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 発掘された日本列島2023 2023.10.26yamanashi

  発掘された日本列島2023展山梨県立考古博物館
   山梨県立考古博物館地域展

    山梨県甲府市下曽根町923
    055-266-3881 月休 撮影可

 
交通 JR甲府駅からバス1日3本 8時・16時・18時
タクシー JR甲府駅から9km¥4500
タクシー JR東花輪駅~6km¥2500

近隣観光地 昇仙峡 富士山河口湖
近隣博物館 釈迦堂博物館、山梨県立博物館

 
 目次

20博物館駐車場
23外庭
30山梨県立考古博物館

70エントランス展示
71曽根丘陵古墳群と古墳時代前期
73甲府盆地の鉄製品
75甲斐における石製品の生産・流通
76鏡から見た曽根遺跡
81縄文金生遺跡出土品
85中世の城郭瓦
89江戸系と地元若草の瓦

100地域展(パネル展示)
110縄文時代
111 金生遺跡
120古墳時代
121 大丸山古墳
123 銚子塚古墳
124 丸山古墳
130奈良時代
131 甲斐国分寺跡
133 甲斐国分尼寺跡
140中世
141 武田氏館跡 
143 甲斐金山遺跡
145 新府城跡
151 要害山
153 勝沼氏館跡
161 白山城跡
163 谷戸城跡


2000常設展示
2013ナウマンゾウ

2050旧石器時代
2051礫群
2055横針前久保遺跡
2057天神堂遺跡
2061丘の公園14番ホール遺跡

2100縄文時代
2110早期土器
2117前期土器
2120中期
2121埋甕

2130早~後期土器
2140大型土器
2143水煙文土器
2160釣手土器

2170一の沢遺跡
2180酒呑場遺跡

2190縄文土器
2197女神土器
2199有孔鍔付土器
2210土器群
2230装身具
2241土偶


2300弥生時代
2311稲作と米作り
2321前期・中期土器
2323上の平方形周溝墓
3340容器形土偶
2360弥生人の祈りと戦い

2400古墳時代
2410銚子塚古墳
2440須恵器の始まり
2450中期の古墳
2460後期・終末期古墳
2466稲荷塚古墳
2470古墳の変遷
2480後期古墳装飾品

2600奈良時代
2611役人の机
2613平城京木簡
2620甲斐型土器
2630国分寺・国分尼寺
2634寺本廃寺

2700平安時代
2713土馬
2721刻書土器
2730柏尾山経塚
 
2800中世
2810鎌倉時代の村
2820木製品
2833大師東丹保遺跡出土物
2840泥塔
2860お墓のつくり

2900近世
2911 甲府城跡
2913甲府城下古地図
2917明治・大正

2931豪族屋敷 金生遺跡

3000甲斐風土記の丘
3004かんかん塚
3005丸山塚古墳
3011銚子塚古墳
3023研修センター
 
 
 20博物館駐車場
博物館周辺遺跡案内図 古墳広場
銚子塚古墳
丸山塚古墳
石清水遺跡
かんかん塚
杯塚・日本庭園
考古博物館
埋文センター
古代の広場
甲斐風土記の丘
曽根丘陵公園
自然観察路(斜面急坂)
鍋弦塚
稲塚古墳
研修センター
東山南遺跡
歴史植物園
東山北遺跡
上の平遺跡
方形周溝墓
発掘された日本列島2023
 23外庭
※「甲斐風土記の丘」内に建設され、広大な敷地面積を持つ博物館です。しかし、大変な人手と資金を投入して隅々までよく整備され、ゴミ一つ落ちていない。
 特に、古墳広場の山の急斜面までよく手入れされ、雑草も刈り取られ道もよよく整備され、探索する人にやさしい公園でした。
 常設展示は、特別展のために、場所を狭めて行なわれていました。
 

 30山梨県立考古博物館
様々な発掘によって、これまで多くの重大な発見がなされてきました。 現在の 山梨県域には約3万年前ごろの旧石器時代に人類が住み始め、その後、綿々と 人類の営みが確認されています。 山梨県立考古博物館は、 山梨県内から出土した
考古資料から日本列島や山梨の歴史について展示をしています。 考古博物館が所在するのは、
遺跡や古墳が数多く存在し、緑豊かな「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」です。数万年に渡る人類の営みの 背後にあった、 自然の営みを今に伝えています。
山梨県立考古博物館は、展示を通じて歴史豊かな山梨の古代文化に関する知識を深め、 教養の向上を図り、 県民文化の発展に寄与するため、 1982年にオープンしました。 収蔵品は20万点以上を数え、 過去の山梨に 生きた人々を考古資料から読み解きます。
館内は旧石器時代から19世紀にいたるまでを通史的に展示していますが、特筆すべき点として縄文時代の 展示が挙げられます。 芸術性が高く精神性に富んだ縄文土器は国内屈指のコレクションを誇り、日本遺産 にも認定されています。
また、野外には東日本最大級を誇る甲斐銚子塚古墳や、方形周溝墓 125基を数える国内屈指の集団墓地、上の平遺跡など、 弥生時代 ~古墳時代にかけての数多くの古墳や遺跡が残されており、これ らの出土品も博物館内で展示されています。

山梨県立考古博物館
 
 60館内展示
 61
入口正面 エントランス
 70

 70エントランス展示
 71
曽根丘陵の古墳群と古墳時代前期
 -国指定史跡銚子塚古墳附丸山塚古墳、国指定史跡大丸山古墳-

山梨県立考古博物館が位置する、「曽根丘陵」には 弥生時代から古墳時代にかけての大小150以上の 墳墓や、遺跡が集中しています。これらの中核は、 古墳時代前期に連続して築かれた 100mを超す大 型前方後円墳たちです。 今日、銚子塚古墳や大丸 山古墳などが国指定史跡となり、その多くは甲斐 風土記の丘・曽根丘陵公園として整備され、 歩く ことができます。 更に近年の研究は、こうした大 型前方後円墳の築造にふさわしい、先進性や独自 性を明らかにしています。 以下では、これらの検 討の中核資料となっている銚子塚古墳や大丸山古 墳の出土品から、倭王権の同盟者として振る舞っ た地域権力のあり方を読み解きます。
曽根丘陵の古墳群と古墳時代前期
大丸山古墳
前期の大型古墳が集中する中道古墳群 古墳と年代
 
 73甲府盆地の鉄製品
大丸山古墳の豊富な鉄製品
日本列島において甲冑が出現するのが古墳時代前 期のことです。 この時点でいくつかの技術系譜が
おびがねしきた。
存在していますが、 古墳時代中期の帯金式短甲の 型になったと思われるため、 特に注目されるの
たてはぎいたかわとじたんこう
矧板皮綴短甲です。 現在までに日本列島内で 3例しか確認されておらず希少な上、 大丸山古墳 の発掘が最も古かったため、研究史的には非常に 注目されました。 当初は渡来系とされてきました が、近年研究が進むにつれ、日本国内はもとより 朝鮮半島の資料等にも検討が加えられ、 大丸山古 境の資料はその特異性が強調されています。 特に 縦長の板を使用するという共通点を除けば、他と の共通点が見いだせないため、小規模で試行錯誤 的な生産体制が想定されます。 鉄製柄付手斧など とあわせて、甲府盆地で小規模ながら鉄製品の生 産が行われていたのかもしれません。

甲府盆地産!? 注目集まる鉄製柄付手斧(てつせいえつきちょうな)
鉄製柄付手斧(てつせいえつきちょうな)は、木材等を加工する手斧を模したもので、武威 を示す武人的有力者に好まれた朝鮮半島系の儀器の一つです。 大丸山古墳の出土品は、 現状最古のものと位置づけられていま すが、 この製作をめぐっては、近年甲府盆地での製作を想定し た新たな研究結果等が示されています。 それによれば、 甲府盆 地の有力者が倭王権を介さず朝鮮半島南部 (加耶)と交流した 結果、 この手斧等が短期的に生産された可能性があります。

大丸山古墳の豊富な鉄製品
竪矧板革綴短甲(たてはぎいたかわとじたんこう)
大丸山古墳
竪矧板革綴短甲(たてはぎいたかわとじたんこう)
(複製)古墳時代前期
大丸山古墳
山梨県立考古博物館蔵
(現品は東京国立博物館蔵)
甲府盆地産?
注目集まる
鉄製柄付手斧(ちょうな)
鉄製柄付手斧(ちょうな)
鉄製柄付手斧複製
古墳時代前期
大丸山古墳
山梨県立考古博物館蔵 (現品は東京国立博物館蔵)
大丸山古墳の豊富な鉄製品
鉄製農具(複製)

鉄製農具(複製)
古墳時代前期
大丸山古墳 山梨県立考古博物館蔵
(現品は東京国立博物館蔵)

 75甲斐における石製品の生産・流通
山梨県の特産品である水晶は、 近年、 水晶の原産地推定手法が提 案されたことから、その利用が古墳時代にも盛んになされてきた ことが科学的に裏付けられています。 特に古墳時代前期の水晶製 勾玉は、甲州市竹森鉱床産の水晶が多く用いられ、現状、北は宮 城県入の沢遺跡、 西は静岡県若王子1号墳など、 東海 ~ 東北にか けて数多くの山梨県産水晶を用いた勾玉が発見されています。 甲 斐銚子塚古墳からはこの時期の日本列島で最多となる5点の水晶 製勾玉が出土しており、 甲斐の大型前方後円墳の被葬者はこうし た希少財のやりとりを 倭王権に端を発する形ではなく自ら取り 仕切ることができたものとみられます。

甲斐における石製品の生産・流通
古墳時代前期における東日本の水晶製勾玉
山梨県周辺の水晶鉱床
山梨県産水晶が供給された生産地遺跡
山梨県産水晶製勾玉出土地
非山梨県産水晶製勾玉出土地
未分析の水晶製勾玉出土地
水晶の勾玉 水晶製勾玉
甲斐銚子塚古墳
水晶の勾玉は、表面に赤色顔料が
付着しているため、赤く見えます。 残りの4点の勾玉は現在東京国立 博物館が所蔵しています。
御岳田遺跡の水晶製玉類 未製品
東日本の水晶を用いた玉作り遺跡は 社軍神遺跡(長野県)、反町遺跡(埼玉県)前原遺跡(埼玉県)御岳田遺跡((山梨県)などで確認されており、 この全てに山梨県産水晶が供給されて います。

 75a車輪石・石釧
車輪石や石釧は、腕輪形石製品と呼ばれる、古墳時代前期を代表する副葬品の一つです。 貝の腕輪を模して作られますが、 甲斐銚子塚古墳出土品は、オリジナルデザイン化が著 しく進んでいるものがあるため、在地生産が疑われています。 甲府盆地でも御岳田遺跡(甲 斐市) や末法遺跡 (甲斐市) などで水晶や緑色凝灰岩を用いた玉作りが知られており、 こうした石製品なども生産されていたのかもしれません。

車輪石・石釧 (複製) 車輪石・石釧 (複製)
古墳時代前期
甲斐銚子塚古墳
山梨県立考古博物館蔵
(現品は東京国立博物館蔵)

 76鏡から見た曽根遺跡
甲斐銚子塚古墳からは、三角縁神獣車馬鏡、 倣製三角縁神獣鏡、 内行花文鏡をはじめ、5 面の鏡が出土しています。 また、 大丸山古墳 からも鏡3面が出土しています。 甲斐風土記 の丘周辺は、複数の鏡を副葬する古墳が多く、 東日本レベルで見ても多数の鏡を集積した地 域と言えそうです。 また後漢鏡や魏晋鏡など、 比較的古い鏡式が目に付きます (常設展に展 示しています)。 鏡は、倭王権を通じて各地 に配布されるものと考えられ、特に政権中枢 との距離を測る指標の一つです。そのため、 風土記の丘周辺の勢力は、その時々の王権中 枢から、かなり近い位置にいたことが想定されます。

鏡から見た曽根遺跡
変形画文带神獣鏡(複製) 古墳時代前期
甲斐銚子塚古墳 山梨県立考古博物館葳
(現品は東京国立博物館蔵)
三角縁神獣車馬鏡 (複製) 古墳時代前期
甲斐銚子塚古墳 山梨県立考古博物館蔵
(現品は東京国立博物館蔵)
内行花文鏡(複製) 古墳時代前期
甲斐銚子塚古墳 山梨県立考古博物館葳
(現品味東京国立博物館藏)

 80博物館案内
釈迦堂遺跡 企画展

 81金生遺跡出土品
金生遺跡
 金生遺跡 有茎石鏃(黒曜石製)
 
無茎石鏃(黒曜石製)  石錐
 
石槍
 
 
削器 磨製石斧
砥石
石錘
石剣・独鈷石 撥形(ばちがた)打製石斧
 83
ミニチュア土器
縄文晩期
金生遺跡
ミニチュア土器
縄文晩期
金生遺跡
配石遺構とミニチュア土器出土状況

 85中世の城郭瓦
築城期の軒平軒丸瓦
文禄・慶長年間に築城された甲府城からは、 連珠に三巴紋が施される軒丸瓦と、三葉均 整唐草文が施される軒平瓦のセット関係が指摘されています。 これらは中世瓦の特徴を持 つものが多く、 築城初期の羽柴・加藤領有期に位置づけられるものと考えられ、 本丸周辺 から集中して発見されています。また、これらとは別に違い鷹羽の家紋瓦と五葉均整唐草 文が施される軒平瓦がセットとなるものがあります。こちらは浅野家の家紋であることから領 有期がはっきりしてます。 これらは稲荷曲輪周辺から多く発見されており、本丸周辺から周 囲に向けて建物が増加していった様子がわかります。

軒丸・軒平瓦
築城期の軒平軒丸瓦

甲府市 文禄・慶長
羽柴・加藤家 築城期
軒丸・軒平瓦
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵

吊紐圧痕轡紋の刻印
 胴部の内側に残る太縄による吊紐圧痕は、中世瓦の特徴とされており築城 期の三葉均整唐草文の軒平瓦と共伴していることから、 築城初期に用いられ た瓦と考えられます。
 轡紋の刻印が打たれた丸瓦は、同種のものが安土城か らも発見されており、瓦工人集団である奈良衆 (南都系瓦工人)の関与が垣 間見えます。
後者は五葉均整唐草文の軒平瓦と違い鷹羽家紋瓦と伴出して おり、 浅野家との繋がりが考えられます。

吊紐圧痕と轡紋の刻印 吊紐圧痕と轡紋の刻印

甲府市
羽柴・加藤家 文禄・慶長 築城期
吊紐圧痕付丸瓦
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵
 甲府市 浅野家
文祿·慶長 築城期

刻印付軒丸瓦(轡文)
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵
刻印付軒丸瓦(轡文)
軒丸・軒平瓦(浅野家)

甲府市 浅野家 文禄·慶長 築城期
刻印付軒丸瓦(轡文)
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵

甲府市 浅野家 文禄・慶長 築城期
軒丸・軒平瓦(浅野家)
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵 
 87
 甲府市 文祿·慶長 築城期
金箔付家紋瓦(違い鷹の羽紋)
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所藏

 89江戸系と地元若草の瓦
 加賀藩下屋敷から発見されている金箔瓦類似軒平瓦と、 左右に子葉が施される軒平瓦 は御府内(江戸)を中心でしか発見されていない珍しい瓦です。将軍家の官窯で焼かれた か、その職人が従事したものと考えられ、 甲府城の格式の高さを物語っています。 これらは 17世紀前半から18世紀前半頃まで使用されています。
 19世紀に入ると、東海系の影響を 受けた瓦が使用され、発注状況から地元若草で焼かれた瓦と考えられます。丸と平が独 立した本瓦葺から、 一体化した桟瓦葺が普及してくるのもこの頃からです。

江戸系と地元若草の瓦
江戸系と地元若草の瓦
史跡 甲府城跡出土品

東海系モチーフの若草瓦窯軒平瓦
子葉が付いた江戸系軒平瓦
加賀藩下屋敷から発見された金箔瓦類似軒平瓦

滴水瓦(てきすいがわら)
瓦当面が倒三角形の軒平瓦を滴水瓦といいます。 慶長期以前では瓦当面の接合角度 が鈍角ですが、その後に和瓦化したものは直角となります。 特に、文禄・慶長の役に参戦 渡海した大名が築いた城郭に用いられるケースが多く確認されておりますが、 江戸以降は 本瓦の一種として親藩・譜代クラスの有力大名間で使用される傾向があります。 甲府城で は16世紀末から18世紀代に位置づけられるものが見られ、 城内各所から発見されている ことから櫓など大型建物で用いられたものと考えられます。

滴水瓦 甲府市 近世 江戸期
てきすいがわら
滴水瓦(唐草文)
史跡 甲府城跡
山梨県立考古博物館所蔵
 
 


 100地域展示(パネル展示)

 100
 
110縄文時代

 111金生遺跡 主な時代 縄文時代
 所 在 地  北杜市大泉町谷戸字金生 97-2 ほか
 指定年月日 昭和58年2月7日
 所有者または管理団体 北杜市

史跡の概要
金生遺跡は、 八ヶ岳南麓の標高約770m の尾根 上に立地する縄文時代後期から晩期 (今から約 4,500~2,500年前)にかけての集落跡です。圃場
整備に伴う発掘調査で、 マツリをしていたと考え
られる巨大な配石遺構や、数多くの住居跡が発見
されました。 土偶、 石棒、 石剣などのマツリの道
具や、耳飾りや垂飾りなどの装身具 (アクセサリー) も数多く出土し、 縄文時代の終わり頃、 文化が衰 退していたと考えられていた八ヶ岳南麓の歴史観 を覆す、大きな発見となりました。

史跡の概要
金生遺跡公園
ナビゲーター
ちゅーた

土偶なのか土器なのか よくわからないふしぎ な土偶。
積みで作ら れており、中が空洞な 「中空土偶」 なので
ちゅーたと呼ばれてる。

巨大な配石遺構
この遺跡では、配石遺構がいくつかみつかっています。 なかで も1号配石遺構は特に巨大で、 東西 80m、南北15mもあります。 お墓がいくつか作られた後、その周辺に石を敷き並べられ祭壇状 になりました。 いくつも円形や方形に石が並べられ、一部に石棒 が置かれていました。 石の中には重さ1トンを超す巨大な花崗岩 があり、遠くから運ばれたことがわかっています。
かこう がん

巨大な配石遺構
円形組石と石棒と巨大な花崗岩
1号配石
金生遺跡ライブ
金生遺跡公園では、
毎年当時のお祭り風景を再現する
金生遺跡ライブを開催しています。 

異形の土偶
金生遺跡には奇抜な形をした土偶があります。 体の中が空洞になっているので 「中空土偶」 と呼 ばれています。 顔のすぐ下が下半身となり、 上半 身が省略されているこの形は、今のところ他の遺 跡にはなく、金生遺跡独自の土偶です。
巨大な1号配石遺構とは対照的な、 小さな2号 配石遺構から出土しました。 中空土偶やその他の 金生遺跡の出土品は、近くの北杜市考古資料館で ご覧になれます。

異形の土偶 中空土偶 中空土偶 出土状況 2号配石 遺物出土状況

石棒・土器・土偶
 

 120古墳時代
 121大丸山古墳 主な時代 古墳時代

  所 在 地  甲府市下向山町
  指定年月日  平成25年10月31日
  所有者または管理団体  山梨県 (一部個人)

 ナビゲーター
 タンコーくん
  大丸山古墳から出土した短甲 (鎧)。 他にはない唯一無二のプロポーション が誇り。本名は竪矧板革綴短甲。
   堅い体で持ち主を守ってくれるたのもしい存在。

史跡の概要
大丸山古墳は、4世紀中頃に曽根丘陵東山に造られた、 墳丘長99mもしくは120m、高さ約10mの前方後円墳です。 昭和4年の地元住民による発掘によって、 花崗岩で出来 た組合式石棺の上に安山岩製の竪穴式石室をもつ埋葬施設 がみつかりました。 上部の竪穴式石室では古い鉄製の甲や 鉄刀・鉄鏃、鉄製柄付手斧などがみつかっています。 下部 の組合式石棺からは男女2体の人骨とともに、 石枕や銅鏡 などの副葬品が発掘されています。
銚子塚古墳や丸山塚古墳に先行して中道地域を治めてい た有力者の墓と考えられています。


史跡の概要
曽根丘陵の古墳 上の平遺跡
風土記の丘研修センター
東山南遺跡 東山北遺跡
稲荷塚古填 鍋弦塚
大丸山古墳
古博物館構內古墳
杯塚 岩清水遺跡 丸山塚古墳 銚子塚古墳
考古博物館 埋文センター
国指定史跡の範囲
曽根丘陵の古墳


古墳から見つかったもの
昭和4年に見つかった資料は、東京帝室博物館 (現在の東京国立博物館) に引き取られ、 所蔵されています。これらは現在 も古墳時代を研究する上で重要な資料と考えられています。

古墳から見つかったもの
昭和4年の大丸山古墳の発掘の様子

後円部に人がいるのがわかります。
竪穴式石室(上部)
組合式石棺(下部)
石室イメージ 石室イメージ
ボクがいたのは上の方(竪穴式石室)
横から見るとこんなかんじ↓

 竪穴式石室(上部)
 組合式石棺(下部)

竪矧板革綴短甲(たてはぎいたかわとじたんこう)
出土した竪矧板革綴短甲は朝鮮半島との繋がりが認めら
れており、全国で他に紫金山古墳(大阪府)と奥の前1号 墳 (岡山県) の2例のみ出土しています。その中でも、大丸山古墳出土の竪矧板革綴短甲は古いタイプであると考えられています。
 僕はどこで 生まれたん だろう........
 大丸山古墳から出土した竪矧板革綴短甲 と鉄製柄付手斧は、甲府盆地でつくられ たとも考えられているよ

鉄製柄付手斧(ちょうな)
大丸山古墳には鉄製武具に加え、鉄製農工具も多く副葬されていました。鉄製柄付手斧も竪矧板革綴短甲と同様、朝鮮半島との繋がりが認められ、国内で最も古い型式のひとつであると考えられています。

青銅鏡
大丸山古墳からは、3つの鏡がみつかっています。 いずれも石棺に納められていました。
左下:八禽鏡(はつきんきょう)
右上:三角縁三神三獣鏡

石枕 (複製)
石棺から発掘された石枕。収められていた2人のものと思われます。
 ふたつのくぼみに頭を置くのかな? でも位置が近くて、一緒に寝るのは難しそう......。

竪矧板革綴短甲 竪矧板革綴短甲 鉄製柄付手斧
青銅鏡 左下:八禽鏡(はつきんきょう)
右上:三角縁三神三獣鏡
石枕

 123銚子塚古墳附丸山塚古墳(ちょうしづかこふんつけたりまるやまづかこふん)
所 在 地  甲府市下曽根町
指定年月日 昭和5年2月28日
所有者または管理団体 山梨県

主な時代 古墳時代
ナビゲーター  ハニワーズ
銚子塚古墳から出土した埴輪たち。 かつては古墳に眠っている御主人様を守る ために古墳の上に立っていた。左から朝顔形埴輪、壺形埴輪、円筒埴輪 と呼ばれている。しばらく暗い土の中に埋まっていたので 久しぶりに3体で会えてとっても嬉しい。

史跡の概要
 銚子塚古墳 丸山塚古墳は、 曽根丘陵の東山と呼ばれる台地の北 斜面の一角に位置します。 この地域は後に中道往還として駿河と甲 斐をつなぐ道として発展することからもわかるように、 東海地方か らの文化の入口にあたり、 弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が 集中して残されています。
 銚子塚古墳は、4世紀後半に造られた墳丘長169m 高さ15mの、 古墳時代前期においては東日本でも最大級の前方後円墳です。古墳 からは、昭和3年に銅鏡や腕輪形石製品が、 整備に伴う発掘では埴 輪などがみつかっています。 また、マツリに使用したと考えられる 木製品も出土しました。
 隣接する丸山塚古墳は、5世紀初め頃に造られた直径72m、高 さ11mの、山梨県内で最大の円墳です。石室からは銅鏡や石釧、 鉄製の剣や矢じりなどが発掘されました。 銚子塚古墳被葬者の後を 継ぐ有力者の古墳と考えられます。

銚子塚古墳附丸山塚古墳
施設の概要
整備された銚子塚古墳附丸山塚古墳全景 (平成18年度撮影)


 古墳から見つかったもの
 銚子塚古墳
水晶製勾玉
山梨県産水晶の勾 玉は、宮城県や静 岡県の古墳からも みつかっています。

三角縁三神三獣鏡 (複製)
中国の鏡を模して日本で作ら れた鏡です。
銚子塚古墳からは鏡が 5つ出土しているんだ けど、 東日本の前期の 古墳でこんなにたくさ んの鏡が副葬されてい るのは珍しいんだよ!

 古墳から見つかったもの
銚子塚古墳
水晶製勾玉
 
三角縁三神三獣鏡   

円筒埴輪・壷形埴輪
朝顔形埴輪
円筒埴輪・壺形埴輪朝顔形埴輪 円筒埴輪・壺形埴輪朝顔形埴輪
銚子塚古墳の墳丘上に並べられていました。
立柱  出土した立柱
(県指定有形文化財) 
復元された立柱    周溝からは、立柱も見つかっており、銚子塚古墳の後円部に復元されています。
加工に使う鉄斧と手斧の復元から行い、 実物と同じスギ材を使って古代の木工技術で加工されています。
立柱の復元は全国的にも珍しい取り組みでした。
どこにあ るか探して観察してみてくださいね!

腕輪形石製品 腕輪形石製品(複製)
周溝から見つかった木製品は 図のように組み立て、マツリ で使用したと考えられます。 この時代の古墳で祭祀用の木 製品がみつかるのは全国的に も貴重な例です。
発掘された木製品
復元イメージ

 124丸山塚古墳
丸山塚古墳 画文帯環状乳
四神四獣鏡 (複製)
石室の様子
郷民擁護碑・丸山之碑
郷民擁護碑・丸山之碑 (県指定有形文化財)
郷民擁護碑は、江戸時代に、丸山之碑は、明治42年に建てられた碑で、
どちらも「丸山塚古墳を大切にしな ければいけない」 という旨が書かれ ています。
先人たちが丸山塚古墳を 守ろうとしたことがわかる貴重な記 録です。

整備される前の古墳
 史跡整備が行われるまで、 銚子塚古墳 丸山塚古墳とその周辺は畑として開墾されていました。 また、 銚子塚古墳は伊勢塚とも呼ばれ、昭和3年に伊勢講のための握舎(あくしゃ)を建てることになった時、 石室が発見されたという経緯があります。 その後、 昭和58年から昭和60年にかけて整備に伴う発掘調査が行われその後公園として現在の姿に整備されました。 銚子塚古墳に建 てられていた握舎や丸山塚古墳の墳頂部にあった碑などは、 古墳の下に移設され現在も残されています。
 整備の前、このあたりは養蚕が盛んだったんだ〜。 だから銚子塚古墳とその 周りはほとんどが桑畑だったんだよね〜。
 そういえば後円部にはウメ畑あっ たよ~。 食べたかったな〜。

整備される前の古墳 銚子塚古墳整備前全景(昭和 58 年頃)
丸山塚古墳整備前全景(昭和58年頃)

 130奈良時代

 131甲斐国分寺跡  主な時代 奈良時代~平安時代

 所 在 地   笛吹市一宮町国分
 指定年月日  大正11年10月12日
 所有者または管理団体  笛吹市

史跡の概要
 史跡甲斐国分寺跡は、 国分寺建立の詔によって甲斐国に造られた 国分寺です。 甲府盆地中央部のやや東よりに所在し、 金川により形成された扇状地の上に立地します。
 南から南門・中門・金堂・講堂・僧房が一直線に並び、金堂から中門にかけて回廊が配置され、 東回 廊の内側に塔が建てられました。

甲斐国分寺跡 伽藍イメージ図 古代甲斐国(現山梨県)
鬼面鬼瓦
出土軒丸瓦軒平瓦
これまでの指定により、
甲斐国分寺跡・ 国分尼寺跡あわせて約 76,000m2を超える 範囲の保護と管理・活用が行われています。 甲府盆地を囲う美しい山々の眺望や寺院 地の広がりを体感できることに加え、周囲 の農地景観と調和のとれた独特な空間を楽 しめる史跡となっています。

 132甲斐国分寺を見てみよう  ~伽藍配置~
甲斐国分寺を見てみよう
講堂
 
 甲斐国分寺跡の最大の特徴は、豊富な 石材によって装飾が施されたことです。 発掘調査によって、 金堂や講堂といった 主要な建物の正面に、 立派な石敷が敷か れたことが明らかになり、 その様子から、
『石の国分寺』 と呼ばれています。
講堂跡
お坊さんたちがお経を読み、
講堂正面階段と石敷 
 修行をする建物です。 
 
金堂

本尊を安置する建物
塔と共に寺院を構成する重要な建物
金堂跡 金堂跡正面敷石

  
 露盤 露盤
塔の最上屋に設置された相輪の根本に置かれた露 盤です。 石製で、 重さ約2.1トンあります。
  塔跡
甲斐国分寺のシンボルとなる建物で、中には 『金光明最勝王経』というお経が納められました。
回廊跡

令和4年度の調査で、回廊の礎石が発見され、回廊の南角が確定しました。 
軒先瓦 金堂跡で出土した軒先の瓦。
蓮華や同心円の文様がある。
 133
甲斐国分尼寺跡 主な時代 奈良時代~平安時代

所 在 地  笛吹市一宮町東原
指定年月日  昭和24年7月13日(平成13年1月29日、 平成30年2月13日追加指定)
所有者または管理団体 笛吹市

史跡の概要
史跡甲斐国分尼寺跡は、 国分寺と同じく国分寺建立の詔によって甲斐国に造られた尼僧が修行するための施設です。 甲斐国分寺跡の約500m北方に立地し、南から中門・金堂・講堂が一直線に並び、金堂から中門へ回廊が配置されたと想定されます。 現在は、当時の金堂・講堂の柱を支えた礎石を見学することができます。

甲斐国分尼寺跡 遺跡の概要
甲斐国分尼寺
伽藍配置
甲斐国分寺・国分尼寺跡位置図

甲斐国分尼寺跡
講堂・金堂
築地塀の調査
 発掘調査により、寺域を区画する築地塀と溝が検出されています。それにより、寺院の範囲は約180m四方に区画されていることが明らかになり、現地では、往時のお寺の範囲を体感することができます。
 134書土器コレクション
甲斐国分尼寺跡では、様々な墨書土器が出土しています。 墨書土器に書かれた文字は、古代の甲斐国の様子を知るための手がかりとなります。 今回はその一例を紹介します。

「法寺」「花寺」は国分尼寺の
正式名称である「法華滅罪之寺」 を省略したもので、墨書土器が 発見された場所が国分尼寺であ ることを裏付ける材料となって います。
書土器コレクション 墨書「法寺」
墨書「花寺」
墨書「小林」
墨書「ゆ」
墨書「瓦」
墨書「奉」
 

 140中世
 141武田氏館跡    主な時代 戦国時代
 ナビゲーター
 かわらけ君
  本名 「かわ田らけ信」。 武田菱が輝く鎧に身を包み、 右手に山梨名産のぶどう、 左手に甲州金を持っています。 武田信玄公に憧れ、
   武田氏館跡 甲府市武田氏館跡歴史館 歴史館で下働きをしています。 非公式ゆるキャラ

 所 在 地   甲府市古府中町、 屋形三丁目、 大手三丁目
 指定年月日  昭和13年5月30日
 所有者または管理者 甲府市

史跡の概要
武田氏館跡は、戦国大名武田氏の城館跡で、 甲斐の守護武田信虎が永正16年(1519)に館を築き、 信玄、勝頼の武田三代が約62年間居館としました。 中世を代表する虎口構造、その城館と城下町、詰城がセットをなしていることが特徴です。

館跡の構造は、二町四方の方形単郭の主郭(現・武田神社境内地)を中心として、周囲に付属の曲輪群が展開しています。戦国大名武田氏が滅亡し、織豊政権(織田信長、豊臣秀吉の政権)の統治拠点に替わると、大手の外曲輪や梅翁曲輪が増設されるなど、武田期と織豊期の遺構が複合した遺跡としてもみどころがあります。

武田氏館跡
武田氏館跡 全景 史跡の概要

 142武田氏館跡のみどころ
来訪者に史跡武田氏館跡に関心を持ってもらい東日本最大級の規模である戦国期城館跡を巡ってもらうため、 平成19年度から継続して整備工事を実施しています。 堀や土塁、そして石積が良好に残り、その城下にも街路の痕跡など多くの遺構 が残っています。 歩いて戦国大名武田氏の館空間、 城下を体感してみてください。

武田氏館跡のみどころ
武田氏特有の築城技術に関心を抱いてもらうため、
良好に形態が残っている西曲輪の枡形虎口を修理しました。
武田氏館の見どころ
西曲輪 北桝形虎口  西曲輪 北馬出
発掘調査説明会 
     
   西曲輪 南桝形虎口
石塁
  大手土橋 石積     
梅翁曲輪 曲輪配置図
※現地形・調査成果・絵図資料による復元図
武田氏(躑躅が崎館)
東側の大手門周辺を整備し史跡公園として公開しています。
大手 馬出 石塁
↑梅翁曲輪 土塁・堀
武田氏滅亡後の織豊政権が増築した
梅翁曲輪の土塁・堀を整備しました。 
曲輪配置図  ↑主郭(現・武田神社)の堀と土塁  ↑武田氏館は躑躅が崎館とも呼称されます。由来である「躑躅が崎」の先端には 信玄が物見に訪れた伝承地があり、 そこからの館跡と城下の眺望は絶景です。
 
↑大手 馬出 石塁
武田氏館の正面性を顕在化するため、
主郭東側の大手門周辺を整備し史跡公園として公開しています。
 
 

 143甲斐金山遺跡 主な時代 戦国時代~江戸時代
黒川金山 所 在 地 甲州市塩山上萩原
指定年月日 平成9年9月2日
所有者or管理団体 東京都
中山金山 所 在 地 身延町 毛無山の山腹
指定年月日 平成9年9月2日
所有者or管理団体 身延町
ナビゲーター
もーん父さん
父さんらしい73ヘアと 大きなおめめがチャームポ イント。
博物館のお父さん的存在で 「××なんだも一 ん」 と語尾にもーんが付き がち。
お友達のネコはいつ も一緒。

史跡の概要
甲斐金山遺跡は、甲斐国を代表する金鉱山遺跡で、甲州市にある黒川金山と身延町にある湯之奥金山の一つの中山金山が史跡に指定されています。 黒川金山は 15世紀末から17世紀、中山金山は16世紀前後から17世紀末まで操業されたと考えられており、坑道や作業場などの遺構が良好に残っています。

甲斐金山遺跡 史跡の概要 金鉱山位置図 毛無山 鶏冠山

 黒川金山

 大菩薩嶺の北にそびえる鶏冠山(標高 1,710m) の東側山腹、標高 1,200m~1,400m付近に位置する。黒川千軒の鉱山町跡は、通称黒川谷とよばれる谷を埋め尽くすように形成され、その規模は上下600m、最大幅300mの広大な面積を占めます。

 1986年から4年間の学術調査が行われ、その結果坑道や製錬場・屋敷跡や多数の鉱山臼、金粒のついた土器、陶磁器が発見されました。
 遺跡は急傾斜の谷あいにあり、測量によって確認されたテラス数は290箇所、また、坑道(坑口)の分布も広範囲に及んでおり、大小27箇所の坑口が確認されています。

 操業は16世紀初頭からと見られ、また16世紀中ごろには最盛期を迎え、17世紀中ごろ以降は衰微していったものと考えられます。周辺には、戦国時代からの操業が考えられる金山が大小多く点在しており、江戸時代中期の文書にも「黒河・龍さみ・午王円」と、現在の黒川・竜喰(りゅうばみ)牛王院平(ごおういんだいら)金山のことを指しているものと思われる記述があります。
 特筆する遺物は、金の溶融物が付着している皿の破片と寺屋敷から採集され他の金山遺跡で例をみない 「一字一石経」 13,453点です。

黒川金山
金付着拡大
金付着土器
黒川谷の主沢に落ちている磨り石


 中山金山
中山金山は、湯之奥金山(中山・内山・茅小屋)のうちのひとつです。毛無山(標高1,964m)の山腹に位置しています。古くから湯之奥金山の伝承が知られており、平成元年から3ヵ年にわたり学際的な調査が行われました。その結果、標高約1,400~1,500m付近にかけて何らかの作業を行ったと考えられるテラス(平坦地)124箇所、露頭堀跡77箇所、坑道16本が確認されました。また、180を超える鉱山臼が見つかりました。鉱山臼は山金作業に必要不可欠な道具で、磨り臼、搗き臼、はたき石、湯之奥型や定形型の金挽臼が確認されています。

 発掘調査では、15世紀の中国明代の陶磁器など 1,200点が出土し、陶磁器の年代から 16~17世紀に金山の隆盛期が訪れたと考えられます。また、テラス内で出土した土器3点には金の溶融物が付着しており、金を製錬した痕跡が認められます。
 湯之奥金山博物館では、湯之奥3金山のうち残る内山・茅小屋金山も史跡に追加するため、現地調査を継続しています。内山・茅小屋金山では2009~2010年にかけて測量調査が行われ、新たなテラス群、鉱山臼が数多く発見されました。
2021年には長らく未確認だった茅小屋金山の採鉱域を発見しました。

中山金山 坑道内部 中山金山見学会

 145
新府城跡 主な時代 戦国時代
ナビゲーター かつより君
  勝頼公の家臣だが、 勝頼公にあこがれる あまり真似をしてい る。最近発掘調査で 新府城のことを色々 な人に知ってもらえ るのがうれしい。

所 在 地   韮崎市中田町中条上野城山
指定年月日  昭和48年7月21日
所有者または管理団体  韮崎市

史跡の概要
 新府城は、武田勝頼が天正9(1581)年12月24日に入城し、火を放って城を出る翌年3月3日まで居城したと考えられています。
 武田氏が滅んだ後、徳川氏と北条氏による甲斐国の領土の統治者争いである天正壬午の乱(天正10年)では、徳川家康が本陣を設けたことが『家忠日記』に記されています。

 新府城は北側に堀があり、その堀に突き出て出構(でがまえ)があり、北の守りを固めています。
西側は八ヶ岳から甲府盆地に向かって伸びる七里岩(しちりいわ)の崖によって来るものを拒んでいます。
南斜面の中腹には武田氏の城づくりの特徴といわれている丸馬出(まるうまだし)と三日月堀があり、東は、原路(はらじ)と呼ばれている甲府方面と諏訪方面を結ぶ街道がとおり、人・物・情報を入手しやすいところに城が築かれています。

新府城跡
史跡の概要

 近年の発掘調査成果
本丸の調査
本丸北側中央虎口の発掘調査では、武田勝頼在城時の門を支えていた礎石と武田氏滅亡後
徳川家康が新府城を本陣にするときに土を入れ踏み固め整地した地面が確認されました。こ
のことから、武田勝頼が城を出たのち、徳川家康が入った際にはしっかりと整地しているこ とがわかりました。

近年の発掘調査成果 虎口の発掘調査状況

礎石の上にある硬く踏み固めた 土が徳川家康時代のもの!

勝頼が新府城に火をつけたときに焼けた土。 その中から長さ20cmほどの釘を発見!
虎口の発掘調査状況

約440年の間にたまった土
武田氏滅亡後に埋め立て整地した土
門を支えた礎石(勝頼期)
中央北石築地(西面) 中央北石築地(西面)
石築地の石の積み方は、 場所によって違ってい ます。
東面と西面でもかなり印象に違いがありま す。 この違いが、 何か目的があってのことなのか、 偶然なのか、 土木技術的なことなのか、 作業の手 順によるものなのか、これから検討していく必要 があります。
    石築地 (東面)
北石築地 (西面)

本丸東土塁と石築地で囲まれた空間、当初は通路と考えてきましたが、今回の調査で石築地が土塁側 に曲がることがわかり、通路としての機能だけでは なく、 建物などがあった可能性もでてきました。

 近年の整備事業
近年の整備事業
大手丸馬出の整備前と整備後
近年の整備事業

大手枡形虎口(おおてますがたこぐち)と大手丸馬出の境界の段差部分について、 遺構の保存状態を確認するための調査を行いました。
その成果をもとに、 大手丸馬出の整備を行いました。 現地には、 当時の景観がよみがえりました。

 150中世2
 151
要害山 主な時代 戦国時代

所 在 地 甲府市上積翠寺町
指定年月日 平成3年3月30日
所有者または管理者 林野庁 (山梨森林管理事務所)、遺構の管理は甲府市教育委員会

ナビゲーター かわらけ君
本名「かわらけ信」。
武田菱が輝く鎧に身を包み、右手に山梨名産のぶどう、左手に甲州金を持っています。 武田信玄公に憧れ、武田氏館跡 田 歴史館で下働きをしています。
要害山

史跡の概要
要害山は、本城 (要害城)と要害山の南東の尾根上にある支城 「熊城」を合わせた史跡です。山名「要害山」 が広く知られていたため、 「要害山」の名称で指定となりました。 また、 平成29年には、 「要害山城」 の名で100名城に認定されました。
要害城は、武田信虎に築かれ、 武田氏三代の詰城として使用されました。 大永元年(1521) 駿河勢が大挙して甲府盆地に攻め入った時、 懐妊中だった大井夫人は要害城に避難しました。 その際、 要害城か山 裾にある積翠寺で後の信玄を出産したといわれています。 積翠寺には 信玄の産湯に使われたとされる井戸があり、武田信玄ゆかりの地として知られています。

史跡の概要 要害山全景
要害山上空から武田氏館跡を望む
積翠寺
要害山頂の石碑

井戸
府中防衛網 山に囲まれた場所に本拠地の 館をつくり、その周りに詰城 や烽火台を配置して敵襲に備 えていたんだね。

武田氏館と周辺に整備された城下は、三方が山々に囲まれ、要所に城郭群が築かれていました。

 152要所に残る遺構
要所に残る遺構 詰城としても利用された要害城。
生きていくためには水が必要となります。 この井戸は諏方水とも呼び、 築城の際に諏方明神に 立願して井戸を設けたと伝わります。
山城らしく要害城には多くの竪堀や堀切を遊歩道から見ることができます。
主郭を抜けた先には当時の石積が残った堀切跡があります。


防衛網の中心を成す要害城の麓には「根小(古)屋」と呼ばれる城番の武士の拠点と伝わる場所があります。

要害城・熊城 縄張図

虎口石積
現在の遊歩道も往時の登城路を通る 部分があります。 枡形虎口には、 石 積を見ることができます。

要害城・熊城 縄張図
防衛網の中心をなす要害城の麓には 「根小 (古) 屋」と呼ばれる城番の武士の拠点と伝わる場所 があります。
 

 153勝沼氏館跡 主な時代 戦国時代
所 在 地  甲州市勝沼町勝沼
指定年月日  昭和56年5月28日
所有者または管理者 甲州市ほか

ナビゲーター しろしろクン
趣味は城郭巡り。
城のかたちをした生命体。 自分の城主になってくれ る人を探している。本日2回目の登場。

史跡の概要
勝沼氏館跡は武田信虎の弟信友の居館跡で、 内郭と複数の外郭からなる館跡です。 信友は天文4 (1535)年に相模の北条氏との合戦で討死し、その後は親族衆である今井氏が入部してこの地を治めたと考えられています。 館の起源は明確ではありませんが 15世紀頃には単郭の館が存在したと考えられ、16世紀前半頃、 規模を拡大して複数の 郭から構成される構造となりましたが、 武田氏が滅亡する16世紀後半には廃絶された と考えられます。

勝沼氏館跡 史跡の概要
外郭の整備状況
内郭の整備状況

 154発掘調査の成果
館の中心内郭
内郭は館の中心にあり、 二重の土塁と堀の内側にあります。
複数の礎石建物で構成され、石積水路や水溜遺構があります。
炉をもつ土間構造の工房跡の周辺から、溶融物付着土器が見 つかっており、分析した結果、金粒が付着していることが分 かりました。 金粒の中にビスマスという鉱物が含まれている ことや、 金その他鉱物の含有率がほぼ同じであることから、
甲州市塩山上萩原(えんざんかみはぎわら)に位置する黒川金山由来の金であることが明らかになりました。
内郭の整備状況

整備された主殿など
A区建物群
中央の礎石建物
金が付着した土器

東郭の工房
内郭の東側に位置する東郭は、 内郭とは異なり、掘立柱建 物で構成されています。これは内郭の建物とは格差があるこ とが想定されます。
東郭で発見された水路からは多量の木製品が出土しまし た。これらの木製品は未完成なものや、削りカスなどもある ことから、この水路に近接する建物群は、木製品などの工房 跡であったと考えられています。

東郭の工房 漆椀の出土状況
木製品製作に伴う削りカス
 
 160中世3
 161白山城跡(はくさんじょうあと) 主な時代 戦国時代
所 在 地  韮崎市神山町鍋山字城山
指定年月日 平成13年1月29日
所有者または管理団体 個人等

ナビゲーター ハクさん
趣味はハイキング。好きな食べ物は海苔のついたおにぎり。 謎の多い白山城が気に なっている。


史跡の概要
白山城跡は、釜無川沿いの狭小な空間と広い空間を持つ甲府盆地の接する付近に位置します。 この地域を拠点とした武川 衆の山寺氏や青木氏が諏訪口の監視のために利用したと言われています。
史跡白山城跡は3つの城跡で構成されています。
はっとうさん
八頭山を背後に、そこから流れる白沢 八幡沢に挟ま
れた独立峰状の標高570mの鍋山山頂に位置するの
白山城跡の本城です。 本城の南北には烽火台と伝わ る山城があり、北側に北烽火台、南側にムク台烽火台 が残っています。

白山城跡 史跡の概要
白山城全景

白山城の総合調査調査と整備
 これまで発掘調査は行われていませんが、 国史跡指定に 向けて総合調査が実施されました。 その成果は、 『白山城 総合学術調査報告書 白山城の総合研究』 に集約されています。
 この総合調査は考古学の発掘調査は行わず、 白山城跡に 関する様々な史資料を収集し、各分野の研究手法でどこま で城郭像が描けるかを試みた調査でした。 総合調査の結果、 城の眼下には、 城下集落が展開されていたことなどがわか りました。 白山城の総合研究は中世城館跡研究等の調査を する中でも重要な研究成果であったといえます。
 白山城跡の整備は、 簡易的な案内板を史跡内にいくつか 設置し、 朽ちている遊歩道等を修理し来訪者への安全管理 に気を付けています。 また、 よりよい保存活用のため、現在、 韮崎市が管理団体になることを目指しています。

白山城の総合調査調査と整備 白山城縄張図

 残された遺構
白山城跡本城には、主郭・二の郭といった遺構が良い状態で残されて います。 特に主郭は戦国時代の砦の様相が非常にわかりやすい状態で 残っていることから学術的価値も高いといえます。
加えて、主郭を囲むように掘られた放射状竪堀も白山城跡の特徴を現 す遺構です。また本城の南北にある烽火台が戦国時代の情勢を物語る貴 重な城跡といえます。

遊歩道もあるので、足に自信があれば是非のぼって城の構造を体感してみてね!
白山城のある地域は、武田八幡宮や願成寺など 数々の文化財がある地域だよ。

残された遺構
 

 163谷戸(やと)城跡 主な時代 平安時代~室町時代
所 在 地  北杜市大泉町谷戸字城山 2722-1 ほか
指定年月日  平成5年11月29日
所有者または管理者 北杜市

ナビゲーター しろしろクン  趣味は城郭巡り。 城のかたちをした生命体。 自分の城主になってくれ る人を探している。

史跡の概要
谷戸城跡は、周囲との比高差が約30mある眺望に優れた小山に築かれ
ています。 城内はおよそ6つの郭に分けられ、山頂の一の郭を中心に北・ 東西に郭を配する 「輪郭式」と呼ばれる縄張りとなっています。 発掘 調査では、平安時代末といわれる築城された年代や、廃棄された年代は 解明できませんでしたが、 14世紀から15世紀頃に使われていたことがはっきりしました。

谷戸城跡
史跡の概要 空から見た谷戸城跡


 谷戸城のみどころ
谷戸城 一の郭の土塁 谷戸城のみどころ
山頂の一の郭は周囲を土塁で囲まれ、 東側の一部が 途切れているため、 そこに門が設置されていたと考え られます。 北西側も一部途切れて出入り口として使用 されていました。 土塁は東側が高く、西側になると低 くなっています。

 横堀
横堀 谷戸城の弱点は、八ヶ岳の山麓傾斜から続く北側の比較的緩やかな地形です。敵が攻め込むには格好の地 形であるため、それを防ぐためここにこの城最大の堀・横堀を築いています。 幅9m以上、地表面からの深さは最深で 4.3m ある、 薬研堀と呼ばれる断面 V字形の溝となっています。 一部を掘り残し、 土橋として利用していました。

横堀
谷戸城横堀 谷戸城模型

三の郭の土塁と空堀 三の郭の土塁と空堀
谷戸城跡の最大の特徴は、二の郭と三の郭で土塁の内側に空堀がめぐらされていたことです。
ほとんどの城は、外側に堀、 内側に土塁を作りますが、 谷戸城跡では逆でした。 何のために土塁の内側に堀をめぐらしたのか不明ですが、 堀には整地された層が確認されたので、 通路としての役割 があったと考えられます。

北杜市考古資料館 北杜市考古資料館
戸城跡の隣には北杜市考古資料館があります。 発掘調査での出土品 や城跡の模型などが展示され、 城の歴史を詳しく学べます。 谷戸城跡に お越しの際は、お立ち寄りください。
 
 


 2000山梨県立考古博物館 常設展示 (縮小展示 発掘された日本列島展のため


 2010入口展示

 2013ナウマンゾウ
ナウマンゾウは、 約2万年前まで日本列島に生息していたゾウです。
現在のアジアゾウより小さく、 体長は5~6m、 肩までの高さが2.5~3m 程度で 2m を超す牙を持っていました。
甲府市相川から発見されたものは、発掘された地層から8万年以上前のもの と推定されています。
日本列島に確実に人類が住み始めたのが約4万年前以降とされていますが、ナウマンゾウが山梨県内にも居たこと、そして狩猟されていた可能性を示す 発見です。

ナウマンゾウ骨角
ナウマン象の歯
臼歯発見地
 2015臼歯
甲府市相川河床出土
ナウマンソウ臼歯
山梨県立考古博物館 蔵
 
 


 2050旧石器時代

 2051礫群 Rekigun (Stone Groups)天神堂遺跡第1礫群
通例数十~数百個の焼け石が集められた状態のもので、多数 の石を焼き、 調理活動に用いたと考えられています。 本州と九 州に分布し、関東・東海地方ではほとんどの遺跡にあります。 Usually in groups of heated stones numbering from dozens to several hundred, these were groups of many stones that were heated and believed to have been used in cooking. Although distributed in both Honshu and Kyushu, most are found at sites in the Kanto and Tokai regions.

天神堂遺跡第1礫群(南部町教育委員会蔵)Tenjindo site No.1 Stone Groups(Collection of Nanbu Town Board of Education)

 2053

立石遺跡 (推定 30,000~28,000年前)
甲府市上向山町
台形様石器 (組み合わせ式の槍先やナイフ)
剥片
(石器の素材やナイフ)
石核と剥片の接合 (石片を取る)
 2055横針前久保遺跡 (30,000~28,000年前) 北杜市長坂町
横針前久保遺跡
台形様石器
(ペン先形をした槍先)
石刃
(石器の素材やナイフ)
台形様石器
(組合せ式の槍究やナイフ)
抉入石器 (削る道具)
錐形石器
(穴あけの錐)
局部磨製石斧

 2057天神堂遺跡 (推定 22,000~20,000年前) 梨県指定文化財 南巨摩郡南部町万沢
天神堂遺跡 (推定 22,000~20,000 年前)
梨県指定文化財
南巨摩郡南部町万沢
槍先形尖頭器(両面加槍先)
彫器 (彫刻刀)
ナイフ形石器 (刃潰し加工の槍先)
石核(石片を取る原石)
削器
ナイフ形石器
石刃 (石器の素材)
 2060

 2061丘の公園14番ホール遺跡
石槍(両面加工の槍先; 黒曜石製)
石槍(両面加工の槍先;黑曜石製)
 2063
削器 (ナイフ : 珪質真岩製)
石錐 (穴あけの錐)
石槍(両面加工の槍先; 珪岩製など)
 


 2100縄文時代

 2110早期 縄文時代 約12,000~6,000
 2111土器
石鏃
爪形文士器
中込遺跡 北杜市長坂町
草創期BC.9000

 縄文文化の確立 縄文時代早期 B.C.6000年頃
表裏縄文土器
社口遺跡 北杜市高根町
井草式併行
縄文時代早期
表裏縄文土器
夏島式併行
縄文時代早期
社口遺跡 北杜市高根町
多縄文土器
縄文時代早期
丘の公園遺跡
北杜市高根町
押形文土器
縄文時代早期
花鳥山遺跡
笛吹市八代町
押形文土器
縄文時代早期
水呑場遺跡
市川三郷町大塚
押形文土器
縄文時代早期
丘の公園遺跡
北杜市高根町
押形文土器
縄文時代早期
東山北遺跡
甲府市下向山町

 2117縄文時代前期 18号住居跡出土石器 上北田遺跡 北杜市白州町
縄文時代前期
18号住居跡出土石器
上北田遺跡 北杜市白州町
 

 2120中期

 2121埋甕
宮の前遺跡出土の縄文土器
 この土器は、 昭和57(1982)年に、 市川三郷町黒沢にある宮の前遺跡 (現在の山梨県警察本部ヘリポート) から出土したものです。
 山梨県内では、縄文時代中期後半頃 (今から約4,500年前) の遺跡から、 竪穴住居の出入り口付近や屋内、屋外などに地面に穴を掘り土器を埋めた 「埋甕」 と呼ばれる遺構が多く発見されています。 埋甕は、乳幼児の遺体を入れて再生を願ったとされていますが、 胎盤を入れて子どもの成長を願ったとする説もあります。 底には穴をあけたり、 打ち欠いたりしているものが多く、 これには日常使う道具と区別したり、死者の魂を抜いたりする意味があったと考えられています。
 宮の前遺跡では、二つの埋甕が60cmほど離れて並んで発見されました。 この土器は、曽利式と呼ばれる高さ約65cmの大型の土器を逆さにして埋められており、底に近い部分に穴があけられています。 非常に残りの良い状態のまま発見されており、 縄文時代の信仰や葬制を知ることができる貴重な資料として知られています。

貼付文
細い粘土ヒモを土器の表面に貼り付けた文様。 チューブから柔らかい粘土を押し出して表面に貼 り付けたものもあります。 粘土が柔らかく乾きす ぎないという絶妙なタイミングで貼り付けられて います。
埋甕 (深鉢形土器) の一部 上コブケ遺跡 縄文時代中期

埋甕
 埋甕は土器を集落内や住居内に埋めるもので、東日本を中心に見られます。 主に出産の後産である 〈えな〉 入れや、子どもの墓と考えられており、 土器をひっくり返して底に孔を開けたものもあり ます。
 青森県三内丸山遺跡では、子どもばかりを葬った880基もの埋甕が出土しました。 また山梨県市川三郷町の宮の前遺跡では、ひっくり返した状 態の土器が並んで2点、 出土しています。 いずれも 幼児を葬った棺であると考えられます。 このよう に子供用のお墓は、 集落の中心部など大人の墓と は別の場所に埋められており、 子どもがある一定 の年齢になるまでは、集落の構成員とみなされて いなかったことを示しています。
 一方、子どもと大人が混在して葬られている遺 跡もあり、必ずしも子どもと大人が別々に葬られ たわけではないようです。

宮の前遺跡出土の縄文土器 埋甕出土状況 貼付文 埋甕
 2123
埋甕(深鉢形土器)
縄文時代中期
上コブケ遺跡
山梨市八幡
埋甕(深鉢形土器)
縄文時代中期
上コブケ遺跡
山梨市八幡
埋甕(深鉢形士器)
宮の前遺跡
市川三鄉町黑沢
隨文時代中期
埋甕 (深鉢形土器)
縄文時代中期
宮の前遺跡
市川三郷町黒沢
埋甕(深鉢形土器)
縄文時代中期
中谷遺跡
都留市小形山
埋甕(深鉢形土器)
縄文中期
甲ッ原遺跡
山北杜市大泉町
埋甕(深鉢形土器)
縄文中期
辻遺跡
笛吹市鏡川町

 2130早期~後期の土器

 2131土器づくりのはじまり
 氷河期が終わり、 気候の温暖化が進んできた約16,000年前になると土器が作られ始めます。この時代は縄文時代と呼ばれ、今から2,300年前までの約10,000年の間続いたとされています。
 土器の出現とともに磨かれた石器や弓矢が使用されるのも旧石器時代にはなかったことです。この時代は、一般的に草創・早・前・中・後・晩期の6期に区分され、時期により自然環境や文化に違いがあります。

 縄文人の生活は、狩猟採集が基本となっていました。 金生遺跡(北杜市) からはシカの角やイノシシの骨が、 釈迦堂遺跡群 (笛吹市甲州市)からはクリやクルミの炭化物が出土しています。
 この時代の住居跡は地面を掘りくぼめ、 その上に木を組みカヤで屋根を葺いた竪穴住居が一般的です。 甲府盆地周辺の丘陵や盆地内の微高地、 八ヶ岳や茅ヶ岳の山麓、 富士川や桂川流域などの狩猟採集に適した場所に 「ムラ」 が営まれました。

土器づくりのはじまり
 
2132繩文時代早期 深鉢形土器 立石遺跡 甲府市下向山町

 2133前期
深鉢形土器
上の平遺跡
甲府市下向山町
深鉢形土器
上北田遺跡
北杜市白州町
深鉢形土器
上北田遺跡
北杜市白州町
深鉢形土器
上野原遺跡
甲府市右左口町

深鉢形土器
花鳥山遺跡
笛吹市八代町


 2134中期
深鉢形土器(人面装飾)
海道前C遺跡
北杜市高値町
深鉢形土器(人面装飾)
原町農業高校前遺跡
北杜市長坂町
深鉢形土器
甲ッ原遺跡
北杜市大泉町
深鉢形土器
甲ッ原遺跡
北杜市大泉町
台付鉢形土器
海道前C遺跡
北杜市高値町
台付鉢形土器
甲ッ原遺跡
北杜市大泉町
深鉢形土器
酒呑場遺跡
北杜市長坂
深鉢形土器
安道寺遺跡
甲州市塩山
深鉢形土器
北堀遺跡
笛吹市一宮町

 2135後期
注口土器
金生遺跡
北杜市大泉町
深鉢形土器
中谷遺跡
都留市小形山
 

 2140行燈 大型土器
 2141履 歴 書
氏名  深鉢形土器 曽利Ⅱ式
生年月日   紀元前2500年 推定4500歳 
本籍地  山梨県甲府市下曽根町923
 山梨県立考古博物館 縄文時代コーナー
形状  器高72cm 口縁径56.0cm 口縁42.8cm 

経歴
紀元前2500年頃 縄文の名人の手により作られ、煮炊きに使われました。 その後、 埋葬容器になり、地中で眠ること となりました。
昭和37(1962)年 甲州市(旧塩山市) の甘利氏により発見され、再び地上へ戻りました。
   県庁の知事室に収められました。
 昭和45(1970)年  郷土資料展示室に引っ越しました。
昭和47(1972)年 県教育委員会の文化課、 図書館に引っ越し、そこで展示されました。
 昭和57(1982)年  県立考古博物館に引っ越し、そこで展示されております。
 昭和63(1988)年  国の重要文化財に指定されました (1988年6月6日指定 考第438号)

海外渡航歴
平成2(1990)年 アメリカ ニューヨーク
平成7(1995)年 イタリア ローマ
平成9(1997)年 マレーシア クアラルンプール
平成10(1998)年 フランス パリ
平成30(2018)年 フランス パリ
国内展覧会 最近の主な出展履歴
平成13(2001)年 東京国立博物館 「土器の造形 一縄文・弥生の静一」
平成16(2004)年 郡山市立美術館 「原始美術の華 縄文土器の造形」
平成18(2006)年 青森県立美術館 「縄文と現代~ 2つの時代をつなぐ 『かたち』と『こころ』」
平成28(2016)年 愛知県陶磁美術館 「人が大地と出会うとき」
平成30(2018)年 東京国立博物館 「縄文JOMON - 1万年の美の鼓動-」
自己評価 縄文時代中期後半の中部高地に特徴的な容姿をそなえるとともに、その感性の高さは日本を代表するものと 自負しております。
希望 これからも山梨県の皆さま、全国の皆さまに愛されるとともに、縄文のすばらしさを世界の方々に伝え続け たいと願っております。


 深鉢形土器 殿林遺跡
深鉢形土器 深鉢形土器 (殿林遺跡出土)
星降る中部高地の縄文世界
一数千年を送る黒曜石鉱山と文人に出会う旅―
深鉢形土器
縄文時代中期後葉
殿林遺跡 甲州市塩山
 
 

 2143水煙文土器 (深鉢形土器) 安道寺遺跡
水煙文土器
日本遺産
安道寺遺跡出土品
星降る中部高地の縄文世界
-数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-
縄文時代中期
山梨県 指定 文化財
水煙文土器 (深鉢形土器)
安道寺遺跡 甲州市塩山


 2145深鉢形土器 酒呑場遺跡 縄文中期中葉
深鉢形土器 深鉢形土器
酒呑場遺跡
縄文中期中葉

 2160釣手土器
 2161釣手土器 柳坪(やなぎつぼ)遺跡 北杜市長坂町 縄文時代中期
 2163釣手土器 塩瀬下原遺跡  大月市梁川町 縄文時代中期
 2165釣手土器  若神子新町守屋ッ原 (肥道こいどう)  北杜市須玉町  縄文時代中期
 2167釣手土器 宮の前遺跡 西桂町 縄文時代中期
 

 2170一の沢遺跡出土品 縄文時代中期中葉 笛吹市境川町

端正な顔の土偶の「いっちゃん」を中心に、国の重要文化財に指定されている。縄文土器造形の到達点を示す大きな把手や装飾が付いた深鉢形土器、丁寧に磨かれた有礼鍔付土器や土偶、石器など、優品が多い。

The "itchan" dogu (clay figurine) with its clear-cut features is the central figure in this collection of nationally designated Important Cultural Properties. This collection features many excellent pieces that showcase Jomon pottery art and design at its peak, including deep bowls with large handles
and adornments, carefully polished pots with brim and holes around the fim, dog, and stone tools.

 ―星降る中部高地の縄文世界―

 2171
一の沢遺跡
 2172
 2173
深鉢形土器 深鉢形土器
 2174
深鉢形土器
 2175
深鉢形土器
 
 2180酒呑場遺跡  縄文前期後半~中期後半 約1500年間 山梨県北巨摩郡長坂町長坂上条621-2

 2181酒呑場遺跡出土品 縄文時代中期中葉

日本遺産
酒呑場遺跡出土品
Articles excavated from the Sakenomiba site
星降る中部高地の縄文世界
―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅― 
 2182前々
深鉢形土器 深鉢形土器
有孔鍔付土器 杓子形土製品
小形土器
小型土器(写真)の中に
杓子形土器が入っていたが未撮影
 2183前後
台付鉢形土器
深鉢形土器 深鉢形土器
 2184後
深鉢形土器
深鉢形土器 深鉢形土器
 
 

 2190縄文土器
 2191
落とし穴その➀
縄文土器なのに縄文がない?
ひとことでいえば
「縄文時代の土器だから」
簡単に解説!
100年前に大森貝塚で土器が発見された際、縄目模様が特徴的だったことから 『縄文土器』 と命名され、以来この仲間の土器が使われた時代を縄文時代と呼ぶようになりました。
縄文時代は12000年前~3000年前まで約1万年間つづき、この期間に日本で使われた土器が縄文土器にあたります。 長い縄文時代の間に地域ごとに変化した ため、中には縄文がない土器もあるのです。

落とし穴その②
土器の名前が わかりにくい!
ひとことでいえば
「土器の名付け方にふたつの方法があるため」
簡単に解説!

ひとつは出土した遺跡の地名から命名したもの、もうひとつは特徴から命名したものです。 縄文土器は縄目の模様が特徴的だったので 『縄文土器』と呼ばれました。 一方、弥生土器は明治17年に東京府本郷区向ヶ岡弥生町 (現文京 区弥生)から出土したため 『弥生式土器』 と呼ばれるようになりました。
つまり「弥生」という言葉は地名であり、土器の特徴を表すものではないのです。

落とし穴その③
○○式土器って なに?
ひとことでいえば
「特徴的な土器が出土した遺跡名を付けて呼んだもの」
簡単に解説!
特徴的な土器のまとまりを見つけると、その遺跡名から「○○式はこんな特徴 の土器」と発表されて定着していきます。
縄文土器の研究に取り組もうという方以外は、研究者の間でも考え方によって 呼び方が違うことがあるので、こんな名前があるということを知っていれば充分 だと思います。

落とし穴その④
縄文土器は 何に使われたの?
ひとことでいえば
「ほとんどがナベとして使われた」
簡単に解説!
バケツのような形の深鉢形土器が縄文土器の基本的な形で、これらは食べ物を 。
煮るためのナベとして使われました装飾過剰ともいえる火焔型土器でさえも内面におこげがびっしり付いていたものがあり、煮炊きに使われていたことがわかります。


双環文
Twin circle pattern
ふたつの輪 (環) を並べた文様。 動物のふたつの眼のように見えるので、ヒト (神) の顔をイメージさせるものが多いです。 これは把手になってい るので双環把手と呼ばれています。
【重要文化財】 深鉢形土器(一部) 酒呑場遺跡 縄文時代中期

落し穴➀② 双環文
深鉢形土器
酒呑場遺跡
縄文中期
落し穴③④

 縄文中期の文様のいろいろ
縄文中期の文様のいろいろ
隆線による区画文 半裁竹管で施文した隆線文
刻みのある隆線文
半裁竹管状工具
隆線による区画文 隆線文
隆線文の両脇に沿う
キャタピラのような爪形文
沈線文 沈線文 粘土紐貼付文と
縄文の地文
粘土紐貼付文
縄文施文具
縄文

 2193前
縄文前期
深鉢形土器
天神遺跡
北杜市大泉町
縄文中期
深鉢形土器
重郎原遺跡
甲州市塩山
縄文前期
深鉢形土器
天神遺跡
北杜市大泉町
縄文前期
深鉢形土器
上の平遺跡
甲府市下向山町
縄文中期
深鉢形土器
西光寺北遺跡
甲府市西光寺
縄文中期
深鉢形土器
原町農業高校前遺跡
北斗市長坂町
縄文中期
深鉢形土器
宮の前遺跡
市川三郷町黒沢
縄文中期
深鉢形土器
宮の前遺跡
市川三郷町黒沢
縄文後期
注口土器
中谷遺跡
都留市小形山
 2195後
縄文中期
深鉢形土器
縄文中期
深鉢形土器
一の沢遺跡
笛吹市境川町
縄文中期
深鉢形土器
縄文中期
深鉢形土器
上の平遺跡
甲府市下向山町
縄文中期
深鉢形土器
甲ッ原遺跡
北杜市大泉町
日本遺産
甲ッ原遺跡出土品

 2197女神土器

女神が装飾された土器
~人面装飾付土器~
Earthenware with human face decoration

縄文時代中期 (5,500年~4,500年前) の中部高地を中心とした地域では、女性を模した姿を土器に装飾した「人面装飾付土器」が出土します。
人面装飾は、主に煮沸具である深鉢形土器につけられる例が多く、土器は女性の身体に見立てられました。 女性を模した土器で調理した料理は、女性が新たな生命を生み出すことと結びついており、その料理を皆で食べることは、女性のエネルギーを体内に取り入 れるという生命の更新・再生を願った行為であったと考え られています。
人面装飾付土器は、山梨県では縄文時代前期後半に登場します。
初期のものは土器の口縁部分に人面を貼り付け、棒状の工具で目や口を描いています。 やがて中期中頃になると、それまでの平面的なものから立体的で大型になり、口 上に突出して付けられるようになります。

 深鉢形土器(人面装飾) 縄文中期 津金御所前遺跡 北杜市須玉町
深鉢形土器(人面装飾)

 深鉢形土器 縄文中期 水吞場遺跡 市川三郷町

 2199有孔鍔付土器 縄文時代中期

いろいろな形の有孔鍔付土器
ここでは、様々な有孔鍔付土器を集めてみました。
その形の変化を見てみると まず縄文時代前期後半(約 6,000年前)には「有孔土器」 という口縁部に穴があくだけの浅鉢形のものが現れ、 前期末には口縁部の下に「鍔」 がつくものが出現します。 中期初頭 (約 5,500 年前)に至るとその形も大きく変わります。 この時期には山梨県と長野県での出土例が知られるのみなので、その起源は中部高地にあるとも言われています。その後、バリエーションが増え、中期後半になると、関東地方で注ぎ口が付いたものが登場し、次第に口縁部の穴がなくなって「注口土器」 という急須のような形の土器に変化します。

 有孔鍔付土器 縄文中期
いろいろな形の有孔鍔付土器
原町農業高校前遺跡
北杜市長坂町
原町農業高校前遺跡
北杜市長坂町
大木戸遺跡
甲州市塩山
大木戸遺跡
甲州市塩山
柳坪遺跡
北杜市長坂町
 
 
 2210土器群
 2211
中期中葉
深鉢形土器
一の沢遺跡
笛吹市境川町
中期中葉
深鉢形土器
一の沢遺跡
笛吹市境川町
 2212
縄文中期
深鉢形土器
天神堂遺跡
南部町
 2213
縄文中期
深鉢形土器
酒呑場遺跡
北杜市長坂町
 2214
縄文中期
有孔鍔付土器
安道寺遺跡
甲州市塩山
 
 2230装身具
 2232土製耳飾 金生遺跡 縄文晩期 北杜市長坂町大泉町
土製耳飾り
金生遺跡
縄文晩期
 2233
縄文時代前期
ヒスイ製大珠
天神遺跡 北杜市大泉町
縄文時代晩期
ヒスイ製装身具
金生遺跡
北杜市大泉町
環状耳飾
縄文時代前期
花鳥山遺跡
笛吹市八代町
繩文時代中期
ヒスイ製大珠
三光遺跡 笛吹市御坂町
縄文時代前期
玦状耳飾
天神遺跡 北杜市大泉町
縄文時代早期
玦状耳飾
中溝遺跡
都留市小形山
縄文中期
コハク玉
甲ッ原遺跡
北杜市大泉町
 
 2240土偶

 2241土偶
Clay figurine
 土偶は人間をまねた土製の人形で、縄文時代を通して作られました。
現在最古のものは、縄文時代草創期(約13,000年前)に作られた滋賀県相谷熊原遺跡出土の土偶です。 土偶は沖縄県を除く北海道から九州で出土し、特に東日本に多く分布します。
 土偶は、わざと壊された状態で出土することから、災いなどを祓うための道具とする説や、 土偶が妊娠した女性をかたどっているものが多いことから、豊穣や多産を祈ったものとする説、 そのほか精霊や神像、呪物であろうとする説などがあります。
 県内では縄文時代前期後半から見られ、 中期にはより立体的になり、出土数も増加します。 釈迦堂遺跡 (笛吹市一宮町) では 1,116体もの土偶が出土しており、 土偶を研究する上で特に注目されています。
 尚、土偶の中には耳飾りや髪飾りなどを身に着けた様子を表しているものもあり、縄文時代に装身具がどのように使われていたかを想像することができます。

土偶 住居跡から土偶が出土した様子 (酒呑場遺跡 北杜市 )
アクセサリーをつけた縄文時代の女性(イメージ) 【画】 大塚敦子氏

三十三番土偶札所一番
いっちゃん土偶
国重要文化財
一の沢遺跡出土 土偶
土偶札所巡り専用御朱印帳
(¥1,980-) をお持ちの方に 御朱印を進呈しています。
三十三番土偶札所二番
のんさん土偶
国重要文化財
酒呑場遺跡出土 土偶
土偶札所巡り専用御朱印帳
(¥1,980-) をお持ちの方に 御朱印を進呈しています。よろしくね♪
 2242

 2243一の沢遺跡出土品
Articles excavated from the Ichinosawa site

端正な顔の土偶 「いっちゃん」 を中心に、 国の重要文化財に指定され ている。 縄文土器造形の到達点を示す大きな把手や装が付いた深鉢
形土器、丁寧に磨かれた有孔鍔付土器、石器など、 優品が多い。

The "Itchan" dogu (clay figurine) with its clear-cut features is the central figure in this collection of nationally
designated Important Cultural Properties. This collection features many excellent pieces that showcase Jomon pottery
art and design at its peak, including deep bowls with large
handles and adornments, carefully polished pots with brim and holes around the rim, dogu, and stone tools.
~星降る中部高地の縄文世界~

一の沢遺跡出土品 繩文時代中期
人面裝飾
安道寺遺跡
甲州市塩山
重要 文化財
縄文時代中期
土偶(愛称 いっちゃん)
一の沢遺跡
笛吹市境川町
縄文中期 重文
土偶(愛称:のんさん)
日本遺産構成文化財
酒呑場遺跡
北杜市長坂町
縄文時代中期
特殊浅鉢形土器
海道前C遺跡
北杜市高根町
縄文中期
深鉢形土器
安道寺遺跡
甲州市塩山
 2245
前期の土偶
縄文前期 土偶
獅子之前遺跡
甲州市塩山
縄文前期 土偶
桂野遺跡
笛吹市御坂町
縄文前期 土偶
大木戸遺跡
甲州市塩山
縄文中期
土偶(おおきどくん)
大木戸遺跡
甲州市塩山
縄文中期 土偶
原町農業高校前遺跡
北杜市長坂町

 2247縄文時代の水晶製石鏃
山梨県には、 多くの水晶鉱山があり、 水晶製品は山梨の特産品として知られています。この水晶、 実は縄文人たちも使っていました。

東山北遺跡 甲府市
外ガイド遺跡 大月市
諏訪尻遺跡 笛吹市
大木戸遺跡 笛吹市 
 
 2251

浅鉢形土器
縄文前期
浅鉢形土器
酒呑場遺跡
徐衛門中期
 2253
深鉢形土器
村上遺跡 甲府中畑
カエルなの?
深鉢形土器
上の平遺跡
甲府市下向山町
縄文中期
 
 2270土偶
 2271FF中期の土偶 上の平遺跡 甲府市下向山町
 2273F後晩期の土偶 金生遺跡 北杜市大泉町

金生遺跡
後~晩期

金生遺跡
 2275B中期の土偶   縄文中期
みさかっぱ
桂野遺跡
笛吹市御坂町
縄文中期
ヤッホー 坂井遺跡
韮崎市藤井町
板状土偶
上の平遺跡
大木戸遺跡
甲州市塩山
 2277BB
縄文の仮面小町
ウーラ
後田遺跡
韮崎市藤井町
子宝の女神ラヴィ
鋳物師屋遺跡
南アルプス市下市之瀬
縄文中期
ちゅうたくん
金生遺跡
縄文後期
黒駒の騎士
中丸遺跡
笛吹市御坂町
縄文中期
 


 2300弥生時代

 2310
 2311
「稲作」 と 「米作り」
 弥生時代のはじめの石包丁で稲穂の部分だけを刈り取る収穫方 法が、 後期には鎌が普及して現代のように根元から刈りとる方法に変化したと考えられています。
 茎の部分を干して 「藁」 として利用するようになると、 敷物 (ござ、むしろ)、 俵、 縄、 草履・わらじ、やがては畳の材料や屋根材 壁土の中に入れられるようになります。 稲は捨てるところがなく、籾殻、 糠までそのすべてが生活に利用できます。
 ですから、 厳密に言えば、 弥生時代、 大陸から伝わったのは 「米 作り (こめつくり)」であり、日本で稲のすべてを利用するよう に発展したのが 「稲作 (いなさく)」 ということになります。

さまざまな農具
 発掘調査で出土するものは、 土器や石器がほとんどですが、低湿地の遺跡では、木で作られた道具が当時の姿を残して出土す ることがあります。 中でも種類が豊富なのは農具で、弥生時代の 初め、わが国にコメ作りが伝わった当初から、その土地に適した 農具の改良が行われ、地域によってさまざまな形があり、 機能も細 かく分かれてきました。
 身洗沢遺跡 (笛吹市) からは、鍬や又鍬、土をならし平らにするためのエブリ、枝の分岐を利用して作られた鍬の柄が出土して、 山梨県の弥生時代の農具の実態を初めて明らかにしました。
 また、収穫する道具として、 稲穂を摘むための石包丁があり、金の尾遺跡 (甲斐市) や東山北遺跡 (中道町) で見つかっています。
油田遺跡 (南アルプス市)では、白の中の米を脱穀するための竪杵も発見されています。

弥生時代の稲作風景 「稲作」 と 「米作り」 さまざまな農具

 2313米作りの一年
木製農具
米作りの一年
 2320
 2321
前期・中期の土器
前期の弥生土器は、縄文時代後期の深鉢を主体とする構成から、
貯蔵用の壺と、煮炊き用の甕または深鉢を主体とする構成へと変わ
ります。 また浅鉢もみられなくなります。
中期は壺・甕が中心で、 基本的に前期と大きな変化はありません。
高杯がわずかにみられます。

後期の土器
後期になると、壺・甕に加え、 台付甕・高杯・鉢など、豊富な構成になります。 そ の理由のひとつに、 他の地域で作られた土器 (あるいは他の地域の人がやって来て作っ
た土器)が見つかっていることがあげられます。 特に、 台付甕は愛知県 静岡県など、 太平洋岸地域で多く使用されており、 それまでの平底の甕に代わって、 古墳時代前期ま での主要な煮炊き用具となります。 鉢には底に穴のあけられたものがあり、 蒸し器(せ いろ)として使用されたと考えられていますが、器自体が小さく実際的ではないことか
漏斗 (口の小さい壺などにはめて上から液体を注ぎ入れる器具) として使用したと 考えた方が良いかもしれません。
これらのほか、壺をのせるために作られたとみられる器台があります。 西日本では次 第に大きくなり、祭りの道具として発達していきましたが、 東日本では大きな器台はみ られず、 高杯とほぼ同じ大きさのものが普及しました。

前期の土器
前期の土器
前期・中期の土器 後期の土器
後期の土器

 2323上の平遺跡方形周溝墓出土土器 弥生後期~古墳前期 上の平遺跡甲府市下向山町
上の平遺跡方形周溝墓出土土器 上の平遺跡方形周溝墓出土土器
二重口縁壺
 2325後期の土器セット 弥生後期 長田口遺跡住居跡一括出土土器 長田口遺跡 南アルプス市平岡

弥生後期
鉢・壺・高坏
金の尾遺跡
甲斐市大下条
後期の土器セット
弥生後期
 2330銅鐸
 銅鐸は弥生時代に造られた青銅器の一種です。
 『つり手=鈕』 と 『振り子=舌』 をそなえ、表面には紋様が刻まれています。 博物館では台に置かれた状態で展示されることが多いですが、弥生時代には吊るされて音を発するものとして使われていたと考えられています。
 銅鐸は中に下がっている舌を揺らして叩くことで音を鳴らします。 その鋭く高い金属音は、それまで金属を知らなかった当時の人々にとって特別な音色にきこえたの ではないでしょうか。
 こちらで展示中の銅鐸は復元品で、 製作当時は金色に輝いていました。 これまで多くの皆様が触れ、鳴らしてきたことにより緑青がふいて味がでてきました。 なお、この緑青はいわゆるサビというよりも青銅が酸化して表面を覆ったもので、 青銅製品を守る役割を果たしています。

銅鐸

 2340容器形土偶 岡遺跡 笛吹市八代町 弥生時代中期

山梨県指定文化財 (平成15年5月1日指定)
 容器形土偶 (ようきがたどぐう)

 この資料は、 笛吹市 (旧東八代郡) 八代町の岡遺跡で発見され たものです。 当時石和高等学校教諭の野沢昌康氏のもとに、 生徒 が持参した土器類の中にその一部が確認されたことがきっかけと なり、昭和29(1954)年1月15日に同氏の現地調査によって 得られた資料と接合して、2点の土偶が復元されたものです。

 容器形土偶は、 東海から東北地方南部に至る地域で、これまで に30例以上が発見されています。 弥生時代前期末から中期前半 に作られ、頭の部分が開いており内部は空洞で、 幼児の骨や歯が 納められていました。 岡遺跡の調査では、 土偶出土地点から数メートル離れたところに多量の焼土と灰が確認されています。 また現存しませんが少量の骨片と骨粉、 幼児のものと見られる歯数個 も発見されました。

 復元された2点は、顔面(特に目の表情)や頭髪の表現から、 大きい方が男性 (高さ26.2cm)、小さい方が女性(高さ22.0cm) と考えられています。
 県内では他に、 坂井遺跡 (韮崎市) でも発見されています。 ロをあけた顔、穴があけられた耳は岡遺跡のものと共通し、 裾広がりの安定した形は、 蔵骨器 (骨壺) として安置されていたことを 示しています。 両腕は退化して短くなっていますが、 イレズミと 思われる顔の線、 体に描かれた文様は、 縄文時代の土偶から変化 したものであることがわかります。
容器形土偶は、その豊かな表情に、 土偶に託した当時の人々の 精神面が垣間見られ、 山梨県における弥生時代の葬制の在り方を 知る上で重要な資料です。
この資料は、 笛吹市 (旧東八代郡) 八代町の岡遺跡で発見され たものです。 当時石和高等学校教諭の野沢昌康氏のもとに、 生徒 が持参した土器類の中にその一部が確認されたことがきっかけと なり、昭和29(1954)年1月15日に同氏の現地調査によって 得られた資料と接合して、2点の土偶が復元されたものです。

 容器形土偶は、 東海から東北地方南部に至る地域で、これまで に30例以上が発見されています。 弥生時代前期末から中期前半 に作られ、頭の部分が開いており内部は空洞で、 幼児の骨や歯が 納められていました。 岡遺跡の調査では、 土偶出土地点から数メートル離れたところに多量の焼土と灰が確認されています。 また現存しませんが少量の骨片と骨粉、 幼児のものと見られる歯数個 も発見されました。
復元された2点は、顔面(特に目の表情)や頭髪の表現から、 大きい方が男性 (高さ26.2cm)、小さい方が女性(高さ22.0cm) と考えられています。
県内では他に、 坂井遺跡 (韮崎市) でも発見されています。 ロをあけた顔、穴があけられた耳は岡遺跡のものと共通し、 裾広がりの安定した形は、 蔵骨器 (骨壺) として安置されていたことを 示しています。 両腕は退化して短くなっていますが、 イレズミと 思われる顔の線、 体に描かれた文様は、 縄文時代の土偶から変化 したものであることがわかります。
容器形土偶は、その豊かな表情に、 土偶に託した当時の人々の 精神面が垣間見られ、 山梨県における弥生時代の葬制の在り方を 知る上で重要な資料です。

容器型土偶
男性土偶
女性土偶

 2350上の平遺跡
上の平遺跡
 甲斐風土記の丘 曽根丘陵公園内に所在する上の平遺跡周辺には、卑弥呼が活躍し たとされる2世紀代から3世紀前半にかけて、 140基以上の方形周溝墓が築造されま した。
このころの甲府盆地は、中部高地系と総称される長野県域等と共通する特徴の土器 を持つグループと、東海東部系である駿河や西相模と共通する土器を持つグループの 2者が存在していました。 上の平遺跡では、とりわけ東部東海系の色が濃い点が注目 されます。
近年では上の平遺跡が営まれている時期に、 静岡県東部では高尾山古墳などの前方 後方墳などが築造されていたことがわかってきました。
上の平遺跡の発見は、 古墳の出現と前後して東日本屈指の大きな集団があったこと、 そしてその集団が現在の駿河経由で太平洋側の交流のネットワークに参画したことを 物語っています。
最終的に東日本最大級の甲斐銚子塚古墳をはじめ巨大前方後円墳を多く築造するこ の地域の核となる働きをしたのは、このお墓を営んだ人たちだったのです。

上の平遺跡 上の平遺跡遺構配置図

方形周溝墓
方形周溝墓は、主に弥生時代に造られた、 溝を掘った区画を持つ区画墓です。
ムラの集団墓地としてまとまって造られることが多く、群をなして営まれるのが特徴です。
山梨県内では富士河口湖町滝沢遺跡から発見された弥生時代中期の周溝墓が最古ですが、墓制として定着するのは比較的遅く、本格的導入は弥生時代後期前半ごろに甲斐市(旧敷島町) 金の尾遺跡で営まれるまで待たねばなりませんでした。
以後、 前方後円墳が古墳時代前期ごろまで盛んに造られ、 当時の社会を解明する手がかりを提供してくれます。

方形周溝墓 発掘された上の平遺跡の方形周溝墓群 (1979年) 保存修元された上の平遺跡の方形周溝墓群 方形周溝墓群と集落の風景 (イメージ)
【画】 大塚敦子氏
 2360弥生人の祈りと戦い
 2361
 2362
弥生時代中期
牙鏃 (イノシシ)
大師東丹保遺跡
南アルプス市大師
磨製石鏃と砥石
弥生時代後期
身洗沢遺跡
笛吹市八代田町
弥生時代前期
磨製石鏃
立石下遺跡
南アルプス市野牛島
使途不明部材
身洗沢遺跡
笛吹市八代町
弥生時代後期
 2364
磨製石鏃
音羽遺跡
甲府市音羽町
弥生時代後期
石剣
油田遺跡
南アルプス市田島
弥生中期
磨製石鏃
東山北遺跡
甲府市下向山町
油田遺跡
南アルプス市田島
弥生時代後期
銅鏃
宮の上遺跡
甲府市下向山町
弥生時代後期
銅鏃
東山北遺跡
甲府市下向山町
弥生時代後期
 2366
磨製石鏃
金の尾遺跡
甲斐市大下条
弥生後期
 2367木製剣 身洗沢遺跡 笛吹市八代町 弥生後期
木製剣
2369
弥生時代後期
土製勾玉
東山北遺跡
甲府市下向山町
弥生時代後期

身洗沢遺跡
笛吹市八代町
強生時代後期
銅環
東山北遺跡
甲府市下向山町
弥生時代後期
垂飾 (鏡片)
長田口遺跡
南アルプス市平岡
銅釧
金の尾遺跡
甲斐市大下条
弥生後期
弥生時代後期
ガラス玉
東山南遺跡
甲府市下向山町
ガラス玉

墳時代前期
宮の上遺跡
甲府市下向山町

弥生時代後期
東山南遺跡
甲府市下向山町
 
 
 


 2400古墳時代


 2410銚子塚古墳 東日本最大級の前方後円墳 国指定史跡 甲府市下曾根町
 2411
古墳出現期の土器の移動 ~弥生土器から土師器へ~
 わが国に巨大な古墳が造られ始める3世紀の中頃、列島の各地で、ある地域の特徴をもった土器が別の地域で発見される「土器が移動する」現象が活発になります。とはいっても、土器が勝手に動く訳ではありませんので、土器を持って人が動く、あるいは別の地域へ行って作る、さらには別の地域の人がマネをして作る、ということになります。突き詰めて言えば、生活スタイルや文化が動くということがいえます。

 東日本では東海・北陸 畿内地域の土器 (「東海系土器」「北陸系土器」「畿内系土器」といいます)が見られます。中でも東海系土器の影響は大きく、近年西日本と東日本をつなぐ東海地域の土器の編年(年代のものさし」)が確立されたことにより、各地域との「年代的な横のつながり」が詳細にとらえられるようになりました。そして東日本では、前方後方形墳丘墓・前方後方墳の広がりとともに、地域ごとに特徴があった弥生時代後期の土器が、東海系土器の影響を受けて古墳時代の土器である土師器に変わることが明らかになっています。

 「土器の移動」は縄文時代から見られる現象ですが、この時期については特に注目されています。そこには、邪馬台国からヤマト政権へ、そして巨大な前方後円(方)墳が造られるという、当時の社会情勢を解明する手がかりがあるからにほかなりません。

土器の技術革新
 土器自体の製作にも大きな技術革新が起こります。 非常に薄く、軽い甕の出現です。「薄くて軽い」ということは、熱の伝わりの良さや運びやすさがあり、効率的に食事を供給できます。古墳を造るような、多くの人を動員するようなときに、まさに適した道具といえます。•
 東海地域の濃尾平野で誕生した「S字甕」と呼ばれる薄い甕は、東日本では静岡県•群馬県と並んで、甲府盆地でもたくさん発見されており、古墳時代前期を通じて盛んに作られました。
口縁部の屈曲と外面のハケ目が特徴で、甲府盆地では口縁部に刻みのある古いタイプが多く、東日本ではいち早く生活スタイルに取り入れられていることがわかります。
 甲府盆地の東海系土器では、他にもパレススタイル壺、 加飾壺、 ヒサゴ壺、 高杯・ 小型器台なども見られますが、これらは次第に選択され、 S字甕と高杯は甲府盆地に広く定着します。


 甲斐銚子塚古墳の発掘調査では、 後円部北側に東日本の前期古墳では初となる石敷きの 「突出部」 や、 周濠内の水位を調整する機能をもつ「区画堤」 と考えられる遺構 が確認されています。 また、 後円部西側の墳端では埋設された木柱 (立柱) がみつかり、 周濠内やくびれ部からは「円盤形木製品」と「蕨手形木製品」、「棒状木製品」 が発見され、これらが組み合わせとなることが明らかに なりました。 祭祀や葬儀儀礼に関わる木製品の中には、貴人にさしかける笠をかたどった、現状では最古の「笠形 木製品」 と考えられるものも含まれています。


 甲斐銚子塚古墳の石室内からは、5面の鏡が出土しています。このうち、三角縁神獣車馬鏡については、岡山県 備前市車塚古墳、 福岡県藤崎遺跡、 群馬県伝三本木出土例との間に同型関係が知られています。甲斐銚子塚古墳 の被葬者とヤマト政権との結びつきはもちろんのこと、やはり同型鏡を多く持つ備前車塚古墳とも鏡の兄弟関係があった吉備地方との関わりも暗示しているようで、興味深いと言えます。

 前期後半になると、製鏡・倭鏡と呼ばれる日本製の鏡の副葬が顕著になります。この背景には、この時期の事情が大きく影響しています。一方で舶載三角縁神獣鏡と彷製三角縁神獣鏡の形式的連続性が明らかにされたことにより、両者を中国製と日本製というように分けて考えることは難しい状況になっています。

古墳出現期の土器の移動
土器の技術革新
甲斐銚子塚の発掘調査
木柱復元 銚子塚古墳の石室内
 2412甲斐銚子塚古墳 東日本最大級の前方後円墳 全長169m 高さ15m
 2413 甲斐銚子塚古墳 古墳時代前期
杵形石製品・貝釧 管玉 鉄斧
古墳時代前期
四乳八禽鏡(しにゅうはっきんきょう)大丸山古墳 甲府市下向山町

三角縁三神三獣鏡
大丸山古墳 甲府市下向山町
古墳中期
古代中国「呉」の年号「赤烏元年238」の銘ある神獣鏡
鳥居原狐塚古墳 市川三鄉則大家
古墳時代前期
甲斐銚子塚古墳
甲府市下曾根町

鼉龍鏡
倣製三角縁三神三獣鏡
 2414

青銅鏡の模様がある面 (裏面) をひっくり返すと
鏡面(表面ものを映す面)になります。
古墳時代前期
復元品 盤龍鏡
盤龍鏡
亀甲塚古墳
笛吹市御坂町
斜縁二神二獣鏡
小平沢古墳
甲府市下向山町
古墳時代前期
山本寿々雄コレクション
弥生~古墳時代
細線式獣帶鏡
伝 米倉山古墳群
甲府市下向山町
 2415
環状乳四神四獣鏡
原品 復元品
丸山塚古墳 甲府市下曾根町
古墳時代中期
楔形鉄製品
上の平遺跡
古墳前期
甲府市下向山町
鉄製鋤先
古墳前期
東山北遺跡
甲府市下向山町
鉄剣
古墳前期
宮の土遺跡
甲府市下向山町
山本寿々コレクション
細線式獣带鏡
弥生~古墳時代
甲府市下向山町
 2416
むしろ編みの錘
二之宮・姥塚遺跡
古墳後期
笛吹市御坂町
紡錘車
二之宮・姥塚遺跡
古墳後期
笛吹市御坂町
砥石
二之宮・姥塚遺跡
古墳後期
笛吹市御坂町
円盤形木製品(笠形)
甲斐銚子塚古墳
古墳前期
支脚・甕・カマド 円筒系土器
二之宮・姥塚遺跡
古墳後期
笛吹市御坂町
支脚 古墳後期
二之宮・姥塚遺跡
古墳後期
笛吹市御坂町
 2417土器
土師器
鉢:古墳前期
手焙形土器:古墳前期
村前東A遺跡
南アルプス市十五所・十日町・古墳前期
ヒサゴ壺 古墳前期
村前東A遺跡
南アルプス市十五所・十日町・古墳前期
パレススタイル壺
古墳前期
村前東A遺跡
南アルプス市十五所・十日町・古墳前期
装飾器台
榎田遺跡 甲府市千塚
古墳前期
 2418土器
高杯 古墳後期
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
杯 古墳後期
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
二重口縁壺
榎田遺跡 甲府市千塚
古墳前期
 2419土器
杯・盃 古墳後期
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
堤瓶 古墳後期
稲荷塚古墳
甲府市下曽根町
横瓶 古墳後期
稲荷塚古墳
甲府市下曽根町
甕・壺 古墳後期
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
二重口縁壺 古墳前期
榎田遺跡
 
 2420埴輪 古墳前期 甲斐銚子塚古墳 甲府市下曽根町
壺形埴輪 朝顔形埴輪
円筒埴輪
木柱(立柱) 古墳前期
甲斐銚子塚古墳
 

 2430古墳地図
横穴式石室
古墳時代後半 (6世紀以降) になると、 古墳の盛り土の横に入り口 をもつ、 横穴式石室が造られるようになります。 横穴式石室は入り口 の積み石を開閉 (かいへい) して、 何人も埋葬 (まいそう) することのできるお墓 で、5世紀の後半に朝鮮半島からもたらされた、 新しいお墓の形式で す。 645年の大化の改新 (たいかのかいしん) まで、 全国的に造られました。 御坂町の姥塚古墳(うばづか)や甲府市の加牟那塚古墳(かんなづか) は、 県内 は、県内 でも代表的な横穴式石室で、 県指定史跡に指定されています。

古墳地図 千米寺古墳 姥塚古墳 丸山塚古墳
銚子塚古墳
小平沢古墳 横穴式石室 横穴式石室
上に
壷形埴輪
複合口縁壺
複合口縁壺
 

 2440須恵器の始まり

須恵器生産のはじまり

 日本の土器生産の技術は、 縄文・弥生時代の長い年月を通じて培われ、 土師器という形で古墳時代に引き継がれました。さらに古墳時代も中頃になると、新たな焼き物の生産が開始されました。

 「須恵器」とは、成形に轆轤を用い、本格的に構築された登り窯 (窖窯)によって還元焼成された硬質の焼き物で、朝鮮半島の陶質土器とその製作技法の伝来により、5世紀初め頃から日本列島で生産が始められました。 「須恵器」 の呼称については、遅くとも奈良時代には「陶椀」「陶杯」と表記し、「陶」を「スエ」と呼んでいたことが「正倉院文書」からも明らかです。江戸時代に行基焼, 明治時代には斎あるいは祝部式土器などと呼ばれていました。しかし、祝部には「はふりべ」という訓はあるが、「いはひべ」はないことに加えて、
『和名類聚抄』に 須恵宇都波毛能> の名称が見えることから、後に「陶(スエ)」を「須恵(スエ)」の二字に分ける須恵器の呼称が提唱され、その後この名称が使われるようになりました。


 山梨最古の須恵器は、 考古博物館の南西にある米倉山B遺跡 (甲府市 旧中道町) で発見された5世紀初め頃の大きな甕ですが、 この公園内でも5世紀前半から後半にかけての円形(方形周溝墓から、 初期の須恵器が出土しています。 東山南遺跡 (勾玉広場・花の広場) では、2基の円形周溝墓から5世紀前半の樽形、把手付椀、 壺などが、 方形周溝墓からは5世紀中頃の把手付椀が、 岩清水遺跡でも2基の円形周溝墓から5世紀後半の碌と高杯などが出土しています。
古墳時代も中期の中頃以降になると、 大阪陶邑窯以外の地方でも須恵器の生産が開始さ れ、 宮城県・静岡県・愛知県で操業を始め、 後期の6世紀初め頃には長野県でも生産が始 まります。 山梨ではまだ始まっておらず、 陶邑産や静岡県湖西産などが流通していました。
二之宮・姥塚遺跡 (笛吹市御坂町) では、同じ住居内で須恵器の (5世紀中頃) や蓋 (5 世紀末)とそれを模倣した土師器のまた、5世紀前半とみられ 杯が出土しています。
る大型の把手付椀の把手の部分も見つかっていて、 集落でも周溝墓と同じ時期に使用されていたことがわかります。
山梨で須恵器の生産が始まるのは、7世紀に入ってからになります。


 窯は地下式 (半地下式) で、 窯内は燃料を入れる焚き口と燃焼室 土器を並べる焼成室に分かれ、 焼成室の奥壁に煙出しの煙道がついています。 焼成は最初、 酸化焔で行い、 最終段階に大量の燃料を入れて焚き口をふさぎます。 この結果、 窯内は酸素不足で還元状態になり、 これと燃料の不完全燃焼による煤煙によって、青灰色の色調に焼きあがります。

 須恵器の生産がわが国に伝えられた初期の段階では、大阪府堺市南部から和泉市・岸和田市にかけて広がる泉北丘 陵 一帯に、1,000 基を超える、 日本列島で最大の須恵器窯をもつ陶邑窯跡群がありました。 『日本書紀』 に見られる古い地名 「陶邑」は、ヤマト政権により組織的に編成された窯業地帯です。 操業は5世紀初めに始まり、 平安時代後期まで続きました。 この間製品は全国各地へ運ばれ、 土師器と共にそれぞれの長所を活かして併用されるようになり、 その後の須恵器生産に大きな影響を与えました。

 土師器に比べると地域格差が少ないことなどから、 東海地方な どごく一部の地域を除き、 列島各地で生産される5世紀から7世 紀代の須恵器の型式については、 陶邑窯跡群の須恵器の各型式と の横のつながりを想定することができ、 「年代のものさし」 として 広く活用されています。
 2441須恵器生産
登り窯の構造図 甑須恵器が出土した円形周溝墓
東山南B遺跡
甲斐風土記の丘
 2443
杯・蓋 古墳中期
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
ハソウ
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
把手付碗
東山南遺跡
甲府市下向山町
把手付湾の把手
二之宮・姥塚遺跡
笛吹市御坂町
高坏 古墳中期
石清水遺跡
甲府市下曽根町
樽型ハソウ 中期
東山南遺跡
甲府市下向山町
壺 中期
東山南遺跡
甲府市下向山町
 

 2450中期の古墳
中期の古墳
The middle term of mounded tomb
 河内や和泉 (大阪府) 大山 (仁徳)古墳をはじめ超巨大古墳が造られる5世紀、副葬品には前期には見られなかった馬具やなどの武具といった軍事的色彩の濃いものが多く見られるようになります。この背景には、高句麗の南下に伴う朝鮮半島の激動の波が日本列島まで押し寄せたことがあげられます。甲府盆地では、中小規模の前方後円墳、円墳、方墳が展開し、5世紀後半になると前方部が著しく縮小したその形状から 「帆立貝式古墳」と呼ばれる古墳も見られるようになります。
 市川三郷町 (旧三珠町)の大塚古墳は、全長50mほどの規模をもつ帆立貝式古墳です。前方部と後円部の二ヶ所に竪穴式石室があり、前方部の石室から短甲挂甲小札鉄剣、鉄、馬具などとともに大鈴、青銅製の鈴訓といった祭祀色の強い副葬品が発見されています。
 中央市(旧豊富村)の王塚古墳は全長61mで、県内では唯一の合掌形石室という切妻形の天井をした埋葬施設をもつ前方後円墳として知られています。 短甲、頸甲、挂甲小札、衝角付冑、鉄剣、鉄刀、鉄鉾、馬具など豊富な副葬品があります。またこのほか、眉庇付冑も旧豊富村から出土したと伝えられています。

 2451
 2452
衝角付冑 中期
王塚古墳
中央市大鳥居
六鈴鏡・鈴釧 中期
王塚古墳
眉庇付冑 中期
伝 豊富村出土
短甲 大塚古墳
 2453
馬具の名称
横穴式石室
平林2号墳
横穴式石室の馬具
笛吹市春日居町平林
 2454
輪鐙 中期
かんかん塚古墳

かんかん塚古墳
三環鈴
かんかん塚古墳
 

 2460後期・終末期の古墳
 2461後期
轡 古墳後期
古柳塚古墳
笛吹市八代町
壺鐙 古柳塚古墳
 2463古墳終末期
金銅製飾金具
平林2号墳
花形鏡板
平林2号墳
轡 平林2号墳
 ※ご注意 下の「稲荷塚古墳」コーナーはほぼピンボケ多発です。撮影する気ナシが丸出しです。

 2466稲荷塚古墳  
所在地 山梨県甲府市下向山町字東山
形 態 円墳
規 模 直径約20m 現在高高3.5m
主体部 横穴式石室(全長8.2m)
遺 物 須恵器・土師器・武器類(銀象嵌円頭大刀・刀子・鉄鏃)・武具類(甲冑小札)
馬具類(轡・鐙・雲珠・飾金具類)・装身具(金環切子玉・丸玉)・銅鋺・鉄釘
時 期 6世紀末~7世紀前半

 稲荷塚古墳は考古博物館が所在する甲斐風土記の丘曽根公園内にあります。 昭和62年(1987)に発掘調査が行われ、
横穴式石室内から、多くの副葬品が出土しました。
中でも、鍔や柄頭に銀象嵌を持つ円頭大刀や銅釧などの豪華な副葬品が出土しており、葬られた貴人の姿が偲ばれます。
これらの副葬品は、山梨県指定文化財となっています。

 2467
銀象嵌大刀柄頭
古墳後期
柳塚古墳
笛吹市八代町
単鳳環頭大刀柄頭
古墳後期
寺の前3号墳
笛吹市春日居町
古墳終末期の大刀
×× 銅鋺  銅鋺
銀象嵌大刀柄頭

銅鋺  銅椀

鉄刀
銀象嵌大刀
銀象嵌大刀

銅椀  蕨手刀
鉄刀
銀象嵌大刀
銀象嵌大刀
 2468
鉄 刀 (双葉2号墳 甲府市下今井)
銀象嵌大刀 (稲荷塚古墳 甲府市下向山町)
銀象嵌大刀 (平林2号墳 笛吹市春日居町)

古墳時代終末期の遺物
 2469直刀 古墳後期 姥塚3号墳 笛吹市御坂町
直刀・鉄鏃
 
 

 2470古墳の変遷
古墳の移り変わり
The Transition to Kofun
古墳の造営によって社会が再生産される、 西暦240年ごろから700年ぐらいまでの数百年間の社会を、 古墳時代と呼びます。 この間に古墳に求められる機能は徐々に変化していきました。 結果として、その 形や副葬品、 築造される場所などが、 徐々に移り変わっていきます。 変化の背景にはその時々の流行 や新技術の到来、 そして古墳を造営する人々の社会構造、 権力の移り変わりなどが想定されています。
 2471
古墳の形 

前方後円墳 Keyhole-shaped Tomb

 円形に方形がくっつく独特の形で、しばしば 「鍵穴形」に例えられます。弥生時代に各地で発達した墳丘墓の
祭祀形態を統合する形で誕生し、 この墳丘形態並びに祭祀を共有する一群を生み出した政治的な墳墓形態 です。 最大の古墳に採用されるなど、 他の墳形よりも上位階層のものと目されます。

前方後方墳 Rectangular-shaped Tomb

 方形に方形がくっつく形で、 前方後円墳同様、地域性を持った弥生時代の墳丘墓からの発展が推定されて います。 特に東日本の前期古墳に多く存在する、地域性を帯びた墳墓形態で、 古墳時代中期以降は一部の 地域以外、 築造されなくなります。

円墳 Round-shaped Tomb

古墳時代で最も一般的な形です。 時期を問わず 数多く存在します。

方形周溝墓 Square-shaped Moated Burial Precinct with the Ditch

弥生墓制の流れをくむ、 溝を掘って区画された区 画墓です。 古墳時代前期ごろまで残存しています。 溝の掘り方は様々で、中には前方後方形もみられ ます。


右の表に表された 山梨県内の古墳の大きさと、 比べてみよう
525m
日本で最も大きな古墳 (大仙陵古墳)の大きさ

前方後円墳
大きさランキング
古墳の移り変わり 古墳の移り変わり 古墳の形
 2473地域・時代と古墳
 
 2480後期古墳装飾品
 2481
 2483
勾玉・管玉・切子玉
姥塚2号墳
笛吹市御坂町
古墳後期
ガラス玉 水晶・瑪瑙勾玉・管玉・切子玉
 2485
管玉
狐塚古墳
甲斐市竜王
古墳終末期
管玉
大塚古墳
市川三郷町
古墳時代中期
管玉
亀甲塚古墳
笛吹市御坂町
古墳前期
ガラス玉
二ツ塚1号墳
甲斐市龍地
古墳終末期
子持勾玉
柳坪遺跡
北杜市長坂町
古墳時代
金環
国分築地1号墳
笛吹市一宮町
古墳終末期
ガラス玉
国分築地1号墳
笛吹市一宮町
古墳終末期
 2487平林2号墳 古墳終末期 笛吹市春日居町
ガラス玉
金銅製冠飾金具
 
トンボ玉
勾玉
古墳時代前期
重圏文鏡 珠文鏡 金環  
 


 2600奈良時代

 2610
 2611役人の机
奈良時代の役人 奈良時代の文房具
机上 木簡 奈良時代
長屋王邸跡 奈良市
平城京跡 奈良市
甲斐国司解 平城京跡
甲斐国司から都の仁部省(民部省)への上申文書
甲斐国印 8c
公文書・調印などに押された国印。大きさ2寸(6cm)四方と規定
文房具
 2612役人と農民
奈良時代の文房具 農民の税負担

 2613平城京跡出土の木簡と甲斐型土器
 平城京跡から甲斐国にまつわる木簡や土器などの資料が出土しています。
 条間大路南側溝(じょうかんおおじみなみそっこう)から、都に滞在していた甲斐国人「神人■万呂」の通行証明が見つかりました。
 また、 長屋王邸出土木簡から、 甲斐国から出仕し馬司(うまのつかさ)という部署で働いていた人の存在を知ることができます。宮内省大膳職(くないしょうだいぜんしき)跡出土の荷札からは、 甲斐国からクルミを納めていたことがわかります。

 高級官人の屋敷と推定される左京二条四坊十坪北東隅(さきょうにじょうしぼうじゅういちつぼほくとうすみ)で発見された井戸 から、甲斐国の特徴的な土器である甲斐型土器がまとまって出土しました。
 当時は都に税としての貢納物(こうのうぶつ)を運ぶことや、 労役につく制度があり、それを課せられた人々の様子を、 発掘された木簡や土器などを通じて知ることができることから、中央と地方の交流を物語る上で必要不可欠な資料です。

平城京跡出土木簡 甲斐型土器 坏、高台坏
奈良市
 2615木簡
胡桃(くるみ)
地耕免遺跡
笛吹市御坂町
平安時代
胡桃につけられた木簡
平城京跡 奈良時代


奈良~平安時代
北堀遺跡
笛吹市一宮町
 
 2620甲斐型土器
8世紀から10世紀代にかけて甲斐国内で作られた 土師器。 器の種類には杯 皿 鉢 甕などがあり、 特に初期の杯や皿は、ヘラミガキや暗文を多用し、 器の色も赤みを帯びた美しい仕上がりを特徴とし ており、 奈良の都平城京からも出土しています。

甲斐型土器 坏 8c前半 奈良時代
榎田遺跡 甲府市千塚
二之宮姥塚遺跡
笛吹市御坂町

8c後半
長頸壺・坏
石橋北屋敷遺跡
南アルプス市野牛島
甲斐型土器
甕・坏・皿
奈良時代~平安時代
8c後半~10c前半
 

 2630国分寺・国分尼寺
甲斐国分寺国分尼寺の創建
 仏教は古墳時代後期 (6世紀中頃)、 朝鮮半島から伝えられました。 7世紀頃から全国に広まり始め、 各地に寺院が造られるようになりました。 甲斐国でも、この時期の寺院として、 寺本廃寺 (笛吹市春日居町) が知られています。 奈良時代になると、 朝廷も政治の乱れや自然災害、病気の流行などを鎮めるため、 国の宗教として仏教を広めました。 特に、 天平13 (741) 年には、 聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出しています。
 甲斐国の国分寺・国分尼寺は、 笛吹市一宮町末木 国分 東原付近に所在しています。 講堂跡や金堂跡、 塔跡などの基壇や礎石などの残存が知られており、 南大門から講堂まで一直線に並ぶ、 藤原京の大官大寺と同様の伽藍配 置であったことが知られています。 近年、 笛吹市で継続的に調査が行われており、金堂跡周辺の石敷が発見されるなど、 新たな発見が相次いでいます。

 2631
甲斐国分寺・尼寺 国分寺・尼寺の創建
 2632屋根瓦

単弁八葉蓮花文軒丸瓦
古代瓦 奈良時代8c
甲斐国分寺跡 笛吹市一宮町
複弁八葉蓮花文軒丸瓦
丸瓦 平瓦
 
 2634寺本廃寺  笛吹市春日居町
寺本廃寺概要
種別史跡
年代 白鳳時代 (7世紀後半)

 寺本廃寺は、今から1340年ほど前の670年代に建てられた山梨県で一番古いお寺です。 1980年代に行われた発掘調査では、講堂や三重塔、金堂、僧坊などや、これらの建物を取り囲む中門・南門・北門・西門回廊が見つかっています。
僧坊跡からは、 塑像仏像 (粘土で造られた仏像)の破片や墨書土器 (墨で文字や記号が書かれた土器)、 灯明皿 (明かりを灯した土 器)などが出土しました。
 かつて寺本廃寺の周辺は、 甲斐の中心地として役所があった とされています。 寺本廃寺はそれに伴う寺院であったか、もしくは周辺にある古墳群の主である地元有力者の氏寺であったと 考えられています。

 2635
寺本廃寺 寺本廃寺塔心楚 伽藍推定図

 2637寺本廃寺創建時瓦 飛鳥時代【古墳時代終末期】 (7世紀後半)
鬼瓦
魑魅魍魎から建物を守る魔除けの瓦です。
屋根の大棟の両端や降棟の先などに取り付けました。
鬼面は中国に起源を求められますが、 神像説、 鬼頭説、などがあります。

 瓦は、飛鳥時代【古墳時代終末期】 (7世紀後半)製造
  寺本古代寺院に瓦を供給した窯跡は、川田瓦窯跡 甲府市川田町
鴟尾
古代瓦 
鴟尾・重弧文軒平瓦
単弁八葉蓮花文軒丸瓦
鬼瓦
鬼瓦
 


 2700平安時代

 2710
 2711
金銅製海老錠 平安時代
11世紀前半代のものと考えられます。 大きさは現存長 5.2cm、最大幅1.4cm、重さは約20 グラムです。 全国的にも平安京、薩摩国府など類例が少ない貴重な資料で、鍵という特殊性から遺跡の周辺に役所や寺が存在した可能性があります。

金銅製海老錠
平安時代

鉄鈴
影井遺跡
甲州市塩山
 海老錠は建物の扉の留め具に取り付ける錠 エビが尾を曲げたような形 (半円形に曲が
った形からそう呼ばれ「牝金具」「牡金具」「鍵」
の3つのパーツからなる。 展示品には蝉の飾りがある。

 2713動物型土製品
土馬:雨乞いの神事の際に、生きた馬の代わりに水の霊に捧げられたという説が有力です。また、疫病退散にも用いられた。

土馬 土馬
久保田道々芽木遺跡 甲府市横根町 平安時代
土馬
豆塚遺跡 笛吹市八代町 平安時代

動物形土製品 中世
甲斐銚子塚古墳 甲府市下曽根町
 2715
 鍬先・鎌・刀子・鉄鏃
石杵
 懸仏
二ツ塚古墳 甲斐市竜地 平安時代

八稜鏡
二之宮遺跡 笛吹市御坂町 平安時代
 2721
刻書土器
「甲斐国山梨郡表門」
刻書土器 平安時代
大坪遺跡甲府市横根町
「甲斐国山梨郡表門」
墨書土器「玉井」
狐原遺跡
笛吹市一宮町
墨書士器「石禾東(いさわひがし)
松原遺跡 笛吹市一宮町
平安時代
 2722
刻書土器「川」
滝沢遺跡
富士河口湖町河口
平安時代
甕 瑜伽寺(ゆかじ)
笛吹市八代町
平安時代(10c後半)
羽釜 北中原遺
笛吹市一宮町
平安時代(10世紀後半)
 2725石帯と墨書土器
石帯と墨書土器 平安時代の石帯

身分を表す石製の飾りを付けたベルトのこと。
この飾りには、四角い「巡方(じゅんぽう)」と丸みを帯びた「丸鞆(まるとも)」があります。
 高級官人が身につけた石帯
  巡方
柳坪遺跡(北杜市)
丸鞆
原田遺跡(北杜市)
新井道下遺跡
(南アルプス市)
 
   
墨書土器
平安時代
「午(うま)」
狐原遺跡
笛吹市一宮町
「酒坏」原田遺跡
北杜市大泉町
「鷹」 狐原遺跡
 
 2730柏尾山経塚(かしおさんきょうづか) 平安時代後半(12世紀)
経塚は、 書写した仏教経典を埋納した遺跡です。 古代の経塚は、地表を深く掘り下げて小さな石室を設け、その中に銅製経筒を納めます。 円筒形や六角形, 装飾が施された宝塔形のものもあります。
経巻を入れた経筒を保護するために陶製などの外容器 (外筒)が用いられ、 経筒の周囲には銅鏡 (和鏡)・銭貨・刀身・ 小仏・玉類などの副葬品や、 除湿剤として充填される木炭と ともに埋納され、石室上部では盛土で覆われるのが一般的な 形態です。 埋納される場所は、霊地や聖地と位置付けられて いる山頂や神社境内である場合が多く、洞窟や岩壁の隙間に 造営されることもあります。 中世には死者の追善的意味も加 わり、道ばたや墓所においても造営されるようになります。

経筒
柏尾山(白山平)(かしおさん はくさんびら) 経塚
甲州市勝沼町
平安時代
経塚
 
 2740
灰釉陶器
皿 寺所遺跡
碗 城下遺跡
北杜市大泉町
10世紀後半
緑釉陶器
平安時代(10c後半)
碗 城下遺跡
北杜市大泉町
段皿
平安時代後半
(11c中頃~後半)
大木戸遺跡
甲州市塩山
坏 9c後~10c前
大豆生田遺跡
坏 平安後期11c
二之宮姥塚遺跡
土師器
高足高台杯
平安後半11c
二之宮·姥塚遺跡

杯 平安後半(12世紀)
笠木地藏遺跡
坏、柱状高台土器
平安後半12c
笠木地蔵遺跡
 


 2800中世


 2810鎌倉時代の村 ~大師東丹保遺跡~
 中世になると集落は低地まで広がり、水田の続く湿地を前にして館や村が形成されます。
大師東丹保遺跡はこのような村の一部であり、 建物跡とそのまわりに広がる水田跡などが発掘されました。
 そして青磁・白磁を含む土器・陶磁器をはじめとして、 漆塗りの椀・下駄・草履・曲物などの木製の日常生活品、呪符・人形・斎串のようなまじないの道具、 古銭・刀子・鎌とい った金属製品などあらゆる道具が数多く出土しました。 低湿地ということもあり、 いずれ も非常に良好な状態で残っており、生々しい中世世界が掘り起こされました。
 これらの出土品は一般の集落以上のもので、 建物跡はこの地域を支配した人物の屋敷であったと考えられます。
 この遺跡は水辺にあることから、 たびたび洪水を受けていましたが、 洪水で斜めに傾いた建物の柱や押し流された網代や部材が残っていた一方で、 水害に備えてしっかりした護岸もつくられていました。

鎌倉時代の村 大師東丹保遺跡
木製品出土
大師東丹保遺跡
南アルプス市
塗り鉢
下駄
 2820木製品 鎌倉時代 大師東丹保遺跡
木製品
大師東丹保遺跡
曲物 しゃもじ
手鏡型木製品
扇子
笄・横櫛・糸巻枠木
呪符木簡・糸巻横木

鉄鏃
鎌・鋏・小刀
 2830
 2831
洪水で流された部材
大師東丹保遺跡
土層断面
洪水に残った建物の柱
 2833大師東丹保遺跡出土物
かわら家
碗・皿 土鍋・こね鉢 こね鉢・片口鉢
柱の根元
 
 2840泥塔(でいとう) (県指定文化財)
 小型の仏塔をかたどった粘土製の塔で、 平安時代末期から鎌倉時代に、貴族や武士などの支配階級の人々が、怨霊調伏・ 病気平癒(おんりょうちょうふく びょうきへいゆ)などの目的で 「泥塔供養」 を行ったことが知られています。
 富士川町春米(つきよね)の権現堂遺跡は、 昭和60年(1985) から昭和63年(1988) にかけて発掘調査が行われ、 泥塔や土器片が多数出土したほか、 真っ赤に焼けた 土の層が見つかりました。 見つかった泥塔がすべて 破片だったことや焼けた土の層から、 権現堂遺跡は 11世紀頃の泥塔を焼くための施設だったと考えられ、 全国的にも貴重な発見となりました。
 残念ながら、ここで焼かれた泥塔がどのような目 的で誰によって作られたのかまではわかっていませ んが、平安時代末期の習俗や宗教を考えるためのヒ ントを与えてくれる資料であるといえます。



甲州市ケカチ遺跡の和歌刻書土器
 10世紀中葉の甲斐型土器 (土師器坏) に 「和歌」 が刻書された資料です。 甲斐型土器は国府主導のもとに生産された土師器であり、焼成前に刻まれていることから、国府関係者の特注品であることが推測されています。 このように製作された時期、 場所、 人物が、ある程度明確な貴重な文字資料です。
また、ケカチ遺跡は山梨郡於曽郷(おぞごう)の拠点的な集落であり、 平安京から遠く離れた地方の集落にも都の文化が届いていたことが窺えます。

 刻まれた文字
 われにより  ひく■らんしけい  とのあはすや■  なはふくる  はかりそ 

 (■1は「、」又は「る」か?)  (■2は、「みか?)

現代語訳A案
私の方から思いを括り合わせよう。 しけ糸(蚕糸のこと)のように、縒り (寄り) 合う 縒り(寄り)合う(逢う)ことのないまま離ればなれで終わってしまうならば、 ただ更けていく (年が過 てしまうならば、ただけていくぎる)ばかりです。

現代語訳 B案
私のためにあなたは、 日がなもの思いをし続けていることだろう。 しけ糸のように縒り (寄り) 合う (逢う)ことのないまま離 り(寄り)合うればなれで終わってしまうならば、 ただ更けていくばかりの夜になるが (そうならぬこよいよう、 今宵は逢おう)。

訳は平川南 2017 「趣旨説明」
『古代史しんぽじうむ 「和歌刻書土器の発見」 ケカチ遺跡と於曽郷』
甲州市文化財調査報告書第二十五集 甲州市教育委員会文化財課より引用・加筆

 ケカチ遺跡の和歌刻書土器
和歌刻書土器 現代語訳 和歌刻書土器 和歌刻書土器
 2860
葬られた人とお墓のつくり
 中世の頃は現代と異なり、 お墓を造ることができる人々が 限られていました。 地域を治めていた権力者や土地を開発し てその地域を治めた有力者、お寺のお坊さんなど、生活にゆ とりのある人々だけでした。

 権力者は自分たちで造ったお寺に、土地を開発して地域を 治めた有力者たちは自分たちが住んでいた家の近くや、小高 い丘の開発した土地が見渡せる場所に造りました。 お墓は多 くの場合、 穴を掘ってそのまま埋めた土坑墓が多く、 その中 でも特に豊かな人々は今と同じように火葬にしたようです。

 土坑墓は、地面に長方形または円形の穴を1mくらい堀り 下げ、遺体を直接埋めるか、 木の棺に納めて埋めています。 また、遺体が埋められた土坑墓の上には、五輪塔と呼ばれる 石塔が建てられています。 火葬した場合は、 骨壺などに納 めて埋葬する場合と、 そのまま埋めてしまう場合とがあり、前 者の場合は壺などの上に、 やはり五輪塔を建てるものが多い ようです。 この時代のお墓は、 生前身につけていたものなど を一緒に埋めることは少なかったようです。



六器(ろっき)
六器とは仏具の一種で、受け皿を付けた六個の金銅製の器です。 火舎(かしゃ) (三脚付きの香炉) の左右に対に並べ、「六種供具(ろくしゅくぐ)」という仏前に供える6種の供物 (閼伽(あか)塗香(ずこう)華鬘(けまん)焼香(しょうこう)飯食(おんじき)・灯明 のうち、 閼伽 (仏前 飯食・灯明)のうち、閼伽(仏前にそなえるもの、 特に水をいう) 塗香 (身を清めるための香) 華鬘 (花) を盛るのに用いられます。

葬られた人とお墓のつくり
六器
蔵骨器 (常滑窯製)と蓋石 鍋弦塚 甲府市下向山町 鎌倉~室町時代
蔵骨器 (渥美窯製壺) 京原遺跡 笛吹市境川町 鎌倉時代
六器
深山田遺跡
北杜市明野町鎌倉~室町時代14c

小井川遺跡
中央市布施 戦国時代
漆塗椀 戦国時代
小井川遺跡

飛島~奈良時代
銅造観世音菩薩立像
東畑遺跡 甲府市横根町
 


 2900近世

 2910
 2911国指定史跡・ 甲府城跡
 甲府城跡は、平成31年2月26日に国の史跡に指定されました。
 かつては甲斐府中城、 一条小山城ともよばれたほか、南北に羽を広げたような縄張りから舞鶴城としても知られています。

 甲府城は武田氏が造ったものと思われることもありますが、 発掘調査の結果、 実際には武田氏が滅亡してから10年ほど経った文禄・慶長期の 1590 年代に、豊臣政権下で甲斐国を治めていた浅野長政・幸長親子によって完成されたと考えられています。
 関ヶ原の戦い以降は徳川家を城主として迎え、江戸の西の要の城として重要視されました。 18世紀初めには、 柳沢吉保が城の大修築 や城下の整備を行い最盛期を迎えましたが、 その後、 大火や大地震、幕府財政の窮迫などにより衰退の道を辿ります。

 明治になっての廃城後は大方取り壊されましたが、 近年の発掘調査により、 金箔付鯱瓦や浅野家、 豊臣家の家紋をあしらった大型の瓦など、築城当時の威容をしのばせる貴重な資料が数多く発見されています。
 また、 「野面積」 とよばれる自然の石を積み上げた石垣が本丸・天守台・稲荷曲輪を中心に現在も良好な状態で残っており、 東日本における初期段階の織豊城郭として注目されています。

国指定史跡 甲府城跡 甲府城跡

鰍沢河岸(かじかざわかし)
江戸時代に開かれた富士川舟運の 船着き場であり、青柳河岸 (増穂町) 黒沢河岸(鰍沢町)とともに甲州 三河岸と呼ばれているものの一つで 鰍沢町にあります。 甲府代官所支配 下の諸村の年貢米と信州諏訪・松本 領の米を運送しました。 現在までの 調査で年貢米蔵の御蔵台跡や荷積台 跡、河岸問屋や船宿の跡などが見つ かっています。

鰍沢河岸 鰍沢河岸跡
甲州鰍沢河岸御倉台 七福神とネズミ
 2913甲府城下古地図
江戸時代と現在の比較図
 2914
輪宝 軒丸瓦 江戸時代
(浅野家違い鷹の羽)
金箔付桐紋瓦 安土桃山
 2915
獅子留蓋瓦
安土桃山
慶長一分金 金箔付鯱瓦
安土桃山
金箔付鯱瓦
安土桃山
 2916
慶長一分金 花菱紋軒桟瓦
三つ葉葵軒桟瓦
江戸時代
釘隠
江戸時代
煙管・鍔
かんざし
甲州金壱分判
江戸時代
金泥付碁石
江戸時代
刀装具
江戸時代
文政南鐐二朱銀 元文一分判金
 2917明治・大正
初期生産ガラス瓶
明治~大正
泥メンコ 焼塩壺、ワインボトル 灯火具、ひょうそく
脚付火皿

 2930
 2931
八ヶ岳南麓地域の豪族屋敷 ~金生遺跡~
 遺跡は北杜市大泉町谷戸にあり、 標高は約770mです。 八ヶ岳南 麓の平坦な尾根上にあり、 遺跡の近くには深草館跡や小和田遺跡など、15世紀を中心とする館や集落が密集する地域です。
 発掘調査では、 15世紀に構築された地下式坑群や 16~7世紀
の掘立柱建物跡群や柵列などが見つかりました。 掘立柱建物跡群は、 10棟前後があり、いずれも東西に長い建物です。 建物の中には、主 屋や馬屋、 門などがあり、 庭園らしき空間も想定されています。 建物 跡は、何棟か重なって見つかっていることから、 複数時期に建て直さ れたことがわかります。

 一方、出土遺物は、 かわらけや内耳土器などの日常雑器の他に、青磁や染付など中国産の輸入磁器類や国産陶器があります。
 このような建物構造や豪華な出土遺物から、 遺跡は八ヶ岳南麓地域の在地土豪層の屋敷であったと考えられています。

武田氏三代の館跡 ~武田氏館跡~

 甲府市古府中町に所在する武田神社の境内地やその周辺部が国指定史跡武田氏館跡で、 堀や土塁が残されています。

 「躑躅が崎館」 ともよばれる武田氏館は、永正16 (1519) 年に武田信虎によって築かれ、 天正9(1581) 年に勝頼が韮崎の新府城へ移るまで、武田氏の本拠として整備されました。 信虎が最初に築いた館は堀一重の主郭部のみであったとされていますが、 武田氏の勢力拡大とともに拡充され、 東日本でも最大級の規模を誇る戦国期居館となりました。

 発掘調査では、 庭園や建物跡など武田氏最盛期の姿を偲ばせる遺構や陶磁器などが出土しています。 近年、正面玄関にあたる主郭部大手 (現在の武田神社の東側)では、武田氏の築城技術に特徴的な 「三日月堀」 が発見されています。

 天正10(1582) 年、 武田氏を滅ぼした織田・徳川 豊臣氏は、 武田氏館の大 改修を行い、 甲府城完成まで使用しました。

洪水に埋もれた寺院跡 ~小井川遺跡~

 遺跡は中央市 (旧田富町) 布施字小井川にあり、 標高は約253m です。 こ の地域は中世から近世にかけ、 度重なる釜無川の洪水の被害を受けており、 遺跡の存在は知られていませんでした。 しかし平成17年度の発掘調査で は、中世布施荘に関連する遺物と、 戦国時代の寺院跡が発見されました。

 遺跡では、「延慶三年」 (1310) など中世の年号や、 「戌刻、 二藤布施兵口 (衛力) 忠光 法名 真願 六十口口 (歳入力) 滅」 と記された五輪塔が 出土し、 14世紀初頭に 「布施」 を名乗る人物がいたことがわかります。 この 人物は、 布施荘で荘園を管理した人物であったようです。
 また16世紀には東西9間×南北6間の建物等を中心に、 周囲に溝を持つ 大規模寺院が造られました。 寺院跡からは、かわらけや陶磁器・硯・香炉な どが見つかっています。しかし、やがて洪水により廃絶または移転を余儀な くされました。

富士信仰
 富士信仰 (ふじしんこう) は、 富士山の神に対する神祇信仰。 山岳信仰の1つ。 富士信仰は、富士山を神と見立て信仰・崇拝の対象とすることであり、 代表的ものと して、浅間信仰 (富士浅間信仰) がある。 富士山を何らかの形で信仰・崇拝の対象と しており、 著明なものに村山修験や富士講などがある。
 富士山の登山として記録として古いものでは、役行者の登山がある。 『日本現報善 悪霊異記』 には 「夜往駿河、 富岻嶺而修。」とあり、役行者と富士山との関係が伺え、 『富士山記』には「昔役の居士といふもの有りて、其の頂きに登ることを得たりと。」 とあり、役行者と富士山を結びつける記述は多く見られる。
「富士山開山の祖」 とされる人物に末代上人がいる。 『本朝世紀』 に 「是即駿河国有一 上人。 號富士上人、其名稱末代、 攀登富士山、已及数百度、 山頂構佛閣、 號之大日寺」 とあり、富士山頂に大日寺を建てたことが記されている。 このような行為は信仰から なると考えられ、 富士信仰の大きな機転であった。 また末代は修験道を組織した人物 とも考えられ、富士信仰の変移に大きく関わる人物である。

 平安時代成立の 『地蔵菩薩霊験記』によると 「末代上人トゾ云ケル。 彼の仙駿河富 士ノ御岳ヲ拝シ玉フニ。 (中略) ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、 麓ノ里村山下白ス所 ニ地ヲシメ・・・」とあり、末代上人と村山の関係が伺え、末代が村山修験を成立させた と考えられている。 村山修験は、民衆によるまとまった形の富士信仰の例として最も 早い。 他にも平安時代末期の『梁塵秘抄』 には四方の霊験所は、 「 (中略) 駿河の富士 の山、 (中略) の道場と聞け・・・」とあり、少なくとも平安時代末期には既に富士山が信 仰の対象となっていたことが分かっている。 『義経記』 には 「山伏の行逢ひて、 一乗菩 提の峯、釈迦嶽の有様、 八大金剛童子のごしんさし、 富士の峯、 山伏の祈義などを問 ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき・・・」
とあり、 富士山と修験道の関係が世に知られていたことが分かる。

武田氏三代の館跡
洪水に埋もれた寺院跡
八ヶ岳南麓地域の豪族屋敷
富士山信仰
 2933
銭貨 木製品 戦国時代
小井川遺跡 中央市布

玩具(的)・切匙・用途不明具・墨書板・お玉・箸
火打ち金
炭焼遺跡
富士河口湖町河口
平安時代
銅鋲
武田氏館跡
甲府市古府中町
戦国時代
 2935金生遺跡の遺物 近世 北杜市大泉町 戦国時代
蟹形水滴
(瀬戸 美濃窯製)
兎形水滴
(瀬戸 美濃窯製)
碗·皿
(瀬戸·美濃窯製)
 


 3000甲斐風土記の丘


 3003駐車場から曽根丘陵公園へ
駐車場
博物館前 ナウマン象

 3004かんかん塚

かんかん塚(茶塚) 古墳
 この古墳は、直径2mほどの円墳です。石室は、長さ約7mの東西方向の竪穴式石室で、人の頭ほどの石を積み上げ、十五個の細長い石で天井を覆う構造になっていました。
 この古墳の年代は五世紀後半で、石室内からは甲冑や県内最古の馬具が発見されています。
 近くの銚子塚古墳や丸山塚古墳に比べ、規模が小さくなるのは、甲府盆地 内の各地に古墳文化が広まり、この地域の勢力が相対的に弱まっていったことを物語ると考えられています。

さかづき塚
 この塚は、直径約13mの大きさで、盛り土の内部に、こぶし大の石を1m四方に敷きつめた施設があり、十六世紀ごろの鉄鏃などが出土したことから、中世の信仰にかかわる嫁とみられます。


かんかん塚古墳 かんかん塚古墳出土品 (考古博物館蔵)
かんかん塚古墳

 3005丸山塚


郷民擁護碑(ごうみんようごのひ)」 と 丸山之碑 (山梨県指定文化財(歴史資料))

「郷民擁護碑」には、次のように記されています。

 「郷民擁護神霊のまし()す所なりうやまへハ
   則福を降(すなわちふくをおろし)し をかせ(侵せ)ハ すなはち祟りあらん」

 この意味する内容は、大まかには以下のとおりです。
「ここは、この地を護る神様がいらっしゃるところです。
これを尊いものと考えて敬えば、その時は福がもたらされ、大事にしなければ、その時は祟りが起こるでしょう。」
要約すると、「この場所を大切にしましょう!」ということを伝える碑です。

 この碑は、江戸時代の天保11年(1840)8月に、市川代官所の代官小林藤之助と、この近くに所在する浄照寺 住職の新田雲里が建立したもので、もとは、みなさんの背後にある、丸山塚古墳の上にありました。
「郷民擁護碑」のメッセージは地元で認識されていたことから、 明治40年(1907)に丸山塚古墳が開とうきょうていこくだいがくっぽいしょうごろう墾された際、鏡や剣などの副葬品が不意に発見された時には、すぐに東京帝國大學の坪井正五郎教授に連絡が行き、調査されたことで出土品の散逸を免れました。 この経緯を記したのが「丸山之碑」で、当時の地主の松野伝四郎によって建立されました。
遺跡などにまつわる祟りの伝承は、江戸時代に多く見られますが、このような伝承によって、結果的遺跡が守られてきたという側面もあります。「郷民擁護碑」は、このような伝承が形として表された 山梨県内唯一の資料です。また、全国的に見ても珍しい事例です。
現在、この一帯は史跡公園として整備され、歴史を知る憩いの場として親しまれていますが、文化財 保護の精神を伝えるこの碑の建立から、一帯の古墳等の保護、 そして活用が始まったと言えるでしょう。



国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳
                     昭和五年二月二十八日指定
丸山塚古墳

 丸山塚古墳は五世紀初めに造られた、 山梨県では最も大きな円墳です。
明治四十年に墳頂で石室が見つかり、鏡・武器・装身具などの副葬品が発見されました。 石室は竪穴式石室でほぼ南北に向いており、割石を持送りに積み重ねて造られました。また、石室の壁には朱彩の円文が見つかっています。墳丘は二段築成で、埴輪が立てられていました。銚子塚古墳より少し後に造られ、これに続く権力者の墓と考えられています。

規 模 墳丘の直径72m、高さ11m、墳頂径9m、堅穴式石 室の長さ5.55m、幅1.05m、高さ0.85m
副葬品 四神四獣鏡・鉄斧・鉄鎌・鉄剣・鉄銛・石釧(腕輪)など(東京大学に収蔵)
出土品 埴輪・鉇(山梨県立考古博物館に収蔵)


丸山塚古墳

 3011銚子塚
甲斐銚子塚古墳
甲斐銚子塚古墳,高15m,長169mの巨大の心の大江東日本最大級 ます。 古墳時代前期 (4世紀中ごろ)に築造されたもので、鍵穴の形をした前方後円墳と呼ばれ る形をとります。 世界的にもピラミッドなど、 王墓や貴人の墓などが巨大な記念物として築造さ れることがあり、前方後円墳も中国・朝鮮半島等、東アジアの墳墓文化に影響を受けて日本で 独自に発達した墳墓です。
この古墳に誰が眠っているかはわかりませんが、周囲には数多くの古墳が築造され、 権力の 継承者が丸山塚古墳等に眠っているものと考えられます。
甲斐銚子塚古墳は、 1930年に国の史跡に指定されています。 これまでの発掘調査によって、 後円部の竪穴式石室から、鋼、鉄剣、 勾玉などの副葬品が発見され、墳丘の周囲からは埴輪や 木製品等が多数発見されました。 これらの出土品は山梨県立考古博物館等で観覧できます。

曽根丘陵
 甲府盆地の南東に位置する曽根丘陵には、古代の遺跡が数多く発見されています。
 なかでも曽根丘陵の一部である甲斐風土記の 丘・曽根丘陵公園のある一帯は、弥生時代から 古墳時代にかけて、東海地域から富士山西麓を 経由して人や文化が活発に行き交う、交通の重 要な拠点であったことから、有力な権力者の境 墓が集中して造られました。
 今から約千八百年前の弥生時代後期(三世紀頃)に、上の平遺跡で方形周溝墓の造営がはじまり、古墳時代前期(四世紀)までに百二十基 あまりが造られました。

 古墳時代前期(四世紀)には、大丸山古墳や銚子塚古墳などの前方後円墳や、丸山塚古墳といった大規模な円墳が出現します。古墳の形や大きさ、中国製の鏡などの豪華な副葬品には、大和政権との深い関係性が現れています。これらは重要な古墳であり、国の史跡に指定されています。

 古墳時代中期(五世紀)になると、墳墓は急速に小規模になりますが、かんかん塚(茶塚)古墳に副葬された馬具や甲冑、岩清水遺跡・東南遺跡の円形周溝墓から出土した須恵器などは大陸からきた渡来人の影響を受けた当時の最 先端の道具でした。

 古墳時代後期(六世紀)以降の古墳には、考古博物館構内古墳や稲荷塚古墳など横穴式石室 をもつ古墳が造られました。稲荷塚古墳から出土した銅鋺は仏教との関連が想定でき、寺院が 造られる以前にも仏教文化が甲府盆地に伝わっ たことを示しています。
このように常に最新の文化が伝えられていた ことは、この地域一帯が甲府盆地の政治・文化 の中心地であったことを雄弁に物語っています。

   令和元年五月
   文 化 庁
   山梨県教育委員会


国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳
               昭和五年二月二十八日指定
銚子塚古墳

 銚子塚古墳は四世紀後半に造られた、当時では東日本最大級の前方後 円墳です。昭和三年に石室が見つかり、鏡五面、装身具、武器などが発見されました。石室は竪穴式石室で、後円部の中央西よりに南北に向き、 割石材で持送りに造られています。墳丘は三段築成で、埴輪が立てられ、 葺石で覆われていました。周濠から出土した立柱・笠形木製品・円盤状 木製品などは、古墳で行われた葬送儀礼を知るうえでとても貴重な資料 となりました。

規 模
 墳丘の全長百69m、後円部径92m、高さ15m、前方部幅68m、高さ8.5m、竪穴式石室の長さ6.6m、幅0.93m、高さ1.35m
副葬品
 鏡五面(内行花文鏡・三角縁神人車馬鏡・環状乳神獣鏡・鼉龍鏡・三角縁三神三獣鏡)、車輪石、石釧、杵形石製品、貝釧、勾玉管玉、鉄剣、
 鉄刀、鉄鎌・鉄斧、鉄鏃など(東京国立博物館に収蔵)
出土品
 埴輪・土器・木製品など (山梨県立考古博物館に収蔵)

  平成19年3月31日 文化庁 山梨県教育委員会


竪穴式石室 (銚子塚古墳)

 この石室は、埋葬された豪族の遺体を納めた部屋で、 木製の棺の周囲に割石を積み上げて造られていると思われる。
 昭和三年、偶然の機会から発見され、鏡五、硬玉製勾玉碧玉製勾玉1、水晶製勾玉4、碧玉製管玉150、車輪石5、石釧6、杵形石製品2、
 貝輪1、鉄剣3、鉄刀4、鉄斧3、鉄鏃片などが出土した。

 石室は長さ6.5m、幅0.9m、高さ1.35mの規模である。
鏡のうち、三角縁神人車馬画像鏡は、岡山県車塚古墳出土鏡などと同笵関係がある。

出土品は東京国立博物館所蔵。
 石室内部 (南壁)

甲斐銚子塚古墳 銚子塚古墳
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