北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて26 2014.05.29(木)
高山市
交通 |
・私はJRを利用して往復しました。 |
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・JR高山駅から岐阜方面行き普通列車。か。隣の高山バスセンターから路線バス下呂線が一時間に一本程度の往復運航。 |
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・バスの下車駅は「久々野駅」or「久々野駅前」バス停で、電車15分、バス25分。 |
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※乗換案内で計画を立て、行き返りの時間をうまく調整し、無駄な列車待ち時間をなくすことができます。 |
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朝の通勤時間帯が列車・バス共に便数が多いので利用しましょう。 |
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・久々野駅から線路の下をくぐって徒歩15分で堂之上遺跡です。タクシーなし。 JR時刻表 バス時刻表(下呂〜高山線を選択) |
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・高山駅前のニコニコレンタカー(要予約)を利用してもよい。 |
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※久々野駅は無人駅ですが特急列車が停車し、同時に普通列車二本が停車して大都会並みに三本もの列車が同時に停車します。
大変不思議な光景です。きっと珍百景に違いないと思います。
2019.01.23追記、前回は、特急2本、普通列車2本が停車しました。嘘みたいでした。 |
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時代 |
縄文前期中葉〜中期終末期 |
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見所 |
岐阜県内で写真撮影可能な数少ない博物館です。 |
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岐阜県は北陸と東海・信州を結ぶ交通路です。東西南北から文化が押し寄せ、人が流入し、多様な文化が花開きました。 |
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お詫び |
私の写真は下手です。また、堂之上遺跡の情報は全く入手できません。 |
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しかし、写真は不破医院の写真がよく撮れていて、堂之上<どのそら>遺跡発掘・竪穴住居・炉
遺跡の解説は水野の縄文写真館が大変詳しいです。岐阜県久々野町の堂之上遺跡 - Hi-HO |
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特記 |
北白川下層U式土器と諸磯式土器 縄文前期と中期の土器形式 |
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目
次 |
13堂之上遺跡の地理・地形
堂之上遺跡は
15飛騨・美濃地域の土器形式について
縄文前期の土器
北白川下層U式土器と諸磯式土器
01国指定史跡堂之上遺跡
事実誤認の勘違い
東の土器と西の土器
いろいろな炉
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10久々野歴史民俗資料館
11概要
33縄文時代前期
33p縄文時代 前期と中期の土器形式
31 彫刻石棒6号住居跡 -縄文人の信仰-
縄文時代中期後半 |
34縄文時代中期1
35縄文時代中期2の土器
37廃棄された住居址 縄文中期
41土壙群と縄文人の生活
51縄文人の食糧
61堂之上乙式土器 と 漆塗り土器
61p縄文中期の土偶破片と顔面把手に土製石製装飾品
61q土壙・住居跡から出土の獣骨片と炭化木材に木の実 |
参考縄文時代前期後半の飛騨を中心とした地域間交流 |
13堂之上遺跡の地理・地形
右:飛騨川 左:八尺川 |
小舌状台地の遺跡 |
縄文人が開削し平坦に |
ここを開削して住んだ
訳を知りたいですね |
岐阜県高山市久々野町にある集落跡。
北アルプス西部を南流する飛騨川上流部、
飛騨川本流と八尺川の合流地点の小舌状台地に残る遺跡。
引用コトバンク 堂之上遺跡 |
堂之上遺跡は
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木曽川の支流、飛騨川上流部の小氾濫原を臨む舌状の10〜15mの尾根を開削した小丘陵上にあります。
恒常的な河川災害はないので、狩猟動物の移動の見張りに便利な、または、競争者への対策か、何千年にもわたり入れ替わりながら住み続けました。
「縄文人の文化力」にも、ありますが、縄文人同士の食糧獲得競争はやはり熾烈を極めるものだったようです。
このような砦・要塞、またはチャシのような集落跡は天然の防御装置だったのでしょう。 (川を渡らねば近づけない。) |
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標高約700mの高地にあり、約7500m2の小舌状台地に残る遺跡。 |
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縄文時代前期〜中期の竪穴住居43棟からなる集落跡が確認され、中期後半には広場を囲む環状集落が形成されていた。 |
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中央広場には200ヵ所以上の立石や集石、土坑の痕跡があり、土坑の中にはクリやハシバミ、クルミなどの堅果類を含むものがあった。 |
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土器には、関東・信州・東海・近畿各地方の影響がみられた。飛騨地方前期の土器は主に西日本の北白川下層U式と関東の諸磯式が |
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支配的である。 参考縄文時代前期後半の飛騨を中心とした地域間交流 - 下呂市 |
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石棒を立てた石囲い炉や埋甕の風習をともなう住居跡、複式炉をもつ敷石住居跡などがあった。 |
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(北陸地方) |
(中部高地-関東) |
(東北系) |
(関東系) |
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日本のほぼ中央に位置するこの遺跡は、縄文時代の生活と祭祀、東西南北の文化的交流のあり方を知るうえで重要なものである。 |
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引用コトバンク 堂之上遺跡 |
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縄文前期の土器
北白川下層U式土器と諸磯式土器
15飛騨・美濃地域の土器形式について
岐阜市北西部の御望遺跡における土器形式の変遷
飛騨地方での文献が見つからず、美濃地方、岐阜市北西部の遺跡を取り上げます
東日本における縄文中期の土器分布
引用縄文と古代文明を探究しよう |
結論 御望遺跡
一つの遺跡に東西の文化が同居し、同時にそこに、融合的な在地系土器があることは、
つまり、常に東西の異邦人が訪れては暮らし、双方の文化を運び続け、更にその中で融合的文化が育ち在地系土器文化をも育んだようだ。
しかし、越後のように、周辺からの文化的影響が、独自の文化を育んで開花し、火焔土器・王冠土器のような文化を繁栄させたのだが、ここでは、東西の影響力が常に強すぎて最後まで北白川下層U式と、諸磯式だった。
大量の異邦人が常に移住して来続けたようだ。 |
飛騨から遠く離れた美濃でもこうである。
久々野はさらに東、高山周辺で東西に加え、北の北陸、南の東海からも文化圧力を受け、もっと複雑だったでしょう。
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01国指定史跡堂之上遺跡 (どうのそらいせき)
堂之上遺跡の立地は河川の合流地点を見渡せる狩猟・漁労に適し、競争相手をも見通せる好位置です。
ただ、どこに行くのも川の中を通って濡れなければ行けません。いやですねェ。(笑)
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10久々野歴史民俗資料館
11概要
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33縄文時代前期 飛騨地方では国府町の村山遺跡※が有名。堂之上遺跡でも人が住み始める。 ※高山市国府町村山の天満神社境内の竪穴住居跡
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33p縄文時代 前期と中期の土器形式
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6号住居は特異な住居廃棄方法と、特殊な埋設物。そして、祭祀用土器石器類の出土で、司祭の住居跡ではないかと考えられています。
31 彫刻石棒6号住居跡 -縄文人の信仰-
縄文時代中期後半
縄文人は天変地異や人の生老病死の現象から、原始的な精霊崇拝の信仰を持っていた。
出産や生産と関連する石棒・土偶、祭祀具の釣手土器などがあり、住居の入口に埋めた埋甕も宗教的理由によるものです。
長老たちを中心に様々な祭祀が行われたでしょう。
6号住居は縄文中期後半の隅丸方形住居です。大形の石囲い炉の四隅に四本の立石があり、一本は大形彫刻石棒でした。
彫刻石棒は宗教祭祀用で、北陸地方が分布の中心でした。
住居跡では更に、東側壁直下に信州方面の宗教祭祀、大形埋甕がありました。
このように、6号住居では、北陸・信州方面の強い影響があったことがうかがえます。
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34縄文時代中期1 (5000〜4000年前)
6000年前最大だった 「縄文海進」 温暖期は、その後もまだ恵みを与え続け、4500年前の中期中葉頃に最大となった。
豊富な食料と道具や技術の発達とともに、人口は最大となり遺跡数も増加し、大規模集落が多数誕生した。
豊かさは人の心にゆとりをもたらし、文化レベルも格段に向上し、各地で発達した土器や高度な装飾品が作られた。
これによって全国的な交流交易が行われ、人の移動も激しく行われた。
飛騨地方も信州・北陸の文化的影響を強く受けています。堂之上遺跡もこの時期最大となり、中期後半には石囲炉をもった住居が出現しました。
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7号住居 |
25号住居※ |
25号出土中期初頭土器 |
25号出土中期初頭土器 |
22号住居出土土器 |
22号住居のほぞ穴のある木材 |
22号住居と炭化木材
中期前半の五角形住居火災による炭化木材出土 |
22号住居の火事現場遺跡 廃棄のため焼却か |
22号住居跡
植物層(屋根)と土器 |
ほぞ穴の開いた部材 |
22号住居出土土器 |
ほぞ穴の開いた
4000年前の部材 |
22号住居出土部材 |
これらは火災を被災した炭化部材である。 |
※25号住居は中期初頭
堂之上遺跡最大で、4つの炉が使われました。
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ほぞ穴のある炭化部材
富山県桜町遺跡からは「わたりあご」と呼ばれる継ぎ手部材が出土。
堂之上遺跡でも同様の高度な加工技術が出土し、「ひけをとらない。」と言っている |
「わたりあご」は木組みで
木材を木組みでつないで構造材として
なにか、家とか、作っていたようです。
同時期にあちこちで
木組みが見つかっています |
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35縄文時代中期2の土器 船元式土器など瀬戸内系 (岡山県倉敷市) の土器が出土。東海地方経由でやってきたのだろうか。
狭小台地の遺跡のため住居跡が重複した。 |
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重なり合う住居址
住居・祭祀・埋葬・廃棄の場所が決まっていたため |
36号住居 |
30号住居 |
36号住居船元式土器(倉敷の土器 |
35号住居中期中葉 |
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中部系土器と埋甕 |
14号住居址
勝坂式土器の埋甕 |
27号住居
中期後半に中部系土器と埋甕の風習が長野県を中心に飛騨〜東北まで広がる |
埋甕 |
14号住居埋甕 |
14号住居埋甕出土状況 |
26号住居埋甕出土状況 |
26号住居埋甕 |
網代圧痕の土器底 |
この時期にも
西日本と信州からの
人の流入定住は続き、
堂之上遺跡にも言葉も通じない異邦人が移住同居し続けたようです。
こんな例は初めて知りました。縄文人の寛容さ |
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37廃棄された住居址 縄文中期
住居の廃棄※ |
縄文中期特殊小型土器 |
26号住居出土土器 |
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2号住居出土土器 |
中期後半の土器群
12号住居 |
12号住居 |
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住居の廃棄※
竪穴住居は20〜30年を一世代として住居を廃棄したという。
このサイクルで建て替えと思っていたが廃棄!
廃棄の方法
・炉を使用不能にする
・炉石を取る。
・大量の石を入れる。
・家を燃やす。
確かに、ダニや雑菌が巣食っていて不潔だったことは間違いない。ある期間放置するもよいが。
廃棄理由
食料採取地域の疲弊による周期的移動や、
一家の主の突然の死亡 こんな理由で、手を付けられなくなった廃棄住居ができ、それを発掘することによって、
貴重な生活用品が出るわけですね。また、廃棄住居に死体を投げ込むという例もありました。
千葉県でした。 |
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41土壙群と縄文人の生活
台地中央に150以上の大小深さ様々の土壙群。
焼土・焼骨・木炭や空っぽの穴 |
土壙 |
立石や平石の配石土壙
食糧貯蔵や墓穴
狭い所に墓穴も貯蔵穴も混在 |
平石と土器片の土壙
女性の墓
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土壙断面と石皿
女性の墓には石皿だったようです |
立石土壙
男性の墓だったようです
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縄文時代の道具 |
食料加工用磨り石 |
磨製石斧42号住居 |
縄文人の食糧 |
19号住居 |
19号住居 |
20号住居 |
20号住居 勝坂式土器 |
※1 |
34号住居 ※2 |
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34号住居 ※3 |
※123は
弥生時代の台付土器のように、
器台に把手までついていて、いかにも進化した形です。
これも始めてみました。
東海の影響でしょうか
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縄文時代の器台付土器 |
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51縄文人の食糧
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石皿と磨石
栃の実付き |
伽耶の実とクルミ |
磨石 |
磨石
石皿は |
クリの実 |
カヤ・クリの実 |
食料は、獣骨・木の実。
川魚・根菜類 |
平地(氾濫原)が沢山あるのに、ことさら狭い台地上に住んだ理由は、やはり、なんだろう。 |
動物の移動や、鮭の遡上を見張る。など。しかし
魚骨や川漁の道具がなく、なんとなくおかしい。 |
やはり、競争者(敵)を避けるためだろうか。
東南アジアでは高い木の上に住居を作り、他者の侵入を見張り、また、攻撃を防ぎました。 |
ここでは、どんな理由があったのだろう。 |
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特設コーナー
61堂之上乙式土器 と 漆塗り土器
堂之上乙式土器は、 |
神ノ木式(信州系)と北白川下層T式の特徴を併せ持つ土器。18号住居出土。縄文前期中葉 |
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堂之上遺跡の最古に属する土器です |
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漆塗り土器は、 |
縄文前期 破片なのでわかりませんが、北陸系の祭祀用土器でしょうか |
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北陸で前期の漆塗り工房の遺跡はまだ見かけていません。 |
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神ノ木遺跡は、 |
茅野市湖東金山にある高地の遺跡群のひとつ。 |
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出土した土器は中越式・関山式・黒浜式。木島式・北白川下層I式に比定される土器群と共に櫛歯状工具による施文土器がある。 |
土器は縄文前期前半の中越・神ノ木。有尾・諸磯a式に比定されるものと、該期の関東系と東海。関西系のもので大部分を占める
引用神ノ木遺跡 - 全国遺跡報告総覧
縄文海進によって水没した関東から大量の縄文人が移住した八ヶ岳南麓地域の文化と西日本・北陸・東海・在地の文化が混然とした地域であった。
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61o堂之上乙式土器と漆塗り土器
堂之上乙式土器 ×神之木 ○神ノ木 |
漆塗り土器 |
18号住居出土土器群縄文前期
東西日本の影響が混在
しているといわれる土器片 |
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孔の開いた補修孔のある土器も |
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61p縄文中期の土偶破片と顔面把手に土製石製装飾品
縄文中期の土偶破片 |
縄文中期の土偶破片 |
縄文中期 顔面把手 |
縄文中期 顔面把手 |
縄文中期
土製・石製垂飾 |
装飾品 耳飾り・首飾り |
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垂飾、耳飾り |
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61q土壙・住居跡から出土の獣骨片と炭化木材に木の実
土壙住居跡出土獣骨 |
獣骨片 |
土壙住居址出土
炭化材と木の実 |
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