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目
次 |
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01外観
10入口展示
20弘化谷古墳の壁画
30前室展示
33盃状穴
常設展示室
40年表
50石器(旧石器~縄文)
60土器(縄文~弥生)
80甕棺
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83森園遺跡の始まりと展開
100壁画を守る
120彩られた黄泉の世界
150石人像と土器埴輪
160石人山古墳の世界
180装飾古墳と石人石馬
190馬具
210古墳から出土したもの
※考察 驚き古墳社会
220有力者の姿
230古墳築造の経費と人員
240石室の遺物
280火への感謝と畏れ
240石室の遺物 |
300古墳時代の暮らし
310竪穴住居とカマド
320古墳時代の集落跡
330器いろいろ
332赤と黒の土師器
355鉄製品
362『あな』のなか
366何を食べていたのかな
367岩坪石棺の副葬品
368久泉・下牟田古墳 |
370福岡県の銀象嵌円頭柄頭
400直弧文の世界
420双石室の墳丘墓
450岩坪石棺の人骨
460石人山古墳の石棺
465高長遺跡
473埋納土器の発見
475直弧文とは
500石人と石棺
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お詫び
掲示される写真は、編集間違いで、全て大きすぎて閲覧しにくくなっています。
[Shiftキー]+[マウスのダイヤルを手前に回転]して、画像サイズを小さくしてください。
なにぶんにも大量の画像なので、再度編集し直すことは困難です。よろしくお願いします。
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01外観
弘化谷古墳 |
弘化谷古墳(6世紀中頃築造)
高さ7m直径39mに復元される2段築成の大型円墳です。1970(昭和45)年に果樹園造成中に偶然発見された古墳です。
この時、石室の1/3まで壊れましたが、その後復元され、観察室を備えた保存施設が1990(平成2)年に完成しました。
やや胴張りの横穴式石室内の石屋形奥壁に、赤色と緑色を使って靫(矢入れ)・双脚輪状文・同心円文・連続三角文が描かれ、
天井と側壁の内側には赤色 使った三角文が描かれています。 |
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石人山・弘化谷古墳公園
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石人山・弘化谷古墳公園
八女丘陵上には、300基近くの古墳があると考えられていますが、石人山古墳・弘化谷古墳を含む8基の古墳が「八女古墳群」として国の史跡に指定されています。この古墳公園は、古代史研究や古代ロマンに思いをはせる場所として、石人山・弘化谷両古墳を見学しながら楽しんでいただくところです。
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八女古墳群(石人山古墳・弘化谷古墳・善蔵塚古墳・以上広川町。
岩戸山古墳・乗場古墳・丸山古墳・丸山塚古墳・茶臼塚古墳・以上八女市) |
広川町古墳公園資料館 |
広川町古墳公園資料館
広川町は、八女丘陵や町の北側の丘陵など各所に多くの古墳が点在します。また、これらの古墳の母体となった集落跡も丘陵や平野部に確認されています。
これらの古墳や集落跡の発掘調査により、私たちの郷土の人々が古代においてどんな生活をしていたのかを知るうえの、貴重な資料も沢山出土しています。
1階は、ロビーに弘化谷古墳石屋形の複製を常設展示し、展示室には石人山古墳・弘化谷古墳を中心に、古墳時代をよく理解するために遺跡から出土した遺物などの展示を行っています。
2階には、研修室・資料室を設けています。研修室唐は、石人山古墳と弘化谷古墳を見渡すことができます。 |
石人山古墳
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石人山古墳 (5世紀初め~中頃に築かれる) 八女地方最古の前方後円墳
全長107mで「造り出し」を持ち前方後円墳。前方部2段・後方部3段に築かれています。
前方部で幅約63m高さ11m、後円部では直径約53m高さ12mの規模です。
後円部の中央には天井石が失われた横穴式石室が西に向けて開口し、石室内の空間を埋めるように凝灰岩製の横口式家形石棺が置かれています。
石棺の屋根の両側に直弧文・重圏文がそれぞれ5個づつ立体的に浮き彫りされ、赤く塗られていた跡も残っています。
前方太後円部のくびれ部分に、石棺・・・・・武装した姿の石人が立って・・・・ |
古墳公園資料館 |
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10入口展示
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20弘化谷古墳の壁画 |
21弘化谷の壁画
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皆さんの前にあるものは、古墳公園内にその姿を復元している「弘化谷古墳」の石室の中に造られた石屋形と、その内壁に描かれている装飾壁画のレプリカです。
この「石の家」のような石屋形の中に、地域の有力者が死んだ後、横に寝かされ、永遠の眠りについたのです。
私たちは、紙によく絵を描きます。弘化谷古墳では、亡くなった有力者の魂が安らかに鎮まることと、死者に悪霊などが近寄らないことを願って、古代の絵のうまい人が、平たい石に赤や緑の色を塗り、靫(矢筒)・同心円文・双脚輪状文・三角文などの文様を描いたのです。
この壁画には「まじない」的な意味もあったと思われます。 |
双脚輪状文のはなし
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石屋形の中を見てみましょう。壁画の真ん中の左寄りに、円文から「タコ」の足のようなものが2本延びている文様が2個並んでいます。
そうです!この文様が、双脚輪状文です。この文様は、日本でも九州の福岡県と熊本県の四つの古墳だけで発見されているのです。
どうですか?不思議な形ですね。何をもとにして描かれたのでしょうか。「翳(さしば)」と呼ばれる大きな団扇(うちわ)がもとになっているとも言われますが、まだよくわかっていません。
しかし、弘化谷古墳に永遠に眠る人の生きていた頃の実力を示すとともに、魔除けの意味が込められていたことは確かです。 |
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弘化谷古墳の壁画 |
双脚輪状文のはなし |
弘化谷古墳石室内
石屋形の壁画
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双脚輪状文 |
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23 復元壁画
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23石室正面
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24石屋形上石
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25奥壁
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26右石
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27左石
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28屍床
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29天井蓋石
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30常設展示室前 展示
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33盃状穴
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人類が旧石器時代(約200万年前~1万年前)以来、岩や石に何らかの宗教的意味を持たせて刻み込んだ窪みを「盃状穴」と言います。
盃状穴の民俗的事例には世界各地で時代も異なり多くの事例がありますが、
代表的なものの信仰内容には「魂の再生」を願って行われた習俗例があります。
現在広川町郷土史会で調査している広川町所在の盃状穴は6例ございますが、
盃状穴に関係した民俗的な話はいまのところ聞かれません。
ここに展示している盃状穴を有する石材は、中島忠義氏よりご寄贈いただいたものであります。 |
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34甕棺
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この甕棺は蓋のあるタイプだが、木蓋だったのか、蓋にしていた土製品が
微塵に壊れて採集できなかったのか、どちらかですね。 |
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常設展示室
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40年表
いろんな「もの」がむかしを語る
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昔があって今があり、今があって未来もあります。当たり前のことですが、大変重要なことなのです。
人は、何千年か前の大昔でも、今と基本的に大きな変化はないと考えられています。喜び、悲しみ、ときには怒り、そして1人では生きていくことが難しいので家族を中心とした集団を作ります。また、よその進んだ文化を取り入れ、自分たちの文化を発展させ、人として生まれれば必ず死がおとずれます。
私たちの今の生活は、過去の人々の歴史の上に成り立っています。しかし、文字のない時代のことを知るためには、当時の人が使っていた「もの」や「家・村」の跡を調べることが必要になります。
このコーナーには、昔の生活が分かる「もの」の一部を展示しました。 |
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いろんな「もの」がむかしを語る |
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弥生後期~古墳前期 |
古墳中期 |
古墳中期後半~
古墳後期前半 |
古墳後期 |
古墳後期 |
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50石器 旧石器~縄文時代
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尖頭器(ポイント)
2万年前 旧石器時代
佐賀県多久市 |
石鏃 |
石鏃
縄文早期-中期-後期
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石斧(打製・磨製)
~古墳時代
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ナイフ形石器
スクレイパー
縄文早期-中期
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磨製石斧
剥片
(サヌカイト・黒曜石)
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原石
サヌカイト・黒曜石
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60土器 |
61縄文土器
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63弥生土器
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玦状耳飾り尻高遺跡 |
弥生土器 尻高遺跡
土製紡錘車 |
磨製石剣
田川市下伊田遺跡
石包丁 尻高遺跡
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石鎌
瀬高町 中園遺跡 |
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70 |
71
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73弥生土器 川上人頭遺跡出土
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80甕棺 |
81
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成人甕棺
一條・森園遺跡 |
成人甕棺の上甕
弥生時代中期
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成人甕棺の下甕
弥生時代中期 |
成人甕棺の上甕
一條・森園遺跡
弥生時代中期
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石鉾先? |
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成人甕棺下甕の半切
弥生時代中期 |
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83森園遺跡の始まりと展開
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一條森園遺跡では、八女丘陵周辺でも珍しく
弥生時代の住居と共に、前期末から中期中頃にかけての縦列埋葬から
群集墳への移り変わりを示す合計200基からなる「墓地群」が発見されました。
なかでも地域色豊かな甕棺の時期変遷や各種の木棺墓・石棺墓・土壙墓の類例は興味深い歴史資料でした。
その後、
古墳時代後期になると「集落」として住居が台地全面に拡大、飛躍的に発展したことがわかります。
これには八女丘陵に築かれた八女古墳群(筑紫国造家)の動向と在地勢力の不可分な社会状況が繁栄していると考えられます。
広川の流れが作った台地上の大規模な遺跡には、古代の一般民衆の残した様々な生と死の世界を示す痕跡が埋もれていました。 |
成人甕棺と小児甕棺
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森園遺跡の甕棺群は民衆の集団墓です。その証拠に豪華な副葬品は見られません。今回展示したのは成人用と子供用の甕棺です。
甕棺は、上甕と下甕をセットにしたり、下甕の口を平たい石で塞いだり、展示しているように上甕を打ち欠い足りして下甕の口を覆ったりしています。
甕棺を利用した葬制に於いては、甕棺の出来上がりサイズやその場の状況に合わせて臨機応変に対応したようです。
展示している小児甕棺は親か親族と思われる成人甕棺のそばに埋められていました。
弥生の人々は卵型の葬送空間(甕棺)に、魂の再生を願ったのでしょう。 |
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森園遺跡の始まりと展開
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小児甕棺 |
成人甕棺と小児甕棺 |
成人甕棺
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100壁画を守る 弘化谷古墳、整備のあゆみ
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昭和45(1970)年、ぶどう園の造成中、偶然弘化谷古墳の石室とその石屋形に約1400年ぶりに太陽の光が入りました。
皆さんが資料館の玄関正面でご覧になった石屋形内の装飾壁画が、生きている人々の目に初めて触れたわけです。
その後、石室入口は壁画保護のため、土嚢で塞がれ、15年が経過した昭和60(1985)年から、本格的な整備事業が始まりました。
その間昭和52(1977)年7月に「国指定史跡」に指定されました。さて、整備事業は古墳を復元し、壁画を保存公開するために6年間を必要とし、平成2(1990)年完了したのです。現在、弘化谷古墳・石屋形奥壁の壁画は発見後色あせることなく密閉され、年2回(4月11月)の一般公開のときには、観察室を通してたくさんの見学者の温かい目に見守られているのです。 |
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101
壁画を守る |
壁画を守る |
読売新聞記事 |
朝日新聞記事 |
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103発見と保護と整備
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昭和45年(1970)ブドウ園の造成中、偶然弘化谷古墳の石室とその石屋形に約1400年ぶりに太陽の光が入りました。
皆さんの資料館の玄関正面でご覧になった石屋形内の装飾壁画が、生きている人々の目に初めて触れた訳です。
その後、石室入口は壁画の保護のため、土嚢で塞がれ、15年が経過した昭和60(1985)年から本格的な整備事業が始まりました。 |
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弘化谷古墳発見当時
墳丘部 |
弘化谷古墳発見当時
玄室内石屋形
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着工前-墳丘全形 |
残存袖石実測 |
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105遺跡の評価
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その間、昭和52(1977)年7月に「国指定史跡」に指定されました。さて、整備事業は古墳を復元し、壁画を保存したのです。
現在、弘化谷古墳、石屋形奥壁の壁画は発見後色あせることもなく密閉され、年2回(4月と11月)の一般公開の時には、観察室を通して沢山の見学者の暖かい目に見守られているので手す。 |
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壁面保護(和紙) |
温湿度センサー設置 |
まぐさ石設置 |
昭和62粘土工事完了 |
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110
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合計187基も発見された甕棺や土壙墓 |
堤瓶
弘化谷古墳 |
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120彩られた黄泉の世界
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古墳時代、特に5・6世紀を中心として、主に古墳の石室の中に装飾を施したものがあります。これらを「装飾古墳」と呼んでいます。
装飾古墳は、全国で約600基くらいあるようです。特に西日本では、熊本・福岡両県に全体の4割近くが分布しています。
この古墳公園では、石人山古墳に行くと石棺の蓋の表面に浮彫様の装飾が施されているのを見学できます。
また、弘化谷古墳では年2回ですが、観察室の内側から、石屋形の奥壁に直接色を塗った壁画を実際に見ることができます。
近くの熊本県では、古墳の石室の中を区切るのに使う板状の石(石障)や仕切り石に、彩色・彫刻をするものや、
菊池川流域に多い横穴墓(自然の崖に墓の部屋を彫り込んだもの)の入口の壁面などに、浮彫が見られるものもあります。
幸運にも現在生きている私たちは、これらの装飾を、古代の芸術として鑑賞できます。
しかし、忘れてはならないのは、当時は死の世界に旅立った人々のためだけになされたものであったということです。 |
石人山古墳の世界
➀出土物から分かること
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石人山古墳の石棺は、江戸時代には既に盗掘され、入口が開いていました。当然ながら、死者と一緒に埋葬された副葬品についてはその言い伝えすらありません。
しかしながら幸いに、古墳の前方部南側が開墾された時などに、採集された物があります。これらのものが、石人山古墳の造られた年代の手懸りを与えてくれてます。
これまでに採集された陶質土器や円筒埴輪は破片ですが、とても貴重です。このコーナーでじっくりご覧ください!数は少なくとも、これらが私たちに語ってくれることは、とても大きな意味をもっています。
今わかることは、この古墳が5世紀の前半頃に突然出現した八女古墳群最古の前方後円墳であるということです。ではこの古墳を作らせたのは一体誰なのでしょうか? |
②不思議な不思議な直弧文
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直線と帯のような曲線を描く文様が組み合わされて出来た文様が「直弧文」と名付けられました。
一目見てお分かりのように、難しい文様ですね。すぐには描けないけれど、何種類かの決まった図柄をもとに描かれたようです。
さて、石人山古墳の直弧文を見て下さい。直弧文はふつう線刻で施された平面的な物が多いですが、この古墳の石棺に彫刻されたものは、斜めから見ると帯のような文様が波打って、やや立体的な感じに浮彫、線刻されているのがわかります。こういう点に、この石棺を装飾した職人の技の力量を見て取れます。
この不思議な文様には、しっかり死者に安眠してもらうために、聖なる場所によこしまな物が入り込まないようにする意味があったと思われます。
5世紀代の古墳に流行するこの装飾文が、九州でも他に先駆けて家形石棺に用いられている事実に、石人山古墳に葬られた有力者の性格をみる気がします。 |
彩られた黄泉の世界 |
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石人山古墳の世界
➀出土物から分かること
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石人山古墳の世界
②不思議な不思議な
直弧文
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石棺と直弧文 |
石人山古墳の初期須恵器
石人山古墳出土の初期須恵器
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坩、器台 |
器台、壺 |
壺、ハソウ |
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130未撮影
石人山古墳の初期須恵器
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石人山古墳出土の須恵器は、かつては陶質土器(輸入品)と呼ばれていました。しかし、町史編纂時に胎土を分析したところ、甘木・朝倉地方の初期須恵器と近似する値が得られました。このことは、5世紀前半には朝鮮半島産である伽耶土器の形態や生産技術が西日本や築後地域に伝播していたことをうかがわせます。 |
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紐毛氈上の土器片を撮影していませんでした |
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石人山古墳の
初期須恵器
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140円筒埴輪
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150石人像と土器埴輪
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石人像 |
埴輪破片
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埴輪破片 |
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動物頭部 |
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円筒埴輪と形象埴輪
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※石人像があるのは、
磐井の支配する時代の古墳です。 |
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160石人山古墳の世界 |
161石人山古墳の世界
③過去の記録を見てみよう
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古賀組大庄屋の稲員 孫右衛門 安則(いなかず まごえもん やすのり)が書いた『家勤記得集』には、
石人・石馬が12個ずつあって、それにちなんで人形原(ひとかたばる)の地名が起き、貞享元年(1684)に地面に倒れていた石人を起して祀ったと、記されています。この孫右衛門による整備を最初として、当時の有名な文化人の訪問も記録に残っています。
江戸時代後期には、久留米藩士の松岡辰方の模写図、同じく藩士である矢野一貞による考証を始め、今日においてもなお高い評価を得ている調査や考証がなされています。
昭和30年頃までは、一般的には石人山こそが筑紫君磐井の墓と考えられていました。これは、本居宣長が書いた『古事記伝』などの影響が大きかったからと思われます。
現在、武装石人の足元に横たわる残欠(石人・石馬の形を留めていないもの)は、参道正面石段の道を挟んで反対側の丘にあったことも、『筑後国柳川原石人図』で明らかになっています。 |
④「石人さん」のひとりごと
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みんな知ってる?僕が作られたのが、今から1500年以上も前だってこと・・・・。
最初は沢山の仲間がいて、にぎやかだったのに、お城の工事でほとんどが運び出されてしまい、残ったのは僕だけ。
とても淋しかったけれど、病気が治る神様として、ムラの人達にとても愛されてきたのはうれしかったなぁ。
昔の人が描いた石人の図を見ると、模様がだんだん消えていくのがよくわかると思うけど、これも皆に親しまれた証拠と言えば、仕方ないかもしれないね。
現在ぼくは、国の重要文化財なので、皆にさわってもらうことは出来ないけれど、この古墳のシンボルとしてこれからもずっと長く、親しんでもらえたらいいなぁと思っているんだ。 |
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石人山古墳の世界
④「石人さん」のひとりごと
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天保3年1832以前に描かれた、最古の図 |
「筑後国石人図考」
寛延4年5月1751年 |
筑後国柳川原石人図
安永2年1773 |
「福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書第十二輯」
天保3年1832年 |
帰厚遺物並三丘古物抄
嘉永5年1852 |
「筑後将士軍談」
嘉永年間1850年頃
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『石人石馬』
昭和60年1985 |
石人山古墳の世界
③過去の記録を見てみよう
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石人山古墳完形文献一覧
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165筑後国柳川原石人図
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安永2年(1773)空阿なる人物により移されたものを、天明3年に日下部勝美が再写し、さらに翌4年(1784)伊勢平蔵貞丈が写したもの。
伊勢平蔵貞丈は江戸中期の幕臣で、有職故実家。本書は人脈を頼りに情報を集め、江戸で刊行された版本。
江戸時代中期の頃の石人山古墳の様子をうかがうのに貴重な内容となっている。 |
文献記録
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筑後国柳川原石人図 |
筑後国柳川原石人図 |
福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第8輯 |
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福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第1輯 |
石棺図 |
石棺図 |
古墳計測図 |
断面図 |
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170石人山古墳の世界
⑤筑紫国みやつこ磐井
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『日本書紀』や『古事記』によりますと、西暦527年(継体天皇21年)大和朝廷は、同盟国・百済を救うために、新羅を攻めるための大群を出そうとしますが、筑紫国国造磐井がこの命令に従わず、これをさえぎったことから、天皇は磐井を打つ命令を出したと言います。
磐井と大和朝廷軍は、1年近くも戦いますが、これが「磐井の乱」と呼ばれる戦いです。
この結果、磐井は殺されたとも斬られたとも言い、あるいは『筑後国風土記逸文』では、豊前地方に逃れたとも言います。
岩戸山古墳は、磐井が生きている時に築いた古墳と考えられています。磐井の死後も筑紫国造の血筋は残って、西暦年664年頃までは続いていることが、史料からも知ることが出来ます。
八女丘陵上に築かれた古墳の数々は、それら磐井一族の血筋に連なった人物の墓と考えられていて、丘陵の西の端に位置する石人山古墳に葬られた人を、あるいは筑紫国の初代国造ではないかとする説もあります。 |
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石人山古墳の世界
⑤筑紫国みやつこ磐井
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岩戸山古墳全景 |
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家勤記得集
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(中略)
石人は甲冑を帯し、石馬は鞍轡を施し、一処に十二これを並ぶ。
吉田村の北岡・一條の南の丘・西牟田の北の岡三処に置くと。この曠夜を人形原と言う。世俗に、亦、長峯原という。東西三里有余、南北一里ばかり。慶長年中、前の国主田中筑後守吉政公、
福島城を築く時、石人石馬石をとり石塁となす。その石人一箇を残して、一條村の南の岡の上郊原
に偃臥す。
里童これを踏み、村犬これを穢す。時に安則これを工み、地を平らにし壇を築きてこれを立たしめ、路を開き気を植え以てこれを顕す。 |
家勤記得集
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石人山古墳の平面図 |
古墳とその形
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それぞれの地域で、そこの有力者達は生前の実力を示すために、しっかりして壊れにくい石の部屋を造り、これを土で覆って大きなお墓を築き始めました。これが古墳です。 この古墳が主に作られた、3・4世紀の頃から7世紀の頃までを「古墳時代」と言います。
古墳の形にはいろいろあります。例えば、この古墳公園の中にある弘化谷古墳は、お椀を伏せたような形ですね。これを「円墳」といい、当時の地面に土を突き固めて築いています。
そして、石人山古墳は横から見てもよくわかりませんが、上から見ると丸に四角を組み合わせた前方後円墳の形になっています。
この古墳は、小高い丘の頂上に平野を見下ろすように作られました。古墳の形は、時代や地域でもかわったものがあり、バラエティーに富んでいます。 |
古墳とその形 |
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180装飾古墳と石人石馬の分布
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装飾古墳と石人
・石馬の分布図 |
―共通するものを探してみよう― |
石人石馬は有明海沿岸地域を中心とする。 |
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古墳に使われた石の性質
【古墳の石材と緑泥片岩】
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面にそって平行に割れる性質を持つ、緑色を帯びた結晶片岩です。広川町では、上広川地域で産出する石材で、
現在も石垣などに多く利用され、「長延石ながのぶいし」の愛称で呼ばれています。
町内にある古墳の石室も、この石の割石を用いて小口積みにして築かれています。 |
【阿蘇溶結凝灰岩】
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大昔、阿蘇山の噴火に伴う火山灰を固形物とする、灰白色の岩石です。細工がしやすいことから、現在も石垣を初め橋の材料や、灯籠などに多く用いられています。八女市の長野地区で多く産出され、地元では「釜瀬石」の名で親しまれています。 |
古墳に使われた石の性質
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玄室奥壁を見る
緑泥片岩の割石を小口積みしている。
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胴張りプランの石室
複室両袖の横穴式石室
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阿蘇溶結凝灰岩 |
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190馬具
馬具 新代・鬼塚古墳群 6世紀後半
馬具 広川・東山古墳群 6世紀後半~末
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210古墳から出土したもの
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広川町ではこれまでに6世紀後半の頃の古墳が数多く発掘調査されてきました。ここでは、これらの古墳へ葬られた人と一緒に納められたものを考えてみましょう。
古墳時代も6世紀に入ると、4・5世紀に見られる祭に使用する宝器・神器のような「身分の象徴」を示すものから、
より実用的な性格へとその内容が変わっていきます。
当町で調査されている古墳からも、馬具や鉄鏃の出土が多く、金銅製(銅に金メッキしたもの)の耳環や、いろんな材質を用いた各種の玉などのアクセサリーが発見され、古墳時代後期の特徴がよくわかります。特に武器では、大刀の柄頭に銀で文様をはめ込んだものも出土しています。
こうしたものが出土する古墳は、そのほとんどが余り大きくない小円墳で、それも数基からなる古墳群からです。
この小円墳に葬られたのは、十数戸位からなる小さなムラの村長さんクラスの人々だと思ってください。
※考察 驚き古墳社会
これはすごい話で、現代の町内会長どころか、その下の地区の世話方(せわかた)程度の、吹けば飛ぶような小者が高価で立派な飾り馬を持ち、
それにふさわしい衣服や刀剣を持ち、馬小屋のある立派な家に住み、馬丁や下僕、下女をかかえ、
現代の運転手付き自家用車や女中を沢山雇う、金持ちのくらしをしていたとは、、驚きである。
すると,、この頃の農村には、最底辺に農奴がいてその上に農民がいて、それをまとめて税を取り立て、潤っていた程度の小者が、こんな金持ちだとすると、
私が古墳時代に抱いていたイメージとは随分違うことになる。 |
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鉄鏃
長延・上長延古墳群
弓付属金具
新代・鬼塚古墳群
6c後半
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刀子
新代・鬼塚古墳群
長延・上長延古墳群
6c後半
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短刀・鉄斧
長延・上長延古墳群
6c後半
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鉄鏃
広田・東山古墳群
6c後半~末
長延・上長延古墳群
6c後半
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鉄鏃
長延・上長延古墳群
6c後半
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鉄鏃
長延・上長延古墳群
6c後半 |
鉄鏃
広川・東山古墳群
6c後半~末 |
鉄鏃
長延・上長延古墳群
6c後半
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鉄鏃
長延・上長延古墳群
6c後半
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鉄鏃
長延・上長延古墳群
6c後半
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220有力者の姿 |
221装身具
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有力者の姿
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管玉(碧玉製)
広川・東山古墳群
6c後半~末 |
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丸玉(石・メノウ・ガラス)
棗玉(ガラス製)
長延・上長延古墳群
6c後半
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ガラス玉
広川・東山古墳群
6c後半~末 |
丸玉・管玉・臼玉
新代・鬼塚古墳群
6c後半
管玉(碧玉製)
広川・東山古墳群
6c後半~末
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勾玉(ヒスイ)
広川・東山古墳群
6c後半~末 |
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223
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勾玉(翡翠製)
丸玉(瑪瑙製)
広川・東山古墳群
6c後半~末
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算盤玉
新代・鬼塚古墳群
6c後半
玉(石英製)
長延・植松古墳群
6c後半~7c後半代
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空玉
新代・鬼塚古墳群
6c後半 |
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225
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耳環(金環)
新代・鬼塚古墳群
6c後半
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耳環(金環)
新代・鬼塚古墳群
6c後半
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耳環(銀環)
新代・鬼塚古墳群
6c後半
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耳環(銀環)
新代・鬼塚古墳群
6c後半
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勾玉の付いた首飾り
長延・山王山古墳
6c後半
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勾玉 |
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230
古墳を築くのにかかったお金と時間
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皆さん!石人山古墳や弘化谷古墳のような大きな古墳を築くときに掛った費用と時間をチョット想像してみてください。
ここに、大阪府のある古墳を例にした一つの興味深い数字があります。
石人山古墳とほぼ同じ規模の前方後円墳を築くのに、古代の人々が農業のあまり忙しくない時に働いて築いたとしても、
6年間に延べ27万6000人が働いたことになります。当時働いた人達に給料が支払われたとして、それを今のお金に直すと、総額117億円にもなるという驚くような数字が、はじき出されました。 |
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古墳を築くのにかかったお金と時間
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古墳築造に掛かる
人員と経費 |
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蓋坏の移り変わり
須恵器 蓋坏
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蓋ⅢA 長延・山王遺跡
6c中葉
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蓋ⅢB・身ⅢB
長延・山王遺跡
6c後半 |
蓋Ⅳ・身Ⅳ
6c後半
長延・植松古墳
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蓋Ⅳ・身Ⅳ
長延・山王山古墳
6c末
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坏身Ⅳ 長延・山王山古墳
6c末 |
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240石室の遺物の出土状況 鬼塚2号古墳 |
241
石室内遺物の配置 |
石室の遺物の珠度状況
鬼塚2号古墳
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刀子 |
大刀 |
空玉 |
耳環
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古墳発掘作業 |
古墳の発掘
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古墳を掘る
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243坏身
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坏身Ⅵ
長延・植松古墳群
7c後半代
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坏身Ⅵ
長延・植松古墳群
7c後半代 |
坏蓋・坏蓋Ⅴ
長延・植松古墳群
6c終末~7c前半代 |
坏蓋Ⅵ 長延・植松古墳群
67c後半代
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ヘラ記号 |
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ヘラ記号 |
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250工人とヘラ記号
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須恵器を作った工人「ものをつくる職人さん」にとってヘラは、土器を製品に仕上げるたための大切な道具でした。
ヘラって皆さん知っていますか?そうです。広川町では竹細工は有名ですが、その竹を細長く平らにして、先をナイフの刃のように薄く鋭くしたものです。
このヘラで、焼く前の土器を削ったり、刻み目を入れたり、ロクロから切り離し足りしました。また、須恵器の表面や内側には、このヘラでつけたいろんな記号が、見つかることがしばしばです。
広川町でも、昭和59(1984)年に調査された上長延古墳群で、そのヘラ記号を持つ土器が34個も発見されましたのでその一部をご覧下さい。
土器がまだ乾燥仕切っていない時に工人にをって付けられた、ヘラの宜うの目的。内容については、いまだによくわかっていません。 |
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須恵器 坏身・坏蓋
長延・上長延古墳群
6世紀後半
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須恵器 坩蓋・坏蓋
長延・上長延古墳群
6世紀末 |
須恵器 坏蓋・坏蓋
長延・上長延古墳群
6世紀末
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須恵器 坏身・湾
長延・上長延古墳群
6世紀後半、7世紀中末
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須恵器
坏身・坏蓋・高坏
長延・上長延古墳群
6世紀後半
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須恵器
坏蓋・高坏・高坏
長延・上長延古墳群
6世紀後半 |
須恵器
高坏
長延・上長延古墳群
6世紀後半 |
須恵器
坏蓋・坏蓋
長延・上長延古墳群
6世紀後半
・6世紀末
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坏蓋 |
椀、坏蓋 |
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260須恵器を見て下さい
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古墳に納められた土器をならべています。ここにあるのは「須恵器」と呼ばれる古墳時代の土器です。
須恵器の色は普通青みがかった灰色か、うすい鼠色で、見てお分かりのようにとても堅く焼き締まっています。
というのは、1000度以上の温度で焼かれているからです。こうして土器を焼く方法は、朝鮮半島から5世紀頃に、この技術を持った人達と共に日本に伝わったようです。
山や丘の斜面を利用して、下から上へトンネルのように斜面を掘り抜いた形(地下式)の窯や、この斜面に直接溝を掘って床面にして、その上を丸い天井で覆った形(半地下式)の窯も作られました。
30度位の傾斜がある窯の床面に、土器をならべ、下の口で火を焚くと、上の口が煙突になります。これが「登窯」です。
この登り窯と、「ロクロ」という遠心力を利用した回転台を用いて土器が形作られて、始めて須恵器が生まれます。
6世紀になると、最初は宝物のような扱いを受けていた須恵器も、全国各地で須恵器生産が始まると、日ごろ使用されるような実用的な種類のものが古墳にも納められるようになりました。 |
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須恵器を見て下さい |
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6世紀後半須恵器 |
台付椀・平瓶
坏蓋・坏身・坩・高坏 |
平瓶・壺
高坏・椀・ハソウ |
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270
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壺
長延・植松古墳群
6世紀後半
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提瓶
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横瓶 横瓮
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280
火への感謝と恐れ
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火に対する信仰は弥生時代以降に見られるようですが、古墳時代の5世紀前半頃になると、竪穴住居の一角にカマドが併設されるようになります。
かまどをこしらえる際に、その粘土の壁の中に土玉をや土製模造鏡をはじめ、手づくね土器などの祭祀用具が埋め込まれています。
あるいは、何らかの理由によってそのかまどを使用しなくなった場合にも同じように、祭祀用具を入れて粘土で塞いでいます。
これらのことが発掘調査によって沢山確認されています。
これは火に対する畏敬の念に基づく信仰で、火の霊魂を鎮める意味が込められているのです。
私たちの周囲では今日でも、家庭の台所に神棚をこしらえて、荒神さんを祀る家が少なくありません。
感謝と恐れを込めた「火の神」信仰は、古代人にとっても現代人にとっても、共通したものということが出来ます。 |
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周溝からの土器出土 |
植松4号墳 |
火への感謝と恐れ |
火への感謝と恐れ
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北の前遺跡工区
3号竪穴住居跡のかまど(高坏の支脚転用) |
25号竪穴住居跡のかまど(高坏の支脚転用例)
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17号竪穴住居跡かまど
小型甕の支脚転用
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須恵器 甕 6c後半
長延・植松遺跡 |
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310竪穴住居とカマドの様子
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竪穴住居とカマドの様子
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北の前遺跡1号竪穴住居
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1号竪穴住居カマド付近の土器出土 |
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カマド埋納物 |
火の神に捧げたミニチュア土器
土製勾玉
土玉 |
高坏転用支脚 |
高坏転用支脚
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土玉・棒状土製品・土製管玉
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湯沸し甕
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320古墳時代の集落跡
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広川町では割子田遺跡、北の前遺跡などが、古墳時代後期を中心として営まれた集落として調査されています。
このコーナーでは、平成2~3(1990~1991)年に2次にわたって調査された「北の前」地区を中心に、約1400年前の人々の生活を一部再現してみました。ここでは、十数軒からなる小さな集落がいくつかまとまり、この地域で力を合わせて生活していたことが判っています。
権力を持った一部の豪族・有力家族が地上に床を張った家に住んでいたのに対し、一般の農民の多くは、地面に穴を掘った竪穴住居に暮らしていました。
古墳を掘ると、その当時の有力者のために納められた土器・鉄器・装身具などで文化の高さがわかりますが、
反対に古墳を作ることができない多くの人たちが、この時代を支えていたことも忘れないでください。 |
器いろいろ
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集落で出土する土器の大半は、土師器です。
土師器は、縄文土器・弥生土器の伝統を引き継ぎ、850℃前後で焼かれた赤色素焼きの土器です。
文様はなく、粘土を巻き上げて作られ、刷毛目やヘラ磨きで仕上げられています。その粘土も、キメが細かく水ごしされたものです。
「北の前遺跡」の竪穴住居から発見される土器は、須恵器が全体の約15%と少なく、そのほかは土師器で占められています。
このように、古墳時代の土器には須恵器と土師器があり、日常人々が炊事や食器に使う土器は土師器が使われていたようです。
この点を見ても分かるように、須恵器は貴重品で、焼き損じたものも大事に使われています。
ただし土師器は、5世紀になっても須恵器が登場した後は、その使用方法や器の種類も、おもに食物を蒸すための甑や煮炊きに使え甕、碗、皿などの食器に限られていきます。
しかし、古墳時代の集落では、家族が使うめいめいの器や共通の器は、土師器が主役であったことは疑いようがないでしょう。 |
器いろいろ 北の前遺跡
土師器
北の前遺跡 |
器台、鉢形土器
4世紀 |
甕、高坏、坏
6世紀後半 |
高坏6世紀後半
北の前遺跡 |
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高坏、碗
北の前遺跡
6世紀後半 |
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330器いろいろ |
331北の前遺跡の位置と全景 広川町大字一条
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332
「あか」と「くろ」の土師器 一条北の前遺跡 6世紀後半
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「北の前遺跡」では、ふつうの土師器とは見た目も違い、特別な目的で使われたのではないかと考えられる土器が出土しています。
それは丹塗りと黒塗りの土師器です。丹は二酸化鉄で、これを土器の表面に塗って赤い色を出し、黒い色は漆を塗って須恵器に似せています。
「北の前」集落の竪穴住居では、普通の土師器に混ざってもこの種類の土器が発見されていることが特徴です。
丹塗りのものは高坏に、黒塗りのものは坏や椀に多く見られます。
「あか」と「くろ」で、どういう使い分けがあったかはよくわかりませんが、
その当時の生活に関わるお祀りが、これらの土器で行われていたのかもしれません。 |
一条北の前遺跡 |
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前段左
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椀、坏身 6世紀後半
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坏蓋 、椀、椀
8世紀代 |
コップ型土器、椀
6世紀後半 |
鉢形土器、皿
8世紀代 |
「あか」と「くろ」の土師器
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337前段右
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椀形土器 6c後半
坏身 6c中~末
皿 6c後半 |
鉢 6c中~末
椀形土器 6c後半×2 |
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335後段左
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339後段右
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高坏、片把手付鉢
6c後半
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高坏 6c後半
壺 6c中~末 |
高坏 6c後半 ×2脚台付把手付ジョッキ型土器
6c中~末 |
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340一條北の前遺跡Ⅰ
左 |
椀6c後半
坏6c後半 |
椀形土器6c後半
坏身6c中~末
坏6c後半 |
高坏6c後半
坏 6c後半 |
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350何だろうこれ |
351
右 |
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土製・滑石製紡錘車 |
土製玉杓子
弥生後期末-古墳初頭 |
砥石 絹雲母片岩製
絹雲母片岩製
砂岩製
6c後半 |
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352
土師器 甕(葉脈痕)
一條北の前遺跡
6世紀後半 |
土師器 コップ型土器
一條北の前遺跡Ⅰ
6世紀後半 |
不明土製品
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土師器 コップ型土器
一條北の前遺跡Ⅰ
6世紀後半 |
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353何だろうこれ(不明土器)
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古代人に直接聞いてみないと、私たちが見ても首をひねる物があります。遊びで作ったのか、それとも、何かの意味をもっていたのでしょうか。
古代人が指で押した跡が残っているものもあり、面白いものです。 |
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355鉄製品
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鉄製手鎌 |
鉄製手鎌
一条・北の前遺跡Ⅱ
弥生後期末~
古墳時代初め頃 |
鉄製鎌 左利き用
6c中~末
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鉄製紡錘車 6c中~末
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鉄製鋤 6c中~末 |
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357須恵器 甕 一条・北の前遺跡Ⅱ 6c中~末
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360住居内出土土器 一条・北の前遺跡 6c中~末
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竪穴住居の予想図 |
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高坏 |
高坏 |
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壺
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不明石器 |
不明石器 |
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362『あな』のなか
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発掘調査をしていると、住居の跡と共にその当時の地面に「穴」をほった跡も発見されます。
こうした穴は、お墓であったり、落し穴であったり、何かよくわからないものであったりします。
「北の前遺跡」でも
、集落の中で一緒に使う目的のあった特別の場所?[Ⅴ区・10号土壙]と考えられるものや、
ゴミ捨て場[Ⅴ区・16号土壙]や出土した物が多いけれどその目的のよくわからないもの[Ⅴ区・17号土壙]などがしらべられていますので、
これらの[穴]から出たものを展示してみました。
なんとなく生活の様子を、想像できませんか? |
土壙出土遺物 一条・北の前遺跡Ⅱ
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「あな」の中 |
Ⅴ区16・17号土壙 |
Ⅴ区10号土壙 |
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坏身
6c中頃~後半 |
甑
6c中頃~後半 |
甕、椀
6c中頃~後半 |
坏身
6c中頃~後半
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甑
6c中頃~後半 |
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364古墳時代の暮らしと風景
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古墳時代の人々は、それより前の弥生時と同じような竪穴住居に住み、川の水を利用した水田で米を作り、畑では野菜などを作っていました。
もちろん縄文時代の人々のように、海や川では魚や貝を採り、森や林では狩猟を行うこともありました。 |
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ムラにはそれぞれリーダーがいて、いくつものムラが集まって更に力の強い豪族が支配していました。
豪族たちは、ムラ人を集めて、大きな古墳(お墓)を造り、強大な権力を示そうとしました。 |
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一軒の住居は縦と横が4~5mほどで、一家族4~5人で住み、数軒~数十軒の住居からなる村(集落)を作っていました。 |
古墳時代の
暮らしと風景
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近年行われた日本全国での耕地の方形化によって現代の若者は、水田は全て方形だったと思い込んでいる。どこの博物館に行っても方形の水田の絵しか掲げられていない。
地形の高低差に従って水田を開墾するので、水田は皆、等高線に沿って造られ、
現在残っている、千枚田のように、くねくねと曲がり、細長く伸びたものである。 |
ピンボケ
17号土壙出土
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坏蓋・坏身
6c中~後半
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坏蓋・坏身
6c中~後半 |
高坏・ハソウ
6c中~後半 |
最初からゴミ捨て穴だったのか、
貯蔵穴等を廃絶したのでゴミを捨てたかである。 |
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366何を食べていたのかな
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古墳時代の人々はどんな食事をしていたのでしょうか。残念ながら、今ではそれを詳しく知ることは出来ません。
稲はもちろんのこと、ヒエなどの雑穀は栽培されていました。山野や海川の恵みが豊かだったので、貝や魚類を沢山食べていますし、
木の実を採取し動物(猪など)も狩っています。またイノシシなどの飼育もされていたようです。
当然、保存食としての加工(焼いたり、干したり、燻製など)もあったことでしょう。
発掘調査の際には、これらの貯蔵穴や骨、あるいは狩りに使った落し穴などが見つかり、少しずつですが、古代の食生活も明らかになってきました。
古代の赤米は赤飯に通じるものですし、食べられない木の実の代表のように言われるドングリも、古代人はちゃんとその調理法を知っていたのです。 |
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何を食べていたのかな
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赤米・炭化米
ハマグリ(縄文時代)
焼アユ |
雑穀が出てこない
弥生以降の主食は雑穀だったはず。 |
大切に保管した米は遂に炭化してしまった。
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シジミ汁、栗、猪肉 |
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367岩坪石棺の副葬品
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勾玉や管玉などのネックレスや、中国鏡の破鏡がありました。この破鏡は一枚の鏡を割って分けたものですから、
他地域でもピッタリ合うものが発見されるかもしれません。
この石棺に葬られた二人は、ムラでも特別な地位にあったことが予想されます。
石棺の実物は、資料館の中庭に復元しています。 |
岩坪石棺
ピンボケ |
岩坪石棺発掘時 |
岩坪石棺の副葬品 |
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鉄製品
破鏡 |
管玉、丸玉 |
管玉 |
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発掘作業 |
2体分の頭蓋骨 |
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367a
資料石棺と古人骨 広川町古墳公園資料館展示説明シート より拝借
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『太田岩坪石棺』は、平成7(1995)年町教育委員会により八女丘陵北側で土取を行っている崖面で偶然発見されました。
緑泥片岩(緑色片岩)の板石を組み合わせた箱式石棺があり、その内部には2体分の頭蓋骨と大腿骨の一部が残っていました。
二体の人骨は、形質的に渡来系弥生人の可能性があり、20歳代と30歳代の女性と考えられます。
2人の関係は不明ですが、副葬品として、舶載鏡(内行花文鏡)の破鏡1点、刀子1点、勾玉や管玉などが出土したことから、何らかの呪術的な役割を持った人物ではなかったかとも思われます。弥生時代後期頃と考えられるこの石棺は、現在広川町古墳公園資料館の敷地内に移築し、頭蓋骨と出土品も展示公開しています。 |
石棺と古人骨
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出土した2体分の頭骨 |
箱式石棺内の出土品 |
岩壺石棺出土状況 |
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368久泉・下牟田古墳
四獣鏡
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竪穴形横口式石室の主体部を持つ下牟田古墳出土。 鏡面を上にして布にくるまれ副葬されていた。
日本製の四獣鏡であるが、獣形は変形し、勾玉様になっている。背面の図像は布を取り除いていないのではっきりしない。直径11.3cm。
広川町で初めて出土した銅鏡である。
※布はきっと、宝物鏡を入れるにふさわしい錦織りだったのでしょう。 |
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四獣鏡 |
仿製四獣鏡
5世紀初頭~中葉
久泉・下牟田古墳 |
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久泉・下牟田古墳 |
久泉・下牟田古墳 |
久泉・下牟田古墳
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369ガラス玉・臼玉首飾り 久泉・下牟田古墳 5世紀初頭~中葉
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370福岡県の銀象嵌円頭柄頭
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象嵌円頭柄頭 |
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371筑豊地区:飯塚市 山王山古墳
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372京筑地区:行橋市 徳永和泉古墳
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373南筑後地区:広川町 鈴ヶ山2号墳・鬼塚2号墳
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374北筑後地区:うきは市 塚花塚古墳
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375鬼塚2号墳
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鬼塚2号墳の石室からは古墳時代の「大刀」 2振りと、銀で象嵌が施された柄頭が2点出土しています。
大刀の刀身はメタル部分が生きていますので、各部の造りがよく観察できる貴重なものです。
また、銀象嵌柄頭は九州出土4例のうちの3例が広川町出土です。うち2例が展示しているもので、鉄製の円筒柄頭に亀甲つなぎ文様を配し、
中に鳳凰をあしらった図柄となっています。被葬者の地位の高さを窺がわせる豪華な副葬品です。 |
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鬼塚2号墳の銀象嵌 |
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鬼塚2号墳出土
切刃造り大刀の柄頭
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鬼塚2号墳出土
平造り大刀の柄頭
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平造り大刀象嵌 |
切刃造り大刀象嵌
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400直弧文の世界
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401
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直弧文の世界 |
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402直弧文の世界
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403直弧文分解
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420双石室の墳丘墓 大塚1号墳
ちょっと変! 墳丘ひとつに石室ふたつ
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広川町にある古墳の中でも、特に珍しい古墳が、昭和54(1979)年に調査された、「大塚1号墳」です。
ひとつの墳丘には、ふつうひとつの石室が造られますが、この古墳では二つの横穴式石室が造られました。
直径約30mの大きな円墳で、葬られた人々は親しい親族関係の家族須、兄弟ではないかと考えられています。
この断面模型で古墳の中を覗いてみましょう。 |
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425大塚1号墳副葬品
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堤瓶
広川・大塚1号墳
6世紀後半 |
坏身、坏、6c後半
白磁碗 11c末-12c前半
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高坏、壺 6c後半 |
高坏、壺 6c後半 |
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430 |
431刀装具 6世紀後半
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433馬具 広川・大塚1号墳 6世紀後半
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435留金具
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ここから下、キャプション希薄で、説明が出来ないものが多い。 |
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440石材
上:緑泥片岩
下:阿蘇溶結 |
緑泥片岩 |
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阿蘇溶結凝灰岩 |
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445体験コーナー触れてみよう
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「すえき」は、古墳時代の代表的な土器です。
触って指ではじいてみてください。
とっても硬くてカンカン音がするほどですよ。
「甕棺」や「埴輪」は素焼きの焼き物です。
須恵器と違ってそんなに硬くないし、割れやすいので、気をつけて触ってくださいね。 |
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首にかけてみよう |
触れてみよう
須恵器片
甕棺片
埴輪片 |
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450岩坪石棺の人骨
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460石人山古墳の石棺
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465広川町高長遺跡出土物
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466石片 黒曜石など
石材・剥片・石核、 黒曜石・サヌカイト
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467
石鏃
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土器片
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470高長遺跡
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遺跡の場所: 広川町大字広川字高長(たかさ) 遺跡の広さ: 約2800㎡
遺跡の概要
〇主な遺構
・竪穴住居跡11軒、掘立柱建物2棟
・溝7条 溝状遺構3
・不正形・円形土壙15(遺物を出土したもの)
・ピット70以上(遺物を出土したもの)
〇遺物
・土師器、須恵器、陶磁器などパンケース5箱分
・石器(石鏃など)、剥片や石核(黒曜石・サヌカイト)数十点
・鉄器1点
・黒色磨研土器洋式の晩期縄文土器2個体 |
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場所 |
遺跡の空中写真 |
遺跡の概要 |
高長遺跡復元図 |
調査開始 |
高長遺跡復元図 |
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473埋納土器の発見
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調査終了間際に、調査区南東部で、縄文土器2点が立位で埋納された状態で発見されました。
遺構面からは縄文期の多量の剥片石器や石鏃が採集されていましたが、完形の土器が検出される事は、非常に稀有な事例といえます。
約3000年前から人々が獣を追い、自然に畏敬の念を持って接していた証拠でしょう。
縄文時代 |
12,000年前~2300年前 |
晩期 |
約3000年~2300年前 |
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475直弧文とは
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一定の幅を持った帯の組み合わせを表出した文様を「直弧文」と定義したのは小林幸雄です。
この文様にはその原型となった一定の構図が明確ではありません。浮彫や線刻された文様を読み解いていく必要があります。
この直弧文で飾られた遺物から、この文様の持つ意味は、何かを厳重に封じ込めようとする文様であり、邪悪なるものを封じ、その災いを避ける(璧邪)の意味を持つことが考えられます。
神霊を結び鎮める呪力がこの文様に込められていたのです。
石人山古墳の家形石棺の棺蓋表面には、5個の連接する直弧文が浮彫風に両側面に見られます。装飾古墳に見られる直弧文として全国的に見ても重要なものです。 |
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500石人と石棺 |
501
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石人山古墳、
昭和53年3月24日
国指定史跡・八女古墳群として登録
この古墳は岩戸山古墳(八女市)、石神山古墳(みやま市)と共に、石人を有する古墳として全国的によく知られます。
古記録に「貞享元年(1684)3月一条村の南岡に石人を立つ云々」とあるように、石人なるものが神と認識され、祭祀の対象とも致します。
古墳の形は「作り出し」と称する平坦部を持つ前方後円墳で、前方部は二段に、後円部は三段に丘陵上に西面して築造され、周濠を有します。
出土した須恵器片や埴輪などの年代から推考して五世紀前葉と考えられています。
主体部は、横2m、奥行き4mの石室に阿蘇溶結凝灰岩で造った、横口式家形石棺が納められています。
棺蓋は寄棟形の屋根で、頭頂部の長さは1.9m、底部の長さは2.8mを測ります。
屋根の表面には重圏文・直弧文、三角文などの精緻な彫刻が施されています。
棺身は4枚の板石を組み合わせて壁とし、高さは1.4m長さは2.3mを測ります。
また墳丘のくびれ分には古墳名の由来となった石人が立ち、短甲を装着し、武装しており、像高1.9mを測ります。
昭和51年6月5日 国の重要文化財に指定されました。
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規 |
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模 |
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全長 |
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120.0m |
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前方部 |
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高さ |
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11.3m |
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正面幅 |
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63.6m |
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後円部 |
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高さ |
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12.0m |
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径 |
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53.0m |
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周濠幅 |
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1.5m |
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史跡 石人山古墳
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この岡は東西7KMもあり、古くから人形原と呼ばれ、
幕末の矢野一貞は、この台地の大古墳群を筑紫国造家の墓所であろうと言っている。この古墳群の西端にあって最も古い様式を持つのが本古墳である。
5世紀後半の築造とみられる前方後円の墳丘は古式を示し、
長さ110m後円部で60m前方部で45mあり、大形と言える中央に立つ石人はこの古墳の名の起こりを示す。
前方部に向かって開く狭い石室は今はほとんど失われているが、それに収められた横口式家形石棺は円文、直弧文などで飾られ、石人とともに九州の地方色を強く示している。 文化財保護委員会 |
石人(信仰の対象となっていたため摩耗が激しい)
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503石棺
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