[戻る][TOP]


 北海道の縄文 №24  2022.06.11-1

  ところ遺跡の館 北海道北見市常呂町栄浦371
   0152-54-3393 :月・祝日の翌日休館 撮影可

交通 レンタカー
近隣観光地 ・知床観光、網走周辺、阿寒・屈斜路・摩周湖周辺
・知床や三湖(阿寒~摩周)、網走・サロマ湖などは隣接の絶景Point。
拠点を決めて、車で巡ります。特に、早朝の摩周湖は絶景で、
摩周湖YHはとても便利で快適、居心地の良い宿でした。
近隣博物館 知床周辺・網走周辺・白滝周辺
宿泊情報 知床・サロマ湖・三湖周辺は高額(3万)、網走には手頃もあり(5千)。
私の場合摩周湖ユースホステルが最高でした。易くて清潔親切。便利。
 
 

 はじめに
 「ところ遺跡の館」では、QRコードが10箇所掲げられています。
 さすがに東京帝国大学です。QRコードに詰め込まれた情報は生きています。
私は展示物の写真を整理貼付して閲覧する時、画面の右に私のページを置き、左にQRコードのデータ画面を置くと、深い説明が得られて理解が深まった。QRコードに詰められた情報提供は生きて新鮮です。大変勉強になる資料です。

 博物館展示のIT化として、脚注をQRコードにした博物館がありました。
普通の来館者は、展示物をちらちらっと眺めて通り過ぎていく。展示物と一緒に一瞬目に入る脚注が理解の全てです。
どこの暇人がわざわざスマホを取り出してカメラで撮ってまで説明を見たりしますか。これはダメな IT化でしょう。(IT技術を知らない人のIT化)
チラ見しかしない来館者に、脚注をQRコードに暗号化してわからなくしてどんな意味があるのでしょう。と、思ってしまいます。

 もっとひどい、観客を馬鹿にした博物館は、展示物には番号をふって、脚注一覧表を別場所に掲示するっておおちゃくな館もありました。
観客は一覧表と展示物の間を往復せねばならない。結局誰も脚注を見ない。博物館の省力化だそうです。あぐらをかいているのでしょう。
 いろんな博物館がありますが、 とにかく、ここ、東大の博物館のQRコード利用は大変素晴らしかったです。最先端の展示方法でしょう。
放送大学の「博物館展示論」では取り上げられていないように思います。
 
 目次


はじめに
01外観
02常呂遺跡の森総合案内
03館内図
11入口展示
20研究の始まり
24オホーツクの先史文化の
  舞台・常呂
30時代区分
41②常呂遺跡の森 模型

100旧石器時代
111③常呂遺跡全景航空写真
120旧石器時代
123旧石器時代の石器
130常呂川流域の旧石器遺跡
131石刃・細石刃
132大正1遺跡
135北見市紅葉山遺跡
141北海道の黒曜石産地

200④縄文時代
202石刃鏃文化の分布
203石刃鏃文化と気候
204石刃鏃石器群
205石刃
206石刃鏃

300トコロ貝塚
320サロマ湖ができるまで
330トコロ貝塚
341北筒式土器
350常呂遺跡住居跡分布図
360遺跡のまち常呂

400縄文時代
412縄文土器の移り変わり
413早期・前期
415前期・中期
417後期・晩期

420土器
421早期
422前期
423前期末
425中期
430副葬品

431押型文土器
432副葬された玉・漆塗櫛
433土製品・勾玉
434縄文晩期の石器
450後晩期
451縄文人の墓と副葬品
453副葬品
454幣舞式
455晩期 副葬品
490縄文時代竪穴住居模型

500続縄文時代
501⑥続縄文土器
503蛙文土器(興津式)
※考察 蛙文土器
504大甕 宇津内式
505続縄文時代の地域と文化
510土器・石器
520前期土器
※考察 鳥の名前
540異形石器
551続縄文時代の交流交易
553続縄文住居
555続縄文前半の土器
561ミニチュア土器
562魚骨
563琥珀玉
564続縄文時代前半の首飾り
568副葬土器・玉類
580後北式~北大式

585続縄文時代後半
610族長墓の副葬品
614棒状原石
617装身具

700擦文時代
702くらしと文化
703復元住居
710擦文土器
713東北地方の搬入土器
715カマドの登場
730土器の時期と変化
740擦文土器
750須恵器と擦文土器
755紡錘車の使い方
756鉄器と鍛冶
757機織り機部品
760擦文住居の発掘
763擦文土器

800オホーツク文化
810海洋民族の道具
814オホーツク海周辺遺跡
820オホーツク土器
826貼付文期土器
827沈線文期土器
840オホーツク住居
843貼付文期
845骨塚
847クマの彫刻
850石器
853骨角器
854動物彫像
856木製品
858金属製品
860オホーツク人の墓
862副葬品
 クマの足跡文

880トビニタイ文化
※考察立オホーツク人
883トビニタイ土器
890竪穴住居の変遷

900アイヌ文化
911 300年前の木製品
912アイヌ文化の漆器
920道具
930アイヌ遺跡の出土物
940漁撈具
942石製模造品
943内耳土器
 
 01外観
常呂遺跡の森の一部 常呂遺跡の館
スズラン
私は北海道と云えば
スズランのimage

本物は初めて見たような気がします

 02ところ遺跡の森総合案内
「ところ遺跡の森」は、カシワ、ナラを中心とした落葉広葉樹の森林で、総面積は120,822㎡に及んでいます。
森の中には擦文文化(約1000年前)、続縄文文化(約1800年前)、縄文文化(約4000年前)の竪穴住居跡が約138軒あります。住居跡は地表面が大きく窪んでいます。住居の立地は、各文化により大きく異なり、
擦文文化の住居は台地の西側にある小沢の周辺に多く分布し、
続縄文文化の住居は台地の北側周辺にあります。
縄文文化の住居は、台地の北側から東側にかけて広く分布しています。
一遺跡の中で、各文化の住居の立地が異なっている事は珍しく、平成2年4月に史跡常呂遺跡として追加指定を受けました。

復元住居の案内
森の中には、擦文文化4棟続縄文文化1棟縄文文化1棟の復元住居のほか、屋根のない状態の遺跡露出展示住居も各一基建設しています。各文化により住居の形、内部構造が変化している点を留意してご覧ください。

ところ遺跡の森
総合案内
ところ遺跡の森
イラスト地図
音声ガイダンス機能Uni-Voiceのアプリがないと読み取れない
あきらめよう!→
遺跡の森案内図
 
 03館内図

出典不明
(1)ホール:常呂の遺跡を紹介するVTRを随時上映(約9分)
(2)「ところ遺跡の森」模型
(3)旧石器時代
(4)縄文時代
(5)続縄文時代
(6)擦文時代
(7)オホーツク文化
(8)アイヌ文化

館内パンフより
A 遺跡の森立体模型
B 旧石器時代:石器
C 縄文時代:石刃鏃石器群
D 縄文時代:トコロ貝塚
E 縄文時代:土器・石器他
F 縄文時代:竪穴住居模型
G 続縄文時代:土器・石器他
H 続縄文時代:竪穴住居模型
I 続縄文時代:墓の出土品
J 擦文時代:土器・機織機
K 擦文時代:竪穴住居模型
L オホーツク文化:土器石器他
M オホーツク文化:竪穴住居模型
N アイヌ文化:木製品
O アイヌ文化:鉄製品・ダラス玉他
 10
 11入口展示
 12➀
 20研究の始まり
 23
駒井和愛博士 駒井和愛博士 1905(明38)~1971 (昭46)
博士は1965年に東京大学を退官されるまで39年間在職され、多くの研究者を育てられました。東洋考古学の権威で、戦前は中国で発掘されていましたが、戦後は大陸と関係する北海道をフィールドにされました。そのような折に、大西信武氏そして常呂町との出会いがあり、 1957(昭32)年以来の東京大学による常呂での調査がスタート。1965年に東京大学常呂研究室が設置されるを基礎を固められました。「常に静かに物を見つめ、ことを考えた人」と評表されています。
大西信武氏 大西信武氏 1899(明32)~1980(昭55)
氏は、1924(大13)年に常呂に移住し、常呂遺跡を発見され、その保護に勧められました。そして、樺太から引き上げてこられた樺太アイヌの藤山ハル媼のところに言語調査に来ていた元東京大学の服部四郎博士と出会います。遺跡の素晴らしさを説得し、駒井博士を常呂に呼ぶまでに至ったのです。
当初の調査時には段取りよく、何事もこなし、東京大学常呂研究室の建設にも尽力されました。氏がいなければ、この遺跡の館も、東京大学も存在しなかったことでしょう。
「強い意志を持つ熱意の人」と言われます。
北見市内の遺跡地図
北見市内の遺跡地図
私たちの住む北見市には、現在までに480件の遺跡が確認されています。そのうち常呂には130件の遺跡が所在し、その中でも特に後世に残すべきと判断された10件の遺跡が国指定史跡「常呂遺跡」に指定されています。
宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半
(紀元前3−2世紀頃)
常呂竪穴群
宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
常呂竪穴群
○消滅の危機にあった常呂遺跡 ○消滅の危機にあった常呂遺跡
「常呂遺跡」の存在は、少なくとも明治時代には知られており、多数の竪穴住居跡が地表に残る場所として記録されています。
1957(昭和32)年からは東京大学文学部考古学研究室により本格的な調査が開始されました。
しかしその後「常呂遺跡」の一部である「常呂竪穴群」の地区で土砂採集が行われ、遺跡の一角が堀り崩されてしまいました。この土器は、当時、土砂採集現場で回収されたと伝わるもので、実際に遺跡のある場所が壊されてしまったことがわかります。
こうした事態を防ぐため「常呂遺跡」は1971(昭和46)年の北海道による仮指定を経て、1974 (昭和49)年に国の史跡に指定され、法律で保護されることになったのです。

 24オホーツクの先史文化の舞台・常呂
 常呂地域は北見市の東部、オホーツク海とサロマ湖に面した地域です。この地域では、約25,000年前の旧石器時代から、数百年前のアイヌ文化の時代までの遺跡が数多く見つかっています。
 日本列島の北端に位置するオホーツク海沿岸地域では、南の本州と北のサハリン、千島列島との双方から影響を受けた独自の文化が形成されていました。常呂地域の遺跡は、こうしたオホーツクの先史文化の発展の舞台となっていました。
「ところ遺跡の館」では、約25,000年間にわたる常呂の先史文化を、実際の遺跡から見つかった資料とともにご紹介しています。

国指定史跡: 常呂地域の遺跡のうち、4地区・10ヶ所からなる遺跡群は、一括で常呂遺跡として国指定史跡となっています。
北海道遺産: 常呂地域を含む「オホーツク地域の古代遺跡群」は、北海道遺産に選定されています。

オホーツクの先史文化の舞台・常呂
上に記述
遺跡分布図 沿岸地域の遺跡群
豊かな海産物が得られたのでしょう。遺跡密集地帯
史跡常呂遺跡
岐阜台地
常呂川河口遺跡
トコロチャシ南尾根遺跡
トコロチャシ遺跡
トコロ貝塚

 30時代区分
北海道の歴史の時代区分
日本列島の最北端に位置する北海道は、本州以南とは異なる歴史を歩んだことが知られています。
寒冷な北海道では、明治時代以前に本格的な農耕文化が栄える事はなく、基本的に狩猟・漁撈・採集経済の文化が継続していました。
特にオホーツク海沿岸地域では、本州方面からの文化的影響とサハリンや千島列島など、北方の文化の影響が交錯し、独特の文化が形成されました。
このため、北海道では、本州とは異なる時代区分が用いられています。

当館の展示で使用する北海道の時代区分呼称
旧石器時代 (~14,000年前頃) : 北海道に最初に人が住み始めた時代
縄文時代 (14,000~2400年前頃) :定住的な狩猟、採集民の時代
続縄文時代 (紀元前4世紀~紀元後6世紀頃) :縄文時代の伝統残した鉄器・石器併用の時代
擦文時代 (7~13世紀頃) :本州からの影響を受けた鉄器時代
オホーツク文化 (6~10世紀頃) :北方から来た異民族の文化。後にトビニタイ文化に変化する。
アイヌ文化 (14世紀~19世紀頃) :北海道における中世・近世にあたる時代

北海道の歴史の時代区分
旧石器~縄文早期
3万~7千年前
旧石器時代
3万年前 ・北海道最古の遺跡?
2.5万年前・北見市最古の遺跡(岐阜第二遺跡など) 石刃(岐阜第二遺跡)
縄文草創期
1.4万年前・北海道最古の土器
縄文早期
8.5千年前・石刃鏃石器群(トコロチャシ南尾根遺跡)
8.5千年前・石刃鏃石器が盛行する 押型文土器(常呂川河口遺跡)
早期~擦文 縄文早期
8.5千年前・石刃鏃石器群(トコロチャシ南尾根遺跡)
8.5千年前・石刃鏃石器が盛行する 押型文土器(常呂川河口遺跡)
前期末/中期初頭
5.5千年前・押型文円筒土器の流行
5千年前 ・トコロ貝塚など、貝塚が残される
晩期/続縄文初頭
2.5千年前・常呂川河口に多数の墓が造られる
1.9千年前・琥珀製首飾りが流行する
オホーツク・擦文時代
1.6千年前・オホーツク文化が南下する
続縄文~近現代 縄文晩期/続縄文
1.9千年前・琥珀製首飾りが流行する
オホーツク・擦文時代
1.6千年前・オホーツク文化が南下する
擦文・トビニタイ文化期
1.0千年前・トコロ地区に多くの擦文時代の集落が造られる
アイヌ文化
700年前 ・内耳鉄鍋を模倣した内耳土器が造られる
300年前 ・トコロチャシが築かれる
北海道の歴史の時代区分

上に記述
 
 40②
https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage2/
2.史蹟「常呂遺跡」と「ところ遺跡の森」

 41②常呂遺跡の森 模型

遺跡の発見と調査
 常呂地域に古い時代の遺跡がある事は早くから知られており、すでに明治時代には何人かの研究者による発掘調査が行われた記録もあります。
 しかし、継続的・組織的な遺跡の調査が始まったのは昭和30年代に入ってからでした。
 当時、地元で熱心に遺跡の保護を訴えていた常呂町民の大西信武氏の働きかけがきっかけとなって、

 昭和35年(1957)年東京大学の調査隊が常呂で発掘調査を開始する事になりました。
 昭和44(1967)年には、東京大学文学部の「常呂研究室」 (現・常呂実習施設)が開設され、現在も継続して所地域の調査研究を行っています。
 昭和49(1974)年には、常呂地域のうち、特に保存状態が良好な地区が「常呂遺跡」の名称で国指定史跡として登録されました。
 その後、史跡の範囲は追加・拡張され、現在約128haの範囲が保護されています。

遺跡の発見と調査
上に記述
国指定常呂遺跡
常呂遺跡の森地形模型 サロマ湖畔
ところ遺跡の森
凡例
1ところ遺跡の館
2常呂埋蔵文化財センター
3常呂陳列館
6続縄文の村
5縄文の村
4擦文の村
ところ遺跡の館
6続縄文の村
5縄文の村 


史跡「常呂遺跡」と「ところ遺跡の森

「ところ遺跡の森」は、国指定史跡「常呂遺跡」の一部、サロマ湖に面した区域を史跡公園として整備したものです

史跡「常呂遺跡」の大きな特徴の一つはその保存状態にあります。遺跡には1000年以上前に残された竪穴住居の跡が、現在でも埋まり切らずに多数残されているのです。こうした窪みとなって地表に残る住居の跡は、史跡常呂遺跡全体で2700基にのぼります。

模型にあるように、「ところ遺跡の館」の背後にある台地の上には一面に遺跡が広がっています。模型の中にある窪みは、実際に現在残っている竪穴住居の跡を示しています。
「ところ遺跡の館」に近い区域に約1000年前の擦文時代の集落遺跡、その奥(模型の中央から右側)に広がる区域には約2000~5000年前の続縄文~縄文時代の集落遺跡が残されています。

史跡常呂遺跡と
ところ遺跡の森
上に記述
擦文住居跡
地表に残る擦文時代(約1000年前)の竪穴住居跡 擦文時代の復元竪穴住居
 


 100旧石器時代

 110
 111③常呂遺跡全景航空写真
史跡常呂遺跡航空写真
サロマ湖

常呂遺跡の森
史跡常呂遺跡

史跡常呂遺跡

 ③
https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage3/
3.旧石器時代


 120旧石器時代 ~14000年前まで

 北海道に最初に人類は住み始めた時期はまだはっきりとはわかっていませんが、3万年以上前にさかのぼると推定されています。この最初の時代は旧石器時代と呼ばれています。
この時代は、現在よりも気温の低い氷期にあたり、北海道はサハリン及び大陸と陸続きになっていました。このため、北から渡ってきたマンモスなど大陸の動物も住んでいました。
常呂で最も古い遺跡は25,000-2400年前頃の岐阜第二いせきです。北見市の内陸部では旧石器時代の遺跡か゛数多く知られていますが、常呂では、この遺跡が現在わかっているほぼ唯一の遺跡です。
この時代にはまだ土器がなく、遺跡からは石器だけが見つかっています。

旧石器時代 2万年前の環境 北方系大型動物の南下
野牛(ハナイズミモリウシ)
オオツノジカ
ナウマン象
旧石器時代上に記述 旧石器時代遺跡map
岐阜第二遺跡
(2.5-2.4万年前)

 123旧石器時代の石器
後期旧石器時代(約25,000−24,000年前)
岐阜第二遺跡は、
北見市大正1遺跡と並んで北見市内では最も古い時代のものと推定されている遺跡。石器には常呂周辺で取れる頁岩という石材が使われている。
(※北見大正1遺跡の情報・資料はみつけられず)

石刃
石を薄く、直線的な形に割り取って作られたもので、そのまま刃物として使用可能な石器。
旧石器時代の石器
上に記述
石刃

尖頭形石器 尖頭形石器
先端を尖らせた石器。ドリルのように使用したものと推定される。

彫刻刀形石器、削片 彫刻刀形石器の作り方
 彫刻刀形石器(左の2点)、削片(右)
彫刻刀形石器は骨などの硬い物を加工するため、先端部に角度の大きい丈夫な刃部を作った石器。
その人分を作る際に生じる石片が削片である。

石核 石核
石刃や剥片を割り取った残りの部分にあたる石片。

剥片 剥片
石器を作る際に生じる石の破片。一部はそのまま刃物として利用されたと推定される。
 

 130常呂川流域の旧石器遺跡

常呂川流域・北見盆地の旧石器時代遺跡

 北見市を流れる常呂川の流域は、旧石器時代の遺跡が密集する地域の1つです。この時代の遺跡は、北海道全体で690カ所が登録されていますが、このうち92カ所(約13%)が北見市内にあります。
 遺跡は沿岸部の常呂地域には少なく、内陸の北見盆地に分布の中心がありました。常呂地域の岐阜第二遺跡とは、対照的に、北見盆地の遺跡では黒曜石で作られた石器が多くなっています。(平成28年1日、現在)

常呂地域の岐阜第二遺跡では石器材料に頁岩を使用
※常呂川中流域の北見盆地では石器材料に黒曜石を使用

常呂川流域
北見盆地の旧石器遺跡

上に記述
北海道旧石器時代遺跡
旧石器時代遺跡一覧
北見市大正1遺跡
北見市紅葉山遺跡
 旧石器時代の北海道は氷河期海退で、国後島と北海道は一体となっていた程で、図上の北海道は随分内陸部に当たります。
 旧石器時代の沿岸遺跡は全て水没ましたが、当時漁業は行なわれていなかったとされています。しかし、海獣狩猟はあったかもしれません。
 超寒冷な氷期に食糧を得やすい場所として河川沿いを中心とする内陸にこれほど遺跡が集中していたとは驚愕。やはりサケマスを食糧源としたのでしょう。

 131
石刃・細石刃
 この時代には、石刃細石刃と言う石器が多く作られました。
石刃は、石を薄く、細長く割り取ったもので、そのまま鋭利な刃物として使えたほか、刃を加工して様々な石器を作る素材にもなりました。
細石刃は、石刃を小さく作ったもので、図のように組み合わせて使われました。材料を節約して使い、持ち運ぶ量を減らすために工夫されたと考えられています。

石刃の作り方
角の部分から落とすようにして、細長いかけらを割り取る
細石刃の使用例
骨などで作った柄に溝を掘り、そこに細石刃をはめ込む
刃こぼれしてもいたんだ刃だけ交換できる

 132大正1遺跡 (帯広大正遺跡群ではなく、北見市大正遺跡です。)

大正1遺跡出土の石器
後期旧石器時代(約25,000−24,000年前)
大正1遺跡(北見市若葉7丁目)

岐阜第二遺跡と並んで市内でも古い時期に位置づけられる遺跡。岐阜第二遺跡(頁岩)とは対照的に石器の大半が黒曜石製である。
※北見市の岐阜第二遺跡です。岐阜県ではありません。

大正1遺跡の石器
上に記述
   細石刃核 細石刃核  細石刃核    細石刃 
細石刃核 細石刃核削片
彫刻刀形石器 削器

 135北見市紅葉山遺跡の石器
後期旧石器時代(約20,000−17,000年前)
紅葉山遺跡(北見市留辺蕊町宮下町)(難しい字で、読み:るべしべ)

後期旧石器時代の中でも新しい時期の遺跡。
最近行われた理化学的な分析により、石器の素材には、置戸産黒曜石が多く、次いで、留辺蘂産、白滝産黒曜石が使われていることが明らかにされている。
(※留辺蘂産黒曜石は遺跡立地場所の黒曜石である。)

紅葉山遺跡の石器 細石刃核 細石刃 舟底形石器
掻器

 137紅葉山遺跡出土の石器
後期旧石器時代 (約20,000-17,000年前) 紅葉山遺跡 (北見市留辺蘂町宮下町)

後期旧石器時代の中でも新しい時期の遺 跡。 最近行われた理化学的な分析により、 石 器の素材には置戸産黒曜石が多く、次いで留 辺蘂産 白滝産黒曜石が使われていることが 明らかにされている。

石刃の接合資料
1つの石から割り取られた石刃 を元のように付けたもの。 連続 的に割り取られた様子が分かる。

石刃核 石刃の接合資料 石刃 石刃
石刃の結合資料
紅葉山遺跡出土石器
上に記述
1つの石から割り取られた石刃を元のように組付けたもの。
連続的に割り取られた様子が分かる。

 140石器材料黒曜石
石器の材料には様々な石が利用されました。その中でも、槍やナイフなど、鋭利な刃物の材料として多く使われたのは黒曜石(十勝石)です。
黒曜石は、火山のマグマが急速に冷え固まってできた石で、鋭利石器を作るのに適したガラス質の材料の石です。
火山の多い日本では各地に黒曜石産地があります。北海道では特に白滝(遠軽町)置戸(置戸町)十勝三股(上士幌町)赤井川(赤井川村)が大きな産地として有名です。北見市内でも留辺蕊に黒曜石の取れる場所があります。

石器材料黒曜石 石器材料黒曜石

 141北海道の黒曜石産地
黒曜石は産地によって色や材質などの特徴が少しずつ異なっています。石器の材料としては、不純物の少ない均質な石が多く取れる産地のものが好んで利用されていました。
北見市内の遺跡で見つかる黒曜石は、置戸産、白滝産のものが最も多く、これに十勝三股産、や留辺蕊産のものが少量混じる場合があります。

北海道の主な黒曜石産地
名寄

旭川市東鷹栖

赤井川

豊浦
白滝(旧白滝村・現遠軽町)
生田原(旧生田原村・現遠軽町)
留辺蘂(旧瑠辺蘂町・現北見市)
置戸(常呂郡置戸町
十勝三股(河東郡上士幌町)
然別上川郡人舞
※地名然別多数あり、地図1の示す場所は然別でない。曲がった川の意味
北海道の黒曜石産地

 北見市周辺の黒曜石産地(産地の小字名)
北見周辺の黒曜石産地
白滝・八号沢露頭
右に記述
白滝・八号沢露頭
白滝には黒曜石の取れる地点がいくつかあります。写真の黒っぽい崖は高さ約15mあり、全体が黒曜石でできています。

置戸・所山 置戸・所山
白滝と並ぶ大規模な産地で、崖面に黒曜石が出ている地点がいくつかあります。写真の斜面の黒っぽい部分が黒曜石混じりの層です。

留辺蘂・分岐 留辺蕊・分岐
白滝・置戸ほどの量はありませんが、北見市留辺蕊町境界付近、一帯で黒曜石が産出としています。

※瑠辺蘂のすぐ南が置戸町。地名は違うがおそらく一体の産地
 置戸産黒曜石は高品質。
 
145黒曜石
留辺蘂産黒曜石 留辺蘂産黒曜石
北見市留辺蕊町・ケショマップ川

白滝や置戸よりも小規模な黒曜石産地で、使われた量も少ない。灰色がかった色調の黒曜石が特徴的である。
白滝産黒曜石 白滝産黒曜石
遠軽町白滝・赤石山

赤石山周辺のいくつかの地点で、それぞれ異なる特徴の黒曜石が産出する。黒色透明なもののほか、赤みがかったものも多く見られる。
置戸産黒曜石 置戸産黒曜石
置戸町・所山

白滝と並ぶ大規模な黒曜石産地、黒色透明で白い筋状の模様が入る黒曜石が特徴的である。
 


 200④縄文時代


 200石刃鏃 約8500~8000年前

 202石刃鏃文化の分布

縄文時代の始まりと石刃鏃文化

縄文時代の始まりは土器の出現がその指標となっています。
北海道では僅かながら14,000年前以前と推定される土器が見つかっており、この頃から土器が使われ始めたようです。

気候が温暖になった約1万年前までには旧石器時代のような石刃や細石刃は姿を消して行きました。
が約8500~8000年前頃、北海道にはこの流れに逆行するような特徴を持つ「石刃鏃文化」が現れました。
これは、旧石器時代的な石刃と、それを加工して作られた矢尻の「石刃鏃」を特徴とする文化で特に細長く直線的に割りとられた石刃は高度な石器作りの技を示しています。

縄文時代の始りと石刃文化

上に記述


 東アジアの石刃鏃遺跡
 シベリア
 東北アジアの石刃鏃が発見された遺跡
 
ウオルバ、ホルブスオンカ
オレニョク1
ツォイ・ハヤ1
 
  ベリカチ  
 
ホルブスオンカ 

ユビレイヌ
ウイ、ING-78
ヴェルフネ・ティリィリ 

シルカ洞窟、ベリチカ
チャストゥィ
ウスチ・ベラヤ
ウスチ・キャフタ
オロス、新開流、
  チョルトヴィ・ ヴァロータ洞窟
ホルブスオンカ、ウイ、ING-78、
ヴェルフネ・ティティリ
ノヴォペトロフカ、コンドン、ヤミフタ、
クニャゼ・ボルコンスコフ
ベリカチ
ユビレイヌイ
アヴァチャ

タコエⅡ、クズネツォヴア、スラブナヤ5

 サハリン・北海道
サハリン
タコエⅡ、
クズネツォヴア、
スラブナヤ5
北海道 キウス9(千歳市)
東山(富良野市)
川尻(枝幸町)
上白滝6(遠軽町)
トコロチャシ跡(北見市)
豊里(大空町旧女満別町
オタフク岩第Ⅱ(羅臼町)

 203石刃鏃文化と気候
石刃鏃は東北アジア一帯で見つかっており、北海道と大陸との間に文化の交流があったことを示しています。
8500~8000年前頃には短い寒冷期があったため、この時期に北海道に北方の寒い地域と類似した石器が広まったものと考えられています。

 過去の平均気温と石刃鏃の時期
気温変化はグリーンランドの古い表彰の分析により導き出されたもの。
北海道に石刃鏃文化が現れるのは、8200年前を中心とする寒冷化の時期にほぼ重なっている。



 204石刃鏃石器群 縄文時代早期(約8000年前) トコロチャシ跡遺跡
石刃鏃石器群は、縄文時代早期後半、北海道から東北アジアにかけて見られる特徴的な石器群で、石を薄く剥がして作った「石刃」や、それを加工してとがらせた矢尻「石刃鏃」などがその特徴である。
この遺跡では、石器作りで出る細かい石片はほとんど見つかっておらず、完成品の石器をまとめて保管した特殊な遺跡と考えられる。

石刃鏃石器群
上に記述
削器

ものを削るのに使われた石器。大きな黒曜石の破片を素材にしている
掻器

毛皮などの加工(皮なめし)に使われた石器
磨製石斧

蛇紋岩製
打製石斧

左:安山岩
右:黒曜石

黒曜石は材質上石斧に不向きなため珍しい。
石斧の形をしているが、石斧以外の用途の可能性もある。

 205石刃
石を薄く、細長い形に割り取ったもので、そのままナイフ等として使えるだけでなく、矢尻や槍を作る素材にもなった。
長い石刃を割り取るのはかなり難しく、熟練した技術が必要である。
石刃


 206石刃鏃
石刃を加工して作られた矢尻。このような作り方の矢尻はこの時期だけに見られるもので、約8000年前頃に東北アジア一帯に広がった石刃鏃文化を特徴づける石器である。

石槍
石刃の両端を加工して尖らせて作られている。

石刃鏃
石槍
 

 300トコロ貝塚

https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage4/
4.縄文海進とトコロ貝塚


 320サロマ湖ができるまで
サロマ湖ができるまで
 サロマ湖は、大昔から今のままの形で存在していたわけではありません。
気候変動に伴う海水面の上昇・下降により地形は大きく変化し、その後の浸食・堆積の過程を経て、現在の形になりました。
   ① 15,000年前(旧石器時代終末)
氷河期で海水準が現在より約50m低く、その分陸地が広がっていました。オホーツク海に注ぐ常呂川や佐呂間別川が深い谷を刻んでいました。
 ② 10,000年前(縄文時代早期前半)
気候が温暖化し、海水準が現在より30m低いところまで上昇しました。河川が刻んでいた谷に海が入り込んでいきました
 ③ 8500年前(縄文時代、早期後半)
この頃、100年に1mの速さで急速に海面が上昇し、海水準が現在より10m低いところまで来ました。かつての谷は内湾になりました。
 ④6000年前(縄文時代、前期)
海面が最も高くなった時期で、海水準は現在より3~5m高い位置にありました。沿岸部の陸地が侵食されるとともに、内湾は土砂が溜まって浅くなりました。
 ⑤4500年前(縄文時代、中期)、海水準がほぼ現在と同じになりました。海面が低下するとともに、浅くなった湾の出口に砂が溜まって、砂州ができ、3つの湾は海水と真水が混じる潟湖になりました。
 ⑥3000年前(縄文時代晩期)
3つの湖はほぼ海から切り離された状態になりました。サロマ湖は東西2つに分かれていましたが、海への出口がふさがった西の湖が増水して、東の湖に流れ込むようになり、浸食により1つにつながりました。
 ⑦1000年前(擦文時代・オホーツク文化)
この頃までに常呂湖は常呂川が運ぶ土砂の堆積で埋め立てられて陸化し、低湿地となりました。サロマ湖はほぼ現在に近い形になっています。
 ⑧現在
サロマ湖の海への出口を人工的に掘削して開けたため、湖の東の端にあった元の出口は埋まってしまいました。

 330トコロ貝塚

 331④トコロ貝塚(縄文時代中期)約4500年前
トコロ貝塚は約200m×70mの範囲に広がる、オホーツク地域では最大級の貝塚です。
貝塚は現在、海岸から約1.5km離れた地点にありますが、当時は海につながる潟湖に面していました。

この場所には、縄文時代早期から擦文時代の遺跡が重なって残されていますが、貝層からは北筒式と呼ばれる土器が見つかっており、貝塚は縄文時代中期約4500年前に残されたことがわかっています。
貝塚から最も多く、見つかっているのはカキの貝殻ですが、ハマグリのような暖かい海の貝もあり、4500年前は現在よりも暖かい環境にあったことがわかります。

トコロ貝塚
現在の常呂貝塚
崖面の白い層が貝殻
トコロ貝塚と約4500年前の海岸線
 333
 335魚骨・獣骨
ヒラメマグロサケ
アシカ
イヌカラスカモメ クジラヒグマクジラ猟をしていたか不明。骨を拾ったか、
寄り鯨かもしれぬ。
 336貝殻と土器
触るための展示

 340土器

 341北筒式土器(トコロ6類)深鉢 縄文時代中期(約4500年前)トコロ貝塚
  (円筒土器)
貝層から見つかった土器は大小あるが、筒形で上部に丸い穴を空ける共通したデザインでつくられている。
この地域の縄文時代中期後半の典型的な土器で、トコロ貝塚出土資料として「トコロ6類土器」と呼ばれている。

北筒式土器 北筒式土器 北筒式土器 北筒式土器
上に記述
北筒式土器

 343北筒式土器に伴う石器 縄文時代中期(約4500年前)トコロ貝塚
貝層から見つかった石器。大型の石槍が多い一方で、石鏃が少ないという特徴がある。
※大型動物がいたということ。陸獣か海獣かは不明。

北筒式土器に伴う石器
上に記述
石槍
木葉形のものと三角形の下に出っ張り(茎部)のつくものがある。後者は特に「石銛」と呼ばれる場合もある。
石鏃
貝層では石鏃は少数しか出土をしていない。この石鏃も石槍などに比べると荒い作りである。
削器

物を削って加工するための石器
石匙

つまみ(紐掛け)のあるナイフ。石刃を加工してゆるいくびれを作り紐かけにしている。
磨製石斧
全体を砥石で磨いて作られた斧 砥石
使用により中央部に縦長のくぼんだ部分ができている。

 350常呂遺跡住居跡分布図

 351史跡「常呂遺跡」の中心地区
史跡「常呂遺跡」を構成する遺跡の中でも、中核となる範囲は、オホーツク海岸沿いの砂丘上に東西約5kmにわたって広がっています。
この地区では竪穴住居跡と考えられる地面の凹みが約2500基あることが確認されています。これらの竪穴住居跡は形態からおおよその時代を推定することができます。壁面の地図は、竪穴の窪みを形で色分けして表示したものです。

常呂遺跡中心地区

上に記述
常呂遺跡中心地区
栄浦第一遺跡、栄浦第二遺跡、常呂竪穴群

史跡範囲史跡外遺跡

 史跡常呂遺跡住居分布図
竪穴の形と時代
円・楕円
柄鏡型
縄文時代・続縄文時代
四角形 擦文時代
五・六角形 オホーツク文化
史跡常呂遺跡
住居分布図

 360遺跡のまち常呂
常呂地域には大昔の遺跡が数多く残されていました。今では林や畑に姿を変えている場所にも、大昔のムラの遺跡であったところが少なくはありません。
このため、ほんの50年ほど前までは、大昔の人が使った石器や土器のかけらのたくさん落ちてている場所が町外れのあちこちにあったといいます。
ここに展示した石器は、そうした場所で、地元の人が拾い、集めたものの一部です。

 361石槍・石製ナイフ 縄文時代 北見市常呂町内出土
石を少しずつ細かく割って尖った形に仕上げている。黒曜石で作られたものが多いが、安山岩やチャートといった石で作られたものも少数混じっている。

遺跡のまち常呂 石槍・ナイフ
石槍・石製ナイフ

 363石斧(打製石斧・磨製石斧) 縄文時代 北見市常呂町内出土
奥1列が打製石斧、それ以外が磨製石斧。打製石斧でも刃先だけ磨かれている場合がある。大小様々なサイズのものがあり、用途に応じて作り分けられていたようである。

石斧
 


 400縄文時代 14,000-2,400

 氷期が終わって気候が暖かくなると、竪穴住居を作り、定住的な生活をする時代を迎えました。この時代は、縄目の文様がついた縄文土器が使われたことから、縄文時代と呼ばれています。

 1万年以上続いた。この時代は、一般に、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に細分化されていますが、北海道では

 早期の遺跡は僅かしか見つかっていません。常呂でも縄文時代の遺跡が見つかるのは早期以降になります。
中期には、北海道東部最大級の貝塚である常呂貝塚をはじめ多数の遺跡が残されました。
 遺跡の森の「縄文の村」「続縄文の村」にもこの時期の竪穴住居跡が残されています。
晩期にはヒスイ玉や特殊な土器を埋めた墓が残されており、常呂川河口遺跡などで発見されています

 410
 411⑤遺跡位置
縄文時代

上に記述
縄文時代の遺跡

https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage5/
5.縄文時代


 412縄文土器の移り変わり
1万年以上続いた縄文時代には、長い間に環境が変動し、生活や文化も変化していきました。特に土器のデザインは、時期によって大きく変わったため、遺跡の時期を知る手がかりとなります。

 413早期・前期
土器作りの文化の始まり、縄文時代初頭~前期
北海道で本格的に土器が使われだしたのは、約9000年前、縄文時代早生と呼ばれる時期です。土器の形は、平底、尖底、丸底があり、時期や地域によって流行する形に違いがありました。

縄文土器の移り変わり
土器作り文化の始まり
  早期以前(草創期)
約14,000−10,000年前
大正3遺跡(帯広市)
草創期 約14,000-10,000年前 大正3遺跡(帯広市)

 左図は全体の形が分かる北海道最古の土器で約14,000年前のもの。
この時期の土器期は、北海道ではごくわずかしか発見されておらず、本格的な土器の使用はまだ始まっていなかったようです。 
早期
約10,000−7000年前

TK60遺跡  常呂貝塚
早期 約10,000−7000年前 TK60遺跡  常呂貝塚

 常呂で最も古い土器は掻器後半のものです。
早期前半の北海道では、平底土器と尖底土器の両方が作られていましたが、
早期後半に入ると、全道的に上のような平底土器が主流になりました。
前期
約7000−5500年前

常呂川河口遺跡
前期 約7000−5500年前 常呂川河口遺跡

 縄文時代前期前半の土器
この頃には北海道全体で上のような、丸底や尖底の土器が流行しました。


 早期の石器(TK−60遺跡)
矢尻や石斧のほか、彫刻刀形石器(骨や角を加工する道具)や 掻器(皮革加工の道具)が多く見つかっています。
早期の石器(TK−60遺跡)

 415前期・中期

円筒形の同期の時代 縄文時代前期末~中期

前期末から中期には東北北部から北海道一帯で細長い円筒形の同期が流行します。ただし、文様や細かいデザインには地域差がありました。縄文時代の中で、人口が最も増加し、遺跡の多い時期です。


前期
約5500年前
常呂川河口遺跡
前期 約5500年前 常呂川河口遺跡

 前期末~中期の頃には、彫刻した木の棒を転がしてつけた「押型文」と呼ばれる文様の土器が北海道東部を中心に使われていました。大小にかかわらず、同じような円筒形のデザインで、また厚手でどっしりしているのも特徴です。

中期
約5500−4500年前
栄浦第二遺跡
常呂川河口遺跡
中期 約5500−4500年前  栄浦第二遺跡、常呂川河口遺跡

中期の終わりには押型文に変わり、縄文で覆われた土器が作られるようになりました。最も人口が増加した頃で、土器も多数見つかっています。

 前期末から中期の石器(常呂川河口遺跡)
大形の石槍やつまみ付きナイフが多く使われたのが特徴です。漁に使ったおもり(石錘)も多く見つかっています。
前期末から中期の石器
(常呂川河口遺跡)
矢尻・石槍・ナイフ 掻器・石錘・石斧

 417後期・晩期
多様なデザインの土器の時代、縄文時代後期~晩期
後期には急激に人口が減少したようです。気候の寒冷化で食糧事情が悪化したためと考えられています。この頃から用途により作り分けた多様なデザインの土器が作られ始めました。

多様なデザインの土器の時代

後期初めには、常呂地域はほぼ無人になったと言われるほど遺跡がなくなります。
ここで文化の流れも断絶し、後期の中頃になると、中期の円筒形とは全く異なる土器が現れました

後期
約4500−3500年前
 
常呂川河口遺跡

晩期の遺跡の数は後期よりも回復します。土器は、深鉢・浅鉢のほか、カップ形や船形、壺形など、装飾的なデザインのものが特徴的です。実用品ではない儀礼用の土器も作られており、しばしば死者へのお供えとして墓に収められていました。

晩期
約3500−2400年

常呂川河口遺跡

 晩期の石器(常呂川河口遺跡)
石槍が少なくなったのに対し、矢尻が多く見つかっています。
幅広で扁平な形の石製ナイフも多く使われるようになりました。

晩期の石器
(常呂川河口遺跡)


 420土器


 421早期
東釧路Ⅲ式土器 深鉢
縄文早期(約8000-7500年前)
TK-60遺跡6号竪穴住居

 422前期
石錘
縄文前期~中期(約5500−4500年前) 常呂川河口遺跡

魚採りの網などに使われたと考えられる錘。
網を縛るための凹みが4カ所作ってあり参考のため、現在の網に取り付けている。
美々7式土器 丸底深鉢(部分)
縄文前期(約7000−6500年前)
TK-67遺跡

太い縄を使ったジグザグの模様が特徴的な土器で、名前は千歳市美々7遺跡に由来する。一部しか残っていないが、本来は丸底の土器。
綱文式土器 丸底深鉢
縄文前期(約6500年前)
常呂川河口遺跡

美々7式の影響で太い縄を使った模様だが、文様は全て横方向になっている。多量に植物繊維を混ぜた粘土が使われるようになるのも特徴である。

 423前期末
前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡

箆状工具で突いたパターン模様が押されている
平底押型文土器 深鉢
前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡
施文に側面に彫刻のある棒を転がした。正方形が互い違いに並ぶパターんの文様。
刺突文土器 深鉢
前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡

平底押型文土器と同時代の土器。円形文様は竹など筒状の素材の切断面を押し付けた
押型文土器 深鉢
前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡

矢羽根上のパターンの押型文が全面に施文されている
平底押型文土器 深鉢
前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡
長方形のパターンの押型文が全面に施文されている

 425中期
平底押型文土器 深鉢
中期初頭(約5000年前)
常呂川河口遺跡
側面に彫刻した棒を転がして施文。下の方を除いて、斜格子の文様で覆われている
平底押型文土器 深鉢
中期初頭(約5000年前)
常呂川河口遺跡
側面に彫刻した棒を転がして施文。斜格子が7段。よく見ると文様が同じ高さで一周せずずれたところがある。
北筒式土器(トコロ6類)
中期初頭(約5000年前)
常呂川河口遺跡
外側だけでなく内側の一部まで縄文が使われた土器


 土器の文様の付け方:縄文(左)と押型文(右)
「縄文土器」の「縄文」とは、縄を転がしてつけた文様のことです。ただし、縄文土器の文様の付け方には、他にも様々な方法がありました。
例えば「押型文」は、側面に彫刻した木の棒を転がして付けた文様です。
縄文時代の土器には「縄文」が全く使われていないものも多くあります。土器をよく見ると、縄文以外にも、いろいろな方法で文様が描かれていることがわかります。

土器の文様の付け方   押型文 縄文       
平底押型文土器 深鉢
中期初頭(約5000年前)
常呂川河口遺跡
押型文土器。文様は横向きの矢羽根と竪向きの矢羽根の2種類の棒を使って施文した。
北筒式土器(トコロ6類)
中期(約4500年前)
遺跡の森続縄文の村
(ST-08遺跡)

北筒式土器はこの頃の北海道に広くみられる。旧称北海道式円筒土器から北筒式と言う。
北筒式土器(トコロ6類)
中期(約4500年前)
栄浦第二遺跡
現存部だけで高さ55cm。底部未発見でそれ以上だった。展示物中最も細長い。

 430副葬品
 
431押型文土器に伴う石器・骨角器 縄文時代、前期末(約5500年前) 常呂川河口遺跡
縄文時代前期末の押型文土器と同じ地層から見つかった石器・骨角器。黒曜石製の石鏃・石槍・ナイフのほか、石斧や石錘などがある。
特に、石製装身具と石棒はこの時期では珍しい発見例である。


上に記述

 最大の石槍
石槍
中期(約45500年前)
遺跡の森・縄文の村ST08
石槍  中期(約45500年前) 遺跡の森・縄文の村ST08遺跡

長さ19cmの「遺跡の森」内で見つかった中では、最大の石槍。

 石鏃・石槍・ナイフ
 石鏃(黒曜石製)    石槍
   石製ナイフ  

 石斧・石匙・石棒
磨製石斧
槍やナイフなどの黒曜石とは違い割れにくい性質の石(青石片岩など)で製作
石匙

形から「さじ」と名付けられたが、現在ではつまみ付きナイフと考えられている。
棒状原石

人工品でなく自然に棒状にわれた黒曜石。特殊な形の石を意図的に持ち込んだ
石棒

軽石製。男性器を表現した石棒は豊穣のシンボルと考えられているが、常呂では発見例は少ない。
石錘

石のおもり。平たい石を打ち欠いて紐で絞りやすいようにしている。魚とりの網に使われたと考えられている

 骨角器・装身具
骨角器
縄文前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡
縄文前期末の押型文土器と同じ層から出土。

左:銛先。右:矢尻と考えられている。
石製装身具
縄文前期末(約5500年前)
常呂川河口遺跡
縄文前期末の押型文土器と同じ層から出土。

硬質頁岩の玉で、表裏から削って穴をあけている。


 432墓に埋納された玉・漆塗櫛
縄文時代晩期(約2500年前) 常呂川河口遺跡・782号土壙(墓壙)

 右に展示した玉と櫛は縄文人の墓の中から発見されました。
 玉は翡翠という宝石で作られたもので、勾玉2個、丸玉6個からなっています。良質のヒスイの産地は非常に少なく、この玉は新潟県西部の糸魚川産のヒスイで作られています。
糸魚川産のヒスイは各地手゛見つかっていますが、常呂川河口遺跡は産地から最も遠くまで運ばれた場所の1つです。

 櫛は本体の木質部分が失われ、漆の部分だけが残っています。壊れやすいため、周りの土ごと固めて保存されています。この櫛は木や竹で作った歯を束ねて作られた「結歯式竪櫛」と呼ばれるタイプのものだったと考えられています。歯を束ねる部分が漆細工で装飾的な形に仕上げられており、その漆部分が残っています。縦長の櫛(竪櫛)で、まとめた髪に挿して髪留め・髪飾りとして使われました。

墓に埋納された玉・漆塗櫛

上に記述
  玉類と櫛 
周囲の赤い土がベンガラ
 櫛
取り上げる直前の櫛
 復元した漆塗櫛
櫛歯と上部の残存が悪い
漆塗り櫛   
ヒスイ製玉類

 433土製品・勾玉

墓に埋納された勾玉・土器
 縄文晩期(約2500年前) 常呂川河口遺跡213号土壙(墓壙)

 翡翠製の勾玉2個とともに土器3点が納められていた。
大洞C2式と言う東北地方で流行したタイプの土器が含まれている。

大洞C2式土器
(東北地方の土器)
幣舞式と大洞式の中間の特徴を持つ土器
幣舞式土器(在地の時)

土版
 縄文晩期(約2500年前) 常呂川河口遺跡213号土壙(墓壙)

翡模様の描かれた粘土の板。
人の顔のような模様のものもあり、土偶のような、まじないの道具の一種とも考えられている。


 434縄文晩期の石器 縄文時代晩期頃(約2500年前) 常呂川河口遺跡158a号竪穴住居跡
石製ナイフ 敲石 軽石製品 石鏃(黒曜石製)
 435縄文晩期の石器 縄文時代晩期頃(約2500年前) 常呂川河口遺跡797a号竪穴住居跡
石鏃

茎(なかご)付石鏃が多いのが特徴
削器
磨製石斧
 

 450後晩期

 451縄文人の墓と副葬品
、縄文時代晩期には、墓の中に品物を埋める「副葬」の風習が盛んになりました。墓に収められたのは、土器や石器のほか、勾玉や漆塗りの櫛のような装身具などです。中には数百kmも離れた。製作地から運び込まれた貴重品もあり、広い範囲が交換・交易によってつながっていたことを示しています。

縄文人の墓と副葬品
上に記述


副葬品に見る縄文時代の広域交流
ヒスイの原産地は新潟県西部の糸魚川です。大洞式土器は道南方面で作られ常呂まで運ばれたものとみられます。

副葬品に見る縄文時代の広域交流
上に記述


縄文人の一生の長さ ~平均寿命は20歳以下~
縄文人は現代よりずっと短命で、遺跡出土の骨から推定された15歳時点の平均寿命はわずか16年ほどです。つまり平均死亡年齢は約31歳となりますが、一部には60歳以上の長生きな人もいました。
一方、医療が未発達のため、乳幼児の死亡率が高く生まれた子のうち25歳になれたのは半分以下とされています。このため、子供まで含めた全体の平均寿命は10代半ば程度と推定されています。

縄文人の一生の長さ
上に記述
15歳時点の平均余命(平均年数)  ※過去の平均寿命推定にはいくつか研究があり、ここに示したのはその一部です。
最近の研究では、縄文人の寿命はもっと長く、15歳下の平均寿命を31.5年とする説もあります。
 452
エリモB式土器 深鉢
縄文後期 (約4000-3500年前)
常呂川河口遺跡

後期中葉の土器で、中期の筒形の土器に比べると変化に富む形になる。縁の部分は5単位の波形状になり、内側から棒で突いて付けたこぶ状の丸い出っ張りが並んでいる。
壺形土器(御殿山式?)
縄文後~晩期 約3500-3000年前
常呂川河口遺跡

道央・道南の御殿山式の影響をうけたと考えられる。渦巻状の文様が特徴的である。ていぶの破片は見つかっていない。
爪形文土器 深鉢
晩期(約3000年前)
常呂川河口遺跡 524号土壙

爪形文と呼ばれる半月型の模様が2列めぐる土器。爪形文はこの頃流行し、多くの土器に使われていた。

𩸽間式土器 台付浅鉢(ほっけましき)
後期(約4000-3500年前頃)
常呂川河口遺跡53号土壙

本来下に台が付いていたが破損している

特徴:後期中葉の関東~北海道に磨消縄文土器が分布する。𩸽間式はこの時期全道に分布。口縁部・胴部の刻み列。横方向の羽状文が特徴。
堂林式土器(どうばやし)
後期末葉(約3500年前)
常呂川河口遺跡

「突瘤文」と呼ばれる、内側から棒状の工具で突いて付けたコブ状の文様が上部に1周並んでいる
堂林式土器(どうばやし)
後期末葉(約3500年前)
常呂川河口遺跡

特徴:突瘤文の粗製土器と、
沈線文や磨消縄文の精製土器がある。

 幣舞式土器
  特徴:器形は、丸底。深鉢形・浅鉢形・舟形など多様。 文様は、口縁部に横方向の縄線文・沈線文が特徴
コップ形土器(幣舞式)
晩期(約3000年前)
常呂川河口遺跡

全面に爪形文が付けられているほか、底部にも波線模様が描かれている。押型文土器
幣舞式土器 深鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡145号土壙(墓壙)

墓の中に納められていた。幣舞式は墓坑埋納土器から日常土器まである。
幣舞式土器 深鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡145号土壙(墓壙)

墓の中に納められていた土器
幣舞式土器 深鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡48号土壙(墓壙)
墓の中に納められていた土器

 453副葬品
に埋納された土器(幣舞式)  縄文時代晩期(約2500年前)常呂川河口遺跡295号土壙(墓壙)

1つの墓に納められていた大小11個の土器。日常生活用の土器に比べて装飾的で、人の顔を表現した土器(上段ケース右)があるほか、いくつかの土器には表面に塗られた赤色の塗料が残っている。

幣舞式土器
上に記述
人の顔を表現した土器           
 454幣舞式
沈線と羽状縄文
 455晩期 副葬品 幣舞式
幣舞式深鉢
 
 457
幣舞式土器 深鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡
幣舞式土器 深鉢
縄文晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡

縄を転がした縄文と、縄を押し付けた圧痕文で施文されている。
幣舞式は晩期後半の北海道全域に見られる。釧路市幣舞遺跡の土器が基準。
脚注は私の貼り付け間違い
 459
幣舞式土器 浅鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡
幣舞式土器 浅鉢
晩期(約2500年前)
常呂川河口遺跡45c号竪穴住居跡

 480副葬品 晩期
墓に埋納された土器・勾玉 縄文時代晩期(約2500年前) 常呂川河口遺跡201号土壙(墓壙)
1基の墓に納められていた土器と勾玉のセット。
勾玉は滑石製。土器は幣舞式と呼ばれる、丸底の器形が特徴的なもので、装飾的なデザインのものが集められている。

 勾玉          

  幣舞式土器
           


 490縄文時代竪穴住居模型

 490続縄文時代初頭墓の出土品 幣舞式
墓に埋納された土器 続縄文時代初頭(紀元前4世紀頃) 常呂川河口遺跡329b号土壙(墓壙)
一基の墓に納められていた土器のセット。珍しい器形である双口土器赤く彩色された痕跡の残る土器が含まれている。

墓に埋納された土器
           
 


 500続縄文時代 紀元前4世紀頃~紀元後6世紀頃 (弥生時代~古墳時代 約1000年間)


 501⑥続縄文土器
 約2400年前から約1400年前まで、約1000年間続いた時代です。
本州では稲作が始まり、農耕社会となった時代に相当しますが北海道では縄文時代と同様に狩猟・漁撈・採集が生業の中心となる文化が続いていました。
そのためこの時代は続縄文時代と呼ばれています。

この時代には、縄文時代と同様に作られた、土器や石器とともに、本州から持ち込まれた鉄器も使われるようになりました。
一方、サハリンや千島列島など、北方地域との交流も盛んになりました。

常呂では、この時代の集落が多く見つかっています。
特に常呂川河口遺跡はこの時代の集落と墓地が発見され、サハリン産の琥珀を使った首飾りを始め、多くの資料が出土をした重要な遺跡です。


 503蛙文土器興津式) 続縄文時代初頭(紀元前4-3世紀頃) 常呂川河口遺跡83号竪穴住居跡
壺形土器の肩の部分に手足を広げた蛙形の装飾がある土器。

※考察 蛙文土器
 信州ではカエルやヘビが精霊として土器装飾に多用される。私は北海道で出現する蛙文土器に対して、なぜカエルなんだと考えていました。カエルよりはクマではないか。北海道の象徴はクマだろう。貼り付けられたものはカエルに見えるけど実はクマなんじゃねぇ?と。で、考えてみました。
 クマが信仰の対象となったのはおそらくオホーツク人以降のようで、それ以前の送り行事は本州青森から手に入れた仔猪でした。
 函館市日ノ浜遺跡は縄文前期~中期の円筒土器文化集落と、晩期の土坑群からイノシシ形土製品が出土しています。
 どうやらこの頃、縄文終末期から「送り祭祀」が行なわれていたようで、これが飼い熊祭祀に代わったのは、ヤマト政権が猪禁輸をしたからのようである。

 クマ信仰を持ち込んだのは靺鞨と続縄文人との混血であるオホーツク人であり、それは、続縄文時代終末期、古墳時代末期からである。
 その後、オホーツク文化の終末期に擦文文化とオホーツク文化の融合したトビニタイ文化によって擦文人に取り込まれ、やがて後継のアイヌ文化ではクマ信仰が盛んになる。
 このように整理してみると、私が思い込んでいた「北海道=クマ信仰」は間違いで、クマ信仰は極めて新しい信仰であったといえる。
 すると、蛙文土器の引用文の中で、カエルが沢山の卵を産み落すことから、多産の象徴としてカエルがあったのではないかという考えは正論と言える。
 信州のヘビ・カエル(精霊)とは違った思想で北海道蛙文土器(多産)がつくられたと言える。
 信州に代表される中部日本の縄文精神文化はとて深く、そこからは様々な神秘的な土器がつくられていったことに思い至ります。
 北海道道東では、そのような精神性とは別の力が働いて土器型式が移り変わっていったと言えるようだ。その別の力とは何なのか、これから分かってくるのかもしれません。 

蛙文土器
興津式
蛙文土器
蛙文土器
興津式
貼付文カエル
 

 504大甕 宇津内式
宇津内Ⅱa式土器 深鉢 宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
常呂川河口遺跡1号埋甕

宇津内式と呼ばれるタイプの土器は続縄文時代前半に北海道東部一帯に分布した。この時期の土器がまとまって見つかった斜里郡斜里町宇津内遺跡が名前の由来である。宇津内Ⅱa式、宇津内Ⅱb式の2つに分けられ、前者の方が古い特徴を持つ。
この土器の内部からは骨片が見つかっており、幼児の埋葬に使われたと考えられる。
      宇津内Ⅱb式
続縄文時代中期(紀元前1-紀元後1世紀頃)

Ⅱa式にみられた口唇部直下の突瘤文は消失し、その位置には貼付文がめぐるようになる
宇津内Ⅱa式土器 深鉢      宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
遺跡不明。北見市所町内出土

高さ約51cmの大型土器。破損してるが、本来は上部の角のような出っ張りは4カ所付いていた。


宇津内Ⅱa式土器 深鉢   宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
常呂川河口遺跡1号埋甕

宇津内式と呼ばれるタイプの土器は続縄文時代前半に北海道東部一帯に分布した。この時期の土器がまとまって見つかった斜里郡斜里町宇津内遺跡が名前の由来である。宇津内Ⅱa式、宇津内Ⅱb式の2つに分けられ、前者の方が古い特徴を持つ。
この土器の内部からは骨片が見つかっており、幼児の埋葬に使われたと考えられる。

宇津内Ⅱa式壺形土器 宇津内Ⅱa式壺形土器
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
常呂川河口遺跡5号埋甕

幼児の埋葬用に使われたとされる「埋甕」とは異なる壺形の土器のため、水がめなど貯蔵用に使われたのではないかと推測される。

宇津内Ⅱa式土器 宇津内Ⅱa式土器
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
常呂川河口遺跡6号埋甕

高さ52cmの土器で、まるごと地中に埋められていた。
中ほどにある3組の穴に紐を通してひび割れ部分補修していたようだが、発見時にはヒビわれてしまっていた。


 505続縄文時代の地域と文化
続縄文時代は、大きく前半期(紀元前4~紀元後2世紀頃)と後半期(3~6世紀頃)に分けられます。

前半期の北海道は大きく4つの文化圏に分けることができ、各地域で特徴的なデザインの土器が作られていました。常呂地域は「宇津内式土器」と呼ばれる土器の文化圏に含まれ、これに混じって、隣接する地域の土器も少数見つかります。
 ➀オホーツク・道北地域 (続縄文初頭の土器宇津内式土器
 ②道東・国後・根室・釧路・襟裳地域(興津式下田ノ沢式土器
 ③石狩低地周辺地域  (続縄文初頭土器後北式土器
 ④道南地域  (恵山式土器

後半期には前半期よりも人の移動が活発になって、土器の地域差が薄くなったと考えられています。道東部では、人口が減少するとともに、中央からの影響で「後北式土器」が広まりました。後北式土器はは、東北や千島列島、サハリンでも見つかり、広範囲にわたり交流のあったことが伺えます。
 ➀稚内周辺・サハリン(鈴谷式十和田式
 ②北海道全域 (後北式北大式) 

続縄文の地域と文化 続縄文期の土器変化 後半期の土器と文化圏
サハリン
北海道全域
ː鈴谷式➡十和田式
ː後北式➡北大式
前半期の土器と文化圏
道北道東:
道央~石狩:
十勝~根室:
道南:
続縄文初頭土器➡宇津内式
続縄文初頭土器➡後北式
興津式➡下田ノ沢式
恵山式

 510土器・石器


 520前期土器(壁面展示)
 521
下田ノ沢Ⅱ式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前2−1世紀頃)
常呂川河口遺跡83c号竪穴住居跡

宇津内式と同じ頃、釧路地方を中心に見られる土器で、常呂でも少数見つかる。
名前は厚岸町下田ノ沢遺跡に由来する。
下田ノ沢Ⅱ式土器

 ※考察 鳥の名前
 鳥の名前が書かれていない。弥生時代に渡来したニワトリがもう北海道の端まで来たのか、それともライチョウか。
エゾライチョウの画像。鶏そっくりだが、エゾライチョウの模様が点々だらけなので、それがモデルのようです。

 522
宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
栄浦第二遺跡87号土壙(土壙墓)

※手提げカゴをモチーフにしたような土器
 523
宇津内Ⅱa式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
栄浦第二遺跡87号土壙(土壙墓)

※笹で編んだカゴ。ヒモを両耳に通して担ぐ
 524
宇津内Ⅱb式土器 深鉢
続縄文時代前半(紀元前2−1世紀頃)
栄浦第二遺跡

※両耳を最上端に編みこんだカゴ

 540異形石器
異形石器(石偶)
続縄文時代(紀元前4~紀元後6世紀頃)

特殊な形の石。はっきりとはわからないものもあるが、人や動物をかたどっている。
実用品ではなく、まじないや儀礼に使ったものと推定されている。

異形石器
上に記述
フクロウ形土製品
(常呂川河口遺跡)
フクロウ?
(TK-66遺跡)
鳥?(常呂川河口遺跡)
ムササビ?
(TK-66遺跡)
クマ?
(常呂川河口遺跡)
人?(トコロチャシ南尾根遺跡)
 

 550交流交易

 551続縄文時代の交流交易
続縄文時代の北海道では、サハリンや千島列島など北の地域との交流が拡大しました。
また、続縄文時代後半頃には、東北地方北部にも、北海道の続縄文文化が進出し南の弥生・古代文化の人々と盛んに交流していました。
こうした広い地域にわたる交流や交易を示すものは常呂の遺跡からも発見されています。

続縄文土器が見つかっている範囲
土器
特に続縄文時代後半の後北C2・D式土器は、東北地方からサハリン南部に及ぶ広い範囲から見つかっています。逆にサハリンの土器が北海道に持ち込まれることもあったようです。
交易[ サハリン➡鈴谷式土器・琥珀玉
本州各地➡ガラス玉・碧玉製管玉・鉄製品
]➡常呂へ

※続縄文土器の分布範囲。(赤太波線)は続縄文人の活動範囲。
ガラス玉
この時代の日本列島では、原料からのガラス作りではなく、主に中国産ガラスが使われました。その一部が北海道まで来ていたようです。
 碧玉製管玉
管玉は、本州の弥生文化から移入されたもので、北海道では南西部で多く見つかります。
中には、佐渡島産の碧玉製のものもありました。

 ナイフと石偶 石器
石製ナイフや石偶などは、東北地方から千島列島、カムチャッカ半島までよく似たものが見られます。また、北海道の黒曜石はサハリンなどでも使われました。

鉄製品
数はまだ少ないものの、本州から鉄製品が入ってくるようになりました。 
琥珀玉
サハリン産のものが多く持ち込まれ、北海道東北で多く見つかっています。
サハリン南部の鈴谷式土器の南下
※鈴谷式土器文化人の南下
  続縄文時代(弥生・古墳期)の日本海航路の交易は、宗谷岬の先、知床まで繋がっていた。
 

 553続縄文住居
住居は出入口(舌状)をもつ竪穴住居が多くみられます。
土器は縄文時代晩期に見られた丸底形の土器が姿を消し、再び、平底、揚げ底の土器がさかんに作られるようになり、
それまで、深鉢・浅鉢・皿形・舟形・魚形など多くの形をした土器が作られていたものが、
単純な深鉢形・浅鉢形と注口土器の3種類に単純化される傾向が見られます。 引用3続縄文-大空町

続縄文住居
続縄文時代
(約1800年前)の住居跡
続縄文時代(約1800年前)の住居跡

 555
宇津内Ⅱb式土器 深鉢
 続縄文時代前半(紀元前2−1世紀頃)  伝:網走市内出土  個人寄贈品


宇津内Ⅱb式土器 深鉢 続縄文時代前半(紀元前1~紀元後1世紀頃)  常呂川河口遺跡459号土壙

高さ約40cmの大型土器。宇津内Ⅱb式土器の中でも新しい時期なもので、文様を作る粘土紐が刻み目のないものに変わっている。
縁の部分に4カ所ある突起には2つずつ穴があり、フクロウ等の顔を思わせるデザインになっている。

4つの突起とその下に続く沈線文でフクロウを表現している。 

後北C1式土器(左)・宇津内Ⅱb式土器(右)深鉢
 続縄文時代後半(1−2世紀頃)TK-66遺跡・106号土壙

この2つ土器は貯蔵用と見られる穴から破損の少ないほぼ完全な形で発見された。
左側の土器にはビビの部分に補修孔があけられている。 (補修孔の紐は展示用につけたもの)。

地元で作られてきた系統のデザインである宇津内Ⅱb式に対し、後北C1式土器土器は道央部から広まってきた系統のデザインの土器であり、ここではその両者が共存している。


↓   →
宇津内Ⅱb式

後北C2・D式土器 深鉢
 続縄文時代後半(3−4世紀頃) 常呂川河口遺跡。

高さ63センチの大型土器。
この後北C2・D式と呼ばれるタイプの土器は、北海道全体に広まった土器で、この時期、北海道が1つの文化圏となったことを示している。

後北C1式

 561ミニチュア土器
続縄文時代(紀元前4~紀元後6世紀頃) 常呂川河口遺跡

土器の中には手のひらサイズ以下の実用品としては小さ過ぎるものもあります。
用途はよくわかっていませんが、儀式用や子供のおもちゃなどであったと考えられています。


 562魚骨
住居内炉跡出土の魚骨
常呂川河口遺跡61a号竪穴住居跡

○続縄文時代の人は何を食べていたか?
 続縄文時代の食生活を示す直接の証拠はわずかしか見つかっていません。ここに展示したのは竪穴住居内の炉(たき火をした場所)跡の土から回収された魚の骨で、焼けて、細かい破片になっています。
 続縄文時代の常呂川河口遺跡では、ニシンが最も多く、次いでウグイサケの仲間が食べられていたようです。その他ヒラメカレイ類カジカ類マダラコマイの骨が少数見つかっています。

▲61a号竪穴住居跡
住居のほぼ中央に石で囲った炉がありました。
魚骨は炉の中の焼けた土の中から見つかりました。※炉の中に食べカスの骨を捨てていたのでしょうか。

住居内炉跡出土の魚骨 61a号竪穴住居跡 ニシン類の耳石
ニシン類の椎骨
ウグイ類の椎骨
サケ類の椎骨

 563琥珀玉
琥珀玉(原石に穴を開けたもの)、
興津式土器、
続縄文時代初頭(紀元前4世紀頃)
常呂川河口遺跡1272号土壙(墓壙)
興津式土器
琥珀玉

滑石・琥珀玉(原石に穴を開けたもの)
続縄文時代初頭(紀元前4−3世紀頃)
常呂川河口遺跡718号土壙(墓壙)

 564続縄文時代前半の首飾り(墓の副葬品)
 続縄文時代前半には、サハリン産の琥珀玉の首飾りを墓に納めることが流行した。
古いものは、琥珀の原石に穴を開けただけのものだったが、やがて円盤型に加工した「平玉」が中心になる。
 さらに新しくなると本州の弥生文化から移入された管玉も合わせて用いられるようになった。
※権力者が豪華な副葬品を好むようになった。のか、交易の交換材として持ち込まれたからか。

続縄文時代前半の首飾り(墓の副葬品)
上に記述

琥珀玉(平玉・丸玉)
続縄文時代初頭(紀元前3−2世紀頃)  
常呂川河口遺跡411号土壙(墓壙)
楕円形の丸玉11項、平玉341個でできた首飾り。
丸玉のまとまりを中心に平玉が3~4連に並んだ状態で見つかった。

琥珀玉(平玉・丸玉)
上に記述
 565
琥珀玉(平玉)
続縄文時代前半(紀元前3-2世紀項)  
常呂川河口遺跡263a号土壙(墓壙)

約1300個の玉が、5~6連、数珠つなぎで見つかった。首にかけず、体の上に置いた形で埋められたようである。

この置き方は
何を意味したのか
墓に副葬する平玉とは違い、丁寧に成形されている。

 566琥珀玉・管玉貝製首飾り
続縄文時代前半(紀元前1~紀元後1世紀頃)
常呂川河口遺跡・122号土壙(墓壙)

琥珀玉約200個、頁岩製管玉18個、貝殻素材のペンダントが止まって見つかったもの。
琥珀は、サハリン産で、管玉は本州の弥生文化に由来するため、この首飾りは南北の文化の組み合わせとも言えるものである。

※交易が更に進み、富をもたらし、富裕者が更に富む。遠隔地の宝飾品を手軽に入手している。互いの交易品は何だったのか。

 567
琥珀玉・管玉・宇津内Ⅱb式土器
続縄文時代前半(紀元前1-紀元1世紀頃)
常呂川河口遺跡1012号土壙(墓壙)

琥珀玉98個、頁岩製管玉5個が環状に並んで見つかった。
土器は首飾りのすぐ横で見つかったもの。  ※土器の中には棒げものがあったはず。脂肪分析が行なわれなかったようだ。


管玉(碧玉製/メノウ製) 北海道の海岸や河川では、メノウ、ジャスパー・オパールが沢山採れます。  メノウ 画像
続縄文時代前半(紀元前1-紀元1世紀頃)
常呂川河口遺跡22a号/884a号土壙(墓壙)

常呂川河口遺跡の管玉の中では、珍しい石を使ったもの。
特に碧玉製管玉(左)は佐渡島(新潟県)で産出加工されたと考えられるもので、北海道東部では極めて珍しい出土例

 568
墓に埋納された土器・玉類
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
常呂川河口遺跡934号土壙(墓壙)

4人合わせて埋葬されたと見られる墓から出土した。土器は後北C2・D式の注口土器であり、玉類には蛇紋岩製の平玉と土製の練り玉がある。
※戦死者を合葬したのか、冬季に死亡した遺体を土壌の凍結が終わってから合葬したのか。それにしても副葬品が立派。


石製平玉
後北C2・D式の注口土器 練り玉
 569
鉄製刀子
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
常呂川河口遺跡988a号土壙(墓壙)

本来は木製の柄があったもので、右側にその痕跡が残っている。
続縄文時代後半には、交易により鉄が北海道東部にも入ってくるが、その数は少なく、石器の方が多く使われていた。

鉄製刀子

ガラス玉
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
常呂川河口遺跡・墓壙

ガラス玉は濃い青と水色との2種類が見つかっているが、成分の分析からは、どちらも中国産の原材料で作られたと推定されている。
水色の玉は本州の弥生・古墳時代の遺跡で発見されているガラスと成分が近いため、本州方面から入手された可能性が考えられる。

ガラス玉
994号墓壙 300号墓壙
 

 570土器づくり
こねる 形をつくる 文様を付ける 乾燥させる 野焼きする

 580後北式~北大式
 581

 続縄文時代 前半
後北C1式土器 深鉢
続縄文時代前半(1−2世紀頃)
常呂川河口遺跡1353号土壙

石器とともに墓に納められていた土器。隆起線で菱型の模様がデザインされている。底は中央部がくぼんで上げ底状態になっている。
※後北C1式は続縄文後半の後期・晩期の後期土器で、晩期は北大Ⅰ式です。上の脚注は正しいのでしょうか。
※続縄文前半は前期と中期に分けられ、宇津内式が盛行。


 続縄文時代 後半
後北C1式土器 注口土器
続縄文時代後半(1−2世紀頃)
常呂川河口遺跡46号墓壙

液体の注ぎ口がついた土器はこの頃から多く見られるようになった。この土器は石器や管玉と共に墓に納められたもので、中には白色粘土が入れられていた。
後北C2・D式土器 注口土器
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
常呂川河口遺跡72号竪穴住居跡

足縄文時代後半には徐々に縄文使った土器が減っていく。この土器は縄文を使わず隆起線だけで模様が付けられている。
後北C2・D式土器 注口土器
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
栄浦第二遺跡59号竪穴住居跡
北大1式土器 深鉢
続縄文時代後半(5世紀頃)
常呂川河口遺跡

北大式土器はこのタイプの土器が発見された「北海道大学構内遺跡)にちなんで命名されたもので、続縄文時代の最後に見られるタイプのものである。

突瘤文」:棒状工具で突いて、内側にコブ状のふくらみをつけた模様」が縁をめぐり、その下は隆起線文で模様がつけられている。

 585続縄文時代 後半
後北C2・D式土器 深鉢
続縄文時代後半 (3−4世紀頃)
常呂川河口遺跡 29号竪穴住居跡

後北C2・D式土器 深鉢
続縄文時代後半(3−4世紀頃)
遺跡の森・擦文の村(ST-9遺跡)
 「遺跡の館」裏手の擦文時代の集落から出土。
擦文時代以前・続縄文時代にも同じ場所が利用されていたことがわかる。
 鈴谷式土器 深鉢
続縄文時代後半(3−4世紀以降)
常呂川河口遺跡57号竪穴住居跡
  鈴谷式土器はサハリンを中心に分布する。
後北C2・D式土器と同じ層で見つかったもので、この時期の北海道東部にサハリンの文化との接触・交流があったことを示す資料である。
北大Ⅰ式土器 深鉢
続縄文時代後半
(3−4世紀以降)
常呂川河口遺跡57号竪穴住居跡
 
  突瘤文」が縁を巡り、その下に棒状工具で突いて付けた「刺突文」で文様が描かれている。
擦文土器で一般的になるヘラで表面をこすって磨いた痕が見られる。

北大Ⅱ式土器 深鉢
続縄文時代後半(6世紀頃)、
栄浦第二遺跡
北大Ⅱ式土器は北大Ⅰ式土器の後に現れる、続縄文時代最週末の土器。
文様には後北式土器で多く使われた隆起線文がなくなり、沈線と縄文だけで構成されたものになる。
北大Ⅰ式土器 深鉢
続縄文時代後半(5世紀以降)
常呂川河口遺跡57号竪穴住居跡
 
  「突瘤文」が縁を巡り、その下に棒状工具で突いて付けた「突瘤文」で文様が描かれている。
擦文土器で一般的になるヘラで表面を擦って磨いた痕が見られる。


 586
凹石(くぼみいし)
縄文晩期~続縄文時代 (紀元前10−紀元後6世紀頃) 常呂川河口遺跡

 クルミなどの木の実の殻割りに使われたものと考えられる石器。
窪みに木の実を置く台石として機能し、上から別の石で叩いて殻を割った。
一度に多数の実みを並べて置くことができ、効率的な作業が可能である。
 表面に多数の窪みがある形状から「蜂の巣石」と呼ばれることもある。


 590続縄文竪穴住居模型
  ※別項目に移転
 


 600続縄文墓の副葬品  以下は宇津内Ⅱa式土器期  続縄文前期(紀元前4c~紀元後1c)頃の副葬品である。


 601⑦続縄文時代の墓の副葬品
 この2つの展示ケースには、常呂川河口遺跡で発掘された続縄文時代前半期の墓の出土品を展示しています。
左のケースは、1人分の墓の出土品。右のケースは色分けした区画がそれぞれ別の墓の出土品です。
墓に納められる品物の種類や量の差は、墓の主の社会的な地位の違いを反映したものではないかと考えられています。

続縄文時代の墓の副葬品
https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage7/ 
7.続縄文時代の埋葬

 610左:族長墓の副葬品

族長(?)の墓の出土品
続縄文時代前半(紀元前3-2世紀頃)
常呂川河口遺跡470号土壙(墓壙)

 続縄文時代には、墓に様々な品物を納める風習のあったことがわかっています。土器や石器などのほか、北海道外から入手した琥珀製の首飾りのような貴重品が納められることもありました。こうした副葬品の種類や数は、墓ごとに差があり、埋葬された人の社会的地位の違いを反映したものと考えられています。
 特にこの墓(470号土壙)では、1人の死者に対して土器(宇津内Ⅱa式土器)・石器、装身具などの大量の品が納められています。
大小二組ある琥珀製首飾りは、合わせて2400個の琥珀玉で作られており、副葬品の豪華さは、同時代の北海道の中でもトップクラスと言えるものです。有力な族長など、特別な地位の人物の墓であったと考えられます。

族長の墓の副葬品
上に記述

 611墓の遺物の出土状況
白い点線が遺体の位置で、手足を曲げた状態で埋葬(屈葬)されたと推測されます。
それを囲むように土器や石器が置かれていました。琥珀製首飾りはまとめて体の上に置かれていたようです。

棒状原石 ナイフ・石斧・削器 棒状原石・ナイフ
石鏃
ナイフ
石偶
ペンダント
ナイフ
石鏃
石斧

ナイフ
石鏃
石偶
ペンダント
石鏃
石槍
ナイフ
石鏃
石斧
ベンガラ・管玉
ペンダント
石鏃
石槍
ナイフ
石斧
石斧

土器×4
石鏃 石槍・土器・弁柄・管玉

 ※死後の世界を信じ、旅立ちに際して、これだけの生活用品や宝物、土器の中にはきっと貴重な食糧まで用意したのでしょう。

 613副葬品(石器)
石鏃

基本的に三角形だが、
五角形も1つある。→

また、先端が折れ、尖っていないものが3つある
石製ナイフ

細長い形のもの3点と→

つまみ付きのもの1点がある。

 614棒状原石(黒曜石)
黒曜石が自然に細長く割れてできた棒状の石。こうした形の石を選んで集めている。

 615中
白色粘土塊
続縄文時代の墓では、しばしばこのような粘土の塊が見つかる。この墓では、被葬者の頭の下に置かれていたようである。 薄片

薄く割った石のかけら。鏃などの石器を作る素材となるものである。
石槍 磨製石斧 青・黄・緑と色の違う石で作られた石斧。黄色には頁岩。青・緑は片岩と言う石が使われている

※白色粘土(カオリナイト)という珍しいものが頭の下に。土器作りとは違う利用方法だったに違いない。
北海道のカオリンの産地(北海道で検索):黒曜石の風化と関連していたと記憶。置戸にも産地がある。
 飽別ボッケ (北海道阿寒湖周辺の産地)

 617上:装身具
琥珀製首飾り
琥珀玉は約2500個あり、円盤状の平たい玉と少数の楕円状の玉がある。常呂川河口遺跡全体では、琥珀玉が約8900個見つかっているが、この墓だけでその約3割を独占している。
※大量の琥珀製品がサハリンとの交易で得られているが、いったい北海道産の何と交換していたのでしょう。千島列島のラッコ毛皮でしょうか。

           

土製管玉
土製管玉
赤い顔料を混ぜた粘土で作られた管玉。ただし下の玉は未完成なのか穴が貫通していない。

※未成品の土製管玉:宇鉄鉱山の弁柄を混ぜて常呂で製造していたのでしょうか。
 弁柄色を綺麗に発色させるためには白色粘土(カオリナイト)が材料だっただろう。
石偶
石偶
黒曜石製。ヒトまたはクマの形を表現しており、まじないや儀礼のための道具と考えられる。
石製ペンダント
石製ペンダント
粘板岩製。クマの頭部をかたどったものとみられ、鼻先の部分に両端から穴があけられている。

※これはもうクマ信仰なのだろうか。単なるデザインなのか。
 恐ろしいヒグマの彫像を首から下げたのは、シャマンか。
 (続縄文遺跡から出土)

 619上右:土器
宇津内Ⅱa式土器
 道東北部・網走地域に分布。
 前期の型式であるⅡa式は口唇部直下にめぐる突瘤文を特徴とする。

大小5つの土器が並べて置かれていた。
形とデザインの特徴から、続縄文時代前半、紀元前3~2世紀頃に作られたことがわかるものである。

 623

 630右:続縄文時代の副葬品
 632
墓に埋納された土器・石器
 続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
 常呂川河口遺跡246a号土壙(墓壙)

1基の墓に納められていた土器と石器のセット。
土器は底が打ち欠かれた小形の深鉢(左)とミニチュア土器(左)、
石器は石鏃、ナイフ、斧などがある。

ナイフ
削器 やじり 石斧
宇津内Ⅱa式土器
 633
墓の出土品(342号土壙)
 続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
 常呂川河口遺跡342号土壙(墓壙)

異形石器を含む黒曜石製の石器が墓の中央付近に置かれていた。
この他に、宇津内Ⅱa式土器の破片も見つかっている。

石鏃
石製ナイフ
掻器
異形石器
何かの動物をかたどったと推定される。

※きっと恐竜だぁ~
なわけね~だろ
 634
墓の出土品(541b号土壙)
 続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
 常呂川河口遺跡541b号土壙
土器2点が墓の中に置かれていた。矢尻など、狩りの道具がないため、
女性の墓だった可能性も考えられる。

宇津内Ⅱa式土器

 640上段

 641
琥珀製首飾り・石器・宇津内Ⅱa式土器
 続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
 常呂川河口遺跡301号土壙(墓壙)

この墓では400個以上の琥珀玉が並んで見つかった。
琥珀玉は大半が円盤型で、楕円形や2つ穴のものが少数混じる。
2個の土器、大小の磨製石斧、石鏃や石製ナイフなどと共に墓にお納められていた。

琥珀玉首飾り
宇津内Ⅱa式土器
二つ穴や異形の玉。
二穴は一方の穴に何かをぶら下げて垂飾状にしたのかもしれない。それが楕円や縦長の玉だったのかもしれない。
石製ナイフ
上に記述
石鏃
磨製石斧
 
 643
琥珀製首飾り・石器
 続縄文時代前半(紀元前3−2世紀頃)
 常呂川河口遺跡1407号土壙(墓壙)

この墓では120点余りの琥珀玉が並んで見つかった。琥珀玉はほぼ同じ直径に加工されている。
磨製石斧、石製ナイフなどと共に墓に納められていた。

琥珀玉首飾り
石製ナイフ 磨製石斧
 


 700擦文時代 奈良・平安・鎌倉時代 約1400年前~700年前 7世紀~12世紀頃

この時代は、7世紀頃、本州からの影響を受けて竪穴住居の構造や土器の作り方が変化したことにより始まり、12世紀頃まで続きました。

この時代の土器は縄文がなくなり、代わって表面に木のヘラで擦った痕がついていることから、「擦文土器」と呼ばれています。擦文時代と言う時代の名前はここからきたものです。

石器は使われなくなり、主に本州から持ち込まれた、鉄製品が使われるようになりました。また、この頃には、北海道でも畑作(キビやアワなど)が行われるようになりましたが、オホーツク海沿岸では、漁労が生活の中心でした。

常呂では栄浦第二遺跡や遺跡の森の「擦文の村」(ST−9遺跡)など、特に11~12世紀頃に多くの集落が形成されました。

 701⑧
擦文時代 擦文時代の遺跡
ST-8・ST-9
栄浦第一・第二、
常呂竪穴群
トコロチャシ南尾根
常呂川河口
TK-67・大島2

https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage8/
8.擦文時代


 702くらしと文化
擦文時代の暮らしと文化
擦文時代の文化は本州の文化の影響を大きくを受けたものです。東北地方と盛んに交流のあった北海道南部で生活文化が変化し、それが徐々に北海道東部まで広まっていきました。文化に見られる新しい変化にはこのようなものがあります。

鉄器

鉄器が普及し、石器はほぼ使われなくなりました。
北海道では製鉄は行われておらず、鉄製品は東北地方から入手していました。
紡錘車

続縄文時代後半には北海道南部に伝わっていましたが、
擦文時代には北海道全体に紡錘車を使った糸作りが広まりました。
正方形の竪穴住居
基本的な造りは、同時代の本州の農民の家と同じものです。
カマドを使う文化も伝わりました。
擦文土器
本州から伝わった技法で作られた土器ですが、
文様には北海道独自の発展が見られます

 畑作(雑穀の栽培)
畑作(雑穀の栽培) 畑の跡はこの地域では未発見ですが、
住居のかまどから焼けたキビ、アワ、オオムギなどが見つかっており、畑での栽培が始まっていたといわれています。
大島2遺跡出土
炭化したキビ
(拡大写真25倍)

 703擦文時代住居の復元住居
擦文住居の復元 発掘調査時の竪穴住居

発掘調査時
 火で焼けた跡
➀よく焼けた粘土が2本家の外に続いている
②壁沿いの小さな杭列
③太い柱が内側に並んでいる。

発掘調査でわかった事や他の遺跡の発見例を参考に復元する。
復元した竪穴住居 ➀煙突(カマド2基)
・出入口
・カマド(2基)
③柱
・炉
②ベッド

 710土器
 711
擦文土器
擦文土器は東北地方で作られていた五所川土師器(8世紀前半)を模倣して作られるようになった土器です。
縄文は使われなくなり、代わりに木のヘラで擦って表面が整えられています。この擦った痕が文様のような効果を生んでいることから「擦文」と呼ばれています。
さらに上半分を中心にヘラで刻み目や線を引いて斜線や 三角形のパターンの模様が描かれました。

【文様】
 ヘラでつけた刻み目や線で描かれています。多くの場合表面を擦るのと同じヘラが使われました。
【外側】
 ほぼ全面的に木のヘラで擦られ、ヘラの木目の痕が付いています。土器の表面を整え水が染みにくくなる効果がありました。
【内側】
 土器の内側は丁寧に磨くだけでなく、「黒色処理」が加えられているものもあります。これは表面にススなど炭素を吸着させるもので、
 目に見えない微妙な隙間を塞ぎ、水がしにくくしています。

擦文土器
上に記述


擦文土器 甕
 擦文時代(8世紀頃)
 栄浦第二遺跡

擦文時代の初め(7~8世紀)頃の土器は常呂では僅かしか見つかっていない。
この土器のように、縁の部分の断面が四角い形状になっているのは、比較的古い擦文土器に見られる特徴である。
擦文土器 甕
 擦文時代(9世紀頃)
 常呂川河口遺跡120号竪穴住居跡

文様は6~77条の水平線の上に4条の点列が印刻されている。
点の印刻は木ヘラの角を使っており、木目がはっきりとついている。
底の部分は失われている。

擦文土器 甕
 擦文時代(9世紀頃)
 遺跡の森・続縄文の村(ST-08遺跡)・6号竪穴住居跡

続縄文時代の住居跡の上層で見つかった土器。
底の部分は失われている。
この頃の時はヘラで引いた水平線と点状の印刻だけのシンプルな文様のものが多い。
擦文土器 甕
 擦文時代(9世紀頃)
 常呂川河口遺跡120号竪穴住居跡

水平線だけでなく、その上にX字状の文様が描かれ、これを縁取るように、点列が印刻されている。
擦文土器 甕
 擦文時代(10世紀頃)
 栄浦第二遺跡

10本前後の水平線を引き、その上から2本一組の垂直線の両脇の位置に山形の文様を重ねて描いている。
擦文土器 甕
 擦文時代(9世紀頃)
 栄浦第一遺跡

文様が10条の水平線の上から格子目状の線を描いている。
 
713東北地方から持ち込まれた土器(須恵器 甕) 
東北地方から持ち込まれた土器(須恵器 甕)
擦文時代(10世紀頃)
TK− 67遺跡(青森県五所川原窯産)

本州方面との交易品の容器として運ばれてきたと考えられるもの。おそらくお酒などが入っていたと思われる。

須恵器は窯で焼いた土器で、野焼きされる擦文土器と比べて、高温で焼かれ、硬く丈夫になっている。
擦文時代の北海道では作られておらず、この甕も青森県の五所川原で作られたもので北海道東部では限られた場所でしか見つかっていないものである。

五所川原須恵器窯跡 9世紀後半から操業を始めた。
 製品は青森県内、秋田県、岩手県の北部、北海道の道南・道央地方に多量に流通し、道東・道北まで北海道全域に流通した。

東北地方から持ち込まれた土器(須恵器 甕)

 五所川原窯産須恵器が見つかった遺跡(9世紀末~10世紀)
五所川原窯産須恵器が見つかった遺跡
※窯物は、舟で運ぶのが常識だから、これらの出土遺跡は当時本州と船の航路でつながっていたようである。
 日本海航路が中心だったようで、稚内から常呂、釧路まで伸びていたようだ。
襟裳岬を中心とする船の墓場には、この時代になっても航路がなかったようだ。
五所川原
須恵器 大甕

 715カマドの登場と仕組み
「ところ遺跡の森」内にある擦文村の1号竪穴住居では、発掘調査の結果、調理設備であるカマドが2基見つかりました。2基のカマドは深鉢を支える支脚に、それぞれの小型の深鉢と高坏を使用していたことがわかりました。

日本のカマドは中国・朝鮮半島を経由して伝えられましたが、北海道に伝わるのは7~8世紀頃、常呂は10世紀頃には使われていたと考えられます。

日本に伝わって間もないカマドは主に蒸し器や煮炊き器として、ちまきのような蒸したお米や汁物などの調理器具として受け入れられましたが、北海道では蒸すのに必要な甑(こしき)と言う底に穴の開いた蒸篭(せいろ)の役割を果たす土器が、道南~道央にかけてまでしか伝わりませんでした。
これは北海道では、稲作が根付いていなかったことに関係すると考えられますが、カマド自体は北海道でも受け入れられました。

※セイロが伝わらなかった地域では、しょくりょうとして米を入手した場合、湯の中に入れて煮たのだろう。
基本的に米は蒸す方がおいしく、煮るとべたべたになり、おかゆになる。 焼成が悪い土器だと泥が混じる。

支脚
熱を受ける範囲を強くするため、土器を載せる石や土製品。
1号竪穴住居では、高坏とと小型の深鉢を使っています。

カマドの設置
石や割れた土器を芯にして周りを粘土で固める

かまどの仕組み
焚口に薪を入れ火をつける。
火の上昇気流により煙は煙道を通り屋外へ出ていく。
周囲を粘土で覆うため、熱が逃げにくく、安定して調理ができる。

カマドの登場と仕組み 「ところ遺跡の森」4号竪穴住居 カマド

写真手前の焚口は燃焼によって赤く焼けている。
支脚として使われた土器が逆さまになっている。

支脚
熱を受ける範囲を広くするため、土器を載せる石や土製品のこと。
1号竪穴住居では、高坏という小型の深鉢を使っています。

カマド作り
石や割れた土器を芯にして周りを粘土で固める。

かまどの仕組み
焚口に薪を入れ火をつける。
火の上昇気流により煙は煙道を通り屋外へ出ていく。
周囲を粘土で覆うため、熱が逃げにくく、安定して調理ができる。

 730土器の時期と変化
擦文土器には、深い器の甕、浅い器の坏や足の着いた高坏、などの種類がありました。
これらの土器の形や文様は少しずつ変化しており、遺跡の時期を知る手がかりになっています。

擦文土器の時期と変化

  13世紀 12世紀   11世紀   
10世紀 9世紀
  7~8世紀 
斜線と列点の文様
斜交線
の文様
複数段
の文様
平行線の
下地がな
くなる

口の部分が大きく外側に張り出す
横の平行線の下地に縦方向の文様 平行線主体の文様

口の部分が大きく外側に張り出す 胴の中ほどが外側に膨らむ
←甕
常呂では擦文土器がほとんど見つかっていない
高坏  高坏がほとんど作られなくなる ← 
縁が外側に開いた形になる 脚が高
くなる 
← 
10世紀
低い脚が付く
  ←高坏
   

 740擦文土器
擦文土器坏
 擦文時代(11世紀前半頃)
 TK-67遺跡。

この頃から台付の坏が作るられるようになった。この内の部分が発達して高くなったのが高坏である。
文様がなく、ヘラで擦った後が残っている。
擦文土器 坏
 擦文時代(11世紀頃)
 TK-67遺跡・60号土壙

高坏は、北海道では擦文時代に使われるようになった。この高坏は脚部に三角の透かし模様を付けた装飾的なつくりとなっている。
擦文土器高坏
 擦文時代(11世紀後半頃)
 TK-67遺跡・3号竪穴住居

直径29cm高さ16cmの大きさがあり、高坏の中で大型のもの。
擦文土
 擦文時代(11世紀後半頃)
 常呂川河口遺跡138号竪穴住居
擦文土器甕
 擦文時代(11-12世紀頃)
 常呂川河口遺跡155号竪穴住居
擦文土器 甕
 擦文時代(10世紀頃)
 常呂川河口遺跡36号竪穴住居(埋土)

最上段に刻の隆起線が付けられるようになる。その下の文様は10数本の水平線を引き、その上に垂直線を重ねて描いている。
擦文土器 甕
 擦文時代(11世紀前半頃)
 栄浦第二遺跡37号竪穴住居跡

中心となる文様は交互に向きを変えた斜線で三角形のパターンを描いたもので、この頃から文様の下地に引かれていた水平線が描かれなくなる。
  擦文土器 甕
 擦文時代(11世紀前半頃)
 常呂川河口遺跡

斜線や三角形を並べた帯が複数段重なる構成の文様で、「く」の字形を連ねた矢羽状の模様も、この頃の土器の特徴の1つ。内側は黒色処理されている。
  擦文土器 甕
 擦文時代(11世紀前半頃)
 常呂川河口遺跡14号竪穴住居跡

斜線や三角形を並べた帯が複数段重なる構成の文様を持つ。内側黒色処理されている。

 750須恵器と擦文土器

 751地元産の擦文土器と東北地方産の須恵器
地元で製作された擦文土器に交じって、東北地方産の土器(須恵器)も少数見つかっている。
須恵器は窯で焼くなど、擦文土器とは製作技法が異なり、色合いや表面の特徴に違いがある。


底に木の葉の痕がある擦文土器 甕
 擦文時代(12世紀後半頃)
 岐阜第二遺跡11号竪穴住居跡

擦文土器には土器作りの時下に置いた敷物の痕が残っていることがある。
この土器はナラガシワの葉の上で作ったらしく、底部に葉脈の痕が付いている。
春男に芽吹き秋には落ちる木の葉を使っているため、夏に作られたことが推定できる土器である。
ろくろ整形の須恵器 長頸壷
 擦文時代(10世紀心)
 トコロチャシ南尾根遺跡17号竪穴住居跡

青森県五所川原の窯で生産された須恵器。ロクロを使って作られており、底部の年輪状の模様は、ロクロを回転させながら糸で底の粘土を切り離した痕。窯元で刻まれた記号の「井」の字が肩部に見られる。

 753擦文土器
擦文土器 片口土器
擦文時代(11-12c頃)
常呂川河口遺跡
擦文土器 坏
擦文時代(11-12c頃)
常呂川河口遺跡
178号竪穴住居跡
擦文土器 坏
擦文時代(11-12c頃)
常呂川河口遺跡
57号竪穴住居跡
 向井合わせの位置に1組の穴があり、紐などを通して、吊り下げて使った可能性がある。

 755紡錘車の使い方
紡錘車は、糸を作る道具のおもりとなる部品です。
この時代の糸を作る道具は、紡錘車を軸に取り付けた「紡錘」と呼ばれるものでした。
糸は綿などの繊維ねじり合わせて作られます。紡錘をコマのように回転させることによって、この繊維をねじり合わせる作業を効率よく行うことができました。

①綿・麻などのかたまりから少しずつ繊維の束を引っ張り出す。
②紡錘車をコマのように回転させることで、繊維の束がねじれて糸ができる。
③糸ができたら軸に巻き取り再び続けて糸を作る。

紡錘車 紡錘車
紡錘車

擦文時代(11-13c頃)
栄浦第二遺跡
45号竪穴住居跡ほか
紡錘車

擦文時代(11-13c頃)
常呂川河口遺跡
3号竪穴住居跡ほか
紡錘車

擦文時代(11-13c頃)
常呂竪穴群
 
756擦文時代の鉄器と鍛冶
殺文時代には、鉄器が本格的に普及し、石器に代わって使われるようになりました。鉄器は基本的に交易で本州から入ってきたものでしたが、鉄を叩いて製品を形作る鍛冶の作業は、北海道でも行われており、高温の火を起こすためのふいごの羽口(空気を吹き出す部分)が見つかっています。当時のフイゴは、動物の皮で作った風船で空気を送り出すタイプのものが想定されています。

フイゴの羽口


樺太アイヌの鍛冶(左)とフイゴ(右)

 フイゴの羽口

・擦文時代(12c頃)
 常呂川河口遺跡73竪穴住居跡
・擦文時代/トビニタイ文化(10c頃)
 常呂川河口遺跡137竪穴住居跡

・擦文時代(12c頃)
 常呂川河口遺跡73竪穴住居跡
・擦文時代/トビニタイ文化(10c頃)
 常呂川河口遺跡137竪穴住居跡

・トビニタイ文化期10c
 常呂川河口遺跡137住居跡

・擦文時代12c
常呂川河口遺跡73竪穴住居


刀子
鉄製刀子(ナイフ)
擦文時代(12c)
常呂川河口遺跡
138号竪穴住居跡

全体がさび、本来の長さが失われている。
右側は木製の柄の一部が残っている。
鉄製刀子(ナイフ)
擦文時代(12c)
TK-07遺跡
1号竪穴住居跡

鉄の部分のほぼ全体が残るもの。右側には木製の柄も一部残っている。
鉄鏃
擦文時代(11c前半)
栄浦第二遺跡
36号竪穴住居跡
鉄製の矢尻

 757機織り機部品
 758
機織機(断片) 擦文時代 (12世紀) 栄浦第2遺跡45号竪穴住居跡
 この機織機は「綜絖」と呼ばれるはしご状の部品と、糸や、できた帯をとめるための棒状の部品で作られていました。火事で焼けた住居から見つかったので、焼けて炭になっています。
綜絖の大きさと糸を通す穴の数から見て、大きな布を織ることはできず、幅の狭い帯などを織ったものと推定されています。

○綜絖の使い方
 綜絖は図1のようにたての糸(図の青・緑の糸)と横の糸(図の赤い糸)を交互に織り込むのに必要な部品です。
 例えば図2のように青い糸を丸い穴に、緑の糸を縦長の穴に通しします。
 綜絖を上に引っ張って緑の糸を穴の下側に寄せると、青い糸(上)と緑の糸(下)との間に赤い糸を通すことができます。(図2)。
 次に綜絖を下に引っ張って、緑の糸を穴の上に動かすと、緑の糸(上)と青い糸(下)との間に、赤い糸を通すことができます。(図3)。
 これを交互に繰り返すことによって図1のような布を織ることができるのです。

機織機(断片) 機織機(断片) 機織機(断片) 綜絖 機織機の復元例 綜絖の使い方
綜絖は経糸を一つおきに上下に動かし、そのたびに横糸を通し、縦横の糸を編んで布をつくる要の道具
 759機織り機部品
   機織り機の1部と考えられる部品。
機織り機部品

棒状の部品。片方の面に糸がこすれた筋状の跡が付いている。
機織り機部品

棒状の部品。端部に溝が切られており、紐などで縛って固定した部品と考えられる。
綜絖(機織り機の部品)

布を織る時に、糸を交互に分ける機織り機の中でも重要な部品。
丸い穴と長方形の穴があり、それぞれに糸を通した。
綜絖

表面には細かい装飾模様が彫刻されている。

 760擦文住居の発掘
 761発掘写真
排水溝のある住居跡
芯に石を使用したカマド ※カマドは赤土だけでは形をつくれません。石を積んで概形をつくり、それに赤土を塗ってカマドに仕上げます。
発掘風景 擦文時代の住居跡
約1000年前
カマドを持たない住居跡
炉跡もなければ倉庫か
擦文時代の火災住居
約1000年前

 763擦文土器 (終末期) (擦文時代は7~13世紀 だから)
擦文土器 甕
擦文時代(12世紀頃)
遺跡の森擦文の村(ST-09号竪穴住居痕)

遺跡の森内の3号住居跡(露出展示住居)出土の土器、把手付のものは比較的珍しい。
擦文土器 甕
擦文時代(11世紀後半頃)
常呂川河口遺跡43号竪穴住居

片側ずつ別の模様がある土器。向かって右面には格子目文。左面には3段の山形文を施文。
擦文土器 甕
擦文時代(12-13世紀頃)
常呂川河口遺跡7号竪穴住居

擦文時代の終わり頃の土器。この頃には高坏は作られなくなったようで、甕だけが見つかる。
擦文土器 甕
擦文時代(12-13世紀頃)
常呂川河口遺跡122号竪穴住居

擦文時代終わり頃の土器。文様はかなり簡略化されており、胴部の沈線は部分的にしかつけられていない。
擦文土器 坏
擦文時代(12世紀頃)
常呂川河口遺跡138号竪穴住居
 765
擦文土器 甕
擦文時代(11c前半頃)
常呂川河口遺跡

この頃になると、斜線や三角を並べた帯が複数段重なる構成の文様になる。「く」の字形を連ねた矢羽状の文様も、この頃の土器の特徴の1つ。内側は黒色処理されている。
擦文土器 甕
擦文時代(11c後半頃)
常呂川河口遺跡138号竪穴住居跡

文様は「X」を重ねた形の格子目と「く」を横に連ねた矢羽状文が交互に重なるが、かなり雑に描かれている。
ヒビが入ってはいるが、大型の擦文土器の甕では珍しくほぼ完全な形で出土。

擦文土器 高坏
擦文時代(11c後半頃)
遺跡の森擦文の村(ST-09遺跡)3号竪穴住居
擦文土器 高坏
擦文時代(11c後半頃)
遺跡の森擦文の村(ST-09遺跡)3号竪穴住居

遺跡の森内3号露出展示住居で検出の土器。底が平らに広がる形態で、その下に付いていた脚は折れていたため復元。
擦文土器 甕
擦文時代(11c前半頃)
栄浦第二遺跡36号竪穴住居

擦文時代の大型甕は文様のあるものが多いが、この土器のように文様が描かれないものもあった。表面を整形したときについたヘラで擦った痕が全面に見られる。

擦文土器 甕
擦文時代(12c頃)
遺跡の森擦文の村(ST-09)1号竪穴住居跡
1号住居の埋土から見つかった土器で、床面で見つかった土器よりやや新しい特徴を持ち、高さに対して幅が広い形に変化している。
擦文土器 甕
擦文時代(11c後半頃)
常呂川河口遺跡28号墓壙

この土器は擦文時代の墓と考えられる土壙内から見つかった。擦文時代の墓は住居跡に比べるとごく少数しか見つかっていないが、続縄文時代同様に墓に土器を納める風習があったようである。

擦文土器 甕
擦文時代(12c頃)
常呂川河口遺跡121号竪穴住居跡

文様は山形の線を引き、その両脇に沿って短い線を連続的に入れた構成で、かなり雑に描かれている。内側は黒色処理がなされている。
 
 


 800オホーツク文化  常呂地域では主として7~9世紀頃

 オホーツク文化は、5~12世紀頃、オホーツク海沿岸で栄えた文化です。同時期の北海道にいた擦文文化の人々とは異なる、外来の異民族によって残されました。
 この文化は、最初、宗谷海峡周辺に出現し、6~7世紀頃に道東部にもわたってきました。最盛期にはサハリンから北海道、千島列島まで広がっています。道東部では、擦文文化と接触・融合し、10~12世紀頃にはトビニタイ文化と呼ばれる文化に変化しました。クマを崇拝する独特の風習があったことから、後のアイヌ文化にも影響与えたとされています。
 オホーツク文化では、海での狩や漁が生活の中心で、遺跡も海岸部に残されました。常呂では、栄浦第二遺跡、常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡で集落跡が見つかっています。

オホーツク文化 年表
オホーツク文化の遺跡
https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage9/
9.オホーツク文化
 

 810⑨北の海洋民族オホーツク人

オホーツク文化の人々は、海岸沿いに集落をつくり、海での狩猟・漁労を盛んに行っていました。その証拠として、オホーツク文化の遺跡からは、釣針や銛先など海で使う道具が数多く見つかっています。

 811
釣り針
 オホーツク文化 貼付文期(8-9世紀頃)
 常呂チャシ跡遺跡8・12号竪穴住居跡ほか

3点とも海獣の骨から作られています。いずれも折れていますが、左端のもので長さ15cmはあり、かなり大型の魚を釣っていたことがわかります。

北の海洋民族
オホーツク人
釣針
釣針
 812
銛先
ホーツク文化 貼付文期(8-9世紀頃)
常呂チャシ跡遺跡7・8・9号竪穴住居跡

銛は海や川での狩猟のために工夫された道具です。
縄の端につけた状態の銛先を獲物に打ち込み、縄を引っ張って獲物を回収すると言う仕組みになっています。

左の2点はさらに黒曜石で作った先端をはめ込む作りになっており、より大型の獲物ねらえるようになっていました。
トドやアザラシなどの海獣が獲られていたほか、オホーツク人が残した絵画(左の写真)からは、船を使ったクジラ漁が行われていたこともわかっています。

銛先 クジラ漁を描いた線刻画
サハリン鈴谷遺跡
 814オホーツク海周辺の主要遺跡分布
オホーツク海周辺の主要遺跡分布1(広域) ➀アムール川上流域に靺鞨文化
②中流域に、他の文化と女真文化
③オホーツク文化は南サハリンと北海道オホーツク海岸

オホーツク海周辺の主要遺跡分布2
(北海道周辺)
サハリン
プロムィスロバヤ (東多来加)
ススヤ (鈴谷)
オゼレツコエ(江ノ浦)
ネベリスク (本斗)

ナイプチ (内淵)
スタラドブスコエ (栄浜 )
アジョールスク
北海道
稚内・オンコロマナイ・
礼文・香深井A、
礼文・浜中
利尻・亦稚

枝幸 目梨泊
枝幸・ホロベツ砂丘
湧別・川西
常呂・栄浦第二
常呂・トコロチャシ・常呂川河口
網走・二ツ岩
網走・モヨロ
クナシリ島
ユジノクリリスク

北海道
羅臼・トビニタイ
羅臼・松法川北岸
標津・三本木

根室・オンネモト
根室・トーサムポロ
根室・弁天島
 

 820オホーツク土器
 821壁掛け展示
オホーツク土器編年
十和田式期 (5-6c頃) 初期
刻文期 (7世紀) 中期
沈線文期 (7−8c頃)  
貼付文期 (8−9c頃) 後期
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化 貼付文期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
オホーツク土器(沈線文)
オホーツク文化 沈線文期(7−8c頃)
栄浦第二遺跡

細い粘土紐を波形に貼り付けた装飾(貼付文)が流行する以前に作られていた土器
オホーツク土器(櫛歯文=刻文期)
オホーツク文化 沈線文期(7-8c頃)
栄浦第二遺跡

上部に4つの点から成る櫛歯文が巡り、胴部には円形のボタン状貼付文のある土器
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化 沈線文期(7-8c頃)
栄浦第二遺跡

波形の粘土紐の装飾(ソーメン状貼付文)が流行する前に作られていた土器。刻み目のある粘土紐で装飾されている。
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化 沈線文期(7-8c頃)
栄浦第二遺跡

波形の粘土紐の装飾(ソーメン状貼付文)が流行する以前に作られていた土器。棒状の工具で突いた穴のある粘土紐で装飾されている
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化 貼付文期(8-9c頃)
常呂川河口遺跡
オホーツク土器(刻文)
オホーツク文化 沈線文期(7-8c頃)
栄浦第二遺跡58号竪穴住居跡
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化 貼付文期(8-9c頃)
常呂川河口遺跡

 822石錘
オホーツク文化 貼付文期(8-9c頃) 常呂川河口遺跡
石に穴を空け、紐やロープを通せるようにしている。釣りや網漁に使われていた。

石錘 ※荒海用の石錘は、河川用の丸石の両端を打ち欠いたものとは異なる
石錘がはずれて網や仕掛けが流されないように、貫通孔でしっかりと結ばれている。

 823オホーツク土器
オホーツク文化では、同時代の擦文文化とはかなり異なるデザイン、形の道具が作られていました。
基本的には口の広いツボの形で細長い粘土紐の装飾的な文様が特徴的です。

またオホーツク文化では、様々な道具に動物をかたどったデザインが使われていました。
オホーツク土器の中にも鳥などを表現したデザインを持つものがあります。

オホーツク土器
ソーメン文
このような細長い粘土紐の装飾文様はは「ソーメン文」と呼ばれている。
オホーツク土器の
鳥や動物の表現
※ソーメン文で幾重もの波を表し
その間に水鳥を浮かべたり、
飛ぶカモメを配置し、
海面からは海獣を覗かせたり、
砂浜に貝殻の装飾もある。
 824平置き展示土器

 825オホーツク土器(貼付文・海獣文)
   オホーツク文化 貼付文期(8-9世紀) 常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
上下2段に動物型装飾が並ぶ土器。おそらくアザラシなどの海獣を表現している。

これは儀式用か実用か

実用ではアザラシ文が剥がれずに残っている。

燻された跡がない。

 826貼付文期土器


オホーツク土器
(貼付文・水鳥文)
オホーツク文化
貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡25号竪穴住居跡

鳥形の装飾のある土器
オホーツク土器
(貼付文・水鳥文)
オホーツク文化 貼付文期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡 
 
水鳥を粘土で貼り付けて表現している。
       
オホーツク土器
(貼付文・水鳥文)
オホーツク文化 貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡25号竪穴住居跡

波形の粘土紐とともに、飛ぶ水鳥を表したと見られる装飾がある。高さ約38cmの大型土器で、住居内の儀礼の場である骨塚に置かれていた。
           

 827沈線文期土器
オホーツク土器(沈線文)
沈線文期(7−8c頃)
栄浦第二昔49号竪穴住居跡

棒状の工具で刻んだ線状の文様(沈線文)の土器、細い粘土紐の貼付文の土器より古い時期の土器と考えられている。


 貼付文期土器
オホーツク土器(貼付文)
貼付期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡
15号竪穴住居跡

オホーツク文化後期の土器は、細長い粘土紐を貼り付けた文様(「ソーメン文」とも呼ばれる)が特徴である。この土器のように、直線と波線を1組にして付けるのは、後期の中でも比較的新しい特徴と考えられている。
 828
オホーツク土器
(貼付文)
貼付期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

粘土紐の「ソーメン文」の下にスプーン形の貼付文がある。

※静穏な海を直線で
波の下に潜む海獣を
しゃもじ形なのかな
 830箱中展示

 831貼付文土器 優品
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8-9世紀頃)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
 833
 834

厚手口縁は別文化の土器でなかったか

 840住居

 841
オホーツク人の家
 オホーツク文化では、独特な形をした家を立てていました。右の図は、オホーツク文化の竪穴住居を上から見た図です。
オホーツク人の家は、上から見ると、縄文・続縄文の円形やフライパン形の家や、擦文の四角形の家とは違い、六角形をした家に住んでいました。

 家の中も他の文化と違い、粘土を貼った土間(U字形の黄土色をした部分)や家の一角に動物の頭骨を中心とした祭壇のような骨塚と呼ばれる施設をつくります。骨塚には狩りで捕まえた動物の頭の骨を積み重ねたほかに、日常的にも使わないような大型の土器や骨やキバを加工した彫刻品なども一緒に置いてありました。
 また、オホーツク文化では、大型の家が多く、1家族が使うには、多すぎる土器がいくつもまとまって見つかったことから、1つの家に1家族が暮らしていたのではなく、集団で1つの家に住んでいたことがわかりました。

◀オホーツク文化の家
 (常呂川河口遺跡15号竪穴住居)

白い部分は近現代の家に破壊された跡。
濃い黄土色の部分は擦文時代に竪穴の凹みを利用して作られたお墓です。

 出土状況
土器出土状況 骨角器
出土状況

展示物を撮影していません

 843壁掛け展示土器

 貼付文期土器
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡23号竪穴住居跡
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

この遺跡は火災で焼けている。このため、この住居の土器は火熱を受けて本来よりも赤っぽく変色している。
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡23号竪穴住居跡

住居の奥に設けられた祭壇である「骨塚」から見つかった土器
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃)
常呂川河口遺跡
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
常呂川河口遺跡16号竪穴住居跡

 845骨塚
 846
竪穴住居内の骨塚の出土遺物
オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃)
栄浦第二遺跡23号竪穴住居跡
 オホーツク文化の竪穴住居には、一番奥に「骨塚」と呼ばれる動物骨を集めた場所があった。これは狩った動物を祀る場であったと考えられている。
中でも熊の頭骨が多く見つかることから、特にクマが重要視・神聖視されていたらしいことがわかる。
また、少し変わった事例として、骨とともに古い時代の土器が置かれることもあったようである。


◀遺跡で見つかった骨はほとんどが壊れてしまっているが、元はこのようにクマの頭骨が並べて置かれていたと思われる。
(写真:網走市モヨロ貝塚のオホーツク文化の竪穴住居で見つかった骨塚)  
 
 847クマの彫刻
クマの彫刻のある角器(指揮杖?)
 オホーツク文化貼付文期(8-9c頃)
 栄浦第二遺跡7号竪穴住居跡の骨塚

鹿の角を加工し、一端にクマの胸像を彫刻したもので、儀礼に使う指揮杖のようなものだったと考えられる。
このような特殊な遺物は住居の中でも骨塚から見つかることが多い。

クマの彫刻のある角器(
 848
骨塚から見つかったクマの骨
この住居の骨塚では、クマの頭骨が20個以上置かれていたことがわかっている。
元は唐櫃が丸ごと置いてあったはずだが、壊れてしまっていた。この2点はオスの下顎の骨で大きな牙が目立つ。

骨塚から見つかった
クマの骨

骨塚から見つかった縄文土器
オホーツク人の中には偶然見つけた昔の土器を骨塚に置いて奉る風習もあったようである。この土器は北筒式(トコロ5類)と呼ばれる縄文時代中期、約4500年前に作られた土器で、オホーツク人にとっては3000年以上も昔のものになる。

骨塚から見つかった
縄文中期4500年前
(北筒式)
 
 
 850展示ケース

 851オホーツク文化の石器

オホーツク文化 貼付文期(8−9世紀頃)/常呂川河口遺跡、栄浦第二遺跡

オホーツク文化は、日本列島の中でも最も遅くまで盛んに石器を使っていた文化の1つである。
擦文時代にはほとんど使われなくなったが、ほぼ同じ頃のオホーツク文化の遺跡では多数の石器が発見されている。

※近くに暮らす擦文人は鉄鏃・鉄鍋・鉄刀子なのに、その隣では、恐ろしく原始的な道具、骨鏃・土器鍋・石ナイフ。
 擦文人からはどのように見えたのだろう。

オホーツク文化の石器
オホーツク文化の石器
石槍・石製ナイフ
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
 

左は黒曜石製の石槍。右は黒色安山岩製のナイフで、石槍より薄く作られている。
石鏃(矢尻)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
 

オホーツク文化では、五角形の下に茎(なかご)が突き出す形の石鏃が多い。左側の細長い形状のもの2点は火災で焼けたため、表面にひび割れや変色が起こっている。
石弾(せきだん)
常呂川河口遺跡14号竪穴住居跡
 

 球形に加工された石。投石器で投げる弾丸と推定されている。
掻器
常呂川河口遺跡
15号竪穴住居跡
皮革加工用の石器。動物から剥ぎ取った毛皮を使えるようにするため、皮の内側に残った脂肪を掻き取る加工などに使われたとされる。
磨製石斧
常呂川河口遺跡
16号竪穴住居跡

左は扁平な石を磨いて利用したもので、刃部側には使用による割れが見られる。
石投げ帯は、帯の片端は手首に固定し、片端を掴んで真ん中に石を乗せ、振り回し、目標に向かって掴んだ帯端を離すと、遠心力で加速された威力で目標を破壊する。命中精度も高い。
ボタン状石製品
栄浦第二遺跡
珪藻土製。帯留めや、垂飾などの装飾品として使用されたと考えられる。
有孔石製品
常呂川河口遺跡
16号竪穴住居跡

円形に磨き、中央に穴をあげた石製品。装飾具の一種と考えられる。


 853骨角器
オホーツク文化の骨角器
オホーツク文化 貼付文期(8-9c頃) 常呂川河口遺跡・栄浦第二遺跡

オホーツク文化では動物の骨・角・牙を加工した道具も使われた。狩猟具や工具のほか、実用品でない彫刻品も見られる。クマや海獣など、動物のデザインのものが特徴的である。

オホーツク文化の骨角器
  骨製装飾品
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡 

鯨類の歯を使った彫刻品で、一端は熊の足形のデザインになっている。
骨鏃(矢尻)
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

パイプ状の鳥の骨を斜めに切断して作られている。 
骨ヘラ
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
 クジラの骨を加工してつくられている。
骨製土堀具
 
骨製土堀具
オホーツク文化
貼付文期(8-9c頃)
栄浦第二遺跡
・動物骨集積1 
 「骨斧」とも呼ばれてきたが、実際にはスコップだと考えられている。
上に木の柄を付けて使った、クジラの骨製
※このような土堀具でオホーツク住居の穴を掘ったのか。気が遠くなるような、骨の折れる作業。
だからオホーツク住居は砂地に多いのか。

住居適地は、
穴の掘りやすさ
だったかもしれない。
 
骨製銛先
栄浦第二遺跡・
動物骨集積1
銛は海上での狩猟で、獲物を回収するための縄に結んで使われた。

このため銛先には縄を固定する溝や穴がある。
右端のものは先の2つにわかれた部位に石鏃を差し込んで使った。

 854動物彫像
ラッコ彫像
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
熊の牙を彫刻し、仰向けに泳ぐラッコの姿をお腹のシワまで写実的に表現している。
ラッコは毛皮が価値の高い交易品にもなり、オホーツク人にとって重要な動物であった。
※巨大ヒグマを捕らえその巨大牙を残すために記念物として彫られたラッコ像。
巨大に育ったクマも
捕らえた腕も、
克明な地用刻も
素晴らしい。


熊の彫刻のある角器
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

族長などが持つ指揮杖と考えられるもの。
素材は鹿の角で、杖の先端部に熊の全身像を彫刻している。バラバラに壊れた状態で見つかった。
持ち主の死に伴う儀礼などで意図的に破壊したものかもしれない。



 クマ彫刻断片 
クマ彫刻断片
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
クマを表現下彫刻の断片。頭の部分4点と前足の部分1点がある。


 855骨製道具
骨製匙
常呂川河口遺跡
15号住居跡

先端部(左側)は動物(海獣?)の頭部を表現した彫刻で飾られている。
骨製帯留め
常呂川河口遺跡
15号住居跡

アイヌ文化の「クックルケシ」と呼ばれる帯留めと同類と考えられているもの。
オットセイ彫刻
常呂川河口遺跡
15号住居跡

しっぽにあたる部位に穴があり、紐を通してペンダントにしたものと推定される。
 

 856木製品
オホーツク文化の木製品(焼失住居出土)
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

木製品は地中で腐りやすいため遺跡から見つかる事は少ない。
ここに展示しているのは火災で蒸し焼きになり、炭になって形が残っていたものである。断片のため用途のはっきりしないものが多いが、道具・家具の一部とみられ、彫刻で装飾するなど凝ったデザインのものも多い。

尖頭状木製品

一端をとがらせた木製品
ハンガー形木製品
服をかけるハンガーに似ているが、用途は不明。上に四角形の板を2つはめ込むようになっており、固定のための釘穴が開けられている
鉤状木製品かぎ
皿状容器の断片
板を掘り窪めてつくられた容器の断片
クマの前足の彫刻
 857
布・紐の断片

炭化して焼け残ったもの。布は平織、紐は3本撚りである。
箆状木製品

炭化して焼け残った。中央に縦方向の溝を彫り、上部は細く加工している。
フクロウの装飾付
棒状木製品

棒の先端にフクロウ型の彫刻がある。下半部が折れているため用途不明。
柄状木製品

全体像不明の道具の一部
樹皮製容器の取っ手

取っ手はこの容器と組み合わせたものだった可能性がある。

 858金属製品
オホーツク文化の金属製品
オホーツク文化貼付文期(8-9世紀頃) 
常呂川河口遺跡・栄浦第二遺跡

オホーツク人は、基本的に金属製品を自作せず、外部との交易で入手していた。ただし、鉄製品の簡単な再加工程度は行われたようで、ある。鉄製の刀子のほか、青銅や銀製の装身具などが発見されている。

オホーツク文化の
金属製品

鉄製短刀・鉄斧
 
  鉄製短刀・鉄斧
オホーツク文化貼付文期(8−9c頃)
栄浦第二遺跡78号土壙墓

1つの墓に副葬品として納められていた。斧は大陸から交易で入手されたもの。短刀は大きく折れ曲がっているが、これは故意に曲げられており、墓に入れるものを道具としての役割を終えた状態とすることに象徴的意味があったとみられている。
鉄製針・針入れ 鉄製針・針入れ
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

二組とも針入れに針が入った状態で見つかった。針入れは名かが空洞になった鳥の骨を利用している。
左の針はほぼ完全な状態のもので、頭部に糸通しの穴があることがわかる。

銀製耳飾り 銀製耳飾り
栄浦第二遺跡2号土壙墓

さびて黒くなっているが銀製品で、死者の耳つけた状態で墓に埋られたもの。円環状で両端の小さな穴で綴じ合わせた。
青銅製鐸(ベル) 青銅製鐸(ベル)
常呂川河口遺跡14号竪穴住居跡
ベルの上半部の破片。下の部分は破損して失われている。

※きっと長期間打ち鳴らし続けたため、鋳造時に湯(溶解銅)を継ぎ足したため、そこにひびが入って割れ落ちたようです。
青銅製飾り金具 青銅製飾り金具
常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡

正確な使用法は不明だが、帯飾りの可能性がある。

※ベルトのバックル

 860オホーツク人の墓
オホーツク文化では、墓の作り方にも独特の風習がありました。代表的なのは「被甕」の風習で、墓に埋葬した死者の顔の上に土器をかぶせておくことが広く行われていました。墓に入れられる土器には、煮炊きに使ったときの焦げがついているものもあり、日用品から転用していたことがわかっています。
土器以外にもしばしば刀剣類や装身具(耳飾りなど)が死者とともに墓に納められていました。

※オホーツク人の墓は地域でいろいろらしい。 仰臥伸展葬で被甕、仰臥屈葬で被甕、被甕しない地域もあるようです。
 861
オホーツク文化の墓の模式図(断面)
墓壙は長さ1m前後の楕円形の穴で、手足を折り曲げた状態で埋葬され、顔の位置には土器が置かれていました。
図のように、墓の上に石が並べて置かれる場合もありました。

発掘されたオホーツク文化の墓
(常呂川河口遺跡)
土器が上下逆さの状態で置かれています。埋葬された遺体が土に返ってしまっていても、土器の位置で頭があった場所が分かります。

オホーツク文化の墓地と集落(栄浦第二遺跡・部分)
この遺跡では、多くの墓が頭を西に向けた埋葬となっています。埋葬の方向など、埋葬の方法には、オホーツク文化の内部でも違いがあり、地域ごとに異なる習慣が形成されていたようです。

オホーツク人の墓

上に記述
オホーツク文化の墓の模式図(断面)

上に記述
発掘されたオホーツク文化の墓上に記述 オホーツク文化の墓地と集落
上に記述

 862オホーツク土器(貼付文)  オホーツク文化貼付文期(8-9世紀頃) 栄浦第二遺跡
   墓の被葬者の顔に被せられていた土器。
32号土壙墓
33号土壙墓
64号土壙墓   
7号土壙墓
 
  28号土壙墓
 
  手足を折り曲げた墓  オホーツク文化期
約1100年前の墓 

 865オホーツク土器(貼付文)
   オホーツク文化 貼付文期(8-9世紀) 栄浦第二遺跡

オホーツク土器
オホーツ土器 貼付文期(8-9世紀)栄浦第二遺跡           
 
オホーツク土器(クマの足跡文)
オホーツク文化沈線文期(7−8世紀頃) 栄浦第二遺跡
クマの足跡形のスタンプで押した文様のある土器。足跡形スタンプは土器の上部(図の矢印の位置)を左から右へ 一周する形で付けられている。

 866
オホーツク土器(貼付文)
オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃)
栄浦第二遺跡23号竪穴住居跡

住居内に設けられた祭壇である骨塚から見つかった大型の土器。
オホーツク土器(沈線文)
オホーツク文化沈線文期(7−8世紀頃)
栄浦第二遺跡29号土壙墓

オホーツク文化の墓では、顔に土器をかぶせた状態で人が埋葬された。この土器もその一つで墓の中から上下逆になった状態で見つかった。
 
 870副葬品
オホーツク文化の副葬品
オホーツク人の墓に死者とともに入れられていた品。
土器は上下逆さにして顔の上に置かれた。
一緒に入れられた道具や装身具には大陸との交易で入手したものもあった。

オホーツク文化の副葬品
 871
オホーツク人の墓から出土した土器・曲手刀子(まがりてとうす)
オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃)
栄浦第二遺跡83号土壙墓
土器は小型だが、埋葬されていたのも幼児であったことが見つかった歯からわかっている。
鉄製の曲手刀子は曲がった柄をもつ刀子で、同時代の擦文文化や本州にはなく、大陸から入手したものと考えられる。

オホーツク人の墓から出土した土器・曲手刀子
曲手刀子

特異な装飾の土器

※持ち手が曲がった蕨手刀の先祖のような刀子です。
アキナケス剣の模倣でしょうか。
※蕨手刀は中部地方発祥の山刀で無関係です。現代のナタもですが、作業場での紛失防止に鉄柄の終端を丸めて、目じるしの赤布を付けたりします。そのため山刀の蕨手刀は柄が丸めてある。

 873オホーツク人の墓から出土した、土器・銀製耳飾り
  オホーツク文化 沈線文期(7-8世紀頃) 栄浦第二遺跡88号土壙墓
耳飾りはさかさまに置かれた土器の下から見つかっており、死者の耳につけた状態で埋葬されたようである。
オホーツク人の墓から出土した土器・銀製耳飾り
墓から出土した土器 銀製耳飾り
※考察 被甕葬
副葬品の横にある土器は、死者に被せた甕。
すると、栄浦第二遺跡は被甕葬の地でした。
その上の沢山の土器も被甕土器。副葬品の豊かさが身分です。甕だけ、副葬品1点、刀剣の副葬品。などが同じ墓地に埋まっていたのか、別墓地だったのか。海洋交易民族の船主と水夫の違いは明らか。
 875オホーツク住居
 
 


 880トビニタイ文化 10~12世紀  ※オホーツク文化がこの後に出ます。時間的に前後しています。

 881
トビニタイ文化
 トビニタイ文化は10~12世紀頃の北海道東部一帯に見られる文化で、この文化の代表的遺跡である羅臼町トビニタイ遺跡にちなんで、この名で呼ばれています。
 8世紀以前のオホーツク海沿岸では、擦文文化の遺跡が少なく、オホーツク文化が栄えていましたが、9世紀頃から擦文文化の人々がオホーツク海沿岸へと進出し、その影響を受けた北海道東部のオホーツク文化の人々の生活や文化に変化が起こりました。
このように、オホーツク文化が擦文文化と接触、融合して生まれたのがトビニタイ文化です。

トビニタイ文化

 トビニタイ文化の特徴
トビニタイ文化では、製作される土器や住居などにオホーツク文化・擦文文化の中間的な特徴があることがわかっています。また、海での狩猟・漁労で生計を立てていたオホーツク文化は、海岸部にしか遺跡を作りませんでしたが、トビニタイ文化では内陸部にも遺跡が残されるようになりました。
トビニタイ文化の特徴 擦文文化の進出と
オホーツク文化・
トビニタイ文化
 
10世紀の北海道の文化


※考察 孤立オホーツク人

オホーツク文化の拠点遺跡は、稚内市には、富塚貝塚、オンコロマナイ遺跡など沢山あり、枝幸町には、目梨泊遺跡。千島列島との結節点となる網走には常呂遺跡、モヨロ貝塚などの大きな集落があった。
既に鉄鏃が一般的な時代にオホーツク人は骨鏃を使用し、この時代のオホーツク墓地から骨鏃が刺さった人骨が出土し、オホーツク人同志の争いがあったことが分かる。
 網走オホーツク人は稚内との中間補給点目梨泊と争ったようだ。小さな集落であった目梨泊の被害は大きく、やがて擦文人の攻撃を受け、集落は消滅する。元々続縄文人・擦文人と敵対的であった網走オホーツク人は稚内~大陸との航路を断たれ、網走・千島列島に取り残されてしまった。小さなオホーツク集落は殲滅されたが、網走~千島列島~根室~釧路に分布する勢力は大きかったため、擦文人は共存の道を選び、進んだ文化を知ることによって、やがて文化的に融合するようになった。 のではないかと、、しらんけど。


 住居の変遷
オホーツク文化の竪穴住居跡
石囲いの炉

五or 六角形の住居
石囲いの炉
トビニタイ文化の竪穴住居跡
石囲いの炉

四角形の住居
石囲いの炉
擦文文化の竪穴住居跡
かまど

四角形の住居
カマド
 

 882トビニタイ土器
オホーツク文化は、擦文文化との接触・融合により「トビニタイ文化」へと変化しました。
この文化は2つの文化の中間的な特徴を持っていました。

トビニタイ文化の人々が作った「トビニタイ土器」にも、オホーツク土器と擦文土器の中間的な特徴を見ることができます。
全体的な器の形は、擦文土器に近い一方で、土器の文様はオホーツク土器に特有の粘土紐による装飾文様となっています。

トビニタイ土器 トビニタイ土器の特徴

・オホーツク土器の粘土紐の装飾文様
・擦文土器の器の形
・を合わせた土器型式
 擦文土器の引っ掻き文様は子供でもできる低レベル技術。
 オホーツク土器の貼付文は技術力が高い。
土器成形後、生乾きの器面にドベを塗って文様を貼り付けても乾いたら落ちる。焼いたら落ちる。とても技術力と経験が必要です。
 883トビニタイ土器
トビニタイ土器 甕
トビニタイ文化(11c頃)常呂川河口遺跡168号竪穴住居跡
 擦文土器の器形で、オホーツク土器のように粘土紐の貼付で文様が描かれた土器。
 粘土紐が2段に分かれた構成の文様は同じ頃の擦文土器の文様が何段かに分かれた構成をとるのに近い。
トビニタイ土器 甕
トビニタイ文化(11c頃)
常呂川河口遺跡168号竪穴住居跡

擦文土器の器形でオホーツク土器のように粘土紐貼付で文様が描かれた土器。
ただし横に連続した山形の模様は擦文土器で使われるモチーフに近い。 
 

 ※常呂遺跡の館ではかつては各時代・各文化の住居模型がそれぞれの時代別コーナーに置かれていました。
  が、展示変更で、一ヶ所に集めて比較検討できるように、雌雄中的に展示されるようになりました。


 890竪穴住居の変遷

竪穴住居の移り変わり
常呂地域には、様々な時代・年代の竪穴住居跡が残っています。最も古いもので、縄文時代早期後半(約8000年前)、新しいもので擦文時代の終わり(12世紀後半から13世紀初め)の竪穴住居跡が発見されていますので、竪穴住居の時代は約7000年もの長さになります。(日本列島全体では、さらに、古い時代に遡り、最古の竪穴住居とは、10000年以上前のものです)。

竪穴住居の形や造りは、時代や文化によって変化していきました。このコーナーでは、代表的なものを模型でご紹介しています。(内部の様子がわかるよう、屋根は骨組みだけで再現しています)。

竪穴住居の移り変わり 竪穴住居の移り変わり

上に記述
 891
縄文時代から続縄文時代の竪穴住居
縄文時代から続縄文時代の竪穴住居には、円形・楕円形・角丸方形など、様々な形のものが見つかっています。後の時代の住居のように、はっきりと形が決まっていたわけではないようです。続縄文時代の住居には、突出した形の出入り口が付けられる場合もありました。
多くの場合、中心付近に炉(焚き火をした場所)があります。

縄文から続縄文へ
上に記述
縄文時代と続縄文時代

擦文時代の竪穴住居
擦文時代の竪穴住居は、平面型がほぼ正方形であることが特徴です。多くの場合、中心付近に炉、壁際に「かまど」が作られました。
一辺約6mで、かまど1基を備えた住居が平均的な大きさの住居です。
この時代の住居は、古い住居があった場所を避けて、建てられ、同じ竪穴を使って立て替えられる事は基本的にありませんでした。

擦文時代の竪穴住居

上に記述

オホーツク文化の竪穴住居
オホーツク文化の竪穴住居は、五角形や六角形の平面形が特徴です。大型の住居が多く、小さなものでも長軸が8mあります。中央に石囲いの炉があり、その周りに粘土を貼った土間(貼床)があるのが特徴です。また、住居の一角に動物の骨を集めて祀る骨塚作られました。

オホーツク文化の竪穴住居

上に記述
 

 892住居模型
 892縄文時代
縄文時代の竪穴住居の構造、

遺跡の森・縄文の村(SP 08遺跡)
10号竪穴住居をもとに復元
(縄文時代中期、約4500年前)

縄文時代の竪穴住居は、円形~楕円形に近い多角形の形状をしていました。
この模型は、遺跡の森・縄文の村にある縄文時代中期の住居跡をもとに復元したもので、竪穴部分は、長さ6.6m、幅2.5mの細長い形状をしています。
この住居は比較的簡素な構造で、中央部には柱がなく、壁際からの柱で屋根を支えるテント状場の構造をしています。

縄文時代の竪穴住居の構造
上に記述
縄文時代の住居復元
白樺の皮で葺いている
 893続縄文時代
続縄文時代の竪穴住居の構造
遺跡の森・続縄文の村(ST−08遺跡)、
6号竪穴住居を元に復元復元
(紀元前1−2世紀頃、続縄文時代前半)、

続縄文時代の竪穴住居は、円形、楕円形または隅丸方形で、基本的には縄文時代とほぼ同様の作りでした。

この模型では、玄関部分が出っ張った形をしていますが、これは北海道東部の縄文時代晩期から続縄文時代の住居に見られる特徴です。寒い外気が入りにくくする工夫であったと考えられています。
内部には屋根を支える柱が4本ほど建てられ、炉が1か所設けられていました。

続縄文時代の竪穴住居の構造
上に記述
続縄文時代の復元住居

茅葺で復元されている
 
 894擦文時代
擦文時代の竪穴住居の構造
遺跡の森・擦文の村(ST−09遺跡)
4号竪穴住居をもとに復元
(擦文時代、11世紀頃)

擦文時代の竪穴内住居は例外なく四角形をしています。規模は様々で、一辺が約3mのものから大きいものでは10mのものまで見つかっています。
内部には中央に炉、一方の壁際に炊事用のかまどがありました。細長い形をした擦文土器は、かまどに据えて使えるように作られたものです。
出入り口はかまどの横にあったと考えられています。それ以外の三方の壁には、板敷のスペースが設けられており、ベッドなどとして使われていたと考えられています。

擦文時代の竪穴住居の構造
上に記述
擦文住居復元

屋根は茅葺or土葺き
 895オホーツク文化期
オホーツク文化の竪穴住居の構造
常呂川河口遺跡
15号竪穴住居をもとに復元
(オホーツク文化・8−9世紀頃)

オホーツク文化の竪穴住居は、六角形または五角形で、船を模した形とも言われています。
大型の住居が多く、模型の元になった住居は、14m×10mの広さで、20~30人、4~5家族が共同で生活したと推定されています。
内部には中央に石囲炉、その周りに「コ」の字型に粘土を貼った土間があり、壁際には板敷のスペースがありました。
住居の奥には、祭祀の場である骨塚があります。
樺太アイヌの竪穴住居の例を参考に多雪時のために、屋根にも出入り口がある形で復元しています。、

オホーツク文化の竪穴住居の構造

上に記述
白樺樹皮葺きの上に土を被せた。

 屋根釘(木釘) オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃) 常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
  屋根材の白樺樹皮の固定に使われていた木製の釘。
  ※和建築では竹釘で檜皮葺をするが、オホーツク人は木釘で白樺樹皮を留めていたか。
  白樺は古くなった薄い樹皮が自然に剥がれる。檜皮葺と同じようなもので、自然落下の前に樹皮を剥がしてのぞみの大きさのものを入手できる。
オホーツク文化期住居模型
屋根釘 屋根釘

 住居の屋根材(白樺樹皮) オホーツク文化貼付文期(8−9世紀頃) 常呂川河口遺跡15号竪穴住居跡
  竪穴住居の屋根材の一部。白樺樹皮の上に土をかぶせていたと考えられている。1000年以上前のものであるが、
  白樺の樹皮は腐りにくく、一部が良好な状態で残っていた。
住居屋根材(白樺樹皮) 白樺樹皮
 
   


 900アイヌ文化  14世紀~19世紀
 「アイヌ」とはアイヌ語で「人」を意味する言葉です。考古学上ではアイヌ文化は13世紀以降に成立したと考えられています。
この頃から土器に代わって交易で入手した鉄鍋が使われるようになり、また竪穴住居に代わって平地住居に住むようになりました。
その後17~18世紀には和人(本土からの日本人)の進出や交易が盛んになった影響も受けつつ、アイヌの文化は変容を遂げていきました。

 遺跡としては砦であり、集会や祭りの場でもあるチャシや、儀礼の場である送り場の跡などが見つかっています。

 常呂ではトコロチャシ跡がこの時代の代表的な遺跡です。また常呂川河口遺跡では、この時代の木製品が多数発見されています。

 901⑩アイヌ文化
アイヌ文化
アイヌ文化の遺跡

https://tokoro-site.net/guide/selectlanguage10/
10.アイヌ文化

 910
 911300年前の木製品
 常呂川河口遺跡では、アイヌ文化期の多数の木製品が見つかりました。1739年の樽前山噴火の火山灰より下の層から見つかったため、18世紀初頭以前にさかのぼることがわかるものです。

 河に打ち込まれていたらしい木杭のほか、花矢や捧酒箸と言った儀式の道具やかんじき、串(※原文まま)などの生活用品が見つかっています。
 木は通常は腐ってしまうため残りにくいのですが、地下水に浸かっていたため保存されていました。展示品にはさらに劣化・変形を防ぐ処理が施してあります。

300年前の木製品 倒れた状態の木杭
先端は尖っている
木製容器(曲げ物)

 912《参考資料》近世・近代のアイヌ文化の漆器
アイヌ文化では、漆器は儀式などで重要な役割を持つものでした。しかし、地中では腐ったりして残りに行く。所地域の遺跡では、展示可能な状態で発見されたものはありません。ここでは、近世・近代のアイヌの人々が使用したと伝わる漆器を参考資料として展示しています。なお、アイヌの人々は、漆器生産を行っておらず、本州などから交易で入手をしていました。

アイヌ文化の漆器 蓋付鉢
(プタウンパッチ)
儀式のときに酒や供え物をいれる器として使われた。
行器(ほかい)
(シントコ)
アイヌの漆器の中では最も重要視されたもの。
重要な儀式での鮭の器として使われた。
捧酒箸(ほうしゅばし)
(イクパスイ)
坏(つき)(トゥキ)
天目台(タカイサラ)
 神にお酒を棒げて祈る際に使われた道具。儀式の際には、天目台の上に置いた
坏に酒を満たし、捧酒箸の先端(赤く塗られている方を酒に浸し、したたる酒を神に棒げながら、祈りの言葉を述べる作法でした。

(実際にセットで使われたものでなく、別個に寄贈されたものを合わせて展示しています。
 920
魚叩き棒 (イサパキクニ) 
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
川でとった鮭(サケ)にとどめをさすのに 使われたもの。 鮭は「神の魚(カムイチェプ)」
と呼ばれ、この「イサパキクニ」で頭を叩か れることにより鮭の霊が神々の世界に帰るこ とができるとされていた。

松明の台木 (スネニ) 
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口 遺跡
上部の割れ目に白樺の樹皮などをはさんで 火をともしたとされるもので、割れ目部分が 焦げて黒くなっている。

火きり板(カルン)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
きりもみ式着して使用する板切れこみにススが付着している。

花矢 (ヘペレアイ)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
クマの霊を神々の世界に送り返す儀式に使 われた矢で、クマに持たせる土産とされた。
儀式用の弱い弓でクマに向かって射かけるもので、 先端まで木でできている。

かんじき (テシマ)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
かんじきの断片。 楕円形の枠と何本かの横 軸を組み合わせて作られていた。 枠には横軸 をはめこむ穴が並んでいる。

魚叩き棒
たいまつの台木
火切り板
錐もみ式着火で使用する板。切れ込みに煤が付着している。
花矢 雪中具「かんじき」の断片

小刀 (マキリ) の柄
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
小刀の柄の部分にあたると見られるもの。細かい彫刻で装飾されている。

(ク)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
長さ約110cm で、 両端の弦を取り付ける部分は削って段が付けられている。 材はニシ キギ属の木 (マユミなど) が使われている。

捧酒箸 (イクパスイ)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
神々に酒をささげるために使われたもの。祈りの際、 先端に酒をつけて振りかけるのに 使った。 人間の祈りの詞を補う力があると信 じられていた。

曲げ物容器 蓋
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡 
曲げ物容器の胴部の破片と、別の曲げ物容 器のふた。 ふたには樹皮製の取っ手がついて いる。

小刀の柄
捧酒箸

曲げ物容器
曲げ物容器


板船 (イタオマチプ)の断片
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
板を組み合わせて作った船の断片。 板同士 をつづり合わせるための四角い穴があけられ ている。

早櫂 (アッサプ)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡  櫂の先端、水をかく部分の破片と考えられる。

車櫂受台の固定部
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
舟べりには櫂を固定するための台座が取り 付けられた。 四角い穴のあるこの部材は櫂受 の台座を取り付けた部分だったと考えられる。

板舟復元図
車權受台部  舷側板  復元図  早櫂
復元図 北海道埋蔵文化財センター  「美沢川流域の遺跡群」 1997 より

掘り具(シッタプ)
アイヌ文化 (18世紀初頭以前) 常呂川河口遺跡
A土を掘るための道具。 板状の木の片側を 斜めに削り、掘りやすく加工している。

板舟断片
早櫂
堀り具
車櫂受け台の固定部 早櫂
板船断片

 930アイヌ文化期の遺跡の出土物
アイヌ文化期には擦文時代までと異なり、土器がほとんど作られなくなりました。代わって、交易で入所した鉄鍋が使われるようになり、わずかに鉄鍋を真似た「内耳土器」が作られるのみになります。

その他の道具にも鉄製品が広まり石器はほぼ完全に使われなくなりますが、骨角器は狩りの道具(銛や鏃)などとして使われ続けましたまた、装身具に使われたものとしてガラス玉や石製品などがあります。銅銭も見つかっていますが、これも装身具の一部として使われたようです。
常呂地域ではアイヌ文化9の集落遺跡は発掘されていません。こうした出土異物は、儀式の場である「送り場」やチャシ跡、お墓などで見つかったものです。

アイヌ文化期の遺跡の出土物
上に記述

 「送り場」遺構とは?
アイヌの人々は、動物や道具など、身の回りのものに神の霊が宿っていると考えていました。そのため、動物や道具は利用し終わったら、ただ捨てるのではなく、その神に感謝して、神々の世界へ送り返す儀式を行いました。
この儀式が行われた場所を送り場といいます。「送り場」の跡を発掘すると、動物の骨や貝殻、使い古した道具などが見つかります。
北海道東部では、竪穴住居跡の窪みが神聖な場所とみなされしばしば「送り場」として利用されていました。

トコロチャシ跡
チャシの内部にはオホーツク文化の住居跡が窪んだ状態で残っており、(赤点線部分)、アイヌ文化期には送り場として利用されていました。

常呂川河口遺跡121号竪穴住居跡
写真は住居跡内部の堆積層の断面。住居跡の上に貝殻の堆積層(矢印部分)があり、送り場として利用されていたことがわかりました。

「送り場」遺構とは?
トコロチャシ跡 常呂川河口遺跡121号竪穴住居跡


 940漁撈具
 941

「マレク(鉤銛)」状鉄製品
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡11号竪穴上層遺構(送り場)

マレクとは鉤状の銛で、サケマス漁に使われた。U字形の右側を柄に取り付け左側の尖った方で突き刺して魚を捕る。
キテ(銛先)
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡11号竪穴上層遺構(送り場)

キテはアイヌ語で銛先のこと。全体が動物の角で作られるものと先端だけ尖った鉄の部品を取り付けるものがあった。左端のものには、鉄製の先端部が残っている。
鉄鍋破片
アイヌ文化(18世紀頃)
トコロチャシ跡1遺跡。1号竪穴跡上層(送り場遺構)

アイヌ文化では、土器に代わって、鉄鍋が広く用いられた。右端の破片にある丸い出っ張りは、湯口(鋳型に溶けた鉄を流し込むための穴)の後。湯口は鍋の底部中央に作られるので、この破片が鍋の底の部分にあたる。

キテ(銛先)、
アイヌ文化(17−18世紀頃)
トコロチャシ跡遺跡
石製模造品
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡1号竪穴上層遺構

右は刀の鍔を模したもので半分に割れている。
左は装飾品等の可能性があるが詳細は不明。
 942石製模造品
石製模造品
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡11号竪穴上層(送り場)
刀の部品を模倣して作られた石製品。右は刀の鍔、左は責金具を模倣したものと見られる。刀やその部品には
災いを避けるような強い霊力があるとみなされており、その代用品として作られたものと考えられる。
 ※石製模造品で本物のような重さを感じられる、模造剣があったようです。


ガラス玉
ガラス玉
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡12号竪穴墓壙

刀などと共にアイヌの墓に納められていたもの。約70個程度のガラス玉があったようだが、大半は粉々に壊れており、原型をとどめているのはごく僅かであった。

この墓壙は擦文時代の竪穴住居跡の窪みの中にあり、住居の放棄後それほど間をおかずに掘り込まれたと推定される。アイヌ文化期の中でも古い時期の墓壙と考えられる貴重な出土例である。

 943内耳土器
炉に使用する際に吊り下げた紐が燃えないために、内側に把手を付けています。 本州の内耳鉄鍋を模倣したもので、 東北地方北部では約900年前に出現し、北海道では 文時代終末(約700年前)にみられます。
内耳土器が に使用されたことは竪穴住居に付属するカマドを用いた調理からの転換を意味するとともに、 竪穴式から平地式に住 固形態が変化した要因と考えられています。
展示資料はライトコロ川口遺跡の文時代住居の上層にあるアイヌ文化の送り場跡(約600年前) 出土。

 内耳土器
アイヌ文化 (14-15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡・11号竪穴上層遺構 (送り場)
内側に把手をつけるための出っ張り(耳)がついた土器で、鉄鍋を模倣して作られたと考えられている。火にかけても植物素材の把手に火が移らないように、内側に耳がある。
擦文時代のカマドにはめて使う土器から、いろりにつるして使う土器へと、使い方が変化したことが分かる。
銛先や石製模造品とともに送り場遺構から見つかったもの。

内耳土器

上に記述
内耳土器
上に記述
内耳土器
アイヌ文化
(14-15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡
7号竪穴
擦文時代の竪穴住居跡の埋土から見つかった。


銅銭(北宋銭「元豊通宝」)
 アイヌ文化(14世紀以降、鋳造は1078−1085年) ST04遺跡
中国の北宋で11世紀に発行されたお金。 日本にも輸出され、 発行から数百年後にも流 通していた。 アイヌ文化ではお金としては使 われず、 首飾りなど装身具に転用されていた。

内耳土器破片
アイヌ文化 (14-15世紀頃) ライトコロ川口遺跡・11号竪穴上層遺構 (送り場)
内耳土器の耳の部分の破片。 耳が横方向でなく、 縦方向についているタイプのもの。 送り場遺構から見つかった。

銅銭
内耳土器破片 内耳土器破片
アイヌ文化(14−15世紀頃)
ライトコロ川口遺跡11号館竪穴上層遺構(送り場)

内耳土器の耳の部分の破片。耳が横方向でなく、縦方向に付いているタイプのもの。
送り場遺構から見つかった。
 944
鎧の小札
アイヌ文化(18世紀頃)
トコロシャシ跡遺跡
1号竪穴跡上層(送り場遺構)

「小札鎧」の断片。このような小さな鉄板を糸で綴り合わせて鎧を作った。アイヌ同士の戦いで砦となったというトコロチャシの伝承と関連する可能性もある。
縫い針
アイヌ文化(18世紀頃)
トコロチャシ跡遺跡
1号竪穴跡上層
(送り場遺跡)
刀断片・鍔
アイヌ文化(14c以降)
ST04遺跡
刀身の一部と鍔が残る刀。アイヌ文化では刀は強い霊力を持つ祭具・宝器とされて折、墓に副葬されることも多かった。
この刀は出土状況不明だが、副葬品だった可能性がある。
 
 

 おわりに
※実は入館前、館の玄関で、うっかりとコンクリート階段の上にカメラを落としました。昔のフィルムカメラなら、もう全くの絶望だったでしょう。
慌てて拾い上げ、開いた組み合わせ部分を力任せに抑え付けて閉じましたが、一部変形が残りました。
幸いなことに、レンズ部・撮像板・SDカードへの配線などに損傷はなく、念のため、落下直後に撮影した画像を「ところ遺跡の館(全て東大職員)」にPCで正常であることを確認してもらいました。その後も撮影と記録はできたのですが、大変不安でした。

 その日の夕方に網走市の南にあるヤマダ電機で同じSONYのミラーレスカメラを探しましたが、1台だけ、しかも定価1万円引きで売られており、完全に売れ残り処分品で、この地域では、大変な不人気のようです。本当は、一眼レフカメラが前々から欲しかったのですが、緊急事態ですし、バッテリーは5個ほど持っていましたから、Batteryまで買い足す大変高額(1個1万円ほど)になるので、この汚く汚れた売れ残りを買うことにしました。

 この時、網走市は、駅と港とのあるあたりが中心ではなく、もっと南に新しい市街地が形成されていることを知りました。

 買ったはいいものの使い方や性能に信頼性がなく、また、支払い時に、店長のもう1万円出すと保証が付けられます。ニヤニヤ!の言葉に、
古くて、多くの手て薄汚れた、店にとっては厄介者の処分品を買ったのに、客を馬鹿にして、汚いカメラの値引きをナシにしようとするゲスな下心が丸見えと、思わず切れて声を荒げました。
 …で、そんなやこんなで、嫌気がさし、使う気になれず、壊れカメラが使用不可になったら使おうと、そのまま車に積んでいました。
 撮影した画像は持って行ったPCで館をまわるごとに、正常を確認していました。

 北海道から帰って、256SDカード2枚に及ぶ写真を精査すると、やたらとピンボケが多いことがわかりました。原因は腕ですが、カメラが自動焦点を合わす前にシャッターを切ったり、暗いところでブレたり、ガラスケースや手前の被写体に間違ってピントが合っていたり、が想像できます。
 それで、買いっぱなしの憎き網走カメラを使って比較してみました。すると、網走カメラの方が断然ピンボケが少なく、焦点モーターがより高速になっていることを認識しました。ああ~!あの時のクソ店長のイヤらしいもう一万円の声が無かったらこのカメラに変えていたかもしれない。そうしたらこんなにピンボケを出さずにもっといい画像が提供できたのにと悔みました。
 現在は網走カメラを使用しています。が、やはり、ピンボケは出ています。今度は慢心した心に問題が出てきたようです。
      2024.06.29(土)7:45AM