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 2018特別展の旅 03 2018.9.09-1

  石川県立歴史博物館 石川県金沢市出羽町3-1 076-262-3236 休館日不定期

     発掘された日本列島2018 石川会場

交通 金沢駅東口(兼六園口ともいう)のバス乗り場⑥から出るバスで、「出羽町」下車徒歩5分。
又は、「21世紀美術館下」下車徒歩8分
 

目次

旧石器時代
10天神段遺跡

縄文時代
20本ノ木遺跡
30加曾利貝塚
40保美貝塚

弥生時代
50上代町遺跡群
60須玖タカウタ遺跡
70雲出川下流域遺跡群

古墳時代
80金井東裏遺跡
90神田・三本木古墳群

古代
100史跡 船迫窯跡
110史跡 武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡
120由義寺跡
130四日市遺跡

中世
140伏津館跡
150公家町遺跡

近世
160大坂城石丁場跡

近代
170旧薩摩藩の近代化遺産
 敷根火薬製造所跡、久慈白糖工場跡

特集「装飾古墳を発掘する!」
180史跡 羽山横穴
190特別史跡 王塚古墳
200呰見大塚古墳
210史跡 清戸迫横穴
220合戦原遺跡第38号墓
230史跡 井寺古墳
240史跡 釜尾古墳
              





 00外観・入口展示

 01
石川県立歴史市博物館特別展示室 ごあいさつ ごあいさつ 出品遺跡
 02
石川会場ポスター① 石川会場ポスター② 出品遺跡資料 出品遺跡地図 注目遺物 注目遺物

  掲載遺跡一覧

 旧石器時代
 ①天神段遺跡(鹿児島県大崎町)

 縄文時代
 ②本ノ木遺跡(新潟県津南町)
 ③特別史跡 加曾利貝塚(千葉県千葉市)
 ④保美貝塚(愛知県田原市)

 弥生時代
 ⑥須玖タカウタ遺跡(福岡県春日市)
 ⑤上代町遺跡群(熊本県熊本市)
 ⑦雲出川下流域遺跡群(三重県津市・松阪市)

 古墳時代
 ⑨神田・三本木古墳群(群馬県藤岡市)
 ⑧金井東裏遺跡(群馬県渋川市)

 古代

 ⑩史跡 船迫窯跡(福岡県築上町)
 ⑫由義寺跡(大阪府八尾市)
 ⑪史跡 武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡
  (東京都国分寺市)

 中世
 ⑬四日市遺跡(大分県玖珠町)
 ⑭伏津館跡(岩手県野田村)

 近世
 ⑮公家町遺跡(京都府京都市)
 ⑯大坂城石丁場跡(兵庫県西宮市・芦屋市)

 近代
 ⑰敷根火薬製造所跡、久慈白糖工場跡
 (鹿児島県霧島市、瀬戸内町)


 特集「装飾古墳を発掘する!」
 ⑱史跡 羽山横穴(福島県南相馬市)
 ⑲特別史跡 王塚古墳(福岡県桂川町)
 ⑳呰見大塚古墳(福岡県みやこ町)
 ㉑史跡 清戸迫横穴(福島県双葉町)
 ㉒合戦原遺跡第38号墓(宮城県山元町)
 ㉓史跡 井寺古墳(熊本県嘉島町)
 ㉔史跡 釜尾古墳(熊本県熊本市)
 




   発掘された日本列島2018 新発見考古速報


   日本列島では毎年約8,000件の発掘調査が行われています。
   このうち、近年発掘された遺跡や、成果がまとまった注目の17遺跡546点を速報展示します。

 
 




   旧石器時代 約38,000~15,000年前




  ■概要
  日本列島における人類の歴史は、約38,000年前の後期旧石器時代に始まることが確実です。
  人々は遊動し狩猟をしながら、簡素なテント状の住まいや岩陰などで暮らしていたとみられます。
  各地で使用する石器に違いがあり、環境の違いに応じた生活を営んでいたと見られます。

  ■今回展示する遺跡
  鹿児島県の天神段遺跡では、細石刃・細石核や、その制作過程を示す接合資料が多数出土しました。
  旧石器時代の狩猟採集民の生業を研究する上で重要です。

 


 10天神段遺跡(てんじんだん) 鹿児島県曽於郡大崎町野方 旧石器時代~縄文時代草創期 約24,000~13,000年前

        リンク 

いにしえの 道の駅 ∼天神段遺跡 - 上野原縄文の森

  

天神段遺跡4 旧石器時代~縄文時代草創期編 - 全国遺跡報告総覧




 ~遺跡の概要~
  大隅半島の中央、標高約200mの小台地に立地しています。
  約3万年前の姶良カルデラ噴出物(通称シラス)層と約1万2800年前の薩摩火山灰層の間から、三時期にわたる多くの石器が出土しました。

 発掘調査風景
  多様な石器の利用が認められ、当時の人々が広い範囲を移動していたことや、石材に合わせて効率的に石器を製作していたことがわかります。
  当時の人々は石材の性質を熟知していたようです。

 Ⅸ層遺物出土状況
  同一母岩から作りだされた石器同士が接合する「接合資料」が、400組以上も確認されました。
  接合資料や石器の出土状況から、細石刃の製作技術が2つに大別される事や、製作技術ごとに石器の分布が異なることなどとがわかりました。


  ※南九州における細石刃の発見は、大変珍しいです。
 11panel
天神段遺跡 旧石器時代
上に記述
1天神段遺跡 遺跡の概要
上に記述
遺跡遠景
発掘調査風景
上に記述
9層遺物出土状況 発掘風景

 12細石刃
細石刃の装着状況 細石刃器 細石刃核と細石刃
細石刃核は北方型の楔形でなく柱状です。
細石刃 台形石器 ナイフ形石器
 13接合資料
接合資料

  参考資料

 14南九州の細石刃

東日本からの細石刃の出土は多いのですが、南九州からの出土は大変珍しいと思います。私は初めて見ました。
細石刃器自体は4万年前に完成していた技術で、北海道には2万年前に北方から入ってきた。彼らは、楔形細石刃核を使う集団です。(湧別技法)

それが、ヤンガードリアス期の寒冷化を契機に本州に南下し、日本海側を南下しながら、東北地方、関東、中部高地、山陰、四国、北九州にまで拡散してきました。

しかし、本州にはそれ以前に、西(半島)から細石刃文化人が入っており、東北地方まで広がっていました。(半円錐形細石刃核)
彼らは、半円錐形細石刃核を使う集団で、各地にその痕跡が残っています。

西日本型細石刃核を使う集団が本州に広がった後に、更に、半円錐形細石刃核を使う集団が西(半島)から入ってきました。
しかし、彼らは九州にだけ分布しました。

細石器文化期

引用民俗学伝承拾い上げ辞典
わかりやすい日本人史
細石刃文化の東西差
引用日本人の源流を探して
05細石刃文化の流入と展開
細石刃文化の発生・分布と
日本列島への伝播ルート
細石刃文化の拡散と伝播
引用日本人の源流を探して
05細石刃文化の流入と展開
新潟で発掘された前16000年と推定される細石刃(wiki)

引用wiki細石器
佐賀で発掘された約13,000-12,000年前の細石刃
(黒曜石製)wiki

引用wiki細石器
2万~1.5万年前頃、北海道に
バイカル系の荒屋型細石刃

引用日本旧石器文化、その要であるナイフ形石器と細石刃
埼玉県の細石刃

細石刃文化の石器群
 




    縄文時代 約15,000~2,800年前



  ■概要
  土器の使用が始まり、日本各地でそれぞれ独自色の強い装飾性豊かな縄文土器が作られました。
  人々は穴の上を屋根で覆う竪穴建物で定住に近い生活を送り、狩猟・採集や漁労、地域によっては簡単な栽培などを営みました。

  人々の間には基本的には身分の格差はなかったと考えられています。
  土偶や石棒など様々な祈りのための道具のほか、耳飾りやペンダントなどの装飾品があり、豊かな精神文化を持っていたことがわかります。

  ■今回展示する遺跡
  本ノ木遺跡 (約15,000年前、新潟県) では多数の石槍が出土しました。縄文時代最初期の狩猟生活のありようを示します。
  加曽利貝塚 (約5,000~3,000年前、特別史跡) は縄文時代中期の環状貝塚と後期の馬蹄形貝塚が連なる大型貝塚で、
  これまでの調査研究成果をうけて62件目の特別史跡に指定されました。
  保美貝塚 (3,400~2,800年前、愛知県田原市) は東海地方を代表する貝塚で、他地域の土器や石製品の出土から、
  当時の広い交流関係を知ることができます。
 


 20本ノ木遺跡(もとのき) 新潟県中魚沼郡津南町大字下船渡 縄文時代草創期 約15,000年前

     リンク 

本ノ木遺跡

 

津南町本ノ木遺跡

 

埋蔵文化財 - 津南町

 

土器

 データベース データベース

 ~遺跡の概要~
  新潟県最南端の津南町で、信濃川と清津川の合流地点の段丘上に位置します。
  津南町は段丘が発達した地域として有名で、低段丘面には縄文時代草創期の遺跡が数多く発見されています。

 発掘調査風景
  昭和30年代に旧石器時代研究をけん引した芹沢長介と縄文時代研究の第一人者の山内清男がそれぞれ調査を行いました。
  石槍や土器の出土状況とその解釈から縄文時代の起源についての議論を巻き起こした学史的な「本ノ木論争」が勃発しました。

 土器と石槍の出土状況
  平成18年度から発掘調査が再開されています。遺跡が立地する段丘が縄文時代以降の物であることや、過去に出土した土器が石器と供伴するか
  どうかなどについて新しい知見が得られており、現在も研究が継続されています。
 21panel
縄文時代
上に記述
2本ノ木遺跡 ~遺跡の概要~ 信濃川・清津川合流点
調査風景 第1次調査風景 土器と石槍の出土状況 土器と石槍の出土状況

 22石槍
石槍 左の3枚の写真と、
下の6枚の尖頭器は、

広島県立歴史博物館の物に置き換えています。(ピンボケの為)

   
 23石槍
 24
石槍 抉入削器
槍の柄を整形、皮なめし
掻器
皮なめし
石斧 縄文土器

 




 30特別史跡 加曽利貝塚 (かそり) 千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33-1 縄文時代中期~晩期 約5,000~3,000年前

       リンク 

特別史跡 加曽利貝塚

 

加曽利貝塚~日本最大級の貝塚

 

加曽利貝塚Wiki

 

特別史跡 加曽利貝塚




 ~遺跡の概要~
東京湾東岸約30mの河岸段丘上に立地する縄文中期の環状貝塚と後期の馬蹄形貝塚が連なって形成された貝塚です。
縄文中期の加曽利E式、後期の加曽利B式土器の標識遺跡です。

 発掘調査風景
これまでの発掘調査で、竪穴建物や土坑が多数発見されています。貝層は、成長しても2cm程度のイボキサゴ8割を占めます
また、台地緩斜面で見つかった長径19mの大型の建物は、通常の建物より格段に大きく、石棒や異形台付土器など特殊遺物の出土で注目されました。

 南貝塚発掘風景
その後も史跡の追加指定が行われ、平成28年度に既往の発掘調査成果が取りまとめられました。
その結果、学術上の価値や遺跡が果たした文化財保護への意義が評価され、62件目の特別史跡に指定されました。

 31南貝塚剥ぎ取り貝層断面
スズキ主鰓蓋骨
推定体長38.3cm
アサリ イノシシ指骨 イボキサゴ
 32panel
3加曽利貝塚 遺跡の概要 遺跡全景 発掘調査風景
南貝塚発掘風景
 33貝製品
オオツタノハ製貝輪
骨製垂飾
牙製垂飾

ヤス状刺突具
ヘラ状牙製品
 34様々な道具

鹿角製銛頭
鹿角加工品

鹿角製釣針
鹿角製弭(ゆはず)

鹿角(現生標本)

ヒスイ製大珠
蛇灰岩
ヒスイ製勾玉
ヒスイ製丸玉

独鈷石

石棒

  蛇灰岩
   方解石を多量に含む蛇紋岩。礫状の蛇紋岩の間を方解石が埋めたものが多く,鳩糞石 (はとくそいし) の名がある。
   埼玉県秩父郡皆野町金崎などに産し,美しいものは装飾用石材になる。


 35加曽利犬カソリーヌ 現在加曽利犬に関する詳しい解説を見つけられませんでした。

埋葬イヌ骨

 36土偶

参考資料
 立像土偶は、  (引用wiki土偶)
  前期後葉の宮城県糠塚遺跡の土偶に始まる。それは両目・口の表現の獲得である。それ以降は、
  東北地方南部に分布する土偶から、顔面の表現が次第にはっきり形作られてゆき、北陸地方や中部高地に広がってゆき、

  中期初頭には「立像土偶」へと移りはじめ、胴部が板状、頭部が円盤状、正面に目・鼻・口が添えられる程度であるが、短期間に立体化し、
  自立可能な立像を完成させた。

  長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」はその到達点である。この急速な変化は、
  土偶が子孫繁栄、安産祈願、祭祀等の個人レベルの目的に作られてきたのに対して、
  村落共同体レベルのでの祭祀に使われるようになったと考えられる。

  つまり、土偶はこの中期前葉に、縄文社会に定着した。

  後期にはハート型土偶が現れる。
  後期から晩期にかけて、関東から東北地方では、山形土偶ミミズク土偶、遮光器土偶などが大量に造られる。また、
  仮面を被ったもの(仮面土偶)なども見られる。

  九州を除く西日本では人型土偶はまれで、簡略で扁平な分銅形土偶などが多い。


山形土偶
山形土偶
みみずく土偶 土製耳飾り みみずく土偶頭部 頭部と脚部


 37土器
 37a加曽利E式  中期後半の土器
 37b
 
 38土器
 38a浅鉢 加曽利B式 後期の土器



 38b異形台付土器 特別史跡加曽利貝塚出土 (千葉県千葉市:縄文時代後期約4、000年前)【右高さ21.2cm】

  算盤玉の形に似た胴部に横を向いた孔の突出部がつき、胴部と台部に透かし孔があけられる土器です。
  完形、2個セットで建物から出土することが多く、祭祀用の特殊な土器といわれます。縄文時代の祭祀の一端を表す資料です。

      


 40保美貝塚(ほび) 愛知県田原市保美 縄文時代後期~晩期 約3,400~2,800年前

田原市が誇る縄文時代の遺跡
保美貝塚は、国史跡吉胡貝塚、県史跡伊川津貝塚ととも に縄文時代後・晩期の貝塚で、「渥美の三大貝塚」として知ら れています。
近年の調査で、東海地方初めての環状木柱列の発見、国立歴史民俗博物館研究チーム調査による盤状集骨葬例の発見とその研究など、
過去の調査に加えめざましい新発見 があり注目されています。引用保美貝塚展

     リンク 

保美貝塚(ほびかいづか)とは - コトバンク

 

舟こいだから? 愛知に「極端に骨太」な縄文人集団:朝日新聞デジタル




 ~遺跡の概要~
  渥美半島先端の河岸段丘上に立地し、史跡吉胡貝塚、県史跡伊川津貝塚とともに縄文時代後・晩期の大規模な貝塚として有名です。
  明治時代から多くの人類学者が調査研究を行い、黎明期の人類学・考古学の発展に寄与してきました。

 盤状集骨墓
  太平洋岸に打ち上がるベンケイガイなどによる貝輪製作関連の遺物、石製や骨角歯牙製の装身具と儀器類が豊富に出土しました。
  また、土葬して白骨化した遺骸を掘り起こし、再び埋葬する盤状集骨墓も発見されました。

  儀器(中国語)=機械(日本語)です。 ここでは祭祀具又は儀礼道具というつもりで使われたのでしょう。
  ※盤状集骨墓に似た葬送儀礼の記憶は、富山県小竹貝塚と、山口県土井ヶ浜遺跡でもあったように思います。どちらも異境からの来訪者です。
  ※環状木柱列も、北陸と共通する遺構です。
  
 環状木柱列
  近年の調査で、北陸の晩期集落に確認されていた環状木柱列が東海で初めて貝塚の中央部周辺に発見されました。
  更に、東日本・西日本などの土器や石製品の出土もあり、他地域との活発な交流を行っていたことが明らかとなりました。

 41panel
4保美貝塚 遺跡の概要 保美貝塚と周辺の貝塚 盤状集骨墓 盤状集骨墓
環状木柱列
環状木柱列 環状木柱列の全容がわかりませんが、
建物跡だったのか、
東近江市の様に儀礼か祭りの跡だったのか。
盤状集骨墓って何?
先史人は先祖供養のつもりでしていたのか、遊びだったのか。

こんなに沢山の骨を集めて真剣に何をしていたのでしょうか。


 42貝・骨角製品 さすがにこの地域には貝や骨格製品が多いですね。そのような文化があった地域です。

貝輪
イタボガキ製
オオツタノハ製
アカニシ製
ベンケイガイ製
サトウガイ製
現生標本
ベンケイガイ
サトウガイ
 43骨角牙製品
猪牙製足輪
鹿角製釣針
骨製ヤス
エイ尾棘製ヤス

棒状鹿角製品
鹿角製根挟み
鹿角製釣針
鹿角製弭製品
ゆはず

鹿角製弭形製品

鹿角製根挟み

棒状鹿角製品

黥骨製骨器
弭・弓筈ゆはず
 弓の末端部分に取り付けて、弦(つる)をかける道具
根挟み(ねばさみ)
二又に分かれる先端に鏃を挟んだと考えられる、
一つの独立した道具でありながら、

使用時には矢の一部分として機能したとされる。
 44石器
貝輪用敲石 貝輪用敲石 石刀
石鏃 石鏃
貴石製
石鏃 石刀
 45骨角牙製 装飾品

イヌ牙製玉
鳥嘴製玉
鹿角製腰飾り
魚骨製玉

骨製髪飾り

猪牙製玉

アホウドリ骨製装飾品
 
 





   弥生時代 約2,800~1,750年前




 ■概要:
中国大陸や朝鮮半島から体系的な水田稲作が伝わり、青銅器や鉄器などの金属器が使われ始めた時代です。
人々は簡素な素焼きの土器を使い、銅鐸や銅剣・銅矛といった青銅器を使用した祭祀を行いました。
やがて社会の階層分化が進展し、各地域の社会が統合されていきました。

北海道と沖縄には稲作文化が伝わらず、それぞれ縄文文化からつながる文化が営まれました。
北海道では続縄文時代。沖縄では貝塚時代と呼ばれています。

 ■今回展示する遺跡:
 
熊本県の上代遺跡群 (約2,300年前) では、銅剣の柄と考えられる赤漆塗り剣柄が出土し、注目されました。
福岡県須玖タカウタ遺跡 (約2,200年前) では、青銅製品の石製・土製鋳型が出土し、この時期に列島内で青銅器生産が行われていた可能性が出てきました。
三重県雲出川下流域遺跡群は弥生後期から古墳初頭 (約2,000~17,50年前) にかけての遺跡群で、出土した大型銅鐸は見ごたえある一品です。


 


 50上代町遺跡群(かみだいまち) 熊本県熊本市上代町 弥生時代中期前半 約2,300年前
熊本市西区の上代町遺跡群から古墳時代後期(約1400年前)に埋葬された馬の全身の骨が見つかりました。
同時期では全国で数例しか出土しておらず、九州では初となります。

馬は推定12歳で体高1.2~1.3m性別不明。市文化振興課によると、馬は古墳時代中期に朝鮮半島から日本に持ち込まれたとされ、丁寧に埋葬されていることから権力者が大切に飼っていたと考えられるという。

周囲からは木製の馬具や馬の骨の一部も見つかっている。東海大の丸山真史講師(動物考古学)は「古代から熊本は馬の産地だったとの説があり、そのルーツを探る研究の手がかりになる」と話す。

 引用熊本は古代から馬の産地!? 1400年前埋葬 馬全身の骨|発掘(ほる)ばい

引用掘るばい 
    リンク 

真紅の漆塗り 上代町遺跡群から弥生中期の剣柄2016年12月1日




 ~遺跡の概要~
有明湾に面する熊本平野の白川右岸の沖積平野に立地しています。これまで6回の発掘調査が実施され、平成27年度からの調査では、
弥生時代中期前半と古墳時代中・後期の集落や墓地などが発見されました。

 この木何の木
上代町遺跡群出土の柄はサカキ、盤はユズリハ属とわかりました。銅剣の柄は出土例が少なく、刀装具全般を観てもサカキの例はあまり見られないため貴重な資料と考えられます。

 51
弥生時代 遺跡の概要 調査区全景 5上代町遺跡
古きを守る新しき技 和紙による凍結前の養生の様子 この木何の木 現生のサカキ 木材組織顕微鏡写真
サカキは粘り強く壊れにくい樹種だからか、
神の憑代(よりしろ)としてのいわれから使ったのだろうか。


 52赤漆塗木製剣柄・盤部 上代町遺跡群出土 (熊本県熊本市:弥生時代中期約2、300年前)

  全面に赤い漆が塗られ、柄縁には絹の糸が巻かれていた木製の銅剣の柄です。
  銅剣の柄とみられる木製品は国内初の出土で、柄の全体の形状をうかがい知ることができます。
  柄と盤部は、一年の時を経て別々に発見されました。銅剣の使用方法を知ることができる資料です。【中央長12.1cm】

 剣柄と盤部の位置
  大溝から出土した「赤漆塗木製剣柄」と「盤部」は、銅剣に着装したと考えられる木製の柄としては国内初の出土です。
  類例は朝鮮半島にしか知られておらず、弥生時代の青銅器の実態に迫る上で貴重です。

赤漆塗木製剣柄・盤部 剣柄と盤部の位置
  


 60須玖タカウタ遺跡(すぐたかうた) 福岡県春日市 弥生時代中期前半 約2,200年前


 ~遺跡の概要~
  福岡県春日市には「魏志倭人伝」に記された「奴国」の中心的な大規模集落の須玖遺跡群が展開し、須玖タカウタ遺跡は
  その北西部に立地します。
  平成26年度の発掘調査では、多様な青銅器の鋳型が出土しました。

 竪穴建物の鋳型出土状況
  鏡の裏面に紐を通すための鈕が2~3個付く多鈕鏡と呼ばれる鏡や有柄式銅剣の石製鋳型が、国内で初めて出土しました。
  これまで、多鈕鏡は全て朝鮮半島製とされてきましたが。列島内で製作された可能性が出てきました。

 土製鋳型出土状況
  鋳造製品を取り出す際に壊さなければならないため、残らないと考えられていた銅戈の土製鋳型も国内初の出土です。
  鋳型と一緒に出土した土器から弥生時代中期前半とみられ、列島での青銅器生産が始まった頃の様相がわかります。
  青銅器製作の工房があった遺跡のようです。
 61
6須玖タカウタ遺跡 遺跡の概要 竪穴建物の鋳型出土状況
土製鋳型出土状況 古きを守る新しき技 レプリカの威力
 62青銅器鋳型
青銅器鋳型 土製鋳型 戈 土製鋳型による鋳造復元 銅戈
紅葉ヶ丘遺跡出土
復元された銅戈

 63青銅製品と土製鋳型
青銅器鋳型
石製鋳型
小型銅鐸、多鈕鏡
土製鋳型・石製鋳型
矛(ほこ)
銅矛
岡本出土
銅剣・
石製鋳型・土製鋳型
銅剣
青銅器鋳型
 
 



 70雲出川下流域遺跡群 三重県津市・松阪市久居市・一志郡   弥生時代後期~古墳時代初頭 約2000~1750年前
  くもずがわかりゅういき


 ~遺跡の概要~
  三重県中央部を東流する雲出川の下流域には、弥生時代後期以降、重要な交流の拠点であったことを示す遺跡や遺物が多く存在する。
  竪穴建物が密集する四ツ野B遺跡の一画から出土した高茶屋1号銅鐸は、その一つです。

 四ツ野B遺跡全景
  銅鐸は弥生時代のまつりに使われていたと考えられ、吊るして鳴らしていた「聞く銅鐸」から、大型化して置いて「見る銅鐸」に変化しました。
  高茶屋1号銅鐸は、突線鈕2式とよばれる「見る銅鐸」にあたります。
  
 舞出北遺跡の方形周溝墓
  この地域では、多くの絵画土器も出土しています。小谷赤坂遺跡では鹿と船という珍しい組み合わせを描く土器、
  舞出北遺跡では円形周溝墓から鹿のほか龍や稲妻のような変わった線刻画されている壺が出土しました。


 ※この遺跡群内の各遺跡は、東海をはじめ、各地域それぞれの影響下にある集落ごとに、特徴的な土器が出土しています。
 71panel
7雲出川下流域遺跡群 遺跡の概要 雲出川の三角州 四ツ野B遺跡
舞出北遺跡の
方形周溝墓

 72四ッ野B遺跡 弥生土器

高坏

器台と壺

 72銅鐸 四ツ野B遺跡

銅鐸破片
銅鐸 突線鈕2式

 73貝蔵遺跡  ※東海地方のS字甕や一連の土器のようです。


銅鐸形土製品

ワイングラス形高坏

脚付壺

壺、S字状口縁台付甕


S字状口縁台付甕

 74片部遺跡

高坏、瓢壺

瓢壺

長頸壷

台付甕

 75西肥留遺跡

石杵
辰砂を磨り潰す

銅滓

銅鏃

 76小谷赤坂遺跡


絵画土器 船


 77小谷A遺跡

ワイングラス形高坏






 78舞出北遺跡

高坏 (櫛描文)

壺 (長頸壷)

脚付壺


脚付壺
 79大型絵画土器 (舞出北遺跡)

龍・鹿・稲妻

鹿、龍

龍、稲妻

鹿


稲妻
  




 古墳時代 約1,750年~1,400年前




■概要:
人々の階層分化が更に進展し、近畿を中心に広範囲に及ぶ政権が成立した時代です。
各地で権力者のために古墳が沢山作られ、墓の中には銅鏡や鉄製の武器、様々な装飾品など多くの副葬品が納められました。

古墳の上や周りには様々なものをかたどった埴輪が立て並べられました。
日本が初期的な国家の形成に向かう段階と考えられています。

東北北部や北海道と南島には古墳文化は広がらず、それまでの文化を発展させていきました。

■今回展示する遺跡:
群馬県金井東裏遺跡は、古墳時代中期後半から後期 (5世紀中葉~6世紀初頭) の遺跡で、榛名山の火砕流で被災した集落の姿が浮かび上がりました。
古墳時代後期 (6世紀後半) の神田・三本木古墳群では保存状態の良い埴輪列が、珍しいつくりをした墳丘の周囲に樹立したまま発見されました。

 


 80金井東裏遺跡 (かないひがしうら) 群馬県渋川市金井1837 古墳時代中期後半から後期 5世紀中葉~6世紀初頭

群馬県の金井東裏遺跡からは、榛名山の噴火に伴う火砕流などで埋もれた古墳時代のムラが見つかり、鉄製のよろいを身につけた成人男性がうつ伏せの状態で見つかりました。今回の展示では、見つかった状態の等身大レプリカや身につけていたかぶとなどを展示します。


 ~遺跡の概要~
  関東平野北西端部の榛名山から流れ下る登沢川により形成された扇状地に立地します。
  近隣の史跡黒井峯遺跡や中筋遺跡と同様、火山噴火に伴う軽石や火砕流等により短時間で埋没した遺跡で、被災直前の状況がそのまま
  残されています。

 よろいを着た古墳人出土状況
  榛名山の噴火による火砕流の下から成人男性がよろいを着た姿で発見されました。

  通常、甲冑は古墳の副葬品として出土しますが、着たままの状態での発見は国内初です。
  このほか、成人女性、幼児、乳児の計4人が被災した姿で発見されました。

 調査風景
  墓地・畑・平地式建物・掘立柱建物・竪穴建物・祭祀遺構などの古墳時代の被災したムラがそのまま発見されました。
  土器・ガラス玉・玉類・石器模造品・鉄製品などが大量に出土し、当時の生活や祭祀の様子が明らかになりました。


 火山の噴火を鎮める祭祀をしていて火砕流に飲み込まれた渡来系村長(むらおさ)の遺骸と、その家族らしき人骨が発見されたと聞いています。

 
 81panel
古墳時代 8金井東裏遺跡 遺跡の概要
遺跡遠景
鎧を着た古墳人出土状況
調査風景

 82 2号甲レプリカ

2号甲

 83甲装着人骨レプリカ (発掘当時の再現) (石川会場・岐阜会場の展示) ※連続的にみられるようになっています。

甲装着人骨

 83甲装着人骨レプリカ (甲冑を持ち上げた状態)  広島県立歴史博物館(福山市)にて
  ※甲と人骨はレプリカですが、これほど克明に再現されているとは思いませんでした。


送大学考古学で見た
発掘現場の写真です
 84冑(かぶと)
よろいを着た古墳人 冑 (かぶと) 甲 (よろい)
 
 以上の遺物は、榛名山の噴火を鎮める祭祀を行っていた男性が身に着けていたもの。
 以下は、その時行っていた祟り沈め祭祀で、祭祀場で、山に向かって供えていた、お供えの入れ物のようです。
 説明ないから、しらんけど、テレビで見た。
 

 85土師器


小型甕
小型壺 (坩)
高坏

甕、有孔円盤
 86須恵器

ハソウ、広口壺、壺、
土師器の壺

榛名山附近特有の文様かな
 87石製模造品

勾玉形、有孔円盤
剣形

有孔円盤
勾玉形
剣形
 88大甕
大甕 精緻に敲いた敲き甕ですね
   


 90神田・三本木古墳群(じんだ・さんぼんぎ) 群馬県藤岡市美久里 字神田 古墳時代後期 6世紀後半 (岐阜会場での展示)  群集墳



 ~遺跡の概要~
  神流(かんな)川左岸の段丘上に立地する244基の古墳で構成される古墳群です。平成23~25年度にかけて古墳群東部に位置する15基を
  発掘したところ、埴輪列や珍しい墳丘の古墳が発見されました。


 発掘調査
  k10号墳は6世紀後半の直径12mの円墳ですが、墳丘は土でなく川原石を積み上げて造っています。大変珍しい墳丘ですが、それ以外は
  この地域の古墳と同じ特徴を持っています。同様の古墳が4基存在することがわかりました。

 K10号墳人物埴輪出土
  k10号墳の横穴式石室入り口の東側には、武人2、巫女3、不明1の順で人物埴輪が立ったまま発見されました。
  更に、墳丘を取り囲む円筒埴輪27個体も立った状態で発見され、当時の埴輪列がよくわかる貴重な事例です

 91
9神田・三本木古墳 遺跡の概要 遺跡遠景 K9~14号墳
K10号墳人物埴輪出土
 92埴輪(岐阜会場での展示)

円筒埴輪

巫女

巫女

被り物が違う

何か意味があったのか

円筒埴輪
 93埴輪 巫女と武人

髪型か、被り物か
これは冑を模したもの
 94石川会場での展示
   




   古代 約1,400年~ 1,00年前0



■概要:
 「日本」という国家が成立した時代です。
 中国の隋や唐、朝鮮半島の百済や新羅から律令制度や文書行政などの国の仕組みを学び、飛鳥地方で中央集権的な国家が形作られました。
 やがて藤原京、平城京、平安京と都の場所は移され、それぞれ飛鳥時代、奈良時代、平安時代、と呼ばれます。

 仏教伝来により各地に寺院が作られ、国や郡には地方支配のための役所が作られました。
 北海道や沖縄はこうした国家の支配には組込まれず、北海道では擦文文化が、沖縄では貝塚時代が続いていました。

■今回展示する遺跡:
 福岡県史跡船迫窯跡は飛鳥時代から奈良時代 (6世紀後半~8世紀) の須恵器・瓦窯跡出、朝鮮半島の百済との交流を示す鴟尾や軒瓦が
 出土しました。
 東京都史跡武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡 (8~9世紀) のうち国分寺は、聖武天皇の詔で全国に作られたもののうち最大規模を誇ります。

 大阪府史跡由義寺跡は、称徳天皇の寵愛を受けた道鏡が建立した「幻の寺」跡です。
 大分県四日市遺跡は平安時代 (9世紀) の遺跡で、高級な大陸陶磁器を供えた木棺墓が発見されました。

 


 100史跡 船迫窯跡(ふなさこかまあと) 福岡県築上郡築上町船迫 古代 飛鳥時代~奈良時代 6世紀後半~8世紀

        リンク 船迫窯跡 文化遺産オンライン 

船迫窯跡公園 ~窯跡&工房一体の貴重な遺跡~



 ~遺跡の概要~
  周防灘に面した標高40~100mの丘陵裾野から山頂部にかけて9基の窯跡とその谷間に立地する工房跡とが一体となって存在しています。
  古代窯業の実態を知る上で重要な遺跡として平成11年史跡指定されました。

 発掘調査
  6世紀後半の須恵器生産、7世紀後半の瓦生産、8世紀中頃の豊前国分寺の瓦生産という生産体制の変遷が確認されました。この内の1つの窯では
  7世紀後半の上坂廃寺(京都郡みやこぐんみやこ町所在) の鴟尾と百済系の軒丸瓦を焼いていました。

 鴟尾の出土状況
  鴟尾には、百済・新羅・高句麗で発見される鋸歯状のひれや、百済系の文様の線刻などが認められました。
  660年の百済滅亡後にやってきた渡来人が、鴟尾の製作に関わった可能性が考えられます。古代窯業の様子がよくわかります。


 先の群馬県 神田・三本木遺跡では6世紀末に高度な製造技術の人物埴輪を伴う円墳が作られ、同じ時期に、福岡県では大きな鴟尾を掲げた
  巨大寺院が作られています。これは、文化のレベルが格段に違うのか、それとも埋葬墓としての円墳と、巨大寺院とは両立するのか。
  何れにしても文化ギャップがなかったとは言えないが、どちらも当時当地の最高の文化をつぎ込んだ遺産でした。

 101
古代 10船迫窯跡
鴟尾
瓦の使用位置 瓦の使用位置
鴟尾
鬼瓦
軒平瓦

軒丸瓦
平瓦
円瓦
 102
遺跡の概要
上に記述
堂がえり窯跡群
発掘調査風景
上に記述
堂がえり2号窯跡 鴟尾の出土状況

上に記述

 103鴟尾の文様
   百済系の文様の鴟尾と軒丸瓦
鴟尾
唐草文

蓮華文
軒丸瓦

蓮華文
 104復元鴟尾
    



 110史跡 武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡 東京都国分寺市 古代 奈良時代~平安時代 8世紀~9世紀
 むさしこくぶんじあと つけたり とうさんどうむさしみちあと



 ~遺跡の概要~
  多摩川支流の野川流域に広がる標高65mの武蔵野台地に立地し、古代官道である東山道武蔵路を挟んで東側に僧寺、西側に尼寺が並びます。
  聖武天皇による天平13(741)年国分寺建立の詔から20年後に完成したとみられています。

 金堂調査風景
  調査で国分寺とそれを支えた周辺集落域は東西2kmに及ぶことがわかっています。僧寺地区では金堂、講堂、鐘楼、中門などの建物のほか
  その東側200mの地点で七重塔の基壇が発見されていました。

 新たに発見された塔基壇
  最近の発掘で、従来の塔から西へ50mの地点で新たに塔基壇が発見されました。新旧2時期の塔が存在するという注目すべき発見とともに、
  「造塔」の文字が認められる瓦も出土し、古代の人々の「塔」への思いが伝わってきます。

         
 111
11史跡武蔵国分寺跡
附東山道武蔵路跡
遺跡の概要 金堂調査風景
新たに発見された塔基壇
 112

模骨文字平瓦 (女瓦)
「造塔」(逆文字)

ヘラ書文字瓦(女瓦)

軒丸瓦(鐙瓦)
単弁八葉蓮華文
単弁六葉蓮華文

須恵器 坏

和同開珎 埋納

円面硯
 113瓦

朱書文字丸瓦(男瓦)
郡名丸瓦(男瓦)
高麗郡の「高」刻印

那珂郡「中」刻印

「播」播羅郡

(笑)みえへんわ
 114仏像
銅像観世音菩薩立造
史跡 武蔵国分寺跡
附 東山道 武蔵路跡

緑釉陶器花文皿

鉄製鉸具、環状鉄製品
金銅製品帯金具か、銅鈴

鉄滓
 


 120史跡 由義寺跡(ゆげでら) 大阪府八尾市東弓削 古代 奈良時代後半 8世紀後半 (弓削の道鏡が幻の寺)


 ~遺跡の概要~
  称徳天皇の寵愛を受けて法王となった僧・道鏡ゆかりの寺ですが、奈良時代の国史「続日本紀」にその名が記されているものの、
  位置や規模、内容がほとんど分からないため、幻の寺と呼ばれていました。

 正方形基壇
  道鏡の氏族である弓削氏の出身地域において、奈良時代後半の多量の瓦と共に、一辺20mの正方形に復元される基壇が発見されました。
  基壇横から相輪 (金具) が出土したため、基壇が塔に伴うものであることがわかりました。

 礎石出土状況
  「続日本紀」記載の由義寺の塔と時期やおよその地域が一致することから、基壇は由義寺の塔と考えられます。
  一辺20mという規模は、東大寺が建立されるまで最大であった大安寺七重塔 (一辺21m) に迫る破格の規模と言え、道鏡の権勢の大きさが窺えます。

 121
12由義寺 遺跡概要 正方形基壇
礎石出土状況
 122瓦

東大寺式系、興福寺式、
軒丸瓦
軒平瓦


摂津系、東大寺式系

仏座像文、摂津系

河内国分寺式、摂津系

 鬼瓦

摂津系、
東大寺南大門と同范

東大寺南大門と同范

摂津系

凝灰岩切石?
 
 
 


 130四日市遺跡 大分県玖珠町大字四日市 古代 平安時代 9世紀


 ~遺跡の概要~
  地名の由来として伝承される楠の大木を連想させる伐株山が眺望できる筑後川水系の支流、玖珠川右岸の台地上に立地します。
  旧石器時代から中世に至る複合遺跡ですが、今回紹介するのは平安時代の木棺墓です。

 木棺墓
  木棺墓は2基発見されています。副葬品とともに木棺材の連結に使用した鉄釘が出土しており、木棺の大きさがわかりました。
  このうち1基からは、越州窯青磁唾壺のほか、隅入方鏡や土師器坏が出土しました。

 唾壺出土状況
  唾壺は唐の越州窯で焼成された青磁で、隅入方鏡も唐で製作された青銅鏡です。
  いずれも列島では出土が稀な貴重品ですので、木棺墓の被葬者には大宰府との関係の深い玖珠郡に関わる官人などが想定されます。

 131
13四日市遺跡 遺跡の概要 発掘調査風景
唾壺出土状況

 132唾壺 唐、越州窯製 青磁 四日市遺跡出土 (大分県玖珠町:平安時代9世紀)

  唐の越州窯で焼成された青磁で、本来は唾や痰、破棄された飲食物を入れるために使われた壺です。
  日本では都や大宰府での出土が大半で、高級官僚の調度品であったと考えられます。本資料は木棺墓の副葬品として出土しており、
  古代の葬送を考えるうえでも重要な資料です。【高12.9cm】


四日市遺跡
木棺墓SK87
唾壺(下半分) 唾壺復元
筑紫野市堀池遺跡
出土唾壺
唾壺完形
 133
木棺墓の鉄釘 土師器坏 隅入方鏡 隅入方鏡

鉄釘

隅入方鏡
 134
 参考資料
  四日市遺跡では、こんなタンツボ(痰壺)よりも、小児用甕棺や、
  絵画土器の出土に注目されているようです。
小児用甕棺

四日市遺跡
第16次発掘調査速報
大分県ホームページ

絵画土器 鹿
大分県玖珠町の四日市遺跡とトンボ
絵画土器 鏃
邪馬台国と大和朝廷を推理する
 
 




   中世 約900年前~約400年前 c.900BP to c.400BP





■概要:
 新たに台頭した武家が、京都の朝廷に代わって政治権力を握った時代です。
 平安時代の後半から、鎌倉時代、室町時代と政治権力が移り変わっていきました。

 室町時代の後半には各地で戦乱の時代へと突入していきます。
 各地に防御性の高い城館が残されており、当時の戦乱の様子を伝えています。

 北海道ではアイヌ民族によるアイヌ文化が花開き、沖縄では各地に城(グスク)が造られるグスク時代へと突入しました。


■今回展示する遺跡:
 岩手県伏津館跡は室町時代前半 (14世紀後半~15世紀) の在地領主の居館跡です。
 地方にありながら、お茶の文化など先進知識を持つ領主の姿が浮かび上がります。

 安土桃山時代 (16世紀末) の京都府公家町遺跡は豊臣秀吉による京都大改造を示す遺跡で、公家の暮らしを物語る貴重な遺物が多数出土
 しました。

 


 140伏津館跡(ふしづだて) 岩手県野田村大字野田第25地割字日向下79-7  中世 室町時代前半 14世紀後半~15世紀

      リンク 特別展 海に生きた歴史~復興発掘調査が語る一万年の海との共生 - 岩手県


 ~遺跡の概要~
  太平洋を一望できる舌状に延びた小丘陵上に立地する城館跡です。
  東日本大震災の復興事業に伴う発掘では、堀・土塁・曲輪・切岸や掘立柱建物・焼土・溝などの遺構のほか、城館廃絶時の多数の遺物が発見
  されました。

 発掘調査風景
  土塁
  掘立柱建物が建てられた平坦面の曲輪を、盛土を行うことにより拡張し、更に大きな掘立柱建物を建て、防御のための土塁も築造していました。
  館主は、非常時の簡素な城館から在地領主の居館に大幅な改変を行っていたことになります。

  陶磁器出土状況
  茶道具である青磁碗・天目茶碗・古瀬戸茶壺・茶臼・風炉のほか、文房具の古瀬戸鳥形水滴、琵琶が彫刻された石硯などが出土しています。
  列島の東端にいながら教養と財力を持ち合わせていた館主の姿が浮かび上がります。

  濃さの違いが示すもの
  伏津館跡出土の目貫は、銅の素地に鍍金を施したものです。X線撮影を行った結果、部位によってその濃さ (透過の度合い) に違いが見つかり
  ました。
  分析してみると、aとbで金と銅の検出度合いが異なり、aよりbの方が金を多く検出しました。bの鍍金層の方が厚く、透過度に差が出たことが
  わかりました。

 141
中世 14伏津館跡 遺跡の概要
発掘調査風景 陶磁器出土状況 濃さの違いが示すもの
 142

石鉢

茶臼

風炉(湯を沸かす道具)

天目茶碗、青磁
 143

琵琶陽刻石硯
青磁水注(硯の水差)


温石おんじやく(懐炉)
瓶子へいし(酒器)

瀬戸美濃水鳥形水滴
青磁香炉

金銅製目貫

目貫=目釘
刀剣の装飾

出土銭、北宋銭・明銭

大陸貿易で巨万の富を得ていたようです

白磁 皿
 144

古瀬戸茶壺

越前壺

大畑桧山腰の壺
大畑・桧山腰は、
 秋田県大仙市の古い窯業跡です。
 指定文化財等台帳 - 大仙市
 大畑 古窯跡 - 大仙市
 遺跡情報検索結果 | 秋田県遺跡地図情報
 


 150公家町遺跡 京都府京都市上京区京都御苑/毘沙門町  中世 安土桃山時代 16世紀末



 ~遺跡の概要~
  京都御所を中心として公家が集住した地域の遺跡を指します。
  公家の松木家と四辻家の屋敷地推定地で、屋敷地割や一条大路という京の幹線道路とその延長部の検出、紀年銘瓦の出土などの発見がありました。

 瓦線刻
   紀年銘瓦には、「瓦(御)大工」「天正拾八年十月吉日」「福 (田) (加) 賀守」と刻まれていました。京都市の大徳寺黄梅院の瓦を製作した
   「福田彦太郎吉長」という人物が、瓦御大工という指導的立場で公家町形成に関わっていたことがわかりました。

 発掘調査風景
  屋敷地を区切る溝と柱列
   「天正拾八年」は、豊臣秀吉が天正17(1589)年に着手した「京都大改造」直後の年号で、その実施状況を示します。
   また、今回検出された溝や柱穴は、江戸時代の絵図から公家町の屋敷地境界を示すことがわかりました。

 151
15公家町遺跡 遺跡の概要 瓦線刻部分
屋敷地を区切る溝と柱穴
 152
銅製品
飾り金具、八双金具
京焼、筒形椀
取手、釣り金具
火箸

石硯、織部焼

香炉、身と蓋
 153

織部焼 平向付
(ひらむこうづけ)

肥前焼 染付皿

肥前焼 皿

染付椀、筒形猪口

灯明皿
丹波焼、備前焼、
土師器
 
 155

鉢、鍋、蓋

京焼
平碗、丸碗

丸碗、
鬢水入れ
(びんみずいれ)

皿、汁注ぎ

唐津焼
火入(ひいれ)、片口付鉢
備前焼
白磁壺
 156

棟端瓦、天正拾八年銘
 
 
 




  近世 約400年前~約150年前 c.400BP to c.150BP




 ■概要:
  再び全国が統一された時代です。江戸に幕府が開かれ、およそ250年間にわたる泰平の時代が訪れました。
  海外との交流窓口は一部に限られると共に、日本独自の文化が発展しました。

  北海道ではアイヌ文化のもと、各地にチャシが造られました。
  沖縄では統一王朝である琉球王朝による支配が行われました。

 ■今回展示する遺跡:
  史跡 大阪城石垣石丁場跡 (17世紀前半) は、徳川幕府が再建した大阪城の石垣石材を切り出した石丁場です。
  採石を担当した大名や、石丁場での作業工程が詳しくわかる重要遺跡として史跡に指定されました。

 


 160史跡 大坂城石垣石丁場跡 兵庫県西宮市甲山・芦屋市 近世 江戸時代前期 17世紀前半
  おおさかじょう いしがきちょうばあと

     リンク 神戸新聞 東六甲石丁場跡を国史跡指定 大阪城の石垣に使用 大坂城再建に貢献 東六甲石丁場跡が国指定史跡に|西宮市


 ~遺跡の概要~
  元和6(1620)から寛政5(1628)年にかけて幕府が西日本の主な外様大名に命じて改修した徳川大坂城の石垣用石材を採取・加工した遺跡です。
  瀬戸内一帯に石丁場は分布しますが、六甲山地は最大規模の採石場です。

 発掘調査風景
  調査によって、採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成が明らかになりました。
  江戸時代前半の公儀御普請(幕府の工事)の実態がその背景を伺うことが出来ることが重要な成果です。

 鍋島家の刻印
  石帳場ではいろんな刻印が発見されており、採石を担当した藩が判明しています。東六甲石丁場では、唐津藩寺澤家や佐賀藩鍋島家、
  鳥取藩池田家の刻印が確認され、分布状況から各藩の丁場が推定できます。
 161
近世 16史跡大坂城石丁場跡
遺跡の概要
石材の集積状況 鍋島家の刻印石 岩を手道具で割ろう
 162

東六甲石丁場模型1/千
六甲山刻印群
G地区の遺構図
 
 
 





   近代 約150年前~約70年前 c.150BP to c.70BP




 ■概要:
  開国により西欧文化が流入し、江戸幕府から政権が返上され、新たに明治新政府が建てられました。様々な近代化が推し進められる一方で、
  北海道、沖縄も統一的な近代国家へと組込まれていきました。

 ■今回展示する遺跡:
  鹿児島県の旧薩摩藩の近代化遺産 (19世紀後半) は島津斉彬が主導した近代化政策に関わる遺跡群です。
  幕府や他藩が強兵策を中心としたのに対し、様々な産業育成を目指していた薩摩藩の先進性を示しています。

 

 170旧薩摩藩の近代化遺産  近世~近代 江戸時代末~明治時代初頭 19世紀後半

水路  敷根火薬製造所跡 鹿児島県霧島市国分敷根
レンガ造遺構  久慈白糖工場跡 鹿児島県大島郡瀬戸内町久慈



 ~遺跡の概要~
  藩主島津斉彬は日本初の近代洋式工場群である「集成館」事業に着手し、いち早く近代化に取り組みました。
  幕府や他藩の近代化が強兵策に溜まったのに対し、薩摩藩では富国強兵策を講じたことが注目されます。

 発掘調査風景

  レンガ造遺構
  久慈白糖工場跡は、慶応元~三(1865-67)年に奄美大島に建設された4つの白糖工場の1つで、黒糖の価格下落を受けて建設されました。
  検出された遺構は日本最古級のレンガ造建築で、レンガ導入期の実態をよく示します。

  水路
  敷根火薬製造所跡は、文久3(1863)年に建設されました。建設の契機は前年の生麦事件と同年の薩英戦争にあったと言われています。
  隣接する川から水路で水を引き、水力を動力として火薬を製造しており、その水路の一部は現在も使用されています。
 171
近代 近代 17旧薩摩藩の
近代化遺産
遺跡の概要 久慈白糖工場跡
発掘調査風景
水路
敷根火薬製造所跡

 172久慈白糖工場跡
久慈白糖工場跡
耐火煉瓦
赤レンガ、八百□十

L字形、三十、赤レンガ
耐火煉瓦

八百□十
糖液の煮沸工場が煉瓦造りだったことが展示理由のようです。

 173敷根火薬製造所跡 石臼

鉱石を粉砕した石臼

でしようか。
    
 






   特集 装飾古墳を発掘する!




日本には600基以上の装飾古墳が存在します。これは主に横穴式石室の石材や横穴墓の内部に、線刻、浮き彫り、彩色によって、
幾何学的文様や器財・動物・人物等の模様を施すもので、古墳時代の死生観や葬送儀礼を知る上で極めて高い価値を有しています。

しかし、一方で温湿度等の環境変化によって劣化する危険性もあり、保存対策が必須となっています。

文化庁では、特別史跡高松塚古墳や特別史跡キトラ古墳といった壁画古墳の保存経験を踏まえ、装飾古墳の保存にも取り組んでいます。 
東日本大震災や平成28年熊本地震により装飾古墳が被災した事態を受けて、「発掘された日本列島2018年」展では代表的な
装飾古墳をとりあげ、装飾古墳の世界とその保護の取り組みを紹介します。

 
装飾古墳とは,横穴式石室などの墓室の壁面やその内部に設けた石棺に,線刻,浮き彫り,彩色などの方法で幾何学的文様や器材・動物・人物などの文様を施したものです。
装飾の内容は時期や地域によって変化が見られることから,古墳時代の死生観や葬送儀礼の変化,地域差を知るうえで極めて高い価値を有しています。その一方で,これらの装飾は温湿度などの環境変化によって劣化する危険性があり,保存対策が必須となっています。
この展示では,七つの装飾古墳を取り上げ,その保存と活用の現状について紹介します。


特集 装飾古墳を発掘する 装飾古墳所在地図 合戦原遺跡
史跡 羽山横穴
史跡 清戸迫横穴

呰見大塚古墳
特別史跡 王塚古墳
史跡 井寺古墳
史跡 釜尾古墳
     


     装飾古墳の保存と活用

 


 180史跡 羽山横穴 (はやまよこあな) 福島県南相馬市原町区中太田 古墳時代 6世紀末~7世紀初頭


 ~遺跡の概要~
  太田川の北岸に発達した羽山丘陵に立地する約20基の横穴墓群のうち1基です。前庭部・羨道部・羨門・玄門・玄室で構成されています。
  玄室は奥行き約3m幅2.8mの方形プランで、高さ1.8m以上の規模です。昭和48年、住宅団地造成工事中に偶然発見されました。

 発掘調査風景
  工事により天井の一部が壊されていましたが、玄室から金銅装大刀・鉄製直刀・馬具・ガラス製小玉・青銅製釧(腕輪)など豊富な副葬品が
  発見されました。

  天井部珠点文模式図
  玄室の奥壁・側壁・天井部に赤色顔料と白色粘土を使用した装飾文様が描かれていました。
  奥壁には、人物・馬・渦巻文・長方形などの図柄が、側壁と天井部には珠点文が描かれており、現在は保存施設を設けて保存されています。

 181
18史跡羽山横穴
遺跡の概要 奥壁装飾文様模式図 遺物出土状況
遺跡内部の様子 天井部 天井部珠点文模式図
 
 
 
 


 190特別史跡 王塚古墳 (おうづか) 福岡県嘉穂郡桂川町寿命 古墳時代 6世紀中葉

        リンク 王塚装飾古墳館|王塚古墳とは 王塚装飾古墳館 特別公開 王塚装飾古墳館 桂川町 王塚古墳館


 ~遺跡の概要~
  微高地上に立地する全長86mの遠賀川流域で最大の前方後円墳です。
  昭和9年の採土工事で墳丘の大部分が削られました。その工事中に偶然、複室構造の横穴石室が発見されました。

 発掘調査風景
  玄室には、奥壁に石棚と遺骸を安置するための石屋形を設け、赤・黄・緑・黒・白の五色で壁面全体に文様を描いており、昭和12年に史跡
  昭和27年に特別史跡に指定されました。馬具や銅鏡などの豪華な副葬品は、昭和31年に重要文化財に指定されています。


  雨漏り、カビなどの微生物の発生、乾燥などの問題が起こると共に、昭和42年の石室石材の亀裂発見を契機に抜本的な保存整備が行われました。
  平成2年から年2回の特別公開や実物大レプリカの設置などにより活用されています。



 191王塚古墳壁画

前室から後室を見る
後室全景

 192
19特別史跡王塚古墳 遺跡の概要 後室レプリカ
発掘後の問題

 193王塚古墳石室玄門の壁画
王塚古墳石室玄門の壁画
 


 200砦見大塚古墳(あざみおおつか) 福福岡県京都郡みやこ町 椎田 道路 古墳時代 6世紀後半


不可思議な幾何学文様やユーモラスな人びとの姿などの図像が描かれたり、鮮やかな彩色が施されたりした古墳を装飾古墳といいます。
その数は全国で六百基を超えますが、実にその半数以上が福岡県南部や熊本県をはじめとする九州に集中します。

そのため2016(平成28)年の熊本地震では多くの古墳が被害を受け、現在も装飾が描かれた石室内部への立ち入りができない古墳があるなど、
今後の保護に大きな課題を抱えています。本展では、そうした装飾古墳の世界と、保護の取り組みについて紹介します。

福岡県みやこ町に所在する装飾古墳の呰見(あざみ)大塚古墳では、09年に行われた発掘調査により、当時の狩りの様子を彷彿とさせる、鹿や猪をかたどった飾りが載る装飾付須恵器が出土しました。石室に描かれた不可思議な文様とともに躍動する動物の姿からは、古墳時代の人々がイメージして形作った世界を垣間見ることができます。(川畑純・文部科学技官)引用

東京新聞:<新発見考古速報2018> (5)呰見大塚古墳:発掘された日本 ...




 ~遺跡の概要~
  河岸段丘上に立地する二重周溝をもつ直径約13mの円墳です。平成21年、東九州自動車道建設工事に伴う発掘調査で発見されました。
  墳丘や石室の一部は宅地造成等により破壊されていましたが、装飾付須恵器や須恵器坏などが出土しました。

 発掘調査風景
 副葬品出土状況
  石室は長さ7m・最大幅2mの副室構造の横穴式石室です。
  玄室では耳環・管玉・ガラス玉、前室では須恵器坏・単鳳環頭大刀・鉄鏃・馬具類などが右側壁側に集中して置かれていました。

 玄門の装飾
  石室壁面には、同心円文・円文・三角文が赤色顔料により描かれています。線刻による装飾古墳が集中する地域に所在する彩色を持つ古墳で
  あるため、重要な古墳と評価されて、石室は現在も道路橋梁下で、現地保存されています。

 201
20砦見大塚古墳
遺跡全景 副葬品出土状況
玄門の装飾

玄門の装飾

玄門の装飾
井寺古墳石障の壁画
 202副葬品


管玉、小玉

耳環

鉄鏃


 単鳳環頭大刀 呰見大塚古墳出土 (福岡県みやこ町:古墳時代6世紀)

  古墳に副葬されることが多い、装飾付きの環頭の柄頭をもつ大刀の一種です。
  文様が退化した龍文を刻む長径6.0cm・短径4.3cmの楕円形の環頭の中に鳳凰1体が配置された環頭で、青銅の地金に鍍金して仕上げられて
  います。古墳時代の輝きを現在に伝えてくれる優品です。【長8.0cm,幅6.0cm】



単鳳環頭大刀 単鳳環頭
馬具の名称

轡、鏡板、辻金具

辻金具、雲珠(うず)
 203
壁画推定復元図

ハソウ、坏身
須恵器

壺、ハソウ

 204装飾付壺
    



   被災した装飾古墳とその後




 210史跡 清戸迫横穴(きよとさくよこあな) 福島県双葉郡双葉町大字新山 古墳時代 7世紀前半

      リンク 

清戸迫横穴 - Wikipedia

 

清戸迫横穴 文化遺産オンライン

 原発事故で立ち入れない双葉町に残る7世紀の装飾古墳 東北大が計測


 ~遺跡の概要~ 
標高40mを測る本陣山丘陵に立地する約350基からなる横穴群の一つで、玄室・玄関・前庭部で構成されています。
玄室は2.8mの正方形で、奥壁を中心として彩色による壁画が認められました。
昭和42年に双葉南小学校新築工事に伴い偶然発見されました。

 発掘調査風景
壁画は、奥壁に七重の渦巻・手をかざす人物・馬に乗る人物・狩りの風景などが赤色で、鹿が白色で、天井や側壁に珠点が白色で描かれていました。
当時の彩色による壁画の北限として、昭和43年に史跡指定されました。

 211
21清戸迫横穴
遺跡の概要 奥壁の壁画
三次元計測の様子
 
 
 


 220合戦原遺跡(かっせんはら) 宮城県亘理郡山元町高瀬字合戦原 古代 7世紀後半~8世紀前半

  リンク 合戦原遺跡 - 山元町 合戦原遺跡現地説明会資料 <合戦原遺跡>宮城県内初出土の銅製壺鐙も公開へ  合戦原遺跡38号墓の線刻壁画について 資料6
   

宮城県山元町・合戦原遺跡 横穴墓群から7~8世紀に人や鳥を描いたとみ ...

 

古代壁画 合戦原遺跡横穴墓1300年前の線刻画現地説明会(山元町)と ...


   宮城県で線刻壁画のある横穴墓 合戦原・入の沢遺跡 ( 人類学と考古学 ... 合戦原遺跡ほか 線刻壁画を移設し一般公開、宮城 山元町の合戦原遺跡、日本初: 山陽 ...

 ~遺跡の概要~
  標高15~35mの段丘上に立地する古墳時代~平安時代の複合遺跡です。
  平成26~28年度の、東日本大震災復興事業に伴う発掘調査で、54基の横穴群が発見されました。
  38号墓の玄室は、幅3.6m奥行3.2m高さ1.7mで最も玄室の規模が大きい横穴です。

 38号墓奥壁
  38号墓の奥壁に人物・動物のほか、器財 (靭=ゆぎ・翳=さしば)・家・葉とみられる多様な図柄が線刻により描かれていました。
  多様な図柄の線刻壁画は、東北では珍しいものです。

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22合戦原遺跡 遺跡の概要 38号墓奥壁 38号墓奥壁線刻画
38号墓奥壁線刻画
 
 


 230史跡 井寺古墳 (いでら) 熊本県上益城郡嘉島町大字井手 古墳時代 5世紀末

   リンク井寺古墳 文化遺産オンライン 井寺古墳 - 古墳マップ 井寺古墳(いでらこふん)とは - コトバンク 井寺古墳の発見経緯記す文書 熊本地震で被災 寸法列記「復旧の一助に
   井寺古墳(熊本県嘉島町) | 九州遺跡紀行 古跡探訪録 : 井寺古墳[熊本県上益城郡嘉島町大字井寺:国指定史跡]
   熊本大学学術リポジトリ  平成28年熊本地震による史跡井寺古墳への被害と今後の見通し

 ~遺跡の概要~
  熊本平野東端に位置する直径28mの円墳とされています。 
  玄室が幅2.9m、奥行2.9m、高さ3.1mの典型的な肥後型横穴式石室を有し、石室内全面が赤色に彩色されています。
  安政4(1857)年に石室が開口して発見されたと言われています。


 参考資料 肥後型横穴式石室 引用

横穴式石室豆知識


肥後型横穴式石室は肥後中・南部に分布中心があることからこの名称が定着しています。その最古の例は熊本県将軍塚古墳の石室といわれ、
長方形平面の玄室中央に短い羨道が取り付けられ、玄室の壁面はドーム状の持ち送り構造で、天井石は一枚ないし二枚で構成されています。

5世紀の初期に出現し、6世紀前期までは玄室下部の四壁に沿って板石で構成された石障をめぐらせるのが特徴です。
また肥後型石室の一類型には、玄室の前に前室を備えた複室構造のものが含まれ、肥後北部の菊池川流域で始まったことが明らかになりつつあります。

現在、5世紀後期の熊本県伝佐山古墳の石室が最古の例とされていますが、玄室と羨道部間に設けられた空間は塚坊主古墳を介して、臼塚古墳、大坊古墳、チブサン古墳などで明確な前室に発展し、複室構造の横穴式石室が完成されます。

6世紀前期頃の塚坊主古墳を契機とし、複室構造の横穴式石室は肥後から筑後へと拡大します。
それと共に装飾古墳も筑後地方へと伝播、福岡県乗場古墳、王塚古墳そして佐賀県太田古墳など、筑後やその周縁地域から北中部九州全域に拡大しました。 


 石障
  石室内の石障 (立てられた板石) や羨門 (石室入口) 両脇の石柱、羨道部の板石には、直弧文 (直線と曲線による独特な文様) や円文、
  梯子形文が線刻と彩色で装飾されており、その重要性から大正10(1921)年に史跡指定されました。

 墳丘に入った亀裂
  熊本地震により墳丘に幅30cmの亀裂が生じ、羨道の天井石がズレて石室への立ち入りができなくなりました。
  小型カメラにより調査した結果、石室も甚大な被害を受けたことが判明したため、復旧に向けた調査・検討が進められています。

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23井寺古墳 遺跡の概要 発掘調査風景
墳丘に入った亀裂


 232井寺古墳石障の壁画
壁画
 


 240史跡 釜尾古墳 (かまお) 熊本県熊本市北区釜尾町 円墳 古墳時代 6世紀中葉


 ~遺跡の概要~
  熊本平野北西部の丘陵上に立地する直径約30mの円墳です。
  羨道を仕切った形での副室構造で、玄室奥壁に石屋形を設けて彩色により装飾された、総延長9.6mの横穴式石室を備えています。

   ※石屋形 石障ではなく,石屋形(いしやかた)(石室奥壁に接して組み立てられた安置施設)

 発掘調査風景
  石屋形(いしやかた)
  石室は下部を赤色、上部を白色に彩色されています。石屋形は被災以前から崩れていましたが、石材には三角、円形などが描かれています。
  大正10(1921)年に史跡の第1号の一つとして指定されました。

  地震後の釜尾古墳
  熊本地震により墳丘が大きく崩落し、石室入口を塞いでいるため石室への立ち入りができなくなりました。小型カメラにより調査した結果、
  玄室の被害は少ないものの羨道部は天井石が一部崩落し、土砂が流入しているのが確認され、今後の復旧方法が検討されいてます。
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釜尾古墳石障の壁画
24釜尾古墳
遺跡の概要 発掘調査風景
地震後の釜尾古墳 釜尾古墳石障の壁画
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 参考資料
  文化庁提供の写真だけではほとんど何もわかりません。ネット検索してみますと、大変素晴らしい、驚嘆すべき装飾古墳でした。
  写真をお借りした皆様。ありがとう。ごめんなさいね。


 引用歴史雑談26 装飾古墳6
横穴式石室にコの字形に収められていた箱式石棺の板石が石障として石室四壁に沿って立て巡らされ、
また、仕切り石として屍床を区画するようになったものが肥後型横穴式石室だとされていますが、
この横穴式石室の奥壁に接して左右に側石を立て、
大きな板石を渡してその中に遺体を安置するようにしたものを「石屋形」と呼んでいます。

肥後型横穴式石室の奥壁前の石障だけが厨子形に大きくなったもので、あたかも平入横口式石棺(石棺の長辺側が開口した石棺)のような形状をしており、石厨子とも言われています。

石屋形が造られている石室からは、石室四壁に沿って立て巡らされていた石障が姿を消していき、
石障で囲まれた内部を仕切り石で区切ってつくった複数の屍床の内、奥壁に近い部分が分離したように見えます。

装飾古墳は、その展開過程から石棺系装飾、石障系装飾、そして壁画系装飾へと展開していきますが、
彩色を主体としたもっとも古い壁画の形式は、横穴式石室の奥壁に設けられた「石屋形」の内部の壁画から始まったとされており、
熊本県宇土郡不知火町の国越古墳、玉名市の大坊古墳・馬出古墳、菊水町の塚坊主古墳、北部町の釜尾古墳、山鹿市のチブサン古墳など、
肥後を中心に分布していますが、福岡県広川町の弘化谷古墳、桂川町の王塚古墳、玄海町の桜京古墳など筑紫にもその広がりを見せています。

六世紀に入る頃から定着し始めた壁画系装飾古墳(彩色壁画に限定)は、図文的装飾と叙事的装飾に分けられ、時期的には図文的装飾の方が早いとされており、また、
その図文も石棺系や石障系に多く見られた直弧文が姿を消して、
かわって蕨手文や連続三角文、双脚輪状文などの新しい文様が現れ、靫や大刀、船などの器物、人物や動物なども混じるようになります。
(写真は、釜尾古墳の石屋形奥壁復元図、双脚輪状文が横向きに描かれている)

 釜尾古墳(熊本市釜尾町同免)の概略 現状径18mの円墳(実際は20mを超える?)。
石室長9.6mの複室の横穴式石室。六世紀前半。甲冑、大刀、剣、馬具、玉類、須恵器など出土。




熊本市C付

観光政策課C付
装飾復元図
歴史雑談26 装飾古墳6
装飾古墳今昔紀行

 このサイケ調の復元図に驚きました。現代アートか、鉄橋下の落書きかと思えるような、ほんとかなー?と思っていました。下の写真をご覧ください。



 写真借用「古跡探訪録」釜尾古墳の美2013.1121

この写真で、上の復元が、

嘘や妄想・誇張でないことが分かりました。

 凄いですね。最後にうっとりしました。いや、ほっこりとかな。
 歴史雑談26 装飾古墳6の流れるような文章に、なんというか、安堵感を持って終わりになりました。 ありがとうございました。