北部九州の縄文 42 2020.11.25-1
国東市 弥生のムラ安国寺集落遺跡公園 大分県国東市国東町安国寺1635
国東市歴史体験学習館 0978-72-2677:月休 館内撮禁
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交通 |
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レンタカー |
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館内は撮影禁止 |
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特徴 |
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河川のそばに建つ掘立柱建物と乾燥地の竪穴住居
国東半島東部の海山に隔絶された弥生遺跡 |
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2023.09.22掲載
2023.09.25追記
このページ作成に当たって、博物館側の「弥生のムラ」の解説では、弥生時代後期3世紀から古墳時代初頭4世紀の遺跡と解説されており、
そのまま鵜呑みにして、そう記述し、そのつもりで考えてきました。
しかし、この建物群は、弥生時代後期の建物が、湿地の中に埋まっていたわけです。
つまり、弥生時代後期には、この集落は放棄され、土中に埋もれたのかもしれません。
それとも、弥生時代後期に建てた建物が古墳時代初頭まで維持できたのでしょうか。
出土遺物は、建築部材と、農耕具と、安国寺式土器だけ。
安国寺式土器は、「東九州の弥生時代を代表する標識土器」とされています。つまり、安国寺遺跡は弥生時代の遺跡でした。
そうすると、古墳時代初頭にまで存在したという証拠はなく、弥生時代遺跡ということになります。
安国寺集落遺跡は弥生後期に始まって古墳初期までではなく、弥生時代後期にはすでに放棄された集落ではなかったのでしょうか。
それと、弥生時代後期土器の安国寺式土器を、東九州を代表する弥生時代の土器とするのは少々持ち上げすぎかもしれません。
安国寺遺跡の建物は、低湿地の上に建てられ、カズラやツタ、木の皮、茅縄、などで結わえて作ったので、20年も維持できないはずです。
弥生後期に始まった集落が補修されつつ古墳初期まで維持されて放棄。その時には弥生後期の姿で倒壊していた。のかな。
わたしは、弥生後期にはすでに放棄されていた、ほんのわずかな時期(せいぜい50〜60年ほど)の集落に思えるのです。
従って、博物館の解説通り、古墳初期としましたが、弥生後期で終了していたかもしれないと思うようになりました。
最終的には、このページの資料から、各自でご判断ください。 |
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弥生のムラへ
川岸に建つ高床式住居のたたずまいの写真がとても魅力的で、ぜひ行ってみたいと思いました。
中津市内から58.1km1時間17分で始業前点検中の施設に到着しました。
朝が早く、季節がら、朝霧や中秋の紅葉の美しさを堪能しながら、国東半島を横断しました。 |
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目
次 |
300中津市から国東市へ
301国東半島のダム施設
310国東市「弥生のムラ」
313国史跡安国寺集落遺跡
315高床建物
319弥生の原っぱ
330竪穴住居移設復元 |
350展示棟
351歴史体験学習館
352施設地図
353施設概要
354弥生のムラ安国寺遺跡公園
357解説ビデオ
358安国寺式土器から集落人の出自を探る |
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300中津市から国東市へ |
301国東半島のダム施設
並石ダム(なめしダム)はバスフィッシングが有名らしい。
グリーンランド(簡易宿泊所なんて書いてあるが、キャンプ場の意味らしい)確かにグリーングランドだ。
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310国東市「弥生のムラ」 安国寺集落遺跡公園 大分県国東市国東町安国寺1635
概要:安国寺集落遺跡
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弥生時代後期3世紀から古墳時代初頭4世紀の、低湿地に設けられた貝塚・集落遺跡である。
低湿地遺跡であるため。建築部材、農耕具等が保存状態よく出土した。また、炭化種子も出土し、西の登呂遺跡とも呼ばれた。
半農半漁の海人族の集落で、漁撈・狩猟・採集と小規模な農耕、それに近隣の中国・四国・九州などとの海洋交易が行われたと考えられる。 |
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311
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弥生のムラ |
遺跡公園
遺跡の再現にはフェンス不可で木柵で囲う |
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こちらは乾燥地の集落群
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水辺の高床建物 |
広大な遺跡範囲です
学芸員の始業前点検中
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同一反復 |
橋を渡ると南エリア
竪穴建物・体験学習館
植生再現エリア |
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伊予灘
瀬戸内海方向 |
安国寺遺跡の海人達はこの入江から
漁撈や交易に
海路乗り出していった。
どこの支族だったのでしょう。
阿多隼人?安曇族? |
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313国史跡安国寺集落遺跡 弥生後期 約1800年前の建物を復元
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この遺跡は田深川下流の低湿地集落遺跡です。
出土した柱穴と建築部材であるハシゴ・柱・床板などを基に、高床住居4棟・高床倉庫4棟、集会用建物1棟の計9棟を復元整備しています。発見された柱跡や、出土した木材を調査復元しているので、弥生時代の原風景に最も近いものと考えています。
※弥生後期の建築部材が見つかったので、弥生後期の状態を復元しています。弥生時代終末期から古墳時代初頭の短期間の遺跡です。 |
この先に弥生の水田 |
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国史跡安国寺集落遺跡
写真は劣化が激しい |
高床住居、高床倉庫、平地式集会所、
建築部材出土地
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315高床建物
安国寺集落遺跡 大分県国東市国東町安国寺 弥生時代後期3世紀〜古墳時代初期4世紀 貝塚のある集落遺跡
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低湿地帯のため遺物の保存状態がよく、
鍬、田下駄等の木製農具や建築部材、柱穴等の遺構、植物の種子等が多数出土したことから、「西の登呂」とも呼ばれた。
また、二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けた土器がみつかり、遺跡名にちなんで「安国寺式土器」と命名されている。
1949年(昭和24年)から1952年(昭和27年)に行われた初めての発掘調査では、炭化米が出土したことで東九州における稲作を裏付ける遺跡として脚光を浴びた。
生活は漁撈・狩猟・採集を主体としながら小規模な稲作を行い、
国東半島という地理から瀬戸内海から中国・四国地方と海洋交易をしていたと考えられている。 |
※海人族集落の弥生後期を復元。河口から内陸に2kmも入った隠れ里で、環濠や高地性集落のような防御施設がないのが最大の特徴。
櫛目文土器系集団ですから半島人ですね。
詳細不明ですが、湿地出土物は高床式建物の建築部材や農耕具が出土したものと思われます。
高床建物付近からは、舟も漁具も、道具類も発見されません。
高床建物は、湿気や増水、毒蛇(マムシ)の侵入を避けるためのものにも見えるが、その形状からして舟屋にも見える。
床下に舟を引き入れていたのでしょう。
古墳時代初期に何らかの理由で集落を放棄し、舟や漁具と共に去ったのち、経年劣化で建物を支えていた縄や蔓が切れて倒壊し、湿地の中に埋没したのでしょう。その時、当座必要でない農耕具は置いていったのでしょう。
海人族は海洋漂流民でもあり、よい漁場を求めて移動する。この場合、交易用の海産物の枯渇が原因か、他の集落からの攻撃かも知れない。 |
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木製の炉が二基
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左:復元、右:本物
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大型建物
これが集会所かな |
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移動式炉
移動式炉
私の子供の頃にあった移動式の炉はもっと小さく、 |
炬燵より大きめ一辺50-70cm程でした。
これは非常識にでかい。暖房・調理以外の用途が考えられる。 |
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冬、室内は壁から、床下から、寒風が吹き抜けたでしょう。
ここは、瀬戸内、大陸からの強風の地域。
床板の隙間から吹き上げは尋常でない寒さ。 |
床に藁を敷いても、炉の熱は伝わらない。
炉で火を燃やすと、時々パチッとはじけ飛ぶ炭火が、藁に燃え移ったら集落ごと丸焼けになる。 |
いったいどんな生活をしていたのでしょう。
この生活、まるでオオヨシキリみたいですね。 |
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すると、住居、倉庫、集会所とされる建物群は、木製炉の小屋=住居兼交易用干物工房。 集会所=網小屋。 倉庫=乾燥魚介類の保存小屋かも。
普通、あんなに大きな炉は使わないので、干物乾燥用でしょう。
私の疑問は、これらの木材はいったい何処から持ってきたんだろう。海産物と交換したんだろうか。
弥生後期は戦乱の時代。土地争いの時代。資源を勝手に切ることはできなかっただろうから、貧しい彼らはどうやって手に入れたのだろう。 |
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319弥生の原っぱ
この先、
弥生の原っぱ |
弥生の原っぱ |
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高床住居復元
建築材出土状況
植生再現
近くに建築材出土跡の展示あったようです。 |
大溝(旧河道) |
とても美しいと感じてしまう風景です。 |
大溝に映った景色 |
高床建物群は、
竪穴住居地域の間を
木橋で結んでいた。 |
高床柱の下には丸木舟が似合う。
舟屋のようだ。 |
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安国寺集落遺跡 (竪穴建物群)
330竪穴住居移設復元 弥生時代末期の遺跡
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1800年前頃
〇湿地で高床建物を建て、稲作をして生活していた。⇒(年表にはこれしかないが他に竪穴住居の水田集落もあったのだよ)
※安国寺集落遺跡(国東町安国寺)
・・・安国寺式土器・矢板・炭化米・木製品が出土
国東の歴史(年表)より引用 |
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安国寺集落遺跡では、高床建物群に住んですぐ近くに水田を設け、農耕と漁撈を生業とする集落遺跡でした。
他の遺跡と異なるところは、河川のワンドの内側にできた低湿地の小さな中州に高床式住居を建て、小さな水田を営む半農半漁集落でした。
弥生後期には人口が増え、列島全体に再開発ブームが起き、それまで開拓しなかった、乾燥台地や、扇状地などに進出するなど、あらゆる開墾適地を求めて弥生人がさまよった時代でした。安国寺集落遺跡もそのような、洪水でたちまち流されてしまうようなところに住み、あまり生活の足しにならないような小さな水田を開いて、貧しい暮らしをしていたのでしょう。そして、海産物の交易で雑穀などを入手して食いつないでいたのかもしれません。 |
下の写真移設復元住居
移設復元住居(竪穴住居) (国東市原遺跡より )
※移設住居は国東市原遺跡:国東市国東町大字原字七郎丸、安国寺集落遺跡を流れる田深川のすぐ上手に隣接する農耕集落遺跡の建物を移設復元したものです。
この移設復元展示によって誤解が生まれました。本来、以下の写真や文章の方形・円形住居群は安国寺遺跡にはない、別集団の建物です。
サービス精神で、方形・円形住居を見学に来た小学生に見せないと、教科書通りの学習ができないために造られたものでしょう。
しかし、円形・方形建物だけが嘘なのか、そばに復元されている水田も嘘なのかがわからなくなってしまいました。
ここでは方形・円形建物だけが特設と考えて無視することにします。
もしかすると、319の「弥生の原っぱ」は、水田跡だったのかもしれません。わからない。 |
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平成5年の発掘調査で(原遺跡で)見つかった弥生時代終わり頃の集落跡をもとに復元したものです。
床面の形が方形と円形の住居跡をそれぞれ一棟ずつ復元しています。
円形竪穴住居は、地面を少し掘り下げてその底に床をつくり、数本の柱を柱穴に立て、カヤで屋根を覆った住居のことです。
カヤはカズラなどで結んでいたと考えられます。床の中央には炉の跡と思われる穴があり、火を焚いて煮炊きや室内の灯りに使われていたと思われます。 |
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弥生植生復元林 |
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方形住居 |
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正面円形住居 |
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方形住居内 |
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円形住居内 |
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竪穴住居移設復元 |
弥生のせせらぎ |
弥生のせせらぎは、
集落より上流は水汲み場で
下流は水洗便所だったのでしょうか。 |
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350展示棟
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351歴史体験学習館(展示館)
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館内展示は、出土遺物の展示、農具の変遷、そして、約7000年前の河姆渡遺跡の出土遺物と安国寺遺跡の出土物を比較した展示などがあります。 |
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352施設地図
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集落遺跡部分 |
弥生植生復元(出土種実に基づいて)
高床住居
建築材出土状況
弥生の原っぱ
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木橋・大溝・弥生植生
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展示棟・体験学習部分
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体験学習館 |
土舞台・弥生の広場・弥生の植物園・水田
発掘体験・せせらぎ
竪穴住居・生産体験 |
安国寺式土器 |
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353施設概要
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安国寺集落遺跡は、大正15年(1926)から昭和2年(1927)の耕地整理事業により多数の土器が出土したことをきっかけに、昭和24年(1949)から昭和27年(1952)の調査の結果、昭和32年(1957)に県指定史跡となりました。
その後、昭和60年から63年の3次にわたる発掘調査の結果、遺構、遺物の状態から学術的に高い評価を受け、平成4年4月3日に国指定史跡に認定されました。
当遺跡は、弥生時代後半(3世紀)から古墳時代初期(4世紀)にかけての田深川右岸に発達した低湿地集落遺跡です。
特に舌状の微高地内に形成された集落からは、高床住居跡、倉庫跡、集会施設等の建物跡15棟分が確認されたほかに、
大溝内からは、これら建物の建築部材が四百数十点出土しています。(体験学習館内に展示) |
整備内容
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史跡指定の範囲20.581uと、南隣接地区約22,863u、合計43,444uを史跡公園として整備しました。
史跡では、U字型の大溝、高床式住居、倉庫、集会施設のほか、古環境調査(花粉や種実の分析)に基づいた植物を再現しています。
また、南隣接地区では、体験学習館、発掘体験者と共に、当遺跡の上流部で確認された竪穴住居4棟を復元しています。 |
主な復元
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・高床住居 |
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4棟 |
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・高床倉庫 |
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4棟 |
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・集会用建物 |
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1棟 |
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・建築材の樹種 |
クスノキ、ムヤキ、クリ、イタジイ(スダジイ)、ツブラジイ、カシ類など |
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354弥生のムラ安国寺遺跡公園
全景 |
体験学習棟
展示棟 |
弥生の広場
野外体験場
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国史跡
安国寺遺跡公園
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355
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展示棟1F |
展示室の概要 |
・国東の自然と歴史
・人々の暮らしと道具
・安国寺集落遺跡の世界
・体験学習場
・中国浙江省 河姆渡遺跡の世界
・映像ホール
・収蔵庫 |
体験棟2F
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357解説ビデオ
国東半島地形図
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国東市安国寺 |
遺跡発掘 |
耕地整理で土器出土
現在も大変な低湿地
人家があるが生活困難 |
安国寺式土器 |
口縁部の特徴 |
建築部材の出土 |
建築部材 |
大溝と高床建物 |
遺跡の立地場所 |
出土地図 |
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館内撮禁のため画像はここまでです。 |
358安国寺式土器の秘密
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二重口縁壺は葬送祭祀に使う土器です。
安国寺式二重口縁壺は、下に開いた口縁です。通常は上に開いた口縁ですからとても特徴的です。
しかし、同様の二重口縁壺は大分県にも、福岡県にも、愛媛県にもありませんでしたが、宮崎県に同様のものがありました。
宮崎県の二重口縁壺 宮崎県の二重口縁壺 宮崎県の二重口縁壺
下開き二重口縁壺だけではなく、口縁の櫛描き模様も同じでした。
これは、安国寺集落遺跡の住人たちは宮崎県から移住してきた人々だったことをあらわすと思われます。
安国寺集落の上流にある、原遺跡は弥生農耕集落で、古くからの遺跡らしい。
新参者の安国寺集落人は、それまでの弥生人が洪水で危険と判断して開墾しなかった低湿地に住んで、かなり不安定な生活をしていたようです。
北海道の異邦人であるオホーツク人がオホーツク海沿岸を南下した時、やはり、小島や、半島先端など、先住民が住んでいない場所に住み着いた。
そこは、防衛しやすく、避難しやすい場所だった。また、先住民が放棄していた土地でもあったからだ。
移住に伴うトラブルは、移住ブームの現代日本でも激しく起こっており、弥生時代では武力で相手を殲滅しない限り、いつまでも続く問題である。
さて、これで、安国寺集落遺跡の人々が日南海岸からきたことがわかりました。すると、彼らは、阿多隼人だったのかもしれません。
そして、また、海上を漂流してどこかへ去って行ったのでしょう。 |
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