[戻る][TOP]

 
 ➀新潟の縄文 №4 2020.09.25-3
   馬高縄文館 新潟県長岡市関原町一丁目3060-1
   0258-46-0601 月休撮影可

 ②新潟の縄文 №22  2020.10.03-1
   馬高縄文館特別展 令和2年9月26日~11月23日
    「大武遺跡と縄文前期の土器文化
 
交通 レンタカー
バス 長岡駅から柏崎行 関原南 下車
  時刻表  バス停13番
特徴 火焔土器・王冠型土器から十三稲場式土器の専門館
2021.8/28加筆訂正
 
目次

 入口展示
01日本遺産「なんだ、コレは!」
信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化
02入口展示 火焔土器
03複式炉 長岡市中道遺跡

05入口の外壁意匠

10中心展示
11火焔土器
12中心展示の後ろの土器
20縄文時代の馬高・三十稲場遺跡
22年表
23遺跡の消長
30柱に施された文字意匠

110火焔土器
111火焔土器の特徴
火焔土器の構成
112火焔土器口縁部
113火焔型土器と王冠型土器
115王冠型土器口縁部
125眼鏡状突起
 袋状突起
 火焔B群土器の口縁

131長岡の火焔土器
 馬高遺跡の火焔型・王冠型
132各地の火焔型土器~139
138火焔土器の分布

151火焔土器の成立と展開
 火焔土器の誕生
152火焔土器を取り巻く土器形式
153火焔土器以前の在地の土器
 火焔土器の変遷
154火焔土器の広がり
154a火焔土器の分布
勢力圏外の火炎土器と火炎系土器
154b火焔土器の勢力図
154c火焔土器の広がり②
157火焔土器の用途と技術
 火焔土器の機能
 火焔土器の作り方

158赤い土器と白い土器
 土器片を混ぜた土器


180馬高ムラの変遷

181火焔土器のムラ
182北のムラと南のムラ
183火炎土器のムラ
185南のムラ-中期の終末-

200精神文化
210馬高ムラの信仰
220石棒 ―まつる
230玉類・耳飾り―かざる
240土偶ーかたどる
242土偶 縄文中期
50三角土版・三角壔製品-いのる

260馬高ムラの生活
261石鏃・石槍―狩りをする
264石器
270石斧
272打製石斧
273磨製石斧
278調理具
280磨石・石皿・土器-調理する
281磨石類・石皿
 土器の種類
283炭化物
285調理道具 土器

290交流
291他地域との交流
293搬入された土器
295分析された黒曜石の石鏃・剥片

300収蔵室体験展示

320馬高周辺のムラ
321山下遺跡 長岡市柿町

400馬高から三十稲場へ

410ムラの移り変わり-北から南へ-
 南のムラの土器1
420三十稲場遺跡
425三十稲場式土器の成立と広がり
431南三十稲場式土器

450玉作のムラ
452三十稲場の指輪
460ムラの技術
461石器が語るムラの技術
462石器

470三十稲場ムラの祈り
473岩版・土版
474石棒
475有孔球状土製品
476小型土製石棒
478土偶

 秋季特別展
「大武遺跡と縄文前期の土器文化」

600縄文時代前期の大武遺跡
612前期前半の土器文化
614前期後半の土器文化
620前期前半の土器の特徴
622縄文をつける道具=縄文原体
624前期前半の土器

631前期初めの土器
 ―布目式と新谷式―
640前期中頃の土器
 ―根古屋式―

650大武遺跡発見の土器と漆紐
651大武遺跡出土の前期土器
670大武遺跡発見の石器と土製品
673土製品
674玉類
675磨製石斧 前期前葉
676石匙

681前期後半の土器
 -刈羽式と諸磯式-
685前期終末期の土器
 -鍋屋町式と大木式-


 復元施設展示
700三十稲葉遺跡復元集落
701史跡馬高・三十稲場遺跡
 
 01日本遺産 「なんだ、コレは!」 信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化
馬高縄文館
 02入口展示
 火焔土器
火焔土器 王冠型土器 火焔土器 なんだ、コレは!
岡本太郎
長岡の火炎土器
片桐仁

 03複式炉 長岡市中道遺跡
この遺構は、長岡市栖吉町の中道遺跡(第34号住居跡)で発見された大型の炉跡を、現地で切り取って保存したものです。
平面楕円形状の竪穴住居で、長さは約6mでした。
石組の内部に土器(埋甕)を組み込んだこの種の炉は、「複式炉」と呼ばれています。約4,500年前に遡る縄文時代中期の終り頃、東北地方南部を中心に流行した特徴的な形態です。トチノミなどの堅果類のアク抜きの際にも利用されたと考えられています。

※私は複式炉で人のミイラ(燻製)を作ったのだろうと想像しています。集落の誰よりも独占的に沢山の薪を利用できるのは特別な立場。
 北海道アイヌでは、爺さんの遺体を集落の女性に(寡婦ではないかと想像する)燻製(ミイラ)にしてもらい、家の中で普通に一緒に暮らした。
 ただし、女性が燻製化に失敗すると殺されたとあるので、座姿勢の死体を、複式炉面を燃やして温めたところに寝かして乾燥させ、
 丁度この時、頭の位置が埋設土器の部分にあたり、乾燥しにくい頭蓋内部や、仰向けの腹には下からと上からサンドイッチで内臓を乾燥させたと
 考えています。 最後には火棚の上に揚げて真っ黒ケに燻したんでしょう。ただ、病死の場合はうまくいかなかったのではないかと思います。
 北海道アイヌの墓地でも、病死や事故死、殺人などの不慮の死者は一般の死者とは区別されるそうです。

中道遺跡第34号住居跡
切り取った炉の範囲

上に記述

 05館入口の外壁
 ようこそ馬高縄文館 火焔土器ミュージアムへ
本館は、国指定史跡である馬高・三十稲場遺跡の内容や特色を紹介し、遺跡の関わる普及活動や事業を行う施設です。
遺跡で発見された遺構や建物について、展示・解説し、重要文化財に指定されている「馬高遺跡」出土品などの資料を適切に収蔵・保管しています。
野外に広がる史跡と一体となって、長岡の誇る歴史的遺産をしっかりと後世に守り伝えていきます。

 入口の外壁に描かれたデザイン文字
中央北区 12年度の中央区の北東側に接続して設置。2棟の長方形住居を確認した。その他、地床炉をもつ楕円形住居の一部や、複数基の地床炉もあった。ⅦG区部で検出の住居跡は、12年度の第8号住居に接続する。ⅥH区の住居跡(ⅥH-H2・3)は、長軸約8m×短軸約3.5mの規模である。・・・・

馬高縄文館入口 ようこそ馬高縄文館へ
上に記述
中央北区 中央北区
入口外壁に書いてある
誰も読まないけれど
東西Ⅲトレンチ 東西Ⅲトレンチ
入口外壁に書いてある
誰も読まないけれど
 


 10常設展示

 11火焔土器
「火焔土器」とは、この1個の深鉢につけられた愛称です。関原町の近藤篤三郎が1936(昭和11)年の大みそかに発見したと伝えられています。
口縁部の装飾的な突起が燃え上がる炎をイメージさせることから、その名前が生まれました。
その後、考古学者 中村孝三郎の研究によって「火焔型A式1号」となりました。新潟県はもとより日本の縄文文化を象徴する存在です。

火焔土器
上に記述
 火焔型A式1号
火焔型A式1号
 火焔土器
縄文時代中期
馬高遺跡
 
 
 12中心展示 の後ろにある6つの土器

 馬高遺跡の火炎土器 重要文化財
「馬高遺跡から発見された火焔型土器と王冠型土器の仲間です。4つの大きな突起に鋸歯状のフリルがついた「火焔型」、山形突起を持つ「王冠型」が最も特徴的な型式です。
深鉢の形が普通ですが、馬高遺跡では類例の少ない火焔型の浅鉢も発見されています。いずれも縄文時代中期の中頃(約5000年前)に作られました。


上に記述
火焔型土器
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
 13
火焔型土器(A式2号)
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
 14
王冠系土器
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器(浅鉢)
縄文中期
馬高遺跡
 15
火焔型土器
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器(A式2号)
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
王冠系土器
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器(浅鉢)
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器(A式2号)
縄文中期
馬高遺跡
王冠型土器
縄文中期
馬高遺跡
王冠系土器
縄文中期
馬高遺跡
火焔型土器(浅鉢)
縄文中期
馬高遺跡
 
 
 20縄文時代の馬高・三十稲場遺跡
 21
縄文時代の始まりは、今から約1万5000年前に遡ります。縄文人たちは、それまでなかった煮炊き用の土器や、飛び道具の弓矢を発明するなどして、自然と共生しながら、その生活技術を発展させていきました。
やがて人口も著しく増加し、竪穴住居が立ち並ぶ大規模で安定したムラが現れます。
関原町にある馬高・三十稲場遺跡で火炎土器がつくられた頃、信濃川流域の長岡周辺は、全国でも有数の活気あふれる地域になったのです。

信濃川と関原丘陵 縄文時代の馬高
上に記述
長岡版縄文カレンダー
 22年表
旧石器~縄文早期 縄文前期~中期 縄文中期~晩期 中期~弥生時代
 23遺跡の消長
信濃川流域の
時期別遺跡数
草創期から始まり、
早期・前期と安定し
中期前中葉に爆発し
中期後葉の寒冷化によって激減した。しかし、
大人数集落から、少人数分散集落となり、遺跡の質が変化した。
その後、食糧難により、遺跡数が減少する。
馬高・三十稲場遺跡の
位置と周辺遺跡
遺跡はサケ漁に便利な信濃川付近ではなく、山側に離れている。それでも大集落と高い文化を築けたのは、鮭の漁業権を持ち、食文化などの経済や闘争などの政治状況が安定していたのでしょう。
 
 30柱に施された文字意匠 誰も読まないけれど、柱にこんなことが書かれている。
 

 110火焔土器
火焔土器様式には、火焔型・王冠型土器(A群)以外にも装飾的なグループがあります。
在地で発達した矢羽根状の沈線文が特徴的なタイプ(B群)、
東北地方南部の大木式土器様式の影響を受けたタイプ(C群)などです。
一方、非装飾的な物は、表面に縄文のみを施した一群(D群)です。簡素な土器ですが、出土量は最も多く他の群を圧倒しています。
これらの種類が複雑に組み合わされているのが様式の実態です。

 111火焔土器の特徴
火焔土器様式は、
装飾的なグループと非装飾的なグループから構成されています。装飾的なグループの代表は、火焔型土器や王冠型土器です。
口縁部につけられた大ぶりの突起が特徴的で、文様は原則として縄文を使用せず、立体的な隆線文で表現します。
一方、非装飾的なグループは、表面に縄文を付けただけの地味な一群です。
火焔型や王冠型とともに、さまざまな種類の土器群が組み合わされているのが火焔土器様式なのです。

火焔土器の特徴
火焔土器

上に記述
火焔土器の特徴
火焔土器の特徴

上に記述


 火焔土器の構成
火炎土器様式には、火焔型・王冠型土器(A群)以外にも装飾的なグループがあります。
在地で発達した矢羽根状の沈線文が特徴的なタイプ(B群)
東北地方南部の大木式土器様式の影響を受けたタイプ(C群)などです。
一方、非装飾的なものは、表面に縄文のみを施した一群(D群)です。簡素な土器ですが、出土量は最も多く、他の群を圧倒しています。
これらの種類が複雑に組み合わされているのが様式の実態です。

火焔土器の構成 火焔土器の構成
上に記述
馬高遺跡の住居跡
A群 B・C群
D群 土器口縁部破片の
A~D群の割合
.
D群 63% 非装飾
B・C群 30% B在地
C大木
A群 7% 装飾的
 112火焔土器口縁部 縄文中期 馬高遺跡
火焔土器口縁部
縄文中期 馬高遺跡
火焔土器口縁部
縄文中期 馬高遺跡
火焔土器鶏冠部
縄文中期 馬高遺跡
左:表面 右:裏面
火焔土器の突起
縄文中期 馬高遺跡
 113火焔型土器と王冠型土器
火焔型土器と王冠型土器 火焔型土器 火焔型土器
火焔土器に代表されるタイプ(AⅠ群)です。口縁部に4つの大きな突起を持ち、
その端部には鋸歯状のフリルが付きます。この大突起は鶏のトサカに似ていることから、「鶏冠状突起」(鶏頭冠)と呼ばれます。

尻尾状の小突起は左右.いずれかに飛び出ています。頸部の文様を区画する部分には、「袋状突起」「眼鏡状突起(トンボ眼鏡)」などが付けられ、その間には「渦巻文」「S(C)字文」などのモチーフが隆線で表現されています。
各部名称
   王冠型土器 王冠型土器
全体は火焔型土器に似ていますが、4つの大きな突起が短冊(山形)状に作られたタイプ(AⅡ群)です。
突起間の端部に鋸歯状のフリルはなく、緩やかな曲線を示します。冠のような形状からその名が付けられました。突起部の頂部近くのどちらか一方に抉りが入るのが特徴で、その大半は左側に見られます。
火焔土器と同じように「袋状突起」「眼鏡状突起(トンボ眼鏡)」「渦巻文」「S(C)字文」などの文様が配されています。
各部名称 



網代痕跡の残る底部
 縄文中期 馬高遺跡

火焔型・王冠型土器の底部
 縄文中期 馬高遺跡

網代痕跡の残る底部
 縄文中期 転堂遺跡
火焔型・王冠型土器の突起
縄文中期 馬高遺跡
 115王冠型土器口縁部 縄文中期 馬高遺跡
王冠型土器口縁部
縄文中期 馬高遺跡
左:裏面 右:表面
王冠型土器口縁部
縄文中期 馬高遺跡
王冠型土器口縁部
縄文中期 関原遺跡
王冠型土器口縁部
縄文中期 山下遺跡
 
 121火焔土器の種類 (111火焔土器の構成を参照)
AⅠ群土器(火焔型)
縄文中期・馬高遺跡

典型的火焔土器
AⅡ群土器(王冠型)
縄文中期・馬高遺跡
典型的王冠土器
B群土器(栃倉類型)
縄文中期・馬高遺跡
在地系矢羽根状沈線文の火焔土器
C群土器(塔ヶ崎型)
縄文中期・馬高遺跡
東北南部・大木式影響下の火焔土器
群土器(縄文施文)
縄文中期・馬高遺跡
出土中大半の生活土器。火焔型は特異な土器。
 125
 眼鏡状突起
火焔型・王冠型土器の器面全体は、四つのタテ割りの区画で構成されます。その要所に配される特徴的なモチーフの一種です。
「トンボ眼鏡」「環状把手」とも呼ばれます。

眼鏡状突起 眼鏡状突起
上に記述

 袋状突起
火焔型・王冠型土器に見られる特徴的なモチーフの一種です。
主に頸部に配されますが、口縁部の各頂部にこの突起を持つ類もあり、多様な形態を示しています。

袋状突起 袋状突起
上に記述


 隆線文(渦巻状・S字状・C字状)
隆線文(渦巻状) 隆線文(S字状・C字状)



 火焔B群土器の口縁
東北地方南部の大木式土器様式の影響を受けたC群は、やがて透かし彫り風の立体的な口縁部を持つB群に変化していきます。
火炎土器様式の終末期に発達しました。

火焔B群土器の口縁 火焔B群土器の口縁
上に記述
火焔B群土器の口縁
 
 130撮影不足
 131
 長岡の火焔土器
長岡市内の遺跡で発見された火焔型・王冠型土器とその仲間です。馬高遺跡のある西山丘陵側では、与板地域徳昌寺遺跡、三島地域の千石原遺跡長岡地域の南原遺跡などがあり、特に長岡地域の岩野原遺跡では、多数の火炎土器が出土しました。
一方信濃川を挟んだ東山丘陵側では、長岡地域の山下遺跡中道遺跡、栃尾地域の栃倉遺跡などの火炎土器が代表的です。これらの遺跡を含めて、長岡市内では、約30か所で出土しています。

長岡の火焔土器上に記述


 馬高遺跡の火焔型・王冠型土器出土状況
火焔型・王冠型土器出土状況 火焔型・王冠型土器出土状況  
 132各地の火焔型土器
火焔型土器
下稲場遺跡
火焔型土器
中道遺跡
火焔型土器
徳昌寺遺跡
火焔型土器
徳昌寺遺跡
火焔型土器
南原遺跡
火焔型土器
南原遺跡
火焔型土器
徳昌寺遺跡
 133
王冠型土器
徳昌寺遺跡
王冠型土器
岩野原遺跡
王冠型土器
中道遺跡
火焔C群土器
中道遺跡
初期火炎土器
山下遺跡
 137
火焔型土器
岩野原遺跡
火焔型土器
徳昌寺遺跡
火焔型土器
馬高遺跡
火焔型土器
中道遺跡
火焔型土器
栃倉遺跡
火王冠型土器
徳昌寺遺跡
王冠型土器
馬高遺跡
王冠型土器
岩野原遺跡
 138
東北系土器(台付鉢)
岩野原遺跡
王冠型土器
岩野原遺跡
王冠型土器
馬高遺跡
火焔型土器
上稲場遺跡
火焔型土器
千石原遺跡
火焔型土器
馬高遺跡
火焔型土器
岩野原遺跡
火焔型土器
岩野原遺跡
王冠型土器
岩野原遺跡
中部高地系土器
岩野原遺跡


 火焔土器が出土した主な遺跡

火焔土器が出土した
主な遺跡
西山丘陵
徳昌寺遺跡(与板地域)
下稲場遺跡(与板地域)
上稲場遺跡(与板地域)
門の沢遺跡(三島地域)
千石原遺跡(三島地域)
南原寺遺跡(長岡地域)
転堂遺跡(長岡地域)
馬高遺跡(長岡地域)

岩野原遺跡(長岡地域)
上並松遺跡(越路地域)

新町上野原遺跡(小国地域)
東山丘陵
石倉遺跡(栃尾地域)
栃倉遺跡(栃尾地域)
茨崎遺跡(長岡地域)
西片貝遺跡(長岡地域)
千石原遺跡(長岡地域)
中道遺跡(長岡地域)
山下遺跡(長岡地域)
外新田遺跡(長岡地域)
 139
火焔土器
岩野原遺跡
上稲場遺跡
火焔型 岩野原
火焔型 中道
火焔型 岩野原
中部高地系 岩野原
王冠系 岩野原
火焔型 馬高
 
 150
 151火焔土器の成立と展開
火焔土器様式が登場する以前の信濃川流域には、北陸地方と共通して土器様式が展開し、東北地方南部、関東地方、長野県地方など、周辺の様々な土器様式の影響が入り込んでいました。
それらの特徴をうまく融合して成立したのが火焔土器様式なのです。
いろいろな土器様式の原理をよく理解していたことが、あらたな土器様式の創造に繋がったのでしょう。
火炎土器の文様がムラ相互に共通するシンボルになったのです。

帰土器の成立と展開 火焔土器の成立と展開 火焔土器の成立と展開
上に記述

 火焔土器の誕生
火炎土器の器形や文様には、周辺地方の土器様式の影響が遺されています。
竹管で渦巻きを描く手法は、北陸地方の新崎式から引き継がれました。
口縁部の鶏頭冠は、東北地方南部の大木式に深く関わっています。
また、キャタピラ状の隆線文や「トンボ眼鏡」の突起は、関東・中部地方の勝坂式や新巻焼町系の特徴と考えられます。
様々な地方の隆起を取り込み、それらをさらに発展させることで、火焔土器が誕生したのです。

・火焔土器の誕生
・火焔土器を取り巻く土器形式
火焔土器の誕生 山下遺跡の
火焔土器の誕生
火焔土器の誕生
上に記述
  山下遺跡の火焔土器の誕生

東北南部系土器様式 中部高地・関東系土器様式
   (大木式土器) ↓ ↓ (焼町式勝坂式土器)

北陸系土器様式→初期火炎土器様式
 (新崎式土器)    ↓
            火炎土器様式古段階
             ↓500年間
            火炎土器様式新段階

 152火焔土器を取り巻く土器形式
信濃川流域で火焔土器様式が成立・発展した時期には、周辺地方でも個性豊かな土器様式がいくつも生み出されました。
東北地方南部では、大木式土器様式
関東・中部地方では、勝坂式、阿玉台式、新巻・焼町系、さらに唐草文系、曽利式、加曽利E式などの土器様式が、
北陸地方では、新保・新崎式、上山田・天神山式の土器様式が広がります。
それらの勢力圏は互いに重なり合って、複雑な地域性を示しています。

火焔土器を取り巻く土器形式 火焔土器周辺の土器様式
東北地方南部
大木式土器
円筒上層式土器

 火焔土器

北陸地方
新保新崎式土器
上山田天神山式土器 
勝坂式土器
阿玉台式土器
新巻焼町系土器
曽利式土器
唐草文系土器
加曽利E式土器
   火焔土器を取り巻く土器形式
上に記述
     

 153火焔土器以前の在地の土器
火焔土器様式が登場する以前の新潟県地方には、富山県や石川県などの北陸地方に勢力を持つ「新保・新崎式土器様式」が広がっていました。
竹などの軸を縦割りした工具(半裁竹管)を使って、断面がかまぼこ状の隆線を描き、文様を表現するのが特徴です。
長岡市千石原遺跡(三島地域)にみられるように、山形状の口縁をもつ一群が発達し、その流儀は火焔土器を生み出す基盤となりました。

火焔土器以前の在地系土器
上に記述
火焔土器以前の在地系土器(北陸 新崎式土器
縄文中期 千石原遺跡


 火焔土器の変遷
火炎土器様式には、大まかに3~4段階の変遷が見られます。長岡周辺でもっとも早く火炎土器を作り始めたのは、東山丘陵の山下遺跡の縄文人です。
ずん胴でくびれのない形で、口縁部の鶏頭冠もあまり発達していません。
その後、馬高遺跡や岩野原遺跡の火炎土器に代表されるように、胴部がくびれて、装飾的な突起が大きく開く形に変化しました。
火炎土器は、約5000年前の中期中頃に登場し、短期間に華開いて終わります。

   火焔土器の変遷上に記述        
様式初期段階(火焔型)
縄文中期 山下遺跡
様式古段階(火焔型)
縄文中期 馬高遺跡
様式新段階(火焔型)
縄文中期 岩野原遺跡
様式古段階(火焔型)
縄文中期 岩野原遺跡

様式新段階(王冠型)
岩野原遺跡
様式新段階(王冠型)
岩野原遺跡

 154火焔土器の広がり
火炎土器様式は、主に現在の新潟県の範囲で流行しました。
特に中越地方の信濃川流域を中心に発展し、下越地方や上越地方、さらには佐渡地方にも広がっています。
新潟県は火炎土器の勢力圏、まさに「火炎土器のクニ」であり、長岡周辺はその中核地帯の一つです。
県外では、日本海側の秋田・山形・富山の各県に火炎土器が点在します。
一方、福島県では亜流の「火炎土器」が生まれ、栃木県方面にまで影響を及ぼしました。

火炎土器の広がり 火炎土器の広がり
上に記述
火焔土器の分布

 154a火焔土器の分布

 勢力圏外の火炎土器と火炎系土器
火炎土器の類例は、新潟県以外の周辺地方でも発見されています。日本海沿いを北上した山形県や秋田県の遺跡では、新潟県地方で作られた火炎土器が運び込まれたようです。
一方福島県方面では、会津地方に火炎土器の亜流である「火炎系土器」が生まれ、郡山を経て栃木県にもその影響が及びました。また、信濃川上流を遡った長野県、三国峠を越えた群馬県北部、更に北陸方面の富山県内でも、火炎系土器や搬入された火炎土器が僅かに見られます。

火焔土器の分布 火炎土器の分布
上ノ山遺跡 (王冠型) 秋田県 
柴燈林遺跡(火焔型) 山形県
法正尻遺跡 (火炎系) 福島県会津
野中遺跡 (火炎系) 福島県郡山
大光寺遺跡 (火焔型) 富山県
大川遺跡 (火炎系) 長野県
道訓前遺跡 (火炎系) 群馬県
金井台遺跡 (火炎系) 栃木県
火焔土器の分布 勢力圏外の火焔土器と火焔系土器
上に記述

 154b火焔土器の勢力図
火炎土器が出土した遺跡は、新潟県内で約150ヶ所に上ります。その分布をみると、信濃川の中流から上流にかけての地域(長岡市から十日町市・津南町周辺)に集中しています。火炎土器文化の中核地帯であり、大規模で拠点的な集落が多数営まれました。
火炎土器の遺跡は、さらに下越地方の三面川や阿賀野川などの流域に分布し、海を越えた佐渡地方にも広がっていました。一方、上越地方では少数の遺跡にとどまっています。

新潟県内の火焔土器の遺跡
新潟県内の火焔土器の遺跡 火焔土器の勢力図
上に記述
新潟県内の火炎土器の分布
柏崎市 川内遺跡 中越
魚沼市 清水上遺跡 中越
佐渡市 長者ヶ平遺跡 佐渡
村上市 前田遺跡 下越
津南町 堂平遺跡 中越
十日町 笹山遺跡 中越
南魚沼市 原遺跡 中越
新発田市 上車野E遺跡 下越
上越市 塔ヶ崎遺跡 上越
糸魚川市 長者ヶ原遺跡 上越

 154c火焔土器の広がり②
東北系土器(大木7b式)
縄文中期 山下遺跡
東北系土器(大木7b式)
縄文中期 千石遺跡
関東系土器
(勝坂式類似)
縄文中期 山下遺跡
関東系
(阿玉台式類似)
縄文中期 千石遺跡
北陸系土器(新崎式)
縄文中期 山下遺跡
北陸系土器(新崎式)
縄文中期 山下遺跡
 

 157火焔土器の用途と技術
火炎土器様式全体の中では、縄文を付けただけの簡素な土器がほとんどで、火炎土器などの装飾的なものは少数です。
その一方で、表面に残るおこげやススの痕跡から、装飾的な土器も火にかけて使ったことは確実です。
おこげやスス、土器の粘土などについて、科学的な分析を行うことで、土器を使っていた年代、土器で煮た食材の成分、土器の作り方などを
具体的に明らかにすることができるようになりました。

火焔土器の用途と技術 火焔土器の用途と技術

 火焔土器の機能
火焔型・王冠型土器の内面や外面を観察すると、おこげやススの痕がはっきりと残る物があります。それは土器を火にかけて、食べ物を煮た証拠です。
煮る目的に応じて、土器の種類を使い分けていたようです。まつりや儀式の際に使っていたのでしょうか。
尚、火炎土器は装飾的でないその他の土器と同じような状況で発見されています。
特定の場所に安置されたり、埋められたりする例はほとんどありません。

火焔土器の機能
上に記述
火炎土器様式の年代

 おこげからわかる年代や成分
火炎土器様式の年代(較正年代)は5300年前から4800年前のおよそ500年間に、ほぼ収まっています。また、炭素窒素安定同位体(13C・15N)の分析では、おこげの元が植物か動物か推定できそうです。火炎土器では、でんぷん質と動物質の食材を組み合わせた料理が考えられます。

土器付着物の炭素窒素同位体分析 土器付着物の炭素窒素同位体分析


火焔土器の作り方
右に記述
➀輪積みで下部を立ち上げる
②口縁部付近まで整形する
③胴部に文様を描く
④突起をつける
火炎土器のつくり方
火焔型・王冠型などの装飾的な土器も、ほかの簡素な土器と同じように、粘土紐を輪にして積み上げていく「輪積み法」でつくられました。底部から胴部を立ち上げていき、やや内湾する頸部を形作ります。外面の盛り上がった隆線は、細い粘土紐を貼り付け、竹管状の工具で削って表現します。さらに鶏頭冠などの突起部分を取り付けて仕上げます。
その後、乾燥させて、野焼きをして完成です。完成までかなりの時間をかけたようです。

火炎土器の色と粘土
火炎土器の表面の色は、粘土の成分や焼き具合で異なります。
長岡周辺の土器には、赤色系のものと白色系のものが認められます。
これは粘土に含まれる鉄分の違いによるものです。
遺跡周辺で相似た地層から粘土を採取していたのでしょう。また、粘土の中には、砂を混ぜるのが普通ですが、一部に細かく砕いた土器の破片を混ぜる手法も見られます。壊れた土器を再利用していたのです。
 158赤い土器と白い土器
赤い土器と白い土器
縄文中期 馬高遺跡
白い土器

赤い土器

 炭化物が付着した土器
炭化物付着土器片
中期 馬高遺跡
炭化物が付着した
火焔土器 中期
火焔型土器の年代
分析データ

 土器片を混ぜた土器 縄文中期 馬高遺跡
  南の村から出土した土器です。縄文の文様が残る土器の細片が粘土の中に含まれていることがわかります。
土器片を混ぜた土器 土器片を混ぜた土器 土器片を混ぜた土器
上に記述
 
 180馬高ムラの変遷
 181火焔土器のムラ
馬高遺跡は信濃川左岸の平坦な段丘上(標高約60m)にあり、南北約200mの範囲に広がっています。
これまでの発掘調査で、遺跡の北側から中央部にかけて大規模な「北のムラ」、遺跡南側に小規模な「南のムラ」が見つかっています。
それぞれ中央に広場を持ち、竪穴住居、貯蔵穴、墓穴などの遺構群がU字(馬蹄形)状に巡っていました。
火焔土器がつくられたのは、ちょうど北のムラが営まれた約5000年前にあたります。

火焔土器のムラ
上に記述
 182北のムラと南のムラ
北のムラと南のムラ

 183火炎土器のムラ

  北のムラの発掘写真
 183a
竪穴住居群
ゴミ捨て場
竪穴住居
楕円形・円形・長方形
竪穴住居 石組炉 貯蔵穴 墓穴群
 184
北・南ムラの空撮 遺跡模型の解説 調理・土器作り・埋葬 南北のムラ上面視 木材の伐採・加工
落し穴・ゴミ捨て場
狩猟

 185南のムラ ―中期の終末―
短期間に営まれたムラで、竪穴住居・掘立柱建物・貯蔵穴・墓穴が環状に配置されていました。
竪穴住居は平面が楕円形状のタイプで、土器を埋め込んだ石組路があります。
集落の北東部には、高床式とみられる掘立柱建物が築かれました。その配置や構造から、一般的な竪穴住居とは異なる性格を帯びていたようです。

   玉や土器を供えた墓
墓穴は広場側にまとまっていました。長さ1.3m前後の楕円形状の浅い穴で、死者の体を折り曲げた屈葬と考えられます。
一部の墓穴には、玉や土器が副葬されていました。


 北のムラ ムラの形と住居
竪穴住居・貯蔵穴・墓穴・ゴミ捨て場などからなり、長期に渡って続きました。竪穴住居群は平面が長方形状の住居(長さ約8m・幅約4m)跡として、楕円形・円形状の住居跡も見られます。
特に長方形の住居は、その長軸がムラの中心である広場に向いて放射状に並んでいました。その直径は100mに及びます。

  貯蔵穴と墓穴
木の実などの食料を保存した貯蔵穴は、竪穴住居群の内側に位置していました。入口1m・深さ1.5m程の大きさで、底面が大きく広がるのが特徴です。
更に、広場側には、墓地が造られました。長さ1~1.5mの楕円形状の穴を掘って、死者を葬りました。墓標の様に大きな石を立てた痕跡も見られます。

  ゴミ捨て場と落し穴
ムラのはずれには、土器が大量に出土した地点があり、つかわれなくなった道具などを廃棄したゴミ捨て場と考えられています。
その外側には、シカなどの獣を捕えるために落し穴(ワナ)を仕掛けました。長さ1.5m・深さ1m程の溝状の穴が続いています。
ムラの西側には、現在「遠藤沢」と呼ばれている小さな川が流れていました。ムラの重要な水源でした。


南のムラ
―中期の終末―
掘立柱建物
掘立柱建物跡
玉や土器を供えた墓
住居内想像図
炉(とあるが)
玉を副葬した墓
ムラの形と住居
上に記述
方形竪穴住居
方形竪穴住居跡
貯蔵穴と墓穴
貯蔵穴
ゴミ捨て場と落し穴
ゴミ捨て場

ゴミ捨て場
落し穴
 

 200精神文化

 210馬高ムラの信仰
馬高遺跡では、日常生活に使う土器や石器以外に、信仰に関わる道具も発見されています。土偶や石棒が代表的なものです。
縄文人の世界観や精神文化を反映した、これらの遺物は「第二の道具」とも呼ばれ、まつりや儀式の際に使われたと考えられます。
身を飾る土製の耳飾りやヒスイ製の玉類なども儀礼的な道具です。
馬高にはこの種の遺物が多く、地域の中心的な集落(ムラ)としての性格をよく表しています。

 土偶 -ミス馬高-
馬高ムラの信仰 馬高ムラの信仰
上に記述
土偶 -ミス馬高-
縄文中期 馬高遺跡
石棒
縄文中期 馬高遺跡

 220石棒 ―まつる
男性の性器を模した石棒は、土偶と共に縄文時代の精神文化を代表する遺物です。竪穴住居の炉や屋外で建てられている例があり、
また、火熱を受けて壊れたものも多く、祭りや儀式の際に使われていたと考えられます。
馬高遺跡の石棒には、角柱状の原石の全面をたたいて整形した大型品のほか、体部が石皿状に窪んだ珍しい形態も見られます。

石棒出土状況 石棒 縄文中期
馬高遺跡
石棒 縄文中期
馬高遺跡
石棒 ―まつる
上に記述
石棒 縄文中期
馬高遺跡
石棒 縄文中期
馬高遺跡

 230玉類・耳飾り ―かざる
玉や耳飾りは、縄文時代に好んで用いられた装飾品です。とくに中期には、硬玉製大珠と呼ばれるヒスイ製の首飾りが造られました。
大規模なムラ跡でもわずか数点しか出土しない貴重品です。
滑車形や臼形の土製耳飾りは、耳たぶに開けた穴に直接はめ込んで使います。単に身を飾るだけでなく、信仰や儀礼に関わる道具と考えられます。

琥珀製垂飾
翡翠大珠
円盤状土製品 土器の破片を打ち欠いて円盤状に成形したものです。
縄文中・後期の遺跡で発見される再利用品ですが、その用途はよくわかっていません。
耳飾り
中期 馬高遺跡
玉類・耳飾り―かざる
上に記述
耳飾り
中期 馬高遺跡
玉類
中期 馬高遺跡

右は穿孔途中のヒスイ製小玉、中央は滑石製垂玉、左は研磨途中の滑石製垂玉です。
玉類
中期 馬高遺跡

右は滑石製大珠、左はメノウ製垂玉。南のムラの範囲で採集された。
ヒスイ製大珠
中期 馬高遺跡

南のムラの墓穴出土。長軸方向に穿孔した緒締型と呼ばれる大珠で、東北地方北部に特徴的な形態です
墓穴出土の玉類
中期 馬高遺跡

南のムラの墓穴に琥珀製の垂玉、瑪瑙製大珠、滑石製大珠の3点が副葬されていた

 240土偶 ーかたどる
 241
粘土で作られた女性の人形です。馬高遺跡の土偶には、河童の様に頭部が皿状に窪む特徴があります。胴部には乳房やヘソなどを表現しますが、足は省略されています。全体を復元できる例はなく、普通、頭や手がバラバラになって発見されます。
馬高の縄文人たちは、自然から豊かな恵みを期待し、安産や子孫の繁栄を祈るなど、様々な思いを込めて土偶をつくりました。

土偶出土
土偶 縄文中期
馬高遺跡
土偶ーかたどる
上に記述
 242土偶 縄文中期 馬高遺跡
 
 250三角形土版・三角壔土製品―いのる
 251
三角形土版は、表面に刺突や沈線で文様を描いた三角形状の土製品です。乳房のような隆帯や突起を持つ種類があり、土偶を簡略に表現したものと考えられます。
三角壔(柱状)土製品(さんかくとうどせいひん)は、下面を除く各面に文様を描き、側面には長軸方向に貫通する孔が開いています。具体的な用途は不明ですが、縄文人たちが三角形状のものに神秘的な力を見出していたことが伺われます。

三角形土版出土
三角型土版 中期 三角型土版
縄文中期
三角型土版 中期 三角型土版 中期 三角形土版・三角壔土製品―いのる
上に記述
 253
三角壔土製品
中期 馬高遺跡
三角(さんかくとう)
土版
中期 馬高遺跡
土版 三角形土版
中期 馬高遺跡
 
 260馬高ムラの生活
縄文時代中期に入ると、信濃川流域でムラの数が激増します。
縄文人たちは、馬高の地に竪穴住居や貯蔵穴などを作って、安定した大きなムラを営み始めました。
日々の生活は周囲の野山や河川で行う狩や植物採集が中心です。自然に対する生態学的な知識を深めることで、様々な資源の開発を促しました。
火焔土器の文様や土偶・石棒などの造形に象徴されるように、成熟した豊かな文化を生み出したのです。
 261
馬高ムラの生活 馬高ムラの生活 馬高ムラの生活
上に記述

 261石鏃・石槍―狩りをする
 262石器の種類
馬高ムラでは、生活の用途に応じて、様々な道具が作られました。その主力となった石器には、狩に使った石鏃(矢じり)・石槍、穴を掘るための打製石斧、木を切るための磨製石斧、道具を磨く砥石などの種類があります。
特に調理用の磨石・石皿類が多く、植物食糧の採集や加工が盛んだった様子がうかがわれます。そのほか、木製品や骨角製の道具も作っていたと考えられます。

 馬高ムラの石器の内訳
狩猟・解体具 32% 石鏃・石槍・掻器など
 加工具  22.8% 錐・打製石斧・磨製石斧・砥石
 調理具  74% 磨石・石皿

石器の種類 馬高ムラの石器の内訳 狩猟・解体具(石鏃・石槍・石匙・掻器)3.2%

加工具(石錘・打製石斧・磨製石斧・砥石)22.8%
加工具22.8%
狩猟・解体具3.2%
調理具(石皿・磨石)74%
調理具74%
 263石鏃・石槍
石鏃・石槍

右に記述
弓矢は縄文時代の狩りに使われた主要な道具です。石鏃(矢じり)は矢の先端に取り付けました。
馬高ムラでは、頁岩鉄石英チャート黒曜石など、割れ口の鋭い石の種類を用いています。
それらの剥片を細かく加工(押圧剥離)して、三角形状に仕上げます。
一部には、接着剤の天然アスファルトの痕跡を残すものもあります。
その他、少数ですが、長い柄の先端に着けて、突き刺す石槍もつくられました。
 264石器
石錐
縄文中期 馬高遺跡
掻器
縄文中期 馬高遺跡
石匙
縄文中期 馬高遺跡
板状石器
縄文中期 馬高遺跡
石槍
縄文中期 馬高遺跡
石鏃
縄文中期 馬高遺跡
 

 270石斧
  打製石斧―穴を掘る
  磨製石斧―木を伐る

 271
磨製石斧、打製石斧
 272打製石斧
剥片の周囲を粗く加工した斧状の石器です。馬高ムラでは、撥形と短冊形のものが多く作られました。サイズは25cmを超える大型品から5cm程度の小型品まで様々です。木の柄につけて、おもに土堀具として使用したと考えられます。
石材は粘板岩・安山岩・頁岩などの種類で、石の表面を残して打ち欠いた剥片を素材としていました。信濃川やその支流の瓦から大量の石を村に運び込んだものでしょう。

打製石斧 打製石斧
上に記述
打製石斧の作り方 1.原石を敲石で打撃し剥片をとる。
2.更に敲き石で打撃して、周辺に刃をつける。
3.木の柄に装着する
穴を掘る縄文人
 273磨製石斧
全面を砥石で磨いて刃を付けた斧状の石器です。馬高ムラでは、縁(ふち)に稜線を持つ「定角式」の形が主流です。約20cmの大型品から3cm程度の小型品があり、木の柄につけて樹木の伐採や加工に使いました。
石材は、流紋岩・安山岩・砂岩・蛇紋岩などで、特に蛇紋岩は遠方の糸魚川方面から流通してきました。磨く前に石を叩いて形を整える作り方が普通ですが、蛇紋岩では、溝を彫り込んで素材を切り分ける「擦切り技法」も見られます。

磨製石斧 磨製石斧上に記述 磨製石斧の作り方 1.原石や剥片の全体を敲き石で打撃して
  形を整える
2.前面を砥石で磨いて仕上げる。
3.木の柄に装着する
木を切る縄文人
 

 276打製石斧
磨石類についで出土点数の多い石器で、500点を超えています。竪穴住居の壁や柱穴などを掘り込むほか、球根や根茎を掘り出す用途が考えられます。
打製石斧
中期 馬高遺跡

上に記述

 277磨製石斧
大型品は斧として、また、小型品は刃部を柄と直角に装着した手斧やノミとして使われたと考えられます。刃こぼれの残る破損部品がめだちます。
磨製石斧
磨製石斧
上に記述
 278調理具
石皿・磨石 中期
馬高遺跡
磨石 中期
馬高遺跡
 

 280磨石・石皿・土器―調理する

 281磨石類・石皿
馬高ムラでは、安山岩や砂岩などの円礫を用いた磨石類(磨石・凹石・敲石)と石皿がセットで使われていました。
石皿は大形で扁平な石の中央が窪むもので、縁取りをもつ例もあります。
それらの表面には擦った痕や、敲いた痕が残されており、木の実の粉砕や製粉など、おもに食料の調理に使用していたと考えられています。
出土した石器の中では最も多く、植物性食料の加工が盛んに行われていたことを伺わせます。

 土器の種類
馬高ムラの土器には、煮炊きに使う「深鉢」を主として、食べ物を盛り付ける「浅鉢」「台付鉢」などの種類があります。
深鉢は現代の鍋と同じように煮炊きの道具として盛んに使われました。土器の表面に残るススやおこげは、煮炊きに使った証拠です。

 炭化した木の実
発掘調査で、炭化した木の実が出土しました。普通は有機質の物質は土の中で分解されますが、焼けて炭になったものは数千年経っても残ります。
分析の結果、コナラ(どんぐり)、トチ、クリ、クルミの種類が確認されました。コロナやトチの実は渋味があるので、手間をかけてアク抜きをしました。

磨石類・石皿
上に記述
土器の種類
上に記述
炭化した木の実
上に記述
 283炭化物
炭化植物 クッキー状炭化物
縄文後期 岩野原遺跡
右に記述
小型石皿に入ったクッキー状炭化物です。
木の実を粉砕して練り上げた加工品と考えられます。
石焼で調理したことがわかる希少な例です。 
 285調理道具 土器
浅鉢 深鉢
深鉢
ミニチュア土器大型土器を模したミニチュアで、深鉢のほか台付鉢形も見られます。 ミニチュア土器
非実用・儀式用道具の可能性があります
 
 290交流
 291他地域との交流
馬高遺跡の出土品には、他地域との交流を示すものがあります。他地域で作られた土器が直接持ち込まれた例もその一つです。
また、石器類には、ヒスイやコハク製の玉類、蛇紋岩製の磨製石斧、黒曜石製の石鏃があり、これらの石材は遠方の地方からもたらされました。

ヒスイや蛇紋岩などは、糸魚川の姫川・青海川流域が原産地です。
黒曜石は分析の結果、県内の新発田産や長野県産のほか、佐渡産、山形県産、栃木県産、さらに伊豆諸島の神津島産も確認されました。
コハクは千葉県銚子産と推定されています。

土器や石器に見る
他地域との交流
黒曜石・琥珀の原産地 黒曜石製石鏃
コハク製垂飾
ヒスイの原産地と
製品出土遺跡
翡翠大珠 他地域との交流
上に記述

 293搬入された土器
関東地方などの周辺地方から直接持ち込まれたと考えられる土器が認められます。
文様のほか、粘土や焼き具合が在地で作られたものと全く異なっています。

搬入された土器
上に記述
阿玉台式土器 勝坂式土器 関西系船元式類似

 295分析された黒曜石の石鏃・剥片
蛍光X線分析法により原材産地分析をおこなった資料です。黒曜石に含まれる微量成分の元素分析の結果を統計的に処理して、原産地を同定することができます。

分析された黒曜石の石鏃・剥片
縄文中期 馬高遺跡
上に記述
・栃木県高原山産
・伊豆諸島神津島産
・山形県月山産
・長野県霧ヶ峰産

新潟県板山
・新潟県佐渡産
 297
黒曜石原石
新潟県板山産
蛇紋岩の未成品
中期 馬高遺跡
ヒスイ未成品
中期 馬高遺跡
黒曜石原石
(長野県霧ヶ峰産)
ヒスイ原石
(新潟県糸魚川産)
 

 300収蔵室体験展示

 301史跡の歩み
発掘調査と史跡整備のあゆみ 中村孝三郎の調査研究
遺跡保存会と史跡の指定
 302過去の発掘
 305発掘調査
史跡整備に向けた発掘調査
史跡整備の珪化と展望
公園整備計画平面図
中村孝三郎の発掘調査
著述や資料
 

 320馬高周辺のムラ

 321山下遺跡 長岡市柿町 さんかいせき
東山丘陵の柿川沿いに広がる、縄文時代中期の大規模な集落遺跡です。1964・67(昭和39・40)年の長岡高等学校人文科学部と長岡市立博物館による発掘調査でまとまって出土した、火炎土器直前段階の土器群や近隣地方に影響を受けた土器は、火焔土器誕生に関わる貴重な資料です。

その後、長岡市教育委員会やNPOジョーモネスクジャパン機構による発掘調査を経て、遺跡の範囲や土器などを廃棄した「捨て場」のようすが明らかとなりました。

馬高・三十稲場遺跡
周辺のムラ⑤
山下遺跡 長岡市柿町
さんかいせき
上に記述
捨て場
 323
口縁部の突起 三角形土版付土器 ミニチュア土器 土笛
石鏃 垂玉 打製石斧 磨製石斧 石棒・石錘・石皿
石錘
石皿

 325山下(さんげ)遺跡
長岡高校と長岡市立科学館が行った発掘調査では、小規模な発掘面積にも関わらず、大量の土器片が出土しました。
中でも火炎土器誕生直前段階の、北陸系(新保・新崎式)土器、東北系 (大木7b式) 土器がまとまって発見されています。

北陸系土器
浅鉢×2
北陸系土器
小型深鉢
北陸系土器
深鉢
長岡高校旧蔵資料
長岡市山下遺跡
縄文中期
上に記述
中部・関東系土器 火焔A群土器(深鉢) 東北系土器(深鉢)
 
 340収蔵庫体験
 
 


 400馬高から三十稲場へ

 401
約4500年前の縄文時代後期になると、縄文人たちは馬高の地を去り、三十稲場の地にムラを移しました。当時の気候は中期に比べてやや寒冷化したようです。
自然環境の変化によるものか、馬高の地に長く住んだことによる影響なのか、はっきりした理由はわかりませんが、信濃川流域の遺跡には、
ムラの立地が大きく移り変わる画期が見られます。
馬高で中期の終末にやや小規模になったムラは、三十稲場の時代に再び大きくなって、勢いを盛り返しました。

馬高から三十稲場へ
上に記述

 410ムラの移り変わり ―北から南へ―
発掘調査の結果、馬高遺跡から三十稲場遺跡への移り変わりが明らかになっています。
馬高の「北のムラ」では、中期初め頃北側から住居が造られ、やがて中央部に範囲が広がって、環状の形になりました。
中期終末にはムラの規模は小さくなり、南方の「南のムラ」に住まいを移します。

一方、沢を挟んだ三十稲場では、中期中頃から小さなムラが北部に作られ始め、後期に入ると大きく広がり、やがてムラの中心を南側に移していきました。
いずれも北から南への動きを読み取ることができます。

馬高遺跡の北のムラ
馬高遺跡の南のムラ
ムラの移り変わり
上に記述
馬高・三十稲場の住居域の変遷

 南のムラの土器
南のムラの土器 南のムラの土器(深鉢)
縄文中期 馬高遺跡
南のムラの土器(深鉢)
縄文中期 馬高遺跡


 南のムラの土器1 縄文時代中期終末 馬高遺跡
墓穴から出土した深鉢です。底部は故意に壊されて、口縁部を下に向けた逆さまの状態で副葬してありました。
墓穴の底面には枕状の段差があり、遺体の頭に被せていたと考えられています。

南のムラの土器(深鉢)
中期終末期 馬高遺跡
南のムラの土器
縄文時代中期終末
馬高遺跡

上に記述


 南のムラの土器2 縄文時代中期終末 馬高遺跡
掘立柱建物の柱穴から出土した注口付き浅鉢です。
東北地方南部の大木10式土器で、その精巧な作りは、周辺地方から持ち込まれた搬入品であることを示しています。

南のムラの土器(深鉢)
中期終末期 馬高遺跡
南のムラの土器
右に記述

 420三十稲場遺跡
三十稲場遺跡は、
馬高遺跡西側に流れる遠藤沢を挟んで、さらに西側の平地にあります。標高は約65mで、南北約250m東西約150mの範囲に広がっています。
遺跡の北側半分を「三十稲場」、南側半分を「南三十稲場」と呼んでいます。
これまでの発掘調査で、縄文時代中期から後期にかけての大規模な集落遺跡と、平安時代の小規模な集落跡が見つかっています。
に約4500年前に遡る、縄文時代後期の遺物が多数出土しました。

 三十稲場のムラ
三十稲場遺跡では、竪穴住居石組路、掘立柱建物、土壙(貯蔵穴や墓穴)、埋設土器のほか、多数のピット(柱穴)が発見されています。
ムラを構成するこれらの施設は、遺跡の北部と南部、西半側に顕著です。
遺跡の中央部が広場となって、東側に開いた大規模な馬蹄形状の広がりが推測されます。
中期の中頃から北部に住み始め、後期に入って規模を拡大しながら、南部にその中心を移していったようです。

 住居と粘土採掘坑
三十稲場のムラは、平面が円形状の竪穴住居が主流で、床の中央には石組路や土器を埋めた炉が見られます。また、高床式の掘立柱建物も作られました。
遺構で注目されるのは、遺跡南部で発見された大型の土坑です。長さ6m・幅4mの不整形な穴で、深さが3mにも及びます。黒土の下にあるのは良質な粘土層を狙って掘り込んだ様子から、土器づくり専用に粘土を採掘した遺構と考えられます。新潟県下では希少な事例です。

三十稲場遺跡 三十稲場遺跡

上に記述
三十稲場のムラ
上に記述
三十稲場と南三十稲場
住居と粘土採掘坑
上に記述
竪穴住居跡と
粘土採掘坑

 425三十稲場式土器の成立と広がり
縄文時代後期の「三十稲場式土器」は、本遺跡から出土した資料に基づいて命名されました。この土器群には、甕形の土器にヘラなどの工具でひたすら突き刺す文様(刺突文)を付け、それと対になる土製の蓋を多数つくるという、大きな特徴があります。
現在の新潟県を中心に大流行した土器づくりの流儀で、特に信濃川や阿賀野川の流域の遺跡に集中しています。「火焔土器」とともに新潟の独自性をよく示す縄文土器と言えます。

三十稲場式土器の成立と広がり
三十稲場式土器の広がり
三十稲場式土器の特徴 三十稲場式土器の成立と広がり
 430
 431南三十稲場式土器

刺突文 突瘤文
後期 三十稲場遺跡
小形蓋
三十稲場式土器蓋
三十稲場式土器蓋

 南三十稲場式土器 縄文後期 岩野原遺跡
三十稲場式に後続する土器で、その名称は三十稲場遺跡の南地点に由来します。
関東・中部地方を中心に広がる堀之内式土器様式と共通した特徴が見られます。

南三十稲場式土器 南三十稲場式土器
 433
注口土器
(アスファルト付着)
後期 三十稲場遺跡
注口土器
後期 三十稲場遺跡
南三十稲場式土器
後期 岩野原遺跡 
  三十稲場式土器に後続する土器で、その名称は三十稲場遺跡の南地点に由来します。
関東・中部地方を中心に広がる堀之内式土器様式と共通した特徴が 見られます。
   
三十稲場式土器
後期 岩野原遺跡
三十稲場直前の土器
後期 三十稲場遺跡
中期終末の土器
中期 三十稲場遺跡
 


 450玉作のムラ

 451玉作のムラ
三十稲場のムラでは、玉類も大きな特徴です。これまでに丸玉、臼玉、垂玉などの実型品が多数発見されています。
石材には、ヒスイ、滑石、蛇紋岩など、磨くと光沢の出る種類が使われました。それらはヒスイ原産地の糸魚川方面からもたらされたものです。
加工前の原石や加工途中の製品、さらに玉を研磨するための細い溝を残す筋砥石も見つかっていることから、ムラで玉作を盛んに行っていたことは明らかです。

0玉作のムラ 0玉作のムラ 玉の穿孔 玉作のムラ
上に記述
玉の製作工程
 452三十稲場の指輪
筋砥石 後期
三十稲場遺跡
指輪型石製品 後期
三十稲場遺跡
右に記述
指輪の形をした石製品と考えられます。滑石製で環状部分の直径は1.3cmと推定されます。石川県から新潟県にかけての北陸地方にほぼ限って分布する希少品です
玉類 後期
三十稲場遺跡
筋砥石 後期
三十稲場遺跡
 
 460ムラの技術
 461石器が語るムラの技術
石器類では、石皿や磨石類のほか、石鏃・磨製石斧・砥石・石錘が目立ちます。弓矢に使う石鏃は小型品が多く、頁岩・チャート・黒曜石・メノウなどで作られていました。
磨製石斧は蛇紋岩製が顕著で、木の伐採に使う大形品から、細かな加工に使う手斧用の小型品まで、多様なサイズが見られます。
木工技術が発達していたことをうかがわせます。
扁平な石の両端を打ち欠いた石錘も多数あり、漁業用の網の錘と考えられています。

石器が語るムラの技術
上に記述
石錐
 後期
三十稲場遺跡
石錘
 後期
三十稲場遺跡
磨製石斧
 後期
三十稲場遺跡
 462石器
石鏃
 後期
三十稲場遺跡
板状石器
 後期
三十稲場遺跡

扁平な礫の周囲を打ち欠いて円形に整形した石器で、

皮なめしなどに使われたと考えられます。
褐色の粘板岩製が多く、長岡周辺の信濃川左岸の遺跡で、特徴的に見られます。
打製石斧
後期
三十稲場遺跡
 
 470三十稲場ムラの祈り
 471三十稲場ムラの祈り
馬高に比べて点数は少ないですが、三十稲場でも精神文化に関わる遺物が発見されています。
土製品には、土偶耳飾りなどがあります。土偶は脚部のあるもので写実的な表現です。
石製品では、玉類のほか、男根状に加工した石棒石剣があり、まつりや儀式に使った道具と考えられます。
岩板は、扁平な石の表面に沈線による入り組んだ模様を彫り込んだもので、縄文人の世界観が示されています。


上に記述
土偶 赤色顔料
 473岩版・土版
岩板
後期 三十稲場遺跡
土製円板
後期 三十稲場遺跡
 474石棒 縄文後期 三十稲場遺跡
土製円板
後期 三十稲場遺跡
石棒
 475有孔球状土製品  縄文後期 三十稲場遺跡

右に記述
球体の長軸方向に孔が開いていた土製品です。
表面には区画された文様が配されています。
土水や紡錘車などのきのうも推測されますが、
具体的な用途は不明です。
 476小型土製石棒 縄文後期 三十稲場遺跡
小型土製石棒
 478土偶 三十稲場遺跡 縄文後期
                    
 
 
 
 
 新潟の縄文 №22  2020.10.03-1

  馬高縄文館特別展 令和2年9月26日~11月23日
    大武遺跡と縄文前期の土器文化」


所 見 縄文時代前期(約7000~5500年前)の、紐に漆を塗布した全国的にも珍しい装飾品をはじめ、土器、石器等を展示。
遺跡位置 新潟県長岡市島崎字大武1910ほか


 
 600令和2年秋季特別展「大武遺跡と縄文前期の土器文化」
 601特別展ポスター
馬高縄文館の特別展は、常設展示室の後方にある巨大な壁を取り払い、
展示室を後ろに伸ばして、新たな展示スペースを作るという方法で行われます。
別室ではないんです。
 610panel
 611
 大武遺跡と縄文前期の土器文化
  開催にあたって 
火焔土器が作られる以前の縄文時代前期(約7000~5500年前)、新潟県域では、遺跡の数は少ないながらも、東北・関東・中部など、周辺のさまざまな地方から影響を受けて、多様な形や文様をもつ土器文化が広がります。

長岡市和島地域の大武遺跡では、地下に埋没した深い谷が発見され、縄文前期の土器や石器などの遺物が多量に出土しました。
特に土器には、細かな羽状縄文を施した前期前半の特色を見ることができます。

本展では、大武遺跡の出土品を中心に、新潟県内の発掘資料から縄文前期の土器文化の様相を探ってみます。
本展の開催に当たり、多大な協力をいただきました、新潟県埋蔵文化財調査事業団を始め、関係機関の方々に厚くお礼申し上げます。
 令和2年9月26日  長岡市馬高縄文館長

 縄文時代前期の大武遺跡
大武遺跡は長岡市和島地域の島崎(字大武)にあり、丘陵先端部の沖積地に位置しています。国道116号建設に伴い、平成6~9年(1994-1997)に新潟県埋蔵文化財事業団が発掘調査を行いました。

その結果、平地に埋没した大きな谷が発見されました。
谷の最深部は地表下約7mに及び、その下層からは縄文時代前期前半の土器や石器などの遺物が多量に出土
この谷を水場として使う大規模な集落が、調査区南西の「大武畑」と呼ばれる微高地にあったようです。
更に上層には縄文中~晩期弥生・古墳時代古代・中世の遺物があり、長い時代に渡って生活を営まれたことが伺われます。



開催に当たって
上に記述
縄文時代前期の
大武遺跡

上に記述
長岡市大武遺跡の位置と発掘された谷

 612前期前半の土器文化

縄文時代前期の初めには、多様な縄文を用いた「羽状縄文土器群」が東北から関東地方にかけて広がります。
新潟県域では、
東北南部の「桂島式土器ヘリンボン」などの影響を受けて、
細かな羽状縄文を特徴とする「布目式土器」が生み出されました。
後続する「新谷式土器」には、連続刺突文・爪形文が盛んに用いられています。

縄文時代前期中頃になると、信州地方の「有尾式土器」に類似した土器が県南部を中心に作られるようになりました。
魚沼市清水上遺跡の前期集落から出土した「根古屋式土器」などが知られています。


前期前半の土器文化 新谷式土器
笹山前遺跡
布目式土器
布目遺跡
花積下層式
段階の土器
(室谷洞窟)
根古屋式後続の土器
諏訪前東A遺跡
根古屋式土器
清水上遺跡

 614前期後半の土器文化
前期後半から終末には、関東から中部地方にかけて、多彩な竹管沈線を主体文とする諸磯式土器十三菩提式土器が流行しました。
新潟県域では、諸磯a式に並行する「泉竜寺式土器」が知られています。

続く諸磯b式の段階には、隆線文など在地の特徴を併せ持つ「刈羽式土器」が見られます。
更に、諸磯c式~十三菩提式に当たる終末期には、鋸歯状印刻文結節状浮線文などを施す「鍋屋町式土器」が海岸部を中心に広がりました。
一方、県北部では、東北南部の前期大木式(大木4~6式)の影響を受けた土器がつくられています。


諸磯c式土器・深鉢
赤羽根遺跡
鍋屋町式土器
鍋屋町遺跡
諸磯式c土器・浅鉢
赤羽根遺跡
大木6式土器
現明嶽遺跡
 

 620前期前半の土器の特徴
前期前半の土器群は、羽状縄文を主体として、胎土に植物繊維を含んでいます。
ここでは、標識となる東蒲原郡阿賀町室谷洞窟新潟市布目遺跡柏崎市大湊遺跡などの各種の土器を展示しました。

花積下層式の段階では、蕨手状の撚糸側面圧痕文や非結束の羽状縄文が特徴的です。
続く布目式の段階では地紋主体となり、結束の羽状縄文や結節回転文が盛行しました。
新谷式の段階になると、竹管文を使った連続刺突文の他、コンパス文や波状文などが顕著となり、縄文では、先端を丸めたループ文が多用されます。

※花積下層式は埼玉県春日部市花積の花積貝塚が標識遺跡。縄文前期初頭(約6000年前)。縄文海進はこんな内陸まで海が侵入していたのか。
縄文前期に埼玉県の土器文化が既に新潟県まで影響を及ぼしていたのは驚きである。

 621
前期前半の土器の特徴 前期前半の土器の特徴

上に記述
阿賀町室谷洞窟遺跡
 622
 縄文をつける道具=縄文原体じょうもんげんたい
縄文原体は植物の繊維を撚り合わせたもの(縄・紐)です。その撚りには左と右の2種類をあります。
原体を縦に置いた場合、繊維が左上から右下に傾斜するものを l (エル)、右上から左下に傾斜するものをr (アール)、
更にそれらを2本ずつ撚り合わせものをRの撚り、Lの撚りと呼んでいます。
大湊式土器
柏崎市大湊遺跡
縄文前期前葉

羽状縄文
×コンパス文
沈線文
三条市八木鼻第2岩陰遺跡 前期前半
前期前半の土器
結束の羽状縄文
連続刺突文
ループ文
撚糸側面圧痕文
縄文をつける道具

上に記述
 624前期前半の土器
網目状撚糸文 斜行縄文
非結束の羽状縄文
沈線文・コンパス文
非結束の羽状縄文
ループ文・付加縄文
コンパス文・刺突文
底部の連続刺突文

布目式土器 前期前葉
新潟市布目遺跡

網目状撚糸文
斜行縄文
非結束の羽状縄文
斜行縄文
非結束の羽状縄文
ループ文
ループ文・付加縄文 結束の羽状縄文 結節回転文
 629前期前半の土器
関山式・黒浜式段階の土器 前期前葉
阿賀町室谷洞窟
連続刺突文・コンパス文・多段のループ文
連続刺突文 関山式・黒浜式段階の土器 コンパス文 多段のループ
非結束の羽状縄文
花積下層式段階の土器
阿賀町室谷洞窟
撚糸側面圧痕文
 
 630前期前半の土器 県内の様相
 631前期初めの土器 ―布目式と新谷式―
東蒲原郡阿賀町の室谷洞窟遺跡(国史跡)では、縄文前期前半の土器群が上層からまとまって発見されました。
羽状縄文を施した土器は、関東地方の花積下層式に類似し、前期初頭の代表的な資料(国重文)です。
時期的に後続する布目式や新谷式の土器は、胎内市の二軒茶屋遺跡で多数出土しました。
いずれも口縁部が開く深鉢で、結束羽状縄文・結節回転文・ループ文など、多彩な縄文を帯状に施します。
新谷式の口縁部には、竹管による連続刺突文や沈線文なども組み合わせています。

前期前半の土器 県内の様相 前期初めの土器 ―布目式と新谷式― 胎内市二軒茶屋遺跡の発掘調査区と土器出土状況 二軒茶屋遺跡 土器出土状況
 635前期前半の土器
花積下層式土器(深鉢)
室谷洞窟 前期初頭
花積下層式土器(深鉢)
津南町諏訪前東A遺跡 前期前葉
布目式土器(深鉢)
胎内市二軒茶屋遺跡 前期前葉
新谷式土器(深鉢)
新潟市笹山前遺跡
前期前葉
新谷式土器(深鉢)
胎内市二軒茶屋遺跡
前期前葉
新谷式土器(深鉢)
新潟市新谷遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
胎内市二軒茶屋遺跡
前期前葉
新谷式土器(深鉢)
新潟市新谷遺跡
前期前葉
関山式土器(深鉢)
妙高市大堀遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
村上市アチヤ平遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
村上市アチヤ平遺跡
前期前葉
新谷式土器(深鉢)
胎内市二軒茶屋遺跡
前期前葉
 


 640前期中頃の土器 根古屋式―
魚沼(旧堀之内町)の清水上遺跡は縄文中期の大集落として知られていますが、前期の集落も発見されています。前期中頃の土器がまとまっており、根古屋式土器と呼ばれています。
器形には、胴部が屈曲し4つの波状口縁をもつ深鉢形と、口縁がやや開く鉢形が 認められます。
胴部上半には、信州方面の有尾式と共通する、半截竹管による連続爪形文等で文様を構成しています。
近年、中魚沼郡津南町の諏訪前東A遺跡で、多数の住居跡と共にほぼ同時期の資料が出土しました。

根古屋遺跡 山梨県北巨摩郡白洲町 約4500年前の住居跡 (中期後葉の曽利式土器の出土が多い) 


前期中頃の土器
-根古屋式-
魚沼市清水上遺跡の遺物出土状況
捨て場C下層
大湊式土器(深鉢)
魚沼市清水上遺跡
前期中葉
根古屋式土器(深鉢)
魚沼市清水上遺跡
前期中葉
根古屋式土器(深鉢)
魚沼市清水上遺跡
前期中葉
朝日C式土器(深鉢)
津南町諏訪前東A遺跡
前期中葉
 


 650大武遺跡発見の土器と漆紐


 651大武遺跡出土の前期土器
長岡市和島地域の大武遺跡で出土した前期前葉の土器群です。谷の最下部(主にXVc層)から検出されました。
土器は砲弾状の深鉢形が多く、口縁を平らまたは緩い波状に作っています。底部は丸底と平底の形態が見られます。

古い段階(布目式)は、結束羽状縄文や結節回転文を短く帯状に施す文様が主で、新しい段階(新谷式)になると竹管による連続刺突文・コンパス文などが組み合わされます。東北地方の影響を受けて成立した土器群であり、前期前葉の特徴をよく表しています。


大武遺跡出土の前期土器

上に記述
長岡市大武遺跡の
発掘調査
 652前期前葉

 ※新潟市布目遺跡 新潟市西浦区仁箇2167、新潟砂丘の砂丘列内に形成された最古の遺跡。

布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
新谷式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
長岡市大武遺跡
前期前葉

 655大武遺跡の漆紐と漆塗土器
大武遺跡で発見された漆紐と漆塗り土器は、新潟県最古の漆工芸品です。漆紐は、植物繊維の撚り紐(太さ約1.5mm)を芯として、生漆で下地を整え、赤色(ベンガラ)漆を上塗りしています。装身具の首飾りとして使われた可能性があります。放射性炭素年代測定の結果、約6600年前に作られたことが明らかになりました。
合わせて出土した漆塗り土器の破片には、高温状態で漆を塗布して乾燥吸着させる「焼き付け漆」の技法が認められ、高度な技術が前期には確立していたと考えられます。

大武遺跡の漆紐と漆塗土器
大武遺跡の
土器出土状況
 656漆紐
漆塗土器・石匙・漆紐 漆紐
 657焼き付け漆技法
石匙、漆紐
大武遺跡 前期前葉
漆塗土器(深鉢破片)
焼き付け漆技法
前期前葉
漆紐 大武遺跡
前期前葉
布目式土器(深鉢)
大武遺跡 前期前葉
 


 670大武遺跡発見の石器類と土製品
長岡市和島地域の大武遺跡では、多数の石器類や土製品も出土しています。ここでは、前期前半に特徴的な器種を展示しました。

石匙は刃部の片側が「く」の字に屈曲する特徴的な形態で、「松原型」とも呼ばれ、東北地方南部に分布しています。
磨製石斧は糸魚川周辺産の蛇紋岩を使用しています。

玦状耳飾りは滑石製で、円板形が主流です。

土製品では、珍しい土鈴(内部に粘土粒)が出土。土器破片の両端を加工した土錘は、漁撈に関わる道具と考えられます。
胎内市の二軒茶屋遺跡では、土鈴のほか、県内最古の土偶も見つかっています。
 671
>大武遺跡発見の石器類と土製品 >大武遺跡発見の石器類と土製品 >大武遺跡発見の石器類と土製品 大武遺跡遠景
 672土器片錘
土器片錘
大武遺跡 前期前葉
 673土製品
土偶と土鈴 土鈴
 前期前葉
胎内市二軒茶屋遺跡
長岡市大武遺跡
土偶
胎内市二軒茶屋遺跡
前期前葉
 674玉類
玦状耳飾り
大武遺跡 前期前葉
玦状耳飾り
大武遺跡 前期前葉
垂飾・管玉
大武遺跡 前期前葉
 675磨製石斧 前期前葉 大武遺跡
磨製石斧
 676石匙 (くの字に屈曲する、「松原型石匙」)
石匙 前期前葉
布目遺跡
室谷洞窟
石匙 前期前葉
大武遺跡
松原型石匙
 

 680前期後半の土器 -県内の様相-

 681前期後半の土器 -刈羽式と諸磯式-
前期後葉には、上・中越地方の海岸部を中心に、刈羽式土器が広がっています。刈羽郡刈羽村の刈羽輪貝塚出土土器が標識資料で、
その器形や文様には、関西・北陸方面(北白川下層式)と、中部・関東地方(諸磯式)の影響が融合した特色を見ることができます。
一方、信濃川上流域では、信州方面の影響を受けた諸磯式土器が発掘されています。十日町市の赤羽根遺跡には、耳状突起・ボタン状突起や集合沈線文を特徴とする諸磯諸磯c式の深鉢や扁平な土器の浅鉢がまとまっていました。


前期後半の土器
-刈羽式と諸磯式-
十日町市赤羽根遺跡の住居及び遺物出土状況
諸磯b式(深鉢)
十日町清津宮峯遺跡
前期後葉
諸磯c式(深鉢)
上越市鍋屋町遺跡
前期後葉
刈羽式(深鉢)
上越市鍋屋町遺跡
前期後葉
鍋屋町式(深鉢)
上越市鍋屋町遺跡
前期後葉
鍋屋町式(深鉢)
上越市善光寺浜遺跡 前期後葉
鍋屋町式(深鉢)
上越市鍋屋町遺跡
前期後葉
諸磯c式(深鉢)
十日町市赤羽根遺跡
前期後葉
諸磯c式(深鉢)
十日町市赤羽根遺跡
前期後葉
諸磯c式(深鉢)
十日町市赤羽根遺跡
前期後葉
鍋屋町式(深鉢)
上越市鍋屋町遺跡
前期後葉

 685前期終末期の土器 -鍋屋町式と大木式-
前期も後葉殻終末に近づくと、鋸歯状印刻文や結節浮線文などを特徴とする鍋屋町式土器が県内の海岸部を中心に広がります。
標識となる上越市(旧柿崎町)の鍋屋町遺跡では、刈羽式や諸磯式土器と共に結節状浮線文を施した典型的な深鉢が復元されています。

阿賀野川以北の県北では、東北地方南部の大木式土器が見られます。東蒲原郡阿賀町の現明嶽遺跡などには、鋸歯状の沈線を口縁に巡らせた深鉢や、結節状浮線文をもつ金魚鉢状の深鉢があり、大木6式に位置づけられています。


前期終末期の土器 -鍋屋町式と大木式- 阿賀町現明嶽遺跡の土器出土状況 大木6式(深鉢)
阿賀町現明嶽遺跡
前期末葉
大木6式(深鉢)
阿賀町現明嶽遺跡
前期末葉
大木6式(深鉢)
新潟市二タ子沢遺跡
前期末葉
 
 

 700三十稲葉遺跡復元集落

 701史跡馬高・三十稲場遺跡
◆馬高・三十稲場遺跡(関原町1丁目)は、信濃川左岸の段丘上に位置する縄文時代の大規模な集落遺跡です。「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に中期(約5000年前)の馬高遺跡、西側に後期(約4000年前)の三十稲場遺跡が広がっています。標高は約60~65mです。

◆これまでに数多くの遺物が発見されており、、馬高遺跡は「火焔土器」発祥の地として、また三十稲場遺跡はヒスイや滑石などを加工した玉作のムラとして著名です。昭和54年に両遺跡のほぼ全域約45000㎡が国史跡に、平成2年と14年には最初に発見された「火焔土器」と主要な出土品が国重要文化財に指定されています。

◆長岡市教育委員会では、この史跡の保存・活用を図るため、保護盛土や植栽、復元住居の建築などの環境整備事業を進めています。
平成21年9月には、史跡のガイダンス施設である馬高縄文館が開館しました。


史跡馬高・三十稲場遺跡
第11号住居跡

 702史跡馬高・三十稲場遺跡
眼前に見えるのは、火焔土器が発見された馬高遺跡です。標高は約60mで、南北約200m、東西約200mの範囲に広がっています。これまでの発掘調査で、遺跡の北側から中央部にかけて大規模な「北のムラ」、遺跡南側に小規模な「南のムラ」が発見されました。それぞれ中央に広場を持ち、竪穴住居などの施設が馬蹄形に巡っていました。火焔土器が作られたのはちょうど北のムラが営まれた約5000年前の縄文中期中頃に当たります。

北のムラは、竪穴住居・貯蔵穴・墓穴ゴミ捨て場などからなり、長期にわたって続きました。当時の住まいはであった竪穴住居は、平面形が長方形状の住居(長さ約8m幅約4m)を主としています。史跡内には、発掘の成果に基づいて復元した住居があります。

出土遺物には、装飾的な火焔型や王冠型などの縄文土器、日常生活の道具である石器、祭祀に用いた土偶・耳飾りなどの土製品や石棒・玉類などの石製品があり、火焔土器の文化を象徴する豊富な内容を示しています。それらは馬高縄文館で見学できます。