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   北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて04 2014.05.20(火) & 21(水)




  チカモリ遺跡  金沢市新保本5-48 金沢市新保本町埋蔵文化財収蔵庫 076-240-2371 9:30~16:30 ※火曜・休日の翌日定休 撮影可
   ・御経塚遺跡 野々市市御経塚1-182 石川県埋蔵文化財センター 076-246-0133 10:00~16:00 月曜・祝日の翌日休館
  野々市市ふるさと歴史館   076-246-0133 10:00~16:00 月曜・祝日の翌日休館 撮影禁止

       チカモリ御経塚約1㎞離れています。県埋文ふるさと歴史館は同じ建物の右と左です。 

時代 チカモリ遺跡 (金沢市新保本町) 縄文後期後葉~晩期中葉3,000年~2,300年前)の集落遺跡
    御経塚遺跡  (野々市市北西部) 縄文後期中葉後半~晩期後葉3,500~2,300年前)の集落遺跡
     
交通 野々市駅下車。委託駅で駅員はパートさん。コインロッカーも観光案内所もなし。駅前タクシーのみあり。
    クシーは往路のタクシーの電話番号をもらうこと。遺跡付近にバス・タクシーなし館から呼ぶと必ず悪さをする。
    金沢は、タクシードライバーに対する苦情が大変多いことで有名です。
     
見所 環状木柱列、八日市新保式土器、御経塚式土器
飢餓・餓死で人口激減の後晩期に、集落がふえ、人口増加した特異な遺跡群の理由
02チカモリ-
御経塚遺跡地図


 編集の目的
気候寒冷化による飢餓で世界の人口が減少する中、人口が増加し、集落が分散拡大した、
  取手川扇状地遺跡群の成立過程と特徴をあきらかにする。 
   
住居形式の変遷。③環状木柱列の本当の姿。⑤北陸の土器編年。⑥縄文中期遺跡の遺物。⑦縄文後晩期遺跡の遺物。
 ⑧ 上記の作業を通して、模写すら禁止の石川県立の博物館・埋文に頼らず、石川県の後期晩期の縄文文化を明らかにする。



 
取手川扇状地 集落群
理的・文化的背景
 縄文的生業の破綻
 新しい生活の糧は
 環状木柱列


05御経塚遺跡展示館
03御経塚遺跡 復元住居跡
  縄文人の死生観

04環状木柱列は
  環状木柱列を
 
16チカモリ遺跡1環状木柱列
17チカモリ遺跡2
18チカモリ遺跡3
22北陸の土器編年
 ①北陸の縄文土器編年表
 ②縄文後晩期の土器編年

チカモリ遺跡展示館
金沢市新保町埋蔵文化財収蔵庫

25縄文時代中期
26縄文中期
27縄文中期
28中期
28a中期
29中期

34晩期
 後期晩期の寒冷化
 植物栽培
 反省
 
41木材保存プール
 信州御柱祭と同じ木材孔

51弥生時代
52金沢市 寺中遺跡
54南新保町遺跡

60古墳時代
61
 この時期の半島も小国乱立の時代
62横穴墓
63古代
 エミシ
64末古窯跡群
65古墳時代の装身具
66弥生・古墳の日用品
67階段に置いてあった大型形土器
 
まとめ
・北陸・石川の土器編年
・後晩期の生業は農業ではなかったか
・栽培植物は何だったのだろうか
・分家した集落間の距離と生業
・環状木柱列は円形建物の柱



 取手川扇状地 集落群 と勝手に名付けます

 地理的・文化的背景
 ・ 一帯は、石川県南部の、白山から流れる下る一級河川手取川の半径12㎞の扇状地の北側扇端にあたり、伏流水の自噴する低湿地です。
  後期に集落が一旦消滅して無人化。後期後半に御経塚遺跡が成立。それが拠点集落となってチカモリその他の多くの分家の集落が密集拡大しました。

しかし、御経塚とチカモリ遺跡を比べると、御経塚の方が文化レベルがはるかに高く独創的です。遺物の模様もくっきりしています。
(これらの小さな博物館にはレプリカの様な高額のものはありません。全て本物です。よってレプリカの模様を勘違いしているのではありません。)

 縄文的生業の破綻
 ・ 後期に集落が破綻し消滅。その後新たに集落が開かれ、拡大したのは、それまでの狩猟漁労採集に頼らない、別の暮らし方ができたからである。
  しかし、「照葉樹と広葉樹が混交する森の中に植物食料や動物がいた」と文献は語っているが、中期人口25万人⇒晩期5万人。常に飢餓状態だった。つまり、後期前半に動植物を獲りつくしてムラが消滅したのだから、あふれかえるほど回復増加することは決してあり得ない。

 新しい生活の糧は
 ・ 僅かな狩猟漁労と植物採取。それを補う、栽培植物があったのではないか。でなければ、新規開村や、人口増加による集落の密集増加などあり得ない。
  この天候不順な時期、東北から沢山の飢餓難民が南下入植し、御経塚からも東北系の土器文様が出土しており、大きな文化的影響があった。
北陸は、後期に平地式住居が一般化した東北の影響を受け、晩期初頭に平地住居に変わった。

また、各地からの人の流入により栽培植物も増加し、農業文化も発達し、栗の栽培もできたのかもしれない。栗林の成功⇒環状木柱列に繋がったのか?

 環状木柱列 が検出されたのは、チカモリ(八日市新保)遺跡御経塚遺跡米泉遺跡です。 (米泉遺跡は漆器つくりのムラ)
 そのほかの集落遺跡には、金沢市中屋遺跡、白山市長竹遺跡、金沢市中屋サワ遺跡などがあります


引用 建物からみた手取川扇状地の縄文後晩期社会 - 名古屋大学山本直人 縄文後 ・ 晩期集落の存続期間に関する一試行 - 名古屋大学山本直人




 05御経塚遺跡展示館
  野々市市ふるさと歴史館(撮影禁止)  御経塚遺跡に併設する出土物展示館。素晴らしい展示品は撮影禁止のため残念ながらご紹介できません。

右:ふるさと歴史館埋蔵文化財収蔵庫
左:ふるさと歴史館
復元遺跡全景 取手川扇状地全景
下端 取手川 上端 遺跡
取手川扇状地地図 ふるさと歴史館埋蔵文化財収蔵庫、が展示施設です。ふるさと歴史館、は埋蔵文化財センターです。

取手川の戦い:天正5年織田信長と越後の上杉謙信が戦い、織田軍を撃破した戦い。

これによって加賀の国は上杉の支配下となった。
って、関係ないけれど。(笑) 

両者は本国から随分離れたところまで占領していた。驚き

 御経塚遺跡の展示物は撮影禁止ですが、下の発掘報告書に出土物の詳細な図や解説が載っていますので、そちらをご覧ください。少々骨が折れます。

  御経塚遺跡 (342kbyte)    006野々市町御経塚遺跡.pdf ( 138.0 MB )   012御経塚遺跡Ⅱ.pdf ( 88.0 MB )   033御経塚遺跡Ⅲ.pdf ( 154.0 MB )  



 03御経塚遺跡 復元住居跡

  縄文時代後期~晩期(3,500~2,300年前) チカモリ遺跡と同じ円形巨大木柱列の跡がいくつも発掘されている。

  土器石器は多数出土。ヒスイ製の玉類、御物石器や石棒など祭祀遺物は1遺跡の出土量としては全国的にみても大変多い。引用
  遺跡保護のため遺跡全体を隣接地に平行移動して復元している。

  集落は馬蹄形で、中心に祭祀広場を持ち、周囲を墓壙が取り巻き、その外側に住居があった。 
  竪穴住居は寒冷化のため縄文晩期には掘立柱建物、つまり、平地式住居に変化した。後期に平地式住居になった東北地方の影響があった。

  平地式住居には4本柱建物や、6本柱建物や亀甲型建物。円形建物などがあった。

復元住居は一棟。豪雪地の復元住居(十日町)と似て屋根が高くい入り口が長い。 石囲いの中に埋納された御物石器を発見。神聖な呪具であったと確認された。 遺跡の概要 落葉広葉樹の堅果類と食料動物と水場が確保でき、傍の小川に鮭が遡上する環境だった 伏流水が自噴する低湿地の保存穴は冷水によるあく抜きが自然にできただろう 後晩期は植物食が多く、寒冷化天候不順の中で季節の好循環を祈った
土壙墓。集落維持には女性が8人の出産が必須。食料不足天候不順の中、 強さや繁栄を願って奇妙な祭祀が始まった。
抜歯、石棒や土偶による
肉体的試練や、受胎、輪廻再生や、豊穣を祈り、祭祀や儀礼をおこなった 4~6本柱の方形・亀甲形の大型平地住居は、寒冷化や生活の変化がある 南下する東北の縄文人を受け入れ、文化を吸収したようだ。 平地住居も復元を願う
後期の竪穴式住居 かなりいびつな形をしていた 低湿地のため、
炉が沈み込んでいる。
扇状地末端の土壙墓は水が多い。 大形の四本柱方形建物
建築構造は現在と変わらなくなった平地住居
吉野ヶ里遺跡では弥生時代でも竪穴住居だった。
住居が発達しなかった
古代でも日本の多くの農民は竪穴住居だったといわれている。だとすると この平地式住居は、既に千~二千年進んだ住居だったことになる 竪穴建物の内部も吉野ヶ里よりも広く、構造材も太くて木組みも複雑である 西欧の新石器時代建物が平地住居だったのは寒冷な気候のためだった

  縄文人の死生観

縄文人は死者を土壙に葬っても土を掛けずに骨になるまでそのままにしていたのではないかと言われる。死体を忌み嫌わず、生者同様に扱った。
また、死体を長く家の中に置いて生活したり、村の広場に置いたり、中には、内臓を抜いてミイラにして背中に背負って回ったりしたとも言われている。

千葉県の加曾利貝塚出土の「一家族フグ中毒死」・「死体を投げ込んだ」ともいわれる遺跡は、空き家を土壙として次々に死体を投げ込んだものと言われる。

   

                           引用「アイヌ学入門」


 04環状木柱列は
   御経塚・チカモリ両遺跡などから建て直した痕跡が多数発見されています。
   チカモリの案内板には「木柱列は祭祀施設ではなく建物跡だ」と記述されています。すなわち円形建物です。

  さて、
    縄文後期晩期に突然始まった強烈な痛みを伴い、時には死にも繋がりかねないような、通過儀礼は、台湾先住民と抜歯の位置まで同じです。
    このような危険なイニシエーションは南太平洋でも同時期に始まったと聞いています。バヌアツのバンジージャンプナゴールがそれです。

    交流のなさそうな世界のどこかで同じような文化が突然おこるのかもしれません。


台湾の首狩り祭祀場
引用 多納‧茂林深山的魯凱族部落 @ LISA の Go Go Box 痞客邦 PIXNET
台湾の若者宿・寝屋
日本にも昭和30年代まで見られた風習。
若者が集まって寝起きする場所です。 縄文人は台湾少数民族と同じ新石器人であるということから始めた、日本全国縄文博物館の旅ですが、似ているとこ、似ていないところ、様々です。

ただ、地球規模の寒冷化が始まって、縄文後期晩期の文化が、あまりにも台湾と似ていることに驚きます。

何度も言いますが、なぜ、抜歯の位置・順序・理由まで同じなんだ。
しかし、台湾の遺跡はすぐに破壊され発掘例は稀有です。資料が残ってない。

 環状木柱列を私は、最初、祭祀場の立柱を、次に円形建物をイメージしたんだけれど、本当は、なんだろね。色々考えると楽しいからね。

現在、環状木柱列は、付近に土壙や祭祀跡がない場合建物遺構と考えられています。円形建物の近くには方形建物が付随していることがあります。
建造年代は2900年前~2500年前です。
先史文化の円形建物は上記の写真のようなものではないでしょうか。  なぜこんなに台湾先史文化と共通点があるのでしょう。か。くどいですね。(笑)

    引用環状木柱列からみた縄文時代晩期の地域社会 - 名古屋大学 山本直人



 16チカモリ遺跡1環状木柱列  復元環状木柱列 縄文時代晩期(3000~2300年前)
立派な石碑が建立発見当時大変注目された 環状木柱列の発見を驚きをもって伝えている 半割柱(巨大)250本
馬蹄形の集落

柱跡

環状木柱列=円形建物
円形の竪穴住居
6本柱・4本柱の方形住居
植生の復元
 

17チカモリ遺跡2
   環状木柱列は、集落の中央広場付近に8〜10本組みで、直径6〜8メートルの円形に規則正しく線対称に建て並べ、出入り口が付いている。
   平面面積は28~50㎡でかなり広い建物となる。   引用Wikipedia

半割柱の環状木柱列敷地だけを見ると狭く小さく見えるが、 入り口扉状柱建物になってしまうと随分広い。 巨大柱の上に組まれた巨大高床建物は どれほど大きく広かったのだろうか。 巨大な栗材が豊富に入手できる状況だった。 現在、巨大栗材は容易に手に入らない
空中住居に住んだのは村の権力者か、ただの
風葬の台だったのか
 18チカモリ遺跡3
方形6本柱建物巨大な建物遺構 方形4本柱建物これも巨大栗柱である 金沢市新保町埋蔵文化財収蔵庫 初日は休館でした 公開・写真撮影可能 普通の住居は細い柱
豊富な木材資源



 22北陸の土器編年 3種類①~③

 ①北陸の縄文土器編年表

                                                                                引用真脇遺跡縄文館

  ②縄文後晩期の土器編年   引用建物からみた手取川扇状地の縄文後晩期社会 - 名古屋大学
   土器形式名  年代(年前) 建物形式   
後期後半 馬替式
酒見式
井口Ⅱ式前半
井口Ⅱ式後半
八日市新保式
3800~3700
3700~3500
3500~3400
3450~3350
3350~3300
・未検出
・未検出
・石囲炉検出
・竪穴建物検出
・竪穴式極端に減少、掘立柱建物出現、  方形建物出現
※後晩期には東北や新潟では寒冷化
  により掘立柱建物が普遍化した。

 ※円形建物は環状木柱列のことです
晩期前半 御経塚式
中屋1式

中屋2式
中屋3式
3300~3100
3100~3000

3000~2950
2950~2900
・竪穴式建物が消滅する
・掘立柱建物・平地式住居、円形建物、亀甲型建物出現
 〃
 〃
・3200年前頃寒冷化が強くなる
・寒冷化と東北地方の影響を受け
  掘立柱建物・平地式住居に変化
・2900年前頃寒冷化が強くなる 
晩期後半 下野式
長竹式 
2900~2800
2800~2600
・掘立柱建物
 〃
 

近畿・北陸・新潟・中部高地・関東地方の
後期晩期の土器編年


引用縄文後 ・ 晩期集落の存続期間に関する一試行 - 名古屋大学


 チカモリ遺跡展示館
 金沢市新保町埋蔵文化財収蔵庫

   縄文初期は寒冷だったが、早期の終わり頃から気温が上昇し始め、温暖な気候となり、海・山・平地の豊かな恵みで規模の大きい集落を営み、
   縄文前期中期を中心に数千年にわたって花開いた時代となった。

   後期晩期には寒冷化し、呪術性・祭祀性の強い遺物が増加。石鏃・石錘の狩猟・漁労採集具が減少し、打製石斧が増加。植物食採集に依存した。


  25縄文時代中期 他の遺跡の出土品です。温暖豊穣で人口増加。未獲得資源が豊富だった夢の様な時代の頃。
縄文後・晩期は呪術・祭祀性が強い。狩猟漁具減少し打製農耕が増加 縄文時代中期 古府遺跡 朝日遺跡

国府式・朝日下層式の標識遺跡です
石鏃 北塚遺跡 皮なめし具スクレイパー
石匙・摘み付きナイフは
北方民族のウルです 
磨製石斧 木柱を三つ割りするには大形クサビの磨製石器府が必要だった
 26縄文中期
古府遺跡 笠舞遺跡 朝日遺跡 笠舞・古府遺跡 古府遺跡 古府・笠舞遺跡 夕暮れの縄文ムラ 古府・笠舞遺跡

古府式
煮炊きによって食料増加。栄養が改善
背面パネルは
複合型の炉です。
有孔鍔付土器 土器形式の革新地
中部地方の土器多し
これは甲府近辺の土器ですね 移住か婚姻かで
遠方から交流が濃厚にあったようです
 27縄文中期
注口土器 笠舞遺跡
後期晩期に登場するが
この薬ってこれのこと
中期に注口土器
亀ヶ岡式注口土器は
後期晩期
これらは形式が違う
左の土器模様 
右の紐掛け付き土器
紐掛け土器は土器棺
北塚遺跡の深鉢は何式だろう  中期の縄文文化華やかな頃に、全てのコンテンツが登場しています。
 28中期
吊手土器 釣手土器縄文時代中期 笠舞遺跡 中部高地・関東・北陸に多く勝坂式土器。後晩期に大洞式で復活する 浅鉢 中期東市瀬遺跡 小型土器 深鉢中期 笠舞遺跡
これは中期に一般的?
吊手土器・釣手土器
 
 真脇遺跡ではランプ型土器としている。
 北陸ではランプ、明かりとしているのかな

 香炉形土器。蚊遣器(蚊取り線香のブタ)。など

 甲府地方、関東、東北に多い印象がある。
 長野は南、東、方面だと思う。

 新潟では住居内での信仰の対象だった 
 28a中期
縄文中期 浅鉢
東市瀬遺跡・笠舞遺跡

縄文中期 笠舞遺跡
小壺 器台
縄文中期 笠舞遺跡
小鉢
縄文後期 東市瀬遺跡 縄文中期 笠舞遺跡
東市瀬遺跡
縄文中期 笠舞遺跡
東市瀬遺跡
縄文中期 笠舞遺跡、古府遺跡、笠舞遺跡 深鉢 北塚遺跡 中期 深鉢 笠舞遺跡 中期 深鉢 中期
 29中期
石皿・磨石・敲石粉砕・製粉・練り上げ、繊維の軟化や 鉱物の粉砕、粉末化、赤色顔料の利用など 石錘・凹石  石錘
  切れ目石錘―円礫の両端に綱掛け用切り込み  
    有溝石錘―円礫に溝を巡らす

 凹石の予想される用途
 ・石皿同様用途だが、クルミの殻割など飛び散らないように
 ・火きり杵の上端を押さえる役割。これを「火起こしの口受け」と                                 言います



 34チカモリ遺跡出土土器  縄文時代晩期

収蔵庫には大量の展示物があります。 深鉢、浅鉢、壺、長胴壺 スクレイパー
肉切りナイフ。北方民族の女性用ナイフが同型金属製で現在も使用される
剥片石匙・摘み付きナイフは丸ごと煮込んだ食物を切りながら食べるための物 石鏃大きな石鏃でイノシシや鹿用ですね。いろいろな形状が混じっていて 石鏃多地域からの影響がみてとれる。秋田博物館ではアーモンド形のみだった
擦り切り石器 石錘 玉原石 オパール 磨製石斧 後期晩期 御物石器皇室所有の石器 リンク 明治初期、本願寺法主から天皇に鯉の置物一対として奉じられた。 皇室所有の意味で御物石器と札をつけて展示
以後同形の物をそう呼ぶ
?石棒か鰹節形石器か 石冠 (北海道式がなぜ?
男性器の呪具だった
石刀・石棒 これらも
男性器の呪具だった
大量の打製石斧農耕型
・磨き石
御物石器の画像

大量の打製石斧はもう
石鍬と言ってもいいかも

  後期晩期の寒冷化により動物減少、あるいは獲りつくされ、また、東北から大量の移住者が南下し、いろいろな文化が混じってきた。

  植物栽培
  縄文中期から沢山の植物が栽培されていました。
  アズキエゴマウリヒョウタンゴボウetc 後期には栽培された引用  ヒエの栽培


  反省 ここの写真は、はっきり言って失敗ですね。
      展示室の片方に中期の土器。反対側に後期晩期の土器があり、後期晩期の方をしっかり撮っていませんでした。だめですね。
  ここの遺跡は後晩期が大切なんですよね。馬鹿ですよね。私は。


 41木材保存プール  樹脂で固めると炭素同位体検査やDNA検査などができなくなるため、このように保存する必要があります。
木柱根78点を保存 植物は縦に通った繊維セルロースを糊グリシンで固めたものです 長年の間にセルロースだけになっているので乾燥すると干物になる その為、水の中で保存するか、樹脂を水の代わりに含浸させて固める とにかく巨大な樹木を豊富に使うことができた世界だった
樹脂を含浸させた材
四年掛ったとどこかに
信州御柱祭りと同じ運搬手法で運ばれたため、 材には同じ穴や溝が掘られている どちらも縄文の祭りです
巨大柱穴の発掘風景
まるで巨人の住居跡の発掘みたいだ

  信州御柱祭と同じ木材孔
   同じ曳き方。御柱祭は縄文の祭りである。 また、ただの運搬用穴で、いつの世でもここに開ける。普遍的な孔なのかもしれない。




 51弥生時代
   弥生期には縄文人の痕跡が途絶え、全て半島人の痕跡に置き換わってしまう。
   縄文人は、全て切り殺されたか、追い払われたか、土器すら作れない (奴隷) 状態に自由を奪われたか


 52金沢市 寺中遺跡(じちゅういせき) 弥生時代中期
弥生土器に櫛目模様所有者を表す記号か 土壙墓 甕と壺 石川県の稲作は弥生時代前期末頃始まった 高畠遺跡 弥生後期 西念・南新保遺跡
弥生~奈良・平安の遺跡
壺-貯蔵、甕-煮炊き 高坏-捧げる 器台-土器の台 鉢-盛り付け
取っ手付き壺、鉢、甕 壺、鉢、握手付き壺 高坏 高杯 優雅な高坏に盛って食べたのは半島人で
農奴となった縄文人は、
家畜の餌のように、木地鉢に入れられた食糧を手づかみで奪い合ったのかな。
  54南新保町遺跡 弥生時代後期~古墳時代初期
近畿・東海の土器出土 台付装飾壺/壺を載せる器台を壺の足と誤解して 作った土器。模倣伝達が絵図で行われたため
台付き壺 装飾器台 装飾器台 小型器台と鉢、器台 壺、高坏 壺、鉢、台付鉢
器台  台付き壺は北陸だけで起こった誤解。

 面白い現象から当時の情報伝達の方法がわかりました
弥生人が縄文人を支配して何百年。
弥生人もまた、古墳人に支配される時代となった。   


   60古墳時代
  61
古墳時代前期左端のようにパッカン
と割れやすい。
革袋型土器、蓋
弥生時代は開拓と農耕文化の基盤整備の時代

生産が軌道に乗り、経済的自立ができると
農業経済を基盤とした国家の建設が始まる。 朝鮮式農奴制の上に王権を築こうと群雄割拠 しかし、そこに新たな武力集団が統一支配に来た
寺中遺跡の方形周溝墓や井戸など弥生古墳 庶民の土師器と官僚の須恵器が出土 二口六丁遺跡/庶民の生活痕跡が出土 須恵器は5世紀中頃朝鮮人陶工によって作られた 羽咋市歴史民俗資料館の胴に穴開きの土器は 円窓土器でなく「はそう」でした
高畠遺跡/後期と前期 二口六丁遺跡古墳前期 それが、中国で始まった石室墓制の文化を持った騎馬武装集団だった。
 弥生時代にも馬具は出るが、古墳時代の比ではなかった。 
騎馬民族ではなく、騎馬を多用する武力集団

 半島から来た王族が短期間に中央を支配し、古墳造りから全ての文化を管理・指導始める。

 この時期の半島も小国乱立の時代
   そのどの国かからやってきて、大量の馬と鉄器と軍船で一気に浪速を支配した。(こんなことはなかった2019.1.23)
   そして、言語・文化の統一を行い(奈良時代)、古墳や埴輪・土器の作り方まで指導した。

   だから、方言のきつい青森でも、与那国島でも母を同じような言語で言うのだ。


  62横穴墓 岩出横穴古墳群 古墳時代後期  横穴墓には、古墳時代の追葬の集団墓・一族墓と、仏教の流布で古墳造営が禁止され、
                                ために、崖に横穴をうがったのとがある。ここでは前者を対象にしている。
支配者階層の古墳に対し朝鮮半島から来た武人・傭兵の墓。高句麗人。
と西都原では聞いた。
九州、和歌山県、北陸に多い。
土師器・須恵器の副葬品
鉄剣・鎧兜の武具がないのは、武人じゃないか
なくなったかですね。

落書きの発掘時代(笑)
縦長の顔の半島人ですね。骨が大きくて頑丈
縄文的特徴は全くない
・弥生の開拓期の人々が支配して何百年。
・次に支配した古墳時代人が何百年。
 中央集権国家を築いていた。

 このあと攻め込んできた戦乱期の半島人にとっては、
 列島人は自分たちの祖先であるとは考えず、
 全て支配し搾り取る下賤の者だった。

 半島からやってきた別の半島人だったからだ。

 この時中央政権の者は東北地方に逃げ出した。
  63古代 奈良・平安

才田御亭山古墳
寡占化した支配階級によって政治が行われ、支配権をめぐる政治闘争が繰り返される 井戸跡
荘園の出現は律令制の崩壊。都の特権階級や
地方豪族の館
地方領主が莫大な富を手にし、経済的に天皇を圧迫した。

古墳時代の逆茂木あと
防衛装置だった
 このようにして、
 縄文人も、半島人である 弥生人・古墳人も
全て蝦夷 (エミシ=蛮族) と呼ばれることになった。

エミシ=アテルイ=アイヌという思い込みは間違い。
支配階級以外は全てエミシ。奴隷・下賤の者だった。漢字は同じだが意味・読み方・時代が違う

   ただし、中央からエミシと呼ばれ、さげすまれた人々の間でも、縄文人・弥生人・古墳人、古墳中央政府人では互いに対立的立場にあったようだ。
   互いに下賤のものとさげすみ合っていたようで、千年たっても、縄文人と弥生人は融合せず、古墳人は支配者寄りだった。


  64末古窯跡群 奈良~平安の須恵器の窯跡群  陶(いみ)⇒須恵(音)⇒末(当て字)って ひどく簡略化されたなぁ。意味が違ってしまってる。
大阪陶村の窯元も かなり早く生産を終了 各地は土師器を中心に 地元土器で繁栄した。
 官僚を派遣するために地方に文化を移植した。
沢山の技術者を列島各地に送った。

  65古墳時代の装身具
管玉、勾玉、臼玉 玉の製作行程 弥生時代の石鏃 玉の原石 なんだろ。タイ産干しイカ
  66弥生・古墳の日用品
鉄器・銅鏃 弥生 小型柱状片刃石斧
太型蛤刃石斧
砥石 弥生古墳 石包丁 弥生古墳 打製石斧 弥生古墳 機織り道具 古墳 木製皿、曲げ物の底、杓子、ヘラ状木製品
高坏形木製品 木製農耕具 木製農耕具系統図大変珍しい表 泥除け付き鍬はないが 鍬・鋤 泥除け式鍬・ふぐし・鋤・鍬 鎌の柄
竪杵たてぎね すき・くわ類 たもあみ枠木 土錘 火きり杵火きり臼 たも 枠 舟形木製品 呪具
けがれ流し
北海道でも舟形木製品が出土します。
盛り付け器となってる
熊手の柄 ねずみ返し 穴開き矢板、矢板、角材、有頭木製品穴開き棒 板材 古墳前期 石臼いしうす 泥除け付き鍬は大変な発明で鋤簾じょれんで泥水を耕しても泥がかからない

 67階段に置いてあった大型土器
有孔鍔付土器
縄文時代後晩期

大形の壺
弥生時代終末~古墳時代
 
 まとめ

北陸・石川の土器編年がわかった。 詳細な写真や図はないので必要な時には写真を探さねばならないが。
建物形式は、後期には東北・新潟は平地式住居。北陸は晩期に竪穴住居が消え、平地式に変わた。これは、寒冷化と沢山の東北人の南下が原因で
  ある。


 以下黒字の記述は間違っています2019.1.23

 ※確かに人が住めなくなって逃げだしたところに住み着いて、どうやって食料を獲得したのだろうかと思います

 この時期の北陸人は、西日本へ大量移住しています。一方で東北からも大量の移住者が出ています。彼らは、寒冷地での生活に慣れていて、
 北陸人が逃げ出したところでも、住むことができる知恵を持っていたのだろうと思います。
(だから東北式平地住居が増加したのでしょう。)

 彼らは、植物や動物利用の達人だったのではないでしょうか。

  例えば、弥生時代前期後半に寒冷化したとき、東北から逃げ出した弥生人の集落に
 北海道アイヌが住み着いて何百年も生活していました。寒冷地生活に適応しているかどうかの違いだったのでしょう。



後晩期の生業は農業ではなかったか。
後期前葉に生活できなくなり、消滅した集落跡にやってきて定住出来た人々とはどんな新しい技術を持っていたのだろうか。

彼らは寒冷化と飢餓の進む縄文社会で狩猟漁労採集に頼らない新しい生活を切り開いていた。それは農耕 (間違い2018.1.23) だったのではないか。
地下水位が高く、自噴するようなところを好むのは、そのような土地に適した植物を栽培していたからではないか。

後晩期には狩猟・漁労具が減少し、打製石斧が増加している。慢性的飢餓状態の野原で生きていくには栽培しか残っていない。
野菜を食べても生きて行かれない。穀類やイモ類のでんぷん質を摂らなければ死んでしまう。

   ・後晩期の生業は農業ではなかったか。(農業ではありませんでした。)
     
   ・栽培植物は何だったのだろうか
       低平湿地の植生と食用植物 - Seneca21stでは、ヒエが食用植物としている。古代には貴人が米を食い奴婢が粟稗を食うのが決まりだった。
       私は、田イモ・里いも・ズイキイモなど、湿地に育つイモ類が有力でないかと根拠なく思います。現在も福井県は里いもの主生産地です。

       この芋はアクが強く、有毒のもある。昔は山野に自生している物は毒性が強く手で触るとかゆくて困ったが、今はよい品種のものになっている。
       栽培種の田芋が渡来したのは米よりも古く縄文時代後期以前となっている。

   ・分家した集落間の距離と生業

      御経塚遺跡から分家した多数の集落は1㎞~3㎞程度の距離にあり、 これは、縄文人猟師の罠猟の猟場としてはほぼ一人分の範囲です。
      そんな狭い範囲で得られる収穫は僅かです。また、この地域には沢筋が何本もあったことから、鮭の漁獲もあったようです。

      これも一人当たり2、3千匹必要なので集落全体としての必要漁獲量も計算できます。しかし、これらは交易品や保存食です。
      どちらも冬の食料調達にすぎません。

      それ以外に日常の植物食が必要です。半径1㎞~3㎞の領域ではたちまち食べ尽くしてしまいます。やはり栽培植物に頼ったと思います。



   ・環状木柱列は円形建物の柱だった。この上に暮らしたのがどのような人だったのかは、解けない謎でしょう。


                          引用 「アイヌ学入門」 「北方狩猟民の民族考古学」