縄文を旅する4 南の縄文 沖縄~九州15 2014.02.12(火)
屋久島町歴史民俗資料館 鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦1593 0997-42-1900
交通 |
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レンタカー もしくは 宮之浦港→徒歩15分 |
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特徴 |
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海上独標として、旧石器時代から航海の目標となってきた島ですから、重要な考古資料があるはずですが、 |
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過去に発掘した、鹿児島の二つの大学に全て持ち去られています。ほぼ何もない状態です。(笑) |
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見所 |
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旧石器時代の三稜尖頭器 九州南部系統の土器 (笑) |
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反省 |
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掲載情報が少ないので、普段の思いを発露させ、盛り過ぎましたので、目次を掲げます。(笑) |
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目次
01屋久島の自然
屋久島の地
02種子島・屋久島・口永良部島
・沖縄トラフの形成
屋久島の地質
屋久島の花崗岩
屋久島の生物相
動物相 植物相
06南西諸島の地学
南西諸島の火山学
07海底地形図
08琉球駒形成
東シナ海の形成
08a沖縄舟状海盆の沈下と拡大
08b琉球弧の移動と沈下
08c琉球弧の海峡
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10先史時代
12日本列島の旧石器時代
①日本列島の旧石器時代文化
②本州中央部を境にした文化圏
③琉球弧に展開された旧石器文化
11旧石器時代の文化区分
13南西諸島の先史時代
旧石器時代の海洋文化
新石器時代の貝斧
スンダランドとは
旧石器人・新石器人の移動
丸ノミ石斧
13南島先史時代の2つの文化圏と3つの文化圏
①旧石器時代のトカラ列島を挟む二つの文化圏
②縄文・弥生時代の琉球弧の三大文化圏 |
12屋久島の旧石器時代
20縄文時代
21案内板
22土器・石器
23石皿・敲石・石斧
23土器編年 土器編年2
26土器
27土器片
29横峯遺跡
33口永良部島の縄文土器
41弥生時代
51古墳時代以降
66収蔵庫
91民俗
92トビウオ
93生痕化石 |
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01屋久島の自然 大きな自然であるにもかかわらず、動物相は薄く少ない。従って脆弱な自然である。
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屋久島の地学 地形 001 002 003
・屋久島 |
は周囲132㎞ 最高峰高さ1936m 標高千mを越える山々が40峯。海上アルプスといわれる。 |
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・気候候 |
南海の暖かく湿った風は山に沿って2000mも上昇し、雨滴となり、降雨量は平地4000㎜ 山地1万㎜。月に35日雨が降るといわれる。 |
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標高によって亜熱帯~冷温帯までの気候が見られます。 |
02屋久島の形成 引用屋久島の地質
種子島・屋久島・
口永良部島・沖縄トラフの
模式図
引用屋久島の地質 |
玉ねぎ状風化の屋久島
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種子島は、
この4千万年前に出来た四万十層群といわれる付加体 (大洋底堆積物) でできた島です。
屋久島は、
プレートの沈み込み摩擦で溶解した岩石が溶けて上昇し、四万十層群の中に貫入し、キノコ状のマグマ溜まりを形成した。
しかし、噴火せずに冷え固まり、巨大な花崗岩の岩塊となり、固体となって比重が下がり、隆起している島です。
鹿児島のスヌーピー山(竹山)の大規模なもので、このような地形は全国どこにでもにあります。
が、屋久島は島全部が一塊の岩で、珍しいものです。 |
屋久島の地質
・屋久島の本体は花崗岩です。マグマ貫入時に四万十層群を接触変成岩に変えました。
・隆起時には栗饅頭のように、外側に四万十層群堆積物。 内側に変成岩(ホルンフェルス)。中心に花崗岩。を包んで上昇しました。
上昇とともに浸食を受け、島中心部に直径25㎞の花崗岩。取り巻くように薄く変成岩。外側に四万十層群。その後付け加わったサンゴ礁。となって
います。
・また、7300年前の鬼界カルデラの火砕流(幸屋火砕流)が島全体にいまだに厚く残存している事から、大被害を受けたものと考えられます。
屋久島の花崗岩
・島は、全体がつるつるの花崗岩で、植物の生育に不適です。植物は地衣類に根を下ろして生育したり、透水性の良い風化花崗岩に根を張ったりします
が、貧栄養で厳しい生育環境です。植物は成長に10倍以上の時間がかかります。まるでギアナ高地みたいです。
※「成長に10倍以上」の出典が見つかっていません。杉の成長が10倍かかるという記事はありました。
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屋久島の生物相 生物 001 002 003
動物相
・氷河期の屋久島・種子島は九州本土と陸続きで多くの陸棲動植物が渡ってきて、陸封されました。
しかし、花崗岩質の屋久島では、その生息環境は厳しく、植物すら地衣類に根を下ろして生きる過酷さです。
・土壌の多くは貧栄養の風化花崗岩で、土を掘り返すイノシシは繁殖できず、
雑食性のヤクザルと、葉を食べるヤクシカだけが耐えられた。貧栄養のため、体格は極端に小さく、両腕で抱えられるほどです。
※西部林道付近のシカ・サルは小さく、東部のシカは少し大きめです。(栄養価の違いです)
・函館公園にヤクシカが飼われています。ごく普通の大きさの鹿でした。
しかし、屋久島で野生のものを実際に見ると随分小さく、最初、幻惑されて、キョンのちょっと大きめくらいに見えました。
栄養の多少が何代も続くと 同じヤクシカでも、体高がこれほど変化するものかと驚きました。
花崗岩質の島の西海岸ではミニサル、ミニシカですが、堆積岩質の東海岸ではぐっと大きくなるのです。
・ちなみに、沖縄のケラマ鹿は島津藩主が琉球王に与えたもの。たいへん小さい鹿です。もしや、ヤクシカではなかったのかな。
・7300年前の全島を覆う火砕流だが、陸封状態の動物が生き残っているため、全島が焼土と化し、吹き飛ばされ、無生物になったわけではない。
ただ、杉は7300歳以下だとしている。
植物相
・亜熱帯から冷温帯までの高山気候である。土壌は貧栄養である。植物の成長が大変遅い。
ギアナ高地のように動物も植物も貧栄養の環境に適応した生体系を作っている。
函館公園のヤクシカ |
別の生き物のように太っていますこりゃリャマじゃないか |
屋久島の鹿は小さくて両腕で抱えられます体高約80cm、体重は19-25kg |
ヤクザルも小さいですが精悍な顔立ちです体長45-60cm、尾長5-10cm、体重6-13kg |
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06南西諸島の地学
06南西諸島の火山学
・南西諸島は鹿児島県の薩摩半島の南から始まり与那国島まで続く全ての島嶼部を指しています。
・フィリピン海プレートは日本列島の東南、南西諸島の東南でユーラシアプレートの下に沈み込み、琉球海溝を形成しています。(沈み込み線)
・プレート上の堆積物は、付加体となり、ユーラシアプレート側に陸地を形成します。
こうして海溝の西側に非火山島嶼列を形成しました。種子島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島
・沈み込む滑り面に島嶼などが載っていると引っ掛かり、定期的にプレート境界型地震を起こします。高さ3000mあまりの突起があります。
・地殻が地下90~130㎞に達すると摩擦熱でユーラシアプレート側が溶け、マグマとなって噴き出し、火山列を形成します。(火山フロント)(火山帯)
非火山列島の西側に出来た火山島群。 口永良部島、トカラ列島、伊江島、粟国島、久米島など。
このようにして、【沈み込み線=海溝】、【付加体=非火山島嶼列】、【火山列=火山帯】、によって南西諸島が形成されています。
①南西諸島の地理
カルデラ集合地の大隅湾
火山列のトカラ列島
付加体列の奄美諸島 |
②列島名前拝借 記述文字が小さいため大容量地図になりました |
③フィリピン海プレート
フィリピン海プレートは年4㎝ 太平洋プレートは年10㎝移動 |
④プレートテクトニクス図拝借 四つのプレートが交差する日本列島の立体地下構造 |
⑤プレートテクトニクス図拝借 マグマの発生と火山フロント 火山帯
火山列 |
⑥プレートテクトニクス図拝借 フィリピン海・太平洋プレートは6.8㎝8.5㎝
プレート境界に海水が侵入し、地震発生が容易になる |
⑦プレート境界の模式図 |
⑧台湾-宍道褶曲帯云々 |
各図について
①大隅・トカラ(火山列)諸島と奄美(付加体)諸島の位相がずれている
③フィリピン海プレートは4㎝/年
太平洋プレートは
10㎝/年の沈み込み量 |
④琉球海溝が南西諸島海溝に改名している
⑤火山フロントの表現とプレート名が違う
⑥大変詳しい表現になっている |
⑦プレート沈み込みによる諸現象
⑧沈み込み線 付加体列島 火山フロント 褶曲帯の図
褶曲帯は歪が集中するところ |
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07海底地形図
①先島諸島
沖縄舟状海盆
宮古凹地(慶良間海裂) |
②ちょっとボケてだめだめよ~だめだめ |
③ 先島諸島ケラマギッャプと
広大な宮古凹地 |
④薩南諸島トカラ海峡
火山列列島と付加体列島の位置がわかる |
⑤日本列島
改めて各プレートのようすがわかります。 |
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08琉球弧の形成 (文献引用「琉球列島」生物に見る成立の謎 安間繁樹著)
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・2億5千万年前 |
本州・琉球列島は本州地向斜の海の中 |
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・2億年前 |
本州地向斜が隆起。本州造山運動の始まり。日本海は内湾の浅海か巨大な湖となった。 |
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中央構造線の南側、紀伊半島・四国南半分・九州南半分・琉球列島は四万十地向斜の海の中。 |
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・6,500万年前 |
シナ陸塊東部が沈み始め、東シナ海が拡大し始める。 琉球列島は浅海だった。 |
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・1,500万年前 |
琉球列島はシナ陸塊と地続きでたくさんの動物が渡ってきた。 |
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東シナ海は内湾か巨大な湖だった。 |
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・700~200万年前 |
琉球列島全体に海が広がる。この島尻海は600万年続いた。150万年前陸化 |
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・500万年前 |
北琉球 中琉球 南琉球 に分断され、琉球列島が成立。大陸とも分断された。 |
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・150万年前 |
大きな地殻変動が起こり、列島の島弧としての形状が決定された。 沖縄舟状海盆が沈降拡大を始めた。 |
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これにより、琉球弧は南部の陸橋でのみ大陸と繋がる。 また、トカラ海峡が成立し、九州との接触は断たれた。 |
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・2万年前 |
氷河期で海水面140m低下。琉球列島は三つの島嶼に分かれた。各列島ごとに島嶼となったともいわれる。 |
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・南西諸島は太古シナ陸塊の辺縁部であり、現在中国大陸の奥地に棲む水棲の沢蛇と同種のものが久米島に生息することから証明されています。
このとき、大陸から流れ出た大河の河口がトカラギャップ、ケラマギャップであったといわれています。
1000万年前 引用
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150万年前
トカラ海峡 |
引用ケラマギャップ |
トカラ、ケラマ 引用 |
引用 |
1500万年前 引用 |
1500万年前 沖縄拡大 |
150万年前 |
100万年前 |
10~2万年前 |
1000万年前 引用 |
150万年前 |
100万年前 |
どの図も
「琉球の自然史」
木崎甲子郎編著
築地書館
から引用したものですね
図を比較することが大切と考えました |
東シナ海の形成、沖縄舟状海盆(トラフ)の拡大と琉球弧の移動
08a沖縄舟状海盆の沈下と拡大 参考01
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フィリピン海プレートの沈み込みに引きづられて沈下した地形。日本海と東シナ海であり、沖縄トラフは沈み込みの力が最も強いところである。
現在も大変な速さで沈降拡大している。
沖縄トラフ最深部は 八重山海底地溝2300m 引用
拡大速度はトラフ北部10mm/yr 中部25−30mm/yr 南部35-50mm/yr 引用 沈降速度 2㎜/年 引用 |
08b琉球弧の移動と沈下
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沖縄トラフの拡大に伴い、琉球弧もすさまじい速さで移動している。引用
移動方向 南。 移動速度 沖縄本島付近で年間4㎝、八重山諸島で年間5㎝、与那国島で年間7㎝。 |
フィリピン海プレートの
移動速度 |
沖縄トラフの拡大速度 |
琉球弧の島嶼の
移動速度 |
※与那国島では最初に訪れたときサンニヌ台展望台は自由に使えていた。 しかし、数年後に訪れると、崩壊状態で立ち入り禁止でした。
与那国島は年間7㎝もの猛烈な速さで南に移動しています。
しかし、十年もせずに展望台が崩壊。実際は島が南に向かって崩壊し、
海に崩れ落ちているのです。
琉球弧全体がこのような猛烈なスピードで移動崩壊し続けている。
海底遺跡などあり得ない話です。(笑)全て砕けて海底に消えます。 |
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08c琉球弧の海峡
・トカラ海峡(トカラ構造海峡)
幅100㎞ 水深1000m 170~130万年前に分断完了 引用 日本第四紀学会Q&A
・ケラマ海裂(ギャップ)・宮古凹地
幅300㎞ 最大水深1900m 左右で地質構造が違い、異なる運動をしている。 120万年前頃には島嶼群に分離
引用 琉球弧の考古学 (2)生物地理環境 ②琉球弧の古環境
・二つの海峡は動物相の境界線で、北からトカラ列島が渡瀬線。ケラマ海裂が蜂須賀線。という。
・渡瀬線は本土と琉球列島の生物相を区分するもの。 蜂須賀線は台湾と沖縄の生物相を区分する。
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10先史時代
12日本列島の旧石器時代
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「ナイフ形石器」と「細石刃」の、特徴的な石器器種の出現時期によって C-14年代で区分。 (引用琉球弧の考古学) |
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・先ナイフ形石器文化 |
約4万年前 |
~3万5,000年前 (=台形石器文化) 引用 野田の旧石器時代 |
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・第Ⅰ期(ナイフ形石器文化Ⅰ) |
約3万5,000年前 |
~2万8,000年前 |
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2万9000年前 |
姶良カルデラ大噴火 |
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・第Ⅱ期(ナイフ形石器文化Ⅱ) 約2万8,000年前~1万6,000年前
各地にローカルな石器文化が発達した。
(全国を6つのナイフ形石器文化に分化)
・北海道 ・・・ 広郷型ナイフ石器
・東北 ・・・ 石刃技法による東山型・杉久保型ナイフ石器
・中部・関東 ・・・ 切出型ナイフ石器
・近畿・中国・四国 ・・・ 瀬戸内技法による国府型ナイフ石器
・九州 ・・・ 剥片尖頭器・三稜尖頭器
・南西諸島の敲磨器文化圏 引用後期旧石器時代後半の日本列島内の文化圏
・第Ⅲ期(細石刃文化) 約1万6,000年前~1万2,000年前の (=3つの文化圏に分かれる)
先ナイフ形~第Ⅲ期の四つの時期に区分できる。 |
② |
また、列島内での特徴的な石器群の分布状況から、本州島中央部を境界線にした |
「東北日本型旧石器文化圏」(北海道~関東・中部地方北半地域)と
「西南日本型旧石器文化圏」(関東・中部地方南半~南九州地域)の二つの文化圏にも区分できる。 図表
③ |
一方、琉球弧に展開された旧石器文化は、こうした列島内部の二大文化圏の外側にあった。つまりトカラ海峡を境界線にして |
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北側は西南日本型旧石器文化圏の一部で、
南側は琉球旧石器文化圏と呼称できる。そしてその文化は東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域と関連している 引用 琉球弧の考古学 |
11旧石器時代の文化区分 引用後期旧石器時代後半の日本列島内の文化圏 ナイフ形石器使用例細石刃使用例
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13南西諸島の先史時代
旧石器時代の海洋文化 参考石斧のひろがり・・・黒潮文化圏 巨大噴火で消滅した黒潮の民 小田静夫著
・サバニと呼ばれる小さな丸木舟(後に構造船)は、厚さ25㎜の小さな万能舟で、
沖縄から一週間もすれば静岡県清水港に、 また、明治時代にはインドネシアまで出稼ぎの足として使っていました。
・旧石器時代のスンダランドの貝斧=後の丸ノミ石斧は、この丸木舟を作るために発達した道具です。
スンダランドで発達した高度な造船、操船、海図を使った航海術などをはじめとする、高度な文化を持った人々が
丸木舟を操って列島各地にやってきました。
・上図①「先ナイフ形石器文化」では、(1)サフルランドへ5~4万年前 (2)関東地方に3.5~3万年前に拡散している。
この時の丸木舟は貝斧で作られたものでしょう。
これによって高い文化が丸木舟で西太平洋の各地に運ばれたことがわかりました
サバニの漕艇簡単な手漕ぎ舟に見えますが、
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帆を張ったサバニ標準で帆がつけられます。外洋航海にはアウトリガーも簡単に取り付けられます |
アウトリガーのサバニ
拝借 |
貝斧文化圏拝借 この図はもっと新しい貝斧文化圏です |
貝斧装着例斧柄にくくり付けただけでは使えません。
切れ刃の反対側を支えに固定せねば
はずれます |
貝斧装着例ソケットに装着。中はどんな仕掛けかな |
丸ノミ石斧栫ノ原遺跡出土
1万2000年前
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新石器時代の貝斧
・宮古八重山諸島では新石器時代後期文化2500~800年前まで無土器の貝斧文化が続いていた。これはフィリピン系民族です。
この文化はフィリピン発祥の文化です。
同時期にフィリピンでも貝斧文化が続いており、大変新しい文化です。 01 02 03
スンダランドとは (7万2000~1万6000年前) 旧石器時代
・陸上動物の不足に伴い、次第に海洋漁労民となり、航海術にたけ、造船技術も発達した海洋航海民。
引用 日本人はるかな旅展 スンダランドは海洋民の故郷
旧石器人・新石器人の移動
・5~6万年前からスンダランドの人々が旅立ち、当初100㎞先のサフルランドを目指していた。
彼らはオーストラロイドと言われ、アボリジニやベンガル人やタミル人と同系統です。
・3500~4000年前にオーストロネシア語族と言われる人々が、台湾付近から移動を開始しました。
引用日本オセアニア学会20周年記念シンポジウム「南太平洋のフロンティア」
・氷河期のスンダランド は食料不足で、人々は海に向かい海洋民族として成長した。
・サフルランドは、5万年前、旧石器(core scraperと剥片石器)。磨製石斧。アメリカインディアンのトマホーク形石斧に酷似。出土。発達した石器
・フィリピン。旧石器時代人最古の人骨は2万4千年前。剥片石器文化。多島海域でシャコガイ製磨製貝斧が出現。
・2万年前の海面低下により、旧石器人は台湾・先島諸島に到着。高山族。マレーポリネシア語族。フィリピン・台湾・琉球列島へ北上。
・沖縄。旧石器文化。那覇市山下町で3万2千年前の化石人骨が出土。奄美諸島で旧石器文化の石器が出土。
先島諸島でシャコ貝製の貝斧。フィリピンから伝わる。←これはそうとう後(3万年後)の話です。
スンダランドでは随分早くからより耐久性のある丸ノミ石斧に進化していた様子です。
・南九州の1万2千年から9千年前の初期縄文遺跡。上野原遺跡など。海人集団の存在。加世田市栫ノ原遺跡の丸ノミ形石斧。
1万2千年前。丸木舟製作用。上野原遺跡。9500~7500年前。連結土坑で魚・肉を蒸し焼き。耳飾・ペンダント・腰飾りの装身具
鬼界カルデラは7300年前に大噴火を起こしました。
・鬼界カルデラ爆発以後、その後の土器の分布から、南九州の縄文人が沖縄本島などの南方を中心に九州各地に拡散。
先進的な新石器社会を営んでいた集団の移住により、新しい縄文文化が各地で誕生。
南九州の海岸部・島嶼部に海洋航海民の基地があり、黒潮を利用した海人集団が日本各地へ。ヒスイを北海道から沖縄まで各地に海人が運んだ。
以後、省略だが大変興味深い、素晴らしい考察です。
引用遥かなる海上の道・日本人の源流を探る黒潮文化の考古学」小田静夫
丸ノミ石斧 についての文献
・上野原、港川人はワジャク人か 日本人のルーツ 黒潮の民 日本人はるかな旅 鬼界カルデラの大噴火 海人と海神
日本人の遙かなる旅 丸ノミ形石斧文化圏 黒潮に乗って日本にやって来た民 縄文時代(形成期)
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13南島先史時代の2つの文化圏と、3つの文化圏
①旧石器時代のトカラ海峡を挟む2つの文化圏
・上図③ (旧石器時代の文化区分) では、25,000~20,000年前、南西諸島では、
本州型のナイフ形石器・細石器文化と、
南方型の不定形剥片石器文化の二大文化圏があり、 その境界はトカラ海峡でした。
・黒潮は、スンダランドから海流に乗せて人と文化を運んでいました。下図①②。
次第に日本列島に近付きトカラ海峡を横切るようになりました。下図③
このため、奄美諸島からトカラ列島に渡航するのが大変困難になったためトカラ海峡が境目になりました。
②縄文-弥生時代の琉球弧の三大文化圏 引用「琉球弧の考古学」(3)人文的環境
・地理的要因から 以下のように別れました。下図④
・北部文化圏 大隅諸島、トカラ列島
・中部文化圏 奄美諸島、沖縄諸島
・南部文化圏 宮古諸島、八重山諸島
縄文-弥生時代の文化 下図④⑤⑥
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・北部文化圏 |
九州本土の影響を受けた「島嶼文化」が営まれた。 |
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・中部文化圏 |
九州本土の影響を受けながら独自の「南島文化」を形成させた。 さら奄美諸島と沖縄諸島の北部・南部文化圏に分けられる。 |
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そしてトカラ海峡より南の島々は、黒潮本流の外側に位置し、サンゴ礁が発達しており、
イノーを中心にした豊富な海産資源を利用した「サンゴ礁文化」が営まれた。 |
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・南部文化圏 |
九州沖縄とは無縁の、中国大陸・台湾島・黒潮に乗って流れてくる東南アジア地域の文化に属していた。 |
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これは、沖縄本島の南の宮古凹地(広大な無島嶼海域)が存在し、南部圏と北部圏の島々は相互に望見できない遠距離空間で、
近世期に「琉球王国」が成立するまでは全く別々の文化圏であった。
沖縄本島とケラマギャップを挟んだ宮古八重山は「南方系文化」で、近世まで琉球文化にも属していませでした。
この意味は、近世まで新石器時代の文化を行っていたということです。 |
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旧石器文化 |
2013年までに石垣島で大量の人骨が発見され、今後の研究がまたれる。白保竿根田原洞穴遺跡 |
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新石器文化 |
前期4000~2000BP 東南アジア系民族で土器や部分磨製石器を使用していた |
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後期2100~900BP フィリピン系民俗で無土器文化。焼石調理。まるで旧石器時代に戻ったような生活。 |
①黒潮の流れ |
②黒潮文化※1 |
③黒潮の蛇行奄美大島からトカラ海峡を渡ることができない
拝借 |
④南西諸島の三大文化 |
⑤南西諸島 |
⑥縄文・弥生時代の文化圏
拝借 |
※1上図② 5万年~4万年前にサフルランドへ進出した人々は、マリアナ諸島⇒小笠原諸島⇒伊豆諸島に進出しています。
マリアナ先史文化後期(約二〇〇〇-八〇〇年前)
※サフルランドはニューギニアとオーストラリア大陸がつながった大陸
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屋久島町歴史民俗資料館資料の閲覧
12屋久島の旧石器時代
屋久島の旧石器時代遺跡は海面下140mに沈み、発掘不能です。 |
屋久島では1万数千年前には人が住んでいたでしょう。 |
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阿姑ヶ山遺跡の
細石核発見の一報1.1万~1.5万年前 |
三稜尖頭器と同定 |
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三稜尖頭器 水晶製 |
実物です |
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旧石器遺跡は未発見
この三稜尖頭器の出土地は攪乱地でした |
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20縄文時代
21案内看板
この館では
1,3000~2,400年前を
縄文時代と規定 |
縄文の文化 |
縄文の暮らし |
打製石器と磨製石器 |
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22土器・石器
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23石皿・敲石・石斧
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石匙・砥石・ノミ型石斧 |
打製・磨製石斧・石皿 |
磨り石・敲き石 |
棍棒状の敲石は骨を砕いたのでしょうか。
ノミ形石斧は木材加工に使用しました。
木器の加工だったのか、柱のほぞ穴だったのか。 |
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23土器形式の変化 引用『九州地方の第四紀テフラ研究1) -巨大火砕流堆積物の第四紀学的諸問題-』
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26土器
土器とは形式=form 用途・形
型式=type 時代・地域
形と型も同様に区別 |
土器をさわってみよう松山式土器 |
屋久島の土器一湊松山遺跡と横峯遺跡 |
南九州の
土器形式名と標識遺跡 |
松山式 縄文後期
一湊式 縄文後期
市来式3500BP・
曽畑式6000bp(朝鮮半島式)の特徴 |
一湊松山遺跡前期~弥生 市来式の下に松山式。上に一湊式土器。三種類の文化層 |
横峯遺跡 縄文後期大隅諸島一の住居跡数、土壙墓や貯蔵穴も出土 |
一湊式土器 |
松山式土器 |
一湊式 |
曽畑式土器 |
縄目のない土器南方系土器は貝殻文 |
市来式≒松山式(後期)
曽畑式≒一湊式(前と後期) |
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横峯遺跡 住居跡 |
一湊松山遺跡 住居跡 |
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27土器片
28一湊松山遺跡 縄文前期から弥生時代まで続いた土器文化
曽畑式6000BPと一湊式3500BPが似ているのは、 |
3000年間使い続けた文化人がいたのか? |
市来式と松山式は共に縄文晩期の土器で、近似 |
していても当然である。 |
曽畑式土器文化がそんなに長く続いたものか |
疑問です。 |
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29横峯遺跡 縄文後期の土器文化
一湊式の外形は曽畑式に近似。よって、 |
一湊松山遺跡では朝鮮の曽畑式を使い続けた |
松山式土器横峯遺跡では市来式に似た松山式土器を使用 |
一湊式土器その後市来式文化人が住み、その後一湊式文化人にとってかわった。 |
一湊遺跡は3000年も同じ文化を続けた人々で |
市来式土器最後に横峯遺跡を占領したのでしょう。 |
市来式土器 |
市来式土器 |
土器底の網代跡 |
市来式土器 |
市来式土器は、口縁部が特徴的です。穴に紐を通して吊り下げたのでしょう |
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33口永良部島の縄文土器
屋久島とよく似た文化 |
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41屋久島の弥生時代遺跡 南島との貝交易や木材の伐採など交流は盛んだったと考えられます。
栗生遺跡 |
前田叶遺跡 |
須恵器・土師器・槫 |
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磚 セン 意味 |
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51古墳時代以降
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66収蔵庫
本当に僅かで貧弱な展示物だったので、話していると、収蔵庫の中を見せてもらえることになりました。
しかし、二つの大学から大したものは返却されていませんし、研究も復元もされていません。
持ち去られた遺物は、きっと、ゴミ同然の扱いを受けているのでしょう。
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台付き鉢の基部です
屋久島で初めて見たものです。亀ヶ岡時代のものでしょうか
弥生時代のものでしょうか。 |
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91民俗
92トビウオ
・南島文化の一つトビウオ漁。干物にして主食として保存していた。近年まで漁村ではコメの代わりに魚を主食としていました。
海産資源は安易に大量に捕獲できる動物食料として重宝したことでしょう。
これと同じ文化が台湾欄嶼島にもあり、さらにそのルーツはフィリピンにあります。
・後に、これらトビウオ製品が租税の代わりや、商品となった。
近代の袋網でしょうか |
近代までのトビウオ漁の様子 |
猟期は2~7月の産卵期
深夜~未明の産卵後
二艘一組で網を引く。
鹿児島の運搬船に売る
干物にしても出荷する |
二丁櫓の漁船屈強の男が櫓を漕ぎ舟で重い網を引き、漁獲を上げた。
船の船首船尾形状から外洋には出られない舟。 |
トビウオ漁 |
同一反復しています。 |
既に乱獲で漁獲減少 |
民俗芸能トビウオ招き乱獲や気候変動による不漁があったための祈りか |
一時的に大儲けした網元が始めさせたのでしょう |
この長い櫓二丁を、二人が漕ぐ。二艘の船が猛烈なスピードで網を引く。 |
トビウオ漁は現在も行われています。
青魚独特の臭いのする干物は出汁に使われたり、食用にしたりします。
好き好きで、わたしは、ちょっと無理でした。 |
これは、それぞれの育った環境による文化ですから。 |
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93生痕化石
生き物が住んでいた痕跡が化石になったものをいいます。 西表島にも大規模なものがあり、
わたしが発見した、と思ったら、その前年に石垣の高校生が調査していました。一年の差でした。残念。(笑)
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