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 北海道の縄文 18  2022.06.08-5

  別海町郷土資料館 北海道野付郡別海町別海宮舞町30
   0153-75-0802 第2・4月曜と第1・3日曜と祝・休日が休館 撮影可
   0153-75-2266は隣接の図書館。加賀家文書館も隣接

 館の特徴
小さな館で脚注も不十分だが、実際の出土人骨が展示されている。有料

交通 ・レンタカー
近隣観光地 風連湖・春国岱 年に1cm沈下する西別湿原低湿地帯の地形が面白い。
  近隣博物館  
  宿泊情報   安い宿もありますが、空いているか、翌日の予定に照らして陸の孤島に宿泊。
   
 


01外観入り口展示
10別海町の夜明け
11縄文土器
13石器

16擦文文化の遺物
17アイヌ文化期
30別海町の古代
31北海道の歴史
33別海町の古代

35人骨出土の西春別2遺跡
37尾岱沼7遺跡

40人骨
41副葬石器
43石器
45剥片
47骨角器
50縄文人骨(1号)
60縄文人骨(2号)

100縄文時代
120尾岱沼7遺跡
130厚別2遺跡

150町内から採取された遺物



※中世
●中世(アイヌ文化期)

※近世アイヌ文化
●近世(アイヌ文化期)

200近世
210野付通行屋跡遺跡
 
 
 01外観入り口展示
巨大ヒグマ
 

 10別海町の夜明け

 11縄文土器 北筒式期 縄文中期〜後期 約4500〜4000年前
縄文文化の遺物 別海2遺跡(浜別海遺跡) 縄文土器
北筒U式

北筒U式は中期末葉
約4200年前
 13石器
石斧と砥石 石斧
砥石 砥石
 14
スクレイパー 石錐
スクレイパー ナイフ
石槍 石鏃
  ※続縄文期(弥生〜古墳時代 約2000〜1600年前)の資料がありません
 16擦文文化の遺物 (飛鳥時代〜鎌倉時代)約1400〜700年前
擦文土器 高坏
擦文土器
深鉢 深鉢
擦文 深鉢 擦文深鉢
擦文深鉢

 17アイヌ文化期 約800年前〜
アイヌ文化期の遺物 銛頭(骨角器)
別海町の位置
ニンカリ(耳飾り) 鉄鍋底部
上:元豊通宝1078初鋳造
(宋銭模倣の長崎貿易銭)
下:宣徳通宝1426〜1435
(明:宣宗)
※長崎で、中国銭の
ニセがねをつくっていた
しかも、一文銭を!
当時は中国銭を大量に輸入して鋳潰して仏像仏具や擬宝珠などを作っていたはず。→
ニセ銭をつくるほどの価値はなかったはず。
第一、ニセ銭の原料が銭なんだから。
本物の銭を溶かして
ニセ銭を造るって
なに?
※鋳物の鉄鍋は劣化して突然、パッカン!と底が割れるんですね。
鉄鍋の修復は道東の辺境に来る野鍛冶では無理で、そのまま捨てられてしまったようです。
 


 30別海町の古代
 
●古代
別海町に人の痕跡が見られるのは、今から2万年前の旧石器時代です。

縄文時代(1万2千〜2千年前)になると海岸や湖、川の近くに集落を作り、狩猟・採集の生活をおくっていました。町内の遺跡で行われた発掘調査によりこの時代の竪穴住居跡や土器・石器が見つかっています。なかでも西春別2遺跡では、3千年前の縄文人骨が2体見つかっています。

続縄文時代(2千〜1千4百年前)、オホーツク文化期(1千5百〜1千2百年前)、擦文文化期(1千4百〜8百年前)の遺跡・遺物が町内から見つかっていることから、この地で生活していた人たちの足跡を時代ごとに追うことが出来るようです。
  引用 別海町の歴史(簡易版)

 31北海道の歴史
北海道の歴史

 33別海町の古代
 私たちの暮らす別海町には、縄文文化からアイヌ文化までの遺跡が85ヶ所確認されています。
 これらの多くは昭和50〜51年(1975・1976)に行われた一般分布調査により発見されたものですが、それ以前に各種開発に伴い破壊された遺跡も数多くあったと考えられます。
 これら遺跡の発見や発掘調査は、別海町の古代の様子を私たちに語りかけてくれます。

 別海2遺跡(浜別海遺跡)
 昭和46年(1971)に国道244号線の改修工事に伴い緊急発掘調査が行われました。
 調査の結果、遺構では、縄文続縄文擦文トビニタイ文化竪穴住居跡アイヌ文化の墓地跡が検出され、
  遺物では土器・石器・骨角器 金属製品が出土しました。
 縄文〜アイヌ文化の長い間にわたり生活の営みがあったのは、西別川沿いの小高い丘という遺跡の立地と関係し、豊富な資源を有効に活用していたと考えられます。

 別海2遺跡(引用別海町郷土資料館便り)
この遺跡は、旧別海中学校横に所在し、発掘調査では、
縄文時代中期(約 5 千年前)、続縄文時代(約千 6 百年前)、擦文文化期(千 3 百年前)の土器や石器、竪穴住居跡が発見されました。
アイヌ文化期の遺物も発見され、西別川岸を立地に長い間古代の人々に利用されてきたことがわかりました。

昭和46年(1971)に発掘調査された別海2遺跡で、出土したアイヌ文化期の資料(腰小刀-1 点、太刀-1 点、小刀-1 点)が、この度、保存処理が終わり、常設展示されることになりました。

別海町の古代
上に記述
別海2遺跡 遺跡遠景 6号竪穴下層
(縄文文化の竪穴)

縄文方形住居跡
4号竪穴
(続縄文の竪穴)
続縄文不定形住居跡
1号差竪穴
(擦文文化の竪穴)
カマド1基の擦文住居
入口脇のカマド設置は外で食材の下ごしらえをして、屋内での煮炊きに便利なためだった。
下ごしらえは外の水場だった。真冬でも。まな板鉄包丁は屋内から出土していない。
 34擦文・トビニタイ住居
上写真
擦文・トビニタイ期住居
下写真
人骨出土西春別2遺跡
縄文晩期
擦文住居
2号竪穴
2号竪穴
(擦文文化)
2号竪穴かまど
(左-南側・右-北側)
トビニタイ住居
9号竪穴
9号トビニタイ文化 調査終了の竪穴群 調査風景
 
35西春別2遺跡(共春遺跡) 縄文晩期 約3000年前
 昭和51年(1976)に格納庫建設工事の際に偶然人骨2体が発見され緊急発掘調査が行われました。
調査の結果、人骨は伴出した土器、石器、骨角器などの異物により、縄文時代晩期のものであることがわかりました。
また、1号人骨の上顎左側の切歯が欠如していることから抜歯の風習があったと考えられます。

 西春別2遺跡 引用 別海町の歴史(簡易版)
西春別2遺跡では、3千年前の縄文人骨が2体見つかっています。

西春別2遺跡 人骨発見現場 2号人骨出土状況

 37尾岱沼7遺跡
 平成8年(1996)に宅地造成に伴い緊急発掘調査が行われました。
調査の結果、遺構では、続縄文文化の野外炉、擦文文化の竪穴住居跡が検出され、遺物では土器・石器・古銭・礫が出土しました。
竪穴住居跡からは地床炉が2ヶ所と、にぎりこぶし大の礫が多数出土し、編物の錘具として使用されたと考えられます、が 断定は出来ません。
 ムシロやゴザを編むおもり石が出土したらしい。

擦文文化の竪穴
方形カマドなし
調査の様子
地床炉
擦文後期にはカマドが消えたらしい

上に記述
 


 40人骨 縄文晩期 約3000年前

 41副葬石器
縄文人骨
左:2号、右:1号
縄文人骨1号 1号新骨の副葬品
 431号人骨副葬石器
矢柄研磨器(砥石)
縄文土器
大型剥片
剥片・スクレイパー・石斧
 45剥片
剥片
 47骨角器
針入れ(縄文晩期) 針入れ
大型獣の骨格製針入れには、周囲を巡る刻みが底部と中央部にある。
オホーツク文化期のような狩猟を描いた彫刻装飾はない。
周回する刻みは装飾なのか、糸を巻きつけておくための溝なのかは明確ではない。
また、長年糸としてのガット(腱)を強く結んで付いた傷かもしれない。
 


 50 縄文人骨(1号)西春別2遺跡 約3000年前



 60縄文人骨(2号)西春別2遺跡 約3000年前

 ※せっかく展示されているにもかかわらず、解説がないのが残念。年齢、性別、身長などがせめてわかればと思うが。
  ただ、近年の考古学調査に対する反対運動により、ままならないのかもしれない。
  このままだと、今後、ややこしい時代の遺跡は、ブルやユンボで素知らぬ顔をして破壊され、闇に葬られるかもしれない。
 
 


 100縄文時代

砥石 石斧 スクレイパー
毛皮を得るための道具
石槍
石鏃 黒曜石原石 縄文土器

 120尾岱沼 7 遺跡
  続縄文時代、擦文時代の遺物・遺構が出土
続縄文土器 スクレイパー
台石 敲石
台石・砥石、砥石 錘石(編み物用)
こんな重い錘を使うと、出来上がった編み物は大変強く締まっている。

本州では木製の軽いトビ玉です。また、材料も沢山必要だったと思います。
永楽通宝(明銭)
擦文時代

北から来たか
◎南から来たか

珍品として持ち込まれたクズ銭か、騙されて何かと交換したのか。

 130厚別2遺跡(南矢臼別遺跡) (上風連の厚別3遺跡では縄文晩期約 3千年前の遺物と一緒に垂飾が2個出土)

厚別2遺跡
石斧・スクレイパー 石鏃
垂飾
垂飾
蛇紋岩製
垂飾
琥珀製
垂飾
琥珀製
垂飾
蛇紋岩製
 140
土器 砥石 黒曜石原石
石斧 石斧
 

 150町内から採取された遺物
石器 縄文土器
北筒V式
縄文土器
北筒V式
縄文土器
北筒V式
 
 


  ※中世
●中世(アイヌ文化期)
擦文文化期の後は、中世-アイヌ文化期(8百〜4百年前)と呼ばれ、アイヌの人たちが暮らしていました。

竪穴住居から平地住居、土器から鉄鍋の使用など、狩猟・採集、周辺地域での交易などを行いながら、自然と共存する生活をおくっていたようです。
また、道南の一部に和人(本州から渡ってきた人)が住み始め、アイヌとの争いが起きるようになりますが、別海町など道東地域の様子はよくわかっていません。
この時代に造られたものに「チャシ」があります。チャシ(chasi)は、アイヌ語で「砦・館・柵・柵囲い」チャシコツ(chasi-kot)はチャシ跡と解釈され、北海道全域に分布し、竪穴と共に地表面から明確にわかる遺構ですが、その成立や性格については、必ずしも明らかになっていません。
別海町には、8ヶ所のチャシ跡が確認されています。なかでも床丹1チャシ跡は、平成26年(2014)に発掘調査され、6百〜5百年前に使われていたチャシだということがわかりました。
  引用 別海町の歴史(簡易版)
 


  ※近世アイヌ文化

●近世(アイヌ文化期)
慶長9年(1604)松前藩が成立し、蝦夷地(北海道)を支配することになります。時代区分としては、近世-アイヌ文化期(4百〜百年前)とされています。松前藩は、家臣にアイヌと交易する権利を与えていました。その後は、商人から運上金をとり蝦夷地の場所を請け負わす制度に変わり、交易相手だったアイヌは、商人の漁
場拡大などに伴い労働力となっていきました。

17世紀の初めころの記録に「メナシ(東の方)のアイヌが、干鮭・鰊・ラッコの皮などを持って松前まで交易に来た」という記録があります。この中に別海地方のアイヌも含まれているかもしれません。

安永3年(1774)東部奥蝦夷地を最初に請け負ったのは、飛騨屋九兵衛でした。野付、別海(西別川河口)に漁場を開き、西別川産秋鮭が江戸に送られるようになりました。
寛政元年(1789)飛騨屋の苛酷な使役虐待にクナシリ・メナシのアイヌが蜂起して、支配人・番人・船乗りなど71人を殺害しましたが、松前藩により鎮圧され蜂起の指導者37人が処刑されました。
寛政4年(1792)には、ロシア使節ラクスマンが日本との通商を求めて、バラサン・ニシベツ(別海町)に来航・上陸、その後根室へ向かい越冬するなど、こうした状況に幕府は、蝦夷地に強い危機感を抱くようになります。
寛政11年(1799)幕府は蝦夷地を直轄し、陸路・海路の整備を行います。根室・国後・択捉に会所を開き、野付半島先端部には、国後島へ渡るための要所として野付通行屋を設置しました。

寛政12年(1800)、伊能忠敬がニシベツ(別海町本別海)にて蝦夷地最東端の測量を行いました。また、西別川の鮭を将軍に献上したのもこの年からでした。
文政4年(1821)〜安政元年(1854)は、蝦夷地に復領した松前藩の支配する時代となります。根室・国後・択捉に勤番所を置き、藩士を配置し警備にあたっていました。従来からの商人の場所請負は、続けられ漁業生産の拡大により、アイヌに対する使役の苛酷さは、その度を強めて行きました。
安政2年(1855)〜慶応3年(1867)は、アメリカ・ロシアへの開国、国境の確定など、松前藩の蝦夷地支配に危機を感じ、再び幕府が蝦夷地を直轄するようになります。国防強化のため東北諸藩に警備や開拓を命じ、この地方は仙台藩の持ち場となりました。安政5年(1858)には、会津藩・庄内藩が加わると、ニシベツ(別海町本別海)を境に北側を会津藩、南側は仙台藩の持ち場となりました。鮭鱒鰊漁を主体とする漁場は、各地に設けられましたが、近世の時代に別海町にあ
った集落は、現別海町本別海のニシベツ(西別川河口南側)・ベツカイ(西別川河口北側)です。

安政3年(1856)の記録によると、ニシベツには、献上鮭の製造蔵、番屋、蔵などが13棟、ベッカイには、通行屋・献上鮭の製造蔵、番屋、蔵などが10棟、アイヌの住居が15棟あり、アイヌ81人(男38人・女43人)が暮らしていました。
また、寛政11年(1799)に設置された野付通行屋には、和人の支配人とその妻、アイヌの人足が8人が詰めて仕事をしていました。なかでも安政年間(1854
〜1859)頃の支配人加賀伝蔵は、アイヌ語通辞(通訳)として沢山の古文書資料を残し、別海町で始めて農耕をした人物として知られています。この地方のアイヌの良き理解者として、北海道の名付け親である松浦武四郎とも交友関係がありました。 
  引用 別海町の歴史(簡易版)

 
 

 200近世

 201
石器を使用してみました 近現代の土器・陶磁器
 

 210野付通行屋跡遺跡  住所:野付郡別海町野付 野付半島ネイチャーセンターから. 車と徒歩で約30分  
   なんと、国後島へは野付半島の先から船が出ていた。渡船があった。

野付通行屋は、寛政11年(1799) 幕府により国後島へ渡る要津として設け られました。 昭和30年代後半の調査に より所在が確認され、 現地遺構と文献史 料の両方が残る貴重な遺跡として知られ ていましたが、今日の海水面の上昇あるいは地盤沈下により、 遺跡が浸食を受けはじめ、遺構・遺物が露出し崩壊の恐れがあると危惧されていました。
この貴重な遺跡の記録保存のため、 平成15〜17年度に自然崩壊に伴う埋蔵文 化財発掘調査が実施されました。

 野付通行屋跡遺跡は、地元の人々からは「幻の町キラク」と呼ばれ、墓石や土塁や貝塚が確認され、陶磁器や金属製品が散乱していました。
 発掘調査は崩壊の恐れのある海岸近くの区域、2575uの全面発掘及び遺跡内に所在する畑跡の調査を行いました。 建物跡、 柱穴列、 溝跡、 貝塚 貝集中地点 灰堆積ヶ所、盛土、 道跡、 集石、 土壙などの遺構を検出し、 陶磁器類、 金属製品 古銭、石製品、骨角器、 木製品など約1万点の遺物が出土しました。

野付通行屋 引用「幻のまちキラク」
寛政11(1799)年に蝦夷地を直轄した幕府は、陸路・海路の整備を急務とし、野付には国後島へ渡るための中継点として野付通行屋が設置された。 通行屋のほかに蔵などもあり、ロシア南下に備えて警備した武士もいたようである。 通行屋には、支配人(番人)がいて妻同伴で仕事をし、他にアイヌが8人ほど詰めていた。
※引用文ではなく、原文を呼んで頂きたい。ラッコ島、キラク(気楽)などという千島列島の様子が描かれている。

野付通行屋遺跡 野付通行屋遺跡
(1999年10月撮影)
建物跡 溝跡
灰堆積箇所(SL4) 貝塚(SM3) 貝塚(SM5) 集石(SS2)

 230野付通行屋遺跡
第1地点 土塁断面 第4地点
木枠遺構検出状況
第地点
灰堆積箇所検出状況
柱穴列
第4地点
柱穴1検出状況
第1地点 道跡
第2地点 陶磁器 皿
硯出土状況
第2地点 行平鍋(ゆきひら)
出土遺物の記録 発掘調査 全面発掘
見学会
墨書円礫