[戻る][TOP]


   北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて03  2014.05.21(水)

  真脇遺跡縄文館 石川県鳳珠郡能登町真脇48-100 0768-62-4800  月・火曜日休館 開館状況


  時代 縄文時代前期前葉~晩期終末(6千年前~2千年前)の4千年間連綿と集落を営み続けた稀有な遺跡です。

  注意 この博物館は全て本物・実物が展示されています。

  交通 レンタカー。トヨタレンタカー七尾店0768-26-8100。他店は予約すると金沢から車を運んでくる。予約必要。

  見所 環状木柱列、彫刻柱、海獣・イルカ・クジラの追い込み漁痕跡、お魚土器(真脇式土器)、鳥さん土器(新保式土器)、土面

  失敗 疲労困憊で帰路は居眠り。死ぬとこだった。

    編集しながら気づきました。展示物のキャプションにほぼ年代が入ってない。4000年間のいつかがわからない。要注意

  2015.05.04 その後わかったことを追加記述します

  真脇遺跡ではイルカの頭骨を並べて祭祀を行っています。
  これとよく似た祭祀を行ったのが、縄文前期東釧路貝塚遺跡です。  イルカの頭骨を半円形に、放射状に並べた祭祀跡ですが、
  これとよく似た祭祀を行ったのが、4200年前のホットスプリング集落遺跡群 (アラスカ半島ベーリング海側のポート・モラー湾) です。
                        引用「環北太平洋の環境と文化」
   時間的なズレが見られます。

   ちなみに、山梨県金生遺跡から幼獣のイノシシ下顎骨が大量に発見されたのは、仔イノシシを飼育して送るイノシシ送りの儀式があったからです。
   同じことは伊豆諸島でも、北海道でも行われました。これらの地方では本州から仔イノシシを交易してこの儀式を行いました。
   北海道苫小牧市柏原5遺跡からは40頭分も出ました。

   このイノシシ送りがやがてシマフクロウ送りやクマ送りに変わって行きました。    引用「アイヌ学入門」   以上付け加えました。






台湾の首狩りの首置き場
壁の穴に置く
首狩り祭祀の祭祀場
祭壇と言うべきでしょう
引用 多納‧茂林深山的魯凱族部落 @ LISA の Go Go Box 痞客邦 PIXNET


 環状木柱列  結論を先に言います。
謎の遺跡として広く興味を集め、私は台湾の首狩り祭祀の祭壇かと思ってました。しかし、円形建物の柱穴であると結論付けられていることを知りました。

先史時代から
台湾では太い孟宗竹で円形の見晴し台の様な建物をつくり、そこを若者宿(わかものやど)とし、集落の結束やルールを培う大切な風習がありました。
若者宿の風習は日本でも、昭和30年代まで行われていました。やはり、集落の結束に欠かせない通過儀礼でした。
※若者宿は、風習か、制度か、慣習か、伝統か、ちょっとわかりません。

※若者宿は、風習か、制度か、慣習か、伝統か、ちょっとわかりません。

※沖縄県先島諸島のもっと先から始まる「南洋の来訪神」は日本海側を通って秋田まで続き、南方とは超古代には密接な繋がりがありました。
更に、縄文後・晩期に現れる抜歯などの通過儀礼は歯を抜く位置を含めて台湾新石器人と全く同じです。
この時期、沖縄本島の西、先島諸島は台湾文化圏でした。リンク先は大変よく研究し、資料の集まっているページです。最下段まで見てください。


台湾少数民族の原住民会館では、伝統的な暮らしを保存展示しています。 先頃この少年宿(会所)を復活させた部族がいました。 左は円形建物、少年会所
右は方形建物、青年会所
別の部族の少年会所
 すぐ傍に方形青年会所
青年会所 中には炉とベンチや、古い銃や山刀がありました


 環状木柱列

確認された環状木柱列は、富山県小矢部市桜町遺跡、石川県能登町真脇遺跡、金沢市近郊のチカモリ遺跡、米泉遺跡、御経塚遺跡(木柱根未検出)

環状木柱列の建造年代は、全て2900年前~2500年前の間です。この時期は縄文時代晩期 (3000-2300年前) にあたります。

建設の目的は、祭祀場や祭壇ではなく、円形建物でした。これに隣接して方形建物が出土することがあります。
建物は老朽化してもそのままだったので柱根が残りました。
同じ場所に立て直すと前の柱が邪魔になるので引き抜くか、地上部を切り取るか、しないといけません。

それをしていないということは、新たに別の場所に建設し、また巡って同じような場所に建てられたのではないでしょうか。

建造の背景 縄文晩期の、度重なる太陽黒点の減少による寒冷化の環境圧力。
    2930年前に北部九州に半島人が流入し、稲作農耕の開始。先史時代でも海の道で密接に繋がっていた)
東北地方からの文化的圧力。大洞式土器の流入。つまり、東北人が大量に南下流入してきたこと。

など、変動する環境に対し結束を必要としたため。としている。
  引用 環状木柱列からみた縄文時代晩期の地域社会 - 名古屋大学 山本直人 縄文時代晩期における気候変動と土器型式の変化

  富山県桜 町遺跡ではイギリスのウッドサークルを真似た復元がされていますが、間違いです。
    また、この遺跡ではほぞ穴のある木材が出て、掘立柱建物だと解釈して復元し、長い間展示してきましたが、国の指導で取り下げています。
    ※日本のストーンサークルや環状木柱列は、イギリスのものとは全く関係ありません。日本独自に発達しました。

    しかし、規則性のない柱穴や四本柱などは建物ではなく、土壙墓の墓標や村のあり場所を示す標柱の場合もあります。
    なぜ、最初に結論を言ったかは最後に記述します。



 縄文人は
    シベリアから、朝鮮半島から、台湾沖縄経由でスンダランドから、来ました。
    特に南方系縄文人が多かったようで、彫りの深い眉の盛り上がった原モンゴロイドでした。つまり、アイヌ民族とおなじです。

 真脇遺跡同時代の富山市の小竹貝塚が発掘され、大量の南方系・北方系の人骨が出土しました。彼らは一緒に暮らしていました。
    この時代は背の低い顔クシャの南方系縄文人が一般的です。原モンゴロイド
    大柄で寒冷地適応した平べったい顔族の北方系縄文人は、ツングース系で、エスキモーの様な顔の人々でした。新モンゴロイドです。

 真脇遺跡からは、
    前期モンゴロイドの村だったらしく、出土した土面の顔がよく似ていますが、より詳しく、人骨のDNA検査の結果が知りたいですね。
    もしかしたらここにも北方系 (後期モンゴロイド) が混じっているかも。


 01外観  遺跡の環境
村境になんだか大きな顔が置いてある。
地域のシンボルか?
これが縄文の土面
真脇縄文館雨の視界不良と、不慣れな長距離運転で着いた時にはヘトヘト ほんとに地の果て程遠かったと感じる 実験考古学です
石斧4339回打込んで切り倒せたそうです
杉加工実験 割る、削る、刻む
この他多数の実証例
真脇航空写真手頃な湾で住み易く漁がしやすい これまでの発掘範囲
まだ全体の3%です
今後が期待できます

真脇遺跡の巨木の環状木柱列の柱(直径88㎝)を切り倒すのには、石斧を何回打ち込み、何本斧柄が折れ、何日かかったのでしょう。
想像してみると、途方もない作業です。しかも、5本の栗の木を、身長155㎝の人が。硬い枝をはらうのも石斧。しかもこんな巨木はどこにでもありはしない。

あちこちの山中から切り倒して雪を利用して運んでくる。しかもその栗は、縄文人の大切な食料ではないか。
よほどこんな木が沢山あったか(ナイナイ)、食料は多ければ多いほどよい。食料が満ち溢れていたのか。そんなこともないよな。

なにか、やむにやまれぬ事情があったのか。栽培していた栗の木だったのか。
材は三つ割りにして利用していた。巨木を簡単に三つ割にはできない。高度で手の込んだ加工。普通は邪魔くさいので細材の丸太で家を建ててしまう。


栗の木は虫が付きやすく枯れやすい。虫穴だらけになる。育ちにくい。こんな立派な材はめったにあるもんじゃない。そんな想像巡らせながらご覧下さい。


 02真脇遺跡の位置  真脇と同様に日本海に突き出して、丸木舟の避難港や風裏にあたる天然の良港は先史時代人も利用し、遺跡が多く栄えていた。

真脇遺跡

若狭湾
超古代とは地形が変わっているが、出雲地方
秋田にはなまはげが漂着
十三湖以南に良港  十三湖付近は天然の良港が多く、中世には一大貿易港だった。今は砂に埋まっている。

 縄文後期晩期には
亀ヶ岡文化発祥の地で繁栄した

 津軽半島西側は旧石器から連綿と遺跡の残る先史文化地帯である。
真脇遺跡は 能登半島先端の内側に位置し、波穏やかで魚の回遊経路にあたり、
気候変動にも変わることのない豊富な漁獲の得られた豊かなムラでした。
従って、縄文時代前期初頭約6000年前から晩期終末約2000年前まで、4000年間も続きました。
 
環状木柱列 の真脇遺跡ですが、ここでは、桐の花の頃にイルカの追い込み漁をしていました。
日本の遺跡でも珍しい立地と生業の遺跡です。(他にも太平洋側にもあります)
そして、このイルカ漁は、なんと昭和30年代まで、6000年間も続いていました。


 03海獣の骨  イルカ漁のムラ
真脇遺跡の特徴木柱根・彫刻柱・木製大皿・櫂・編み物・縄・人骨・魚骨・海獣骨・イルカ骨
大量の土器・石器。仮面・土偶・石棒・ヒスイ玉
骨角牙器
イルカ・クジラのひれ紀伊半島でマグロ漁の町へ行きました。 加工場の前には大量の残渣が捨てられていた。

うちの近所のスーパーではマグロのカマなどを高価な値段で売っているのに。
狩猟対象のイルカ・クジラ類   従業員に聞いてみると、びっくりして、そんなものは売り物にもならないし、食べたりもしない。とのこと。

  うわっ!わたしゃカマを買って焼いて食べたよ。

 同じことが縄文の真脇でも起こっていたらしい。
刃物は何かわからないが、ひれや頭など、アラは、
鋭い刃物で大雑把に切り捨てていたようです。

 切り身だけを贅沢に加工して、どのように保存交易したのでしょう。連結土坑は出ていない。
 季節は5月で寒風にさらして乾かすこともできない。
 04
ひれや背骨や頭は 上手に解体してそのまま捨てたらしい。だから原形のまま出土した。 石器は僅かに展示しているが、大型の銛や刺突具、石錘、大型石槍など 解体痕のあるイルカの骨 海棲動物の量が多く、珍しい動物も普通に狩猟。 海獣狩猟は北方系の高い狩猟技術が光る。
ほんとに北方系はいなかったのかな。

  真脇遺跡の石器 館では展示されていなかった。 磨製石斧やスクレイパー(石匙)はイルカの解体にやくだったでしょう。
真脇遺跡の骨角器 骨角器はその性質の柔軟性から針や釣針や、石器を作る道具。鏃。鍬、、いろいろなものに使われました。




  真脇遺跡の住居跡

真脇遺跡では中期の貼床住居跡が見つかっています。低湿地のため、竪穴住居ではなく平地式住居でした。
湿気を防ぐため床一面に凝灰岩質の粘土を敷き詰めていた。この粘土は空気に触れると黄色くなる性質で、床面は黄色でした。 引用

低湿地では、じくじくと常に水の浸み出し、ブトや蚊、蛭やムカデの這い回る、マムシなど毒蛇も多い危険な土地。
どうやら土地は常に沈み続けていたようで、炉からは水が浸み出して火を燃やし難くなったようで、炉底に土器片を次々と敷き続けたようす。

たいそう住みにくい土地に4000年も住み続けた。驚異的ですね。


 05イルカ・クジラ類の頭骨 祭祀を行ったと考えられている

カマイルカ頭部 マイルカ・ハンドウイルカ ハナゴンドウ
・オキゴンドウ
ゴンドウクジラ
ナガスクジラ
アカボウクジラ
キルサイト全体 追い込み漁想像図湾が小さく追い込み易い
   クジラの骨やイルカの頭骨を並べて祭祀を行ったような跡が出土している。


06出土動物遺体
ニホンアシカ・トド・柴犬
オットセイ・日本カワウソ・アビ
ホンシュウジカ・イノシシ マダイ・クロダイ・コブダイ
カツオ・クロマグロ・アカエイ・マサバ・スズキ・マフグ
90%がイルカ。大量の肉とその他利用可能部位が多く食料豊かな村 この地域では実は、昭和30年代まで漁をしていた 植物遺体種名表温暖→冷涼や資源の枯渇が見て取れる
植物遺体種名表犬の骨がゴミ捨て場から
食べてたら北方民族
北陸の縄文土器編年表  土器形式からその時代どこと関係が強かったかがよくわかる。  この豊かで食べ物に困ることのないムラ。
 どんなに他の地域が天候異変や獲物の減少に困っていても。

 まるで食べ物の上に巣を作ったアリのように食べ放題バイキングの様な暮らし。
 飽食の村だったんだ。

まだ、舟も、石錘も、漁具の出土もないのが不思議だが。

 意外に苦も無く食べられたようだし、危険も少ないし。
真脇の石器群

 11彫刻柱トーテムポール  2.5m謎の彫刻柱
三段に分かれた彫刻 上段は腐食激しく不明 中段は縦長楕円と三日月が左右対称に
子供の落書きみたいな
下段は連弁状の切れ込み 動物彫刻がなく、アニミズムのトーテムポールでない 上部を見た限り、彫刻の名手。台湾先住民のによく似ている
上部は男女。中下部は別の内容を刻み、 全体として何かを表しいてるとか、、 いい感じのオブジェです


  イルカ祭祀

鯨の骨を中心にイルカの頭骨を並べ、祭祀を行ったような痕跡が見つかっている。 (引用「縄文人の能舞台」)
彫刻柱は、イルカ送り祭り (イルカのイヨマンテ) のトーテムポールではないかと真脇縄文館は言う。

瀬川拓郎氏は、 縄文期の日本にはイノシシ送りの祭祀があり、飼いイノシシを殺してイヨマンテをした。
  イノシシのいない北海道では本州との交易で仔イノシシを手に入れて飼育し、イノシシのイオマンテを行っていたという。
ちなみに、それが熊送りになったのは本州が弥生時代に入り、北海道とは隔絶されて仔イノシシが入手できなくなったからだ。という。

  縄文人のアミニズム信仰から、イルカ漁の霊送りの彫刻柱と考えていいのだと思う。すると、彫られていたのはイルカの神でしょうか。


 12土壙墓人骨 中期前葉~中葉
湿地に土盛りで土壙墓
下から浸み出す水のため板を敷いた。特別な場所
特別な人を葬った場所
温暖で漁業最適期
一号土壙墓。大変大きい 周囲に沢山の土壙墓がある中で、この四体だけが埋葬時期は異なるが板敷だった。 赤い漆装身具
イルカ肉との交易品か
赤い漆装身具
何処の漆製品でしょう
赤い漆装身具
この特徴的な形は
千歳か恵庭の博物館で見ましたね。
額飾りに似ている
写真のせいかも。
色が褪せている
歯の遺体 カルシウムの多い食糧事情の土地柄。頑丈な歯をしています 写真ボケ 土壙墓全景 歯と赤い漆塗り装身具との位置関係

  館では、この人骨のデータが詳しくされていない。  二号墓の150㎝長径は屈葬の時代大きすぎる。もしや大柄な人の埋葬か。
って勝手に想像は禁物。身長155㎝の人が仰臥屈葬で埋葬されると、墓穴って凄く小さいよね。っていう意味。


 15土偶
  以下の土偶・装身具は、上記の土壙墓周辺から出土した非日常品で、石棒・土偶・人型ペンダント・滑石製耳飾り・玉など、捧げ物、祭祀用品でした。


このような土偶が重文であるとは驚きです。
場所的に珍しいのかな
すみませんここではどうしも反射でまともに写真が取れません。 おかしな位置でごめんなさい ごく普通の板状土偶
なぜ重文なんだ。
製作年代が古いのかな。 年代が入ってない。
わからない。

 16装身具  
竹ひごを糸で編んで、薄板で挟んで漆で固めてある。高度な技術。
結歯式櫛
装飾の少ない耳飾り 石製玦状耳飾り。管玉は糸魚川製?
 壊れた物の二次利用品の垂飾
人形ペンダントひとがたペンダントは初見。
糸魚川産では見たことがない。どこの産品でしょう
穴開き石玉などは糸魚川産で、早くから玉製品を作っていたのでしょうか 結歯式櫛は、出雲製?
東北製?北陸ではまだ作っていなかった。
福井産櫛はこれじゃない
  出土した竪櫛は晩期のもので、ベンガラで赤彩しています。歯は失われていますが、竹ひご状のものを結わえていることが、X線検査でわかりました。


 17編み物
他の写真がありません。すみません。 大変緻密な編み目で、細かなものを対象。
山菜取りや、エビをすくうのに便利かな。


 20縄文土器
 21お魚土器
  大きな筒型の波状口縁と粘土紐による細かい装飾が特徴的な土器。筒型の特徴的な口縁を持つ土器は関東から東北まで東日本で広く出土するが、
完全なものは真脇だけ。・・・関東の土器が能登半島の先端にまで及んでいたんだ。という驚き。

花弁状の口縁は北海道や東北でも見ました。
芸術家の作品です

縄文時代 前期末葉
真脇式土器
魚の頭と口、お腹を表している。三角は波。 口縁の内側もきれいな仕上げ。貼り付け粘土紐に鋭い刻み模様が施され 魚の口を模した装飾は実に高度な造形です 口から伸びる縁にはウロコか、魚の歯を模した模様がアレンジされている 鋭いヘラで二重線彫りし、浮き上がった囲まれた部分に膨大な刻み模様
火焔土器とはまた違った緻密、写実、想像力にあふれた作品。 最初に施した縄文の上に貼り付け文と、磨り消し文。 この美しいフォルムは煮込みに適し、干し肉を煮戻すのに最適でしょう 漁家のおばちゃんの作品とは思えない芸術的作品縄文人の芸術センス高さ 愛称「お魚土器」 さかなです!

 22鳥さん土器 
  飯茶碗ほどの小さな鉢。半分に割いた細い竹管で器面に押し引きの幾何学的な模様が描かれています。動物を形象した装飾突起が付けられており、  目は赤く彩色されています。この突起は鳥あるいはマムシを象ったものと思われ、この時期の土器にまれに見られるものです。煮炊きのための
土器ではなく、何か特殊な用途に使われていた可能性があります  引用

縄文時代 中期初頭
新保式土器
鳥の首を取っ手代わりに持ちそうになるがその痕跡がない。祭祀具 水鳥も狩猟の対象だったのでアニミズムの表れか 見事な造形です。鉄の刃先のようなへらと器内部のきれいなカーブ 魚油・鯨油を入れて燃やしたものではないようです なんだろうこれ

 23 土面仮面の祭り 土製仮面 縄文時代 後期前葉気屋式期  仮面のまつり - 国指定史跡真脇遺跡   引用
アマメハギは小正月の来訪神。南太平洋から沖縄九州能登秋田東北太平洋側にまで日本海流に乗って拡散した民俗 アマメハギの風習の残る地域と土面の出土が一致するとは、アマメハギと同様の祭りは縄文の祭り 南の仮面神が漂着し、土地土地に合った祭祀と名称に変化した。真脇人は南から来たことになる。 暫く前まで続いていた
糸満漁師の追い込み漁は、真脇イルカ漁に酷似
石川、富山、能登半島付近では、多様な形質の人骨が出土している。 土産物の復元土面。沖縄南西諸島の老人の仮面とよく似ている。

 来訪神、まれびと に詳しいホームページ
  
  視点・論点 「日本列島で"まれびと"と出会う」  【閲覧注意】 マレビト 【来訪神】 : ナルキッソスの黄昏 歴史雑学と ...

来訪神の民俗学 - 専修大学  高神と来訪神の混交: 与論島クオリア 沖縄の草装神と仮面神 - 沖縄県立博物館・美術館 沖縄の祭りの仮面

諏訪春雄通信 51 など、研究報告はたくさんあります。

 沖縄諸島では豊年祭に訪れる来訪神が、本州では小正月にやってくるようになっています。 その訳を、民俗学的見解を知りたい。



 25縄文土器

煮込み用深鉢はわかるが、取り出した熱い食べ物をどうやって食べていたのでしょう。個人用の皿とか埦とかないし、手に持てないしな。
葉っぱに盛るって、、そんな大きい葉っぱはいつでもどこにでもないし、、それに、煮立った土器からどうやって取り出したのかな。ふしぎだよな。

このような道具は日常最もよく使うもので、沢山作られ沢山捨てられたはず。残っていてもいいはずだが、何にも出てこない。

千葉県だったか、食べた骨付き肉の骨が、竪穴住居の屋根と壁の接する辺りへ大量に捨てられていた遺跡が見つかった。
でも、食器の類は出てない。なかったのか、葉っぱの様にすぐなくなるものか。杓子や箸すら出ていない。ふしぎですね。


様々な縄文土器煮込み用深鉢から盛り付け用浅鉢、台付き鉢、有孔鍔付土器、 縄文土器の変遷  ランプ型土器(吊手土器)注口土器、壺形土器、
蓋付土器、椀形土器など。

 編年と土器形状がよくわかる図表です。

 26北陸の土器編年表 触ると大きくなります。


 27真脇の土器 土器形式名で展示されているのは珍しく、大変ありがたいことです。ネット上にない土器形式写真が沢山ありました。
蜆ヶ森式土器
しじみがもり
蜆ヶ森 福浦上層 真脇 堅果類煮込み用と
煮炊き用(前列)
朝日下層式 新保式 新保式
新保式 朝日下層式 真脇式 真脇式 福浦上層式 蜆ヶ森貝塚と交流があるならすぐ傍の小竹貝塚とも交流があったはず。

ならば北方系とも交流が、いや、そこら中に北方系と南方系が混住し、共に生活していたかも知れない。
 28
福浦上層式 真脇式 朝日下層式 真脇式土器
新保式土器
朝日下層式
 29

真脇に来た他所の産物。海路陸路
真脇に来た人々

真脇式土器の広がり
真脇から帰った人
出て行った人。交流
真脇遺跡の層順何度か途切れていることがわかりました。
少しずつ場所を変えながら暮らしたかな
古墳時代以降の水田発掘がまだ3%だから遺跡全体の様子はまだつかめていない。 古墳時代の洪水で弥生層が流失
弥生古墳期1000年は天候不順期だったか
乱開発で土砂崩れ?
土器を包含しない時期は、やはり土砂流入の洪水期。森林伐採のせいか。 4000年も続く文化って聞いたこともない。
当然、網元網子など身分差が固定か。
縄文の身分・階層差

 31 木柱根  謎の環状木柱列
巨大な1mもある栗の大木を使用 沢山の栗林が必要。栽培していたか。 諏訪御柱の様な痕跡綱で引くための穴 御柱風祭祀をしたのだろうか、 巨木を倒して引いてくるだけで凄い行事 きっと村総出で祝ったことでしょう
シャマンが場所や最適な配置を決め、 貴重な材で囲んで入口まで作った中は何? 何があったのか。
どんな祭祀をしたのか
こんな大事業は、
人心をまとめるための祭り事
木の切出しは晩秋から冬の作業か

   すみません。この時は、まだ、建物柱穴と考えていませんでした。しかし、春の漁の前に人心を一向にし結束を高めておくことは大切なことです。
   このことは、アマメハギの行事の意図するところと同じです。雪解け後の生業開始のための人心の結束。

   巨大な綱を作るのも大変な作業。沢山の人を動員し、命令し、指導・指図し、従わせる指導者ではなく、権力者・有力者・親分がいた。強権者。


 36真脇縄文人の素顔
南方系縄文人の形質に、面長たれ目の顔って何
原モンゴロイドと北方系との混血型かな
石鏃 石匙 打製石斧 石槍 磨製石斧 石皿 磨石石錘 削器 石錐 クリ コナラ クルミ
トチ イヌガヤ スダジイ
 展示されていない石器類はどんなものなのか。未展示のものも多すぎる。

  まだ、縄文カレンダーがないので、5~9月はイルカ漁。
だが、年間を通じて漁獲があったはず。

 これでは、全体像がよくわからない。 年代も入ってないな。

 犬の骨がバラで出土した。南方系は埋葬し、北方系は食べてしまう。
もしかして同時期の小竹貝塚のように北方系が同居していたのかも知れない。 
 小竹でも、バラ(食べ痕・北方系)と埋葬(南方系)で出土している


 40真脇縄文土器編年
  41二度出ています。すみませんあとの五枚の写真との整合性で削除できません。
4千年間の土器形式 捕獲した動物 植物遺体 近世・近代のイルカ漁6千年続いたイルカ漁。
近代漁法で資源枯渇

能登半島の潮裏で避難港となる穏やかな海。魚が回遊し、小さな湾は追い込み易かった。
中期の土器群有孔鍔付土器、吊手土器、中部・新潟・東北の土器形式もある 後期の土器群他地域同様土器形式が貧弱になる 晩期の土器群壺形土器、注口土器など  膨大な量の海産物を
日本各地との交易にどう加工したのか。

 湯がいて薄切りにして干したのだろうか。

 暖地の保存技術としてクサヤがある。薄切りで漬け込み、乾燥したか。
      右地図出典

 42ほとんど中期の土器です

新崎式・上山田式
新崎式・上山田式
有孔鍔付き土器串田新・ランプ型・串田新 新崎式
富山の縄文土器
新崎式 上山田式
上山田貝塚
上山田式
上山田式 新崎式 古府式 古府式 最初の鍔付き土器のように紐掛けがついているものには土器棺が多い

 43中期の土器
国府式鍔付土器と
古府式土器
浅鉢 串田新式 器台付き浅鉢 古府式 串田新式 ランプ型土器 串田新式 ランプ型土器 吊手土器
串田新式土器 串田新式土器 ランプ形・串田新式 古府式土器 串田新式



 50環状木柱列
   2900年前~2500年前頃まで、縄文晩期に北陸の一部で流行した建築。
   この頃には竪穴住居は減少し、掘立柱建物の平地式住居が一般化した。 ただし、真脇では以前から平地式住居だった。


 51猛禽類  自然にあふれた北陸です。で、この猛禽類は何て名前でしょうか。

環状木柱列の復元を見に外に出ました。公園内に猛禽類がいて逃げません。
最後にはついに何かを捕えました。そして、悠々と去って行きました。

北陸旅行では雉キジが田んぼの畔に戯れていたり。それが普通だそうです。
私が野生の雉を見たのは小学5年生の時だけでした。
 52 
環状木柱列の説明版 栗材を芯を外して半割
割り面を外に向けて建立10,8,6角形の線対称
門扉状遺構もつく
この場所で6回建替え
最後2800年前という
巨大な穴、巨大な材
大変重要な施設
付近から祭祀跡も土壙墓も出ていない
 


  53復元ウッドサークル

環状木柱列として、イギリスを真似た復元をしていない 左側に門扉があります 門扉から覗いたところ 右が入口 この正面から神が入るのか? 上に上がる梯子があったか
割り面を外に向けてただの板だったのか? 割り面を外に向けるのは彫刻を見せるため? 意味なく割面外はない。円にするなら丸い面がいい たぶんこんなもの⇒
ではなく、
偶数の真円。線対称の柱は建物の柱です。

対称に配置されていたのは、元の木同志だったでしょう。


 54板敷き土壙墓

縄文時代中期前葉から中期中葉にかけて縄文人が近くから土を運び込んで、厚さ30~50cmに整地した地層に、4基の土壙墓が検出されました。
4基の内1・2・3号土壙墓の底に大きな板が敷かれていたことから、「板敷土壙墓」と呼ばれています。

土壙墓の平面形は不整楕円形で、長径140~150cm、短径100~130cm、深さ35~50cmで、ほぼ東西南北の方向に配置されています。
3号土壙墓には土壌化が進んだ骨が遺存していました。頭骨は左向きで足を強く曲げた状態(横臥屈葬)で埋葬されていました。

歯列の構成、咬耗の程度及び下肢骨の大きさ等から、壮年期(20~30代)の男性と推定されています。
放射性炭素年代測定法の結果から、4,520~5,200年前に作られたものと考えられます。
当時の集落の中心に位置し、ムラのリーダーが埋葬されたものと考えられます。縄文時代の社会構成を検討する上で貴重な資料です。


 三本の木柱列

土壙墓の南側に3本の木柱根が検出されました。ほぼ、東西南北に並び、柱の間隔は3mです。
いずれも数回の建て替えが行われ、クリ材を使っています。

木柱根1は直径43cmで、木柱根の横には石皿や磨り石が出土しました。
木柱根2は直径38cmです。
木柱根3は直径28cmで、3号土壙墓に接するように出土しました。

木柱列は4基の土壙墓に接する位置にあることから、土壙墓の市を示す目的で建てられた物と考えられます。

板敷き土壙墓被葬者20~30代の男性支配者一統の者か
4500~5200年前
墓地を表す三本柱地方で色んな建て方あり
4本柱 1本杭
三号墓から人骨出土 大変な低湿地だったことが判る 丸石がかためておいてある。
付近一帯は集団墓地
特別な板敷土坑
仰臥屈葬で150㎝もの穴 低湿地に客土して墳丘を築造し、集団土壙墓 ヒルや藪蚊やブトの多い低湿地。危険地帯 どう工夫して暮らしたか。住居跡は出土しています



  55帰り道


帰り道この巨大な頭部の意味が分かった。土面の顔の復元だった。 真脇縄文人の顔
眉間が著しく膨らみ、
彫が深い。典型的縄文人
刺青の習慣があった

北方民族やアイヌを調べていると、アイヌ語から真脇遺跡に言及した「縄文人の能舞台」を見つけこれは凄いと、3000円もする本を買いました。
  ネットに内容が公開されていた訳は、真脇環状木柱列の謎解き本です。 ただし、著者は高名な考古学者だそうです。

  最初に「付会習合形の呪術」とあり、馬鹿な私は、意味が分からないので、「こじつけ、ごちゃまぜ、ごまかし」の意味ととらえました。
   著者上野和?氏は大変高名な方で、撮影禁止の三方縄文博物館などの多数の博物館の展示や企画にかかわっておられる素晴らしいお方です。
 
 書籍の内容
3000年前の真脇の環状木柱列はイルカ祭祀の御幣だ。 
近代に採取されたアイヌ語で、イルカは10匹の鹿だ。だから、10本の柱をイナウ(御幣)として建てた。が内容です。巨大な御幣ですね。(笑)

アイヌの御幣 (イナウ) の成立は10世紀です。(アイヌ学入門)  真脇のイルカ漁はその何千年も前です。(例えは我々は千年前の言葉は使えないね)

アイヌは南方系原モンゴロイドで縄文人の末裔です。しかし、3000年も前の言葉を保存していたでしょうか。

真脇の土面は能面に似ているといって、その系統を考える等、あり得ない話。やがて論理は停止し、無関係な博学知識を大量に展開して閉じる。
何かの連載だったようです。(似ているように見えますか。妄想じゃないの。)

大量の雑学知識は私には無意味でしたが、きっと論稿の途中で建物跡と言う結論知ったのでしょう。
結局、こじつけと、ごちゃまぜと、ごまかし にしか思えませんでした。

立派な考古学者としての肩書は御尊敬しています。ただ、3000円も払って内容が賞味期限をとっくに過ぎていたのが残念です。まだ売っています。