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  縄文を旅する4  南の縄文  沖縄〜九州04  2014.02.06(木)


  上野原縄文の森 上野原遺跡 鹿児島県霧島市国分川内1137−1   0995-65-8787  :月曜休館(休日の時は翌日)

      施設全体を「縄文の森」と呼称し、各施設を展示館遺跡などと区別するようです


    設立目的 文化財保存活用事業

交通   レンタカー以外に便利なものはありません。 空港から40分〜1時間
見所   9500年前の定住生活の集落を復元展示。
  南九州の広大な火山地帯では、本州東日本に先んじて、
縄文早期に、他に類例を見ない形や文様の高度な土器文化が繁栄した事。
感想   一言で言ってオーパーツの様な文化です。
    スタッフの皆さんは大変親切でした。空港から随分離れた遠隔地ですが、何があっても訪れたい施設です。
 

  目次

 問題
南の縄文文化の特徴
鬼界カルデラの噴火年代は
ドーム型竪穴住居は縄文人には作れない

 地学
00九州のカルデラ火山の地図と噴火年代

 考古
01上野原縄文の森展示館
02 9,500年前の定住生活
02a南九州の土器編年
 土器の発達段階
04 9,500年前の石器
05ジオラマ
08 7,500年前(文化の多様化)

 対で埋められた壺形土器は
 -上野原遺跡の神秘-

10火山と縄文文化
11 13,000年前 縄文草創期 
 栫ノ原遺跡
 丸ノミ石斧と隆帯文土器の謎
12 10,000年前
 集落の発達と独特の土器文化
13 7,500年前
 -華やかな土器文化と精神世界-
 特異な壺形土器
14 6,300年前
 鬼界カルデラの大噴火
15 6,000年前
 -巨大噴火の影響-
16 4,000年前
 -多彩な交流-
17 3,000年前
 -農耕社会の始まり-

41奄美諸島の縄文文化
45広範なつながり-交易-
 -縄文の交易-
51土器の歴史
53弥生時代以降の土器

54弥生時代
55古墳時代
56飛鳥時代以降
57鎌倉・室町・戦国時代以降

61奄美諸島の弥生時代以降
71河口コレクション
 高橋貝塚出土品

81上野原遺跡 復元集落 
91埋蔵文化財センター
 上野原遺跡のまとめ 私見
 
 

    南の縄文文化の特徴
    他地域では大変狭い範囲で独自の文化が発達したが、南九州では大変な広範囲で同一文化である。

例えば、鹿児島と宮崎はほぼ同じ文化圏に属し、高千穂峡地域は交通路から熊本文化圏に属す。
奄美諸島・沖縄本島までは、ほぼ同一文化だが、
それ以南の宮古・八重山は台湾と同じ南方文化圏に属する。

     大変高度な文化が早くから形成され、もし火山災害がなかったら、日本の縄文時代が変わっていたのではないかと思います。


 重要問題
   @鬼界カルデラの噴火年代は7300年前なのか、6300年前か?
    これについて詳細を述べたHP

放射性炭素年代測定で暦年補正をすると7300年前だといっている。
Wikipeda 02 海上保安庁 地学雑誌 化石7 上野原縄文の森 土木学会 群馬大学 NHKオンライン

※上野原縄文の森展示館では鬼界カルデラの噴火を6300年前として展示している。多くの南九州の博物館も同じである。

これらの博物館では、全ての年代表示が1000年も新しく表記されているのだろうか、それとも、噴火年代だけだろうか。
この部分が難解な問題です。

   Aドーム型竪穴住居は縄文人には作れない問題
    ドーム型住居は、高所作業車がなければ作れない、縄文人には建設不可能な、竪穴住居だといわれています。
本当は一般的な竪穴住居だったようです。
9500年も前で柱穴が残らず、東京で偉いセンセイが設計されたそうですが机上で設計するとこうなるのでしょうか。
(東京国立文化財研究所)設計 略歴

    鬼界カルデラの噴火は7300年前です。 上野原の竪穴住居は普通の木組みのものです。 いろいろ難しいことがあるんですね。
    しかし、スンダランドから来た南の縄文人たちの高い文化は南九州で花開き、その後、全国へ拡散していったのは事実です。
  
 

 00九州のカルデラ火山の地図と噴火年代

  九州は、フィリピン海プレートが沈み込み、摩擦で溶けた海底が噴き出し、その上に火山列(火山フロント)を形成する。
  この噴出物によって、九州島ができ、浮かんでいるのです。

  九州の地下ではプレート移動による膨大なエネルギーが溜まりやすく、激烈な火山活動が起きやすい条件があります。
  それがカルデラと巨大噴火の原因のようです。 で、なぜ熱量が蓄積するのかだって? ・・・・・

  火砕流 は、山体内の高温高圧下でガスと一体になった岩石を一気に噴出すること。
  水平方向に広がる場合と、垂直に煙突状に上昇し、やがて真下に落ちてくる場合とがある。ここでは後者ですね。
Aniakchak-caldera_alaskawikipediaより
鬼界カルデラ海底火山によく似ていますね
カルデラ
 画像拝借
千島列島温禰古丹島

マグマ溜まりから溶岩を噴き出し、
空洞になった山体が崩壊して滑り落ち、広い陥没地形ができる
北海道九州に多い
カルデラ噴火 画像拝借
九州のカルデラ噴火
画像文書拝借引用噴火時期はちょっとあやふや。すみません
南九州のカルデラ
画像拝借霧島火山帯は鹿児島地溝火山フロントも有る
九州中南部のカルデラ
図表拝借
鹿児島のカルデラ火山

図表拝借
姶良カルデラ
2万5千年前 図表拝借
鹿児島湾は姶良、阿多北・南の3つのカルデラと外輪山で作られている
図表拝借姶良カルデラの火山域
超巨大噴火を起こして
山体は陥没。
大量の火山灰や火砕流シラスを放出し、南九州一帯に分厚く堆積。
図表拝借火砕流シラスの到達範囲。時速100qでこんな広範囲に到達。
シラスは100mも堆積。
南九州一帯は崩れやすい火山灰台地だ。
鬼界カルデラ
7300年前 図表拝借火山やカルデラが陸上にあるとは限らない。
鬼界カルデラは海底火山
海中で突如爆発噴火し、
図表拝借
噴煙と溶岩を海中に放出する。

そして、噴火の終わりには、格段の爆発を起こし、海底から膨大な量の火砕流を放出する。
図表拝借
高温高圧のガスとともに噴き出す岩屑・火山灰は海水に触れて大爆発し、

きのこ雲をあげながら海面を走り、超高速で一挙に拡大し押し寄せる。
恐ろしい光景ですね。
って想像

  こんなことを考えていると、考古をやめて、自然科学の方に乗り換えようかと思ってしまいます。(笑)






 01上野原縄文の森展示館
     この朝、2月というのに初夏の気温で半袖生活の那覇から、気温5℃の鹿児島空港に降り立ち、震え上がりました。
     館のスタッフの皆さんは大変親切でした。心から感謝しています。
上野原縄文の森展示館工業団地の一部です 大変立派な建物で、県の力の入れようがわかります 常設展示室創設当初想像された竪穴住居をイメージしています。 現代から過去へのタイムトラベル
9500年前の世界の入口 ここに縄文早期の上野原があります
足元はジオラマになっています 9500年前のムラ ここに実に特異な世界が広がります  上野原遺跡は,南に鹿児島湾や桜島,北に霧島連山を望む,鹿児島県霧島市東部の標高約250mの台地上にあります。 ここは、姶良カルデラの噴出物でできた
シラス(白砂)台地の上です。


 02 9,500年前の定住生活 (縄文早期12,000-7,000年前)

鹿児島は全て火山地帯。見渡す限りカルデラの外輪山とカルデラ湖と火山が続く。海の中まで火山です。
ここでは、住居跡と高度な土器に注目です
   
 南九州は 原始の森が火山噴火・災害によって開墾され、氷河時代の針葉樹林にとって変わり、果実の成る落葉広葉樹が繁茂し、
  動物や植物が豊富で、安定した食料供給が期待でき、定住生活可能な楽園となっていました。
   
  03 土器 縄文早期にこれほど完成度の高い土器があっただろうか。 この時期、他の遺跡は尖底土器ぐらいです。
  口縁部の丸・四角・レモン形には、この地域独特の必要性があったのか、それともデザイナーの独創性か。
堅果類のあく抜きに便利な円筒土器がいきなり登場しています。長い土器製作の経験からこの最適な形になったんですね。
   
発見当時 最古の定住跡だったが、その後、指宿市水迫遺跡1万5000年前 南さつま市 栫ノ遺跡1万2000年前などが発見されている。


コナラ・ブナなどに囲まれた豊な森は、上野原ムラの人々の生活に多くの恵みをもたらし、本格的な定住生活が始まった。
9,500年前の集落 全て縄文時代
早期前半の土器まとまり毎の黒枠は私が付けました
南方系海の民の象徴
貝殻文が特徴です。
口縁部の型は
○形□形レモン形
円形・方形・レモン形のくちのかたち パネル展示左
早期前半前葉
パネル展示中央
早期前半中葉
パネル展示右
早期前半後葉前平式、吉田式、
石坂式土器
下段実物展示左
早期前半前葉
吉田式土器
下段実物展示中央
早期前半中葉
吉田式、前平式土器
貝殻条痕文 貝殻条痕文+貝殻刺突文
貝殻押し引き文
貝殻綾杉文
土器底部の穴 貝殻文は海洋民族の象徴とされます。

平底土器も特徴で、

尖底土器文化より随分優れた文化でした



  02a南九州の土器編年 引用 縄文の風 かごしま考古ガイダンス 第39回 標識遺跡 〜博士と中学生の麻衣さんの会話〜
縄文早期 縄文前期〜後期 縄文後期〜晩期 縄文晩期〜弥生時代



  土器の発達段階

北海道では 日高山脈をはさんで東と西では土器文化が違いました。
縄文時代早期の土器 札幌以西は尖底貝殻文土器 道央以東は平底貝殻文土器
土器の発達は 無文尖底土器から始まり、決まったパターンを通ります。すると、平底土器は、それ以前に尖底土器の時代があったことになる。
つまり、 道央以東の方が土器文化が高い。進んでいる。歴史が深いということです。
同じことが 上野原の土器にも当てはまります。
  縄文早期のこのバリエーションの多さ。高い土器技術は、どこかで何千年かの土器製作の歴史があった上でできあがった完成形です。
さて、彼らはどこでこの技術を培ったのでしょう。



 04 9,500年前の石器
     集石による調理は大変です。共同作業。みんなで食事を作っていたのでしょうか。 集石による蒸し料理は南方系民族の料理です。
     連結土坑はスモーク調理の痕跡。保存食作りは必須でした。
ジオラマとともに展示この石器は男性用・女性用の副葬品である。
土壙から出土か
石鏃 石斧 礫器 磨石と石皿 竪穴住居 連結土坑
集石遺構 

 05 ジオラマ  9500年前の秋の日の上野原ムラを再現した。気候は現在より寒冷で、植物相も、ブナ林の生い茂る、寒冷地仕様です。
ブナ林は現在の遺跡周囲にはない落葉広葉樹。 9500年前の桜島の黄色い火山灰が堆積していたことから年代が特定された。 再現されている、
村のストーリー
土器作り、など チャンバラごっこ
連結土坑で燻製作りなど
住居を作っている



 08 7,500年前(縄文早期中頃) 文化の多様化  土器埋納の祭祀跡が発見された。 ―上野原遺跡ー

   気候の温暖化により照葉樹林が広がり、シイやカシの実が豊富で動物も増え、食生活にゆとりができ、文化が発達し、道具や装身具も多くなった。
   そして、村の指導者や支配者と、祭祀を司る文化も現れ、独特な祭祀跡を残した。

   ここでは、土器埋納祭祀の痕跡と 壺形土器の出現 さまざまな祭祀痕が重要

上野原の土器群7,500年前には
多様な土器や石器を使う日常的空間と
まつりなどを行った神秘的空間が存在した
塞ノ神式、平栫式土器
土器・破片・集石・石皿・磨石・装身具環状石斧
塞ノ神式、平栫式土器
石斧・石匙・石鏃・石槍
石錐・掻器・礫器
双子土器
壺形・方形・条痕文土器
上野原の祭祀土器文様の複雑化・装身具の増加・祭祀の発達
土偶・土製耳飾・壺形土器
石斧埋納遺構
今も斧を神聖視する
一対の壺型土器の謎 上野原は桜島の影響大四角と丸の口縁の壺形土器を中心に、土器や破片を埋めてモニュメント化した聖域が見つかった 深鉢形土器縄文特有の文様は九州も同じ。 上野原遺跡 壺形土器使用痕のある土器 壺形土器壺形土器が7500年前に出土するのは珍しい。 壺形土器全国的にも九州南部だけとのことである。
吊り下げ式鉢形土器上野原遺跡では全国の縄文文化に先駆けて先進的な土器文化が開花していたようだ。 線刻土器直線や曲線 土製耳飾り木のトゲなどで穴をあけ、最初は小さな、、が、重みで穴が広がり、巨大化
下唇の穴よりましか
異形土製品
三角形の分銅形
用途不明
埋納土器の埋納状況この壺形土器の、埋納の仕方といい 対で埋納の壺形土器弥生土器に類似している点といい、、大変珍しいのです。
九州最古の土偶 石製垂飾 異形石器 01 02 03 04旧石器時代から同形が長期間全国から出土。
南方系の祭祀具だったようだ。
集石遺構パラオなどで今もみられる調理法。
しかし、ここではちょっと違う。
平たい石の集石遺構上野原の人々がスンダランドや台湾から来たことがわかる 左三番目の異形石器
 大きさと言いおどろおどろしい形と言い
 どんな通過儀礼をしていたんだろう。
 恐ろしくなります。

 対で埋められた壺形土器は(通称、「双子壺」)  (私見 双子ではなく、男女を表しているんじゃない?)

 台地の最も高い場所から
   円と方形の口縁部を持ち、完全な形で穴に埋めてあった、貴重な遺物です。
   その周囲には、それを中心に、斜めに埋められた壺形や鉢形の土器が10個見つかっています。

   さらに、これらを取り囲むように、日常使われていたおびただしい土器片や、石器が環状に埋められていましたしました。
   彼らのこころのよりどころ。まるで、ここを中心に世界に広がって行こう。ってな気持ちを表したものみたいな気がします。


 普通、壺形土器は、液体などを貯蔵する容器と考えられています。全国的には弥生時代に普及します。
   しかし、上野原遺跡では約7,500 年前の縄文時代早期の地層から出土しています。5000年も早い文化です。オーパーツですよね。

   また、祭りや儀式に使われたとの考え方が一般的です。  埋納した後に聖地的な何かモニュメントがあったのでしょう。
   草も生えて分からなくなるから。
   ここでは、特殊な祭祀が発達していたことに着目







 10火山と縄文文化 (私は、火山は縄文文化を育んだ大きな原動力だと、思っています。)

 11 13,000年前 縄文草創期 (13,000〜10,000)

   土器と弓矢の出現は人々の生活に大きな変化をもたらした ―縄文文化の始まり―  
   氷河期終了後の南九州は寒冷で落葉広葉樹林が広がる豊穣の大地だった。
   土器作りや弓矢の技術を持つ人々がやってきて暮らしていた。 
丸ノミ石斧伴出する隆帯文土器 丸ノミ石斧装着例縄文文化は海を越えて
   栫ノ原遺跡 【かこいのはらいせき】

   草創期の日本全体に数万人しかいない時期に南九州では沢山の遺跡が残っています
   どれほど多くの人々が南海からやってきたのでしょうか。

   この時期のここでは隆帯文土器丸ノミ石斧が特に重要
隆帯文土器 
引用拝借加世田市志風頭遺跡 引用拝借種子島奥ノ仁田遺跡出土
 一万年間続いた縄文時代。温暖な気候と度重なる火山噴火により、独特な文化が形成された。
-南の縄文文化-
縄文草創期の遺跡 草創期に沢山の遺跡
種子島には丸ノミ石斧製作工房があった
鹿児島県の
丸ノミ石斧の分布丸ノミ石斧スンダランドでシャコガイの貝斧から発達した
丸ノミ石斧同時代の隆帯文土器既に定住し高い文化を形成していた 隆帯文土器と
丸ノミ石斧伴って出土する石器と土器
隆帯文土器丸木舟海洋民は既にこのような文化も持ち合わせていたのか→ 石皿・磨石・打製石鏃・大型打製石槍
・丸ノミ石斧
丸ノミ石斧と石皿・磨石定住しなければ生まれない道具の数々。や、土器製造と弓矢と高い航海術。→ シャコガイのないところでは硬い石で磨製丸ノミ石斧製作 大型石槍は関東の御子柴型。埋納遺構

石槍・石鏃・石皿と磨石は男女別の副葬品
 縄文草創期の南九州では、
 既にその後の一万年間の縄文文化の全体像が、
垣間見えていると思います。


   丸ノミ石斧と隆帯文土器の謎 -旧石器時代からの高度な文化-

 隆帯文土器
「粘土ひもを帯状に貼り付け、貝殻や指や爪で押し形をつけた土器」。は隆起線文土器ですが、ここは特に幅広なので隆帯文と呼ばれます。
隆帯文土器は種子島以南では発見されず、北からの伝播のようだ。(北から来た縄文人が持ち込んだ文化ということです。)
 
種子島は 旧石器時代に本土から来て石器を作っていた。立切遺跡。横峯遺跡。縄文草創期には、南方系石器の製作工房となっていた。奥ノ仁田遺跡
丸ノミ石斧、石鏃、石匙などを製作。まるで、南方からの移住者に、これからの新生活の必需品を提供するホームセンターのようだ。
 
しかし、 種子島製の丸ノミ石斧に伴出するのは本土系の隆帯文土器。南の石器文化と北の土器文化がここで出会って融合したのか。
集石調理文化は土器を伴わないことがある。その時南方人はまだ土器を知らなかったのか。 謎です。
太平洋沿岸の神奈川県横浜市都筑区では1万5000年前 (12,000年前) の琉起線文土器が出土している。花見山遺跡
 
九州本土 の半島経由の旧石器人も縄文人も、海洋民族で、陸伝い航法で九州を南下、し大隅諸島を漁労航海し、
種子島に良い石を見つけて石器製作工房を運営するなど、高い技術を持っていたことを知った。 九州本土と種子島の間に石器の道があった。
     
  とにかく 南方系海洋民は、種子島を経由すると、新生活に必要な石器や土器製作技術を獲得することができたのでした。


 12 10,000年前 縄文前期前葉 (10,000〜7,500年前)
     ―集落の発達と独特の土器文化―

     竪穴住居、連結土坑、集石遺構などを伴う集落が出現。九州南部独特の貝殻文円筒土器が生み出された。

     貝殻文土器、貝殻文円筒土器、円筒形貝殻文土器など呼び方もいろいろですが同じものをさしています。

 縄文早期の土器形式
遺跡分布図 貝殻文円筒土器の
広範な分布
縄文早期前半
貝殻文円筒土器、又は
円筒形貝殻文土器
円筒土器は東北・北海道と同じで、長時間の煮込みやあく抜きのために使用されるものです。 貝殻文円筒土器と
角筒土器北東北・南北海道では前期後半から出現します。5500〜4500年前まで使用されます。↓
土器文様の移り変わり 「軽石アート」と表記火皿と火錐棒押さえと 集落での暮らし

竪穴住居、
燻製作り用の連結土坑、蒸し焼き料理用の集石遺構
貝殻文円筒土器
 九州南部特有の土器

 口縁部の形が円形・方形・レモン形の円筒土器に、
二枚貝の殻でさまざまに文様がつけられた。
九州と東北の
   円筒土器文化


 早期前葉。南九州。寒冷期の落葉広葉樹林で堅果類を食料とした。

 前期後葉。北東北。温暖化と火山噴火後。やはり堅果類の調理に使用。
 ↑5000年を隔てた二つの文化の間に関連性はないにしても、
 必要が、類似した文化を生み出したようです。


 13 7,500年前   縄文早期後葉(7,500〜6,000年前)   華やかな文様や多様な形の土器に見る豊かさ
      ―華やかな土器文化と精神世界―


    上野原遺跡 では、7500年前の双子壺埋納遺構出土したが、

    福山城ヶ尾遺跡 では
      特異な壺形土器 塞ノ神(せのかん)式土器 と名付けた 壺形土器3点と鉢形土器1点 を出土。
      火にかけた形跡はあるものの焦げ付きはなく、使用目的を異にした土器。      引用鹿児島ガイダンス38

精神世界を表現する、複雑華麗で多様な形の土器・土偶・装飾品 壺形土器の謎 円筒土器上野原遺跡 特異な壺形土器熟練した職人の作品のような薄さと形状。
特異な形
南九州に突如現れた壺形土器。
台湾東部によく似た、人が肩を張ったような、形の石像はある。
甕形土器に似た深鉢
塞ノ神せのかん式土器
煮炊きに使うと火の回りが非常に早いかたち。 弥生時代のものがオーパーツのように出現し突如消滅した。 他地域では鉢形土器しかなかったが、ここでは多様な土器を使用した。  ←丸い陶片は埋葬跡から出てくるし、
 三角柱の石or土製品も頻繁に出土する祭祀具とされている。

 これら中部東北を中心に出土する祭祀具は、既に上野原にその文化があったんですね。



  鬼界カルデラの大噴火
 14 6,300年前  縄文早期末葉  (補正7,300年前)

九州南部に大きな影響を与えた。ばかりでなく、全国の縄文文化が大打撃を受けた。
また、この時全国に降り注いだ火山灰はアカホヤ火山灰として年代特定の指標となっている。
既に調べたように鬼界カルデラの噴火は7,300年前のことです。補正しない年代を使っています。
しかし、全ての年代が補正されていないのか、噴火だけなのか真相がわからない。

縄文前期〜後期の土器形式

噴火前の土器
火砕流に埋設された樹木の痕跡鬼界カルデラの火災流は百キロ離れた樹木を根こそぎ吹き飛ばした
噴火後の土器
深鉢と小型土器 耳飾りは語るって何も見えません。
写真へたです
すみません
鉢形土器

  鬼界カルデラの大噴火は
    南九州を一木一草のない無人の地にし、九州北部・四国・中国地方では降灰によって動植物に甚大な被害を与え、
    生き延びた人々もやがてこの地を離れるか、餓死するかのいずれかの深刻な飢餓に陥った。

  この大災害を契機に
    気候や植生が変化し、食料不足により、沢山の縄文人が列島を離れたとされている。ちょっと間違ってるけど面白いビデオです。

  一方、南方系民族は、
    四国南端足摺岬や紀伊半島南部。知多半島、伊豆半島、房総半島。伊豆諸島。など、漂流して陸地にたどり着いた人々もいたという。

  鬼界カルデラの火砕流は、
    噴火口から巨大な煙突状に3万m上空にまで達し、そのまま地上に崩れ、落下した。
    広範囲に広がって行ったと考えられている。
    高温の落下物は海水と触れ合って爆発し、海面をワックスの付いた廊下を滑るように何の抵抗もなく時速100qで拡散した。

  メモ
    三度の爆発と 数十メートルを超える巨大津波  鹿児島湾の中はもっと高い位置まで押し流されただろう。
    参考リンク  01 02 03 04 05 06 07 08    09 10   鬼界カルデラの被害について


 15 6,000年前  縄文前期初頭 ―巨大噴火の影響―

  巨大火砕流と降灰で無人になった南九州も、20〜30年で自然の回復はかなり進み、草原⇒灌木⇒樹林⇒動物の繁殖
  やがて、半島系縄文人がやってきて、朝鮮半島から沖縄諸島、全国共通の尖底・平底土器文化となりました。

  鬼界カルデラのすぐそばの屋久島でも猿や鹿が生き残って復活しています。きっと百年もせぬうちに復活したでしょう。

  5000年前、中九州の曽畑式・轟式土器文化人が四国西部、五島列島、奄美大島、沖縄本島まで大挙移動した。 
  何かの災害か、気候変動や飢饉があったのかもしれない。
曽畑式土器分布範囲

半島経由の北方系がやってきた。貝塚文化人 スンダランド系南方文化は消滅。 南からは人が来なくなっていた。  噴火前とは土器形式が全く異なり、南九州の高い文化は消滅した。

 南九州の高い文化を受け継いだ文化は日本のどこかに残ってはいないだろうか。


 16 4,000年前 縄文後期初頭 気候寒冷化   遺物から見る交流の広がり  -多彩な交流-

  気候変動・天候不順による食料不足が深刻化。人々が丸木舟で移動し始めた。
  3500年前南九州の市来式土器文化人が、四国西部、五島列島、奄美大島、沖縄本島まで大挙移動

  ※写真中の大型注口土器は関東地方の影響を受け近畿地方で作られたものです。
市来式土器分布範囲
縄文後期〜晩期
寒冷化による天候異変が続き、ために 移動や交易が活発化
-水迫遺跡住居跡-
鹿児島の貝塚分布貝塚祭祀を伴う文化が盛んになる 縄文後期の多様な土器 縄文の色彩
彩色土器
注口土器・深鉢・鉢形土器巨大注口土器は何の祭祀に使ったのか。
抜歯か?
台付皿形土器の皿部 高度に発達した
多様な土器・石器
多様な石器 美しい土器 硬く締まった焼きの→ 縄文土器 土器製作の台クジラの椎骨は驚きです

   4000年前の山ノ中遺跡  縄文晩期の上野原


 17 3,000年前 稲作などの始まりは南九州の人々の生活にどのような変化をもたらしたか
     ―農耕社会の始まり―  縄文晩期=弥生時代初頭

   縄文晩期の南九州では、すでに農耕社会に突入していた

   最近では、
    縄文時代は1万6,500年前〜3,000年前として取り扱われ、歴博の稲作開始3000年前の発表は
    時代区分の変更宣言を意味していたのでした。
 縄文晩期〜弥生時代の土器形式
農耕社会の始まり水田や農耕具の発見 埋甕=甕棺出土
水田農耕遺構が増加
長江下流域や半島から、戦乱と寒冷化による逃亡者や移民植民が多数押し寄せた
土器形状が一変半島式の弥生式土器や 農耕具としての打製石斧・土掘り具・穂摘み具の増加 弥生の勾玉や管玉の製造が始まり、縄文人を農奴とした半島人の支配がわかる。縄文人は半島へ奴隷に売られただろうよ




 41奄美諸島縄文文化  奄美諸島では九州と密接に交流しながら独特の文化が築かれた。


      まとめ ―九州と奄美諸島の関係―    引用

旧石器時代   (トカラ列島はどちらの文化圏でもない)
大隅諸島   西南日本型旧石器文化圏 (ナイフ形石器・細石刃文化) 立切遺跡・横峯遺跡 3万年前
奄美諸島   琉球日本型旧石器文化圏 (不定形剥片石器文化) 奄美大島土浜ヤーヤ遺跡 2.5万年前
  琉球日本型旧石器文化圏 (台形石器群) 徳之島天城旧石器群 2.5万年前

新石器時代  
大隅諸島   南九州と同じ縄文文化圏
 トカラ列島   室川下層式土器文化圏 (トカラ列島については調査研究報告がほとんどない。道の島としてのみ)
奄美諸島   南島式土器文化圏 6000年前中九州の曽畑式土器文化人が、3000年前南九州の市来式土器文化人が沢山移住した。


奄美諸島の 縄文時代(奄美・沖縄はほぼ同一文化圏でした。) 
    
貝塚時 代前I期(早期前葉)7,000〜6,500年前
海岸地帯に住み、遺跡数は少なく、大型磨製石斧と「南島爪形文土器」を使用していた。サンゴ礁域の漁労採集生活

この時期に鬼界カルデラが噴火し南九州縄文文化壊滅。 噴火後に九州は縄文前期に突入し、
広域に分布する土器型式(轟式土器・曽畑式土器)が誕生した。

この土器文化は南九州地域の環境回復を待った後、黒潮本流を越えて沖縄本島にまで南下した(これは次の時代に記述さる↓)
 
貝塚時 代前II期(早期中葉)6,500〜4,500年前
海岸と台地崖下に住み、サンゴ礁域での漁労採集。九州本土の縄文前期の「曾畑式土器」が沖縄本島にまで南下↑。
「室川下層式」と呼ばれる南島特有の土器型式が誕生した。
 
貝塚時 代前III期(早期後葉)4,500〜3,200年前
台地崖下と海浜に住み、遺跡数は少ない。海産の貝類を食糧にした。南島特有の土器型式 「面縄前庭式」が成立した。
 
貝塚時 代前IV期(前期)3,200〜2,700年前
台地崖下と海浜に住まい、ほとんどの島々に人間の居住が認められ、人口の増加、移住、居住活動が活発に展開された
貝塚規模や遺物内容が増加し、定住生活が一層進んだ。

海産の貝や魚のほかに、陸産のマイマイ類も食糧にし(食料不足)、イノシシの骨・牙を道具や装身具に利用していた。
九州本土から縄文後期の「市来式土器」が沖縄本島まで南下。 南島式土器が最盛期を迎え、伊波式、荻堂式、大山式などが成立した。

3000年前、貝交易が始まった。が、貝は奄美諸島以南のため、奄美は通過点にすぎなかった。
 
貝塚時 代前V期(中期)2,700〜2,200年前
  台地縁辺部で生活し、竪穴式、石組み式などの住居を構築していた。 
貝塚から貝や骨類が減少。根栽類を栽培したかもと言われているが、基本的に人口増加に対し食料自給の限界だったでしょう。

石皿、磨石が増加し、植物質食糧が増加した。南島式土器も終末を迎え、「宇佐浜式」が成立した。
動物質食料の減少。リーフ内の海産資源の枯渇。飢餓が発生したのか。


 41奄美諸島の縄文文化
奄美諸島の縄文文化 貝や骨で装身具や、生活用具を作った。
底の丸い、直線曲線の沈線文土器が使われた
鹿児島県の離島の遺跡分布 奄美諸島の縄文文化奄美の自然環境は現在と同様で温暖だった 奄美諸島の自然環境 奄美諸島の縄文遺跡砂丘や洞窟に居住し、縄文終末期に台地に住み始めた。これは、農業の開始だろうか。
奄美諸島のくらし
奄美諸島の竪穴住居豊な生活の根拠はない

土器形式名が不明
奄美の縄文時代の暮らしジオラマ左端 上から石鏃 石斧 研磨具(砥石か) 利器スイジガイはしめ飾りのような魔除けだった 真珠層の貝殻は装身具や祭祀具を作るのに適していた 貝匙真珠層が美しく、広く北海道までも交易した。
大変重要な交易品
縄文時代から作っていた

貝斧(破損している)・垂飾・腕輪・かんざし・骨製針

縄文の腕輪は二枚貝製
 弥生のとは違う
装身具 腕輪 貝玉 垂飾
     かんざし
 中央に貝札の初期型
 北海道からも出土する
漁網修理用針 貝殻の錘はイノーの漁では光って魚を脅すため 竹製針。竹や骨は石器の代わりにナイフなどの道具となった。
4,000年前の深鉢 彩色注口土器 関東の影響を受け近畿かその周辺で作られた土器 3500年前台付皿形土器  那覇市の沖縄県立美術館博物館では、

 土器や石器についてのもっと詳しい展示がなされている。
 撮影禁止でお伝えできませんが。
 残念です。



 45広範なつながり-交易-  1000qを超える物・技術・情報の交流ネットワークを形成していた  -縄文の交易-

鹿児島の土器は山陰から沖縄まで分布しており、 鹿児島では東日本、四国北九州南西諸島の土器が出土 黒曜石、ヒスイ、翡翠大珠、喜念T式土器
出土、原産地
注口土器、平栫式、船元式、松ノ木式、市来式土器   縄文の交易は国内にとどまらず、

中国の三足青銅器は三足土器として出土するし、
異形石器といわれる台湾の龍の石製品も各地から。

中国の刀子も、同じ鉄製品や石製品で出土する。

 とても頻繁な往来や、渡来があったものとしか考えられません。

  黒曜石 佐賀県腰岳 大分県姫島  ヒスイ大珠西之表市 ヒスイ原石新潟県糸魚川市

  喜念T式土器 金峰町上水流(かみずる)遺跡  与論町上城遺跡  平栫式(ひらがこいしき)土器

   鳥取県上福万遺跡 船元式土器鹿屋市榎木原遺跡 岡山県里木貝塚   市来式土器沖縄県浦添貝塚

  注口土器加治木町干迫遺跡  松ノ木式土器鹿児島市山ノ中遺跡 高知県松ノ木遺跡




 51土器の歴史

      縄文草創期・早期(13千〜6千年前の7千年間)の長期間を通じて高い文化を築いてきた、
      南方由来の南九州人は、鬼界カルデラの火砕流で消滅し、
      あるいは、わずかに生き残っていたとしても、もう再度文化を構成するだけの力もなく、
      避難先で、他の部族に飲み込まれてしまったのかもしれない。

      噴火後の、縄文前期からは半島経由モンゴロイドの文化が始まることになった。

縄文草創期と早期の長さは大変な時間だ 旧石器・縄文時代のコーナー 種子島の3万年前の旧石器時代の石器発見の地層標本 縄文時代の代表的
土器
旧石器・縄文の石器
旧石器・縄文の石器 旧石器・縄文の石器 種子島で姶良カルデラの火山灰層の下から3万年前の石器が発見され、旧石器文化の存在を確認
中種子町立切遺跡
何十mもの火山灰層の下を掘れなかった 代表的遺跡の発掘

姶良カルデラは鹿児島湾内の北部地域がこれです
代表的縄文土器 旧石器の
石刃技法には、樺太経由と半島経由の二種があったと記憶

鹿児島は半島式か

南方型があったかなぁ?

 53弥生時代以降の土器
 54弥生時代 (2500〜1700年前)
    三期に分けられるこの時代には 次々と半島から武装集団がやってきて、支配地や農奴の取り合い、収穫物の奪取と戦乱の時代だった。
    半島が統一され、戦乱が終息すると、列島も統一勢力が台頭し、やがて何度かの逆転の後、安定に向かう。
先出とは違い、ここでは2500年前頃に稲作文化人が南九州にも来て、 が、シラス台地で稲作に不向きだった。ために農耕は広がらず、 朝鮮半島から来た
弥生人は
台地上に竪穴住居や掘立柱建物を建てて暮らした。 弥生式土器は出土し、弥生人が支配したことがわかる

 55古墳時代(1750〜1400年前)
    中央の統制力が強まり、全国的に同一文化を求めるようになり、言語の統一や祭祀文化の統一が行われた。
    青森でも、与那国島でも母の呼び方が同じなのはそのためである。(与那国民俗資料館館長)

九州や東北は何度も中央から軍事的干渉を受け、征伐という名の戦争が起こった。 地方は、中央から派遣された半島人が支配し、土器や墳墓、埴輪作りまで中央から派遣された土師氏などの技術者によった ために、ほぼ全国的に同じ出土物となる。 鉄鏃と三塁環頭太刀(新羅で作られたもの)全国から同じものが出土 大和政権の指導とは異なり、地方では竪穴式石室や朝鮮式の小さな石を
積み重ねた石室。また、別部族で上級兵士の墓とされる、地下式横穴墓が既存の古墳を掘って→ 土師器と須恵器
製作場所と方法が異なる→作られる。
これは、西都原古墳群で展示されている。

貝輪、てづくね土器?
地下式板石積石室墓
地下式横穴墓

軽石製組合わせ石棺
軽石を使った石棺省力化して、似たものを作ったようです。(笑)
 
  56飛鳥時代以降(1400年前〜)
丸底の土器はかまどにかけるためでしょう 酒壺でしょうか 須恵器土師器の混在
隼人塚ー隼人の乱の犠牲者を弔う塚ー仏教文化の浸透

木簡
律令制の広がり
仏教寺院の広がり
7世紀半島経営の失敗
 中国文化を模倣した律令体制の整備。地方統制の強化―隼人の乱
    57鎌倉・室町・戦国時代以降(1200年前〜)
騒乱の時代と商品流通
11世紀頃荘園をまとまりにした集落ができる
武士集団の争い
中世土器と六道銭
薩摩焼
藩政時代の人々の暮らし宮崎に興った島津氏が
各地を分断する独特な封建制をしいた




 61奄美諸島の弥生時代以降 (2500〜800年前)  海を舞台にした人と物の交流 -奄美諸島の弥生時代以降の文化-

     奄美諸島はヤコウガイ交易で台頭した。

海を舞台にした人と物の交流漁労具の増加。狩猟採集生活。ヤコウ貝と銛・釣針など鉄製品との交易 九州からは鉄製の銛や釣針が運ばれた。 徳之島の遺跡と窯跡徳之島には粘土層がありこれを使って大規模な窯業が展開した カムイヤキ
800〜1000年前に開窯
須恵器様土器と貝製品
100もの窯元ができ、南西諸島に広く交易された
長頚壺形土器 甕形土器カムイヤキ、
ヤコウ貝未成品
貝錘 ヤコウガイ 貝匙 徳之島伊仙町の須恵器のような焼き物、カムイヤキは沖縄本島から九州島南部にまで拡大した。

琉球弧では重要な土器
 この時期の登り窯は各地で出土するが、
 伊仙町のこの窯は、特筆すべき良質なものができたようだ。

この須恵器様土器は
 類須恵器と称される
種子島勢力と奄美勢力の抗争が長く続いたようだ。


  71河口コレクション   高橋貝塚出土品 2500〜2200年前 弥生時代
                           南さつま市金峯町
高橋貝塚 弥生時代の食生活縄文時代同様の狩猟採集生活が続いていた 土器の特徴煮炊き用甕形土器
貯蔵用壺形土器
盛り付け用高坏形土器
イノシシ・シカの骨陸棲動物は増殖に時間が掛る。多量の流民で食料は不足したでしょう 如意状口縁土器
刻目突帯文土器
壺形土器 高坏形土器
ゴホウラ製貝輪 釣針抉入片刃石斧、 石剣
扁平片刃石斧 石包丁


 81上野原遺跡 復元集落   9500年前 縄文早期の集落遺跡

               復元されたもの 竪穴住居跡10軒 集石遺構 土坑 連結土坑 道筋二条
               クリ,クヌギ,クマシデ,ヤマザクラ,ムクノキ,コナラ,ハルニレ,クヌギなどの落葉広葉樹の森

     現代生活とは違う古代の暮らし
               我々は一夫一婦制であるから古代人もそうだったとは限らない。一夫多妻 または 一妻多夫かもしれない
               また、長男だけが妻帯し、それ以外は独身だったかもしれない。(合掌造り家族のように)

               調理を現代と同じように、住居内の炉でしたと考えるのはほぼ間違い。
               アジアや中東などでは、台所や炊事場は屋外である。

               日本の囲炉裏は煮炊きするところではない。煮炊きはかまどでした。
               現代人の常識や道徳。勝手な思い込みを縄文時代に当てはめてはいけない。

展示館のウッドデッキの向こうに復元集落 遺跡全体像 見たこともないドーム型住居 住居跡住居内部は長方形の床の中に炉があった 屋根は下から葺く。上に上がれないので上を葺けないのです 高所作業車があればかろうじて葺けるかも知れません 住居内部大きな構造材が見えない脆弱なつくり
住居遺跡から柱穴が確認出来なかったためにこうなった 室内は四角い掘りごたつ式。中央が炉 請負業者苦労の賜
美しい風景です
連結土坑知らない人に踏みしだかれています 集石遺構調理跡 土坑墓穴 大きな住居跡昔は一軒に何世代何家族も暮らしていた
土坑集団墓地ですね 案内版 遺跡保存館遠望 遺跡保存館
9500年前の桜島の噴火で壊滅した集落 連結土坑や土坑、土壙墓
遺跡保存館内には
 レプリカでなく、
本物の発掘現場が公開されている

  このドーム型の竪穴住居は、机上の想像で、このような高所作業車がなければ建設困難なものではなく、
  おそらく、普通の竪穴住居だっただろうと推定されている。

  しかし、現在となってはこれを撤回することができなくなっている。鬼界カルデラの噴火年代も同じである。

 91埋蔵文化財センター  上野原縄文の森展示館と陸橋でつながっている鹿児島県立埋蔵文化財センターです。
館内は見学できますが展示物はありません 修復作業のパートのおばちゃんや 事務を執っている職員が見えます。 随分疲れました。安全に気を付けて空港に帰り 空港バスで鹿児島市内の天文館通りのホテルに泊まるつもりです。 まだ、予約していません
 
  上野原遺跡のまとめ 私見

  9500年前、縄文早期の定住集落跡は当時国内最古で最大級である。
  氷河期の終了。温暖化。海面上昇により水没したスンダランドから、フィリピン・台湾・宮古八重山・沖縄・奄美を経てやってきた人々である。

  スンダランドからの拡散は1万8000年前の最寒冷期=氷期の終了以前から、寒冷化・気候変動による食料不足や温暖化による土地の消失。
  いろいろな理由によって外洋に漕ぎ出し新天地を求めた。この旅立ちは縄文海進まで続き、その後は、気候変動や人口増加、戦乱などで移動した。

  彼らは黒潮にのって、高知・和歌山・愛知県知多半島・房総半島を経ながら北海道にまで到達した。
  また、日本海側を経由したグループもいた。

  貝斧や丸ノミ石斧を使い、航海術にたけ、高い土器文化を持っていた。

  このことから、スンダランドでは、既に定住して、高い土器や石器の文化を持ち、宗教的な文化も持っていたといえる。 
  (この場合既には旧石器時代のこと)


  7300年前の鬼界カルデラの火災流と降灰によって西日本の広い地域が居住不能となり、人々は東日本や北海道、シベリアへ逃れた者もいたのかも
  しれない。