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000外観 |
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00入口展示 発掘された日本列島2017 ※27開陽丸は、三重県総合博物館では、入口展示として、最初に目に触れるよう配置されていました。 他の会場では27番目に展示されています。 27開陽丸 明治時代 約150年前 北海道江差町 遺跡概要 江戸幕府の発注によりオランダのヒップス造船所で作られた、榎本武揚率いる旧幕府海軍の旗艦です。当時最新鋭の木造軍艦としての活躍が 期待されましたが、函館戦争のさなか、荒天のため江差沖で座礁し沈没しました。 開陽丸の国内経路 文久3年1863年造船開始、慶応2年1866年に完成し、150日間の航海を経て慶応3年に横浜港に到着しました。戊辰戦争では、 大阪湾の警護に当たりましたが、鳥羽・伏見の戦い後、大阪城を脱出した最後の将軍徳川慶喜を乗せて江戸へと帰還しました。 沈没地点と発掘調査区 明治元年1868年、江差へ進軍した旧幕府軍を援護するため函館港を出港するも、天候の急変により、停泊していた江差沖で座礁し数日後に沈没した。 遺物の出土状況 港湾拡張工事に際して存在が確認され、昭和50年から約10年をかけて調査が行われました。 調査風景 武器類、船体船具類、生活用品など32,905点の遺物が出土しました。 開陽丸には操船のため多くのオランダ人が乗っており、出土したスプーンやフォークなどの洋食器は、オランダ人船員達が使用していたとみられます。 現地には船体の一部が残っていたため、銅板や銅網で覆うことにより、フナクイムシ対策が行われました。 幕末の動乱のさなか、数奇な運命を辿った旧幕府軍の軍船は、江差沖の水中で現在まで保護が図られているのです。 開陽丸は榎本武揚率いる旧幕府海軍の旗艦です。 と、あります。また、この頃、幕府の操船伝習所も経営されていたことから、 航海の操船は日本人の手で行われていたと思っていました。 ところが、西洋人用の洋食食器が出土する。これは、船の操船はオランダ人船員が行い、オランダ人シェフまで随行していた証拠である。 つまり、幕府は操船クルー付きで軍艦を建造したということでした。 |
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発掘された日本列島2017 資料
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旧石器時代 約3,4000~約13,000年前 概要 日本列島における人類の歴史は、約34,000年前の後期旧石器時代に始まることが確実です。 人々は遊動し狩猟しながら、簡素なテント状の住まいや岩陰などで暮らしていたとみられます。 各地で使用する石器に違いがあり、環境の違いに応じた生活を営んでいたとみられます。 今回展示する遺跡 長崎県の百花台遺跡では、ナイフ形石器や台形石器などが出土しました。特に台形石器は百花台型台形石器と呼ばれる、 日本の旧石器時代を研究する上での標準的な資料です。 |
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10百花台遺跡 旧石器時代 約30,000年前 雲仙市国見町金山名字堀囲 百花台遺跡 百花台遺跡 百花台遺跡 百花台遺跡 百花台遺跡」 ※旧石器~縄文時代の遺物が大量に発見されました。その出土量は全国でもトップクラスで、雲仙山麓で生活していた古代人の様子が良く判ります。 特に黒曜石製の、「ナイフ形石器」や「台形石器」は、旧石器時代の研究や当時の人々の生活を知るために欠かせない出土品です。 遺跡概要 島原半島北部の標高200~300mの穏やかな山麓に立地します。1960年代の発掘により、ナイフ形石器→台形石器→細石器と、 使用される石器が時代により、変化することが初めて確かめられた遺跡として有名です。 発掘の様子 出土した石器は、約50km離れた佐賀県腰岳の黒曜石製が多くを占めます。 また、百花台型台形石器と名づけられた石器は、標識的な資料として、その後の旧石器時代研究でも大きな役割を果たしてきました。 |
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縄文時代 約13,000~約2,800年前 縄文時代の概要 土器の使用が始まり、列島各地で独自色の強い装飾性豊かな縄文土器が作られました。 人々は穴の上を屋根で覆う竪穴建物で定住に近い生活を送り、狩猟・最終や漁労、地域によっては簡単な栽培などを営みました。 人々の間には基本的には身分の格差はなかったと考えられています。 土偶や石棒など様々な祈りのための道具が出土しており、豊かな精神文化を持っていたことがわかります。 今回展示する遺跡 山形県の押出遺跡では丸太材を敷き並べた上に土を盛った盛土遺構が発見され、赤色と黒色の漆で彩色された漆塗り土器が出土しました。 鹿児島県の面縄遺跡貝塚では、南九州や沖縄諸島のものと似た土器が出土し、様々な島の人々が交流を持っていたことがわかりました。 |
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20押出遺跡 (おんだし) 縄文時代前期 約5800年前 山形県東置賜郡 高畠町深沼
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25押出遺跡 縄文時代前期後半 約5800年前 山形県高畠町深沼高畠町深沼 押出遺跡 押出遺跡 押出遺跡 押出遺跡出土品 彩漆土器 ※縄文前期の集落遺跡 大型1棟と約 35棟の住居跡の存在が確認された。 住居跡の形態は,平地式の「壁立式住居」で,柱に丸太や割材を打込んである。 遺物には、彩文土器・漆塗りの木製大杯,その他各種漆製品や櫂 ,杓子 ,箆状・弓状の木製品,縄・編物の断片, 基部の付いた尖頭器や石鏃や、異形石器,石製装飾品,漆の塊といった特殊なものもある。 特に漆製品の存在はきわめて高度な漆技術があったことを裏付けるものである。 漆塗り土器の出土状況 漆塗り土器は、今回初めて瓢箪形のものが出土しました。赤漆を前面に塗り、黒漆で渦巻き文様を描いたもので、 縄文人の形と色へのこだわりをうかがうことができます。 転ばし根太の検出状況 盛土遺構は「転ばし根太」と呼ばれる丸太を基礎として敷き並べた上に、土や砂、年度を積み重ねたものです。 土器や石器などが盛土の上から見つかっており、居住場所や水辺の作業用足場として造られたと考えられています。 遺物出土状況 山形県南部の高畠町に所在する、縄文時代前期後半の集落遺跡です。当時、湖や流路が網の目状に張り巡る湿地帯であった場所から、 盛り土遺構や鮮やかな漆塗り土器、玦状耳飾や様々な石器などが見つかりました。 参照 高畠町郷土資料館 沖縄写真通信
26押出遺跡の土器 前期後半の大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器 引用文化財オンライン ↑愛知県安城市立歴史博物館での「発掘された日本列島2017」の展示の写真です。ライティングがよく、模様がよく見えます。最後の6番目の土器は↑ 三重県総合博物館での展示であったものです。展示数はどちらも4点ですが、1点だけ入れ替わっていました。 ↓三重県総合博物館での展示です。編集ソフトを使ってもあまり修正できないほど照明が暗かったのです。 ただし、撮影角度が違いますので。 |
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30面縄貝塚 (おもなわ) 縄文後期 約3500年前 鹿児島県大島郡伊仙町面縄2357 面縄貝塚総括報告 面縄貝塚群Ⅱ 面縄貝塚 面縄貝塚 ※第2貝塚は海岸砂丘に立地し、陸棲の巻き貝(オキナワヤマタニシ)を主とし、シャコガイ、ヤコウガイを出土する。 宇宿(うしゅく)下層式と称する土器のほか、石器、骨器、貝器などを出土する。縄文後晩期に該当する。 宇宿貝塚 宇宿下層式土器 第4貝塚は隆起サンゴ礁崖にできた洞穴と前庭部に立地し、宇宿上層式・下層式の土器・石器・骨器のほか、人骨も出土した。 継続の期間は、縄文後期より弥生期に至る時期に該当する。 引用コトバンク 遺物の出土状況 出土した土器や様々な怪製品には、沖縄諸島のものと類似した特徴を持つものが見られます。奄美群島と沖縄諸島は縄文時代から 交流を持っており、それぞれ特色を持ちつつも類似した文化を育んでいたのでしょう。 調査風景 近年の発掘調査で新たに竪穴建物や炉跡などが発見され、遺跡の範囲が、より広がることがわかりました。 サンゴ礁に生息する魚類などの捕獲のため、3500年前頃には生活拠点を海寄りの砂丘に移したと考えられます。 遺跡遠景 奄美群島の徳之島南部の砂丘地や丘陵崖下に営まれた縄文時代後期を中心とした集落遺跡です。 昭和3年の発見以来、多くの発掘調査が行われ、南九州、奄美諸島、沖縄諸島の関係を示す遺跡として知られています。 ※3500年前頃の居住場所の移転は、九州本土からの大量の移住者 (半島人など) や、貝交易が関係していると思われます。 沖縄県埋蔵文化財センター 貝交易 参照 |
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弥生時代 約2,800~約1,750年前 概要 中国大陸や朝鮮半島から体系的な水田稲作が伝わり、青銅器や鉄器などの金属器が使われ始めた時代です。 銅鐸や銅剣・銅矛等の青銅器を象徴とする祭祀が行われました。やがて社会の階層分化が進み、各地域の社会が統合されていきました。 北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれる、それぞれ縄文文化からつながる文化が営まれました。 今回展示する遺跡 神奈川県の中里遺跡は200基近い建物や46基の墓が見つかった関東最初の大規模な弥生集落です。 岡山県神明遺跡では弥生のシンボル、銅鐸が集落の中で埋められた状態で発見されました。 香川県の天満・宮西遺跡では50cm近くに及ぶ大型の銅鐸の破片が流路の中に投げ捨てられていました。 |
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35中里遺跡 弥生時代中期 約2300~約2200年前 神奈川県小田原市中里 |
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40中里遺跡 弥生中期前半 約2,300~約2,200年前 神奈川県小田原市中里 リンク1 リンク2 リンク3 リンク4 リンク5 小田原市中里遺跡 ※関東で初めて水田耕作の村。九州初の水田稲作は弥生時代の「早期」でした。その当時,関東地方を含む北日本はまだ縄文時代「晩期」でした。 その北日本に水田稲作が伝えられたのは,東北地方のほうが関東地方よりも早かったらしいのです。 水田の技術は日本海沿いに一足飛びで伝えられたと言うのが新しい発見にもとづく説です。 ところで,関東地方に「水稲栽培」が始まったのは今から二千年程前と考えられていましたが、中里遺跡はその常識を覆す「新しい発見でした。 引用中里遺跡 遺跡遠景 関東でいち早く営まれた弥生中期の大規模集落です。面積は約5万㎡にも及びます。 住居域と墓域からなり、住居域を囲む 環濠集落としての役割が考えられる河川や溝も見つかっています。 独立棟持柱建物 住居域では竪穴建物102棟、掘立柱建物73棟、井戸6基、土坑880基等、沢山の遺構を検出。 むなもちばしら 住居域の中心には独立棟持柱建物と呼ばれる大型建物があり、神殿や有力者の住居など特別な建物とみられます。 ※独立棟持柱建物とは、屋根の端=棟を、外部から持ち上げる「つっかい棒」のある建物です。 墓域 墓域では方形周溝墓が46基見つかる。これらは四隅の溝が途切れる形で伊勢湾沿岸のものと似た特徴を持ちます。 近畿に多い独立棟持柱建物と共に、南関東以西との関係により関東初の大規模集落が成立したことがわかります。 ※関東初の大規模弥生開拓集落は、関西・東海に勢力を持つ集団が、環濠集落 (対縄文人用) を作って、戦略的に入植した。 |
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41中里式土器 又は、須和田式土器 (南関東地方最古の弥生土器※) 中里式土器は須和田式といわれるそうです。 ※現在では、これに先立つ土器が発見されている。 中里遺跡 弥生中期前半の集落遺跡。関東の弥生集落としては最初期。中里式のほか、東海では未発見の兵庫県南部の土器が混じり、 近畿地方からの入植者が、在来の人と共に水田耕作をした集落。 (伊丹市酒井遺跡) 須和田式 関東地方の弥生中期前半の土器。須和田式に先立つ関東土器文化は、小田原市谷津遺跡で、小田原前期と後期に分け、 前者(須和田式以前)を、西方の文化の影響を色濃く受けたものとしての櫛描文の土器群、 後者(須和田式土器)を、縄文が施文された在地の独自の様式の土器群としている。 ※南関東最初期弥生文化は関西から入植で、その後、縄文系の人々が、縄文系の弥生土器(須和田式)を作ったということかな。 |
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45神明遺跡出土銅鐸 弥生中期~後期 約2700~1700年前 岡山県総社市 「聞く」銅鐸、 「見る」銅鐸 銅鐸は弥生時代中期から後期にかけて使用された青銅器祭器です。高さは最小のもので3.4cm、最大のもので134.7cmです。 紀元前後の頃までに作られたものには鳴らされた痕跡があり、「聞く銅鐸」として使われました。 1世紀以降になるとそれはなくなり、大型化し装飾性が強まり、「見る銅鐸」と呼ばれています。 聞く銅鐸は豊穣を祈る農耕祭祀の祭器でしたが、その後の「見る銅鐸」は為政者のシンボルとなり、銅鐸の性格が変化したと考えられています。 |
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50神明遺跡 弥生中期~後期 約2700~1700年前 岡山県総社市神明 神明神社 遺跡概要 弥生時代を象徴する銅鐸は、集落から離れた所で偶然発見されることが多い遺物です。 そんな銅鐸が、発掘調査中の集落から突如として姿を現したのが 岡山県総社平野北西部にある神明遺跡です。 調査風景 これまでに50棟の竪穴建物や2棟の掘立柱建物、1基の土器棺墓が発見されています。質・量ともに充実した土器や祭祀遺物とみられる 分銅型土製品などが出土しており、吉備地方有数の拠点的集落であったと考えられています。 銅鐸出土状況 銅鐸は集落の中で最も高い場所に鰭を立てた状態で埋められていました。 偏平紐式古段階という弥生時代中期後半に造られたものですが、 埋められたのは、紀元前後頃と考えられています。なぜ集落の中に埋められたのか今後の研究が待たれます。 要注意 ※キャプションに「偏平紐式」とありますが、間違いです。 正しくは「鈕」です。×「紐=ひも(チュウ)」 ○「鈕=つまみ(チュウ)」 意味が違います。 正しくは「扁」です。×「偏=かたよる」 ○「扁=薄くて平たい・小さい」 意味が違います。 ※扁平鈕とは、 銅鐸は鈕の形 (吊るす際に紐を通す部分の名前)によって分類される。 引用銅鐸分布考 菱環鈕式(最古式、I式) 最古形式で、鈕の形が菱形になっている。 外縁付鈕式(古式、II式) 銅鐸の縁の鰭が発達して、鈕の外側に外縁となった。 扁平鈕式(中式、III式) 鰭及び外縁がさらに発達して装飾性が高くなり、鈕の内側には内縁が付きます。 元々、鈕であった菱環部はお飾りに近いものになり、菱環の位置も内側に入ってきます。 ※扁平鈕式古段階とは、 古段階 石の鋳型で作ったものを古段階(または1 新段階 土の鋳型で作ったものを新段階(または2式) |
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51神明遺跡の土器 |
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60天満・宮西遺跡 弥生時代後期 約1800年前 香川県高松市松縄町295番地1 遺跡概要 高松平野に所在する弥生後期に栄えた拠点的集落です。集落外の自然流路から長さ49.5cm厚さ4mm重さ4.1kgの大型銅鐸の破片が出土しました。 自然流路 銅鐸片は、銅鐸の終末期に作られた突線鈕式のもので、裾野部分には鳥または鹿の絵が鋳出されています。 割れ口はゆがみ、破断面は表面と同じく錆びているため、意図的に割られたと考えられます。 突線鈕式袈裟襷文銅鐸 型式分類-銅鐸分布考 近畿式と三遠式-銅鐸分布考 突線鈕式銅鐸/羽曳野市 銅鐸の出土状況 集落からは他にも、古墳時代へと続いていく新たな祭祀道具である特殊器台も出土しています。 破砕された銅鐸片は、銅鐸祭祀の終わりと、新たな祭祀の始まりを考える上で大変興味深い例です。 |
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古墳時代 古墳時代 約1750~1400年前 概要 人々の階層分化がさらに進展し、近畿を中心に広範囲に及ぶ政権が成立した時代です。 各地で権力者のために古墳が造られ、銅鏡や武器、装飾品など多くの副葬品が納められ、古墳の上には様々な埴輪が建て並べられました。 日本が初期的な国家の形成に向かう段階と考えられています。 東北北部や北海道と、南島には古墳文化は広がらず、それまでの文化を発展させていました。 今回展示する遺跡 宮城県の入の沢遺跡は古墳文化の北に広がる続縄文文化との接点に作られた集落で、建物から銅鏡や鉄器などが出土しました。 島根県の史跡石屋古墳は最古級の人物埴輪が並べられた古墳でした。 千葉県の根戸船戸遺跡1号墳からは、頭椎大刀という金メッキで飾られた大刀が出土しました。 |
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70入の沢遺跡 古墳前期 約1700年前 宮城県栗原市 入の沢遺跡現地説明会 ※古墳文化がアイヌと対峙する、古墳時代の最前線の集落?遺跡でした。集落ではなく、軍事・交易・交流・防衛拠点。目的は様々でしょう。 遺跡概要 宮城県と岩手県の境に近い内陸部に、標高49mの丘陵の周囲を塀と溝で囲って造った大変防御性の高い集落です。(環濠集落) 溝は幅4m深さ1.5m長さ330m。内部から40棟以上の竪穴建物が密集して見つかりました。 焼失した竪穴建物 建物には火事で焼けたものがあり、中には多くの遺物が残されていました。 その1棟から鉄製品25、玉類266、垂飾など古墳副葬に匹敵する遺物が出土しました。(※アイヌとの交易品です。) ※燃えたのは、交易の備蓄倉庫でしょうか。すると、火事は不平等交易の不満によるアイヌの襲撃でしょうか。 銅鏡の出土 銅鏡などの出土は前期では最北の事例で、ここより北側には古墳文化とは異なる伝統を持つ続縄文文化が広がります。 古墳文化の最北辺に突如として造られた防御的な集落の発見は、境界地域の歴史的解明に新たな一石を投じました。 |
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80石屋古墳 古墳時代 約1600年前 島根県松江市矢田町 遺跡概要 松江市の丘陵尾根に立地する一辺約40mの方墳です。墳丘は二段に造られ、表面は葺石に覆われています。 墳丘の南辺と北辺には造出と呼ばれる突出部が取り付き、北辺の造出から形象埴輪群が出土しました。 遺物の出土状況 埴輪は、武人や正装男子 (貴人) のほか、新たに倚座 (いざ) 人物像の椅子部分や力士形埴輪の存在が明らかになりました。 石屋古墳から出土した人物埴輪について 埴輪の配置状況 更に、人物埴輪の配置方法も明らかになりました。 二本足での立ち姿を表現する人物埴輪は5世紀中頃に出現しますが、 その初期の実態が判明したことは、人物埴輪が表現する葬送儀礼を解明するうえで非常に重要です。 |
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85館内展示風景 |
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90根戸船戸遺跡1号墳 古墳時代終末期 約1,400年前 千葉県我孫子市城山3丁目 遺跡概要 眼下に手賀沼を望む台地の辺縁に造られた古墳です。墳丘は推定全長35m高さ2mで、前方後円墳が崩れたダルマのような形をしており、 周囲には部分的に4mの周濠が巡ります。 埋葬施設の全景 埋葬施設は白色の粘土を切り出し、さも石を使ったかのように積み上げた横穴"石"室です。 周辺では良好な石材が産出しないため、関東ローム層下の白色粘土を柱状に切り出して石材のように代用したものと考えられます。 副葬品の出土状況 石室内からは頭椎大刀1点の他、大刀3点、鉄鏃約120点、玉類などが出土。金メッキで飾られた頭椎大刀は大和政権から下賜されたもので、 被葬者が地域の有力者であっことを示すものです。 |
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古代 約1400~900年前 概要 日本という国家が成立した時代です。中国の隋や唐、朝鮮半島の百済や新羅から律令制度などの国の仕組みを学び、 飛鳥地方を中心に中央集権国家が造られました。 やがて藤原京、平城京と都の場所は移されます。 各地には寺院や地方支配のための役所が造られました。 こうした国家の支配には組み込まれなかった北海道では擦文文化を営み、沖縄では貝塚時代が続いていました。 今回展示する遺跡 奈良県の史跡・名勝飛鳥鏡跡苑池は飛鳥時代の庭園遺跡で、詳細がわかる庭園としては日本最古の事例です。 奈良県の史跡・唐招提寺旧境内は唐の高僧鑑真和上が創建した寺院で、境内から多くの三彩瓦が出土しました。 |
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100飛鳥京跡苑池 飛鳥時代 約1350年前 奈良県明日香村村岡 遺跡概要 飛鳥時代の庭園遺跡で、苑池の範囲は、南北280m東西100m。代々の天皇の宮が置かれた史跡飛鳥宮跡の北西約100mにあり、 天皇の訪れる特別な庭園と考えられます。 調査区の風景 南北2つの池と渡堤、水路などがあり、噴水のような石造物も備え付けられていました。今回水路から、海老錠の牡金具が出土しました。 飛鳥時代の出土例としては極めて保存状態がよく、導入期の形態を知る一級の資料です。 |
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110唐招提寺旧境内 奈良時代 約1250年前 奈良県奈良市五条町 遺跡概要 天平宝字3(759)年、唐の高僧鑑真和上が建立した寺院です。現在も金堂や講堂など創建当初からの建造物が残ります。 西室跡や講堂軒廊跡、金堂回廊などの発掘調査が行われ、金堂回廊の大きさなどが明らかになりました。 三彩瓦の出土状況 西室と講堂の間の調査区から三彩瓦が大量に出土しました。唐招提寺の三彩瓦は波状の文様を描きます。国家が生産を管理していたとみられ、 唐招提寺と国家との強い結びつきを示しています。 |
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中世 約900~約400年前 概要 新たに台頭した武家が、京都の朝廷に代わり政治権力を握った時代です。 平安時代の後半から鎌倉時代、室町時代と政治権力が移り変わり、室町時代の後半には戦国時代へと突入します。 各地に残る防御性の高い城館は、当時の戦乱の様子を伝えています。 北海道ではアイヌ民族によるアイヌ文化が花開き、 沖縄では各地に城 (グスク) が造られるグスク時代 (戦国) へと突入しました。 今回展示する遺跡 愛知県の普門寺旧境内は、伽藍の跡など250を超える平坦地が現在も残る、東海でも屈指の規模を持つ山林寺院です。 香川県の高松城、浜ノ町遺跡は、珍しい中世の港町です。 北海道のオニキシベ2遺跡は中世アイヌのお墓で、現在まで続くアイヌ文化の長い伝統を示す首飾りが出土しました。 |
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120普門寺旧境内 平安中期~江戸初期 約1000~400年前 愛知県豊橋市雲谷町ナベ山下 遺跡概要 奈良時代に行基によって開山され、平安時代には源頼朝が平家追討を祈願したと伝わる三河屈指 (みかわくっし) の山林寺院です。 船形山の山腹には伽藍の跡を示す平坦地が現在も250以上残されており、かつての威容を伝えています。 ※250以上の平坦地とは、そこに小寺院 (塔頭=たっちゅう) があったという意味。(寺院規模は何千人から、周辺の門前町を入れると何万人か) 元々堂の礎石建物跡 旧境内の面積は約33万㎡にも及びます。その中心には、10世紀に成立し、13世紀まで造成を繰り返しつつ範囲を広げる元々堂や、 12世紀に成立し付近に石組で護岸された池をもつ元堂という、2つの本堂が所在しています。 薬師岩 これらの周辺には多数の平坦地に加えて、薬師岩や望寺岩といった名がつけられた巨岩などが広がります。 広大な山中に多様な遺構が分布することが明らかとなり、東海を代表する山林寺院の全容が判明しました。 |
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130高松城跡・浜ノ町遺跡 平安時代末~室町時代 約900~600年前 香川県高松市玉藻町2−1 遺跡概要 高松城跡西の丸地区では、築城以前の12~13世紀にかけて、海に向かう斜面に造られた礫敷や船着場の木杭と横木など、 港の遺構が発見されました。 木製碇の出土状況 この港は13世紀後半には放棄※されますが、直後に西に500mの地点に新たな街が造られます。浜ノ町遺跡です。 河口の砂堆上という立地が西の丸町地区と共通し、多数の搬入土器の出土から、新たな港であったと考えられます。 ※放棄され、新造された理由は、砂礫の堆積が進み、港湾が浅くなったことが原因かな。 遺跡を取り巻く区画溝 浜ノ町遺跡では、トイレや灯明皿など中世都市や寺院で見られる遺構・遺物が出土しており、都市的な生活様式が想定されます。 発掘調査による港の発見は非常に稀で、中世港湾都市の実態解明という重要な成果が得られました。 |
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131高松城跡出土品 |
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140オニキシベ2遺跡 中世アイヌ文化期 約700年前 北海道勇払郡厚真町幌内400-1 遺跡概要 厚真川と鬼岸部川の合流点に接する河岸段丘上に立地する遺跡で、道南と道北を結ぶ北海道内陸ルート上に位置していたと考えられます。 アイヌ文化期の平地式建物1棟、シカ送り場1ヵ所、土坑墓4基が発見されました。 1号墓の完掘状況 成人女性の墓である1号墓からは、和鏡を再加工した鍔状銅製品 (つばじょう)、ガラス玉やメノウ玉、古銭などが出土しました。 この玉類と古銭の組み合わせは現在のアイヌ民族の女性が最も大切にする首飾り「タマサイ」と同じ構成です。 3号墓副葬品 3号墓、成人男性の墓からは和人男性の象徴である日本刀と、アイヌ民族の男性の象徴である蝦夷太刀 (エムシ)、飾り矢筒 (イカヨピコロ) など 出土しました。 |
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刀のつばのような形をした薄い銅の板、十六枚の古銭、そして七十三点にも及ぶ色鮮やかなガラス玉と五点のメノウ玉。これは、北海道厚真(あつま)町にあるオニキシベ2遺跡で約七百年前の女性の墓から出土した、アイヌ民族の女性が最も大切にするタマサイ(首飾り)です。 銅の板は首飾りの真ん中に付けたシトキ(飾り板)で、古銭は中央の穴に紐(ひも)を通し、飾り板の両側に付けられていたと考えられます。タマサイは正装時につける大切な宝物でした。薄い銅の板は十二世紀後半に本州で作られた和鏡で、古銭は中国のものです。 ガラス玉とメノウ玉はサハリン経由で大陸から搬入されたもので、アムール川流域のものとよく似ています。 本州や中国、ロシアという異なる地域で作られたものが、この地に集められ、タマサイというひとつの服飾品となったのです。中世のアイヌ民族は、海峡を渡り、山を越えさまざまな地域と活発な交易を行うとともに祖先から受け継いだ精神文化をとても大事にしていました。このタマサイからは、異文化交流の中でも伝統文化を重んじたアイヌ民族の姿を垣間見ることができるのです。 (近江俊秀・文化庁記念物課 文化財調査官) 東京新聞記事より拝借 |
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近世 約400~約150年前 概要 安土桃山時代から江戸時代にかけて再び全国が統一された時代です。 江戸に幕府が開かれ、約250年間に亘る太平の時代が訪れました。海外との交渉窓口は一部に限られ、日本独自の文化が発展しました。 北海道ではアイヌ文化の下、各地にチャシが造られました。 沖縄では琉球王朝による統一と支配が行われました。 今回展示する遺跡 島根県の史跡田儀櫻井家たたら製鉄遺跡は、150年続いた出雲を代表するたたら製鉄遺構です。 鹿児島県の鹿児島城は西南戦争の舞台で、石垣には銃弾・砲弾の痕跡が残ります。 その他、各時代にまたがる遺跡として、 徳島県の各地に残る津波被害に関する碑文 (南海地震阿波地震津波碑) を紹介ます。 |
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150田儀櫻井家たたら製鉄遺跡 江戸~明治時代 約250~150年前 出雲市多伎町奥田儀 リンク1 調査報告書 遺跡概要 当家は江戸初期から明治初期にかけて、出雲における屈指の収益を誇った、たたら製鉄の経営者です。 出雲西部の山間地域や臨海地域で多数のたたら場を営み、生産された鉄製品は全国各地に運ばれました。 製鉄遺跡 中心的な越堂たたらでは約150年間も操業し、通常の20~30年程度とされる操業寿命をはるかに超えるものでした。 |
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160鹿児島城跡 江戸時代~明治時代 約400~150年前 鹿児島市城山町7−7 遺跡概要 鹿児島城 (別名鶴丸城) は1601年頃から築城が開始され、1615年頃にほぼ完成した、薩摩藩の本城です。 明治10 (1877)年、西郷隆盛が布陣した西南戦争の舞台となりました。 石垣に残る銃砲弾痕 石垣に残る銃弾・砲弾の穴や、破片が戦闘の凄まじさを物語ります。 石製日時計の出土 西南戦争の痕跡の一方、能舞台と楽屋を結ぶ廊下の床面が検出されたほか、様々な薩摩焼や石製日時計など、 薩摩藩の文化の一面が出土しました。 |
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170南海地震阿波地震津波碑 室町時代から現代 約650~70年前 徳島県 |
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復興のための文化力 |
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180高根遺跡 縄文中期 約4500年前 岩手県宮古市近内第11地割11 遺跡概要 三陸沿岸道路建設の事前調査です。丘陵の先端地、上から下まで40mもの高低差がある急峻な場所に縄文中期の大規模集落がありました。 尾根上に密集する貯蔵穴群 圧巻は、足の踏み場もないほど密集する沢山の貯蔵穴です。平均で、直径2m深さ1.5~2mで尾根の急斜面にも造られており、その数500基超です。 遺構分布 貯蔵穴以外にも竪穴建物100棟前後や土器捨て場などを検出。竪穴建物は斜面下方など相対的に低い位置に、貯蔵穴は高い位置にあります。 |
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182大木式土器 |
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190五畝田・犬這遺跡 古墳時代前期 約1700年前 福島県南相馬市原町区雫地内 遺跡概要 被災農地の復旧工事に先立ち調査した。 現在の海岸から約750m内陸の丘陵上に立地します。古墳時代前期の竪穴建物19棟を中心として 縄文前期や平安時代の集落が見つかりました。 竪穴建物の調査 古墳時代の竪穴建物からガラス小玉2点、管玉1点が出土。コバルトブルーに輝くガラス小玉は垂涎の出土でした。 調査風景 古墳時代の竪穴建物1棟からは、装身具のガラス小玉2点と管玉1点や、日常使用の土師器の鉢・壺・甕などが出土。 玉類の竪穴建物からの出土は稀で、もしかすると、住居を廃棄する祭祀に使われたのかもしれません。 |
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コバルトブルーのガラス玉 ガラスには鉛ガラス や カリガラスなどあります。 歓声が上がるほどの美しい色は、風化していないカリガラスでしょう。 コバルトブルーのカリガラス ガラス素材は弥生時代から造っていた コバルトブルーのガラス |
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発掘された水中遺跡 |
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200水中発掘 |
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201江ノ浜貝塚 奈良時代~平安時代 約1300~1200年前 宮城県東松島市宮戸島江ノ浜 遺跡概要 松島湾最大の宮戸島の、被災堤防の復旧に伴う調査です。 平安時代の製塩遺跡です。標高1m~2mの砂州から汀線にかけて凝灰岩の切り石を組んだ製塩炉が3か所発見されました。 製塩遺構 炉の周辺には灰や焼土、炭、壊れた製塩土器などが堆積しています。製塩土器には、厚手大型のものと、薄手小型のものがあり、 出土する場所が異なることから、塩づくりの作業内容に応じて使い分けられていたとみられます。 |
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210粟津湖底遺跡 縄文時代早期~中期 約9000~4500年前 滋賀県大津市晴嵐沖 遺跡概要 琵琶湖の水面下1~2mの湖底に水没している縄文時代の貝塚です。淡水産の貝塚としては、世界最大級で、陸上で形成後地盤沈下で水没した。 調査風景 水中遺跡の調査として早い時期に行われた事例として有名です。 昭和27年の発見後船上からの分布・ボ―リング・素潜り観察・潜水機器調査が行われました。 遺跡遠景 平成2年からは調査区を二重の鋼矢板で囲んで排水し、陸上遺跡同様で行われ、様々な調査手法の導入により、 当時の食料事情を知ることができました。 |
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211粟津湖底遺跡の土器 土器形式は、近畿地方の早期後半を示す標識遺跡。 前期後葉には、北白川下層Ⅱ式・Ⅲ式土器が位置づけられている。 北白川下層Ⅱ式 ・北白川下層Ⅲ式 |
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220瀬戸内海の海揚がり遺物 弥生~室町時代 約2000~600年前 香川県高松市・丸亀市 遺跡概要 瀬戸内海は四国と中国、九州と近畿を結ぶ海の道としてあらゆる時代に利用されてきました。豊かな漁場でもあり、香川と岡山の間の海底では、 漁網により、弥生時代から室町時代の様々な遺物が引き上げられています。 古代日本の駅路と航路 丸亀市の手島沖で引き上げられた弥生中期中頃の壺は、宮崎県日向南部の産です。 宮崎から備讃瀬戸まで400kmもの海を越えて運ばれたものとして、船を使った弥生時代の遠距離交易を物語ります。 海揚がり遺物は、海の交易ルートを知る手掛かりとなるのです。 |
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230相島海底遺跡 平安時代 約1500年前 福岡県新宮町 遺跡概要 福岡県新宮海岸から北西に約7.5km、玄界灘に浮かぶ相島は一周約8kmの島です。遺跡は、島の東部の推進約16m~18mの地点に所在します。 漁師の網に度々瓦が引き上げられたことが契機となりました。 調査風景 平成27年には水中ロボットを用いた調査が、翌年には海底地図の作成や遺物の視認調査が行われ、南北30m東西40mに平瓦20枚余検出した。 遺物の出土状況 周辺では以前から福岡市斜ヶ浦瓦窯跡や平安宮の朝堂院出土の「警固」の文字を持つ平瓦が見つかっていました。 今回発掘された瓦は、斜ヶ浦瓦窯で製作され、平安京に運ぶ途中で水没したものかもしれません。 |
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240倉木崎海底遺跡 グスク時代 約800年前 鹿児島県宇検村湯湾 倉木崎海底遺跡 | アジア水中考古学研究所 遺跡概要 奄美大島南西部の焼内湾は奥行きが深く、古くから良港として知られていました。平成6年、釣り人が釣った陶磁器がきっかけとなり、 発掘調査が行われ、大量の中国製陶器片が沈んでいることが明らかになりました。 出土遺物 発掘された陶磁器の半数以上は青磁で、中国浙江省の龍泉窯産のものが多く見られます。水深2~4mと非常に浅い場所で発見されたため、 船が座礁した際に軽くするために積み荷を投げ捨てたとみられます。 調査風景 平成26年には、様々な探査機による調査が実施されました。 透き通った浅い海底にあるため、船上から箱メガネを使った遺物観察会なども行われています。 |
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250鷹島神崎遺跡 鎌倉時代 約750年前 長崎県松浦市鷹島東岸(神崎免)沖 遺跡の概要 2度の蒙古襲来のうち、弘安の戦(1281)の際に集結していた元軍が暴風雨により壊滅的な打撃を受けた地が、史跡鷹島神崎遺跡です。 平成24年に日本初の水中遺跡として南北200m東西1.5kmの範囲が史跡指定されました。 復元した元寇舟 古くから地元の漁師により、遺物が引き上げられており、昭和55年以来、継続的に調査が行われてきました。それにより、2隻の沈没船の姿が 確認されており、船や碇の構造などの調査研究が進められています。 大イカリの出土状況 出土品には元軍が携えていた「てつはう」や鉄製冑、刀剣などの武器類、中国産陶磁器を中心とする日用品類などがあります。 史跡鷹島神崎遺跡は、日本史の一大画期となった大事件の物証として、史跡として保護が図られています。
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260神津島沖海底遺跡 ~遺跡の概要~ 江戸時代 約200年前 東京都神津島 伊豆諸島の神津島沖約700m水深30mの海底に所在する遺跡です。 中近世には太平洋の黒潮が船路となり、伊豆諸島は鎌倉や江戸に物資を輸送する際の目印、あるいは荒天時の寄港地として利用されてきました。 神津島の遺跡分布 周囲では早くから江戸時代後期の遺物が発見されており、平成4年に発掘調査が行われました。 船材もしくは船箪笥の一部とみられる木製品や碇が確認され、陶器9点、すり鉢23点、硯66点が引き上げられました。 調査風景 関西周辺で作られた遺物が目立つことは、関西で荷積みした千石船が江戸に向かう途中で沈没した可能性を示しています。 また、完形品がまとまって出土しましたがこうした資料が良好に保たれていることも水中遺跡の特徴です。 |
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270開陽丸 前出 でまえではありません。ぜんしゅつです |
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290特別報告 熊本地震からの復興に向けて |
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291地震・津波被害の記録 |
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292昭和東南海地震 1944.12.07 熊野灘を震源とするM7.9の地震が発生した。被害は、静岡・愛知・三重に集中し、死者1,183人。特に三重県熊野灘沿岸地域では、 地震直後短時間で最大9mの大津波が繰り返し押し寄せ、甚大な被害を及ぼしました。 三重県内の被害は、死者373人、負傷者607人、流出家屋2,238棟、住宅全壊3,376棟でした。 太平洋戦争終末期の報道統制により、国民に全貌は知らされませんでした。 過去の地震を知り、大地震に備える 今後南海トラフ地震が発生するとM8~9、伊勢志摩・東紀州を中心に震度6強以上、場所によっては11mを超える大津波が予想されます。 三重県ではこれ以外に、活断層のずれによる内陸直下型地震でも、震度6強が予想されます。 過去には1854(安静元)年に、木津川断層によるM7.2の「安政伊賀上野地震」(震源)が発生し、亀山・鈴鹿・桑名など、広範な地域で甚大な 被害がありました。
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293全国埋蔵文化財法人連絡協議会 -日本列島を発掘する- |