[戻る][TOP]


 北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて26 2014.05.29(木)

  高山市
久々野歴史民俗資料館(くぐの)  岐阜県高山市久々野町久々野2270  0577-52-3459
   堂之上遺跡(どうのそら)  休館日月曜&12/1〜3/31 撮影可

交通  ・私はJRを利用して往復しました。
 ・JR高山駅から岐阜方面行き普通列車。か。隣の高山バスセンターから路線バス下呂線が一時間に一本程度の往復運航。
 ・バスの下車駅は「久々野駅」or「久々野駅前」バス停で、電車15分、バス25分。
 
 ※乗換案内で計画を立て、行き返りの時間をうまく調整し、無駄な列車待ち時間をなくすことができます。
   朝の通勤時間帯が列車・バス共に便数が多いので利用しましょう。
   
   ・久々野駅から線路の下をくぐって徒歩15分で堂之上遺跡です。タクシーなし。 JR時刻表 バス時刻表(下呂〜高山線を選択)
   
   ・高山駅前のニコニコレンタカー(要予約)を利用してもよい。
   
  ※久々野駅は無人駅ですが特急列車が停車し、同時に普通列車二本が停車して大都会並みに三本もの列車が同時に停車します。
大変不思議な光景です。きっと珍百景に違いないと思います。
2019.01.23追記、前回は、特急2本、普通列車2本が停車しました。嘘みたいでした。
   
時代   縄文前期中葉〜中期終末期
   
見所   岐阜県内で写真撮影可能な数少ない博物館です。
   岐阜県は北陸と東海・信州を結ぶ交通路です。東西南北から文化が押し寄せ、人が流入し、多様な文化が花開きました。
   
お詫び  私の写真は下手です。また、堂之上遺跡の情報は全く入手できません。
  しかし、写真は不破医院の写真がよく撮れていて、堂之上<どのそら>遺跡発掘・竪穴住居・炉 
遺跡の解説は水野の縄文写真館が大変詳しいです。岐阜県久々野町の堂之上遺跡 - Hi-HO
   
特記   北白川下層U式土器と諸磯式土器    縄文前期と中期の土器形式

 


13堂之上遺跡の地理・地形
  堂之上遺跡は

15飛騨・美濃地域の土器形式について
  縄文前期の土器
  北白川下層U式土器と諸磯式土器

01国指定史跡堂之上遺跡

 事実誤認の勘違い
 東の土器と西の土器
 いろいろな炉
10久々野歴史民俗資料館
11概要
33縄文時代前期
33p縄文時代 前期と中期の土器形式

31 彫刻石棒6号住居跡 -縄文人の信仰-
  縄文時代中期後半
34縄文時代中期1
35縄文時代中期2の土器

37廃棄された住居址 縄文中期
41土壙群と縄文人の生活
51縄文人の食糧

61堂之上乙式土器 と 漆塗り土器
61p縄文中期の土偶破片と顔面把手に土製石製装飾品
61q土壙・住居跡から出土の獣骨片と炭化木材に木の実
            参考縄文時代前期後半の飛騨を中心とした地域間交流


  13堂之上遺跡の地理・地形
右:飛騨川 左:八尺川
小舌状台地の遺跡

縄文人が開削し平坦に
ここを開削して住んだ
訳を知りたいですね
岐阜県高山市久々野町にある集落跡。
北アルプス西部を南流する飛騨川上流部、

飛騨川本流と八尺川の合流地点の小舌状台地に残る遺跡。
         引用コトバンク 堂之上遺跡

 堂之上遺跡

木曽川の支流、飛騨川上流部の小氾濫原を臨む舌状の10〜15mの尾根を開削した小丘陵上にあります。
恒常的な河川災害はないので、狩猟動物の移動の見張りに便利な、または、競争者への対策か、何千年にもわたり入れ替わりながら住み続けました。

縄文人の文化力」にも、ありますが、縄文人同士の食糧獲得競争はやはり熾烈を極めるものだったようです。
このような砦・要塞、またはチャシのような集落跡は天然の防御装置だったのでしょう。 (川を渡らねば近づけない。)

標高約700mの高地にあり、約7500m2の小舌状台地に残る遺跡。
縄文時代前期〜中期の竪穴住居43棟からなる集落跡が確認され、中期後半には広場を囲む環状集落が形成されていた。
 
中央広場には200ヵ所以上の立石や集石、土坑の痕跡があり、土坑の中にはクリやハシバミ、クルミなどの堅果類を含むものがあった。
土器には、関東信州東海近畿各地方の影響がみられた。飛騨地方前期の土器は主に西日本の北白川下層U式と関東の諸磯式
  支配的である。  参考縄文時代前期後半の飛騨を中心とした地域間交流 - 下呂市
 
石棒を立てた石囲い炉や埋甕の風習をともなう住居跡、複式炉をもつ敷石住居跡などがあった。
 (北陸地方) (中部高地-関東) (東北系) (関東系)

日本のほぼ中央に位置するこの遺跡は、縄文時代の生活と祭祀、東西南北の文化的交流のあり方を知るうえで重要なものである。
      引用コトバンク 堂之上遺跡





 縄文前期の土器
  北白川下層U式土器と諸磯式土器

 15飛騨・美濃地域の土器形式について

   岐阜市北西部の御望遺跡における土器形式の変遷
   飛騨地方での文献が見つからず、美濃地方、岐阜市北西部の遺跡を取り上げます

縄文前期の主な土器様式


時代が進むにつれ土器様式が地域化・細分化する

引用福島県文化財センター白河館収蔵の北白川下層Uc式土器の紹介
御望遺跡の年表(ごもいせき) 

御望遺跡は
縄文的集落が一般化した頃の集落遺跡

引用縄文時代前期のムラ ・御望(ごも)遺跡 内堀
御望遺跡の位置


他に資料がなかったため飛騨高山から遠く離れた美濃岐阜市付近の遺跡ここにも東・西・南・北からの文化圧力があった
御望遺跡出土土器
T期


西日本系と東日本系
(北白川下層U式と諸磯式)

引用縄文時代前期のムラ ・御望(ごも)遺跡 内堀- 1
御望遺跡出土土器
U期


在地系と東日本系
(御望式と諸磯式)

引用縄文時代前期のムラ ・御望(ごも)遺跡 内堀- 1
御望遺跡出土土器
V期


西日本系と東日本系
(北白川下U層式と諸磯式)

引用縄文時代前期のムラ ・御望(ごも)遺跡 内堀- 1

諸磯ab式土器変遷図 
関東地方西部

引用諸磯c式土器の成立と土器情報の伝達

北白川下層Ub・Uc式土器変遷図
東海地方西部

引用諸磯c式土器の成立と土器情報の伝達
飛騨を中心とした縄文前期後半の土器編年
対応表

引用縄文時代前期後半の飛騨を中心とした地域間交流 - 下呂市
東日本における縄文中期の土器分布

引用縄文と古代文明を探究しよう
結論 御望遺跡

一つの遺跡に東西の文化が同居し、同時にそこに、融合的な在地系土器があることは、
つまり、常に東西の異邦人が訪れては暮らし、双方の文化を運び続け、更にその中で融合的文化が育ち在地系土器文化をも育んだようだ。

しかし、越後のように、周辺からの文化的影響が、独自の文化を育んで開花し、火焔土器・王冠土器のような文化を繁栄させたのだが、ここでは、東西の影響力が常に強すぎて最後まで北白川下層U式と、諸磯式だった。

大量の異邦人が常に移住して来続けたようだ。

  飛騨から遠く離れた美濃でもこうである。
  久々野はさらに東、高山周辺で東西に加え、北の北陸、南の東海からも文化圧力を受け、もっと複雑だったでしょう。





 01国指定史跡堂之上遺跡 (どうのそらいせき)

    堂之上遺跡の立地は河川の合流地点を見渡せる狩猟・漁労に適し、競争相手をも見通せる好位置です。
    ただ、どこに行くのも川の中を通って濡れなければ行けません。いやですねェ。(笑)

貴船神社を目指すと巨大な看板が見えてきた
坂道より階段が楽かと
階段上の神社は既に移転されていた。遺跡を壊して作っていたようだ 遺跡の裏から入場した。
円形の竪穴住居
正直言って本当の竪穴住居はどんな形状だろう 入口は開けっ放しだったのだろうか 近代までの家屋でも密閉性は悪く寒かった。
25号住居縄文中期初頭北陸系の大形住居。7つの地床炉。主柱少ない
大家族が中を仕切って使っていたようだ。
北陸・関西系の土器が多数出土。中期初頭の住居はこれ一棟のみ。 西日本から富山経由で神通川を遡り、宮峠を越えて来た、関西人と富山人の人々の住居だった。富山人男性が家を建てた 縄文中期の飛騨は、北陸系の人々でいっぱいだったのかもしれない。 なぜ瀬戸内系縄文人が
ここまで移住してきたのか。何を求めてきたのか
高温期の列島でした。
18号住居 縄文前期主柱4本の長方形住居
野の神ノ木式・愛知の清水ノ上U式
大量の縄文前期土器石器出土。長野県の神之木式土器や愛知県の 清水ノ上U式土器。
前期の住居には方形・円形があり、復元の時には
上屋を方形は切妻、円形を寄棟型屋根とした
私の子共の頃の経験。
隣家が建て替えで更地になると、随分狭く感じ、
再度、家が建ってみると広く感じました。
写真の敷地の住居は広いのです
この集落では住居は方形円形に限らずかなり不定形で建築しています。
複式炉のある住居跡 展示館入口

縄文前期後半の飛騨地方の遺跡にみる地域交流は

  白川下層U式
  諸磯式
  小御所式
  清水ノ上V式
  大麦田T式、

と呼ぶ形式等で構成されている。が遺跡単位で中心となる土器形式が異なる。それは、バラバラの地域の人々がいたということを表す。

  神通川沿いに北白川式
  天竜川沿いに諸磯式
  木曽川沿いに東海系
  野麦峠越えで信州系の

 各々土器形式文化人が流入し、婚姻によって集落内に他文化の土器が混在したのかもしれない。

 ※沼津は諸磯系多し、されど茅野市経由かもね しかし、飛騨を含む中京圏は北白川下層U式の分布範囲として、
 隣接の滋賀・福井との相違は口縁部の形状で、これは諸磯式文化との交流の結果と言っている。

 また、長野県王滝村は諸磯系土器が多く、この地域に接する、岐阜県北部の飛騨から中津川市にかけては諸磯系の影響が強いと言っている。
 標高1500mの飛騨山地越えで往来が頻繁にあったようです。 参考縄文・峰一合遺跡の再検討



 事実誤認の勘違い

  久々野に住んでいた人々は、
    前期には18号住居にみられるように、西日本系・関東系の人々と、信州・東海方面の人々が住んでいた。

    中期には25号住居にみられるように、北陸経由の西日本人と北陸人を中心に、関東東海系の人々が住んでいたのでしょうか。
    土器は関西 (女性) 系で、住居は北陸系の大型横長住居 (男性) ではないでしょうか。

  このページの各所に勘違いのキャプションがあるかと思います。ご容赦願います。



 東の土器と西の土器
諸磯式土器は、 神奈川県三浦半島の諸磯貝塚が標準遺跡で、関東地方西部・中部地方・東海地方東部に主体的に存在する
北白川下層式は、 東海地方西部〜近畿・中国地方に主体的に存在する
尚、 東海地方東部の伊豆半島や沼津周辺は諸磯式土器の主要分布圏に属するとある。
引用 諸磯式土器における浮線文の発生と北白川下層Uc式土器

  いろいろな炉
地床炉 じどころ 床を掘りくぼめただけの
 埋甕炉 うめがめろ  深鉢形土器を埋め込んだ
 囲い炉 いしがこいろ  河原石をめぐらした
石囲い埋甕炉 土器と石を組み合わせた
 複式炉 ふくしきろ 炉が二つ
      引用コトバンク地床炉





 10久々野歴史民俗資料館
 11概要
大変頑丈な建物です
大量降雪地域用ですね
「甦る縄文」は館のテーマ
ずっと掲げてあります
写真は人面把手※1です
36号石棒35号中央穴
土壙から石器 
磨製石斧集中出土状況
14号石棒多数埋甕蓋石
20号敷石複式炉
立石のある配石土壙※2
飛騨や久々野の年表飛騨地域の遺跡数が少ない様に表示されている
はだま※3
人面把手か土偶の一部
円形住居で寄棟造り
小さな集落も血縁集団と遊動民が混住していた。長い旅の一時を集落に長逗留していたかも
前期中葉〜中期終末期
住居址前期9棟中期34棟土壙150
遺跡の背後に中学校 縄文人によって見事に開削された遺跡全景。広っ!

  ※1 人面把手は八ヶ岳南麓の文化 勝坂式土器です

  ※2 彫刻石棒は北陸系  埋甕・立石のある配石遺構は金生遺跡など中央高地から関東の文化  複式炉東北の文化

  ※3 久々野中学校よりそのような名前(愛称)をつけて寄付されたもので何なのかは不明。愛称「はだま」に意味はない






 33縄文時代前期  飛騨地方では国府町の村山遺跡※が有名。堂之上遺跡でも人が住み始める。   高山市国府町村山の天満神社境内の竪穴住居跡

6000年前・縄文海進の頃気候の安定による食用植物が増加、遺跡も増加 土壙中の出土 18号遺跡前期中頃 18住居址出土

円筒形の煮込み専用の土器
18住居址出土

刺突文の浅鉢かな。
蓋の出現はもっとあと

   18号住居址からは大量の前期土器が出土し、中に 長野の神ノ木式・愛知の清水ノ上U式 も出土していた。




  33p縄文時代 前期と中期の土器形式

近畿地方を中心とした土器形式の変遷  引用「先史時代の北白川」
京都大学文学部博物館
1991

北白川下層式土器は京大周辺から出土し、情報をほぼ京大が独占している
縄文土器形式の大別と細別  引用「縄文だより」(j-17)勝坂遺跡・相模原
Waku Waku の Home Page

1939山内博士による縄文土器型式編年表
古いものですがほぼ現代に通用

  6号住居は特異な住居廃棄方法と、特殊な埋設物。そして、祭祀用土器石器類の出土で、司祭の住居跡ではないかと考えられています。



 31 彫刻石棒6号住居跡 -縄文人の信仰-
    縄文時代中期後半

    縄文人は天変地異や人の生老病死の現象から、原始的な精霊崇拝の信仰を持っていた。
    出産や生産と関連する石棒・土偶、祭祀具の釣手土器などがあり、住居の入口に埋めた埋甕も宗教的理由によるものです。
    長老たちを中心に様々な祭祀が行われたでしょう。

    6号住居は縄文中期後半の隅丸方形住居です。大形の石囲い炉四隅に四本の立石があり、一本は大形彫刻石棒でした。
    彫刻石棒は宗教祭祀用で、北陸地方が分布の中心でした。

    住居跡では更に、東側壁直下に信州方面の宗教祭祀、大形埋甕がありました。
    このように、6号住居では、北陸・信州方面の強い影響があったことがうかがえます。

6号住居址の写真
大型石囲い炉と
彫刻石棒
6号住居は火災を受け、炭化材が出土した。
特殊な様子から儀式で燃やされたのかも知れない※1
大形埋甕※2 儀式用の釣手土器 使用感の無い儀式用鉢
石棒 有頭石棒 無頭石棒
女陰石出産や受胎に関する祭祀の小屋だったのか 何でしょう。
初めてめぐり合いましたこんなのには
彫刻石棒

  ここに挙げた土器・石器は全て宗教祭祀に用いられた道具のようです。 
  石囲い炉の四隅の立石は一つが石棒だったので幾つかの炉から集めたのかも。

  ※1住居の廃棄のため燃やすことはあるが、この家屋はあまりにも宗教的色彩が強く、「儀式で燃やした」ということになったようです。
  ※2埋甕は幼児などの埋葬用ですが、この大型埋甕は大人の二次葬かも。つまり、宗教司祭の住居に対する、特殊な、埋葬や住居廃棄かも知れない

     火災は、建物や二次葬後の甕棺 (死者の霊魂が復活の拠所とする遺骨) と共に、死者の世界に送ったのかもしれないと思います。





 34縄文時代中期1 (5000〜4000年前)

   6000年前最大だった 「縄文海進」 温暖期は、その後もまだ恵みを与え続け、4500年前の中期中葉頃に最大となった。
   豊富な食料と道具や技術の発達とともに、人口は最大となり遺跡数も増加し、大規模集落が多数誕生した。

   豊かさは人の心にゆとりをもたらし、文化レベルも格段に向上し、各地で発達した土器や高度な装飾品が作られた。
   これによって全国的な交流交易が行われ、人の移動も激しく行われた。

   飛騨地方も信州・北陸の文化的影響を強く受けています。堂之上遺跡もこの時期最大となり、中期後半には石囲炉をもった住居が出現しました。

7号住居 25号住居※ 25号出土中期初頭土器 25号出土中期初頭土器 22号住居出土土器
22号住居のほぞ穴のある木材 22号住居と炭化木材
中期前半の五角形住居火災による炭化木材出土
22号住居の火事現場遺跡  廃棄のため焼却か 22号住居跡
植物層(屋根)と土器

ほぞ穴の開いた部材

22号住居出土土器

ほぞ穴の開いた
4000年前の部材
22号住居出土部材 これらは火災を被災した炭化部材である。 ※25号住居は中期初頭
 堂之上遺跡最大で、4つの炉が使われました。
ほぞ穴のある炭化部材

 富山県桜町遺跡からは「わたりあご」と呼ばれる継ぎ手部材が出土。
 堂之上遺跡でも同様の高度な加工技術が出土し、「ひけをとらない。」と言っている
「わたりあご」は木組みで
木材を木組みでつないで構造材として

 なにか、家とか、作っていたようです。

 同時期にあちこちで
木組みが見つかっています



 35縄文時代中期2の土器  船元式土器など瀬戸内系 (岡山県倉敷市) の土器が出土。東海地方経由でやってきたのだろうか。

狭小台地の遺跡のため住居跡が重複した。 重なり合う住居址
住居・祭祀・埋葬・廃棄の場所が決まっていたため
36号住居 30号住居 36号住居船元式土器(倉敷の土器
35号住居中期中葉 中部系土器と埋甕
14号住居址
勝坂式土器の埋甕

27号住居
中期後半に中部系土器と埋甕の風習が長野県を中心に飛騨〜東北まで広がる
埋甕
14号住居埋甕 14号住居埋甕出土状況 26号住居埋甕出土状況 26号住居埋甕 網代圧痕の土器底  この時期にも
西日本と信州からの
人の流入定住は続き、

 堂之上遺跡にも言葉も通じない異邦人が移住同居し続けたようです。

 こんな例は初めて知りました。縄文人の寛容さ



 37廃棄された住居址 縄文中期
住居の廃棄 縄文中期特殊小型土器 26号住居出土土器 2号住居出土土器 中期後半の土器群
12号住居
12号住居 住居の廃棄
 竪穴住居は20〜30年を一世代として住居を廃棄したという。
 このサイクルで建て替えと思っていたが廃棄!

 廃棄の方法
・炉を使用不能にする
・炉石を取る。
・大量の石を入れる。
・家を燃やす。
確かに、ダニや雑菌が巣食っていて不潔だったことは間違いない。ある期間放置するもよいが。

 廃棄理由
食料採取地域の疲弊による周期的移動や、
一家の主の突然の死亡 こんな理由で、手を付けられなくなった廃棄住居ができ、それを発掘することによって、

 貴重な生活用品が出るわけですね。また、廃棄住居に死体を投げ込むという例もありました。
 千葉県でした。




 41土壙群と縄文人の生活
台地中央に150以上の大小深さ様々の土壙群。
焼土・焼骨・木炭や空っぽの穴
土壙 立石や平石の配石土壙
食糧貯蔵や墓穴
狭い所に墓穴も貯蔵穴も混在
平石と土器片の土壙
女性の墓
土壙断面と石皿
女性の墓には石皿だったようです
立石土壙
男性の墓だったようです
縄文時代の道具 食料加工用磨り石 磨製石斧42号住居 縄文人の食糧
19号住居

19号住居

20号住居

20号住居 勝坂式土器
※1
34号住居 ※2

34号住居 ※3
※123
 弥生時代の台付土器のように、
器台に把手までついていて、いかにも進化した形です。

 これも始めてみました。
東海の影響でしょうか
縄文時代の器台付土器



 51縄文人の食糧
石皿と磨石
栃の実付き
伽耶の実とクルミ 磨石 磨石
石皿は
クリの実
カヤ・クリの実  食料は、獣骨・木の実。
川魚・根菜類
 平地(氾濫原)が沢山あるのに、ことさら狭い台地上に住んだ理由は、やはり、なんだろう。  動物の移動や、鮭の遡上を見張る。など。しかし
魚骨や川漁の道具がなく、なんとなくおかしい。
 やはり、競争者(敵)を避けるためだろうか。
 東南アジアでは高い木の上に住居を作り、他者の侵入を見張り、また、攻撃を防ぎました。
 ここでは、どんな理由があったのだろう。


  特設コーナー






 61堂之上乙式土器漆塗り土器

堂之上乙式土器は、 神ノ木式(信州系)と北白川下層Tの特徴を併せ持つ土器。18号住居出土。縄文前期中葉
堂之上遺跡の最古に属する土器です
漆塗り土器は、 縄文前期 破片なのでわかりませんが、北陸系の祭祀用土器でしょうか
北陸で前期の漆塗り工房の遺跡はまだ見かけていません。
神ノ木遺跡は、 茅野市湖東金山にある高地の遺跡群のひとつ。
出土した土器は中越式・関山式・黒浜式。木島式・北白川下層I式に比定される土器群と共に櫛歯状工具による施文土器がある。
  土器は縄文前期前半の中越・神ノ木。有尾・諸磯a式に比定されるものと、該期の関東系と東海。関西系のもので大部分を占める
           引用神ノ木遺跡 - 全国遺跡報告総覧

  縄文海進によって水没した関東から大量の縄文人が移住した八ヶ岳南麓地域の文化と西日本・北陸・東海・在地の文化が混然とした地域であった。

 61o堂之上乙式土器と漆塗り土器
堂之上乙式土器
×神之木 ○神ノ木
漆塗り土器 18号住居出土土器群縄文前期
東西日本の影響が混在
しているといわれる土器片
孔の開いた補修孔のある土器も




 61p縄文中期の土偶破片と顔面把手に土製石製装飾品
縄文中期の土偶破片 縄文中期の土偶破片 縄文中期 顔面把手 縄文中期 顔面把手 縄文中期
土製・石製垂飾
装飾品 耳飾り・首飾り
 垂飾、耳飾り



 61q土壙・住居跡から出土の獣骨片と炭化木材に木の実
土壙住居跡出土獣骨 獣骨片 土壙住居址出土
炭化材と木の実