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01外観 |
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10旧石器時代 |
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11石器
※剥片剥離作業を示す接合資料 -移動生活を証明する- 旧石器人は移動生活を営んでいました。それは現在の狩猟採集民の生活から推測できますが、石器からもわかります。 龍門寺茶畑遺跡では、剥片剥離作業の前半・後半それぞれの段階を示す接合資料が見つかりました。 前半段階の作業の続きは、次の移動先へ持ち越され、後半段階の作業は、ひとつ前の移動元から持ち込まれたことを私たちに教えてくれます。 疑問 旧石器人が、大型動物狩猟を中心としたか、自然死した動物遺体採集だったかは分からない。 あの小さな米ヶ森型台形石器で、固く分厚い大型獣の皮を裂いて肉を切り分けるなんてとてもじゃないが、小刀(こがたな)でクジラを解体する のに等しい。 随分あとに大きな石刃が登場するが、それまではどうしたんだろう。 また、寒風で乾燥した肉を火であぶったとしても、とても固くて食えたものじゃない。叩いて柔らかくしないと食えたもんじゃない。 しかし、叩き石も石皿もない。 ビーフジャーキー状にしてならそうでもないが。そんなに小さく切れない。どうしたんだろう。想像もつかない。 |
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20 縄文時代
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21縄文早期(約1万2,000 - 7,000年前 |
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22縄文前期前期(約7,000 - 5,500年前) |
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24中期中期(約5,500 - 4,500年前)
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25年表 |
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27後期(約4,500 - 3,300年前) |
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29晩期(約3,300 - 2,800年前) 戸平川遺跡 秋田市 縄文晩期中葉 JR秋田駅から北4.2km標高30mの旭川左岸に立地。日本海東北自動車道近辺。 縄文晩期中頃の土坑墓87基、4本柱の掘立柱建物跡5棟が検出。 遺跡南側の沢の中からは、祭祀具が大量に発見された。中でも、 漆製品や木工細工には土器、弓、櫛、カゴなどの当時の漆工芸技術の高さを物語る吉様な遺物が出土した。
※磨石-顔料を磨り潰す- これはベンガラなどの赤色顔料を磨り潰す道具です。 ペンガラとは酸化第二鉄を主成分とする天然鉱物です。秋田県内には産地はありません。 ベンガラは、土器にそのまま塗られたり、漆と混ぜて赤漆を作ったりするほか、埋葬儀礼の一環として死者にふりかけられたりもしたようです。 戸平川遺跡で磨石が3点も出土したことから、赤漆を生成していたことが分かりました。 ※2漆塗り土器-光を放つ赤と黒- 戸平川遺跡では鮮やかな光沢を放つ漆塗り土器が特徴的に出土しています。使い続ければ漆の光沢は次第に色あせていく行くはずです。 展示品にあるような光沢をもつ土器は、おそらく1度きりの使用だったのでしょう。 また、この遺跡では黒漆塗りの土器がまとまって見つかったことも特徴の一つに挙げられます。 赤と黒の対照的な色使いは、縄文人にとってどのような意味があったのでしょうか。 |
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30縄文時代2 |
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32土器棺 -縄文の再葬墓- |
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34装身具と祭祀具
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35虫内Ⅰ遺跡/横手市山内 虫内1遺跡 - 全国遺跡報告総覧 |
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黒曜石 36戸平川・堀ノ内遺跡と黒曜石原産地 参考リクン 戸平川遺跡 (秋田県秋田市添川字戸平川) 戸平川遺跡 戸平川遺跡出土土面、地方遺跡出土土面 堀ノ内遺跡 (湯沢市上関字堀ノ内21外) 堀ノ内遺跡 様々な産地の黒曜石 黒曜石の原産地を知るには、蛍光X線分析を使います。黒曜石を構成している元素の比率が原産地ごとに違う特性を生かした方法です。 この方法が未確立の20年以上前には、肉眼で原産地を推定していました。 |
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40 黒曜石 |
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41人々と黒曜石 黒曜石産地の同定 黒曜石の産地推定分析の結果、男鹿に近い戸平川遺跡では9割以上が男鹿産黒曜石でした。県南内陸の堀ノ内遺跡では半数以上が月山産。 その他にも湯ノ倉など比較的近い産地がまとまってあり、日本海沿岸部の男鹿、出来島、深浦、更に遠く信州霧ケ峰からも黒曜石が運ばれました。 参考新潟県北部地域出土黒曜石製石器の化学分析 - 帝京大学 黒曜石原産地分析による先史時代の 石材流通に関する基礎的研究 秋田県内出土黒曜石製遺物の原産地推定 - 秋田県立博物館 秋田県田沢湖産出黒曜石の岩石学的特徴・形成年代と ... - 秋田県立博 田沢湖にも黒曜石産地が 田沢湖東岸の春山地区と南岸の大沢地区で原石が採取されています。 黒曜石の産地 黒曜石は溶岩が急冷して凝固したものです。名前の通り、黒く光るガラス質の石で、旧石器時代以来、石器の原材料として多用されてきました。 火山列島の日本では100か所以上の黒曜石原産地が知られており、秋田県にも男鹿半島の金ヶ崎・脇本などの産地があります。 男鹿産の黒曜石は波に洗われて、とても小さな丸い石となっています。表面は白っぽく、中にはガラス面があります。 東北地方では、青森県出来島・深浦、 山形県月山、 岩手県雫石・折居・花泉、 宮城県湯ノ倉などがあり、 全国的には北海道十勝や長野県霧ケ峰が有名です。 亀ヶ岡文化の戸平川遺跡や堀ノ内遺跡では、数多くの黒曜石が使われてきました。が、ほとんどが、台石に黒曜石を置いて、ハンマーで叩き 割ったものです。その意味するところは分かっていません。 (縄文人が、黒曜石をただ潰して遊んだそうだ。) |
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弥生時代 42弥生時代~近世
※唐津・初期伊万里17c前半 -九州・肥前初!陶磁器の生産と流通- 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの朝鮮人陶工が連れ還られ、肥前は九州での朝鮮系陶磁器の一大産地となりました。 「唐津」は16世紀後半から17世紀初頭まで反映した施釉陶器を言います。黒色や飴色の鉄釉を特徴的に用います。 「初期伊万里」は17世紀前半の染付の時期をさします。唐津・伊万里とも輸出の港名です。ここを起点に全国へ流通しました。 |
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県内各地の遺跡と遺物 43旧石器時代 |
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44風無台Ⅱ遺跡 秋田市河辺松渕 七曲台遺跡群 岩見川左岸の標高42mの七曲台台地北端に立地。縄文・弥生の地表面より少し下から、2万年前の旧石器時代の石器も大量に見つかっている。 5000点近い大量の石器や破片が直径約12mの範囲に集中しています。 44元木山根Ⅱ遺跡 潟上市昭和大久保 出羽丘陵西端の標高23~29mに立地する平安時代の集落遺跡。 皮なめし道具エンドスクレイパーが1点検出。 古野・繋沢遺跡からはナイフ形石器が1点ずつ見つかっている。 |
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45a縄文時代早期 |
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45上祭沢遺跡 秋田市河辺戸島 岩見川左岸、標高60mの河岸段丘に立地。 縄文早期後半の土器片を少量検出。住居は不検出。狩猟などの短期間の滞在跡。 頻繁に移動する生活だった。
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46脇本海岸 男鹿市脇本 脇本地区~船越地区の海岸では、縄文早期の土器や石器が採取されています。土器も石器も波に洗われて磨滅しています。 今より海水面が低いときの遺跡が海面下にあり、底から打ち上げられたと考えられます。 |
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47縄文前期前 |
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48小浜沢遺跡 男鹿市北浦西黒沢 男鹿半島北端、標高30mの海成段丘上に立地。縄文前期前半の竪穴住居跡が1軒検出。 住居は一辺3mでまだ大規模な集落はなく、1家族1軒で暮らす。 独立して暮らすことが一般的だったようです。
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49蟹子沢遺跡 秋田市濁川 標高37~46mの上新城丘陵南西端に立地。縄文前期後半の大型竪穴住居跡が2軒検出。 住居は長さ10mを越え、1軒に複数家族が居住したようです。 多人数で暮らす方法で協力して生活を切り開いて行った時期だったようです。 |
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51縄文中期前葉 |
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52繋沢遺跡 秋田市河辺三内 岩見川右岸、標高80mの和田丘陵に立地。縄文中前半の竪穴住居跡4軒検出。住居は単独で短期間だけの使用。土坑墓も僅かに検出。 当時の小集落の一例と考えられるでしょう。 |
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53縄文中期後葉 |
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54泉野冷水遺跡 男鹿市北浦相川 男鹿半島北岸の北浦南部段丘上に立地。標高40m。20軒近くの縄文中期後半の竪穴住居跡検出。住居は沢の縁に沿うように立地し、 環状集落ではない。 集落内での人付き合いが、環状集落とは違っていたようです。
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55河辺松木台Ⅲ遺跡 秋田市河辺松渕 岩見川左岸、標高40m。七曲台台地北端に立地。 縄文中期後半の竪穴住居跡、掘立柱建物跡、土坑墓等検出。これらは長径25mの 中央広場の周りに巡り、環状集落を呈しています。 広場には土坑墓が5基あり、特別な人だけが葬られたと推定されることが、遺跡の特徴です。 |
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56後期 |
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57戸島上野Ⅰ遺跡 秋田市河辺戸島 岩見川左岸、七曲台台地の北東側に立地。標高42m。縄文晩期の時期の違う竪穴住居跡が2軒分、隣接して検出。直径5m。中央に炉跡。 この時期ノ住居は単独で点在するのが特徴です。 |
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58a晩期 |
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58戸平川遺跡 秋田市添川 旭川左岸、羽黒山丘陵北西端の緩斜面に立地します。標高25~30m。縄文晩期の墓地と捨て場を検出。墓地には多数の土坑墓と掘立柱建物跡。 捨て場からは土器石器が大量に出土した。持ち寄って捨てる祭りをしたのではないか。 59a |
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59c大洞式土器 |
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60弥生時代 |
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61弥生前期 |
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62越雄遺跡 井川町黒坪 越雄遺跡は、標高15m程の大麦丘陵の西端に立地します。弥生前期の住居跡が1軒検出され、中央に炉、周りに8個の小さな柱穴が巡ります。 直径3m余の小形で簡易な住居でした。地蔵田遺跡の住居とは規模や構造が大きく異なり、同様に周囲の低地に水田を造成し稲作を行ったかは不明 です。 |
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63片野遺跡 弥生前期~後期、平安時代の集落遺跡、弥生土器・石器・紡錘車。住居・水田は未発見。 |
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64古墳時代 |
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65小谷池遺跡 八郎潟の西岸、標高11mの低地。古代の水田に伴う灌漑堰遺跡とその下から、県内では珍しい「古墳時代の土師器」が発見された。 |
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70平安時代 |
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71 |
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90古代 |
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91 |
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100払田柵 引用払田柵ってなに? 払田柵跡 - Wikipedia 払田柵跡はこの地に9世紀初頭に創建され、10世紀後半まで存続しました。払田柵跡は多賀城・秋田城跡と並び称される古代城柵遺跡です。 年輪年代測定法で、801年に伐採された材が発見された。桓武朝における坂上田村麻呂らによる征夷事業による、陸奥国側の胆沢城、志波城と 一連のものと判明した。払田柵跡からは「嘉祥二年正月十日」と記された木簡が発見されており、この結果とおおよそ一致する。 名称は最外側の区画施設(外柵)が柵木塀(材木塀)であることに由来します。柵木は約30cm角に加工した秋田杉で、外柵は二つの丘陵を取り 囲むように東西1370m、南北780mの長楕円形状に、立て並べています。柵木の長さは、倒壊した柵木が良好な状態で発見されたことから、 地上高は3.6mと判明した。 柵とは、城柵のことで、塀の代わりに木柵で周囲を囲んだものです。中にあったものは役所と、駐屯部隊がいたようです。 |
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101遺跡 |
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102展示館 |