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 新潟の縄文 №24 2020.10.03-2長野県立歴史館特別展

長野県立歴史館
2020秋季特別展
長野県千曲市屋代260-6  026-274-2000 月休撮影可

  「稲作とクニの誕生-信州と北部九州-」



交通 大変不便です。
最寄り駅では、以前はあったコインロッカーもレンタサイクルも今はなくされ、
博物館へは道のり2kmを歩くか、
高額のタクシー代を往復払う必要があり、復路は迎車料金まで取られます。
千曲市は散髪屋にまでポスターを貼ってこの館のPRに力を入れていますが
それはあくまで市民向けのようで、
鉄道を利用して遠方からやってくる外来者の訪問は歓迎しないようです。
私はもう二度と行かないと思います。
 
目次

10外観
101ごあいさつ

110稲作農業の先駆者
    波及期の動態
第1章Section1信州への稲作伝播

121第2章Section2中期集落の形成1
 1境窪遺跡
123弥生時代中期中葉の土器・石器
 (栗林成立以前)
127第2章 Section2中期集落の形成1
 2 屋代遺跡群

130稲作文化の開花
 成熟する中期中葉の社会
132第3章 Section1中期集落の形成2
 6壇田遺跡
1357小泉遺跡
137第3章Section 2中期集落の形成3
 8柳沢遺跡

140農耕社会の形成
  信州型弥生中期の社会
 9松原遺跡
142石製品
143栗林2式新段階の土器

146第4章Section2経済の発達1
 県町遺跡
147榎田遺跡 石器製作拠点
148第4章Section3経済の発達2
 手工業生産の発達
 11榎田遺跡
149 25中俣遺跡

151信州ブランド~
県内各地で出土した大陸系磨製石斧
152信州ブランド~
県外各地で出土した大陸系磨製石斧

155第4章Section4金属器の登場
 27南大原遺跡

200紀元前後の変動
    弥生後期への移行
201第5章Section1階級社会への移行
 28長野吉田高校グランド遺跡 

210「赤い土器のクニ」誕生
 信州型 弥生後期の社会1~3c
 箱清水式土器

211エピローグSection2
 経済の発達3
 34北一本柳遺跡群
213エピローグSection1
 後期集落の形成
 31篠ノ井遺跡群

220エピローグSection3
 階級社会への道
 34家下遺跡
221 35中挟遺跡
222 6檀田遺跡
223 35五里田遺跡 
224 38後家山遺跡
225 39西一里塚遺跡
226 40剣ノ宮遺跡
227 40荒神山おんまわし遺跡
231木島平村根塚遺跡
232 31篠ノ井遺跡
   42上田原遺跡
   42根塚遺跡

240地域博物館との連携

250弥生中期の大躍進
   伊那谷の生活道具
252第2章Section2
 中期集落の形成1
 3寺所遺跡
255 4井戸下遺跡
256 5阿島五反田遺跡

260信州型弥生中期社会
 伊那谷の大規模集落4
 10北原遺跡
265磨製石鏃の各製作段階と
石錐による穿孔作業想定復元

270弥生後期への移行
 石器製作の継続
271第5章Section1
 階級社会への移行
 29兼田遺跡
275 29橋原遺跡

280信州型弥生後期社会
 大規模な農業集落の形成
281エピローグSection1
 後期集落の形成
 32丹保遺跡
282中島式土器
286 32殿原遺跡
286a石器

290初期ヤマト王権への参画
   弥生文化の終焉
291北平1号墳

301信州ブランド
 ~大陸系磨製石斧~
 春山B遺跡

303八日市地方遺跡
 管玉製作工程資料
305祭器
306 8柳沢遺跡
307 8柳沢遺跡

308地域博物館との連携
312国宝金印「漢委奴国王」
314古代印


400第2会場
410第Ⅱ部Section7
 筑紫平野 吉野ケ里遺跡の世界
420甕棺内の副葬品
430人骨に見る戦いの痕跡

第Ⅱ部Section5
 遠賀川流域 嘉穂地域の国誕生
440唐津湾周辺 末盧国の誕生
 
 10外観
長野県立歴史館 特別展
稲作とクニの誕生
信州と北部九州
 

 101ごあいさつ
信州は縄文王国のイメージが強く、弥生時代については何となく影が薄い。しかし、1万年もの長い間続いた縄文時代は、弥生時代へと変化して行かざるを得なかった。縄文時代の後、信州に住んだ人々はどのような展開を遂げたのであろうか。

気候変動の中で縄文人は狩猟などの獲得経済から穀物栽培などによる生産経済へと転換していった。弥生時代を代表する栽培物というと、想起されるのは稲である。特に水稲耕作をするためには水田が必要になる。弥生時代中期の中頃には、湿地帯の開拓が始まった。必然的に自然の大地に人間が大きく手を加えることになった。

この大地大改変の道具は石器であった。私たちはややもすると縄文時代までを石器時代と理解し弥生時代には鉄器が入って来て石器はあまり用いられなくなると勝手に理解しがちである。当然のことながら、社会や技術はそんなに簡単に変わるものではない。開発の背後には大量の石器があった。
信州の弥生時代中期社会を支えたのは大陸系磨製石斧だった。開発に当たって木々などを伐採するには火成岩製の太型蛤刃石斧が用いられたが、その製作は今のところ長野市榎田遺跡春山B遺跡に限定される。ここで生産された石斧の流通範囲は、おおむね200kmに及ぶ。(※下図)

実に北陸から関東にかけての大開発を道具として支えていたのは信州産石斧であり、これを生み出した信州に住んだ技術者だった。

弥生文化の中心地として私たちは北部九州を想起し、その展開からクニが生まれたとして、文化結実のシンボルに「漢委奴国王」印を挙げる。本企画展では遺物から信州と北部九州を比較できるようにしてある。確かに北部九州の弥生文化の遺物は素晴らしい。「漢委奴国王」印は漢との外交関係の中で生み出されたものであり、北部九州と信州とでは朝鮮半島や中国大陸との距離が圧倒的に異なる。この結果として外部勢力(外国)から国として認定されることはなかった。
しかしながら、本展示を見て頂ければ、信州においても北部九州と同じ方向に向かって、如何に大きく社会が変動していったかがわかるはずである。

私たちは弥生時代以後強力に大地大改変を推し進め、今や日本列島の中央部にトンネルをあけて、リニアモーターカーを開通させようとしている。大地の
中に存在する様々なものを資源として認識し、それを活用することを当然のことと考えている。一方現在大きな問題が環境問題であり、自然保護である。

弥生時代をしっかり知ることによって、歴史の中での人類の位置が見えてくるのではなかろうか。本展によって皆様が今を考え、未来を生きる思索の契機になれば幸いである。
 令和2年9月  長野県立歴史館館長 

特別展示室
ごあいさつ 出展遺跡位置図   榎田型磨製石斧と
栗林式土器の分布
引用中野の弥生文化と地域間交流
 

  秋季企画展「稲作とクニの誕生-信州と北部九州-」


 110稲作農業の先駆者 波及期の動態

 第1章Section1信州への稲作伝播

 fig.12針塚遺跡 弥生時代前期(約2800年前) 長野県松本市里山辺3172
九州地方で 成立した最初の弥生土器、遠賀川式土器の系譜をひく土器が、稲作伝播とともに本州に広がります。
信州でも南部から北部まで、ほぼ全域に分布します。

第1章Section1信州への稲作伝播
 fig.12針塚遺跡 弥生時代前期(約2800年前)
遠賀川式土

 120第2のメッセンジャー 弥生中期の大躍進


 121第2章Section2中期集落の形成1

  境窪遺跡 弥生時代中期中葉(約2250年前) 松本市・山形村 長野県松本市神林/今井
しっかりとした住居が複数作られ、集落が明確になります。倉庫とみられる高床式の建物と煮炊き用の甕が発達し、大陸系の磨製石斧が登場します。

第2のメッセンジャー
弥生中期の大躍進 
境窪遺跡の平面図 屋代遺跡 弥生時代の水路と樹木痕跡
第2章Section2中期集落の形成1
  1 境窪遺跡 弥生時代中期中葉(約2250年前)
境窪遺跡地図

 123 1-1~4弥生時代中期中葉の土器(栗林成立以前)
1(細頸)壺形土器 2甕形土器 3甕形土器 4鉢形土器
 1251-5~10中期中葉の石器・土製品(栗林成立以前)
5太型蛤刃
6打製刃器
7扁平石斧
9磨製石鏃形石器
7扁平石斧
8スプーン形土製品
9磨製石鏃形の石器
10土製紡錘車

 127第2章 Section2中期集落の形成1

  屋代遺跡群 弥生時代中期中葉(約2250年前) 長野県更埴市雨宮・屋代
河川の後背湿地の開拓が始まります。排水路の掘削などを行い、湿地での食料生産が始まり大陸系の磨製石包丁が登場します。

2-2~5湿地帯で見つかった石器 第2章 Section2中期集落の形成1
    2 屋代遺跡群 弥生時代中期中葉(約2250年前)
1壺形土器 2打製刃器
3柱状片刃石斧
4磨製石包丁(未成品)
5磨製石包丁
g信州最古の磨製石包丁
千曲市更埴条里遺跡
 

 130稲作文化の開花 成熟する中期中葉の社会

 131
浅川扇状地上の「弥生むら」長野市壇田遺跡 壇田遺跡の栗林1式期の墓域 小泉遺跡に見る墓域の形成 1号礫敷木棺墓
(礫床木棺墓)
 
弥生時代の水田
中野市柳沢遺跡

 132第3章 Section1中期集落の形成2

  壇田遺跡 弥生時代中期中葉(約2200年前) 長野市若槻地区檀田
住居4~5軒がまとまった単位となり、それが2~3集まって集落(ムラ)が作られます。大陸系の磨製石鏃や磨製石剣が登場します。
  ※争いが始まる。

6-1~4栗林1b式の
土器
第3章 Section1中期集落の形成2
    6 壇田遺跡 弥生時代中期中葉(約2200年前)
壇田遺跡

 133稲作文化の開花 成熟する中期中葉の社会

6-1~4栗林1b式の土器
6-1壺形土器 6-2甕形土器 6-3鉢形土器(赤彩) 6-4甑形土器 6-1~4栗林1b式の土器
6-5~12栗林1式の
石器
6-5~7
打製石鏃
6-10太型蛤刃石斧
6-8~9大型刃器
6-11扁平片刃石斧
6-12抉入柱状片刃石斧
6-15サメ歯状垂飾品
6-13磨製石鏃
6-14磨製石剣

 135第3章Section 1中期集落の形成2

 小泉遺跡 弥生時代中期中葉(約2200年前) 長野県飯山市照里小泉
木棺墓が10基ほど集まり集墓地が作られます。それが特定の場所に集まった集墓地もあります。
副葬品には勾玉や管玉の有無や数に違いがあります。

7-1勾玉と管玉 7-2有孔土製円盤
(下段中央)
土器片利用の紡錘車
弥生時代の機織り
輪状式原始機=腰機
7-3木製布送り具 木製布送り具の滑り止め彫刻

 137第3章Section 2中期集落の形成3

 柳沢遺跡 弥生時代中期中葉(約2150年前) 長野県中野市柳沢
栗林式が成立してまもなく、住居域、墓域、生産域(水田)で構成されたムラが作られます。
アゼを持つ水田の造営と集合墓地にひときわ大きな墓が1基作られ、副葬品には100点を超える管玉があります。

第3章Section 2中期集落の形成3
  8 柳沢遺跡 弥生時代中期中葉(約2150年前)
8-1管玉
8-2シカが描かれた壺
シカ線刻壺
 

 140農耕社会の形成 信州型弥生中期の社会


 141 第4章Section 1中期集落の形成4

 9 松原遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)  長野市松代町東寺尾松原西・松原東
新たな土地に人々は移住し、ムラを作ります。集住化により大規模な集落「弥生ムラ」が誕生し、むらの中には溝で囲まれた環濠集落が出現します。特別な集団が生まれたと考えられます。
 ※集落間戦争が激しくなった。

9-1~7栗林2式の古段階の土器 9-1壺形土器
9-2壺形土器
9-3筒形の土器
9-4筒形の土器
9-5甕形土器
9-6甕形土器 9-7甕形土器 9-1~7栗林2式の古段階の土器 第4章Section 1中期集落の形成4
  9 松原遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)
 142 9-19-44石製品
 142a 9-19-30
9-19~23
黒曜石製石鏃
9-24~30
チャート製打製石鏃
 142b 9-51-55
9-51・52磨製石包丁
未成品
9-53~55磨製石包丁
完成品
 142c 9-31-44
9-31~36磨製石鏃の製作関連資料(未成品) 9-37~44磨製石鏃
完成品

 143 9-8-18栗林2式新段階の土器
9-8~18
栗林2式新段階の土器
9-8
9-9
9-10
9-11
9-12
9-13 9-14
9-15
9-16
9-17
9-18
 144 9-45-81
重なり合う生活の痕跡
長野市松原遺跡
松原遺跡の集落の変遷(栗林式段階)
松原遺跡の集落の変遷(栗林式段階)
9-47~50大型刃器 9-45・46打製土堀具
(石鍬)

9-56~57
太型蛤刃石斧
9-81~85
多種の石材で作られた扁平片刃石斧
9-58~60
扁平片刃石斧
 
 145
9-61~66
鑿状石器
9-78鮫歯状垂飾品
9-77平玉
9-57臼玉
9-76管玉
9-74ヒスイ製勾玉 9-73石指輪製 9-68~72
武器形石製品
9-68・69磨製石剣
9-70石鉾状石製品
9-71・72磨製石戈
9-79ベンガラの保管住居床面出土のベンガラ鉢
 146
9-80ベンガラの生成
住居床面から台石と石槌が出土

  第4章Section2経済の発達1

  fig90  県町遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前) 長野市大字南長野字聖徳527
中期後葉になると灌漑施設を完備した本格的な水田が作られます
遺跡出土の炭化種子には、米以外にもアワなどの雑穀や他の植物種子があります。
 ※安定した農業生産ができるようになった。地域社会が拡大し、社会が安定している。 

壺の中から出てきた
炭化米
県町遺跡
壺の中から出てきた炭化米
第4章Section2経済の発達1
  fig90  県町遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)

 147石器製作の拠点 長野市榎田遺跡
石器製作の拠点
長野市榎田遺跡
太型蛤刃石斧の製作過程 素材の獲得
一抱えもある原石を打ち割り、分割する。
分割した礫を粗く加工し、素材を準備する
(荒割段階)
素材の加工

剥離整形
素材を石のハンマーで隔離加工し、全体の形を斧形に整える。
(打烈段階)
素材の加工
敲打整形
剥離加工面の凸凹を石のハンマーで敲打加工し、全体の形を滑らかに整える。
(敲打段階)
仕上げ加工

研磨整形
砥石を用いて全体を加水研磨し、磨製石斧を完成させる。
(琢磨段階)
信州産石斧の
製作、流通

 148第4章Section3経済の発達2 手工業生産の発達

  11  榎田遺跡 弥生時代中期後葉約2050年前)  長野市若穂綿内5218−1
保科玄武岩類の産地近くに、大陸系磨製石斧の製作遺跡が作られます。火成岩を用いて、伐採用の蛤刃石斧の製作遺跡が作られます。
火成岩を用いて伐採用の蛤刃石斧、加工用の片刃石斧を集中的に製作します。製作は半完成で、完成させない点に特徴があります。

太型蛤刃石斧製作資料
第4章Section3経済の発達2 手工業生産の発達
11榎田遺跡 弥生時代中期後葉約2050年前)
1~3太型蛤刃石斧 4~7扁平片刃石斧製作工程資料

 149第4章Section3経済の発達2 手工業生産の発達

  25  中俣遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)  長野市大字柳原字下返町2554-1
榎田遺跡で 製作された半完成品は、敲打段階のまま、松原遺跡や中俣遺跡に持ち込まれ、完成品に仕上げられました。
製作工程上の分業があり、蛤刃石斧と片刃石斧の2種類が作られました。

第4章Section3経済の発達2 手工業生産の発達
  25  中俣遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)
25-2扁平片刃石斧
未成品
25-1太型蛤刃石斧
未成品
9-86太型蛤刃石斧未成品
9-88置き砥石と敲打段階の石斧
9-87扁平片刃石斧
未成品
 

 151信州ブランド~県内各地で出土した大陸系磨製石斧
7-4小泉遺跡
12四王前田遺跡 13-1・2栗林遺跡
14榎遺跡(上田市)
15-1・2森平遺跡 16-1・2県町遺跡 17-1・2箕輪遺跡 18-1・2恒川遺跡ゴンガ

 152信州ブランド~県外各地で出土した大陸系磨製石斧
19-1・2大武遺跡
新潟県長岡市
21-1・2八日市地方遺跡 石川県小松市 20-1箕輪遺跡
新潟柏崎市枇杷島3035-2
24川合遺跡
静岡市川合
22-1・2台の城山遺跡
朝霞市
23-1・2観福寺北遺跡
23-3権田原遺跡
横浜市
 154

 155第4章Section4金属器の登場

  27  春山B遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前)
鉄器の登場は加工具が古いようです。中期後葉の住居から加工用鉄斧が片刃石斧と共に捨てられた状態で出土しました。
床下には蛤刃石斧5点が埋納されていたことから、伐採用の石斧はまだまだ貴重だったようです。

  ※貴重な鉄斧が捨てられた状態で出土したというのはちょっとどうなんだろう。隠してあったのかな。

27春山B遺跡の板状鉄斧
扁平片刃石斧
27春山B遺跡

 156第4章Section4金属器の登場

  26  南大原遺跡 弥生時代中期後葉約2100年前) 長野県中野市大字上今井字南大原
中期後葉になると、鉄器の登場と共に簡単な鍛冶が始まったようです。火床とみられる焼けた場所、台石や敲石、鉄片の出土があります。
東日本では最も早い時期に当たり、再加工技術を伴う点は貴重です。

26-1・2南大原遺跡の鉄製品
26-2鑿状鉄器
26-1鉄鏃
26-1鉄鏃 26-2鑿状鉄器 26南大原遺跡
 

 200紀元前後の変動 弥生後期への移行


 201第5章Section1階級社会への移行

  28 長野吉田高校グランド遺跡 弥生時代後期前葉約1950年前) 長野市吉田2丁目
後期前半の集落は、ほとんど見られません。浅川扇状地上野遺跡を見る限り、磨製石鏃の出土はあるものの石器の消滅期に当たります。
東北地方南部に分布する「アメリカ式石鏃」の出土は注目されます。

長野市吉田高校グランド遺跡における集落の変遷 28吉田高校グランド遺跡 28-1~6
吉田式の土器
28-1壺形土器 28-2甕形土器 28-3台付土器 28-4鉢形土器 28-5高坏形土器 28-6蓋形土器
 203
28-7~12
吉田式に伴う石器
28-8一穴式磨製石鏃 28-7無孔で長身の磨製石鏃
28-13・14土製勾玉 28-9・10打製土堀具 28-11・12磨製石斧
 205
28-17・18
11号住居跡出土
アメリカ式石鏃
アメリカ式石鏃
28-15・16
流紋岩の原石と剥片
(13号住居跡出土)
28-15流紋岩原石
 
 

 210赤い土器のクニ」誕生 信州型 弥生後期の社会 1~3世紀  箱清水式土器

ベンガラ塗土器棺。長野県千曲川上流における弥生文化の展開。佐久平を象徴する赤い土器は佐久地方における弥生時代の象徴的土器である。


 211エピローグSection 2経済の発達3
 34 北一本柳遺跡群 弥生時代後期後半(約1900年前) 佐久市岩村田一本柳
佐久平の弥生後期を代表する大規模な農業集落です。焼失した住居内の壺からは、約1kgの米が出土しています。
別の住居からは炭化した豆、更には伐採用の板状鉄斧の出土があります。

環溝集落の変遷
長野市篠ノ井遺跡群高速道地点
聖川沿いに作られた
篠ノ井環溝集落
埋まっていた集合墓地新幹線地点
34-1箱清水式の象徴「赤い土器」(壺) 34北一本柳遺跡 34-2、1の壺から出た炭化米 箱清水文化
引用
信濃の弥生文化
長野県市町村
 212
35-1鉄剣 36-2・3鉄鏃
31-18・19銅鏃
31-17鉄鏃
31-14ヤリガンナ
34-3板状鉄斧
37-1鉄剣
31-15・16鉄刃(穂摘鎌)
36-1鑿状工具

 板状鉄斧
朝鮮半島から、コメと交換に持ち込まれた鉄素材には二種類あって、鉄挺と板状鉄斧があります。鉄挺は鍛冶の原料であり、これを加工整形しなければ使用できません。そのためには鍛冶の技術が必要です。そこで、
 鍛冶の技術がない段階の列島では、板状鉄斧が持ち込まれ、そのまま鉄斧として利用されました。


 213エピローグSection1後期集落の形成

 31 篠ノ井遺跡群 弥生時代後期後半(約1900年前) 長野市篠ノ井塩崎字浄光
後期後半、大規模な環溝集落の登場と計画的村落が形成されます。環溝内は、居住や生産工房の施設が場所を分けて作られています。
環溝の外には、水田や墓域、農業集落が作られ、大規模な「弥生むら」が誕生します。

31-1~11
箱清水式土器
篠ノ井遺跡群 31-2広口壺
31-3無頸壺 31-8・9ミニチュア土器 10・11鉢形土器
6・7高坏形土器
 

 214エピローグSection1後期集落の形成

 31 篠ノ井遺跡群 弥生時代後期後半(約1900年前)
 214a
後期後半、大規模な環溝集落の登場と計画村落が形成されています。環溝内名は、居住や生産工房の施設が場所を分けてくくられています。
環溝の外には、水田や墓域、農業集落が作られ、大規模な「弥生むら」が 誕生します。

3無頸壺
8・9ミニチュア土器
10・11鉢形土器
5台付甕形土器
2広口壺
6・7高坏形土器
5台付甕形土器
214b 
1壺形土器 2壺形土器 3甕形土器 4甕形土器
 

 220エピローグSection3階級社会への道

 fig.1 34 家下遺跡 弥生時代後期(約1900年前) 長野県茅野市ちの横内
木棺墓とみられる第100号土壙から、人骨と共に螺旋状銅釧点(3巻)が出土しました。銅釧は装着された状態の可能性があります。

 221
 エピローグSection3階級社会への道

 fig.135 中挟遺跡 弥生時代後期(約1900年前) 塩尻市片丘11193
塩尻市大字片丘に所在します。小沢芳一氏により発見されました。勾玉1点、ガラス小玉124点、細形管玉33点(鉄石英・碧玉)があり、
ともに弥生時代後期(櫛歯羽状文くしばうじょうもん)の土器が出土しています。

銅釧が出土した円形周溝墓
(佐久市五里田遺跡)
中挟遺跡
家下遺跡
長野県茅野市ちの横内
方形周溝墓群
辰野町荒神山おんまわし遺跡

 222エピローグsection3階級社会への道

 6 檀田遺跡マユミダ 弥生後期(約1900年前) 長野市檀田字越後田有無桜町鍛冶田
集落の一端に墓域が作られ、数世代にわたり造墓が行われたとみられます。
箱清水式前半円形周溝墓で、主体部の木棺墓から円環状の銅釧と鉄釧、ガラス小玉の出土があります。

6檀田遺跡
6-19ガラス小玉 6-16ヒスイ製勾玉 6-18銅釧
6-17鉄釧

 223エピローグsection3階級社会への道

 35 五里田遺跡 弥生後期(約1900年前)  長野県佐久市根々井
第2号円形周溝墓の主体部から、帯状の円環状銅釧5点が出土しています。科学分析の結果から中国華北産鉛の可能性が示されています。
また住居内からは、関部双孔マチブソウコウの鉄剣や螺旋状鉄釧の出土があります。
 ※関部双孔とは二つの穴があけられたもの

五里田遺跡 35-2第2号周溝墓出土
銅釧

 224 エピローグsection3階級社会への道

 38 後家山遺跡ゴカヤマ 弥生後期(約1900年前)  佐久市平賀字後家山
1号木棺墓から、螺旋状鉄釧2点(5巻と6巻、布断片あり)が、ガラス小玉54点と共に出土しています。布断片の繊維分析は不可能であったが、鉄釧は右腕に装着されたものと考察されています。

38後家山遺跡 38-2ガラス小玉 38-1螺旋状鉄釧  

 225エピローグsection3階級社会への道

 39 西一里塚遺跡 弥生後期(約1900年前) 佐久市平塚239-1
墓域の調査から、数世代にわたる造墓が認められました。7号周溝墓からは螺旋状の鉄釧1点(9巻)とガラス小玉9点が出土しています。また、14号周溝墓からは鞘とみられる木質部の残る鉄剣1点が出土し、武器形鉄器の服装が認められます。

39西一里塚遺跡 39-3鉄剣 39-1螺旋状鉄釧 39-2ガラス小玉

 226エピローグsection3階級社会への道

 40 剣ノ宮遺跡 弥生後期(約1900年前) 塩尻市剣ノ宮
方形周溝墓9基が並列して発見されました。6号墓は主体部が2基あり、1号主体部から螺旋状鉄釧1点(64槙)とガラス小玉245点、管玉4点が出土しました。ほかの墓からは、鉄釧とガラス小玉、ガラス小玉、鉄釧が出土しています。

40剣ノ宮遺跡 40-1鉄釧・ガラス小玉・管玉

 227エピローグsection3階級社会への道

 40 荒神山おんまわし遺跡 弥生後期(約1900年前)  長野県上伊那郡辰野町大字樋口2161
墓域の調査で12基の方形周溝墓が発見されました。数世代にわたる造墓が繰り返されたとみられます。第2号墓から螺旋状鉄釧1点(破片断片、布付着あり)が出土しています。

荒神山おんまわし遺跡 41-1鉄釧
 230

 231木島平村根塚遺跡  長野県下高井郡木島平村往郷9230
木島平村根塚遺跡 鉄鉾が収められていた40号土壙 奥シナノ有力者の墓
木島平村根塚遺跡
2号鉄剣(渦巻文装飾付鉄剣)出土状況

 232エピローグsection3階級社会への道

 31 篠ノ井遺跡 弥生後期(約1900年前) 長野市篠ノ井塩崎字宗旨坊
31篠ノ井遺跡群 13布にくるまれた鉄剣 12鉄釧


 エピローグsection3階級社会への道

 42 上田原遺跡 弥生後期(約1900年前) 長野県上田市大字上田原字塚原
周溝墓4基が発見されました。1号墓の主体部から螺旋状鉄釧2点とガラス玉9点が出土し、40号土壙から鉄鉾1点が出土しました。
鉄鉾は端部に節帯(折り返し)をもつ例で、朝鮮半島製の可能性が指摘されています。

42上田原遺跡 42-1
40号土壙出土鉄鉾
42-2
1号周溝墓出土鉄釧
 233
42-3
1号周溝墓出土
ガラス小玉
 234
43-2
3号鉄剣(鹿角装鉄剣)

 235エピローグsection3階級社会への道

 42 根塚遺跡 弥生後期後半(約1900年前 長野県下高井郡木島平村往郷9230
独立残丘上の6号墓からは、細形管玉73点・ガラス小玉134点・勾玉1点・砥石1点・鉄剣(鹿角装)1点が出土しました。
また、残丘下の7号墓では、土坑の確認面から鉄剣(渦巻文装飾付)1点が出土しました。朝鮮半島系の可能性が指摘されています。

43-5ヒスイ製勾玉 43-3
6号木棺墓出土管玉
砥石
43-46号木棺墓出土ガラス小玉 奥シナノの有力者の墓
木島平村根塚遺跡
 
 
 
 


 240地域博物館との連携

弥生中期の土器形式
(長野県内各地別)
県内各地の弥生文化
弥生前期~中期
弥生中期~後期 中部山岳と北部九州
弥生前期~後期
地域博物館との連携
諏訪市博物館
これは写真の写真
市立岡谷美術考古館
これは写真の写真
炭化種実と石包丁
これは写真の写真
並べて埋納された
銅戈と銅鐸
中野市柳沢遺跡
これは写真の写真
  
 


 250弥生中期の大躍進 伊那谷の生活道具

 251
中期中葉の土器片が出土した検出面
(穴が密集している)
天竜川の段丘上の遺跡

 252第2章Section2中期集落の形成1

 3 寺所遺跡 弥生時代中期中葉(約2250年前) 長野県飯田市松尾新井
住居は不明瞭で、集落が判然としません。細頸壺と煮炊き用の甕が登場し、耕起用や収穫用とみられる打製石器のセットが確立します。

4・5打製刃器 6打製石包丁
7磨製石包丁
7磨製石包丁 6打製石包丁 8・9有肩扇状石器 11~13打製石鏃 2・3打製土堀具 10磨製石斧
(未成品)

 255第2章Section2中期集落の形成1

 4 井戸下遺跡 弥生時代中期中葉(約2250年前)  長野県飯田市川路
住居とみられる建物跡が3軒発見されています。炉跡や柱穴跡は確認されていませんが、焼土と硬い床が見つかっています。

4甕形土器

 256第2章Section2中期集落の形成1

 5 阿島五反田遺跡 弥生時代中期中葉(約2250年前)  長野県下伊那郡喬木村阿島
柱穴状や溝状の遺構が発見されています。細頸の壺形土器は、棒状や竹管状の工具で山形文などが描かれ、中には赤彩された例もあります。

5壺形土器
5阿島五反田遺跡
 


 260信州型弥生中期社会 伊那谷の大規模集落4

 第4章 Section1 中期集落の形成4

 10北原遺跡 弥生時代中期後葉(約2100年前) 下伊那郡高森町
住居が複数まとまり、集落(ムラ)が作られます。地元の土器と共に、信州北部の栗林式土器が使われます。耕起用や収穫用の打製石器のセットが発達し、磨製石鏃の集中的な製作に特徴があります。
 261第4章Section1中期集落の形成
天竜川段丘上の「弥生ムラ」高森町北原遺跡 10北原遺跡
10-1~6北原式土器 1壺形土器 2壺形土器 3壺形土器 4壺形土器 5・6鉢形土器
 263
10-7~17
北原式に伴う石器
7・8横刃形石包丁 13・14打製土堀具
(石鍬)
10-26
砥石(両刃石斧の研磨作業想定復元)
16扁平両刃石斧 9打製石包丁
10石鎌
11・12有肩扇状石器 10-27勾玉

 265 10-18~25磨製石鏃の各製作段階と石錐による穿孔作業想定復元
10-18~25磨製石鏃の各製作段階と石錐による穿孔作業想定復元 18・19剥離成形段階 20・21研磨製形段階
22・23基部研磨製形段階
24・25磨製石鏃
完成品
17打製石錐
 

 270弥生後期への移行 石器製作の継続


 271第5章 Section1 階級社会への移行

 29 兼田遺跡 弥生時代後期前半(約1950年前) 長野県飯田市
後期前半、上伊那地域に初源期の座光寺原式土器が当時要します。集落は少なく全体蔵はやや不鮮明ながら、磨製石鏃の製作を始め、打製石包丁や有肩扇状石器、打製石鍬など農耕用とみられる打製石器の卓越があります。

29兼田遺跡 29-1~4
座光寺原式の土器
座光寺原式土器 1壺形土器 2壺形土器 3甕形土器 4台付甕形土器
 273
29-10~15
座光寺原式に伴う石器
29-6~9
磨製石鏃製作関連資料
6・7剥離成型段階 9完成品 29-5砥石 10打製石包丁
11磨製石包丁 石製紡錘車
飯田市丹保遺跡
12・13有肩扇状石器 14・15打製土堀具
(石鍬)

 275第5章 Section1 階級社会への移行

 30 橋原遺跡 弥生時代後期前半(約1950年前)   長野県岡谷市川岸東1丁目5
諏訪湖近傍に後期前葉の集落が作られます。焼失した住居からは日時用使われていた土器と共に、焼けた米が出土しました。天井に吊るされた壺の中に納められていたとみられ、48.8ℓ(約35万粒)もありました。

30 橋原遺跡 30-1壺形土器
焼けた米が出土した
 277
30-2・3
炭化アワ(左)と炭化米(右)
30-4磨製石包丁 30-5紡錘車 30-6ヤリガンナ
 

 280信州型弥生後期社会 大規模な農業集落の形成

 281エピローグSection1後期集落の形成

 32 丹保遺跡 弥生後期後半(約1900年前)  飯田市上郷飯沼
伊那谷に大規模な農業集落が作られます。計画的な居住配置が見られ、一辺7mを越える大きな住居も見られるようになります。
石鍬や打製石包丁など、後期前半と同様に豊富な石製農具が見られます。

天竜川に面した段丘上に密集する住居群
信州南部の新たな集落のかたち
32-1~6
中島式土器
32丹保遺跡

 282中島式土器

1壺形土器 32-1~6中島式土器 3甕形土器 4甕形土器 5甕形土器
 283
32-1~6中島式土器 6高坏形土器 2壺形土器

 286エピローグSection1後期集落の形成

 33 殿原遺跡 弥生後期後半(約1900年前)  飯田市
伊那谷の弥生後期を代表する遺跡です。磨製石鏃の大型化が見られる反面、石鍬はこぶりになります。
剥片使用の刃器、打製石包丁、有肩扇状石器などのセットのほか、石錘もみられます。


 286a中島式に伴う石器2
中島式に伴う石器 33殿原遺跡 33-1・2
中島式に伴う石器1
1磨製石鏃
2石鑿状の磨製石斧
33-3~13
中島式に伴う石器2
3・4大型刃器
 286b中島式に伴う石器2
33-3~13
中島式に伴う石器2
7磨製石包丁 5・6打製石包丁
10・11石錘 12・13打製土堀具 8・9有肩扇状石器
 

 290初期ヤマト王権への参画 弥生文化の終焉

 291初期ヤマト王権への参画 弥生文化の終焉
    北平1号墳 弥生時代終末(約1800年前) 長野市若穂川田下和田
北平1号墳
ガラス小玉 ヒスイ製勾玉 管玉
 293
東海系ひさご壺 壺形土器 高坏 高坏 高坏
 
 
 
 
 300


 301信州ブランド ~大陸系磨製石斧~

    春山B遺跡 弥生時代中期後葉(2100年前) 長野市若穂綿内田中
太型蛤刃石斧 信州ブランド
~大陸系磨製石斧~
春山B遺跡
太型蛤刃石斧 太型蛤刃石斧
 

 303第3章Section1中期集落の形成2

   h 八日市地方遺跡 弥生時代中期(約2300~2000年前)  小松市日の出町
h 北陸地方の碧玉製玉類の製作

 管玉製作工程資料
管玉製作工程資料 管玉製作工程 石針
(穿孔用石錐)

 碧玉(緑色凝灰岩)
碧玉(ジャスパー)は、瑪瑙や玉髄と同様に石英の一種ですが、不純物を含む点では流紋岩にも近いものです。日本の玉材料としては、ち密な緑色凝灰岩との区別があいまいです。流紋岩や凝灰岩の層中に塊、あるいは脈状に入っている場合が多く、特殊な条件下で生成されると考えられます。
碧玉(緑色凝灰岩) ピンボケ 原石

 305祭器
祭器とみられる有孔石剣
fig104諏訪市
ミシャグジ平遺跡
祭器とみられる石戈
長野市松代町東寺尾
松原遺跡農協地点
9 独鈷石
松原遺跡
9-67
独鈷石 松原遺跡
 

 306第3章Sectuon2中期集落の形成3

  8 柳沢遺跡 弥生時代中期後葉(約2100年前)  長野県中野市柳沢
8-4 1号銅戈
(九州型、中細型C類)
8-5 6号銅戈
(大阪湾型)
 

 307第3章Section2中期集落の形成3

   8 柳沢遺跡 弥生時代中期後葉(約2100年前)
8柳沢遺跡 8-3 2号銅鐸
(外縁付鈕式)
 

 308地域博物館との連携

  日本文化の基層を見つめる
文化は伝統の継承により作られる。我々の日常生活、食事や労働、結婚、葬喪など、人間行動の累積としての集団的慣習、それが伝統である。日本列島における原始社会には、稲作開始を境に2つの固有文化を考えることができる。

稲作伝播は偶然の歴史的事情であったかもしれないが、度重なる外来文化が列島の在地文化を否定することなしに自由に取り入れられたのは、そこに深層文化の本質があったからにほかならない。
人間が環境(自然)と一体となって発展してきた文化、風土的文化(縄文文化)の存在である。日本における農業の進展が、東アジア世界の中で欠畜農業として開始されるゆえんは、この風土的文化の中に歴史的社会(弥生社会)が形成されたからに他ならない。
自然破壊は農業生産力の発展と共に加速し、環境と人間主体の相対化、歴史的生産作用を通して政治的社会の確立(古墳文化)に及び、表層文化は拡充される。

表層文化に蓄積された慣習は、本来多様性を持つものだが、交流や交換経済の発展と共に慣習は伝播し、政治的に文化統合される。こうした社会的事実が、階級的社会として「国」の誕生を促した。
60年以上前にアメリカの人類学者ルース・ベネディクトは、経済的慣行は、その本来の役割である、必需品の供給から、あまりにもかけ離れ、すべての農業技術が人間にとって必要な食料を腐らせてしまう方向性を懸念した。

改めて、我々の心にある深層文化、“縄文の心”を理解し、稲作伝播の頃、“弥生の世界観”を学習することで、食料の生産、命をつなぐことの意味、農業とは何か、流通や消費はどのようにあるべきなのか、考え直してみたい。

地域博物館との連携
※前出
諏訪市博物館
市立岡谷美術考古館
並べて埋納された銅戈と銅鐸
中野市柳沢遺跡
前出
銅戈・銅鐸
前出
日本文化の基層を見つめる
 

 312国宝金印「漢委奴国王」
ピンボケ 国宝金印
「漢委奴国王」
金印 金印刻印面
封泥使用の再現 ※金印はまた返還しなければならないので
封泥のまま保管された。
志賀島金印公園 ※金印下賜は江戸時代から有名で、藩主の命令で捜索を行った。
担当藩士が苦し紛れに贋物を作った話もあるが、一藩士にそんな莫大な財力はなかっただろう。※
※例えば当時の小判は金銀銅の混合物で、純金を入手するなんて、不可能な話だった。


 314古代印
59馬鈕銅印バチュウ
「親趙矦印」
シンショウコウイン
56鳥鈕コークス印
「宜子孫」ギシソン
58壁邪鈕鍍金印
ヘキジャチュウトキンイン
「呂晏私印」
ロアンシイン

 国宝金印 「漢委奴国王」複製
 国宝の金印は、印面に「漢/委奴/国王」の五文字が三行に刻印され、、天明四年(1784)に筑前国那珂郡志賀島村叶の崎(福岡市東区)より発見されました。鈕(紐を通すつまみ)はとぐろを巻いた蛇で、鈕孔には長さ一丈二尺(2.8m)の紫の綬(ふさ=ひも)を通して結ばれていたと考えられます。
印面の一辺は2.347mcで漢代の一寸にほぼ等しく、重さは108.729gです。
 中国の歴史書「後漢書」倭伝に、「建武中元二年(57)倭の奴国貢物を奉って朝賀す。…光武賜うに印綬を以ってす。」とあり、
弥生時代に最も栄えた国のひとつで福岡平野にあった奴国の王が、後漢王朝に使節を派遣し、光武帝から贈られたのがこの金印です。
 当時の印章は、公文書や通信文の封印に用いられたものです。封印は文書を収めた箱を紐で縛り、その結び目に付けた粘土に押印して封をしたもので、文書の機密を守る鍵の役目を果たしています。
 この金印は、日本と中国の二千年の交流の証であり、現在は福岡市博物館に常設展示されています。

国宝金印
「漢委奴国王」複製
福岡市立博物館に行くと

この複製品を売っています。
金製品ではないでしょうが、値段はピンキリです。
真鍮製か高ければ
金メッキかな。
メッキだと把手のメッキがすぐ摩耗する。
さわれない

54亀鈕銀印「周徳」
キチュウギンイン
シュウトク

55亀鈕銀印「劉長公」
キチュウギンイン
リュウチョウコウ
57駝鈕銅印
ダチュウギンイン
「漢蘆水佰長」
カンロスイハクチョウ
 
 


 400第2会場

 

 410第Ⅱ部Section7 筑紫平野 吉野ケ里遺跡の世界


 筑紫平野
  吉野ケ里遺跡 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
遺跡は田手川と城原川の間の段丘上にある。日本最大の環溝集落で、面積は40haに及ぶ。
前期は丘陵上に小規模な集落が分散し、やがて大規模な環溝集落が形成される。
中期には丘陵北側に墳丘墓や列状甕棺墓がつくられ、青銅器の製作が始まる。また、墳丘墓を取り囲む環溝が掘削され、南西部には倉庫群が作られる。
後期は北墳丘墓の南側に二重環濠で張り出し部をもつ「北内郭」が、南側には「南内郭」が作られる。鉄器の製作も開始される。

 筑紫平野
  吉野ケ里遺跡
甕棺墓
甕棺墓
  吉野ケ里遺跡   第Ⅱ部Section7
筑紫平野 吉野ケ里遺跡の世界
     
復元された吉野ケ里遺跡 出土した木製品
鼠返し
復元された北内郭
主祭殿
復元された北内郭
出入口
復元された南内郭
物見櫓
長大な甕棺墓群 巨大な北墳丘墓 なぜネズミ返しだけが出土した。
倉庫を解体し、部材を他に転用した時に、不要となったネズミ返しを環濠などに廃棄した。のかもしれない。
掘っ立て柱建物だから20~30年ごとに立て直す必要があった。
部材の足元は腐っても切り落として他に転用できたのは、大変良い材料を使用するからだ。
 420甕棺内の副葬品
甕棺内の副葬品
51-2~4
出土した銅剣
2中細形銅剣
3細形銅剣
4細形銅剣
把頭飾付有柄細形銅剣とガラス製管玉
甕棺内の副葬品    51-1
把頭飾付有柄細形銅剣
はとうしょくつき ゆうへい
ほそがたどうけん

 
fig193ガラス製管玉
51-7貨泉
 
甕棺内の副葬品   

 展示室内全景 (以下に詳細掲示)
 
 

 430人骨に見る戦いの痕跡

 頭骨のない人骨の謎
弥生時代の埋葬遺跡では、石、青銅で作った鏃や剣などの武器が直接骨に刺さった人骨、棺内に数多くの武器を伴う人骨、頸から頭部を欠く人骨などが出土することがあります。これらは当時の戦いによる犠牲者と考えられており、弥生時代の初めから紀元前後までの400年間で、九州地方を中心に100体を越える例が報告されています。

吉野ケ里遺跡のSJ-329号人骨(写真1)は、全身の骨が残存しているにもかかわらず、頭蓋と上部頸椎(第1・第2頸椎)が全く残っていませんでした。
当初、どのような理由でこの人骨の頭部がないのかが話題となりましたが、全身の骨を調べた結果、右鎖骨の内側後面(図1、写真2)と右橈骨の下位前面(図1、写真3)に傷跡があることが わかりました。

右橈骨の傷は前から、右鎖骨後面の傷は前か背後から下方に向けて刺されて生じたもので、この際、筋肉はもちろんのこと比較的太い血管も損傷を受けたものと考えられます。
このことから、この被葬者は戦いで傷付けられ死亡した後、頭部を取り去られた可能性が高く、更に傷の位置、程度、状態から見て、戦いには短剣などの小型で鋭利な金属器が使用されたものと推測されます。 (長崎大医学部 分部哲秋)

人骨に見る戦いの痕跡 頭骨のない人骨の謎 写真2
写真3
図1
人骨出土状況
壮年~熟年前半
腹部に矢を射込まれた人骨 一対の寛骨と石鏃 深く掘られた環濠


 第Ⅱ部Section5 遠賀川流域 嘉穂地域の国誕生

  スダレ遺跡 福岡県飯塚市(旧嘉穂郡穂波町椿) 弥生時代中期 (約2300年前)

 石剣嵌入人骨
石剣嵌入人骨 スダレ遺跡 50石剣嵌入人骨
石剣嵌入
レントゲン写真


 吉野ケ里遺跡
復元された倉と市 木製農具の登場 復元された当時の衣装 麻布製貫頭衣 絹布製上位人の衣服
 
 

 440唐津湾周辺 末盧国の誕生

 第Ⅱ部Section 6 唐津湾周辺 末盧国の誕生
  宇木汲田遺跡 【史跡】佐賀県唐津市宇木
  弥生時代前期末~中期前葉(約2400~2300年前)
唐津湾に注ぐ、松浦川とその支流のひとつ宇木川流域に遺跡はあります。1957年以降の調査で、甕棺墓129基、土坑3基が確認されました。
12号甕棺からは多鈕細文鏡1点と細形銅剣1点があり、38号甕棺では銅剣5点、銅釧5点、勾玉2点、管玉36点の出土があります。
墓域は前期末から中期前半に2基を単位とする埋葬墓が流行し、2種類以上の副葬品を持つ墓は、中期前半から後半に出現するようです。

唐津湾 ヒスイ製勾玉
宇木汲田遺跡出土
12号甕棺出土の
多鈕細文鏡
宇木汲田遺跡 銅矛(上)、銅剣(下)



  第Ⅱ部Section 6 唐津湾周辺 末盧国の誕生

  桜馬遺跡 【史跡】佐賀県唐津市桜馬場 
  弥生時代後期前半(約2000年前)

1944年防空壕の掘削中に、合わせ口(合口)の甕棺が発見されました。
戦後、唐津市は3つの王墓として位置づけました。
第一王墓の副葬品には流雲文縁方格規矩四神獣鏡素縁方格規矩渦文鏡、巴形銅器3点、有鉤銅釧26点などがあります。
また、第二王墓から広形銅矛の破片が、第三王墓からは内行花文鏡の破片が出土しています。

桜馬場遺跡出土副葬品
有鉤銅釧

巴形銅器
管玉
勾玉ほか
桜馬場遺跡