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おことわり ネット上で広島県立歴史博物館を探してもありません。三次市に広島県立歴史民俗資料館というのがあり、似たような名前で混乱するので、 広島歴博は「ふくやま草戸千軒ミュージアム」という長ったらしい名前で呼んでいます。 広島歴民は「みよし風土記の丘・みよし風土記の丘ミュージアム」という、何ともダブった更に長たらしい名前をつけているのです。 どうも、彼らのネーミングセンスには問題が大いにあるようです。 よく似た名前をつけて混乱させた失敗をフォローするためにつけた愛称、別称が、その目的を完全に忘れています。 Wikipediaでは歴民を「 広島県立みよし風土記の丘」としています。すっきりわかります。なんで「みよし風土記の丘」でまた「みよし風土記の丘ミュージアム」と繰り返す必要があるんだろう。 |
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01外観
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地域展 新発見再発見 ひろしま考古学最前線 広島県内の遺跡のうち,最近の発掘調査で明らかになった新発見とともに,過去に出土した遺物の中で新たに分かった研究成果も紹介します。 |
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第2部の「地域展」では、広島県内の遺跡のうち、最近の発掘調査で明らかになった新発見の成果とともに、過去に出土した遺物の中で最近、 新たにわかった最新の研究成果も紹介します。「全国巡回展」に引けを取らない、地元広島県の貴重な発見にも御注目ください。 (ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)主任学芸員 尾崎光伸) |
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101御挨拶 |
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旧石器時代 |
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110只野原3号遺跡 庄原市高野町 後期旧石器時代~縄文時代草創期 約30,00~15,000年前 3m掘り下げて見つかった県内最古級の石器 旧石器時代は、活発な火山活動の中、人々は獲物や植物性の食料を求めて一定の範囲内を移動する狩猟採集生活を行っていました。 只野原3号遺跡は、平成20~22年にかけて発掘調査が行われ、火山灰を含み2m以上堆積した土砂の中から、旧石器時代の遺物を含む2層と その上に縄文時代の層が確認されました。 只野原3号遺跡 只野原3号遺跡の主な層位は次の通りです。
このうち、③の三瓶浮布テフラの厚さは約2mで、噴火のすさまじさを物語っています。 旧石器2文化層出土の石器は、広島県内の後期旧石器時代最古段階に位置づけることができます。 |
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111panel |
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112旧石器1,2文化層出土遺物 ここに注目 石を叩くと割れます。この割れた面をじっくり観察すると、どの方向から力が加わったかがわかります。 割れたところが1か所だったり、力が加わった方向が不規則なら、山から転がって自然に割れたことも考えられますが、 決まった方向から複数の力が加わっているときには、人が意図的に割ったものと考えられ、石器として加工した痕跡と見ることができます。 旧石器第1文化層
旧石器第2文化層
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113縄文時代文化層出土遺物 縄文時代石器
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縄文土器 ここに注目 縄文時代文化層から出土した隆起線文土器は、今から約15,00年前の縄文草創期に位置づけられます。広島県内最古級の土器です。 |
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縄文時代 | ||||||||
120御領遺跡 福山市神辺町 縄文晩期 約2,800年前 縄文時代の注口土器が出土 御領遺跡は、南北1.4km東西1.6kmに及ぶ広大な遺跡です。昭和49年に遺跡が確認されて以降、既に160以上の発掘調査が行われています。 御領遺跡に最初に人が住んだのは、縄文後期 (約3,400年前) 頃で、その後、弥生から古墳時代にかけて大規模な集落が営まれるました。 遺跡の南西は、初期の居住跡の一つで縄文後期から晩期 (3,400-2,800年前) の竪穴住居跡などの遺構や、縄文土器などが出土しています。 平成24,28年の発掘調査では、県内では珍しい、完全に近い形の縄文土器が出土しました。 平成28年に見つかった注口土器は注ぎ口が付いた器で、お酒を入れた器ではないかともいわれています。 |
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弥生時代 | ||||||||
130佐田谷・佐田峠墳墓群 庄原市宮内町 弥生時代中期後半~後期 約2000年前 さただに・さただお 佐田谷・佐田峠墳墓群 現地説明会資料 広大 発掘調査報告書 広大 佐田谷・佐田峠墳墓群 広大 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認 四隅突出型墳丘墓ほか、様々な弥生墳墓が混在 弥生時代中期後半から後期 (約2000年前) 山陰から北陸地方にかけての地域には、方形の墳墓の四隅を突出させた「四隅突出型墳丘墓」が 数多く見られます。 四隅突出型墳丘墓の発祥の地は、広島県北部地域ではないかと考えられています。 それを検証する研究と遺跡の保護を目的とした佐田谷・佐田峠墳墓群の調査が、平成20-27年に行われました。 平野部を臨む丘陵上に造られた佐田谷・佐田峠墳墓群は、現在までに8基 (佐田谷1~3号墳、佐田峠1~5号墳) 確認されています。 平成20年以降に行われた調査の結果、佐田谷・佐田峠墳墓群は、「四隅突出型墳丘墓」だけでなく、周囲に溝を巡らせた「方形周溝墓」や、 平面系が長方形の「方形台状墓」など様々な形の墳墓で構成されていることが分かり、墳墓が次第に大型化することや、弥生時代後期初頭から 吉備南部とつながりのある土器がお墓に備えられたことなどが明らかになりました。 |
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132佐田谷3号墓出土 |
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133脚台付鉢形土器 ここに注目 注ぎ口の付いた脚台付鉢形土器には、様々な文様が施されています。また、こうした土器は集落から出土することはなく、お墓に供えられる 共献用の土器として造られたものと思われます。 |
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134弥生土器 佐田谷1号墳出土 |
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140黄幡1号遺跡 (おうばん) 東広島市西条町 弥生時代前期末~中期前半 約2,500~2,300年前 弥生時代の樋かと思いきや、船材と判明 黄幡1号遺跡は、丘陵裾部のゆるやかな斜面地で、周囲に水田の広がる、土中に水分の多い場所で確認されました。 発掘調査は平成14-16年に行われ、弥生時代前期末から中期前半にかけての土器と共に、鍬や鋤などの木製品が多く出土しましたが、 製作途中のものが多く、この場所は木製品の製作地であった可能性が指摘されています。 平成15年の調査で見つかった長さ5mのスギ科の木材は中が刳り抜かれていて、発見当初は樋ではないかと考えられていました。 しかし、その後の研究で、側面の一方にある2~4cmの切り込み7か所が、船体に板を重ねて木の皮などで固定するための痕跡で、 準構造船の一部であったとする説が報告されました。 この準構造船は弥生時時代前期末のものと考えられ、国内最古級である可能性があります。 船材や、鍬、鋤などの木製品と一緒に出土した土器を見ると、それらはいずれも弥生時代前期末から中期前半に位置づけられるものです。 この層から一緒に出土した板材を年輪年代測定すると、年代が明確な13点のうち、伐採の年がうかがえるものが4点あり、 それらは、紀元前5世紀と紀元前3世紀に伐採されたものであることが分かりました。 この木材は、他の化学分析による年代測定も併せて行われており、年代のズレがあるため、正確な年代を決定する研究が続いています。 |
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141黄幡1号遺跡 |
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142準構造船の一部 黄幡1号遺跡 準構造船は丸木舟に舷側板や竪板などを取り付けて外洋航海用に改造した船です。 |
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143共伴木製品 ここに注目 この板材は年輪年代測定法によって、紀元前424年頃に伐採されたという結果が出ました。 年輪年代測定法は、樹木の年輪幅が年々の気象条件によって変動することを利用し、年輪幅を0.001mm単位で測定して作った変動パターンを 基に、木材に残る年輪が何年から何年かを調べる方法です。 |
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144共伴土器 弥生時代前期末から中期前半にかけての土器 |
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150御領遺跡 福山市神南辺町上下御領 弥生時代終末期 約1,850年前 環濠を巡らせた大規模集落 大型船が入港する(?) 弥生時代の大型集落 平成25年、広大な御領遺跡内の南東部から、弥生時代後期から古墳時代初頭 (約2,000~1.750年前) の集落が確認されました。 そこで見つかった直径3.2~2.5m深さ0.6mの穴から多量の割られた土器が出土し、その中に口縁部に船の絵が刻まれた壺がありました。 時期は弥生時代終末期(2世紀末~3世紀初頭)頃と考えられます。 |
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151panel |
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152線刻土器 御領遺跡 弥生終末期 |
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153 絵画土器 御領遺跡 弥生終末期
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153a弥生時代の拠点集落で見つかった船の絵 広島県と三重県の絵画土器 以下引用「発掘された日本列島2018」広島会場での解説文書
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154高坏 御領遺跡 弥生終末期 |
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155土製品 御領遺跡 弥生終末期 |
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古墳時代 |
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160甲立古墳 安芸高田市甲田町上甲立の菊山 古墳時代前期末 4世紀後半 甲立古墳 甲立古墳 甲立古墳 甲立古墳 甲立古墳 山間部に築かれた畿内系前方後円墳 古墳時代前期末 (4世紀後半) に築造された全長77.5mの前方後円墳で、安芸地方の前期古墳の中では最大規模です。 平成22-25年に古墳の規模や内容を確認する調査が行われました。その結果、墳丘は後円部3段、前方部2段ら均整に築かれ、墳丘斜面には 隙間なく石が葺かれ (葺石)、墳頂部や斜面間の平坦部では埴輪が巡らされていることが明らかになりました。 後円部墳頂では、埋葬施設は保存のため調査されていませんが、その周囲からは円筒埴輪や楕円筒埴輪列や、墳丘の南東にある 石敷きの区画から5基の家形埴輪を一列に並べた状況が確認され、古墳祭祀や埴輪祭祀を研究する上で貴重な事例となりました。 また、埴輪の造りは端正で技術の高さを示し、畿内中枢部から出土した埴輪と類似しています。 以上のことから、甲立古墳は、畿内政権が瀬戸内海から内陸 (又は日本海) に向かうルートの掌握など、畿内政権との関係を強く受けて 築造された古墳と考えられます。 |
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161 |
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162家形埴輪 切妻二階家 |
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163埴輪 |
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170曲第2号古墳 庄原市口和町 古墳時代中期 5世紀後半 曲第2古墳 小さな古墳から出土した鉄製のよろい 直径12~13.5mの円墳で、周囲に幅1~3mの溝 (周溝) が巡っています。小規模な古墳ですが、平成19年の調査では、 墳丘中央に長さ3.5m幅1.0mの組合式木棺と考えられる埋葬施設が確認され、その中からほほ完全な形の鉄製よろい(短甲)1領と 鉄刀1口・探検1口・鉄鏃4点・刀子(小刀)形鉄器1点が出土しました。 この古墳は周溝から出土した須恵器や土師器から、5世紀後半から末頃に築造されたと考えられます。 出土した短甲は、前側に横長の鉄板 (横矧板よこはぎ)、後ろ側に三角形の鉄板 (三角板) を用いて、鉄板と鉄板を鋲で留めています。 (三角板横矧板併用鋲留短甲) 右わきには蝶番 (ちょうつがい) 金具が取り付けられ、前を開いて装着していました。 短甲は、大王から地域小首長まで同型品を共有することから、畿内政権内で一括して生産し保有され、それが全国に配布されたものと 考えられており、曲第2古墳の被葬者も、畿内政権となんらかのつながりがあったものと思われます。 |
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172古墳出土遺物 曲第2古墳 |
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173曲第2古墳出土 短甲 曲第2古墳 曲第2古墳出土の短甲は、主に腰の上から胸の部分を守る甲で、鉄板を鋲や革ひもで綴じて作られたものです。(三角板横矧板併用鋲留短甲) 曲第2古墳葉直径約13.5mの円墳で組合式木棺の中からは短甲と共に鉄鏃や鉄刀、鉄剣などが出土しています。 引用「ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)ニュース第116号平成30年10月」 |
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180白山第1号古墳( しろやま) 広島市安佐南区 古墳時代中期 5世紀 不明のよろい再発見!! 昭和38年、広島市安佐南町の (現:安佐南区) 周辺の遺跡の分布調査を行った際に、調査員が畑地の中にある小さな祠が古墳の石棺だと 気付きました。昭和31年頃、この辺りから古墳時代の短甲や鉄刀、鉄槍、鉄斧などが採集され、県立可部高校で保管されていました。 可部高校では、資料の散逸防止のために保管しました。この古墳と、その後発見された古墳も併せて「白山第1号古墳、第2号古墳」とされました。 墳形不明ですが、埋葬施設は箱式石棺と推定されています。 |
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182 ここに注目 短甲は現在、広島県立 歴史民俗資料館に保管されています。 |
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190門田敦盛第4号古墳 (もんでんあつもり) 三次市東酒屋町 古墳時代後期 7世紀中葉~後葉 全国初の柄香炉形土製品 平成26年、門田敦盛第2~4号古墳の発掘調査が行われました。このうち、第4号古墳は一辺9.5mの方墳で、埋葬施設に横穴式石室を持ち、 開口部付近には石を立て並べた外護列石が確認されています。 横穴式石室では一度追葬が行われており、初葬は7世紀中葉、追葬は7世紀後期後葉頃と考えられています。 門田敦盛4号墳から出土した遺物の内、特に注目されるのは柄香炉形の土製品です。 柄香炉は、仏教の法会で僧侶が手に持って香を献じるための仏具です。 原型と考えられる7世紀代の金属製柄香炉は法隆寺や正倉院に3例あるとされていますが、それを模した土製品が出土したのは全国初です。 門田敦盛第4号墳で追走が行われた7世紀後葉には、門田敦盛古墳群の東約6kmの位置に寺町廃寺が建立されます。 古墳の被葬者がどんな人物だったのかは不明ですが、この地域にどのように仏教が伝わったのかを考えるうえで貴重な資料と言えます。 |
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193柄香炉形土製品 |
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古代 |
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200安芸国分寺 東広島市西条町 奈良~平安時代 8世紀~12世紀 安芸国分寺 安芸国分寺 安芸国分寺 大阪府由義寺跡とのつながりを示す瓦出土 史跡 安芸国分寺跡は、昭和7年の塔跡の発掘調査。昭和44-46年の伽藍配置の確認を目的とした発掘調査。そして平成11-24年の保存整備を 目的とした発掘調査などが行われました。平成25年には建物なども復元されて、歴史公園として整備されています。 長年の発掘調査の結果、奈良時代の主要な伽藍である門跡・金堂跡・講堂跡等が南北の中軸線状に一列に並ぶ(四天王寺式)と共に、 寺域の四至(しいし)が明瞭になりました。 また、出土品などから8世紀中葉に金堂・講堂などが造営され、8世紀後葉~9世紀初頭頃には管理事務的建物が整備されると共に、 僧房や塔などが建てられたことが分かりました。 また、「天平勝寶二年」(750年)という年号や「佐伯郡」「山方郡 (山県郡)」など安芸国の郡名が書かれた木簡、「安居」という仏教行事が書かれた 墨書土器なども出土しており、安芸国分寺の活動の様子を伝えています。 |
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201 |
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202木簡 |
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203土器 ここに注目➀ 国師は、諸国に置かれ、諸寺の監督や尼僧の指導などを行った僧官です。その国師がいた建物が国師院です。 国師院と書かれた墨書土器の出土によって、全国で初めて国師院の建物の所在が判明しました。 ここに注目② 「発掘された日本列島2018展」の大阪府の「由義寺跡」出土の軒平瓦と同じ型(同笵)を使って作った瓦が、安芸国分寺から出土しています。 詳しい検討の結果、由義寺で使った瓦の型を持って安芸国へ来た瓦工人が、この地で瓦を作った可能性が指摘されています。 |
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210備後国府跡 府中市元町、府川町 奈良時代~平安時代 8世紀~12世紀 長年の調査で国府の実態解明へ前進 奈良~平安時代、国師などの「官人」が「国」の政治を行うための役所が置かれた都市域を「国府」と言い、中心となる国庁やその他の官庁、 国司の公邸、税を管理する倉庫、各種の工房、市場などと役所の職員らの居住区で構成されていました。 備後国府の場所は、昭和57年以降府中市街地内の広い範囲で発掘調査を実施し、市街地北部の東西約3km南北1kmの範囲内に 奈良・平安時代の遺跡が分布することが判明しました。 実態の解明が進んだのは、ツジ地区と金龍寺東地区と呼ばれる地域です。 ツジ地区では、廂付(ひさしつき)の掘立柱建物や礎石建物など格式の高い中心的大型建物などが確認され、備後国内でも突出した量と質の 国産施釉陶器 (奈良三彩・緑釉陶器・灰釉陶器) や中国等から輸入された陶磁器 (青磁・白磁など) が出土しており、「国司の館」があった可能性 が考えられます。 金龍寺東地区では、9世紀頃に造られた池のある庭園と、石積基壇の上に建てられた瓦葺礎石建物が見つかりました。 瓦葺礎石建物の規模は、奈良県明日香村にある川原寺の中金堂と似ており、地方においては非常に立派な建物と言えます。 さらに、2つの地区から古代山陽道が発見され、そこから国府中心部へ向かう道が分かれる分岐点も見つかっています。 |
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212史跡 備後国府跡出土遺物 ここに注目 「賀友私印」と陽刻されている青銅製の印です。印は本来は公的なもの(官印)ですが、奈良時代後半以降、次第に「私印」が作られるように なります。 私印には、名字や名前が使われることが多く、「賀」や「友」が人物名を知る手掛かりとなる可能性があります。
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中世 |
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220葛城跡(かずらじょう) 豊田郡大崎上島町 室町時代中頃 15世紀 瀬戸内海を見渡す中世の城 海岸で海を見張る城 葛城は、南に向かって海に突き出すように延びる尾根の先端に築かれた城跡で、平成25年に発掘調査が行われました。郭の東・南・西の三方が 海に面しており、晴れた日には瀬戸内海の島々や四国が見える位置にあります。 麓は開発が進んでいるため、当時の状況は不明ですが、城跡の東側には港があったと考えられ、その他にも船を繋いだ桟橋を築いていた 施設があった可能性があります。 葛城跡は、東西約15~20m、南北約52mの郭1か所と、その背後(北側)に堀切を有する単郭の城跡です。 発掘調査が行われたのは郭の一部でしたが、調査の結果。15世紀中葉頃(約550年前)に築かれ、有事の際に使用される臨時的な城で、 短期間使われたことが明らかになりました。 安芸・備後地方出は、応仁の乱(1467-1477)が始まる20年前から、細川方と山名・大内方に分かれた争いが起こっており、瀬戸内海にもその 影響が及んでいました。 葛城築城の背景には、戦国時代直前の瀬戸内地方の戦乱があったのかもしれません。 |
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222葛城跡出土物 ここに注目 出土した約100枚の土師質土器皿は、半数が備前南部のものですが、安芸地方や讃岐(香川県)西部地方のものもあり、様々な地域から 持ち込まれています。 これらは、径5.6-2.6m深さ0.4mの穴から、焼けた角礫や炭化物と共に出土しました。なんらかの 祭祀・儀礼に使われた後、破棄されたと 考えられます。 |
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近代 |
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230鞆港湾施設 (雁木) 福山市鞆町 近世~近代 16世紀~19世紀 雁木に見る鞆の浦の近代の歴史 福山市南部に位置する「鞆の浦」は、万葉集にも詠われた場所です。港町の成立は鎌倉時代後期頃と考えられ、 中世から近世にかけて大型船が寄港する港町として栄えました。 中世末には織田信長によって京都を追われた室町幕府15代将軍足利義昭が、この地で幕府再興を目指したり(鞆幕府)、 江戸時代には朝鮮通信使の寄港地となるなど、歴史に何度も登場する港町です。 鞆の港には「雁木」と呼ばれる、潮の満ち干にかかわらず、積荷の揚げ降ろしが可能な階段状の船着き場が残っています。 この雁木の修理とそれに伴う発掘調査が、平成29年から行われています。 発掘調査の結果、雁木は何度かコンクリートによる補修や石の積み直しが行われていたことが分かりました。 また、雁木の一番下で見つかった石垣の裏からも現代製品が出土し、補修や積み直しは比較的最近まで行われていたことも分かりました。 雁木の一番上に5~8mおきに設置された繋船柱(けいせんちゅう、船を係留する際、綱などをかける石の柱) には明治5年の銘が彫られており、 現在のような雁木の姿は明治初年頃に形作られたものと思われます。 |
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240平和公園内遺跡 広島市中区 近世~現代 16世紀~20世紀 被爆地ヒロシマの被害を物語る遺物出土 昭和20年8月6日月曜日午前8時15分、人類史上最初の原爆が広島に投下されました。地上約600m上空で炸裂した原子爆弾は、 広島に暮らす人々に甚大な被害を与え、特に放射線被害はその後も多くの人々を苦しめています。 こうした被爆の実相や当時の人々の生活の様子は、被爆者の証言や、当時の映像・記録など様々な形で知ることができますが、 発掘調査による出土遺物からも覗うことができます。 発掘調査は、平和記念資料館の耐震化工事に先立ち、平成27-28年に行われました。 調査が行われたのは、被爆当時は材木町と呼ばれた地域で、寺院や民家、商家が立ち並んでいました。 被爆時の街並みは、地下約70cmで確認され、当時の建物跡や生活用具が、強い熱を受けて赤化した土層中から見つかりました。 出土した物は、いずれも当時の生活の様子を窺うことのできるものですが、熱によって歪んだり変色しているものが多いのが特徴です。 原子爆弾による被害は、大きく分けて、熱線・爆風・放射線によってもたらされました。このうち発掘調査で最も顕著にみられたのは、 熱線あるいはその後に起こった火災による被害です。 原子爆弾の炸裂によって爆心地周辺の地表面温度は3000~4000℃になったと言われており、この熱で瓦やタイルの表面が溶け、 中の気泡が一瞬のうちに蒸発しました。展示している瓦やタイルの表面に見られる細かく泡立ったような痕跡は、この時の熱線のすさまじさを 表しています。 |
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242 ここに注目 発掘調査では被爆面より下層の調査も行われ、江戸時代から被爆時まで、7時期の街並みが積み重なっている事が明らかになりました。 最下層は広島城が築城された頃(1589年)のもので、江戸時代の広島城下町の様子を知る上でも、貴重な遺跡です。 |
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