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300三重を掘る |
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301入口展示 埴輪 三重県には、およそ3万年前から人が住み始め、 14,000の遺跡があります。 |
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301a「三重を掘る!」 解説小冊子 このパンフレットは、三重県埋蔵文化財センターのスタッフが、この企画展のために作成されたものです。 しかし、実際には印刷・配布されることなく、ホームページの片隅に「パンフレット」という文字だけで隠れていました。 これほどの素晴らしい冊子でありながら大々的に見学者の目に触れることなく消えていくのは大変残念です。 是非ここに掲載したいと思います。(ただし、差し止められるまでですが。) よろしくお願いします。
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302馬型埴輪1 鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳 古墳時代中期 三重県埋蔵文化財センター蔵 全長は、復元された尾部までを含めておよそ108cmあり、馬の形として全体がわかるものの中では三重県最大です。 特徴は、頭を覆う被り物、もしくは垂らしたたてがみといわれる部分で、全国的に見ても類例のない独自の装飾といえます。 憂いを帯びた表情や豪華な馬具など、当時の様子を忠実に模した写実性の高い資料です。
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303馬型埴輪2 松阪市 中ノ庄古墳 古墳時代中期 三重県埋蔵文化財センター蔵 |
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304形象埴輪 古墳中期 |
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307三重を掘る |
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旧石器時代 約3万4000年前~約1万3000年前 310三重の旧石器時代 三重県ではおよそ165か所で旧石器時代の石器や破片が見つかっています。 石器の多くは地上採集のものです。 東紀州や伊賀地域は空白に見えますが、今後新たな遺跡が見つかるかもしれません。 ナイフ形石器 曽祢崎遺跡・コドノA遺跡 (明和町) 三重県内で出土するナイフ形石器のほとんどは、関東地方の茂呂型に類似するもので、近畿・中国地方の国府型はごくわずかです。 ※茂呂型・九州型は同系統のもので、南方から黒潮に乗ってやってきた人々の文化です。南方人は伊勢湾にも入り込んだようです。 石器 内垣外遺跡 (多気町) 現在、県内最古の遺跡です。約2.9万年~2.6万年前に火山灰(姶良Tn)が降り積もった地層の下から、石器や剥片が502点見つかりました。 石材は、地元産 (北勢地域) のチャートが使用されています。 |
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311
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縄文時代 約1万3000年前~2,800年前 320三重の縄文時代 約1050カ所の遺跡があり、多くは丘陵や山の中に位置しています。土器文様や石器、アクセサリーなどから縄文時代の暮らしを知ることができます。 |
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321panel
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323土器 早期~晩期 押型文土器/早期 亀山市の大鼻遺跡を標準とする大鼻式土器は、東海地方西部から近畿地方にかけて分布し、特に岐阜県や三重県に多い。※ (押型文土器) ※愛知県は別文化だったということか。 |
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325石器 |
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326石材から見た交流 縄文時代は、ナイフや斧、鏃などの道具や武器を石で作っていました。鏃などに使う石材は、ガラスのように鋭く割れるものが適していますが、 そのような石材が採れる山地はとても限られています。 四日市市の小牧南遺跡からは、地元三重県産のチャートの他、黒曜石や下呂石、サヌカイトで作られた石器が見つかりました。 黒曜石は、100km以上離れた長野県から運ばれてきたものです。 小牧南の出土品は、東西各地の物資が集まる三重県の特性が縄文時代からみられることを示しています。 打製石斧・尖頭器 草創期 高皿遺跡(多気町) 旧石器から草創期にかけて、東北地方から中部地方では、神子柴遺跡型石器群を使用する文化が広まりました。 高皿遺跡の石器は、神子柴文化が西日本へ伝播していく過程を知ることができる資料です。 |
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328装飾品 (威信財) |
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329三重県内で見られる主な石材 石器の石材には、用途ごとに適した石材が使われていました。「切る」「削る」には、刃物のように鋭く割れる丈夫な石が選ばれていました。 三重県内でみられる主な石材 チャート プランクトンの死骸が海底に堆積してできた石です。県内各地の河原などで簡単に入手でき、割るとひじ用に緻密で鋭利な刃を作ることができます。 しかし、もっと石器づくりに適したサヌカイトなどが入手できるようになると、次第に使われなくなりました。 サヌカイト 安山岩の一種です。 西日本全域で石器石材として利用されました。「讃岐の石」という意味ですが、奈良県二上山でも類似の石が産出し、両方共サヌカイトです。 三重県では、旧石器時代の終わり頃から二上山のサヌカイトが利用され、縄文時代には、県内全域の剥片石器のほとんどがサヌカイト製でした。 下呂石 岐阜県下呂市で産出する流紋岩の一種です。数量的には少ないものの、三重県ではサヌカイトに次ぐ石材として利用されました。 黒曜石 ガラス状の石で、三重県内の遺跡からは、長野県産や伊豆諸島産が出土します。 石器石材として一般的ですが、黒曜石製の石器は、三重県からは出土石器の1%にも満たない量です |
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日本最古の土偶 まつり・いのり 粥見井尻遺跡 (松阪市) 縄文時代草創期 (約1万3,000年前) の竪穴建物の内部から土偶が出土しました。 土偶は装飾性のないシンプルなもので、女性の上半身を表現しており、日本最古級のものです。 天白遺跡 (松阪市) 縄文時代後期の遺跡からは、円形に並べた石が37か所見つかりました。 その周辺からは土偶や石棒がいくつも出土しており、 子供がたくさん生まれるよう、また、食べ物が沢山採れるよう願い、祭りや祈りを行っていたと考えられています。 |
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331粥見井尻遺跡の土偶 松阪市 縄文時代草創期(1,3000~9,000年前)※ 土偶は、縄文時代草創期から晩期まで存在する、縄文時代を代表するいのり・まつりの道具です。 粥見井尻遺跡から見つかった土偶は女性の体を表したシンプルな形をしており、日本最古級の資料です。 ※発見土偶は2体 粥見井尻遺跡からは、写真の土偶と、頭部だけの「土偶部分」が出土しています。 もう一体 (頭部) は展示されていません。 |
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332天白遺跡の土偶 (松阪市) 縄文時代後期 三重県内では、およそ100点の土偶が見つかっており、そのうちの75点が天白遺跡から出土しています。 多くの土偶は女性を表し、体の一部が欠けているため、いのりやまつりといった祭祀に用いられたと考えられています。 |
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333西出遺跡の人面土版 (松阪市) 縄文時代晩期 四角の粘土板表面に人の顔を模したものです。鼻にあたる部分は欠けてしまい、ほとんど痕跡を残しませんが、眉は粘土紐を張り付けています。 明確な用途はわかりませんが、祭祀に関わる出土品と考えられます。
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335朱と辰砂 天白遺跡や多気町周辺の遺跡からは、表面に朱がついた土器や石器が見つかっています。 赤い色は、祭祀に使う大切な色であったようです。 三重県には、西日本を横断する中央構造線があり、断層に沿って水銀の鉱脈があります。 水銀の原石である辰砂をすりつぶすと朱(水銀朱)ができます。出土品から、三重県における水銀朱の生産が縄文時代まで遡ることがわかりました。 水銀生産そのものは近世まで続きました。 |
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340弥生時代 約2,800年前~約1,750年前 |
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341三重の弥生時代 弥生時代になると、米作りが広まりました。米は栄養があり、蓄えることができるため、人々の暮らしは以前よりも安定しました。 その一方で、穀物は財産となるため、人々の間には次第に貧富と階層が生まれました。 三重県にある弥生遺跡はおよそ1100か所で、その多くは農耕に適した河川の流域や平野に面しています。 津市の納所遺跡は三重県で最も大きな弥生時代の集落で、土器や石器、木器が沢山出土しました。 ムラと環濠 農耕に適した土地や水、蓄えた米等を巡ってムラとムラの争いが起こるようになると、人や動物からムラを守るため、 集落の周りに濠を巡らせた環濠集落が造られました。 松阪市の村竹コノ遺跡は、三重県で最も大きい環濠集落の一つです。調査の成果や周囲の地形から、 環濠は直径約300mの広い範囲を囲っていたと考えられています。 |
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342弥生土器 前期 |
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343道具 中期土器
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344特殊土器 双脚壺/亀井遺跡/中期/津市 壺の下半部に二本の脚をもつ特異な形で、全国的に類例がありません。双脚壺が出土した穴の周囲では、墓に関する壺や甕が見つかっており、 墓域であったと推測されています。双脚壺も埋葬に伴うものであった可能性があります。 鳥形土製品 鳥の形を模した容器です。首に相当する部分に土器の口があり、尾から胴が空洞になっています。 鳥形土製品は、主に近畿から東海にかけて分布する珍しい土器で、愛知県の朝日遺跡で複数点確認されています。 ※鳥は穀霊や霊魂を運ぶ神聖な動物。為に、鳥形を楠の先にとりつけた鳥杆を立て並べ、邪気を払う。古代史の謎100問100答 穀霊信仰と鳥に対する崇拝 双脚壺・鳥形土器 |
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345中期土器
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346後期土器
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347後期土器
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348絵画土器 六大A遺跡 弥生後期 |
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350弥生時代の石器生産 弥生中期 |
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351石斧づくりのムラ 宮山遺跡 (弥生中期) 三重県いなべ市大安町片樋 宮山遺跡 では、製作途中の磨製石斧や石を割ったり敲いたりするための石器が発見され、石斧の生産遺跡と判明しました。 石材は、鈴鹿山系産出のハイアロクラスタイトです。 (※安山岩質マグマが水・氷等で急冷された岩石) 遺跡には石斧の完成品がほとんどありませんが、伊勢湾沿岸の代表的弥生集落遺跡出土の石斧にはここで作った完成品が多く見受けられます。 このことから、宮山遺跡では、原石の獲得と一次的な加工を行い、搬出先の大きな遺跡で最終仕上げを行っていたと考えられています。 ※宮山遺跡は、①一次加工品の生産だけをしたのか、②荒加工品を他村落に運び、そこで仕上げ加工をしたのか。③ 通常は完成品の交易だ。 原産地で仕上げ加工できないほど、近隣各村では石斧の種類分化が進んでいたんだろうか。(下に続く。磨製石斧の形状分化) |
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353磨製石斧 |
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355磨製石斧 菟上遺跡/中期 (うながみいせき) 四日市市伊坂町1388の北
磨製石斧 納所遺跡/中期 三重県津市納所町
※磨製石斧の形状分化 上記353中段の写真にある一次加工品は、同下段の敲打具や砥石(未掲載)によって、 上記355上段の菟上遺跡の石斧各種や、 上記355下段の納所遺跡の同名の石斧各種に二次加工されたようです。 確かに石斧の分類名は同じですが、形状は相当に違っており、それぞれの地勢にあった形状に分化していた。 しかし、それをだれが 加工したかは不明である。 |
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古墳時代 約1,750年前~約1,400年前 |
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355古墳時代2 | ||||||||||||||||||
356玉製品 | ||||||||||||||||||
357太岡寺1号墳(亀山市) 古墳後期 直径約18m円墳 (たいこうじ) およそ50年間に7つの追葬が行われた。 玉類のほか、土器・直刀・鉄鏃が出土しています。
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358上椎ノ木1号墳 (亀山市) 古墳前期 直径約20m円墳 木棺からは、腕輪、銅鏡など出土。玉類は散らばっていたため、身に着けたのでなく、魔除けにお供えした可能性がある。 埋葬施設出土品 |
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359天童山古墳8号墳(伊賀市) 古墳後期 直径約18m円墳 横穴式石室から、須恵器・鉄鉾・鉄鏃・耳環、玉類などが出土。 切子玉(水晶製)は、須恵器坏身に収めて発見され、供え物でした。 玉類 |
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360三重の古墳時代 各地域の有力者が、大きな墓古墳を作った時代です。三重県にも、近畿地方や東海地方の勢力と関りがあった豪族が住んでいたと考えられます。 雲出川の下流域は、近畿地方から見て東国への出入り口に位置します。その雲出島貫遺跡では、弥生時代の終わりから古墳時代の初め頃の 竪穴建物や墳墓が発見され、この地域の拠点的な集落であったと考えられます。 古墳時代の集落 伊賀市の城之越遺跡では、石を貼りた造形的な大溝が見つかりました。大溝は地域の豪族が祭祀を行った場所とされています。 津市の高茶屋大垣内遺跡では、伊勢湾を見下ろす台地上から大型の掘立柱建物が見つかりました。 建物は、豪族の居館やその権威を示すための施設であると考えられています。 |
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361雲出島貫遺跡出土土器 津市 (くもずしまぬきいせき) 台付甕 古墳時代前期 煮炊きに使われた古墳時代を代表する甕です。熱効率をよくするため、器壁を薄く仕上げ、底に台を付ける工夫がされています。 東海から関東にかけて広く使われた甕ですが、口縁部がS字状になる台付甕が最初に作られたのは三重県であると考えられています。 甕の口縁部断面形が「S」に似ているため、「S字状口縁台付甕」、通称「S字甕」とも呼ばれています。 ※北陸では「くの字状」ともいう S字甕・くの字甕のリンク01 02 S字状口縁台付甕 S字状口縁台付甕 |
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362六大A遺跡出土土器 津市 前期 手焙り形土器 古墳前期 火鉢のような形をしているため、こう呼ばれています。弥生時代の終わりから古墳時代の初め頃の短い期間だけ作られました。 変わった形であり、お墓で見つかる例があることから祭祀や儀礼で使用された可能性があります。 参照古代吉備文化財センター110手焙り形土器 |
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363城之越遺跡の土器 古墳前期末~中期 伊賀市
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364 高茶屋大垣内遺跡 後期 津市 第2次調査報告 第3・4次調査報告 |
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370古墳時代 |
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371六大A遺跡 津市 渡来人と新しい技術 古墳時代は、朝鮮半島から多数の技術者が渡来し、高温の窯で土器を焼き上げる方法や鉄の加工など、新しい技術が伝わりました。 津市の六大A遺跡では、渡来人が使用していた「韓式系土器」や、高度な技術の移入によって作られるようになった初期須恵器が沢山出土し 渡来人に関わる集団がこの地域に住んでいたことがわかりました。 津市木造赤坂遺跡から出土した「陶質土器」も、三重県と朝鮮半島との具体的な交流を示す資料です。 韓式系土器・初期須恵器 六大A遺跡 古墳時代 主に朝鮮半島系の渡来人に関係する土器です。 六大A遺跡からは豊富な器種が大量に出土しました。これにより、 土器が単品でなく、当地に渡来人の集団が定住していたことを示します。 六大A遺跡の韓式系土器 中期 |
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372六大A遺跡 初期須恵器 中期 |
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373木造赤坂遺跡 古墳時代 陶質土器 朝鮮半島で製作されたと考えられる硬質の土器です。このような両耳付のコップ形土器は、朝鮮半島南部の伽耶地域の一部で確認されるのみで、 国内唯一の出土品になります。朝鮮半島と当地の交流を示す貴重な土器といえます。 |
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374三角板革綴衝角付冑 ・ 三角板鋲留短甲 近代古墳 (伊賀市) 古墳中期 (さんかくいたかわつづりしょっかくつきかぶと) (さんかくいたびようどめたんこう) 石室の端に立てた状態で納められていました。 冑は三角の鉄板を革綴で成形し、正面に衝角と呼ばれる三角の突き出た部分を持ちます。 短甲は三角板を鋲でつなげています。 |
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資料 冑・短甲についてのわかりやすい資料が見つかりましたので、 三角板革綴衝角付冑 に、関連し、古い順に冑(かぶと)を解説 引用wiki衝角付冑 三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと) 地板に三角形の鉄板を用い、革綴じ技法で製作されたもの。もっとも古い時期に出現した衝角付冑。 三角板鋲留衝角付冑(さんかくいたびょうどめしょうかくつきかぶと) 三角板の衝角付冑に鋲留技法が導入されたもの。 竪矧細板鋲留衝角付冑(たてはぎほそいたびょうどめしょうかくつきかぶと) 地板が三角形から、縦(竪)に細長い鉄板の矧ぎあわせに変化し、鋲留されたもの。 小札鋲留衝角付冑(こざねびょうどめしょうかくつきかぶと) 竪矧細板鋲留衝角付冑の細板が、より小さい鉄板(小札)の連続に切り替わったもの。 横矧板鋲留衝角付冑(よこはぎいたびょうどめしょうかくつきかぶと) 三角形板や細板・小札で構成されていた地板が、腰巻板・胴巻板と同じ横長の帯金に変化したもの。中期中葉以降に出現する。 竪矧広板鋲留衝角付冑(たてはぎひろいたびょうどめしょうかくつきかぶと) 地板が幅広で縦(竪)に長い鉄板の矧ぎ合わせに変化した、古墳時代後期に出現する衝角付冑。 銅巻板の消滅、衝角部の突出具合の低下、前頭部の伏板が衝角部と頭頂部で別作りになるなど、構造・デザイン上の変化が大きく、 飛鳥・奈良時代を経て、のちの星兜の系譜へと繋がっていく可能性が指摘されている。 尚、東京国立博物館所蔵の国宝・埴輪武装男子立像は、このタイプの衝角付冑を装着しているとみられる。 |
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三角板鋲留短甲 に関して、短甲・冑を解説する文献と図表 野中古墳 - 大阪大学文学研究科 熊本地域出土鋲留短甲の検討 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ 小札鋲留衝角付冑の変遷と その意義 - 国立歴史民俗博物館学術情報 甲冑資料 なんと読むのでしょうか? - 横浜市歴史博物館 下の図表は、池田市立歴史民俗資料館 「古墳時代の猪名川流域」 から借用しています。 図表『古墳時代の猪名川流域』(池田市歴史民俗資料館、2010年刊行)より転載しました。 古墳時代の冑と鎧の変遷 これまで冑と鎧の変遷をまとめた資料が見つからず、よくわかりませんでしたが、この書籍と図表で大変よくわかるようになりました。 甲の発達 図の上部に展開される冑の発達は、戦い方や武器の発達に伴う進化がよくわかります。 短甲の発達 木の板を紐で綴っていた段階から、鉄板に変わり、方形から三角板。革紐綴りから鋲留めに変わる。 これらは、朝鮮半島南部の武装で、歩兵の白兵戦用であった。体の自由がきかず、振り向くのも大変であった。 挂甲の登場(けいこう) 鉄板や革などを、革紐や組紐で綴った鎧で、朝鮮半島北部の騎馬民族の鎧である。 体が動きやすく、しなやかな動きで、自由に戦えた。機能的で機動的であった。 先の鉄板を鋲で固めた鎧では、鉄の土管を着たようなもので、乗馬するのも大変。騎兵戦では自分の土管が飛び跳ねてケガをするでしょう。 挂甲がその後の列島における鎧の祖先となった。 |
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375木で作られた道具 伊賀市北堀池遺跡では、古墳時代前期の水田跡の水路から、同時期の農具や建築部材が見つかりました。※農具小屋と水田が土砂に埋設か 鈴鹿市の河田宮ノ北遺跡では、古墳時代中~後期の川あとから、沢山の土器や木製農耕具が出土しました。※洪水で流されて貯留したのか 津市の納所遺跡や六大A遺跡などでも農具や建築部材が見つかっています。 木製品 北堀池遺跡 (伊賀市) 古墳前期 河田宮ノ北遺跡 (鈴鹿市) 古墳中~後期 弥生時代以降、米作りの広がりとともに、農耕具を中心に木製の道具が作られました。 |
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376古墳 古墳時代のお墓 三重県には、およそ7,100基の古墳があり、中でも奈良県や大阪府に近い伊賀地域には県内でも多くの古墳が作られました。 御墓山古墳 (伊賀市) は、全長188mで県内最大です。そのほか、馬塚古墳を含む名張市の美旗古墳群や、松阪市の宝塚1号墳が有名です。 横穴式石室を掘る 古墳時代の後半になると、横穴式石室が造られるようになりました。横穴式石室とは、石積みで部屋と入口を造り、周囲に盛り土をする施設です。 亡くなった人を石室に安置して入口をふさぎますが、再び入口を開けることで、別の人を埋葬することができます。 井田川茶臼山古墳(亀山市)には、横穴式石室の中に石棺が二つあり、石室内に銅鏡・鉄刀・馬具など三重県でも指折りの貴重な品々が副葬された。 |
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377副葬品 井田川茶臼山古墳 古墳時代後期 画文帯神獣鏡 画文帯神獣鏡は大和政権とのつながりを示す資料の一つです。同じ鏡は全国で24面見つかっていますが、その1/3が伊勢湾周辺に分布します。 銀象嵌捩り環頭大刀 象嵌とは、木や金属などに模様を刻み込み、そこに金や銀をはめ込む技法の事です。当古墳出土の大刀鞘口には、銀で龍が描かれています。 |
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378井田川茶臼山古墳の副葬品 馬具 古墳時代中期になると、乗馬の風習や、馬具を作る技術が朝鮮半島から伝わりました。当時は一部の有力者のみが飼育しており、 馬具は権力の象徴として古墳に納められました。 古墳墳頂部からは、人と馬を模った (かたどった) 装飾がつく須恵器台付壺も出土しています。 |
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379木棺直葬墓を掘る 木棺直葬墓とは、弥生時代以来の伝統的な埋葬方法で、古墳にも数多く見られます。 墳丘の上から穴を掘り、棺を納め、上から土を被せます。別の人を葬るには、新たに穴を掘ります。 伊賀市の東条1号墳は古墳後期 (6世紀前半) の木棺直葬墓で、棺が二つ並んでいました。 一つの棺には武具類、もう一つには銅鏡や装身具が納められており、被葬者は、男性と女性であったと考えられます。 ※古墳時代後期には横穴式石室が一般的であるのに、超古い形式の、竪穴式木棺墓というのは驚きです。 直径10mの円墳で、6世紀前半に武器類を副葬するのも、なにか、中京地域が政情不安定だったかのような印象を受けます。 急に財力を得た成り上がりの墓だったのでしようか。それともこの時期の成り上がり有力者の埋葬の一般形でしょうか。 |
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古代 約 1,400 年前~約900年前 |
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380三重の古代 飛鳥時代・奈良時代に仏教が定着すると、県内各地に寺院が造営されました。 名張市の夏見廃寺では丘陵の斜面から金堂や講堂跡が発見され、建物の壁にタイルのように貼り付ける塼仏が出土しました。 この寺は、天武天皇の娘の大来皇女が父の菩提を弔って建てたとされる「昌福寺」ではないかと推定されています。 津市にある鳥居古墳からは、塼仏や銅板で作られた押出仏画が見つかりました。 押出仏の製作年代は7世紀末から8世紀と推定され、三重県における仏教文化の広がりを示す貴重な資料といえます。 塼仏 仏像を施したタイル形の粘土板を焼成したもの。半肉彫りにした鋳型に粘土を詰め、像を浮き上がらせたもので、金箔押のものもあります。 多量に作成し、寺院の壁面を飾っています。 |
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381 |
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382
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383古代の役所 北の遺跡の遺物 古代のお墓 火葬は奈良時代に始まりました。古代、火葬は、僧侶や役人、都の高貴な人々や地方の有力者など、限られた人々の埋葬方法でした。 多くの人々は、火葬墓に葬られることはなかったようです。 明和町の長谷町遺跡では、平安時代のお墓が発見されました。蔵骨器の周囲には、保護・除湿のための木炭が詰められていました。 蔵骨器の中に納められていた火葬骨は成人女性でした。 |
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384伊賀国庁跡出土品 平安時代 |
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斎宮跡 斎宮は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。斎宮Wikipedia |
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385鳥形硯・羊形硯 奈良時代 明和町 水鳥と羊を模したもの。羊形硯は全国で8例で都との強いつながりが見て取れる精巧な品です。 両方とも意匠を凝らした硯です。高貴な人物が使用したものでしょう。 ※半島・大陸製造か、国産か。国内に羊はいたのか、渡来人が作ったのか。詳細不明。 |
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386祈る皇女斎王の都 斎宮跡出土 平安時代 明和町
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390中世 約900年前~約400年前 |
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394三重の中世 中世は、現代の都市や村落の原型となるような生活の仕組みや集落の形が整った時代です。 中世のお墓 中世には、屋敷の一角に墓地を設ける「屋敷墓」と、集落単位の共同墓地の二つがありました。 いなべ市経塚中世墓では、火葬骨が壺や甕に入れて、共同墓地に葬られいました。
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395安濃津柳山遺跡 室町時代 |
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391熊野灘の海揚がり土器 この土器は、鎌倉時代に愛知県常滑で作られた大甕です。2007年に紀伊長島港の沖合で、底引網漁船に引き上げられました。 鎌倉時代の沈没船の積み荷と考えられます。難破船は熊野灘沿岸の港を目指していたようです。熊野灘沖の開運を具体的に示す資料です。 |
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392生活道具 |
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近世 約400年前~約150年前 |
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393三重の近世
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396文字に込めた願い |
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400発掘された三重のお墓 |
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401入口展示 発掘された三重のお墓 |
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410縄文時代のお墓 大原堀遺跡 縄文時代晩期の埋葬遺構 三重県松阪市広瀬町字大原堀 縄文時代のお墓では、深鉢という容器を棺として使う「土器棺墓」が見つかっています。 棺には、大きい深鉢を単独で使って、他の土器片で口を覆うタイプや、二個以上の深鉢を組み合わせるタイプがあります。 棺の中は、空間が狭いこともあり、身に着ける装身具などのお供えの品が添えられることは少なかったようです。 大原堀遺跡では、櫛田川を南に臨む緩斜面に14基の土器棺のお墓が見つかり、見晴らしの良い場所を墓地としていた様子がわかりました。 |
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420弥生時代 北小牧遺跡 縄文晩期突帯文土器期の深鉢が斜めに埋設。 弥生後期前半の大型壺が正位に埋設された土器棺墓。周囲に方形周溝と重複している。 弥生~古墳初頭のお墓 この時代の墓では、先の縄文時代にあった土器棺墓も作られますが、「方形周溝墓」という低い盛土をして周囲に溝を巡らせた形式の墓が登場します。 盛土は後の時代に削られて残っていない場合が多く、棺の様子やお供えの状況は中々わかりませんが、溝に土器をお供えした様子がわかっています。 小牧北遺跡の様に弥生後期には、丘陵上に墓が造られましたが、古墳時代初頭には瀬干遺跡や織糸遺跡のように川沿いの微高地にも造られます。 |
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430古墳時代 瀬干遺跡(松阪市) 古式土師器 近代古墳(伊賀市) 鉄鉾・直刀 小谷13号墳(松阪市) 短甲・大刀・鉄鏃・鉄鎌ほか 舞出北遺跡(松阪市) 円筒埴輪 金塚横穴墓2号墓(四日市市) 耳環・玉類 富岡前山古墳(伊賀市) 銀象嵌柄頭・馬具・鉄鎌・耳環・玉類ほか 井田川茶臼山古墳(亀山市) 大刀・刀子・冠ほか |
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431古墳時代のお供え 古墳時代になると、棺の内外に多くのお供えをして埋葬します。 多種多様の副葬品は、古墳時代の政治や社会を反映していると考えられ、 当時の人々の死に対する考えや風習などを知る貴重な資料となります。 中期の古墳からは金属製品のお供えが増えてきます。 近代古墳 (きんだいこふん=名称) や小谷13号墳では、鉄製の武器や武具が見つかっており、支配者の様相が見て取れます。 後期になると、金銀の装飾が施された武器や馬具が加わるようになり、装身具としての玉類とも合わせて華やかなお供えの品となってきます。 丘陵面などを活用して造る横穴墓でも、高度な製作技術を要する装身具が添えられていました。 |
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432武器の副葬品 近代古墳 古墳中期
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433鉄製品・玉類の副葬品 中期 |
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434古墳時代後期の副葬品 |
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435古墳における儀式 古墳では、地域の有力者を埋葬するときに多くのお供えをしますが、棺の周辺だけでなく、棺を埋めた後の墳丘上や、 周溝で祭祀を行った様子が、出土する土器などからわかります。 舞出北遺跡では、周溝から体部に大きな穴を開けた須恵器が埴輪片で蓋をした状態で出土したり、墳丘上にに巡らせた 埴輪列で祭祀を行う場としていたことがわかります。この円筒埴輪には記号のような線刻が多く描かれていました。 こうした周溝を巡らせた墳丘上で埋葬祭祀を行っていたことも、古墳時代のお墓の大きな特徴といえます。 |
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中世 釡垣内遺跡(鈴鹿市) 和鏡・鋏・刀子ほか 宮間戸遺跡(津市) 和鏡・陶器・土師器 |
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480鎌倉時代のお墓 鎌倉時代になると、地域の有力者は屋敷のそばに「屋敷墓」をもつ場合がありますが、庶民の墓の多くは共同墓地として見つかります。 埋葬するときのお供えには、食器である椀や皿をはじめ、腰刀や刀子・鎌などの刃物や着火道具である火打ち金が添えられたり、また、 鏡や握り鋏・毛抜きといった裁縫・化粧道具など、葬られた人物の性別が伺える品々もお供えされるようになります。 鏡は、鏡背面の文様が和様化し、四季の草花や鶴・亀などの吉祥文様が取り込まれた「和鏡」に変化します。 鎌は、墓の上などに置いて、葬られた人へ邪気が及ばないよう「魔除け」とした刃物の代表とされ、 お供えの品へ期待する役割も変わってきています。 |
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近世 浄土近世墓(志摩市) 寛永通宝・火打ち金ほか |
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490江戸時代のお墓 江戸時代については発掘する機会が稀であることから、共同墓地として見つかることがほとんどです。 埋葬するときのお供えには、椀や皿、刀子・鎌などの刃物、火打金といった中世から引き続く供え物に加え、 煙管といった嗜好品と、当時の通貨である寛永通宝などが「六道銭」としてお供えに加わってきます。 六道銭は、江戸時代に三途の川の渡し賃として、6枚の一文銭をお供えする風習がありました。 多くは6枚前後で出土するのですが、中には1~2枚だったり、6枚のうち1、2枚は模造銭が混ざったりします。 埋葬された方は無事に三途の川を渡らせてもらえたのでしようか。 |