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  新潟の縄文 №7 2020.09.27-2

  十日町市博物館  新潟県十日町市西本町1丁目448番地9
   025-757-5531 月休撮影可

交通 十日町市日町駅から徒歩8分700m
特徴 縄文土器、豪雪地帯、織物についての3種類の国宝を所蔵している。
展示
構成
今回は博物館の新築開館記念の特別展「縄文の遺産」と、3つの常設展
で構成されており、常設展示室は、
縄文時代と火焔土器のクニ
織物の歴史
雪と信濃川 の三室があり、それぞれに国宝展示があります。
逆に言うと、国宝があるため、3室に分ける必要があったそうです。
 
目次

01外観
05入口展示
06年表
07現代史が中心の年表
10十日町付近の地形

20企画展示室
 特別展「縄文の遺産」
-雪降る縄文と星降る縄文の競演-
21入口展示

22Ⅰ雪降る縄文の世界
-信濃川流域の縄文文化-
23「なんだ、コレは!
信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」
※考察 長大な石刃

24火焔型土器とは
25展示品出土遺跡
26土偶
28装飾品
30王冠型土器

40Ⅱ星降る縄文の世界
-中部高地の縄文文化-
50長野県の土偶
53黒曜石原石
54山梨県kのヒスイ大珠
55土器
60国宝土偶「縄文のビーナス」
63国宝火焔土器
65重文「人体文様付有孔鍔付土器」




800導入展示室
801導入展示の導入映像
810縄文時代とは
814世界史の中の縄文時代
815土器の始まり
816一万年以上続いた縄文時代
818自然環境が育んだ縄文文化
830気候と地形
831雪が降る
832雪の華
33一夜三尺、一日五尺
834信濃川と悠久の台地
850織物と雪国の風土
851雪国の風土
853雪は縮の親
855女衆と縮織り

100常設展
 縄文時代と火焔土器のクニ

101入口展示
102土器の形と文様の変遷
草創期~晩期

110燃え上がる焔の土器
111不思議なデザイン
112土器装飾
113土器の普及率
115土器
120変化するスタイル
123他地域の土器との関り
125火焔型・王冠型土器
127火焔型土器や王冠型土器の
   較正暦年代
130縄文土器文化の結晶
131分布図
132火焔型土器と同時代の土器形式
136日本列島の土器文化圏
137中期土器

140国宝火焔土器

160火焔型土器の文化圏
162火焔型土器の分布
163十日町市の火焔型土器の分布

200縄文時代の十日町
202深鉢形土器
203注口土器

210縄文のあけぼのと土器
211土器の形と用途
215隆起線文土器
217爪形文土器
218多縄文土器

 十日町雪ものがたり
860雪国と縄文文化
861雪と縄文文化
863縄文のくらし

870雪の写真物語
871除雪作業
872雪掘り
873雪に祈る
874魚沼産コシヒカリは雪国の気候風土が育てた味

880雪中に織る
890十日町平野

220最古の土器
230縄文人の食と道具
231四季の食と生業
240狩りと調理道具
241弓矢
242狩猟と道具
243漁撈
250食の道具
251狩猟加工具
255石鏃
260調理の道具
270縄文クッキング
271縄文の調理
272食べ物の保存方法
280縄文人のファッション
281編布と装身具
283縄文の装身具
285ベンガラ
286樽沢開田遺跡出土品
287耳飾り
290縄文人の衣服
291縄文人の装束

300縄文人の住居とムラ
310住居とムラを作る 
312赤羽根遺跡遺構配置図
313幅上遺跡遺構配置図
314野首遺跡遺構配置図
320縄文のムラ・ネットワーク
321黒曜石
322ヒスイ
325モノづくりの道具

330縄文人の祈り
331土偶―女性の象徴
340祈りの道具
360石棒―男性器の象徴
370弔い―死者を送る儀式
373栗ノ木田遺跡
375野首遺跡
380十日町市の遺跡

500常設展 織物の歴史
510織物とは
511織ると、編む
512繊維のいろいろ
515幻の布、越後アンギン
516アンギンの編み方
518多種の繊維と織布
519越後の織物

520古代~白越の時代~
521古代のアンギン
522奈良・平安時代の道具
523機織りの始まり
525馬場上ムラの暮らし
530中世 -越後布の時代
531山城と館跡
~新田氏一族の足跡~
533城館跡出土品
535越後布と青苧の生産
536生産
537新田一族
538青苧・越後布の生産と流通
540機織り
541原始機
544地機
545機織道具
550近世 高機

600常設展 雪と信濃川

610川と生きる
611水上の道
612渡し船の分布と交通網
613河戸・川人・山師
・筏乗りの分布
614通船と積荷
630信濃川絵図
640暴れ川・発電の川

700雪国十日町
701雪と暮らす
711街中の雪堀り
712鳥追いとホンヤラ洞
713雪室
715農家の冬支度
717節季市とチンコロ
719雪国の民家
720冬支度
722囲炉裏を囲んで
 ~冬の内仕事~
724春を待ちわびて
725雪国の暮らし
 
 
 01外観
新築された博物館
駅からは旧館(現収蔵庫)前を通って行きます

新たなテーマに合わせた展示館が誕生しました
新築開館記念特別展
『縄文の遺産』
9/26-11/8
 新築開館が夏の予定が、コロナ騒動で遅れていたことを知らず、特別展が訪問前日からであることも知りませんでした。
ただ、秋の旅行計画立案上この日しかなく、行ってビックリでした。

 前回訪問時の博物館は閑散としたもので、夏に開館したのなら客足も減っているだろうと思ったが、さにあらんや、十日町の人々の地元が誇る博物館に対する思いはとても篤いもので、幼児から老人まで、全ての年代の人々が訪れ、人で満杯でした。
 05入口展示

十日町の歴史や文化、遺跡などの概略を展示

多くの遺跡や文化財、

景観などがあります

市内の文化財をビデオで流しています
 06年表
 07現代史が中心の年表
縄文~南北朝 南北朝~昭和 昭和~平成
 
 10十日町地域の地形
  何度も紹介してきたように、この特徴的な地形がこの地域に特徴的な気候や自然災害をもたらし、
  また、様々な恩恵も与えてきたのかもしれません。


苗場火山を頂点とした地形模型
南北逆転した同じ地域のgooglemap 同地域の地形図 この地域は、
➀苗場火山の膨大な噴出物(火山灰・火砕流)に埋もれ、それを侵食した河川の地形と、
②東西圧力により、急速に隆起した北東から南西に延びる幾筋もの褶曲山脈にはさまれ、遮られた地形、など、特異な構造にある。さらに、
③冬の北西風と暖流対馬海流が、南に湾曲した地形の列島脊梁山脈によって豪雪地帯となり、
他では考えられない特異な地域となっているように思う。
 
 
 


 20企画展示室 
  特別展「縄文の遺産」 -雪降る縄文と星降る縄文の競演-


   開催に当たって
 令和2年6月1日、新しく生まれ変わった十日町市博物館がオープンしました。これを記念して
  秋季特別展「縄文の遺産 -雪降る縄文と星降る縄文の競演-」を開催します。
 新潟県と長野・山梨県では、それぞれ縄文をテーマとしたストーリー「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」と、
 「星降る中部高地の縄文世界―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅―」が日本遺産の認定を受けています。
 縄文時代中期に3県が位置する中部地方では、新潟県の火焔型土器や長野・山梨県の水煙文土器など、
過剰なまでに装飾された土器が作られていました。

 本展では、これら3県から出土としている土器、土製品、石製品などの優品(国宝・重要文化財含む)を集め、中部地方に華開いた
独自の縄文文化を紹介します。縄文人の息遣いを感じていただければ幸いです。

 最後になりましたが、本展の開催に当たり貴重な資料を出品していただきました関係機関、ご指導とご協力頂きました皆様に心より厚くお礼申し上げます。
   令和2年(2020)9月 十日町市博物館

 日本遺産とは
 「日本遺産(Japan Heritage)」は、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化・伝統を語るストーリーを日本遺産として文化庁が認定するものです。
 認定されるストーリーには2つの種類があります。
 「地域型」は単一の市町村内でストーリーが完結するもの、
 「シリアル型」は複数の市町村にまたがってストーリーが展開するものです。これまでに104件(平成27~令和2年度)が認定されています。

 縄文をテーマとしたストーリー「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」(平成28/新潟県内6市町)と、
 「星降る中部高地の縄文世界」(平成30/長野・山梨県)はシリアル型です。
また、令和2年6月には地域型として「究極の雪国とおかまち―新説!豪雪地ものがたり―」(十日町市)が、新たに認定されています。

 21入口展示
日本遺産認定
開催に当たって
上に記述
謝辞
多数の縄文博物館が記載されている
日本遺産とは
上に記述
国宝「縄文のビーナス」
長野県棚畑遺跡
茅野市
国宝「火焔型土器」
新潟県笹山遺跡
十日町市
 
 

 22 雪降る縄文の世界 -信濃川流域の縄文文化-
 今から約5000年前の縄文時代中期中頃に、新潟県の信濃川上・中流域で誕生したのが「火焔型土器」です。縄文人が何をイメージしてこの土器を作ったのかは、まだよくわかっていません。内側にコゲ(炭化物)が付着している土器が多く見られることから、鍋として煮炊きに使われていたことは間違いなく、祭祀用の器とも考えられています。
 この土器が出土する地域は、現在の日本海側の多雪地域と重なります。上に向かって広がる器の形や、表面を埋め尽くす渦巻き文の勢いは、雪解け後の新緑の芽吹き、もしくは春を待ちわびて、雪に覆われた生活からの縄文人の解放感が表れているのかもしれません。シンプルかつ統一的な文様構成でありながら、エネルギーみなぎる造形美と正解のない謎の多さ、この二つが現代人を惹き付ける火焔型土器の魅力と言えるでしょう。

 火焔型土器と王冠型土器は、セットで出土します。この他、平らな頭の土偶(河童型)や、三角とう形土製品・石製品(祭祀具)、ヒスイ製大珠(首飾り)なども同時期の特徴的な出土品です。ヒスイ(翡翠)は、糸魚川市姫川流域に産出する岩石で、これを加工して作られる大珠は、今でいうブランド品でした。糸魚川産ヒスイの大珠は、日本各地で出土しています。

 日本遺産 「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」
 2016年4月25日、新潟市・三条市・長岡市・十日町市・津南町で申請したストーリー「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」が日本遺産に認定されました。タイトルの「なんだ、コレは!」は、芸術家・岡持太郎が「火焔型土器」を見て叫んだ言葉と言われています。
「火焔型土器」は、今から5000年前の縄文時代中期、世界有数の雪国に誕生しました。縄文土器を代表する火焔型土器は、日本文化の原点であり、浮世絵、歌舞伎と並ぶ日本文化そのものです。

 日本遺産 認定ストーリー
日本一の大河・信濃川の流域は、8000年前に気候が変わり、世界有数の雪国となった。
この雪国から5000年前に誕生した「火焔型土器」は大仰な4つの突起があり、縄文土器を代表するものである。
火焔型土器の芸術性を発見した岡本太郎は、この土器を見て「なんだ、コレは!」と叫んだという。
火焔型土器を作った人々のムラは信濃川流域を中心としてあり、その規模と密集度は日本有数である。
このムラの跡に佇めば、5000年前と変わらぬ独特の景観を追体験できる。
また、山・川・海の幸とその加工・保存の技術、アンギン、火焔型土器の技を継承するようなモノづくりなど、信濃川流域には縄文時代に起源をもつ文化が息づいている。
火焔型土器は日本文化の源流であり、浮世絵、歌舞伎と並ぶ日本文化そのものなのである。

Ⅰ雪降る縄文の世界 -信濃川流域の縄文文化- 日本遺産
「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」
「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」
認定ストーリー
信濃川火焔街道

 23『「なんだ、コレは!信濃川流域の火焔土器と雪国の文化」』
ストーリーは計69の文化財で構成されています。縄文時代の遺跡や遺物のほか、信濃川、弥彦山・角田山などの景観も含まれています。

信濃川
(新潟市~津南町)
秋葉遺跡出土品
(新潟市)
弥彦山・角田山
(新潟市・長岡市)
上野遺跡出土品
(津南町)
信濃川上流域縄文時代草創期遺跡群出土品
(十日町市・津南町)
※1
堂平遺跡出土品
(津南町)
八木ヶ鼻
(三条市)
親柄上ノ原遺跡出土品
魚沼市
正安寺遺跡
魚沼市
笹山遺跡出土品
十日町市
長野遺跡と出土品
三条市
王神祭 長岡市
秋山郷及び周辺地域の山村生産用具
津南町
笹山遺跡
十日町市
馬高遺跡出土品
長岡市

※1 考察 長大な石刃
 このような長大な石刃は、中部高地のいずれの博物館でも見たことがありません。もちろん東京国立博物館でもです。
九州国立博物館では、2階展示室内の入口付近で見ましたが、撮影禁止のため、比較や出土地はわかりません。
九州にも同じものがあったのか、それとも他の地域からの借り物だったのかもしれません。(九州での長大な石刃は聞いたことがない。)
 しかも、時代は縄文草創期、あの神子柴型石器と同時代区分の中のどの時期にあたるのかもわかりませんが、
津南町、秋山郷、十日町、付近の地溝帯にあった素晴らしい造形美の極致の作品ですね。

 作品が折れているのは実用だったのでしょうか。絶滅間近な大型獣が捕獲された際に、小さな石器では間に合わないので、
現代の、マグロ解体に用いる日本刀のような大型包丁のように、見事に腹をかっさばいて、解体したのかもしれません。だから草創期だけ。
 考えると、台形石器などがナイフとして使われたとありますが、あれは棒の先に取り付けて、獲物の腹に突き刺して、棒ごと体内を貫くための
道具だったと考えるべきでしょう。先を尖らせた木の棒では貫通・殺傷力が低いため、取り付けた石の切れ刃だったのでしょう。
 そのあとにこのマグロ包丁が登場したのかもしれません。
 

 24火焔型土器とは
 火焔型土器の特徴を器形と文様から見ると、器形は深鉢が基本で、文様は縄文土器でありながら、縄文が一切施されず、隆線や隆帯により渦巻文やS字状文などが器面を覆いつくすように描かれています。口縁部には鶏頭冠突起、鋸歯状突起、頸部には袋状突起、トンボ眼鏡状突起と呼ばれる装飾が付きます。

 鶏頭冠突起については、四本脚の動物、水面を飛び跳ねる魚などを表見しているとの意見がありますが、いまだ定説はありません。
また、器形には頸部と胴部の間がくびれて、上下がアンバランスな物(新段階)と、くびれがなく、バケツ形のもの(古段階)があり、新旧2段階変遷が考えられています。
 用途は、その特異な形態と立体的な文様、出土量の少なさから、実用品でなく祭祀用の器と考えられてきました。しかし、多くの土器の内部にコゲ(炭化物)が付着していることから、鍋として煮炊きに使われていたことは間違いありません。付着した炭化物の炭素14年代測定が行われ、この土器は約5300~4800年前(※500年の製作期間)に作られていたこともわかりました。

 火焔型土器は信濃川流域を中心に新潟県のほぼ全域で出土しています。その中心は、津南町、十日町市~長岡市にかけての上・中流域で、この地域には「火焔土器のクニ」と呼べる文化圏が広がっていました。

火焔型土器とは 火焔型土器各部の名称
 25展示品出土遺跡
諏訪湖~山梨県へ 甲府盆地 途中が途切れるのに諏訪湖~甲府盆地に多数出土する。
津南町と諏訪湖以南の間には何か特別な交易があったようだ。
 
 26土偶
土偶 野首遺跡
十日町市
祭祀具、河童型、ニヤリと笑っている?顔もあります
土偶 高平遺跡
村上市
国宝縄文の女神(山形県)に似た脚部があります
三角形土偶 幅上遺跡
十日町市
祭祀具、逆三角形をヒトに見立てた、土偶の仲間です
土偶 吉野屋遺跡
三条市
祭祀具、河童型
土偶 道尻手遺跡
 津南町
祭祀具、河童型、土偶の壊され方がわかります
土偶 栃倉遺跡 長岡市祭祀具、脚部がない
土偶 中道遺跡 長岡市祭祀具、河童型、脚部の表現がない
土偶 長峰遺跡
上越市

祭祀具、河童型、手のひらサイズもあります
土偶 長者ヶ原遺跡
糸魚川市

祭祀具、河童型土偶
、東博所蔵
←撮影禁止のため

21世紀中国総研
縄文巨大石棒の謎(第6回)土偶は巫女の呪術具であった


より拝借
三角壔(とう)形石製品
正安寺遺跡 魚沼市
三角壔(とう)形土製品
柿ノ木田の上遺跡 魚沼市

祭祀具
三角壔(とう)形土製品
村上市 高平遺跡

三角壔(とう)形石製品
村上市 春木山遺跡
三角壔(とう)形土製品
長岡市 岩野原遺跡
津南町 道尻手遺跡
三角壔(とう)形土製品
上越市 山屋敷Ⅰ遺跡

三角壔(とう)形石製品
上越市 山屋敷Ⅰ遺跡
 28装飾品
ヒスイ製大珠
長岡市 岩野原遺跡
折れた両側に穿孔。
再利用?
ヒスイ製大珠
長岡市 中道遺跡
首飾り
ヒスイ製大珠
村上市春木山遺跡
首飾り
ヒスイ製大珠
三条市長野遺跡
首飾り
ヒスイ製大珠
長岡市金沢A遺跡
首飾り、県内1・2の優品
ヒスイ製大珠
十日町市南雲遺跡

首飾り、穿孔中に割れた
ヒスイ製大珠
見附市耳取遺跡
ヒスイ製大珠
糸魚川市井の上遺跡
ヒスイ原石
糸魚川市水穂寺遺跡
縄文晩期
ヒスイ製剥片
糸魚川市六反田南遺跡
これほど緑色部分が多いヒスイは稀です
ヒスイ原石
糸魚川市
黒曜石原石
十日町市野首遺跡
信州産黒曜石
黒曜石原石
十日町市野首遺跡
石器を作る際には、剥片が飛び散りました
 
 30王冠型土器 展示品は全て逸品はかりです。
火焔型土器
村上市高平遺跡
新潟県北部の火焔型
新段階
王冠型土器
村上市高平遺跡
新潟県北部の王冠型
王冠型土器
新潟市秋葉遺跡

信濃川下流の王冠型
火焔型土器
三条市長野遺跡
信濃川下流域の火焔型(新段階)
王冠型土器
三条市長野遺跡
信濃川下流域の王冠型
火焔型土器
長岡市馬高遺跡
信濃川中流域の火焔
新段階
王冠型土器
長岡市岩野原遺跡
信濃川中流域の王冠型
火焔型土器
十日町市野首遺跡
信濃川上流域の火焔型
古段階
王冠型土器
十日町市野首遺跡
信濃川上流域の王冠型
火焔型土器
津南町諏訪前遺跡
信濃川上流域の火焔型(新段階)
王冠型土器
津南町堂平遺跡
信濃川上流域の王冠型
火焔型土器
長野県栄村
長瀬新田遺跡
長野県境の火焔型
新段階
火焔型土器
魚沼市正安寺遺
信濃川支流魚野川流域の火焔型 新段階
火焔型土器
南魚沼市原遺跡
魚野川理由域の火焔型(新段階)
王冠型土器
湯沢町川久保遺跡
魚野川流域の王冠型
王冠型土器
柏崎市川内遺跡
日本海沿岸の王冠型
火焔型土器
上越市塔ヶ崎遺跡
日本海沿岸の火焔型
新段階
火焔型土器
糸魚川市長者ヶ原遺跡
日本海側の火焔土器
古段階
 
 


 40 Ⅱ星降る縄文の世界 -中部高地の縄文文化-
 黒曜石は、地下の溶岩が急速に冷やされてできたガラス質の岩石です。打ち割ると鋭い刃を持った石片を得ることができるため、縄文時代以前から槍先や石鏃などの石器に利用されていました。長野県の霧ヶ峰から八ヶ岳にかけての地域は、日本を代表する黒曜石原産地です。
この黒く光り輝く岩石を産出する地域には、星糞峠、星ヶ塔、星ケ台など「星」の付いた地名が残ります。この地域の黒曜石は日本各地にもたらされ、「最古の信州ブランド」と呼ばれています。新潟県十日町市野首遺跡では、信州産黒曜石の原石が大量に出土しました。

 縄文時代中期中頃に、中部高地では水煙文土器など過剰に装飾が施された土器と、ヘビ、イノシシなどの動物をモチーフとした突起や人体文が付き、物語性をもつ文様が描かれる土器が作られていました。また、個性豊かな表情と姿の土偶(素焼きの土人形)が出土しており、国宝「縄文のビーナス」はその代表です。翡翠大珠(首飾り)の優品も多数出土しています。
黒曜石とヒスイ製大珠は、新潟・長野・山梨県を含む中部地方に暮らした縄文人の交流の証です。

 星降る中部高地の縄文世界 数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅
 中部高地では、太古から変わらぬ雄大な景観の中、縄文人が黒曜石を運んだ道を辿れば、山麓の縄文ムラの跡を訪れ、命の躍動を表現した母なるヴィーナスや造形に優れた原始芸術に出会うことができる。
胸の奥底にしまい忘れた遠い記憶、自然とともにあった日本文化の源流にタイムスリップしてみよう。

Ⅱ星降る縄文の世界 -中部高地の縄文文化-

上に記述
星降る中部高地の縄文世界
数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅

上に記述


 黒く輝く石の魅力
日本列島の物づくり文化は石器作りにそのルーツがある。石器の材料の黒曜石は信州産が良質で、日本最古のブランドとして人気が高かった。深い森の頂には、縄文人が掘り続けた黒曜石鉱山がある。沢山散らばっているキラキラ光る黒曜石は、大地に降り積もった星のかけらと信じられていた。

 黒曜石縄文鉱山から全国へ
 掘り出された輝く黒曜石は、山裾のムラからムラへと持ち運ばれ、ムラを結ぶ道は「黒曜石の道」となった。
八ヶ岳山麓の大きなムラには黒曜石が集められ、そこから良質な信州産黒曜石の東西文化の交流ネットワークが結ばれたのである。

 恵み多き八ヶ岳山麓の縄文ムラ
今からおよそ5000年前、日本で有数のムラ数を誇るに至った縄文時代中期の山麓文化は、今に残る豊かな自然環境を生かす術によって開花する。縄文鉱山から落葉広葉樹の深い森を通り、やがて麓に開ける縄文時代のムラには、竪穴住居が並び、家族がつどい遠方からの旅人を迎えた。

 森に集う縄文人に会いに行こう
「森の芸術家」縄文人が遺した作品には、土器に映し出された家族の顔や様々な表情を持つ土偶があり、数千年の時空を超えて今を見つめている。
土器に水の流れ、そして、その世界に生きていた人や動物の姿を立体的に描く、国内外でも類例のない縄文芸術が発達した。
ここでは個性的な表情のヴィーナスたちに出会うことができる。

 縄文人の心に触れる
黒曜石鉱山を開発し、交易ルートを拓き、クリ林を育てるなどの技術を手にした縄文人はカミに"祈る"ことが重要だった。
子供の誕生と健やかな成長への願いは、土偶への祈りにたくされた。
マツリの姿は、自然の恵みとともに生きる狩猟採集民であった縄文人の純粋な心を伝えている。
黒く輝く石の魅力 黒曜石縄文鉱山から全国へ 恵み多き八ヶ岳山麓の縄文ムラ


 黒く輝く石の魅力
国内でも希少な黒曜石鉱山は、星糞峠、星ヶ塔などの「星」の名が付く高原地帯にある。
地面に沢山散らばっているキラキラと光る黒曜石を見て、我々の祖先は、夜空に輝く無数の星を見上げ、大地に降り積もった星のかけらと信じていた。
黒く輝く石の魅力


 黒曜石縄文鉱山から全国へ
中部高地の深い森の頂には、縄文人が掘り続けた国内唯一の黒曜石鉱山がある。ここでは数千年の時を経た今でも、縄文人が黒曜石を掘り出していた痕跡を目にすることができる。

 恵み多き八ヶ岳山麓の縄文ムラ
ムラの暮らしで、器の中を覗き込むようにははの顔を付けた土器は、中身が煮えるのを楽しみに見守っていたのだろうか。
家族が囲む土器鍋には、母から生まれようとする子供の顔や歌を歌い踊るようなヒトの姿も描かれている。
黒曜石縄文鉱山から全国へ
恵み多き八ヶ岳山麓の縄文ムラ


 森に集う縄文人に会いに行こう
土器に水の流れ、森に育つ草木、そしてその世界に生きていた人や動物の姿を立体的に描く、国内外でも類例のない土器文化が発達した。
それは縄文芸術の極みでもある。

 縄文人の心に触れる
子供の誕生や健やかな成長への願いは、私たちがヴィーナスや女神と呼んでいる、妊娠女性の姿をした土偶への祈りに託された。
森に集う縄文人に会いに行こう
縄文人の心に触れる 国宝土偶 棚畑遺跡
縄文のビーナス 茅野市
国宝土偶 中ッ原遺跡
仮面の女神 茅野市


  長野県・山梨県の縄文遺跡
全景
長野・山梨位置図 長野県北部 長野県南部 山梨県
 
 50長野県の土偶
諏訪市荒神山遺跡
祭祀具、仮面を付けてる
富士見町曽利遺跡

別名嘆きの土偶、口の下に窪みがある
壺を持つ妊婦土偶
岡谷市目切遺跡
土偶の造りがわかる
壺を持つ妊婦土偶
岡谷市目切遺跡
竪穴住居内からバラバラになって出土した
山梨韮崎市女夫石遺跡

土偶の壊され方がわかる
茅野市尖石遺跡
別名大足の土偶
ポーズ土偶
岡谷市広畑遺跡
座産土偶
円錐形土偶
茅野市山の上遺跡
北杜市寺所第2遺跡

縄文のビーナス似の顔
北杜市諏訪原遺跡
耳飾りを付けている
北杜市高松遺跡
口を尖らせて怒った顔
山梨韮崎市石之坪遺跡
別名美肌土偶ミス石之坪
山梨北北杜市向原遺跡

髪飾りをしている
北杜市宮の前B遺跡

髪飾りをしている
杜市原町農業高校前遺跡

髪飾りをしている
山梨笛吹市前付遺跡
愛称「てらたん」胴長
笛吹市桂野遺跡
怒った顔?で手の先に指の表現?があります
笛吹市国分寺遺跡
胴部は空洞、土鈴の可能性もある

 53黒曜石原石
黒曜石原石
岡谷市清水田遺跡
重さ6.5kg県内最大級
黒曜石原石
南アルプス市
長田口遺跡
原産地は星ヶ塔
黒曜石原石
茅野市長峯遺跡
竪穴住居の片隅に貯蔵されていた
黒曜石原石
南アルプス市
長田口遺跡
原産地は星ヶ塔

 54山梨県kのヒスイ大珠
笛吹市三光遺跡
色形も最高級品
岡谷市梨久保遺跡
土壙墓出土
北杜市
酒呑場遺跡
金生遺跡 後晩期
茅野市立石遺跡墓壙出土 大月市大月遺跡 茅野市聖遺跡
 

これまでの土器・石器もそうですが、以下に登場する土器群はレプリカの記述がないこと、開館記念特別展であることから、全て本物と考えられます。
このように有名な土器が一堂に会することはそうはないことです。また、いくつかの土器は、本来の展示館では撮影禁止になっているものもありますし、収蔵庫に納められていて、ほぼ、外気に触れることすらないような、珍しいものもあります。

 偶然に撮影できたとはいえ、大変貴重ですから周囲全体から眺めて頂き、細かな表現までご覧いただければ幸いかと思います。
 
 55土器
顔面装飾付釣手土器
原村 前尾根遺跡
愛称
火の女神フゥーちゃん

後に映る影が
勝坂Ⅲ式(藤内式)
諏訪市荒神山遺跡
付文有孔鍔付土器
岡谷市 花上寺遺跡


太い粘土紐の貼付けで渦巻文を描く
貼付文深鉢形土器
茅野市棚畑遺跡
区画文深鉢
富士見町藤内遺跡
 
幾何学的文様
         
水煙渦巻文深鉢
長野富士見町曽利遺跡

水煙文土器
山梨北杜市津金御所前遺跡
富士見町曽利遺跡の土器と同じ装飾
顔面把手付土器
山梨北杜市竹宇Ⅰ遺跡
深鉢形土器
山梨韮崎市石之坪遺跡
 
大型突起、口を開けた人面
         
人体文土器
山梨県笛吹市
一の沢遺跡

三角と丸い顔の人物
男女が描かれた
深鉢形土器
山梨笛吹市・甲州市
釈迦堂遺跡
深鉢形土器
山梨北杜市
小屋敷遺跡

沈線の間の縄文を磨り消して文様を描いている
 
 60国宝土偶「縄文のビーナス」茅野市棚畑遺跡
 63国宝火焔土器 十日町市笹山遺跡
 65重文「人体文様付有孔鍔付土器」 山梨県南アルプス市 鋳物師屋遺跡
 
 
 
 



   常設展
    縄文時代と火焔土器のクニ
    織物の歴史
    雪と信濃川






 100 常設展 縄文時代と火焔土器のクニ


 101入口展示
 102土器の形と文様の変遷
十日町市とその周辺で出土する土器の形と文様は、時期によって様々です。
深鉢は主に煮炊きに使われましたが、草
創期と早期には底部が円い、もしくは尖った土器が多く見られます。
前期になると、食べ物などを盛り付ける浅鉢が登場し、ラッパ形の深鉢が特徴的です。
中期には、火焔型土器のような過剰なまでに装飾が施された土器が多くなります。液体を注ぐ注口土器や、太鼓もしくは酒造器と考えられている有孔鍔付土器もあります。
後期になると、蓋形土器が加わり、晩期は厚さが薄く精巧な文様が施された深鉢が見られます。
縄文時代の生活を物語る、土器の形と文様の変遷をご覧ください。

縄文土器と火焔土器のクニ
土器の形と文様の変遷
草創期・早期・前期 土器の形と文様の変遷
 103
草創期 約16000~11300年前
早期 約11300~7200年前
前期 約7200~5400年前
草創期・早期・前期 草創期

鉢(壬遺跡)
深鉢(久保寺南遺跡)
深鉢(干溝遺跡)
早期
深鉢(津南町卯ノ木)
深鉢(上屋敷遺跡)
前期
浅鉢(赤羽根遺跡)
深鉢(赤羽根遺跡)×2
深鉢(清津宮峯遺跡)
 104中期
深鉢(森上遺跡)
深鉢(野首遺跡)
深鉢(幅上遺跡)×2
深鉢(野首遺跡)×2
台付鉢(南雲遺跡)
深鉢(野首遺跡)×2
台付鉢(南雲遺跡)
注口(野首遺跡)
深鉢(横割遺跡)
有孔鍔付(笹山遺跡)
台付鉢(南雲遺跡)
注口(野首遺跡)
深鉢(横割遺跡)
有孔鍔付(笹山遺跡)
 105後期
蓋(野首遺跡)
深鉢(野首遺跡)
深鉢(枯木遺跡)
鉢(野首遺跡)
下部単孔壺 
 (柳木田遺跡)
深鉢(下梨子遺跡)
浅鉢(栗ノ木田遺跡)
深鉢(原田B遺跡)
 106晩期
深鉢(樽沢開田)×3
 
 110燃え上がる焔の土器
火焔型土器は、新潟県の縄文時代中期を代表する土器です。その形が燃え上がる焔に似ていることが、名称の由来となっています。
鶏頭冠突起や鋸歯状突起などの特異な形、装飾的な文様などが大きな特徴で、その誕生までには周辺地域からの影響があったと考えられています。典型的な火焔型土器は新潟県内に分布が限られており、新潟県は火焔型土器の故郷と言えます。

 111不思議なデザイン
火焔型土器の特徴は縄文土器なのに縄文が使用されず、渦巻文やS字文、隆線文や沈線文などが器面全体に描かれている点です。
口縁部に鶏頭冠突起や鋸歯状突起、頸部に袋状突起やトンボ眼鏡状突起が付きます。形状は深鉢形がほとんどを占めます。
火焔型土器は貯蔵穴や住居跡などから出土することがあり、内面に食べ物のコゲが付着していることが多いことから、煮炊きに使用されたことは間違いありません。また、その特異な形や装飾的な文様などから、祭祀など特別な時に用いられた器とも考えられます。不思議なデザインは、非日常の器の証なのかもしれません。

燃え上がる焔の土器 燃え上がる焔の土器
上に記述
不思議なデザイン
上に記述
 112土器装飾
火焔型土器 王冠型土器 火焔型・王冠型の装飾
 113土器の普及率
住居内の土器の割合
火焔型土器8%
深鉢78%
浅鉢・鉢・台付土器12%
火焔型土器(鉢)2%
土器の大きさの多様性 火焔型土器の高さと容量 王冠型土器の高さと容量
 115土器
火焔型・王冠型土器 火焔型土器
野首遺跡 中期
火焔型土器
幅上遺跡 中期
王冠型土器
幅上遺跡 中期
火焔型土器
笹山遺跡 中期
王冠型土器
笹山遺跡 中期
火焔型土器
野首遺跡 中期
王冠型土器
野首遺跡 中期
ぴんぼけ 王冠型土器
森上遺跡 中期
火焔型土器
大井久保遺跡 中期
火焔型土器
大井久保遺跡 中期
火焔型土器
カウカ平A遺跡 中期
 
 120変化するスタイル
土器についたコゲを分析すると、使われた年代や土器で煮た食べ物の成分がわかります。放射性炭素年代測定によると、火焔型土器は5300年前から4800年前までのものでした。
誕生・成立期の火焔型土器は、全体的にずん胴な形をしています。また、鶏頭冠突起も背が低く、横長でした。これに対し、
最盛期の火焔型土器は頸部が強くくびれ、胴部が細く引き締まっています。鶏頭冠突起は背が高く、大型になります。
時代とともに、土器の形や文様にルールが定められていったのです、なお、火焔型土器とセットで出土するものに王冠型土器があります。
 121
変化するスタイル 変化するスタイル 他地域の土器との関り
 123他地域の土器との関り
他地域の土器との関り 影響を与えた土器
←重文
山形県水木田遺跡
←重文
福島県法正尻遺跡
←東京都
 木曽中学校遺跡
長野県屋代遺跡
富山県境A遺跡
影響を受けた土器
→ 長岡市千石原遺跡
魚沼市清水上遺跡
 125火焔型・王冠型土器
火焔型土器 誕生・成立期 誕生期
長岡市山下遺跡
十日町市野首遺跡
成立期
津南町堂平遺跡
十日町市野首遺跡
発展期 発展期
重文・津南町堂平遺跡
十日町市野首遺跡

重文・長岡市馬高遺跡
国宝・十日町市笹山遺跡

王冠型土器 誕生・成立期 誕生期
魚沼市清水上遺跡
長岡市岩野原遺跡
成立期
長岡市山下遺跡
魚沼市清水上遺跡
発展期 発展期
国宝・十日町市笹山遺跡
十日町市森上遺跡

重文・長岡市馬高遺跡
十日町市野首遺跡

 127火焔型土器や王冠型土器の較正暦年代
※火焔型土器や王冠型土器は意外と短命500年間で終わったと聞いていた。

しかし、中期中葉の頃、500年前後とされ、それ以降は、気候寒冷化のため、火焔型土器文化は消滅し、集落も途絶え、
代わって、胴部や蓋部にもめったやたらに突き刺し傷をつけた、刺突文土器文化に入ると考えていたが?
 
 130縄文土器文化の結晶
火焔土器の独特な形や文様が生まれた背景には、周辺地域の影響があったのではないかと考えられています。
竹管で渦巻き文やS字文を描く手法は、北陸地方の新崎式から引き継がれました。
口縁部の鶏頭冠突起は、東北地方南部の大木式に深く関わっています。
また、キャタピラ状の隆線文やトンボ眼鏡状突起は、関東・中部地方の勝坂式や新巻・焼町式の特徴と考えられます。
様々な地域の流儀を取り込み、発展させることで、火焔型土器は誕生しました。
火焔型土器は縄文文化の結晶であり、その到達点と言えます。

 131分布図
縄文土器文化の結晶 縄文土器文化の結晶 列島各地の土器形式
 132火焔型土器と同時代の土器形式
 133
 134
 135
勝坂式土器
曽利式土器
重文・山梨県一の沢遺跡
山梨県釈迦堂遺跡

山梨県津金御所前遺跡
県宝・長野県曽利遺跡
阿高式土器
鹿児島県宮之迫遺
 136日本列島の土器文化圏
 137中期土器土器
浅鉢形土器
野首遺跡 中期
深鉢形土器
大井久保遺跡 中期
深鉢形土器
笹山遺跡 中期
有孔鍔付土器
幅上遺跡 中期
深鉢形土器
野首遺跡 中期
 
 
 
 
 


 140国宝火焔土器展示室

 141
国宝展示室 火焔型土器(深鉢)
縄文中期 笹山遺跡
 142
 145
深鉢形土器
縄文中期 笹山遺跡
 146
深鉢形土器
中期 笹山遺跡
 147
深鉢形土器
中期 笹山遺跡
浅鉢形土器
中期 笹山遺跡
 
 150
 154
火焔型土器(深鉢)
縄文中期 笹山遺跡
 155
火焔型土器(深鉢)
縄文中期 笹山遺跡
 156
王冠型土器(深鉢)
縄文中期 笹山遺跡
 157
火焔型土器(深鉢)
縄文中期 笹山遺跡
 

 160火焔型土器の文化圏
火焔型土器は東日本の200を超える遺跡で確認されており、そのほとんどが新潟県内に分布しています。
長野県や群馬県など周辺地域でも火焔型土器に似た土器が見つかっていますが、それらは新潟県内のものに比べ土器の形や文様が変容しています。

典型的な火焔型土器は新潟県内に分布が限られ、最盛期の火焔型土器は津南町、十日町市から長岡市にかけての信濃川上流から中流の地域に集中しています。この地域には大規模な集落も多く、「火焔土器のクニ」と呼べるような一大文化圏が形成されていました。火焔型土器のクニの真ん中に、今日の十日町市があったのです。
 161panel
火焔型土器の文化圏 火焔型土器の文化圏
上に記述
 162火焔型土器の分布
 163十日町市の火焔型土器の分布
十日町市の火焔型土器の分布 十日町市の
火焔土器出土地
➀大原開墾地
②大原
③寿久保
④新町新田
⑤菅池
⑥中子北
⑦中子南
⑧池之端
⑨行塚
⑩野首
⑪久保山
⑫笹山
⑬西山
⑭蟹沢
⑮上ノ山開墾地
⑯上ノ山
⑰新座原A
⑱四ッ宮
⑲上塚原A
⑳幅上
㉑小阪
㉒カウカ平A
㉓川治上原B
㉔伯父ヶ久保
㉕牧脇
㉖城倉
㉗麻畑原A
㉘天池A
㉙仏子田
㉚川道
㉛桃山
㉜雲南
㉝田沢向井原
㉞珠川A
㉟大井久保
㊱芋川原
㊲森上
㊳林中
㊴向原Ⅰ
㊵芳沢
㊶深田
㊷橋詰居村
㊸十文字
 165pottery
深鉢形土器
中期 野首遺跡
深鉢形土器
中期 笹山遺跡 
         
台付鉢形土器
中期 南雲遺跡
深鉢形土器
中期 幅上遺跡
深鉢形土器
中期 小坂遺跡 
         
 
 
 
 


 200縄文時代の十日町

 201土器
縄文時代の十日町
 202
深鉢形土器
草創期 隆起線文土器
干溝遺跡
深鉢形土器
草創期 隆起線文土器
干溝遺跡
鉢形土器
前期 
赤羽根遺跡 
浅鉢形土器
前期 
赤羽根遺跡 
 203注口土器
注口土器
中期 野首遺跡
 204
鉢形土器
後期 栗ノ木田遺跡
 


 210縄文のあけぼのと土器


縄文時代の始まりは、今から約16,000年前に土器が作られ、使われ始めた頃と考えられています。
縄文時代より前は後期旧石器時代と呼ばれ、石器を使った狩猟や採集を中心とした生活が行われていました。
縄文土器の発明により、食料や食べ方、暮らし方などに大きな変化が起きましたが、竪穴式の住居などは作られておらず、定住した生活はまだ行われていなかったと考えられます。土器とともに始まった縄文時代の十日町を訪れてみましょう。

 211土器の形と用途
縄文土器の形や文様は、使用された年代や地域の特徴を表しています。最も多く作られたのが深鉢形で、その多くにススやコゲが付着しており、煮炊きに使用されていたことがわかります。

草創期や早期には底の形が丸や尖った土器が多く見られます。
前期には浅鉢や壺の形をした土器が出現します。
中期には立体的な装飾や、有孔鍔付、台付、注口部の付いたどきも加わります。
晩期には薄く精巧な土器が作られました。同じ形・文様で、大きさが異なるものも見られます。

縄文の人々は、用途に応じて多種多様な土器を作り、暮らしを豊かにしていったのです。

縄文のあけぼのと土器 縄文のあけぼのと土器
上に記述
土器の形と用途
上に記述

 土器の変遷
晩期
縄文土器から弥生土器へ
BC.1200年
後期
豊富な器形と磨り消し縄文の発達
BC.2400年
中期
器形の多様化と大型化
BC.3400年
前期
浅鉢・壺の登場
BC5200年
草創期
編籠から土器へ

早期
尖底土器の隆盛
 215隆起線文土器 縄文時代草創期 久保寺南遺跡
隆起線文土器
縄文草創期
久保寺南遺跡
隆起線文土器
 216隆起線文土器 草創期 十日町市

小丸山遺跡B地点
壬遺跡(じんいせき)

田沢遺跡

久保寺南遺跡
 217爪形文土器 草創期 十日町市
爪形文土器
田沢遺跡 草創期
爪形文土器 草創期
小丸山B地点
おざか清水遺跡
爪形文土器 草創期
中田D遺跡
 218多縄文土器 草創期 十日町市
多縄文土器
田沢遺跡
多縄文土器
田沢遺跡
多縄文土器
おざか清水遺跡
多縄文土器
小丸山遺跡B地点
多縄文土器
中田B遺跡
 
 220最古の土器
 1998年に青森県外ヶ浜町大平山元Ⅰ遺跡の発掘調査で出土した無文土器は、放射性炭素年代測定の結果、今から約16000年前の土器であることがわかりました。日本列島では古い時代に土器が出現していたのです。土器の出現により、生活は大きく変化しました。土器の内面にはコゲが付着していることが多く、土器は、煮炊きする道具として発明されたことが推測できます。
 十日町市内では、中里地域の田沢遺跡や壬遺跡、久保寺南遺跡などで、約15000年前~11300年前の草創期の土器が多数出土しています。1万数千年も昔の、十日町で見られた炊事のようすが想像できます。

最古の土器
最古の土器
上に記述
信濃川と清津川合流付近の縄文草創期遺跡分布図 十日町市・津南町付近の草創期遺跡
大平山元Ⅰ遺跡土器 大平山元Ⅰ遺跡土器

 230縄文人の食と道具
縄文時代の人々は、土器を使用して調理することにより、食べられるものの種類が格段に増えたと考えられます。
春の山菜や夏から秋のキノコ、木の実、魚、動物など、季節に応じた食料を食べていました。調理する道具として、石皿や磨石等も多く発見されています。
しかし、いつも安定して食料が手に入るものではなく、多量に取れたものを保存や貯蔵するさまざまな方法を考えていました。
豊かな縄文人の食の世界をご覧ください。

 231四季の食と生業
縄文時代の人々は、季節により変わる自然資源をしっかり把握し、計画的な生業活動をしていたと考えられます。春は残雪の消えた場所で、ワラビやゼンマイなど山菜の再私有が始まり、冬眠から目覚めた動物の狩猟が行われます。秋には産卵のため、川を遡上するサケやマスなどの魚類を捕獲しました。
秋に実がなるドングリやトチの実などの堅果類は、アク抜きする方法を発明し、食べることができるようにしていました。また、堅果類は安定して採取できるため、食べるものが少ない冬季の保存食でもありました。自然とともに生きる縄文人の知恵です。

縄文人の食と道具 縄文人の食と道具 縄文人の食と道具 四季の食と生業
 233縄文カレンダー
縄文カレンダー
(全国版)
土器に付着した煮炊きの跡
森上遺跡土器焦付き
土器の発明と食べ物の増加
・土器以前
 生食か焼いた

・土器登場後
 煮る・蒸すが加わる
・結果
 可食物の飛躍的増加
 食中毒の減少
 235縄文の食物残渣
新潟市豊原遺跡
シカ骨出土状況
阿賀町室谷洞窟
獣骨出土状況
阿賀町室谷洞窟
獣骨
魚沼市黒姫洞窟遺跡
ノウサギの骨
魚沼市黒姫洞窟遺跡
サケ椎骨
 
 240狩りと調理道具
縄文時代の人々は、食料となる動植物を狩猟や採集するため、様々な道具を作って使用していました。弓矢は、狩猟を行うために発明された、画期的な道具の一つです。ウサギ猟に使用されたワラダは、近現代の民俗資料にも残されています。
魚を取るための道具には釣針や銛などがあり、動物や魚の骨格で作られました。調理の道具として最も作られ、使用された物が土器です。
土器の発明以前は、食料を焼いて食べることがほとんどでしたが、新たに煮たり蒸すことができるようになりました。土器によって、縄文人の食生活はバリエーション豊かになったのです。

 241弓矢
狩りと調理の道具 狩りと調理の道具 弓矢の発生
石槍
十日町市貝野沢田遺跡
石鏃
十日町市貝野沢田遺跡
 242狩猟と道具
丸木弓
新発田市青田遺跡
狩猟法と用具 ヤリ猟
弓矢猟 ワラダ猟 ワナ猟
十日町市椿池遺跡
陥穴
熊猟は、巣穴に入った状態の熊を狩るという。
こんな恐ろしい猟わすると、毎回誰かが事故死するかも。
鹿を追い込んで近づいてくる鹿に矢を射かける。 兎はワラダを投げると鷹と思って止まる。その時矢を射る。
片手に弓矢を持っている絵が必要。
くくり罠猟は動物にワナを見せない。

落し穴の逆茂木は尖らさず、単に逃げないように動きを封じるものともいわれる。
 243漁撈
ツリ猟 銛漁とヤス漁 投網漁と地引網 ヤナ猟とエリ猟 ウケ(ツヅ)漁 

※ツヅ漁とは筒漁の
新潟訛りですね。

宮城県沼津貝塚
ツヅ漁
新発田市青田遺跡
 
 

 250食の道具 十日町市
 251石器 草創期 久保寺南遺跡
石槍
草創期 久保寺南遺跡
石槍未成品
草創期 久保寺南遺跡
削器
草創期 久保寺南遺跡
石刃
草創期 久保寺南遺跡
掻器
草創期 久保寺南遺跡
石核
草創期 久保寺南遺跡
打製石斧
草創期 久保寺南遺跡
局部磨製石斧
草創期 久保寺南遺跡
有溝砥石
草創期 久保寺南遺跡
敲石
草創期 久保寺南遺跡
 253尖頭器
石槍
草創期 田沢遺跡
有舌尖頭器
草創期 
石槍 草創期
小丸山遺跡B地点
有舌尖頭器
草創期 白羽毛遺跡
有舌尖頭器
草創期 伊達八幡館跡
舟底形石器
草創期 愛宕山遺跡
半月形石器
草創期 向田遺跡
局部磨製石斧 草創期
原水無遺跡
原遺跡
 255石鏃
石鏃 前期
赤羽根遺跡
石鏃 前期
おざか清水遺跡
石鏃 中期
笹山遺跡
 257
石鏃 後期
中島遺跡
石鏃 後期
内後遺跡
石鏃 後晩期
樽沢開田遺跡
 
 260調理の道具
 261
石匙 前期
赤羽根遺跡
石匙
樽沢開田遺跡
 262
石錘 縄文中・後期
野首遺跡

漁撈具・編布用錘
釣針形石器 中期
横割遺跡

非実用品
石匙 中・後期
野首遺跡
万能ナイフ
 263
クッキー状炭化物
津南町沖ノ原遺跡 中期
石皿・磨石
中・後期 笹山遺跡
石皿・磨石
中・後期 野首遺跡
石皿・磨石
中・後期 南久保遺跡
 
 270縄文クッキング
縄文時代の人々は、石器を使って調理していました。
土器の中でも深鉢は食べ物を煮る、蒸す、アク抜きをする道具、
注口の付いた土器は液体を注ぐ道具として使用されました。
石器は、動物の肉や魚などを切る、木の実などを叩く、磨り潰す道具でした。

また、食べ物を保存するための様々な方法が考えられました。
クルミやドングリなどの木の実は編み物に入れ、土中に掘った穴に貯蔵されます。
肉や魚は燻製にして、山菜などは乾燥させて、屋根裏などに保存しました。現代でも通用しそうな保存法です。
 271縄文の調理
縄文クッキング 食べ物の調理法 アク抜きと粉づくり 縄文クッキーの作り方 雑炊と魚の蒸し焼きの作り方
長野市岩野原遺跡
石皿とクッキー状炭化物
津南町沖ノ原遺跡
クッキー状炭化物
 272食べ物の保存方法
食べ物の保存方法 魚や肉の燻製 貯蔵穴による
木の実の貯蔵
長岡市大武遺跡
クルミ貯蔵穴
胎内市野地遺跡
クルミ廃棄土坑の
編み物と木製品
 
 

 280縄文人のファッション
縄文人の衣服は、植物の繊維を編んで作った服が一般的でしたが、動物の毛皮を加工した服も身に着けていました。
衣服には、身体の保護や防寒、装身具には性別や身分などを示す目的があったと考えられます。
耳飾りなどの装身具の流行は、縄文人がファッションやアクセサリーなどに高い関心をもつ豊かな感性を持っていたことを示しています。
あなたも、縄文人になった気持ちでタイムスリップして、縄文ファッションを楽しんでください。
 281
 編布と装身具
縄文人はアカソやカラムシなどの植物から採った繊維で糸を作り、それを編んで布や衣服を作っていました。俵やスダレを編むような工具で編んだと考えられています。動物の毛皮を加工した服も身に着けていました。縄文人の顔つきや髪型、体型、服装などは、土偶からある程度推定できるのです。
また、遺跡からは、髪飾り、首飾りなど数多くの装身具が出土しますが、中には漆やベンガラなどが塗られたものがあります。
装身具の素材は石や粘土だけでなく、木、骨、角、貝などバラエティ豊かでした。縄文人はオシャレだったのです。

縄文人のファッション 編み布と装身具
縄文人の装い 縄文のアクセサリー いろいろな形の縄文服
土偶
十日町市小坂遺跡
土偶 玦状耳飾の縄文人
土製耳飾りの縄文人
耳飾りと首飾
十日町市内遺跡
大珠(垂飾)
十日町市布場遺跡
 283縄文の装身具
      勾玉 中・後期
上ノ山遺跡 
 勾玉 後期
長者原A遺跡
勾玉 後期
栗ノ木田遺跡
垂飾 早期
狐窪遺跡
ヒスイ加工品 中期
梶花遺跡
大珠 中・後期
野首遺跡
垂飾 中・後期
野首遺跡
垂飾 中・後期
笹山遺跡
 284装身具
大珠 中・後期
南雲遺跡
小玉  中・後期
南雲遺跡
勾玉 中・後期
南雲遺跡
垂飾 中・後期
寿久保遺跡
小玉  中・後期
寿久保遺跡
大珠 中・後期
寿久保遺跡
垂飾 中・後期
上ノ山開墾地遺跡
 285ベンガラ
ベンガラ塊 中・後期
野首遺跡

 装身具
玦状耳飾 前期
伯父ヶ窪遺跡
玦状耳飾 前期
寺ノ下地内遺跡
玦状耳飾 前期
カウカ平A遺跡
玦状耳飾 前期
赤羽根遺跡
玦状耳飾 前期
カウカ平A遺跡
 286樽沢開田遺跡出土品
土製耳飾 後・晩期
樽沢開田遺跡
土偶 後・晩期
樽沢開田遺跡
土偶 土製耳飾 後・晩期
樽沢開田遺跡
耳環
 287耳飾り
土製耳飾 中・後期
野首遺跡
土製耳飾 中・後期
笹山遺跡
 

 290縄文人の衣服

縄文人は、身近な植物を利用して編布やカゴ等を作っていました。この縄文人が来ている衣服の布地は、アンギン編みという技術で復元されています。
1着分の布地を編むために1年程の時間がかかりました。アンギンは、十日町市とその周辺地域に古くから遺されている民俗資料で、カラムシとうの植物繊維を材料うとした糸から作られた編布です。その起源は、縄文時代前期、約7200~5400年前まで遡ります。

 291縄文人の装束
縄文人の衣服 縄文人の装備 縄文人の平均身長
男性158cm 女性149cm

背負いカゴ…森で集めた木の実やキノコ、編みカゴの材料が入っています。
石匙…石を打ち欠いて作った万能ナイフ
手提げカゴ…川原で集めた石器を作る材料。原石
土堀り棒…長芋・ユリ根・ノビル等の球根を掘る
クツ…脛は脚絆で覆い、足にはゾウリのようなものを履いていたと考えられる。
縄文人の衣服
上に記述
カラムシ アンギン編道具
 293
手提げカゴ 土堀棒を持つ男
 
 300縄文人の住居とムラ
 301
 303冬バージョン
 
 310住居とムラを作る 
縄文人住居は、円形の竪穴式住居が一般的でした。直径5~8m、深さ30~50cm程の穴を掘り、4~7本の柱を立てて屋根を組み、屋根材で覆い、風雨や雪に耐える工夫をしていたと考えられています。その他に平地式、高床式などの住居もあります。
約6000年前の縄文時代前期後半までには定住的なムラが作られるようになり、中期になると住居、建物などが環状あるいは馬蹄形に広がる大規模な集落が営まれました。斜面を利用した土器捨て場や貯蔵穴など、計画的なムラ作りが行われました。遺跡からは暮らしやすさを追求したムラづくりのようすが伺えます。
 311
住居とムラを作る 住居とムラをつくる
上に記述
笹山遺跡
 312赤羽根遺跡遺構配置図
赤羽根遺跡遺構配置図
遺構配置図 赤羽根遺跡のムラ
 313幅上遺跡遺構配置図
幅上遺跡遺構配置図
幅上遺跡のムラ
 314野首遺跡遺構配置図
野首遺跡遺構配置図 野首遺跡のムラ
 
 320縄文のムラ・ネットワーク
ムラとムラの間では、婚姻や親戚づきあい、交易を通じて人々が行き来していました。このため、土器の意匠が互いに似ていたり、特定の場所でしか採れない貝や宝石が広く行き渡りました。
例えば、世界的に見ても珍しい新潟県姫川周辺のヒスイは、北海道や沖縄等数千キロメートルも離れた地域にまで運ばれました。
これらの資源には、それを持つ人に力が備わるような象徴的意味があり、交易することによって情報を交換し、友好関係を強化することができました。
縄文時代の十日町は、思いがけないスケールの交流ネットワークの一部でした。
 321黒曜石
縄文のムラ・ネットワーク
黒曜石の産地 黒曜石のネットワーク
十日町市に運ばれた
黒曜石の原石
黒曜石の産地 北海道
白滝(遠軽町)
置戸(置戸町)
十勝(上士幌町)
赤井川(土木川)
東日本 深浦(青森県)
男鹿(秋田県)
板山(新潟県)
大白川(新潟県魚)
佐渡(新潟県)
二上山(富山県高岡市)
月山(山形県鶴岡市)
北上川(秋田-岩手)
高原山(栃木矢板市)
浅間(長野軽井沢)
麦草峠(佐久-茅野)
箱根(神奈川)
柏峠(静岡県)
神津島(東京都)
諏訪・和田(長野県)
西日本
隠岐島(島根県)
姫島(大分県)
腰岳(佐賀伊万里市)
淀姫(長崎佐世保)
日東(鹿児島出水市)
上牛鼻(薩摩川内市)
三船(鹿児島市三船)
 322ヒスイ
ヒスイの流通
縄文後期後半~晩期
糸魚川市六反田南遺跡
ヒスイ原石

 325モノづくりの道具
縄文時代では、生活に必要な道具はもちろんのこと、道具を作るための道具も自分たちで作りました。皮革製品を作るための皮なめし用石器や、
道具同士を繋ぐ縄、樹木を伐採する斧などです。モノは実用的であると同時に象徴的な意味を持っており、特に伐採用の斧の先端に装着する磨製石斧は珍重され、中でも姫川周辺で採れる蛇紋岩製の石斧は、交易品として日常的な交流範囲を越えた地域まで運ばれたのです。蛇紋岩製の斧は破損しても繰り返し作り直され、小さくなるまで大切に使い続けられました。まさに縄文時代の大ヒットブランドです。

モノづくりの道具
上に記述
糸魚川市六反田南遺跡
蛇紋岩製磨製石斧
石斧の着柄方法 斧による伐採
 326石錐・黒曜石原石
石錐 後・晩期
樽沢開田遺跡
石錐 後・晩期
野首遺跡
黒曜石原石
中・後期 野首遺跡 
 327板状石器・三脚石器
板状石器 中・後期
野首遺跡
板状石器 中・後期
笹山遺跡
三脚石器 中・後期
野首遺跡
三脚石器 中・後期
笹山遺跡
 328石斧
打製石斧 中・後期
野首遺跡
磨製石斧 中・後期
野首遺跡
磨製石斧 中・後期
笹山遺跡
打製石斧 中・後期
笹山遺跡
 329砥石
砥石 中・後期
笹山遺跡
バチ形石器 中期
宮ノ上A遺跡

これも砥石?
砥石 中・後期
野首遺跡
 
 330縄文人の祈り
縄文人は、社会が永く続くためには、神や精霊の持つ超自然の力が必要と考えていました。そのため、土偶や石棒、二至二分に関連する記念物、墓などを作って、その力に働きかけるための祀りを行っていました。
縄文人の社会の核心には性と親族関係があり、あらゆる道具・施設にそのような関係性が込められています。
特に土偶と石棒は性的な原理の象徴であり、墓は彼らの死生観を表します。縄文人の祈りの世界に触れてみましょう。

  二至二分とは、夏至と冬至、春分と秋分
 331
 土偶―女性の象徴 とても素晴らしい文章である。
土偶は親族や子孫の繁栄を願って作られました。人間に似た姿で、乳房や突き出た下腹部などにより、女性性を表現しています。子供を抱いた形に作られることもあります。
東北地方から中部地方にかけての地域では約5400年前から、関東地方では約4400年前から急増し、約2400年前の縄文時代の終りまで存在しました。
縄文時代のなかで 最も複雑で精巧な土偶は、東北地方から新潟で約3200年前から作られた「遮光器土偶」です。
女性を象徴する土偶が長い期間、広い範囲で見られることは、縄文社会にとって性が普遍的で強固な原理であったことを表しています。

縄文人の祈り 縄文人の祈り
上に記述
土偶―女性の象徴

上に記述


 土偶の移り変わり
  長野・山梨県地方
前期~晩期
関東地方
早期~晩期
 
新潟県地方
前期~晩期
東北地方
前期~晩期
 ※三沢市に縄文早期の土偶があります。
 
早期~前期
東日本
中期 東日本
後期 東日本
晩期 東日本
 
 340祈りの道具
 341
三角形土偶 中期
野首遺跡
土偶 中期
野首遺跡
三角形土偶
三角形土版
土偶 中期
笹山遺跡
三角形土偶
笹山遺跡
 342
土偶 中期
南雲遺跡
土偶 中期
大井久保遺跡
土偶 中期
中子南遺跡
土偶 中期
ぼんのう遺跡
土偶 中期
小坂遺跡
 343
土偶 中期
カウカ平A遺跡
土偶 中期
下梨子遺跡
土偶 中期
横割遺跡
土偶 中期
幅上遺跡
 344
土偶 後・晩期
平林遺跡
土偶 後・晩期
樽沢開田遺跡
土偶 後期
蟹沢遺跡
 345
土偶 後期
中島遺跡
土偶 後期
野首遺跡
 348
三角壔形土製品 中期
小坂・野首・ぼんのう遺跡
三角壔形土製品 中期
ぼんのう遺跡
スタンプ形土製品 後期
野首遺跡
三角壔形土製品 中期
笹山遺跡
 
 360石棒―男性器の象徴
石棒も子孫繁栄を願って作られたもので、男性の性器をかたどっています。起立させた状態で住居内や屋外の施設に設置されることがあり、祀りの行為を想像させます。男性原理の現れは、石刀・石剣のような細長い製品や、石冠のような亀頭状の製品にも見ることができます。
こうした石製の道具で女性性をかたどったものはなく、石は男性性と強く結びついていたのです。石棒の形状は極めてシンプルですが、北陸地方から新潟では、約4800年前頃に限って、装飾的な彫刻を施す例が多く見られ、男性性が特別に考えられていたことを示しています。
 361
石棒―男性器の象徴 石棒―男性器の象徴
上に記述
有鍔・彫刻石棒の分布 北陸地方の分布
ぼんのう遺跡
彫刻石棒出土状況
長野県佐久穂町北沢
大型石棒
十日町市珠川A遺跡
彫刻石棒出土状況
十日町市珠川A遺跡
彫刻石棒出土状況
津南町芋川原遺跡
彫刻石棒
 363
岩板・独鈷石
後晩期 平林遺跡
岩板 後晩期
平林遺跡
独鈷石 後晩期
平林遺跡
三角壔形石製品
中期 笹山遺跡
スタンプ形石製品
後期 南雲遺跡
御物石器 後期
南雲遺跡
 365
石棒 中期
笹山遺跡
彫刻石棒 中期
彫刻石棒 中期 石棒 後期
野首遺跡
石棒
樽沢開田遺跡 後・晩期
伯父ヶ窪遺跡 後期
彫刻石棒 中期
内後遺跡
彫刻石棒 中期
上ノ山開墾地遺跡
 

 370弔い―死者を送る儀式
「弔い」とは、死や死者をめぐる儀礼や習俗のことです。縄文人も多様な方法で弔いを行っています。
新潟県では、遺体に矢尻やサメの歯を副えて埋葬した例が有名ですが、十日町では、土器を頭部にかぶせて埋葬し、その上に石を敷き詰めて墓標のような石を立てた例があります。これは縄文時代後期(約4400年前~)のもので、縄文時代の墓の作り方としては手の込んだものです。
この頃、墓を住居に近い区域から独立させ、墓域と呼ばれる特別な空間を創出するようになりました。
 墓の形と墓域の変化は、死の世界との関係が変化したことを暗示しています。
 371
弔い―死者を送る儀式 弔い―死者を送る儀式 佐渡市堂の貝塚
副葬品のある墓
樽沢開田遺跡
立石配石遺構

 栗ノ木田遺跡の配石墓
第1号立石配石遺構 第21号配石墓
第25号配石墓
第1号配石墓下の土壙
第22号配石墓下の土壙

 野首遺跡の配石墓
配石墓群 第4号配石遺構
第29号配石墓
第18・23号配石墓下の土壙
第24号配石墓下の土壙


 373栗ノ木田遺跡 第21号配石墓 縄文時代後期
栗ノ木田遺跡 第21号配石墓 縄文時代後期

 375野首遺跡 配石墓群 縄文時代後期

  彫刻石棒 小坂遺跡 縄文時代中期
彫刻石棒
 
 380十日町市の遺跡
十日町市内では、旧石器時代から中世までの遺跡が発見されています。火焔型土器を代表する縄文時代の遺跡は、信濃川流域に形成された上位から低位の河岸段丘上に多く立地しています。弥生時代や古代の遺跡は、低位の河岸段丘上に立地します。中世の遺跡は、松之山街道などに沿った見晴らしの良い山頂部に山城が、山城直下の平坦地に館跡が見られ、山城と館跡が一対となって分布しています。十日町市内の主要な遺跡をご案内します。

 遺跡の広がり
十日町市域には、信濃川と渋海川の2つの大きな河川が流れています。信濃川は清津川や当間川、羽根川など多くの支流を統合しながら流れ、それら河川が形成した河岸段丘上で数多くの遺跡が発見されています。両河川の流域で発見される遺跡数には明らかな違いがあり、信濃川流域の348遺跡に対し、渋海川流域は52遺跡が発見されたのみです。縄文時代の遺跡数に限っても信濃川流域311遺跡、渋海川流域27遺跡と違いがあります。当時の人々は平坦面が少ない渋海川流域ではなく、河岸段丘の広い平坦面がある信濃川流域を選んで、ムラ造りを行ったのでしょう。

十日町市の遺跡
上に記述
遺跡の広がり上に記述 十日町市の遺跡分布 十日町市の遺跡名


  時期別の遺跡数
十日町市内では旧石器時代21遺跡、縄文時代339遺跡、弥生時代11遺跡、古代15遺跡、中世118遺跡が発見されています。(2019年4月現在)。
特に縄文時代の遺跡が数多く発見されており、中期の遺跡が4割以上、前期と後期もそれぞれ2割を占めています。
約5000年間という長い時間を占める草創期は、中里地域に遺跡が集中していることが注目されます。
弥生時代以降は遺跡数が急速に減少する特徴があります。縄文時代の十日町は、多くのムラが集まるにぎやかなクニでした。

時期別の遺跡数
上に記述
時代別遺跡数の推移 縄文時代の時期別
遺跡数の推移
 
 
 
 



 500 常設展 織物の歴史


 501入口外観
織物の歴史
 510織物とは
織物は、経糸と緯糸を組み合わせて作った布です。
織機に縦糸を張り、綜絖(そうこう)という道具で交互に上げ下げし、その間に緯糸を通して打ち込む作業を繰り返して織り上げます。
最も基本的な織り方は、経糸と緯糸が一本おきに交差した平織です。
布を織る技術は、中国大陸から伝わったと考えられており、日本列島では平織の織物が弥生時代に作られるようになりました。
 511織ると、編む
織物と編み物の違いはなんでしょう?織物は経糸と緯糸を交差させて織り上げます。
布を織る技術なかった縄文時代には、経糸と緯糸をからませた編布が作られていました。
織布の糸には古くから植物繊維が利用されており、多く使われていたのが麻とカラムシ(苧麻)です。
カラムシはイラクサ科の多年草で、山野に自生していました。
弥生時代には中国から絹が伝わりました。戦国時代の終り頃には木綿が栽培され、江戸時代になると、庶民に広く使われるようになります。
明治時代以降には羊毛が本格的に利用されるようになりました。

織物とは 織物とは 織ると、編む 編布と織布の組織
 512繊維のいろいろ
カラムシ
ミヤマイラクサ
アカソ
アサ
カジノキ
コウゾ
ノダフジ
クズ
シナノキ
オヒョウ
ワタ
カイコ・マユ
 515幻の布、越後アンギン
アンギン(マギン・バト)は、カラムシやアカソ、ミヤマイラクサ(イラ)などの植物繊維を撚り糸にして、スダレのようにもじり編みの技法で編まれた布です。この布は法衣や敷物、袖なし、前掛け、袋など様々な用途に使われました。
その起源は縄文時代前期(約7200~5400年前)まで、遡り、同様な編布片が出土しています。
現在、製品や技法が残されているのは十日町市や津南町周辺のみで、製品は「越後アンギン」と呼ばれています。
この布は江戸時代の文献にのみ登場する幻の布でしたが。1954年(昭和29)に民俗学者の小林存によって、津南町結東地区で初めて実物が発見されました。

幻の布、越後アンギン 幻の布、越後アンギン アンギンの素材
イラクサ・アカソ・カラムシ
 516越後アンギンの編み方
 517アンギン編布
アンギンを編む様子 ・イラ(草)の繊維(アンギンの素材)を取り出す老婆
・アンギン(マギン)の図
・阿弥衣(編布)柏崎市専称寺
・阿弥衣を着た一遍上人一行
アンギンを着た農夫
足元が裸足である
 518多種の繊維と織布
クズの繊維と織布
シナノキの繊維と織布
オヒョウの繊維と織布
繭の繊維と織布(絹)
カラムシの繊維と織布
麻の繊維と織布
カジノキの繊維と織布
ノジフタ(フジ)の繊維と織布
 519越後の織物
越後縮(麻織物)
明石縮(絹織物) カラムシの繊維 アンギン(編布) アンギン衣服(袖なし) 重文 アンギン編工具
明治~昭和初期
アンギン編道具
明治~昭和初期
 


 520古代 ~白越の時代~

律令国家が成立すると、政府は織布を調や庸などの税物として庶民に納めさせました。調はその土地の産物、庸は労役の代わりに納めるものです。
奈良時代の正倉院には、天平勝宝年間(749-756)に越後国久疋(頸城)郡夷守(美守)郷から貢献された、カラムシ製の庸布が所蔵されています。
越後国産の織布は、時代を追うごとに品質を高め、平安時代中期には白越と呼ばれて、庶民の着用が禁じられるほどの高級品でした。
今でいう超一流ブランドだったのです。

 521古代のアンギン
古代~白越の時代~ 古代~白越の時代~

 越後国と佐渡国ができるまで
越後国と佐渡国ができるまで 越国時代(~689年)
三ヶ国に分国(690年)
越中から越後へ4郡を編入(702年)
越後国から出羽郡が出羽国に分国(712年)
古代北陸道の国々(9c)
越後国と佐渡国の郡
魚沼郡と頸城郡
 522奈良・平安時代の道具
アンギンの圧痕が付いた土師器の坏
勾玉・管玉
釣針・鉄鏃
刀子、鎌 鋤鍬先、紡錘車軸 須恵器坏 身・蓋 土師器・須恵器の坏 土師器・須恵器
甕・壺
 523機織りの始まり
日本列島では、機織りは弥生時代早期に九州北部で始まり、中期後半には南関東まで広がったといわれています。
機織には繊維から糸を作る製糸と、布を織る製織の工程があります。
製糸では紡錘車や撚った糸を巻き取る綛(かせ)など、
製織ではマイバ、糸枠などの他、原始機や地機が使用されます。
原始機は機台のない織機で、古墳時代後期まで存続しました。
地機は機台があり、古墳時代中期以降に普及し、原始機より長い布を織ることができました。
機を織る女性をかたどった埴輪が古墳から出土しています。

機織りの始まり 機織りの始まり 越後国の庸布
佐渡国の調布
両方共カラムシ製

  白越の生産
白越(織布)の生産      紡錘車の使い方 

  織物埴輪と織機
重文・機織形埴輪
栃木県甲塚古墳
古墳時代後期
機織形埴輪の
復元イメージ
国宝・伝沖ノ島出土
金銅製高幡(奈良・平安)
一般庶民が白越の着用を禁じた記録

 525馬場上ムラの暮らし
馬場上遺跡は、博物館の西側に広がる古墳時代中期から奈良・平安時代の集落です。1974~1984(昭和49~59)年に市立西小学校等の建設に伴い、
計6回の発掘調査が行われました。
遺跡からは、紡錘車と織布の跡が付いた土器が出土しました。また、古墳時代後期以降の住居にはカマドがあります。鋤無鍬先などの鉄製農具が出土していることから、米や野菜、雑穀類の他、糸の材料となるカラムシも栽培していたと考えられます。
古墳時代から行われた機織りの伝統は、近世の「越後縮」、近代の「明石ちぢみ」、そして現代の「十日町織物」に受け継がれています。

馬場上ムラの暮らし 馬場上ムラの暮らし 馬場上遺跡の
遺構配置図
馬場上村の風景
奈良時代
馬場上ムラの住まい
 


 530中世-越後布の時代

カラムシの繊維を精製したものが青苧です。越後産の青苧を原料とした織物は、越後布(白布)と呼ばれていました。
鎌倉時代以降、越後布は朝廷や貴族、武将たちの贈答品として珍重され、室町時代になると、武家の式服として使用されました。
また、この地域の寒冷で湿潤な気候は、良質なカラムシを産出し、越後産の青苧は麻織物の原料として関西地方に出荷されました。

中世 -越後布の時代 中世 -越後布の時代

 531山城と館跡 ~新田氏一族の足跡~
鎌倉時代になり武家政治が始まると、この地域には上野国(群馬県)の新田氏一族が進出し、信濃川の各支流に勢力を伸ばしました。
中でも大井田氏は中心的な一族でした。1333年(元弘3)に、新田義貞が鎌倉幕府討伐の兵を挙げた時、真っ先に駆け付けたのが越後の新田氏一族です。以来、この一族は動乱の南北朝時代に一貫して南朝方に属し、日本各地で戦いを続けましたが、1368年(正平23)に北朝軍との決戦に敗れました。この地域に残る多くの城館跡は、新田氏一族が戦った跡と考えられており、山城(要害城)の麓には館跡跡(居館)も発見されています。新田氏一族が見た、夢の跡です。

山城と館跡
-新田氏一族の足跡-
新田氏一族と
市内城館跡の分布
伊達八幡館跡の
遺構配置図
 533城館跡出土品
短刀 中世
柳木田遺跡・笹山遺跡
管耳瓶・金銅製仏具
中世 伊達八幡館跡
龍耳壺・金銅製仏具
中世 第八幡館跡
珠洲焼
越前焼壺 下駄、茶臼 茶臼
珠洲焼壺

 535越後布と青苧の生産 
越後の南朝勢力が敗退すると、この地域の新田一族は足利・上杉氏に従って存続しました。その後、越後守護代の長尾氏が台頭すると、一族の多くはその家臣となります。戦国時代には、上杉謙信(長尾景虎)・景勝の武将として活躍しました。この頃、この地域は越後布(白布)とその原料である青苧の主要な産地でした。
商人が集荷した青苧は、柏崎や直江津の港から苧舟(おぶね)と呼ばれる専用の船に積み込まれ、京や大坂へ運ばれました。
青苧の流通は青苧座と呼ばれる組織が独占し、上杉氏はこの組織を掌握していました。青苧座からの収益は上杉氏の重要な財源の一つでした。

 536生産
越後布と青苧の生産  越後布と青苧の生産  越後布と青苧の生産
 537新田一族
越後新田一族の遠征と転戦 大井田城跡復元模型 大黒沢正平在銘梵字碑模型
 538青苧・越後布の生産と流通 文献資料
青苧・越後布の生産と流通 青苧・越後布の生産と流通

 540機織り
 541原始機
 542原始機
原始機は、機台を持たない織機です。経糸の一方を固定し、もう一方を織り手の布巻具に巻き付けて張りをもたせ、緯糸(よこいと)を入れて緯打具(刀杼とうひ)で打ち込んで布を織り上げます。
原始機には経糸(たていと)の保持方法によって、直状式と輪状式の2種類があるといわれています。

直状式では、経糸の両端が固定され、織り手は布を巻き取ると同時に前進します。
一方の輪状式では、経糸が輪状に掛けられるため、織り手は動くことなく、経糸を回して布を送ります。織り上がった布の形は、直状式では一枚の長方形状、輪状式では一連の輪状になります。
以前は、原始機というと直状式のみでしたが、近年の研究では、輪状式の存在を示す出土資料が増えています。ここでは、輪状式の原始機を復元しました。

原始機 原始機
輪状式
直状式 直状式原始機の復元
 544地機
ピンボケ 地機  地機

 地機のしくみ
 545機織道具
 


 550近世

 高機
高機は、織り手が腰を掛けて製織できるように、機台を高い構造にした織機です。足で踏み気を踏むことで、経糸を上下に開口させます。数枚の綜絖(そうこう)が取り付けられているため、綾織が可能となりました。また、経糸が機台に固定されており、地機のように体を前後に動かして、経糸の張り具合を調節する必要がなく、均一の地合いの織物が効率的に織られるようになりました。
高機では昭和時代初期、十日町の名を全国に轟かせた「明石ちぢみ」(絹織物)も織り出されています。
.
髙機 高機 高機で明石ちぢみを織る 高機のしくみ
力織機(動力織機)


 麻織物から絹織り物へ

  近代 ~明石ちぢみの時代~

麻織物から絹織り物へ 現代
-十日町織の時代-
 織りと染野総合産地     未来へ続く十日町織     
 
 
 
 



 600 常設展 雪と信濃川


 601
雪と信濃川
 



 610 川と生きる

信濃川は、日本一長い川です。甲武信ヶ岳に源を発し、長野県内を千曲川として流れ、新潟県に入ると、信濃川と名を変えて日本海に注ぎます。信濃川は、物資を運ぶ道であり、その水は発電、上水道、灌漑用水、工業用水などに利用されてきました。また、川の豊かな流れは多くの生命を育み、人々に恵みを与えてきました。信濃川はまさに母なる大河です。

 611
 水上の道
信濃川を利用した水上輸送は、この地方の流通や経済に大きく貢献していました。荷舟は主に年貢米を運び、明治時代になると下り船で米、木炭、酒など、上り舟で塩、砂糖、醤油、海産物などの生活物資を運ぶようになります。舟着場では、商店が営まれ賑わいました。また、信濃川には渡し場が何か所もでき、渡し舟は両岸をつなぎました。しかし、日本が近代化した明治時代以降に橋が架けられ、道路や鉄道などの陸上交通が整備されると、荷舟と渡し舟はその役割を終えました。水上の道としてにぎわった信濃川は、故郷の記憶の中に息づいています。
川と生きる
水上の道

 渡し船
渡し船の操船法 ケーゴシ(流し船)

トモ(船尾)につけた櫂を漕いで舟を進めます。舟は川上に船首を向けて斜めになります。普通、羨道は一人ですが、増水時は2~6人で越すこともあります・
クリブネ(刳り船)
ツナゴシ(綱越)

舳先(ヘサキ船首)に立って、岸から岸へ張った綱を手で引っ張り、船を動かします。船首をまっすぐ川上に向けて、足で船を支え、胸の高さで肘を曲げて綱を持ち、体をそらすようにして引きます。
テツサクゴシ(鉄索越)

川を横切って高く張った2本の鉄索に滑車を付け、それから下げた鉄線で船をつなぎ、ヘサキで櫂を使います。船は斜めになり、船が動くと滑車が回って進みます。
 612渡し船の分布と交通網
 渡し舟と橋
渡し舟は、人や荷物などを対岸に運び、川で分断された両岸を結んで、道をつなぐ役割を果たしてきました。
しかし、明治時代以降だんだんと橋が架けられるようになり、1964年(昭和39)には、この地方の渡し舟は消滅しました。

渡し船の分布と交通網
渡し船と橋
橋梁分布図 最初の十日町橋 十日町駅 十日町乗合自動車
待合所

 613河戸・川人・山師・筏乗りの分布(明治~大正時代)
 河戸と川人(こうどかわど)
可戸(河渡)とは、荷舟や筏の荷を積み下ろしする舟着き場のことです。川人は、川で働く人の総称ですが、ここでは、舟と筏に乗る人の実をあらわしています。

 山師と筏乗り
木材を売買する人を山師と言います。筏乗りは、山師に頼まれて材木を筏に組み、信濃川を下って長岡辺りまで運びました。

河戸・川人・山師・筏乗りの分布(明治-大正) 河戸と川人 河戸・川人・山師・筏乗りの分布(明治-大正) 川人が信仰した水天宮 羨道の服装 信濃川を下る筏
 614通船と積荷
浅河原の朝屋は、持ち舟の江連舫「朝屋丸」により通船業を営む商家でした。下り荷として米や土台石を積んで長岡へ運び、帰路は上り荷として食料・雑貨品などを積み、新光寺で陸送に中継して運びました。しかし、陸送の発展に伴い、1907(明治40)年から続いた朝屋の通船業も、1922年(大正11)4月の運航を最後に廃業され、この地方の信濃川通船事業に終止符が打たれました。

通船と積荷 通船と積荷 大舟の荷積み
大正10年代
米輸送に使われた大舟
昭和初期
曳き舟 昭和30年頃

ピンボケで何の文書かわからない
川に入って
3人が船を曳き、
2人が川岸と接触しないように竿で押している
 
 630信濃川絵図
 640暴れ川・発電の川
信濃川は洪水を繰り返す暴れ川でした。太平洋戦争後、初代十日町市長・中山龍次は、古くから繰り返されて来た水害の年表を作り、人々の窮状を訴え、国を動かして広範囲の堤防を築きました。この功績がたたえられて、現在もこの堤防は中山堤防と呼ばれています。
また、信濃川水系では、明治30年頃から水力発電が始まりました。川の水は上流で取水され、送水管で山の中を通り、下流の発電所に送られます。現在、発電された電気は上越線や首都圏の鉄道の運行に利用されています。暴れ川との戦いも、発電も、川と共に生きる暮らしのかたちです。
 641
暴れ川・発電の川 決壊寸前の十日町橋
昭和10年頃
結界寸前の中条鴨橋
1950年
冬の堤防工事
現在の堤防と水田
 643信濃川の発電所群
信濃川の発電所群 江連舫  
 
 


 700 雪国十日町


 701雪と暮らす
雪国の一年は、雪が積もる雪季と、雪のない夏場に分かれます。雪季になると、人々は半年もの間、雪の中で生活しなければなりません。しかし、人々は雪に耐え忍びながらも、雪を利用し、次の夏場に向けて、衣食住の準備を怠りませんでした。なぜなら、夏場は人々が大地を耕して作物を生産し、生活を確保する時期だからです。雪季と夏場という、二つの別世界が繰り返されて育まれた、雪国特有の生活文化に展示を通して触れてください。

 雪とたたかう、雪を活かす ~冬の外仕事~
冬の外仕事は、雪とのたたかいでした。主な仕事は、屋根や家の周りから雪を取り除く雪掘り、雪を踏んで道をつくる道ふみ、ソリで重い荷物を運ぶソリ引きなどがあります。雪掘りの道具は、木製のコシキでした。道ふみでは、スッポンという藁製の長靴にカンジキや大型のスカリを付けます。ソリには、載せる荷物によっていくつもの種類がありました。この他に、雪の性質を利用した作業に、布や紙の材料、藁や竹細工などを漂白し強くするための雪晒し、雪を貯蔵して夏場に利用するための雪室造りなどがあります。雪から生活を守り、雪を活かす、雪国ならではの仕事です。

雪国十日町 雪と暮らす

 711街中の雪堀り
この地方では、雪下ろしのことを「雪掘り」と言います。屋根から落とした雪が、玄関等を塞いでしまうため、取り除く必要があるからです。
家が建て込んでいる市街地では、道路に雪を落とすことになり、壁のように高く雪が積み上げられていました。
各家では軒先から雪を下ろし始め、ユキドヨ(雪樋ゆきどい)が使われています。
現在、一般に使用されているスノーダンプは、昭和50年代以降に普及したものです。人々は、雁木の下を行き来していました。

街中の雪堀り

市街地での雪掘り
道路に積み上げられた雪
雁木
スノーダンプを使った除雪
道路に積み上げられた雪 雪樋 鳥追いとホンヤラ洞
向こうに見えるのは
チンコロ

 712鳥追いとホンヤラ洞(ほんやら洞)
鳥追いは、小正月の1か説14日夜から15日朝にかけて行われる予祝義洋二です。子供たちは拍子木を打ち鳴らして、作物を食い荒らす悪い鳥を追い払う
「鳥追い唄」を歌いながら、村や町内を回り、家々から餅や菓子をもらいます。その後、ホンヤラ洞(雪穴)の中で、もちを焼いたりして過ごしました。
ホンヤラ洞には、雪壁を巡らす城壁型と、屋根から落ちた雪を積み上げた八鬼山に横穴を掘る刳り抜き型があり、ここではこの地域に多く見られる刳り抜き型を復元しています。

鳥追いとホンヤラ洞 鳥追い・ホンヤラ洞 城壁型のホンヤラ洞
刳り抜き型ホンヤラ洞

 私の最初の記憶の「ホンヤラドウ」は月間漫画雑誌「ガロ」に掲載されたつげよしはるの「ほんやら洞のべんさん」である。
確か、一人暮らしのべんさんの民宿に泊まった主人公が、べんさんと共にべんさんの元妻の養殖池から錦鯉を盗み出してアライにして食っちまうってなストーリーとしか覚えていない。「ほんやら洞」は民宿の名前だったかな、何しろ50年も前のことなので。

 その時は、"ほんやら"は、ぐうたらな宿の主人べんさんの性格をひょうげんしているものかと思っていた。新潟県出身の大学生もいたが聞くほどのことではないと思っていた。いま、それが、「かまくら」のことだとは思ってもみなかった。いや、物語の中には鎌倉の絵があったのだが、すっかり記憶から跳んでしまっていた。
 50年前に1回読んだだけの、だけど、みょうに心に引っかかるお話でした。

 新潟県地方ではホンヤラドウ  秋田県地方ではカマクラ なのか。
 漫画雑誌ガロで有名になった人に、ローカル線バス乗り継ぎ旅蛭子能収がいる。みんな年を取ったな。

 713雪室
雪室は、夏に鮮魚等の冷蔵に利用するため、冬に降った雪を貯蔵しておく施設です。3月下旬頃になると、雪を山形に積み上げ、その表面を藁製の編み物で覆い、その外側には茅と笹で屋根が組まれます。雪室の雪は、主に料理店や鮮魚店等で使用されました。ユキノコギリを使って切り出された雪は、
大八車に載せて利用者まで運ばれます。雪は食品の冷蔵だけでなく、病人の看護にも利用されました。

雪室 雪室造り 鮮魚の冷蔵 雪の切り出し
雪の配達
雪室造り
雪室
 
 715農家の冬支度
農家では、10月の末頃になると冬の支度にとりかかりました。雪の重さから家や庭木を守るため、雪囲いをします。玄関には、竿と茅を使ってユキダナと呼ばれる仮説の出入り口が造られ、母屋は落とし板で囲われます。
玄関の近くにあるダイコタテ(ダイコツグラ)は、大根を保存する藁製の貯蔵施設です。以前は、100~200本くらい貯蔵できるものが作られていました。また、イロリ(ジロ地炉)やカマドで焚く、薪も積んでおきます。

農家の冬支度 雪だな 落とし板 ダイコタテ 薪
チンコロ
 717節季市とチンコロ (※節季市=せっきいち)
節季市は、季節の終りに開かれる市で、以前は旧暦の12月に6回の市がありました。近隣の村の人々が、藁、竹細工等をもちよって売り、正月の買い物をして帰りました。正月が新暦になってからは、1月に4回開かれています。この市は、別名「チンコロ市」と言われます。チンコロ(小犬)は米の粉で作る糝粉細工(しんこ)で、食紅で着色され、犬や猫など動物の形に作られています。ヒビが多く入る程縁起がいいとされ、一番人の商品です。

節季市とチンコロ 節季市とチンコロ

上に記述
節季市 節季市 チンコロ

 ※「節季」って何だろうと思っていた。そういえば、昔、「節季払い」という言葉があった。現金収入の乏しい時代、支払いは年に2度か1度。
 昔の賃金の支払いの区切りに合わせての支払いという習慣。 すると それに合わせて、市が立ち、ムラが賑わうということのようです。

 719雪国の民家
民家は初め、家族が一つの部屋に雑居する単室型でしたが、その後、必要に応じて間仕切りをしたり、馬屋や物置等を別棟に建てるようになります。
しかし、この地方は豪雪地のため、母屋から切り離して別棟を造ることを避けて、一つの建物に全てを取り込むようにしました。
この地方に多く見られる「中門造り」の家は、こうした理由から発達したものと考えられています。
展示の移築民家は、中条地内で約200年前に建てられました。

雪国の民家 雪国の民家

上に記述
移築前の民家
民家の移り変わり
中門造り
中門造りの家
 
 720冬支度
農作物の取入れが終わる10月末頃になると、冬の支度にとりかかります。雪の重さから家を守るため、木材や萱などで戸口を囲い、玄関には雪棚という仮設の入口が造られます。庭木にも添え木をします。家の中ではコタツをあけ、土間の敷物も換えました。まだ脱穀していないイネは庭先に積み上げ、薪を家に運び込みます。長い冬をしのぐため、大根や野沢菜、白菜を洗って漬け込み、大根やイモは凍らないようにダイコタテやイモ穴に貯蔵します。

雪の中で使う履物や着物、道具類の準備も大切。冬支度が終わると、山野は雪に覆われ、次は正月を迎える支度です。

冬支度 冬支度

上に記述
一年の生活暦
 721農家の冬支度
農家の囲い(当間) 庭木の囲い 漬菜洗い 大根干し 大根タテ 焚き物入れ
ボイニュウ
 722囲炉裏を囲んで ~冬の内仕事~
昔の農家では、雪が降ると家の中が仕事場になりました。男たちは稲の脱穀や米搗きを済ませると、土間でワラやスゲなどを材料に履物や被り物を作りました。女たちは家事や育児をしながら、苧績(おう)みをしてカラムシの繊維から糸作りをしました。機織は一冬ひとり1反が平均的な生産量でしたが、冬の唯一の現金収入となり、農家の暮らしを支え、今日の織物産地・十日町の基礎となりました。
家族は囲炉裏で暖を取り、その灯りを使って仕事をしました。食事もこの周りで行われました。家族の暮らしの中心に囲炉裏がある。暖かさと懐かしさを感じる冬の情景です。

囲炉裏を囲んで
~冬の内仕事~
囲炉裏を囲んで
~冬の内仕事~
ジロばた ワラボシ編み ミノ作り ワラ叩き 機織
 724春を待ちわびて
正月や小正月は、豊作を願う予祝行事が多い時期です。鳥追いやホンヤラドウ、ドウラクジン(サイノカミ)は代表的な行事で、大人も子供も一緒に参加し、明るい春を呼ぶ祭典でした。
3月になり、日差しが強まると、農家では少しでも早く農作業をするため、雪上に土をまいて雪消しに精を出します。ソリに堆肥をのせて田畑に運ぶ肥引きや、山から薪を伐り出す春木山と呼ばれる仕事もありました。子供たちは外に飛び出し、ソリや竹スキー、凧揚げなどを楽しみました。雪の上の遊びには、春を待ちかねた
子供たちの思いがこもっていました。

春を待ちわびて 橇遊び ホンヤラ洞
鳥追い
節季市
チンコロ売り
味噌づくりと
味噌豆
雪晒し 肥引き
 
 725雪国の暮らし
 
 


 800導入展示室

※新十日町市立博物館は、玄関の中に広いエントランスルームがあり、その奥に「導入展示室」という前室があります。
 この部屋から、国宝展示室を始め、3つの常設展示室に進めます。
 
 「導入展示室」では、壁面に横一直線に、「縄文時代とは」「気候と地形」「織物と雪国の風土」のミニ展示がされています。
 ミニ展示とはいえ、導入ですから、非常に重要でかなり専門的知識も含んだ展示です。

 更に、天井に4台のプロジェクターが設置されていて、縄文織物信濃川と雪、それぞれのテーマ展示室の壁に導入映像が流れていて
 これから入ろうとする常設展示の基礎知識が見ているだけで自然に学べるようになっています。 

※ただし、大変撮影が困難な展示で、うまく撮れていないので最後に掲示しています。ご容赦のほどを願います。


 801導入展示の導入映像
     映像・画像と文字で解説が流れます。大変勉強になりました。
     画像中央の横に入った黒い帯は、専門的知識を教えるミニ展示です。
縄文時代と火焔土器のクニ
織物の歴史
雪と信濃川
最後の壁には県内の博物学的風景写真が投影されている 導入ミニ展示の上に画像・映像を投影
  以下、各導入展示の紹介

 810縄文時代とは(常設展示“縄文”向けミニ展示)
 811

 814世界史の中の縄文時代
 縄文時代とは、土器の出現(約16000年前)から水田稲作が開始(約2400年前)されるまでの日本列島で、採集・狩猟・漁撈を主な生業とする人々が定住生活を始めた時代です。
新潟県の信濃川流域で、火焔土器が作られていた縄文時代中期には、世界で農耕社会や都市文明が始まっていました。
狩猟・採集を中心とした生活が1万年以上も続いた縄文時代は、世界史~見てね非常に珍しいじだい です。その後、弥生時代になると稲作農耕が始まり、古墳時代には古代国家が成立し、一気に文化が進展しました。独特な文化を育んだ縄文時代に触れてみましょう。

世界史の中の縄文時代
縄文時代と世界の文化

 815土器の始まり
 土器は粘土をこねて焼いた器です。土器が出現した理由はまだよくわかっていません。
カゴに粘土を貼った容器が偶然に焼けて発見された、植物で編んだカゴや獣皮の皮袋に似せて造られたなどの説が示されています。

日本国内で出土する最古段階の土器はほとんどが深鉢であり、内側にコゲが付着していることから、土器は煮炊き用の鍋としてつくられるようになったと考えられています。
土器の登場により、縄文時代の人々の食生活には大きな変化が起こりました。
食料となる資源の種類が増えただけでなく、複数の食材を組み合わせた料理が可能となり、人々の嗜好の多様化につながったとされています。
縄文時代のグルメも、土器と共に始まりました。

 土器づくりが始まった場所
 信濃川とその支流である清津川との合流点周辺は、日本列島で土器が作られ始めた頃の遺跡が数多く発見されている国内有数の地域です。
中でも田沢・壬遺跡(十日町市)と本ノ木遺跡(津南町)は2019年(令和元)、国史跡に指定されています。また、久保寺南・干溝遺跡では、隆起線文土器と呼ばれる最古段階の土器が出土しています。


土器の始まり 土器づくりが始まった場所
合流点付近の遺跡
土器の発生 隆起線文土器の成立
1.2万年前
久保寺南遺跡(十日町)
  爪形文土器
卯ノ木南遺跡(津南)
円孔文土器
壬遺跡(十日町)
多縄文系土器
室谷洞窟遺跡(阿賀町)
   
 816一万年以上続いた縄文時代
 縄文時代は「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の6期に区分され、各時期には地域ごとに共通した形と文様をもつ土器が見られます。
そして、土器に付着したコゲ(炭化物)を放射性炭素年代測定で分析することで、土器の年代を知ることが出来ます。
現在、日本国内で最も古い土器の年代は、青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器の16500前で、これまでの測定データに基づくと、6つの時期の年代は左の物差しの通りです。
弥生時代から現代までの長さは約2400年ですから、縄文時代がいかに長く続いたのかがわかります。
1万年以上続いた縄文時代
コゲの付いた土器 縄文~現代の時間 現代の時間物差し
 818自然環境が育んだ縄文文化


自然環境が育んだ縄文文化
旧石器-現在
気候の変化
旧石器-縄文の
文化の変化
縄文草創期・早期の
植生
縄文前半と後半の
植生の違い
 
 830気候と地形
 831雪が降る
 十日町市は、日本でも有数の豪雪地帯です。どうしてこれほどの雪が降るのでしょうか。
冬になると、日本にはシベリア大陸から、冷たい北西の季節風が吹き込みます。新潟県沖の日本海を流れる暖かい対馬海流により、冷たい空気は温められ、水蒸気を沢山含んだ空気が雲を作ります。
この雲が季節風に乗って新潟県上空にやってくると、山脈にぶつかって上昇気流が起き、積乱雲が発達して雪が降ります。

十日町市は、山々に囲まれているため、大量の雪が降るのです。
日本海側に雪を降らせた季節風は、三国山脈を越えると、関東平野に吹く空っ風となります。

気候と地形 雪が降る 雪が降る 冬の日本海
豪雪のメカニズム
新潟県の積雪深分布

 832雪の華
 雪の結晶は、気温マイナス25℃の冷たい上空で生まれます。その大きさは3mm程です。
雪の結晶が六角形であることは、江戸時代か知られており、土居利位は結晶をスケッチした『雪華図説』(1832・天保8~13)の中で、これを紹介しています。また、結晶は様々な形をしているため、「雪は天から送られた手紙」と言われます。
雪は0℃以上になると粘り気を増します。
十日町市の気温は、0℃を前後することが多いため、「雪まくり」や「冠雪」など美しい雪の造形が生まれ、雪国の風景を彩る華となるのです。


雪の華 雪の華 樹枝付角板
角板
験微鏡を以て雪状を審に観たる図
雪に見られる独特な現象
雪まくり
冠雪

 833一夜三尺、一日五尺
十日町市の積雪は平均で2mを超えます。11月下旬の初雪から、翌年4月下旬の雪消えまで雪の中での生活が続きます。
これまでの観測で、雪が最も多く積もったのは1945年(昭和20)2月26日の425cmでした。
また、1944年(昭和19)12月~1945年(昭和20)1月にかけて、1ヶ月以上に渡り休むことなく雪が降り続きました。夜になると雪は音もなく静かに積もります。
1952年(昭和27)に作られた歌の「十日町ブギ」(永井白眉作詞。飯田信夫作曲)には、「一夜三尺一日五尺」という歌詞があります。
三尺は約90cm。五尺は150cmです。一晩に50cm以上雪が積もることは珍しくありません。まさに驚きの積雪です。

一夜三尺一日五尺 十日町市の過去の積雪深
雪の記録
最大積雪深4m25cm
最長積雪期間166日間

最長連続降雪38日間
 834信濃川と悠久の台地
十日町市の地形は、信濃川によって形成された河岸段丘に特徴付けられます。
十日町と川西地区には9つの河岸段丘が広がっており、川の浸食と海水面の低下、地面の隆起が作用して出来たといわれています。

この地域の台地の基盤は、魚沼層群と呼ばれる岩盤です。
浅い海の内湾に堆積した土砂が固まったもので、一番下の層は250~200万年前のものと言われています。
魚沼層群の中からは鮫の歯や魚、カニ、貝、植物、ゾウの歯の化石が発見されています。
その後信濃川が運んだ土砂に覆われて河岸団杞憂が形成されました。その上には、十日町市に暮した人々の足跡が残ります。


信濃川と悠久の台地
河岸段丘の広がり
ピンボケ
化石等ピンボケ 河岸段丘と土層
不明瞭
河岸段丘が出来るまで
みえない
 
 850織物と雪国の風土
 851雪国の風土
 十日町市の市街地は盆地にあり、この地形が独特の気象を生み出しています。一つは多量の降雪、もう一つは内陸盆地的な気候です。
十日町市の年間降水量は、全国平均の倍以上です、その約4割が降雪によるものです。
平均風速は新潟市の半分以下、空気中の湿度は、年間平均70%(全国平均64%)です。
また、盆地の中央を信濃川が流れているため、豊富な地下水に恵まれています。
こうした気候風土が、麻織物の原料であるカラムシ(苧麻)の生育や麻織物の生産に適していました。
大昔から連綿と続く十日町の麻織物、それは雪国の風土からの贈り物です。


雪国の風土
雪国の風土 十日町市の月別気象
新潟市の月別気象
 853雪は縮の親
 江戸時代、夏物の生地として名声を得た越後縮も雪国の風土から生まれました。
塩沢の文人・鈴木牧之が著した「北越雪譜」(1837~1842年・天保8~13)には、越後縮に関する記述が見られます。
糸を績むことを苧績みといい、姿勢を正し、呼吸を合わせて作業しました。
糸を紡ぎ始めてから縮布を織るまで、全てが冬の雪が降る時期に行われました。
糸が切れないようにするために、湿気が必要だからです。また、糸や布を漂白する晒しは雪上で行われました。
糸を作り、織り、晒すまで、「雪ありて縮あり、~雪は縮の親」であると牧之は記しています。

雪は縮の親 糸撚り
雪中晒縮図

 855女衆と縮織り
 機織は、女性の仕事でした。半年間も雪の中に籠って暮すゆ雪国の女性にとって、毎日をむなしく過ごさなくて済む仕事だったのです。
女性には、縮を織る技術が第一に求められ、幼い頃から機織を習って日々励みました。
上質の縮を織る熟練者になると、高貴な方から注文をもらうこともできたのです。そして、機織の上達や家内安全、病気の全快などを願って、
神社に奉納幡を納めたり、扉の格子に布切れを結び付けました。
機織は、農家にとって貴重な現金収入であり、雪国の生活の一部でした。女性たちの苦労なしには、越後縮は生まれなかったのです。


女衆と機織り 機織り、奉納幡
 
 


  十日町雪ものがたり

※豪雪地帯に来たのですが、豪雪の凄まじさを伝える写真がなく、困っていましたが、観光協会で訪ねると
「十日町雪ものがたり」を教えて頂きました。だれでも閲覧できるように置いてありました。
撮影の許可を頂いて、やっと博物館のプロジェクターで流れていた映像とよく似た豪雪画像を入手することが出来ました。

 860雪国と縄文文化
 861雪と縄文文化
 国宝の火焔土器は、そのほとんどが信濃川水系の魚沼地方から長岡市周辺までの豪雪地帯に集中している。
縄文時代の人々は一体何を食べ、どのような暮らしをしていたのだろうか。火焔土器から4500年前の祖先のくらしが浮かび上がる。

十日町雪ものがたり 雪と縄文文化
雪と縄文文化 国宝火焔土器№1 雪と縄文文化

 雪と縄文文化
 火焔土器は今から4500年前の縄文時代中期の新潟県特有の土器である。
火炎土器を出土する遺跡は県内に170ヶ所もあるが、新潟県内全域から出土しているわけではない。
 その75%に当たる128遺跡が信濃川水系に集中しているのである。
しかも、信濃川水系の上流部の魚沼地方を中心に、中流域の長岡市周辺までの豪雪地帯に集中しているのが火焔型土器の特色でもある。

火焔型土器が誕生した今から4500年前の縄文時代中期の降雪量は現在よりも多少小雪であったが、大きな差はなかったといわれている。

笹山遺跡の発掘調査は、昭和55年から60年までの6年間に、約1万5000㎡が発掘、住居跡112基を含む約1万点の出土品が発掘された。
出土品の中で特に興味深いのは99.9%は新潟県固有の在地系土器であるが50点だけ遠隔地の土器が含まれていることである。
遠隔地と言っても、比較的近い隣接地であるが、内容は次の通りである。

一、東北地方(山形県・福島県等)の大木式土器―キャリパー型(朝顔の花形)の深鉢
二、北陸地方(富山県・石川県等)の新崎式土器―口縁部に大きな飾りをつける土器。
三、中部高地(長野・山梨・神奈川県等)の勝坂式土器―縄文がなく、ダイナミックな隆起線文が中心の土器。

こうした隣接地域の土器が笹山遺跡から出土しているということは、篠山の人々はこれらの地域との交流があって、物々交換で入手したのであろう。その交流ルートは信濃川であり、優れた土器との交換品は信濃川のサケ・マスなどの干物や燻製品であったと考えられている。


また、ある資料によると、縄文時代の時代区分と人口の推移は次の表の通りである。
 
時期 年代 人口
草創期 1万2000年前 
早期 9000年前  2万人 
前期 7000年前  11万人 
中期 5000年前  26万人 
後期 4000年前  16万人 
晩期 3000年前  7万人 

 前期と中期に人口が急増した最大の要因は、新しい食料の開拓に成功したことだといわれている。
 7000年前の縄文前期まではドングリはタンニンを含んでいるため食用にならなかったが、この時期に加熱と水さらしによってタンニンを除去することに成功した。
 また、5000年前の縄文中期にトチの実のサポニンを灰のアルカリで中和する加工技術の開発によって急速な人口増を実現したのである。
これを実証するように笹山遺跡からは製粉用の石皿や磨石が300点(石製品の4割)が出土しているし、
灰の貯蔵施設を備えている複式炉が32基(炉の29%)出土するなど篠山人の食生活の豊かさを裏付ける資料も少なくない。

 雪と信濃川から生まれた笹山遺跡は、今から4000年前の大きな地滑りによって埋没したため、農作業などで破壊されることが少なく、
火焔土器№1などは遺存率98%で、ほぼ完全に原形のまま出土するなど奇跡の遺跡であることが立証され。
発掘から僅か14年という超スピードで
国宝に指定された要因にもなっている。


 863縄文のくらし

縄文のくらし
上に記述
縄文時代の人々は季節毎に獣・魚・木の実などを採って食料にした。 サケ漁 ウサギ
栃の実の皮むき アンギン編

 870雪の写真物語
 871除雪作業
■ 昭和20年代 本町から水野町を望む
路に積み上げた屋根雪が、大屋根に届くほどの高さになる。こうなると雁木(がんぎ)が唯一の通路に

昭和32年12月
本町1~2丁目
キカイゾリ(手引橇)で炭俵を運ぶ
昭和40年代本町3丁目
屋根から降ろした雪でできた雪の塔
昭和31年2月
本町通から駅前通りに向かって
 キカイゾリに荷物を乗せて運ぶ人。大量の荷物は機屋さんの荷物か

 872雪掘り
 雪が降り続くと 十日町の景色は一変する。屋根は分厚い雪に覆われ、家の周りには屋根から降ろした雪がどんどん積み上がる。
道路の機械除雪が始まるまで、十日町の除雪はまさに雪の中から家を堀出すような作業だった。

 雪の中から家を掘り出す、豪雪地帯特有の言葉
  夜中に音もなく、ひっそりと静かに降り積もる雪。一晩に50㎝以上積もることも珍しくない十日町では、屋根の雪下ろしが度重なると、下ろした雪が家の周りに積み上げり、高い雪の壁ができる。窓は雪の壁でふさがり、家の中は昼でも薄暗い。
ミシミシと圧迫してくる雪の壁から家を守るため、壁板ぎわの雪を掘り上げ、その雪を雪の壁に向かって投げ上げたことから「雪掘り」と言うようになった。

 屋根の雪下ろしには「トヨ(雪ドヨ)」という道具が活躍した。トヨとは幅約40㎝、長さ約3.6mくらいの滑り板のこと。傾斜のある場所に何枚か連ねておき、そこに雪を乗せて滑らせる。表面にロウが塗ってあるので雪はさらさらと下に滑り落ちる。トヨを連結することで遠くに雪を運ぶことができ、雪下ろしは随分楽になった。

十日町で道路の機械除雪が始まったのは1950年代(昭和35年頃)。それまでは、大雪が降るとと人々は車を降り、ソリで物を運んだ。
道が雪で埋まるからだ。住宅が立ち並ぶ市街地では、除雪した雪を捨てる場所がないため、道路に雪を積み上げることになる。
雪下ろしのたびに、その雪がドンドン積み重なり、いつの間にか道路に点々と雪の塔ができていた。

住宅が混みあっている地域では、道路の幅いっぱいに雪の壁ができるため、人々は雪の壁の上を歩く。
時には大屋根を見下ろすほどの高さになることもあり、「この下にまちあり」と言われるほどだった。

西寺町から川西方面を望む
(昭和11年1月)
記事

上に記述
諏訪町から高田町を望む
(昭和42年1月)


 昭和10~30年、道路の機械除雪が始まる前の本町通りの様子。トヨを使って屋根雪を降ろし、家の周りを掘り上げる人の姿が見える。
トヨがなかった頃は、雪をコシキで四角に割り、木のクシに刺して運んだ。串から外した雪の塊は、雪の壁の上に更に積み上げられていく。
まっすぐ積み上げるのは コツのいる難しい作業だったので、中には「積み上げの名人」と呼ばれ、雇われてやってくる人もいた。

4月頃になると、この雪の道を一斉に崩す。
地元ではこれを「雪割り」とか「雪消し」と呼んだ。道路から高い壁がなくなると気分一新、ようやく春の到来である。

駅通りと本町通の交差点
(昭和38年2月)
本町2丁目
(昭和20年代)

上に記述

 873雪に祈る
 十日町はコシヒカリのなかでも特に味かよいといわれる「魚沼産コシヒカリ」の産地。
毎年、「百姓の正月」といわれる小正月には、今も一年の方策を願う「予祝儀礼」が行われている。

雪に祈る 鳥追いのホンヤラドウ
(昭和28年1月14日本町通付近)
秋の実りを願い、一年の方策を祈る


 秋の実りを願い、一年の豊作を祈る
 小正月の予祝儀礼とは、まだ雪深い年の初めに秋の実りを模したり、害鳥を追い払う動作を真似たりして、一年の豊作を願う行事のこと。
地域によって行事の呼び名や行われ方に違いがあるが、だいたい「百姓の正月」ともいわれる1月14日、15日の小正月に行われている。
1月14日には各家庭で「作飾り(団子飾り)」を作り、茶の間や神棚に飾る。作飾りとは繭や野菜をかたどった団子を木の枝に刺したもの。団子で秋の実りを表し、豊作を願うものだ。

 その日の夜は、「鳥追い」が行われる。鳥追いとは、田畑を荒らす鳥を追い払う動作を模して、一年の豊作を願う行事。鳥追いの主役は子供たちだ。
鳥追いの日は、町内の年長の子供たちが『ホンヤラドウ』と呼ばれる雪の小屋を作る。
ホンヤラドウは神様の依代(よりしろ)であり、子どもたちの籠もり小屋。子供たちはその中に火鉢を持ち込み、餅を焼いたり、ミカンを食べたりして、ひとしきり遊ぶ。夕暮れになるといよいよ出発。
拍子木をたたき、「ほーい、ほーい」と鳥追いの歌を歌いながら町内をまわる。ホンヤラドウで休みながら、鳥追いは夜更けまで続く。
この日だけは夜遅くまで起きていても怒られないので、子供たちにとっては1年の中でも特に楽しみな日だった。

 翌15日の早朝は「モグラモチ追い」が行われる。この行事もまた子どもたちが主役。子供たちは、ワラ打ちの横槌の柄に縄を付け、「モグラモチはどこへ行った」と歌いながら家の周りや田圃の中を引き回す。正月のうちに田畑を荒らすもぐらを追い払う様子をまねるのだ。

 その後は、いよいよ小正月の行事のクライマックス「サイの神」(ドンド焼き、ドウラクジン焼き)のお祭りだ。
「サイの神」とは集落を災厄から守る神様のこと。15日の朝、町内の男たちが前の年に刈った稲わらを使い、一日がかりで塔を組み上げていく。
サイの神ができ上ると火を付けて、正月飾りのしめ縄や門松、旧年中のお守りなどを一緒に燃やし、その年の豊饒を願う。
サイの神の煙にあたると丈夫になると伝えられており、人々はサイの神の火であぶった餅やするめを食べて、一年の無病息災を願う。

 874魚沼産コシヒカリは雪国の気候風土が育てた味
 魚沼産コシヒカリのふっくらと甘みのある味わいは、日本一のおいしさと言われる。
そのおいしさの秘密は水と土と気候にあるといわれており、雪とも深い繋がりがある。
春、山に積もった雪は雪解けとともに山に染み込み、山の養分をたっぷりと含みながら伏流水となって川に注ぐ。
その川の水で潤された土は力を得て、丈夫な稲を実らせるのだ。寒暖の差が大きい気候もおいしさに影響する。
十日町では、お盆を過ぎると寝苦しかった夏がうそのように、朝晩は肌寒いくらいになる。この寒暖の差が魚沼産コシヒカリのおいしさを育ててくれる。
夏の間、穂の中にたっぷりと貯えられたでんぷんが、朝晩の冷え込みで甘みをぎゅっと凝縮させるからだ。
大粒で甘い魚沼産コシヒカリはこうしてできあがる。
魚沼産コシヒカリの味わいは、雪国の気候風土が育んだおいしさなのだ。

作飾りを神棚に飾り一年の豊作と健康を祈る(昭和30年代猿倉)
サイの神
(昭和44年1月15日十日町郊外)
モグラモチ追い
(昭和30年代江道)
魚沼産コシヒカリは雪国の気候風土が育てた味
 
 880雪中に織る
 古代から良質な織物の産地だった十日町。カラムシと呼ばれる麻の一種で織られた越後縮(ぢぢみ)は、
十日町の雪と湿潤な気候が生んだ逸品で、江戸時代には将軍家の御召(おめし)として珍重された。
女性たちの手作業で織り出す越後縮は大切な収入源であり、当時の地域経済を支えるものだった。

 雪の中から生まれた越後縮
 越後縮はかつて越後の特産品として発達した麻織物。
盛夏でも肌に付きにくい、さらりとした地風がもてはやされ、将軍家などの御召として用いられた。
庶民の経済力が向上すると需要も高まり、天明年間にはおよそ20万反が生産された。
糸ごしらえや機織は、雪季(積雪期)でも屋内でできる女性の手仕事であり、一家の大切な現金収入となった。

 越後縮の原料は、イラクサ科のカラムシ(苧麻:ちょま)という植物であり、山野に自生しているものや栽培したものを用いた。
カラムシの外皮から取り出した繊維は青苧(あおそ)という。
江戸時代においては、1月中旬までに手作業で青苧を細かく裂いてつなぎ、2月からツム(紡錘車)で縒(よ)りをかけて糸とした。
雪が降り止んだ早春、タテ糸は糸で、ヨコ糸は青苧の状態で雪ざらしを繰り返す。
すると雪のように白くなり、光沢が出て、強く、しなやかになる。
これらを染めてから、4,5月にかけて織り上げる。この時期に織り出された縮は「新縮」と呼ばれ、高級夏物衣料として幕府や大名などに愛された。
需要が高まると通年織り出されるようになり、夏から秋までに織り出される「冬縮」と呼ばれる縮が大量に生産された。

雪中に織る 雪中に織る
十日町きものまつり
現代は絹織物産地に発展した
苧積み(おうみ)の様子
青苧を細かく裂いてつなぎ合わせ、1本の糸にしていく いざり機で縮を織る いざり機は原始機同様腰で常にたて糸全体、織り布全体を引っ張っている織り機です。
この時代にはもっと負担の少ない織り機があったが、使えなかったのか。
 

 890十日町平野

※この画像は、十日町駅から直江津駅を経て、上越妙高駅の間で撮影したものです。
私にはこの広大な農地の広がりと金色に波打つ稲穂がたまらなく美しく、珍しいものに思われます。
今見ると、新潟の湿田は、全て排水施設を設けて乾田化したものと思っていましたが、それでも水が溜まっています。粘それも美しい。

 経路は、十日町→犀潟駅(北越急行ほくほく線) →直江津駅(JR信越本線) →上越妙高駅(妙高はねうまライン)(旧駅名:脇野田駅)で
 ここから南へいくには「えちごトキめき鉄道」という、実に複雑怪奇な鉄道会社となっています。


※直江津から上越妙高駅です。
ここではまだハサミで切符を切る改札口がありました。 わざと置いてあるんですか。レトロ趣味で。と聞いてしまいました。 上越妙高の西側の展望は「光のテラス」と名前が付くほど美しかった。 が、この時すでに、ホテルが建ち並んで見るも無残な普通の景色になっていました。