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※奴国は古代の産業技術都市。大陸の先端技術がこの地で花開き、ここから列島各地に広がっていったのではないかと思えるほど
ザ・弥生先端文化といった感じがします。
※このページの写真はほぼほぼピンボケしています。 |
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目
次 |
01奴国の丘歴史資料館外観
03奴国の丘歴史公園のジオラマ
10年表
常設展示
40鍛冶場再現模型
50墳丘墓の剥ぎ取り土層
60奴国王墓ジオラマ
62甕棺墓の埋葬
63奴国王墓の副葬品
考古資料展示室
101弥生時代
110奴国の里・春日
111奴国の領域と須玖遺跡群
113春日丘陵遺跡群
120旧石器・縄文時代
122石器
124縄文土器
130奴国の道具
131集落と生活
140工具・農具
151弥生土器
161祭祀土器 |
170奴国王墓と王族墓
171須玖岡本遺跡
180墓と副葬品
181奴国の中心地だった理由➀
182弥生時代の墳墓
183甕棺墓と副葬品
184須玖岡本の甕棺墓
187王と王族の宝物
189王墓出土鏡
200奴国の祭
201青銅の祭器
203中広銅矛
205銅戈の型式変化
210奴国の先進技術
210奴国の中心地だった理由②
211奴国のテクノポリス
220奴国の先端技術
221青銅器鋳型
232銅鐸の鋳型
※考察 九州でも銅鐸を作っていた
233夜須町ヒルハタ遺跡出土の鋳型 |
240奴国の先端技術
241鉄器工房
246 ガラス工房
260埋葬法の変化
261甕棺墓の衰退と後期の墓地
271甕棺は奴国のタイムカプセル
280奴国の先進技術
280再現 奴国の青銅器工房
300古墳時代
310奴国以降の春日
320歴史時代
330奴国から邪馬台国へ
340大土居水城跡の木樋
400奴国の丘歴史公園
403覆屋 |
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01奴国の丘歴史資料館外観
奴国の丘資料館 |
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03奴国の丘歴史公園のジオラマ
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10年表 |
11
大正~旧石器 |
大正~室町 |
室町~奈良
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飛鳥~古墳
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弥生時代
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縄文~旧石器 |
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12旧石器~縄文
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ナイフ形石器
細石刃器
狩猟の様子
竪穴住居
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石鏃等
春日平田西遺跡 |
ナイフ形石器
市内各遺跡 |
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押し形文土器
春日平田西遺跡 |
石組炉
百堂遺跡 |
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13縄文中期~弥生中期
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14弥生中期~古墳後期
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15古墳後期~鎌倉時代
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16室町~江戸時代
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17安土桃山~明治時代
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常設展示 展示ホール
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40鍛冶場再現模型(実物大)
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銅矛鋳型 |
フイゴ |
溶解銅の注入 |
銅矛鋳型 |
大型銅矛 |
銅矛の完成品はどんな色だったのか。
真鍮製なら黄色く光っている。
純銅製なら日焼けした人肌のような色 |
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50墳丘墓の剥ぎ取り土層 須玖岡本遺跡
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明治32年に奴国王墓が発見された地点の北西側隣接地点において、平成2年度の発掘調査で墳丘墓が確認されました。
この墳丘墓は内部に多数の甕棺が埋められた集団墓で、造られた年代が王墓と一致します。
甕棺の中には鉄剣や鉄鉾などの副葬品が納められたものがあり、この墳丘墓は王族墓と推定されています。
ここに展示した土層は、平成2年度の発掘調査の際に墳丘の断面を剥ぎ取ったもので、盛り土の様子を発掘当時の状態で見ることができます。 |
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墳丘墓の剥ぎ取り土層 |
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墳丘墓の剥ぎ取り土層 |
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墳丘墓内7号甕棺墓 |
墳丘墓の調査 |
墳丘下土器出土状況 |
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60奴国王墓墓室内ジオラマ
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61
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62甕棺墓の埋葬
甕棺墓の埋葬 |
1.大きな穴を掘り、底には横穴を設けます。
2.横穴に甕棺を据えます。 |
3.死者を甕棺の中に入れます。
4.もう一つの甕を合わせて蓋をしましす。
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5.甕棺の合わせ目を粘土で塞ぎます。
6.掘った穴を土で埋め戻します。
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7.死者に祈りを捧げます。
※奴国王墓では、甕棺を埋めた後に大きな石を上に載せています。
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63奴国王墓の副葬品 覗き窓に投影された映像
奴国王墓の副葬品 |
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夔鳳鏡(きほうきょう) |
多樋式銅剣
長35.0cm幅4.3cm |
このほかにも多数の青銅武器やガラス璧・勾玉・管玉などが出土した |
これらの副葬品は当時の権威の象徴であった |
墳丘墓であったと思われるこの墓は集団墓から離れ独立している |
この墓は奴国王の墓として注目されている |
周辺には王族の墓とみられる甕棺墓群がある |
この王墓の主は、後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を授かった王より数世代前と考えられている |
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須玖岡本遺跡の王墓(甕棺墓)の発見は1899(明治32)年 |
甕棺の上に置かれていた大石(上石)
長3.3m幅1.8m厚30cm |
甕棺は大型の甕を組み合わせた特徴陽ある埋葬形態である。 |
多数の副葬品が出土したがその詳しい内容はわかっていない。
現在確認できるものには |
30面前後出土した中国鏡 |
明治政府の廃仏毀釈による宗教ぶち壊し運動が
様々な文化財を破壊した風潮は、それまで禁忌とされていた古い墓や塚などを打ち壊し、中から珍品が出れば、辺り一面の文化財が盗掘された。
明治32年に遂に春日市でも古代の墓が破壊され、出土品は国に納めるようにとの法に背き、盗んで、やがて、棄てられてしまった。
ようです。 |
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100考古資料展示室
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101弥生時代
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館内案内図
ピンボケ |
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110奴国の里・春日
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111奴国の領域と須玖遺跡群
弥生時代
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大陸から稲作技術が伝来すると、自然に依存した獲得経済から生産経済へと移行し、社会は大きな転換期を迎える。
日本で最初に稲作が始まったのは、玄界灘沿岸地域で、当初から完成した技術体系をなしていた。
また、弥生社会には金属器もたらされ、やがてその生産が始まる。
稲作農耕の定着と金属器の使用が始まった弥生時代は、我が国の歴史上最も画期的な時代と言える。 |
奴国
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中国の歴史書である「後漢書」に、「建武中元二年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。・・光武賜うに印綬を以てす。」という記述があり、この時、
漢の光武帝から賜った印が、天明4年(1784)に志賀島で発見された「漢委奴国王」という印文の金印であると考えられている。
これによって紀元1世紀に奴国という有力なクニが出現していたことが分かる。
奴国の位置については、那の津という地名などから、福岡平野一帯をあてるのが定説となっており、
また、質量ともに傑出した出土遺物を誇る春日市須玖岡本遺跡周辺が奴国の中心であったとみられている。 |
奴国の中心地 須玖遺跡
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福岡平野の南部に位置する春日丘陵周辺は、以前から青銅器や鋳型など弥生時代の貴重な遺物の出土が多い地域として注目されていた。
また、明治32年には須玖岡本遺跡から奴国の王墓と見られる多量の副葬品を持った甕棺墓が発見されており、
この一帯が奴国の中心地と推定されている。 |
奴国の領域と
須玖遺跡群 |
弥生時代
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奴国
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金印(レプリカ写真) |
奴国の中心地
須玖遺跡 |
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113春日丘陵遺跡群
春日丘陵の遺跡群 |
須玖岡本遺跡 |
遺跡名 |
福岡平野の弥生遺跡 |
弥生中期の北部九州 |
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120奴国以前の春日(旧石器・縄文時代) |
121奴国以前の春日
旧石器時代
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人類の起源は500万年前まで遡るともいわれる。私たちの遠い祖先は、厳しい自然と戦いながら悠久の時代を生きてきた。
今から1万年以上前は旧石器時代と呼ばれ、氷河期が幾度もおとずれ、日本列島が大陸と陸続きになった時期もあったらしい。
旧石器時代の遺跡は全国各地に分布するが、そのほとんどはこの時代の終り頃のものである。
春日市内でもこの時代の石器か゛十数か所から発見されている。 |
奴国以前の春日 |
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旧石器時代 |
10万年前阿蘇Ⅳ火砕流
ナイフ形石器文化
細石刃文化 |
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縄文時代
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今から約1万年前、氷河期が過ぎると気候は温暖となり、
海面が上昇し、動植物相も大きく変化した。我が国の祖先は、この著しい環境の変化にうまく適応して縄文文化を築き上げた。
縄文時代の生業は、狩猟、漁撈、採集が基本であったとされる。
土器や弓矢が使用されるようになり、また、各地に貝塚が形成された。縄文時代は大陸から稲作技術が伝来する紀元前4~3世紀まで続く。
春日市内には各時期の遺跡が分布するが、その数はあまり多くはない。
門田遺跡からは草創期に位置づけられる最古級の土器が出土し、また、柏田遺跡では後期の竪穴住居跡が発見されている。 |
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122石器 旧石器時代
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ナイフ形石器 |
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石核
駿河A遺跡 |
尖頭器
惣利東遺跡
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同一反復 |
剥片
駿河A遺跡
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台形様石器
駿河A遺跡 |
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123石器 縄文時代
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石匙
豆塚山遺跡
春日平田西遺跡 |
打製石斧
春日平田西遺跡 |
磨製石斧
柏田遺跡 |
掻器
春日平田西遺跡 |
石核
柏田遺跡 |
石鏃
駿河A遺跡
春日平田西遺跡 |
磨石
春日平田西遺跡
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124縄文土器
縄文土器 |
早期
百堂遺跡
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前期
柏田遺跡 |
中期
下大荒遺跡 |
後期
柏田遺跡 |
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130奴国の人々が使った道具
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131集落と生活
大規模な集落
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須玖岡本遺跡周辺には、弥生時代中・後期の集落が、春日丘陵北半部及びその周辺一帯の広い範囲に展開する。
赤井手・平若・大南・大谷遺跡など、小丘上に営まれた各集落が連続して大規模な集落を形成している。
この大集落はその規模や密度もさることながら、出土遺物の内容が卓越しており、まさしく奴国の中枢にふさわしい遺跡と言える。 |
集落から発見された大溝
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須玖岡本遺跡周辺では、集落に伴う溝が各地で発見されている。このうち大南遺跡と高辻遺跡E地点の溝は、谷を挟むが一連の遺構と考えられる。
赤井出遺跡や竹ヶ本遺跡の場合は集落の西側から検出され、須玖尾花町遺跡や須玖坂本遺跡では集落の北側ないし東側で確認された。
これらの溝は、須玖岡本遺跡周辺の大規模な集落全域を囲む一連の施設であった可能性がある。 |
高辻遺跡F地点環濠の土層断面
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集落から発見された大溝
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集落から発見された大溝 |
大南遺跡 |
高辻遺跡E地点
高辻遺跡F地点
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遺跡分布詳細図 |
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133石包丁
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134石斧
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135石鏃
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136砥石
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140工具・農具 |
141
大溝断面剥ぎ取り標本
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鋤 |
杓子・鋤(持手)・鍬 |
脚付槽 |
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143鋤先
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144
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ヤリガンナ |
素環頭刀子
宮の下遺跡
駿河A遺跡
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鉄鏃
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145
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146
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150集落と生活 |
151弥生土器
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弥生土器は朝鮮半島の無文土器の影響を受けて北部九州で成立した。日常容器の基本的な器種としては甕、壺、高坏、鉢がある。
土器は地域や時期によってそれぞれ特徴が異なっており、地域間交流や相対的年代を把握するための重要な資料となっている。 |
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集落と生活
弥生土器
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弥生土器 |
大谷北遺跡 |
高辻遺跡E地点 |
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152
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153
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壺
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鉢
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甕
春日平田西遺跡
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鉢
駿河A遺跡 |
甕
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甕
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155日常土器
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160奴国の人々のくらし(弥生時代)
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161祖霊神に捧げる器
祭祀土器
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祭に使用された土器は、日常土器に比べると形や仕上げに非実用的な特徴を持つが、区別が困難な場合も少なくない。
北部九州を中心とした地域では、中期に赤く塗られた優美な祭祀土器が発達した。甕棺墓地から出土することが多く、
墓前祭祀などに使用されたと考えられる。 |
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祭祀 |
トバセ遺跡
赤塗り土器の出土
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須玖岡本遺跡 |
岡本遺跡 |
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162祭祀土器(共献土器)
祭祀土器(共献土器) |
共献壺 |
共献壺
平若A遺跡 |
共献壺 |
共献壺 |
壺
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壺
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高坏
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高坏
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高坏
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163
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164
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壺
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脚付壺 |
筒状土器
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筒状土器
原田A遺跡 |
筒状器台
トバセ遺跡
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筒状土器
トバセ遺跡
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壺
豆塚山遺跡
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170春日王が眠る地
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171見えてきた奴国王墓と王族墓
須玖岡本遺跡
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明治32年に大石の下から発見された甕棺の内外には、前漢鏡30面前後、青銅の武器8本以上、ガラス璧、ガラス勾玉・管玉など多数の貴重な品々が副葬されていた。
この甕棺は墳丘を持っていたと想像され、また、周りからはほかに甕棺が出土していないことから、単独で墳丘墓に納められた可能性が高い。
この墓はその質・量ともに突出した内容から王墓とみられており、年代的には、57年に後漢の光武帝から金印を賜った王より数世代前の奴国王の墓と考えられる。
王墓から少し離れた北西側一帯には、甕棺墓や土壙墓が群をなす。
この集団墓地は高い比率で副葬品が出土することから、王一族の墓地と推定され、これまでの発掘調査で100基以上の甕棺墓が発見されている。
以前に破壊された物や未調査分を考慮すると、300基以上からなる集団墓地と推定される。
平成2年度の調査(N地点)では、墳丘墓が確認されている。 |
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春日市遺跡地図 |
弥生時代の須玖岡本遺跡周辺想像図 |
見えてきた奴国王墓と王族墓
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須玖岡本遺跡 |
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172墓と副葬品
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須玖岡本遺跡1次H
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須玖岡本遺跡6次м |
須玖岡本遺跡7次
(北半)N |
須玖岡本遺跡7次
(南半)N
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須玖岡本遺跡14次U |
須玖岡本遺跡出土物詳細図
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173須玖岡本遺跡模型 不明瞭
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180墓と副葬品
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181奴国の中心地だった理由➀
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奴国の範囲であったとされる福岡平野の中で、
明治32年に須玖岡本遺跡で発見された甕棺墓“奴国王墓”以外に30面もの前漢鏡を伴うような“王墓”と言えるものは見つかっていません。
このほかにも、須玖岡本遺跡を含めた須玖遺跡群には、豪華な副葬品を持つ墓地がいくつも発見されており、奴国の中心地であったと考えられる。 |
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奴国の中心地だった理由 |
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182弥生時代の墳墓
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弥生時代の埋葬法には支石墓、木棺墓、土壙墓、甕棺墓、方形周溝墓、などいくつもの種類があり、
地域や時期によって異なる。
北部九州の場合、
前期は土壙墓、木棺墓が多いが、
中期になると甕棺墓が最盛期を迎え、墓制の主流となる。
後期に入ると甕棺墓は急激に衰退して、石棺墓や土壙墓などへ変わっていく。
最近では、墳丘を有する甕棺墓群や土壙墓群の発見例が増加しつつある。 |
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183甕棺墓と副葬品
甕棺墓と副葬品
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北部杞憂州弥生時代の代表的な墓制である甕棺墓は、背振山地周辺の平野に分布が著しく、数百基からなる墓地もある。
しかし、副葬品を持つ例は極めて少なく、特定の集団墓に限られている。
多数の甕棺墓が発見されても全く副葬品を伴わないことがむしろ一般的である。
奴国の中心部であったとされる春日丘陵周辺では、須玖岡本遺跡を初め、宮の下遺跡や立石遺跡など副葬品を出土する墓地が近接して分布する。 |
甕棺墓と副葬品 |
甕棺墓と副葬品 |
寺田池北遺跡23号甕棺墓と鉄鉾出土状況 |
寺田池北
鉄鉾出土状態 |
須玖岡本遺跡7次調
7号甕棺鉄剣出土
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須玖岡本遺跡7次調
12号甕棺鉄矛出土
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須玖岡本遺跡1次調
15号甕棺銅剣出土 |
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184須玖岡本の甕棺墓
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奴国首長層の墓地とされる須玖岡本遺跡の甕棺墓は、他の遺跡の甕棺に比べ、墓壙の規模がひときわ大きい。 |
須玖岡本の甕棺墓 |
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墓壙がひときわ大きいのに、さらに横穴を掘って押し込んでいる。そういえば、これまで見てきた甕棺墓の埋け込み方はみなこのような不自然さをもっていたように思う。
このことに着目したのはこの館だけである。
実に奇妙な埋葬法である。 |
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187王と王族の宝物
王と王族の宝物 |
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188
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ガラス勾玉
須玖岡本遺跡王墓
レプリカ |
銅戈
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銅剣、多樋式銅剣 |
銅剣×2
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鉄鉾、銅戈 |
鉄戈、鉄剣、鉄鉾 |
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189王墓出土鏡
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須玖岡本遺跡の王墓には、30面前後の中国鏡が副葬されていた。
とりわけ注目されるのは、3面の草葉文鏡で、いずれも面径が20cmを超える大型か鏡である。
このような大型の草葉文鏡は中国でも出土例が少なく、奴国王の強大な権力を物語るものと言える。 |
草葉文鏡 |
草葉文鏡 |
草葉文鏡復元品 |
草葉文鏡 |
王墓出土鏡 |
鏡の行方 |
星雲文鏡 |
連弧文銘帯鏡 |
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200奴国の祭(弥生時代) |
201青銅の祭器
春日丘陵は青銅器丘陵
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銅剣や銅矛などの青銅器は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経て伝来しましたが、日本では武器としてではなく、神々を祀る道具として独自の発展を遂げました。 地域的な違いもあり、北部九州では銅矛や銅戈が、四国・瀬戸内海地方では平形銅剣が、近畿・東海では銅鐸が中心に使われました。
須玖岡本遺跡がある春日丘陵は、青銅器がとても多く出土する地域として、考古学者の間では、“青銅器丘陵”と呼ばれるほど有名です。 |
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春日丘陵は青銅器丘陵 |
武器形祭器
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朝鮮半島から伝えられた青銅武器は、やがてわが国でも生産が開始され、次第にその大きさを増していく。
青銅武器は元来副葬品として墓の中に納められていたが、中期も終り頃になると、次第に副葬されなくなり、かわって地中に埋められるようになる。
埋葬された青銅器はもはや武器としての機能は失われており、祭器であったと考えられている。 |
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武器形祭器
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銅矛の型式変化模式図
細形・中細形・中広形・広形 |
中広形・広形銅矛の出土地
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中広形及び広形銅矛は、北部九州地域に限らず、中国・四国地方や対馬など広域に分布し、中には10本以上まとまって出土した例もある。
対馬は広形銅矛の出土が特に著しいがここでは埋納だけではなく、墓にも副葬されている。 |
中広形・広形銅矛の出土地 |
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203中広銅矛
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205銅戈の型式変化
中広形・広形銅戈の出土地
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中広形銅戈は、分布域が北部九州にほぼ限定され、この点矛とは異なる。
広形銅戈は出土数が極めて少ないことから、鋳潰されて広形銅矛の原料になったとする説もある。 |
中広形・広形銅戈の出土地
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中広形・広形銅戈の出土地
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中広形・広形銅戈の出土地
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須玖岡本遺跡周辺の青銅器埋納遺跡
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青銅器生産の拠点となっていた須玖岡本遺跡の周辺には、青銅器の埋納遺跡も多い。
銅矛が埋納されていたバンジャク遺跡(中広形9本)、西方遺跡(中広形10本)、岡本ノ辻遺跡(広形9本)は、大規模な集落の範囲内に分布する。
一方、銅戈はこの集落からやや離れた原町遺跡(中細形~中広形48)、紅葉ヶ丘遺跡(小倉新池)(中広形27本)から出土している。 |
須玖岡本遺跡周辺の青銅器埋納遺跡
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武器型青銅器の
埋納地
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206中細形銅戈 原町遺跡
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207中広形銅戈 紅葉ヶ丘(小倉新池)遺跡
銅戈・銅矛の着柄
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銅戈・銅矛は本来武器であり、矛は袋部に柄を差し込んで、突く機能を持つ。 戈は柄に対して斜めに取り付け、相手に打ち付ける武器。 |
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210奴国の先進技術(弥生時代)
※奴国の生産工房は、多数ありますが、全ての工房で同じ製品をつくっていました。大量生産です。銅矛・銅戈・銅剣・銅鏃です。
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210奴国の中心地だった理由② -青銅器・ガラス・鉄のコンビナート-
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弥生時代は、海外から新しい高度な文化を導入して、日本でも青銅器や鉄器、ガラス製品が生産され始めた時代です。
須玖岡本遺跡を中心とする須玖遺跡群は全国的に見てもこれらの生産工房が特に集中する地域で、ここで造られた青銅器などが西日本各地に広く分布していることから、奴国の中心と考えます。 |
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奴国の中心地だった理由②-青銅器・ガラス・鉄のコンビナート-
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211奴国のテクノポリス
奴国の生産工房
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弥生時代には青銅器、鉄器、ガラス製品の生産が開始される。
これらの器物の生産には、原料を入手するための交易や、高度な技術・知識を必要とした。
奴国の中心であったとされる須玖遺跡の周辺には、青銅器・鉄器・ガラス工房が近接して、分布する。
このように先進技術を持った弥生時代の生産工房が集中する地域は全国でも他に例がない。 |
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212須玖岡本遺跡周辺の工房群
➀須玖唐梨遺跡
鉄器工房?
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多数の鉄器・4鉄片、及び青銅器鋳型や銅矛中子などが出土。
鉄器工房が存在した可能性が高い。 |
②須玖五反田遺跡
ガラス工房跡
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ガラス工房と推定される特殊な竪穴住居の内外から、
ガラス勾玉鋳型や勾玉の未成品、ガラスるつぼ、玉砥石など、
ガラス製品の製作に関係した多数の遺物が出土。 |
③須玖岡本遺跡
青銅器工房
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各種青銅器鋳型、銅矛中子、銅滓、るつぼなど、青銅器鋳造に関係した多数の遺物が出土。
青銅器の鋳造工房と推定される周囲に溝をめぐらした掘立柱建物跡が群集する。
またガラス勾玉鋳型やガラスるつぼも出土。
青銅器と共にガラス製品も製作されていた可能性が高い。、 |
④赤井手遺跡
鉄器工房跡
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著しく熱を受けた炉が33号住居跡の床面から発見され、鉄器の未成品や鉄素材などが多数出土した。
弥生中期の鍛冶場遺構である。
また、多数の青銅器鋳型やガラス勾玉鋳型も出土。 |
⑤須玖永田遺跡
青銅器工房 |
鏡鋳型、銅矛鋳型、銅矛長後、銅滓、るつぼなど、青銅器製作に関係した多数の遺物が出土。
周囲に溝が巡る特殊な掘立柱建物が青銅器の鋳造工房跡と考えられる。 |
⑥黒田遺跡
青銅器工房跡?
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青銅器鋳型や銅矛中子などの青銅器鋳造関係の遺物が多数出土。
須玖長田遺跡と同時期で、遺構や遺物の内容も類似しており、青銅器工房が存在した可能性が高い。 |
⑦須玖尾花町遺跡
青銅器工房跡?
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銅矛鋳型や銅戈鋳型、銅矛中子、るつぼなど、青銅器鋳造に関係した多数の遺物が出土。
青銅器工房が存在したと推定される。 |
⑧バンジャク遺跡
青銅器工房跡? |
銅矛鋳型や中子が出土。周辺では以前から鋳型の出土が多く、青銅器工房が存在した可能性が高い。 |
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215 |
216銅矛鋳型 各遺跡
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銅矛鋳型
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銅矛鋳型 |
大谷遺跡
須玖岡本遺跡坂本地区
駿河A遺跡
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須玖尾花町遺跡×2
赤井手遺跡
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赤井手遺跡
須玖岡本遺跡坂本地区
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須玖岡本遺跡坂本地区
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217中子の鋳型
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銅矛の鋳型
銅矛は2枚の外型の鋳型に、内型である中子をはさみ、湯口から溶かした原料を流し込んでつくられる。 |
銅矛の中子 |
須玖尾花町遺跡
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須玖永田町遺跡
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青銅器の鋳型
須玖五反田遺跡
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銅矛の鋳型
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須玖岡本遺跡坂本地区
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中子の鋳型 |
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220奴国の先端技術 |
221青銅器鋳型
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青銅器鋳型の出土は北部九州と関西地方に集中する。その中でも須玖岡本遺跡周辺の出土数は突出しており、外型に限っても全国の3割以上を占めている。
鋳型(外型)は北部九州の場合、ほとんど石型に限られていたが、関西では石型から土型へとかわる。
北部九州の鋳型石材としては、滑石片岩や石英-長石斑岩などが使用された。
中期には両者とも用いられているが、後期になると後者に限定されていく。 |
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青銅器鋳型
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青銅器鋳型
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北部九州出土
青銅器鋳型(個数)
春日市が大変多い |
銅戈鋳型
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青銅器鋳型出土分布
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福岡県
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春日市周辺
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鋳型破片
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223銅戈鋳型
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銅戈鋳型 |
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銅戈鋳型
レプリカ
大南A遺跡
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銅戈鋳型 |
ピンボケです |
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出土した鋳型の各部分 |
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須玖岡本遺跡坂本地区
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224銅剣の鋳型
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須玖岡本遺跡坂本地区
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大谷遺跡 |
御陵遺跡 |
中国式銅剣 |
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225銅鏃の鋳型
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筒状銅製品の鋳型
須玖岡本遺跡坂本地区
銅鏃の鋳型
御陵遺跡
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銅鏃の鋳型
須玖岡本遺跡坂本地区
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230奴国の先端技術(弥生時代) |
231青銅器鋳造工房
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青銅器鋳造工房と見られる遺構は、春日市の須玖長田遺跡や須玖岡本遺跡、佐賀県の吉野ケ里遺跡や安長田遺跡から発見されている。
須玖永田遺跡や須玖岡本遺跡では、多数の鋳造関連遺物を伴う掘立柱建物跡が発掘され、周囲には内部の湿気を抜くための溝がめぐらされていた。
須玖岡本遺跡にはこのような遺跡が連接するように多数存在しており、大規模な鋳造工房であったと推定される。 |
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青銅器鋳造工房 |
須玖岡本遺跡坂元地区の青銅器工房跡 |
青銅器工房の復元
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展示前の青銅器製造工房ジオラマ模型は。須玖永田遺跡で発見された掘立柱建物跡を工房建物のモデルとし、
また、市内の遺跡から出土した遺物等を参考にして復元したものです。 |
青銅器工房の復元 |
鋳型と坩堝 |
フイゴで風を送り原料を溶かしている |
溶かした原料を鋳型に流し込む
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須玖永田遺跡15号掘立柱建物 |
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232銅鐸の鋳型
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銅鐸の鋳型
大谷遺跡
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小銅鐸の鋳型
須玖岡本遺跡
岡本山地区
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小銅鐸の鋳型
須玖岡本遺跡坂本地区
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小銅鐸の中子
須玖岡本遺跡坂本地区
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銅鋤先の中子
須玖岡本遺跡坂本地区
須玖永田遺跡
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小銅鐸の鋳型
外型と中子
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※考察 九州でも銅鐸を作っていた
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私は、銅矛分布圏(九州中心)・銅鐸分布圏(畿内中心)と刷り込まれていたので、九州で銅鐸が製造されていたとは考えも及ばなかった。
そもそも、奴国で始まった青銅製品の鋳造が、九州では武器なのに対して、近畿では鐘(銅鐸)という、非戦闘的なものであったのはなぜかとおもう。
もし、武器形銅製品を大和地方に渡したら、それで攻めてくるかもしれないという、思いがあったのかもしれない。
交易品としての高価な銅製品を売りたいが、自分たちにとって安全なものを売ろう。それで銅鐸という鐘を商品にしたのかもしれない。
ところが、意外にも、この金ぴかの銅鐸が畿内で大受けした。金色ピカピカと、初めて聞く金属音が信仰にまで発展した。
そこで、近畿地方では奴国から招いた青銅器職人たちが銅鐸を作り、原料を奴国から仕入れて、近畿で銅鐸文化が繁栄したのではないだろうか。
※以前、九州でただ一例だけ銅鐸の出土があったとされていたのだが、これは、大いに間違いであったようだ。
九州でも盛んに銅鐸を作っていたのだ。すると、あの、銅矛銅剣、銅鐸の分布範囲というのは、後に起こった現象をまとめたものになる。
ピカピカ光る青銅をあがめる信仰をはやらせたのは奴国人。奴国はそれを交易品に使って大儲けし、信仰の対象だからいくらでも売れる。
だから畿内に対しても、あんなに大きな権力を持っていたのかもしれない。
しかしまあ、戦いのシンボルとして、戦闘時に戦闘指揮所が掲げた金ぴか銅矛と、平和な収穫祭に打ち鳴らした銅鐸と、
同じ青銅器でも使用方法が全く異なっていたようだ。 |
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233夜須町ヒルハタ遺跡出土の鋳型
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ヒルハタ遺跡は弥生時代後期から古墳時代初めにかけて営まれた大規模な集落遺跡で、東小田峯遺跡の北東約2.5kmに位置する。
この鋳型は石英-長石斑岩という火成岩の一種を石材として用いており、5面に型が掘り込まれている。
銅鏡の型は径9.3cmで、溶かした原料を流し込むための湯口がつく。
この裏面には十字形同期の型が2個連なっており、両側には銅鏃の型も彫られている。
また、銅鏡の湯口面側にガラス勾玉の型があり、当地の工房で青銅器とガラス勾玉を同時に製作していたことが明らかとなった。 |
夜須町ヒルハタ遺跡出土の鋳型 |
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夜須町ヒルハタ遺跡出土の鋳型 |
十字型銅器、銅鏃 |
銅鏡 |
銅鏡鋳型 |
鏡の鋳型
須玖岡本遺跡坂本地区 |
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234鍛冶場道具
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フイゴの送風管
須玖坂本B遺跡
須玖永田遺跡 |
坩堝
須玖永田遺跡 |
送風管
須玖坂本 |
坩堝 |
坩台 |
坩堝 |
銅滓
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240奴国の先端技術
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241鉄器工房
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鉄器生産(製錬)が弥生時代まで遡れるかいなかについては、意見の分かれる所である。
現在のところ、鉄を生産した弥生時代の遺跡は見つかっていない。
一方、鉄器を生産した鍛冶遺構の調査例は、少しずつ増加しつつある。
春日市の赤井手遺跡では、33号住居跡から鍛冶炉が発見され、鉄素材や鉄器の未成品が出土している。
また、同様な遺構・遺物は、近くの仁王手遺跡でも検出されている。 |
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鉄器工房
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鉄器工房
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赤井手遺跡の鉄器工房跡
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仁王手遺跡の
鉄器工房跡 |
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243
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ガラス勾玉の鋳型
赤井手遺跡 |
ガラス玉の鋳型
須玖五反田遺跡 |
ガラス勾玉の未成品
須玖五反田遺跡 |
ガラス付着小型容器
須玖五反田遺跡 |
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ガラス勾玉の鋳型
須玖五反田遺跡 |
ガラス勾玉の鋳型 |
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246 ガラス工房
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弥生時代のガラス製品としては、勾玉、管玉、丸玉、小玉などがある。
鋳型の出土からすると、ガラス勾玉は福岡平野、佐賀平野、大阪平野などで製作されたことが分かるが、青銅器生産と同様、福岡平野の中でも
須玖岡本遺跡周辺がその中心となっていた。
多数の勾玉鋳型を始め、未成品や坩堝、砥石などガラス製品の製作に関連した遺物がまとまって出土した春日市須玖五反田遺跡の1号住居跡は、
全国で初めて確認された弥生時代のガラス工房跡である。 |
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ガラス工房 |
須玖五反田遺跡 |
須玖五反田遺跡ガラス工房跡
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247弥生時代のガラス勾玉と勾玉鋳型を出土した遺跡
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248ガラス製品
ガラス勾玉・管玉
須玖唐梨遺跡
須玖尾花町遺跡
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玉砥石 |
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※知らないということは本当に恥ずかしいことで、奈良明日香村の万葉文化館でガラス工房を見たとき、大変驚き、こんな技術が古代にあったのかと
驚き感動しました。
ところがなんと、その何百年も前に、奴国では既にガラス製品をどんどん作っていたんだとわかって、本当に驚きました。
もっと言えば、西域のさらに西に行けば、もっと以前から高度なガラス製品が作られていました。
これまでも日本海側の博物館で美しいガラス製品を沢山見てきました。
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260埋葬法の変化
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261甕棺墓の衰退と後期の墓地
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北部九州において弥生時代中期に盛んに行われた甕棺墓葬は、
弥生時代後期になると急速に衰退し、やがて、石棺墓、石蓋土壙墓、土壙墓などが主流となる。
しかし、その数は中期の甕棺に比較するとかなり減少しているようである。
甕棺墓地が密集する春日市中央部の須玖岡本遺跡周辺をみると、中期の甕棺を主体とした墓地は20ヶ所前後が確認されているのに対し、
現在わかっている後期の墓地は、数か所に過ぎない。 |
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甕棺墓の衰退と後期の墓地 |
須玖唐梨遺跡
甕棺墓・土壙墓群
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宮の下遺跡
2号石棺墓
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宮の下遺跡
4号土壙墓 |
須玖岡本20号甕棺
勾玉・小玉出土
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宮の下遺跡15号甕棺
鏡・円形同製品・鉄剣の副葬、盗掘済み
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宮の下1号石棺墓
ガラス勾玉出土 |
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265
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ガラス勾玉・小玉
須玖岡本 |
ガラス小玉、石製玉
須玖唐梨遺跡
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きほう鏡
須玖岡本遺跡 |
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266
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後漢鏡 宮の下
内行花文鏡 松添 |
方格規矩四神鏡
松蔵遺跡
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円形銅製品
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270 |
271甕棺は奴国のタイムカプセル
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現在では人が亡くなると火葬にしますが、昔は土の下に埋める土葬をしていました。
日本は酸性土壌のところが多いので、何百年もすると土に還り、形跡もなくなります。
しかし、甕棺に埋葬された場合、割れたり壊れたりしなければ、人骨や金属製の副葬品などでも、
約2000年を隔てた現代まで長く保存され、貴重な情報を届けてくれることがあります。
まさに弥生時代からのタイムカプセルと言えるのではないでしょうか。 |
甕棺
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甕棺は北部九州を中心として展開した独自の埋葬方で、大型の甕棺は壺の形態から発達して、大きさを増し、甕形へと変化していく。
埋葬例としては、甕を2個合わせたものや、上甕に壺や鉢を用いたもの、単独の瓶に木蓋(や石蓋)を施したものなどがある。
小形棺日常容器や、祭祀土器などが用いられたが、大型の甕は埋葬専用に作られた。 |
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272
弥生時代前期中頃
紀元前3世紀頃
平若A遺跡
甕棺の組み合わせ
甕+甕 |
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弥生時代前期中頃
紀元前3世紀頃
平若A遺跡
甕棺の組み合わせ
甕(下半部)+甕 |
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273
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274
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甕棺の組み合わせ
甕+壺 |
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275
弥生時代中期後半
紀元前1世紀頃
夏塚山遺跡
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276
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277
弥生時代後期前半
1世紀
宮の下遺跡
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小児用甕棺
弥生時代中期前半
紀元前2世紀
向谷南遺跡 |
甕棺の組み合わせ
高坏+甕
小児用甕棺
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278
弥生時代中期後半
紀元前1世紀
一ノ谷遺跡
甕+鉢
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280奴国の先進技術 |
280再現 奴国の青銅器工房
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復元銅戈
この展示品は、春日市紅葉ヶ丘遺跡から出土した銅戈を復元したものである。
弥生時代の銅戈も、本来はこのような金色に近い輝きを持っていたであろう。 |
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300古墳時代
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弥生時代の終り頃には各地域に特色を持った首長墓が造られていたが、3世紀の後半頃に出現した前方後円墳は、
日本列島の広い範囲で共通性をもっていた。
前方後円墳は6世紀頃まで300年以上にわたり各地に築造され、この間は古墳時代と呼ばれている。
奴国の故地である那珂川流域には前方後円墳が点在しており、春日市域では現在6基が確認されている。
また、山麓部を中心に多数の円墳も分布している。 |
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310奴国以降の春日 |
311奴国以降の春日
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312前
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鉄刀
西平古墳群
素環頭大刀
角谷古墳群
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捩文鏡
向谷古墳群 |
変形文鏡
向谷古墳群
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313
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管玉
百堂遺跡 |
垂飾付耳飾り
伝:日拝塚古墳
耳環 塚原古墳群
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飾り金具(馬具)
赤井手遺跡 |
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鉄鏃
西浦古墳群 |
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315後
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器台と瓶 |
器台と子持ち壺 |
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脚付壺
赤井手遺跡
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高坏
赤井手遺跡 |
脚付壺
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瓶
赤井手遺跡 |
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ハソウ
赤井手遺跡
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堤瓶
赤井手遺跡 |
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320歴史時代
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飛鳥時代から奈良時代にかけて、律令制国家が成立し、公民となった人々が多くの負担を強いられたことは、
同時代の文献によって知ることができる。
文献が残された時代を便宜的に歴史時代と呼ぶが、日本ではおおよそ7世紀以降を指す。
須恵器の一大産地である牛頸窯跡群の一部、大宰府の防衛線の一つである大土居・天神山の小水城跡、
寺院への瓦の供給が推定されるウトグチ瓦窯跡、そして武士の居館と推定される上白水館跡などは、
市内に散在する歴史時代以降の代表的な遺跡である。 |
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321
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歴史時代 |
大土居水城跡 |
木樋(大土居水城跡) |
ウトグチ瓦窯跡
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窯跡群(平田北遺跡)
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浦ノ原窯跡 |
上白水館跡 |
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323
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324
須恵器
坏身と坏蓋 |
鬼瓦(鬼板)
歴史時代
ウトグチB遺跡
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軒丸瓦・軒平瓦
歴史時代
ウトグチ遺跡 |
大栓
太柄、込み栓 |
ウトグチ瓦窯出土の瓦の使用例
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325
五脚円面硯
御供田遺跡 |
須恵器 亀型の硯
歴史時代
〇原遺跡
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須恵器
坏身と坏蓋
惣利北遺跡 |
青磁碗
歴史時代
整理池遺跡
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須恵器高坏 |
土師器 皿 |
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青磁 碗
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330奴国から邪馬台国へ (写真は極端に見にくい)
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『後漢書』の「兼務中元二年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。・・・光武賜うに印綬を以てす。」
という記述は、紀元1世紀に奴国という突出した有力な国が存在したことを示している。
ところが、『後漢書』によると安帝の永初元年(107)に「倭国王師升等、生口百六十六人を献じ、請見を願う。」とある。
この記述の「倭国」については、本来「倭面土国」てあったらしく、伊都国(前原市周辺)あるいは末盧国(唐津市周辺)を比定する説がある。
そして3世紀には倭の中心勢力は邪馬台国へ移るが、その位置については九州説と畿内説が有力で、現在も活発な論争が続いている。 |
奴国から邪馬台国へ |
奴国から邪馬台国へ
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須玖岡本遺跡関係年表
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玖岡本遺跡関係年表
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年 代 |
日本の主なできごと |
須玖岡本遺跡周辺 |
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縄文時代 |
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300~400年頃 |
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水稲稲作の技術が伝わる |
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弥生時代前期 |
環濠集落が出現する |
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近畿地方に方形周溝墓が出現する |
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北部九州に成人用大型甕棺墓が出現する |
木棺墓・甕棺墓葬が行われる(伯玄社遺跡) |
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南方産貝製の腕輪が北部九州に伝わる |
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弥生中期 |
北部九州では細形の銅剣・銅矛・銅戈や
多鈕細文鏡などを副葬した墓が出現する |
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青銅武器の生産が始まる |
集落や墓地が急増する |
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この頃、和人は百余国に分かれていた(漢書) |
青銅葺きの副葬(須玖岡本遺跡) |
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青銅器生産の開始 |
紀元前↑ |
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多数の前漢鏡などを副葬した王墓が出現する |
王墓・墳丘墓が造られる(須玖岡本遺跡) |
紀元後↓ |
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瀬戸内海を中心に高地性集落が出現する |
青銅器の生産が盛んになる(大谷・バンジャク遺跡) |
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弥生後期 |
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大南・高辻遺跡の環濠が造られたのはこの頃か |
57年 |
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倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢し、印綬を
賜る(後漢書) |
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北部九州では甕棺墓が衰退し、土壙墓や
石棺墓が主流となる |
鏡などの副葬(宮の下15号甕棺墓) |
107年 |
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倭国王帥升ら、後漢に朝貢し生口160人を
献ずる(後漢書) |
銅矛を初め各種の青銅器が多数鋳造される
(須玖坂本遺跡) |
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この頃、倭国大いに乱れる(後漢書)(魏志) |
ガラス製品の生産が行われる(須玖五反田遺跡) |
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倭の諸国は卑弥呼を女王に建てる
(後漢書)(魏志) |
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239年 |
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卑弥呼が魏に朝貢する(魏志) |
青銅器の生産はこの頃まで行われた
(須玖坂本・須玖永田遺跡など) |
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卑弥呼が死す(魏志) |
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古墳時代 |
前方後円墳が出現する |
集落の規模が縮小する |
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340大土居水城跡の木樋
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国の特別史跡である水城跡は、7世紀後半に大宰府防衛の施設として築かれた土塁で、市内には大土居と天神山の二か所に残っている。
県道拡幅のため平成9年に発掘調査をしたところ、道路下に残っていた土塁の基底部から導水管(木樋)が発見された。
後世の用水路掘削によって上半部が失われていたが、下半部は良好な状態で出土した。
クスノキや杉の大きな木材を加工し、大栓やダボを用いて堅牢に組み合わせて作られている。 |
大土居水城跡の剥ぎ取り土層
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平成7年に発掘調査を行た際、下成土塁の北側裾の立ち上がり部分の土層断面を実測、写真撮影後、土層を剥ぎ取りました。
実際の土層とは反転してしますが、実物大で再現することができます。
黒色断面形がウロコ状に見えている部分は、畚もっこで運搬した土の塊の単位を表していると考えられます。 |
大土居水城跡の木樋 |
大土居水城跡の木樋
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木樋出土 |
木樋の断面構造
推定復元図 |
大土居水城跡の
剥ぎ取り土層 |
剥ぎ取り土層 |
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360復元された弥生の琴
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昭和53年、春日市の辻畑遺跡から弥生時代後期の琴が出土しました。この展示品は、春日市郷土史研究会の篠原さんが長年の調査研究で完成されたその復元品です。 |
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400奴国の丘歴史公園 |
401王墓の上石
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1899(明治32)年ここから約200m北西方にあった大きな石の下から、およそ2100年前に中国で作られた鏡30面前後を始め、銅剣・銅矛・ガラス璧・ガラス勾玉など多数の副葬品を伴った甕棺墓が発見されました。
「鏡・剣・玉」といった後世の「三種の神器」の原型ともいえる豪華な副葬品に加え、重さ4t以上もの上石をのせるなど、ことのほか手厚く埋葬されたこの甕棺墓は、当時福岡平野一帯を治めていた奴国王の墓と考えられています。
また、発見当時の記録と近年の発掘調査などによって王墓はほかの墓(王族墓)から離れて造られた、単独の墳丘墓であったことも分かりました。
日本考古学界の黎明期に発見されたこの王墓によって、須玖岡本遺跡の名は全国に知られるようになりました。
1929(昭和4)年に京都帝国大学考古学教室調査団による、初めての本格的な発掘調査が行われ、その後も須玖岡本遺跡を中心に重要な歴史的発見が相次ぎ、春日市一帯は「弥生銀座」と呼ばれるようになりました。
資料館には奴国王の埋葬の様子を再現した実物大模型を展示していますので、是非ご覧ください。
この大石は発見から幾度かの移転を経て、平成10年に現地に移設しました。 |
王墓の上石 |
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王墓の上石 |
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王墓の上石 |
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王墓の原位置 |
王墓の復元模型
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王墓出土鏡野復元品
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403覆屋
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405覆屋1
甕棺・土壙・木棺墓と竪穴遺構
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この覆屋では墓地の西端に位置する甕棺墓、土壙墓、木棺墓および竪穴遺構を発掘調査時の状態で公開しています。
ここに展示している成人用甕棺墓は、弥生時代中期後半(今から約2000年前)のもので、、大型の甕棺に木蓋をしていたと考えられます。
木棺墓と土壙墓の時期は明らかではありませんが、鉄剣が出土していた木棺墓については、甕棺墓や土壙墓より古いことがわかっています。
また、通路の下には小児用甕棺も展示しています。
竪穴遺構については住居跡とも考えられますが、墓地の一角に作られていることや、柱穴が竪穴の周囲に配されていることなど、
ほかの住居跡とは異なった点が注目され、埋葬と関係した建物であった可能性もある遺構です。 |
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甕棺・土壙・木棺墓と竪穴遺構 |
甕棺・土壙・木棺墓と竪穴遺構
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小児用甕棺墓と成人用甕棺墓の位置図
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覆屋2
甕棺墓と祭祀遺構
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この覆屋では墓地の北端部に位置する甕棺墓群の一部と祭祀遺構が見学できます。
甕棺墓は全て弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)のもので、成人棺が深く埋められた後、その周囲に6基の小児棺が続けてやや浅い位置に埋葬された状態がわかります。
このように成人用甕棺墓の傍らに複数の小児用甕棺墓が存在する例は、他の甕棺墓地でもよく見られます。
また、通路の下にも小児用甕棺を展示していますのでご覧ください。
祭祀遺構は墓地と関連した遺構で、甕棺墓群の周囲に分布しています。中から祭祀に使用された土器が出土しました。
ここに公開している祭祀遺構から出土した土器は、甕棺と同じ時期のものです。 |
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