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 青森の縄文  12  2019.09.21-1

 つがる市縄文住居展示資料館(カルコ) 青森県つがる市木造若緑59-1
  0173-42-6490月・祝日の翌日休館撮影可


交通 JR津軽線 木造駅 から徒歩15分
レンタカーが便利ですね
 
目次

カルコとは
石神遺跡
石神遺跡の成立
▽津軽平野は
▽縄文遺跡群
▽石神遺跡の歴史
▽円筒土器の石神遺跡

※西青森の縄文文化の成立

01施設外観
0復元住居
※大森勝山遺跡

35世界遺産登録のポスター
50館内展示物
53遮光器土偶


100二階展示場
101年代別縄文土器
 早期~前期
103つがる市土器編年表
 草創期~前期
105円筒上層式土器
107円筒式以後の編年 

109つがる市土器編年表
 中期~弥生後期

110後晩期の土器
111十腰内式土器
115亀ヶ岡式土器
117粗製亀ヶ岡式
118赤彩壺形土器
120低湿地泥炭層遺跡
121彩文籃胎漆器
125結髪土偶

130風韻堂コレクション
135菅江真澄・蓑虫山人
 彩文鉢形土器
143車力村の遺跡
145森田村 石神遺跡

150亀ヶ岡文化
152亀ヶ岡土器文様変遷図

160縄文時代晩期の文様変遷
161大洞式のいろいろ

171籃胎漆器
172石棒
173装身具・土製品
175土偶
179各種石器
183黒曜石製石器
184石神遺跡
185亀ヶ岡遺跡

191生活の道具
192車力村 乗鞍遺跡出土
195擦文土器 稲垣村松枝遺跡
197柏桑野木田八幡遺跡 平安・江戸

200つがる市付近の黒曜石


205第3展示室
田小屋野遺跡

考察 ベンケイガイで貝輪を作る
206田小屋野貝塚とは
人骨の出土状況と遺存状態
208縄文時代の葬制
209日本列島の人類史
211咬耗
212妊娠痕
213蹲踞面
214柱状大腿骨
215骨から探る縄文食

 
 
  以下は、写真掲示の前に、ご存じおき願いたい事前知識です。


 カルコとは、「Kamegaoka archaeology collection(亀ヶ岡考古館)」の略のことです。
その名の通り亀ヶ岡遺跡石神遺跡から出土した土器などや亀ヶ岡で出土した全国的にも有名な遮光器土偶のレプリカを展示しています。

展示の中心は、弘前市大森勝山遺跡出土の亀ヶ岡式の大型竪穴住居が再現され、その中ではサイボットと呼ばれる人間そっくりの古代人ロボットが縄文時代の生活を再現しています。さらに来館者には古代の言葉で語りかけてきます。 

 お借りしています「子どもとおでかけ

※確かに、私が行った時も、住居内で古代語が流れていたと思います。ただ、撮影に必死で気に留めませんでした。
 もう、二度と行けないので、行かれる方は、よくお聞きください。
 

 石神遺跡 つがる市森田町床舞石神地内 縄文時代前期中頃~中期中頃(6000~4500年前) 円筒土器を中心とする文化
岩木山北麓から続く台地が古十三湖の沿岸である狄ヶ館溜池内に突出した標高約10~20m程度の台地上に所在する、
縄文時代前期中頃~中期中頃(6000~4500年前)の遺跡です。

石神遺跡は「円筒土器文化」の代表的遺跡として知られ、円筒土器が古いものから新しいものまで、各土器型式が層序的・層位的に順序正しく出土した遺跡として知られています。

出土物は、土偶や円筒土器など219点が平成2(1990)年6月29日国の重要文化財に指定されました。
重要文化財指定遺物の詳細は、土器類114点、石器類40点、玉類等石製品・土製品56点、土偶9 点の計219点であるが、尚多くの遺物が発見されている。これらの出土品は、つがる市森田歴史民俗資料館に展示されています。

近年の発掘調査で、遺跡北部では大量の円筒土器を含む竪穴住居、南部では配石遺構や墓坑などが発見され、遺跡の空間構成としての遺跡の内容や範囲の広がりが明らかになりつつあります。 また一部にヤマトシジミを主体とした貝塚も見られます。

 
 石神遺跡の成立
▽岩木山北麓
津軽平野は東に津軽山地、北に十三湖西屏風山砂丘、南に岩木山。さらに南に白神山地・大鰐山地十和田湖八甲田山連峰が連なる。
この地形により津軽平野を流れる岩木川は大変な暴れ川である。江戸時代から新田開発が行われたが、度重なる水害に襲われる地域であった。

 海水準+7mの青森県
引用青森太郎(ソウマシンキチ)
タイトル名「カシミール3Dを使わなくても「縄文海進」のシミュレーションができる。7m海水面を上げてみた」を拝借中

古十三湖がくっきり。青森市中心部はほとんど水没。小川原湖周辺に縄文貝塚が多い理由がよく分かる。
素晴らしい技術です。パソコンでこんなことが出来るなんて。おかりします。

この画像から、縄文海進で最も影響を受けたのは津軽平野だったことが大変よくわかりました。

津軽平野は
低湿地であり、200万年以上もの間、南の山岳地帯から流れ下る1級河川、岩木川が大量の土砂を浸食・運搬・堆積してきた。
氷河期には広く陸地であったが、縄文前期(7千年前)には縄文海進によって古十三湖が30kmも南に拡大し、広大な汽水域の潟湖となった。
 (その様子が、直上の拝借した縄文海進のシミュレーション画像です。いったいどうやるのかね。)

縄文人達は汽水域に集まる生き物を食料源として湖畔の台地上にムラを作り、定住し活発な活動を行った。定住1万年後の縄文後晩期には、
有名な国史跡亀ケ岡石器時代遺跡田小屋野貝塚(前期)が、西岸の屏風山砂丘にあり、南岸の岩木山北麓台地には石神遺跡があった。
 

亀 ヶ 岡 石器時代遺跡 田 小屋 野 貝塚 石神 遺跡 - つがる市



 田小屋野貝塚と亀ヶ岡石器時代遺跡は隣接する遺跡であるが時代が違う。
 田小屋野貝塚:縄文前期中葉~中期中葉(6000~4500)前期堅穴住居跡1棟、縄文時代前期~中期の円筒土器と後続する土器・石器・石製品・土製品・骨角器・貝輪等出土。
  汽水性のヤマトシジミを主体とする貝塚で、十三湖北岸に所在するオセドウ、笹畑貝塚などとともに、日本海側に見られる数少ない貝塚の一つとして貴重である。
 亀ケ岡石器時代遺跡:縄文後期~晩期(4000~2300)、特に晩期(3000~2300)。遮光器土偶・籃胎漆器・漆塗土器など卓越した芸術性を示す。
  江戸時代に台地上の亀山地区では、マウンドや供献品・副葬品をもつ土坑墓による墓域が発見され、低湿地からは、完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、
  ヒスイ製の玉類などが出土しています。

▽縄文遺跡群
古十三湖が最大となった縄文海進時の南海岸線の台地上には、現在、五能線が走り、その台地はやがて岩木山北麓へと繋がる。
岩木山から流れる1級河川山田川西岸の屏風山砂丘は、南北30km東西3~5kmで、西側日本海に面して七里長浜が続く。

当時は海の中に突き出した長く低い砂州の半島だったこの地には、多くの縄文遺跡が栄えたことが、直上の地図で明らかである。
草創期旧森田村八重菊(1)遺跡からは、草創期の爪形文土器、早期の貝殻文土器などが出土しているが、住居遺構は不明である。

縄文前期中頃、縄文海進を過ぎ、古十三湖の水位が下がり始めた約6千年前以降、低位・中位段丘上に住居遺構が出現する。
石神遺跡などである。この時代は、円筒土器文化が盛行していた縄文前期中頃から中期中頃の約6千年前から4500年前の時代である。

 石神遺跡:縄文前期中頃~中期(6000~4000年前)岩木山北麓から続く台地が津軽平野と接する位置に、成立した円筒土器文化が発達した遺跡である。
   円筒土器は古いものから新しいものまで、層位的に順序正しく出土した。

石神遺跡の歴史
明治時代から石神遺跡の存在は我国考古学会黎明期の中央学界に知られ、土器の集(集でない)が行われていた。
戦前には南側で縄文後晩期の藤山(1)遺跡で土偶や土器の蒐集が行われた。これらは床舞遺跡とも呼ばれ美術価値の高い遺物として知られた。

戦後になって円筒土器の出土に注目が集まり、矢伏長根遺跡で配石遺構が発見された。
即ち戦後になってようやく骨董的美術品の蒐集から、考古学的な発掘調査が行われるようになった。これにより、平安時代の竪穴住居も発見されるに至った。

▽円筒土器の石神遺跡
土偶が出土せず乱掘や遺跡破壊を免れた石神遺跡が注目されたのは、ブサイクなバケツ形土器でした。
昭和40年代の開墾ブームによる遺跡破壊により、考古学調査が行われ、円筒土器の黎明期から終焉までの全ての形式が層位順に出土した稀有な遺跡であることが解明された。また、縄文時代前期の貝塚(ヤマトシジミ)や、住居跡も遺跡周囲から発掘された。

円筒土器が層位順に出土したのは、小規模な貝塚も含む盛り土遺構からである。
盛土遺構とは三内丸山でも当時のゴミ捨て場だった。すると、1500年間も同じゴミ捨て場を使い、同じ場所で、同じ暮しをしていたことになる。
三内丸山の生活史とよく似ている。
もしかすると十三湖周辺は豊かな内湾からの収獲物や、岩木山山麓の動植物をも食料として、大変安定した暮しだったのかもしれない。

ただ、円筒土器文化の始まりは十和田カルデラの爆発と降灰による自然環境の激変で、硬いものを長時間煮込んで食べることからはじまった。
石神遺跡は古十三湖南岸にあり、降灰による湖の酸性度の高まりと、火山灰の流入による汚濁や、洪水でかなりの打撃を受けたかもしれない。

▽石神遺跡の構造
石神遺跡は、遺跡北部が居住域、遺跡南部から続く藤山(1)遺跡北部が当時の墓域であった。

 ※西青森の縄文文化の成立
津軽半島から青森一帯の縄文遺跡についてみてきました。

これらの文化をさらに遡ると、白神山地東麓の縄文遺跡群や西目屋村縄文遺跡群といわれる祖型の文化があったことに辿り着きます。
西目屋村縄文遺跡群は、すでにダムの下に消えてしまった遺跡です。ここでの発掘遺物は、現在、青森県埋蔵文化財センターに収蔵され、一部は展示されているようです。また、「発掘された日本列島2019展」でも大量に展示されて有名になりました。次回に東北を旅する機会が得られれば、必ず訪れたいと思います。ここでは、大変特異な遺物が出土しています。

その、白神山地遺跡群特有の土器が、陰嚢付注口土器です。この土器が島根県出雲市市立古代出雲歴史博物館に展示されています。
島根県から出土しました。
縄文後晩期に、福島県の屈折像土偶や関東の土器、そして白神山地の注口土器が島根県の山中のたった一つの遺跡から出土しました。
壊れ具合が少ないことから、縄文時代の日本海航路によって運ばれたものと思われます。交易品の一つとして運ばれたのだろうか、
寒冷化に追われた人々が運んだのか、妊娠や通過儀礼の祭祀具であることから婚姻に伴う人の移動によって運ばれたのだろうか、
島根県三瓶山の深い山の中から出土しました。
 



 01施設外観


つがる市縄文住居展示資料館カルコ 外看板の観光案内 観光地

湿原と埋没林が好き

巨大なパネルです
つがる市縄文住居展示資料館入口

 10復元住居
  三階建てほどの高さのビルですが、中は、一階部分が非常に高い二階建てです。その理由は、復元住居の高さにあります。
  極寒の豪雪地帯、に暮らすには、 雪に埋まらない高い煙り出しを備えた、大きな住居が必要だったのです。
  豪雪地帯の復元住居では必要不可欠な壮大な構造です。(煙出しが埋もれると、一酸化炭素中毒で死にます。)


 11復元竪穴住居 弘前市大森勝山遺跡 縄文晩期 約3000年前 青森県弘前市大字大森勝山

下写真④の弘前市大森勝山遺跡の大型竪穴住居跡が、この復元住居のモデルである。昭和34(1959)年の発掘調査で検出された。
縄文晩期(約3000年前)のもので、平面形はほぼ円形、径13.7m床面積約150㎡(畳約90枚分)である。復元にあたり、約7/10に縮小した。

 ※標準的な教室の広さは7m×9mですから、10m×15mは3倍ほどの広さになります。
 ※90畳敷の大広間です。どれほど広かったか。ここに一体何人が暮らしていたのでしょう。生活の厳しい地域ではまとまって暮らします。
  合掌造りが良い例です。3~4世代が、親子孫ひ孫、叔父おば兄弟などが厳しい掟のもとに暮らしていました。そんなのかもしれません。

復元当時(1986年頃)は「縄文住居」として復元したが、現在ではこの住居の上屋構造は弥生時代のものでは?」との意見もある。
この住居跡は、現在も地中に保存されている。

 ※大森勝山遺跡
岩木山北東麓に所在する縄文時代晩期初頭の環状列石を主体とする集落跡。環状列石の構築過程を明らかにするとともに,環状列石としてはもっとも新しく、その年代や性格について新知見が得られたという点できわめて貴重である。 引用文化財オンライン
 ※どんな新知見だったのか、それがどこで分かるのかは不明です。

館内案内板 復元住居
小さく見えてしまうのが残念です
④大森勝山遺跡
復元住居
出来島埋没林って、 分厚いつららに覆われている風景は珍しく美しいが、何一つ見えません。
 出來島埋没林
 13復元住居
古代語で話しかける

皿の底に土面を描画したのか
小魚は藁に串で刺し、
大魚はぶら下げる。
保存法は今も同じ

34年前の建築と設備。
当時の最先端ですね
畳90枚もの広さは、ちょっとしたお寺の本堂。こんな広い建物を何に使ったのか。
オホーツク文化人の様に複数家族が集まって生活したのかな。
データが少なくて何もわからない。
 15
復元竪穴住居跡
上に記述
復原と復元の違い 竪穴住居跡
あまりにも広大な住居跡です
煙出し
屋内で燃え火を焚く建物では必ずある排煙口
煙出し
現代でも、古い日本家屋である福島県大内宿。岐阜県高山市上三之町地区など。電気・ガス以前の住居では必要不可欠。煙突があっても煙出しは必要。

すると家の中は、外と同じ寒さに冷えます。
 17亀ヶ岡式土器

穂のついたままの
ススキの壁
壁際に 土器を並べて
 19

鮭の保存

農具 箕
縄文時代から現代まで使われている農具

栗を鼠が、、リス(栗鼠
これは洒落ですね

再現が現実的で凄い

何をしているのか、
チョットわからないです

三匹串刺しの焼き魚
on木製皿と
縄でなく編み紐です

南東北に多い複式炉でなく単純な円形石囲炉
複式炉考
寒冷地の青森でも普通の石囲炉である。

南東北、福島県に出土の複式炉は、特別な用途の炉ではなかったのでしょうか。
私は、死体のミイラ化などに使用したのではないかと思っているのです。(※ミイラ化はアイヌの風習=縄文人)
第一、大型炉には大量の薪が必要です。誰もが必要不可欠な薪を特別に、独占的に使える大型炉の存在。

それだけ特別な犠牲を払ったのは何かのためだったと思います。




 35世界遺産登録のポスター

北黄金遺跡

大湯環状列石

三内丸山遺跡

御所野遺跡
北海道・北東北の縄文遺跡を世界遺産に
各遺跡に代表的な遺物
この運動に登録している遺跡群
 


 50館内展示物


 51国重要文化財遮光器土偶 木造亀ケ岡石器時代遺跡 縄文晩期 高さ34.5cm 亀ヶ岡遺跡から明治20年発掘

縄文時代を代表するともいえるこの著名な土偶は、明治20年(1887)5月に発見され、早くもその12月には実物大の図で学会に紹介されて、誕生間もない考古学・人類学界の注目を集めると共に、大きな影響を与えることとなった。

遮光器土偶という名称は、この土偶の大きな目の表現が、シベリアなどに棲む人々が目を保護するための雪眼鏡(遮光器)を掛けている様子と同じであろうとの説に由来し、この種の土偶の名称として一般的に用いられるようになった。
 ※これを言い出したのは、当時英国留学中だった日本の若き考古学者だった。

右目の一部と左足を欠く以外はほぼ完全で、大きく堂々としている。なで肩の曲線、脇の下から大きな腰の張りにいたる優美な曲線は、安定感のある美しさを創り出しており、数ある遮光器土偶の中でも特に優品である。頭部をはじめ体の所々に赤彩の痕跡が 認められることから、本来は全身を真っ赤に彩色していたものと思われる。尚、体内は腕・胴部に至るまで空洞(中空)である。

展示外観 展示の様子 拡大パネル 国重要文化財
遮光器土偶
上に記述
 53遮光器土偶
 59

2階はこんなに高い

何処かの発掘

脚注無しに困惑(笑)
これらは亀ヶ岡遺跡の発掘調査でしょう。
 





 100二階展示場



 101年代別縄文土器
  早期~前期
貝殻文土器 早期
8000年前
 
       
円筒下層a式土器 前期         
円筒下層b式土器 前期
円筒下層d1式土器 前期

 103つがる市土器編年表
つがる市
土器編年表
ちょっと意味
わかんないけれど

 時代  青森県の土器形式 つがる市の代表的遺跡   青森県の代表的遺跡
 草創期
B.C.11000~
(無文土器)
(隆起線文土器)
(爪形文土器)
多縄文土器


八重菊(1)<森田>

大平山元Ⅰ<外ヶ浜>
表館(1)<六ケ所>

櫛引 <八戸> 
 早期 
B.C.7000~
日計
白浜/小舟渡平
根井沼
寺の沢
物見台/千歳
蛍沢AⅡ式
吹切沢/早稲田1・2類
ムシリⅠ式
赤御堂
早稲田5類
表館Ⅸ群 




鶴喰(6)・藤山(1)<森田>






日計 <八戸> 
白浜 <八戸>/中野平引<おいらせ> 
根井沼(1)
寺の沢 <三戸> 
物見台<東通>/千歳(13)<六ケ所> 
蛍沢 <青森> 
吹切沢<東通>/早稲田貝塚<三戸> 
ムシリ <東通> 
赤御堂貝塚・長七谷内貝塚<八戸> 
早稲田貝塚 <三戸>
表館(1) <六ケ所>
 前期
B.C.4000~ 
表館Ⅹ群
表館Ⅻ群
表館ⅩⅢ群
長七谷内Ⅲ群
表館/芦野Ⅰ
早稲田6類
深郷田
円筒下層式a
円筒下層式b
円筒下層式c
円筒下層式d1
円筒下層式d2 




花林<車力>

石神<森田>
石神<森田>/田小屋野貝塚<木造>
石神<森田>/田小屋野貝塚<木造>
田小屋野貝塚<木造>
石神<森田>/田小屋野貝塚<木造>
石神<森田>/田小屋野貝塚<木造>
表館(1)<六ケ所>
表館(1)<六ケ所>
表館(1)<六ケ所>
長七谷内貝塚<八戸> 
芦野<五所川原>/表館(1)<六ケ所>
早稲田貝塚 <三戸>
深郷田 <中泊>/永野<平川>
三内丸山 <青森>
三内丸山 <青森>
三内丸山 <青森>
三内丸山 <青森>
三内丸山 <青森>


 105円筒上層式

円筒上層a式土器 中期 円筒上層c式土器 中期 深鉢形土器
円筒上層d式土器
中期中葉約4500年前
石神遺跡森田地区
深鉢形土器
円筒上層d式土器
中期中葉約4500年前
石神遺跡森田地区
 107円筒時以後の土器編年
円筒上層d式土器 中期 円筒上層d式土器 中期 前期中葉(円筒下層 a・b 式期
前期後葉(円筒下層 c・d 式期
中期前葉(円筒上層 a・b・c 式期
中期中葉(円筒上層 d・e 式期
中期後葉(榎 林・最花式)

遺跡数が最も多くなるのは 縄文時代前期後葉~中期前葉であり、その後、中期中葉から後葉へと減少傾向にある。これは、青森市域・八戸地域でも同様の傾向である。 引用円筒土器文化総合研究について
榎林式土器 中期  榎林式土器 
円筒土器文化が大木式土器文化の影響を受けた装飾表現豊かな土器で、膨らんだ胴部、縦横または弧を描く沈線文や隆起文が大きな特徴です。引用
北海道の土器
   東北地方北部から道央で繁栄した円筒土器群も、サイベ沢Ⅶ式以降になると急速に衰え、
代わって東北地方南部に中心があった大木式土器群がしだいに北上し、
北海道にも影響を及ぼすようになる。

円筒土器の終末期に前後して、
沈線によった渦巻文や曲線文を特徴とする大木8b式榎林式
中の平Ⅱ・Ⅲ式といった大木式系の土器が出現し始める。
引用円筒土器文化の崩壊
最花式土器 中期 円筒上層式土器の中で最も華やかに器面を飾るのは、b式土器であり、
上層d式の時期に南の大木系土器が浸透して両者の共存状態を現出し
上層e式になると大木系土器の様相が濃くなって、大木8b式土器の特色を持つ榎林式土器の成立を見るに至り、
次の最花式中の平Ⅲ式(大木9式類似)から、大木10式(唐竹式ともいう)へと続くのである
。 引用青森県における土器の出現
大木10式併行期土器
縄文中期  
円筒上層e,f式
大木10式併行期という
 関東では
大木10式併行期土器は加曽利E4式
大木9式併行期土器
加曽利E3式  
 
 109土器形式と遺跡
土器形式と遺跡



 時代  青森県の土器形式 つがる市の代表的遺跡   青森県の代表的遺跡
縄文 中期
B.C.3000~
円筒上層a
円筒上層b
円筒上層c
円筒上層d
円筒上層e
榎林
最花/中の平Ⅲ
大木10
石神<森田>
石神<森田>
石神<森田>
石神<森田>
石神<森田>
石神<森田>
石神<森田>
神田<木造>
三内丸山<青森>
三内丸山<青森>
三内丸山<青森>
三内丸山<青森>
三内丸山<青森>
三内丸山<青森>/榎林<東北>
三内丸山<青森>/中の平<外ヶ浜>
冨ノ沢(1)(2)<六ケ所>
縄文 後期 
B.C.2000~
牛ヶ沢
沖附(おきづけ)
弥栄平
十腰内
十腰内Ⅱ
十腰内Ⅲ
十腰内Ⅳ
十腰内Ⅴ
筒木坂屏風山<木造>/牛潟<車力>
牛ヶ沢(3)・丹後谷地<八戸> 
沖附(2)<六ケ所>/蛍沢<青森> 
弥栄平(1)<六ケ所>/蛍沢<青森> 
十腰内<弘前>/小牧野<青森>
十腰内<弘前>
十腰内<弘前>
十腰内<弘前>
十腰内<弘前>
縄文 晩期
B.C.1000~ 
大洞B
大洞BC
大洞C1
大洞C2
大洞A
大洞A'
亀ヶ岡<木造>
亀ヶ岡<木造>
亀ヶ岡<木造>
亀ヶ岡<木造>
亀ヶ岡<木造>
亀ヶ岡<木造>
是川<八戸> 
是川<八戸>
是川<八戸>
是川<八戸>
是川<八戸>
是川<八戸>
弥生前期
B.C.300~ 
砂沢
五所/二枚橋 
牛潟(2)<車力>  砂沢<弘前>
二枚橋<むつ>
中期
B.C.150~ 
 宇鉄Ⅱ/井沢
田舎館
  宇鉄<外ヶ浜>/垂柳<田舎館>
垂柳<田舎館> 
後期
A.D.50~ 
 念仏間
鳥海山(天王山)
 八重菊(1)<森田> 弥栄平(4)<六ケ所>
鳥海山<平川> 
 


 110後晩期の土器
 

 111十腰内式土器 後期~晩期土器

引用「縄文ロード2「十腰内遺跡」―つがるみち49
十腰内遺跡」は、主に縄文後期から晩期にかけての集落跡や竪穴住居、石棺墓をはじめ、数多くの石器類や土器類が発見された遺跡です。
縄文時代後期(約4,000年前~)になると、気候や生活の変化に伴い、土器類は「厚手から薄手の物」に、「大型から小型の物」へと変わっていき、ツボやカメ、鉢、注口、香炉形、ふたなど用途に合わせて造られるようになったといわれています。
また、この頃には呪術や祭祀がよく行われるようになり、多くの環状列石などが造られ、それに合わせて日常生活に使われる土器と、儀式や祭祀の時に使われる土器が区別されて造られるようになったとされています。

十腰内から発見された多くの土器は、そのような特徴をよく表しており、「十腰内式土器」と命名され、縄文研究の「標式」のひとつとなっています。
弘前公園の隣り、藤田記念庭園の考古館では、大森勝山遺跡の出土品とともに、十腰内遺跡から出土した沢山の土器が特別展示されていました。
それ以前の物に比べ、より実用的で精巧な造りの鉢や壺は、続く縄文晩期や弥生への繋がりを思わせましたし、数々の鋭い石器にはびっくりさせられます。また、素朴な顔の土偶や動物の頭の土製品なども展示されていました。

※藤田記念庭園考古館はすでにただのカフェになり、考古遺物は消えています。

引用(5)縄文時代後期
<十腰内式土器の特徴>
青森県では、東北地方南部の門前式宮戸各式などの影響を受けた、弘前市十腰内遺跡出土の土器を標識とする十腰内式土器があり、
第Ⅰ式から第Ⅵ式まで分類されている。

当地方の後期の土器は、煮沸専用の粗製土器と、貯蔵ないしは特別な行事の際に使われたと思われる精製土器に分かれている。
粗製土器では文様も単純な斜縄文が多く、
精製土器では土器形式の設定を容易にするような、その土器のみが持つ特徴的な文様を有している。

十腰内第Ⅰ式は、主体文様が複数の沈線による入組文等であり、関東地方の堀之内式土器に共通し
十腰内第Ⅱ式は、加曽利B1式、
十腰内第Ⅲ式は、加曽利B2式に類似の文様構成を持ち、縄文の施文されない部分は研磨されるという特徴を有している。
十腰内第Ⅳ式になると、さきの第Ⅲ式に出現した羽状縄文が盛んに使われ、
十腰内第Ⅴ式は、沈線と斜縄文が主体を占め、器体の各所に瘤(こぶ)のような小突起が付けられる。最後の
十腰内第Ⅵ式は、三叉状(さんさじょう)入組文を中心とし、上下並びに左右に沈線で区画された斜縄文帯を構成している。

器形は、十腰内各形式を通じて深鉢形土器が多くを占め、次いで壺形が多く、鉢形・浅鉢形のほかに第Ⅳ式に筒形を呈する土器も見られる。

<十腰内式土器と葬法>
本県の縄文時代後期は特色ある葬法を伴い、特に十腰内第Ⅰ式期にそれが多い。大型の壺形土器の内部から人骨がしばしば発見されている。
土器の大きさから見て遺体をそのまま入れることは不可能であり、洗骨の儀礼を経た二次埋葬、つまり改葬が想定されている。

また、石を用いた石棺墓、葬法と深い関連を持つと思われる環状列石(ストーン・サークル)や、墓壙・掘立柱建物跡・竪穴住居跡などが、同心円状をはじめ秩序ある配置を示すのもこの時代の特色であろう。縄文時代の葬法については後述する。 

 十腰内式土器
十腰内式土器 後期 十腰内式土器 後期 十腰内式土器 後期
 113
十腰内式土器 後期


 115亀ヶ岡式土器 晩期土器

引用亀ヶ岡式土器wiki
亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などが順次変化していくことが確認されている。

分布域は北奥羽地方を中心に、おおむね南は福島県から北は渡島半島までであるが、関東地方や北陸地方、北海道道央部においても同様の土器がしばしば出土する。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。2017年には亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土しており製作地や沖縄に運ばれた背景をめぐって議論がある。

引用函館市史 亀ヶ岡文化
縄文晩期を代表する文化に「亀ヶ岡文化」がある。これは青森県西津軽郡亀ヶ岡遺跡を標式としたもので、北海道では函館を中心とした西南部が青森県と同じような変遷をたどり、共通の文化圏にあったが、後半に入ってからその分布はほぼ全通的な広がりを示すようになる。
本州でも青森県・岩手県を中心として、更に新潟・富山の北陸や、東海・近畿地方の一部に影響を与えた。


 亀ヶ岡式土器
亀ヶ岡式土器(大洞式)
縄文時代晩期
 116
       
亀ヶ岡式土器(大洞式)
縄文時代晩期


 117亀ヶ岡式土器 粗製土器

 118赤彩壺形土器 晩期
赤彩壺形土器 晩期
 

 120亀ヶ岡遺跡と低湿地泥炭層遺跡

 121
亀ヶ岡文化圏の主要な遺跡は低湿地に形成される特徴があり、亀ヶ岡遺跡は全国でも数少ない低湿地遺跡として著名です。

※亀ヶ岡文化圏は、渡島半島南端の函館市・福島・松前町から福島県新潟県下越地方以北と考えられているが、土器は全国から出土しており、
 北海道稚内、石川県能登町、東京都町田市、高知県土佐市、福岡市、大分市、沖縄県北谷町など全国に広がる。
 北谷町出土のものは、関西の胎土を使って北陸の職人が作ったとも言われている。 

 彩文籃胎漆器
亀ヶ岡遺跡と低湿地泥炭層遺跡

亀ヶ岡出土の彩文籃胎漆器
竹や樹皮等でカゴを編み、布(アンギン)を掛けた上に漆を塗って貼り付けた皿状の漆器に
赤漆で模様を描いたもの。
高度な漆文化を持つ縄文人の技術の現れです。
 

亀ヶ岡遺跡

八戸市是川中居遺跡

秋田県五城目町中山遺跡

岩手県北上市九年橋遺跡

宮城県一迫町山王囲遺跡 

 123亀ヶ岡式(大洞式)土器 晩期
亀ヶ岡式(大洞式)土器 晩期

 125結髪土偶(けっぱつどぐう) 亀ヶ岡遺跡 大洞A式土器併行期 縄文晩期後葉(約2400年前)
縄文晩期の前半は、遮光器土偶の様に、顔などがデフォルメされているが、時代が下がるにつれ、顔や頭の表現が写実的になる。
この土偶も、髪を結い上げた女性の表情を表現したもので、当時の女性の姿をモデルにしているのではないか、とも考えられます。
尚、1階の復元住居の中の女性ロボット(人形)の髪型は、この土偶を参考にしています。

結髪土偶
結髪土偶

上に記述
発掘風景 亀ヶ岡遺跡
昭和48年
発掘風景 亀ヶ岡遺跡
昭和48年
発掘風景 亀ヶ岡遺跡
昭和48年

 127亀ヶ岡遺跡出土土器 縄文晩期
亀ヶ岡遺跡出土土器
縄文晩期
 

 130佐藤公知と風韻堂コレクション

佐藤公知(さとうこうち)氏は、地元教員として勤務する傍ら、縄文晩期の亀ヶ岡遺跡の出土品の蒐集に努めた人で、そのコレクションは、
「風韻堂コレクション」と呼ばれる。彼の死後、蒐集品はご子息、大高興氏に引き継がれ、大高氏より青森県立郷土館に寄贈された。
ここに展示する遺物は、風韻堂コレクションの一部である。

 131縄文晩期(約3000~2300年前)の土器
風韻堂コレクション
縄文晩期土器
亀ヶ岡遺跡
佐藤公知と風韻堂コレクション
 133風韻堂コレクション 縄文晩期土器 亀ヶ岡遺跡(約3000~2300年前)
風韻堂コレクション

 135亀ヶ岡遺跡と菅江真澄・蓑虫山人
亀ヶ岡に関する最も古い記録は「永禄日記」ですが、亀ヶ岡を世に紹介し、その名声に一役かった人物に菅江真澄と蓑虫山人がおります。
特に真澄の業績は日本の考古学史上で高く評価されています。

亀ヶ岡遺跡と菅江真澄・蓑虫山人 蓑虫山人
菅江真澄

新古祝甕品類之図
菅江真澄の墓
蓑虫山人の亀ヶ岡発掘の図
日本最古の土器発見の記録
津軽亀ヶ岡城
元和8年
遺物出土状況
亀ヶ岡遺跡 晩期


 彩文鉢形土器 亀ヶ岡遺跡出土 大洞C1式土器 縄文晩期後葉(約2700年前)
彩文鉢形土器 彩文鉢形土器 土器の表面に、赤と黒の漆で文様を描いた(彩文)土器。
低湿地には、これらの漆塗り土器や漆器などが水漬けで、良好な保存状態で朽ち果てることなく埋蔵されている。


 津軽を代表する遺跡 
  亀ヶ岡式土器の分布域は、北は北海道宗谷岬から、南は沖縄島に及ぶ。
津軽亀ヶ岡城図
元和8年高原公築
亀ヶ岡城絵図 亀ヶ岡城絵図 蓑虫山人描いた縄文の遺物
佐藤公知著
「亀ヶ岡文化」
遺物出土状況
亀ヶ岡遺跡 晩期
出土した土壙墓
晩期
亀ヶ岡遺跡雷電宮地点

 140

 141浮橋貝塚層位断面 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町小屋敷町字浮橋
      参考貝塚に見る食生活
浮橋貝塚層位断面

Ⅰ 表土(褐色層)
Ⅱ 混貝土層

Ⅰ 表土(褐色層)
Ⅱ 混貝土層
Ⅲ 貝層

Ⅲ 貝層
Ⅳ 暗褐色土層
Ⅴ 黒色土層

Ⅳ 暗褐色土層
Ⅴ 黒色土層
Ⅵ 黄色土層
 (ローム層)

 143車力村の遺跡
     参照十三湖周辺の遺跡
土師器甕
車力村 花林遺跡
平安時代
円筒上層c式土器
車力村 牛潟(1)遺跡
縄文中期
車力村
つがる市
円筒上層d式土器
車力村 牛潟(1)遺跡
縄文中期
円筒下層d1式土器
車力村 牛潟(1)遺跡
縄文前期

 145森田村 石神遺跡 青森県つがる市森田町床舞石神地内
岩木山北麓から続く台地が津軽平野と接する位置に、円筒土器文化を中心とする縄文時代前期中頃~中期(6000~4000年前)の石神遺跡が位置しています。発掘調査によって、円筒土器が古いものから新しいものまで、層位的に順序正しく出土した遺跡として知られ、土偶や土器など、219点が平成2(1990)年6月29日国の重要文化財に指定されました。これらの出土品は、つがる市森田歴史民俗資料館に展示されています。近年の発掘調査の結果、遺跡の北部が居住域で、南部が墓域という空間構成が明らかになりました。 引用石神遺跡
石神遺跡と狄ヶ館溜池

円筒上層e式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒上層e式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒上層d式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒上層c式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒上層b式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒上層a式土器
森田村 石神遺跡
縄文中期
円筒下層d2式土器
森田村 石神遺跡
縄文前期
円筒下層d1式土器
森田村 石神遺跡
縄文前期
円筒下層b式土器
森田村 石神遺跡
縄文前期
円筒下層a式土器
森田村 石神遺跡
縄文前期
 


 150亀ヶ岡文化

 151亀ヶ岡遺跡について
史跡亀ヶ岡石器時代遺跡は、縄文晩期(約3,000~2,500年前)の遺跡です。青森県北西部、つがる市木造亀ヶ岡亀山・木造舘岡沢根・木造舘岡近江野沢に所在します。史跡面積はおよそ39,800㎡。東京ドームを少し小さくしたくらいの広さです。
地形的には標高10~20m程の丘陵部(亀山地区)とそれらを囲む低湿地帯(沢根地区・近江野沢地区)からなっています。

江戸時代から、南側の沢根地区から保存状態の良い芸術的な遺物が出土することが知られていました。
東京国立博物館にある有名な左脚のない遮光器土偶(1階にレプリカあり)も沢根地区から出土したといわれています。
昭和19年に北側200mにある田小屋野貝塚(縄文前期~中期、約5,600~4,000年前)と共に国史跡に指定されました。

亀ヶ岡文化圏の
主要な遺跡
亀ヶ岡遺跡の位置と
航空写真
亀ヶ岡遺跡の位置
航空写真 航空写真
亀ヶ岡遺跡について

 152亀ヶ岡土器文様変遷図
亀ヶ岡遺跡に由来する精巧華美な亀ヶ岡式土器は、東北地方の縄文時代晩期の土器を総称した名称である。古くは、津軽式、陸奥式、などと呼ばれたが、岩手県大船渡市大洞貝塚から出土した土器によって、亀ヶ岡式土器を古い順に大洞B式、BC式C1式C2式A式A'式と六分類した。

亀ヶ岡式土器の特徴は、精製土器粗製土器を作り分け、壺型鉢型台付型皿型注口型香炉型などの多様な器種を、用途に応じて作り、使い分けが行われたことである。
亀ヶ岡式独特な入り組み文などの文様を施し、朱塗り漆塗り彩文と、著しく装飾された器が多く、その形と文様に縄文人の美に対する意識が込められている。

亀ヶ岡式土器文様変遷図 亀ヶ岡式土器文様変遷図 形式模式図 大洞B式(三叉文)
大洞C2式(雲形文)
大洞BC式(羊歯状文)
大洞A式(工字文)
大洞C1式(大腿骨文)
大洞A'式(変形工字文)
 

 160縄文時代晩期の文様変遷
 161
 161大洞B式
大洞B式
三叉状入組文
 162大洞BC式
大洞BC式
羊歯状文
 163大洞C1式
大洞C1式
雲形文 <
×字状文
大腿骨文

 164大洞C2式
大洞C2式
雲形文―X字状文
 165大洞A式
大洞A式
工字文
 166大洞A'式
大洞A'式
変形工字文
 167
 
 170
 171籃胎漆器 亀ヶ岡遺跡
スゲ、カヤ、竹などを現材に編んでを作り、両面に漆を塗った容器。黒漆を塗った地の上にベンガラ(酸化第二鉄(赤色))で文様を描いている。

籃胎漆器 籃胎漆器
 172石棒 風韻堂コレクション
縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。特に縄文中期~後期(約5000~3000年前)に多い。男性器(男根)に形状が類似する。
信仰的、多目的な精神的よりどころであったと推定されているが、詳しい用途は不明。
石棒・壺形土器
石製装身具 石棒
石棒
上に記述
円盤状土製品
 173装身具・土製品
石製装身具 小玉 土偶
土偶
亀形土製品 三角板土製品 玉未成品 磨製石斧
 175土偶
土偶 (縄文)
三戸町泉山遺跡
動物形土製品(縄文)
青森市三内沢部遺跡
土器小壺(縄文後期)
中ノ平遺跡
三角形土製品
三内沢部遺跡
 177
鐸形土製品
中ノ平遺跡
土偶(縄文)
青森市近野遺跡
 
土偶頭部(縄文)
青森市近野遺跡
 
 179
 箆状石器(石箆) 北東北特有の石器
形が、先端がやや狭く、下端が広がっていて、携帯用靴ベラの様に見えるものもあることから、こう呼ばれている。
「楕円形」に近い形のものもある。広い部分に刃をつけ、木や骨の切断や、皮のなめし、小穴を掘るなどに用いたと考えられている。
縄文時代早期中葉(約7000年前)から発達し、北日本に多い。
箆状石器(石箆)

 磨製石斧
「石斧」は「いしおの」ともいう。縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。刃の部分などは、磨いて形づくるため、「磨製石斧」という。木の柄に装着して、樹木の打ち割り加工・伐採などの用途に使う、斧の刃の部分として用いる。
磨製石斧

 石剣
縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。特に縄文後期~晩期(約4000~2300年前)に多い。
一端に「にぎり」部分を持ち、楕円形ないし菱形の断面形状を持つ。信仰的・祭祀的なものと推定される向きもあるが、詳しい用途は不明。
石剣
 
 180
 181
 石匙
「石ヒ(いしさじ)」とも書き、「せっぴ」ともいう。縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。
切断・皮はぎなど、広い用途を持ち、皮剥(かわはぎ)とも言われる。扇状の横型(西日本型)と、柳葉状の縦型(東日本型)のものがある。
石匙

 石錐
「せきすい」とも読む。縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。孔をあけるための錐(きり)=ドリルである。
上端は広がっていて、つまみ状になっており、先端は尖っていて、この部分で穴を開ける。
石錐
 
   

 石皿と磨石 下田町中野平遺跡


 石槍  
縄文時代(約13000~2300年前)の石器の一つ。
刺突(刺したり突いたりする)用の石器で、武器や狩猟用具として用い、長い柄の先端部分に装着して使う。

石槍
(いしやり、せきそう)
 


 183黒曜石製石器 岩木山系黒曜石

八重菊(1)遺跡
岩木山系
左上から60~71
鶴喰(6)遺跡 59
岩木山系黒曜石
 184石神遺跡 表面採集
石神遺跡44-58

左49:判別不可
    産地不明
右56:硬質頁岩、以前
 黒曜石との誤謬あり
岩木山系(青森産)
左上から44・46・48
50~52・54・55・57・58
深浦系黒曜石
(青森産)45
男鹿系黒曜石
(秋田産)47
赤井川系黒曜石
(北海道)53
石神遺跡
表面採集44~58
 185亀ヶ岡遺跡 表面採集 28-43
判別不可(産地不明)
左から31,34,36
岩木山系(青森産)
亀ヶ岡遺跡
表面採集28-43
 186亀ヶ岡遺跡 1~27
赤井川系(北海道産)
解説と番号が入れ替わっている。9の次から

20,21,22,26,27

左から9,13,17,20,21
 187亀ヶ岡遺跡
深浦系(青森産)
左から6,18
判別不可産地不明
16,25
所山系(北海道産)10
上士幌・美蔓系A
北海道産15
赤石系(北海道産)
2,4,5
 188亀ヶ岡遺跡
赤井川系(北海道産)
1,3,8,11,12,14,19,23,24

3,8,11,12

3,8,11,12,14,19

12,14,19,23,24
 
 190
 191生活の道具
土師器
石上神社遺跡
木造蓮川
10c~11c
土錘
漁網の錘

 192車力村 乗鞍遺跡出土 引用乗鞍遺跡
岩木川左岸、袴形溜池北側の低丘陵上に位置する遺跡です。現在は土取りのため遺跡はほぼ消滅状態となっていますが、過去に表採された資料が、車力村教育委員会に収蔵されています。
遺物は、縄文時代後期の十腰内式土器が主体で、壺や浅鉢、注口土器が認められます。
また、十三湖周辺では珍しい弥生時代前期の二枚橋式土器の破片や、内面黒色処理された平安時代前期の土師器坏・須恵器坏・壺・甕なども含まれることから、縄文時代後期から平安時代にかけて営まれた複合遺跡と考えることができます。

土師器
乗鞍遺跡(車力)
縄文後・晩期、平安
支脚


 195擦文土器 稲垣村松枝遺跡 10c後~11c 平安時代

擦文土器 松枝遺跡
10c後~11c
 196擦文土器 稲垣村久米川遺跡 10c後~11c
擦文土器
久米川遺跡
10c後~11c
擦文土器
久米川遺跡
10c後~11c
土錘
松江田遺跡(稲垣)
10c後~11c
久米川遺跡(稲垣)
 10c後~11c
土錘 久米川遺跡
 10c後~11c
食器類 久米川遺跡
 10c後~11c
食器類 久米川遺跡
 10c後~11c
久米川遺跡(稲垣)
 10c後~11c
同一反復
土器片
久米川遺跡(稲垣)
 10c後~11c
久米川遺跡(稲垣)
 10c後~11c
久米川遺跡(稲垣)
 10c後~11c

 197柏桑野木田八幡遺跡 平安・江戸

 旧柏村で遺跡発見
桑野木田八幡遺跡出土品 (平安・江戸)
「平成の大合併」前の青森県内67志知養鱒の中で、唯一遺跡が所在しなかった旧柏村~遺跡が見つかり平成18年3月に登録されました。

旧柏村で遺跡発見
桑野木田八幡遺跡出土品 (平安・江戸)
懸河遺跡(稲垣)
10c~11c
懸河遺跡(稲垣)
10c~11c
懸河遺跡(稲垣)
10c~11c
 
 200つがる市内の遺跡
 201つがる市の縄文遺跡から出土した黒曜石
つがる市に82ヶ所ある縄文遺跡からは、黒曜石製の石器が出土します。(2011年8月現在)
つがる市付近は、日本海岸の七里長浜(しちりながはま)や岩城山麓からは、岩木山系の黒曜石の原石が拾えるため、これらの石器の黒曜石の原産地は、岩木山麓と考えていましたが、2010年に明治大学に黒曜石の原産地同定を依頼したところ、

その多くは、岩木山系黒曜石でしたが、北海道産(十勝石沢系・赤井川など)や、秋田県産(男鹿系)のものなど、遠方から来たものもあり、
縄文人の広い交易圏が窺えました。

縄文遺跡群世界文化遺産登録を目指すつがる市の縄文遺跡 亀ヶ岡遺跡 田小屋野遺跡 つがる市の縄文遺跡から出土した黒曜石 つがる市の縄文遺跡から出土した黒曜石
上に記述
石器時代における北海道・東北地方の黒曜石原産地
黒曜石出土遺跡と
採取地点
つがる市出土黒曜石製遺物の判別図
同一反復
つがる市における原産地推定の集計結果 つがる市における原産地推定の集計結果
 202つがる市付近で拾える黒曜石
つがる市付近で拾える黒曜石 七里浜で採集した黒曜石
神田(かみた)遺跡北海岸
鶴喰地区採集の黒曜石
20kg

巨大原石
 




 205第3展示室




  田小屋野遺跡

位置 つがる市木造にある貝塚遺跡で、岩木川左岸に立地する。
亀ヶ岡石器時代遺跡の北側に位置し、谷をはさんで向かい合う標高約20mの段丘上に位置します。

年代 円筒土器文化期を中心とする縄文前期中頃~中期(5500~4000年前)の遺跡である。

概要 縄文前期の竪穴住居跡1棟や土坑群などが確認された貝塚遺跡指定面積は約1万4千㎡である。
縄文時代前期~中期の円筒土器とそれに後続する土器や石器・石製品・土製品・骨角器、貝輪などが出土。
貝塚からは、ヤマトシジミ、イシガイなどの貝類を中心に、魚類、鳥類、ほ乳類など大量の骨が発見されており、当時の食生活や狩猟・漁労に関する貴重な情報が得られました。また、クジラなど大型哺乳類の骨で作った骨角器等も発見された。

貝塚 塚は全国的に見て太平洋岸に多く分布しており、田小屋野貝塚は日本海側の数少ない貝塚として重要です。
汽水性のヤマトシジミを主体とする貝塚で、十三湖北岸に所在するオセドウ、笹畑貝塚などとともに、日本海側に見られる数少ない貝塚です。

特徴 また、約60点のベンケイガイが出土しており、ここで、ベンケイガイの貝輪(ブレスレット)作りが行われ、青森県内のみならず、北海道まで運ばれていたものと考えられています。

     引用史跡 田小屋野貝塚-青森の縄文遺跡群 引用亀ヶ岡石器時代遺跡 田小屋野貝塚 石神遺跡 -つがる市 引用田小屋野貝塚 引用コトバンク田小屋野貝塚
 

第14回 田小屋野貝塚の人骨と発掘調査 – 縄文エッセイ - 縄文ファン

   

田小屋野貝塚 - 北海道・北東北の縄文遺跡群


考察 ベンケイガイで貝輪を作る人々
 
ベンケイガイ
北海道南部より南の地域に分布し、朝鮮半島南部にも生息している二枚貝である。これで作った貝輪を検索すると
千葉県(後期3500年前)・愛知県東海地域(後期)・岡山県(後期)・京丹後市(中期)などで取り上げられており、縄文時代に
この地域での出土があったようです。

貝輪づくり
貝輪作りの村、田小屋野貝塚は縄文前期であり、本州の北限に位置し、潜水漁で採取できる北限でもある。暖流とはいえ、七里長浜の
沖に舟を出し、寒冷な北限の海に潜って貝を採取する。この貝漁に生活の全てが掛かっており、潜水海女の技量がすべてを決める。
この優秀な海女を主体とした集団はどこから来たのだろうか。

縄文人の移動
琉球列島から続く黒潮に乗ってやってきた集団は、太平洋沿岸に痕跡を残し、渥美半島(東海地方)や関東や房総半島に独特な遺跡を残す。
朝鮮半島南部からやってきた集団は、独特な漁具と漁法で日本海沿岸を北上し、津軽海峡を越えて、対馬暖流の終点八戸まで来ていた。

工芸品の需要
縄文前期という早い時代に貝輪という工芸品がそれほど大切なものだったのかと驚きます。なぜだろう。何に使ったんだろう。
威信材としての貝輪はずっと後期になってからかもしれない。長野県の北相木村では、縄文早期の落盤事故の死体が貝製首飾りをかけていた。
日常的に用いるとしたら魔除けでしょうか。

魔除けがなければ生きられない
食うにも事欠く縄文の早い時期から、まじない品として、遠くの海で作られた貝輪が、当時のステータスシンボルであり、この製作のみを生業
とした潜水漁集団が、原始の列島にやってきた。こんな原始の時代にアクセサリー作りだけで生きていけるとは、どれ程高価だったのだろう。
 

 206田小屋野貝塚とは
田小屋野貝塚は、青森県西端部、日本海に面して南北に延びる屏風山砂丘地帯に位置します。
これまでの発掘調査の結果、縄文時代前期中頃から中期の終わり頃(約6,000~4,000年前)にかけて営まれた集落遺跡であることが分かりました。

遺跡の大きな特徴は、集落内に貝塚が点在することです。これらの貝塚は主に前期中頃のもので、ヤマトシジミをはじめとする貝が堆積してできたものです。
貝塚の築かれた当時、地球温暖化の影響によって生じた海進の結果、津軽平野の広い範囲に海域あるいは湖沼域が広がっていたと考えられています。
田小屋野貝塚に暮らした縄文時代の人々は、眼下に広がる水域からヤマトシジミをはじめとする様々な食料を手に入れていたことでしょう。

第3展示室
つがる市遺跡地図
田小屋野貝塚の位置
1田小屋野貝塚とは
つがる市周辺の縄文海進
田小屋野貝塚航空写真

 207田小屋野貝塚出土品
田小屋野貝塚では、使われなくなった竪穴住居の窪地付近から多数のヤマトシジミやトドなどの動物骨と共に、土器や石器、動物の骨で作った骨角器、ベンケイガイの貝輪などが出土しました。また、縄文人骨は、竪穴住居跡と重なり合う土壙墓の中から、ヤマトシジミの貝層に覆われた状態で発見されました。

この様に貝塚では、通常の土壌中では腐って分解されてしまう食料や動物の骨で作られた道具、人骨などが出土するため、当時の社会を知る重要な手掛かりを得ることが出来ます。こうした情報量の豊かな貝塚を伴う田小屋野貝塚は、東北地方の日本海側では数少ない大変貴重な遺跡といえます。

また、田小屋野貝塚から出土した60点にも上るベンケイガイの貝輪は、いずれも壊れていて、制作途中で失敗したために捨てられたと考えられています。このことから、田小屋野貝塚では採取してきたベンケイガイを貝輪に加工し、ほかの集落に供給していた可能性があります。

田小屋野貝塚から北海道産の黒曜石で作られた石器が出土すること、あるいは現在生息域の外にある北海道南部の縄文時代遺跡からベンケイガイの貝輪が出土していることを考え合わせると、田小屋野貝塚の人々は、同時代の道南の人々と交流し、モノをやり取りしていたのかもしれません。

2田小屋野貝塚出土品 海獣骨類出土状況 竪穴住居内の貝層
検出状況
田小屋野貝塚出土
縄文前期人骨

約5500~5000年前
成人女性とみられる人骨。
小さな貝塚の深さ15cmに埋められていた。


 3人骨の出土状況と遺存状態
 (1)出土状況
頭骨は、後頭骨の一部を除き破損されていて、顔面の向きは正確には確認できませんが、背骨の配列から、左側を上に下横向きの姿勢と思われます。上肢骨は、顔面の前に手が来るように、左右とも45°程度屈曲させた状態です。

下肢骨は、膝蓋骨が攪乱を受け遺存しませんが、大腿骨と足根骨の配列から脚を揃えて90°近く屈曲された状態です。
確認出来た骨は全て解剖学的位置関係を保っています。以上のことから、火葬や洗骨葬などとは違い、遺体を何も処理せず、手足を折り曲げて横向きに埋めた葬法(一次埋葬の横臥屈葬)と判断されます。

 (2)遺存状態
頭骨、体幹骨は破損が著しく断片的ですが、四肢骨は比較的状態が良いです。同定できた部位を下図に黒塗りで示します。

3人骨の出土状況と
遺存状態
人骨出土状況
推定埋葬姿勢
人骨遺存部位
大型磨製石器
田小屋野貝塚
前期~中期
約6千~4千年前
石鏃
田小屋野貝塚
前期~中期
約6千~4千年前
 208
4縄文時代の葬制
縄文時代は田小屋野貝塚の様に手足を折り曲げて墓穴に埋葬する屈葬が多いです。
屈葬する理由としては、死者の霊が蘇ってこないように封じ込めるという説や、遺体を埋める穴を掘る労力をできるだけ節約する説などがありますが、定説はありません。

東北地方では五所川原市の晩期の五月女萢遺跡(さつきめやち、写真左)など、正面か横を向いた屈葬がほとんどですが、
なかには宮城県里浜貝塚(写真中央左)の様にうつぶせで埋葬された例もあります。

また、関東地方の称名寺貝塚では屈葬(写真中央右)と手足を伸ばした伸展葬(写真右端)が同時期の隣接地から出土しています。
5放射性炭素年代測定の結果
 
  田小屋野貝塚出土人骨から肋骨の一部を1g程採取し、加速器質量分析計により炭素14年代測定を行いました。その結果を以下の表に示します。

この年代データで使用されるC14年代は、放射線炭素の比率から計算される炭素濃度を年代に換算したもので、実際の実年代ではありません。
実年代を確定するために年輪年代法を用いた炭素年代を較正する必要があります。

田小屋野貝塚出土人骨の較正年代は約5500年前となり、縄文時代前期に相当します。
 6性・年齢
  (1)性別
 寛骨大坐骨切痕は広く、陥入は浅いので、性別は女性であると推定されました。
 「7.骨盤から見る性差」参照
(2)年齢
 脛骨腓骨等依存する長骨の骨端部が全て癒合していることから成人段階には達していると
 考えられます。
 また、椎骨に加齢性の骨棘(こつきょく)などが認められないことから、老人段階ではなく
 壮年・熟年程度と推定されました。
7骨盤から見る性差
 
  男性の骨盤は骨盤腔が狭く、上から見ると前後に長いハート形に見えます。
左右寛骨が組み合う場所を恥骨結合といい、そのなす角度(恥骨下角)は約60°になります。

また、その他に、閉鎖孔の形が卵円形になり、寛骨下部にあるだいざこつ切痕が狭くふかい角度になる特徴があります。

女性の骨盤は胎児が入る構造なので、男性の骨盤に比べて、腸骨翼が大きく横に広がった形状になります。
骨盤腔が拡大することで横楕円形になり、それに伴い恥骨枝と坐骨枝が伸び、閉鎖孔の形は三角形になります。更に恥骨下角が約90°と大きくなり、大坐骨切痕も広い角度になります。
 209
8日本列島の人類史 後期旧石器時代(約4万年~1万2千年)の遺物が全国で多数出土することから、この時代には日本列島全体に人類が存在していたようですが、旧石器時代人骨は数例しか出土していません。
近年、白保竿根田原遺跡(沖縄県)から十数体分の旧石器時代人骨が発見され、人類史の更なる解明が期待されています。

縄文時代は、多少の地方差・時代差はあるも比較的均一な集団が日本列島全域に存在していました。
弥生時代に朝鮮半島から九州北部に渡来した集団(渡来系弥生人)が縄文人と混血しながら拡散し、
古墳時代以降の本土日本人の基層集団となったようです。

一方、北海道と琉球列島では渡来系弥生人の影響をあまり受けずに縄文人の形質が強く残りました。
北海道では5世紀頃に北方からオホーツク文化を携えて渡来した「オホーツク文化人」の影響もあったようです。
9縄文時代人骨の特徴    縄目模様の土器を用いていた約12,000~2,000年前を縄文時代といいます。
縄文時代の人々は狩猟採集生活を営み、竪穴住居に住んでいました。

彼らは四角い顔、直線的な眼窩、立体的な鼻根部の濠の深い顔立ちで、咬耗(歯の磨り減り)が強く、前歯が噛み合う「鉗子状咬合」です。
生きている間に犬歯などを意図的に抜く「風習的抜歯」が施される場合があり、展示している縄文人骨で観察することが出来ます。

縄文時代人の平均推定身長は男性約159cm、女性約148cm。大腿骨の粗線が後方に突出する
(柱状大腿骨)など、現代人よりも四肢骨の筋付着部が発達していました。
10弥生人骨の特徴
 
  縄文時代の後から古墳時代が始まるまでの間を弥生時代といいます。
北海道では 続縄文時代、琉球列島では貝塚時代に相当します。

弥生時代に大陸から北部九州や山陰地方へ水稲と金属器文化を携えて渡来した集団がいました。
(渡来系弥生人)
彼らの平均身長は男性約164cm。女性約150cm。面長丸い眼窩、平坦な鼻根部といった平たい顔立ちで、上顎の前歯が下顎の前歯より前方に突出する「鋏状咬合」です。

一方、北海道・東北・関東北部・九州西北部では、縄文人とよく似た顔立ちの人骨が出土しています。
(本州湖:「在来弥生人」、北海道:「続縄文人」)
水稲稲作に適さない地域では、渡来系弥生人の影響は小さかったようです。
 

 211 11咬耗(歯の磨り減り)
縄文時代の人々は、現代人と比較して非常に磨り減った歯が多く見られます。田小屋野貝塚人骨も例外ではありません。
歯のエナメル質が殆ど消失してしまった歯も見られました(下左図)。このような激しい咬耗は、通常の日常生活の飲食だけでなく、歯を第3の道具として利用していたためと考えられます。

現代でもエスキモーの人々は歯で動物の皮をなめすため、歯冠部分が殆ど消失し、歯茎だけになってしまった人もいます(下図中央)。
約5万年前に生存していたネアンデルタール人類も歯を皮なめしに使用したため前歯が斜めに磨り減っています(下図右)。

11咬耗(歯の磨り減り)
田小屋野人骨の咬合 田小屋野人骨の咬合面 歯の断面図  
エスキモーナイフ
ウルで皮を剥ぐ
歯で噛んで皮を鞣す 咬耗した歯
 

 212 12妊娠痕
骨盤は左右の寛骨と仙骨、尾骨から構成されています。男性と女性の身体の作りが最も大きく異なるのが骨盤です。
女性は妊娠や出産があるため、胎児がお腹に入るよう全体的に骨盤が広がった構造になっています。さらに、女性の寛骨には妊娠や出産があった痕跡が残ります。「妊娠痕」と呼ばれており、寛骨の耳状全面下部に形成されたくぼみや溝(耳状全面溝)を指します。(下図矢印)

妊娠痕は、くぼみや溝が深いほど、より多く妊娠と出産を繰り返したと考えられています。
田小屋野貝塚人骨にも発掘調査段階から明瞭な妊娠痕が確認されています。

12妊娠痕 田小屋野貝塚人骨
発掘時の骨盤

現代人の骨盤
 妊娠痕有り
田小屋野貝塚出土人骨
左右寛骨

現代人の骨盤
妊娠痕無し

 213蹲踞面 13
縄文時代人骨の足首を構成する骨(脛骨と距骨)の関節面に、現代人には稀な関節面が高頻度で見られます。
これは下図の様に日時陽的に蹲踞をする習慣があった際に形成される関節面であることから、蹲踞面といわれています。
田小屋野貝塚の脛骨・距骨にも蹲踞面が観察されました。
13蹲踞面 蹲踞面のある縄文人の脛骨と距骨(左)
  岩手県蝦島(貝鳥)貝塚
蹲踞面の不明瞭な江戸時代人の脛骨と距骨(右)
  東京都池之端七軒町遺跡

縄文人では脛骨の前下端に凹みがあり、
距骨の間接面が前に拡大している。

江戸時代人骨では凹みや間接面の拡大がはっきりしない。

上:蹲踞(しゃがむ)姿勢
下:足の関節にできる
  蹲踞面(斜線部分)
 

 214 14柱状大腿骨
縄文人骨の大腿骨後面は、男女共に現代人に比べて後方に強く張り出す傾向にある。
特に男性で強く発達する傾向にあるが、縄文時代人が野山を駆け巡る生活をおくっていたため、大腿骨後面に付着する筋が発達下、骨も後方に張り出したものと考えられる。
田小屋野貝塚人の大腿骨の後面も現代人女性より顕著に張り出している。ぎりゃ建築の柱(ピラスタ)をつけたように見えることから柱状大腿骨(ピラスタ)と呼ばれている。

14柱状大腿骨
大腿骨右前(左)
大腿骨右後(右)

右大腿骨後面
弥生vs縄文
大腿骨骨幹中央部断面

 215 15骨から探る縄文時代人の食生活
(抜粋)田小屋野貝塚出土人骨からタンパク質コラーゲンの炭素・窒素同位体分析し、当時の食生活を知る。

北海道では、縄文時代のいずれの時期にも海生哺乳類・改正魚類・サケ類などの、海産物に強く依存していた。
東北地方では、縄文前期・中期は北海道程ではないものの海産物に強く依存していたようですが、
 後晩期になるとC3植物(堅果類)などを多く摂取していた地域もあるようです。
田小屋野貝塚は前期ながら比較的陸上の食べ物を摂っていたことが注目されます。

15骨から探る縄文時代人の食生活
東北地方の炭素・窒素同位体比

鮭・陸生哺乳類・C3植物に頼る生活
北海道の炭素・窒素同位体比

海生哺乳類・鮭類を主食とする生活
 
 
 
 230田小屋野貝塚遺跡の縄文人
 231出土人骨の解説
矢印の番号はパネルと対応しています 11➡211を見る
歯の咬耗
12➡212
14➡214
12➡212
妊娠痕
13➡213
蹲踞面
14➡214
柱状大腿骨

矢印の番号は上記
211~215の解説パネルに対応しています。

 233打製石器・磨製石器
  狩りや動植物の加工に使われた石器
打製石器・磨製石器
狩りや動植物の加工に使われた石器
石箆・磨製石斧 石匙 砥石・石鏃・石槍
半円状扁平打製石器 半円状扁平打製石器

 動物骨 前期 約6000~5000年前
動物骨・ベンケイガイ
食物残渣や道具・貝輪などの材料
前期(約6千~5千年前)
ベンケイガイ
動物骨
ヒシクイ類(鳥類)
キツネ、ノウサギ
クジラ骨



 235田小屋野貝塚出土資料
田小屋野貝塚は、平成29年10月13日に史跡範囲が追加指定されました。
このコーナーではつがる市が平静20年から継続調査をしてきた結果をご紹介します。

田小屋野貝塚写真 縄文土器

煮炊きなどに使われた深鉢形土器
中期末頃 約4千年前
円筒下層式土器

煮炊きに使われた深鉢形土器
前期 約6千~5千年前
円筒下層式土器

煮炊きに使われた深鉢形土器
前期 約6千~5千年前
復元住居 復元住居