西日本の縄文 16 2015.11.27-1
古代吉備文化財センター 岡山市北区西花尻1325-3 086-293-3211 年末年始休館 ※臨時休館HPで告知 撮影可
交通 岡山駅から吉備線で吉備津駅下車後 タクシー 付近にタクシーなし 稲荷交通086-287-3030 高松タクシー086-287-2009
近隣には、「総社市埋蔵文化財学習の館」(弥生・古墳・古代) や 「鬼ノ城」(白村江の海戦後造られた朝鮮式山城) などがあり、
せっかくですからぜひ見て行ってください。同じタクシーで回って、最後近くの吉備線の駅へ。
見所 岡山では数少ない縄文土器・石器・御子柴型石斧。岡山に多い陶棺。 ※この日御子柴型石斧は岡山県立博物館に貸し出されていました
備考 2019.01.21追記・修復 |
目次 |
01外観
20縄文時代
旧石器時代遺跡
鏡野町恩原遺跡
旧石器人の移動の順序
王子が岳南麓遺跡
旧石器時代の瀬戸内
中津U式土器
吉備のあけぼの 旧石器〜縄文
縄文時代の装身具
縄文時代の土器
貝塚
縄文時代 -貝塚は語る- |
30弥生時代
稲作のはじまり
弥生時代
31土器
32道具
33まつりの道具
弥生時代の王墓
35竪穴住居と弥生時代の食べ物
39弥生-奈良土製品
鳥は |
40古墳時代
44埴輪窯跡
46吉備の巨石墳
49陶棺
50副葬品
110手焙り形土器
手焙り形土器は
120謎の土器 |
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01外観
巨大な朝鮮式神社 吉備津神社のそばを通って山を登り、黒住教本部に |
行くまでにあります。当センターの隣にタクシー会社があります。 |
この神社風の建物はセンター所有で、イベントに使うそうです。 |
何処から見ても朝鮮風ですよね。 |
館内エントランス |
館内全景 展示スペースはここだけです。 |
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20旧石器時代遺跡 -岡山県の旧石器時代-
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鏡野町恩原遺跡の土層 地図 位置 岡山県県北。鳥取県境。瀬戸内海へ約80q。日本海へ25q |
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AT層より下層(33000〜28000年前) |
に二層あり、最下層から台形石器。上層に石刃素材によるナイフ形石器と石囲い炉(炭化物含む) |
AT層より上層(27000年前) |
基部を細くしたナイフ形石器 |
その上層(25000〜2万年前) |
は横長剥片のナイフ形石器で、瀬戸内地方との交流が強くなった。瀬戸内人の活動が活発になった。 |
更にその上層(18000〜16000年前) |
では、山陰地方との関係が強く、北海道湧別技法の細石刃製作がおこなわれた。転載恩原1・2遺跡 |
まとめ 上の情報は大変重要で、列島への旧石器人の渡った順序、広がり方が説明されています。 |
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王子が岳南麓遺跡 地図 位置瀬戸内海北岸の丘陵上。 瀬戸内地域の旧石器遺跡は原位置を留めておらず年代の決定が不可能である。 |
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25000〜15000年前 (最終氷期最盛期) 、瀬戸内は完全に陸地化。現在の島々はかつての丘陵の頂であった。
かつては広い平原をなしており、鷲羽山〜坂出への瀬戸大橋ルートは、かつての東西の分水嶺だった。
ナウマンゾウ・オオツノシカなどの化石が漁網に揚ることから、大平原にこれらの動物が生息し、それを追う旧石器人が生活していた。
瀬戸内の平野は、草原・低湿地であり、遺跡の立地する現在の岬、海浜丘陵などの頂部は、それを臨む高台であり居住地であった。
この付近からナイフ形石器など、旧石器時代を中心に3万点の石器類が出土。内200点が細石核など細石刃文化の遺物です。
羽佐島遺跡では、国府形ナイフ形石器の時期から縄文早期にかけての30万点の遺物が出土した。
石器材料・サヌカイトの原産地、四国坂出の金山・国府台は直線20qで日常的に行き来できる範囲であった。 抜粋王子が岳南麓遺跡
まとめ |
旧石器時代の瀬戸内の様子が明らかにされました |
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旧石器時代の瀬戸内は陸化しており、半島経由の動物が生息し、同経由の旧石器人が丘陵上で宿営して狩りをしていた。 |
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吉備のあけぼの 旧石器時代〜縄文時代
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寒冷な気候が続いた約3万年前、草原が広がっていた現在の瀬戸内海あたりから中国山地にかけて、ナウマンゾウやオオツノシカといった獣を追う狩人たちが行き来していました。(鏡野町恩原遺跡、倉敷市王子が岳遺跡など)
しかし、温暖な気候となって海水が内陸に入り込み始める約1万年前になると、海辺では縄文土器を使う人々によって貝塚が作られるようになりました。(岡山市彦崎貝塚、笠岡市津雲貝塚など)
そして、約4千年前には、海水が退いた低地に人々が進出し、植物栽培などもしながら暮らしていたようです。
こうした人々が、やがて西方から伝えられた稲作を受け入れ、弥生文化の担い手となりました。 |
20縄文時代 (8000〜2300年前)
縄文時代の装身具
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硬玉製大珠は、新潟県の翡翠を使って作られた装身具です。
横に浅い窪みを入れた台形をしていて、上下に貫通する穴を開けています。東日本に多く見られますが、中国地方では他に類例のない貴重な出土品です。
腰飾りは、二股に分かれた鹿角を加工したもので、根元は鳥の頭部がかたどられています。先端を尖らせた形から刺突具(短剣)とも言われ、呪術者の持ち物と考えられています。 |
縄文コーナー
旧石器時代の岡山県
3万年前の遺跡
鏡野町恩原遺跡
倉敷市王子が岳遺跡 |
吉備のあけぼの※1
1万年前縄文人貝塚形成岡山市彦坂貝塚笠岡市津雲貝塚。4千年前植物栽培 |
倉敷市阿津走出遺跡の
縄文人骨 |
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縄文時代の石器・骨器 |
縄文時代の装身具※2
新潟県産硬玉製大珠
東日本型で西日本にはこれ一つだけ |
鹿角製腰飾り・鳥の頭・先端は刺突具・短剣呪術者用。鹿角製指輪・土板 |
石鍬・石匙・石錐・石鏃
縄文時代後期・晩期。
弥生早期にも通ずるか。 |
縄文時代の土器
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縄文時代後期(約4000年前)の前半には、線で囲んだ中を縄文で埋め、はみ出した部分を消す、磨消縄文という模様が流行しました。
しかし、後半になると、幅広い線を巡らすのみで、縄文は見られなくなります。
そして晩期(約3000年前)には、竹菅を押したり引いたり、粘土紐を貼り付けたような簡素な文様に変わっていきます。
この頃には壺形の土器が登場し、弥生時代へと引き継がれていきます。 |
貝塚
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貝塚は、縄文人が食べた後の貝殻を、ほかの不用な物と共に捨てた場所で、いわゆるゴミ捨て場と言われています。
しかし、貝殻と共に丁寧に葬られた人骨や犬の骨が見つかることから、単なるゴミ捨て場ではなかったようです。
最近では、自然の恵みに頼る縄文人が食料の残りかすや動物の骨などを集めてその霊をまつり、再生を祈った「祭りの場」であったとする考えもあります。
また、捨てられた貝の種類を調べることにより、当時の自然環境や食生活の一端を明らかにすることができます。 |
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30弥生時代
稲作のはじまり
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今から2千数百年前、九州地方から稲作の技術が伝えられました。
半田山南麓の岡山市津島遺跡では、川岸の低地を利用して、畔で小さく区切った水田か開かれました。こうした作業には石を磨いた道具で加工したで加工した、木製の鋤・鍬などの農具が使われました。
弥生時代の終わり頃には、土砂の堆積が進み、土地が平坦になったこともあって、操山北麓では数qにわたり水田が広る景観が形作られました。(百間川遺跡群)
しかし子の水田も、3世紀頃に起こった大規模な洪水によって厚い土砂の下に埋もれてしまいました。 |
弥生時代 (BC400〜AD300 2400年前〜1700前)
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およそ2300年前、大陸から米作りや金属器が伝わった。
人々はまず、耕作に適した川の近くにムラを築いた。県下では、百間川遺跡群や足守加茂遺跡などに見られるように、川と川の間の高まり、自然堤防上に竪穴住居や高床倉庫を建て、水田に引くための用水路が用川から引かれた。
今までの狩猟採集生活に加え、米を作り始めた人々は、方策を祈る祭りなどを通して団結を強め、村の発展を促してきた。
しかし、風水害を受けたり、新たな水田開発をめぐる争いによって、村を超える大きな力を持つ首長が出現した。 |
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31土器
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32道具
弥生時代の武器・工具
石鏃・石剣・石槍・鉄鏃・鉄剣・鉄斧・槍鉋・打製磨製石包丁・磨製石斧・鍬 |
石鏃・石剣・石槍・
打製磨製石包丁・磨製石斧・鉄斧 |
鉄鏃・鉄剣・槍鉋・磨製石斧 |
弥生時代の農具
鍬未成品 |
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33まつりの道具 銅鐸・銅剣は農業祭祀の象徴だった。
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弥生時代の集落では、豊作を祈るまつりが盛んに行われました。こうした祭りの象徴として用いられたのが銅鐸や銅剣です。
弥生土器の中には、木につるされた銅鐸?や、鳥に仮装した司祭、武器を持つ戦士を描いたものがあり、当時のまつりの様子を表したものと考えられています。
しかし、吉備高原では、弥生時代の終わり頃(約2千年前)にこうした祭りを終えたようで、岡山市高塚遺跡では集落の一画に埋められた銅鐸が見つかっています。
この頃から、首長を葬った墓のまつりが盛大に行われるようになり、それを象徴する器として、赤い塗料と複雑な文様で飾り立てた特殊器台・特殊壺が作り出されました。
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流水文銅鐸
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足守川の自然堤防に営まれた岡山市高塚遺跡は、弥生時代後期の集落です。平成元年の調査で、集落の端から銅鐸が見つかりました。
楕円形の穴に横倒しで埋められていたこの銅鐸は、高さ58cm幅40cmの大きさで、流水文と呼ばれる文様などから、
近畿地方で製作されたものと考えられています。
一緒に見つかった土器は、1世紀頃のもので、製作後まもなく埋められたことになります。 |
弥生時代の王墓
楯築遺跡
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足守川西岸の丘陵上に築かれた楯築遺跡は、全長約80mに復元される、弥生事態としては最大級の墳墓です。
直径60m程の円丘の前後に長方形の張り出しがついたかたちをしていて、墳丘の頂や斜面には名前の由来となった立石が見られます。
埋葬施設は、排水施設を設けた墓穴の中に木槨を組み立てて木棺を納めた特異な構造で、水銀朱が厚く敷かれた棺から鉄剣・玉などの副葬品が出土しました。
また、埋葬施設上に積み上げられた河原石に混じって、高さ1.1mもある特殊器台や弧状の文様を刻む弧帯石が出土しており、弥生時代の終わり頃に築かれた吉備の王墓と考えられます。 |
まつりのうつわ銅鐸・銅剣が祭りの
シンボル(信仰の対象)
2千年前に終わり、首長の祖先崇拝に変化 |
岡山市高塚遺跡の銅鐸出土状況 |
流水文銅鐸
足守川の自然堤防に囲まれた高塚遺跡は |
流水文銅鐸
(弥生後期)。近畿の流水文銅鐸と1世紀頃の土器が出土 |
弥生時代の王墓楯築遺跡 |
水銀朱の撒かれた石室 |
壺・器台と彩文土器 |
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35竪穴住居と弥生時代の食べ物
竪穴住居の復元模型百間川兼基遺跡/弥生中期2100年前/4本柱/床中央に煮炊き場の炉 |
内部にかまどができるまでは、外で煮炊きしていた。 |
昔の食物 弥生後期マガキ・ハマグリ・ツメタガイ・コシダカガンガラ・ |
アサリ・サルボウ・
ハイガイ・アカニシ |
吉備の古代のモモ桃古代の桃は梅粒大。邪霊を祓うとして鬼道で使用。
周囲に並べた。纏向遺跡より多く9千・2千個出土 |
昔の食べ物猪・鹿・米・大豆・桃 |
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39弥生〜奈良時代の土製品
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40古墳時代
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41運ばれた土器
内地系土器
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弥生時代の末から古墳時代の初頭にかけて(約1800年前)、東海から北部九州の間では、人と物が盛んに行き来するようになります。
瀬戸内海の中央に位置する吉備においても、岡山市津寺遺跡をはじめとする足守川流域の集落を中心に、九州・四国・山陰・近畿・東海・北陸などの土器かが持ち込まれる一方で、吉備の土器も各地へと運ばれて行きました。
こうした広範な交流は、様々な価値観や習俗を共通にする役割を果たしたに違いありません。
その結果、新たに創出された前方後円墳という墓制は瞬く間に各地へと広がり、倭国という統一的な政治体制の象徴となったのです。 |
高塚遺跡の朝鮮半島系土器
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高塚遺跡は、足守川の自然堤防上に営まれた古墳時代中期の集落跡です。
ここでは、吉備最古のカマドを持つ竪穴住居が見つかっており、格子目叩きを残す長胴の甕や平底の鉢、底に花弁状の孔をあけた甑など、
朝鮮半島のものとよく似た土器が出土しました。
この遺跡の近くには、吉備最大の造山古墳がありますが、その被葬者が渡来人を招き寄せたのかもしれません。 |
造山古墳の時代 古墳時代
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岡山市新庄にある造山古墳は、全長約350mの前方後円墳で、当時の大王墓に次ぐ規模を誇っています。
この古墳が築かれた古墳時代中頃(約1600年前)、朝鮮半島から様々な技術が伝えられました。
須恵器と呼ばれる灰色の焼き物もその一つで、総社市で見つかった奥ケ谷窯跡は吉備最古の須恵器窯です。
また、造山古墳にほど近い、岡山市高塚遺跡では、屋内にカマドを儲けた住居跡から朝鮮半島系の土器が沢山出土しました。
この地域にも渡来系の人々が数多く暮らしていたことは後の文献からも伺われ、その背景には造山古墳のような大首長の存在があったものと思われます。 |
運ばれた内地系土器1800年前東海〜北部九州で人・物の交流活発
定期航路・停泊地・岩陰祭祀・航路の支配者出現
明石の五色塚古墳もそんな支配者だと言われる
通行税を取っていた |
内地から運ばれた土器九州・四国・山陰・近畿・東海・北陸の土器
量が多く完形なのは舟で運搬したか |
朝鮮半島系土器古墳中期の高塚遺跡
吉備最古のカマド付住居
半島人のムラだった |
朝鮮半島系土器格子叩き目文胴長甕・
平底鉢・花弁状孔の甑
吉備最大の造山古墳は彼ら半島人の首長墓 |
造山古墳の時代L350m前方後円墳/ヤマトの大王墓に次ぐ大きさ/古墳時代1600年前 |
様々な技術・知識集団が渡来。須恵器・土木技術等 |
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44古墳と新しい技術 古墳時代300AD〜700AD
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古墳時代の遺跡は、人々が住んだ集落の跡と、古墳に大きく分けられる。
集落跡を発掘すると、弥生時代と変わらぬ竪穴住居や高床倉庫のほかに、豪族や首長の大きな高床の住居も発見されることがある。
そこからは、須恵器や土師器と呼ばれる土器をはじめ、木で作られた機織りの道具やスコップ・鍬などの農具や鉄製の工具あるいは、玉などの飾りも出土する。
古墳には埋葬された豪族が身に付けたり持っていた装身具や貴重な品物などが副葬され、当時の生活用具と文化をタイムカプセルとして伝える。
岡山県では、須恵器を焼いた窯跡や、鉄や塩を作るための炉跡が数多く発見されている。 |
土井遺跡の埴輪窯
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赤磐市の丘陵部にある土井遺跡では、岡山県では初めてとなる埴輪窯が2基見つかりました。いずれも斜面を掘り窪めて天井を掛けた半地下式の窯です。
2号窯は全長6.6m幅1.2mあります。窯の内部からは埴輪と共に、は磁器質陶棺の一部が見つかり、同一の窯で焼成されていたことが明らかとなりました。
また、窯の脇に設けられた平坦地からは、人物・動物・器財埴輪などを含む多量の埴輪が出土しています。 |
古墳と新しい技術 |
円筒埴輪と盾形埴輪 |
土井遺跡 埴輪窯跡斜面利用の登り窯
埴輪と土師質陶棺・人物・動物・器財埴輪出土 |
出土した埴輪 |
弥生時代の弧帯文を装飾したもの。呪術模様 |
らくがきやろね |
鹿埴輪 |
武人・巫女・鹿埴輪 |
盾持埴輪 |
古墳の埴輪は吉備地方が影響を与えたもの。
って、流行を作り文化として定着させた。
それを全国が同様に作り始めた。埴輪職人の大量移動。製土器技術の拡大 |
葺石は、土木建築上のって単に土砂の流れ止め
ない古墳もある。知識がかった |
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46吉備路の巨石墳
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備中国分寺の東側にあるこうもり塚古墳は、全長100mあまりの前方後円墳で、吉備においては古墳時代後期最大の古墳です。
後円部には、巨石を積み上げた横穴式石室が築かれていますが、全長19.4mというその大きさは全国有数の規模を誇ります。
石室内に置かれた家形石棺は近畿地方のものとよく似ていますが、20km程離れた井原市の石灰岩(浪形石)を用いて作られており、吉備の中枢を担った首長専用の棺として使われたようです。
石室内からは多量の須恵器と共に環頭大刀や鉄鏃、装飾付馬具、玉、耳環などが見つかっていた、6世紀後半に築かれたものと思われます。 |
吉備の塩づくり 弥生時代〜古墳時代
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吉備の南部では、弥生時代の中頃(約2千年前)から、土器に入れた海水を煮詰めて塩をつくる土器製塩が行われ、ました。始めは島嶼部で行われていた塩づくりも、弥生時代の終わり頃になると沿岸部に広がり、岡山市百間川原尾島遺跡や倉敷市上東遺跡では、塩づくりを行った炉の跡が見つかっています。
その後、下火になっていた吉備の塩づくりは、古墳時代の終わり頃になると再び盛んになり、瀬戸内市や玉野市の海岸では、厚く積もった製塩土器のかけらを見ることができます。
しかし、奈良時代になると鉄の鍋が広まったためか、土器を使った製塩は姿を消します。 |
こうもり塚古墳(L100m)前方後円墳古墳後期最大後円部巨石の横穴式石室
(L19.4m)全国有数の大きさ |
/家形石棺は石灰岩製で備中の首長墓専用の棺/環頭太刀・鉄鏃・装飾馬具・玉・耳環 6世紀後半 |
赤磐市、弥上古墳の
須恵器 |
吉備の塩づくり弥生中期(2千年前)〜古墳/原尾島・上東遺跡/
古墳時代終期頃〜奈良時代鉄鍋まで |
製塩土器 |
製塩土器
弥生〜古墳 |
古墳時代の護岸工事
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1988年(昭和63)秋、岡山市津寺遺跡で、約1,400年前(古墳時代後期)に造られた護岸使節が地表下1.4mから発見されました。
杉の皮などを挟みながらこんもりと盛り上がった土手に、アベキマの木を加工した背丈ほどの杭を6,00本以上も打ち込み、長さ3mばかりの護岸を築くという大掛かりな工事には、当時の優れた土木技術や知恵、そして莫大な労力が結集されています。この護岸施設は現在、きめの細かい砂で再び埋め戻され、保存されています。 |
古墳時代の護岸工事 |
古墳後期1400年前の護岸施設/背丈ほどの杭6000本打ち込み |
幅7〜17m全長82mの護岸:を形成 |
巨石の運搬や、
高度な製陶技術、
土木技術など、半島人の技術者集団が多数渡来し続けたことが伺える。 |
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49陶棺
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陶棺は、古墳時代後期から飛鳥時代にかけて使われた土製の棺です。
その多くは古墳の横穴式石室から見つかっています。陶棺はこれまで九州から東北地方にかけて約700基が出土しており、
岡山県で見つかった陶棺は全国出土数の約8割を占めています。県内でも特に美作地方に多く、その出土数は群を抜いています。 |
陶棺古墳後期〜飛鳥時代
横穴式石室から発見。
九州〜東北に700基出土 |
岡山県は全国の8割出土 |
吉備地方で生産して、全国配送をしていたようですね。 |
誰がどのようにして運び、
その対価は何だったんでしょう。ただ運んだのではなく、何かの礼奏や儀礼・行列を伴ったと考えるべきでしょう |
朝鮮人陶工の、高度な備前焼の技術はこの時代から全国に名をはせて |
いたようです。
当時すでに高級陶器だったんですね。驚き。
今も吉備の陶器はこのスタイルで作られています |
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50副葬品
威厳を示す
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古墳時代後期になると、金や銀で作られた品々が流行します。岡山でも、金銅や銀の薄板で作った中空の玉や、銅あるいは鉄の芯に金・銀を被せた耳環、金で作った垂飾などの装身具のほか、金銅や銀の薄板で作った大刀や馬の飾り金具が用いられました。
これらは、この地の有力者が自らの地位や身分を表す目的で、畿内や朝鮮半島などから入手したものと考えられています。 |
銅鏡これって和鏡?
各遺蹟と古墳出土 |
玉製品・耳環・子持勾玉 中・後期の古墳 |
威厳を示す豪華に飾った馬を馬丁が引いて歩いた |
刀装具・頭椎太刀 |
雲珠うす |
杏葉ぎょうよう |
金銅製太刀 |
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常設展示は以上です。以下は、ミニ特別展 「手焙り型土器 と不思議な形をした土器」展 です。
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110手焙り形土器
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弥生時代後期〜古墳時代前期(2c〜3c)の謎の器。
鉢の上に覆いを付けた形が手あぶりに似ていることから名づけられました。 本当の使途は不明です。
分布域は関東から九州にかけてですが、とりわけ滋賀県や大阪府が多く、岡山県も150点見つかっています。
出土地は旭川・足守川下流域で、ここは吉備の中枢域で、多くの遺跡から出土しています。
手焙り形土器は、滋賀里式土器に覆いを付けた形で※、生活用具ではなく、祭祀具と考えられています。
最も古い土器は、大阪府で見つかっており、ここから広がっていく間にさまざまに変化していったようです。
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※「滋賀里式土器に覆いを付けた形」の出展が分からなくなりました。 |
その文章によると、滋賀県からお大阪付近に広がり、やがて、西日本から東海まで広がったとされていた |
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120謎の土器 (弥生〜古墳) 手焙り形土器以外にも、使用目的のわからない土器が見つかっています。
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手焙り型土器のほかにも、どのような目的で作られたのかわからない土器はたくさん見つかっています。
ここでは弥生時代から古墳時代にかけて使われた土器の中から、不思議な形をしたものを集めてみました。
土管のような形の土器、口が二つもある土器、袋のような形をした土器など、形や大きさも様々です。
当時の人々がどのような想いでこうした土器を作ったのか、想像してみるのも楽しいものです。
ひっよとすると機能性や合理性ばかりを追及する現代の私たちには思いもつかないような知恵や考え方が、そこに秘められているかもしれません。 |
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