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  四国の考古博物館1 07  2019.03.08-2

 徳島県立埋蔵文化財総合センター 徳島県板野郡板野町犬伏平山86-2
  (レキシルとくしま)          088-672-4545 月祝休館、撮影可

交通 レンタカー
JR板野駅から2.0km徒歩20分
   
見所 徳島県埋文では、以前は沢山の珍しい遺物が展示物されていたようで、
その様子が本町歴史倶楽部のHPに上がっています。
感想 四国では驚くべき発見が沢山ありました。しかし、多くが
公開禁止や、非展示、など、考古熱を盛り下げる動きが多いと思いました。
須恵質円筒埴輪 土師質円筒埴輪
 埴輪の多くが土師質であるのに対し、僅かながら 須恵質の
 ものが、不規則に全国に分布している。
 埼玉古墳群、中山道御嵩館、石川県真脇春日井市

 
 目次

01外観
1390館外展示

10入口展示

20企画展「四国の彩」
   色の持つ力
25経田遺跡の銅剣
26鳴門市萩原1号墓
27四国の色
28藍染め
31トンボ玉
33焼き物の色
 弥生土器の色

35考古学者が見つめる色
36四国4県の色

50常設展入口展示
51突線袈裟襷文銅鐸
 矢野遺跡
52徳島のいにしえ

100旧石器時代
111石の道・狩りの道
113国府型ナイフ形石器の作り方
116徳島の旧石器
117各地のナイフ形石器

120縄文時代
121豊かな森の住人
 稲持遺跡
130矢野遺跡の土器
131縄文後期初頭
132縄文後期前葉
133縄文晩期中葉

181石の生活用具
 縄文時代後期
185石棒
200弥生時代
201稲穂ゆれるムラ
 黒谷川郡頭遺跡
211新しい道具と技術
212太型蛤刃 (前期)

220土器
221弥生前期
221弥生前期

350分銅形土製品
 弥生中期

360収穫と戦い
361石包丁
362農具

400弥生時代Ⅱ
401銅鐸
 名東遺跡
 矢野遺跡

410動乱の時代 弥生後期
413思想を伝える模様
414絵画土器
415弧帯文

420弥生後期土器
430弥生後期中葉
440内行花文放射線状文彷製鏡

460石器 弥生後期~古墳前期
461吉野川上流の玉作り
464吉野川下流の玉作り
465玉作りの材料 (吉野川上流)

470土器 後期後葉~末

480動物形土製品
490土器 後期末
492萩原一号墓出土品(研究誌)
500聖なる赤 -朱の精製-
501朱をつくる
 黒谷川郡頭遺跡
 水銀朱鉱山、若杉山遺跡
510「朱」製造道具
520再現展示

600弥生~古墳
602倭の首長連合
 弥生終末期~古墳前期
603萩原墳墓群 1号墓

610蓮華谷古墳群Ⅱ2号墳
 4世紀初頭 古墳前期
620土器 弥生終末期~古墳前期

630埴輪
631蓮華谷古墳群Ⅱ2号墳
632円筒埴輪
633人物埴輪
 菖蒲谷西山A遺跡

800古代国家への胎動
 古墳中期~後期
811小型古墳の被葬者

820古墳時代の土器
821古墳時代中期
824形象埴輪
825土器 古墳後期

840古代
841山田古墳群
842墳墓にあらわれた階層
843 2号墳・3号墳出土遺物
844 1号墳
1000古代
1001律令制下に暮らした人々
 -奈良時代~平安時代-
1005古代瓦
1010奈良~平安の土器
1020地方行政と役人
1032古代人の祈り
1040土器 平安 前・中・後

1200中世
1201躍動する民衆世界
 -鎌倉時代~室町時代-
1202土器と銭のまじない
1203板碑のいのり
1210中世の土器
1213中世の鍋・カマド
1250土器・陶磁器の流通と徳島県
1260中世~近世の土器

1301中世の土壙墓から見つかった骨
1303その他の遺跡の人骨
1310近世 江戸時代
1340大松遺跡の人骨

1350企画展示「四国の彩」
1351那賀川流域の「赤」
那賀川流域の山中にある若杉山遺跡
1352赤色土器
1355朱精製道具

1370遺跡・遺物・ヒト
  -弥生時代の農具-
 
 01外観

駐車場から施設に向かうと

巨大な銅鐸が見えてきます

そして、
人面付分銅形土製品

矢野銅鐸というらしい

人面付分銅形土製品

日時計の様に置いてあるが何に見立てているんだろう

人里離れた山中の

静謐な施設です。
西山谷2号墳
こんな施設があったんです 未取材
 1390館外展示
 


 10入口展示

 フンデイ
●出土地:西長峰遺跡(阿波市阿波町) ●生まれたとき:弥生時代
不思議に形に塩顔スマイルでお出迎え♪ 好奇心旺盛で何でも器用にこなせるよ。本当の姿はもっと違う見たい・・・?
「モデルは分銅形土製品」
分銅の形に似ていることから名前が付けられていますが、用途ははっきりわかっていません。欠けていますが元々は分銅形だったと考えられています。

 やのまる
●出土地:矢野遺跡(徳島市国分町) ●生まれたとき:縄文
仮面がお顔だから、いつも片手で持っているよ。のんびりしているけど、いつでも一生懸命。後ろ姿がどうなっているのかは、ヒミツ
「モデルは土製仮面」
マツリに使われたと考えられている仮面です。顔全体に小さな丸い凹みが沢山つけられており、眉と鼻の部分は粘土を貼り付けることで表現されています。


 舟形石棺 古墳前期 鳴門市大代古墳
大代古墳は全長約54mの前方後円墳である。石棺は後円部頂に築かれた竪穴式石室に安置されていた。
全長2.84mの刳抜式舟形石棺である。石材は香川県津田町火山に産する白色凝灰岩とみられる。棺内外には朱の塗布が認められる。


 大代古墳舟形石棺のふるさと火山(ひやま)
大代古墳出土の石棺は、香川県さぬき市津田町と大川町に位置する火山(ひやま)から切り出されたと考えられます。
石棺全長2.85m幅87cm推定重量約2t以上です。
石材は火山石(ひやまいし)または、白粉石と呼ばれる凝灰岩です。火山石の石切り場だったと考えられるさぬき市大川町の西教寺奥ノ院では、今も大きな石塊を見ることが出来ます。

刳抜式石棺 キャラ フンデイ キャラ やのまる
舟形石棺 古墳前期

鳴門市大代古墳
(おおしろ)
舟形石棺 石棺の綱掛部分
大代古墳舟形石棺のふるさと火山(ひやま)

火山石の石塊
火山石製六面石幢

火山石採掘場は
信仰の場になっています

石棺は船で運搬されたと思われる。火山石製石造物は中国四国の広範囲に分布する。
 



 20企画展「四国の彩」
 色の持つ力
遺跡の発掘調査は、様々な色で囲まれている。出土する土器や石器は、材質や加工法によって色が異なり、色には素材の違いや特別な意味を込めて作った色があります。


 21
四国の彩 色の持つ力 金 -耳環
古墳時代、大刀・馬具・装身具等を金で飾る。
古墳後期の有力者は金の耳環を身に着け埋葬
青 -ガラス玉
装身具にガラス玉が弥生時代から加わる。
色はコバルトやマンガン含有でで青くなる
 22
金製 耳環 6世紀
瀬戸風峠5号墳松山市
かいなご1号墳松山市
ガラス小玉 約2千年前
高橋山崎遺跡今治市
ガラス小玉 6世紀
朝陽谷1号墳松山市
ガラス小玉 1世紀
田村遺跡群南国市
 24
緑 -碧玉製鍬形石
玉や腕輪に緑色が多く好まれる。ヒスイ・碧玉・緑色凝灰岩など
水晶製 切子玉6c
真伏古墳坂出市
水晶製 そろばん玉6c
真伏古墳坂出市
碧玉製 鍬形石6c
真伏古墳坂出市

・中細形銅剣
古屋尾根遺跡今治市
・平形銅剣
経田遺跡今治市
平形銅剣
赤銅色 -青銅器
青銅器製品は銅錫の合金で、元々は赤銅色をしていました。
経田遺跡の銅剣





 25経田遺跡 今治市
頓田川左岸の低位段丘上で行われた経田遺跡の発掘調査で、小穴から弥生時代中期後葉の平形銅剣が出土しました。
平形銅剣は先端を下方に向け、直立した状態で検出されました。平形銅剣が埋納された小穴は、本来、建造物の柱穴として使用されていたもので、柱の抜き取り後に、銅剣が差し込まれたものと想定されています。

全国で確認される平形銅剣の埋納状況は、多くが水平に置いた状況であり、経田遺跡の事例は独特な祭祀儀礼を表すものといえます。

経田遺跡銅剣の出土状況 経田遺跡銅剣の出土状況

愛媛県今治市
経田遺跡の銅剣
上に記述
※銅剣埋納祭祀
 銅剣埋納祭祀があったという。本当なのかな。
 青銅器を埋めるお祭りって何だろう。目的は何だろう。

 祭りのたびに青銅器を埋めるのか。そんな祭りってある?

 弥生後期終末期に青銅器祭祀が禁止され、青銅器祭祀具は鋳潰され、
 弥生後期出現の小型青銅製品に作り直されていく中で、

 それを嫌った青銅器信仰の人々が隠したのが埋納だと思います。
 もし、埋める祭りがあったのなら、青銅器は全て人里離れた場所から
 しか 出なかったでしょう。


 26鳴門市萩原1号墓
萩原1号墓(鳴門市)は、弥生時代終末期の王墓です。埋葬施設の上面を白くて丸い石(石英白色円礫)で覆って、聖域であることを現していました。

 徳島産石棒の出土地
縄文時代の信仰に石棒があります。結晶片岩で作られた徳島産の石棒は、遠く近畿地方や山陰地方にまで運ばれています。
縄文人は、きらめきのある緑色を特別な色と考えていました。

徳島産石棒の出土地 遺跡全景 結晶片岩製 石棒
約3000年前
長網Ⅰ遺跡 西条市
結晶片岩製 石棒
約2000年前
庄遺跡 徳島市
石英製 白色円礫
萩原Ⅰ号墳 鳴門市
 27四国の色

江戸~明治の色
大谷焼 灯明台 19c
徳島城下町
大谷焼 徳利 19c
徳島城下町
大谷焼 甕 19c
徳島城下町
 28藍染めの青
古代藍染と大谷焼
藍住町
大谷焼の登り窯
鳴門市
大浦浜のかん水溜め
坂出市
移築・復元された砂糖カマド(四国村)

高松市
原間遺跡の砂糖かまど跡

東かがわ市
製塩土器 約2000前
前田東・中村遺跡
高松市
製塩土器 1世紀
小山・南谷遺跡 高松市
製塩土器 8-9世紀
大浦浜遺跡 坂出市
↑平安末から鎌倉期に海水を汲み上げて濃い海水、かん水を作り、煮沸して製塩していました。この甕はかん水溜めと見られます。 ↑明治時代初期に作られた砂糖かまどで、元は東かがわ市湊に在。焚口奥には3つのカマドが並んでいます。 ↑江戸時代の砂糖作りに使用した。かまどが2つ並んでいる。釜に砂糖キビのの搾り汁を入れアク取りしながら加熱し、桶に移替えて不純物を沈殿し最後にもう一方の窯で煮詰め、濃い砂糖液を作る。
 

 31トンボ玉はどこからやって来た?
トンボ玉は異なる色のガラスを溶着させた丸玉です。香川県では安造田東3号墳太田原高州遺跡盛土山古墳から出土しています。
近年、非破壊検査でガラス成分を分析した結果、安造田東3号墳のトンボ玉は西アジアのササン朝ペルシャ(226-651)で製作された可能性が高いことがわかりました。
また、太田原高州遺跡のトンボ玉は古墳時代中頃以降に国内に出回っていた2種類の舶載ガラス玉を国内で溶着させたもので、このうち黄色の象嵌はインド・パシフィックビーズ(東南アジア産ガラス玉)の破片を再利用したものと判明しました。

トンボ玉は世界の交易ネットワークの一端に当時の日本も加わっていたことを示しているものです。

トンボ玉はどこから
上に記述
とんぼ玉 6世紀
タンチ山2号墳 松山市
とんぼ玉 6世紀
東山鳶が森古墳群8号墳 松山市
とんぼ玉複製品 6世紀
安造田東3号墳
仲多度郡まんのう町
とんぼ玉 6世紀
太田原高州遺跡
高松市

 33焼き物の色
  土器や埴輪は焼き方によって色合いが変わります。褐色の埴輪は縄文土器や弥生土器と同じ野焼きで作られていましたが、青灰色の埴輪は
  須恵器づくりの工人が須恵器窯を使って焼いたためこのような色合いとなりました。

焼き物の色 円筒埴輪 須恵質焼成
土壇原8号墳 松山市
円筒埴輪 土師質焼成
鶴が峠古墳群FG区2号墳

 弥生土器の色
  土器は時代や地域ごとに作り方や形が変わります。土器の費用面をよく見ると、粘土に混ぜられた砂粒にも違いがあります。
  徳島市内や板野町内で出土する弥生土器の粘土には、結晶片岩の細かい粒子が土器を約粘土に含まれているのが特徴です。

弥生土器の色 弥生土器の色 ・香川県高松市
  太田下須川遺跡
・徳島県徳島市
  名東遺跡
・高知県南国市
  田村遺跡群
・愛媛県松山市
  北井門遺跡
弥生土器の色  

北井門遺跡(松山市)
2~3世紀

高知県南国市田村遺跡群 2~3世紀

徳島県徳島市名東遺跡 2~3世紀

香川県高松市
太田下・須川遺跡
2~3世紀
 


 35考古学者が見つめる色

発掘調査で出会う色 考古学者が見つめる色

遺跡は年月の中で土砂に埋もれて地中に隠れていきます。
埋まるきっかけには風雨の作用・洪水・火山の噴火などの自然的要因のほか、
土地の耕作などの人工的な原因があります。

私たちは発掘調査現場に立つと、真っ先に地層の重なりを調べ、遺跡のある深さへと
掘り進んでいきます。
矢野遺跡の堆積状況  矢野遺跡の堆積状況

矢野遺跡(徳島県徳島市)は、吉野川の支流である鮎喰川流域の遺跡です。
縄文時代から室町時代 までの集落などが見つかっています。

鮎喰川の影響により、細かく繰り返し土砂が堆積していた様子がわかります。
川津一ノ又遺跡
堆積状況
香川県坂出市川津町に所在する川津一ノ又遺跡の土層断面の写真です。
黄色粘土質は弥生時代以降の遺構の基盤層で、黒色粘土質は弥生時代に
形成された川跡に堆積したものです。
 上井遺跡の堆積状況 四国の西側を占める愛媛県では、九州から飛来した火山灰の堆積を見ることが出来ます。
音地遺跡(西予市)で発見された姶良Tn火山灰は、約27,000年前に九州南部の大規模な火山(姶良カルデラ)から噴出したものです。

この時に発見された火山灰は、風化していない鮮やかな白色であったことから、降り注いですぐに地中に封じ込められたと考えられています。
追手筋遺跡の堆積状況 昭和20(1945)年7月4日の米軍による空襲の痕跡が赤い焼土層として残っています。
高知市街地の発掘では、焼夷弾の出土等、太平洋戦争の痕が時折見られます。

かわらけ皿 鶴亀文 19世紀

追手筋遺跡 高知市
高砂文 19世紀
弘人屋敷跡 高知市
寿文 19世紀

高知城跡
瓦ろう(口縁部破片)
18-19世紀
植木鉢似の形。濃い糖液を入れ底の穴から蜜を出し結晶化を進めた
荷札木簡 8世紀
平城宮跡内裏北外郭官衙(奈良県奈良市)


 36四国4県の色
愛媛 コバルト色の磁器 -青

コバルト(呉須ごす)は世界的に時期の染付顔料として広く使われ、江戸時代に日本では中国の天然呉須が主に使用されてきました。
明治3(1870)には鮮やかな藍色の酸化コバルトがヨーロッパで発明され、明治8には砥部焼にも用いられるようになりました。

酸化コバルトは安価で入手できたため、愛媛県内の窯業生産者に広く伝わり、さらには型紙染付技法による大量生産を可能としたことによって、多くのコバルト磁器が流通することになりました。
  香川 讃岐三白 -白
讃岐三白とは、江戸時代後半以降の讃岐の特産物である塩・砂糖・綿を指す言葉です。
原料の砂糖キビや綿花は温暖で晴天の多い気候に適した作物で、塩の生産は遠浅の海岸と雨の少ない気候を生かしたものです。
既に香川県では弥生時代中期から作られていた塩は、江戸時代になると広大な塩田で大量に生産されました。
また、白砂糖や綿花の製造も江戸時代から始められ、代表的な産地になり、塩と共に高松藩や丸亀范の重要な財源となりました。
  徳島 藍をささえた大谷焼 -茶
肥前が独占していた磁器生産も、18世紀後半になると日本各地で開始されるようになります。しかし阿波では、磁器に適した磁鉱石がなく、代わりに良質な陶土が見つかったことから、大谷焼や民平焼などの陶器が生産されるようになりました。

大谷焼は18世紀末に開窯し、大甕や徳利などの日常雑器中心でした。江戸時代、徳島藩の産業として藍が隆盛を迎えます。
大谷焼は藍甕として利用され、その盛衰は藍と共にありました。
  高知 土佐の白土器 -白
高知城下に開窯した尾戸窯産のかわらけ(素焼き土器)は、高知城やその近辺の中・上級武家屋敷からの出土に限られている。きめ細かい土を用い、型による紋様は寿文・鶴亀文・高砂文(能の演目、吉祥文)の3種類があります。

文献では、白土器として土佐の特産品にあげられ、儀式等で使用された他、江戸や京都で出土していることから贈答品にされたようです。
 37

砥部焼 碗
18c松山城三の丸跡
19c松山城三の丸跡

砥部焼 碗
 18c松山城三の丸跡
 19c松山城三の丸跡

御荘焼 碗
19c一木窯(愛南町)
三島焼 碗
19c近藤窯跡(伊予市)
三島焼 碗
19c浜松窯跡(伊予市)

御荘焼 角皿
19c長月窯(愛南町)

砥部焼 皿
19c松山城三の丸跡
砥部焼 碗
18c松山城三の丸跡

砥部焼 皿
19c松山城三の丸跡
砥部焼 碗
18c松山城三の丸跡
 

  企画展「四国の彩」に関わる全ての遺跡地図(478KB 2000×1379pixel)
 






 50常設展入口展示






 51突線袈裟襷文銅鐸 (矢野銅鐸) 矢野遺跡 徳島県板野郡板野町犬伏字平山86番地2 国宝 高さ97.8cm

  弥生時代後期中葉。集落の矢野遺跡で、竪穴住居群の集落中央に埋納穴を掘って埋められていた。
  鰭を上下に立て、繰り抜き式合わせ木口(トランペットケースのようなもの)の木製容器に入れられていた。

  ※銅鐸保護箱があったという事実は初めて知りました。
    袈裟襷文銅鐸とは



 52徳島のいにしえがここにある
 
ここには、発掘調査で徳島の土の中から掘り出されたモノがあります。現代の私たちの豊かさは、いにしえの人々のたゆまぬ努力によって作り出されました。
ここにあるモノには、まだ文字の無かった古い時代から長い間にわたって積み重ねられた 知恵・技術・工夫・交流・祈り・思いが込められています。
これらのモノは、私たちに繋がる古代の人々が力いっぱい生きた証でもあります。時代が進むにつれて、土器の形や色もわずかずつ変化していきます。
モノが伝える古代の人々の営みの精華と移り変わりを、どうぞごゆっくりご覧ください。

 徳島の自然の風景の中から、出土物が浮かんでくる映像表現
徳島のいにしえが
ここにある


 53展示室全景(ワンルーム)


左から始まります
 






 100旧石器時代





 111石の道・狩りの道
世界が氷河に覆われた更新世の終末、陸地と化した瀬戸内海にハンターたちは現れた。
平原には獲物となるナウマンゾウやオオツノジカが群棲し、付近の山には石器素材となるサヌカイトがあった。

彼らは国府型ナイフ形石器と呼ばれる独自な石器を作り、瀬戸内地域の広大な山野で採集と狩猟による移動生活を営んだ。
初めて徳島の地に足を踏み入れた人々は、見晴らしの良い吉野川の段丘上を拠点とし、石器製作や狩りを行った。

石の道・狩りの道 吉野川上空から国分台(五色台)を臨む
超遠方です
石の道・狩りの道 吉野川流域から見た人の動き 2万年前の吉野川と旧石器時代遺跡
讃岐山脈を越えれば野生動物に溢れた豊かな瀬戸内海があったのに、なぜ吉野川沿いに定着したのだろうか。

 113国府型ナイフ形石器の作り方
国府型ナイフ形石器は原石の分割、剥片剥離という2つの工程を経て作り出された横長剥片(翼状剥片)に調整加工を施したもので、
近畿・瀬戸内地域の旧石器時代後期(約2万年前以降)を代表する狩猟具であった。

原石→分割
国府型ナイフ形石器の製作 原石
石核
原石→分割=石核
翼状剥片
石核→剥片剥離=翼状剥片

国府形ナイフ形石器
翼状剥片→調整加工=国府型ナイフ形石器


 116徳島の旧石器
  県内の旧石器時代遺跡では、サヌカイトと県南産のチャートの2種類の石材を多用した石器製作が行われている。
徳島の旧石器 徳島の旧石器
阿波市日吉谷遺跡
旧石器時代後半期

阿波市椎ケ丸~芝生
旧石器時代後半期
 117各地のナイフ形石器

阿波市桜ノ岡・後半期
阿波市土成前田・後半
上板町柿谷・後半期

美馬市坊僧・後半期
美馬市鶴射・後半期
阿波市西長峰・後半期

東みよし町土取・後半期
東みよし町足代・後半期
美馬市滝ノ宮・後半期
 118

上板町柿谷・終末期

徳島市名東・後半期

阿波市前田・後半期
 





 120縄文時代






 121豊かな森の住人 稲持遺跡 縄文晩期 集落遺跡 徳島県三好郡東みよし町稲持

気候の温暖化が進み、環境が大きく変化した縄文時代。徳島は常緑広葉樹の深い森に覆われ、人々は川筋を中心に活動した。
土器や弓矢の発明、漁法の発達は、食卓を少しずつ豊かに変えて行った。自然の恵みは華麗な文様で飾る土器を生み出した。

その後、冷涼化した環境の中で、暮らしは次第に変化する。土器から縄文は消え、新たに石鍬や収穫具を道具に加え、新しい社会を迎える素地を整えて行った。

 稲持遺跡
縄文晩期の集落遺跡でる。弥生時代には4件の竪穴住居と箱式石棺と積石塚が発見された。
弥生集落では、吉野川で採取される蛇紋岩を加工した勾玉の生産集落があり、原石・未成品や、台石・敲石などが出土した。引用レキシル

豊かな森の住人 豊かな森の住人
集石遺構 稲持遺跡
縄文晩期
豊かな森の住人
QR 
 

 130矢野の土器 縄文後期初頭 徳島県徳島市国府町矢野   矢野遺跡発掘調査報告書
縄文時代の低地集落で、竪穴建物跡19検出。土器と石器に水銀朱が付着し、水銀朱の精製を行っていた。
深鉢・鉢・双耳壷や石鏃・石匙・石錘・石斧・磨石・台石を検出。土器表面は、へら描き区画文を縄文で埋めた紋様である。(磨消縄文)
石棒・円柱状土製品・甕形土製品があり、特に土製仮面が特異である引用レキシル

※仮面は、三つの丸い穴の全面刺突文があり、恐怖の病魔疱瘡(現代も)に罹患した又は、疱瘡神を表し、その厄払い祭祀にも見える。

縄文から中世にかけての大きな集落で、弥生時代には徳島県内の中心的な集落でした。遺跡内からは弥生時代中~終末期の住居100軒が発見。
集落内から銅鐸埋納坑が発見された。引用wiki

 131縄文後期初頭 矢野遺跡
矢野遺跡の深鉢土器 深鉢 後期初頭 矢野
深鉢 後期初頭 矢野
深鉢 後期初頭 矢野
 132縄文後期前葉 矢野遺跡
縄文後期前葉
双耳壷、深鉢
縄文後期前葉 矢野

深鉢

深鉢

深鉢
 133縄文晩期中葉 稲持遺跡
浅鉢・深鉢 浅鉢 浅鉢 浅鉢 浅鉢・深鉢
深鉢 深鉢 深鉢
 
 180石器

 181石の生活用具 矢野遺跡・稲持遺跡 縄文時代後期
縄文人は多様な石器を使用した。石鏃や石錘は狩猟漁撈具として、磨製石斧などは加工具に、磨石・凹石・石匙・スクレイパーは食品加工具に用いられた。更には収穫のスクレイパー、土掘り用の打製石斧も登場する。

石の生活用具 石錘
後期・徳島市矢野
後期
石鏃晩期・東みよし町稲持
晩期
小玉晩期・東みよし町稲持
晩期
打製石斧
晩期東みよし町稲持
晩期

晩期
 182
石錘(晩期)東みよし町稲持
楔形石器(晩期)東みよし町稲持

磨製石斧の製作工程
東みよし町稲持
晩期
 183

磨製石斧(晩期)
東みよし町稲持

台石と磨製石斧
晩期

石匙(後期)吉野川市季邦
スクレイパー(晩期)東みよし町稲持

磨り石(晩期)東みよし町稲持
凹石(晩期)東みよし町稲持

スクレイパー(晩期)東みよし町稲持
 
 185石棒 「金蔵~上井遺跡」
 







 200弥生時代







 201稲穂ゆれるムラ 黒谷川郡頭遺跡くろたにがわこうずいせき) 弥生時代前期~中期 徳島県板野郡板野町大寺字山田畑

 遺跡概要
弥生時代前期(前4~前3世紀)と後期~終末期(2世紀~3世紀)、奈良時代~平安時代(8世紀~10世紀)の集落跡を確認した。
弥生時代後期~終末期の集落跡では、竪穴住居 12 軒や区画溝などを確認した。
黒谷川郡頭遺跡で、これまでに見つかった弥生時代後期~終末期の竪穴住居は30棟を上回る。これは県内の同時期の中でも最大級の規模である。



 稲穂ゆれるムラ
大陸から稲作農耕文化の大きな波が押し寄せてきた。石器や青銅器、鉄器などの新しい技術。住居の構造や集落の形態。そして、農耕儀礼に伴う精神文化。
文化を携え海を渡って来た人々と、その波を受けた人々は、縄文文化の伝統の上に新しい生活を確立し、黄金色の稲穂が実る豊かなムラを築き上げて行く。
そうして蓄積された富は、新たな大地と資源の獲得に向けられ、紛争の火種を生んだ。武器の出現がそれを物語る。

稲穂ゆれるムラ
弥生時代前期~中期
松菊里型住居跡
黒谷川郡頭遺跡
くろだにがわ こうず
稲穂揺れるムラ
 210
 211新しい道具と技術
水稲稲作の開始と共に、両刃の伐採斧、片刃の加工斧など、大陸系の磨製石器が出現する。
更に徳島では刃部だけを磨いた地域色の強い加工斧も生み出された。紡織技術もまた、弥生時代に加わった技術の一つである。

新しい道具と技術 石錐 (前・中期) 紡錘車 (前~後期) 砥石 (後期)
 212太型蛤刃 (前期)
太型蛤刃 (前期) 太型蛤刃 (前期) 太型蛤刃 (前期)
 213
柱状片刃石斧
(前~後期)
柱状片刃石斧
(前~後期)
柱状片刃石斧
(前~後期)
扁平片刃石斧
(前・中期)
 214円柱状石斧(中期~後期)
円柱状石斧 (中期) 小型扁平片刃石斧
(前・中期)
小型方柱状片刃石斧
(中期)
鉄斧・ヤリガンナ
(後期)

 
 220土器
 221弥生前期   島市庄町
縄文晩期~近代までの複合遺跡。弥生前期の初期農耕集落跡、二重大溝の巡る環濠集落。弥生中期には方形周溝墓群。弥生後期には中国鏡・銅鐸片の出土。引用徳島大埋蔵文化財調査室

大量の土器・石器と伴に水銀朱加工用の石杵が出土。 木製品の腰掛、農耕具の鋤・鍬、匙・カゴ・敷物・人物像を刻んだ板状木製品(木偶)・剣形木製品などが出土。 引用レキシル   庄遺跡 庄・蔵本遺跡



壺(弥生前期)庄

壺(弥生前期)庄

甕・蓋(前期)郡頭

蓋・鉢(前期)庄
 222弥生中期前葉 庄遺跡 徳島市

壺(中期前)庄

壺(中期前)庄

甕(前期~中期前)庄
鉢・蓋(前期~中期前)庄・名東

高坏(前期)郡頭
鉢(前期)庄

甕(中前)庄
蓋(中前)名東
蓋・甕(中前)庄
 225

壺(中期前)庄
壺(中期中)桜ノ岡
壺(中期前)桜ノ岡

壺(中期前)庄×2
壺(中期中)桜ノ岡×2

壺(中期前)庄×2
壺(中期中)桜ノ岡×2

甕(中期前)庄×3
鉢(中期中)桜ノ岡
蓋(中期前)庄
鉢(中期前)庄×2
鉢(中期中)桜ノ岡
高坏(中期中)桜ノ岡
 226

壺(中期中)桜ノ岡
壺(中期後)名東
壺(中期末)矢野
壺(中期後)名東

壺(中期中)桜ノ岡
壺(中期中)桜ノ岡
水差(中期末)光勝院
水差(中期末)名東

甕(中期中)桜ノ岡
甕(中期中)桜ノ岡
甕(中期後)光勝院
甕(中期後)光勝院
甕(中期後)

鉢(中期後)光勝院
高坏(中期末)名東

高坏(中期中)桜ノ岡×3
高坏(中期末)名東
高坏(中期末)矢野
 227

壺(中期末)矢野
壺(中期末)名東×3

水差(中期末)×3
光勝院・名東・矢野
甕(中期末)名東
 
甕(中期末)×4
光勝院・名東×3
高坏(中期末)大木峯
大鉢(中期末)西長峰
器台(中期末)矢野
台付鉢(中期末)名東

甕(中期末)名東×2
大甕(中期末)矢野
 
 

 350分銅形土製品 西長遺跡 弥生中期  徳島県阿波市阿波町西長峰


 西長峰遺跡
吉野川河岸段丘上の遺跡。規則的に並んだ竪穴建物跡26、掘立柱建物14を検出。
目・鼻・口などの顔を意匠された分銅型土製品は、祭祀具と考えられている。 引用レキシル


分銅型土製品
中期・阿波市西長峰
 

 360収穫と戦い
石包丁は、稲穂を摘み取る収穫具である。
前期には手にかける紐の穴があけられた磨製石包丁が用いられるが、徳島では中期以降、打製石包丁が盛行する。(なぜ粗雑化したか?)
石鏃も中期以降、武器として大型化し、やがて鉄へと変化する。

 361石包丁
収穫と戦い 磨製石包丁 前期 磨製石包丁 前期 使用痕のある石包丁
使用痕のある石包丁 使用痕のある石包丁
 362打製石器の農具(中・後期)
石鎌 石鎌 大型石包丁 打製石包丁
 363武器・鉄製品・祭祀具(中期)
打製石剣 (中期) 鉄鎌 (後期) 鉄鏃 (後期) 打製石鏃(中・後期)
 364武器・鉄製品・祭祀具(後期)
刀子 (後期) 磨製石剣 (前期) 磨製石鏃 (後期)
 





 400弥生時代Ⅱ





 401銅鐸

銅鐸は全国で400口(こう)余り。徳島県は29遺跡から42口が出土する最多地域である。
銅鐸は稲霊(いなだま)をつなぎとめ、呼び起こすための祭器とも考えられているが、単独で出土することが多く、謎の多い青銅器である。

名東遺跡矢野遺跡では集落の中に鰭(ひれ)を上下にして、丁寧な方法で埋められていた。
矢野遺跡では木製容器に入れて埋納されたとみられるほか、埋納地点に棟持柱建物が建てられており、その性格を探る上で重要である。


 銅鐸埋納坑

 名東遺跡 縄文晩期・弥生時代   徳島県徳島市名東町(みょうどう)
   水銀朱の精製と銅鐸埋納抗が有名。
謎の青銅器 -銅鐸- 銅鐸埋納抗 名東遺跡

 矢野遺跡 縄文・弥生時代 徳島市国府町矢野
  徳島県最大の弥生集落。竪穴建物跡100。
  突線鈕式(銅鐸縁部分の鰭を太い線で飾る)の最後期の銅鐸が出土。

 木製容器の復元
  矢野銅鐸の外周には色調の異なる二重の被覆土が認められ、ブナ石の結果、木製容器の存在が想定された。
  本容器は、被覆形状をもとに復元したものであるが、その形態は鎔笵外型に類似する。復元材はクスノキを用いた。

 ※銅鐸は吊り下げたままだと思っていたが、トランペットのようなケースに入っていたとは全国でも見たことのない大発見です。

矢野銅鐸
矢野銅鐸埋納状態
杭は棟持柱建物跡
銅鐸ケース 木製容器の復元
 


 410動乱の時代 弥生時代後期

魏志倭人伝に記された「倭国大乱」は弥生社会全体を巻き込んだ動乱である。その結果、岡山や近畿の集団は勢力を伸ばした。時代のうねりは徳島にも及ぶ。記号や絵画とは異なる思想を表現した弧帯文が流入し、朱や勾玉の製作に専従する人々が出現した。

鮎喰川流域で製作された土器群は東部瀬戸内から大阪湾岸に拡大し、朱や玉を介した交流は拡大する。肥大化した集落を中心に地域はまとまり、
ムラからクニへ、社会は移っていく。
 411
動乱の時代
-弥生時代後期-
動乱の時代 動乱の時代


 413思想を伝える模様
具象的・抽象的表現に関わらず、絵画も記号も農耕祭祀に関する弥生人り思想伝達のしるしである。
弧帯文は古墳時代に成立する直弧文の源流とみられ、一定の法則性と連続展開する構図を備えている。

 線刻土器 記号
思想を伝える模様
記号・徳島市名東

記号・徳島市庄

記号・阿波市桜ノ岡Ⅰ

記号・徳島市矢野

記号
板野町郡頭
徳島市矢野

文様・徳島市矢野
 414絵画土器

絵画 (案)徳島市矢野

絵画 (棟持柱建物)
徳島市矢野

絵画家、絵画住居群
矢野遺跡

絵画(家)徳島市矢野

絵画(住居群)
徳島市矢野
 415弧帯文

弧帯文・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭

文様・徳島市庄

弧帯文・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭
 416弧帯文

記号・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭

弧帯文・板野町郡頭
 
 420弥生後期土器
 421

直口壺(後期初)北原
直口壺(後期前)稲持

直口壺 北原・稲持
広口壺 (後期前)稲持

広口壺(後期前)稲持
広口壺(後期前)矢野
直口壺(後期中)矢野
 422

甕(後期前)×3

甕(後期前)
北原、稲持、矢野

甕(後期初)
北原×2、稲持

ピンボケ
高坏

高坏(後期中)矢野×2
 
 424

鉢(後期前)
北原、矢野

鉢(後期前)矢野
鉢(後期中)矢野、郡頭

注口甕
 
 430弥生後期中葉
 431

広口壺、直口壺×2

細頸壺(後期中)郡頭
長頸壺(後期中)郡頭×2
無頸壺(後期中)郡頭

甕(後期中)
矢野、郡頭×2

甕(後期前)矢野×3

甕(後期前)矢野×3
 433

高坏(後期中)
庄、矢野×2

高坏(後期中)庄

鉢(後期中)郡頭
鉢(後期後)郡頭
有孔鉢(後期後)郡頭

高坏
高坏(後期中)
庄、矢野×3
鉢(後期中)矢野、 鉢(後期中)郡頭、 鉢(後期中)郡頭、 鉢(後期後)

鉢(後期中)矢野、 鉢(後期後)郡頭、 有孔鉢(後期後)郡頭、 鉢(後期後)郡頭、 鉢(後期後)
 

 440内行花文放射線状文彷製鏡
内行花文放射線状文彷製鏡
内行花文放射線状文彷製鏡 内行花文放射線状文彷製鏡
広口壺

期中葉・板野町郡頭
広口壺

期中葉・板野町郡頭

QR
 
 450弥生後期中葉
 451

長頸壷・無頸壷・広口壺
(後期中)
細頸壺・広口壺・甕・長頸壷・直口壺・甕・甕長頸壷(後期後)


後期中×1
後期後×6

高坏
後期中×2
後期後×4

鉢・有孔鉢・鉢×3
有段鉢・鉢

鉢(後期中)
鉢×4
 






 460玉の生産 弥生後期~古墳前期

   吉野川の上流域と下流域とでは、玉の作り方に違いがある。

 461吉野川上流玉作り 稲持遺跡 縄文晩期 集落遺跡 弥生時代の玉造遺跡 蛇紋岩製勾玉を製作した 徳島県東みよし町稲持

  稲持遺跡は蛇紋岩を用いた勾玉専用の玉作遺跡である。原石を打割して石核を作り出した後、研磨と打割を繰り返す製作技法がみられる。
  特に石核研磨出作られた曲部を最大限に利用する技法は、大きな特徴である。

吉野川上流の玉作り
上に記述

原石→打割→石核研磨

→打割→菊片研磨→成形→穿孔・仕上げ

 464吉野川下流の玉作り
  矢野、郡頭、若杉山遺跡には蛇紋岩製C字形勾玉がみられる。
  このタイプの勾玉は香川・岡山の遺跡にも拡散しており、徳島から運び出された品目の一つである。
  矢野遺跡では製作を示す石核、未成品が出土している。
  
吉野川下流の玉作り
上に記述
原石・未成品 石核
左:上流域の勾玉
右:下流域C字形勾玉

下流域C字形勾玉
未成品:弥生後期中葉
 美馬市拝原

完成品: 古墳前期
 つるぎ町貞光前田
下流域C字形勾玉
後期終末期・板野町郡頭

翡翠製勾玉 古墳前期
板野町郡頭
 465玉作りの材料 (吉野川上流)
原石 叩石 筋砥石 材料・筋砥石・穿孔具 石核
 
 470土器 弥生後期後葉
 471

甕・無頸壷・広口壺・無頸壷・広口壺・甕・長頸壷・直口壺
(後期後葉)

甕・甕・長頸壷・無頸壷・甕・長頸壷・直口壺
(後期後葉)

広口壺×3(後期後)
長頸壷(後期末)
 472

甕(後期後葉)

甕(後期末)

甕(後期末)
 473

高坏(後期後)

高坏(後期後)

高坏(後期後)
 474

鉢(後期後)郡頭
有段鉢(後期後)郡頭

鉢(後期後)郡頭
有段鉢(後期後)郡頭

有孔鉢(後期末)名東
鉢(後期末)矢野
 475


鉢(後期後)

鉢(後期後)

鉢(後期後)
 
 480動物形土製品
動物形土製品
弥生終末期
東みよし町足代東原

左:人形
右:猪形
人形
猪形
 
 490土器 弥生後期末

広口壺・細頸壺・広口壺・広口壺・長頸壷・細頸壺・長頸壷
(後期末)

甕(後期末)

高坏(後期末)

鉢×4・段付鉢
鉢×2・有段鉢×3
(後期末)


 492萩原一号墓出土品 弥生時代終末期(3世紀前葉) 積石塚(墳丘墓) 県有形文化財指定 研究誌記事

萩原1号墓出土品

1975(昭和54)県道鳴門池田線改良工事に伴い発掘調査された。鳴門市大麻町萩原1号墓の出土品。萩原1号墓は突出部をもつ復元全長26.5m
の弥生時代終末期(3世紀前葉)の積石墳丘墓で、奈良県桜井市ホケノ山古墳の石囲い木槨に類似する積み石目下の構造であることから、
重要性が再認識されている。

出土品は主体部の副葬遺物と主体部上面及び墳丘上の共献土器群の一括資料である。

画文帯同向式神獣鏡は面径16.1cm、破砕副葬されたもので、内区の2/3を欠損する。
平縁で外区は外側から菱雲文帯飛禽走獣文帯、外向鋸歯文帯、半円方格帯がある。
半円方格帯は珠地文に14に分けられた半円方格形を配置し、半円には草渦文を、方格には4分割された
各区に「吾乍」銘の四字銘を入れる。
内区には三神三獣を置いている。本鏡は3世紀の初め頃、楽浪・帯方郡を通じて当該地に勢力を張った
公孫氏政権から入手した中国鏡である。


ヤリガンナは茎(なかご)の一部。管玉は縦方向に・・・
ない。
主体部上面に供献された土器群は・・・
どの小型精製土器で、讃岐地域で製・・・
れた朱精製用の石杵、積石木槨外・・・
周の周溝に共献された土器群がある・・・
墓の副葬品一括資料として重要である。  


細頸壺・脚台付鉢
無頸壺
 




 500聖なる赤 -朱の精製- 黒谷川郡頭遺跡 板野郡板野町大寺字山田畑

古代の赤色顔料には水銀朱・ベンガラ・鉛丹がある。赤は復活と再生の意味を持ち、銅鏡と同様に権力の象徴として好まれた。
朱は産地が限定される貴重品で、阿南市若杉山遺跡が採掘地として知られている。

朱は辰砂鉱物のすり潰しと、水濾しによる不純物の取り除き工程の繰り返しによって精製される。
最終段階ではベンガラを混合する場合もあった。徳島では弥生時代中期末遺構、鮎喰川流域集落板野町黒谷川郡頭遺跡で精製された。

 501聖なる赤

  聖なる赤 -朱の精製-
聖なる赤 -朱の精製- をつくる
長谷川郡頭遺跡


 朱をつくる 黒谷川郡頭遺跡
首都は、縄文時代から古墳時代にかけて作られた、貴重な赤い顔料のことです。
黒谷川郡頭遺跡では、朱をつくっていた弥生時代の竪穴住居跡が見つかりました。辰砂という朱の原石は、阿南市若杉山から運ばれて
黒谷川郡頭遺跡(板野町)・名東遺跡(徳島市名東町)・矢野遺跡(徳島市国分町)などの集落で朱として精製されました。

朱をつくる 黒谷川郡頭遺跡
朱をつくる 
黒谷川郡頭遺跡
上に記述
砕く

辰砂を石皿の上で、石杵を使って細かく磨り潰しています。
水簸

水を使って、磨り潰した赤い粉を比重の違いで選り分けています。
量る

てんびんのような道具で、赤い粉の重さを測っています。

下に記述

ここでは、辰砂の原石をできるだけ細かく磨り潰して、塗りやすく純度の高い色鮮やかな種を作る作業をしていたことが考えられます。
朱は、魔除けや永遠の生命の象徴として、土器に塗られたり、古墳の石室に撒かれたりして、使われました。元素記号はHgS出、硫化水銀と同じものです。
硫化水銀は、水に溶けず安定しています。死者の体に塗ることで防腐剤の働きもしたと考えられます。
ヨーロッパでは賢者の石とも呼ばれ、アラビアでは錬金術にも使われていました。



 水銀朱鉱山、若杉山遺跡
水銀朱鉱山
若杉山遺跡
若杉山遺跡 若杉山遺跡 若杉山遺跡の採掘跡 遺跡案内板 四国の路
四国自然歩道
転載「気まぐれ遍路」
 
 510「朱」製造道具 古墳前期~後期末

朱剥ぎ取り(中期末)名東
朱付着土器(古墳前)矢野
朱付着土器
朱付着土器 古墳前
鮎喰遺跡
朱付着土器 終末期 郡頭
朱玉 ベンガラ塊 郡頭
朱付着土器(後期前)名東
朱付着土器(中期末)名東
石杵
石杵(中期末) 名東
石杵(古墳前)不明
石杵(古墳前)庄
石杵(終末期)矢野

石杵(終末期)郡頭遺跡
石斧転用ベンガラ付着
庄遺跡
石杵(後期後)庄遺跡
石杵
石杵(古墳前)郡頭
石杵(古墳前)矢野
石杵(終末期)矢野

石斧転用ベンガラ付着
(後期前)徳島市庄遺跡
石杵(後期後)庄遺跡
石臼・石杵
石臼・石杵
弥生後期後・終末期
古墳前期 郡頭遺跡
 520再現展示
水銀朱の製造工程 粉砕

辰砂を石皿の上で石杵で細かく磨り潰す。
分離(水簸=すいひ)
水を使って磨り潰した粉を比重の違いや粒度出選別する
計量
子なの重さを量る

足元の土器は不明
 





 600弥生~古墳





 602倭の首長連合 弥生時代終末期~古墳時代前期

各地にクニができた頃、首長個人を葬る弥生墳丘墓が出現する。墳丘墓は地域色が強く、徳島では突出部をもつ円形の積石墓が造られ、儀礼用の小型土器が供えられた。
その後、中部瀬戸から近畿にかけた地域の首長たちは、各地の葬送祭祀や首長権を統合し、政治連合のしるしとして、長大な竪穴式石室をもつ前方後円墳を創り出した。首長連合が広がるにつれて、前方後円墳は列島各地で築造され、倭における国家の原形が固まっていく。


倭の首長連合 倭の首長連合 萩原墳墓群 1号墓



 603萩原 1号墓 弥生終末期

墳丘を石で積み上げる積み石塚は弥生時代終末期に徳島や香川に出現する。萩原1号墓は直径18mの円丘に突出部を付設した最古の積石塚。
竪穴式石室を持ち、中国鏡と玉の副葬など、古墳の発生を考えるうえで重要である。

萩原1号墓 主体部共献土器
下川津B類土器
細頸壺・脚杯坩・広口壺
画文帯同向式神獣鏡
ヤリガンナ・管玉
管玉
ヤリガンナ 主体部上面共献土器
脚杯坩
主体部上面共献土器
細頸壺
主体部上面共献土器
広口壺
萩原1号墓
上に記述

QR

引用「古墳出現前後の葬送儀礼 ―土器・埴輪は一から把握される葬送祭祀の系譜整理―」Ⅲ―4四国北東部地域(讃岐・阿波)の様相

 下川津B類土器  引用「高松空港跡地遺跡 よっちゃんの文明論」
  高松平野の香東川周辺の微細な黒い粒を多量に含む粘土を用い、薄く焼き上げて、茶系統のくすんだ色を示す土器のこと。
  讃岐を中心に、阿波、播磨などで弥生時代後期から古墳時代初期にかけて出土し、庄内式古相(3世紀前半)の併行期にもっとも多く出現する。

 
 萩原墳墓群に関しては、研究資料の少ない四国の考古資料の中で群を抜いて記述が多い。それほど重要な意味を持つ遺跡である。
 



 610蓮華谷古墳群Ⅱ2号墳 4世紀初頭 古墳時代前期
板野町犬伏に所在する古墳群である。2号墳は東西6.5~7m南北9~10mの円墳で、粘土槨を主体部として、内部は礫敷の粘土床に刳抜式木棺を安置している。4世紀初頭の築造が考えられる徳島最古級の古墳である。

石室内部の復元 蓮華谷古墳群
上に記述
彷製四神形鏡 直刀、鉄剣 有袋鉄斧、ヤリガンナ鉇
勾玉、管玉 主体部頭位部分剥ぎ取り
 620弥生終末期~古墳前期
 621

広口壺(終末期)×3

広口壺(終末期)×4
広口壺(終末期)×4
広口壺(終末期)
二重口縁壺(古墳前)×3
 622

甕(終末期)×3
小型丸底鉢(終末期)×2
脚台付鉢(終末期)
小型丸底鉢(終末期)×2

甕(終末期)×5
脚台付鉢(終末期)
小型丸底鉢(終末期)×5

甕(終末期)×5
広口壺(終末期)
小型丸底鉢(終末期)×2
鉢(終末期)×2
器台(終末期)×2


甕(終末期)×5
鉢(終末期)×4
器台+甕(終末期)×2

甕(古墳前)×4
直口壺(古墳前)×2
小型丸底鉢(終末期)×2
直口壺(古墳前)
 623

鉢(終末期)×5
有段鉢・台付鉢・有孔鉢(終末期)
高坏(終末期)×3

鉢(終末期)×6
有孔鉢×2・鉢×2
(終末期)
高坏(終末期)×4

鉢(終末期)×8・有段鉢
(終末期)
高坏(終末期)×4

鉢(古墳前)×4
有孔鉢×3・有段鉢
(古墳前)
高坏(古墳前)×4
 


 630埴輪


 631蓮華谷古墳群Ⅱ2号墳
    古墳(円墳)。  古墳前期-古墳(円墳、割竹形木棺(礫敷木棺直葬))、墳径8.0〜10.0m
  
広口壺(古墳前期)

板野町蓮華谷Ⅱ2号墳

QR

 632円筒埴輪
   この円筒埴輪は出土地不明です。脚注の前にストロボ禁止のラベルが置かれ見えません。徳島県で円筒埴輪が出土している遺跡は、
   菖蒲谷西山A遺跡渋野丸山古墳 萩原墳墓群 鳴門・板野古墳群 愛宕山古墳 土成丸山古墳などです。


 633人物埴輪 菖蒲谷西山A遺跡
    古墳時代遺物 須恵器+土師器+瓦器+埴輪(円筒埴輪+朝顔形埴輪+人物埴輪)+鉄器(鉄剣+刀子)

人物埴輪(後期)
壺を捧げる女子
 






 800古代国家への胎動 古墳時代中期~後期






 801古代国家への胎動
中期は前方後円墳の大規模化と乗馬・須恵器・横穴式石室など新しい技術によって特徴づけられる。
後期には、横穴式石室が家族墓として治雄賞の首長層にも広く採用され。吉野川流域を中心に地域色の津よう石室が造られた。

有力農民層による新たな農耕地の開発が進む一方で、塩・鉄・土器などの生産に組織化された工人の活動が始まる。
中央集権国家体制が推進されるにしたがって、古墳の築造は徐々に終焉を迎える。

古代国家への胎動
-古墳時代中期~後期-
段の塚穴・太鼓塚古墳
横穴式石室
古代国家への胎動
上に記述
 810
 811小型古墳
  小型古墳の被葬者
5世紀代の箱式石棺や木簡など伝統的な埋葬主体を持つ小型古墳には、政治的なつながりを示す実用的な鉄製武器、武具が副葬された。
しかし、首長層の大型前方後円墳とは墳丘や遺物の質、量ともに歴然とした差がみられる。

小型古墳の被葬者
上に記述
西山谷1号石蓋土壙墓
鳴門市
鉄鏃・鉄剣
 
宝幢寺3号墳・鳴門市
鉄槍・刀子

刀子
蓮華谷古墳群1号墳
板野町
刀子

鉄鏃
 
 
 820古墳時代の土器
 821古墳時代中期

甕(中期後)
器台(中期)

甕・壺・ハソウ・甕
(中期中)

高坏(中期中)
高坏(中期後)

蓋坏×4(中期中)
坏×2(中期中)
蓋坏(中期後)
碗(中期末)
 822

器台(中期)
壺(後期後)

甕(中期後)
ハソウ(中期末)
提瓶(後期後)
坪(後期後)

高坏×4(後期後)
蓋(後期後)
蓋坏(後期中~後)

蓋坏×7(中期中~後)


 824土製品 古墳時代後期 板野町蓮華池1号墳

 形象埴輪
家形埴輪 (後期)
板野町蓮華池1号墳
馬形埴輪(後期)
古墳時代後期

馬形埴輪
 825古墳後期の土器
 
 830

壺(後期後)

器台(後期後)

提瓶・壺・壺・提瓶
(後期後)

高坏(後期後)×5

蓋坏(後期後)

甕(後期末)

壺(後期後)
ハソウ(後期後)
平瓶(後期末)×2
甕(後期末)

高坏(後期後)×3
台付碗(後期後)
高坏(後期末)×3
碗(後期後)
高坏(後期末)
皿(後期末)
高坏(後期末)

蓋坏×4
鉢×3・蓋坏
碗・蓋坏×2
坏・蓋坏
 






 840古代





 841山田古墳群
山田古墳群A


 842墳墓にあらわれた階層 山田古墳群A

山田古墳群Aは横穴式石室・小竪穴式石室を主体とする6世紀後半の群集墳である。
墳丘の有無、主体部構造、副葬品の組み合わせに違いがみられる。ここに被葬者の群集墳内における生前の階層が反映されている。

  山田古墳群A 1号墳
直径14mの円墳。全長7mの横穴式石室を持つ。墳丘、主体部、副葬品の組み合わせから群集墳の盟主と考えられる。

墳墓にあらわれた階層
上に記述
山田古墳群A 1号墳
1号墳出土遺物

耳環

耳環、勾玉、管玉
切子玉、棗玉

小玉、ガラス玉

勾玉、管玉
切子玉、棗玉

小玉、ガラス玉
 843 2号墳・3号墳出土遺物
3号墳
耳環、勾玉、管玉
切子玉、ガラス玉

2号墳
鉄鏃・刀子・?

蓋付坏
 844 1号墳
1号墳
ガラス玉

ガラス玉

ガラス玉
3号墳
鉄製品(鉄斧?)

蓋坏付、提瓶、小壺
 
 850
 




 1000古代



 1001律令制下に暮らした人々 -奈良時代~平安時代-
平城京や東大寺の造営は華やかな国家を印象付けた。
諸国に都を真似た国府や官寺が整備されることにより、地方支配の基盤が確立し、政治と文化の中心になった。

律令制下では、全ての人々が国家に組み込まれた。支配層の豊かな生活の背後には、それを支えた民衆の生活があった。
「阿波国」では税として白米・ワカメなどが納められた。

その後、律令体制の基盤となる土地所有制度が揺らぐ中で、有力農民層は台頭し、古代国家は崩壊へと向かう。

律令制下に暮らした人々 -奈良時代~平安時代-
矢野遺跡 道路遺構
律令制下に暮らした人々
上に記述
 
QR
 1005古代瓦

均整唐草文軒平瓦
(奈良)阿南市立善廃寺

均整唐草文軒平瓦
(奈良)阿南市立善廃寺

均整唐草文軒平瓦
(平安)徳島市矢野

八葉単弁蓮華文軒丸瓦
(白鳳)阿南市立善廃寺
十一葉単弁蓮華文軒丸瓦
(奈良)阿南市立善廃寺

八葉単弁蓮華文軒丸瓦
(白鳳)阿南市立善廃寺
十六葉単弁蓮華文軒丸瓦
(奈良)阿南市立善廃寺

八葉単弁蓮華文軒丸瓦
(白鳳)阿南市立善廃寺
八葉単弁蓮華文軒丸瓦
(奈良)阿南市立善廃寺

誕生釈迦仏立像
(平安)板野町宮ノ前
この頃からすでに釈迦の誕生を祝う花祭りをしていたんですね。
甘茶をかけて、どんな祭りをしたのでしょう。
 
 1010奈良~平安の土器
 1011奈良時代 前期

壺(奈良前)×2

坏・皿(奈良前)

皿(奈良前)

皿・坏(奈良前)

皿・坏(奈良前)
 1012

甕(奈良前)

鉢(奈良前)
平瓶(奈良前)
壺(奈良前)

鉢(奈良前)
平瓶(奈良前)
壺(奈良前)

皿・坏(奈良前)

皿・坏(奈良前)

坏・蓋(奈良前)
 1013

鍋・壺(奈良前)

壺・高坏(奈良前)

坏・皿
(奈良前)・(奈良後)

蓋・坏・皿(奈良前)

蓋・坏・皿(奈良前)
 1014
皿(平安前)
高坏(奈良後)、 蓋(平安前)×3
蓋(奈良)
壺(奈良前)、 壺・製塩土器・甕(平安前)

坏・皿
奈良後-平安前-平安中
 
坏・皿・埦
奈良後-平安前-平安中

 1020地方行政と役人
租税を徴収するための様々な文書の作成が、役人の主な仕事であった。文書は、硯・墨・筆・小刀を用いて紙や木札に記された。
役人の服飾は、法律により細かく規定され、腰帯の金具は職・位階を表している。


QR
地方行政と役人
上に記述
帯金具 帯金具 帯金具 墨書土器(平安)
板野町宮ノ前

木簡・墨挺・筆・小刀

円面硯

水滴

桧扇 板野町宮ノ前
 
 1030

 1032古代人の祈り
律令国家では祭りの形態も国家的に統一され、地方官衙の設置と共に各地に浸透していった。
木製祭祀遺物には斎串の他、人形・鳥形・舟形など形代があり、人の身体に着いた汚れを除くための祓いの道具と考えられる。

古代人の祈り
上に記述
斎串 人形・舟形・鳥形
 
1040平安時代前・中・後

壺・鉢・坏
甕・釜
平安前~中

皿・坏
平安前~平安中

皿・碗・坏
平安中
 





 1200中世




 1201躍動する民衆世界 -鎌倉時代~室町時代-
律令制度の崩壊を契機に勢力を伸ばした武士は、その武力を背景に政治の表舞台に登場した。
一方、農民は支配者による収奪に苦しみながらも、生産力を増大させることにより次第に発言力を強めた。

また、「市庭」をめぐり職人・商人・芸能民などが活躍した。
遺跡から出土した土器や陶磁器は地元で作られたもののほかに、日本各地や中国大陸からもたらされたものも多い。
中世社会は多くの民衆が活躍する交通・交易の時代であった。

躍動する民衆世界 -鎌倉時代~室町時代-
黒谷川宮ノ前遺跡
方形区画屋敷地跡
躍動する民衆世界
上に記述

 1202土器と銭のまじない
上喜来蛭子~中佐古の178号柱穴からは、柱の痕跡を取り巻くように11枚の土師器皿が出土している。
皿には銅銭15枚と籾が納められており、家屋の安寧を願った地鎮祭的まじないが行われていたと考えられる。


甕・銅銭(鎌倉前期)
上板町神宮寺
土器と銭のまじない
上に記述

皿・銅銭(室町後期)
徳島市中島田

 1203板碑のいのり
板碑は中世特有の供養塔の一種である。徳島県は阿波型板碑に代表される全国有数の板碑集中地帯である。
丈六寺出土の板碑は桃山時代の整地層中に投棄されており、中世末期に板碑の習慣が衰えたことを示す。

板碑のいのり
上に記述

徳島県の石
片岩
 
 1210中世の土器
 1211
 1213

釜(平安末)古城

甕(鎌倉前)中島田

カマド(鎌倉後)中島田

鍋(鎌倉後)中島田

釜(鎌倉後)中島田

鍋(鎌倉後)中島田
 1214

碗・皿・小皿・坏・鉢
平安末~鎌倉前

碗・坏・小皿
平安末~鎌倉前

鉢(平安末)・鍋(鎌倉前)
鉢(鎌倉前)
皿・碗(鎌倉前)

碗・小皿・皿・坏
平安末~鎌倉前

皿・碗・小皿
鎌倉前

皿・碗・小皿
鎌倉前
 

 1250土器・陶磁器の流通と徳島県
  ●中世~近世の代表的な窯跡
  県内で出土する製品
中国の窯跡
景徳鎮、建窯、
龍泉窯、同安窯

唐津、有田、彼杵ソノギ

備前・亀山・十瓶山・備前
丹波・神出・魚住・和泉・大和
信楽・常滑・瀬戸・美濃

神出・魚住:甕・鉢 鎌倉時代
大和:鉢 鎌倉時代

和泉:小皿・埦
鎌倉時代

常滑:甕・壺
鎌倉時代

美濃焼:碗・瓶子・おろし目皿
室町時代
 

 1260中世~近世の土器

盤・青磁碗(室町前)
碗・椀・小皿・皿・坏
室町~鎌倉後

鉢(鎌倉前後)・すり鉢
皿・盤(室町後)
緑釉碗(鎌倉前後)
碗・皿・小皿(鎌倉前後)

壺・火鉢(室町後)

すり鉢(室町前)×3
碗・皿
室町前後~桃山

火鉢・釜・火鉢・釜・壺
(室町後)

火鉢・釜・鉢・すり鉢
皿・碗
室町後~桃山~江戸前

皿・碗・坏・向付
室町後~桃山~江戸

釜・すり鉢(室町後)
宮ノ前
 
 1300

 1301中世の土壙墓から見つかった骨

 ◇大松遺跡(おおまついせき)
大松遺跡は吉野川河口域の北岸、標高0m前後のデルタ地帯にあります。中世における本地域一帯には石清水八幡宮領萱島荘が成立しており、
大松遺跡は萱島荘に関係する遺跡と考えられています。

発掘調査では中世墓が4基発見され、13~14世紀の人骨が見つかっています。出土人骨は3体が成人、1体が未成人(小児)と見られます。

1号墓は頭の西側にあたる位置に、完形の青磁碗を副葬していました。この穴は大松遺跡中最大で、この地の有力者の墓と考えられます。
3号墓で発掘された中世前期(12-14世紀)の小児人骨の良好な遺存事例は、全国的にも少数で四国初です。

中世の土壙墓から見つかった骨 ◇大松遺跡
大松遺跡の人骨
13c-14c
大松遺跡の人骨
13c-14c
古町遺跡 板野町 古町遺跡
13c-14c高齢男性
153-156cm

 1303その他の遺跡の人骨
大柿遺跡
13~15世紀
1240年代
1320年代
1440年代
の人骨
古城遺跡 板野町

12c後半から13c初
熟年男性

12c後半から13c初
中年男性
 
 1310近世 江戸時代


鎌倉後期 宮ノ前遺跡
室町後期 宮ノ前遺跡

 1340大松遺跡の人骨 徳島市河内町大松 鎌倉時代
掘立柱建物跡に伴う柱穴や大小様々な規模の溝など、平安から鎌倉、室町、江戸時代にまたがる遺構を検出し、多量の遺物を出土した。
また、溝や土坑等の遺構にはハマグリ、ハイガイ、シジミなどで構成された小規模な貝塚も多く残され、中には鎌倉時代に遡る貝塚も見つかった。

平安時代に遡る遺物が出土したことは、吉野川河口域の沖積地が人々の生活の場として使われ始めた時期を知ることが出来る遺跡として注目される。
 引用「2010発掘徳島」
大松遺跡の人骨
鎌倉時代
 


 1350企画展示「四国の彩」

 1351
 那賀川流域の山中にある若杉山遺跡
日本全国には水銀鉱山がいくつかあり、四国山地にある「阿波水銀鉱床群」は古くから広く使われていた鉱山です。
若杉山遺跡(徳島県阿南市)では石灰岩やチャートに含まれる水銀朱を取り出し、精製していたことがわかっている全国唯一の遺跡です。

四国内の遺跡から水銀朱の精製に用いられていた土器や石器が出土しています。
弥生時代には大規模に生産しており、香川県高松市上天神遺跡など、各地に運ばれていたものと想定されます。

特別な色 -赤 赤は人類誕生以降、世界的に最も多く使われ、また、目で認識しやすい色です。日本列島においても、土器・石器に埋葬人骨や墓の内部まで赤く彩ってきました。
最も盛んに使われるのは弥生時代~古墳時代にかけての頃で、亡くなった人の〇を〇め再生を願うなどの意味が込められてました。
赤色の減量には、主に水銀朱(硫化水銀)か弁柄(酸化第二鉄)があり、水銀朱が稀少なものとして最も珍重されました。

犬山古墳群の朱で彩られた人骨

日本列島の水銀鉱床
水銀朱精製の道具と
利用
水銀朱は石灰岩などの割れ目に入っています。鉱脈を探り、原石中にある僅かな水銀朱をより分け、細かく磨り潰すなどの工程を経て顔料として用いられます。

水銀朱精製は、辰砂を叩いたり、磨り潰したり利する石杵や、土台となる石臼の他、
用途は不明ながら把手付の片口皿も使われています。
 水銀で彩色された器
居徳遺跡木胎漆器は上から見た形は隅丸方形で、容器の蓋と考えられます。
外面には水銀朱を顔料とした朱漆で花弁状の見事な文様を描いています。

木材はクスノキです。
 赤色塗彩土器
都ぶりへのあこがれ
奈良~平安になると、都と各地との間でやり取りが盛んになりました。
赤褐色に焼かれた土器が都で流行すると、それをまねて四国の役所や寺院でも弁柄で赤く塗った土器を使いました。 

 那賀川流域の山中にある若杉山遺跡
日本全国には水銀鉱山がいくつかあり、四国山地にある「阿波水銀鉱床群」は古代から広く使われていた鉱山です。
若杉山遺跡(徳島県阿南市)では石灰岩やチャートに含まれる水銀朱を取り出し、精製していたことがわかっている
全国唯一の遺跡です。

弥生時代には大規模に生産しており、香川県高松市上天神遺跡など、各地に運ばれていたものと想定されます。
若杉山遺跡 木胎漆器replica
居徳遺跡群 土佐市

木胎漆器デザイン

 1352赤色土器

赤色塗彩 土師器
皿(下ノ坪遺跡)
皿(旧練兵場遺跡)
坏(観音寺遺跡)

赤色塗彩 土師器
蓋、皿(旧練兵場遺跡)
碗(不明)
赤色塗彩 8c土師器鍋 下ノ坪遺跡
 1354
朱彩 壺
南蔵本遺跡

朱彩 壺
南蔵本遺跡
朱彩 壺
南蔵本遺跡

把手付片口皿 1c
旧練兵場遺跡
 1355

ひん岩製 石杵 庄遺跡
砂岩製 石杵 名東遺跡
砂岩製 石杵 南庄遺跡

砂岩製 石杵
辰砂鉱物
深瀬遺跡 阿南市
辰砂鉱物
深瀬遺跡 阿南市
砂岩製石臼
旧練兵場遺跡
砂岩製石臼
旧練兵場遺跡
名東遺跡
 


 1370遺跡・遺物・ヒト -弥生時代の道具-

約300万年前、ヒトは「第2の手」をあみだした。
ヒトは豊かさを求め、道具を改良することで、生産力を伸ばし、社会を築き、世界を広げ、文明を繁栄させた。
その一方で、人口は爆発的に増加し、貧富の差をうみ、さらには、戦争や環境破壊を招いた。

私たちは未来に向かって新しい文明の潮流を創り出すことが出来るだろうか。モノからヒトを映し出す考古学を通して、ヒトのあゆみを学び、現代と未来を考えたい。

遺跡・遺物・ヒト
骨を柄にした石器
切る・掻く

石槍いしやり
大型獣を狩る

石槍 先端

弓矢 小動物を狩る
右下:石斧 掘る・突く

左上:打製石斧・伐採
左下:石斧 掘る・突く
中上:磨製石斧・伐採

最上:石包丁
左:打製・磨製石斧
右:木製鋤・木製鍬
右下:磨製石斧・伐採

最上:石包丁
鉄斧、鉄鎌
磨製石斧・木製鍬・鉄先付鋤

鉄斧、鉄鎌
磨製石斧・木製鍬・
鉄先付鋤・手鋸・鉄先付鋤

ヤリガンナ
手鋸・鉄先付鋤・金鋸
槍鉋・槍鉋大
金鋸・鉄斧・ちょうな

ヤリガンナ(大)

ヤリガンナ

ヤリガンナ

ヤリガンナ・ちょうな

ちょうな

金鋸

鉄先付鍬

手鋸

鉄先付鋤

木製鍬

木製鍬

鉄製鎌
石包丁 石包丁 石包丁 磨製石斧

木製鍬

木製鋤

磨製石斧

石斧

打製石斧
鏃・矢尻

矢の先端