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(きんせいいせき) 10金生遺跡 山梨県北杜市大泉町谷戸金生105 0551-38-2214 検索すると電話番号がありました。無人の田んぼの真ん中になぜ? きっと役所のでしょう。 ・縄文後期から晩期の祭祀遺跡です。八ヶ岳南麓。標高760-80m。縄文遺跡では、配石遺構、石組、埋葬施設などの複合施設です。 この地域は縄文遺跡が濃密に分布し、北杜市大泉町でも縄文前期後半の天神遺跡等大規模集落遺跡が見られ、祭祀遺構も多い。 ・縄文後晩期の、壁立式竪穴住居、敷石住居。方形・円形のの石組や、立石、石棒、丸石などの配石。石棺状遺構から焼骨・装身具出土。 墓前祭祀が行われていた。引用抜粋 金生遺跡wikipedia ・出土物:中空土偶 石棒 耳飾り など |
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11金生遺跡
金生の村
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12 |
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13復元住居
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14壁立住居 地盤が掘り込めずに柄鏡型敷石があったため、壁立式住居と判定されました。 |
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50北杜市考古資料館 |
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51外観 |
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一階 入口展示 大型土器 |
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52入口展示1 大型土器
※1曽利Ⅱ式/中期後半/約4500年前/真原A遺跡 X字状の把手が6つ付いた大型の土器です。 口縁部は無文で、胴部には渦巻文・J字状等の文様が付けられています。地文には縄文が付けられています。 高さは約73cmです。 この土器は、住居跡の出入り口部に埋甕として逆位に埋められていました。底部と胴部には穴があけられています。 展示では、倒れにくくするために、出土状況のように逆さまの状態で置いています。 52 |
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土器編年 (中期初頭~中期後半)
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53八ヶ岳南麓の遺跡 |
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54谷戸城とその歴史舞台となった八ヶ岳南麓 恵まれた自然環境を背景に、八ヶ岳南麓では旧石器時代から人間が活動した痕跡が確認されています。 このような遺跡は、縄文時代になると更に多くなると共に広がりを見せ、釜無川右岸域、須玉川・塩川流域にも拠点となる大きな集落が発生しました。 特に、縄文時代中期は遺跡が激増し、国内でも有数の遺跡密集地帯となっていました。 その後、遺跡数は減りますが、平安時代に入り山地が開発されてから再び人が戻ってくるようになりました。 この辺りには国が管理する御牧が設置され、馬を生産して朝廷に供給していましたが、 次第に国家の統制が緩み、馬の供給が途絶えた頃に登場したのが逸見清光でした。
谷戸城と八ヶ岳南麓 史跡谷戸城は、流山と呼ばれる小山にある。この流山は、まだ八ヶ岳火山が活動していた大昔に、火山帯が大崩壊して生じた岩屑流(韮崎泥流) からできたといわれ、岩屑流に含まれていた巨大な岩塊が止まってできた高まりが、流山になったと考えられています。 八ヶ岳南麓には流山が点々と残っており、多くは燃料となる薪を集める薪炭林として管理されてきました。
八ヶ岳南麓の歴史 |
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54入口展示2 中型土器 |
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55中型土器
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56中型土器 |
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60北杜の土偶 北杜市域も土偶が数多く出土します。現在確認されている土偶が出土した遺跡は80ヶ所以上で、1000個近くもの土偶が発見されています。 北杜最古の土偶は、天神C遺跡出土の前期後半のものです。それは北杜唯一の前期土偶です。 中期になると山梨県の傾向と同じように、土偶の出土数が爆発的に増えます。特に中期前半の時期に多く、土偶が作られるピークとなります。 後期になると半分以下に減少し、晩期にはさらに減少します。 山梨の北杜以外の地域では、後期から晩期の土偶が僅かしかありません。 前期から晩期まで各時期を通して数多く土偶が作られた地域は、山梨県では北杜以外にないといえます。 北杜の中では、土偶が出土する遺跡は八ヶ岳南麓に多く、茅ヶ岳山麓や甲斐駒ヶ岳山麓はやや少ないようです。 土偶の多い遺跡は、 八ヶ岳南麓では、酒呑場遺跡(155個)、原田農業高校前遺跡(98個)、寺所第2遺跡(30個)、石堂B遺跡(42個)、金生遺跡(233個)で 茅ヶ岳山麓では諏訪原遺跡(29個)、上ノ原遺跡(32個)、甲斐駒ケ岳山麓では向原遺跡(15個)と、其々の地域に存在します。 これらの遺跡は、土偶を使った祭りの中心地と考えられます。 |
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61中期前半の土偶 中期になると、にわかに大量の土偶が作られるようになります。 特に中期前半がその最盛期です。 中期前半の土偶の特徴は、①真横に広げた短い腕 ②大きいお尻 ③膨らんだお腹 ④おへその下の特徴的な模様、などです。 それらの特徴から妊娠している女性を表していると考えられています。 また、土器と同じ施文具で模様がつけられ、模様も土器と似ているものが多くなります。 更に時期に応じて土偶の顔も変わっていきます。最初は河童のような扁平な頭が多く、徐々に後頭部に円や渦巻きが付けられるようになり、 ついには島田髷のような形に変化していきます。目はつりあがったものがほとんどで、中期前半の特徴です。 両手を広げる格好以外に、いろいろなポーズをとる土偶も出てきます。 中期前半では、酒呑場遺跡が最も多く、土偶が出土しています。原町農業高校前遺跡、寺所第2遺跡、甲ッ原遺跡、諏訪原遺跡など、 拠点集落と考えられる大規模集落に土偶が多く出土する傾向があります。
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62中期前半の土偶 |
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63中期後半の土偶 中期後半になると、出土点数は減少しますが、出土遺跡は増加しています。 北杜市では中期後半に遺跡数が一番多くなります。それに伴い、土偶を持つ遺跡が増えたとも考えられます。 このことは、土偶の多い遺跡は少なくなり、少数の土偶を持つ遺跡が増えたことを示しているようです。 この時期で一番多く土偶を持っていた遺跡は原町農業高校前遺跡で、中期前半で最大であった酒呑場遺跡にとって代わります。 中期後半の土偶の特徴 ①やや上にあげた腕 ②胸の下の両脇から延びる模様 ③先の鋭くとがった工具で描かれた模様 ④おへその下の十字やL字状の模様 ⑤尖ったお尻、などです。 また、⑥口の周辺に模様のあるのも見られます。 中期後半の終わりの時期には、目鼻の表現が省略された土偶も出てきて、次第に作りが粗雑になります。 中期末になると、土偶が出土しなくなります。一部の地域を除いて、全国的に土偶が減少し、北杜からも土偶が一時消えていきます。 63 63a中期後半の土器 63b |
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65後期の土偶1 中期末から後期初頭にかけて、土偶の作られない時期がありますが、後期前半にまた作られ始めます。 土偶の出土する遺跡数は中期と比べて減少します。金生遺跡で大量に作られていたため、出土点数は中期後半より増加しています。 後期前半では、 上ノ原、青木、石堂B遺跡などの土偶の多い遺跡もあり、これらの遺跡は、金生遺跡を含め、土偶を使った祭りの中心地であったといえます。 北杜の後期の土偶は、関東地方で作られるハート形土偶や山形土偶の影響を受けた土偶が見られます。 ハート形土偶は、顔がハート形になっていることから名付けられました。脚を踏ん張るように広げていることも特徴の一つです。 顔に仮面を付けたように見える仮面土偶は、ハート形土偶の影響を受けています。どちらも後期前半の特徴的な土偶です。 後期後半になると山形土偶が作られます。 頭頂部が山のように尖っているため山形土偶と呼ばれています。両手は下げ、先端の手を外に開き、可愛らしい格好をしています。 この時期は、土偶と同じように、土器も関東地方の影響が強くなります。 ※寒冷化した後期には、関東からの移住者が大量に増加する。文化が全て関東式なら、集落を完全に乗っ取られたことになる。 |
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66金生遺跡の 後期土偶 |
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68晩期の土偶 晩期では、東北地方の亀ヶ岡文化圏で作られる遮光器土偶が有名です。 この土偶は、晩期中頃からその土器と共に中部地方に強い影響を与え始めます。 北杜では晩期の遺跡が減少し、土偶をもつ遺跡も減少します。 金生遺跡では、後期より土偶の数は減少するも、この時期の北杜で最多の土偶を作ります。 山梨の晩期前半の土偶は、 山形土偶に似た土偶が引き続き作られます。 また、その流れをくむ中谷遺跡(北杜市)のようなこの地域特有の模様をもつ土偶も作られます。 晩期中頃になると、 東北地方の遮光器土偶を真似たというよりも、「遮光器土偶を真似た土偶」を真似た、といった、間接的な影響と言えます。 金生遺跡では、遮光器土偶の間接的な影響により、特異な形をした中空土偶が作られたと考えられています。 金生遺跡の中空土偶 北杜では、縄文晩期を最後に土偶が作られなくなります。縄文時代の終わりと共に土偶も役割を終え、静かに消えていきました。 晩期の土偶 |
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70二階展示室 入口展示 |
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71神取遺跡出土 石器・土器 神取遺跡 草創期中葉 北杜市明野 資料は、槍先型尖頭器・有茎尖頭器・石錐・削器・掻器・局部磨製石斧、微隆起線文土器片・爪形土器片である。 遺跡自体は後世の撹乱により、決して良好な遺存状態ではないものの、その形態的特徴から縄文時代草創期中葉に位置付けられる。 また、遺跡内からは尖頭器類の石器石材となる珪質頁岩の剥片類も多量に出土し、一部には接合関係も見られることから、 石器製作が本遺跡で行われていたことが明らかとなっている。 神取遺跡出土品 引用 土器には、微隆起線文土器、爪形文土器。 石器には、槍先形尖頭器、有茎尖頭器、局部磨製石斧などがある。 縄文時代初現期の生活の様子がたどれる貴重なものである。 尖頭器 草創期 (約12,000~10,000年前) 細長い形の尖頭器、槍の先につけたと考えられる。縄文時代草創期に特徴的に見られ、 旧石器時代の文化と関連を考える上でも重要な石器である。 基部を舌状に仕上げた有舌尖頭器と呼ばれるものや木葉形をしたものもある。 二階入口展示 |
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72神取遺跡出土 土器 押型文土器 早期 (約10,000~8,000年前) 楕円文、山形文・格子文などを彫刻した細い棒で土器の表面を転がして模様をつけた土器。北杜市域では、破片でしか出土していない。 条痕文土器 早期 (約7,000年前) 早期後半の土器。植物の繊維を束ねたもので器面を削っている。口縁部や口縁部文様帯を区画するところに刺突を施しているものもある。 早期の土器 |
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73前期の土器 中越式 十三菩提式
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74中期前半の土器 五領ヶ台式(中期初頭) 貉沢式(勝坂Ⅰ) 新道式(勝坂Ⅰ) |
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75中期前半 土器 藤内式(勝坂Ⅲ) 井戸尻式(勝坂Ⅳ) |
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76中期後半 曽利Ⅰ式 曽利Ⅱ式 八ヶ岳西南麓や諏訪湖周辺、伊那谷あたりの縄文土器 |
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77中期後半 曽利Ⅲ式 曽利Ⅳ式 曽利Ⅴ式 |
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78加曽利E3式 曽利Ⅴ式 |
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79中期~後期の土器 加曽利E4式 堀之内式 |