発掘された日本列島2023 2023.11.21tsushima
発掘された日本列島2023展対馬博物館
長崎県対馬市厳原町今屋敷668-2
0920-53-5100
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交通 |
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福岡空港から飛行機35分。65才以上高齢者割¥9450あり |
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博多港からジェットフォイール2時間15分¥9450、フェリー4時間45分¥7580 |
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特徴 |
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常設展示の小物類が巨大な棚になっていて、鑑賞できないものが多い。 |
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帰りの船中で聞いた話。対馬はアナゴが名物。フルコースでも食べる価値ありだそう。
土産物は街中で買うこと。フェリーターミナル、空港にはない。 |
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目次
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01博多→対馬
02福岡空港
03飛行機
05対馬空港
07空港から市内
10博物館外観
12史跡金石城址
100我がまちが誇る遺跡
120A仙台湾の貝塚
123里浜貝塚
125南境貝塚
127沼津貝塚
130土偶と土器
141貝塚の発掘調査風景
142縄文人の利用動物
143里浜貝塚縄文カレンダー
144銛の使用実験
鹿角製釣り針の作り方
145東北歴史博物館
150石斧
160骨角器 |
200B日本窯業の源流
206猿投窯と名古屋の窯跡
207猿投窯のはじまり
230尾張の古墳と須恵器生産
233須恵器生産の変化
235緑釉陶器と灰釉陶器
270中世窯業への転換
271猿投の瓦塔と山茶碗
290瀬戸物の時代
300C物部氏と西京
311八尾市の歴史
312渡来人と物部氏
320久宝寺遺跡の遺物
327郡川西塚古墳
330渋川廃寺
340愛宕塚古墳と物部氏
341守屋の争いと寺院建立
342称徳天皇と道鏡の都
343由義寺の発見
350黒谷10号墳
360由義寺跡
370大石古墳
373装飾付器台
380渋川廃寺須恵器甕
390由義寺跡遺物 |
400新発見考古速報
410縄文時代
430大久保貝塚
441貝塚の土器
444~土面・石器
446~土版・土偶
450骨角装身具
455魚骨に石鏃
500弥生時代
510惣ヶ池遺跡
600古墳時代
610ウワナベ古墳
620下里見天神前遺跡
625朝顔型埴輪
633馬形埴輪
637人物埴輪
640佐良山古墳群
643桑山1号墳
644家父長制論と佐良山古墳群
645鈴付高坏
646桑山5号墳
647筒形土製品
660北大竹遺跡
663祭祀遺構出土品
680古墳副葬品
681細畝3号墳
683桑山南3号墳 |
700古代
710飛鳥京跡苑池
760立部遺跡・古墳群
800中世
810騎西城跡
813十六間筋兜・前立
827武器・武具
※資料 三所物
※考察 障子堀の出土物
833武家屋敷の金貨幣
900近世
910史跡 郡山城
915金箔瓦
1000特集遺跡から読み解く多様な歴史文化
1010オホーツク海沿岸の人々
1013常呂遺跡群
西月ヶ岡遺跡
シブノツナイ竪穴住居群
標津遺跡群
朱円竪穴住居群
1020海上の道
1023
徳之島カムイヤキ陶器窯跡
黒島兵平家城遺跡
安房城跡
与論城跡
1030全国史跡整備 |
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01博多・対馬 |
02福岡空港
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※福岡空港は、新幹線博多駅ホームから1階に降り、さらに地下鉄に乗り換えてすぐに行ける。知る限りの空港よりも超便利なアクセスです。 |
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この朝は出発を待つ中国人修学旅行生が窓際を占拠していました。 |
日本のどこを?関東・京都・九州のどこか、を巡って、お疲れでした。 |
はしゃぐこともなく静かでした。きっと早朝の起床で眠いのかも。 |
有名観光地に来る中国人は全員、大声で怒鳴りあっていますから、長旅で疲れたんでしょう。 |
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03飛行機
※この日、➀乗客待ちで30分搭乗が遅れ、滑走路で30分離陸待ち。合計1時間到着が遅れたため、市内の他の歴史施設の撮影や
朝食・昼食・夕食すら摂れず、その後の予定が全て潰れてしまいました。
離島便はプロペラ機 |
申し込みに失敗して通路側でした。 |
博多上空
窓際の人が代わってくれました。 |
博多湾上空 |
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壱岐島上空 |
上空から見ると壱岐島と周囲に岩礁のある島に見えました。 |
私は壱岐は一つの島だと思っていました。 |
あの遠くに見えるのは済州島か朝鮮半島 |
いや、その前に壱岐諸島だけじゃない。沢山の小島が。多島海になっている。これは知らなかった。 |
先史時代の航海者はあのような島々に漂着したり、立ち寄ったりしたのだろうか。遺跡はあるのか。 |
対馬島
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対馬島の周囲は岸壁になっている。日本海は浅いので、大洋底から盛り上がってない。 |
荒波で削られれば、運ばれた砂が浜辺を作るがそれがない。強い潮流 |
押上断層で生まれた島なのかな。 |
海岸段丘上にある空港に着陸。
その昔、3000万年前 |
この島も大陸からちぎれて南下し日本海に引き出された大陸の破片 |
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05対馬空港 福岡5往復、長崎4往復 一日9便。ちなみに、長崎空港はかなりアクセスの不便な空港。
飛行機エンジンと
ターミナルビル |
二階は待合と売店
地方空港は何もない |
ボーディングブリッジあるけどタラップから歩き |
海岸段丘の頂部に滑走路がある |
いい空の旅出した。
超短かったけれど |
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空港内
ネコ看以外なし。 |
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この先荷物受け渡し場だけ。 |
帰路を飛行機にし、
バスで来ると、
何もないところで
何時間も待たされる
ことになるのだ。
バスの便が超ワル |
隣席の客に聞くと、
この空港ではほとんどが自家用車の出迎えか
レンタカー移動だという。 |
なぜこんな不便なバスダイヤを組んでいるのか不思議だ。
タクシーで空港へは猛烈高額になる。
それが狙いかも |
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07空港から市内
ターミナルビル |
風光明媚
美しい多島海 |
この島は海に沈んだ山野でした。溺れ谷。 |
広島県しまなみ海道も山岳ドライブで溺れ谷。 |
だからとても高い山もある。 |
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全島が対馬市
人口 31550人
産業 特になし
一次産業・建設・サービス |
U-yuberスーツさんが訪問したために一躍脚光を浴びている青ヶ島も同様大きくてもやはり離島に産儀容はない。離島振興策を講じないと。 |
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10博物館外観
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11博物館要覧
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開館:2022年4月30日
住所:長崎県対馬市厳原町今屋敷 (繁華街の中心部にある。)
施主:対馬市。県立歴史民俗資料館(長崎県立歴史研究センター)を合築。
資料:宗家文書など重要文化財、歴史・自然史関連資料を収蔵展示。 引用新建築データ
※ 宗氏の出自 宗氏や柳氏など、一時期日本の芸術運動にかかわった人がいたように思うけど、名前も出て来ない。 |
対馬博物館
中心街に聳える石垣の上に新建築 |
石垣は古城の遺跡 |
正面入口は、ぐる~と大回りしないと入れない |
北口があって、右奥へまわればすぐ入れます。 |
中国式の広大な前広場を備えた城を巡るのも楽しい。 |
(笑)
ぐるっとまわったのは私だけ。その他の人は北口から入場。何度も飛行機で来ている人達でした。 |
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12史跡金石城址 国指定 平成七年三月二八日、平成二八年三月一日 (追加)
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金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。 東流する金石川に沿って、高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約400mの敷地が石垣で区画構成されている。東端から120mほどにある櫓門を抜け、枡形部を過ぎて対馬宗家関係資料など複数の絵図に描かれた大階段を上がると、館があった平地に出る。
この地に居館が置かれたのは16世紀のことで、発端は享禄元 (1528)年に起きた一族の内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた一四代宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。
ここが体裁を整え、城となったのは、17世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから130年ほどのち、第三代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。ことに万治2(1659)年と寛文元
(1661)年に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。義真は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支えられて金石屋形の拡張と改修も行った。国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。こうして寛文五~九
(1669)年ごろにかけて整備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。なお、その後、義真は延宝6(1678)年に桟原に居館を造って住まいを移し、幕末に至った。
文化8 1811)年に易地聘礼で朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使 小笠原大膳大夫 (小倉城主)の宿館として用いられた。そのため新たに各種施設を多く建築しているが、詳細
な城内の様子を描いた絵図が対馬宗家関係資料に残されている。
城の西にある、かつて「心字池」と呼ばれた旧金石城庭園は、対馬藩士で倭館窯での作陶にも携わった中庭茂三が、藩主の命により17世紀末に作ったと推定される庭園で、平成19(2007)年に国から名勝の指定を受けた。
対馬市教育委員会 |
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13
史跡金石城方面 |
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博物館正門入口へ |
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足元の巨大な粘板岩に |
こんな石が島内から切り出せるようだ |
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なんという巨大な |
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100 |
100我がまちが誇る遺跡
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110
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我がまちが誇る遺跡
発掘調査にとって大切なことは、 新たな遺跡 や遺物の「新発見」だけではありません。むし ろ、たくさんの発掘調査の成果を積み上げ、そ れを分析することで明らかになる
「発見」のほ うが、実は多くあるのです。
「我がまちが誇る遺跡」では、そうした継続 的な発掘調査の成果に基づく地域研究によっ て明らかになった 「地域の個性的な歴史」や 「魅力的な遺跡」
を、 全国の地方公共団体の 企画提案により紹介します。
今回は、
縄文時代のタイムカプセルとも呼べ る貝塚の一大密集地として知られ、考古学研 究の初期から注目を集めてきた宮城県の仙台湾、
古墳時代以降1600年、日本窯業生産の メッカとして歴史を育む愛知県名古屋市、
古代 豪族の雄、 物部氏の拠点として発展し、称徳天 皇と道鏡の幻の都が地下に眠る大阪府八尾 市の三つの企画を取り上げました。
南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古 くから多様な地域文化が花開き、その一部は現 在にも継承されています。このような個性豊かな 地域文化に目を向けることは、日本の歴史や文
化の魅力・面白さを 「再発見」することにもつな がるでしょう。 そして本企画が少しでも「地域を 元気にする」ことにつながれば、と考えています。 |
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120A仙台湾の貝塚(宮城県)
~全国屈指の貝塚密集地帯~
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121
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仙台湾の貝塚-全国屈指の貝塚密集地帯一 ◇展示コンセプト◇
本展覧会では、 宮城県の仙台湾に所在 する、縄文時代の貝塚から発掘された資料を展示します。 貝塚とは、 当時の人々が捨て たさまざまなゴミが、
長い時間をかけて積 み重なったものです。縄文時代の貝塚は単 なるゴミ捨て場ではなく、葬送や、ものおく りの役割もになった大切な空間でした。 ま
た貝塚から出土した資料は良い状態で 残っていることが多く、 過去のくらしを復元 するための大きな手がかりになります。
明治時代以来、 良好な資料が出土する 遺跡を求めて、全国の研究者が仙台湾の 貝塚を訪れ、発掘調査をしました。 調査で は最先端の研究手法が実践されており、
縄 文時代の生活を復元するための重要な成 果が見つかっています。 ここでは、そうした 調査研究とその成果も踏まえて、縄文人の 豊かな営みを表す土器土偶・石器・骨
角器などを紹介します。
東北歴史博物館 |
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122
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宮城県仙台湾 密集する貝塚 ◇まちの紹介◇
仙台湾は、 福島県相馬市から宮城県石巻市牡鹿半島まで、 海岸線の長さが約130kmにわたる湾です。
南部は長大な砂浜が広がる一方 で、北部は支湾 (湾内にある湾) と砂浜部、リア ス海岸が入り組んでいます。
縄文時代の貝塚 は北部に集中しており、中でも支湾である松島 湾と石巻湾に多数形成さ れています。 |
里浜貝塚
里浜貝塚遠景 |
里浜貝塚
縄文後期土器
約4000~3000年前
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123
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1. 里浜貝塚
日本三景で有名な松島湾に所在します。 縄文時代前期から弥生時代にかけて形成された、日本最大級の貝塚です。
南北約640m、東西 約200m、貝層の厚さは最大6mあります。また発掘調査によって、土器や石器、骨角器と いった資料が良好な状態でみつかっていま す。
今回は縄文時代後期から晩期の資料を展示しています。 |
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124里浜貝塚 後期
里浜貝塚 晩期
里浜貝塚
縄文晩期
約3000~2600年前 |
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2.南境貝塚
石巻湾の奥に位置している、北上川東岸の丘陵上にある貝塚です。 主に縄文時代中期か ら後期にかけてハマグリを中心とする貝塚が 形成されました。
発掘調査では豊富な資料や 動物骨などが見つかりましたが、 特に銛頭は その特徴的なかたちなどから 「南境式」 と呼ば れます。 |
2.南境貝塚 |
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中沢目貝塚 長根貝塚
宝ヶ峯貝塚 南境貝塚
川下り響貝塚 沼津貝塚
西ノ浜貝塚
大木囲貝塚 屋敷浜貝塚
里浜貝塚 仁斗田貝塚
二月田貝塚
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南境貝塚貝層断面 |
南境貝塚 |
縄文中期の土器
約5500~4500年前 |
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縄文後期土器
約4000~3000年前
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127
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3.沼津貝塚
北上川の下流域にあった古稲井湾に面する、 縄文時代前期から弥生時代の貝塚です。 沼津 貝塚では時代が新しくなるにつれて、 貝塚を構 成する主な貝がハマグリからアサリ、ヤマトシジ
ミと移り変わっており、 遺跡周辺の環境が変化 していたことがうかがえます。 今回は縄文時代 中期の土器や骨角器を展示しています。 |
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128沼津貝塚
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130土偶と土器 |
131土偶 |
132土偶1
南境貝塚
土偶口縁部の装飾
の可能性もある
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土偶口縁部 って、なんだ。
土製容器の口に土偶を貼り付けた装飾
といういみにとれる。
儀式用か? 気味の悪い土器だ。
しかし、そんな土器はこれまで見たこともない。 |
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133土偶2 二月田貝塚 土偶、独鈷石、貝輪、釣針、ヤスなどが出土
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土偶
二月田貝塚
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口元に三角形の表現がある土偶 |
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134 |
135土器 仁斗田貝塚
仁斗田貝塚
縄文中期土器
約5500~4500年前
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大木8b式
4300年前
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渦巻き模様に特徴 |
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140 |
141
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4. 貝塚の発掘調査風景
貝塚の調査では、細かなものを見落とさないよう慎重に発掘をします。また里浜貝塚などで
は、微細層位(非常に細かく層を分けること)という発掘方法を採用しました。たいへん難しく手間のかかる調査方法ですが、縄文時代の人がどのような生活をしていたのかを、詳細に把握することができました。 |
4. 貝塚の発掘調査風景 |
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貝塚調査風景
里浜貝塚台囲風越地点平成3年
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142A -補 縄文人が利用した動物たち
各水域周辺の貝塚から見つかった骨を調べて、 縄文人がどこで何を採って食べていたのかを示しました。
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河川流域
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オオタニシ イシガイ ヌマガイ サワガニ
ギギ科 フナ ウナギ ドジョウ
タナゴ ニゴイ ウグイ ハゼ
シカ イノシシ ウサギ タヌキ
マガモ キジ ヒシクイ
ミコアイサ オオハクチョウ |
海と川の混じり合う地域 |
シカ イノシシ ウサギ タヌキ
ヤマトシジミ イシガニ
ギギ科 フナ ウナギ ニゴイ ウグイ
ハゼ サケ スズキ ボラ クロダイ
マガモ キジ
ミコアイサ オオハクチョウ |
内湾域周辺 |
シカ イノシシ ウサギ タヌキ キジ
ガザミ イシガニ オキシジミ ハマグリ レイシガイ ウニ
アサリ スガイ
イワシ
フグ マアナゴ ウナギ マダイ
クロダイ カレイ
アイナメ スズキ カサゴ マガモ ウミウ ヒメウ ミコアイサ ウミスズメ |
縄文人が獲っていた
外洋域の生き物 |
マグロ
スズキ ブリ マダイ
アシカ イルカ オサガメ |
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143里浜貝塚縄文カレンダー
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5. 縄文人の年間スケジュール
今回展示した資料の中には、 塩作りに使われ た製塩土器や、大きな魚などをとるのに使われ た銛頭など、特定の季節や生業に強く結びつ いたものがあります。 どういった活動がいつ行 われたのかをわかりやすく伝えるため、里浜貝 塚では縄文人の年間スケジュールを表現した 縄文カレンダーが作成されています。 |
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A-補 里浜貝塚の縄文カレンダー解説
縄文時代晩期の暮らしは次のように復元されて います。
春は、アサリを中心とする貝類を大量に採集し ました。 一部は干し貝などの保存食に加工した可能性もあります。
初夏にかけては、回遊してきた大型のマダイや マグロ類を積極的に獲得するべく銛頭を使った漁労を行いました。
夏には並行して塩作りも盛んになります。
秋はトチクリ・クルミといった堅果類の採集 を行いました。
冬は狩猟のシーズンで、ニホンジカやイノシシ といった哺乳類を数多く捕りました。 狩猟によって得られた獲物は食べるだけでなく、その をいろいろな道具に用いました。 |
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144
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6. 銛の使用実験
石巻で考古学の研究をしていた楠本政助は、 南境貝塚から出土した道具と同じかたちのも のを模倣して作り出し、 その使用方法を検討し ました。 資料を観察するだけではわからない技 術に、 楠本は手間を惜しまず迫りました。 その 成果は、 東北歴史博物館の展示などに広く取 り入れられています。 |
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銛を使う実験をする
楠本政助
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釣針の作り方 |
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➀石器で溝を削り出した鹿角に石斧を当て、くさびのように突き刺して割り出す。(上段写真) |
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②石器を使って鹿角を短冊形に加工する。
③石錐などを使って穴を開 け、そこから湾曲部を作る。 |
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④水を研磨剤として、鹿角を砥石で磨き上げつつ仕上げていく。 (中段写真)
⑤ 完成(下段写真) |
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145
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7. 東北歴史博物館
宮城県の多賀城市にある東北歴史博物館では、今回展示した資料の保管と展示活用をしています。 東北歴史博物館は宮城県を中心としながらも、東北地方の歴史や文化を広く発信することを目的として活動しています。縄文時代についても、重要文化財を含めた資料の展示を積極的に行っています。 |
7東北歴史博物館
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東北歴史博物館 |
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150石斧 南境貝塚
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160骨角器 |
161
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163骨角製品
鳥形骨器
沼津貝塚
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鳥形骨器
南境貝塚
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骨角器
南境貝塚
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鳥形骨器 |
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165南境貝塚
南境貝塚 |
叉状角製品 |
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この製品には、柄がついていたと思われます。
上記 沼津貝塚・上記 南境貝塚の鳥形製品ともども、
三点とも、特別な場で使う杖的威儀具とおもわれる。 |
装飾品
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200 B 日本窯業の源流(愛知県名古屋市)
~猿投窯と名古屋の焼き物文化~
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200
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我がまちが誇る遺跡
発掘調査にとって大切なことは、新たな遺跡や遺物の「新発見」だけではありません。むしろ、たくさんの発掘調査の成果を積み上げ、それを分析することで明らかになる「発見」のほうが、実は多くあるのです。
「我がまちが誇る遺跡」では、そうした継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の個性的な歴史」や「魅力的な遺跡」を、全国の地方公共団体の企画提案により紹介します。
今回は、縄文時代のタイムカプセルとも呼べる貝塚の一大密集地として知られ、考古学研究の初期から注目を集めてきた宮城県の仙台湾、古墳時代以降1600年、日本窯業生産のメッカとして歴史を育む愛知県名古屋市、古代豪族の雄、物部氏の拠点として発展し、称徳天皇と道鏡の幻の都が地下に眠る大阪府八尾市の三つの企画を取り上げました。
南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くから多様な地域文化が花開き、その一部は現在にも継承されています。このような個性豊かな地域文化に目を向けることは、日本の歴史や文化の魅力・面白さを「再発見」することにもつながるでしょう。そして本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながれば、と考えています。 |
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201日本窯業の源流
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204日本窯業の源流―猿投窯と名古屋のやきもの文化 ◇展示コンセプト◇
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「瀬戸物」が陶器全般を指す言葉として使われている通り、日本を代表する窯業地として知られる瀬戸。同じ愛知県の常滑とともに、中世に始まり、現在まで活発な生産を続ける代表的な窯場「六古窯」に数えられ、日本遺産にも選ばれています。このほかにも、東海地方には数々の窯業地があり、私たちの生活に欠かせない様々なやきものを生産しています。しかし、東海地方が窯業王国としての地位を確立するに至った、すべての始まりが現在の名古屋市にあったことはあまり知られていません。
かつて、愛知県には「猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)」と呼ばれる大窯業地があり、古墳時代から鎌倉時代まで、現在確認されているだけでも1,000基を超える窯がつくられていました。猿投窯自体の生産が終わった後も、その技術は「六古窯」をはじめとする各地の窯業地に引き継がれ、現在まで生き続けることとなるのですが、その最初の窯は名古屋にありました。古墳時代から約1,600年にわたる、名古屋市と窯業の関わりの歴史を紹介します。 |
※六古窯:古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。
日本窯業の源流―猿投窯と名古屋のやきもの文化一◇展示コンセプト◇
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猿投山西南麓古窯跡群
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瀬戸地区(SE) 尾張旭市・瀬戸市
東山地区(H) 名古屋市
岩崎地区(I) 長久手市・日進市
鳴海地区鳴海支群(NN) 名古屋市・東郷町
折戸地区(O) 日進市、
黒笹地区(K) みよし市、
鳴海地区有松支群(NA) 大府市・豊明市、
伊賀谷地区(IG) 豊田市・刈谷市 |
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205愛知県名古屋市遺跡が密集する熱田台地と東山丘陵 ◇まちの紹介◇
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名古屋市は、本州中央部の濃尾平野に位置する愛知県の県庁所在地で、人口230万人を超える全国有数の大都市です。
市域の地形は、東から西に丘陵地、洪積台地、沖積地、干拓・埋立地の4つに分けられます。名古屋城の建つ熱田台地は、古くから集落遺跡が密集する市の中心地です。ビルが立ち並ぶ都会のイメージがありますが、東部の丘陵地には、現在も緑が残っています。 |
◇まちの紹介◇
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東山丘陵から熱田台地を望む
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206
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1. 猿投窯と名古屋市の窯跡
昭和29(1954)年に発見された猿投窯は、翌年から愛知用水建設工事に伴う本格的な調査が始まりました。名古屋市内ではその前後から、在野の研究者らによる分布・発掘調査が行われており、昭和47(1972)年には、市教育委員会によるH-G-101号窯の発掘調査が行われました。市内ではこれまでに80基以上の窯跡が発掘調査されています。 |
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207
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2. 猿投窯のはじまり―古墳時代中期― 5世紀初頭
東海地方最古の須恵器窯は、 現在のところ、名古屋市のH-111号窯とされています。ところが、縄文・弥生時代以来の居住域であった、熱田台地上の集落遺跡ではH-111号窯の出土遺物よりも古い特徴をもつ須恵器がしばしば出土します。猿投窯の生産は5世紀初頭頃には始まっていたと考えられますが、実際の「最古の窯」はまだ見つかっていません。 |
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窖窯
古墳時代中期 (4世紀末頃)に朝鮮半島から窯業技術が伝わり、須恵器の生産が始まりました。斜面下方の焚口から投入された燃料が燃焼室で燃え、その熱が上方の煙道部へ抜けていくことによって、焼成室に並べられた製品が高温で焼きあがります。焼成の際に出た灰や失敗品は「灰原」に廃棄されました。 |
2. 猿投窯のはじまり―古墳時代中期―
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伊勢山中学校遺跡
廃棄土坑から完成品を含む大量の須恵器や土師器、鉄製品等出土 |
窖窯
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窖窯の構造
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煙道部
焼成室
燃焼室
焚口 |
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210 |
211H-G-101号窯
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H-G-101号窯 |
軒丸瓦・軒平瓦 |
小型仏器・香炉蓋 |
花瓶・香炉 |
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212伊勢山中学校遺跡
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214
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215高蔵遺跡
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230尾張の古墳と須恵器生産
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231
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3.尾張の古墳と須恵器生産
古墳時代の猿投窯は、 窖窯で須恵器と埴輪を併焼するなど、独特な生産を行っています。
副葬品にするための装飾性の高い須恵器も数多く生産されています。熱田台地は、継体天皇擁立にも関わったとされる国造尾張氏の本拠地であったと考えられています。
古墳 時代の猿投窯の独特な生産も、尾張氏の関与によると推測されます。 |
尾張の古墳と須恵器生産
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断夫山古墳の円筒埴輪
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断夫山古墳
厚田台地の先端にあり、終り氏の一族の墓ともいわれている。 |
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233
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4. 須恵器生産の変化
飛鳥時代になると、仏教の伝来や、宮都の造営といった社会の変化に伴い、須恵器生産にも変化が訪れました。古墳時代以来の伝統的な器種に代わり、金属器を模倣した新しい器種がつくられるようになり、生産地も猿投窯全体に広がっていきました。品質の良い猿投窯の須恵器は、藤原京や平城京でも出土しています。 |
I-101号窯から出土した須恵器 7世紀
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I-101号窯からは、 古墳時代から生産されていた合子型の蓋杯 (A・B)、 飛鳥時代に登場した平底の杯 (D)とつまみのある蓋 (C・E)、飛鳥時代後半以降に生産の中心となる、高台のある杯
(F) が出土しています。蓋は、次第に内側の「かえり」 がなく、口縁部を折り返しただけのものが主体になります。 |
4. 須恵器生産の変化 |
I-101号窯発掘調査の様子
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I-101号窯から出土した須恵器
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I-101号窯から出土した須恵器
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235
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5. 花開く平安時代 ―緑釉陶器と灰釉陶器一
9世紀前葉、 中国陶磁器の影響を受けた緑釉陶器の技術が畿内から伝わると、猿投窯の製品は高級品として全国各地に流通しました。
また、猿投窯は草木灰を釉の原料とし、緑釉陶器よりも容易に生産できる灰釉陶器を開発しました。灰釉陶器の技術は周辺の国々にも広く伝わりました。 |
緑釉陶器の生産
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緑釉陶器の生産には、まず製品を窖窯で素焼きする「一次焼成」をしたのちに、緑釉を掛けて、低温で 「二次焼成」を行う必要がありま す。
NN245号窯は、各地で一次焼成した素地を集めて二次焼成を行っていた窯と考えられています。 |
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NN245号窯出土緑釉陶器稜椀 (名古屋市博物館蔵)
製品同士が融着しないよう、三又トチンなどの窯道具を挟んで 重ね焼きするため、 内面には 「目跡」 が残る。 |
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240 |
241H-15号窯 名古屋市天白区植田山
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鳥紐(とりちゅう) |
鳥紐蓋
古墳時代に葬送儀礼のために作られた須恵器の蓋で、つまみ部分は鳥が象られています。
鳥鈕蓋(とりちゅうふた)は東海地方でのみ出土しており、現在までに23遺跡で36点しか見つかっていません。
引用「須恵器 鳥鈕蓋」
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243NN259窯跡
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皿 |
陰刻花文埦
西満線刻埦・段皿
・陰刻花文埦
緑釉陶器素地皿
・灰釉陶器 |
陰刻花文椀
・灰釉長頸瓶
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灰釉長頸瓶 |
灰釉長頸瓶
灰釉小瓶・灰釉浄瓶
高坏
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灰釉長頸壷 灰釉小瓶・灰釉浄瓶
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灰釉長頸壷 |
印刻花文椀
段皿・印刻花文椀
灰釉陶器
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245
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247I-101号窯
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有台坏蓋・西満線刻椀
有台坏・素地皿
緑釉陶器 |
λ101号窯
無台坏蓋・有台坏蓋
・西満線刻椀
無台坏・有台坏
須恵器
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短頸鉢・高坏・細頸瓶
無台坏蓋・有台坏蓋
・「西満」線刻椀 |
短頸鉢・高坏・細頸瓶 |
坏蓋・無台坏蓋
坏身・無台坏 |
短頸鉢
坏蓋・無台坏蓋
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ハソウ・短頸鉢・高坏 |
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249NN245号窯 名古屋市緑区
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三又トチン・素地片
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西満線刻椀・香炉蓋片・緑釉陶器片
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西満線刻椀・香炉蓋片
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稜椀・両椀
緑釉陶器
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270
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6. 中世窯業への転換
日宋貿易が本格化した11世紀末頃から、中国陶磁器の輸入の増加により灰釉陶器の価値が低下したため、猿投窯の生産は無釉で粗雑な山茶碗へと転換してゆきました。しかし、生産量は衰えることなく、むしろ今まで以上に活発な生産が行われました。窯の構造や碗の形態も、大量生産に特化したものに変わってゆきました。 |
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271
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7. 特別なやきもの―猿投窯の集大成―
一部の窯では、平安京や鎌倉の寺院などで用いられる瓦や仏器などの特殊品も生産していました。
近年発掘調査が行われたH-G-8号窯からは、 最大幅約75cm、 厚さ約9cm、 推定高さ210cmを超える巨大な瓦塔の破片も出土しています。 しかし、こうした特殊品生産も13世紀初頭には終了し、 猿投窯は、 次第に姿を消していくこととなります。 |
特別なやきもの
-猿投窯の集大成-
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瓦塔復元模式図
九輪
請花
露盤 |
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屋根
上重
屋根
下重 |
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H-G-8号窯全景
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280瓦塔と山茶碗 |
281瓦塔 H-G-8号窯
瓦塔銘文
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(保?)
□元三年一月廿五日壬午
大檀那入道西念
□□□塔 礼拜供養
當□□□ 近阿耨 □ |
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大勸進金剛佛子蓮口
壱仟□□経書写願事
□□X
右□□下野国□□□ |
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瓦塔の銘文
下重の壁面には「口(保) 元三年」 (1158年) の紀年銘や、
「大檀那入道西念」 「大勧進金剛佛子蓮口」 という2人の僧侶
とみられる名前があり、 造塔の経緯などが記されていたと考えられます。 |
軒瓦 請花 屋根 下重
緑釉陶器
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瓦塔部品
屋根 下重 |
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瓦塔銘文 |
下重 |
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283屋根
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285請花
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請花 |
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緑釉陶器 |
花瓶
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花文壺片 |
花文壺片 |
花文壺片 |
軒平瓦 |
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287山茶碗
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山茶碗
碗 小椀 椀
NA324号窯B窯 |
山茶碗
碗 小椀 椀
NA324号窯C窯
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山茶碗
片口鉢 小椀 耳皿 椀
NA324号窯D窯
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耳皿 椀
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片口鉢 小椀
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289陶磁器
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290
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8. 「瀬戸物」 の時代と名古屋
猿投窯の生産は鎌倉時代の半ばには終了しますが、北の瀬戸に移っていた一部の工人が、再び施釉陶器を生産するようになり、「六古窯」のひとつ瀬戸窯が成立しました。江戸時代後期には、瀬戸窯の製品は名古屋城下の御蔵に運ばれ、検品したのちに全国に出荷されていました。城下では、検品ではじかれた製品を廃棄した土坑が見つかっています。 |
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その後の名古屋と瀬戸物
明治時代には鉄道によってさらに多くの「瀬戸物」が輸送できるようになり、海外にも輸出されました。名古屋には瀬戸で焼かれた製品に絵付けを行う工場が多く営まれました。 |
「瀬戸物」 の時代と名古屋
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その後の名古屋と瀬戸物
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白川公園遺跡の廃棄土坑
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名古屋陶磁器会館 |
昭和7(1932)年、名古屋陶磁器貿易商工同業組合の事務所として建設された建物が現地に残されています。
国登録文化財 |
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300C物部氏の足跡と幻の西京の面影(大阪府八尾市)
~史跡高安千塚古墳群・渋川廃寺・史跡由義寺址~
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301物部氏の足跡と幻の西京の面影 ◇展示コンセプト◇
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305 甑 初期須恵器 久宝寺遺跡
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310 |
311八尾市一河内平野と高安山麓がおりなす歴史- ◇まちの紹介◇
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大阪府の中央東寄りに位置する八尾市は、市の面積の7割近くを遺跡が占め、古代史の舞台になった遺跡も多く存在します。 市域西方は河内平野が広がり、
旧石器時代から人々が住み始めました。
市域東方の生駒山系の高安山 麓には、 中河内最大の前方後円墳の心合寺山古墳や大型群集墳の高安千塚古墳群など多くの古墳が分布します。 |
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八尾市-河内平野と高安山麓がおりなす歴史-
◇まちの紹介◇
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八尾市の3つの史跡由義寺跡 心合寺山古墳 高安千塚古墳群
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312Ⅰ. 河内平野の渡来人と物部氏
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河内湖周辺の渡来人の集落
古墳時代中期、 河内湖に面した河内平野の開発を担ったのは、土木や土器生産、鉄鍛冶、馬飼などの先進的な技術・知識をもった渡来人でした。
彼らの多くは、 河内湖近くの集落で暮らしていまし た。
物部氏は、海上交通の玄関口である河内湖を重要視し、南岸の久宝寺遺跡のあたりに物部氏の河内における拠点を置いたと考えられます。 |
I. 河内平野の渡来人と物部氏
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河内湖周辺で渡来系の遺物が出土した遺跡 (赤丸の地点)
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1:池島・福万寺
2:郡川
3 :郡川16号墳
4:久宝寺北
5:久宝寺南
6:久宝寺
7:渋川廃寺
8:亀井
9:八尾南
10:木の本
11: 太田川遺跡 |
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313Ⅰ.河内平野の渡来人と物部氏
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物部氏の居館跡の可能性がある大形掘立柱建物群
久宝寺遺跡の大形掘立柱建物は、6世紀中頃のものが2棟、 6世紀後半のものが8棟見つかりました。
すべて北西方向に軸をそろえて同じ向きに建てられています。 重複している建物があることから、建て替えがあったことがわかります。
これらは6世紀末には廃絶しています。 建物群の存続時期から、物部氏の居館跡の可能性があります。 |
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久宝寺遺跡の大形掘立柱建物
柱根が残るものや直径1mの大形のものなど、たくさんの柱穴が見つかりました。 建物の時期は、柱穴の埋め土から出土した土器などで決めることができます。 また、近くにある遺構との関係から時期がわかることもあります。 |
I. 河内平野の渡来人と物部氏
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掘立柱建物群の配置
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久宝寺遺跡の大形掘立柱建物
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314
Ⅰ. 河内平野の渡来人と物部氏
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高安山麓の古墳と物部氏の墓域 6c前半~7c終息
物部氏が台頭する6世紀前半、 中河内で初めて横穴式石室を前方後円墳に採用した郡川西塚古墳と郡川東塚古墳が築造されます。
両古墳をきっかけ に、物部氏配下の集団の墓域と考えられる高安千塚古墳群の造営が始まり、6世紀後半に最盛期を迎えます。
しかし、7世紀には終息しました。 これら古墳の動向は、物部氏の消長を反映するとみられます。 |
I.河内平野の渡来人と物部
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高安山麓と郡川西塚古墳
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320 |
321
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久宝寺遺跡 |
無蓋高坏
有蓋高坏(初期須恵器)
把手付椀 |
太田川遺跡
古墳初期と後期
鉄滓・鞴羽口・砥石 |
金床石 |
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322
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323久宝寺遺跡 古墳前期の水田跡 3世紀末 (布留式古段階) 3世紀を中心とする多数の墳墓が築造された
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325
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327郡川西塚古墳 古墳後期 6c前半
郡川西塚古墳 |
円筒埴輪
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朝顔型埴輪
家型埴輪
人物埴輪
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330渋川廃寺 飛鳥時代前期(7世紀前半)創建
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渋川廃寺創建時期の土器集積
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平瓶
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台付長頸壷 |
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台付長頸壷 |
渋川廃寺創建時期の
土器集石 |
坏身・坏身
坏蓋 |
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340
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Ⅰ. 河内平野の渡来人と物部氏
大阪府下最大級の横穴式石室の愛宕塚古墳と物部氏
愛宕塚古墳は、全長約16mの両袖式の横穴式石室をもつ6世後半~末の円墳です。 高安千塚古墳群から北に約1.5kmに位置します。
石室の石材は一辺約2mもある巨石を積み上げています。玄室面積の約20㎡は大阪府下最大級で、大和の大型横穴式石室に匹敵します。
石室の規模と馬具などの豊富な副葬品から、被葬者は物部氏と考えられています。 |
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341Ⅱ. 物部守屋との争いと寺院の建立
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物部守屋と渋川廃寺の建立
用明二年(587) の仏教の受け入れをめぐる物部守屋と蘇我馬子らの争いで、物部守屋は敗死し、所有していた渋川の地に中河内最古の寺院となる渋川廃寺が建立されます。
創建当時の伽藍は明らかでないですが、奈良時代再建の塔基壇跡が見つかっており、神護景雲三年(769)に称徳天皇が参詣した龍華寺はこの塔が立つ渋川廃寺の可能性があります。 |
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※丁未の乱 (飛鳥時代 587年)
崇仏派の蘇我馬子は廃仏派の物部守屋を討つべく大軍を率いて河内国渋川郡に進軍し、餌香川の河原で物部軍に勝利し、守屋は敗死した。
飛鳥時代の二大政治経済勢力の蘇我氏と物部氏が、仏教という宗教を根拠にして殲滅を画策し、先手を討った蘇我氏が勝利し、物部宗家を皆殺しにした事件。
物部氏の末裔である僧銅鏡は没落した物部氏を再興しようとして、称徳天皇に接近した。
西暦600年代初頭に渋川に寺が創建された。称徳天皇が769年に参詣した「龍華寺」がのちの渋川廃寺と考えられている。 |
Ⅱ. 物部守屋との争いと寺院の建立 |
渋川廃寺の位置
(南西から)
奈良時代後期に
再建された塔基壇 |
渋川廃寺の文字瓦
再建された奈良時代後期の塔基壇は、版築も残る一辺約10mの大きさでした。ここから出土した瓦に刻まれた右の文字の「下主寸」は「しもすぐり(下村主)」と読め、渡来系氏族の姓です。「塔分」とは、この瓦が塔に用いられたことを表しています。 |
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342Ⅲ. 称徳天皇と道鏡が夢みた都
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西京の造営と弓削道鏡
称徳天皇とともに弓削道鏡が、彼の故地であ
る弓削の地で由義宮と由義寺を整備し、仏教を中心とする都・西京の造営を進めました。
神護景雲四年(770) 四月、称徳天皇は由義寺の塔建立に携わった人々に位階を授けたのち、平城宮で崩御し、西京の造営は中止になります。
そして、道鏡は下野薬師寺に下向し、この地で亡くなりました。 |
Ⅲ. 称徳天皇と道鏡が夢みた都
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由義寺の七重塔のイメージ (画早川和子氏) |
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343幻の由義寺の発見
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Ⅲ. 称徳天皇と道鏡が夢みた都
幻の由義寺の発見
由義寺は長らく幻の寺でしたが、平成29年(2017)に寺院の象徴となる大規模な塔基壇がみつかりました。 一辺21.6mの壇正積基壇に復元でき、諸国の国分寺に建てられた塔と同様、七重塔の可能性があります。屋根に葺かれた瓦は平城宮や西大寺などの瓦に酷似しています。発見から1年後の平成30年(2018) 2月13日に史跡に指定されました。 |
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由義寺を明らかにする墨書土器
由義寺の周辺で出土した「寺」「院」「優婆夷 (女性の在家信者)」 と記された寺院 に関係した土器です。
由義寺の北東では、都づくりが本格的に進められていたことがわかる、建築資材等を運んだと見られる水路や石組みの船着場などが確認されています。 |
幻の由義寺の発見 |
由義寺の存在を明らかにした塔基壇(南西から)
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350黒谷10号墳 高安古墳群
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黒谷10号墳
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小型鉢 坏蓋 把手付コップ形土器
坏身 |
坏蓋
小型鉢 |
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黒谷13号墳
子持ち器台の鉢部
須恵器
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須恵器 |
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子持ち器台 |
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渋川廃寺
文字瓦
下主寸/塔分 |
素弁八弁蓮華文軒丸瓦 |
複弁八弁蓮華文軒丸瓦 |
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360Ⅳ. 物部氏にかかわる遺跡の解明にむけて
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由義寺跡の将来像
物部氏一族の弓削氏出身である道鏡が、西京の造営を進めたのは、物部氏復権の思いがあったのかもしれません。 わずかな期間の都づくりでしたが、今後、その象徴ともいえる由義寺跡の活用にあたっては、
河内の渡来系氏族の男女230人が参加した由義宮での歌垣のように、塔基壇を中心に多くの人々がつどう場所にできればと考えています。 |
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由義寺跡の将来像 |
由義宮での歌垣
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「西の都は万世の宮」と西京の永遠の繁栄が歌われました。
由義宮で行われた歌垣 (画 早川和子氏) |
渋川廃寺の鴟尾
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370大石古墳
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371大石古墳
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大石古墳は、6世紀後半の無袖式の横穴式石室です。 石室の奥には装飾付器台や有蓋高杯、坏身などのたくさんの須恵器が置かれていました。 装飾付器台の口縁には、ミニチュアのハソウと短頸壺の間に鳥が配置されています。 |
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有蓋高坏蓋 |
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大石古墳 |
大石古墳の土器の配置状況の復元
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有蓋高坏 |
有蓋高坏 |
有蓋高坏 |
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373装飾付器台 大石古墳
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375
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380渋川廃寺 須恵器甕
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390由義寺跡遺物
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細十二弁蓮華文軒丸瓦
細十六弁蓮華文軒丸瓦 |
須恵器 坏 |
均整唐草文軒平瓦 |
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磚・平瓦 |
鉄釘 |
文字瓦
東弓削遺跡(由義寺跡)
優婆夷
院 寺 |
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400新発見考古速報
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401
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ごあいさつ
文化庁長官 都倉俊一
我が国には四七万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえます。 これらは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適応して
地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの先祖の文化的なDNAというべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎といえるでしょう。
こうした遺跡をまもるため、毎年およそ八千件の発掘調査が行われ、数多くの成果 が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目された
成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年度から「発掘された日本 列島」展を開催しております。
本年も中核展示として、『我がまちが誇る遺跡』と『新発見考古速報』を行います。『我がまちが誇る遺跡』は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、宮城県、 愛知県名古屋市、大阪府八尾市の三つの自治体を取り上げます。
また、『新発見考古速報』では、縄文時代から近世まで、近年広く注目を集めた10遺跡を取り上げ、速報展示を行います。
さらに、特集展示『遺跡から読み解く多様な歴史文化』として、さまざまな視点から 遺跡や遺物を見ることにより、個性豊かな日本の歴史文化をパネルにて紹介します。
「オホーツク海沿岸の人々―多様な生活文化とくぼみとして残る建物」では、竪穴建物が埋まりきらず、くぼみの状態として確認でき、特徴的な景観を形成している北海道オホーツク海沿岸、「海上の道南島の遺跡がつなぐ文化史」では、海上交易の要衝として、南は琉球、北は九州や本州など、両地域の特徴をさまざまに反映した集落・グスク(城郭)が見られる琉球列島を取り上げて展示します。
今年度、本展覧会では三九遺跡、約480点の出土品等を、山梨県立考古博物館、対馬博物館の二館で巡回展示します。
文化庁は本年三月に京都府京都市に移転を開始し、五月には本格的に業務を開始し ました。 中央省庁初となる地方移転ではございますが、より一層、文化財保護行政に 取り組んでまいります。
多くの方々が本展覧会をご覧になり、さまざまな発掘調査の成果を間近にすること で、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化財の 保護へのご理解を一層深めていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、ご協力を賜りました関係各位に深 く御礼を申し上げます。
令和五年九月 JAPAN CULTURAL EXPO 20 文化庁 |
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日本列島発掘調査展2023 Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2023
日本列島では毎年約 8,000箇所の遺跡が発掘されています。埋蔵文化財は歴史と文化を雄弁に物語ります。それぞれの地域特有のもの。市民が交流できるのは、発掘された多くの遺跡のうちのほんの一部に過ぎません。そこで文化庁では、全国各地で特に人気の高い発掘調査の成果を、できるだけ早く、わかりやすく、多くの人に見てもらうため、1995年から毎年「日本列島発掘調査展」を開催しています。展覧会は今年で29回目を迎えます。
今年度は3件の展示を予定しております。
一つ目は「遺跡、わが町の誇り」と題した展示です。 南北に細長い日本列島には、古くから豊かな地域文化が息づいており、そのいくつかは現代まで受け継がれています。 本展示では、各地域の継続的な調査研究によって明らかになった成果をまとめ、個性豊かな遺跡を通して語られる「地域の歴史の魅力」をわかりやすく紹介します。本展では、
全国有数の貝塚密集地として知られ、これまで最先端の発掘技術による発掘調査で貝塚研究をリードしてきた宮城県の3つの発掘プロジェクトを紹介します。
古墳時代から日本陶磁の源流ともいえる猿投窯を経て、通時的な変遷を経て現在に至るまで、日本の陶芸文化の中心地である名古屋市。
古墳時代中期の河内平野の開拓から、近年発見された称徳天皇の由義寺まで、物部氏の歴史の鍵を握る八尾市。
二つ目は、「新発見考古速報」で、全国で最近発掘された縄文時代から近世にかけての遺跡10点を紹介します。 最近の発掘調査をお楽しみください。
三つ目は特別展「遺跡から読み解く多様な歴史と文化」。 展示パネルでは、遺跡や遺物をさまざまな視点から展示し、日本独自の歴史と文化を紹介します。 本展では、
特徴的な竪穴住居跡が確認されている北海道のオホーツク海沿岸地域と、
九州と琉球両国の特色を多彩に反映した集落やグスク(城)が残る、琉球列島を中心に展示します。 北は本州、南は琉球諸島に面し、海上交易の要衝でした。
Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2023
Around 8,000 sites a year are excavated in the Japanese archipelago every year. Buried cultural properties tell an eloquent story of the history and culture peculiar to each area. The citizenry can interact with but a fraction of the many sites excavated. So, the Agency for Cultural Affairs has held a 'Exibition of Excava- tions in the Japanese Archipelago' each year since 1995, to let as many people as possible peruse the product of particularly popular excavations around the country, as soon as possible and in an easy-to-understand manner. This year marks the 29th exhibition.
Three exhibits are planned for this fiscal year.
The first is an exhibit entitled "Archaeological Sites, the Pride of Our Town". The Japanese archipelago, which is long and narrow from north to south, has long been home to a rich variety of local cultures since ancient times, and some of them have been handed down to the present day. This exhibit compiles the results revealed through ongoing research into each region and introduces the "appeal of the history of the region" as told through the unique archaeological sites in an easy-to-understand manner.
This exhibition focuses on three excavation projects located in: Miyagi Prefec- ture, which is known for some of the most densely packed shell mounds in Japan and which has led shell mound research through excavations using the most advanced excavation techniques up to now; Nagoya City, where the heart of Japan's pottery culture has continued from the Kofun period, with the dia- chronic changes in the Sanage kilns, which can be said to be the origin of Japa- nese ceramics, to the present day; and Yao City, which holds the key to the story of the Mononobe clan, from their development of the Kawachi Plain from the mid-Kofun period to the recently discovered Yuge Temple of Emperor Shotoku. The second introduces 10 recently excavated sites around the country from the Jomon to Early modern times. Please enjoy these recent excavations.
The third is a special exhibition titled "Diverse history and culture revealed from Archaeological Sites." The exhibition panels introduce Japan's unique his- tory and culture by showing sites and artifacts from various perspectives. The exhibition focuses on the coastal areas of the Sea of Okhotsk in Hokkaido, where the remains of the distinctive pit dwellings have been confirmed, and the Ryukyu archipelago, where settlements and Gusuku (castles) that reflect the characteristics in various ways of both Kyushu and Honshu to the north and the Ryukyu islands to the south, which were key points for maritime trade. |
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新発見考古速報 |
ごあいさつ
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Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2023
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403
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新発見考古速報
出品遺跡
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北大竹遺跡 (埼玉県行田市)
下里見天神前遺跡 (群馬県高崎市)
大久保貝塚 (宮城県南三陸町)
佐良山古墳群 (岡山県津山市)
騎西城跡•騎西城武家屋敷跡 (埼玉県加須市)
惣ヶ池遺跡 (大阪府和泉市)
立部遺跡・立部古墳群跡 (大阪府松原市)
ウワナベ古墳 (奈良県奈良市)
史跡 郡山城跡 (奈良県大和郡山市)
史跡・名勝 飛鳥京跡苑池 (奈良県明日香村) |
年表
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旧石器~弥生 |
縄文後期~平安
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飛鳥~安土桃山 |
平安~江戸 |
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410縄文時代 Jomon Period |
411
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縄文時代 c. 15,000BPからc。 2,800BP
■概要:
土器の利用が始まり、この時期に日本列島各地で個性豊かな装飾性の高い土器(縄文土器)が作られるようになります。 人々は竪穴式住居で定住または半定住の生活を送り、狩猟、採集、漁を行っていました。
これらの社会は基本的に平等主義であり、人々に順位はありません。
彼らは土偶などの豊かな精神文化を持っていました。 男根石や祈りに使われる他の多くの石器。 耳飾り、ペンダント、その他のパーソナルアクセサリー。
(They had a rich spiritual culture, with Dogu clay figurines; phallic stones,
and many other stone tools used for prayer; ear decorations, pendants and
other personal accessories.)
展示遺跡:
宮城県の大久保貝塚では、縄文時代中期後期から後期中期にかけての貝塚が発見されています。 中期後期の層には多くのカキ殻が埋まっていたが、小規模な貝類加工作業場と考えられている。
後期層ではアサリやイワシを中心とした貝殻や魚骨、猪、鹿、鵜、鴨、雉の骨などの鳥獣の骨が出土します。 遠隔地から持ち込まれたアスファルトの塊や貝殻の装飾品も見つかった。
食料や道具として多種多様なものが使われていたと考えられます。 貝塚は、縄文時代の人々の生活様式や環境利用の変遷を明らかにする上で重要です。
Jomon Period
c. 15,000 BP to c. 2,800 BP
■Overview: The use of pottery begins, and highly unique and ornamental pottery (Jomon
pottery) is crafted during this period in various regions around the Japanese
archipelago. People lived sedentary or semi-sedentary lives in pit-dwellings,
and hunted, gathered, fished. These societies are fundamentally egalitarian
with no ranking of people. They had a rich spiritual culture, with Dogu
clay figurines; phallic stones, and many other stone tools used for prayer;
ear decorations, pendants and other personal accessories.
■Sites in exhibit: At the Okubo Shell Mounds in Miyagi Prefecture, shell mounds were found
dating from the late middle period of the Jomon period to the middle of
the late Jomon period. Many oyster shells were buried in the late middle-stage
layer, but it is believed to be a small-scale workshop for processing shellfish.
In the late-period layer, shells and fish bones, mainly from clams and
sardines, and bird and animal bones, such as boar, deer, cormorant, duck,
and pheasant bones, were unearthed. Lumps of asphalt brought from a remote
location and shell ornaments have also been found. It is presumed that
a wide variety of things were used for food and as tools. The shell mounds
are important for clarifying the lifestyles and changes in the use of the
environment by people living in the Jomon period. |
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430大久保貝塚
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431
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■大久保貝塚
■縄文時代後期中葉~晩期後葉
■約3500~2600年前
■宮城県南三陸町静川字大久保
三陸の マグロ打ち抜く 猛者の銛 |
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どんな遺跡かな?
大久保貝塚は宮城県北東部、志津川湾最奥部にあります。
東日本大震災からの復興事業である国道45号仮設道路建設や河川堤防建設に伴い発掘調査を実施し、縄文時代
晩期中葉~後葉 (約2800~2600年前)と、
後期中葉 (約3500年前) の貝層を確認しました。 |
大久保貝塚 |
どんな遺跡かな |
遺跡遠景 (北東から) |
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432
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くわしくみてみよう
晩期の貝層からは、当時の食生活を示す多量の貝殻や骨などの食糧残滓とともに、 土器・石器・骨角器といった生活道具、土偶や土面、石棒など祭りの道具も多数出土しました。また、各地との交流を示す土器や石器、装飾品等も出土しました。 |
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貝層検出状況
(北東から) |
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433
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くわしくみてみよう
志津川湾奥部で確認されている貝塚は、この貝塚のみです。さらに三陸沿岸では震災復興に伴い縄文時代の貝塚が多く調査されていますが、後期中葉以降の貝塚は少数です。東北地方における縄文時代の生活や環境利用の変遷を明らかにするうえで重要な遺跡です。 |
くわしくみてみよう |
貝層南北断面(東から) |
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440土器 |
441大久保貝塚の土器
縄文晩期中葉 約2800年前 大洞式期 前葉はBC式期なので、C1、C2式期でしょうか
縄文晩期中葉~後葉の土器 約2800~2600年前
晩期中-後
2800-2600年前
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四脚付壺 |
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香炉形土器
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深鉢
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縄文晩期後葉の土器 約2600年前
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444石器
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445
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446土製品
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四角形や楕円形を基本とする板状の土製品は土版と呼ばれ、縄文時代晩期の東北地方から関東地方にかけてみられる。東北地方では石製の岩版がまず作られはじめ、後に土製の土版へと素材が変わる。土版には顔や身体が立体的に表現される例や、女性を示す乳房や正中線(せいちゅうせん)が表される例もあり、土偶と共通するような役割を果たしていたとも考えられ、また紐を通すような孔をもつことからお守りとして使われたとも考えられている。
引用「土版」 |
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447土偶
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448骨角製品
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釣針、骨鏃 |
ヤス、組み合わせ式ヤス
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骨箆
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銛頭、根挟 |
鉤先、弭 |
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450装身具
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451装身具
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管状製品
鳥骨
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垂飾
サメ歯、熊歯
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貝輪 |
猪牙垂飾 |
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※石器しかない時代に
硬い牙や角、もろい鳥骨をこんなに見事に加工する技術が、専門職人ではなく一般人が持っているとは驚異です。 |
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453貝類
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マガキ、イシダタミ
オオウヨウラク
レイシ、イボニシ |
タマキビ、ツメタガイ
オオウヨウラク
コシダカガンダラ、ムラサキインコ |
クチバガイ、アサリ
ウチムラサキ、シラトリモドキ |
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455魚骨鳥骨
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石鏃が刺さったマグロ椎骨
マグロ族の椎骨 |
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※猛烈な力で硬いマグロの身を突き通し、正確に椎骨を射貫いて神経を切断し、大暴れして逃げられるのを防いだ。
究極の一投ですね。
物凄い腕力。パネのような身体。 |
鳥類骨 |
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456動物遺存体
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ウミタナゴ・アナゴ・ニシン・アイナメ |
ボラ・メバル・スズキ・タイ
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457動物依存体
オオカミ・イヌ・テン
タヌキ
イノシシ下顎骨×2 |
海獣類
キツネ・イタチ・ムササビ
・カワウソ・ノウサギ
ニホンジカ |
クジラ目
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アシカ・クジラ |
小型クジラも狩猟したのでしょうか。
それとも、寄りクジラだったのでしょうか。 |
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458
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ニホンジカ下顎骨
イノシシ下顎骨 |
ニホンジカ角座骨・枝骨
石鏃が刺さったニホンジカの椎骨
ニホンジカ下顎骨
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イタチ・ムササビ
狐・カワウソ・野兎・
中型獣、狸・犬・狼・テン
イノシシ下顎骨(幼獣) |
イタチ・ムササビ
狐・カワウソ・野兎・
中型獣、狸・犬・狼・テン |
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500弥生時代 c. 2,800 BP ~ c. 1,750BP
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■概要:
水稲栽培は中国大陸、朝鮮半島から列島に系統的に広がり、人々は青銅や鉄などの金属製の道具が使用されるようになりました。
人々は素焼きの弥生土器を使い、銅鐸や銅剣、銅矛などの青銅器を象徴とする祭祀を行っていました。 この時期に各地域の社会統合が始まり、社会の階層化が進みました。
米の栽培は北の北海道にも南の沖縄にも及んでいませんが、この両極端な地域には以前の文化につながる文化が継続していました。 北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれています。
展示遺跡:
大阪府惣ヶ池遺跡は弥生時代後期の高地性集落です。 近畿地方最古の鍛冶炉を備えた竪穴建物や小鏡も見つかりました。 ここの住民が青銅器や鉄器を所有し、鉄器も製造していたことは明らかです。
これまで、高地性集落は非常に閉鎖的で、避難場所や防御性集落などの特別な場所であると考えられていましたが、近年その考えが見直されています。
惣ヶ池遺跡の発見は、高地性集落でも早くから高度な物資や技術を保有していたケースがあったことを示唆しており、弥生時代後期の高地性集落や社会の意義を知る上で重要な遺跡である。
Yayoi Period c. 2,800 BP to c. 1,750 BP
■Overview: Wet rice cultivation is diffused in a systematic way from the Chinese mainland and the Korean peninsula to the archipelago, while people begin using bronze, iron and other metal tools. People used simple biscuit-fired Yayoi pottery and conducted rituals that take bronze instruments such as bells, swords and spears as their symbols. At this point, social integration of each area begins, and social stratification advances. Cultivation of rice reaches neither the northern island of Hokkaido nor Okinawa in the south, but these two extremes had cultures linking back to previous culture. In Hokkaido, this was called the Epi-Jomon period, and in Okinawa it was called the Kaizuka (shell mound) period.
■Sites in exhibit: The Sogaike Ruin in Osaka Prefecture was a highland settlement in the
late Yayoi period. A pit building with a blacksmith furnace and a small
mirror, the oldest in the Kinki region, were found there. It is clear that
the dwellers there had bronze and ironware, and also produced ironware.
Up until now, it had been believed that highland settlements were very
closed and special areas, such as havens for escape or defensive settlements,
but that view has been revised in recent years. The discovery of the Sogaike
Ruin suggests that there were cases where even highland settlements possessed
from early on advanced goods and technology, making the site important
for understanding the significance of highland settlements and society
in the late Yayoi period. |
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510惣ヶ池遺跡 |
511
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512
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どんな遺跡かな?
大阪府和泉市の北部を南北に縦断する信太山丘陵(標高約50~60m)に立地している弥生時代後期中葉(約1900年前)の高地性集落です。
高地性集落とは、山頂や丘陵の尾根に築かれた集落を指します。これまでの調査の結果、長さ420m、幅60~80mと和泉地域でも有数の規模を有する高地性集落であることが判明しました。 |
どんないせきかな |
惣ヶ池遺跡の集落想定範囲と調査区 |
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513
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くわしくみてみよう
直径9.8mの大型竪穴建物中心部にはピットがあり、周囲の炭焼土の中から2~3mm程度の鉄片が出土しています。
竪穴建物の内部から砥石・敲石などが少量出土しており、中央のピットの周辺は鉄器を作るための鍛冶炉であったと考えられます。 |
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514
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くわしくみてみよう
高地性集落は、かつて逃げ城や防御的な集落など閉鎖的で特殊なものと考えられていました。しかし近年、多角的な視点から再検討が進められています。最先端の物品・技術をいち早く受容した先進的な集落である惣ヶ池遺跡の存在は、
今後の高地性集落の研究や、和泉地域、さらには日本列島における弥生時代後期社会を考える上で重要な意味をもっています。 |
くわしくみてみよう
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遺跡遠景(南東から) |
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521
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2-補 小形仿製鏡の3次元計測を応用した画像処理写真 (提供: 株式会社イビソク)
小形仿製鏡は、中国大陸に当時存在した漢王朝で作られた鏡をまねて日本列島で作られた青銅製の鏡です。 鏡背面の文様などは劣化等により不鮮明でしたが、
3次元計測を応用した画像処理により、元になった漢鏡を忠実にまねた「皿」・「」※の文様を確認しました。 その他、 縁部の幅が狭いことや、鈕(中央のつまみ)の形が半球形であることなどから、近畿地域で最古級の小形仿製鏡と考えられます。
※の「皿」・「」の部分には |
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の記号が入ります。 |
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小形仿製鏡の3次元計測を応用した画像処理写真
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仿製鏡
日本製鏡 |
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石包丁
鉄鏃、石鏃 |
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砥石 |
敲石 |
台石 |
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523弥生土器
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高坏 |
高坏 |
鉢、甕、甕
高坏 |
壺、鉢、甕
高坏 |
壺・壺・鉢
高坏 |
壺・壺・鉢・甕 |
甕
鉢・甕
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600古墳時代 c1,750 BP~c1,400BP
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■概要:
社会の階層化がさらに進み、近畿圏を中心とした広域的な国家体制が確立されます。各地の首長のために多くの古墳が築造されています。
これらの古墳には、青銅の鏡や鉄の武器など、多くの副葬品や装飾品が納められています。 古墳の上部や周囲には、さまざまなものを表現した素焼きの埴輪(はにわ)が並べられています。
This stage brings us up to the formation of the early state. この段階では、初期状態の形成まで進みます。
古墳文化は東北北部や北海道、南の島々にまでは及ばず、それぞれの文化が発展し続けました。
■展示遺跡:
奈良県の上辺古墳は、古墳時代中期の巨大な前方後円墳です。 宮内庁、奈良県立橿原考古学研究所、奈良市教育委員会が一斉に行った調査の結果、古墳の長さは270~280mまで復元可能であることが判明した。
このため、ウワナベ古墳は佐紀古墳群の中で最大の古墳となります。
群馬県の下里天神前遺跡では古墳時代後期の円墳3基が見つかった。 2号墳の周囲の溝からは馬形埴輪、人埴輪、円筒埴輪が出土しました。 3つを重ね合わせたように。 このような避難場所は非常に珍しく、古墳の成立以前の埴輪の分布や集積状況を知る上で重要である。
埼玉県の北大竹遺跡では、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての祭祀遺跡3点が見つかった。 3つの共通点は、子持勾玉が須恵器とともに出土したことである。 出土した子持勾玉は45個で、単一遺跡からの出土数としては国内最多となった。
これらの発見は、崎玉の首長たちの祭祀を理解する上で非常に貴重なものとなった。
岡山県の皿山古墳群は古墳時代後期から飛鳥時代に造られました。 円墳、箱形石棺墓、土器棺墓などが発掘されました。 この発掘調査により、古墳の築造場所、墳形、規模、古墳の有無、副葬品の内容などが明らかになりました。
集団古墳の発掘成果は、死者の階層状況や社会的地位、古墳時代の社会のあり方を理解する上で重要な成果となっています。
Kofun Period c. 1,750 BP to c. 1,400 BP
■Overview: Social stratification proceeds further, and a polity extending over a broad swatch centered around the Kinki region is established. Many tumuli (kofun - large, earthen burial mounds) are built for chiefs in various areas. These mounds contain many funerary goods and ornaments, including bronze mirrors and iron weapons. Lined up above and around the tumulus are biscuit-fired ceramics (Haniwa) representing various things. This stage brings us up to the formation of the early state. The kofun culture extends neither to northern Tohoku, Hokkaido, nor the southern islands, where culture continued to develop.
■Sites in exhibit: The Uwanabe Kofun in Nara Prefecture is a giant keyhole-shaped burial
mound from the middle Kofun period. Results of simultaneous surveys conducted
by the Imperial Household Agency, Nara Prefectural Archaeological Institute
of Kashihara, and the Nara City Board of Education found that the burial
mound can be restored to a length of from 270 to 280 meters. This makes
the Uwanabe Kofun the largest within the Saki Tumuli Area.
At the Shimosato Tenjin-mae Ruin in Gunma Prefecture, three round burial mounds from the late Kofun period were found. Horse-shaped haniwa, human haniwa, and cylindrical haniwa figures were unearthed from the ditch surrounding Tomb No. 3 as if they had been piled up on each other. Such an evacuation site is extremely rare, making it important for understanding the distribution of haniwa and the situation of haniwa accumulation before the establishment of the tombs.
At the Kitaotake Ruin in Saitama Prefecture, three ritual remains from the late Kofun period to the Asuka period were found. A common feature among the three is that komochi magatama were excavated together with Sue pottery. Forty-five komochi magatama were excavated, making this the largest number ever excavated from a single site in Japan. These discoveries have been very valuable for understanding the rituals performed by the chiefs of Sakitama.
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610ウワナベ古墳
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611
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どんな遺跡かな?
ウワナベ古墳は、平城宮の北側に分布する大古墳群である、佐紀古墳群の東部に位置します。
5世紀前半に造られた大型前方後円墳で、墳長約255mとして知 られていました。
墳丘部分は、 宮内庁により宇和奈辺陵墓参考地として管理されています。 |
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612
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くわしくみてみよう
橿原考古学研究所の調査では、後円部の北東側に設定した調査区で、後円部の墳端や墳丘最下段の斜面の下部に良好に残る葺石を確認しました。同様に、奈良市教育委員会の調査区でも墳端を確認したことにより、ウワナベ古墳の墳長が270~280mに復元でき、佐紀古墳群で最大となることが分かりました。 |
くわしくみてみよう |
橿原考古学研究所調査区で見つかった葺石 (北東から) |
くわしくみてみよう
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奈良市東調査区で見つかった墳丘1段目斜面の葺石(北から) |
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620下里見天神前遺跡
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621
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どんな遺跡かな?
下里見天神前遺跡は、群馬県中南部、烏川の右岸の低位段丘に立地しています。この地域には、古墳時代に古墳が多く築造され、里見古墳群が形成されました。
令和2年の発掘調査では、これまで存在が知られていなかった古墳時代後期の円墳が3基確認されました。 |
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くわしくみてみよう
馬形埴輪1点と朝顔形埴輪4点が周溝の壁に立てかけられたような状態で出土し、円筒埴輪17点は将棋倒しのような状態で出土しました。この他、人物埴輪1点が馬形埴輪の近くから出土しています。これらの埴輪は、種類毎に分けて置かれていたことがわかります。周溝から出土した埴輪は3号墳に立てられたものとは異なるうえに、このような出土状況は極めて異例であり、埴輪の流通や樹立前の集積状況を知るうえで重要です。 |
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くわしくみてみよう
3号墳の墳丘と周溝から埴輪が出土しました。注目されるのは、周溝 内の幅1.4mから長さ2.2mほどの範囲から23点の埴輪と2点の須恵器が集積されたような状態で発見されたことです。 |
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622 出土物 朝顔型埴輪・円筒埴輪、 須恵器、 馬形埴輪、 人物埴輪 |
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625朝顔型埴輪 周溝出土
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626須恵器
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628円筒埴輪
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629周溝出土 円筒埴輪
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630人形・馬形埴輪 |
631
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くわしくみてみよう
馬形埴輪1点と朝顔形埴輪4点が周溝の壁に立てかけられたような状態で出土し、 円筒埴輪17点は将棋倒しのような状態で出土しました。この他、人物埴輪1点が馬形埴輪の近くから出土しています。これらの埴輪は、種類毎に分けて置かれていたことがわかります。周溝から出土した埴輪は3号墳に立てられたものとは異なるうえに、このような出土状況は極めて異例であり、埴輪の流通や樹立前の集積状況を知るうえで重要です。 |
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くわしくみてみよう
3号墳の墳丘と周溝から埴輪が出土しました。注目されるのは、周溝内の幅1.4mから長さ2.2mほどの範囲から23点の埴輪と2点の須恵器が集積されたような状態で発見され墳丘に樹立した埴輪たことです。 |
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633馬形埴輪
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635
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637人物埴輪
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640 佐良山古墳群
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641
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どんな遺跡かな?
佐良山古墳群は、津山盆地の南西部に位置する170基を超える群集墳です。これらの古墳はその立地から、
桑山古墳群、
桑山南古墳群、
細畝古墳群、
高尾北ヤシキ古墳の支群などに分けられています。これらのうち13基が発掘調査されました。 |
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佐良山古墳群
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どんな遺跡かな |
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調査古墳分布図 |
佐良山古墳位置図
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くわしくみてみよう
桑山古墳群は6世紀中頃に築造された円墳5基、箱式石棺墓1基、土器棺墓1基で構成されます。 桑山・2・5号墳には岡山県北部で最古級の横穴式石室が造られ、3・4号墳は竪穴系の埋葬施設が採用されました。 |
くわしくみてみよう |
桑山古墳群遠景
(南西から)
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桑山2号墳の横穴式石室 (北東から)
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桑山3号墳の箱式石棺(南東から)
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くわしくみてみよう
桑山3号墳では、箱式石棺から2~4歳の小児人骨が発見され、鹿角製刀装具が付いた短刀2振、鉄鏃、玉類などが見つかりました。
桑山5号墳からは土器、鉄製武器、馬具、玉類、子持壺や鈴付高杯などの特殊な須恵器などの約300点の豊富な副葬品が出土しました。
桑山南古墳群は円墳5基と箱式石棺墓2基、土坑墓4基で構成された古墳群です。
桑山南1号墳の横穴式石室には陶棺2基が据えられ、羨道に置かれた陶棺内には刀装具に銀象嵌を施した大刀が納められていました。 |
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桑山3号墳の人骨と遺物 (南東から)
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桑山南1号墳の横穴式石室(南東から)
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643桑山1号墳
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5-補 近藤義郎の家父長制論と佐良山古墳群
佐良山古墳群の多くが古墳時代後期に造られ、前 中期の古墳と比べて規模は小さいながらも数が多いことを発見した近藤義郎は、こういった群集墳の出現背景を次のように考えました。
➀古墳時代後期になると製塩・製鉄・農業などの生産力が向上し、その結果、労働の基本単位であった「家族」が経済力を持つようになる。
②家族は家父長により束ねられ、力のある家父長はその地を支配する豪族から自立を図る。
③「大和政権」はこの動きを歓迎し、家父長らに古墳を造ることを容認するなどして、彼らを掌握していく。
このように近藤は、佐良山古墳群などの群集墳出現の背景を家父長制社会の誕生に求めました。そして「大和政権」は、こういった新興の家父長を直接支配することによって自らの力を強め、複数の豪族による連合政権から「大和政権」による専制体制へと転換していったと考えたのです。 |
桑山2号・3号墳
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近藤義郎の家父長制論と佐良山古墳群
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耳環
桑山2号墳 |
耳環 |
玉一連
桑山3号墳
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管玉10・算盤玉2・
切子玉10・丸玉2・
小玉4・ガラス小玉8 |
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645鈴付高坏
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鈴付高坏 |
桑山南1号墳 |
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桑山5号墳 |
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須恵器 脚付椀
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出土遺跡無記述 |
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646桑山5号墳
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桑山5号墳遺物出土状況
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桑山5号墳
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須恵器 装飾壺
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円筒埴輪 |
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高尾北ヤシキ古墳
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647筒形土製品
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5補 高尾北ヤシキ古墳
高尾北ヤシキ古墳には、竪穴式石室と横穴式石室の二つの埋葬施設がありました。横穴式石室の副葬品には、 筒形土製品や細長い皮袋形の特殊な須恵器も含まれてました。
筒形土製品の上部には煙出しの孔が斜めに開けられています。カマドや炉の煙を屋外に排出するための煙突と考えられていますが、本品はススの付着がないことから、実際には使用されなかったと思われます。 |
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660北大竹遺跡 石製模造品や子持ち勾玉の製作集団の集落。 祭祀遺構跡の出土品。
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661
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どんな遺跡かな
北大竹遺跡は特別史跡埼玉古墳群の北方、 約2.5kmの地点に位置する6世紀中頃から9 世紀後半にかけての集落跡です。 令和元年か ら令和2年にかけて行われた発掘調査で、 古墳時代後期から飛鳥時代にかけての祭祀に 関わる遺構が3箇所、確認されました。 |
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どんな遺跡かな
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調査地遠景 (北から)
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調査区全体図と祭祀遺構
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662
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くわしくみてみよう
確認された祭祀遺構は6世紀中頃~後半、 7世紀初頭、 7世紀中頃の3時期にわたります。
6世紀後半の祭祀遺構からは、 5mほどの範囲から子持勾玉19点や須恵器甕など大量の遺物が出土しました。 中には単鳳環頭大刀の柄頭と馬具(杏葉)が含まれています。 |
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6世紀後半の祭祀遺構(南東から)
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環頭大刀柄頭出土狀態 |
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663祭祀遺構出土品 6世紀中頃~後半
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664
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668 6世紀中頃~後半
6世紀中頃~後半の祭祀遺構 |
須恵器
脚付長頸壺
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須恵器
器台
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土師器 高坏 |
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670北大竹遺跡 |
671 六世紀中頃~後半の祭祀遺構
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672子持ち勾玉
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673
子持ち勾玉
祭祀遺構外 出土
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674単鳳環頭大刀柄頭
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675大甕 6世紀中頃~後半の祭祀遺構
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須恵器 大甕
大阪 陶邑窯
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須恵器 大甕
静岡 湖西窯産 |
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667
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くわしくみてみよう
7世紀初頭の祭祀遺構では、須恵器甕11点が 並んだ周囲から子持勾玉11点が、7世紀中頃の 祭祀遺構では、並べられた須恵器甕8点の周囲 から子持勾玉12点が、石製模造品や金属製品、須恵器、土師器などとともに出土しました。 |
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出土した子持勾玉は全部で45点で、一つの遺跡から出土した量としては全国最多です。一貫して子持勾玉と須恵器甕を用いている点は、 さきたまの首長が執り行った祭祀の実態を知る上で極めて重要です。 |
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白玉とともに土師器杯に入れられた子持勾玉 |
須恵器甕に入れられた子持勾玉
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677 7世紀初頭
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678
7世紀中頃
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石製模造品
7世紀中頃の祭祀遺構
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斧形? |
剣形 |
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子持ち勾玉
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石製模造品
有孔円盤
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680古墳副葬品
※細畝3号墳と南桑山3号墳の文献が同じ発掘報告書にあり、単に3号墳と呼ばれており、いずれとも判別しがたい。
参考文献「桑山南古墳群 細畝古墳群」 |
681細畝3号墳
桑山南古墳群の細畝古墳群3号墳。7世紀前葉に築造し、7世紀前半から中葉まで追葬。
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683桑山南3号墳 3号墳は径約 13 m、残存高約2mの円墳で、大規模に破壊された片袖式の横穴式石室をもつ。
土器や金属器、玉類など多数の遺物が出土した。
6世紀後半頃に築造され、7世紀中葉頃まで追葬が行われていた。
1号墳に先行する箱式石棺墓1基や時期不明の箱式石棺墓が検出されている。
鉄鐸
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684
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桑山南2号墳
佐良山古墳群 |
鉄鐸
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玉一連
(切子玉14・丸玉1)
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687桑山南1号墳 耳環
耳環
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700古代 c. 1,400 BPからc。 900BP
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概要:
この時期に日本という国家が登場します。 中国の隋・唐や朝鮮半島の百済・新羅から律令・行政法・文書行政などの国家運営を学び、飛鳥地域を中心とした中央集権的な国家が形成された。
飛鳥時代の飛鳥京から奈良時代の平城京を経て、平安時代には平安京(京都)に都が移ります。
仏教の伝来により各地に寺院が建立され、大きな行政領域である国には出先機関が設置されるとともに、辺境地域を統治するために郡と呼ばれる中規模の機関が置かれるようになった。
北海道と沖縄は国の管理下にありません。 北海道には擦文文化があり、沖縄には貝塚時代が続いています。
展示遺跡:
大阪府の龍部遺跡・龍部古墳では、平安時代初期の火葬墓が発見されています。 骨壷の中からは男性1人分の約2分の1に相当する異例の大量の火葬骨が出土した。 埋葬されたのは下級役人を輩出する地元の有力者階級の出身と考えられていた。
飛鳥京園地跡は、飛鳥時代の宮廷庭園跡で、奈良県の史跡名勝です。 継続的な発掘調査により、庭園の 2 つの主要なエリアである南池と北池という、構造の異なる 2 つの池が明らかになりました。 飛鳥時代中期に造営された庭園のようです。 発掘調査の結果、飛鳥時代後期から池や水路だけでなく、その周囲も庭園の拡張整備を目的とした大規模な改修が行われていたことが判明しました。
Ancient Period
c. 1,400 BP to c. 900 BP
■Overview: It is this period during which the state Japan comes on to the scene. Learning how to run a nation, including the ritsuryo codified penal, administrative laws, and documented administration from China's Sui and Tang dynasties as well as from the Baekje and Silla kingdoms on the Korean peninsula, a centralized national state is formed, centered on the Asuka region. The capital is moved from Fujiawara in the Asuka period to Heijo in the Nara period, then to Heian (Kyoto) during the Heian period. The transmission of Buddhism leads to the construction of temples in many areas, with local offices built in large administrative kuni regions as well as medium-sized ones called gun in order to control outlying areas. Hokkaido and Okinawa are not under national control. Hokkaido has its Satsumon culture and in Okinawa the Kaizuka Period continues.
■Sites in exhibit: At the Tatsube Ruin and the Tatsube Kofun burial mounds in Osaka Prefecture,
a cremation grave from the early Heian period was discovered. An exceptionally
large amount of cremated bones, about one half of one man, were excavated
from inside the funerary urn. The interred was believed to be from a local
influential class that produced lower-ranking officials.
The Asuka-kyo Enchi Ruins, a historic spot and scenic site in Nara Prefecture, are the remains of an imperial garden from the Asuka period. Continuing excavations have revealed two ponds with different structures, the South Pond and the North Pond, which are the two main areas of the garden. It appears the garden was built in the mid-Asuka period. The excavation has revealed that not only the pond and the waterways but also the surrounding areas were undergoing large-scale renovations from the latter half of the Asuka period to expand and enhance the garden. |
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710史跡・名勝 飛鳥京跡苑池 (※パネル展示)
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■飛鳥京跡苑池
■飛鳥時代中頃~後半
■17世紀中頃~後半
■奈良県明日香村
宮を出て 眺むる池に 浮かぶ島 |
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どんな遺跡かな?
飛鳥京苑池は、飛鳥川右岸の河岸段丘上に立地する飛鳥時代の庭園遺跡です。
苑池の南東には飛鳥時代の宮殿遺跡である飛鳥宮跡のうち、飛鳥時代後半の宮殿中枢である内郭が隣接しています。苑池は、その位置からみて、宮殿の付属庭園であると考えられます。 |
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史跡・名勝
飛鳥京苑池
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どんな遺跡かな
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飛鳥京苑池と周辺
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飛鳥京跡苑池と周辺の主要遺跡
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飛鳥京跡苑池の遺構配置
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くわしくみてみよう
1998年度の発掘調査で、その存在が明らかとなり、その後の発掘調査で、苑池の範囲は南北約280m、東西約100mにおよび、ふたつの池(南池・北池)と池を仕切る渡堤、水路や掘立柱建物、掘立柱塀で構成されることがわかりました。
南池は、東西最大約63m、南北最大約53mで、平面は五角形です。自然石をほぼ垂直に積んだ石積みで護岸し、平らな池底の全面に自然石を丁寧に敷いています。池内には、島状石積みや中島、石造物を組み合わせた流水施設などが設けられています。 |
くわしくみてみよう
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南池(北東から) |
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くわしくみてみよう
北池は、東西最大約36m、南北最大約52mの南北に長い方形状です。 西岸と北西岸、東岸の一部を自然石を階段状に積んだ石積みで、それ以外はほぼ垂直の石積みで護岸しています。湧水点に石積みや石組みによる流
水施設が設けられています。
南池の水は、 渡堤の下を通る木樋によって北池に排水され、さらに北池の水は、北池内から北に伸びる石組溝から、全長120m以上、幅約6m、深さ約1mの水路へ排水されます。
水路の水は、最終的に飛鳥川に排水された と考えられます。 |
くわしくみてみよう
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北池西岸の石積み
(北から)
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くわしくみてみよう
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北池の流水施設(西から)
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水路と北池(北から)
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760立部遺跡・立部古墳群跡
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761
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762朝顔型埴輪 包含層出土 古墳後期
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763古墳後期の円墳
古墳後期の円墳 |
不明 形象埴輪 |
剣形or動物(鹿)か |
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764古墳中期の方墳
円筒埴輪
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円筒埴輪 |
甲冑形埴輪
甲冑形埴輪
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埴輪残存部
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冑部
肩甲部 (肩鎧部)
胸甲部 (胸鎧部)
草摺部 |
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770 |
771
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どんな遺跡かな
立部遺跡・立部古墳群跡は古代の幹線道路の可能性が考えられている長尾街道と竹内街道に挟まれた台地の縁辺部に位置します。
また、 遺跡の北約500mの地点には、全国第5位の規模をもつ河内大塚山古墳があります。 |
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くわしくみてみよう
発掘調査により、
古墳時代中期後半~後期の方墳・円墳、
飛鳥時代~平安時代前期の土坑墓、火葬墓、木棺墓 が見つかりました。
墓が長期間にわたって連綿と営まれていることから、在地豪族の墓地と考えられ、その実態や変遷を考えるうえで重要な成果となりました。 |
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くわしくみてみよう
墳墓の中で注目されるのが平安時代 初頭(9世紀前半) の火葬墓です。
竪穴の中央に埋納された蔵骨器の須恵器壺と蓋、蔵骨器周囲を埋めた木炭が良好な状態で残っていました。
壺と蓋が粘土で密閉されていたため、火葬された骨 が納骨当時の状況を保っていました。 |
くわしくみてみよう
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身と蓋の間に貼り付けられた粘土(北から)
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火葬墓(南から) |
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立部遺跡・立部古墳群跡―1
古きを守る新しきわざ
X線の力
蔵骨器内部の火葬骨埋納状況を確認するため、 X線CT観察を行いました。結果、最下層から10cmまでは四肢骨と考えられる大振りの骨が確認でき、最上層には破砕された小形の骨が存在することがわかりました。
これらの火葬骨の埋納状態に規則性が認められないことも確認できました。 |
X線の力
図版出典 松原市教育委員会 2021 『立部遺跡・立部古墳群跡』
8-補 分析からわかる被葬者の様子 |
【蔵骨器の断彩図】
製作 公益財団法人元興寺文化財研究所 |
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立部遺跡・立部古墳群跡―2
古きを守る新しきわざ
人工層位による調査
X線CT観察の結果、 密に火葬骨が詰まっていることが判明したため、CT画像を参考に約2cmピッチの人工層位と、 A~Dの4地区を設定し、火葬骨を層位・地区
ごとに取り上げを行いました。 これにより 火葬骨の埋納位置と人骨の部位との関係を明らかにすることが出来ました。 |
人工層位による調査
図版出典 松原市教育委員会 2021 『立部遺跡・立部古墳群跡』
製作 公益財団法人元興寺文化財研究所 |
【人工層位の設定と2・7層の横断面図】
製作 公益財団法人元興寺文化財研究所 |
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立部遺跡・立部古墳群跡―3
古きを守る新しきわざ
炭化材が教えること
蔵骨器には、火葬に使われたと考えられる炭化材が混入しており、 同定の結果マツ属が利用されていることがわかりました。これをもって直ちに火葬地を特定できるものではありませんでしたが、異なる時期、近隣地の火葬墓などとの比較やデータの蓄積により、植生という観点から火葬地を取り巻く環境の検討が可能になって
くることが期待されます。 |
炭化材が教えること
図版出典 松原市教育委員会 2021 『立部遺跡・立部古墳群跡』 |
【炭化材の電子顕微鏡写真】
製作 公益財団法人元興寺文化財研究所 |
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773古代の墓坑
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8-補 分析からわかる被葬者の様子
取り上げられた火葬骨を調査した結果、被葬者は熟年(40~59歳)男性で、身長は158~160cm、上半身をよく使う生活をしており、比較的栄養度の高い食事を摂取していたこと、西暦800年頃に死亡し、本遺跡周辺で火葬されたこと、などがわかりました。 |
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分析からわかる
被葬者の様子 |
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飛鳥時代の土壙墓
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平瓶・坏・高坏
坏・坏 |
奈良時代の火葬墓
壺・蔵骨器 横瓶
平瓶 |
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775平安時代初頭の火葬墓
平安初頭の火葬墓
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須恵器 蔵骨器 蓋・壺
土師器 坏 |
須恵器 蔵骨器 |
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776平安時代の土壙墓
平安時代の土壙墓 |
平安時代の土壙墓
土師器 坏 |
須恵器 壺
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777平安時代 木棺墓
平安時代の木棺墓 |
須恵器壺
土師器皿・土師器坏 |
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須恵器 壺 |
鉄製品
不明鉄製品と鉄釘 |
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800中世 c. 900BPからc。 400BP
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■概要:
この時代に新たに台頭した武士階級が京都で朝廷から権力を奪うことに成功した。 平安末期から鎌倉、そして室町時代へと権力は移りました。
室町時代後期は戦国時代へ突入します。 多くの場所にある高度に要塞化された城はこの時代のものであり、当時の戦争の性質を伝えています。
北海道ではアイヌ文化が花開き、沖縄では各地にグスク(城)が築かれ、「グスク時代」と呼ばれています。
展示遺跡:
埼玉県にある騎西城跡および騎西城武家屋敷跡は、戦国時代から江戸時代初期のもの。 この城の特徴は、堀底に障子桟などの障害物が設けられた障子堀である。
お濠の幅は最大48mと日本最大級。 上杉謙信配下の武将が着用していたと思われる越後兜や馬具、火縄銃の留め金などが出土した。 戦国時代の戦況を知る上で重要な出土品である。
Medieval period
c. 900 BP to c. 400 BP
■Overview: The samurai class newly emerges during this period and manages to take
power away from the imperial court in Kyoto. Power has shifted from the
late Heian to the Kamakura, then Muromachi period. The late Muromachi period
brings us into the warring states period. Highly fortified castles in many
locations come from this period, conveying the nature of the wars of the
period. In Hokkaido, the Ainu culture flowers, and in Okinawa gusks (castles)
are built in many location, giving the period the name 'the Gusku period'.
■Sites in exhibit: The Kisai Castle Ruins and the Kisai Castle Samurai Residence Ruins in
Saitama Prefecture date from the Sengoku period to the early Edo period.
A particular feature of the castle is the shoji moat fitted with various
obstacles like shoji crosspieces at the bottom of the moat. The moat has
a maximum width of 48 meters, making it one of the largest in Japan. An
Echigo-style helmet thought to have been worn by a military commander under
the daimyo Uesugi Kenshin and horse armor and matchlock clips from a matchlock
gun were excavated. They were important finds for understanding warfare
during the Sengoku period. |
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810騎西城跡
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■騎西城跡・騎西城武家屋敷跡
■戦国時代~江戸時代初期
■15世紀中頃~17世紀初頭
■埼玉県加須市根古屋633-2 Kazo City
攻め落とせ! 落としちゃったよ! あぁ兜・・・ |
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811
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どんな遺跡かな?
騎西城跡は、加須低地の微高地上に立地する戦国から江戸時代初期の城跡です。
1455年に関東管領方の城として文献に現れ、1563・1574年には北条氏方の城として 上杉謙信に攻略・放火されました。 発掘調査により、堀・橋跡・ 井戸などの遺構と、戦や金属生産に関わる遺物などが見つかりました。 |
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騎西城跡・騎西城武家屋敷
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どんな遺跡かな
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戦国時代後期(16世紀後半) の勢力図
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上杉方と北条方の最前線にあった。 |
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くわしくみてみよう
注目されるのは、 城郭の周囲と南に巡る障子堀で、小田原城や山中城など北条方の城によく見られます。
1563年、上杉謙信が北条氏康・武田信玄方に包囲された松山城の救援に向かったが間に合わず、代 わりに騎西城を攻略したと文献にあり、こ の遺構はその頃のものとみられます。 |
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騎西城配置図
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当時の城郭遺構と
展示物の出土位置
城郭南側には
金属生産の大工房があり
武家屋敷群も大きい。 |
出土遺物の展示
壕内から
兜
金属加工場付近から
腰刀
馬鎧
金貨
火縄挟み
外濠南から
兜の前立て |
※濠中から兜。前立てが武家屋敷付近で、ちぎれ飛んだ様子から、激しい戦闘が想像される。ヤーヤーワレコソワ、ではなかった。
金属生産工房付近の製品散乱具合から、略奪や襲撃の様子が窺える。 |
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くわしくみてみよう
障子堀とは、堀の底に障子の桟のような障害を設けたものです。 特に、城の五ノ丸の南 と東で見つかった障子堀は、 最大幅48mと 全国最大級です。
越後系の兜や火縄銃の弾 丸などが出土しており、 当時の戦闘の様子 をうかがうことができます。
※障子堀の中に落したということは、攻めた側の武将が落としたものでしようね。 |
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遺跡遠景(南から) |
五ノ丸と障子堀の位置(左が北)
兜出土位置 |
※武将の首を切って兜を濠中に投げ込んだのだろうか。 |
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813十六間筋兜 障子堀出土の兜
※越後系ということは、当時は各地に兜や鎧の職人がいて、独特なものを作っていたようです。
※越後とは、現新潟県のこと。たたらによる鉄生産が盛んで、中世には鉄製品の生産が盛んだったようだ。
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821前立て
兜の前立て
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※前立ては兜の全面上に付けられていたものです。
刀や薙刀で切り取られたのでなく、根元からちぎられています。
激しい闘いで疲労破断したのでしょうか。馬を打ち取られて、地上戦になり、組打ち(格闘)の時に壊れたのでしょうか。
兜の出た濠内でなく、もっと南の武家屋敷街ですから、そこまで攻め込んだ上杉方武将の兜のものでしょうか。
それとも防戦した北条方のものでしょうか。
前立ては1本だったのか、2本の方が普通でしょうね。左右対称が好みの装飾だから。
関係ないけど、北条氏は滅亡したが、この時北九州の宗像氏の娘がと嫁いで来ていて、同時に宗像氏も滅亡した。 |
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822
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9-補 戦に関する遺物
遺物では、シコロ・吹返しが残る兜が注目されます。遺跡から出土することは珍しく、全国でも希少です。丸い鉢やシコロの形などから越後系で、上杉謙信方の武将が着用していたものと推定されます。また、外堀から馬鎧や火縄銃の部品の火縄挟が、外堀南で兜の前立が、調査区全域から弾丸約100点が出土しています。
※シコロ・吹き返し は、兜の部分の名称 |
馬鎧・馬甲
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馬鎧
障子堀出土 |
馬鎧
馬鎧用小札(こざね)
馬は大きいので人間鎧の何倍も小札を綴った
守備側の馬の鎧
北条氏側 |
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小札(こざね)
小札を沢山綴って鎧を作った
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馬甲<ばこう>
馬甲は馬の鎧<よろい>のことで、これは障子堀から出土した。
堅く叩きしめた革の表と裏に漆を塗り、表面に金箔を貼っています。
戦国時代の元亀<げんき>2年(1571)、北条氏が配下に発給した文書「合戦の時、馬に金の馬甲を装着すること」を記しています。
騎西城出土の馬甲もこれに従ったものと思われます。 |
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825轡
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金箔押しの馬鎧小札が出ているのに、轡は意外と普通の汎用・常用のものです。 |
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827武器・武具
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上:槍先
下:腰刀 |
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829
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鉄鏃
殺傷力の高い戦闘用
1本は曲がっている。刺さって抜くときに曲げたか、よほど硬い物にあたらないと曲がらない。 |
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刀装具
目貫・笄・小柄
いずれも刀の付属品 |
目貫
柄の中央部、にぎりての真ん中にある装飾
血糊で滑らない、恐怖でも刀を握れる |
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※資料 三所物
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三所物とは刀の柄に格納される三つの品。目貫・笄・小柄である。
目貫とは、
精緻な技術によって制作された目貫は、柄を華やかに装飾する刀装具として扱われています。
本来の目貫は柄と刀身を固定するための「鋲頭」(びょうがしら)として、「目釘」(めくぎ)の頭に付けられていました。
笄とは、
髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具。ただし次第に結髪後に髪を飾るものに変化した。
笄は頭がかゆい時に髪型を崩さずに髪を掻く道具「髪掻 」からきているという説がある。
小柄とは、
日本刀の鞘に付けられた細工用の小刀で、緊急用の武器や、現在で言うペーパーナイフやカッターナイフとして使用されました。
小柄は笄と共に、鞘の鯉口(こいくち)付近にある「小柄笄櫃」と呼ばれる表裏の溝に収められ、小柄は裏側に来るよう装着されます。 |
刀装具
刀装具
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頭と鎺
刀の最上部と最下部に付ける |
縁・切羽・鍔 |
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※考察 障子堀の出土物
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越後武将の兜や、北条方の豪華金箔押の馬鎧が出土していることから、かなりの身分のある武将が、戦死したようです。
金箔の馬に乗った武将が騎西城から槍を振りかざしながら打って出て闘い、馬は戦死して馬鎧ごと障子堀に捨てられたか、上杉方の食糧になって、革製鎧は堀に投げ捨てられたか。槍の柄が折れているのは、そのような槍の攻撃を防ぐ戦法があったのでしょうか。
この頃は、「ヤアヤア!我こそは…」の時代だから、騎馬武者の対戦相手にふさわしい武将が上杉方から出てきて、一騎打ちをしたのかもしれません。
その時に、越後武将が兜を落としたのかもしれません。コロコロ転がるようなものではないが、激しい闘いで、顎紐がはずれて堀に落ちたのかもしれません。
それとも、雑兵も交えた混戦の白兵戦の中で騎馬武者と、薙鎌(下に出典)を持った足軽が馬の足を薙ぎ払い(殺傷して)、馬上の武士を落とし、槍vs薙鎌の闘いがあったのかもしれません。いずれにしても騎馬は戦死し、馬は上杉方の焼肉パーティーに供されたようです。
その後、騎西城は越後方によって占領・放火されたましたが、その大火事の混乱の中で、堀の中の遺体は引き上げられ兜は引き上げられず、放置されたのでしょう。しかし、大刀が出土していないことを思えば、その後、鉄製の、がんじき(雁字器)、別名くまで(熊手)、で浚ったのでしょう。武将の魂・大刀は回収されたのか、小刀の刀装具だけが出土しており、大刀を携えた武将が堀に入ることはなかったようです。
しかし、堀内には多数の雑兵の死体が浮かんでいたものと見え、雑兵鎧の小札が出土しています。彼らの死体も引き上げられたのでしょう。
ちなみに、鉄の熊手も武器で、馬上の武将の鎧を引っかけて引きずり落とす。海戦では海に落として溺れさせる(鉄の鎧は重いから)。
また、武将は馬上で槍を振り回して戦う。刀では、下にいる雑兵に届かないからで、障子堀から出土した槍先は、戦死した武将が持っていたものかもしれません。 |
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830 |
831
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薙鎌 |
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桶の側板 |
下駄
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漆椀
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炭化籾
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↑薙鎌は武器で、
薙ぎ払う、突く、切る、刃を引っ掛けて相手を倒す、首を切るなどして使用する。
刃渡り約30cm。約2mの柄をつけて使用
古代中国の戈の役割 |
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833騎西城武家屋敷
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金貨
騎西城武家屋敷/根古屋 |
金貨 |
戦国大名が自国内で使える金貨を造幣した。
騎西城武家屋敷跡出土の3種類の金貨。
・蛭藻金、タガネで「上」と刻印。
・切金(きりがね)金板を切断しただけ
・露金(ろきん)粒の金塊
これらは小判出現以前の貨幣(上級貨幣。一般人は明銭など銅銭) |
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835
弾丸
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溶融物付着土器
野鍛冶の痕跡 |
火縄挟 |
火縄挟って撃鉄
火縄の火口を挟んでいて、引き金を引くと、バネで火皿に火口を押し付けて燃焼爆発させ、鉛玉を打ちだす仕掛け。 |
溶着銭貨 |
錆付き銭貨 |
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837板碑
板碑(いたび)(板石塔婆)とは、鎌倉時代から安土桃山時代にかけて造られた石製の供養塔のことで、死者の追善(ついぜん)供養や、
生前に死後の供養を行う逆修(ぎゃくしゅう)供養のために造られました。 また、墓標として使用された事例も確認できています。引用
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900近世 c.400BPからc.150BP
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概要:
安土桃山時代から江戸時代へ。 新しい徳川幕府は地方の領地を再統合し、約 250 年続く平和の時代が始まりました。 幕府は海外との接触を制限し、独自の日本文化を育んでいます。
北海道ではアイヌ文化が栄えました。 統一された琉球王朝が沖縄を統治しました。
展示遺跡:
奈良県の郡山城跡は、大和国を代表する近世城郭です。城内には、天守閣のある本丸を取り囲むように毘沙門丸、常盤丸、二の丸といった多くの本丸と外郭が配置されていました。
天守閣は豊臣時代に建てられたもので、全国でも数少ない同時代の天守閣です。 これまで金箔瓦の出土は天守閣のみと考えられていましたが、最近の発掘調査により二の丸屋根にも金箔瓦が使われていた可能性が判明しました。
Early Modern c. 400 BP to c. 150 BP
■Overview:The Azuchi-Momoyama period leads into the Edo period. The new Tokugawa shogunate reunites regional fiefdoms, inaugurating a period of peace lasting some 250 years. The government limits overseas contact, incubating a unique Japanese culture develops. Ainu culture flourished in Hokkaido; a unified Ryukyu dynasty rules Okinawa.
■Sites in exhibit: The Koriyama Castle Ruin in Nara Prefecture was an early modern castle
representing Yamato Province. The castle had many citadels and outer reinforcements
like the Bishamon-citadel, the Tokiwa-citadel, and the 2nd citadel circling
the inner citadel, where the castle tower was located. The castle tower
dates from the Toyotomi period, one of the few from that period in Japan.
Up until now, the excavation of gilt roof tiles was thought to be limited
to the castle tower, but recent excavations have revealed the possibility
that gilt roof tiles were also used even on the 2nd citadel roof. |
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910史跡 郡山城
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■史跡 郡山城跡
■安土桃山時代~江戸時代後期
■16世紀後半~19世紀
■奈良県大和郡山市
大和なる 城下を照らす 金瓦 |
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911
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どんな遺跡かな?
史跡郡山城跡は、大和 国を代表する近世城郭 です。 天正8 (1580)年に大和国の戦国大名であった筒井順慶が入城した後、天正13 (1585) 年に豊臣秀吉の弟、 豊臣秀長が大和・和泉・紀伊の100万石の大名として入城し、畿内統治の拠点として大規模な整備を行いました。豊臣氏が滅んだ後は水野氏、松平氏、 本多氏らが城主を務め、享保年間以降の145年間は柳澤氏 が郡山藩を治めるための拠点としました。 |
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郡山城遠景(南から)
中央手前が今回の調査地 (史跡の指定地外) |
遺跡の位置と周辺の代表的な城郭・寺院
(出典: 地理院地図を加工) |
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912
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くわしくみてみよう
天守台がある本丸を中心に、毘沙門曲輪、常盤曲輪、二ノ丸など多くの曲輪、惣構(城下町まで含めて堀等で囲んだ防御施設)から構成され、天守台は全国的に見ても類例が少ない豊臣期のものです。3重の堀で囲った惣構の規模は東西が最大で約1.6km、南北が最大で約1.5kmの規模をもちます。 |
くわしくみてみよう
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郡山城縄張り図
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913
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くわしくみてみよう
二ノ丸にある、 二ノ丸屋形の発掘調査では、 近世から近代にかけての三つの時期の遺構 を検出し、 最も古いⅠ期の遺構からは、近世初頭の整地層や土坑とともに、 金箔瓦が出 土しました。 これまで金箔瓦の出土が知られ ているのは天守台だけでしたが、 今回の発 見で、ニノ丸屋形の建物でも金箔瓦が使用 されていた可能性が出てきました。 |
くわしくみてみよう
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調査区全景(北西から)
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・18世紀初頭までに廃絶した石組み溝
・金箔瓦が 出土した土坑
・礎石 |
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915金箔瓦
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917
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10-補 火入れと底部の墨書 二ノ丸屋形 整地層出土
火入れとは、 喫煙道具の一つで、煙管に着火するための灰を入れる容器です。
器の底部に「享和二年御番頭附 戊四月」 と墨書されています。
享和二年(1802)年に購入後、 二ノ丸屋形で一定期間使用されたものと考えられます。 |
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火入れと底部の墨書
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享和二年御番頭附 戊四月
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火入れと底部の墨書 |
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919
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10-補 焼塩壺とは? 二ノ丸屋形出土
土器の壺に臼で粉砕した粗塩を詰め、蓋をして壺ごと焼いて焼塩とし、そのまま販売した容器です。
容器のまま食卓塩として使用されたり、厨房で容器のまま調味料として使用されたと考えられます。社会的に高い階層の武家や公家、
寺院などで用いられ、贈答にも使用されたとい われています。
焼塩壺は戦国時代の後半から作られ、江戸時代を通じて生産されました。展示資料は17世紀のものです。 |
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1000特集遺跡から読み解く多様な歴史文化 (パネル展示)
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遺跡から読み解く多様な歴史文化
日本列島に生きた人々は、 その豊かな自然環境を 背景として多様な歴史や文化を育んできました。 移動が容易になった現在でも、ところ変われば違った
風景や人々の営みに目を奪われることがしばしばあ ります。過去の人々の暮らしの痕跡である遺跡にも、そうした地域性を見ることができます。 これは、遺跡に文化的な系譜や、人々が生活していくための知恵や工夫が凝縮されているためです。
本特集は、さまざまな視点から遺跡や遺物を見る ことによって、個性豊かな日本の歴史文化を読み解 き、紹介するものです。
今回は、北海道の「オホーツク海沿岸の人々」鹿児島県の奄美地域を中心とした 「海上の道」をテーマにそれぞれ特徴的な遺跡を取 り上げます。
考古学的に見て、日本列島には、 北海道 から東北北部の「北の文化」、 本州・四国・九州の 「中の文化」、 南西諸島の「南の文化」という大きく3つの文化圏が存在することが知られ、旧石器時代以来、異なる歴史的経過をたどってきました。
今回取り上げる2つはそれぞれ、「北の文化」 と 「南の文化」 に属するものです。 その地域が辿ってきた歴史や人々が育んだ文化の写し鏡としての「遺跡」の特徴的な姿を、ぜひご覧ください。 |
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1010オホーツク海沿岸の人々 ―多様な生活文化とくぼみとして残る建物
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縄文時代早期~アイヌ文化期 (約1万~300年前)
北海道東北部、オホーツク海沿岸地域には、竪穴建物の穴が埋まりきらず、地表面にくぼみの状態として確認できる遺跡が多く見つかっています。中には、数百から二千箇所ものくぼみが密集する大規模な竪穴建物群も存在しています。
寒冷な北海道では稲作が定着せず、狩猟や採集、漁労などの生活が長く続きました。特に最北に位置するオホーツク海沿岸地域では竪穴建物での暮らしが約800年前まで続きました。 |
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1011
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1012時代区分と特徴
時代区分と特徴 |
年表
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※トビニタイ文化 |
擦文・オホーツク両文化の特徴
土器は器形が擦文土器、文様はオホーツク土器
史跡 標津遺跡群出土
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1013
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窪みの形と時期
竪穴建物の平面形は、 時代と文化によって異なります。
縄文時代から続縄文時代の竪穴は主に円形か楕円形、
オホーツク文化期のものは五角形か六角形、
擦文時代のものは正方形をしています。
竪穴の形は、窪みとなって残った状態からもおおよそ判別可能なことから、造られた時期を推定することができます。 |
窪みの形と時期 |
縄文~続縄文時代の円形・楕円形の竪穴建物のくぼみ
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オホーツク文化期の六角形の大型竪穴建物
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擦文時代の方形の竪穴建物のくぼみ
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擦文時代の方形の復元竪穴建物
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遺跡解說
―長期の変遷示す約2700棟の竪穴建物群―
史跡 常呂遺跡群(北見市)
縄文時代早期後半~アイヌ文化期 (約8500~300年前)
縄文時代早期後半(約8,500年前) の石刃鏃石器群~アイヌ文化期のチャシ跡 (約300年前)までの遺跡群。
遺跡群の中で最大規模となる栄浦第二遺跡の約2,000棟をはじめとして、遺跡群全体で、続縄文時代・オホーツク文化期・擦文時代にわたる約2,700棟の竪穴建物の凹みが確認されています。
約半数が擦文時代の正方形、これに次いで多いのが縄文・続縄文の円形・楕円形です。オホーツク文化期のものは、発掘調査による発見例も含めると、道内最多規模の66棟に上ります。
中には、ヒグマ110個体分の頭骨を含む骨塚や、大陸系の青銅製品といった特徴的な遺物が出土したものもあります。(1軒の家に110個のヒグマ頭骨) |
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遺跡解說
―アイヌ文化との関連も注目―
史跡 西月ヶ岡遺跡 (根室市)
擦文時代後期後半(約1000〜900年前)
大小合わせて約350の竪穴建物のくぼみからなる擦文時代の終わり (11~12 世紀) 頃を中心とする集落遺跡です。 くぼみは平面形が方形で、1辺が5~6mのものが多いですが、10mを超える大型のものも見られます。発掘調査の結果、
火災に遭ったものも見つかっており、 建物を使わなくなった際に儀礼で火をかけた可能性が考えられています。
擦文土器と共に内側に吊耳が付いた内耳土器も見つかっています。 内耳土器は本州の内耳鉄鍋を模倣したもので、アイヌ文化期にも継続して作られています。 アイヌ文化との関連性が指摘される擦文文化の特徴を示す重要な遺跡です。 |
西月ヶ丘遺跡 |
真上から見た遺跡 |
擦文土器の小型深鉢(左)と内耳土器
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遺跡解說
―擦文時代の集落変遷知る手掛かりに―
シブノツナイ竪穴住居群 (湧別町)
擦文時代後期~晩期 (約1000~800年前)
総数530棟のくぼみのまま残る竪穴建物が密集する集落遺跡です。 春先には竪穴建物のくぼみに雪が解け残ることで、竪穴建物の形状や分布が一目で分かる大変珍しい光景が広がります。
くぼみの多くは方形で、竪穴建物の時期も擦文時代後半(10 世紀末~12世紀中頃)に集中することが発掘調査により分かりました。擦文時代の集落は古い時期には道央部に、新しい時期には道東部に多くあることから、擦文時代の人々は西から東へ徐々に移り住んでいったと考えられており、本遺跡はその現象を顕著に示しています。 |
シブノツナイ竪穴住居群
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春先の遺跡遠景 (竪穴に雪が溶け残っている)
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遺跡解說
―擦文文化とオホーツク文化の融合の場―
史跡 標津遺跡群 (標津町)
縄文時代早期~アイヌ文化期 (約1万~400年前)
伊茶仁川とポー川の流域を中心に残された19の遺跡を総称して、標津遺跡群と呼んでいます。
このうち、伊茶仁カリカリウス遺跡、古道遺跡、三本木遺跡の三つが史跡に指定されています。
縄文時代早期から擦文時代までの竪穴建物や、アイヌ文化期のチャシ跡が見つかっています。
全時期の竪穴建物からサケ科の魚骨が発掘されており、サケを重視した暮らしが続いたことがわかります。
また、擦文文化とオホーツク文化が融合したトビニタイ文化期(約1,000年前)の大規模集落を確認しており、擦文文化とオホーツク文化の接触・融合の場であったこともわかっており、アイヌ文化の形成過程を探る上で重要な遺跡です。 |
史跡標津遺跡群 |
竪穴建物分布 |
遺跡遠景 (北東から) |
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遺跡解說
―海岸砂丘上に広がる長期の竪穴建物群―
朱円竪穴住居跡群(標津町)
縄文時代中期~擦文時代晩期 (約5000~800年前)
うなべつ
奥蘂別川と海別川に挟まれた海岸砂丘上に多数のくぼみが密集しており、地元では「朱円千穴」と呼ばれています。
測量調査がおこなわれた奥蘂別川に近い竪穴建物集中部分だけでも、 約200個のくぼみが確認されました。
平面形が円形や柄 鏡形のものをはじめ、大型で五角形や六角 形を示すもの、掘り込みが深く四角形のもの などが確認され、
縄文から続縄文、さらにオ ホーツクや擦文の竪穴建物が含まれている と考えられます。
測量調査を行ったのは本遺跡全体の3分の1程度の面積であり、今後の調査によっては竪穴建物の数がさらに増えると考えられます。 |
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西端の竪穴建物密集部
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遺跡遠景 (東から) 森林内全域が遺跡範囲。
右奥が奥別川河口
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1020海上の道
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海上の道 一南島の遺跡がつなぐ文化史一
グスク時代 (11~15世紀)
九州島の南西、約1000kmにわたって連なる多数の島は琉球列島 と呼ばれ、日本本土とは違った亜熱帯性の植生と動物相を育んでい ます。 そのため、人々の生活や歴史も本土とは異なります。
大隅諸島 ト カラ列島・奄美諸島は、琉球列島の中でも北部に位置し、九州島と沖 縄諸島を結ぶ中間に位置することから、両地域の特徴をもつ遺跡が残されています。
今回紹介する遺跡は、 「グスク」 と呼ばれる城館や海上交易に関わる集落跡です。 これらの遺跡は9~16世紀に出現し、 琉球列島における農耕社会や国家
の形成に重要な役割を担いました。 |
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1021
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鹿児島県 |
大隅諸島・トカラ列島
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奄美諸島
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沖縄諸島・先島諸島 |
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1023時代区分と特徴
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奄美・沖縄諸島では人が住み始めた
約35,000年前から1,200年前まで狩猟採集社会が継続しました (貝塚時代)。
9世紀から12世紀にかけて、大宰府や博多を拠点とする宋の商人から奄美諸島に製鉄などの新たな技術がもたらされ、農耕 社会が成立し、琉球列島全体に広がりました(グスク時代)。
14世紀になると、沖縄本島で石灰岩を積み上げて造った大型グスクが築かれ、勢力の北上をはじめ、15世紀半ばには琉球王 国が奄美諸島を支配しました。
今回紹介する奄美の遺跡には、このような複雑な歴史の痕跡が遺されています。 |
時代区分と特徴 |
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遺跡解說
―広範囲に流通した琉球列島の陶器生産窯―
史跡 徳之島カムイヤキ陶器窯跡(伊仙町)
グスク時代 (11世紀後半~14世紀)
11世紀後半から14世紀代まで操業した琉球列島最古の陶器生産窯跡です。窯跡は100基以上あると推測されています。
カムイヤキの種類は壺、甕、鉢、椀、すり鉢、水注と豊富で、島内での需要はもちろんのこと、海を越えて奄美諸島や沖縄諸島へ拡大していきます。
この分布域は後の琉球王国の版図とも重なり、その成立を考える上でも重要です。 |
徳之島カムイヤキ陶器窯跡 |
出土したカムイヤキ |
調査された窯跡の状況 |
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遺跡解說
―中国と九州の交易ルート上にある南西諸島の重要拠点➀―
黒島平家城遺跡、 大里遺跡 (三島村)
中世 [グスク時代並行] (11~13世紀)など
黒島平家城遺跡は三方を急峻な山崖に囲まれ、海側も40メートルほどの崖がある 海を望む平たん地に立地します。
遺跡名に城と付いていますが、本当に城であったの かは不明です。11~13世紀の貿易陶磁器や滑石製石鍋、中国瓦など、中国や琉球列 島、九州島などとの交易を示す資料が出土しています。また、大里遺跡でも同時期の遺物が多く確認されています。
カムイヤキ、本州の中世須恵器や滑石製石鍋、中国や朝鮮半島からの輸入陶磁器のほか、多量の中国瓦が出土しています。
これらは、中世における琉球列島の交易ルートやその在り方を示す重要な資料であり、黒島が中国大陸から本州までをつなぐ役割を歴史的に担ってきたことを物語っています。 |
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黒島平家城遺跡近景 (南東から)
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黒島平家城遺跡の遠景 (北西から) (いずれも 鹿児島国際大学中国研究室提供)
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大里遺跡出土の中国瓦
軒丸・平瓦、鴟吻 |
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遺跡解說
―中国と九州の交易ルート上にある南西諸島の重要拠点②―
安房城跡 (屋久島町)
中世 [グスク時代並行] (12世紀後半~13世紀初頭)
安房川右岸の、河口まで約1キロ、標高50~60mの丘陵地に立地する中世城郭です。川に接していない西側には、丘陵地の入り口を阻むかのように土塁が築かれ、北側の半島状に突き出た先端部には、空堀で遮断された独立した曲輪があったと考えられています。
12~13世紀の貿易陶磁器や滑石製石鍋、カムイヤキなど、中国や琉球列島、中国などとの交易を示す遺物が出土していますが、多くが 不良品であることが特徴です。 |
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安房城跡の遺構図
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安房城跡の出土遺物
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三方の川と背後の崖に囲まれた安房城跡
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遺跡解說
―石灰岩の石積み造りによる沖縄系グスクー
与論城跡 (与論町)
グスク時代(14世紀後半~15世紀中頃)
14~15世紀のグスクで、 沖縄諸島を中心に分布するグスクの北限とされています。 面積は約3万平方ともいわれ、 沖縄本島以外で築城されたものとしては最大規模です。
グスクの中では類例の少ない断層崖を取り込む城域を持つなど、特徴的な縄張りを持っています。
発掘調査により、沖縄本島の大型グスクで見られるような、盛り土や裏込めを用いた石積みによる築城の状況が確認され、沖縄からの技術導入によって城が造られたことが判明しました。これまでの調査成果や伝承等から、沖縄の勢力が奄美諸島に進出する足掛かりとして築城したと考えられています。 |
与論城跡
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与論城跡
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沖縄グスクの特徴を示す石灰岩の石積
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与論城遠景 赤線が城域 (南西から)
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1030全国史跡整備
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全国史跡整備市町村協議会の概要
1 設立
昭和41年1月7日 (設立時加盟市町村: 39市町村で発足)
2 組織・目的
主として史跡名勝、 天然記念物及び重要文化的景観を所有する市町村をもって組織 され、加盟市町村が協調して、 史跡等の整備に関する調査研究及びその具体的方策 の推進を図り、もって文化財の保存と活用に資することを目的とする協議会です。 活動は、史跡保全議員連盟や文化庁との密接な連携のもと行われ、 全国史跡整備市 町村協議会関係予算(「史跡等公有化助成」、 「史跡等整備活用事業」、 「埋蔵文化財 発掘調査等」の3本柱)の確保に向けた陳情活動等を積極的に行っています。
3 加盟市町村数
629市町村(市:435 町:177 村:17) R5.9.1 現在
4 令和4年度の主要事業
(1) 全国大会・総会の開催
○総会・記念講演等
○エクスカーション
(2) 臨時大会の開催
◯臨時大会
○陳情活動 【都道府県別陳情活動】
◯陳情報告会・記念講演等
(3) 役員会 (年2回)の開催 (4) 担当部課長会議の開催
(5)予算対策懇談会の開催
(6) 都道府県別陳情活動 (都道府県) (7) 補助事業の実施
○地区協議会・都道府県史協への補助
○奈良文化財研究所研修参加者への補助
(8) 広報活動 (会報発行、 リーフレット作成等) |
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全国史跡整備市町村協議会
令和5年度史跡等関係予算 重点要望事項
一、史跡等買上げの充実
二、史跡等整備活用事業の拡充 埋蔵文化財発掘調査等の充実
三、埋蔵文化財センター設備整備 |
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全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国埋蔵文化財法人連絡協議会
日本列島を発掘する
私たちはそれぞれの地域で、開発により 失われてしまう遺跡の発掘調査を行っています。
■全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国の道府県・市町といった地方自治体が設立した、 公立組織の埋蔵文化財センター72機関が加盟しています。
当協議会では、 埋蔵文化財の調査研究等の充実、 文化財の保護と活用を目的とした活動を行っています。
■全国埋蔵文化財法人連絡協議会
全国の自治体等が設立した公益財団法人等の組織です。
全国に47法人の組織があり、発掘調査資料整理・保存科学・ 普及活動等のさまざまな分野で活動しています。
ご自宅の近くにも埋蔵文化財センターはあります。
一度、訪れてみてはいかがでしょうか... |
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全国公立埋蔵文化財センター連絡協議会
全国埋蔵文化財法人連絡協議会加盟機関一覧
北海道・東北ブロック
(公財) 北海道埋蔵文化財センター
(公財) 岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター
(一財) 奥州市文化振興財団 奥州市埋蔵文化財調査センター
(公財) 山形県埋蔵文化財センター
(公財) 福島県文化振興財団 遺跡調査部
(公財) いわき市教育文化事業団
(公財) 郡山市文化・学び振興公社 文化財調査研究センター
(公財) 福島市振興公社 文化財調査室
【公立】
[北海道]
北海道立埋蔵文化財センター
札幌市埋蔵文化財センター
釧路市埋蔵文化財調査センター
ところ埋蔵文化財センター
[青森県]
青森県埋蔵文化財調査センター
八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館
[岩手県]
盛岡市遺跡の学び館
北上市立埋蔵文化財センター
滝沢市埋蔵文化財センター
二戸市埋蔵文化財センター
宮古市埋蔵文化財センター
[宮城県]
多賀城市埋蔵文化財調査センター
栗原市一迫埋蔵文化財センター 山王ろまん館
[秋田県]
秋田県埋蔵文化財センター |
関東ブロック
(公財)茨城県教育財団
(公財) ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社
(公財)鹿嶋市文化スポーツ振興事業団 鹿嶋市どきどきセンター
(公財) とちぎ未来づくり財団 埋蔵文化財センター
(公財) 群馬県埋蔵文化財調査事業団
(公財) 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
(公財)千葉県教育振興財団 文化財センター
(公財) 印旛郡市文化財センター
(公財) 東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター (公財) かながわ考古学財団
(公財)横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[埼玉県]
所沢市立埋蔵文化財調査センター
吉見町埋蔵文化財センター
[千葉県]
市原市埋蔵文化財調査センター
[神奈川県]
神奈川県埋蔵文化財センター
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中部・北陸ブロック
(公財)新潟県埋蔵文化財調査事業団
(公財) 富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査課
(公財) 石川県埋蔵文化財センター
(一財) 長野県文化振興事業団 長野県埋蔵文化財センター
(公財)岐阜市教育文化振興事業団 埋蔵文化財調査事務所
(公財) 愛知県教育・スポーツ振興財団 愛知県埋蔵文化財センター
【公立】
[山梨県]
山梨県埋蔵文化財センター
北杜市埋蔵文化財センター [長野県]
長野市埋蔵文化財センター [静岡県]
静岡県埋蔵文化財センター 浜松市地域遺産センター
磐田市埋蔵文化財センター 伊東市文化財管理センター [愛知県]
愛知県埋蔵文化財調査センター
安城市埋蔵文化財センター
東浦町埋蔵文化財センターうのはな館
[富山県]
富山県埋蔵文化財センター
[福井県]
福井県教育庁埋蔵文化財調査センター |
近畿ブロック
(公財)滋賀県文化財保護協会
(公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター
(公財)京都市埋蔵文化財研究所
(公財)長岡京市埋蔵文化財センター
(公財) 向日市埋蔵文化財センター
(公財)大阪府文化財センター
(一財)大阪市文化財協会
(公財)八尾市文化財調査研究会
(公財)兵庫県まちづくり技術センター 埋蔵文化財調査部
(公財)元興寺文化財研究所
(公財)和歌山県文化財センター
(公財)和歌山市文化スポーツ振興財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[三重県]
三重県埋蔵文化財センター
津市埋蔵文化財センター
松阪市文化財センター [滋賀県]
滋賀県埋蔵文化財センター 守山市立埋蔵文化財センター 東近江市埋蔵文化財センター
多賀町立文化財センター
[京都府]
京都市文化市民局文化財保護課 埋藏文化財担当
[大阪府]
大阪府教育庁文化財調査事務所
高槻市立埋蔵文化財調査センター
[兵庫県]
神戸市埋蔵文化財センター
姫路市埋蔵文化財センター
那珂ふれあい館
たつの市埋蔵文化財センター
[奈良県]
奈良県立橿原考古学研究所
奈良市埋蔵文化財調査センター
桜井市立埋蔵文化財センター
斑鳩町文化財活用センター
田原本町埋蔵文化財センター |
中国・四国・九州ブロック 中国
(公財) 広島県教育事業団事務局 埋蔵文化財調査室
(公財) 広島市文化財団 文化科学部文化財課
(公財)安芸高田市地域振興事業団
(公財) 山口県ひとづくり財団 山口県埋蔵文化財センター
【公立】
[鳥取県]
鳥取県埋蔵文化財センター
[島根県]
島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
[岡山県]
岡山県古代吉備文化財センター
岡山市埋蔵文化財センター
倉敷埋蔵文化財センター
津山弥生の里文化財センター
井原市文化財センター 古代まほろば館
[広島県]
広島県立埋蔵文化財センター
東広島市出土文化財管理センター
[山口県]
山口県埋蔵文化財センター
中国・四国・九州ブロック 四国
(公財) 徳島県埋蔵文化財センター
(公財) 愛媛県埋蔵文化財センター
(公財) 松山市文化・スポーツ振興財団 埋蔵文化財センター
(公財) 高知県文化財団 埋蔵文化財センター
【公立】
[香川県]
香川県埋蔵文化財センター
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中国・四国・九州ブロック 九州
(公財)北九州市芸術文化振興財団 埋蔵文化財調査室
(公財) 鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター
【公立】
[福岡県]
北九州市立埋蔵文化財センター
福岡市埋蔵文化財センター
久留米市埋蔵文化財センター
小郡市埋蔵文化財調査センター
[大分県]
大分県立埋蔵文化財センター
[長崎県]
長崎県埋蔵文化財センター
松浦市立埋蔵文化財センター
[宮崎県]
宮崎県埋蔵文化財センター
宮崎市生目の杜遊古館
[鹿児島県]
鹿児島県立埋蔵文化財センター
南種子町埋蔵文化財センター
中国・四国・九州ブロック 沖縄
【公立】
[沖縄県]
沖縄県立埋蔵文化財センター |
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