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00外観・入口展示 |
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掲載遺跡一覧
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発掘された日本列島2018 新発見考古速報 日本列島では毎年約8,000件の発掘調査が行われています。 このうち、近年発掘された遺跡や、成果がまとまった注目の17遺跡546点を速報展示します。 |
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旧石器時代 約38,000~15,000年前 ■概要: 日本列島における人類の歴史は、約38,000年前の後期旧石器時代に始まることが確実です。 人々は遊動し狩猟をしながら、簡素なテント状の住まいや岩陰などで暮らしていたとみられます。 各地で使用する石器に違いがあり、環境の違いに応じた生活を営んでいたと見られます。 ■今回展示する遺跡: 鹿児島県の天神段遺跡では、細石刃・細石核や、その制作過程を示す接合資料が多数出土しました。 旧石器時代の狩猟採集民の生業を研究する上で重要です。 |
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10天神段遺跡(てんじんだん) 鹿児島県曽於郡大崎町野方 旧石器時代~縄文時代草創期 約24,000~13,000年前 リンク いにしえの 道の駅 ∼天神段遺跡 - 上野原縄文の森天神段遺跡4 旧石器時代~縄文時代草創期編 - 全国遺跡報告総覧~遺跡の概要~ 大隅半島の中央、標高約200mの小台地に立地しています。 約3万年前の姶良カルデラ噴出物(通称シラス)層と約1万2800年前の薩摩火山灰層の間から、三時期にわたる多くの石器が出土しました。 発掘調査風景 多様な石器の利用が認められ、当時の人々が広い範囲を移動していたことや、石材に合わせて効率的に石器を製作していたことがわかります。 当時の人々は石材の性質を熟知していたようです。 Ⅸ層遺物出土状況 同一母岩から作りだされた石器同士が接合する「接合資料」が、400組以上も確認されました。 接合資料や石器の出土状況から、細石刃の製作技術が2つに大別される事や、製作技術ごとに石器の分布が異なることなどとがわかりました。 ※南九州における細石刃の発見は、大変珍しいです。 |
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12細石刃 |
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13接合資料 |
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参考資料 14南九州の細石刃
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縄文時代 約15,000~2,800年前 ■概要: 土器の使用が始まり、日本各地でそれぞれ独自色の強い装飾性豊かな縄文土器が作られました。 人々は穴の上を屋根で覆う竪穴建物で定住に近い生活を送り、狩猟・採集や漁労、地域によっては簡単な栽培などを営みました。 人々の間には基本的には身分の格差はなかったと考えられています。 土偶や石棒など様々な祈りのための道具のほか、耳飾りやペンダントなどの装飾品があり、豊かな精神文化を持っていたことがわかります。 ■今回展示する遺跡: 本ノ木遺跡 (約15,000年前、新潟県) では多数の石槍が出土しました。縄文時代最初期の狩猟生活のありようを示します。 加曽利貝塚 (約5,000~3,000年前、特別史跡) は縄文時代中期の環状貝塚と後期の馬蹄形貝塚が連なる大型貝塚で、 これまでの調査研究成果をうけて62件目の特別史跡に指定されました。 保美貝塚 (3,400~2,800年前、愛知県田原市) は東海地方を代表する貝塚で、他地域の土器や石製品の出土から、 当時の広い交流関係を知ることができます。 |
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20本ノ木遺跡(もとのき) 新潟県中魚沼郡津南町大字下船渡 縄文時代草創期 約15,000年前 リンク 本ノ木遺跡津南町本ノ木遺跡埋蔵文化財 - 津南町土器データベース データベース~遺跡の概要~ 新潟県最南端の津南町で、信濃川と清津川の合流地点の段丘上に位置します。 津南町は段丘が発達した地域として有名で、低段丘面には縄文時代草創期の遺跡が数多く発見されています。 発掘調査風景 昭和30年代に旧石器時代研究をけん引した芹沢長介と縄文時代研究の第一人者の山内清男がそれぞれ調査を行いました。 石槍や土器の出土状況とその解釈から縄文時代の起源についての議論を巻き起こした学史的な「本ノ木論争」が勃発しました。 土器と石槍の出土状況 平成18年度から発掘調査が再開されています。遺跡が立地する段丘が縄文時代以降の物であることや、過去に出土した土器が石器と供伴するか どうかなどについて新しい知見が得られており、現在も研究が継続されています。 |
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22石槍
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23石槍 | ||||||||||||||||||||||||||
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30特別史跡 加曽利貝塚 (かそり) 千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33-1 縄文時代中期~晩期 約5,000~3,000年前 リンク 特別史跡 加曽利貝塚加曽利貝塚~日本最大級の貝塚加曽利貝塚Wiki特別史跡 加曽利貝塚~遺跡の概要~
発掘調査風景
南貝塚発掘風景
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31南貝塚剥ぎ取り貝層断面
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33貝製品 |
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34様々な道具
蛇灰岩 方解石を多量に含む蛇紋岩。礫状の蛇紋岩の間を方解石が埋めたものが多く,鳩糞石 (はとくそいし) の名がある。 埼玉県秩父郡皆野町金崎などに産し,美しいものは装飾用石材になる。 |
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35加曽利犬カソリーヌ 現在加曽利犬に関する詳しい解説を見つけられませんでした。 |
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36土偶
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37土器 |
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37a加曽利E式 中期後半の土器 |
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37b |
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38土器 | ||||||||||||||||||||||||||
38a浅鉢 加曽利B式 後期の土器 |
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38b異形台付土器 特別史跡加曽利貝塚出土 (千葉県千葉市:縄文時代後期約4、000年前)【右高さ21.2cm】 算盤玉の形に似た胴部に横を向いた孔の突出部がつき、胴部と台部に透かし孔があけられる土器です。 完形、2個セットで建物から出土することが多く、祭祀用の特殊な土器といわれます。縄文時代の祭祀の一端を表す資料です。 |
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40保美貝塚(ほび) 愛知県田原市保美 縄文時代後期~晩期 約3,400~2,800年前
リンク 保美貝塚(ほびかいづか)とは - コトバンク舟こいだから? 愛知に「極端に骨太」な縄文人集団:朝日新聞デジタル~遺跡の概要~ 渥美半島先端の河岸段丘上に立地し、史跡吉胡貝塚、県史跡伊川津貝塚とともに縄文時代後・晩期の大規模な貝塚として有名です。 明治時代から多くの人類学者が調査研究を行い、黎明期の人類学・考古学の発展に寄与してきました。 盤状集骨墓 太平洋岸に打ち上がるベンケイガイなどによる貝輪製作関連の遺物、石製や骨角歯牙製の装身具と儀器類が豊富に出土しました。 また、土葬して白骨化した遺骸を掘り起こし、再び埋葬する盤状集骨墓も発見されました。 ※儀器(中国語)=機械(日本語)です。 ここでは祭祀具又は儀礼道具というつもりで使われたのでしょう。 ※盤状集骨墓に似た葬送儀礼の記憶は、富山県小竹貝塚と、山口県土井ヶ浜遺跡でもあったように思います。どちらも異境からの来訪者です。 ※環状木柱列も、北陸と共通する遺構です。 環状木柱列 近年の調査で、北陸の晩期集落に確認されていた環状木柱列が東海で初めて貝塚の中央部周辺に発見されました。 更に、東日本・西日本などの土器や石製品の出土もあり、他地域との活発な交流を行っていたことが明らかとなりました。 |
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42貝・骨角製品 さすがにこの地域には貝や骨格製品が多いですね。そのような文化があった地域です。 |
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43骨角牙製品 |
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44石器
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45骨角牙製 装飾品 |
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弥生時代 約2,800~1,750年前 ■概要:
■今回展示する遺跡:
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50上代町遺跡群(かみだいまち) 熊本県熊本市上代町 弥生時代中期前半 約2,300年前
真紅の漆塗り 上代町遺跡群から弥生中期の剣柄2016年12月1日~遺跡の概要~
この木何の木
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52赤漆塗木製剣柄・盤部 上代町遺跡群出土 (熊本県熊本市:弥生時代中期約2、300年前) 全面に赤い漆が塗られ、柄縁には絹の糸が巻かれていた木製の銅剣の柄です。 銅剣の柄とみられる木製品は国内初の出土で、柄の全体の形状をうかがい知ることができます。 柄と盤部は、一年の時を経て別々に発見されました。銅剣の使用方法を知ることができる資料です。【中央長12.1cm】 剣柄と盤部の位置 大溝から出土した「赤漆塗木製剣柄」と「盤部」は、銅剣に着装したと考えられる木製の柄としては国内初の出土です。 類例は朝鮮半島にしか知られておらず、弥生時代の青銅器の実態に迫る上で貴重です。 |
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62青銅器鋳型 |
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63青銅製品と土製鋳型 |
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70雲出川下流域遺跡群 三重県津市・松阪市・久居市・一志郡 弥生時代後期~古墳時代初頭 約2000~1750年前 くもずがわかりゅういき ~遺跡の概要~ 三重県中央部を東流する雲出川の下流域には、弥生時代後期以降、重要な交流の拠点であったことを示す遺跡や遺物が多く存在する。 竪穴建物が密集する四ツ野B遺跡の一画から出土した高茶屋1号銅鐸は、その一つです。 四ツ野B遺跡全景 銅鐸は弥生時代のまつりに使われていたと考えられ、吊るして鳴らしていた「聞く銅鐸」から、大型化して置いて「見る銅鐸」に変化しました。 高茶屋1号銅鐸は、突線鈕2式とよばれる「見る銅鐸」にあたります。 舞出北遺跡の方形周溝墓 この地域では、多くの絵画土器も出土しています。小谷赤坂遺跡では鹿と船という珍しい組み合わせを描く土器、 舞出北遺跡では円形周溝墓から鹿のほか龍や稲妻のような変わった線刻画されている壺が出土しました。 ※この遺跡群内の各遺跡は、東海をはじめ、各地域それぞれの影響下にある集落ごとに、特徴的な土器が出土しています。 |
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72四ッ野B遺跡 弥生土器 |
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72銅鐸 四ツ野B遺跡 |
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73貝蔵遺跡 ※東海地方のS字甕や一連の土器のようです。 |
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74片部遺跡 |
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75西肥留遺跡 |
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76小谷赤坂遺跡 |
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77小谷A遺跡 |
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78舞出北遺跡 |
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79大型絵画土器 (舞出北遺跡) |
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古墳時代 約1,750年~1,400年前
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80金井東裏遺跡 (かないひがしうら) 群馬県渋川市金井1837 古墳時代中期後半から後期 5世紀中葉~6世紀初頭
~遺跡の概要~ 関東平野北西端部の榛名山から流れ下る登沢川により形成された扇状地に立地します。 近隣の史跡黒井峯遺跡や中筋遺跡と同様、火山噴火に伴う軽石や火砕流等により短時間で埋没した遺跡で、被災直前の状況がそのまま 残されています。 よろいを着た古墳人出土状況 榛名山の噴火による火砕流の下から成人男性がよろいを着た姿で発見されました。 通常、甲冑は古墳の副葬品として出土しますが、着たままの状態での発見は国内初です。 このほか、成人女性、幼児、乳児の計4人が被災した姿で発見されました。 調査風景 墓地・畑・平地式建物・掘立柱建物・竪穴建物・祭祀遺構などの古墳時代の被災したムラがそのまま発見されました。 土器・ガラス玉・玉類・石器模造品・鉄製品などが大量に出土し、当時の生活や祭祀の様子が明らかになりました。 ※火山の噴火を鎮める祭祀をしていて火砕流に飲み込まれた渡来系村長(むらおさ)の遺骸と、その家族らしき人骨が発見されたと聞いています。 |
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82 2号甲レプリカ |
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83甲装着人骨レプリカ (発掘当時の再現) (石川会場・岐阜会場の展示) ※連続的にみられるようになっています。 |
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83甲装着人骨レプリカ (甲冑を持ち上げた状態) 広島県立歴史博物館(福山市)にて ※甲と人骨はレプリカですが、これほど克明に再現されているとは思いませんでした。 |
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84冑(かぶと) |
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以上の遺物は、榛名山の噴火を鎮める祭祀を行っていた男性が身に着けていたもの。 以下は、その時行っていた祟り沈め祭祀で、祭祀場で、山に向かって供えていた、お供えの入れ物のようです。 説明ないから、しらんけど、テレビで見た。 |
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85土師器 |
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86須恵器 |
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87石製模造品 |
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88大甕 |
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90神田・三本木古墳群(じんだ・さんぼんぎ) 群馬県藤岡市美久里 字神田 古墳時代後期 6世紀後半 (岐阜会場での展示) 群集墳 ~遺跡の概要~ 神流(かんな)川左岸の段丘上に立地する244基の古墳で構成される古墳群です。平成23~25年度にかけて古墳群東部に位置する15基を 発掘したところ、埴輪列や珍しい墳丘の古墳が発見されました。 発掘調査 k10号墳は6世紀後半の直径12mの円墳ですが、墳丘は土でなく川原石を積み上げて造っています。大変珍しい墳丘ですが、それ以外は この地域の古墳と同じ特徴を持っています。同様の古墳が4基存在することがわかりました。 K10号墳人物埴輪出土 k10号墳の横穴式石室入り口の東側には、武人2、巫女3、不明1の順で人物埴輪が立ったまま発見されました。 更に、墳丘を取り囲む円筒埴輪27個体も立った状態で発見され、当時の埴輪列がよくわかる貴重な事例です。 |
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92埴輪(岐阜会場での展示) |
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93埴輪 巫女と武人 |
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94石川会場での展示 |
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古代 約1,400年~ 1,00年前0
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100史跡 船迫窯跡(ふなさこかまあと) 福岡県築上郡築上町船迫 古代 飛鳥時代~奈良時代 6世紀後半~8世紀 リンク 船迫窯跡 文化遺産オンライン 船迫窯跡公園 ~窯跡&工房一体の貴重な遺跡~~遺跡の概要~ 周防灘に面した標高40~100mの丘陵裾野から山頂部にかけて9基の窯跡とその谷間に立地する工房跡とが一体となって存在しています。 古代窯業の実態を知る上で重要な遺跡として平成11年史跡指定されました。 発掘調査 6世紀後半の須恵器生産、7世紀後半の瓦生産、8世紀中頃の豊前国分寺の瓦生産という生産体制の変遷が確認されました。この内の1つの窯では 7世紀後半の上坂廃寺(京都郡みやこぐんみやこ町所在) の鴟尾と百済系の軒丸瓦を焼いていました。 鴟尾の出土状況 鴟尾には、百済・新羅・高句麗で発見される鋸歯状のひれや、百済系の文様の線刻などが認められました。 660年の百済滅亡後にやってきた渡来人が、鴟尾の製作に関わった可能性が考えられます。古代窯業の様子がよくわかります。 ※先の群馬県 神田・三本木遺跡では6世紀末に高度な製造技術の人物埴輪を伴う円墳が作られ、同じ時期に、福岡県では大きな鴟尾を掲げた 巨大寺院が作られています。これは、文化のレベルが格段に違うのか、それとも埋葬墓としての円墳と、巨大寺院とは両立するのか。 何れにしても文化ギャップがなかったとは言えないが、どちらも当時当地の最高の文化をつぎ込んだ遺産でした。 |
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103鴟尾の文様 百済系の文様の鴟尾と軒丸瓦 |
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104復元鴟尾 |
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110史跡 武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡 東京都国分寺市 古代 奈良時代~平安時代 8世紀~9世紀 むさしこくぶんじあと つけたり とうさんどうむさしみちあと ~遺跡の概要~ 多摩川支流の野川流域に広がる標高65mの武蔵野台地に立地し、古代官道である東山道武蔵路を挟んで東側に僧寺、西側に尼寺が並びます。 聖武天皇による天平13(741)年国分寺建立の詔から20年後に完成したとみられています。 金堂調査風景 調査で国分寺とそれを支えた周辺集落域は東西2kmに及ぶことがわかっています。僧寺地区では金堂、講堂、鐘楼、中門などの建物のほか その東側200mの地点で七重塔の基壇が発見されていました。 新たに発見された塔基壇 最近の発掘で、従来の塔から西へ50mの地点で新たに塔基壇が発見されました。新旧2時期の塔が存在するという注目すべき発見とともに、 「造塔」の文字が認められる瓦も出土し、古代の人々の「塔」への思いが伝わってきます。 |
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112瓦 |
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113瓦 |
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114仏像 |
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120史跡 由義寺跡(ゆげでら) 大阪府八尾市東弓削 古代 奈良時代後半 8世紀後半 (弓削の道鏡が幻の寺) ~遺跡の概要~ 称徳天皇の寵愛を受けて法王となった僧・道鏡ゆかりの寺ですが、奈良時代の国史「続日本紀」にその名が記されているものの、 位置や規模、内容がほとんど分からないため、幻の寺と呼ばれていました。 正方形基壇 道鏡の氏族である弓削氏の出身地域において、奈良時代後半の多量の瓦と共に、一辺20mの正方形に復元される基壇が発見されました。 基壇横から相輪 (金具) が出土したため、基壇が塔に伴うものであることがわかりました。 礎石出土状況 「続日本紀」記載の由義寺の塔と時期やおよその地域が一致することから、基壇は由義寺の塔と考えられます。 一辺20mという規模は、東大寺が建立されるまで最大であった大安寺七重塔 (一辺21m) に迫る破格の規模と言え、道鏡の権勢の大きさが窺えます。 |
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122瓦 |
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130四日市遺跡 大分県玖珠町大字四日市 古代 平安時代 9世紀 ~遺跡の概要~ 地名の由来として伝承される楠の大木を連想させる伐株山が眺望できる筑後川水系の支流、玖珠川右岸の台地上に立地します。 旧石器時代から中世に至る複合遺跡ですが、今回紹介するのは平安時代の木棺墓です。 木棺墓 木棺墓は2基発見されています。副葬品とともに木棺材の連結に使用した鉄釘が出土しており、木棺の大きさがわかりました。 このうち1基からは、越州窯青磁唾壺のほか、隅入方鏡や土師器坏が出土しました。 唾壺出土状況 唾壺は唐の越州窯で焼成された青磁で、隅入方鏡も唐で製作された青銅鏡です。 いずれも列島では出土が稀な貴重品ですので、木棺墓の被葬者には大宰府との関係の深い玖珠郡に関わる官人などが想定されます。 |
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132唾壺 唐、越州窯製 青磁 四日市遺跡出土 (大分県玖珠町:平安時代9世紀) 唐の越州窯で焼成された青磁で、本来は唾や痰、破棄された飲食物を入れるために使われた壺です。 日本では都や大宰府での出土が大半で、高級官僚の調度品であったと考えられます。本資料は木棺墓の副葬品として出土しており、 古代の葬送を考えるうえでも重要な資料です。【高12.9cm】 |
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中世 約900年前~約400年前 c.900BP to c.400BP
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140伏津館跡(ふしづだて) 岩手県野田村大字野田第25地割字日向下79-7 中世 室町時代前半 14世紀後半~15世紀 リンク 特別展 海に生きた歴史~復興発掘調査が語る一万年の海との共生 - 岩手県 ~遺跡の概要~ 太平洋を一望できる舌状に延びた小丘陵上に立地する城館跡です。 東日本大震災の復興事業に伴う発掘では、堀・土塁・曲輪・切岸や掘立柱建物・焼土・溝などの遺構のほか、城館廃絶時の多数の遺物が発見 されました。 発掘調査風景 土塁 掘立柱建物が建てられた平坦面の曲輪を、盛土を行うことにより拡張し、更に大きな掘立柱建物を建て、防御のための土塁も築造していました。 館主は、非常時の簡素な城館から在地領主の居館に大幅な改変を行っていたことになります。 陶磁器出土状況 茶道具である青磁碗・天目茶碗・古瀬戸茶壺・茶臼・風炉のほか、文房具の古瀬戸鳥形水滴、琵琶が彫刻された石硯などが出土しています。 列島の東端にいながら教養と財力を持ち合わせていた館主の姿が浮かび上がります。 濃さの違いが示すもの 伏津館跡出土の目貫は、銅の素地に鍍金を施したものです。X線撮影を行った結果、部位によってその濃さ (透過の度合い) に違いが見つかり ました。 分析してみると、aとbで金と銅の検出度合いが異なり、aよりbの方が金を多く検出しました。bの鍍金層の方が厚く、透過度に差が出たことが わかりました。 |
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150公家町遺跡 京都府京都市上京区京都御苑/毘沙門町 中世 安土桃山時代 16世紀末 ~遺跡の概要~ 京都御所を中心として公家が集住した地域の遺跡を指します。 公家の松木家と四辻家の屋敷地推定地で、屋敷地割や一条大路という京の幹線道路とその延長部の検出、紀年銘瓦の出土などの発見がありました。 瓦線刻 紀年銘瓦には、「瓦(御)大工」「天正拾八年十月吉日」「福 (田) (加) 賀守」と刻まれていました。京都市の大徳寺黄梅院の瓦を製作した 「福田彦太郎吉長」という人物が、瓦御大工という指導的立場で公家町形成に関わっていたことがわかりました。 発掘調査風景 屋敷地を区切る溝と柱列 「天正拾八年」は、豊臣秀吉が天正17(1589)年に着手した「京都大改造」直後の年号で、その実施状況を示します。 また、今回検出された溝や柱穴は、江戸時代の絵図から公家町の屋敷地境界を示すことがわかりました。 |
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近世 約400年前~約150年前 c.400BP to c.150BP ■概要: 再び全国が統一された時代です。江戸に幕府が開かれ、およそ250年間にわたる泰平の時代が訪れました。 海外との交流窓口は一部に限られると共に、日本独自の文化が発展しました。 北海道ではアイヌ文化のもと、各地にチャシが造られました。 沖縄では統一王朝である琉球王朝による支配が行われました。 ■今回展示する遺跡: 史跡 大阪城石垣石丁場跡 (17世紀前半) は、徳川幕府が再建した大阪城の石垣石材を切り出した石丁場です。 採石を担当した大名や、石丁場での作業工程が詳しくわかる重要遺跡として史跡に指定されました。 |
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160史跡 大坂城石垣石丁場跡 兵庫県西宮市甲山・芦屋市 近世 江戸時代前期 17世紀前半 おおさかじょう いしがきちょうばあと リンク 神戸新聞 東六甲石丁場跡を国史跡指定 大阪城の石垣に使用 大坂城再建に貢献 東六甲石丁場跡が国指定史跡に|西宮市 ~遺跡の概要~ 元和6(1620)から寛政5(1628)年にかけて幕府が西日本の主な外様大名に命じて改修した徳川大坂城の石垣用石材を採取・加工した遺跡です。 瀬戸内一帯に石丁場は分布しますが、六甲山地は最大規模の採石場です。 発掘調査風景 調査によって、採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成が明らかになりました。 江戸時代前半の公儀御普請(幕府の工事)の実態がその背景を伺うことが出来ることが重要な成果です。 鍋島家の刻印 石帳場ではいろんな刻印が発見されており、採石を担当した藩が判明しています。東六甲石丁場では、唐津藩寺澤家や佐賀藩鍋島家、 鳥取藩池田家の刻印が確認され、分布状況から各藩の丁場が推定できます。 |
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近代 約150年前~約70年前 c.150BP to c.70BP ■概要: 開国により西欧文化が流入し、江戸幕府から政権が返上され、新たに明治新政府が建てられました。様々な近代化が推し進められる一方で、 北海道、沖縄も統一的な近代国家へと組込まれていきました。 ■今回展示する遺跡: 鹿児島県の旧薩摩藩の近代化遺産 (19世紀後半) は島津斉彬が主導した近代化政策に関わる遺跡群です。 幕府や他藩が強兵策を中心としたのに対し、様々な産業育成を目指していた薩摩藩の先進性を示しています。 |
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170旧薩摩藩の近代化遺産 近世~近代 江戸時代末~明治時代初頭 19世紀後半
~遺跡の概要~ 藩主島津斉彬は日本初の近代洋式工場群である「集成館」事業に着手し、いち早く近代化に取り組みました。 幕府や他藩の近代化が強兵策に溜まったのに対し、薩摩藩では富国強兵策を講じたことが注目されます。 発掘調査風景 レンガ造遺構 久慈白糖工場跡は、慶応元~三(1865-67)年に奄美大島に建設された4つの白糖工場の1つで、黒糖の価格下落を受けて建設されました。 検出された遺構は日本最古級のレンガ造建築で、レンガ導入期の実態をよく示します。 水路 敷根火薬製造所跡は、文久3(1863)年に建設されました。建設の契機は前年の生麦事件と同年の薩英戦争にあったと言われています。 隣接する川から水路で水を引き、水力を動力として火薬を製造しており、その水路の一部は現在も使用されています。 |
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172久慈白糖工場跡 |
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173敷根火薬製造所跡 石臼 |
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特集 装飾古墳を発掘する!
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装飾古墳の保存と活用 |
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180史跡 羽山横穴 (はやまよこあな) 福島県南相馬市原町区中太田 古墳時代 6世紀末~7世紀初頭 ~遺跡の概要~ 太田川の北岸に発達した羽山丘陵に立地する約20基の横穴墓群のうち1基です。前庭部・羨道部・羨門・玄門・玄室で構成されています。 玄室は奥行き約3m幅2.8mの方形プランで、高さ1.8m以上の規模です。昭和48年、住宅団地造成工事中に偶然発見されました。 発掘調査風景 工事により天井の一部が壊されていましたが、玄室から金銅装大刀・鉄製直刀・馬具・ガラス製小玉・青銅製釧(腕輪)など豊富な副葬品が 発見されました。 天井部珠点文模式図 玄室の奥壁・側壁・天井部に赤色顔料と白色粘土を使用した装飾文様が描かれていました。 奥壁には、人物・馬・渦巻文・長方形などの図柄が、側壁と天井部には珠点文が描かれており、現在は保存施設を設けて保存されています。 |
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190特別史跡 王塚古墳 (おうづか) 福岡県嘉穂郡桂川町寿命 古墳時代 6世紀中葉 リンク 王塚装飾古墳館|王塚古墳とは 王塚装飾古墳館 特別公開 王塚装飾古墳館 桂川町 王塚古墳館 ~遺跡の概要~ 微高地上に立地する全長86mの遠賀川流域で最大の前方後円墳です。 昭和9年の採土工事で墳丘の大部分が削られました。その工事中に偶然、複室構造の横穴石室が発見されました。 発掘調査風景 玄室には、奥壁に石棚と遺骸を安置するための石屋形を設け、赤・黄・緑・黒・白の五色で壁面全体に文様を描いており、昭和12年に史跡 昭和27年に特別史跡に指定されました。馬具や銅鏡などの豪華な副葬品は、昭和31年に重要文化財に指定されています。 雨漏り、カビなどの微生物の発生、乾燥などの問題が起こると共に、昭和42年の石室石材の亀裂発見を契機に抜本的な保存整備が行われました。 平成2年から年2回の特別公開や実物大レプリカの設置などにより活用されています。 |
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191王塚古墳壁画 |
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193王塚古墳石室玄門の壁画 |
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200砦見大塚古墳(あざみおおつか) 福福岡県京都郡みやこ町 椎田 道路 古墳時代 6世紀後半
~遺跡の概要~ 河岸段丘上に立地する二重周溝をもつ直径約13mの円墳です。平成21年、東九州自動車道建設工事に伴う発掘調査で発見されました。 墳丘や石室の一部は宅地造成等により破壊されていましたが、装飾付須恵器や須恵器坏などが出土しました。 発掘調査風景 副葬品出土状況 石室は長さ7m・最大幅2mの副室構造の横穴式石室です。 玄室では耳環・管玉・ガラス玉、前室では須恵器坏・単鳳環頭大刀・鉄鏃・馬具類などが右側壁側に集中して置かれていました。 玄門の装飾 石室壁面には、同心円文・円文・三角文が赤色顔料により描かれています。線刻による装飾古墳が集中する地域に所在する彩色を持つ古墳で あるため、重要な古墳と評価されて、石室は現在も道路橋梁下で、現地保存されています。 |
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202副葬品
単鳳環頭大刀 呰見大塚古墳出土 (福岡県みやこ町:古墳時代6世紀) 古墳に副葬されることが多い、装飾付きの環頭の柄頭をもつ大刀の一種です。 文様が退化した龍文を刻む長径6.0cm・短径4.3cmの楕円形の環頭の中に鳳凰1体が配置された環頭で、青銅の地金に鍍金して仕上げられて います。古墳時代の輝きを現在に伝えてくれる優品です。【長8.0cm,幅6.0cm】 |
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204装飾付壺 と 壺 |
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被災した装飾古墳とその後 |
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210史跡 清戸迫横穴(きよとさくよこあな) 福島県双葉郡双葉町大字新山 古墳時代 7世紀前半 リンク 清戸迫横穴 - Wikipedia清戸迫横穴 文化遺産オンライン原発事故で立ち入れない双葉町に残る7世紀の装飾古墳 東北大が計測~遺跡の概要~
発掘調査風景
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220合戦原遺跡(かっせんはら) 宮城県亘理郡山元町高瀬字合戦原 古代 7世紀後半~8世紀前半 リンク 合戦原遺跡 - 山元町 合戦原遺跡現地説明会資料 <合戦原遺跡>宮城県内初出土の銅製壺鐙も公開へ 合戦原遺跡38号墓の線刻壁画について 資料6 宮城県山元町・合戦原遺跡 横穴墓群から7~8世紀に人や鳥を描いたとみ ...古代壁画 合戦原遺跡横穴墓1300年前の線刻画現地説明会(山元町)と ...宮城県で線刻壁画のある横穴墓 合戦原・入の沢遺跡 ( 人類学と考古学 ... 合戦原遺跡ほか 線刻壁画を移設し一般公開、宮城 山元町の合戦原遺跡、日本初: 山陽 ... ~遺跡の概要~ 標高15~35mの段丘上に立地する古墳時代~平安時代の複合遺跡です。 平成26~28年度の、東日本大震災復興事業に伴う発掘調査で、54基の横穴群が発見されました。 38号墓の玄室は、幅3.6m奥行3.2m高さ1.7mで最も玄室の規模が大きい横穴です。 38号墓奥壁 38号墓の奥壁に人物・動物のほか、器財 (靭=ゆぎ・翳=さしば)・家・葉とみられる多様な図柄が線刻により描かれていました。 多様な図柄の線刻壁画は、東北では珍しいものです。 |
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230史跡 井寺古墳 (いでら) 熊本県上益城郡嘉島町大字井手 古墳時代 5世紀末 リンク井寺古墳 文化遺産オンライン 井寺古墳 - 古墳マップ 井寺古墳(いでらこふん)とは - コトバンク 井寺古墳の発見経緯記す文書 熊本地震で被災 寸法列記「復旧の一助に 井寺古墳(熊本県嘉島町) | 九州遺跡紀行 古跡探訪録 : 井寺古墳[熊本県上益城郡嘉島町大字井寺:国指定史跡] 熊本大学学術リポジトリ 平成28年熊本地震による史跡井寺古墳への被害と今後の見通し ~遺跡の概要~ 熊本平野東端に位置する直径28mの円墳とされています。 玄室が幅2.9m、奥行2.9m、高さ3.1mの典型的な肥後型横穴式石室を有し、石室内全面が赤色に彩色されています。 安政4(1857)年に石室が開口して発見されたと言われています。 参考資料 肥後型横穴式石室 引用 横穴式石室豆知識
石障 石室内の石障 (立てられた板石) や羨門 (石室入口) 両脇の石柱、羨道部の板石には、直弧文 (直線と曲線による独特な文様) や円文、 梯子形文が線刻と彩色で装飾されており、その重要性から大正10(1921)年に史跡指定されました。 墳丘に入った亀裂 熊本地震により墳丘に幅30cmの亀裂が生じ、羨道の天井石がズレて石室への立ち入りができなくなりました。 小型カメラにより調査した結果、石室も甚大な被害を受けたことが判明したため、復旧に向けた調査・検討が進められています。 |
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232井寺古墳石障の壁画 |
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240史跡 釜尾古墳 (かまお) 熊本県熊本市北区釜尾町 円墳 古墳時代 6世紀中葉 ~遺跡の概要~ 熊本平野北西部の丘陵上に立地する直径約30mの円墳です。 羨道を仕切った形での副室構造で、玄室奥壁に石屋形を設けて彩色により装飾された、総延長9.6mの横穴式石室を備えています。 ※石屋形 石障ではなく,石屋形(いしやかた)(石室奥壁に接して組み立てられた安置施設) 発掘調査風景 石屋形(いしやかた) 石室は下部を赤色、上部を白色に彩色されています。石屋形は被災以前から崩れていましたが、石材には三角、円形などが描かれています。 大正10(1921)年に史跡の第1号の一つとして指定されました。 地震後の釜尾古墳 熊本地震により墳丘が大きく崩落し、石室入口を塞いでいるため石室への立ち入りができなくなりました。小型カメラにより調査した結果、 玄室の被害は少ないものの羨道部は天井石が一部崩落し、土砂が流入しているのが確認され、今後の復旧方法が検討されいてます。 |
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242 参考資料 文化庁提供の写真だけではほとんど何もわかりません。ネット検索してみますと、大変素晴らしい、驚嘆すべき装飾古墳でした。 写真をお借りした皆様。ありがとう。ごめんなさいね。 引用歴史雑談26 装飾古墳6
このサイケ調の復元図に驚きました。現代アートか、鉄橋下の落書きかと思えるような、ほんとかなー?と思っていました。下の写真をご覧ください。 写真借用「古跡探訪録」釜尾古墳の美2013.1121
凄いですね。最後にうっとりしました。いや、ほっこりとかな。 歴史雑談26 装飾古墳6の流れるような文章に、なんというか、安堵感を持って終わりになりました。 ありがとうございました。 |
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