害物である。また、口縁部に突起があるがゆえに土器の重心は高くなり、不安定で倒れやすい。使い勝手が悪い上に消費する粘土、製作に費やす労力も馬鹿にならない。 |
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火焔土器の突起が煮炊きの機能を実現するカタチの問題ではなく、縄文人の世界観に関係することを示唆する。
人類が開発した生命維持に関わる土器あるいはまた道具全般は、総じて人類の能力を補うことを目的に、効率を重視した機能一辺倒のカタチがデザインされる。対して火焔型土器は効率を犠牲にしても、縄文人の心象が投影されて、始めてデザインが成立する。
信濃川流域の縄文人は、例えば土偶や石棒など縄文人の世界観に関わるものを多くの土製品や石製品で残している。
多様な土製品や石製品は、火焔型土器とともに育まれた豊かな精神性を伝えている。 |
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560現代に生きる火焔土器
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570中期の火焔土器 |
571a
7深鉢形土器 火焔型土器 新潟県長岡市 馬高遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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571b
深鉢形土器 火焔型土器 新潟県十日町市野首遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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571c
80深鉢形土器 王冠型土器 新潟県十日町市野首遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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深鉢形土器
王冠型土器
十日町市野首遺跡
縄文中期
約5000年前 |
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16新潟市秋葉遺跡
深鉢型土器
王冠型土器
縄文土器
高さ28.0cm |
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571d
20深鉢形土器 王冠型土器 新潟県小千谷市俣沢遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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571e
21深鉢形土器 王冠型土器 出土地不明 縄文中期 約5000年前
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580中期の火焔土器 |
581 |
581a
14深鉢形土器 火焔型土器 新潟県三条市 吉野屋遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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14深鉢型土器
火焔型土器
新潟県三条市
吉野家遺跡 縄文中期約5千年前
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581b
74深鉢形土器 火焔型土器 新潟県魚沼市 原・居平遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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581c
22深鉢形土器 火焔型土器 新潟県津南町 道尻手遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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22深鉢型土器
火焔型土器
津南町道尻手遺跡
縄文中期約5千年前
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582石製品 彫刻付石皿 新潟県魚沼市 清水上遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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70彫刻付石皿
魚沼市清水上遺跡
縄文中期(約5千年前) |
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磨石 魚沼市清水上遺跡 縄文中期(約5千年前
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583土製品 |
583a土偶 長岡市 山下遺跡 縄文時代中期 約5000年前
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土偶
新潟県長岡市山下遺跡
縄文中期約5000年前
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583b三角土版 長岡市 山下遺跡 縄文時代中期 約5000年前
三角土版 |
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583c耳栓(耳飾り) 長岡市 山下遺跡 縄文時代中期 約5000年前
耳栓(型耳飾り)
長岡市山下遺跡
縄文中期約5千年前 |
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589火焔型土器のデザインと機能
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