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 青森の縄文 04  2019.09.26-3

   東北町歴史民俗資料館 青森県上北郡東北町大字上野上野191-30
     0176-56-5598火休・祝日撮影可

交通 レンタカー
青森鉄道 上北町駅から西へ1.8km徒歩23分
  位置   東北町

 
 




01外観
 平地の針葉樹林
 資料館前のあずまや風建物は?
 玄関前

10入口展示1 
11「東北人とエミシ」
12「氷河時代の日本」
13ナウマンゾウ骨格標本

20入口展示2
21木製砲弾
23切断蓋付土器(土器棺)
25想像つきますか?30万年前って?

30常設展示室
30自然展示
31小川原湖の生物
33小川原湖の概要
35小川原湖の動植物

50サルからヒトへ
52戸井の角偶
 秋田県漆下遺跡
53縄文の巨神兵

100縄文時代
101縄文時代の暮らし
103古屋敷貝塚の発掘
(1)フラスコ状土坑の女性人骨
(2)埋設土器
111古屋敷貝塚の縄文土器
112円筒下層式土器
113円筒上層式
114刻線のある土器
115補修孔のある土器
116円筒上層式土器(特殊)
120縄文の道具
121石鏃・石槍
122石錐と石匙
124骨角器・土偶・獣骨・石器
125貝類・獣骨類
127磨製石器
 半円状扁平打製石器

131古屋敷貝塚周辺の遺跡分布図
 小川原湖周辺の貝塚と遺跡
132古屋敷貝塚
 ストーンサークル
137発掘された自然遺物
140むかしの地層
150古屋敷遺跡の女性人骨

古代
160松原遺跡
162上北町の古代 八幡遺跡

中世
163上北町の中世

近世
164上北町の近世
南部藩の行政組織

近代
166刀剣の接収
170その他展示物
 
 
 01外観

 平地の針葉樹林
青森県では平地に針葉樹林を見かけます。普通は山に生えているものです。
当館や三沢の館で理由を尋ねても不明とのこと。
東北地方の農地はみな火山灰土なので防風・防砂林かと聞くと、違うという。
三沢では飛砂が激しいという。若い館員は調べときますっていう。
でも、もう二度と来れない。聞くことが出来ない。なんで平地に針葉樹林帯?

その時思いだしたのが、何十年も前、深夜に放送された記録映画。
戦後間もなくのリアリズム映画全盛の頃に作られた、東北の寒村の記録映画でこの答えを見た記憶があった。
今では青森県人も忘れてしまっている。なんてことだ。(下に続く)

平地に背の高い針葉樹林が延々と続いている。

東北地方の寒冷地では、谷川や河川を通じて、春は雪解け水で冷やされた冷気が、秋は高い山で冷えた冷気が、河川を通じて流れ下り、
これが寒冷な川霧となって作物に付着氷結して冷害を引き起こすのです。そこで人々は河川沿いの樹木は決して切らない。又は、なるべく背の高い樹木を植えて、河川から周囲に寒冷川霧が流れ出ないように、田畑に広がって冷害を起こさないように、そのまま下流へ、太平洋まで流れ出るように誘導路を作るのです。
 高い堤防は作れないので、樹木を寒冷霧の堤防がわりにする。というシーンを見ました。

現在の平地の針葉樹の樹齢を見ると一様に揃っていて、しかも人工林である。太くなりすぎると、植え替えるらしく、若木も植林されていた。
しかし、きっとこれが針葉樹林のある理由だと思うが確証がない。
なぜなら、青森県人自身が知らない。初老の学芸員も知らない。確かめようがありません。でもきっとこれでしょう。と、勝手に思っています。

四国では、上流から流れ下った寒冷霧が海に出て行くのを見た。美しいとか、珍しいとかの表現でした。これは作物を育てていない冬場だからである。東北では、植物が育つ時期まで続くのである。そして、植物を霜焼けにして、枯らすのである。



 資料館前のあずまや風建物は?
料館前庭の東屋風建物 東北町歴史民俗資料館 開館は40年も前になるそうです。長野県伊那谷でも同じ頃の館を沢山見ましたがもっと劣化していました。こちらは随分新しそうです。きっと内装・外装の手直しがあったんですね。

博物館・資料館は、長く続くと いろいろ変わったものが寄付されたり、持ち込まれたりして、本来の目的を逸脱することがあります。そのために時々リニューアルを行うのですが、ここではそれが行われず、妙なものが沢山ありますが、それも館の歴史かと思います。

長野県川上村の様に、以前あった別の館を吸収しておきながら、そこの展示物を、その辺に積み上げてほったらかしているところもありましたから、いろいろあるんでしょう。

 玄関前
  「三十万年前の古代木」のポスター
三十万年前の古代木 三十万年の昔 古代木で作られた
オブジェ
古代木作者略歴
 埋設古代木を彫刻したもの。美術館がないから、古いものだから、ここに持ち込まれたようだ。なぜ?
 土埋木をそのままならわかるが、大人が手遊びして原形がわからなくなったものを、誰も引き取らないから押し付けるなんぞは、意味のないこと。
 彫刻ってなんだ。なんのため? 手遊びを頼まれた彫刻家も面くらったろうに。
 


 10入口展示1


 11「東北人とエミシ」平泉世界遺産指定を祝して
(東北人にとって「エミシ」という言葉はマイノリティを意味し、今も非差別感情を意識していることを知って驚きました。
我々はそのような差別意識は持っていないが、そのように感じられてしまう長い差別の歴史があったのでしょう。
そこで、常設展示室入り口に掲げられたこの文章は、東北に住む人々の人権にとって大変重要な意味を持つと考え、全文を掲示します。)

常設展入り口
左:30万年前の地層から出た古代木で作ったオブジェ。
右:郷土出身の騎手
「東北人とエミシ」
平泉世界遺産指定を祝して
「東北人とエミシ」1 「東北人とエミシ」2
許可を得て撮影しました

 東北人とエミシ(全文)1
古代、大和の王朝が、覇権を東へ東へと拡大していく中、これに抵抗する人たちがいました。
「まつろわぬ人」たち。この者たちの住んでいる地帯(または住人)をヤマトはエミシと呼びました。
「まつろわぬ」とは、服従しないと言うことです。
もっとも、理不尽な仕打ちに対して、言うことを聞かないのは当然のことでしょう。
彼らにすれば、攻めて来る外敵から家族を守るため、やむなく戦っただけなのかもしれません。

では、ヤマトからエミシと呼ばれた「彼等」は、いったいどういう人達だったのでしょうか?

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への
帰属や同化を拒否していた集団を指しました。
統一した政治勢力をなさなかったことから、次第に日本により征服・吸収されていきます。

659年(斉明天皇5年)の遣唐使と唐の高宗との問答が『日本書紀』にあります。
それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があったとあります。
この使者の説明によれば「蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、木の下に住んでいた」ということです。
さらに、景行天皇40年の記述では「暴強極まりない種族で、男女・父子の別もなく、悪鬼のような人たちで、穴居生活する」とあります。
しかし、このような生活は、史料に見える他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾しています。
おそらくはエミシを野蛮人と誇張し、侵略を征伐と正当化する「ために書かれた嘘」だったのでしょう。

逆に、これらの説明からは、「都加留ツガル」や「都母ツモ」は、固有名詞をあげられるほどの有力集団として存在していたという事実が伺われます。

蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場したものです。
 「愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒」
  えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
  (蝦夷を 一人百な人 人は言えども 立向かいもせず)
  (訳:えみしを 一人で百人に当たる強い兵だと 人は言うけれど 抵抗もせず降伏した)

この歌を、「口ほどにもない奴らであった」と読み解くことは簡単です。 しかしこれは、戦えば一騎当千の強い兵とみられて居た彼等が、戦わずに済むのであれば いたずらに蛮勇を振りかざすことなく、
あっさり投降したこともあった・・・。むしろ、彼らが本当は非戦をこそ、望みとしていた証だと読むことはできないでしょうか。


アイヌ叙事詩ユーカラの研究で名高い「金田一京介」博士は、その著作「心の小道をめぐって」に、

〔前言往行の、もって範とすべきもの、もって証拠とすべきものは、口々相伝得て風誦し、伝承し、家系の如き、古伝の如き、炉端の団欒の間に、知らず知らず習得して、一人ひとり部落の生活に必要な教養を、
この間に施されて育っ〕たアイヌたちが、

 (その社会に、「文字」を持たないというだけで)
〔鉄道工事や道普請で入り込む土工などが、時々酔って部落へ来ては、温和で抵抗しないのにつけ上がって、その大事にする髭を引っ張りまわしたり、頭を足蹴りにかけたりして、それでもかまわずに(村から)返してやるのを見下げてやったつもりで威張って去るのである。〕

〔自分らの伝統的な生活をかき乱されることを避けて、漁利の磯浜は侵入者にゆだねて、だんだん川沿いに退ぜんして来たこの人々は、いつでも黙々として、損を耐えている人たちである。陰でありったけの真心を支払って、知られぬままにうずもれていったこの種の純情は、国土の開拓の下に昔からどんなに沢山浪費されたことであろう。〕
 と書いています。

 東北人とエミシ(全文)2
蝦夷と呼ばれた集団は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人、現在の私たち(東北人)につながったと考えられています。

考古学から見た文化圏の検討と、北東北に分布するアイヌ語地名からは、7世紀以降の蝦夷についてはアイヌとの関連性を認める説が有力で、北海道から北東北にかけての広がりを持った擦文文化を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされます。
 また、蝦夷がツングース系の北方民族と考える説もないわけではありません。

もっとも、擦文文化の広がりや実態、続縄文文化から擦文文化への、また、擦文文化からアイヌ文化への移行過程はかなり複雑な様相を呈しており、単純にそのままの形でこれを定説とすることはできません。

『書記』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って縄文人・弥生人等との関係については、未だ確定的な説のないのが実情です。
しかし、『日本書紀』神武東征記の記述や、金田一博士の言葉からは。「東日本」「東北の人々」の「核」ともいうべきものが見えてくるように思えます。

後にエミシの酋長に連なる家に生まれた藤原清衡は、前九年・後三年の役の戦禍を嫌というほど舐めた経験から、戦争の惨禍を二度と繰り返さないための「平和の誓い」を起草しました。

『中尊寺落慶供養願文』です。

この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるもの全てのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されてきました。
命ある者たちの御霊は、あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも欧州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われし者たちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。
(以下略) 展示三年二十四日 弟子正六位上藤原朝臣清衡 敬白。

以降、「欧州平泉」では九百年にわたり、破壊や殺戮等の戦闘行為が一切行われませんでした。
それも、縄文以来、狩猟・最終・交易を生業としてきたことで、共存共栄を自明の理とし、本来は戦闘を好まない「東北の民」エミシが作り出した精神風土ならではのことだったのかもしれません。

このエミシ社会が作り出した「東北からの平和の祈り」が今、世界遺産として全世界に発信されることの意義はとても大きいものがあると思われます。
「いつでも黙々として、損を耐えている人たちである。陰でありったけの真心を支払って、知られぬままに埋もれていったこの種の純情は、国土の開拓の下に昔からどんなに沢山浪費されたことであろう。」
と、金田一京介博士が言った、「この種の純情」は「征夷」から「戊辰」を経て、今また「福島(フクシマ)」に至りました。
長年かけて形成されてきたコミュニティーは切断され、土地に伝わる伝統や慣習、技能も失われていきます。

その「東北の無念」は、3.11、圧迫された地殻マントルがたわみ、歪みながらその内に溜め込んだエネルギーを地震という形で放出させたように、いつか開放される時を待っているのかもしれません。
しかし、そうならないための一つの答えが、世界遺産となった「平泉の文化遺産」。そして、今後指定を待つ「縄文遺跡群」にはあるのだと思われます。

町の有形文化財「日本中央の碑」にかかわる「つぼのいしぶみ」の伝承とその背景にも、ヤマトとエミシの織り成してきた「歴史」がありました。
「平泉の文化遺産」。その他。発掘された出土した多くの「モノ」たちの伝える「歴史」は、現代に生きる「東北の民」へ、そして「全世界の人々」に差し出された、古代からの「フミ」の数々だといえるでしょう。
     (東北歴史民俗資料館 2011.6.27)
 
 
 


 12説明資料「氷河時代の日本」

ギュンツ氷期 55万年前
ミンデル氷期 38万年前
リス氷期 15万年前
ウルム氷期 4.2万年前~1.2万年前
 間氷期 1.2万年前~現在

大陸とつながって
➀朝鮮半島、対馬海峡を渡って大陸の動物が日本列島へ
②ナウマン象・オオカミ・イノシシ・シカ
③動物を追いかけて人々も移動してきた。

東日本は寒い
➀暖かい黒潮は、沖縄の島々にぶつかり東へ
②今の日本海に入ってこないために寒く、特に冬はシベリアからの寒風で、-10℃-20℃-30℃にも日常的になり、
 地面も地中も凍結し永久凍土のようになった。
  日本海は
 日本海は大きな湖であり(地中海)、冷たい海だった。

北方民族
➀シベリア大陸から、マンモス、オオツノジカ、シベリアン・タイガーが、樺太、北海道に渡ってくる。
②その動物を追いかけて細石刃を持った人々が南下
 大陸の河川、海水の凍結によって、水深150m~120mまで海水面の低下

氷河時代の地層
氷河時代の凍結地層
旧 天間林村 李沢 
氷河時代の
インボルーション
(地層の褶曲変形構造)
東北町 乙供

 13ナウマンゾウ骨格標本
象化石の新聞記事
郷土館展示
2019のポスター
ナウマンゾウ化石
発見50年
忠類ナウマン象記念館
忠類ナウマン象記念館 北海道中川郡幕別町忠類銀町383-1
30年も前に開館されていた、北海道の「ナウマン象記念館」。

北海道にはマンモス象だけではなく、対馬海峡を渡って来て、
本州で大繁殖し、更に津軽海峡を渡って北海道まで分布した
ナウマン象もいたという、確かな証拠。

青森県七戸町で発見された骨は、北海道へ渡った象の先祖か子孫
かもしれない。
 

 15ナウマンゾウ
今から1万年程前までは、北極とオーストラリア以外の全世界に多種多様なゾウの姿が見られました。日本列島には、約30万年前にアジア大陸から渡って来たナウマンゾウが住み着き、青森県では東通村七戸町上北町から化石が発見されています。

この骨格復元は、北海道で発掘された骨格と千葉県で発見された頭部をもとに組み立てられたものです。アジアゾウと同じ、小型の像で、頭骨の頂部に鉢巻きのような骨の隆起が見られ、長い牙(切歯)がねじれて左右に大きく開くなどの特徴で、ほかの像とは区別されています。

氷河期が終わりに近づき、人類の活動が活発になった2万年ほど前に、ナウマンゾウは日本列島から姿を消してしまいました。

ナウマンゾウ骨格標本 クジラの肋骨と椎骨
今も昔も鯨類が方向感覚を失って、浅瀬や

河川に迷い込み、死ぬことがあったみたい。

いまだにこれは、謎と言われています。
ウミガメ肋骨 ウミガメ肋骨
甲羅はなくて一頭分の腹骨だけ出土?
ナウマンゾウの臼歯 ナウマンゾウ ナウマンゾウ
上に記述

 ナウマンゾウの臼歯
この化石は昭和36年7月に上北町の小川原湖畔本村の土取場から発掘された、右下顎の臼歯化石です。
ナウマンゾウは中国大陸から日本列島にかけて、今からおよそ10万年前まで生息していたと思われます。

肩高2.5m-3mで小型のアジア象。氷河期に適応し皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていた。
牙(切歯)が発達し、雄は約240cm直径15cm程。雌は約60cm、直径6cmあった。引用wiki

ナウマンゾウ臼歯 ナウマンゾウ臼歯 ナウマンゾウ臼歯


寄贈者・発見場所 臼歯・亀骨発見場所 ナウマンゾウ発見場所
 
 20入口展示2
 21木製砲弾
木製砲弾 木製砲弾
砲弾というのは、中の炸薬が爆発して、
周囲の金属が時計のゼンマイ状に赤熱断裂してはじけて飛び散ることにより、周囲に甚大な殺傷被害を及ぼします。
しかし、単に、火薬が炸裂するだけでは衝撃波などによる破壊だけなので、威力の少ないものとなります。従って
殺傷能力を高めるために、中に石やガラス片などを入れたものと考えられます。
むつ小川原湖から出土とは、今も自衛隊・米軍の基地で、最近も爆弾や飛行機が落ちることもしばしばである。 この辺りでは終戦間際に風船爆弾が作られていたそうだし、昔から実験場だったのでしょう。
 


 23切断蓋付土器(土器棺) (せつだんふたつきどき)  縄文時代後期初頭 
十腰内式土器の壺形土器を成形し、乾燥・焼成前に上下に切り離す。
焼成後に、器の中に目的のものを入れ、切り離した上下を合わせ接着材(アスファルト等)で接合するものと考えられる。

器それ自体の口径からは入らないものを入れて、閉じ、紐通しの孔により、切り離した上下を強く結びつける。
本例は漆の塗布により更に完全な接合を測った例である。
切断接合土器と言った方が良いかもしれない。

※この種の土器棺はほかでも出ていますが、その仕組みをはじめて知りました。
土器を成形後、生乾きで、下部など、一部を切り開き、(六ケ所村では胴体の一部に窓を開けている。)焼成し、何かを充填し、漆で接着した。

十腰内式土器と思われますが、キャプションがなく、詳細不明です。多くの場合、二次葬骨を入れています。

切断蓋付土器 縄文時代後期初頭 切断蓋付土器
土器棺内 切断蓋付土器 何かを入れて漆で固められた縄文時代の壺 一般的に二次葬の人骨が入れられる。

弥生時代には二次葬が盛んであるが、青森では縄文時代にも行われていた。
八戸市立博物館参照

 25想像つきますか?30万年前って?
  ナウマンゾウがいたのが、4万年前と言われている。それよりも古い時代!
  剥片石器が出現した時代。ネアンデルタール人

  50万年前は、まだ人種がない時代。 
  30万年前は、アジア系、ヨーロッパ系など系統がわかれつつある時代!?  ※注:ホモサピエンスがまだ誕生していない時代ですヨ。

  東北町湯田平の埋没林 (30万年前のスギ・ヒバの混交林)
「30万年前の森林はスギとヒバの混交林であった。その割合は半分ずつであった。」これが現在とどう違うのか。どのような気候を想定できるのかには触れていず、当時の植生も動物相も明らかにはされていません。寒冷で火山が活発に活動していたようです。

東北町湯田平の埋没林 東北町湯田平の埋没林 東北町湯田平の埋没林
東北町湯田平の埋没林
地質層順序表
東北町湯田平埋没林
地質層序表
30万年前の樹木
出土状況
30万年前の樹木 30万年前の樹木
上に記述
30万年前の樹木
 




 30常設展示室



 30自然展示
 31小川原湖の生物
小川原湖の生態系
白花延齢草山法師オオバン
オオヨシキリカイツブリ
花菖蒲リスコウホネ羊草
水菊アサザ軽鴨・コイ

ノスリ
オオバン

オオセッカキツネ,
アズマギクヨシキリ
ハマハタザオニッコウキスゲ
ハマヒルガオハマナス

オオヨシキリカイツブリ・軽鴨
オオバン・ウグイ
ヘラブナ

オオバン
コイ・ウグイ
ワカサギ・ボラ
ヤマトシジミ

ハマハタザオ
ハマヒルガオ・ハマナス
ボラ・ヤマトシジミ

カルガモ・コイ
ヘラブナ

コイ・ウグイ

ワカサギ
ヤマトシジミ
シラウオ

ボラ
ヤマトシジミ


 33小川原湖の概要
小川原湖は県内1位、国内でも11番目に大きな湖です。湖の周囲は、上北町の他、三沢市、東北町、六ヶ所村に接しています。
流入河川は、八甲田山系に源を発する高瀬川(七戸川)を含め土場川・花切川・砂土路川などの河川があり、流出河川としては、唯一高瀬川が太平洋に注いでいます。
小川原湖は、内海から変化した海跡湖かいせきこで海岸線の丘の至る所で縄文時代の人々の使用したと思われる数々の土器などが出土しています。
 (※内湾が海退で湖となった汽水湖の地形)

【特徴】
小川原湖は、太平洋との水面差が小さいことから、湖の干満によって海水が高瀬川を通って逆流してくる「汽水湖」です。
湖の塩分量は、場所や深さによっても変化するため湖の南部と北部では、生息する生物も異なり、大きな違いが見られます。
海に近い北部程塩分濃度が高く、流入河川のある湖南部は淡水的です。

また、小川原湖付近でも北部と南部では、植生も異なり、湿原に棲む貴重な野鳥や渡り鳥、水生植物も多く、湖を取り巻く自然は四季によって大きな変化を見せてくれます。

【小川原湖の形状】
湖水面積 62.16㎢ 湖容量 770㎢
水面標高(平均) 0.56m 平均水深 約11.0m
最大水深 約25.0m

※高瀬川は現在は、むつ小川原原発や、原燃再処理工場のためにせき止められているようです。

小川原湖の概要 小川原湖の概要
上に記述
小川原湖 小川原湖を巡る
食物連鎖

右に記述
小川原湖の食物連鎖
小川原湖には、小さなプランクトンを始め、
様々な水生植物、淡水・海水性の魚類や貝類
そして、多くの野鳥や獣・昆虫などが生活しており、

それらは互いに食う食われるの関係(食物連鎖)を繰り返しています。
 35小川原湖の植物

ノウルシ
ワタスゲ
トキソウ
ショウジョウバカマ
ニッコウキスゲ
ハマエンドウ

ハマハタザオ
ハマナス
ヒツジグサ

ノハナショウブ
アズマギク
ミソハギ
 37小川原湖の鳥類

ヒドリガモ
コハクチョウ
オオハクチョウ
オナガガモ
オシドリ
コガモ

ハマシギ
ユリカモメ
カンムリカイツブリ

オオバン
オオセッカ
カワウ
 39小川原湖の魚介類

ワカサギ
ウナギ
ウキゴリ

シジミ貝
カラス貝
ナマズ

ヘラブナ
ギンブナ
コイ

ソウギヨ
タイリクバラタナゴ
ウグイ
 

 50人類史
 サルからヒトへの進化
 51
プロコンスル
ドリオピテクス
ラマピテクス
アウストラロピテクス
北京原人
ネアンデルタール人
クロマニヨン人
現代人
サルからヒトへの進化 類人猿と人類の共通の祖先「プロコンスル」「ドリオピテクス
の化石はアフリカ・ヨーロッパ・アジアで発見されている。

彼らは樹上生活のため手指が発達していた。更に進化した
原始人類は草原に出て共同で獲物を追い、猛を捉える
ようになり、、社会的生物として発展してきたが化石の証拠が
不十分なため、人類の進化の道筋は確定していない、しかし、
碑との直接の祖先は「アウストラロピテクス」だといわれている。

 52戸井の角偶(動物のつので作った人形・シベリアなどにみられる。) 函館市旧戸井町
戸井の角偶 戸井の歩み (いど ではなく とい です。笑)

函館市戸井地区戸井貝塚から出土した、エゾシカの角(ツノ)で作られた「角偶=かくぐう」。

固い鹿の角を薄く仕上げ、そこに正確にきれいな穴を、割らずに、よくこれだけ開けられたと思う。
大変高度な技術です。
高さ5cm




 秋田県漆下遺跡 北秋田市森吉字漆下4外
漆下遺跡は、森吉山ダムに沈んだ縄文時代後期(約4,000~3,000年前)の遺跡。
検出された配石遺構や捨て場、出土した土器の編年や土偶、漆・アスファルト関連遺物 ・・・などがあったようだ。漆下遺跡 発掘調査報告

住居跡3D測量図
漆下遺跡の配石3D画像


 53縄文の巨神兵 六ケ所村 千歳(13)遺跡  青森県上北郡六ヶ所村大字倉内字笹崎1149番地ほか  縄文早期
縄文の巨神兵 六ケ所村千歳13遺跡
人体文土器
縄文後期初頭
ラピュタのロボット兵
人体文土器
千歳13遺跡
岩手県滝沢村
けやきの団地遺跡
人体文土器
巨神兵
 






 100縄文時代



今からおよそ1万3千年前から 2千年位前までのおよそ1万年間を 縄文時代と呼んでいます。

縄文時代には二つの大きな発明がありました。
縄文土器の発明によって食料が調理保存できるようになり、
弓矢の発明によって、多くの獲物が捕れるようになりました。

こうして人口は増加し、定住生活が可能となりました。
そして縄文人は、自然の移り変わりと共に、生きる知恵を身に着けて行ったのです。


 
  小川原湖周辺の貝塚遺跡について
    

「縄文王国」の青森県で東北以北最古級の貝層を発見

 

史跡二ツ森貝塚 整備基本構想及び整備基本計画 - 七戸町


    

二ツ森貝塚 -青森県最大の貝塚-

 

縄文時代前期 - ADEAC(アデアック)

 
 101縄文時代の暮らし 古屋敷貝塚


豊かな自然の恵みである山菜や貝を採集した。
貝は似て干し貝にし、
交易品にもしました。


小舟で海に出、銛で魚をついたり、沼や川で魚を釣ったり、魚は縄文人にとって貴重なタンパク源でした。


森には、ブナ、ナラ、クリなどの落葉広葉樹が多く、キノコや木の実を採り、そしてクッキーにしたり、冬の食料として貯えました。


雁には弓矢や槍を使ったり、陥穴を掘り、イノシシやシカを捕獲していました。この陥穴は、上北町松原遺跡で4基見つかりました。
 102縄文時代
縄文時代
古屋敷貝塚
縄文時代
今からおよそ1万3千年前から 2千年位前までのおよそ1万年間を 縄文時代と呼んでいます。

縄文時代には二つの大きな発明がありました。
縄文土器の発明によって食料が調理保存できるようになり、
弓矢の発明によって、多くの獲物が捕れるようになりました。

こうして人口は増加し、定住生活が可能となりました。
そして縄文人は、自然の移り変わりと共に、生きる知恵を身に着けて行ったのです。

 103古屋敷貝塚の発掘 縄文前期 青森県上北郡上北町大字大浦字大沢12

  引用「研究紀要 第6号 2000」19頁 縄文前期 前期末葉・中期前葉~後葉
(1)フラスコ状土坑の女性人骨  
昭和57年に上北町古屋敷貝塚のフラスコ状土坑の第2号遺構からは、 成人女性人骨が出土している。
人骨の下にホタテ貝が敷かれ、土坑の上面には蓋をするようにホタテ 貝で覆っていたという。一般にフラスコ状土坑の性格としては、貯蔵穴と考えられている。
ここで取り上げたのは、フラス コ状土坑の中から人骨あるいはベンガラ等が認められた例だけであるが、極めて少ないながらも
墓と して利用されたものがあることは明らかである。

(2)埋設土器
上北町古屋敷貝塚から円筒下層式の土器の中から胎児骨(妊娠後半期の7・8ヶ月)1体分が検出されている。

古屋敷貝塚の発掘
土器出土状況

布目土器

上:人面把手付土器 
下:特殊把手意匠土器
 110縄文土器 古屋敷貝塚
 111古屋敷貝塚の縄文土器

  円筒下層式土器 縄文前期
円筒下層式土器
前期
前期は7000~5500の1500年間である。
円筒下層期土器は
千年か二千年もの間
使い続けられたようだ

 112円筒下層式土器 縄文前期 古屋敷貝塚

 113円筒上層式 縄文中期
縄文中期になってやっと十和田火山爆発の影響が薄れ、
東北南部と環境が近づき、東北南部型の土器が使われるようになった。  
か、
または、東北南部から大木式土器文化の人々が移り住み始めたかのどちらかであろう。

 114刻線のある土器
新たに確認された刻線のある土器 線刻のある土器 線刻のある土器
 115補修孔のある土器

 116円筒上層式土器 縄文時代中期 古屋敷貝塚
円筒上層式土器 人面装飾付土器 特殊装飾の土器
ヘラ書き文土器
 


 120縄文の道具 古屋敷貝塚

 121石鏃
   旧石器時代の終わりから使われ始め、縄文時代に発展した代表的な狩猟具です。 古屋敷貝塚
石鏃

 石槍(ヤリ) 古屋敷貝塚
  旧石器時代から縄文時代にかけての代表的な狩猟の道具で、突き刺すために使われた。

 122石錐と石匙 古屋敷貝塚

  石錐 土器や皮・骨角器などに孔をあける道具  (※石錐がなぜこんなに沢山あるんだろう。
石錐


  石匙(ナイフ) 石匙は、現在のナイフのように万能の利器として細工や、切る道具として使われた。
    ※東北地方の縦型が主流だが、西日本の横型も少し混じる。



 124骨角器土偶獣骨石器 縄文中期 古屋敷貝塚
骨刀
鯨骨製品
骨角器
動物骨製
鯨骨製 骨刀
 当時、鯨を捕獲するのはオホーツク人などの北方民族や、南方の海洋民族だけで、一般の縄文人には、たまに打ち上げられるクジラを海岸で捕獲するぐらいだったでしょう。

そこから得られた骨で作った骨刀やアワビオコシなどは貴重品だったでしょう。この鯨骨骨刀は自作か、交易品としての価値を上げた商品だったのだろうか。実に完成度が高い。

 土偶 古屋敷貝塚
生活の安全や多産、豊漁、豊かな実り、病気やけがの回復などの願いから作られたもので、縄文人の精神生活に深く関わっていた。

土偶
元の形が想像できないほどの、
部分品しか残っていない
土偶残欠ですね。
 125貝類・獣骨類
貝類

アサリ・ハマグリ・カキ・アカニシ等
ニホンジカ
下顎骨
鹿角
上下顎骨
イノシシ
鼻骨と牙

骨が壊れているのは、砕いて骨髄などを煮出して食べたことによるのだろう。

あんな固い顎骨が粉々に砕けている。

 127磨製石器
   現在の斧のようなもので、材木や骨などの大きく硬いものを切るときに使われた。
石斧 磨製石斧 石槍

 半円状扁平打製石器
  物をたたき割ったり、すったり(磨ったり)した道具といわれている。
半円状扁平打製石器
 
 130古屋敷貝塚
 131古屋敷貝塚周辺の遺跡分布図
古屋敷貝塚周辺の遺跡分布図 古屋敷貝塚地層標本


 小川原湖周辺の貝塚と遺跡 引用転載「史跡二ッ森貝塚 整備基本構想及び基本計画 七戸町教育委員会 平成30年3月

小川原湖は、面積約63㎢、最大深度 26mで、青森県内最大の湖である。周辺には多くの低地や小川原湖沼群と呼ばれる沼がある。
太平洋の干満に合わせ、湖東北端の高瀬川を海水が行き来するため、淡水と海水が混ざり合う汽水湖である。「宝湖」と呼ばれるほど魚貝類が豊富に生息し、また渡り鳥の中継地点でもあり、豊かな自然に恵まれている。

小川原湖は、縄文時代前期頃は海進により、湖ではなく内湾(「古小川原湾」)であったと考えられている。その範囲は内陸にまで入り込み、二ツ森貝塚はその湾に接していたと考えられる。湖周辺からは多くの貝塚が発見されており、その数は北海道の噴火湾と並ぶ貝塚密集地である。
 ※それだけの人々を養うことのできるとても豊かな湖だったといっている。

小川原湖周辺の貝塚及び動物遺存体出土遺跡
㊱古屋敷貝塚

 132古屋敷貝塚
ストーンサークル 小川原湖の古地形と
遺跡

 ストーンサークル
大森勝山遺跡
ストーンサークルと
岩木山
(青森県西部・津軽)
ストーンサークルの
見取り図
大森勝山遺跡の
環状列石
青森市小牧野遺跡
(青森県中央・海岸部)
岩手県洋野町
西平内Ⅰ遺跡との
(八戸南部・太平洋岸)
ストーンサークルの
対称的共通性

同一文化人が作ったのだろうか。しかし、一方は海岸部、他方は丘陵上で生活環境が全く違う。

 133古屋敷貝塚 前期後半から中期後半(5500~約4000年前)

古屋敷貝塚は、縄文時代 前期後半から中期後半(5500~4000年くらい前)にかけて形成されたものです。
虫神川の沖積地に面した丘陵の標高約32mの傾斜地に位置します。
縄文海進時には遺跡のすぐ下の沖積地まで海であったと思われます。

古屋敷貝塚 古屋敷貝塚遠景 発掘風景
 
 136古屋敷貝塚の貝層 前期後半から中期後半(5500~約4000年前) 人骨の出土
古屋敷貝塚の貝層
ヤマトシジミ(汽水域化)
シカの角・カキ
ホタタテガイ

ハマグリ・アサリ
ヤマトシジミ(汽水域化)
シカの角・カキ
ホタテガイ

円筒
下層→上層式・上層式


上層式→

 137発掘された自然遺物
   貝塚から発掘された自然遺物を分類すると、貝類の他にはイノシシ、シカの骨が多く、魚類・鳥類の骨も見られます。
   また、土器・石器・骨角器なども出土し、このようなことから縄文時代の食生活や道具類などを知ることが出来ます、
発掘された自然遺物
ヤマトシジミ・ハマグリ
アサリ・カキ
フグ科・カサゴ科
ガン・カモ科・キジ科
イノシシ・シカ
 
出土物の一部です。
🔴●の大きさは出土量を表しています。
 
 140むかしの地層  東道ノ上(3)遺跡 青森県上北郡東北町大字大浦字東道ノ上 人骨の出土
現代の地層面 縄文時代中期 縄文時代前期
6000年前

東道ノ上(3)遺跡
 

 150古屋敷遺跡の女性人骨 縄文時代前期
  小川原湖周辺の遺跡からは、フラスコ状貯蔵穴を転用した墓壙が多く見られます。

フラスコ状貯蔵穴を転用 縄文時代の埋葬 古屋敷遺跡からは、
左側臥の屈葬姿勢をとった
20歳前後の女性骨が発見された。

引用

人骨の出土した土壙墓

  古屋敷貝塚は昭和57年5月~6月の発掘調査により、
縄文前期に即する人骨が出土した。

写真の人骨は、身長152cm、20歳前後の女性と思われます。 
縄文時代の埋葬  深さ1.5m、底面の直径1.2~1.3mのフラスコ型ピットの底に帆立貝を敷いてその上に遺体を納め、帆立貝で蓋をしてありました。    副葬品の土器の他に魚骨なども貝殻に混じって出土しています。これらのホタテガイや魚は副葬品とも推定されます。 
人骨の下に敷かれていた帆立貝 東北地方縄文時代前期青森の古屋敷(女性)個体は、東北よりも山陽の中・後・晩期人女性集団に似ている
   引用「小竹貝塚の概要」小竹貝塚=前期後葉6000年前頃500年間営まれた遺跡
・(富山市の)小竹貝塚 1号人骨よりももっと東北縄文時代人女性集団に似ていたのは,北海道の北黄金(女性)と青森の古屋敷(女性)であった。
ちなみに,北海道の北黄金 K13は東北縄文時代人女性集団に対するよりもさらに高い典型性確率[T.P. = 0.98]で中国の安陽青銅器時代人女性集団に似ていることが示された。
また,長野の湯倉(女性)も,比較した男女 10集団の中では,中国の安陽青銅器時代人女性集団に最も類似していた。
  引用「小竹貝塚 1 号人骨と縄文時代中・後・晩期 近隣諸地域」

※小竹貝塚には北方系人の骨格が大挙出土しており、青森を中継地とする北海道や樺太・アムール流域人とも繋がっていたかもしれない。
 
 




  古代

  寒冷地ゆえに、遺跡の連続性がないようです。
  弥生・古墳時代遺跡は現在未発見のようです。



 160 松原遺跡 青森県上北郡上北町新館字松原 奈良時代末頃 集落遺跡


松原遺跡は川去川左岸段丘上に位置し、昭和56年の調査により、土師器を伴う竪穴住居と思われる落ち込みが15軒確認されました。
この住居跡は、奈良時代の末頃に営まれた集落と推定されています。
また、この住居に備え付けられたカマドの跡などから家の入口は、北側を向いて建てられていたと思われます。

※家の入口は風の通り道。北向きなら冬には寒冷な空気が入って室内が冷えてしまう。雪にも閉ざされるだろう。だったらなぜ?


 161
松原遺跡
発掘調査風景
凄い斜面に、棚田の様に住居があったようです。なぜこんな場所を。
奈良時代の松原集落
現在でも山間地に行けばこのような集落はどこにでもある。すると、あの山間集落はこの時代から続いていたのか。

 162上北町の古代 八幡遺跡 奈良~平安時代
八幡遺跡(旧十三社遺跡)は、奈良時代から平安時代にかけての遺跡と推定されます。
この遺跡は松原遺跡から1.5kmの場所にあり、小円墳状のものが十数基確認されていることから、松原集落で生活した人々が築いた古墳とも推定されています。
更にこの遺跡からは鉄製の「蕨手刀」が発見されています。このことは当時の上北町が、律令政府の影響下にあったか、あるいは在地豪族の勢力のシンボルとして着用されていたのか、とも推定することが出来ます。

また、松原遺跡からは土師器の他に糸を紡ぐときに用いる紡錘車や、刃物を研ぐ砥石などが出土しています。

上北町の古代
上北町の古代
八幡遺跡の古墳配置図
八幡遺跡
 




   中世



 163上北町の中世
建久2年(1191)に糠部(ぬかべ)に入部した南部光行(平安後期~鎌倉前期=甲斐国南部郷の支配者)は、三男朝清に七戸地方を与えたことからこの地方を治めたと言われています。(七戸朝清
            鎌倉幕府成立は1192年、近年は1185年とされている。

上北町には、中世の歴史を物語るものとして四つの館跡が確認されています。【戸館・赤平館(楢館)・二津屋(エゾ館)・白旗館(館越)】
館は河川や沼沢などに面した丘陵や段丘などの自然地形に、堀や土塁などを築いた小規模な「とりで」で、その地方の有力者が住んでいたところです。
また、蝦夷館であったところに、中世にはそのまま、あるいは手を加えて利用したとも推定されています。

なお、現在は山林や畑地、宅地などに利用されています。

上北町の中世
遺跡の位置図
四つの館跡
戸館
赤平館(楢館)
二津屋(エゾ館)
白旗館(館越)
戸館・二津館の構造 戸館
東郭・中廓・西郭からなり、周囲に堀が巡らされている。

二津屋館(蝦夷館)
小規模な館跡で丘陵部や丘陵突出部にも堀が見られます。
 赤平館(楢館)
東郭・西郭の譜たちの郭で構成され、西郭には祠が建てられ、堀は空堀です。また、堀跡を利用した農道、私道が見られます。
白旗館(館越)
丘陵付近には二段の郭らしいものがあり、その南方に、堀跡らしいV時溝があります。
更に、近くには常念塚と呼ばれるマウンドが見られます。また、大浦為信はこの地の出身という言い伝えもあります。
 




  近世




 164上北町の近世

 南部藩の行政組織
南部藩は広大な地域を治めるため、特別な行政組織、「郡」その下に「通」さらに「村」を置く制度がありました。(※通の意味が分からない)
「郡」は藩制初期、北、三戸、二戸、鹿角、九戸、閉伊、岩手、柴波、稗貫、和賀の十郡に分けられ、
上北町は北郡の七戸通に組み入れられ、七戸代官の統括下に置かれていました。

邦内郷村志」によれば、大浦村、上野村、新館の三カ村の記述が見られます。

上北町の近世 正保4年(1647)の南部領内総絵図
南部藩の
地方行政組織
南部藩の区分
一戸当たりの持高比較
激しい貧富の差があったようです
 



   近代


 166刀剣の接収
赤羽刀
軍によって接収された刀剣
赤羽刀(接収刀剣類)
 
 170その他展示物
南部家文所の複製 土製紡錘車・砥石
奈良時代・松原遺跡
坏形土師器
ロクロを使わず内黒(うちぐろ)と言って内面が黒く、ヘラで磨かれた素焼きの土器。

奈良時代 松原遺跡
甕形土師器
この土師器は、すすがついて黒く変色しているので、カマドにかけて鍋のように使われたことがわかります。

奈良時代 八幡遺跡出土

土師器は耐熱性があり、火に掛けられられる。須恵器は火に弱く置き物である。


 
 
 
 




 300民俗展示


 302
上北町歴史年表

郷土の有名人
上北町近代の歩み 人集めにはこのようなものも置かねばならない実情もある


 305暮しと伝統文化



脚ふみ水車

農具 田んぼの水入れ。近所にもあった。全国展開していたか。

農家の土間

むしろ編み機
農家の居間に
沢山の生活道具か

長火鉢・わらじ・藁草履・雪下駄

炭火アイロン・囲炉裏・石臼

一斗升・羽釜・桶・餅花

水がめ等
火棚
かまど
 307農具、織機
織機

 309天狗杉巨根
この杉の巨根は、上北町八幡にある新館神社の境内にあった通称「八幡の天狗杉」の根である。
主例800年といわれていたが、去る平成3年9月の台風19号の大風により折損したため伐採されたものである。

新館神社は鎌倉時代初期の正治元年(1199)に創建された八幡宮で約800年の歴史を有するが、この天狗杉は創建当時に植えられたものと考えられ、それ以来、神社の御神木として上北一円の氏子、崇敬者から信仰されてきたものである。

この度、天狗杉の巨根を保存し、町の歴史として後世に残したいとして、上北町住防企業体の人たちが神社から寄贈を受け、自ら発掘して運搬、銘木加工して町に寄贈したものである。

資料館前庭に東屋か
と行ってみると
巨大な切株があった。 座るところがないじゃないか、、、 とは、言わなかった。 凄く大きな切株だ